投稿日:2020年10月09日 21:35    文字数:2,432

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恋人の部屋を訪ねた秋声くん×恋人を待たせる春夫さん。事前事後の話が大好きです
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 夜も更けた頃、約束の時間に佐藤の部屋を訪ねる。僕が戸を叩くと、妙に慌ただしい気配の後、しかし予想通りにすっかり寝支度を整えた彼が現れた。そして申し訳なさそうな顔で言う。
「すみません、その、書き物を……始めてしまって」
 あっ、これは、と思った。この調子で、書き物をしていたことを詫びるなら、続く内容は想像がつく。少しだけと筆を執って止められなくなる現象はどうしてもある。知っている。
「さわりだけでも書いておけば後で忘れずに続きを書けると……思って、書き始めたら筆が乗って……ちょっと待ってもらっていいですか」
「もちろん。まあ、恋人の部屋を訪ねた者としては、不満がないとは言わないけどね。分かるから」
 拒めはしない。いつ自分に返ってくるか分からない話だ。そう考えると、できるだけ平常心で、このくらい許せなくてはならない。ですよねと苦笑いして、佐藤はそそくさと机に戻った。
 来客対応でも集中が途切れずに済んだようで何よりだ。今の会話で佐藤の中にあったはずの言葉が蒸発してしまったら、定刻に訪ねた身でありながら申し訳ない気持ちになったと思う。
 文字の連なりを生み出す行為は、今の僕らにとって、前世の事情や単なる欲求とは別の価値もある。属性を自分の内外に示し続ける儀式だ。ただでさえ振れやすい精神の安定を図る上で、これほど手軽で確実なものはない。
 大人しく、佐藤の背後に位置するベッドの上で待つ。そうして数分の間は彼の後ろ姿を見つめていた。頭の傾き具合で没頭の度合いが分かる。走る筆先は、彼の頭の中の世界をどんなふうに記録しているのだろう。彼らしさと新しい一面が入り乱れた世界を、僕の想像ではとても追いきれない。
 眠気はなかったから、しばらくはそうして佐藤の走らせるペンの音を聞いていた。しかしその音はいつまでも止まない。衰えもしない。乗りに乗ってしまう時間が、よりによって今きているのか。ここに来て何分経ったのかは数えていなかった。僕は自分の気が短いとも、長居とも思わない。ただ、予定通りに事が進んでいたら、今頃は彼もこのベッドの上で、僕の腕の中にいたはずなのだ。
 もし今、佐藤の邪魔をしてしまったら。今の彼が生み出すものは、彼自身のみならず世の損失になるかもしれない。大げさな責任を想像する。彼の筆を妨げたいわけではない。本当にその気持ちでいる。だから待った。ちょっとの時間を越えて待ったのだ。だから、と心の中で繰り返して、僕はベッドから腰を上げた。大丈夫、そろそろ彼の袖を引いたとて、佐藤春夫という底なしの泉が枯れることはないし、濁りもしないはずだ。うん。
 来訪者用に備えてあるスツールを部屋の隅から引っぱり出し、佐藤の隣へ行く。さすがに彼の視界に入り、意識が筆紙から逸れた。
「秋声さん」
 まだペンは置かないものの、佐藤は身体を起こしてこちらを向いた。彼は苦笑いも浮かべないで眉尻を下げる。ただ申し訳ないのか、もう少し待ってほしいのか。どちらにせよ表情に湧く罪悪感を見てとる。妥当な反応に安堵する一方、自分のとっている行動で胸が痛む。
 心苦しく思いながら、いいよと、できるだけ軽く返事をする。この部屋へ来てすぐに答えたのと同じように、邪魔をした今でも返答に嘘はない。ただ少し、待機の条件を厳密にしておく。
「後で原稿を見せてくれるなら、まだ待てる。絶対に見せてね、これはナシだと思っても」
「え……あ、いや見せるのは構いませんけど」
「きっと見せて。こうして君の部屋を訪ねるのなんか珍しくはないけれど、やっぱり今日だって楽しみにしていたんだよ。僕だけの君の時間……それを遅らせて、減らすこの時間で、君から何が生まれたのかを知りたい」
 ずるい、いやずるくはないか。僕は四日前から約束していたその日その時間に訪ねてきただけだ。これは当然の要求であり、権利だ。佐藤が応えるかどうかは別として。
 果たして佐藤はペンを置いた。邪魔が成った。僕が行動を起こした時点で彼はそうと分かっていた。やっぱりずるい。ペンから離れた彼の指が伸びてきて、僕の頬をひっかける。その提案に応じて、素直に謝罪の唇を受け止めた。
「……ごめんね、我慢しきれなくて」
 顔を話す佐藤へ、先を越して詫びる。とんでもないと言って、彼はゆるゆる首を振った。
「放っておいてすみませんでした。あんたは約束の通りに来てくれたのに。書き終わったら読んでください。まあ……読まない方がいいかもしれないが……」
 泳ぐように僕から離れた視線は、漂った末に机上の原稿用紙へ着地した。
「どうしても嫌なら見ないけど……僕の好みじゃないとか、そういうこと?」
「いや、恋人を部屋に待たせておいてそんなことを考えていたのかと、呆れるかも」
「あ、そういう……?」
 しかしそれは、むしろ読ませてもらう立場としては望むところだ。恋人を室内に待たせておいて、玻璃細工のように繊細な恋心でも描いていたのだとしたら、それは少々苛立つかもしれないけれど。
 佐藤の考える僕はどんなものに呆れると思ったのか、それを知るという追加の楽しみができた。同時に、頭をよぎったものがある。手早く筆紙を片付ける彼へ尋ねた。
「そんなこと、とやらを考えていた後で、僕と遊ぶ気分になれる?」
 入り込んでいた様子だ。尾を引いてはいないか。もっとも、思いついたから尋ねてみたまでのこと、それほど心配はしていない。佐藤が、ふんと鼻で笑うような息を吐く。その割にこちらへ向き直った笑みはべったりと甘いものだった。
「もちろん。もう切り替わってます、秋声さんだけの俺の時間ですよ」
 変な言い方だと思ってから、いましがた自分で言ったのだと思い出す。僕だけの彼の時間だ。佐藤のまなざしには、これからベッドへもつれ込もうという相手へ向けるに相応の熱があった。じゃあおいでとばかりに僕が両腕を上げると、彼は絡めるように身体を摺り寄せた。
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 夜も更けた頃、約束の時間に佐藤の部屋を訪ねる。僕が戸を叩くと、妙に慌ただしい気配の後、しかし予想通りにすっかり寝支度を整えた彼が現れた。そして申し訳なさそうな顔で言う。
「すみません、その、書き物を……始めてしまって」
 あっ、これは、と思った。この調子で、書き物をしていたことを詫びるなら、続く内容は想像がつく。少しだけと筆を執って止められなくなる現象はどうしてもある。知っている。
「さわりだけでも書いておけば後で忘れずに続きを書けると……思って、書き始めたら筆が乗って……ちょっと待ってもらっていいですか」
「もちろん。まあ、恋人の部屋を訪ねた者としては、不満がないとは言わないけどね。分かるから」
 拒めはしない。いつ自分に返ってくるか分からない話だ。そう考えると、できるだけ平常心で、このくらい許せなくてはならない。ですよねと苦笑いして、佐藤はそそくさと机に戻った。
 来客対応でも集中が途切れずに済んだようで何よりだ。今の会話で佐藤の中にあったはずの言葉が蒸発してしまったら、定刻に訪ねた身でありながら申し訳ない気持ちになったと思う。
 文字の連なりを生み出す行為は、今の僕らにとって、前世の事情や単なる欲求とは別の価値もある。属性を自分の内外に示し続ける儀式だ。ただでさえ振れやすい精神の安定を図る上で、これほど手軽で確実なものはない。
 大人しく、佐藤の背後に位置するベッドの上で待つ。そうして数分の間は彼の後ろ姿を見つめていた。頭の傾き具合で没頭の度合いが分かる。走る筆先は、彼の頭の中の世界をどんなふうに記録しているのだろう。彼らしさと新しい一面が入り乱れた世界を、僕の想像ではとても追いきれない。
 眠気はなかったから、しばらくはそうして佐藤の走らせるペンの音を聞いていた。しかしその音はいつまでも止まない。衰えもしない。乗りに乗ってしまう時間が、よりによって今きているのか。ここに来て何分経ったのかは数えていなかった。僕は自分の気が短いとも、長居とも思わない。ただ、予定通りに事が進んでいたら、今頃は彼もこのベッドの上で、僕の腕の中にいたはずなのだ。
 もし今、佐藤の邪魔をしてしまったら。今の彼が生み出すものは、彼自身のみならず世の損失になるかもしれない。大げさな責任を想像する。彼の筆を妨げたいわけではない。本当にその気持ちでいる。だから待った。ちょっとの時間を越えて待ったのだ。だから、と心の中で繰り返して、僕はベッドから腰を上げた。大丈夫、そろそろ彼の袖を引いたとて、佐藤春夫という底なしの泉が枯れることはないし、濁りもしないはずだ。うん。
 来訪者用に備えてあるスツールを部屋の隅から引っぱり出し、佐藤の隣へ行く。さすがに彼の視界に入り、意識が筆紙から逸れた。
「秋声さん」
 まだペンは置かないものの、佐藤は身体を起こしてこちらを向いた。彼は苦笑いも浮かべないで眉尻を下げる。ただ申し訳ないのか、もう少し待ってほしいのか。どちらにせよ表情に湧く罪悪感を見てとる。妥当な反応に安堵する一方、自分のとっている行動で胸が痛む。
 心苦しく思いながら、いいよと、できるだけ軽く返事をする。この部屋へ来てすぐに答えたのと同じように、邪魔をした今でも返答に嘘はない。ただ少し、待機の条件を厳密にしておく。
「後で原稿を見せてくれるなら、まだ待てる。絶対に見せてね、これはナシだと思っても」
「え……あ、いや見せるのは構いませんけど」
「きっと見せて。こうして君の部屋を訪ねるのなんか珍しくはないけれど、やっぱり今日だって楽しみにしていたんだよ。僕だけの君の時間……それを遅らせて、減らすこの時間で、君から何が生まれたのかを知りたい」
 ずるい、いやずるくはないか。僕は四日前から約束していたその日その時間に訪ねてきただけだ。これは当然の要求であり、権利だ。佐藤が応えるかどうかは別として。
 果たして佐藤はペンを置いた。邪魔が成った。僕が行動を起こした時点で彼はそうと分かっていた。やっぱりずるい。ペンから離れた彼の指が伸びてきて、僕の頬をひっかける。その提案に応じて、素直に謝罪の唇を受け止めた。
「……ごめんね、我慢しきれなくて」
 顔を話す佐藤へ、先を越して詫びる。とんでもないと言って、彼はゆるゆる首を振った。
「放っておいてすみませんでした。あんたは約束の通りに来てくれたのに。書き終わったら読んでください。まあ……読まない方がいいかもしれないが……」
 泳ぐように僕から離れた視線は、漂った末に机上の原稿用紙へ着地した。
「どうしても嫌なら見ないけど……僕の好みじゃないとか、そういうこと?」
「いや、恋人を部屋に待たせておいてそんなことを考えていたのかと、呆れるかも」
「あ、そういう……?」
 しかしそれは、むしろ読ませてもらう立場としては望むところだ。恋人を室内に待たせておいて、玻璃細工のように繊細な恋心でも描いていたのだとしたら、それは少々苛立つかもしれないけれど。
 佐藤の考える僕はどんなものに呆れると思ったのか、それを知るという追加の楽しみができた。同時に、頭をよぎったものがある。手早く筆紙を片付ける彼へ尋ねた。
「そんなこと、とやらを考えていた後で、僕と遊ぶ気分になれる?」
 入り込んでいた様子だ。尾を引いてはいないか。もっとも、思いついたから尋ねてみたまでのこと、それほど心配はしていない。佐藤が、ふんと鼻で笑うような息を吐く。その割にこちらへ向き直った笑みはべったりと甘いものだった。
「もちろん。もう切り替わってます、秋声さんだけの俺の時間ですよ」
 変な言い方だと思ってから、いましがた自分で言ったのだと思い出す。僕だけの彼の時間だ。佐藤のまなざしには、これからベッドへもつれ込もうという相手へ向けるに相応の熱があった。じゃあおいでとばかりに僕が両腕を上げると、彼は絡めるように身体を摺り寄せた。
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