投稿日:2020年09月22日 04:56 文字数:8,252
【曽芭】花葬儀
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胡桃さん https://www.pixiv.net/users/3955003 と企画で作成した曽良君と芭蕉さんの少し悲しげな話になります。
いろいろ時代考証を無視してしまってすみません、史実は元にしつつも「彼岸花と師弟」でTwitter上で盛り上がり、そのまま滾って話を作ったという経緯になります。
基本的にハッピーエンドが好きな二人が描いたとある葬儀とお花にまつわるお話になります。
曽芭って! いいよね!
今回二人で企画したものの為、胡桃さんの作品も代理で一緒にアップさせてもらっています。
いろいろ時代考証を無視してしまってすみません、史実は元にしつつも「彼岸花と師弟」でTwitter上で盛り上がり、そのまま滾って話を作ったという経緯になります。
基本的にハッピーエンドが好きな二人が描いたとある葬儀とお花にまつわるお話になります。
曽芭って! いいよね!
今回二人で企画したものの為、胡桃さんの作品も代理で一緒にアップさせてもらっています。
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【逝く者、遺される者】by胡桃
1.菊枕
芭蕉さんの弟子であり、僕の先輩に当たる男が、先日亡くなった。支援者でもある彼は商人として大成し、そしてその葬儀は盛大に執り行われた。決して上手い句を詠む男ではなかったのだが、町人でありながら奢侈品をさらりと身につけ、まとめ役として町の誰からも信頼を得るような人だから、葬儀にもひっきりなしに人が訪れていた。
その帰り道。僕は芭蕉さんの後ろについて、宿への道を進んでいる。今夜一泊だけして旅に戻る予定だ。しばらく宿泊して欲しいと請われたが、固辞して立ち去ることにした。僕たち以外にも多数の来客がいるのだし、それに昨日から交代しつつも寝ずの番を買ってでたのだからもう十分だろう。
芭蕉さんも当然疲れきっているはずだ。その足取りはいつもよりも遅い。さすがにそれを咎めるつもりはない。こつ、こつ。ずっ、ずっ。地面を打つ杖と摺り足の音、二種類の音だけが響いている。おしゃべりな芭蕉さんなのに、先程から無言のままずっと前を向いたままだ。
「疲れましたか」
小声で問いかければ、芭蕉さんは半身をよじって僕の顔を見上げた。意外なことだが、疲労の色の濃いその表情に、悲しみは見られない。緩やかにややかさついた唇が開かれていく。
「すこしね。曽良君もお疲れ様。本当に良いお式だったねぇ」
「そうですね」
「家族に看取られて畳の上で死ぬなんて私たちには無理だろうねぇ」
「羨ましいですか?」
「うーん、そうでもないかな。俳諧師だもん、旅路の先で客死するのは当たり前でしょ」
あっさり否定した芭蕉さんが強がっている様子はなさそうだ。家すらも簡単に手放してしまう彼にとって、家族どころかもしかしたら弟子さえもその道行の妨げなのかもしれないとふと思う。
「でもさーちょっとだけ羨ましいね。菊綺麗だったし」
「え、棺の中のあれですか?」
意外な言葉に眉が上がる。死者が好んでいた菊で敷き詰められていた棺の中を思い出す。穏やかな白い顔、白装束を染め上げるほど鮮烈な黄色の花びらを。
「ほら季語でもあるけど、菊枕ってすがすがしい香りで涼やかに眠れるっていうからねぇ、一度やってみたいなって。名句出そうじゃない?」
「あぁ、亡くなってからの話じゃなくてですか?」
「うん」
匣の中の芭蕉さんに菊を投げ込む想像をしてしまい、僕は気づかれぬようこっそりと溜め息を吐き出した。長旅の中、彼が不調を訴える回数は年々増えている。それでも決して歩みを止めようとはせず、新たな旅路を求め各地の弟子と書簡のやりとりを続ける日々だ。命を削ってでも新たな表現を模索する師は、どことなく蛍に似ている。寿命を燃して光を放つ、儚くも強い生き物に。
そんな想像をしていたからか、僕らしくもない質問を投げてしまったのだろう。
「ちなみに芭蕉さんが亡くなったらどんな花を添えてほしいですか? 手遅れになる前に参考までに聞きたいんですが。季節があわない場合、そこらの雑草になるかもしれませんけど」
「縁起でもないこと言う上、雑草ってなんだよお師匠様に雑草って!」
ひとしきり憤慨した後、彼はふと目を細めた。
「そうだねーどんな花でもいいよ。葬式があげられたら、の話だけどさ。見た目でも季語や花言葉でもいい。曽良君が私に合うと思った花を供えてくれれば。ねぇこれ、私が亡くなるまでの宿題にしておこうか」
穏やかな微笑みなのに、無性に苛つきつっかかりたくなるのはなぜだろうか。
「宿題といったとこで、採点する芭蕉さんがいつまで生きるかわかったもんじゃないですしね。明日にでもぽっくり逝かれたら間に合わないんですが」
「逝かないよ多分! さすがに明日はないよ!? 松尾まだまだピッチピチのヤングマン!」
とれたてピッチピチ! 美肌だし! 青春真っ盛り!と意味不明に吼え立てるジジイの膝裏に軽く蹴りを入れ、よろめかせた僕はさっさと宿への道を歩み出した。
例え彼に手向ける花が思いつかなくても、いずれ別れの日はやってくる。それができるだけ遠い未来であることを、僕は祈るしかなかった。
2.彼岸花で弔いを
あと二月程過ぎれば芭蕉忌を迎えるというある日。僕は日々、残された芭蕉さんの句を編纂する兄弟子達の手伝いに追われていた。
句とは到底呼べないようないたずら書きや落書きの類から、誰しもが口ずさみたくなるような名句までが掃き溜めのようにごっちゃになっていたこと、又旅先で行っていた句会で紡いだ連句をかき集め、整理するのに膨大な時間を費やしてしまった。
集大成となるまとめを作るのに、皆が尋常ではない情熱を注ぐ気持ちは痛いほどにわかる。旅ごとにまとめた句集にしたいという案、そして彼の作品全てを網羅したものがいいという案で真っ向から意見が割れてしまい、未だに結論は出ていない。亡くなってなお、あの人はこれほどまでに大きな影響を与え続けている。
しかし芭蕉さんの功績がどれほど大きくても、季節はきちんと移り変わっていく。それどころか年号が変わり、徐々に俳諧の世界も変わりつつある。まぁ芭蕉さんが生きていたなら、そんな変化も楽しそうに受け入れてしまうような気がするが。
喧々囂々たる討論に疲れ、僕はそっと庵を抜け出した。作業を続けるにも食事は必要だろう。玄関を出た途端、冷たい風に顔を撫でられ咄嗟に背中を丸めた。ほんの少し前は暑く、たらいに水を張って足を冷やしたりしたものだが。暑さ寒さは彼岸までと誰が言ったか知らないが正確だ。
妙な感心をしながら、大通りに向かってみた。ところが生憎今日は空振りらしく、食べ物を売る振り売りやら店がなにも出ていない。仕方なくもう一カ所の当てへ向かうしかなさそうだ。道に寝そべる物乞いを避けつつ、近道となる堤防を足早に歩むことにした。
しかし土手一面に広がる赤い曼珠沙華の群生に、僕は息を呑んだ。自然と立ち止まり、眼下の絶景に魅入ってしまう。あれほどまでに美しい緋色の花々なのに、摂取すればたやすく人の命など奪ってしまうのだという。野良犬すら近寄らない毒の花。
それなのに見た目や毒性を裏切り、花言葉だけはどれもが至って平凡。矛盾している。そう思い至ったその瞬間、いつぞやの芭蕉さんの言葉が脳裏をかすめた。
(見た目でも季語や花言葉でもいい。曽良君が私に合うと思った花を供えてくれれば)
あれから時折考えていたその問いに、相応しい答えはこれかもしれない。
「献花、曼珠沙華ならどうでしょう。地味な芭蕉さんの賑やかしにもなる」
いくつもの意味合いを持つかの花言葉。彼なら僕がどれを意図したかわかってくれるだろうか。その答えは残念ながら今は得られない。それでもいつの日か、僕の命の火が消えるその時には、かの俳聖と再び死出の旅を歩めると思えば、これ以上ふさわしい花は無い。
奇妙な満足感を胸に、僕は緋色の花たちから背を向けた。今の僕にはやるべきことが多すぎる。それでもいつか、
「また会う日を楽しみにね!」
「っ!?」
抜けるように明るい彼の声が聞こえた。
そんな気がして咄嗟に振り向けど、さやさやと風に揺れているのは赤い花だけだったのだが。
<終>

【貴方に送る手向けの花を】by秋生
白装束を着せられたその姿。唇に生気は無く、頬もこけ、瞳は閉じたまま開く気配は無い。
その周りを囲む人々はどれもこれも見知った顔。各々に何かを言うがよく聞こえない。
その内、一人が歩み出ると他の者が一歩下がった。
『曽良君』
聞き慣れたその声。そして伸ばされた手が、白装束の胸に当てたのは――紅色と白色の二輪の花。
「――っ!!」
息を詰まらせたようにしてから大きく吐き、その衝撃で瞳が開いた。
暗がりの部屋の中、しばらく天井を見つめ。それからゆっくりと体を持ち上げた。
こうして目を覚まし、暗がりの中で天井を見つめている今、先程自分が見たのが夢なのは明らかだが。まさか自分が死んだ夢を見るなんて思わなかった。夢だろうと、そんな夢を見て起きるなど、全く良い気持ちでは無い。
まだ瞼裏に残っている夢の名残が目を閉じれば蘇り、曽良は深くため息を吐いた。
――いや、それよりも。己の死んだ姿というのも気にくわない夢だったが、そう、それよりも。
夢の最後。自分に近付いたのは芭蕉だった。その彼が自分に向けた花は、確かに――彼岸花だった。
「彼岸花を僕に渡すだと……?」
呟いた声は余りに低く。曽良の周りだけが一気に温度が下がっていく。
「良いでしょう。夢の中の姿とは言え、芭蕉さんは芭蕉さん」
スラリ、と指が揃えられた手がゆっくりと持ち上げ。光るはずのないその指先が月の光を受け、まるで刃の様に光るのだった。
※ ※ ※
「いったたたた、待って曽良君! タンマ! ストップ!」
「なんですか芭蕉さん、藪から棒に」
「全然、藪から棒にじゃないよ、っていたたたた! 私の顔が潰れちゃうから! 果物じゃないから、離して、手を離してー!」
往来に響く情けないその大声を聞いて、少しだけ溜飲が下がった曽良は手の力を抜いた。
すると、その手に掴まれていた顔を両手で摩りながらしゃがみこむ姿。それは少し前に旅途中に別れた芭蕉だった。
「もう一度旅をしましょうって言ってくれたの嬉しかったのに、何? なんで私、顔掴まれてたの? 松尾のビューティーフェイスが傷ついちゃ、いたたた!」
「顔面にもツボがあるようなので、逆に良い刺激になるかもしれませんよ」
「ならない! ならないから離して、ごめん、ごめんなさいー!」
謝罪の言葉を聞けば、更に溜飲が下がった曽良は手を離して満足げに息を吐いた。
二回も顔を鷲掴みにされた芭蕉は、「なんで私が謝ってるの? おかしくない……?」と小さくしゃがみこんだまま呟いていた。
「ところで曽良君。君、本当に具合良くなったの?」
しかし切り替えが早いのか、しゃがみこんだままではあるが芭蕉はそう声を掛けてきた。
そう、確かに曽良は旅の途中に体調を崩して別れていた。
「はい。主に貴方を断罪しなければならないという強い意志で復活しました」
「なんで?! なんで松尾、断罪されるの?!」
「夢に出てきた芭蕉さんがあまりに不愉快なことをしたので」
「……? え、夢? 夢の話?」
「夢であろうと現実であろうと、芭蕉さんがやったことは芭蕉さんにケリをつけてもらう必要があるでしょう」
すらりと指先を揃えて手を持ち上げれば、芭蕉は座ったまま首を高速に左右に振った。
「理不尽! 別れた時は可愛い弟子と思ったのに、やっぱり理不尽――ヒヒィィン!!」
喋り終わる前に響いた、大きな打撃音。
同時に、芭蕉の年齢で出したとは思えない、これまた情けなく甲高い声がまた、往来に響いていた。
そんな不屈と言うべきか、なんと言うべきか。人間離れした曽良の回復力から実際に曽良の体調は良くなり。
芭蕉と曽良は、また旅の一歩を踏み出したのだった。
※ ※ ※
「え? 彼岸花?」
「はい。芭蕉さんが彼岸花を句に使うとしたらどのような状況かと」
二人揃っての旅が再開されたその夜。宿に腰を落ち着けた頃、曽良はそう切り出した。
「秋の季語として使うけど……その時になってみないとねえ」
芭蕉はそこで区切ると視線を天井に向けた。
「だけど、そうだなあ。秋の終わりに向かう頃で寂しい雰囲気だよね。毒もあるし、良い意味では使わないかも――って、何?! 曽良君のその顔、何事?!」
続いた言葉は曽良の顔から微かにあった穏やかさを消すには十分だった。いや、そうだろうとは思っていたのではあるが。
「その花を僕に押し付けてくるとは良い度胸ですね、嫌がらせですか」
「何の話?! って、もしかして君が言ってた夢の話?!」
「そうですけど」
「私の知らない夢の話を、私が知ってる前提で話さんといてー!」
手足をばたつかせて騒ぐ芭蕉に、曽良が無言で手をゆっくり持ち上げれば騒いでいた姿は一瞬ビクつき。そして振り上げていた手足を戻した。
「でも、私が彼岸花を曽良君に渡すなんてどんな状況だったの?」
一騒ぎすれば夢の内容が気になるのか。少し身を乗り出して芭蕉はそう切り出した。
「さあ。夢の話なので詳しいことは覚えていません」
己が死んでいたなどと言うのは面白くなく、適当に誤魔化す。
「えー、彼岸花のことは覚えてるのに?」
「他が霞むくらいにその点にイラついたので」
「だから夢の私の話なのに、私を冷たい目で見ないでよ〜」
言われてみれば確かに理不尽な気もしたが、面白く無いものは面白く無いのだと曽良は心の中でつぶやく。
死の印象がある花。それを死んだ自分に手向けられたのが。
これで終わりなのだと。寂しさなど無いように見えた芭蕉の印象が、なによりも気に食わなかったのだと改めて思う。
そう、夢の中の芭蕉は他の者と違い悲しんでいる表情ではなかった。
「君の夢だから分からないけど。私はなんで彼岸花なんて渡したんだろうね。人様に彼岸花なんて渡したことないのに」
心底不思議そうに聞こえた声に、視線を目の前に向ける。すると、ばちりと視線がぶつかった。その一瞬、芭蕉は瞬きをして。それからその表情が変わった。
「ああ、」
感嘆したような、どこか納得したような声を漏らした目の前の師。
「彼岸花。やっぱり現実の私も渡すかも」
「どう言う意味ですか?」
突然の言葉に若干、驚きの声音を滲ませてそう聞く。すると芭蕉は楽しそうに微笑んだ。その表情は夢の中の表情とどこか似ている気がして、曽良は瞬きをした。
「さて、なんでしょう?」
目の前の師は、楽しそうに目を細めていた。
※ ※ ※
それから月日が経った。
時は元禄十五年。
少し肌寒くなってきたと空を見上げ、義仲寺の門を潜ったのは歳相応の顔つきになった曽良だった。
門を潜るまで保っていた速度はとんと落ち、地面を確かめるように歩く。それに気がつき、曽良は小さく溜息をついた。
八年。この地に足を踏み入れるまで、八年掛かってしまった。その理由の一つである手の中の感触に目を細める。
「どなたかのお参りでしょうか」
その時、聞こえた声に顔を上げる。そこには竹箒を持った住職が立っていた。
「――はい」
改めて問われた内容に胃が小さく傷んだ気がした。
「手に持ってらっしゃるの、お参りされる方の好きだったものですか? この時期は鮮やかに咲きますよね」
「いえ。特に好きだったとは聞いていません」
「では、二輪だけお持ちなのは何か理由でも」
住職の声に、曽良は手の中をもう一度見つめる。
赤と、白。二輪の花の色。その手の中に持つのは彼岸花だった。
「私にと、残された手紙に何故か共に置いてありまして。それが、数年経っても意味が分からず。その人の所に持って来れば何か分かるかと、そんなことを思って。気がついたら、そこの花屋で買っていました」
「亡くなられた方が、その花を貴方に残していたのですか」
住職はそう言うと改めて彼岸花を見つめた。
曽良の抱えた八年。それは芭蕉が亡くなってから経った年数だった。
彼が亡くなったのは離れた地で、葬儀には間に合わなかった。いや、足を向けられなかった。
それから、門下の者と深川の宅に残された遺品を整理した時に見つけた品。そこに、曽良の名前が記された紙があり。その中を開くと押し花にされた赤と白の花。
それは夢の中で見たのと同じ彼岸花だった。
夢の中で何色の彼岸花を渡してきたのか言っていなかったのに、何故。
曽良はただそれを見つめるしかできなかった。
「私にもその方の意向は分かりませんが。――これは私の知識の一つとして聞いて頂ければと思います」
住職の声に、脳裏に浮かんでいた昔の記憶を振り払った。
改めて視線を向けると、住職は目を細めて曽良と彼岸花を交互に見つめた。
「花には、花言葉と言うものがあります。彼岸花にもありまして、例えば。赤色は、あきらめ、悲しい思い出という意味があります」
「花が持つ、寂しい印象の通りですね」
花言葉は女子どもが好んでいたが、俳句に使ったことはなく調べることもなかった。
初めて聞いた手の中の花の持つ言葉はどれも寂しい印象で。何故これを残したのかと分からなくなる。
「ですが、それだけではありません。彼岸花の別名はご存知ですか?」
しかし、続いた質問は意図しておらず、曽良は微かに驚きつつも口を開いた。
「曼珠沙華、ですね」
「はい。それは仏教では伝説上の天の花と同じ名前なのです」
それは聞いたことがなかった曽良は一瞬、囚われていた疑問から意識が離れた。そんな意味があるとは、この歳になるまで知らなかった。
「見る者の悪業を払うとも言われる花なんですよ。その為か、彼岸花にはまだ花言葉があるんです」
説法のように穏やかな声が静かな境内に響いた。
「その花言葉は――」
穏やかな声が紡ぐ言葉に、普段感情を露わにしない曽良の表情が変わり。
やがて二輪の花をぐっと胸に押し当て、小さく小さく何かを呟いた。
※ ※ ※
「先生ー!! 起きてください、何寝てるんですか!」
「……え? あれ、私寝てた?」
「はい、ぐっすり寝てました。寝るのは良いんですけど約束の時間忘れないでくださいね」
時は平成最後の秋の頃。
マンションの一室が突然騒がしくなり、騒ぎの渦中の人物は机の上で寝ぼけ眼の顔のまま、ぼんやりとしていた。
「ほら、起きてくださいってば。今日は新しい作画担当の方との打ち合わせと言っていたでしょう」
「そうだった気がする……」
「また寝ようとしないでください! 先生行きますよ、って今日までの締め切りプロットは終わったんですか?」
「もう少しかなあ」
「先生もう少し緊張感持ってくださいよー。取り敢えず五分で支度してくださいね。車で飛ばしますから」
「はいはい、分かったよ清風君」
部屋の扉が閉められ、よれよれの服に手をかけた妙齢の「先生」と呼ばれた人物は、先ほどまで寝てしまっていた机の上をもう一度見た。
小説を書く傍で、漫画の原作担当として幾つもの作品を抱えて仕事をしている。
今の机の上には今日までの締め切り作品の資料が散乱していた。
なんだか良い夢を見た気がするのだが思い出せないなあと思って首を掻く。不思議な懐かしさがある夢だった、気がする。
スウェットを脱ぎながら、資料の関係で開かれていた花言葉辞典に何故か目が止まった。
秋の花。この季節の花。曼珠沙華の花言葉。
「思うは――」
目にした花言葉を全て口にした瞬間、頭の中で何かが爆ぜたような衝撃を感じて思わず目を瞑る。
すると瞼の裏に、誰かの影。しかし目を開けるとそれは消えてしまった。
「先生、支度できましたか?」
「ごめん、もうちょっと待って!」
声を掛けられて慌てて支度を始める。何時からの予定だったとか、誰と会うと全く覚えていなくて、着替えながら口を開いた。
「ねえ清風君。今日の予定の人って、どんな人なの」
「技術は高いんですけど、なかなか人気に結びつかない方で。でも今回、先生の新しい原作の作画コンペで凄く良いもの出してきて。編集部全員一致で決まったんですよ」
「へえ、それは楽しみだなあ。名前は何て言うの?」
「河合、と言う男性の方ですよ、松尾先生」
「河合」
聞こえた名前を口にした瞬間、また頭の中で何かが爆ぜたような衝撃と共に、先ほどの花言葉が蘇った。
『思うはあなた一人』
衝撃にふらつき、目を閉じた瞬間。瞼の裏には覚えがないのに、覚えがあるような。整った顔をした男性の姿が浮かぶ。
その手には。赤色と、白色の、一輪ずつの彼岸花が握られ。その口元がゆっくりと開き、言葉を紡いだ。
『また会う日を楽しみに』
それは彼岸花のもう一つの花言葉。
「――ああ、彼は――」
瞳を開けた松尾は、小さく小さく、それだけ呟き。そっと目を閉じた。
――それは貴方に贈る再会の花――
<終>
1.菊枕
芭蕉さんの弟子であり、僕の先輩に当たる男が、先日亡くなった。支援者でもある彼は商人として大成し、そしてその葬儀は盛大に執り行われた。決して上手い句を詠む男ではなかったのだが、町人でありながら奢侈品をさらりと身につけ、まとめ役として町の誰からも信頼を得るような人だから、葬儀にもひっきりなしに人が訪れていた。
その帰り道。僕は芭蕉さんの後ろについて、宿への道を進んでいる。今夜一泊だけして旅に戻る予定だ。しばらく宿泊して欲しいと請われたが、固辞して立ち去ることにした。僕たち以外にも多数の来客がいるのだし、それに昨日から交代しつつも寝ずの番を買ってでたのだからもう十分だろう。
芭蕉さんも当然疲れきっているはずだ。その足取りはいつもよりも遅い。さすがにそれを咎めるつもりはない。こつ、こつ。ずっ、ずっ。地面を打つ杖と摺り足の音、二種類の音だけが響いている。おしゃべりな芭蕉さんなのに、先程から無言のままずっと前を向いたままだ。
「疲れましたか」
小声で問いかければ、芭蕉さんは半身をよじって僕の顔を見上げた。意外なことだが、疲労の色の濃いその表情に、悲しみは見られない。緩やかにややかさついた唇が開かれていく。
「すこしね。曽良君もお疲れ様。本当に良いお式だったねぇ」
「そうですね」
「家族に看取られて畳の上で死ぬなんて私たちには無理だろうねぇ」
「羨ましいですか?」
「うーん、そうでもないかな。俳諧師だもん、旅路の先で客死するのは当たり前でしょ」
あっさり否定した芭蕉さんが強がっている様子はなさそうだ。家すらも簡単に手放してしまう彼にとって、家族どころかもしかしたら弟子さえもその道行の妨げなのかもしれないとふと思う。
「でもさーちょっとだけ羨ましいね。菊綺麗だったし」
「え、棺の中のあれですか?」
意外な言葉に眉が上がる。死者が好んでいた菊で敷き詰められていた棺の中を思い出す。穏やかな白い顔、白装束を染め上げるほど鮮烈な黄色の花びらを。
「ほら季語でもあるけど、菊枕ってすがすがしい香りで涼やかに眠れるっていうからねぇ、一度やってみたいなって。名句出そうじゃない?」
「あぁ、亡くなってからの話じゃなくてですか?」
「うん」
匣の中の芭蕉さんに菊を投げ込む想像をしてしまい、僕は気づかれぬようこっそりと溜め息を吐き出した。長旅の中、彼が不調を訴える回数は年々増えている。それでも決して歩みを止めようとはせず、新たな旅路を求め各地の弟子と書簡のやりとりを続ける日々だ。命を削ってでも新たな表現を模索する師は、どことなく蛍に似ている。寿命を燃して光を放つ、儚くも強い生き物に。
そんな想像をしていたからか、僕らしくもない質問を投げてしまったのだろう。
「ちなみに芭蕉さんが亡くなったらどんな花を添えてほしいですか? 手遅れになる前に参考までに聞きたいんですが。季節があわない場合、そこらの雑草になるかもしれませんけど」
「縁起でもないこと言う上、雑草ってなんだよお師匠様に雑草って!」
ひとしきり憤慨した後、彼はふと目を細めた。
「そうだねーどんな花でもいいよ。葬式があげられたら、の話だけどさ。見た目でも季語や花言葉でもいい。曽良君が私に合うと思った花を供えてくれれば。ねぇこれ、私が亡くなるまでの宿題にしておこうか」
穏やかな微笑みなのに、無性に苛つきつっかかりたくなるのはなぜだろうか。
「宿題といったとこで、採点する芭蕉さんがいつまで生きるかわかったもんじゃないですしね。明日にでもぽっくり逝かれたら間に合わないんですが」
「逝かないよ多分! さすがに明日はないよ!? 松尾まだまだピッチピチのヤングマン!」
とれたてピッチピチ! 美肌だし! 青春真っ盛り!と意味不明に吼え立てるジジイの膝裏に軽く蹴りを入れ、よろめかせた僕はさっさと宿への道を歩み出した。
例え彼に手向ける花が思いつかなくても、いずれ別れの日はやってくる。それができるだけ遠い未来であることを、僕は祈るしかなかった。
2.彼岸花で弔いを
あと二月程過ぎれば芭蕉忌を迎えるというある日。僕は日々、残された芭蕉さんの句を編纂する兄弟子達の手伝いに追われていた。
句とは到底呼べないようないたずら書きや落書きの類から、誰しもが口ずさみたくなるような名句までが掃き溜めのようにごっちゃになっていたこと、又旅先で行っていた句会で紡いだ連句をかき集め、整理するのに膨大な時間を費やしてしまった。
集大成となるまとめを作るのに、皆が尋常ではない情熱を注ぐ気持ちは痛いほどにわかる。旅ごとにまとめた句集にしたいという案、そして彼の作品全てを網羅したものがいいという案で真っ向から意見が割れてしまい、未だに結論は出ていない。亡くなってなお、あの人はこれほどまでに大きな影響を与え続けている。
しかし芭蕉さんの功績がどれほど大きくても、季節はきちんと移り変わっていく。それどころか年号が変わり、徐々に俳諧の世界も変わりつつある。まぁ芭蕉さんが生きていたなら、そんな変化も楽しそうに受け入れてしまうような気がするが。
喧々囂々たる討論に疲れ、僕はそっと庵を抜け出した。作業を続けるにも食事は必要だろう。玄関を出た途端、冷たい風に顔を撫でられ咄嗟に背中を丸めた。ほんの少し前は暑く、たらいに水を張って足を冷やしたりしたものだが。暑さ寒さは彼岸までと誰が言ったか知らないが正確だ。
妙な感心をしながら、大通りに向かってみた。ところが生憎今日は空振りらしく、食べ物を売る振り売りやら店がなにも出ていない。仕方なくもう一カ所の当てへ向かうしかなさそうだ。道に寝そべる物乞いを避けつつ、近道となる堤防を足早に歩むことにした。
しかし土手一面に広がる赤い曼珠沙華の群生に、僕は息を呑んだ。自然と立ち止まり、眼下の絶景に魅入ってしまう。あれほどまでに美しい緋色の花々なのに、摂取すればたやすく人の命など奪ってしまうのだという。野良犬すら近寄らない毒の花。
それなのに見た目や毒性を裏切り、花言葉だけはどれもが至って平凡。矛盾している。そう思い至ったその瞬間、いつぞやの芭蕉さんの言葉が脳裏をかすめた。
(見た目でも季語や花言葉でもいい。曽良君が私に合うと思った花を供えてくれれば)
あれから時折考えていたその問いに、相応しい答えはこれかもしれない。
「献花、曼珠沙華ならどうでしょう。地味な芭蕉さんの賑やかしにもなる」
いくつもの意味合いを持つかの花言葉。彼なら僕がどれを意図したかわかってくれるだろうか。その答えは残念ながら今は得られない。それでもいつの日か、僕の命の火が消えるその時には、かの俳聖と再び死出の旅を歩めると思えば、これ以上ふさわしい花は無い。
奇妙な満足感を胸に、僕は緋色の花たちから背を向けた。今の僕にはやるべきことが多すぎる。それでもいつか、
「また会う日を楽しみにね!」
「っ!?」
抜けるように明るい彼の声が聞こえた。
そんな気がして咄嗟に振り向けど、さやさやと風に揺れているのは赤い花だけだったのだが。
<終>
【貴方に送る手向けの花を】by秋生
白装束を着せられたその姿。唇に生気は無く、頬もこけ、瞳は閉じたまま開く気配は無い。
その周りを囲む人々はどれもこれも見知った顔。各々に何かを言うがよく聞こえない。
その内、一人が歩み出ると他の者が一歩下がった。
『曽良君』
聞き慣れたその声。そして伸ばされた手が、白装束の胸に当てたのは――紅色と白色の二輪の花。
「――っ!!」
息を詰まらせたようにしてから大きく吐き、その衝撃で瞳が開いた。
暗がりの部屋の中、しばらく天井を見つめ。それからゆっくりと体を持ち上げた。
こうして目を覚まし、暗がりの中で天井を見つめている今、先程自分が見たのが夢なのは明らかだが。まさか自分が死んだ夢を見るなんて思わなかった。夢だろうと、そんな夢を見て起きるなど、全く良い気持ちでは無い。
まだ瞼裏に残っている夢の名残が目を閉じれば蘇り、曽良は深くため息を吐いた。
――いや、それよりも。己の死んだ姿というのも気にくわない夢だったが、そう、それよりも。
夢の最後。自分に近付いたのは芭蕉だった。その彼が自分に向けた花は、確かに――彼岸花だった。
「彼岸花を僕に渡すだと……?」
呟いた声は余りに低く。曽良の周りだけが一気に温度が下がっていく。
「良いでしょう。夢の中の姿とは言え、芭蕉さんは芭蕉さん」
スラリ、と指が揃えられた手がゆっくりと持ち上げ。光るはずのないその指先が月の光を受け、まるで刃の様に光るのだった。
※ ※ ※
「いったたたた、待って曽良君! タンマ! ストップ!」
「なんですか芭蕉さん、藪から棒に」
「全然、藪から棒にじゃないよ、っていたたたた! 私の顔が潰れちゃうから! 果物じゃないから、離して、手を離してー!」
往来に響く情けないその大声を聞いて、少しだけ溜飲が下がった曽良は手の力を抜いた。
すると、その手に掴まれていた顔を両手で摩りながらしゃがみこむ姿。それは少し前に旅途中に別れた芭蕉だった。
「もう一度旅をしましょうって言ってくれたの嬉しかったのに、何? なんで私、顔掴まれてたの? 松尾のビューティーフェイスが傷ついちゃ、いたたた!」
「顔面にもツボがあるようなので、逆に良い刺激になるかもしれませんよ」
「ならない! ならないから離して、ごめん、ごめんなさいー!」
謝罪の言葉を聞けば、更に溜飲が下がった曽良は手を離して満足げに息を吐いた。
二回も顔を鷲掴みにされた芭蕉は、「なんで私が謝ってるの? おかしくない……?」と小さくしゃがみこんだまま呟いていた。
「ところで曽良君。君、本当に具合良くなったの?」
しかし切り替えが早いのか、しゃがみこんだままではあるが芭蕉はそう声を掛けてきた。
そう、確かに曽良は旅の途中に体調を崩して別れていた。
「はい。主に貴方を断罪しなければならないという強い意志で復活しました」
「なんで?! なんで松尾、断罪されるの?!」
「夢に出てきた芭蕉さんがあまりに不愉快なことをしたので」
「……? え、夢? 夢の話?」
「夢であろうと現実であろうと、芭蕉さんがやったことは芭蕉さんにケリをつけてもらう必要があるでしょう」
すらりと指先を揃えて手を持ち上げれば、芭蕉は座ったまま首を高速に左右に振った。
「理不尽! 別れた時は可愛い弟子と思ったのに、やっぱり理不尽――ヒヒィィン!!」
喋り終わる前に響いた、大きな打撃音。
同時に、芭蕉の年齢で出したとは思えない、これまた情けなく甲高い声がまた、往来に響いていた。
そんな不屈と言うべきか、なんと言うべきか。人間離れした曽良の回復力から実際に曽良の体調は良くなり。
芭蕉と曽良は、また旅の一歩を踏み出したのだった。
※ ※ ※
「え? 彼岸花?」
「はい。芭蕉さんが彼岸花を句に使うとしたらどのような状況かと」
二人揃っての旅が再開されたその夜。宿に腰を落ち着けた頃、曽良はそう切り出した。
「秋の季語として使うけど……その時になってみないとねえ」
芭蕉はそこで区切ると視線を天井に向けた。
「だけど、そうだなあ。秋の終わりに向かう頃で寂しい雰囲気だよね。毒もあるし、良い意味では使わないかも――って、何?! 曽良君のその顔、何事?!」
続いた言葉は曽良の顔から微かにあった穏やかさを消すには十分だった。いや、そうだろうとは思っていたのではあるが。
「その花を僕に押し付けてくるとは良い度胸ですね、嫌がらせですか」
「何の話?! って、もしかして君が言ってた夢の話?!」
「そうですけど」
「私の知らない夢の話を、私が知ってる前提で話さんといてー!」
手足をばたつかせて騒ぐ芭蕉に、曽良が無言で手をゆっくり持ち上げれば騒いでいた姿は一瞬ビクつき。そして振り上げていた手足を戻した。
「でも、私が彼岸花を曽良君に渡すなんてどんな状況だったの?」
一騒ぎすれば夢の内容が気になるのか。少し身を乗り出して芭蕉はそう切り出した。
「さあ。夢の話なので詳しいことは覚えていません」
己が死んでいたなどと言うのは面白くなく、適当に誤魔化す。
「えー、彼岸花のことは覚えてるのに?」
「他が霞むくらいにその点にイラついたので」
「だから夢の私の話なのに、私を冷たい目で見ないでよ〜」
言われてみれば確かに理不尽な気もしたが、面白く無いものは面白く無いのだと曽良は心の中でつぶやく。
死の印象がある花。それを死んだ自分に手向けられたのが。
これで終わりなのだと。寂しさなど無いように見えた芭蕉の印象が、なによりも気に食わなかったのだと改めて思う。
そう、夢の中の芭蕉は他の者と違い悲しんでいる表情ではなかった。
「君の夢だから分からないけど。私はなんで彼岸花なんて渡したんだろうね。人様に彼岸花なんて渡したことないのに」
心底不思議そうに聞こえた声に、視線を目の前に向ける。すると、ばちりと視線がぶつかった。その一瞬、芭蕉は瞬きをして。それからその表情が変わった。
「ああ、」
感嘆したような、どこか納得したような声を漏らした目の前の師。
「彼岸花。やっぱり現実の私も渡すかも」
「どう言う意味ですか?」
突然の言葉に若干、驚きの声音を滲ませてそう聞く。すると芭蕉は楽しそうに微笑んだ。その表情は夢の中の表情とどこか似ている気がして、曽良は瞬きをした。
「さて、なんでしょう?」
目の前の師は、楽しそうに目を細めていた。
※ ※ ※
それから月日が経った。
時は元禄十五年。
少し肌寒くなってきたと空を見上げ、義仲寺の門を潜ったのは歳相応の顔つきになった曽良だった。
門を潜るまで保っていた速度はとんと落ち、地面を確かめるように歩く。それに気がつき、曽良は小さく溜息をついた。
八年。この地に足を踏み入れるまで、八年掛かってしまった。その理由の一つである手の中の感触に目を細める。
「どなたかのお参りでしょうか」
その時、聞こえた声に顔を上げる。そこには竹箒を持った住職が立っていた。
「――はい」
改めて問われた内容に胃が小さく傷んだ気がした。
「手に持ってらっしゃるの、お参りされる方の好きだったものですか? この時期は鮮やかに咲きますよね」
「いえ。特に好きだったとは聞いていません」
「では、二輪だけお持ちなのは何か理由でも」
住職の声に、曽良は手の中をもう一度見つめる。
赤と、白。二輪の花の色。その手の中に持つのは彼岸花だった。
「私にと、残された手紙に何故か共に置いてありまして。それが、数年経っても意味が分からず。その人の所に持って来れば何か分かるかと、そんなことを思って。気がついたら、そこの花屋で買っていました」
「亡くなられた方が、その花を貴方に残していたのですか」
住職はそう言うと改めて彼岸花を見つめた。
曽良の抱えた八年。それは芭蕉が亡くなってから経った年数だった。
彼が亡くなったのは離れた地で、葬儀には間に合わなかった。いや、足を向けられなかった。
それから、門下の者と深川の宅に残された遺品を整理した時に見つけた品。そこに、曽良の名前が記された紙があり。その中を開くと押し花にされた赤と白の花。
それは夢の中で見たのと同じ彼岸花だった。
夢の中で何色の彼岸花を渡してきたのか言っていなかったのに、何故。
曽良はただそれを見つめるしかできなかった。
「私にもその方の意向は分かりませんが。――これは私の知識の一つとして聞いて頂ければと思います」
住職の声に、脳裏に浮かんでいた昔の記憶を振り払った。
改めて視線を向けると、住職は目を細めて曽良と彼岸花を交互に見つめた。
「花には、花言葉と言うものがあります。彼岸花にもありまして、例えば。赤色は、あきらめ、悲しい思い出という意味があります」
「花が持つ、寂しい印象の通りですね」
花言葉は女子どもが好んでいたが、俳句に使ったことはなく調べることもなかった。
初めて聞いた手の中の花の持つ言葉はどれも寂しい印象で。何故これを残したのかと分からなくなる。
「ですが、それだけではありません。彼岸花の別名はご存知ですか?」
しかし、続いた質問は意図しておらず、曽良は微かに驚きつつも口を開いた。
「曼珠沙華、ですね」
「はい。それは仏教では伝説上の天の花と同じ名前なのです」
それは聞いたことがなかった曽良は一瞬、囚われていた疑問から意識が離れた。そんな意味があるとは、この歳になるまで知らなかった。
「見る者の悪業を払うとも言われる花なんですよ。その為か、彼岸花にはまだ花言葉があるんです」
説法のように穏やかな声が静かな境内に響いた。
「その花言葉は――」
穏やかな声が紡ぐ言葉に、普段感情を露わにしない曽良の表情が変わり。
やがて二輪の花をぐっと胸に押し当て、小さく小さく何かを呟いた。
※ ※ ※
「先生ー!! 起きてください、何寝てるんですか!」
「……え? あれ、私寝てた?」
「はい、ぐっすり寝てました。寝るのは良いんですけど約束の時間忘れないでくださいね」
時は平成最後の秋の頃。
マンションの一室が突然騒がしくなり、騒ぎの渦中の人物は机の上で寝ぼけ眼の顔のまま、ぼんやりとしていた。
「ほら、起きてくださいってば。今日は新しい作画担当の方との打ち合わせと言っていたでしょう」
「そうだった気がする……」
「また寝ようとしないでください! 先生行きますよ、って今日までの締め切りプロットは終わったんですか?」
「もう少しかなあ」
「先生もう少し緊張感持ってくださいよー。取り敢えず五分で支度してくださいね。車で飛ばしますから」
「はいはい、分かったよ清風君」
部屋の扉が閉められ、よれよれの服に手をかけた妙齢の「先生」と呼ばれた人物は、先ほどまで寝てしまっていた机の上をもう一度見た。
小説を書く傍で、漫画の原作担当として幾つもの作品を抱えて仕事をしている。
今の机の上には今日までの締め切り作品の資料が散乱していた。
なんだか良い夢を見た気がするのだが思い出せないなあと思って首を掻く。不思議な懐かしさがある夢だった、気がする。
スウェットを脱ぎながら、資料の関係で開かれていた花言葉辞典に何故か目が止まった。
秋の花。この季節の花。曼珠沙華の花言葉。
「思うは――」
目にした花言葉を全て口にした瞬間、頭の中で何かが爆ぜたような衝撃を感じて思わず目を瞑る。
すると瞼の裏に、誰かの影。しかし目を開けるとそれは消えてしまった。
「先生、支度できましたか?」
「ごめん、もうちょっと待って!」
声を掛けられて慌てて支度を始める。何時からの予定だったとか、誰と会うと全く覚えていなくて、着替えながら口を開いた。
「ねえ清風君。今日の予定の人って、どんな人なの」
「技術は高いんですけど、なかなか人気に結びつかない方で。でも今回、先生の新しい原作の作画コンペで凄く良いもの出してきて。編集部全員一致で決まったんですよ」
「へえ、それは楽しみだなあ。名前は何て言うの?」
「河合、と言う男性の方ですよ、松尾先生」
「河合」
聞こえた名前を口にした瞬間、また頭の中で何かが爆ぜたような衝撃と共に、先ほどの花言葉が蘇った。
『思うはあなた一人』
衝撃にふらつき、目を閉じた瞬間。瞼の裏には覚えがないのに、覚えがあるような。整った顔をした男性の姿が浮かぶ。
その手には。赤色と、白色の、一輪ずつの彼岸花が握られ。その口元がゆっくりと開き、言葉を紡いだ。
『また会う日を楽しみに』
それは彼岸花のもう一つの花言葉。
「――ああ、彼は――」
瞳を開けた松尾は、小さく小さく、それだけ呟き。そっと目を閉じた。
――それは貴方に贈る再会の花――
<終>
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