有沢

※シリーズタグ機能してませんすみません!
・必殺仕事人V 政×竜
・政竜中の人(こめまさと呼んでいます)
・水戸黄門 5代目助格と中の人関連
 求む!オーレやハルコなどG様右側〜!

【同人誌通販】
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【pixivFANBOX】
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小説メインでたまに絵を描きます。
ご感想は大変励みになっています! 感謝です!

【過去】
・聖○魔II AD
・クレしん しん風

二次サークル名は「エリートがすきなのだ」。
創作JUNE(オリジナルBL)でバンド・極道ものメインのサークル名は「VelvetRope」です。

もちろん成人済み

ピクログ
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投稿日:2021年05月14日 23:15    文字数:18,148

双頭の心臓(試し読み)

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・必殺仕事人V 政×竜(長編小説)『双頭の心臓』試し読みです。BOOTHやpixivで公開しているサンプルと同じ分量をテキストで公開します。
通販→https://booth.pm/ja/items/2910474
●〈双頭の心臓〉あらすじ
“佃島”の夜から10年を経て再会した政と竜。
3年が経ち、いまだ人目を避けながらも、竜は政との穏やかな生活に幸福を感じていた。
ある日、薙刀を振り回す殺し屋・典膳一味の仕置を終えたふたりは、毎年恒例の旅に出た。
政はそこで、竜の秘められた過去を知ることになる。……
運命と掟の覚悟に生きつつも、過去に囚われ「喪失」に怯えるふたりが、切実に求め、辿り着いた答えとは。
――こよなく悲愴、こよなく幸福。燃えあがる情念と艶やかさを濃密に増した〈闇に陽光~〉完結篇。

小説/シリアス/切ない/ハッピーエンド/戦闘/流血あり/モブ攻・受/R18

●2017年に出した〈闇に陽光~〉から始まったラインの話です。まさまさ〈あんたに よく似た〉もこの流れが入っています。これで完結になりました。
2017年ぱちんこの政竜映像が元ネタです。典膳もこちらに登場。知らなくても全く問題なく読めます。
R18描写が多いので苦手な方はお気をつけください。

・文庫サイズ 428p・1800yen/R18・BL
・W表紙仕様(カバー&本体表紙)
・文庫『闇に陽光~』と繋がる背表紙

1 / 1
   一章 所有


 その姿に、政は信じられないという目をした。
 闇のなか、紐を手に巻きながら歩いてきた竜の肩には、長い髪がそのまま揺れていたのだ。
 政の目にあからさまな憤怒が立ちのぼったのを認めると、竜は眉根を寄せて、正面で脚を止めた。
「なんだ、そのなりは」
 ぴりつく声を投げられて、吐息で笑う。
「ひと仕事終えたってのに、ずいぶんだな」
「どうしたって言ってんだよ」
「大したことねえよ」
 典膳が獰猛な薙刀を振りまわしていたのは、一味の浪人たちを相手にしていた政も知っている。元結が切られているということは、その刃が、首の間際を舞ったということだ。
「小言なら、べつの日にしてくれ」
 竜は、静かに絶え間なく稲妻を浴びせかけてくる政の気配に、目を逸らし、脇をすり抜けた。
 舌打ちをして、追いかけてくる。いつにも増してぴたりと並んで歩くのに、竜はすこしばかり笑い、そして、ため息を漏らした。

 久しぶりの大物は、狂っていた。いくつもの悪党を屠ってきたが、闘いの最中に笑みを泛かべるような人間は、初めてだった。しかも舞台衣裳のような派手な着物に、顔は白く塗られ、鬼のような目張りを入れていた。
 妙な気の疲れが強い。薙刀の衝撃波じみた刃風が、耳朶にまだ残る。
 無意識にそこを揉んで、振り返った。ぴしゃりと強い音を立て、政が戸を閉めたのだ。目も合わせぬうちに、政はすばやく雨戸も閉めた。竜は蝋燭に火を灯しながら、このところ見なかった政の怒りにいたたまれない気分になり、逃げるように箪笥の前へ行った。ほんとうは少しの間、座ってひと息つきたかったのだが。
 仕方なく抽斗《ひきだし》から紫の紐を出し、重い髪を緩くまとめる。帯を解き、濃紫色の単衣に着替え、それから酒の準備に立ち上がった。
 政はとっくにいつもの袢纏に着替えを終えていて、竜の動きを見張るように、壁に背をつけ、腕を膝にかけて座っている。
 酒をなみなみと入れた銚子を長火鉢に落とし入れ、竜が向かいに座った。
「生きて帰ってこれたんだ。そんなに怒るなよ」
 火箸で炭を突き、すこし笑って、政を見た。政は目を逸らし、批難がましいため息を鋭く吐き出した。
 竜がじっと見ていると、その顔は、張り詰めたものから、疲れたものに変わる。
「そうだけどよ」
 呟いて、片膝を抱き寄せた。
 つと、親指の爪で唇をなぞる。その政の眼に、蝋燭のゆらめきが映り込んでいて、竜はいざって、傍に行った。
 政の腕は、自然と迎えるようにして、その肩を抱き寄せる。ゆったりと、しかし強く胸に抱いたあと、そっと隙間を作り、俯き、白い耳を包むように手を置いた。
 政のくちびるに、竜の紅が、わずかにうつる。
 それを親指で拭いとって、竜はほのかに笑う。見下ろしてくる間近の眸は揺れていて、不安の気配が、より濃厚になった。
 竜はつきんと痛む胸を政の胸に押しつける。でえじょうぶだよと、声にする。
 だが政の肩の強ばりは、和らがない。
「なんてツラだ」
 眉間に刻まれた皺を、指でほぐそうとする。政が笑って、はねのける。やっと見ることができた口角のくぼみに竜が視線を置いていると、政はそのこめかみを包みこみ、引き寄せるようにして、またくちづけた。
 紅が――竜は頭の片隅で呟く。けれど、思いと裏腹に、自分も政に、顔を寄せている。
 深く至って、息が苦しくなってくる。政の薄いくちびるが、慈しむように竜のそれを食む。触れあう舌に意識の端がぼうっと溶けてきて、遠くで水の音がする。
 政のゆらぎの原因はわかっている。自分が佃島で死にかけ、その後一〇年、姿をくらましていた。あれから、政は自分が消える可能性に、敏感になってしまっている。それが双方の胸に鋭い痛みを与えるのだが、しかし竜は、心根に、甘いものが潜むことを、否定ができない。
 昔はずっと、一方的に、懸想してしまったと思っていた。だが、どうやら、政もさほど変わらぬころから、自分のことを気にしていたのを知った。はじめは子どもを見る庇護欲のような認識だったらしいが、きっかけが訪れたその瞬間に、違うと自覚したらしい。つまり政は、竜を抱けてしまった。
 そのとき竜はひどく混乱したが、いちばん愕いていたのは、おそらく政だった。可憐な娘にはすぐほだされる、男色などつゆほど可能性を知らない、男だったのに。
 竜にとっては、あのときが初めての、本物の成就だ。見かけでどうも勘違いをされるのだが、昔、郷で誓い合った女はたしかに初恋でありながら、幼なじみの許嫁みたいなもので、その後は政、ひとりきりである。そして後にも先にも、身を焦がすほどの恋の相手となったのが、政である。
 その政が、自分の喪失の危機に、これほどまで憂鬱になる。想いを確認し、ずっと添ってきても、政の強い執着を見るたびに、竜はえも言われぬ甘美な切なさに、密かに胸が満たされる。
 竜は傾きかける意識のなかで、政の胸に手を置く。そのまま背にまわそうとして、そこで止めた。長くあわさったままのくちびるを、どうにか離し、短く息をつく。
「――あったまったかな」
 上等の御神酒を温めているのだ。名残惜しかったが、政の腕から抜け出して、火鉢に寄った。
 銚子を持ってくると、政がぼんやりとした目を上げた。それから深々とため息を吐いて、薄く紅のうつった唇を拭い、猪口を受け取った。
「しばらく、のんびりしようぜ。それに、そろそろ旅の時期だ」
 竜が酒を注いでやりながら言うと、政が不機嫌そうにそれを呷った。竜は上目でちらと見て、笑って手酌する。
 ふいに身震いが起きかけた。まだ身体中に、ひりひりとしたものが走っている。
 よほど同情するときには安請け合いもするが、いまは大仕事以外、若い者にまわすようにしている。今夜は典膳という化け物が相手だったから自分たちが呼ばれたのだ。だがそういう機会も、さほどない。
 そもそも主水は、竜が復帰することを快く思っていなかった。いちど入った道、抜けられるはずもないけれど、だが奇跡的に助かった命だ。大事にしろよ。――再会した日、そういうことを言っていた。つまり二度とこの稼業に戻るなということだ。もっとも、口ぶりはさらに可愛げがなく、酷かったが。
 しかし実際に、彼の言うとおりだった。この修羅の道からは、逃れられない。竜は町に出るようになってから、また厭なものを見るようになった。結局、主水とも関わることになり、稼業から退いていた政も、竜とともに、ふたたび闇に肩を浸すようになった。
 屠っても、屠っても、悪人は湧いてくる。自分たちが、呼び覚ましているのではないかと錯覚するほどだ。
 あれから三年が経とうとしている。すこしずつ、竜は生活を取り戻していた。政と一緒にいても、慎重にした。変わったのは彼の傍にいるというだけで、気配を消し、なるべく人目につかないようにした。紐を作っても、売らなかった。政が言うので、組紐問屋の主人のところには、そっと顔を見せにいった。それも一年経ってからだ。
 隠居した老人は、目に涙を浮かべて竜を出迎えた。思わず竜のほうも、目の奥を熱くした。ずいぶんと頼まれて、きわめて無個性な組紐に限り、ようやく少量、卸すようになった。それも出向くのではなく、御店者がこっそりと受け取りにくるという、特別待遇だ。
 金にはもう未練がない。高値で買ってもらっていることもあるが、困窮していないし、豊かさを追求する楽しみにもさほど興味がない。そうというよりも、一〇年の逃亡生活で極限まで贅を削ぎ落とし、郷のような質素に慣れ、代わりに手に入れた政との生活のおかげで、何にもこだわらないで済んでいる。まるで、生涯の伴侶を得て、落ち着いてしまったというわけだ。
 竜は思わず、苦い笑みを頬に走らせた。
 色恋など、御法度だった。あの頃、うるさいくらいに、政とも言い合ったくせに。
 けれど、命のやりとりをするとき、この情こそが、その命を助くこともあるのだと知った。魂の結びつきは、ともに生きるための力点になる。こうしてあと二年で齢四〇を目前にして、生きながらえてしまったのも、政がいたからだ。もう駄目だと思うその瞬間、底力が湧いてくるのは、その顔が泛かぶからだ。あの旗本屋敷で地獄を生き抜いたのも、ただいちどでいい、政に逢いたいという想いのためだった。ついさっき典膳に首を飛ばされかけた、そのときも。
 おれは、政の腕のなかで死ぬ。政に殺されて死ぬと、決めている――。
「おい。何笑ってやがる」
 政が眉間に皺を刻んでいる。首をなくしかけた奴が不謹慎だと言いたそうな顔だ。
 竜は、深々と息を吐いた。
「おめえのこと考えてたんだよ」
 ぶっきらぼうに言って、笑って酒を飲む。政が嗤われたと思って、なんだと? と睨んだ。
 竜はもういちど、手酌で酒を呷った。そして、ちらりと上目で見た。
「おめえのことしか、考えてねえんだよ」
 政が唇を閉じた。引き結ばれて、目の奥に光が宿った。
 闘いの余韻が、いまも腹の奥底で揺らめいている。命を削るあの瞬間に熾る火は、わかりやすく軀に、燃え移る。
 竜は猪口を置いて、政から目を外した。落ちてくる横髪に手をやって、ある諦めに目を伏せた。不気味な男を相手にした。今夜は、酒で身を清めて、すぐに眠ろうと思っていた。けれど、前後を忘れるほどに骨の髄まで燃やし尽くされて、ほとんど永遠と言いたくなるような眠りを、味わいたくなった。
 政は膝に肘をかけたまま、じっと竜を見ている。
 身にまとう気が、ふたりより先にじわりと手を伸ばし、結びつく。
 竜がそっと畳に両手をついて、二歩、膝で近づいた。政はあえて、手を出さぬ雰囲気があった。顔に影が落ちてから、上向いて、竜の目を見た。
 竜は、政の顔の脇に、右手をついた。冷えた感触に、自分が熱いことを知る。
 目を細め、触れる間際まで、顔を近づける。
 吐息が触れ合った。
 静かに呼吸をするいまだ紅いくちびるに、半分伏せられた政の目は落ちている。
 政の腕が上がった。抱かれると予感した肌がにわかに収縮した瞬間、背中に予想外の、重みが広がった。
 竜が目を開いた。
 政の手が、髪の紐を解いたのだ。
 怒っていたくせに、と思った。だからだろう、とも思った。
 なんとなく、そんなこともわかるようになった自分に、竜はもう、まっすぐに、政を見ることができなくなった。
「あ――」
 思わぬ声が出た。政が腰を掴み、引き寄せた。政の脚にまたがり、絡め取られてしまった。この長屋で声を出すことはできない。不覚にも、こんなことで漏らしてしまったことがいたたまれずに、竜は唇をそっと噛む。
 政は、反った竜の腰を、その線を味わうようにゆっくりと撫でた。それだけで竜は息をあげて、政の肩に顔を伏せた。
 肌はすぐに濡れはじめ、竜は時折、喉の奥でか細く鳴いて、大きな吐息で衝動を逃がした。政の舌先が耳孔に忍びこめば、目尻に涙を滲ませて肩を竦めた。蝋燭の火を消さなかった、と竜は思った。だが、政にこの姿を見られることを、ひどくつらいと思いながら、打ち震えるほどに昂ぶった。生きて彼の腕のなかにいることを、それも究極のかたち――命の実感を分けあう姿を、見せられる。何より、この姿で政が熱を上げてくれるなら、それに勝る悦びはない。
 政の手は、大胆に這った。竜の鎖骨のくぼみを、腕の筋を、背中を、臀を、腿を、すべての曲線を掌握するように動いた。肘と腰にまつわりついた着物をそのままに、竜がうねるその衣擦れの音さえ、聞き確かめるようだ。もの悲しげともいえる顔で目を伏せ、首をふり、そんな竜に合わせて、政も顔を向け、指で髪を梳き、頬にくちづけた。
 長い髪が張り付く肌を、それをよけるふりで撫でられ、弾かれる。竜はそのたびに、怯えたように震えて、どこか悔しげに、やんわりと唇を噛む。
 政が油を取った。
 竜は深い呼吸で、政を受け容れた。密着する肌の熱さを感じながら、腹のなかに、彼が馴染むまで、早まらないように堪えた。政も同じように、堪えていた。互いの脈動がひとつになるのをじっと待ち、竜の呼吸がなめらかになるまで、肩に抱き締めて、頬に唇を寄せていた。
 こんなときでも、政は優しかった。こんなときだから、なお優しい。傷つけないように、息を潜めて、耐えている。
 微動だにしないうちに、ふいに竜のくちびるが、痙攣した。呼吸が荒くなり、気がゆっくりと、剥落した。
 軀を、いくつかの青い光が、抜けていった。
 首を反り、きつく眉根を寄せたのが、政の目に映りこんでいた。じわりと髪の生え際に汗を光らせ、痙攣が全身に広がって、竜がいちど、跳ねた。
 目尻から、涙が絞りだされた。
 政がそれを見守っているのがわかった。白い意識のなかで、涙の膜が張られた隙間から、揺れる目が見えた。泣きそうに見えた。たまにする、政の顔だった。しかしいまは、かすかなほの昏ささえ漂わせ、観察者に徹していた。そのせいで、竜は肌をちりちりと焼かれるように感じて、思わず抑制し、かえって反撥する心に、身もだえる。
 竜の息がすべて吐き出されると、政がゆるく律動を始めた。おさえながらも、竜がすすり泣く場所を探り、それを変化する竜の貌で確かめているのが伝わった。
 ふたりの鼓動は徐々に高まってゆく。耳がそれに満たされて、竜は自分たちの区別がつかなくなることに、意識を向けきった。下唇を噛みしめて、政はきつい溝を眉間に刻みつけ、どうにか声を堪えながら、あがり、さがって、また、あがる。
 頭が熱いものに包まれている。政は髪に手を差し入れて、地肌を指先で味わっている。髪を下ろしているときに、政は好んでそうするのを、竜は思い出していた。口のなかを探られて、腹のなかを探られて、髪のなかを探られて、それが脳さえ愛撫して、すべての器官が、政によって、くまなく調べ尽くされてゆくようだ。内側にある空白に、熱湯が注ぎこまれる。竜はそれで、己の空白を知る。乾ききっている場所を、知る。
 蝋燭に照らされた政の顔は、薄い暗がりでもわかるほど、健やかな色だ。それをわかりたくて、竜はその頬に手をやった。
 剛直な睫毛、深い赤褐色の眼、すっと真一文字にひかれた唇。汗で張り付く前髪をよけながら、自分の白い指が彼の肌を撫でるのを見て、なぜこうも違うのだろうと思った。こんなに好いているのに、なぜ彼と、こうも肉が違うのか。目が合うと、政がふと笑んで、竜の胸に顔を埋めた。悲鳴を上げそうになる竜は、背を反らせながら、人差し指の関節を咥えて、息を切らす。
 きらりと闇に浮かんだ政の白目の残像が、瞼に焼きついていた。見上げた空にかかる、日の輪に見えた。
 あがって、さがる。際限がなさそうだ。眉間の中央を突き抜ける。こういう快は、政に教わった。自分は終わりのない輪に、取り込まれているのではないか。
 けれど、燃え尽きたい。いつか骨の髄まで焼き尽くされて、無になりたい。
 政が喉の奥で、低い声を漏らした。竜の意識が、飛びはじめる。
 政の腕のなかで死ぬのは、いい。なんどでも、息絶えよう。


     *


 水を打つ音で、目が覚めた。
 天を向いたまま、まどろんでいると、男の朗らかな挨拶が聞こえた。
「竜さん、来てるかい」
「ん、あいつなら、二日酔いで寝てるよ」
 誰が二日酔いだ、と思いながら、竜はゆっくりと覚醒を続ける。
「二日酔いじゃあ、起こしたら可哀想だ。大丈夫かな。約束があんだけど」
 水が地を叩く音が合間に入り、政のちいさい笑い声がする。
 そこで竜は、肘をつき、半身を起こした。たしかに与吉との約束があった。何時かと訊こうと思ったが、まさかこの格好で、出るわけにもいかない。
「昼には起きるだろ。だめなら、俺が起こすよ」
 ふたりの会話は、なにが可笑しいのか終始笑いに満ちていた。竜はつられそうになりながら、ふと思う。この世は、自分たちの仕事など、なにもなかったように動いている。典膳がこの世から消えようが、何事も変わらない。けれど、きっと、誰かが泣かずに済むはずだ。……
 褞袍《どてら》から身を起こし、寒気に肩を竦めつつ、隅に追いやられていた単衣を羽織り、帯を巻いた。気怠い身体を引きずって、帳箪笥から予備の紐をとり、咥え、鏡の前に両膝をつく。
 髪をくしけずり、紐を手に持ち替え、まとめた髪をぐるりと括る。そのときだけはすこし真剣な眼差だったが、ほっと息をついた鏡のなかの自分が、うすく微笑していることに気がついて、竜は思わず、目を逸らした。
 この部屋に鏡と櫛を置いたのは、自分だ。
 みっともない髪で出ていけば、露骨に気取られる。声をおさえている意味もない。もっとも、この長屋では自分たちの関係が、噂になっていることも知ってはいる。妻のない男がふたり、頻繁に会っていれば無理もない。
 けれど、なぜかここの住人たちは温かかった。静かに政のもとに現れ、静かに去ってゆく。そういう竜を、内緒事を共有するように、見守ってくれている。もちろん、彼らに竜の事情は知られてはいない。訪われる側の政が、よほど好かれているということだろう。
 竜は臀の下で立てていたつま先に力を入れて、中腰になる。腰の奥に、痛みにも似た甘い余韻が揺らめいた。政は無茶はしないが、竜を果てさせることには容赦がない。ふいに掠める昨夜の記憶の破片に、竜はいちど目を閉じて、軽く拳を握り、切ない吐息を漏らした。
 連子窓から入り込む陽光が、瞼を透かして赤い。いつまでも浸っていたいが、きりがないと、目を開く。
 部屋には浅草紙ひとつ転がっていない。竜が目を覚ますまえに、すべてを片付け、きれいにしたのだろう。心なしか身もさっぱりしている。起こさぬように気を遣いながら、清めてくれたのだ。
 髪結を、頼まなければ。湯屋にも行こう。考えていると、階下に気配を感じた。
 覗くと、政が戸から見上げていた。
「大丈夫か」
 竜は顔を引っ込め、ああ、と呟いた。
「飯にしようぜ」
 政は、すこし笑ってそう言って、また外へ戻ったようだった。
 ばしゃん、と桶の残り水がぶちまけられる音がした。
 褞袍を抱えて、物干しに出した。日差しは温かいが、肌を撫でる風に冷たさが混じっている。遠くに見える木々は、ほのかに葉の色を変えはじめている。中へ戻り、蒲団を畳む。ふわりと香る政のにおい。木の実のようなにおいと、丁子油の混ざったにおい。竜はゆっくりと、梯子を降りる。
 鉢合わせるように、政が頭を低くして部屋に入った。へっついの前に行き、鍋の蓋を開けて窺っている。味噌を入れようとしているのを見かねて、竜が押しのけた。政が作るものは味が濃い。とくに夜の仕事の翌日はなおさらだ。疲れ切っているいまの身にはそれもいいが、せめて普段の程度がちょうどいい。
 政はわざとらしく舌打ちをして、竜に明け渡すと、茶を淹れた。
 互いの間に、なにも言わないことを味わう沈黙が、流れている。
 竜が振り返ると、政は腰を捻り、畳から紫の紐を拾い上げていた。夕べ、はずされた紐だ。その横顔を見るとなにやら軀の奥に兆すものがあるが、竜は顔を戻し、打ち消すように瞬きをした。
「与吉さん、紐作り、上手いのか」
「どうかな。けど、心がこもってる。それでいいんじゃねえのかな」
 納得したように、政が黙り、茶を啜った。竜がまた振り向く。
「おめえ、言うなよ。おさよちゃんに問い詰められたら、すぐ口を割りそうだ」
「何度も言わなくたって、わかってるよ。しつっけえな」
 りんりんと、鈴の音が近づいてきた。
「まーさーさん」
 子どもの声が割り込んだ。戸に映ったちいさな影が、ほとほとと叩いている。
「おう、佐吉。おはよう。もう飯は食ったのか?」
「うん。あ、りゅうさん!」
 戸を開けてしゃがんだ政の脇から、佐吉が顔を見せる。竜が微笑み返して、おはよう、と言う。佐吉は遊び相手がふたり揃っていることに歓喜を隠せない。そしていつもその偶然を心待ちにして、すぐに部屋のなかを覗くのだった。
「きょうは頭、ちがうの?」
「ああ。結い直してもらうんだ」
「りゅうさんは、とっても、たいへんだね。あんね、お母ちゃんがね、怒ってんだ。お父ちゃんが帰りが遅くて、太郎のめんどうを見ないんだって」
 佐吉の訴えに竜は軽く息を吸い、鍋に目を落としてから、戻した。
「よし。じゃ、話を聞いてやらなきゃな」
 にこりと笑う竜に、佐吉は両手を突っ張るようにして喜ぶ。いますぐに引っ張っていきたいという気持ちが、つま先立ちに表れている。
「飯を食ってから行くよ。いまはお母ちゃんも、忙しいときだ」
 一瞬がっかりした顔を見せたが、すぐに大きく頷いて、足音と鈴の音を立てながら、佐吉は走り、帰っていった。
 佐吉の鈴は、竜がやったものだ。家に遊びに来た佐吉が目を輝かせたので、大ぶりの金の鈴を持ち帰らせた。それをおさよが守り袋につけてやっている。
「俺には用事がねえんだな」
 政が笑いながら立ち上がり、上がり框に戻った。
 手のなかに握り込んでいた紐を、眺めて言う。
「竜さんは、とっても、たいへんだと。子どもにもわかんだな」
「何が言いてえんだ?」
 べつに、と政は肩を竦める。竜は呆れ半分、苛立たしげに肩を揺らして、椀に汁物を注いだ。つり上がった目尻はすぐに和らぎ、唇には自嘲のような笑みが滲み出る。
 ちいさな卓袱台を囲い、ふたりは朝餉を食べる。きのこの味噌汁に飯、たくあんだ。政が早くから起きて支度をしてくれていたから、炊きたての飯が美味かった。
「与吉さんの紐、進んでるのか」
 しばらく黙って食べていたところに、政が言って、飯を口に運んだ。
「ああ。なかなかの早さだから、あと半月もすりゃあ、できるだろう」
 ふうん、と言いながら、汁を掻きこむ。
「おめえがやったら、どんくらいのもんなんだ」
「ま、三、四日ってとこだ」
 政がやや愕いて、口許を手の甲で拭う。
「ずいぶん違えんだな」
「仕方ねえよ、限られたときにしかできねえんだ」
「まあな」
 もくもくと食い進める政を向かいに見ながら、竜は考える。政の前髪が、長くなってきた。夕べも胸に抱きながら、思ったのだった。放っておくと適当に切って不格好になるから、あとで整えてもらうように髪結いに頼んでおこう。
 政が炉に火を入れて仕事を始めると、竜は急ぎ足で近くの湯屋に行った。ほとんど、近所の男たちしか出入りがない。何せ江戸に六〇〇もある湯屋だ。各々通い放題の羽書も持っているから、わざわざ遠くの湯に行くこともない。
 それでも竜は、日になんども来る汗かきの職人たちが集まる時間帯を避けて、湯に入る。ほんとうはゆったり浸かるのが嫌いではないのだが、そうもいかず、烏の行水だ。九十九の郷にいた頃や、隠れていたときは、近くの秘湯でのんびりもできた。たまにそれが、恋しくなる。
 紐でゆるく髪をまとめ上げ、手ぬぐいで背中の疵痕を隠し、それが死角になるような場所で、身体を流す。いつも縁に背を向けて浴槽に浸かり、そこに入るための柘榴口から、誰が来るのかを見る。
 長屋の住人には、話しかけられれば応える。自分からは会釈をする程度だ。ほんのりと暗いここでは、竜の白肌はより目立つ。慣れてはいるが、どうしてもまんじりと見られることもあり、いまも好奇心を隠せぬ若衆の目から逃れるように、竜は肩まで湯に沈みこんだ。
 助かるのは、こうして顔を合わせても、長屋の男たちは、ぺらぺらとよそ者には喋らない。もっとも長屋のなかでは、筒抜けではあるのだが。
 おさよが言うには、竜が長屋の隅に部屋を借りるとき、たったひとこと、あいつのことは、そっとしてやっといてくれねえか、と政が言っただけだと言う。けれども、よく「変な虫がつくと困っちゃうもんね」と、男にも女にも付け加えられるところを見ると、変なのに好かれてしまうから、人には黙っておいてくれと言ったようにしか思えない。――たしかに、間違っちゃいねえが。竜は、湯を頬のあたりまでかけながら、苦く笑う。
 裏の仕事のためだけではない。結局、十三年経っても、あの旗本屋敷でのことが、尾を引きずっている。あの旗本は死んだと聞いた。けれど、もう面倒事は御免だ。迂闊に動いて、余計なものを引き寄せたくはない。政との生活を、壊したくない。絶対にだ。
 闘いの疲れ、そして政と抱き合ったことの疲れが湯に溶け出した頃合いを見て、立ち上がった。素知らぬ顔で鼻歌を歌っていた若衆に会釈し、柘榴口をくぐる。
 手ぬぐいで髪を挟みながら、竜は考える。時折、自分は、弱くなったのではないかと思う。憧れていた生活とは、すこし違う。ふつうの人のように、ふつうに暮らしたい。誰から隠れるわけでもなく、好きなときに、好きなようにどこへでも行きたい。弘い空の下に、出たい。だから郷を飛びだしたのだ。けれど、いまが不幸だとは思わない。欲しかったのは、自由だけではなかったからだ。同じくらいに、ほんとうの情が、欲しかった。
 そんなことを知ったのも、政と出逢ってからだ。それまではただひたすらに、自由に憧れている己だけしか、自覚できなかった。竜は単衣を羽織り、その手を止めて、腕に爪を立てる。手に入れたら、強くなれるような気がしていた。けれど、欲しいものは、際限がない。自由ではない。政を手に入れても、まだ、政が欲しい。

     *

 行き交う住人と会釈をしながら長屋に戻り、政の家に戻ると、またも佐吉が来ていた。とんかんと鉄を叩く政の横に、ちょこんと座り、あぶねえから手を出すなよと念押しされながら、手元を覗いている。ほとんど気配を消すようにしているから、佐吉は竜に気づかない。
 暦は白露、秋分を待つ季節になったが、腹掛から見える政の焼けた肌は、流れる汗に光っている。子どもを脇に置いて、仕事をする。歳も歳だ。親子に見える。稼業のことはともかく、彼に家庭を持たせてやれなかった。竜はこういうときに、たまに思う。
「佐吉」
 ふいに呼びかけられて、佐吉は勢いよく振り返る。りゅうさんと叫んで、飛びついてくる。政がちらっと顔を向け、おかえりと呟いた。脚に抱きついて見上げてくる佐吉の頭を撫で、竜は柔らかく微笑む。
「頭、結いなおしたんだね」
「ああ。これからお母ちゃんのとこ、行ってくるよ」
「りゅうさんって、いきだね。いきだ、いきだ」
「そうかい。ありがとよ。――聞いたか政。子どもは、よくわかってんな」
 振り返りもしない政が、手を休めずに声を張る。
「子どもたちで粋って言葉が流行ってんだ。なんでもかんでも言いたい年頃だ」
 竜は笑みを深めて、佐吉に語りかける。
「いいか、ああいう大人にだけはなるんじゃねえぞ。素直なのが、良い子だ」
「でも、りゅうさんは、まささんのこと、きらいじゃないよね?」
 これには声を詰まらせて、瞬きをした竜だった。佐吉は素直そのものの、澄みきった潤んだ目で答えを待っている。政が笑いを堪えている気配だ。
「――こんな唐変木、でぇきれえだ」
 どうしてー! という佐吉の叫びを聞きながら、竜は踵を返した。
 日向臭い佐吉の残り香に、身体中の力を引き抜かれた心地で、長屋を歩く。まったく子どもの偽りのなさは、恐ろしい。素朴な道理を喉頸に突き出してくる。竜は結い直した髱《たぼ》をちょっと触れて、眉を下げて苦笑い、角を曲がった。
 馴染みの廻髪結は、大店や屋敷を巡って仕事をしている。竜は彼にも特別を頼んで、剃刀や鋏を研ぎに来るのを理由に政の家に来てもらっている。だが今日は呼びに行ったついでに、思い直して男の家で済ませてしまった。あまり髪を下ろして出歩いても、政が機嫌を崩しそうで得をすることもない。あとで政の髪も、整えてもらうように頼んでおいた。政はいつまでも照れくさがって、嫌がるのだが。
 しかし政は、竜のいない間に、伸びすぎた髪を結っていたこともあるそうだ。竜にはいまいち、想像がしにくい。
「おや竜さん、おはよう。今日はまた一段と艶やかだねえ」
「おそめさんこそ、烏の濡れ羽色の髪が見事だよ」
「やあだよ、竜さんなんかに言われたら、その気になっちまうよ」
 井戸端で洗濯を始めた女たちが、いっせいに声をあげて笑いだす。竜はちいさく歯を見せ、鬢にかかるほつれ髪を揺らして、歩いてゆく。
 竜は、髪結いの男の手早い仕事が気に入っていた。なによりすぐに癖を把握してくれたのが、助かっていた。男はそれを利用して、色好く崩し気味に作ってくれる。政は己を棚に上げ、もっとぴしっとしたほうがいいんじゃねえかと小言を言ったが、男は意に介さず、竜にはこれが似合うのだと、やや怠惰に結い上げる。それで三日経っても崩れないのだから、竜ははじめてのときに感動を覚えたほどだった。男の腕には入れ墨があった。痴情のもつれで女を手に掛けたと噂がある、やや陰の色気が匂い立つ男だ。町の髪結に行きたがらない竜を詮索することなく、政の家に来ることを承諾してくれた。市井の髪結処は、噂を楽しむ場でもあり、目明かしが多い。役人の目も行き届く。
 戸を叩くと、おさよが出てきた。竜を見上げて、輝く眸を隠さない。
「佐吉から聞いたよ。与吉さんのことで、また怒ってんだって」
「そうよ、聞いてよ、竜さん。あの人、近ごろ仕入れとか付き合いとかなんとかで、毎晩のように帰りが遅いのよ。中売りがそんなに、付き合いあるかしら」
 与吉は、芝居小屋三座の中売りをしている。芝居の合間に編笠餅を売ってまわるのだ。竜のところで内緒で紐を作りはじめて、帰りが遅い。それにおさよが腹を立てているらしい。
「あがって。いまお茶を淹れるから」
 返事を待たずに、おさよが框を駆け上がる。竜が外や戸口での立ち話を、あまり好かないのを知っているからだ。
 おさよは、よく与吉の小言を言った。それがいちばんの楽しみと言わんばかりに、井戸端でも話している。どうでもいいことばかりで、与吉の抜けっぷりを講談のように語るから、誰もが心地良い耳の友にしている節がある。その小言の終いに、ああ、竜さんに聞いてもらいたい、そう付け加えると、五歳になる佐吉が心得たとばかり、竜を呼びにくるのだった。
 竜が畳に膝を下ろすと、ちいさな綿入れ袢纏に寝ている赤ん坊が、顔をゆがめて、涙を兆した。まだ一歳にもなっていない小太郎だ。父の与吉にも、兄の佐吉にもよく似て、鼻がぺしゃんこだ。竜が腰を屈めてそれをつつくと、わっと泣き出した。
「ああ、はいはい、はいはい」
 おさよが慌ただしく抱きかかえ、臀のあたりを叩いてあやす。窯の上の連子窓から差しこむ午時の光に、うなじにほつれた髪がやわらかく照らされて揺れている。抱かれた小太郎は、母の気を一身に集めようとするように、さらに烈しく泣く。いよいよ痙攣じみてきて、赤子を育てたことのない竜は、ちょっとはらはらするくらいだ。
「こんなに帰りが遅い日が続くなんて、まさか、あの人、妾でもつくってるんじゃないかしら」
 目尻をつり上げたおさよに、竜の眉が緩まる。
「そんなことができる人じゃねえってことは、おさよちゃんが、いちばんわかってんじゃねえか」
「――そうだけど」
「もしそうなら、とっくに、ここのみんなにばれてるさ」
「竜さんは、ずいぶんあの人の肩を持つのね」
 短絡なそれに、竜は吹き出しそうになる。しかし、じっと丸い目で見つめられ、口角を引き締める。
「あの人、竜さんにはなにか話してるのね?」
 女の勘というやつだ。子どもの素直さと同じくらい、恐ろしい。竜は息を吐き、茶を飲んだ。
「中売りも、いろいろ大変なんだよ。男にはな、仕事のことじゃ、女に言えねえこともあんだ。察してやんな」
 卑怯とは思いつつも、女の能力には、こちらも男の世という常套句を持ち出すしかない。くいと左の口角を上げて、微笑みかける。
 おさよは頬を膨らます。畳にのの字でも書き出しそうな雰囲気だ。竜を前にすると、政のときとは違う媚が出る。政にはおかみさんらしく振る舞いたがり、竜には乙女のように振る舞いたがる。もちろんそこには、色の気配はないから、竜は微笑ましい心持ちになる。旦那の与吉は、まったく俺への態度とえらい違いだと、毎度困った笑みで繰り返す。
 話が変わり、町の噂や、竜がいなかったころの政の話を織り交ぜて、おさよは明るく語った。知らぬ間に小太郎は眠っていて、うぶ毛のような髪を時折そよがせ、竜の目を和ませる。竜はただ黙って頷き、茶を飲み、茶請けの饅頭をちいさく囓る。それだけでおさよはどんどん満ち足りた笑顔になり、いつものように、こんなにきれいな人とお茶ができるなんて夢みたい、と付け加えて竜を笑わせるのだ。
 いまは誰かに付き合うことがほとんどない竜だが、おさよだけは、こうして家にあがって話を聞いてやる。三年前のあの日、政と結びつけてくれた、恩人だからだ。だから旦那の与吉も、例外だ。
「あたしは幸せもんね」
 ね、と小太郎に語りかける。そうして彼女が決まったしめくくりの一言を呟いたから、竜はそろそろ頃合いかと、湯飲みを置いた。すっかり肩から力を抜いて、遠くを見るように微笑むその顔は、竜にとっても、日常のひとつの楽しみだった。
「ただいま」
 戸が開いて、与吉が入って来た。おかえりと、おさよが細い首を伸ばす。
「竜さん、またおさよの長話に付き合ってくれたのかい。わりいなあ。――おおい、小太郎、小太郎。おとっつぁんだよ」
 おさよの腕から小太郎を抱き上げる与吉に、せっかく寝てるのにと唇を尖らせながら、おさよは上機嫌を隠せない。
「じゃ、おれは、そろそろ」
「ええ、もう?」
 どうしてもこのやりとりなしには済まない、おさよと竜だ。
 夕七つから始まる芝居のために、与吉はもういちど出て行かなければならない。正真正銘、仕入れもあるが、その合間にも、竜の家で紐を組むのだ。竜は与吉の満面の笑みに頷くようにして、おさよの家を後にした。


     *


 政は、頬を刺す風に、氷のつぶてが混じるようだと、竜に囁いた。
 竜はそれに同意するように、わずかに紅みを帯びた頬を政に向けた。
 宿に着いて部屋に通されると、竜はすぐに欠伸を噛み殺した。政は笑いたい気持ちをおさえて、障子を開けた。昨晩の眠りが浅かったのは、わかっている。
「もうばてたのかよ」
 独り言のような政に、わかっていることをわかっている竜は、何も返さない。
 脚を止めると、途端に暑くなる。火照った頬を風にさらすように、政は窓枠に手をつき、顔を出す。うしろでは、竜が行李を下ろし、正座になって、茶を飲み始める気配がした。
 時節は、午と夕が同じ分になっていた。まだ空は明るく、ぽつぽつと杖を持った女の頭や笠が見える。これから到着する客も増えてくるのだろう。
 恒例になりそうなこの旅は、目的に期限がないから、ふたりの脚をゆったりさせる。彼方にそびえる富士のほうを目指しながら、それぞれの場所で名物をしっかり味わう余裕もある。典膳一味の仕置料も、ひとり七両というまあまあな大金で、政も竜も、どこか使えるだけ使ってやろうという、妙な意地さえ窺えた。
 そうはいっても、かなりの健脚だ。長年の稼業の悲しい性も相まって、きちんと歩けば、他の男たちよりも進んでしまう。江戸を出てから初日、旅籠の多い戸塚宿の手前、保土ケ谷で腰を落ち着けて、次に旅籠に入ったのは箱根の入り口、湯本だった。ふたりはここから、のんびりすることにした。
 手ぬぐいを片手に階下に降りて、客が増えないうちにと風呂に入った。楽しみにしていた箱根七湯、将軍献上湯のひとつである。政はさりげなく竜の背の疵痕を隠す場所をとり、むしろ本音ではぜんぶを隠してしまいたいので、広い背中で人の目を遮った。気づいている竜は、知らぬ顔で左肩や腕を揉んだりして、目をどこかへ向けている。
 あがってから、微妙に硫黄くさいことに政は肩口に鼻を寄せていた。部屋に食事を運んできた飯盛女は、美丈夫しかいないことにさっと頬を赤らめた。しかし商売の顔つきで、さっぱりとした言い方で床に誘ったのをふたりに断られると、女は交互に見やって、納得顔で立ちあがった。ふられた恨みもこもり、どこか蔑むような顔つきだ。
 政は頬を掻きながら、うんざり顔で竜と見合わせて苦笑う。男がふたりでいるからか、それとも自分たちが、どうしてもそう見えるのか。
「ま、これはこれで、楽でいいけどよ」
 しつこい誘いの絶えないふたりだ。政は膳に向きなおし、箸をとって勢いよく食いはじめた。言外を汲み取っている竜も、そうだなと同意して、茶碗を持った。運悪く狭い旅籠にでも入った日には、下手をすれば、隣室の客まで障子を開けて覗いてくる始末だ。自分の図体がでかいのもあるだろうが、こいつの見てくれのせいだと、竜にすべての責任を押しつけている政である。
「おさよの奴、今年も見送りに、あの紐をしてんだからな。よほど気に入ってんだ」
 夜明け前に出立するというのに、おさよはわざわざ与吉とともに、ふたりを見送りに出た。そして初めて会ったときに竜から貰った五色の紐で髪を飾り、いってらっしゃいとかちかち切り火をしてくれた。町に出かけるときは、かならずといっていいほどその紐で髪を結っていて、母が残した四色の紐――かつて竜が作った紐とともに、大事なときに、身につけてくれている。
「つくづく、おめえが来てから、俺の扱いが雑になったよ。すっかり骨抜きにされちまって」
「おめえが娘心のひとつもわかってやれねえんじゃ、しょうがねえ」
 んだと? と政は睨みつける。竜は笑った頬を隠しもせず、しかし目は茶碗を見るように、伏せられたままだ。政は、桃色としかいいようがない唇に飯が入っていくのを、さりげなく見る。
 その容姿に意識を向けるようになったのは、竜がいなくなってからだ。昔、役者の代わりにと推したからには色男であることは認めていたけれど、彼がいない間、思い出される記憶のなかの竜を見つめていると、いかに特殊にあつらえられた貌であるかをしみじみ痛感させられた。出逢ったときも、別れたときも、花の季節だった。思い出の桜のなかにいる竜の姿は、いまもふいに瞼をよぎり、政の胸を締めつける。
 その竜が――多少は想いが粉飾したものだと自覚はあるのだが、しかし、夢でも幻でもない、現《うつつ》の竜が、気配を消して人目につかないようにしていても、何かのきっかけで認識されてしまえば、女も男も刻が止まったようになる。興味がないという顔つきをするのは、いかにも益荒男ぶりといった屈強な男が好きな者くらいで、目を奪われた者たちは、好奇、色慾、羨望、妬心、あらゆる情のこもった視線を投げるのだ。
 仕事の相棒でしかなかった頃は、そういう視線が面倒事の火種になるのではと思うくらいだったが、いまは率直に、心地が悪い。いかんせん、修羅をくぐり抜けて、齢も三八だ。その貫禄と非凡さゆえに軽率には触れられぬ雰囲気はあるものの、常に張り詰めていたものが控えめになり、喋りも物腰もゆるやかになった。あれほど華奢だったのに、歩く後ろ姿の腰回りの豊かさなど、男ざかりに咲いた様は、震いつきたくなる風情なのである。
 その腰の手ざわりまでもを知っている政は、つとめて平然な顔をするよう心がけているが、本音では、竜のことを隠しておきたい。だがひとつだけ、長屋の連中に可愛がられているのを見るのだけは、悪くはなかった。堂々と表長屋で商売をやっていた頃では見られなかった、不思議な光景だ。
「与吉さん、ちゃんとやってるかな」
 竜が箸を置き、窓のほうを見て呟いた。外はすっかり陽が落ちて、富士は闇に熔けこんでいる。
「やっぱ心配だったんじゃねえか。そろそろ仕上がるんだろ。与吉さんが、おめえんちに入ってんのが怪しまれねえか、俺はそっちが気がかりだよ」
「大丈夫だよ。物取りが入らないように、ときたま覗くように頼んだって、おさよちゃんにも他のおかみさんたちにも言ってあんだ」
 与吉の紐は、もう一息というところだった。あとは大丈夫と背を押して、竜は旅に出た。万が一紐が歪んでしまったところで、最後であれば竜が直せるし、襷掛けに使うには、小柄なおさよには、もう十分だ。
「おさよ、知ったら泣いて喜ぶぜ」
 政が悪戯っぽく、鼻梁に皺を作った。竜はそれを見て、唇を弧にする。
 煮炊きをしている竜が紐を襷掛けにしているのを見て、与吉が、いいなあと言った。おさよが竜の紐を桐箱で箪笥にしまい、宝物にしているのは、もちろん与吉がよく知っている。毎日使うものが竜の紐であったなら、どれだけ喜ぶか。しかし竜の紐は、ふつうには売られていないし、高価だ。そこで竜は、やるよと言ったが、与吉は慌てて首を横に振り、安くするのはどうかと言えば、それじゃあ男の立つ瀬がないと、なおもはげしく首を振った。そこで、なら、自分で作ってみるか? と竜が申し出た。いつも世話になっている礼に、おれが教えるよ――と。
 手取り足取り教えるのは、他の男であれば不満もあるが、与吉であればべつだと納得している政である。おさよも、初対面で芝居や役者の話に興じていたことで、竜と与吉が特別に一緒にいても、納得できる道理があるらしい。悪友とまでは言わないが、すぐに竜を楯にして誤魔化すのだと、いつも嬉しそうに、文句を垂れる。
「けどよ、ほんとに優しいな、与吉さんは」
「ああ。おさよちゃんはいい亭主を持ったよ。おめえじゃなくて、よかったぜ」
「――竜。おめえな、どうしてそう、可愛げがねえんだ」
 政は、いからせた肩を即座に落とし、やれやれと言いたげに残りの茶を飲んだ。竜はかつて、おさよが政に惚れていたことを、完全に見抜いているようだった。
 茶のおかわりがほしくて、政が障子を開けた。階段を上ってくるいかにも小者風の男が、すれ違いざまに頭を低くした。
 いやな予感がして振り返ると、自分たちの部屋の前で跪いていた。男は竜に話しかけている。
「不躾かとは存じますが、うちの旦那が、どうしてもお話がしたいとのことで――」
 政は、とんとんと男の肩を叩いた。
「あいにく、こいつにはその気はねえよ」
 はっとした男が政を見て、さらに何かに気づいたように口を開け、ひれ伏した。
「しかし、どうしてもと――」
「わからねえかな」
 その目の押し殺された圧に、男は狼狽えて、頭を下げて立ち去った。見ると竜は、わずかに唇を斜めに巻きこみ、それから吐息で笑った。どんなときでも取り澄ましている竜だが、いまの政の一瞬の殺気には、さすがにこの顔だ。宥めるような気配もある。その意外が空白を与えて、政は少々ばつの悪い思いになった。
 茶を頼みに戻る政の足取りは、やや荒い。若い頃のように感情をむき出しにすることは少ないのだが、鍛錬のために入山する以外、あまり出歩くことのない竜なのに、たまに出かけてこういうことをされると、こらえているものも頭にのぼる。
 客は一通り把握している。さっきの男は宿に到着したときに、すこしあとから到着した連中のひとりだった。宿籠から降りてきた主人と思しき男が、竜をみとめて、ねっとりとした視線を向けていたのを、政は気づいていた。そういう男が好むのは、同じ箱根でも底倉だと思って避けたのに。底倉は、蔭間やその筋の者が、下《しも》の湯治にも通う名湯だ。
 竜が穏やかでいることに宥められた政は、新しい茶でひと息ついてから、敷かれた蒲団に、真っ先に寝転がった。竜は箱行灯を壁に向けて、薄明かりにする。
 政が伸ばした腕を示すように、それで蒲団を叩いた。竜は自分の蒲団にあがり、そろそろと身を倒したが、背を向けて、その腕を見なかったことにする。
「おい」
 竜はややしてから、ため息を漏らし、くるりと反転した。政がまた軽く手の甲で蒲団を叩いた。竜が義務的に、そこに頭を乗せる。身じろぎをして、行灯に照らされて、細い眉を寄せながら髷を気にしているという貌を、作っているのが見える。何年経とうが、素直でいられないときは、いられない。だがどうせこうなることは、わかっている。抵抗が短くなったのはたしかだ。
「まだ折り返しにも来てねえんだ。髪が崩れたら、おめえのせいだ」
「うん、わりいな」
「なんだ、それ」
 竜がちいさく吹き出した。政が空いた手で、背中を抱き寄せる。


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双頭の心臓(試し読み)

キーワードタグ サンプル新刊  政竜  組紐屋の竜  鍛冶屋の政  花屋の政  必殺仕事人  半ナマ  必殺シリーズ  京本政樹  村上弘明  R18 
作品の説明 ・必殺仕事人V 政×竜(長編小説)『双頭の心臓』試し読みです。BOOTHやpixivで公開しているサンプルと同じ分量をテキストで公開します。
通販→https://booth.pm/ja/items/2910474
●〈双頭の心臓〉あらすじ
“佃島”の夜から10年を経て再会した政と竜。
3年が経ち、いまだ人目を避けながらも、竜は政との穏やかな生活に幸福を感じていた。
ある日、薙刀を振り回す殺し屋・典膳一味の仕置を終えたふたりは、毎年恒例の旅に出た。
政はそこで、竜の秘められた過去を知ることになる。……
運命と掟の覚悟に生きつつも、過去に囚われ「喪失」に怯えるふたりが、切実に求め、辿り着いた答えとは。
――こよなく悲愴、こよなく幸福。燃えあがる情念と艶やかさを濃密に増した〈闇に陽光~〉完結篇。

小説/シリアス/切ない/ハッピーエンド/戦闘/流血あり/モブ攻・受/R18

●2017年に出した〈闇に陽光~〉から始まったラインの話です。まさまさ〈あんたに よく似た〉もこの流れが入っています。これで完結になりました。
2017年ぱちんこの政竜映像が元ネタです。典膳もこちらに登場。知らなくても全く問題なく読めます。
R18描写が多いので苦手な方はお気をつけください。

・文庫サイズ 428p・1800yen/R18・BL
・W表紙仕様(カバー&本体表紙)
・文庫『闇に陽光~』と繋がる背表紙

双頭の心臓(試し読み)
1 / 1
   一章 所有


 その姿に、政は信じられないという目をした。
 闇のなか、紐を手に巻きながら歩いてきた竜の肩には、長い髪がそのまま揺れていたのだ。
 政の目にあからさまな憤怒が立ちのぼったのを認めると、竜は眉根を寄せて、正面で脚を止めた。
「なんだ、そのなりは」
 ぴりつく声を投げられて、吐息で笑う。
「ひと仕事終えたってのに、ずいぶんだな」
「どうしたって言ってんだよ」
「大したことねえよ」
 典膳が獰猛な薙刀を振りまわしていたのは、一味の浪人たちを相手にしていた政も知っている。元結が切られているということは、その刃が、首の間際を舞ったということだ。
「小言なら、べつの日にしてくれ」
 竜は、静かに絶え間なく稲妻を浴びせかけてくる政の気配に、目を逸らし、脇をすり抜けた。
 舌打ちをして、追いかけてくる。いつにも増してぴたりと並んで歩くのに、竜はすこしばかり笑い、そして、ため息を漏らした。

 久しぶりの大物は、狂っていた。いくつもの悪党を屠ってきたが、闘いの最中に笑みを泛かべるような人間は、初めてだった。しかも舞台衣裳のような派手な着物に、顔は白く塗られ、鬼のような目張りを入れていた。
 妙な気の疲れが強い。薙刀の衝撃波じみた刃風が、耳朶にまだ残る。
 無意識にそこを揉んで、振り返った。ぴしゃりと強い音を立て、政が戸を閉めたのだ。目も合わせぬうちに、政はすばやく雨戸も閉めた。竜は蝋燭に火を灯しながら、このところ見なかった政の怒りにいたたまれない気分になり、逃げるように箪笥の前へ行った。ほんとうは少しの間、座ってひと息つきたかったのだが。
 仕方なく抽斗《ひきだし》から紫の紐を出し、重い髪を緩くまとめる。帯を解き、濃紫色の単衣に着替え、それから酒の準備に立ち上がった。
 政はとっくにいつもの袢纏に着替えを終えていて、竜の動きを見張るように、壁に背をつけ、腕を膝にかけて座っている。
 酒をなみなみと入れた銚子を長火鉢に落とし入れ、竜が向かいに座った。
「生きて帰ってこれたんだ。そんなに怒るなよ」
 火箸で炭を突き、すこし笑って、政を見た。政は目を逸らし、批難がましいため息を鋭く吐き出した。
 竜がじっと見ていると、その顔は、張り詰めたものから、疲れたものに変わる。
「そうだけどよ」
 呟いて、片膝を抱き寄せた。
 つと、親指の爪で唇をなぞる。その政の眼に、蝋燭のゆらめきが映り込んでいて、竜はいざって、傍に行った。
 政の腕は、自然と迎えるようにして、その肩を抱き寄せる。ゆったりと、しかし強く胸に抱いたあと、そっと隙間を作り、俯き、白い耳を包むように手を置いた。
 政のくちびるに、竜の紅が、わずかにうつる。
 それを親指で拭いとって、竜はほのかに笑う。見下ろしてくる間近の眸は揺れていて、不安の気配が、より濃厚になった。
 竜はつきんと痛む胸を政の胸に押しつける。でえじょうぶだよと、声にする。
 だが政の肩の強ばりは、和らがない。
「なんてツラだ」
 眉間に刻まれた皺を、指でほぐそうとする。政が笑って、はねのける。やっと見ることができた口角のくぼみに竜が視線を置いていると、政はそのこめかみを包みこみ、引き寄せるようにして、またくちづけた。
 紅が――竜は頭の片隅で呟く。けれど、思いと裏腹に、自分も政に、顔を寄せている。
 深く至って、息が苦しくなってくる。政の薄いくちびるが、慈しむように竜のそれを食む。触れあう舌に意識の端がぼうっと溶けてきて、遠くで水の音がする。
 政のゆらぎの原因はわかっている。自分が佃島で死にかけ、その後一〇年、姿をくらましていた。あれから、政は自分が消える可能性に、敏感になってしまっている。それが双方の胸に鋭い痛みを与えるのだが、しかし竜は、心根に、甘いものが潜むことを、否定ができない。
 昔はずっと、一方的に、懸想してしまったと思っていた。だが、どうやら、政もさほど変わらぬころから、自分のことを気にしていたのを知った。はじめは子どもを見る庇護欲のような認識だったらしいが、きっかけが訪れたその瞬間に、違うと自覚したらしい。つまり政は、竜を抱けてしまった。
 そのとき竜はひどく混乱したが、いちばん愕いていたのは、おそらく政だった。可憐な娘にはすぐほだされる、男色などつゆほど可能性を知らない、男だったのに。
 竜にとっては、あのときが初めての、本物の成就だ。見かけでどうも勘違いをされるのだが、昔、郷で誓い合った女はたしかに初恋でありながら、幼なじみの許嫁みたいなもので、その後は政、ひとりきりである。そして後にも先にも、身を焦がすほどの恋の相手となったのが、政である。
 その政が、自分の喪失の危機に、これほどまで憂鬱になる。想いを確認し、ずっと添ってきても、政の強い執着を見るたびに、竜はえも言われぬ甘美な切なさに、密かに胸が満たされる。
 竜は傾きかける意識のなかで、政の胸に手を置く。そのまま背にまわそうとして、そこで止めた。長くあわさったままのくちびるを、どうにか離し、短く息をつく。
「――あったまったかな」
 上等の御神酒を温めているのだ。名残惜しかったが、政の腕から抜け出して、火鉢に寄った。
 銚子を持ってくると、政がぼんやりとした目を上げた。それから深々とため息を吐いて、薄く紅のうつった唇を拭い、猪口を受け取った。
「しばらく、のんびりしようぜ。それに、そろそろ旅の時期だ」
 竜が酒を注いでやりながら言うと、政が不機嫌そうにそれを呷った。竜は上目でちらと見て、笑って手酌する。
 ふいに身震いが起きかけた。まだ身体中に、ひりひりとしたものが走っている。
 よほど同情するときには安請け合いもするが、いまは大仕事以外、若い者にまわすようにしている。今夜は典膳という化け物が相手だったから自分たちが呼ばれたのだ。だがそういう機会も、さほどない。
 そもそも主水は、竜が復帰することを快く思っていなかった。いちど入った道、抜けられるはずもないけれど、だが奇跡的に助かった命だ。大事にしろよ。――再会した日、そういうことを言っていた。つまり二度とこの稼業に戻るなということだ。もっとも、口ぶりはさらに可愛げがなく、酷かったが。
 しかし実際に、彼の言うとおりだった。この修羅の道からは、逃れられない。竜は町に出るようになってから、また厭なものを見るようになった。結局、主水とも関わることになり、稼業から退いていた政も、竜とともに、ふたたび闇に肩を浸すようになった。
 屠っても、屠っても、悪人は湧いてくる。自分たちが、呼び覚ましているのではないかと錯覚するほどだ。
 あれから三年が経とうとしている。すこしずつ、竜は生活を取り戻していた。政と一緒にいても、慎重にした。変わったのは彼の傍にいるというだけで、気配を消し、なるべく人目につかないようにした。紐を作っても、売らなかった。政が言うので、組紐問屋の主人のところには、そっと顔を見せにいった。それも一年経ってからだ。
 隠居した老人は、目に涙を浮かべて竜を出迎えた。思わず竜のほうも、目の奥を熱くした。ずいぶんと頼まれて、きわめて無個性な組紐に限り、ようやく少量、卸すようになった。それも出向くのではなく、御店者がこっそりと受け取りにくるという、特別待遇だ。
 金にはもう未練がない。高値で買ってもらっていることもあるが、困窮していないし、豊かさを追求する楽しみにもさほど興味がない。そうというよりも、一〇年の逃亡生活で極限まで贅を削ぎ落とし、郷のような質素に慣れ、代わりに手に入れた政との生活のおかげで、何にもこだわらないで済んでいる。まるで、生涯の伴侶を得て、落ち着いてしまったというわけだ。
 竜は思わず、苦い笑みを頬に走らせた。
 色恋など、御法度だった。あの頃、うるさいくらいに、政とも言い合ったくせに。
 けれど、命のやりとりをするとき、この情こそが、その命を助くこともあるのだと知った。魂の結びつきは、ともに生きるための力点になる。こうしてあと二年で齢四〇を目前にして、生きながらえてしまったのも、政がいたからだ。もう駄目だと思うその瞬間、底力が湧いてくるのは、その顔が泛かぶからだ。あの旗本屋敷で地獄を生き抜いたのも、ただいちどでいい、政に逢いたいという想いのためだった。ついさっき典膳に首を飛ばされかけた、そのときも。
 おれは、政の腕のなかで死ぬ。政に殺されて死ぬと、決めている――。
「おい。何笑ってやがる」
 政が眉間に皺を刻んでいる。首をなくしかけた奴が不謹慎だと言いたそうな顔だ。
 竜は、深々と息を吐いた。
「おめえのこと考えてたんだよ」
 ぶっきらぼうに言って、笑って酒を飲む。政が嗤われたと思って、なんだと? と睨んだ。
 竜はもういちど、手酌で酒を呷った。そして、ちらりと上目で見た。
「おめえのことしか、考えてねえんだよ」
 政が唇を閉じた。引き結ばれて、目の奥に光が宿った。
 闘いの余韻が、いまも腹の奥底で揺らめいている。命を削るあの瞬間に熾る火は、わかりやすく軀に、燃え移る。
 竜は猪口を置いて、政から目を外した。落ちてくる横髪に手をやって、ある諦めに目を伏せた。不気味な男を相手にした。今夜は、酒で身を清めて、すぐに眠ろうと思っていた。けれど、前後を忘れるほどに骨の髄まで燃やし尽くされて、ほとんど永遠と言いたくなるような眠りを、味わいたくなった。
 政は膝に肘をかけたまま、じっと竜を見ている。
 身にまとう気が、ふたりより先にじわりと手を伸ばし、結びつく。
 竜がそっと畳に両手をついて、二歩、膝で近づいた。政はあえて、手を出さぬ雰囲気があった。顔に影が落ちてから、上向いて、竜の目を見た。
 竜は、政の顔の脇に、右手をついた。冷えた感触に、自分が熱いことを知る。
 目を細め、触れる間際まで、顔を近づける。
 吐息が触れ合った。
 静かに呼吸をするいまだ紅いくちびるに、半分伏せられた政の目は落ちている。
 政の腕が上がった。抱かれると予感した肌がにわかに収縮した瞬間、背中に予想外の、重みが広がった。
 竜が目を開いた。
 政の手が、髪の紐を解いたのだ。
 怒っていたくせに、と思った。だからだろう、とも思った。
 なんとなく、そんなこともわかるようになった自分に、竜はもう、まっすぐに、政を見ることができなくなった。
「あ――」
 思わぬ声が出た。政が腰を掴み、引き寄せた。政の脚にまたがり、絡め取られてしまった。この長屋で声を出すことはできない。不覚にも、こんなことで漏らしてしまったことがいたたまれずに、竜は唇をそっと噛む。
 政は、反った竜の腰を、その線を味わうようにゆっくりと撫でた。それだけで竜は息をあげて、政の肩に顔を伏せた。
 肌はすぐに濡れはじめ、竜は時折、喉の奥でか細く鳴いて、大きな吐息で衝動を逃がした。政の舌先が耳孔に忍びこめば、目尻に涙を滲ませて肩を竦めた。蝋燭の火を消さなかった、と竜は思った。だが、政にこの姿を見られることを、ひどくつらいと思いながら、打ち震えるほどに昂ぶった。生きて彼の腕のなかにいることを、それも究極のかたち――命の実感を分けあう姿を、見せられる。何より、この姿で政が熱を上げてくれるなら、それに勝る悦びはない。
 政の手は、大胆に這った。竜の鎖骨のくぼみを、腕の筋を、背中を、臀を、腿を、すべての曲線を掌握するように動いた。肘と腰にまつわりついた着物をそのままに、竜がうねるその衣擦れの音さえ、聞き確かめるようだ。もの悲しげともいえる顔で目を伏せ、首をふり、そんな竜に合わせて、政も顔を向け、指で髪を梳き、頬にくちづけた。
 長い髪が張り付く肌を、それをよけるふりで撫でられ、弾かれる。竜はそのたびに、怯えたように震えて、どこか悔しげに、やんわりと唇を噛む。
 政が油を取った。
 竜は深い呼吸で、政を受け容れた。密着する肌の熱さを感じながら、腹のなかに、彼が馴染むまで、早まらないように堪えた。政も同じように、堪えていた。互いの脈動がひとつになるのをじっと待ち、竜の呼吸がなめらかになるまで、肩に抱き締めて、頬に唇を寄せていた。
 こんなときでも、政は優しかった。こんなときだから、なお優しい。傷つけないように、息を潜めて、耐えている。
 微動だにしないうちに、ふいに竜のくちびるが、痙攣した。呼吸が荒くなり、気がゆっくりと、剥落した。
 軀を、いくつかの青い光が、抜けていった。
 首を反り、きつく眉根を寄せたのが、政の目に映りこんでいた。じわりと髪の生え際に汗を光らせ、痙攣が全身に広がって、竜がいちど、跳ねた。
 目尻から、涙が絞りだされた。
 政がそれを見守っているのがわかった。白い意識のなかで、涙の膜が張られた隙間から、揺れる目が見えた。泣きそうに見えた。たまにする、政の顔だった。しかしいまは、かすかなほの昏ささえ漂わせ、観察者に徹していた。そのせいで、竜は肌をちりちりと焼かれるように感じて、思わず抑制し、かえって反撥する心に、身もだえる。
 竜の息がすべて吐き出されると、政がゆるく律動を始めた。おさえながらも、竜がすすり泣く場所を探り、それを変化する竜の貌で確かめているのが伝わった。
 ふたりの鼓動は徐々に高まってゆく。耳がそれに満たされて、竜は自分たちの区別がつかなくなることに、意識を向けきった。下唇を噛みしめて、政はきつい溝を眉間に刻みつけ、どうにか声を堪えながら、あがり、さがって、また、あがる。
 頭が熱いものに包まれている。政は髪に手を差し入れて、地肌を指先で味わっている。髪を下ろしているときに、政は好んでそうするのを、竜は思い出していた。口のなかを探られて、腹のなかを探られて、髪のなかを探られて、それが脳さえ愛撫して、すべての器官が、政によって、くまなく調べ尽くされてゆくようだ。内側にある空白に、熱湯が注ぎこまれる。竜はそれで、己の空白を知る。乾ききっている場所を、知る。
 蝋燭に照らされた政の顔は、薄い暗がりでもわかるほど、健やかな色だ。それをわかりたくて、竜はその頬に手をやった。
 剛直な睫毛、深い赤褐色の眼、すっと真一文字にひかれた唇。汗で張り付く前髪をよけながら、自分の白い指が彼の肌を撫でるのを見て、なぜこうも違うのだろうと思った。こんなに好いているのに、なぜ彼と、こうも肉が違うのか。目が合うと、政がふと笑んで、竜の胸に顔を埋めた。悲鳴を上げそうになる竜は、背を反らせながら、人差し指の関節を咥えて、息を切らす。
 きらりと闇に浮かんだ政の白目の残像が、瞼に焼きついていた。見上げた空にかかる、日の輪に見えた。
 あがって、さがる。際限がなさそうだ。眉間の中央を突き抜ける。こういう快は、政に教わった。自分は終わりのない輪に、取り込まれているのではないか。
 けれど、燃え尽きたい。いつか骨の髄まで焼き尽くされて、無になりたい。
 政が喉の奥で、低い声を漏らした。竜の意識が、飛びはじめる。
 政の腕のなかで死ぬのは、いい。なんどでも、息絶えよう。


     *


 水を打つ音で、目が覚めた。
 天を向いたまま、まどろんでいると、男の朗らかな挨拶が聞こえた。
「竜さん、来てるかい」
「ん、あいつなら、二日酔いで寝てるよ」
 誰が二日酔いだ、と思いながら、竜はゆっくりと覚醒を続ける。
「二日酔いじゃあ、起こしたら可哀想だ。大丈夫かな。約束があんだけど」
 水が地を叩く音が合間に入り、政のちいさい笑い声がする。
 そこで竜は、肘をつき、半身を起こした。たしかに与吉との約束があった。何時かと訊こうと思ったが、まさかこの格好で、出るわけにもいかない。
「昼には起きるだろ。だめなら、俺が起こすよ」
 ふたりの会話は、なにが可笑しいのか終始笑いに満ちていた。竜はつられそうになりながら、ふと思う。この世は、自分たちの仕事など、なにもなかったように動いている。典膳がこの世から消えようが、何事も変わらない。けれど、きっと、誰かが泣かずに済むはずだ。……
 褞袍《どてら》から身を起こし、寒気に肩を竦めつつ、隅に追いやられていた単衣を羽織り、帯を巻いた。気怠い身体を引きずって、帳箪笥から予備の紐をとり、咥え、鏡の前に両膝をつく。
 髪をくしけずり、紐を手に持ち替え、まとめた髪をぐるりと括る。そのときだけはすこし真剣な眼差だったが、ほっと息をついた鏡のなかの自分が、うすく微笑していることに気がついて、竜は思わず、目を逸らした。
 この部屋に鏡と櫛を置いたのは、自分だ。
 みっともない髪で出ていけば、露骨に気取られる。声をおさえている意味もない。もっとも、この長屋では自分たちの関係が、噂になっていることも知ってはいる。妻のない男がふたり、頻繁に会っていれば無理もない。
 けれど、なぜかここの住人たちは温かかった。静かに政のもとに現れ、静かに去ってゆく。そういう竜を、内緒事を共有するように、見守ってくれている。もちろん、彼らに竜の事情は知られてはいない。訪われる側の政が、よほど好かれているということだろう。
 竜は臀の下で立てていたつま先に力を入れて、中腰になる。腰の奥に、痛みにも似た甘い余韻が揺らめいた。政は無茶はしないが、竜を果てさせることには容赦がない。ふいに掠める昨夜の記憶の破片に、竜はいちど目を閉じて、軽く拳を握り、切ない吐息を漏らした。
 連子窓から入り込む陽光が、瞼を透かして赤い。いつまでも浸っていたいが、きりがないと、目を開く。
 部屋には浅草紙ひとつ転がっていない。竜が目を覚ますまえに、すべてを片付け、きれいにしたのだろう。心なしか身もさっぱりしている。起こさぬように気を遣いながら、清めてくれたのだ。
 髪結を、頼まなければ。湯屋にも行こう。考えていると、階下に気配を感じた。
 覗くと、政が戸から見上げていた。
「大丈夫か」
 竜は顔を引っ込め、ああ、と呟いた。
「飯にしようぜ」
 政は、すこし笑ってそう言って、また外へ戻ったようだった。
 ばしゃん、と桶の残り水がぶちまけられる音がした。
 褞袍を抱えて、物干しに出した。日差しは温かいが、肌を撫でる風に冷たさが混じっている。遠くに見える木々は、ほのかに葉の色を変えはじめている。中へ戻り、蒲団を畳む。ふわりと香る政のにおい。木の実のようなにおいと、丁子油の混ざったにおい。竜はゆっくりと、梯子を降りる。
 鉢合わせるように、政が頭を低くして部屋に入った。へっついの前に行き、鍋の蓋を開けて窺っている。味噌を入れようとしているのを見かねて、竜が押しのけた。政が作るものは味が濃い。とくに夜の仕事の翌日はなおさらだ。疲れ切っているいまの身にはそれもいいが、せめて普段の程度がちょうどいい。
 政はわざとらしく舌打ちをして、竜に明け渡すと、茶を淹れた。
 互いの間に、なにも言わないことを味わう沈黙が、流れている。
 竜が振り返ると、政は腰を捻り、畳から紫の紐を拾い上げていた。夕べ、はずされた紐だ。その横顔を見るとなにやら軀の奥に兆すものがあるが、竜は顔を戻し、打ち消すように瞬きをした。
「与吉さん、紐作り、上手いのか」
「どうかな。けど、心がこもってる。それでいいんじゃねえのかな」
 納得したように、政が黙り、茶を啜った。竜がまた振り向く。
「おめえ、言うなよ。おさよちゃんに問い詰められたら、すぐ口を割りそうだ」
「何度も言わなくたって、わかってるよ。しつっけえな」
 りんりんと、鈴の音が近づいてきた。
「まーさーさん」
 子どもの声が割り込んだ。戸に映ったちいさな影が、ほとほとと叩いている。
「おう、佐吉。おはよう。もう飯は食ったのか?」
「うん。あ、りゅうさん!」
 戸を開けてしゃがんだ政の脇から、佐吉が顔を見せる。竜が微笑み返して、おはよう、と言う。佐吉は遊び相手がふたり揃っていることに歓喜を隠せない。そしていつもその偶然を心待ちにして、すぐに部屋のなかを覗くのだった。
「きょうは頭、ちがうの?」
「ああ。結い直してもらうんだ」
「りゅうさんは、とっても、たいへんだね。あんね、お母ちゃんがね、怒ってんだ。お父ちゃんが帰りが遅くて、太郎のめんどうを見ないんだって」
 佐吉の訴えに竜は軽く息を吸い、鍋に目を落としてから、戻した。
「よし。じゃ、話を聞いてやらなきゃな」
 にこりと笑う竜に、佐吉は両手を突っ張るようにして喜ぶ。いますぐに引っ張っていきたいという気持ちが、つま先立ちに表れている。
「飯を食ってから行くよ。いまはお母ちゃんも、忙しいときだ」
 一瞬がっかりした顔を見せたが、すぐに大きく頷いて、足音と鈴の音を立てながら、佐吉は走り、帰っていった。
 佐吉の鈴は、竜がやったものだ。家に遊びに来た佐吉が目を輝かせたので、大ぶりの金の鈴を持ち帰らせた。それをおさよが守り袋につけてやっている。
「俺には用事がねえんだな」
 政が笑いながら立ち上がり、上がり框に戻った。
 手のなかに握り込んでいた紐を、眺めて言う。
「竜さんは、とっても、たいへんだと。子どもにもわかんだな」
「何が言いてえんだ?」
 べつに、と政は肩を竦める。竜は呆れ半分、苛立たしげに肩を揺らして、椀に汁物を注いだ。つり上がった目尻はすぐに和らぎ、唇には自嘲のような笑みが滲み出る。
 ちいさな卓袱台を囲い、ふたりは朝餉を食べる。きのこの味噌汁に飯、たくあんだ。政が早くから起きて支度をしてくれていたから、炊きたての飯が美味かった。
「与吉さんの紐、進んでるのか」
 しばらく黙って食べていたところに、政が言って、飯を口に運んだ。
「ああ。なかなかの早さだから、あと半月もすりゃあ、できるだろう」
 ふうん、と言いながら、汁を掻きこむ。
「おめえがやったら、どんくらいのもんなんだ」
「ま、三、四日ってとこだ」
 政がやや愕いて、口許を手の甲で拭う。
「ずいぶん違えんだな」
「仕方ねえよ、限られたときにしかできねえんだ」
「まあな」
 もくもくと食い進める政を向かいに見ながら、竜は考える。政の前髪が、長くなってきた。夕べも胸に抱きながら、思ったのだった。放っておくと適当に切って不格好になるから、あとで整えてもらうように髪結いに頼んでおこう。
 政が炉に火を入れて仕事を始めると、竜は急ぎ足で近くの湯屋に行った。ほとんど、近所の男たちしか出入りがない。何せ江戸に六〇〇もある湯屋だ。各々通い放題の羽書も持っているから、わざわざ遠くの湯に行くこともない。
 それでも竜は、日になんども来る汗かきの職人たちが集まる時間帯を避けて、湯に入る。ほんとうはゆったり浸かるのが嫌いではないのだが、そうもいかず、烏の行水だ。九十九の郷にいた頃や、隠れていたときは、近くの秘湯でのんびりもできた。たまにそれが、恋しくなる。
 紐でゆるく髪をまとめ上げ、手ぬぐいで背中の疵痕を隠し、それが死角になるような場所で、身体を流す。いつも縁に背を向けて浴槽に浸かり、そこに入るための柘榴口から、誰が来るのかを見る。
 長屋の住人には、話しかけられれば応える。自分からは会釈をする程度だ。ほんのりと暗いここでは、竜の白肌はより目立つ。慣れてはいるが、どうしてもまんじりと見られることもあり、いまも好奇心を隠せぬ若衆の目から逃れるように、竜は肩まで湯に沈みこんだ。
 助かるのは、こうして顔を合わせても、長屋の男たちは、ぺらぺらとよそ者には喋らない。もっとも長屋のなかでは、筒抜けではあるのだが。
 おさよが言うには、竜が長屋の隅に部屋を借りるとき、たったひとこと、あいつのことは、そっとしてやっといてくれねえか、と政が言っただけだと言う。けれども、よく「変な虫がつくと困っちゃうもんね」と、男にも女にも付け加えられるところを見ると、変なのに好かれてしまうから、人には黙っておいてくれと言ったようにしか思えない。――たしかに、間違っちゃいねえが。竜は、湯を頬のあたりまでかけながら、苦く笑う。
 裏の仕事のためだけではない。結局、十三年経っても、あの旗本屋敷でのことが、尾を引きずっている。あの旗本は死んだと聞いた。けれど、もう面倒事は御免だ。迂闊に動いて、余計なものを引き寄せたくはない。政との生活を、壊したくない。絶対にだ。
 闘いの疲れ、そして政と抱き合ったことの疲れが湯に溶け出した頃合いを見て、立ち上がった。素知らぬ顔で鼻歌を歌っていた若衆に会釈し、柘榴口をくぐる。
 手ぬぐいで髪を挟みながら、竜は考える。時折、自分は、弱くなったのではないかと思う。憧れていた生活とは、すこし違う。ふつうの人のように、ふつうに暮らしたい。誰から隠れるわけでもなく、好きなときに、好きなようにどこへでも行きたい。弘い空の下に、出たい。だから郷を飛びだしたのだ。けれど、いまが不幸だとは思わない。欲しかったのは、自由だけではなかったからだ。同じくらいに、ほんとうの情が、欲しかった。
 そんなことを知ったのも、政と出逢ってからだ。それまではただひたすらに、自由に憧れている己だけしか、自覚できなかった。竜は単衣を羽織り、その手を止めて、腕に爪を立てる。手に入れたら、強くなれるような気がしていた。けれど、欲しいものは、際限がない。自由ではない。政を手に入れても、まだ、政が欲しい。

     *

 行き交う住人と会釈をしながら長屋に戻り、政の家に戻ると、またも佐吉が来ていた。とんかんと鉄を叩く政の横に、ちょこんと座り、あぶねえから手を出すなよと念押しされながら、手元を覗いている。ほとんど気配を消すようにしているから、佐吉は竜に気づかない。
 暦は白露、秋分を待つ季節になったが、腹掛から見える政の焼けた肌は、流れる汗に光っている。子どもを脇に置いて、仕事をする。歳も歳だ。親子に見える。稼業のことはともかく、彼に家庭を持たせてやれなかった。竜はこういうときに、たまに思う。
「佐吉」
 ふいに呼びかけられて、佐吉は勢いよく振り返る。りゅうさんと叫んで、飛びついてくる。政がちらっと顔を向け、おかえりと呟いた。脚に抱きついて見上げてくる佐吉の頭を撫で、竜は柔らかく微笑む。
「頭、結いなおしたんだね」
「ああ。これからお母ちゃんのとこ、行ってくるよ」
「りゅうさんって、いきだね。いきだ、いきだ」
「そうかい。ありがとよ。――聞いたか政。子どもは、よくわかってんな」
 振り返りもしない政が、手を休めずに声を張る。
「子どもたちで粋って言葉が流行ってんだ。なんでもかんでも言いたい年頃だ」
 竜は笑みを深めて、佐吉に語りかける。
「いいか、ああいう大人にだけはなるんじゃねえぞ。素直なのが、良い子だ」
「でも、りゅうさんは、まささんのこと、きらいじゃないよね?」
 これには声を詰まらせて、瞬きをした竜だった。佐吉は素直そのものの、澄みきった潤んだ目で答えを待っている。政が笑いを堪えている気配だ。
「――こんな唐変木、でぇきれえだ」
 どうしてー! という佐吉の叫びを聞きながら、竜は踵を返した。
 日向臭い佐吉の残り香に、身体中の力を引き抜かれた心地で、長屋を歩く。まったく子どもの偽りのなさは、恐ろしい。素朴な道理を喉頸に突き出してくる。竜は結い直した髱《たぼ》をちょっと触れて、眉を下げて苦笑い、角を曲がった。
 馴染みの廻髪結は、大店や屋敷を巡って仕事をしている。竜は彼にも特別を頼んで、剃刀や鋏を研ぎに来るのを理由に政の家に来てもらっている。だが今日は呼びに行ったついでに、思い直して男の家で済ませてしまった。あまり髪を下ろして出歩いても、政が機嫌を崩しそうで得をすることもない。あとで政の髪も、整えてもらうように頼んでおいた。政はいつまでも照れくさがって、嫌がるのだが。
 しかし政は、竜のいない間に、伸びすぎた髪を結っていたこともあるそうだ。竜にはいまいち、想像がしにくい。
「おや竜さん、おはよう。今日はまた一段と艶やかだねえ」
「おそめさんこそ、烏の濡れ羽色の髪が見事だよ」
「やあだよ、竜さんなんかに言われたら、その気になっちまうよ」
 井戸端で洗濯を始めた女たちが、いっせいに声をあげて笑いだす。竜はちいさく歯を見せ、鬢にかかるほつれ髪を揺らして、歩いてゆく。
 竜は、髪結いの男の手早い仕事が気に入っていた。なによりすぐに癖を把握してくれたのが、助かっていた。男はそれを利用して、色好く崩し気味に作ってくれる。政は己を棚に上げ、もっとぴしっとしたほうがいいんじゃねえかと小言を言ったが、男は意に介さず、竜にはこれが似合うのだと、やや怠惰に結い上げる。それで三日経っても崩れないのだから、竜ははじめてのときに感動を覚えたほどだった。男の腕には入れ墨があった。痴情のもつれで女を手に掛けたと噂がある、やや陰の色気が匂い立つ男だ。町の髪結に行きたがらない竜を詮索することなく、政の家に来ることを承諾してくれた。市井の髪結処は、噂を楽しむ場でもあり、目明かしが多い。役人の目も行き届く。
 戸を叩くと、おさよが出てきた。竜を見上げて、輝く眸を隠さない。
「佐吉から聞いたよ。与吉さんのことで、また怒ってんだって」
「そうよ、聞いてよ、竜さん。あの人、近ごろ仕入れとか付き合いとかなんとかで、毎晩のように帰りが遅いのよ。中売りがそんなに、付き合いあるかしら」
 与吉は、芝居小屋三座の中売りをしている。芝居の合間に編笠餅を売ってまわるのだ。竜のところで内緒で紐を作りはじめて、帰りが遅い。それにおさよが腹を立てているらしい。
「あがって。いまお茶を淹れるから」
 返事を待たずに、おさよが框を駆け上がる。竜が外や戸口での立ち話を、あまり好かないのを知っているからだ。
 おさよは、よく与吉の小言を言った。それがいちばんの楽しみと言わんばかりに、井戸端でも話している。どうでもいいことばかりで、与吉の抜けっぷりを講談のように語るから、誰もが心地良い耳の友にしている節がある。その小言の終いに、ああ、竜さんに聞いてもらいたい、そう付け加えると、五歳になる佐吉が心得たとばかり、竜を呼びにくるのだった。
 竜が畳に膝を下ろすと、ちいさな綿入れ袢纏に寝ている赤ん坊が、顔をゆがめて、涙を兆した。まだ一歳にもなっていない小太郎だ。父の与吉にも、兄の佐吉にもよく似て、鼻がぺしゃんこだ。竜が腰を屈めてそれをつつくと、わっと泣き出した。
「ああ、はいはい、はいはい」
 おさよが慌ただしく抱きかかえ、臀のあたりを叩いてあやす。窯の上の連子窓から差しこむ午時の光に、うなじにほつれた髪がやわらかく照らされて揺れている。抱かれた小太郎は、母の気を一身に集めようとするように、さらに烈しく泣く。いよいよ痙攣じみてきて、赤子を育てたことのない竜は、ちょっとはらはらするくらいだ。
「こんなに帰りが遅い日が続くなんて、まさか、あの人、妾でもつくってるんじゃないかしら」
 目尻をつり上げたおさよに、竜の眉が緩まる。
「そんなことができる人じゃねえってことは、おさよちゃんが、いちばんわかってんじゃねえか」
「――そうだけど」
「もしそうなら、とっくに、ここのみんなにばれてるさ」
「竜さんは、ずいぶんあの人の肩を持つのね」
 短絡なそれに、竜は吹き出しそうになる。しかし、じっと丸い目で見つめられ、口角を引き締める。
「あの人、竜さんにはなにか話してるのね?」
 女の勘というやつだ。子どもの素直さと同じくらい、恐ろしい。竜は息を吐き、茶を飲んだ。
「中売りも、いろいろ大変なんだよ。男にはな、仕事のことじゃ、女に言えねえこともあんだ。察してやんな」
 卑怯とは思いつつも、女の能力には、こちらも男の世という常套句を持ち出すしかない。くいと左の口角を上げて、微笑みかける。
 おさよは頬を膨らます。畳にのの字でも書き出しそうな雰囲気だ。竜を前にすると、政のときとは違う媚が出る。政にはおかみさんらしく振る舞いたがり、竜には乙女のように振る舞いたがる。もちろんそこには、色の気配はないから、竜は微笑ましい心持ちになる。旦那の与吉は、まったく俺への態度とえらい違いだと、毎度困った笑みで繰り返す。
 話が変わり、町の噂や、竜がいなかったころの政の話を織り交ぜて、おさよは明るく語った。知らぬ間に小太郎は眠っていて、うぶ毛のような髪を時折そよがせ、竜の目を和ませる。竜はただ黙って頷き、茶を飲み、茶請けの饅頭をちいさく囓る。それだけでおさよはどんどん満ち足りた笑顔になり、いつものように、こんなにきれいな人とお茶ができるなんて夢みたい、と付け加えて竜を笑わせるのだ。
 いまは誰かに付き合うことがほとんどない竜だが、おさよだけは、こうして家にあがって話を聞いてやる。三年前のあの日、政と結びつけてくれた、恩人だからだ。だから旦那の与吉も、例外だ。
「あたしは幸せもんね」
 ね、と小太郎に語りかける。そうして彼女が決まったしめくくりの一言を呟いたから、竜はそろそろ頃合いかと、湯飲みを置いた。すっかり肩から力を抜いて、遠くを見るように微笑むその顔は、竜にとっても、日常のひとつの楽しみだった。
「ただいま」
 戸が開いて、与吉が入って来た。おかえりと、おさよが細い首を伸ばす。
「竜さん、またおさよの長話に付き合ってくれたのかい。わりいなあ。――おおい、小太郎、小太郎。おとっつぁんだよ」
 おさよの腕から小太郎を抱き上げる与吉に、せっかく寝てるのにと唇を尖らせながら、おさよは上機嫌を隠せない。
「じゃ、おれは、そろそろ」
「ええ、もう?」
 どうしてもこのやりとりなしには済まない、おさよと竜だ。
 夕七つから始まる芝居のために、与吉はもういちど出て行かなければならない。正真正銘、仕入れもあるが、その合間にも、竜の家で紐を組むのだ。竜は与吉の満面の笑みに頷くようにして、おさよの家を後にした。


     *


 政は、頬を刺す風に、氷のつぶてが混じるようだと、竜に囁いた。
 竜はそれに同意するように、わずかに紅みを帯びた頬を政に向けた。
 宿に着いて部屋に通されると、竜はすぐに欠伸を噛み殺した。政は笑いたい気持ちをおさえて、障子を開けた。昨晩の眠りが浅かったのは、わかっている。
「もうばてたのかよ」
 独り言のような政に、わかっていることをわかっている竜は、何も返さない。
 脚を止めると、途端に暑くなる。火照った頬を風にさらすように、政は窓枠に手をつき、顔を出す。うしろでは、竜が行李を下ろし、正座になって、茶を飲み始める気配がした。
 時節は、午と夕が同じ分になっていた。まだ空は明るく、ぽつぽつと杖を持った女の頭や笠が見える。これから到着する客も増えてくるのだろう。
 恒例になりそうなこの旅は、目的に期限がないから、ふたりの脚をゆったりさせる。彼方にそびえる富士のほうを目指しながら、それぞれの場所で名物をしっかり味わう余裕もある。典膳一味の仕置料も、ひとり七両というまあまあな大金で、政も竜も、どこか使えるだけ使ってやろうという、妙な意地さえ窺えた。
 そうはいっても、かなりの健脚だ。長年の稼業の悲しい性も相まって、きちんと歩けば、他の男たちよりも進んでしまう。江戸を出てから初日、旅籠の多い戸塚宿の手前、保土ケ谷で腰を落ち着けて、次に旅籠に入ったのは箱根の入り口、湯本だった。ふたりはここから、のんびりすることにした。
 手ぬぐいを片手に階下に降りて、客が増えないうちにと風呂に入った。楽しみにしていた箱根七湯、将軍献上湯のひとつである。政はさりげなく竜の背の疵痕を隠す場所をとり、むしろ本音ではぜんぶを隠してしまいたいので、広い背中で人の目を遮った。気づいている竜は、知らぬ顔で左肩や腕を揉んだりして、目をどこかへ向けている。
 あがってから、微妙に硫黄くさいことに政は肩口に鼻を寄せていた。部屋に食事を運んできた飯盛女は、美丈夫しかいないことにさっと頬を赤らめた。しかし商売の顔つきで、さっぱりとした言い方で床に誘ったのをふたりに断られると、女は交互に見やって、納得顔で立ちあがった。ふられた恨みもこもり、どこか蔑むような顔つきだ。
 政は頬を掻きながら、うんざり顔で竜と見合わせて苦笑う。男がふたりでいるからか、それとも自分たちが、どうしてもそう見えるのか。
「ま、これはこれで、楽でいいけどよ」
 しつこい誘いの絶えないふたりだ。政は膳に向きなおし、箸をとって勢いよく食いはじめた。言外を汲み取っている竜も、そうだなと同意して、茶碗を持った。運悪く狭い旅籠にでも入った日には、下手をすれば、隣室の客まで障子を開けて覗いてくる始末だ。自分の図体がでかいのもあるだろうが、こいつの見てくれのせいだと、竜にすべての責任を押しつけている政である。
「おさよの奴、今年も見送りに、あの紐をしてんだからな。よほど気に入ってんだ」
 夜明け前に出立するというのに、おさよはわざわざ与吉とともに、ふたりを見送りに出た。そして初めて会ったときに竜から貰った五色の紐で髪を飾り、いってらっしゃいとかちかち切り火をしてくれた。町に出かけるときは、かならずといっていいほどその紐で髪を結っていて、母が残した四色の紐――かつて竜が作った紐とともに、大事なときに、身につけてくれている。
「つくづく、おめえが来てから、俺の扱いが雑になったよ。すっかり骨抜きにされちまって」
「おめえが娘心のひとつもわかってやれねえんじゃ、しょうがねえ」
 んだと? と政は睨みつける。竜は笑った頬を隠しもせず、しかし目は茶碗を見るように、伏せられたままだ。政は、桃色としかいいようがない唇に飯が入っていくのを、さりげなく見る。
 その容姿に意識を向けるようになったのは、竜がいなくなってからだ。昔、役者の代わりにと推したからには色男であることは認めていたけれど、彼がいない間、思い出される記憶のなかの竜を見つめていると、いかに特殊にあつらえられた貌であるかをしみじみ痛感させられた。出逢ったときも、別れたときも、花の季節だった。思い出の桜のなかにいる竜の姿は、いまもふいに瞼をよぎり、政の胸を締めつける。
 その竜が――多少は想いが粉飾したものだと自覚はあるのだが、しかし、夢でも幻でもない、現《うつつ》の竜が、気配を消して人目につかないようにしていても、何かのきっかけで認識されてしまえば、女も男も刻が止まったようになる。興味がないという顔つきをするのは、いかにも益荒男ぶりといった屈強な男が好きな者くらいで、目を奪われた者たちは、好奇、色慾、羨望、妬心、あらゆる情のこもった視線を投げるのだ。
 仕事の相棒でしかなかった頃は、そういう視線が面倒事の火種になるのではと思うくらいだったが、いまは率直に、心地が悪い。いかんせん、修羅をくぐり抜けて、齢も三八だ。その貫禄と非凡さゆえに軽率には触れられぬ雰囲気はあるものの、常に張り詰めていたものが控えめになり、喋りも物腰もゆるやかになった。あれほど華奢だったのに、歩く後ろ姿の腰回りの豊かさなど、男ざかりに咲いた様は、震いつきたくなる風情なのである。
 その腰の手ざわりまでもを知っている政は、つとめて平然な顔をするよう心がけているが、本音では、竜のことを隠しておきたい。だがひとつだけ、長屋の連中に可愛がられているのを見るのだけは、悪くはなかった。堂々と表長屋で商売をやっていた頃では見られなかった、不思議な光景だ。
「与吉さん、ちゃんとやってるかな」
 竜が箸を置き、窓のほうを見て呟いた。外はすっかり陽が落ちて、富士は闇に熔けこんでいる。
「やっぱ心配だったんじゃねえか。そろそろ仕上がるんだろ。与吉さんが、おめえんちに入ってんのが怪しまれねえか、俺はそっちが気がかりだよ」
「大丈夫だよ。物取りが入らないように、ときたま覗くように頼んだって、おさよちゃんにも他のおかみさんたちにも言ってあんだ」
 与吉の紐は、もう一息というところだった。あとは大丈夫と背を押して、竜は旅に出た。万が一紐が歪んでしまったところで、最後であれば竜が直せるし、襷掛けに使うには、小柄なおさよには、もう十分だ。
「おさよ、知ったら泣いて喜ぶぜ」
 政が悪戯っぽく、鼻梁に皺を作った。竜はそれを見て、唇を弧にする。
 煮炊きをしている竜が紐を襷掛けにしているのを見て、与吉が、いいなあと言った。おさよが竜の紐を桐箱で箪笥にしまい、宝物にしているのは、もちろん与吉がよく知っている。毎日使うものが竜の紐であったなら、どれだけ喜ぶか。しかし竜の紐は、ふつうには売られていないし、高価だ。そこで竜は、やるよと言ったが、与吉は慌てて首を横に振り、安くするのはどうかと言えば、それじゃあ男の立つ瀬がないと、なおもはげしく首を振った。そこで、なら、自分で作ってみるか? と竜が申し出た。いつも世話になっている礼に、おれが教えるよ――と。
 手取り足取り教えるのは、他の男であれば不満もあるが、与吉であればべつだと納得している政である。おさよも、初対面で芝居や役者の話に興じていたことで、竜と与吉が特別に一緒にいても、納得できる道理があるらしい。悪友とまでは言わないが、すぐに竜を楯にして誤魔化すのだと、いつも嬉しそうに、文句を垂れる。
「けどよ、ほんとに優しいな、与吉さんは」
「ああ。おさよちゃんはいい亭主を持ったよ。おめえじゃなくて、よかったぜ」
「――竜。おめえな、どうしてそう、可愛げがねえんだ」
 政は、いからせた肩を即座に落とし、やれやれと言いたげに残りの茶を飲んだ。竜はかつて、おさよが政に惚れていたことを、完全に見抜いているようだった。
 茶のおかわりがほしくて、政が障子を開けた。階段を上ってくるいかにも小者風の男が、すれ違いざまに頭を低くした。
 いやな予感がして振り返ると、自分たちの部屋の前で跪いていた。男は竜に話しかけている。
「不躾かとは存じますが、うちの旦那が、どうしてもお話がしたいとのことで――」
 政は、とんとんと男の肩を叩いた。
「あいにく、こいつにはその気はねえよ」
 はっとした男が政を見て、さらに何かに気づいたように口を開け、ひれ伏した。
「しかし、どうしてもと――」
「わからねえかな」
 その目の押し殺された圧に、男は狼狽えて、頭を下げて立ち去った。見ると竜は、わずかに唇を斜めに巻きこみ、それから吐息で笑った。どんなときでも取り澄ましている竜だが、いまの政の一瞬の殺気には、さすがにこの顔だ。宥めるような気配もある。その意外が空白を与えて、政は少々ばつの悪い思いになった。
 茶を頼みに戻る政の足取りは、やや荒い。若い頃のように感情をむき出しにすることは少ないのだが、鍛錬のために入山する以外、あまり出歩くことのない竜なのに、たまに出かけてこういうことをされると、こらえているものも頭にのぼる。
 客は一通り把握している。さっきの男は宿に到着したときに、すこしあとから到着した連中のひとりだった。宿籠から降りてきた主人と思しき男が、竜をみとめて、ねっとりとした視線を向けていたのを、政は気づいていた。そういう男が好むのは、同じ箱根でも底倉だと思って避けたのに。底倉は、蔭間やその筋の者が、下《しも》の湯治にも通う名湯だ。
 竜が穏やかでいることに宥められた政は、新しい茶でひと息ついてから、敷かれた蒲団に、真っ先に寝転がった。竜は箱行灯を壁に向けて、薄明かりにする。
 政が伸ばした腕を示すように、それで蒲団を叩いた。竜は自分の蒲団にあがり、そろそろと身を倒したが、背を向けて、その腕を見なかったことにする。
「おい」
 竜はややしてから、ため息を漏らし、くるりと反転した。政がまた軽く手の甲で蒲団を叩いた。竜が義務的に、そこに頭を乗せる。身じろぎをして、行灯に照らされて、細い眉を寄せながら髷を気にしているという貌を、作っているのが見える。何年経とうが、素直でいられないときは、いられない。だがどうせこうなることは、わかっている。抵抗が短くなったのはたしかだ。
「まだ折り返しにも来てねえんだ。髪が崩れたら、おめえのせいだ」
「うん、わりいな」
「なんだ、それ」
 竜がちいさく吹き出した。政が空いた手で、背中を抱き寄せる。


(試し読み・おわり)
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