ひだかみゆき

超次元サッカーの元陸上部大好きマンです。

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投稿日:2016年06月01日 16:49    文字数:91,915

てのひら7デイズ

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サイトから再掲。
豪風、なんか風丸さんがエイリア石の所為で体がちっちゃくなるけど豪炎寺のおうちで保護されたり色々あってお互い好きになっちゃうよ~…なお話です。
一応えろはありません。つーか、このシチュエーションでは無理ですw。

以下は当時のあとがき。

やっと完結しました。なんかほぼ一年越しの連載になってしまいました。
途中で心折れそうになったのが…んがぐぐ。
とりま、なんとか最後を上手く決めれたのが救いです。
作中のエイリア石の設定は捏造なのでw、公式のものではありません、当然。
ちっちゃい風丸さんを手の上で愛でられたらなー…という妄想の果てに完成した次第です。
円風でも良かったのですが、円堂だとこんな、もだもだした思春期のお話、には到底なりそうもなかったので、豪炎寺相手で良かったと思います。
しかし、小説だと円風より豪風が多いのは、所謂円風が終わっちゃってるカプだからかとー…。
だって話の始まりが、既に互いに好きになってる前提なので、好きになるまでの盛り上がりを描けるのはどうしても……となってしまいます。
まあ、円風には円風の豪風には豪風でしか描けない世界があるのでね。そこはそれ、と。
<2012/5/3~2013/4/18脱稿>
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てのひら7デイズ

~一日目~

 稲妻町に平穏が訪れて、一月ほどが過ぎた。もう、校舎を破壊しようと襲ってくる奴らや、サッカーを悪用して国を乗っ取ろうとする大人たちなどいない。
 町の中ほどに位置する雷門中は、元々部活動の盛んな中学だったが、とりわけサッカー部は『宇宙人と名乗るテロリストから日本を守った偉大なヒーロー』として、内外で有名となっていた。
 そんな好奇心の目もなんのそので、キャプテンの円堂守以下、サッカー部員たちは今日も練習に精を出している。
「宍戸、少林 。行けっ! 壁山に負けるんじゃないぞ!」
 円堂が檄を飛ばす。
「って言いますけど、キャプテン。壁山の奴、スッゲー強くなってますよ」
「そうですよ。やっぱ『地上最強』の名は伊達じゃないよね」
 一年生の宍戸と少林が羨ましげに言うと、当の壁山は巨体をプルプルと真横に振った。
「そんなことないッス。みんなだって前よりうんと早くなってるッスよ」
「どうしたんだ、お前ら」
「風丸……」
  一年たちが互いに戸惑った顔を見合わせているのを、円堂が苦笑している所に親友の風丸が話しかけてきた。
「風丸センパイ。壁山のヤツ、前よりずいぶん強くなってますよね?」
「そういう宍戸や少林だって、スピードアップしてるッス。俺じゃ追いつけないッスよ」
 早速質問攻めを始める一年たちを見て、円堂は肩をすくめた。
「ってワケさ。言ってやってくれ、風丸」
「なるほどな」
 理解したのか風丸は頷くと、胸を張って腰に手をやる。
「壁山はどんなに辛くても、逃げずにがんばった。宍戸と少林もあんなことがあっても、ちゃんと反省してそれを返上しようとしてる。お前ら全員みんな、強くなってるのさ。それが結果として出ただけのことだ」
 風丸の言葉に、後ろで聞いていた円堂がうんうんと頷く。一年たちの顔に笑みが広がった。
「エヘヘッ。そうッスね。みんなガンバってるッスから」
「だよね。俺たちいっぱい練習してるし」
 にこにこと笑顔を振りまく壁山と少林寺。そして宍戸も風丸を見るとこう言い出した。
「そういう風丸さんこそ、ますます速さに磨きがかかっているじゃないですか」
「そうそう! もう誰も追いつけないって言うか」
 いきなり自分を讃える言葉に、風丸は首をふった。 
「俺はそれほど……。まだまだ、練習が足りないぜ」
「そんなことないぞ、風丸」
 円堂は、風丸が謙遜してるのかと打ち消す言葉を投げた。
「速さだけじゃない、ドリブルもシュート力も前よりずっと強くなってるぞ」
「そうかな……」
 首をひねる風丸に円堂は、にかっと笑いかけると一年生たちの顔を見回した。
「みんな、負けずに切磋琢磨しようぜ。そして、次の大会も優勝だ!!」
 円堂が天に向かって拳を振り上げると、周りのみんなも同じように拳をかざす。そんな彼らを離れた場所にいた豪炎寺はじっと眺めていた。目を細めて、円堂と同じように笑う風丸を微笑ましげに見ていると、鬼道が話しかけてきた。
「どうした、豪炎寺」
「えっ」
 思わず赤くなった頬を気にして、豪炎寺は咳払いした。鬼道は豪炎寺の視線の先にあるものを認めてほくそ笑んだ。
「風丸、か」
「いや。俺は」
 取り繕う言葉を胸の内で探している豪炎寺の心を知ってか知らずか、鬼道は円堂たちといる同胞をじっと眺めた。
「あいつは最近、随分力をつけてきてるな。以前とは比べ物にならない程だ」
「ああ……。そうだな」
 鬼道にはまだ気がつかれてないと分かると、豪炎寺はやっと頷く。
「前より足も速くなってるし、ブロックもドリブルも上がってる」
「あの分だと、もうエイリア石なんかに頼る気もないだろう」
 鬼道の言葉を聞いていて、豪炎寺はもうひと月ほども前の光景を思いだす。風丸が入院していた仲間たちを率いて、敵として自分たちの前に立ちはだかった時のことを。
 だが今、目の前にでみんなと笑っている風丸は、暗黒の力に魅入られたことなんか微塵も感じさせない。本当に元通りのいつもの彼だ。
 陽の光の下で生き生きとボールを追う風丸を見ていると、豪炎寺は心がほころぶのを感じていた。それは少々不思議だったが、自分でも止められないままでいる。
 思えば、雷門中に転校してからというもの、豪炎寺の生活は木戸川にいた頃より目まぐるしく変化している。病院のベッドで眠ったままだった妹の夕香が何よりも気がかりだったし、フットボールフロンティアで優勝を目指すのだけでも、精一杯で他のことなんか構っていられなかった。見事に優勝を勝ち取り、夕香も元のように元気になったかと思えば、今度はエイリア学園の襲来である。豪炎寺にとってこの数ヶ月は、緊張の連続だった。
 だがそんな慌ただしい日々も過ぎ去り、何の変哲もない平穏な日が訪れると、やっとゆっくり自分の周りを見れるようになった。そうして漸く、風丸の存在が気になりだした。
 風丸は円堂の昔からの親友とあって、彼とは非常に仲がいい。クラスこそ別なものの、豪炎寺と円堂は一緒だったので、休み時間にはしょっちゅう風丸が教室に訪れてきた。部活の時も、仲間たちとの信頼が厚いので、みんなから慕われている。
 それだけなら豪炎寺にとって、風丸は仲のいい仲間の一人に過ぎなかっただろう。
 だが風丸が見せる、まっすぐでひたむきな性格と、時折覗かせるナイーブな部分に、豪炎寺は気をひかれた。
 そうなってしまうと、風丸のすべてが豪炎寺を未知の感情へと誘い込む。
 特に、走っている時の、しなやかで伸びやかな脚と、きらめく茶色の瞳が豪炎寺は気にいっていた。
 あの瞳の色は見覚えがある。あれは確か、豪炎寺の亡くなった母親が大切にしていたネックレスについていた石と同じ輝きだ。
「ほら、見て。修也。綺麗でしょう、この石。決して高価なものではないけれど、お母さんは大好きなの」
 そう言って、宝石箱から時々、見せてもらった記憶がある。
 あの輝きは、豪炎寺を懐かしい気持ちにさせる。もちろん、風丸自身は豪炎寺がそんな気持ちで自分を見てるだなんて、思ってもみないだろうけど。
 豪炎寺と鬼道が見守る中、一年たちに発破をかけている風丸が急に頭を押さえたのは、そんな時だった。
「どうした? 風丸」
 円堂が心配そうな顔をする。風丸は姿勢を正して首を振った。
「いや、なんでもないぜ」
「何かあったのか?」
 鬼道が風丸たちを見て、眉をひそめたが、豪炎寺も首を傾げるだけだった。当の風丸は何事もなかったように、練習メニューをこなし始めている。
 その日の練習が終わり、生徒たちを追い出すチャイムが校庭に鳴り響くと、部員たちは晴れ晴れとした顔で帰り仕度を始めた。
「雷々軒で響木監督の特製ラーメン食べてこうぜ!」
 円堂のひと声で、部員たちの帰りの予定が決まる。そんな中、風丸は学ランに袖を通すと、円堂に断りの言葉をかけた。
「悪い。俺、まっすぐ帰るぜ」
「風丸は行かないのか?」
「ああ。宿題もあるしな」
「そっか」
 円堂は残念そうな顔をしたが、風丸は簡単に予定を変える男ではないので、仕方なく笑みを浮かべた。
「じゃあ、また明日な!」
 校門で雷々軒に行くメンツに手を振ると、風丸は自宅の方へと歩きだした。
 豪炎寺はというと、自宅のマンションで待ちわびているだろう、妹の夕香の事が気にかかったので、みんなと同行するのは遠慮してやはりまっすぐ帰ることにした。円堂たちに別れを告げると、風丸に少し遅れる形で帰路につく。
 風丸とは同じ方向だ。
 先を行く風丸の背中に、幾ばくかのときめきを感じながら、豪炎寺は歩く。決して、
「一緒に帰ろう」
とは言えないが。
 多少、口下手なきらいはあるが、風丸とさほど親密なわけではない。それでも、同じ道を歩いている。それだけで豪炎寺にとっては幸いな時間だった。
 西に傾いた夕陽は通りを紅く染め変えて、心の奥まで暖かく照らしていた。
 風丸の、どちらかといえば頼りなさげな背中を追っていた豪炎寺は、急にふらりとポニーテールが揺れるのを認めた。
「ん?」
 今一度見直すと、歩道脇の電信柱に風丸が寄っかかっている。練習の時といい、どこか具合でも悪いのだろうか。
「大丈夫か?」
 豪炎寺は風丸に駆け寄ると背中を揺すった。電柱に肩をもたれて深く呼吸をしていた風丸が、ぴくんと体を震わせる。
「豪炎寺……?」
 振り向いた風丸の顔が意外そうなのは、自分の後ろに知り合いがいるだなんて思いもしてなかった所為だろう。
「どこか悪いのか、お前。練習の時もフラついてただろう」
 だが豪炎寺の呼びかけに、風丸は笑って首を振った。
「いや。何でもないぜ」
 豪炎寺は笑顔を貼り付けた風丸の顔に、微かな嘘を感じとった。無理をしているのか、それとも気を遣わせまいとしているのか……。風丸は電柱から離れると、何事もなかったかのように背筋を伸ばして立ち上がった。
「大丈夫だぜ。ほらっ」
 風丸はにっこり笑って振り返る。
 だが豪炎寺の目には、笑顔の風丸の向こうに、勢い良く走ってくるトラックが写っていた。それはまるで、一年も前に、妹の夕香がはねられた時と同じ。
 思わず体が動いた。
 目の前で親しい奴が事故に遭う光景なんて、何度も見たいものではない。
「風丸!!」
 黒く細めの学ランの背中を抱きとめた。間一髪で走るトラックから風丸を庇う。
 豪炎寺は無我夢中で地面を蹴った。その勢いが余って、二つの体は歩道に倒れこんだ。
 トラックは何事もなく走り去る。ほっとしてそれを見送ると、豪炎寺は自分の腕の中の風丸の無事を確かめようとした。
 が。
 腕の中はまるで空っぽで頼りなく、抱きとめたはずの風丸の体の感触がない。
「えっ」
 ぎょっとして、腕の中を見た。だが、風丸の存在はなく、黒い学ランだけが残されていた。
 そんなバカな。
 慌てて辺りを見回した。歩道の脇に風丸が背負っていたカバンが転がっているだけだ。
 青ざめた顔で豪炎寺は立ち上がった。
 腕の中に風丸がいないのなら、何処かに倒れているのか。それともトラックにはねられて、体が吹き飛んでしまったのか。最悪の状況が脳裏に浮かんだが、何処にも風丸の姿はなく、血しぶきすらない。
「か……風丸?」
 学ランの布地を握りしめて、訳もわからずに立ち尽くしていると、不意に微かだが、聞き覚えのある声がした。
「俺はここだ」

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 意外にも声はすぐ側から聞こえる。豪炎寺は辺りを見回したが、声の主は見つからなかった。
「どこだ? どこにいる、風丸!」
「ここだよ!」
 声がするのは腕の中だと気づくのに、時間が必要だった。しかし、その中ということは……。
 そんなハズがない。だって、腕の中にはもぬけの殻の学ランが……。
 そう思ったけれども、改めて腕の中に目を落とすと、黒い学ランの中で何かが蠢いているのに気付いた。もぞもぞと布地が動いたと思えば、すぐさま、蒼い絹糸の塊が覗いた。
「うっ!?」
 襟のカラーに、小指ほどの小さな手がかけられると、ピンポン玉程の丸い物が飛び出してきた。
 ぷはぁ、と、大きく息を吐く。その小さな“モノ”はつい今、抱きしめたはずの風丸と寸分変わらない形をしていた。
「ああもう、参ったぜ。急にトラックが走ってきて、お前に掴まれたと思ったら、あとはワケが分かんなくなってさ……」
 そこまで“風丸の形をしたモノ”がせわしなく話すと、すぐさまきょとんと首を傾げた。
「豪炎寺。なんか……、お前がすごくデカく見えるんだが」
 “風丸”の問いに豪炎寺はふるふると首を振った。
「ち……違う。お前が小さくなってるんだ」
「え」
 目を瞬かせて、未だこの状況を把握してない風丸に、豪炎寺は右の人差し指を向けると、風丸の頭にちょこんと触れた。まるで、人形の頭部のようだった。
「え。えええええええ! な、なな。なんでこんな!?」
「いや。訊きたいのは俺の方なんだが」
「どうなってんだよ、これ。縮んじまったのか、俺!? あああっ。どんだけ小さくなってるんだ俺!!」
「風丸。……落ち着け」
 パニック気味の風丸を、とりあえず宥めようと、豪炎寺は学ランの襟元から小さな体を引っ張りだそうとした。ところが、小さくなったのは風丸の体だけで、着ていたものは全て元の大きさのままだったらしい。人形みたいに小さな体を引っ張りあげると、服の中から出てきた風丸は裸のままだった。
「うわ!」
「う……っ!?」
 その事に気付くと、豪炎寺は慌てて服の中に戻す。歩道に転がったままのカバンを取ろうとして、アスファルトの上にころんとシューズがこぼれ落ちた。それを急いで拾い上げると、風丸のカバンに学ランもろとも中に押しこんだ。
「とりあえず、俺の家に行くぞ!」
「なっ、なんでだよ!?」
 風丸は抗議の声をあげたが、それに構わず豪炎寺は自宅のマンションに向かって走り出した。
 事故、というか事件が起こった道路から、マンションまでは歩いて十数分ほど。走れば十分もかからないだろう。豪炎寺は全速力で自宅への道を走った。息を切らせてマンションにたどり着くと、エレベーターに乗り込む。自宅のある階を示すボタンを押すと、やっと抱きかかえていたカバンを確かめた。
 はたして、カバンの中には、詰め込んだ学ランと元から入っていた教科書とノート、それらもろもろの間で風丸の小さな体はもみくちゃになった哀れな姿を晒していた。
「……もうちょっと、人のこと考えてくれ。お前は平気でも、俺には辛いんだよ……」
 半ばふらふらの状態になりながらも風丸は文句を言う。豪炎寺は平謝りするしかなかった。
「す、すまない」
 そんなやり取りを交わしてるうち、エレベーターは豪炎寺の自宅のある階に着いた。
「風丸、もうちょっと我慢してくれ」
 カバンのふたを閉じると、玄関のインターホンを押す。鍵は開いていた。
「ただいま」
 靴を脱いでいると、豪炎寺の妹の夕香が嬉しそうな顔で飛びだしてきた。豪炎寺はそっと風丸のカバンを腕で隠した。
「おかえりっ、お兄ちゃん。見てー、夕香、テストで百点とったんだよ!」
 赤ペンで丸だけが踊ってる答案用紙を妹は誇らしげに掲げる。豪炎寺は目を細めて、夕香の頭を撫でた。
「すごいな。さすが夕香だ」
「えへへっ」
 いつもなら、そこで夕香を交えて夕食を取りながら、学校の話題に花を咲かせるのだが、今はそれどころじゃなかった。
「ごめんな、夕香。お兄ちゃん、宿題がいっぱいあるんだ。悪いけど一緒に遊べない」
「えー!?」
 夕香は不満げな声を漏らす。後ろめたく思いながらも、豪炎寺は苦い気持ちで言い訳を繕った。
「すまない。また明日遊ぼうな」
 お手伝いのフクさんに、夕食を勉強部屋に運んでくださいと頼むと、豪炎寺は夕香にリビングへ行くよう促した。
 何も知らない夕香は素直にそれを聞き入れる。夕香の小さな背中を見送って、豪炎寺は自分の部屋に入りドアを閉めた。誰も居ない部屋の様子にほっと息をつく。
「大丈夫か、風丸」
 カバンを開けると、件の風丸はその小さな体に、中に入れてあったのだろうか、ブルーのタオルを巻きつけていた。
「まあ、何とか」
 豪炎寺は慎重に風丸の体を掴むと、自分の机の上に乗せてやった。椅子の背もたれを前にして風丸と向かい合わせに座る。
「──で。一体、何故、こんなことになったんだ?」
「俺だってわからないよ。歩いてて、急にめまいがしたと思ったら、あんなことになっちまったんだ」
 机の上であぐらをかいて、風丸は肩で息をつく。
「めまいか。お前、昼間も具合が悪そうだったな」
「……うん。睡眠はちゃんととってるんだけどな」
 兆候はあったのだろうか。風丸には思い当たる節は見出せないようだった。腕組みをして考えている。
「今は気分はどうなんだ?」
 豪炎寺が尋ねると、風丸は大きな目を開いて首を傾げた。
「そうだな……。めまいとかはないぜ。でもなんか、急に周りの物が大きくなった所為かな。うまく感覚が掴みにくいんだ」
「感覚か……」
 豪炎寺は考える。が、風丸の感覚は当の本人にしか分からないものだろう。豪炎寺からしてみれば、いつも見ている風丸の姿が異様に小さくなっているだけだ。
「修也さん。お食事をお持ちしましたよ」
 フクさんがドアをノックしたので、思考はそこで中断された。食事の乗ったトレーを受け取ると、礼を言って下がってもらった。風丸はその間、見つからないように写真立ての後ろに隠れていた。
「風丸、腹へってないか? 良かったら一緒にどうだ」
「ありがとう。うん、もらうよ」
 写真立ての裏側からひょいと顔を出すと、風丸ははにかんだ笑みを見せた。豪炎寺は頷くと、机の上に食事が盛られたトレーを置いた。温かい湯気がのぼる。夕食はハンバーグとコーンスープ、それに野菜サラダとご飯だ。
「あっ」
 食事に添えられた箸とフォーク、スプーンを見て、豪炎寺は気がついた。
 ──風丸にこれは大きすぎる。
 スプーンは大ぶりで、すくう部分が今の風丸の顔ほどだし、フォークも同じようなものだ。箸は風丸の背ほどあるし、このまま渡していいものか戸惑ってしまう。
「どうした?」
 腰に手を当てて、首を傾げてる風丸の声で我にかえった。
「いや。……口、開けてろ」
「ん?」
 迷ったが、豪炎寺はスプーンを取ると、スープをひとさじ心持ち少なめにすくった。息を吹きかけて冷ますと、風丸の口元に持っていく。
「ほら」
「え。こうやって食うのか?」
 頭ほどもあるスプーンの中身を前にし、風丸は困惑顔だ。
「今のお前には、この方法しかないだろう」
「まあ……。確かにそうだけどさ」
 風丸がほんのちょっと顔を赤らめてるには、恥ずかしい所為だろう。その気持ちは分からないでもないが、背に腹はかえられない。目の前から漂う美味そうな香りに、さしもの風丸も耐えられなくなったのか、軽く溜息をつくと頷いた。
「ああ。分かった。しょうがないよな」
 頷いたのを見て、豪炎寺は風丸の口元そばにスプーンを傾けてやった。風丸は恐る恐るスプーンに口をつけた。こくんと喉が動く。
「あ。美味いな、これ」
「そうか。もっと飲むか?」
「うん」
 風丸が再びスープに口をつける。加減良く冷めたのか、ごくごくと飲みはじめた。思ってるよりも早く風丸が飲んでしまうので、豪炎寺はスプーンを更に傾けてやった。
「……! けほっ」
 風丸が急に咳き込む。いきなりスプーンを傾けられたので、むせてしまったのだろう。慌ててスプーンを置くと、風丸の背中を親指でさすってやった。
「すまない。大丈夫か!?」
 風丸は口元を押さえて咳き込んでいたが、やがて楽になったのか、荒く息を吐くと顔をあげた。
「だ、大丈夫だ。ちょっとむせただけだ」
 口元と髪にスープがべったり付いてしまったのを見て、豪炎寺はティッシュを取ると、拭いてやった。
「ありがとう」
 苦笑いして風丸は礼を言う。体が小さくなってしまってから、風丸がいつも頭の天辺で結っているポニーテールが、今は解けている。そして、体にタオルを巻きつけただけの姿に、豪炎寺は改めて考えた。
 ──風丸をこの格好のままにしていいのか?
 考えたところで、いい妙案が浮かぶわけではない。一旦諦めて豪炎寺は箸で白飯をすくった。
「もう少し気をつける。ほら、これも食えよ」
 風丸は素直に頷いた。ほんのちょっとの飯粒でも、風丸にとっては十分すぎる量だ。大きく口を開けて飯粒に食らいついている。
「うん。美味い」
「次はこれだ」
 豪炎寺はなるべく細かくなるようにハンバーグを箸で砕くと、小さな欠片を風丸の口元に持って行った。

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「……はぁ。食った食った」
 ものの数分で風丸は食事を終えた。腹をさすって、満足げに机の上で胡座をかいている。風丸のその姿を見て、豪炎寺はほっとして自分も食事を始めた。
「あ……、ごめんな豪炎寺」
「え?」
 いきなり風丸がしゅんと頭を下げたのを、不思議に思いながら、箸をくわえた。
「いや。お前、俺が食い終わるまで自分は食わずに待っててくれただろう」
 ああ、と豪炎寺は風丸の謝罪の意味を理解した。
「それに、妹さんにも悪いことをした」
 夕香にまで言及するということは、さっきの玄関での会話をカバンの中で聞いていたんだろう。豪炎寺は首を振った。
「そんなことならいいさ。お前のことが心配だったし、夕香とはいつでも遊べる」
「そうか……?」
 小首をかしげて自分の顔を見上げる風丸に憐憫さを感じて、余計にこの事態を何とかしようと豪炎寺は決心した。
「俺のことは気にするな。お前は早く元の体に戻れるようにしないと。その間は俺が力になる」
 豪炎寺がきっぱりと言い放つと、風丸は瞳を潤ませている。涙がこぼれてしまいそうになるのを、拳で拭って首を振った。
「ありがとう、豪炎寺。なんて礼を言えばいいのか、俺……わかんないけど」
 風丸はそう言うと、右手を差しだした。ほんの小さな、小指の先ほどの手。でもその手には、豪炎寺に対する感謝の気持ちがあふれていた。豪炎寺は手を差しだそうとして風丸の手と自分のと、その大きさの違いに躊躇し、改めて人差し指だけを出した。
 風丸はにこりと笑うと、その指を握りしめた。
 風丸は自分を信頼してくれている。突然体が小さくなっている今、心細いだろうと思うと、絶対にその信頼に応えるべきだ、と豪炎寺は残った夕食をかきこみながらそう誓った。
 早々に食事を終えると、豪炎寺は空の食器を乗せたトレーを持って立ち上がる。
「風丸。片付けてくるから、ちょっと待っててくれ」
「ああ!」
 大きく手を降って、風丸は部屋を出てゆく豪炎寺を見送っている。それを微笑ましく感じながらも、夕食を平らげながら思いついた考えを実行することに決めた。
 まず、食器をダイニングキッチンに置いてくると、夕香の部屋を訪れた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 勉強机に向かっていた夕香は、スケッチブックに走らせていたクレヨンを持つ手を止めて訊いた。
「夕香。お人形の洋服セットを持ってたろう? お兄ちゃんにちょっとの間貸してくれないか」
「いいけど……、どうして?」
 夕香は怪訝そうに首をひねった。
「あっ、いやその」
 いくらなんでも、無理すぎた。豪炎寺は焦った。
 夕香のように小さな女の子ならまだしも、自分のように中学生の男子が着せ替え人形の洋服に興味を持つワケがない。実際、そんなヤツがいたとしたら、ファッション関係の仕事を目指しているか、下手をすれば変態くらいなものだ。
 それでも、今はそれがとても必要だった。豪炎寺は何とか理由を言い繕った。
「お、お兄ちゃんな。家庭科の宿題で必要なんだ。人形に興味があるワケじゃないぞ」
「ふ~ん」
 夕香はくるくるした黒い目で兄の顔をじっと見たが、椅子からおりると、飾り棚に置いてある着せ替え人形の洋服がつめてある箱を取り出した。
「はいっ、お兄ちゃん。どうぞ」
 クローゼットを模した箱を手渡され、豪炎寺は内心ほっとして受け取った。
「ありがとう、夕香」
 用を終えると豪炎寺は早速自分の部屋に戻った。机の上で、小さなままの風丸が物珍しそうに室内を見回していた。
「風丸、見てみろ。夕香から人形用の服を借りてきた。お前が着れるのがあればいいんだが……」
 豪炎寺は机の上に箱を置くと、扉の形をしたふたを開けた。箱の中はプラスチックの棒が通してあり、そこに色とりどりの服がかけてあった。赤、ピンク、白、黄色、水色……。
 箱の中を覗きこんだ風丸は、あれこれ物色していたが、最初は喜色満面だった顔が次第に険しいものになった。
「豪炎寺、これ……」
「どうした? サイズが合わないのか?」
 豪炎寺が尋ねると、風丸は苦い顔で首を振った。
「いや、サイズは問題ない、たぶん。ただ……」
「ただ?」
「スカートしかないんだ……」
 消え入りそうな声で風丸が答える。豪炎寺はやっと、風丸がなぜ嫌そうな顔をしてるかを理解した。自分で箱の中を確認したが、洋服はスカートかワンピースしかなかった。それも、ほとんどがひらひらしたフリルのついたものばかりだ。
「わ、悪い! てっきりズボンもあるかと……」
「いや。お前の気持ちは嬉しいさ! ま、まあ、このカッコのままもなんだしな……。スカートでも、ガマンするさ」
 風丸は箱の中から、制服のようなシャツとクリーム色のベストに紺のチェックのミニスカートを取ると、体に合わせた。その服はあつらえたみたいにぴったりだったが、どこからどう見ても少女にしか見えず、風丸と豪炎寺は、思わず溜息をついた。
 風丸は肩をすくめると、服を着ようとしたが、急に体を震わせるともじもじと身をよじりだした。
「どうした? 風丸」
 豪炎寺が尋ねる。風丸の突然の態度は、一体何が起きたのだろうか。
「あ、あのさ……」
 風丸の体はぶるぶる震えてる。さっぱり分からず、豪炎寺は首を捻った。
「とっ、ト。トイレ……。トイレに行かせて……くれ」
 羞恥のあまりに真っ赤に染まった顔が、風丸の緊急事態を告げていた。豪炎寺はやっと、ああ、と理解した。食うものは食ったので、次に出すものを出さなければならないのは、自然の摂理だ。
「すまん。今連れてってやる」
 豪炎寺は風丸の人形ほどの体を掴んで立ち上がった。見つからないように、そっと廊下を伺ったが、夕香もフクさんもリビングにいるようだった。
 幸いとトイレに潜り込む。洋式便器のふたを上げると、風丸をふちに立たせてやった。クリーム色の陶器の肌はつるりとしていて、その上だと滑りそうだと豪炎寺は思った。
「ふう……」
 排尿してるあいだ、豪炎寺は指で支えてやったが、行為をすませた風丸がそのことに気づくと、いきなりうろたえだした。
「あああああ。豪炎寺、もしかして見てた……のか?」
 またもや豪炎寺は風丸の態度に疑問を持つ羽目になる。
「支えてたからな。見えてしまうのはしょうがないだろう」
「あ、ああ。そうか。でも……」
 風丸の顔どころか、身体中が真っ赤になってしまっている。豪炎寺には、風丸がそれほどまでに、恥ずかしがる理由がさっぱり分からなかった。
「お前が支えてなくても……できるぜ。だから、俺がしてる最中は……」
「うん?」
 豪炎寺は首を傾げてた。
「滑って落ちると危ないんじゃないか?」
「それは、そうだけど。でも! 俺は……」
「風丸」
 豪炎寺はなんとなく、風丸が恥らう訳が分かった気がした。例え小さくなったとしても、他人の手を借りるのは自尊心が許さないのだ。
 その気持ちは分からないでもない。だが今は風丸を一人きりにするのは、危険な気がした。
「俺は、お前を守る義務がある。俺の家で、お前に危害が及ぶようなことは、なるべく避けたい。だから、多少恥ずかしくても、俺に従ってくれ」
「豪炎寺……」
 風丸は豪炎寺の手の中で、うなだれてしまった。蒼く長い前髪が、風丸の顔を隠してしまう。豪炎寺は言いすぎたかと思ったが、すぐに風丸は顔を上げた。
「すまん。俺って……ワガママだよな。お前は俺のこと、守ってくれようとしてるのに。はっきり言って自分で自分が情けないんだ。こんなことすら、ひとりでやれないなんて」
 風丸の声がかすかに震えていた。
「あまり、気にしない方がいいんじゃないのか」
 うなだれたまま、風丸はこくんと頷いた。豪炎寺はそれ以上かける言葉を失ってしまい、ただ指先で背中をさすってやることしかできなかった。
 とりあえず部屋に戻ろうと、トイレから出ると、リビングのドアを開けて夕香が豪炎寺に声をかける。
「お兄ちゃん、お風呂わいたよー」
 風呂か……と考えて、手に隠し持った風丸を思った。気分転換も兼ねて、入らせた方がいいかも知れない。

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「ああ。今、入るよ」
 妹にそう答えると、豪炎寺は支度を始めた。パジャマ替りのスウェットの上下の中に下着と一緒に風丸を隠すと、誰にも見つからないように、脱衣所を兼ねた洗面所に入った。
「悪いけど、一緒に風呂入るぞ」
 風丸が返事をするのもそこそこに、豪炎寺はさっさと服を脱ぐ。タオルを巻きつけたままの風丸を掴むと、腰掛の上に置いてやる。湯船から洗面器で湯をすくうと、まず自分の体に掛け、それから風丸に丁寧に掛けようとして、戸惑った。
 豪炎寺が手を止めたので、風丸は不審に思ったが、まだ自分の体にタオルを巻いたままだと気づいた。
「あっ、すまん」
 風丸は苦笑いすると、きっちり巻きつけていたタオルを解いた。タオルの下から、健康そうな素肌が覗く。つややかなその肌は、かけた湯をさらりとはじいた。
 豪炎寺は湯を掛け終わると、裸の風丸を持ち上げて湯船に入った。湯につからせて、ユニットバスの底の深さを目で確認すると、体を掴んでいたのを手のひらで包み込むように持ち直した。
「おっ。凄いなー。風呂っていうより、温水プールみたいだ」
 風丸が感嘆して底を覗く。
「プールにしては底が深すぎるんじゃないか。気をつけろよ」
 豪炎寺は慎重に風丸の腰のあたりを包んでいる。風丸は苦笑すると、手で湯を掻き分けるように泳ぎだした。
「大丈夫だ、これくらい」
 豪炎寺の手の内から見事なクロールで抜けだすと、風丸はトビウオのように温かい湯を進んでゆく。バスタブの縁に右手をタッチすると、身を乗りあげて湯から上がった。
「床まで2メートル、って感じするな。ん……」
 風丸はバスタブの縁から床までの距離を目線で測ると、喜々として振り返った。
「なあ! 豪炎寺。さっきの洗面器に湯を張って、床に置いといてくれないか」
「洗面器か?」
 豪炎寺は言われた通り、洗面器に風呂の湯をなみなみと注ぐと、床に置いた。
「あ、もうちょいこっち」
 風丸は下を覗きながら、洗面器の位置を調整させる。豪炎寺は言われるままに置き直したが、風丸がなにをしたいのか、分からないままだ。
「一体、なにをしようって言うんだ……?」
 首を捻っていると、風丸はバスタブの縁の上に、まっすぐ立った。一旦腰を屈めると、綺麗な放物線を描いて、床に置いてある洗面器目がけて飛びこんだ。
「おい!」
 バシャンと音を立てて湯の中で一回転し、床の洗面器の中で立ち上がる風丸に、豪炎寺は苦言を呈した。
「危ないぞ。何かあったらどうする?」
「平気だって。お前、意外と心配性だな」
 洗面器の中で仁王立ちになっている風丸を、豪炎寺は手で摘みあげる。
「お前、自分の体がどうなってるかくらい自覚しろ。頭でもぶつけたらどうする?」
「でも今は上手くいっただろ」
 自信満々な顔の風丸に、豪炎寺は首を振る。
「ともかく、洗面器はやめとけ。どうせならこうすればいい」
 豪炎寺はそう言うと、風丸を手のひらに載せて中腰で湯船の中に立った。
「ここから飛びこめ」
「なるほど」
 豪炎寺の手のひらから真下を覗き込むと、風丸は満足げに立ち上がる。両腕をまっすぐ伸ばし、バスタブの湯の波に向けた。そのまますっと飛び込む。風丸の小さな体は水しぶきをあげて、湯の中でくるりと回転した。愉快そうにはしゃいだ声を上げた。
「楽しそうだな」
「ああ。俺さ、小学校の頃よく、円堂とプールに行った時はこんな風に一緒に飛び込みしてたんだ。俺もあいつも競いあってさ。……そういえば、雷門に入ってからは、やってないな」
「そうか」
 風丸は思い出話を語りながら、湯船を背泳ぎでゆっくりと漂っている。豪炎寺は、風丸が股間も何もかもさらけ出してるのに気付くと、思わず目を背けた。
 ──さっきはトイレであんなに恥ずかしがったくせに……。と心で舌打ちしながら。
「豪炎寺」
 風丸が呼ぶ。
「どうした? 変な顔して」
「いや。何でもない」
 目をそらせたまま、豪炎寺は応える。風丸は首を傾げて豪炎寺の顔を見上げたが、そのまま視線をゆっくり下へさげて、ある一点まで行くと慌てて横を向いた。
「そろそろ体……洗うぞ」
 豪炎寺が言うと、風丸は顔を赤くして頷いた。
 豪炎寺の家では、体は大抵ブラシで洗う。木の杓子のようなブラシの先に豚毛が植えられてるものだ。ただ、それを使うのは父親と豪炎寺だけで、妹の夕香は柔らかいスポンジを使う。
 豪炎寺がそのブラシを使って、ごしごしと洗っているのを、風丸は髪を洗いながら羨ましそうにしていた。
「それ、気持ち良さそうだな。俺んちはスポンジだからさー」
「貸してやりたいが、お前の体じゃ……無理だろ」
「だよなぁ……」
 苦笑いを浮かべながら、風丸は豪炎寺に手伝ってもらい髪を洗い流す。
「風丸。ちょっと待ってろ」
 急に思いついて、豪炎寺は風呂場から洗面所のドアを開けた。体からぽたぽた湯が零れる。洗面台のひきだしを物色すると、難なく目的のものを探しだした。すぐに風呂場に戻る。
「風丸。これを使え」
 豪炎寺が風丸に差しだしたのは、真新しい歯ブラシだ。
「考えたな。うん、これなら俺の体に合う」
 歯ブラシを試すがめす、風丸は顔を綻ばせた。
「これは浴用のブラシと同じで豚毛の奴なんだ。そんなに硬くないから、お前の体を洗うのに十分だと思う」
 だが風丸は綻んだ顔をすぐに引き締めた。
「いいのか? 俺なんかが使っても……」
「これは客用の買い置きだ。お前は俺の客なんだから、遠慮はするな」
「豪炎寺……」
 風丸は神妙な顔で豪炎寺の顔を見つめた。
「ありがとう」
 感謝の言葉と同時に向けられた笑顔は喜びに溢れていて、豪炎寺には心の奥がくすぐられる感じがした。
 互いの体を洗い終えると、ふたりは早々に風呂場を後にした。とは言え、風丸は多少はしゃぎすぎたのか、少しぐったりしている。
「ふぅ。ちょっとのぼせた」
 手のひらを扇子代わりにして、風丸は火照った肌に風を送っている。
 豪炎寺は洗面所で着替えたが、風丸は裸にタオルを巻いたままの姿だ。
「おい。服はどうする」
 豪炎寺が夕香の人形の服を示すと、風丸は横目で溜息をついた。
「はぁ……、そうだったな。う~ん」
 洋服の入れられた箱の前で、風丸は腕組みをすると、半ば嫌そうな顔で一着のワンピースを選んだ。水色のそれは袖にも裾にもフリルがひしめいていた。
「これにする」
「いいのか? それで」
「ああ。着るのが一番楽そうだからな」
 溜息をつきつつ豪炎寺に背を向けると、風丸はタオルを解いてワンピースに袖を通した。服を整えながら、豪炎寺に苦笑いを向ける。
「何というか……すまない」
 豪炎寺は頭を下げた。
「いや、文句を言える立場じゃないさ。だけど、……なんか股がスースーする」
 ワンピースの裾から覗くすらりとした風丸の脚が、妙にまぶしく見えて豪炎寺は視線を反らせた。
「そ、そうか」
「パンツ履いてないからな」
「下着までは考えてなかった……」
 豪炎寺は慌てて、もう一度頭を下げた。その姿を見て、風丸は苦笑いのまま首を振った。
「もういいって……」
 風丸はふと、部屋中を見回すと、壁に掛けられた時計に気がついた。短針は9を差している。
「もうこんな時間か……」
 豪炎寺も時計を見て、あることに気づく。
「お前、家に連絡しなくていいのか?」
 風丸の顔には浮かない表情が張り付き、まぶたは伏せがちになった。
「分かってる。けど、どう説明すればいいのか……」
「そうか。お前の体のことを教えた方がいいか?」
 豪炎寺の問いに風丸は首を振った。
「でも、とりあえず連絡はした方がいいだろう?」
「うん……」
 風丸は机の上で、ぽつんと佇んでいる。両手はフリルの裾をぎゅっと握りしめていたが、その顔には迷いが見えていた。豪炎寺は部屋の隅に隠してある風丸のカバンを探ると、サッカーボールのストラップのついた青い携帯電話を取り出した。
「お前の家にかけるぞ」
 豪炎寺が促すと風丸はこくんと頷く。メモリーに入っている風丸の自宅を呼びだすと、風丸の側に差し向けた。1回呼び出し音が鳴っただけで、すぐに電話は繋がった。
「あ。もしもし。母さん、俺。……ごめん。実は……俺ちょっと……体が……」
 如何にも言いにくそうな風丸を見かねて、豪炎寺は携帯を掴むと受話器に耳を当てた。
「話の途中すみません。俺、風丸と同じ、サッカー部の豪炎寺です。風丸は体の具合が悪くて、俺の家にいます」
 電話の相手はどうやら風丸の母親だったようだ。柔和そうな声が、豪炎寺の言葉で不安を募らせるのが分かる。
「風丸は熱で動けないんです。もしかしたらインフルエンザかもしれません。いえ……。俺は予防接種を受けてるから大丈夫です。俺の親は医者ですから、暫くのあいだ、俺の所に任せてくれませんか?」
 風丸は豪炎寺が通話してる間、不安そうに見上げている。それを横目で見ながら、豪炎寺は何とか風丸の親を説き伏せることに成功した。
「でまかせばっかり……」
 通話を終えたあと、風丸は半ば呆れたように呟いた。
「だが、上手くいっただろう。インフルでもなんでもいいが、お前を数日のあいだ表に出なくてもいいようにするには、これしかないんだから」
「……数日ですめばいいんだけどな」
「それはおいおい考えるしかないだろ」
 豪炎寺は風丸の携帯を閉じると、元にあったカバンに戻そうとして、連絡するのは風丸の親だけで良かっただろうかと考えた。……例えば。
「円堂には……」
 連絡しないのか? そう訊ねようとして、その言葉を飲み込んでしまった。
 円堂に今の風丸の状態を伝えるべきか、豪炎寺は迷った。円堂ならば、何よりも風丸の体を心配してくれるだろうことは、想像するに容易い。だが、何故か円堂に伝えることを、心の何処かが拒絶してしまう。
 豪炎寺はその気持ちが何故、己の心に湧きあがってしまうのか、戸惑った挙句、風丸に問うことを保留してしまった。
「なんだ? 豪炎寺」
 机の上でちっぽけな体の風丸が首をひねっている。豪炎寺は苦笑いで打ち消した。
「いや。宿題があるから、さっさと片付けないと……と思ってな」
「宿題かぁ……」
 風丸は豪炎寺が机の上に広げたプリントを眺める。
「俺も宿題あるけど、やれそうにないな」
 今はそれどころじゃないだろう、と豪炎寺はなだめる言葉をかけようと思った。だが、却って気を悪くするのでは……と躊躇していると、今まで聞こえていた風丸のしゃべり声が途切れたのに気づいた。プリントから顔を上げると、風丸はいつの間にか消しゴムを枕にして寝息を立てていた。
 豪炎寺は苦笑いすると、眠っている風丸をそっと持ち上げて、ベッドに寝かせてやった。それから残りの宿題を片付け、明日の準備をしている途中、はっとあることに気がついた。
 クローゼットを開けて、引き出しを探り出す。目的のものは奥深くに大事にしまってあった。それはフットボールフロンティア決勝戦の時に着ていたユニフォームだ。
 豪炎寺はユニフォームを広げて確かめる。生地はあちこちボロボロで、焼け焦げてる部分もある。だがこれは、自分にとってかけがえのない大切な、思い出の詰まったものだ。生地を確認すると、豪炎寺は頷いた。
「これなら……大丈夫だ」
 そう呟くと、棚から家庭科で使う裁縫セットを取り出すと、ハサミを手にした。

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~二日目~

 目を覚ました時、風丸は目に見える景色がいつもと違っていることに、戸惑った。天井は普段見慣れているものよりずっと高く、そして真新しい。横を向くと、ごくシンプルで家具調度の少ない室内。かろうじて一枚だけ張ってあるサッカー選手のカレンダーだけが、この部屋の持ち主の趣味を思わせた。
 慌てて起きあがる。整ったベッドに寝かされていたのだと気付くと同時に、持ち主の気配がないのに違和感を覚えた。見回すと、部屋の主人は勉強机に突っ伏している。
 風丸はベッドから滑り降りようとして、それがとんでもなく広いものだと分かり、昨日、自分に起こった異変を思い出した。
 ──ああ。俺は人形ほどに小さくなっちまったんだっけ……。
 躊躇したが、思いきってベッドから飛び降りた。意外だけれども、着地のショックはあまり感じなかった。豪炎寺が座っている椅子まで駆け寄ると、下から呼びかける。
「豪炎寺! おい、起きろよ!」
 だが豪炎寺はすっかり寝入っているらしく、風丸の声では起きなかった。まだ浅暗い中を、風丸は椅子をよじ登ることにした。キャスターの上に立ち、見上げる。豪炎寺の脚を伝っていけば、上までいけそうだ。
 風丸は何とか豪炎寺の膝のあたりまで這い上がると、体を揺する。それでも、豪炎寺は起きない。とうとう風丸は豪炎寺のスウェットシャツを伝い始めた。
「まるでアスレチックスだな」
と、ひとりごちながら。
 豪炎寺は机の上で腕を枕に頭をもたれている。耳元に近寄ると、大声で叫んだ。
「豪炎寺! 起きろ!!」
 風丸の声にやっと気付いたのか、豪炎寺はびくんと体を揺らすと、むくりと起き上がった。勢いで風丸の体がもんどり打った。
「あ……、風丸?」
「やっと起きたな」
 豪炎寺は何度もまぶたを瞬かせると、目の前の風丸の姿を見て、事態を飲み込んだ。
「ああ。朝か……」
 風丸が頷いたが、豪炎寺は壁にかかっている時計を見て、呆れた声を出す。
「まだ5時だぞ」
「ああ。普段からこれくらいだぜ」
「ずいぶん早起きだな」
「朝は日課のランニングしてるからな。それから朝メシまで勉強してるし」
「こんな時間にか?」
 豪炎寺は机に頬杖をついて尋ねると、風丸は万年の笑みを見せた。
「ああ。この時間の方が、頭がスッキリしていいんだ。夜は部活の疲れが残ってるしな」
「なるほど……」
 豪炎寺は納得して頷いた。
「それにしても、お前。何でベッドじゃなくて、こんな所で寝てるんだ?」
 風丸は首を捻る。豪炎寺はああ、と昨夜遅くまでしていた作業を思い出した。成果は裁縫箱の上に揃えて置いてあった。
「これを作ってた。お前が着れるかと思って」
 豪炎寺は昨日こしらえたものを取ると、風丸に見せた。
「あっ……、それは」
 風丸が声をあげて驚く。豪炎寺が見せたものは、雷門のユニフォームと寸分違わぬものだ。ただし、風丸の体に合わせてかなり小さくなっている。
「これ……お前が作ったのか?」
「ああ。使い古しのユニフォームを使った。着てみろよ」
「あ……うん。でもなんか」
 小さなユニフォームを手渡され、風丸は戸惑った。
「どうした」
「こんなのまで作れるなんて……。お前、ちょっと引く。ドン引き」
 風丸の口から出た意外な言葉に、豪炎寺は思わず驚愕した。
「なっ……、引くって?」
「だってお前。サッカーがすげぇ上手くて、勉強だってそれなりにできて、料理なんかも上手くて、それでコレだろ? ……完璧過ぎなんだよ、お前」
 風丸の最後の言葉には、どこか羨ましげなものがあるのを、豪炎寺は伺ってしまった。
「俺はお前が思ってるほど、完璧じゃないぞ」
 豪炎寺が言うと、風丸は首を傾げた。
「でも、いつだって何でもこなしちまうだろ、お前は」
「何でも出来るようでも、俺が目指す完璧とはほど遠いのさ。だからいつも足掻いてる」
「足掻いてるって。お前が?」
 風丸の問いに豪炎寺は頷いた。
「そんな風に見えないぞ」
「お前から見ると、そう見えるのかもしれない。でも実際は違うし、俺よりももっと上手いやつらだって一杯いる。正直、そいつらに出会う度に、俺は嫉妬してるんだが……」
「お前が嫉妬って。俺ならともかく」
 風丸は自嘲気味にそう言うと、豪炎寺は首を振った。その様に悲しい色が帯びているような気がして、はっと息を呑んだ。風丸はしばらく考えこんでいたが、納得するときっぱりと頭を下げた。
「ごめん。俺ちょっと言い過ぎた」
「いや。謝るほどじゃない」
 豪炎寺はそう言ったが、風丸は首を横に振ると、ユニフォームを手に掲げた。
「せっかくお前が作ってくれたこの服、着てみるよ」
「お前の体に合えばいいんだが……」
 風丸は豪炎寺に背を向けると、まず紺色のハーフパンツ……のようなものを履いた。次にブルーのワンピースを脱ぎ捨てると、襟付きのシャツを着る。長い髪を整えながら振り返った。
「どうだ?」
「うん。結構いいぜ。俺の体にはぴったり合ってる」
「それは良かった」
 豪炎寺はほっと胸を撫で下ろすと、人形の洋服入れに入っていた白のハイソックスと短靴を風丸に渡した。靴の色こそ違うものの、いつも通り部活で見る姿になった。ただ一点の違いはあったが。
 手ぐしで髪を整えながら、風丸は自分の格好を確認した。
「髪をどうかしないとな」
「ちょっと待ってろ、風丸」
 豪炎寺は立ち上がると、そっとキッチンに向かった。まだ朝は早いので、家族を起こさないように静かに目的のものを探した。引き出しに小さな輪ゴムがあったのを発見し、急いで引き返す。
「これ、良かったら使え」
「ありがとう。助かる」
 風丸が受けとった輪ゴムを使って器用に髪を結び上げる。ぱちんと音を立ててまとめると、その蒼く長い髪は風丸が頭をさっと振るだけで、さらりと流れる。本当に、普段見慣れた風丸の姿だ。
「やっぱり、その格好の方が良いな」
「パンツがないから、ちょっと収まりがアレだけどな」
「下着の件はいずれ何とかする」
 豪炎寺が手をついて頭を下げると、風丸は慌てて両手を振った。
「ああ! そんなこと気にするなって。あんまり注文つける立場じゃないしさ」
 風丸は机から椅子を伝って軽々と飛び降りると、おもむろに床を走り始めた。
「何をやってるんだ?」
「ランニングだよ。日課の」
「ああ。そうか」
 豪炎寺は納得して風丸が床を走るのを眺めていたが、ついつい、あくびが出始める。それをかみ殺していると、風丸が呼びかけてきた。
「眠いんなら、軽く寝といたらどうだ? 時間が来たら、起こしてやるから」
「ああ、頼む」
 豪炎寺は風丸の申し出に甘えて、ベッドに潜ると横になった。部屋の中にはカーテン越しに朝一番の光が差し込んだが、昨夜遅くまで作業していた豪炎寺にはそれよりも睡眠を貪る方が大事だった。まぶたは次第に重くなり、豪炎寺の意識からは外の様子への興味が消えてゆく。

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「お兄ちゃん。お兄ちゃんってば!!」
 豪炎寺が次に目を覚ましたのは、7時を回った頃で起こしに来たのも、風丸ではなく夕香の方だった。
「起きてー、朝だよー」
 目をこすりながらまぶたを開けると、風丸の姿が見えないことに豪炎寺は動転した。
「あっ……!」
 風丸は!? と夕香に訊こうとして、豪炎寺はもう少しでとんでもない過ちを侵すところだったと気付いた。
「お兄ちゃん、遅起きだよー」
「……すまない、夕香」
「朝ごはん、できてるからねー」
 妹はそう告げると、ぱたぱたとスリッパの音を立てて部屋を出て行った。彼女が出て行くのを見計らったように、布団から小さな風丸がひょいと顔を出した。
「悪い、豪炎寺。お前を起こそうとしたら、夕香ちゃんが来たんで、隠れてたんだ」
「そうか。お前が見えないんで、驚いた」
 お互いほっと息をついて、ふたりはベッドから起き上がった。豪炎寺はトイレに行こうとして、風丸にふと声をかけた。
「お前、トイレは大丈夫か?」
 途端に風丸はぷるぷる首を振った。
「ああっ、だ、大丈夫だ、俺。先に済ませろよ、豪炎寺」
 あからさまに慌てた態度を、豪炎寺は不審に思いながら洋式便器に腰かけて思案する。
「あれはどう見ても、我慢してるって顔だ……」
 そう確信すると、豪炎寺はさっさと用を済ませて、風丸の所へ舞い戻った。
「お前の番だ」
 一言告げると、有無を言わせず風丸の体を掴み上げて、トイレへ連れて行った。
「あ……、ありがとう。あとは俺ひとりでやれるから、お前は……外で待っててくれ」
 豪炎寺は何の気なしに尋ねる。
「支えてなくても、大丈夫なのか?」
「だっ、大丈夫大丈夫! だからっ、外で待っててくれ。今すぐ!」
 風丸は青ざめた顔でドアを指差した。却って心配だったが、仕方なく豪炎寺はドアを閉めて廊下で待った。その間、2、3分ほど。
「ごっ、豪炎寺! きっ、来てくれ!」
 悲鳴にも似た声で風丸が呼ぶ。豪炎寺は首を捻りながら、ドアを開けてトイレに入った。
「何かあったのか!?」
 トイレの中を見回してみたが、異変が起きたようには見えない。
「あ、あの。豪炎寺! トイレの水、流して……くれないか。お願いだからっ!」
「ああ」
 何だそんなことかと、豪炎寺は水洗タンクに近寄ると、風丸の声が更に上ずる。
「あっ、中は見るなよ。臭いも絶対嗅ぐなっ!!」
 豪炎寺は口をあんぐりと開け、便器にまたがって……というより、しがみついて、の方が正しかったが……顔を真っ赤にして身悶えている風丸に呆れた顔を見せた。大きく溜息をつくと、水洗コックを回してしゃがみこむ。豪炎寺の目の先にちょうど風丸が座っている。水が流れる音が、狭い部屋の中で響いた。
「お前な。人間なんだから、出すもんは出すのは当たり前だ。多少臭かろうが、それくらいでお前を非難したりバカになんかしない」
「でっ、でも……。こんなの……人前で……」
「だからその程度で、取り乱すことはないだろ」
「う……」
 風丸は返す言葉もなく、うなだれてしまった。豪炎寺は立ちあがると、風丸を掴み上げる。風丸はうなだれながらも、下げていたハーフパンツをいそいそと引き上げた。
 自分の部屋に戻ると、豪炎寺は机の上に風丸を置いてやった。制服に着替え、今度はダイニングに向かう。風丸には、食べ物を持ってくると、言い残して。
 食卓のテーブルで朝食をとっている夕香と、改めて朝の挨拶を交わす。テーブルの上にはサンドウィッチとジュースが用意されていた。ありがたい、これなら風丸も食べやすいだろうと、豪炎寺は安堵した。
 一切れを残してさっさと平らげると、豪炎寺は残ったサンドウィッチを紙ナプキンに包んで、ついでに冷蔵庫を物色して見つけた乳酸菌飲料を掴むといそいそとダイニングを後にすることにした。
「お兄ちゃん、もう食べちゃったの?」
 夕香がきょとんと目を丸くする。豪炎寺は冷や汗をかきながら、
「ああ。残りは宿題をチェックしながら食べる」
と、言い訳した。
 部屋に戻ると、風丸は豪炎寺の机の上でじっと待っていた。もう、さっきみたいに、うろたえた表情は見せない。
「風丸。サンドウィッチ持って来た。あと、これも」
 紙ナプキンに包んだサンドウィッチと、極細のストローのついた乳酸菌飲料を差し出す。
「まあ、一度には食えないだろうが、昼の分もそれで我慢してくれ」
 豪炎寺がそう言うと、風丸はにっこり笑って頷く。
「ありがとう、わざわざ……。すまないな」
「いいんだ。俺は学校行くけど、昼間はフクさんがここを掃除しに来ると思うから、その間は机のどこかに隠れててくれ」
「分かった」
 紙ナプキンの包みを開けて、風丸は中身をぱくついている。豪炎寺はストローを乳酸菌飲料のアルミ蓋に突き刺して、風丸の前に置いてやった。
 壁の時計は8時を差している。できるものなら、このまま部屋で風丸の面倒を見てやりたい、と思いながらも豪炎寺はその気持ちを振り切った。
「じゃあ……。気をつけろよ」
「ああ。いってらっしゃい」
 風丸はぱくついていたサンドウィッチから顔を上げると、大きく手を振った。後ろ髪を引かれる思いを抱えて、豪炎寺は学校へと向う。
 その日は一日中、風丸のことが気になってしまい半ば上の空で授業を受けた。同じクラスの円堂も、どこかつまらなそうな顔をしている。昼になり給食を一緒に摂っていると、ついに円堂は思いきり溜息をついた。
「どうした。メニューが気に入らないのか?」
 気になって尋ねると、円堂は口をへの字にして涙ぐむ。
「違うよ、好物ばっかだしさ。けど、今日は風丸が休みだからさ……。美味いもんも腹に入ってかない」
 円堂の口から出た「風丸」に、豪炎寺は思わず身を固くした。
「あいつ休みなのか?」
「うん。風邪だって。もしかしたらインフルかもしてないって……」
「え? 風丸くん、インフルエンザなの?」
 横から、マネージャーの木野が口をはさんだ。
「そうじゃないかって。だからしばらく、学校もサッカーも休むって……風丸んとこのおばさんが言ってた」
 円堂が木野にそう説明する。ということは、風丸の母親は豪炎寺が言った通りのことを信じたらしい。内心、複雑な思いで豪炎寺はふたりの会話を聞いていた。
「大変ねぇ。それじゃ、今週いっぱいは家から出られないんじゃない?」
「うん。伝染るから見舞いにも行けない」
 そう言うと、円堂は盛大に溜息を吐き出す。
「風丸がいないなんて俺、耐えられるかなぁ……」
「いつも一緒だったものね」
 木野の言う「いつも」には勿論、風丸がイナズマキャラバンで離脱していた時期は含まれていない。あの時は非常事態だったというのもあるが、円堂や木野を含む、サッカー部員みんなの中で無意識にそれを忘れようとしてるのだ。
「あ~あ、つまんないなぁ。早く一緒にサッカーしたいのに風丸……」
「で、でも五日くらいの辛抱でしょ。風丸くんもちゃんと治さないと」
「そうなんだけどさ」
 円堂の一言二言に、豪炎寺は気まずいものを感じた。風丸はインフルエンザなんかじゃないし、手のひらの中に収まるくらい縮んで、豪炎寺の部屋に隠れているのだ。
 6時限目が過ぎて、ホームルームが終わると校内は途端に生徒たちのざわめきで埋め尽くされる。今日は職員会議があるため、部活動は全て休みだ。その所為もあってか、今日の円堂は精彩を欠いているのが、豪炎寺にもありありと分った。
「俺、これから鉄塔広場に直行して、特訓しに行くよ。豪炎寺、良かったらつきあってくれるか?」
 鬱憤を吹き飛ばすかのように、円堂は立ちあがるとそう宣言した。
「あ……すまない円堂」
 普段なら自分もボールを蹴らないと気が済まないのだが、今日はそれどころじゃない。ひとつはどうしても足さなければならない用事があるのと、もうひとつは事実を伏せたまま円堂と一緒にいるのが辛いからだ。
「夕香ちゃんと約束があるのか?」
「まぁ、そんなところだ」
 円堂は自他共に認めるほどのサッカーバカだが、他人の都合を思い図らない奴ではない。豪炎寺がやんわりと断ると、すぐに苦笑いで応じた。
「そっかー、じゃあ仕方ないな。俺、日がくれるまで特訓してるから、都合が良くなったらいつでも来てくれ!」
 曖昧に頷くと、豪炎寺は教室で円堂と別れた。太陽のような笑顔が教室から消えると、ほっと息をついて豪炎寺は授業中思いついたことを実行に移すと決めた。

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 自宅のマンションにはまっすぐ帰らず、豪炎寺は稲妻町の商店街へ足を運ぶ。駅からさほど離れていないそこはアーケード街になっていて、町民にはお馴染みのショッピングゾーンだ。
 商店街は若者向けのファッション店から、老人の憩いとなる和風喫茶まで、それこそありとあらゆる店でひしめいている。本屋、靴屋、八百屋、時計店。揚げたてのコロッケが美味いと評判の肉屋や、ホカホカの湯気を立てた肉まんを売る中華料理店。はたまたその隣には渋い手ぬぐいや扇子などを並べる和装小物店……。電子音が響くゲームセンターがあれば、更には白いフリルのエプロンをつけたメイド喫茶の店員がチラシを配っているという塩梅だ。
 豪炎寺はその中のひとつ、ひっそりと構えている小さな店に入った。ドアベルがちりんと奏でる扉の向こうには、アーケード街とはまるで違う雰囲気を醸し出す空間が広がっていた。
 思わず息を呑む。しんと静まり返った店内は、大小数々の人形がひしめいていた。他にも、豪勢なつくりのドールハウスや人形用の衣服、ミニチュアの家具などが店内の至るところに展示されている。
 豪炎寺は以前、夕香と共にこの店を訪れていた。妹の持っている人形や洋服は、退院祝いとしてここで買ったものだ。授業中、この店のことを思い出した豪炎寺は、ここになら風丸が満足できるものがあるに違いない、と目星をつけたのだ。
 店内を色々見回ってみる。この店には、少女を象った人形だけでなく、凛とした少年の人形もあったはずだ。
「……あった!」
 豪炎寺が目にしたものは、その少年の人形に着せる為の洋服だった。チェック模様のシャツや、コーデュロイのズボン、それに白い下履きもある。豪炎寺はそれを手に取る。サイズといい、申し分ない。ほっとしたのもつかの間、値段を確かめると意外にも人形用の衣服は豪炎寺が思ってる以上の数字が並んでいた。
 制服のズボンのポケットにある財布を握りしめる。手持ちの金では洗い替え用の分までは足りそうにない。溜息をついて、豪炎寺はそれ一枚だけを手にした。
 他にも店内を物色してみると、様々なものがあるのに気付く。この店は人形に関するものはありとあらゆるものを取り揃えているらしく、自分でカスタマイズするための髪の毛まで置いてある。特に豪炎寺の気を引いたのは家具のコーナーで、人形のサイズに合わせた椅子やテーブル、食器などの小物だった。
 陶磁でできたテーブルセットは宮廷貴族の食卓のよう。モダンなデザインの椅子は60年代風だ。ごく小さな食器の一揃いを眺めて、これを使えば風丸も不自由しないのでは、と思い馳せた。ああどうせなら……。
 豪炎寺は思わず便器はないのかと店内を探してみて、流石にそんなものまではないと気付いた。それはそうだ。ここにあるのは、飽くまで人間を模したものたち。無機質な体は食事を摂らないし、排便なんかするわけがない。埃はつくだろうが、風呂で汗を流すことさえないのだ。
 豪炎寺は店内の棚いっぱいに並べられた人形たちを仰ぎ見た。青や茶色や緑のガラスをはめこんだ瞳が一斉に豪炎寺を見たが、どれもこれも魂を感じさせない。
 風丸は、違う。
 風丸は息をして、鼓動をたてて、ものを食べ、歩いて、走って、時折悲しい顔をして、そして豪炎寺に笑いかける。
 人形とは違うのだ。
 触れると温かい肌を持ち、乱暴にすれば怒るし、優しく扱えば感謝の眼差しで見てくれるのだ。
 豪炎寺は、もっと風丸を理解してやらなければ、と思った。今の風丸の気持ちを分かってあげられるのは、自分しかいないのだから。
 そこまで考えると、豪炎寺は手にした下着をレジに持って行った。とりあえず、これだけは買っておこう。これは今、風丸に最も必要なものだ。
 ひしめく人形の森を抜けて、レジにたどり着いた豪炎寺は、そばの丸いテーブルに展示されてる、値引き処分品の木製の椅子に目を止めた。それはごくシンプルな作りだったけれど、風丸が座るのにちょうど良さそうだ。値段も手持ちの金で充分足りる。
「これ、下さい」
 レジにいたゴシックな成りの店員に、豪炎寺は声をかけた。


 風丸が自分がかなりの間寝ていたのと気づいたのは、もう陽が真上にある頃だった。豪炎寺が登校してすぐに、フクさんが部屋の掃除に来たので、食いかけのサンドウィッチと一緒に自分も机の棚に隠れているうち、ついうっかり寝てしまったのだろう。
 部屋の中は陽光で明るい。そして誰もいない所為か静かだ。窓の外を小鳥のさえずる声だけが聞こえている。
 風丸は机の上に這い出ると、残りのサンドウィッチを引きずりだして食べようとした。寝ていただけなのに、腹がどうしようもなく減っている。ストローを差した乳酸菌飲料に口をつけた。喉もかなり渇いている。
 サンドウィッチを食べ尽くして、飲み物もあるだけ飲んで……。風丸はふと机のを見回すと、飾ってある写真立てに目を奪われた。今の今まで気がつかなかったが、写真立ての中身は一枚の家族写真だと気付いた。手前にいる髪を立てた小さな男の子は、幼い頃の豪炎寺だ。サッカーボールを手で抱えている。右奥にいるのは風丸も見覚えのある男性で、浅黒い肌に太めのフレームの眼鏡が印象的だ。この人は豪炎寺の父親で稲妻病院に勤務している外科医……だが、風丸の知っている医師はいつもしかめ面で、写真の様に優しそうな笑みは見せたことがない。
 その左にいるのは見たことのない女性で、栗色の長い髪を肩口でふんわりと前にまとめて垂らしている。腕にはピンク色の産着を着た赤ん坊を抱いていた。柔和そうな笑顔がこの家族を微笑ましく見せていた。
「この人は……」
 風丸は首を傾げた。多分、彼女は豪炎寺の母親なのだろう。だが、昨日と今朝にかけてこのマンションにいたが、この人の存在を感じたことはなかった。
 写っていて風丸に分かるのは、幼い豪炎寺とまだ乳児だろう彼の妹。笑っている医師。
 ──ああ。そうか……。
 風丸は彼女が既にここにいない存在なのだと悟った。そう言えば、部活の時など、仲間たちが母親の話題を口にするのに、豪炎寺だけは……正確には鬼道も、だがそれは彼が実の両親を亡くしているのが暗黙の了解だからだが……、母親の話だけは絶対にしないという事実をなんとなく気付いていたのだが。
「あいつ……」
 風丸は複雑な思いで写真を見た。写真立てを前にして、机に腰をおろす。頬杖をついてじっと豪炎寺のことを考えているうちに、再び眠気が襲ってきた。
「あ、ヤバい……」
 このまま眠っては、大変なことになる。そう、頭の中で分かっているはずなのに、いつの間にか風丸は眠りの世界へ旅立っていた。


 人の気配がする。
 風丸は自分の体が誰かに触られている、と感じ薄目を開けた。
「わぁ!」
 びっくりして思いきり目を開ける。目の前に女の子の顔がある。その顔の作りは豪炎寺にとても良く似ている。
 夕香ちゃんだ、と気付いた瞬間、風丸はマズいことになった、と冷や汗をかいた。
「すごーい! このお人形、目を開けるんだぁ!」
 幸いにして、夕香は風丸をただの人形と思いこんでいる。このまま人形のふりをしていれば、大ごとにはならないだろうと踏んだ風丸は、身を硬くして成り行きを見守ることにした。
「でも……。なんでお兄ちゃんお人形なんか持ってるのかな? それも風丸お兄ちゃんソックリだし……」
 夕香は首をひねった。引きつりそうになる顔を必死に保って、風丸は彼女にバレないようにと、祈るしかなかった。
「ま、いっかぁ!」
 夕香は頷くと、それ以上詮索するのはやめて風丸を机の上に戻し、部屋を出て行ってしまった。
「はぁー……。あせった」
 彼女が出て行ったと同時に、ほっと息をつく。風丸は天井を仰いで大事に至らなかったのを実感した。
 それもつかの間。
 再び可愛らしい足音が部屋へと近づく。びくんと風丸は動きを止めた。ドアを開けて入ってきた夕香は、手に亜麻色の髪の少女人形を手にしている。にこにこと笑いながら彼女は、その人形を風丸の隣りに並べた。まだ机の上に置いてあったままの洋服入れの中を覗いて、
「う~ん……」
と、首を傾げる。少々考えあぐねた挙句、ひと揃いの服を取りだすと風丸の体に当てた。その服は昨日、風丸が最初選んだもので、クリーム色のベストに白い開襟シャツ、短めのプリーツスカートが学生服のように見える。夕香はそれが風丸によく似合うと確かめると、にっこり笑った。
「うん。これ!」
 彼女は服を机に置くと、今度は風丸が今着ているものを脱がしにかかった。
 やめてくれっ!!
 そう叫びたかったが、そんなことを言おうものならば、大変な騒ぎになるのは日の目を見るより明らかだ。だが、今、風丸は下着がないので素肌の上に直にハーフパンツをはいている。いくら夕香が幼い少女だとして、裸の下半身を見られるのは恥ずかしい。ただでさえ、女物の服を着せられるのは嫌でしょうがないのに。
「んん~。この服、ぬがせずらーい」
 夕香は風丸のユニフォームをまくりあげ、ハーフパンツを指でひっぱって脱がせようとしている。風丸は必死に体を動かさないまま、脱がされないように抵抗するしかなかった。
 風丸の窮地を救ったのは、玄関から響いたチャイムだった。きっと豪炎寺が帰ってきたに違いない。
「あっ!」
 夕香もぱっと顔を輝かせると、風丸を手にしたまま、廊下へ飛び出す。キッチンで食事の支度をしていたフクさんがいそいそとやってきた。
「あっ。おかえりなさい、……お父さん」
 ドアを開けて入ってきたのは、豪炎寺ではなく彼の父親だった。
「ただいま、夕香」
 豪炎寺の父は夕香の頭をそっと撫でる。ふと視線を下に落とし、彼女が手にしているものが見覚えのないものだと気付いた。首を捻ると、父親は娘に尋ねた。
「夕香。その人形はどうしたんだ」
「あっ。……ううん、ちがうの。これは……お兄ちゃんの」
 夕香はしどろもどろになって、父親に答える。
「修也のだと!?」
 娘の答えに、豪炎寺の父は眉をひそめた。
 豪炎寺が帰宅したのは、その最悪な状況が起きていた時だった。風丸が喜ぶだろうと、買ったものを大事に抱えて帰った豪炎寺は、自分がいない間に大変な騒ぎになっていたとは思いもよらなかった。

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 玄関に入るなり、父の厳格な声が呼ぶ。
「修也!!」
「父さん? おかえりなさい」
 父がいつになく怒りを露わにしていることに豪炎寺は内心、不穏に思った。
「これは一体なんだ!?」
 父の手に風丸が握られているのを発見した時、豪炎寺は血の気が引くのを感じた。
「それは……」
 握られながらも、目が合うと風丸は豪炎寺に合図を送ってきた。真実を話すのはダメだ、と。豪炎寺は頷いて、何とか父を説き伏せようとした。
「これはお前のだな?」
「……はい。返してくれませんか?」
 豪炎寺はまっすぐ父親の顔を見上げる。だが、父は却って怒りを募らせた。
「お前が、こんなものをか?」
「俺にとっては、とても大事なものなんです。返して下さい」
「修也!」
 激昂が廊下に響いた。フクさんはオロオロとふたりの間で気を揉んでいるし、夕香は今にも泣きそうな顔をしている。豪炎寺はただひたすら、口元をひきしめて父を見上げている。
「お前はなんだというのだ。いつまでも球遊びに興じているかと思えば……。私はな。お前を中学生にもなって人形遊びをするような息子に育てた覚えはない!!」
 豪炎寺の父は腕を振り上げた。手の中の風丸を見ると、ぐっと指に力をこめる。
「やめて下さい! それは、風丸は俺の、大事な……!」
 豪炎寺は血相を変えて父にすがりついた。振り払うように、父は叫んだ。
「こんなもの!!」
 だが、豪炎寺の父が次に見たものは、自分の手の中にある『人形』がうめき声をあげる光景だった。
「ううあっ……!!」
「父さん!」
 手の中の人形は苦しみもがいて、掴んでいる手の甲に爪を立てている。父はそれをあり得ないものと認識した瞬間、得体のしれない畏怖から思わず自分の手から「それ」を振り落してしまった。
「風丸!!」
 豪炎寺は振り落とされた風丸を、慌ててダイビングキャッチした。上手いこと床に落ちる前に、手のひらに救出する。手の中に風丸がいると分かり、豪炎寺は安堵した。
「大丈夫か? ケガはないのか?」
「う……うん」
 だが、風丸はぐったりとして豪炎寺に体を預けている。目の前が青ざめるのを感じた。そこへ豪炎寺の父が、信じられないもの見るような顔をして尋ねる。
「修也。これは一体、どういうことなんだ……?」
 隠し通すことを諦めた豪炎寺は、父親に今までのいきさつをかいつまんで説明した。夕香はまだぐったりしたままの風丸を、両手でさすっている。
「ごめんなさい……。ごめんなさい」
 夕香は目に涙の粒を浮かべている。風丸は彼女を見上げて、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫……だから」
 豪炎寺の父が、それを見やって深い溜息をついた。
「修也。なぜお前は最初から私に話さなかった?」
「でも父さん。俺が、風丸がいきなり小さくなりました。と言って、信じてくれますか?」
「それは……」
「俺だって、信じられません。でも、風丸があんな姿になったのは事実です。黙って俺の部屋に連れてきたのは、悪かったと思います。けれど仲間が困ってるのに、俺は何もしないままでいるのは……」
 そこまで説明すると、豪炎寺の父は立ちあがった。夕香の元にいくと、両手で撫でさすっている風丸に手を伸ばした。
「貸しなさい、夕香」
 夕香はたじろいだが、すぐに言う通りに風丸を手渡した。父は風丸の体じゅうを調べると、着ているユニフォームをめくった。
「と、父さん!」
 豪炎寺が止めようとしたが、険しい顔がそれを阻む。
「これでも私は風丸くんの主治医だ。患者の容態くらい私が診るべきだろう」
 一ヶ月以上も前、風丸が福岡から稲妻病院に転院した時、担当していたのは豪炎寺の父だったことを豪炎寺は思いだした。
「ふむ……、骨折は見あたらない。チアノーゼは出ていないようだが。風丸くん、痛みはないかね?」
 豪炎寺医師は風丸の体のあちこちを指で揉むように確かめると、そう尋ねる。風丸は首を振った。
「少し息が苦しいだけです」
「一時的に呼吸困難になった所為だな。……風丸くん、済まなかった。もう少しで君を死なせてしまうところだった」
 沈痛な面持ちで豪炎寺の父がそう言うと、風丸はもう一度首を振った。
「いいえ。先生の気持ちはわかります。でも豪炎寺は悪くないです。豪炎寺はずっと俺を守ってくれました」
 豪炎寺の父は黙ったまま風丸の服を整えると、そばでじっと見守っている豪炎寺に振り返った。
「修也。風丸くんのご両親には連絡はしたのか?」
「はい」
「私から改めて話したい。連絡先を教えてくれ」
 父が風丸の体を手のひらに横たえて豪炎寺に手渡した。風丸と顔を見合わせたが、頷いて返したので、豪炎寺は夕香に彼を託すと自分の部屋へ行った。風丸のカバンから携帯を取り出し自宅の番号メモリを探す。リビングに戻って携帯を示すと、豪炎寺の父は電話をかけはじめた。
 結局、豪炎寺の父は風丸の親に真実を話すことはなかった。但し風丸の体調を彼が管理することになり、毎日決まった時間に診察すること、という条件をつけられた。
「風丸くんのケースは非常に稀だ。しばらく私が様子を見ることにする」
「父さん。それでは……」
「ああ。風丸くんはうちで預かる」
 豪炎寺と風丸は父親の言葉を聞き終えると、互いに喜びあった。もちろん、妹の夕香も嬉しそうにはしゃいだ声をあげた。
 その日、風丸は豪炎寺一家と共に夕食をとり、隠れることもなしにのんびり風呂に入った。フクさんが風丸のために急ごしらえの寝床を用意してくれたし、昨日よりはぐっと快適になったので、豪炎寺も心配するようなことが減ってほっと胸をなでおろした。
 宿題をすませて明日の用意をしていると、机の上で豪炎寺が買ってきた椅子に座っていた風丸がくつろぎながら話しかけてきた。
「豪炎寺、俺さ。お前の家族にバレてかえって良かったって思うよ」
「そうか?」
 豪炎寺が返すと風丸はこくんと頷く。
「みんな、俺に良くしてくれるしな。夕香ちゃんに見つかったときは、どうなるかと思ったけど」
 風丸は自嘲気味に微笑むと、ひざの上にひじを乗せて頬杖をつく。
「それと……ありがとうな。わざわざ俺のために買ってくれて」
 風丸は座っている椅子の背を手でぽんと叩く。
「お前の下着を買わなきゃならなかったし、それはついでだ」
「俺、気に入ったよ、これ。いつかお前が気にいるもの買って返さなくちゃな」
 そう言うと、豪炎寺は首を振った。
「いや、気にするな。お前が今しなくちゃいけないのは、元の体に戻ることだ」
「元の体か……」
 風丸は窓の外を仰ぎ見て、つぶやいた。外は夜もふけて、月が冷たい光で煌々と町を照らしている。
「そうだ。しばらくは俺とうちの家族がお前を守ってやるから、そこは心配ない。今度はなんとか元通りになる方法を見つけよう」
 豪炎寺が言うと、風丸はほんのちょっと考え込んだが、すぐにゆっくり頷いた。小さな顔に伏せたまぶたは長いまつ毛で飾られていて、それが豪炎寺には夕方あの店で見た人形のように見えて、ぎくりと冷たいものが胸をよぎった。
 いいや。風丸は生きている。
 人形の訳がない。
 そう思い直すと、勉強机の椅子から立ち上がった。
「もう寝よう。とりあえず明日から一緒に考えよう」
「そうだな」
 風丸を寝床に運んであげてから、豪炎寺も自分のベッドに潜り込む。枕に頭を乗せて、だが、本当に風丸を戻す方法があるのだろうか……と考えているうち、深い眠りについた。


 その夜ふたりが寝静まったあと、豪炎寺の部屋を父はそっと覗きこんだ。ベッドのそばにつくられた小さな寝床に、人形のように小さな風丸が寝返りを打つのを見て、父はひとりごちる。
「信じられん……。こんなことが人体に起こるものなのか……?」

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~三日目~


 豪炎寺は迷っていた。
 風丸を元の体に戻す方法…なんて、いくら考えても頭に浮かばない。ベッドの上に座り、天井を見あげる。思わず吐きだす溜息を、そばに同じように足を投げだして座ってる風丸が、浮かない顔で見た。
「詰まってるな。お前」
 豪炎寺は頷くと、 風丸を手のひらに乗せて胸元に運んだ。
「お前を早く元に戻してやりたい。……そう思ってるんだが、なかなかその方法が見つからない」
「……ごめんな」
 豪炎寺が頭を抱えてると、いきなり風丸はそう言い出した。
「お前は俺のために色々考えてくれてるのに」
「いや。これは当然のことだと思ってる」
 豪炎寺が首を振ると、風丸はにっこり笑いかけた。
「そうだ。気分転換にいいことしてやるよ」
「いいこと、ってなんだ?」
 そう訊くと風丸は、豪炎寺の手からひざの上に滑りおりると股間に手を伸ばしてくる。
「気持ち良くなるようにさすってやるよ。こういう時はすっきりするのが一番なんだぜ?」
「風丸……お前!」
 豪炎寺は慌てて首を横に振った。風丸はそれに構わず、両手をスウェットの布地の上からしごくように撫でつける。
「これはお礼だよ。今の俺にできることなんてこれくらいだしさ。遠慮するな」
 触られた部分からせりあがる悦楽はとても心地よい。だが、豪炎寺は必死にそれを受けいれるまい、とした。
「ダメだ……風丸」
「……豪炎寺!」
 耳元に聞こえる風丸の声と、ぺちぺちと誰かが自分の頬をつつく感触に、豪炎寺は我に返った。
「豪炎寺、大丈夫か?」
 目を開けると、風丸が相変わらず小さいままの姿で、心配そうに自分の顔を覗きこんでいる。豪炎寺は寝ぼけまなこをこすった。
「お前、うなされてたんだぜ。だから起こしたんだけどさ」
「そ、そうか」
 どうやら眠りから覚めたらしい。風丸の反応からして、あれは夢か。
「よっぽど怖い夢見たんだな。どんなのだよ?」
 何の気もなしに風丸は尋ねてくる。豪炎寺は夢の中での強烈なイメージと現実の違いに困惑しながらも、風丸に本当のことなど言えるわけもなく、
「さあ……どうだったかな」
と、忘れた振りをした。
「なんだよー」
 苦笑いすると風丸は、もう朝食ができてると告げた。
「俺、お前のお父さんに体を診てもらわなきゃならないから」
 風丸はそう言うと、ベッドから滑りおりて部屋の外で待っているらしいフクさんの元へ走っていった。豪炎寺は起きあがると、大股で部屋を横切りトイレに閉じこもる。
 なんて夢だ。俺は無意識下で風丸をあんな欲望の目で見ていたのか?
 便器に腰かけて豪炎寺は頭を掻きむしった。
 そんなはずはない。あくまで風丸はサッカー部の仲間。
 第一あいつはれっきとした男で……。
 確かに、最初あいつを見たときは、一瞬女子かと見間違えそうになった。でもそれは、他の……サッカー部だけでなく他の同級生にも同じようなやつがいるとは聞いているし、風丸の髪型を見ればそう思いこむのも仕方がないだろう。
 でも風丸の性格を知れば、全くそうじゃないと誰もが分かる話だ。
 だが、己の股間は朝特有の、いきり勃つ兆しを見せていることに、豪炎寺は舌打ちする。
 豪炎寺は盛大に溜息をついた。
 あれは夢だ。単なる夢。
 それにこれはただの生理現象であって、夢のことなど関係はない。
 昨日だって一緒に風呂に入ったが、風丸の裸を見ても、別に興奮も何もしなかった。
 連日の、風丸が小さくなってしまったという非日常のせいで、疲れてるんだろう。
 豪炎寺はそう思い直すと、済ませるものを済ませてトイレを出た。洗面台で冷たい水で顔を洗うと、やっといつもの冷静さを取り戻した。
 服を着替え、風丸や夕香と共に朝食をとる。風丸は昨日よりも生き生きとしていて、これはやはり隠れてこそこそする必要がなくなったからだろうと、半ば安心した。
「それじゃ、行ってくる。風丸、何があるかもしれないから、気をつけろよ」
「ああ」
 後のことをフクさんに託し、豪炎寺は登校することにした。
 外へ出ると空はうららかで、気分のいい朝だ。澄んだ空気を吸いこむと、朝見た、淫らな夢のことなど遠いものに思える。豪炎寺は幸いにと、夢のことを頭から追い出した。そんなものでいつまでも気を揉む必要はないのだ。
 今考えなくてはならないのは、風丸の体を元に戻す方法。そっちの方が問題なのだから。
 朝のホームルーム前の教室は活気があり、クラスメイトたちのざわめきで満ちている。豪炎寺が席に着くと、斜め向かいの席で円堂が背中を丸めて溜息をついていた。昨日の円堂を思えば、未だ病欠中の……ということになっている風丸が気にかかっているのだろう。
「円堂」
 思わず寂しげな背中に呼びかけて、豪炎寺はためらいがちに円堂の顔を見た。
「豪炎寺。……おはよう」
 円堂は背中を丸めたまま、返答する。
「円堂。あのな」
 こんな消沈している円堂を見ていると、やはり風丸のことは話しておいた方がいいんじゃないかと豪炎寺は逡巡しはじめた。
「ん? 何だ」
 円堂が振り向く。言うのなら今がチャンスだ。円堂なら一緒に風丸を元に戻す方法だって考えてくれる。今のうちなら……。
 けれど、鳴り響くチャイムが豪炎寺の決心を揺るがす。
「どうした豪炎寺?」
「いや。……何でもない」
 一千一隅のチャンスをのがした豪炎寺は、円堂に手を振って席に座る。円堂は首をかしげたが、教室に入ってきた担任に気を取られて、結局はそのまま授業を受けた。

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 授業を終え、待ちに待った部活の時間。一日振りのサッカー部は、いつもなら活気あふれているはずが、部員たちの中には微妙な雰囲気が流れている。
 円堂が自分の気持ちを振り払うようにカラ元気な声を出している、のはまだいい。2年生の一部はどこか寂しげだし、1年生に至ってはすっかり意気消沈している。
「一体、どうしたのよ。今日のみんなは覇気がないんじゃない!?」
 マネージャーの夏未が練習中のサッカー部を見て、ぷりぷり小言を言っている。同じくマネージャーの木野と音無が顔を見合わせた。
「さ、さぁ……。おとついまではいつも通りだったんですけどねー」
 今日の、いつもとは違う点はたったひとつしか彼女たちは知らない。
「風丸くんがお休み……だからじゃないかしら」
「風丸くん、休みなの? だったらなぜこんな状態なの? どうして?」
「どうして、って言われても……」
 木野は困り顔を夏未に見せるだけだ。
 部員たちに流れる沈んだ雰囲気は、いつしか一部に苛つきを生じさせた。
「お前ら、たるんでるぞ! 特に1年! 気合入れろ、気合!」
 ついの言葉が出たのは、染岡だった。やり玉に挙げられた1年生からは、ため息ともつかない息がもれる。
「だってしょうがないじゃないですか。何だか分からないけど、そういう気分にならないんですから」
 宍戸がぶつくさと言うと、余計に染岡は怒りを募らせる。
「気分にならないって、どういうこったぁ!?」
 グラウンドに鳴り響く怒号に、1年生たちが
「ひいっ!」
とおののいた。流石に他の2年生たちが何事かと駆けつけ、円堂のとりなしで一旦休憩することになった。
「でもそういや、今日はなんだか活気がないよな」
 半田がドリンクで喉をうるおしながら、円堂に同意を求めた。
「ん~……。そうか?」
 問われた円堂もどこか生返事だ。
 豪炎寺にはその原因が分かっている。何せ、教室での円堂をよく見ているのだから、分からない訳がない。風丸が休んでいる所為だ。
「とか何とか、平気なフリしちゃってキャプテン。僕には分かるよ」
 松野が黒目がちな瞳を円堂にじっと向けた。
「な、なんだよマックス」
「しらばっくれて……。風丸の所為でしょ。か・ぜ・ま・るの」
「うっ」
 と円堂が図星をつかれて、ドリンクを取り落としそうになる。と同時に、1年生たちがしゅんと肩を落とした。
「風丸は確か、今週一杯休みだったな」
 鬼道が確認するように尋ねる。
「インフルエンザだっけ?」
「まだ流行る時期じゃないのにな」
 風丸と同じクラスの土門が言うと、一之瀬が首をひねった。ずっと聞いていた豪炎寺は、胸の内に不味いものを感じた。
「……流石、風丸くんだ。流行に乗るのも早い……」
 影野がぼそりとつぶやいたので、部員たちはがくりと顎を落とした。
「笑いごっちゃねぇぞ!」
 と染岡が怒鳴ったが、みんなが噴きだしたので、豪炎寺は逆に安堵した。
「ってか、マックスの言う通りだ。円堂! 1年がたるんでるのも、お前が気合入ってない所為じゃないか!」
 染岡に指摘され、流石に円堂は溜息をもらして頭を掻いた。
「う~……悪い。みんなの言う通りかも」
 1年生たちも一緒になって溜息をつく。
「そうッスよ。風丸さんがいない所為か、なんか張りあいないッス」
「いつもなら、風丸さんが俺たちの面倒見てくれるんですけどね……」
 それを聞いて、染岡が呆気に取られた顔をした。
「お前ら、風丸、風丸って……。あいつはお前らのおふくろじゃねぇぞ」
「おふくろって……」
 土門と一之瀬が顔を見合わせて、堪えきれずに苦笑いした。すると、練習中の頃からひっそり虚しい顔を見せていた栗松がいきなり悶えるように体をねじりだした。
「うう……体が……燃えない、でやんす」
「おいおい」
 半田が大丈夫かと、栗松の目の前で手を上下に振ってみせた。
「まあ、言われてみれば1年生の面倒って、たいてい風丸くんが見てましたねぇ……」
 目金がかけている眼鏡のフレームを人差し指で直しながら、みんなに同意を求める。他の部員たちも思い当たることがあるのか、一斉に頷いた。
「風丸がおふくろかぁ~。言い得て妙だな」
 誰ともなしにそんな声が聞こえる。だが円堂は首を横に振った。
「俺、風丸をそんな風に思ったことないぜ」
「またまた。キャプテンは自覚ないだけだよ」
 松野がにやにや笑みを浮かべる。
「おふくろかどうかは兎も角、円堂が風丸を頼りっぱなしなのは、確かだな」
 鬼道がきっぱりと、そう言う。流石に円堂は反論し始めた。
「鬼道までそんなこと言うのかよ。俺、風丸を母ちゃん扱いなんかしてないし、あいつの負担になることなんか、何も……!」
「って実際、何かあれば風丸、風丸って飛んでいってるだろうが」
「帝国と最初に試合やる時だって、真っ先に風丸に助っ人頼みに行ったんじゃなかったっけ?」
 染岡と半田が矢継ぎばやで言うので、円堂はしどろもどろになった。
「そ、それは……」
「そうそう。前に風丸、夏休みが終わるたびに宿題手伝わされるってボヤいてた」
「なんだそりゃあ」
 部員たちの間で、笑いが起こる。
「でもさぁ。このままだと、風丸は一生キャプテンの面倒することにならない?」
「え~。そんなことないって」
 円堂が否定の意味で手を横に振ったが、部員たちの視線は有無を言わせなかった。
「おい、円堂。風丸のことも考えてやれよ。お前の面倒見てばっかじゃ、あいつ一生結婚するどころか女のひとつも作れなくなるぞ」
「結婚、って。まだ俺もあいつもそんなこと考えんの早すぎだろ」
 円堂が苦い顔をすると、松野が溜息ともつかない息を吐きだして肩をすくめた。
「甘いね、キャプテン。風丸は特に奥手なんだから。だったら、もしも風丸が大人になっても彼女もいないようなら、責任とってキャプテンがお嫁に貰ってやれば?」
 松野が言い終わると、一瞬仲間たちが口をつぐんだ。しんと静まり返ったかと思えば、すぐに爆笑の渦が起こった。
「ないない! それはないっ!」
「も~。お前ら、風丸が休みだからってここぞとばかりに笑い話にするなよ~!」
 ひどい冗談で盛り上がっている一同を尻目に、栗松がつぶらな瞳をうるうると潤しながらひとりごちた。
「……風丸さんがお嫁さん……。いいでやんすね~」
「え」
「風丸さんのことだから、さぞかししっかり者のお嫁さんでやんしょね。羨ましいでやんす!」
 部員たちが思わず黙り込む。栗松がぽっと頬を染めながら夢見るように宙に視線を漂わせてるので、みんなは更に顔を引きつらせた。
「お……おい、栗松。マジで言ってんのか、お前?」
「俺は本気でやんすよ!?」
「まさかお前、……風丸で“抜いて”たりしねぇだろうな?」
 染岡が青ざめた顔で尋ねると、栗松は血相を変えた。
「なっ、なに言うでやんす! 神聖な風丸さんでそんなことするワケないでやんすよっ!!」
「『神聖』っていうか、『真性』だなこりゃ」
 みんなが絶句してる中、土門がオーバー気味の仕草でそう言う。他の部員たちがすっかり引いている中、一番小柄な少林寺だけが首を傾げている。
「ねぇ、“抜く”って何のこと?」
「少林はまだ知らなくていいよ……」
 宍戸が慌てて首を振っていると、一之瀬がにっこり微笑みながら栗松の肩にぽんと手を置いた。
「大丈夫だ、栗松。日本じゃまだムリだけど、アメリカでは州によっては同性婚が認められてるから、将来のことは安心していいよ」
「お、俺はホモじゃないでやんす!」
「一之瀬、空気読めよ~」
 一部に不穏な空気が流れる中、半田がとりなすようにみんなに落ち着けと両手で合図をかけた。
「ま、まあさ。もうやめようぜ、この話題! っていうか、こんなとき諌めてくれるのって風丸の役目だったよな……」
 半田が何気なく言った言葉に、一同ははっとなった。
「そう言えば風丸がいるときはこんな話題なんて出なかったよな」
「自然とそうなるカンジッスよね」
「俺たちも、1年の面倒は風丸はやってくれるから、ってあいつに任せっきりだったかもな」
 それぞれの口から、ぼそりと気づいたことが出る。鬼道が厳かな顔でみんなを見回した。
「なるほど。風丸が休んだことでやっと俺たちは自覚できたのか。あいつがこのチームの潤滑剤だったと」
 チームのみんなそれぞれが、風丸の不在で彼がどんなに必要不可欠だったかを思い知る。一同にしんみりとした空気が流れた。
「円堂だけじゃない。俺たちも風丸離れする時が来たという事だ。あいつがいない時でも、このチームを滞りなく活動させるのが俺たちの務めだ。風丸がしていた仕事は他の奴がフォローしなければな」
 鬼道が宣言すると、みんなも理解したのか頷いて応える。だが、円堂だけは首を振った。
「でも、風丸の代わりになれるのは、風丸ひとりだけだぜ。おんなじように鬼道は鬼道だし、豪炎寺は豪炎寺だよ。他のみんなだってそうだ」
 円堂の言葉に、鬼道は
「違うぞ、円堂」
と苦く笑う。
「風丸がしていた事をひとりで肩代わりする訳じゃない。ひとりの分の穴埋めはみんなでカバーしようという話だ。試合の時だって、同じ様にひとりが抜けた時は全員でカバーするだろう?」
 サッカーで例えられて、さしもの円堂も鬼道が言っていることを理解できた。
「そっか。そういうことか」
 すぐれなかった顔色にさっと明るい色が混じった。
「ま、風丸がいない間にガンガン練習して、あいつを驚かせてやろうぜ!」
 染岡が己の頬をてのひらで喝をいれる。
「風丸が来れるのっていつだっけ?」
「ん~。来週の頭には登校できるはずだけど」
 半田の問いに、円堂は指を折って数えた。
「そんなにかかるか」
「そんなトコだろ」
 首を捻る半田に染岡が腕組みで答えると、出し抜けに一之瀬が切りだした。
「それにしてもこの時期にインフルエンザって、風丸も災難だよな。もしかしてインフルじゃなくて、エイリア石の影響が今頃出たとか?」
 苦笑しながら言う一之瀬に、部員みんなの顔が凍りついた。土門が慌てて一之瀬の口をふさぐ。
「く、空気読めよ、お前!」
「なんだよ。ただのアメリカンジョークだろ」
「笑えないんだよ、それ」
「……そんなワケない」
 円堂の口から、わなわなと震える声が響いた。
「エイリア石は俺が壊した! あんなものに風丸がまた囚われることなんて、ゼッタイないっ!!」
 下ろした拳が震えている。円堂の顔は引きつって、わなないている。それを見て、一之瀬が周りを気にしながら肩をすくめた。
「で、ですよね~……」
 一之瀬の頭を手で下げさせながら、土門がとりなすように言った。

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 一悶着はあったが、その日の練習はいつも通りに終わった。練習が終わる頃には、部員たちの気持ちも落ち着いて、
「今日は目一杯練習したから疲れたな」
「明日もガンバろうぜ」
などと声が出ている。
 豪炎寺が重い気分で制服に着替えていると、円堂が気遣うように話しかけた。
「豪炎寺……。今日、具合でも悪いのか?」
「いや、別に。どうしてだ?」
 訊き返すと円堂はほっとした顔で答える。
「今日のお前、なんか塞ぎこんでるみたいだからさ。でもなんともないんだよな。良かった」
 太陽のような笑顔は、豪炎寺の心を見透かしてるみたいに感じ、胸が焦げる思いがした。豪炎寺は円堂に顔を背ける。
「ちょっと疲れてるだけだ」
「そうなのか? 気をつけろよ」
 その時、すぐそばで制服に着替え終えた土門が、カバンを肩にかけようとしてあっと声をあげた。
「いけね。担任から風丸にプリント渡しといてくれって言われたんだけど、俺、風丸ん家がどこだか知らないんだよな」
 額を長い指でかきながら、土門は弱った顔をした。土門は風丸と同じクラスなので、頼まれたのだろう。
「ああ。それなら俺が渡しとく」
 土門からプリントを受け取ろうとした円堂の手を、豪炎寺は払いのけた。
「俺がやろう」
「豪炎寺?」
 円堂はきょとんとした目で、土門からプリントを奪い取る豪炎寺を不思議そうに見た。はっと豪炎寺は身をすくめる。
「どうせお前はいつもみたいに、鉄塔広場で特訓するつもりだろう? それに俺の方が風丸の家に近い」
 豪炎寺がそう言うと、それを聞いた円堂は照れ気味に笑った。
「ああ! そうなんだよ。じゃあ、頼むぜ」
 実際のところ、そんなのはとっさについた言い訳だった。円堂が自分に信頼を寄せてるのが、却って気に重い。
「あれ、でも豪炎寺。お前、風丸の家がどこか、知ってたっけ?」
「あ。……ああ」
 知ってると言っても、正確な場所までは実は知らない。でも、見当はついている。豪炎寺はプリントを掲げると、円堂たちに背を向けた。
「頼んだぞ、豪炎寺!」
と呼びかける円堂の声を聞きながら。
 豪炎寺は灯りが落ちたグラウンドを抜け、校門を出た辺りでやっと大きく息をついた。手の中のプリントに目を落として、もう少しでヤバくなるところだったと冷や汗をかく。円堂が風丸の家に行けば、彼が不在なことに気づかない訳がない。
 どうしても、その役目は自分が背負わなければならなかった。
 風丸の自宅に向かう途中、コンビニに寄ってコピーを取ることにした。学校からPTAへのお知らせとかはいい。もうじきテストが近いから 、学習範囲のプリントなどは風丸に直接見せた方がいいだろう。
 どうせなら、縮小コピーなら風丸も読みやすいだろうと気づいて、設定を変えて1枚ずつコピーを取った。
 コンビニの用を済ませると、目ぼしのついていた方角へ足を向ける。風丸の家は案外簡単に見つかった。
 既に陽のおちた通りは、街灯の明かりだけでどこか薄暗い。風丸の家は誰もいないようで、窓は真っ暗だ。多分、両親は共働きだと聞いてたのでまだ仕事から帰ってないのだろう。
 門から少し入った場所に、青銅色のポストが立っていた。半円柱を横倒しにしたようなポストは、天辺に小さな風見鶏がついている。豪炎寺はそれを見て、そういえば、風丸と始めて一緒に練習した技は『炎の風見鶏』だったな、と思い出してくすりと笑った。
 ポストを開けて、重ねたプリントを押し込むと踵を返す。早くマンションへ帰らなければ。
 帰るすがら、今日、練習中にみんなが話していたことを思いかえす。風丸は思っていた以上に、仲間たちになくてはならない存在なのだと、豪炎寺は悟った。
 最も気を引いたのは、1年生たちが風丸に頼りきりになっていることだ。
 他の部員が彼らから見て、先輩として劣っているという訳ではない。円堂なんかはその包容力で1年のみならず、同学年からも一目おかれている。でも風丸特有の、気の細やかさは他のみんなにはない部分なのだろう。
 それを思うたび、自分が風丸を独り占めしているのではないかと、胸にしこりのようにこびりつくのを感じ始めている。
 結局、円堂に本当のことが伝えられなかった。仲間たちになら更にだ。円堂が無理でも、鬼道に言うのも考えたが、風丸がてのひらほどに縮んでしまったなどと、少々堅物な彼には通じないかもしれない。
 自分の親にさえ、風丸の姿を見せてやっと、という始末だったのに。
 暗い道のりを歩いていると、件の、風丸が小さくなってしまった通りに出た。このゆるいカーブのかかった坂道の下は普段から人通りが少なく、今思えば、誰かに見られなくて良かったと思う。
 一応見回してみたが、風丸を元に戻すヒントのようなものは見つからなかった。
 豪炎寺は深く息を吐くと、風丸と妹の待つマンションへ足を進めた。
 自宅へ帰るなり、風丸と夕香が笑顔で出迎える。
「おかえりっ、お兄ちゃん」
「豪炎寺見てくれよ!」
 風丸はリビングのテーブルの上で、にこにこと笑うとターンして背中を見せた。何だろうと首をひねって目を向けると、風丸のユニフォーム……に似せた上衣の背には、ブルーの糸で『2』と背番号が刺繍されていた。
「スゴイだろ。フクさんが手をいれてくれたんだ。それから!」
 夕香がぱっと手の中にあったものを、誇らしげに掲げた。それはとても小さな、シャツとズボンだ。
「服も縫ってくれたんだ。それから、パジャマも」
 風丸ははしゃいだ声で、夕香から手渡された服を体に当てた。心底嬉しそうな風丸を見ていると、豪炎寺も昼間の喧騒を忘れてしまいそうになる。
「それは……良かったな、風丸」
 キッチンで夕食の支度をしているフクさんに、豪炎寺は礼を述べた。
「ありがとう、フクさん。おかげで風丸も喜んでます」
「いいんですよ。大した手間じゃありませんし。それに、私の若い頃はああいう人形の服を作るのが趣味でしたから、昔を思い出します」
 フクさんはふくよかな顔を綻ばせると、目尻のしわを揺らせた。
「今日ねぇ、風丸お兄ちゃんと一緒にご本読んだんだよ。おもしろかったー!」
 夕香は鮮やかな色が印象的な表紙の本を抱えると、豪炎寺に示した。
「良かったな、夕香」
と、頭をなでてやる。テーブルの上で両手を後ろで組みながら、風丸ははにかむ笑みを見せていた。
 その晩、一緒に風呂に入りながら、昼間のことを思い返していた。仲間たちが口にした、風丸への思いを胸のうちで何度もくりかえした。
 風丸が誰にでもこころ配り、他人のことを優先してくれる奴なのだと。
 でも今、自分と一緒にいる風丸にはみんなが知らない部分がある。
 妙に恥ずかしがりだったり、落ちこんだ姿をこの三日間で風丸は豪炎寺に見せている。こんな風丸を知っているのは、せいぜい円堂くらいなものだろう。
「どうした? 豪炎寺」
 湯船に浮かべた洗面器に湯を張った中で、風丸は手足をゆったり伸ばしてくつろいでいる。豪炎寺の顔を見上げて、首を捻っていた。
「いや。ちょっと考えごとしてただけだ」
「そうか。あ、あのさ」
 豪炎寺が応じると、風丸は逆におずおずと尋ねてくる。
「サッカー部のみんな元気か?」
「ああ」
「円堂、ちゃんとやってるか?」
「大丈夫だ。お前は気にしなくていい」
 豪炎寺は風丸に余計な心配をかけさせまいと、少々へこみ気味だった円堂のことは隠して答えた。
「1年のみんなは? あいつらのこと、気になってしょうがない」
「風丸……」
 ああ、そうか。
 豪炎寺は風丸を自宅に連れてきてからずっと、感じ取っていたものの正体が分かった気がした。
 風丸はみんなから頼りにされているが、逆に風丸が誰かに頼ろうとしているのを見た覚えがない。
 風丸は人に頼る、ということに慣れてないのかも知れない。
「お前、人に頼みごとをすることはないのか」
 風丸はきょとんとした顔で豪炎寺を見つめる。
「なんでいきなり」
「お前が人を頼りにしてるのを見たことがないから……」
 すると風丸は湯船に体を沈めて、ゆっくりと嘆息した。
「そうだな。そう言えば」
 豪炎寺が風丸の面倒を見るたび、何度も異様に恥かしがったりしたのも、もしかしたらこれがひとつの要因なのだろうか。
「俺、昔っから円堂の面倒見てたけど、それが苦痛だとか思ったことないんだ。俺が協力してやって、それが円堂の喜びになるんなら、俺だって嬉しい。あいつが喜ぶ顔見れるだけでいいんだ。だから他のみんなに対したって、おんなじことなんだよ」
 豪炎寺は風丸の言葉を納得はしたが、それでも理解できない部分があると感じた。
「でも、お前が辛いときはどうするんだ。そんなときは、誰かにすがりたいとは思わないのか?」
「それは……」
 風丸の口が澱んだ。自分が浸かっている湯の中で両手で膝を抱えて、口元まで体を漬ける。
「お前が頼ろうって人間はいるのか?」
 豪炎寺の問いに、風丸はまぶたを伏せると首を横に振った。振った先から、洗面器に張った湯が水音を立てて波紋を広げる。まるで風丸の心を写すようだった。
「俺が」
 豪炎寺は言い淀みそうになったが、思いきって風丸に自分の気持を伝える。
「誰にも頼れそうにないときは、俺がお前の支えになる。頼る奴がいないんなら、俺に頼れ」
「豪炎寺……」
 風丸は顔をあげて、洗面器から豪炎寺を見つめた。
「いいのかよ」
 豪炎寺は頷いた。
「お前の頼みなら、何でも聞いてやる」
 そうきっぱり言いきると、こわばった風丸の顔にふわりと笑みがこぼれた。
「何でも聞いていいんだな?」
「ああ」
 そう応えると、風丸は両手で洗面器の縁につかまりながら湯から立ちあがった。
「お願いがあるんだ。明日俺を、一緒に学校へ連れてってほしい」

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~四日目~


「本当に行くつもりなのか?」
 翌朝、制服に手を通しながら、豪炎寺は風丸に尋ねた。もうおなじみになってしまった、豪炎寺が縫ったユニフォーム姿の風丸が、こくんと頷く。
「俺、円堂やサッカー部のみんながどうしてるのか知りたい。俺がいなくても、しっかりやってるのかって」
「お前が心配するほどでもないと思うけどな」
 豪炎寺が言うと、風丸は
「うん、……でも」
と頭を巡らせた。
「やっぱり、直に俺の目で見たいから」
 それが、第一の理由らしい。
 何でも頼みを聞いてやる、と言った手前、豪炎寺は断ることはできなかった。
「じゃあ、確認する。できる限り無理はしない。俺のそばから離れないようにする。以上だ。俺も可能な限りお前をサポートしよう」
「分かった」
 互いに約束を交わすと、豪炎寺と風丸は頷きあった。
 フクさんには一応話しておいたが、父親には今回の件を内緒にすることにした。止められるのは、分かりきっている。
 豪炎寺は風丸の小さな体を掴みあげた。カバンに入れようとしたが、悩んだ末に制服の胸ポケットに変えた。
「何だか、面白いな。わくわくするよ」
 風丸の言葉を聞いて、苦く笑う。
「はしゃぐな。俺は心配でたまらない」
「すまん。でも、二日ぶりだからさ……」
 ポケットに手をかけて、しゅんと肩をすくめる風丸に、豪炎寺は複雑な思いを抱いた。
 この三日間、ずっと我慢を強いられていただろうとは、想像に硬くない。はっきり言って、風丸を学校へ連れて行くのはリスクが高すぎる。だが、風丸が喜ぶのなら、それもいい。
 風丸は俺が絶対に守ってやる……。
 そう心に誓うと、豪炎寺はマンションを出た。学校までの道のりはまさに順風満帆で、何のアクシデントも起こりそうになかった。
 深く色づきはじめた街路樹が青空に映えているのを、風丸はポケットから身を乗り出して眺めている。
「もうすっかり秋だよなぁ」
「あまり顔を出すな。落っこちるぞ」
 胸ポケットを抑えて、たしなめていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、豪炎寺」
 振り返らなくても、声で誰かは分かる。
 円堂だ。
「おはよう」
 豪炎寺はそっと胸ポケットを抑えて、風丸を隠そうとした。
「昨日はありがとな。プリント」
「あ、ああ」
 円堂に言われて、昨夜風丸の家にプリントを届けたのを思いだす。
「風丸……元気だったか?」
 円堂がおずおずと尋ねてくる。豪炎寺は心臓が凍りつく思いがした。
「いや。会ってはいない。家の中が暗かったから、寝てるんだろうと思ってポストに入れておいた」
 事実のみを伝えると、円堂はがっかりした顔を見せた。
「そっかぁ」
「どっちにせよ、直には会えないんじゃないのか」
 休む理由が理由だからな、と付け加えると、円堂はやっと破顔した。
「そういやそうだった」
 豪炎寺はちらりと胸ポケットを覗く。風丸の小さな頭だけが見えたが、表情までは分からなかった。


 円堂と一緒に教室へ入った豪炎寺は、それぞれの机についた。一時間目の用意をしながら、風丸の様子を確認してみる。
 胸ポケットの中から、風丸が豪炎寺の顔を見上げていた。見つからないように周囲を見回しながら、風丸の体を摘み上げる。
「注意しろ。誰が見ているか分からんからな」
 そう言葉をかけると、風丸は身を屈めて頷いた。
 時を置かずして、ホームルームの時間を知らすチャイムが鳴る。周りでざわざわと話を交わしていたクラスメイト達が次々と席に着いた。
 豪炎寺は風丸を隠しながら、一時間目の用意をした。
 最初の一、二時間はなんとかやり過ごした。三時間目にちょっとしたアクシデントが起こった。
 豪炎寺の席は、円堂の斜め後ろにある。机の上で風丸が、豪炎寺の腕に隠れながら前方を伺っていると、円堂の背中がかくんと傾きだした。
「な、何やってるんだ、円堂!?」
 風丸が呆れた声で前を見ている。豪炎寺も前方を見ると、円堂はどうやら居眠りしているのだと気づいた。
「寝てる……な」
「寝てる、じゃねぇよ。円堂、授業中いつもああなのか?」
 もうすっかり机に突っ伏して惰眠を貪っている円堂を、風丸ははらはらした風情で見守っている。
「いや。いつもはちゃんと授業を受けてるが……」
「ホントかよ」
 疑わしげな顔で風丸は豪炎寺を見る。
「俺を信じろ」
 できる限り周りに聞こえないように言い聞かせると、一応は納得した顔を風丸は見せた。それでも、見ていられないらしく、終いには円堂を起こしに机から飛び降りようとしたから、豪炎寺はあわてて止める羽目になった。
「行かせろよ、俺が円堂を起こすんだから!」
 両手で逃げだそうとする風丸を何とかガードする。
「ダメだ。自分の立場を考えろ」
「でも!」
 豪炎寺は風丸の体を摘み上げると、胸ポケットに押しこんでしまった。
「俺が起こす」
と囁くと、机から脚を伸ばし斜め前の円堂めがけ、蹴りを入れる。椅子の脚に豪炎寺のキックは当たったが、最初の一撃では円堂はうんともすんとも言わない。次に蹴り出したキックで、円堂はむくりと身を起こした。
「んんっ!?」
 円堂が起きたのを確認すると、風丸はポケットのヘリにつかまってほっと息を吐く。円堂は豪炎寺に振り返って、苦笑いしながら、感謝の仕草を送ってきた。
「まったく。心配かけさせやがるぜ……」
 だが風丸の安堵はそこで終わったわけではなかった。
 次の時間、再び眠気と格闘し始めた円堂に風丸はやきもきする羽目になる。殊勝なことに、円堂はぐらつきそうな体を何度も持ち直そうとしていたが。
 何度目かにこくりと傾いたその時、理科の教師に名をよばれ、円堂は慌てて姿勢を正した。
「円堂。鉄の元素記号を言ってみろ」
「て、鉄ですか。えっ、と……。fwは、違うか」
 円堂は焦りながらも正解にたどり着こうと、頭の中で記号の羅列と戦っている。風丸は豪炎寺の胸ポケットの中で頭を抱えていた。
「円堂……。それ、一学期に習っただろ!」
「どうした、円堂。答えられないか?」
 教師の問いに、円堂は大業にかぶりを振る。
「あ、待ってください。えっと……」
 円堂の態度に、とうとう堪えきれなくなったのか、風丸はポケットから頭を出すと大声を上げた。
「鉄はfeだろ!!」
 風丸の声は思ってる以上に教室に響く。
 豪炎寺はぎょっとなって、胸ポケットを抑えて風丸の頭を押しこんだ。
「ああ、そうだ。feです。fe!!」
 円堂は耳に届いた声で、見事正解を出したが教師は苦笑いで
「よし。もう居眠りするなよ、円堂」
とたしなめると、元の授業に戻った。円堂もほっとした顔で頭をかくと、くるりと教室を見まわし不思議そうな顔で首をひねった。
 さっきの声はクラスメイトの誰かが出したと思われたのか、誰もその正体に気付いた者はいないようだった。
 豪炎寺がそっと胸ポケットを覗くと、風丸が口元を手で抑えて、身を縮めていた。心なしか体が震えていたのを、豪炎寺は見逃さなかった。

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「正直、ひやひやしたぞ」
「すまん! もうしない」
 給食後の昼休み、屋上で豪炎寺はフェンスにもたれながら、風丸と話をした。ここは普段、他の生徒が来ることはなく、ひとりで考えごとをしたい時や、惰眠を貪りたい時にもっぱら訪れている。
「ホント、悪かったと思ってるよ。反省してる」
 風丸はフクさんが持たせてくれた小さなサンドウィッチにかじりつきながら、しゅんと肩を落としている。
「でも、円堂のこと、どうにかしてやんなくちゃ……って思ったら、つい」
 その気持ちは分からないでもない。だが、今の風丸のとっては無謀な行為だ。
「お前は円堂に対して過保護だ。授業中に居眠りしてるのを、わざわざ起こすこともない。怒られたって、それはあいつ自身の所為だ」
「それはそうだけどさ……」
 屋上は風が吹いていて、豪炎寺と風丸の間をすうっと抜けてゆく。風丸の蒼く長い髪が風に吹かれて、たなびくのが奇妙なほど綺麗だ、と感じた。
「見てらんなかったんだよ、俺……。円堂の為にはならない、それは分かってるつもりなんだけど」
「俺だって授業中眠たいときは寝る」
「ええ!? お前が?」
「その方が却ってすっきりするんだ」
 風丸は参った顔で豪炎寺を見た。まあ、風丸は授業中にいくら眠たくなろうとも、ずっと我慢してるだろうことは分かりきっている。だが、それにしたって風丸は円堂に構いすぎだ。
 ふと豪炎寺は、昨日の鬼道の言葉を思い出した。
『円堂だけではない。俺たちも風丸離れする時が来たという事だ……』
「お前は円堂離れした方がいいんじゃないのか……?」
 それを踏まえてそう話すと、風丸は大きな瞳を開いて豪炎寺を見あげた。
「円堂離れって……」
「円堂だけじゃない、一年の奴らもだ。あいつらはお前が思ってるより、よっぽどしっかりしてる。お前がいなくたって、やっていけるさ」
「そんな」
「お前は円堂や一年の奴らが心配でここに来たんだろう?」
 尋ねると風丸は、こくんと頷く。
「だったら今日一日、あいつらが頑張ってる姿を見るといい」


 五時間目の開始を知らせるチャイムが鳴るころ、豪炎寺は風丸を連れて教室に戻った。自分の席に着くなり、円堂が話しかけてくる。
「どこ行ってたんだよ、豪炎寺? 給食終わったらもういなかっただろ」
「ああ。昼寝してた」
 しれっと事実ではないことを言う。
「お前みたく、授業中に寝るほどじゃないからな」
 それを指摘されると、円堂は参った顔で苦笑いした。
「いやさぁ、ちょっと寝不足なだけだ」
「お前、大丈夫か」
「ああ……。それよりさ。四時間目の話なんだけど」
 円堂はそっと声を落とす。あまり他人には聞かせたくない話らしい。
「俺が当てられた時、風丸の声が聞こえなかったか?」
 豪炎寺は絶句した。あの時、風丸の声は円堂に届いていたのだ。
「俺に答えを教えてくれたのは、絶対風丸の声だった。間違いない」
 確信を含んだ声で、円堂は頷く。豪炎寺は胸が疼くのを感じた。
「……何を言ってるんだ? 俺には風丸の声なんて聞こえなかったぞ」
 思わず声がかすれる。だが、そんな状態でも豪炎寺は知らない振りをした。
「お前、風丸のことを考えてばかりいる所為で、聞き間違えたんじゃないのか」
 円堂に言うにはあんまりな言葉だ。と思いながらも、豪炎寺はそう言い切らなければならなかった。
「そ……そっかな」
 円堂は半ば青ざめた顔で言う。真実を話せないという、今の状態を豪炎寺は呪った。
 突然、廊下からけたたましいベルの音が鳴り響いたのはその時だった。
「な、何だ!?」
 耳障りなベルの音は校舎中に鳴り続けており、教室の中では生徒たちがざわめいている。
「あら。円堂くんたち知らなかったの? 今週、抜き打ちで防災訓練するって」
 何事かと、騒然とした校内を見回す円堂と豪炎寺に、マネージャーの木野がそう教えてくれた。
「あ、そうだっけ」
「防災訓練……」
 風丸は大丈夫だろうか。豪炎寺は胸ポケットを手でそっと抑えた。混乱で何か大変な事態になる気がしてしょうがない。
「風丸」
 豪炎寺は隠れるように教室の角に行くと、胸ポケットに入ったままの風丸にそっと呼びかけた。
「防災訓練だろ。分かってる」
「ああ。何が起こるか分からない。危険だからそこじゃなく、内側のポケットに移動してくれ」
 制服の裏側に、ファスナーで閉じられる内ポケットがついている。多少息苦しいだろうが、そこなら今の状態より安全だろう。そう思って豪炎寺は彼を移動させることに決めた。
 風丸の体をひょいと掴むと、詰襟のホックを外す。人形のような体を掴んだまま、器用に内ポケットのファスナーを開けて風丸をその中に押しこんだ。
 これでいい。ひとまずは安心だ。
 豪炎寺はふっと息をつくと、円堂たちに合流して校舎から避難することになった。
 ただ、豪炎寺にとって誤算だったのは、避難訓練に気を取られて風丸をきちんと確認できなかったことだ。
 ポケットに入れたはずが、実際は風丸をこぼしてしまったのに気づいたのは、既に校舎を出たあとだった。


「うわあぁぁぁあっ!」
 豪炎寺の手で移されたはずなのに、風丸の体は入るべきポケットをすり抜け、制服の裏地を滑り落ちていく。何がなんだか分からないまま、風丸は必死に何処か掴まる場所を探した。
 だが、思っているよりも制服の生地は何の手ごたえもなく、風丸は歩き出す豪炎寺から振り落とされた。
「豪炎寺!」
 叫んでも、周囲の喧騒に小さな風丸の声は豪炎寺に届かない。立ち並ぶ生徒たちの群れにまぎれて、豪炎寺の大きな背中は消えてしまう。
「置いてかれたか……」
 風丸は溜息をついて廊下の先を眺めていた。
 仕方がない、教室に戻ろう……。と、豪炎寺の席へ向かうべく踵を返したとき、廊下の向こうから轟く激震に風丸は我を失いそうになった。
「な、なんだよ。あれは!?」
 とんでもないほど巨大な、黒い山のようなモノが自分のいる場所に接近してくる! それに気づいたとき風丸は、思わず廊下を飛びすさった。
「あわわわわぁ! 火事は怖いッス~!」
「壁山! 火事でないでやんす。これでは避難訓練でやんす!」
 自分の上を通り過ぎていくふたつの声は聞き覚えがある。一年の壁山と栗松だ。
「あいつら、慌てすぎだろ」
 と呆れる暇もなく、次に襲ってくる何十もの足の群れに、風丸は翻弄された。風丸の存在にまったく気づかない彼らは、遠慮なく廊下の床を踏みつけ、足早に通り過ぎようとしている。
 風丸はその度に飛び退き、また、ジャンプで回避しなければならなかった。自分の足の早さに、この時ほど感謝することはないだろう。
「こんなんで豪炎寺の席まで行けるのかよ……」
 這々の体だったが、なんとか廊下の隅にある消火栓のまでたどり着いたとき、風丸はやっと一息つくことができた。
「豪炎寺……」
 今頃、豪炎寺はどうしてるだろうか。自分がいないのに、気がついただろうか。それとも、まったく気がつかないままなんだろうか……。
 廊下は人の気配がなく、さっきまで校舎に広がっていた騒音も消え、しんと静まっている。風丸は初めて、自分が誰もいない空間に取り残されたと実感した。
 あの時。自分の体が小さくなってしまったとき、豪炎寺が助けてくれなかったら。今ごろ同じように心細い気持ちでひとり、世界から隔離されてたのだろうか。
 それを思うと、風丸はぞっとした。
「豪炎寺……」
 もう一度、風丸は彼の名をつぶやいた。
 途端に、早く自分を取り戻しにきて欲しいと願った。そう望んでいる自分が今ここに存在することの違和感に、気づかないまま……。


 避難訓練は校庭にそれぞれのクラスごとに整列したあと、校長や都の消防署職員のスピーチを聞いて終了する。豪炎寺は円堂と一緒に校庭に着いて、ほっとして内ポケットを上から触れて初めて、まるで感触がないことに気がついた。
 手のひらで内ポケットを押さえるが、なんの手ごたえもなく、ポケットは乾いた音をたてた。慌てて制服のポケット全てを探るが、どこにも風丸の存在はなかった。
 途中どこかで落としたのか。豪炎寺は最悪の事態に、心臓が止まる思いがした。
 校舎の方を仰ぎ見る。風丸はそこに取り残されたのだ。
 そう確信すると、豪炎寺はたった今通った経路を一目散で駆けだした。
「豪炎寺? どうした!?」
 円堂が何事かと呼びかけたが、ただ頷くだけで精一杯だった。
 校舎の中は誰もいない。ここぞとばかりに、大きな声で風丸を呼んだ。
「風丸!! どこだ、風丸!」
 一階には見当たらない。やはり、自分たちの教室か。
 階段を駆けあがり、ふたたび名を呼ぶ。
「風丸!!」
 返事はない。
 誰もいない廊下を突っ切って、自分のクラスの教室に入る。期待を込めて探すが、風丸の姿はどこにもなかった。
「か、風丸……」
 豪炎寺は真っ青になって、自分の机に手をついた。
 まさか、風丸は避難する生徒たちに踏みつぶされてしまったのか。自分がちょっと気が回らない所為で、風丸の身に危害を及ぼしてしまったのか。
 己のバカさ加減に、豪炎寺は自分を殴りたくなる。
 その時。廊下から自分を呼ぶ声が聞こえた。

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 壁にそって立っている消火栓の陰で、風丸は座りこんだ。ぐったりと背をもたれ、ただ豪炎寺が戻ってくるのを待った。廊下の外から、グラウンドのスピーカーの声が微かに響いてくる。今ごろ生徒たちはグラウンドに集合してるんだろう。豪炎寺が戻ってくるまでまだしばらく時間がかかるのかも知れない。
 そう思って、風丸はがっかりしながら膝を抱え込んでいると、突然、廊下の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえる。 
「風丸!」
 はっとして、風丸は顔を上げた。そんなバカな。豪炎寺が今来るはずはない。
 だが、確実に耳に響くのは豪炎寺の声だ。
「風丸!! どこだ、風丸!」
 風丸は立ち上がって、消火栓の下から廊下に出た。豪炎寺が教室の中に入るのが見える。どうやら、集団の生徒たちから逃げるとき、避難経路と逆方向に逃げたのだと風丸は気づいた。急いで風丸は教室へと向かった。
「豪炎寺!」
 でも小さな自分の体から発する声は、小さくて、教室の中までは届かない。今度はできる限り大きな声で風丸は叫んだ。 
「豪炎寺、俺はここだ……!」
 豪炎寺が慌てたように廊下に出てくる。
「風丸!!」
 豪炎寺が自分に向かって走り寄ってくる。風丸も全速力で駆け寄ると、豪炎寺は両手で自分の体をすくいあげた。
 豪炎寺は風丸を手のひらに乗せると、体中を調べだした。体に異常はないと確認すると、豪炎寺はほっとした顔で、風丸を首元に引き寄せ頬擦りしてきた。
「すまない。俺がお前を落としてしまった所為だな。本当にすまなかった」
「いや。俺、何ともなかったし」
 風丸はいきなり自分が優しく受け止められて、豪炎寺の暖かい手で握られ、戸惑いを感じた。
「本当に何もなかったのか?」
 じっと熱い視線で見つめられる。なぜだかぽっと頬が熱くなる。
「まあ、ちょっとスリルを味わったけどな。とりあえず何ともないぜ、俺は」
「そうか。それは良かった」
 豪炎寺が笑いかける。風丸は妙にくすぐったさを感じ、恥ずかしくなった。
「豪炎寺! どうしたんだよ!?」
 廊下の向こうから円堂と担任の教師がやって来るのが見えて、風丸は慌てて豪炎寺の手の中に隠れた。豪炎寺が何げない仕草で、制服の左ポケットに風丸を入れた。
「円堂」
 しゃがみ込んでいた豪炎寺が立ち上がる。
「落とし物を探していた」
「落とし物?」
 ポケットにいた風丸がそっと覗いたところ、豪炎寺が生徒手帳を円堂と担任に見せているようだ。
「お前、血相かえて走ってくから、何かと思った」
「豪炎寺くん。ひとりで別行動はいけませんよ」
「すみません」
 とりあえず、危機は去ったと分かり風丸はやっと一息ついた。円堂たちと一緒にグラウンドへ向かう、豪炎寺の制服のポケットの中で風丸は次第に眠気に誘われていた。


 再び風丸が目を覚ましたのは、授業が終わって豪炎寺が部室に向かっている時だった。まだ他の部員たちは来ていないのか、豪炎寺はさっさと部室に入ると、人目がないのを確認してロッカーに風丸を隠す。
「お前はここにいろ。誰にもバレないようにな」
「分かった」
 豪炎寺は練習用のユニフォームに着替えると、そっとロッカーの扉を閉める。しばらくすると、他の部室たちがぞくぞくやって来て、わいわいと騒がしく語らいながら着替えだした。
 話の内容は今日の授業のこと、練習メニューのこと、もうすぐ始まるテストのこと……。いつもとまったく変わらない仲間たちの会話に、風丸はどこかほっとしたような、けれどもちょっと羨ましい気持ちでいっぱいになった。
「風丸さん、今ごろどうしてるッスかねぇ」
 いきなり壁山の声が自分の話題を出したので、風丸はロッカーの扉に耳を押し当てた。
「……壁山。俺たちがいまやらなきゃならないのは、風丸さんを心配することじゃないでやんす。風丸さんが良くなって、元通りにサッカー部に戻って来たとき、俺たちがどれだけ成長したか見せられるように練習するでやんすよ!」
「栗松……」
 壁山がつぶやいたかと思うと、いきなり雄叫びをあげた。
「うおぉぉ! そうッス!! 風丸さんのために俺たち、がんばらなくっちゃならないッス!」
 意気投合したふたりに、他の一年たちも合意して檄を飛ばし合うと、揃ってグラウンドへ向かった。
「あ、あいつら……」
 豪炎寺のロッカーの中で、風丸は一年たちのいじましさに胸を焦がした。
 やがて、部員たち全員がグラウンドへと出てゆき、部室が空っぽになると、風丸はそっとロッカーを開けた。おんぼろ小屋のサッカー部室は部員たちの汗臭い空気で充満していたが、風丸にとってそれはとても懐かしい匂いだった。
 開いている窓の向こうから、部員たちが練習する音と声が聞こえる。それを聞いていると、何故だか涙がこぼれそうになり、風丸は拳で目元をぬぐう。
 できるものなら、今すぐにでも部室を飛び出して仲間たちと合流したい。一緒に汗を流し、ボールを追いかけ、思う存分グラウンドを走りたい。
 けれど、ああ……。
 この体じゃ、到底──。
 自分の小さな拳に目を落として、風丸は溜息をついた。と、その時。背後に何者かの気配を感じ、慌てて振り返る。
「うわっ!?」
 ロッカーの陰から黒光りする異様なモノが、のそりと出現した。自分の知っているよりも巨大で、得体の知れない雰囲気を醸しだす“ソレ”の存在に、風丸は顔を引きつらせて、身を硬くした。
「ゴ、ゴキブ……!」
 風丸が叫ぶと、その生物はかさついた音を立て、再びロッカーの陰へ逃げていった。思わずあがってしまった鼓動を抑え、風丸は大きな息をひとつ吐いて胸をなでおろす。
「何で、あんなのが部室に巣食ってるんだ……?」
 首をひねってみて、ああ、と頭に浮かんだのは、毎日のようにスナック菓子を部室に持ちこむ巨体の1年生の姿だった。
「壁山だな……。あいつがこぼした菓子の所為だ」
 頭を抱えて風丸はひとりごちる。
「俺が元に戻ったら、ちゃんと言ってやんなきゃな」
 先輩として、きちんと壁山に注意する自分を想像して風丸は、がくぜんと肩を落とした。
 ……元に戻るって、いつの話だよ?
 元の体に戻る、宛てなんか今はない。
 豪炎寺やその家族の人たちにはとても良くしてもらってる。だが、今の風丸に取って一番熱望していることが叶う、希望とかそういったものは未だに見えない。
 なぜだか、息が苦しい。
 風丸は胸に拳をあてると、ぜえぜえと息を吸いこんでは吐いた。いくら新鮮な空気を吸っても、胸の苦しみは消えなかった。


 豪炎寺が練習を終え部室に戻ると、ロッカーの中では風丸がカバンに入れたスポーツタオルの上で膝を抱えていた。扉で中を隠すように豪炎寺は風丸を伺う。薄暗いロッカーの中で、顔を上げると豪炎寺にただ頷くだけだった。
 頷きかえすと豪炎寺は風丸をタオルでカバンに隠し入れて、制服へと着替えはじめた。
 部室では、練習を終えた部員たちが続々とグラウンドから戻ってきて、わいわい騒ぎながら汗と泥で汚れたユニフォームを脱いでいる。それは変哲もないいつもの光景だが、最後に戻ってきた円堂が心なしか元気なさそうな顔でいるので、他の部員たちがいぶかし気な目で見た。
「……円堂。まだ風丸が休んでること、気に病んでるのか?」
 半田が心底心配そうに尋ねる。
「う~……ん。気に病んでるって言うか」
「お前。いい加減風丸離れしろって昨日さんざん言われただろ」
 染岡もぶっきらぼうに言うが、円堂は指で頬をこすりながら答える。
「いやさ、そんなんじゃないんだ。ただ……風丸から連絡が何もなくって」
「連絡?」
 風丸の話題が出たので、豪炎寺は息を呑んだ。
「いつもならさ。風丸が熱出して学校休んだときなんか、俺からかけなくっても、あいつから必ず連絡くれたんだ。なのに……今回はまだ……」
 肩をすくめて、円堂は周りに集まった顔を順に眺めた。
「やっぱさ、心配なんだよ。いつもちゃんと連絡してくれるのに。もしかして、まだ具合良くないのかなぁ……」
 円堂は天井を仰いで、部室に灯る蛍光灯の光に目を細める。円堂がつぶやくのを豪炎寺はシャツを身につけながら、背中越しに聞いていた。
 ロッカーの中の風丸は円堂の言葉をどんな気持ちで聞いただろうか。仲間たちの目が気になって、それは伺い知れない。

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 部活を終えて、豪炎寺は風丸を連れて学校を後にする。風丸の様子が気になったが、話しかけてもうつむき加減で返ってくる言葉は少ない。
 銀杏並木の歩道は夕焼けに照らされて、黄金色に輝いている。はらはらと葉を散らしては実を落とす銀杏を眺めながら、豪炎寺は胸ポケットの風丸に何の言葉もかけられないまま、黙って歩いた。
 マンションに帰ったふたりに待ち構えていたのは、豪炎寺の父の説教だった。
「風丸くん。君は自分の立場というものをまったく分かっていないようだ」
 黙って学校に行ったのを知った父は、厳めしい表情と口調で風丸を責めたてる。
「君は病人だ。それを呑気に学校に行くなどと!」
「すみません……」
 風丸はうなだれて豪炎寺の父の言葉をかみしめ、ただ詫びを言うだけだった。
「それと修也! お前にも今回の責任がある」
 風丸の返事に溜息をついた父の怒りの矛先は、次に豪炎寺自身に向かった。
「分かっています」
 玄関で怒りを隠せない父親の姿を見た時から、一番責められるのは自分であろうことは分かりきっていた。
「分かっているのなら、なぜ風丸くんを連れて行った? 私に無断で」
「待ってください!」
 風丸が慌てて取りなそうとし始める。
「悪いのは俺なんです。俺が豪炎寺に頼んだから!」
「風丸……」
 豪炎寺はリビングのテーブルの上に立っていた風丸を掴むと、下がって3人を見守っていたフクさんに託した。そして父親に向かうと、
「父さん。向こうの部屋でお願いします」
と、父の書斎の扉を指差した。父は頷くと、豪炎寺を伴ってリビングから出て行ってしまった。
 依然として自分たちを止めようとしていたが、多分、疲れきっているだろう風丸に、これ以上の精神的な負担はかけたくない。その気持ちは豪炎寺もその父親も同様だった。
 結局、風丸に対しだされた処遇は、体が元に戻るまでの外出禁止令だった。


 その日、夕食をとり風呂に入ったあとは、風丸は疲労を理由に早々に寝てしまった。やはり、学校へ行ったのはかなりの負担だったのだろう。
 練習から戻ったとき、風丸が妙にふさぎ込んでいたのは気にかかったが、それを尋ねることもできそうになかった。
 そして気にかかることは、もうひとつ……。
 けれども、どっちにせよ今日はもう無理だろう。宿題を終えて10時を回った時計の針を眺め、寝入っている風丸の様子を伺っていると、豪炎寺も眠気を感じはじめた。
 今日はもう休もう。昼間は色んなことがありすぎた。
 欠伸をひとつかくと、ベッドに潜り込む。そのまま豪炎寺は眠りについた。


 夜中にふと、目が覚めた。
 なぜだか不思議な予感がした。
 カーテンを引くのを忘れていたのだろう。窓から部屋じゅうに月の光が差し込んで充満している。
 豪炎寺はまぶたをこすると、ベッドから身を起こした。ふと、机の上を見ると、あの人形店で買いあたえた椅子に風丸が座っていた。
 風丸は豪炎寺に背を向けていて、こちらには気づかない。膝を抱え、まっすぐ夜空の月を見上げている。
「眠れないのか?」
 豪炎寺が呼びかけると、やっと風丸はふりむいた。ベッドから降りて机に歩み寄ると、風丸は何も答えず曖昧に笑う。その微笑みは悲しげだった。
 その微笑みを見た豪炎寺は部屋の隅に置いてある、風丸のカバンをさぐった。夕方、部活から帰るとき気にかかっていたこと。今ならそれを実行できると思った。
 カバンから取り出したのは風丸の携帯だ。切っていた電源を入れると、着信履歴のランプが灯った。
 ディスプレーに映っていたのは円堂の携帯番号だ。
「風丸」
 豪炎寺は携帯を風丸に差し出す。
「円堂にかけろ。あいつはお前がかけてくるのを待ってる」
 風丸は首を横に振った。それに構わず、円堂へ返信ボタンを押すと風丸にもういちど差し出した。受話口からコール音が聞こえる。1、2度鳴っただけですぐに相手が出た。
「風丸っ!?」
 円堂の声が切羽詰まっているのが分かり、風丸は思わず声を出した。
「円堂……」
「風丸。体は大丈夫なのか?」
 ほんの少し、風丸は躊躇したがすぐに話し始めた。
「……大丈夫だ。熱とかないから」
「ホントか!」
 携帯の受話口の向こうで、円堂の声が歓喜に変わる。
「すまん、連絡遅れて」
「あ~、そっか。それならいいんだ!」
「心配……かけたか?」
「いやいや。風丸が大丈夫だって分かってホッとした。来週にはまた学校来れるんだろ?」
 風丸が思わず黙り込む。黙って動向を見守っていた豪炎寺は眉をひそめた。
「ああ……。たぶん……」
 やっとの思いで紡ぎだした言葉を、携帯の向こうの円堂は気にも留めてなかったようだ。
「またな」の言葉を最後に、通話を終えた風丸は両手で顔を覆ってしまった。
「風丸……」
 豪炎寺は風丸の携帯の電源を落とし、そっと声をかける。
「……すまん。わざわざ……。豪炎寺、お前は……」
 とぎれとぎれになる風丸の声。だが、豪炎寺は自分のしたことは悪いとは思わなかった。
「俺は、あいつにはちゃんと話すべきだと思う」
「うん……。そうだけど、だけど……」
 風丸が嘆いているのは、円堂に嘘をついたからなんだろう。風丸の心情を思うと豪炎寺も胸が苦しくなる。
 豪炎寺は携帯を机に置くと、椅子に座っている風丸の髪をそっと撫でた。最初は人差し指の先で触れ、次に親指の腹で髪の流れを梳くように。
「俺さ。今日、学校へ行ったこと、後悔してない。あいつらの元気な姿見れて、良かったと思う」
「ああ」
「でもさ。俺、俺の体、元に戻れるのは一体いつになるんだろう……。そう思ったらさ、どうしても、俺は……」
「分かってる」
 豪炎寺は風丸の体を掴むと、一緒にベッドに連れて行った。そっと傍らに置き、再び髪を撫でてやる。風丸は抵抗も何もせず、豪炎寺のなすがままにベッドに横たえた。目元は拳で押さえたままだった。

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~五日目~


 翌朝、いつものように風丸に起こされた。豪炎寺は風丸の様子を伺ったが、昨夜見たときと違ってけろっとしている。引きずっていなかったのは、意外だった。
「今朝もランニングしたのか?」
と尋ねれば、こくんと頷いた。
「日課だからな。毎日やらないと体が鈍っちまう」
 きわめて快活に風丸は笑う。あっけに取られながらも、豪炎寺は内心ほっとした。
 朝食の前には、豪炎寺の父による診察。書斎の机の上が、間に合わせの診察台になった。
 知り合いから借りたのだという、マウス用の体温計と心拍計で豪炎寺医師は風丸の体を診る。舌と口内を最後に今朝の分は終わった。
 風丸をダイニングに連れていくと、豪炎寺はひとり父の書斎に戻る。
「どうなんですか、父さん。風丸の具合は?」
 豪炎寺が訊くと父はかけている眼鏡のフレームをずらせて目頭を指で押さえた。
「どうにも、風丸くんの体に異常は見られない。体温も脈も通常の人間とまったく同じだ」
「だったらいいじゃありませんか」
「そう思うのか、お前は?」
 豪炎寺の父は曰くありげな顔で、渋い表情を作った。
「私には却ってそれが恐ろしい。あれほど体に異変があって、他には何も見当たらない、というのはな」
 心拍計を片付けながら父は大きく溜息を吐いた。豪炎寺は何も言えずに書斎を出た。
 風丸に何の異常もないのなら、それですむじゃないか。
 豪炎寺はダイニングのテーブルで夕香と一緒朝食をとっている風丸を見て、そう心に言い聞かせた。
 今日はひとりでの登校だったが、晴れやかな気分だ。教室に着くと、すぐ遅れて円堂が入ってくる。
「おはよう、豪炎寺!」
 昨日までと打って変わった円堂の声で、どうやら抱えてた不安は解消したと分かる。
「昨日さ、……昨日って言うか、夜中なんだけど。風丸から電話あったんだ!」
 快活な声は、そのまま円堂の表情までもを明るくさせている。
「そうか。……良かったな」
「ああ! 来週には出られそうだって」
 円堂の言葉を聞いて、豪炎寺は心にまずいものを感じていた。


 その日もいつも通りに一日は過ぎた。風丸を元に戻す方法は見いだせないままだ。
 マンションに帰る道を歩きながら考え込んだが、簡単に上手い考えなど浮かぶわけでもない。
 もう、既に五日過ぎている。このまま風丸は小さい体でいるのだろうか……。
 マンションの自宅に帰ると、夕香とフクさんが出迎えた。
「風丸は?」
 豪炎寺が尋ねると、フクさんが
「今、お休みになってますよ」
と答えた。自室へ行くと、教えられた通り風丸は寝息を立てて寝床で眠っている。豪炎寺は思わず目をみはった。
 指先でそっと触れてみる。髪の毛の先、つるんとした頬。
 袖と裾から伸びている、しなやかな手脚。
 そのどれもが、誘惑に満ちていた。指で脇腹をくすぐると、堪らない風に体を震わせる。
「も~、やめてくれよ。円堂……」
 微かに飛びだした寝言に、豪炎寺はムッとした。こんな時にまで『円堂』か!
 むかついたついでに、指で頬を突っつくと軽くうめき声をあげる。風丸はやっと目を覚ました。
「うう……ん。あれ?」
 まぶたををしょぼつかせて、身を起こした風丸は豪炎寺を見てやっと我に返った。
「あ、すまん。眠っちまったようだ」
 豪炎寺は黙ったままでいると、風丸はきょとんと首を傾げる。
「どうかしたか?」
「いや。……なんでもない」
 胸の奥に一度ともった嫉妬の炎に、豪炎寺はなんてことだと思った。

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 夕食をみんなでとったあと、夕香がトランプをしたいと言い出したが、豪炎寺は済まない顔をして断った。
「悪いな、夕香。お兄ちゃんは勉強しなくちゃならないんだ」
「え~っ」
 夕香はがっかりした顔をする。
「じゃあ、風丸お兄ちゃん。いっしょにご本読もう!」
 夕香は夕食後のひとときを、家族との団らんで過ごしたかったのだろう。だが、頼みの綱の風丸でさえ首を振った。
「ごめん。俺も豪炎寺の勉強に付き合いたいんだ……」
 風丸の答えに、さすがの夕香も頬を膨らませてしまった。
「あ~ん。風丸お兄ちゃんもなの?」
「夕香ちゃん、お兄ちゃんたちを困らせてはいけませんよ」
「う~、……はぁい」
 フクさんが優しく諭してくれたお陰で、夕香はやっと納得したようだ。安心して、豪炎寺は風丸を連れて部屋に戻ることにした。
「テスト準備の勉強、するんだろ」
 豪炎寺が揃えた勉強道具を見て、風丸が確信していた。教科書、ノート、テスト範囲のプリント……などが机に並んでいる。
 ああ、と豪炎寺は勘付いた。風丸はもう四日も勉強していない。昨日のことでさえ、円堂の様子を見る為であって、風丸自身は授業の内容を聞くどころではなかった。
 来週の末には期末テストが始まる。それが受けられないのは、風丸にとって大問題だろう。
「俺と一緒に……、するか?」
 豪炎寺が訊くと、風丸は頷いた。
 風丸の体が元に戻れるか、戻れないか。そんな事はともかくとして、彼が望む通りにしてやろう、豪炎寺はそう心に決めた。
 まず、プリントを確認して教科書と照らし合わせる。そのページに応じたノートを広げて風丸に見せた。
「これが期末の範囲内か?」
「ああ。中間よりもかなり広い」
 風丸はプリントを見ると、顎を手で押さえて考え込んだ。
「うーん。となると要点をまとめておいた方が得策かもな」
 そう言うと、豪炎寺のとったノートを広げてはめくって確かめる。風丸の小さな体では、その行為はずいぶん大業に見えて、なんだか可笑しくなった。
「な、何だよ。俺、変なことしたか?」
 流石に風丸も気づいたのか、豪炎寺の顔を見て怪訝そうな仕草をした。
「いや、すまん。変じゃない」
 慌てて表情を引き締めて、風丸に答えると豪炎寺はシャーペンをとった。風丸は首を傾げたが、すぐにノートに目を向ける。
「ところで豪炎寺。このノートだけど」
 風丸が足元を指差す。ご丁寧に、立っているのは書込みを避けた余白の部分だ。
「俺から見て気になったんだけど、このノートの取り方はもっと工夫できると思う」
「ノートの取り方……?」
 豪炎寺はまぶたを瞬かせて、風丸をまじまじと見た。
「どう工夫しろって言うんだ?」
 自分でノートを見る限り、それ以上いいやり方など思い浮かぶ訳がない。
「例えばさ」
 風丸はペンスタンドからピンク色のマーカーを取り出すと、おもむろに豪炎寺のノートに線を引き始めた。
「こうやってさ、特に重要な部分を囲んだりチェックしてやると、一目見ただけで分かりやすくなるんだ。俺はいつもこうやってる」
 風丸がピンク色で囲んだり下線を引いたノートを見て、豪炎寺はつい苦言を呈した。
「俺はそういうのはあまり好きじゃない。女のノートみたいで」
 途端に、風丸が豪炎寺の鼻先にマーカーを突きつけた。
「女みたいってどういう意味だ!?」
 風丸の顔は明らかに怒っている。豪炎寺はしまった、と思い訂正の言葉を述べた。
「いや、お前のことを言ってるんじゃない。……恥ずかしいだけだ。ピンク色とか」
 豪炎寺がぼやくように言うと、一瞬きょとんとした風丸が可笑しそうに噴きだした。
「恥ずかしいって、お前そんなことくらいで?」
 風丸はくすくす笑っている。自分が笑われてると思うと、豪炎寺はなんだか不機嫌になった。
「悪いか?」
「いや、悪くはないけど」
 風丸は必死に笑いをこらえようとしている。何度か咳払いして、息を整えた。
「お前がそれくらいで恥ずかしがるとか、全然思わないからさ」
「俺だって、恥ずかしいと思うことだってある」
「そうだな、ごめん」
 素直に謝る風丸を見て、ああ、これこそが風丸だと豪炎寺は思う。このさっぱりした気性が、風丸らしさなのだと。
 豪炎寺が思い直してると、風丸はマーカーをピンクからブルーに替えた。そして再び説明しながら、ノートに書き込んでいく。
「色なんか、何でもいいんだ。要するに効率よくノートを取ろうと思ったら、こんな風に一目でわかるようにしとけば便利なんたぜ」
 ノートの書き込みに下線を引いたあと、風丸はマーカーで『ここ重要!』と注意書きを入れる。
「ああ」
 豪炎寺が相槌を打つと、風丸はマーカーを立てて一旦休めた。
「お前はいつもこうやってノートを取っているのか?」
「まあな。やっぱ、どうしても部活やってるとそれだけ勉強時間が取れなくなるだろ。それでいっぺん、成績が落ちそうになったから、効率よく勉強する方法を探してて……。で、結局ノートの取り方を工夫する事で落ちついた」
「なるほど」
「まあ、俺の真似しろってわけじゃないけどな」
 豪炎寺が感心していると、風丸ははにかんだ顔で応えた。

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 そうやって、ふたりで話し合いながら勉強に勤しんでいると、ドアをこんこんと叩く音がした。ひょいと顔をのぞかせたのは、妹の夕香だ。
「お兄ちゃん。ちょっといい?」
「どうした、夕香」
 手を休めて振り返ると、夕香はにこにこ微笑みながら部屋に入ってくる。「あのね、あのね。いま、学校のお友だちとでけしゴムあつめがはやってるの。それで、きょう交換したんだけどー」
 夕香は後ろに回していた手をぱっと
差し出した。手の中には小さなサッカーボールを模した消しゴムが乗っていた。
「これ、風丸お兄ちゃんにあげる」
「俺に!?」
 風丸が驚いた顔で尋ねると、夕香はこくんと頷いた。手の中の丸い消しゴムを風丸の両手に握らせる。
「本当かい? ありがとう、夕香ちゃん」
 夕香はにっこりとして笑顔を保ったまま、豪炎寺の部屋から出ていった。
「じゃ、おやすみなさい。お風呂冷めないうちに入りなさい、だって!」
 ことづけを残して夕香が出ていくと、 風丸は豪炎寺をじっと見上げた。
「もらっちゃった。これ、蹴ってもいいのかな?」
「お前の好きにしたらいいんじゃないか」
「うん!」
 さっそく風丸は消しゴムのボールを机に置くと、まずは軽くさばいた。足で感触を確かめるように、転がしていく。
「どうだ……?」
 豪炎寺が尋ねると、はしゃいだ顔で答えが来る。
「ああ。いいぜ、これ! ドリブルの練習にはもってこいだ」
「それは良かったな」
 こんな嬉しそうな風丸は、久しぶりに見た気がした。ボールを蹴りながら、ジグザグと動くさまは確かに月曜日以来だった。
 風丸の動きを目で追っていると、そのうち豪炎寺も一緒にやりたくなり、指を使ってディフェンスを仕掛けてみた。
「おっ、負けるかよ!」
 風丸が楽しんでるのを見て、今度は筆立てを机の端に置いてみる。
「風丸。ここにシュート打ってみろ」
「ああ!」
 軽い声で受けおうと、風丸は机に置いたボールを思いきり打ち込んだ。
 その刹那。
 風丸が打ったボールは、豪炎寺の頬先をびゅんとかすめ、机端にあった筆立てを壊すかの勢いではじき飛ばした。
 弾かれた筆立ては派手な音を立て、机の上で転がり、何度も叩きつけられたあと、やっと動きを止めた。
 豪炎寺は信じられない顔で筆立てを置きなおす。ダイキャスト製の筆立てはかなりの重さがあり、ちょっとやそっとの衝撃では揺れるはずがないものだ。
「あ……、ああ。す、すまない。力を加減したつもりなんだが」
 風丸は青ざめた顔でそう言うと、慌てて首を振った。
「あ、違う。つい、力が入ってしまって……、だ、だから……俺、は……」
 風丸はうなだれて机の上で立ち尽くしている。手がぶるぶる震えていた。
 豪炎寺は風丸が打ったボールを探した。顔をかすめ筆立てに当たったボールは、跳ね返って机の隣にしつらえた本棚の端に転がっている。
 指で拾い上げると、消しゴムのボールは表面に黒く擦ったあとが残っていたが、壊れてはいないようだった。
 机に戻ると、風丸は立ち尽くした姿のままでいた。ボールをそっと足元に置いてやる。
「風丸。今のシュート、すごいじゃないか」
 呼びかけてみても、風丸は答えない。
 力を加減した? それとも力が入り過ぎた?
 さっき風丸が言っていたが、今の様子では言い直した方が真実とは思えなかった。
 ふと、おとつい一之瀬が言っていた言葉が、頭に浮かんだ。
「もしかして、エイリア石の影響が今頃出たとか……」
 その時はみんなに、空気の読めない奴だと諌められたが、もし、一之瀬が言っていたことが真実だとしたら……。
「風丸」
 豪炎寺はもう一度風丸に呼びかける。返事はなかったが、尚も言葉を続けた。
「お前。その力はエイリア石の……」
「その通りだよ」
 絞るような声で、風丸は答えた。手の震えは止まず、顔は俯けたままだ。
「俺の中……、あの力はまだ残っている」
 風丸は震えの止まらない手を開いてじっと見つめる。
「あの石は円堂が壊したんじゃなかったか」
 あの時、風丸や染岡たちがエイリア石の力で剣崎に洗脳されていた時、豪炎寺は見た。風丸の首にぶら下がっていた妖しい紫の光を放つ石は、円堂の必死の説得で粉々に砕け散ったのを。
「そうだ。円堂のお陰で俺は。……なのに」
 大きく開いた右手を、風丸はぎゅっと握りしめる。
「なのに、あの力は俺の中から消えてなかったんだ!」
 風丸の声は苦しげに震え、かすれていた。
「何故かは分かるか?」
 豪炎寺が問うと、風丸は悲しげに首を振った。
「分からない。とにかく、あの力は消えてなかった。最初は戸惑ったよ。あの石は砕けたのに、力は元のままだったから。だからなるべく、誰にも悟られないように力を加減するようにしてた」
 風丸はぽつりぽつりと話し始める。豪炎寺は黙ってそれを聞くことにした。
「エイリア石っていうのは、どうやら人の潜在的な力を引き出し、なおかつ強力なエナジーを与えるらしい。通常よりも強い力を出せば、その分、反動や疲労が出るんだが、エイリア石はそれを軽減してくれる。だが、エイリア石がない状態で力を出し続けると……」
 そこまで言うと、風丸は自嘲気味に苦笑いした。
「どんなに力を加減していても、夕方頃には力が尽きてしまうんだ。学校から家に帰ると、そのままベッドで眠りこけてた。夕飯を食う間もなく、な」
 豪炎寺は胸にこみ上げてくるものを感じた。風丸は誰に知れることもなく、苦しい思いを抱えていたのだ。
 そして、風丸に言われてやっと気づいた事がある。勉強は朝にやっているらしいということ。やけに寝ている姿を見たこと。
 昨日も、あの避難訓練の騒ぎのあと、風丸はポケットの中でいつの間にか眠っていた。今日だって豪炎寺が学校から帰った時も、風丸は寝ていたじゃないか。
 そもそも豪炎寺の目の前で体が縮んでしまった時も、風丸はふらふらと辛そうにしていた筈だ。
「お前がよく寝ていたのも、その所為だったんだな」
 豪炎寺が言うと、風丸は頷く。
「勉強を朝にしているというのも、夜にできないからか?」
「ああ。朝くらいしか時間がないからな。効率のいいノートの取り方は元々やってたんだが、おかげで役にたったよ」
「誰にもその事を話してないのか? 円堂には?」
 豪炎寺の問いに風丸は首を振って応じた。
「言えるワケ、ないだろ。あいつは俺の事でずいぶん苦しんだ。もうあんな思い、円堂にはさせたくないんだよ」
「しかし」
「分かってる。そもそも、悪いのはあんな力に頼ろうとした俺の所為なんだから……」
 風丸は俯きながらも、右手を何度も握っては開いた。
「でも、お前ひとりが辛い思いをしなくてもいいじゃないのか?」
 豪炎寺はそう声をかけたが、風丸は何も答えない。
 風丸の気持ちを考えると、それ以上、なにも言わないのがいいのかもしれない。だが、豪炎寺は無性に風丸のために何かしてやりたかった。
 今、風丸の足元には夕香があげた消しゴムのボールが転がっている。豪炎寺はふと、そのボールを置き直した。
「風丸。打ってみろ」
「えっ?」
「そのボール、打ってみろ。思いっきりな」
 風丸はたじろいで豪炎寺を見上げた。
「思いっきり、って」
「お前、さっき言ってた分だと、しばらくのあいだ加減してて、力一杯打ってないんじゃないか? だったらこの際だ。やってみろ」
「でも……」
 風丸は躊躇していたが、豪炎寺が首を横に振るのを見ると、息を呑んだ。足元のボールを手に取り、じっと凝視する。
 やがて目を閉じると、ボールに額を押し当てた。ほんのちょっと、そうしていたが、すぐに目を開けるとボールを自分の手前に置いた。
「やってみる」
 決心した顔で豪炎寺に頷くと、足でボールを引き寄せる。豪炎寺は筆立てを前に倒して、手で押さえると風丸に合図した。
 風丸は深呼吸すると、次の瞬間、力の限りボールを蹴りつけた。ボールは凄まじい回転をつけて、まっすぐ豪炎寺が押さえている筆立ての開口部へと飛んでゆく。
 次の瞬間、豪炎寺は鈍い音とともに押さえていた筆立てに重い衝撃を感じた。思っていたものよりずっと、手のひらにずしり、ときた。
 これが、今の風丸の力なのか……。
 そう思って前を見ると、風丸が深く息を呑んでいる。
「風丸。すごいな、お前は」
 豪炎寺が呼びかけると、風丸はえっ、という顔をした。
「お前はすごい。俺も負けられないな」
「そんな……」
「元の体に戻ったら、俺と一緒にサッカーしよう」
「豪炎寺……」
「お前と競いたい」
 じっと目を見つめると、風丸はわずかに瞬きしたが、ふっと笑みをこぼした。
「うん。俺もお前と一緒にサッカーしたい!」
「ああ!」
 互いに気持ちを認めあうと、じんわり胸が熱くなるのを感じた。

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 それから、いつものようにふたりで風呂を浴び、寝巻きに着替えて寝ることにした。
 フクさんお手製のパジャマを身につけた風丸は、髪を下ろしている所為か、普段より幼く見える。
 本当なら、風丸のために用意した寝床で寝るのだが、昨夜のようにふたり並んで豪炎寺のベッドに横になった。
「あのな、豪炎寺」
 横になって少し経ったあと、だしぬけに風丸が話しかけてきた。
「どうした?」
 何の気なしに応えると、風丸は豪炎寺をじっと見つめてぽつりと話し始めた。
「さっきな、ノートの取り方の話のときなんだけど」
「ああ」
「お前、俺のやり方が女みたいで嫌だって言ってただろ」
「色の話だぞ、それは」
「うん。いや、それでちょっと昔のこと思いだしたんだ」
「昔?」
 風丸は豪炎寺に向けていた視線を天井へと移した。まるで、遥か遠くを見据えるみたいに。
「俺が小学生の頃、クラスメイトの女子で俺をたびたび苛めてくる子がいたんだ」
 豪炎寺はぎょっとして風丸を見た。風丸は視線を真上に向けたままだ。
「その女子、いっつも俺を『男子のくせに』って言ってたぜ。口癖みたいにな。俺、その頃から髪を伸ばしてたからかな」
 豪炎寺は何も言えずに、ただ風丸の横顔を見ていることしかできなかった。
「だから、髪を引っ張られたり、上靴やリコーダーを隠されたりなんか、しょっちゅうだったぜ。明らかに犯人はその子だったけど、悪びれもせずに『ふん』って横向いてさ。今でこそ笑い話だけど、その当時はムカついてしょうがなかったな」
 話を続ける風丸の顔は笑っている。豪炎寺は少々ほっとした。
「その女子や同調した奴らに酷いことされても、俺には円堂がいたから平気だったんだ。たとえクラス中が俺を苛めたって、円堂だけはずっとそばにいて俺を守ってくれたから」
 昔話をし続ける風丸の視線がふと、ゆるんだ。何か、感慨深いものを思い出したのか。そこまでも風丸と円堂のあいだには深い絆があるのだと、豪炎寺は実感した。
「それで、学芸会の時さ。クラスでシンデレラの劇をやることに決まったんだ。そしたら、その女子が俺をシンデレラ役に推薦しやがってさ」
「シンデレラ!?」
 豪炎寺が思わず訊きなおすと、風丸が可笑しそうに鼻で笑う。
「ふざけてるだろ? 俺が女みたいだからって当てこすりさ。もちろん、俺や円堂は反対したけど、多数決で俺に決まってしまったんだ」
「それで」
 豪炎寺は深刻な目で風丸を見つめる。だが、風丸は視線をすぐに天井へと戻してしまった。
「ムカついたけど俺は、腹を据えたな。こうなったら、とことんシンデレラになりきってやろうと思って、必死で練習したよ。で結局、学芸会の劇は俺たちのクラスが一番に決まってな。会場は拍手喝采。PTAや先生たちにも好評だったくらいさ」
 風丸は一旦話を切る。興味を持った豪炎寺は風丸が続けるのを待った。
「で、それから俺への苛めはぱったり止んでしまった。俺がシンデレラ役をやったことで、やっとクラスメイトは俺を認めてくれたんだ。根性あるってな」
「その女子はどうなったんだ?」
 尋ねると、風丸はゆっくりと豪炎寺を見た。
「その子だけは俺を認めも肯定もしなかった。ただ俺のことを無視するだけで、苛めるのはやめたけどな」
「そうか……」
「話はこれで終わりだ。悪かったな、くだらない話で」
 話を終えた風丸を、豪炎寺はじっと見続けた。風丸の話は、豪炎寺にとってずいぶん興味を惹かれたが、ひとつだけ、気にかかることがあった。
「風丸。その女子のことだが」
「ん? 言っとくけど、その子とは別の中学だから、そのあとどうなったかまでは知らないぜ?」
「違う。その女子はお前のことが好きだったんじゃないのか?」
「えっ?」
 風丸はびっくりした顔で豪炎寺を見る。そんなことは想像もしてなかったようだ。
「そんな……、まさか」
「お前が好きだったからこそ、気を引きたかったんじゃないのか」
 豪炎寺には確信があった。それは、いつも風丸と円堂が一緒にいるところを見ていたからだ。
 苛めの原因に嫉妬があるのを感じたのは、それが普段、風丸と円堂へ感じる豪炎寺自身の気持ちだからだ。
 言われた風丸はといえば、不思議そうに首を傾げている。
「そうかぁ? 全然そんな風に思わなかったぜ」
「好きだからこそ苛める。よくある話だ」
「そんな……。そんなの、ずいぶんガキっぽい話だぜ……」
「子供だからだろう」
「そんな……」
 風丸の声はそこで途切れた。ふと見ると、風丸は目を閉じて眠りについていた。
 ああ、そうか。エネルギー切れか。
 豪炎寺はそう気がつくと、タオルケットを寝ている風丸にかけてやった。
 部屋を見回して、机を見る。夕香があげた消しゴム製のサッカーボールが転がっていた。
 豪炎寺はベッドから起き上がって、そのボールを手にした。表面には黒い擦りあとが残っている。
 風丸の話を聞いて、一体自分は何をしてあげられるのだろうと思った。もちろん、一番にしてやらなければならないのは、風丸の体を元に戻してあげることだ。
 だが、それ以外にも何かしてあげたい、という意思が心の奥から沸きあがってくる。
 ボールと、さっき吹き飛ばした筆立てを交互に見て、豪炎寺はふと思いたった。
 そうだ。あれなら、風丸も喜ぶに違いない。
 豪炎寺は確信すると、材料を求めて部屋を抜け出した。

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~六日目~


 気がつくと、豪炎寺の前には風丸が立っている。彼の頬は紅潮し、どこか儚げだ。
 ぽつんと立っている様が、妙なくらいにせつなく思えるので、どうしたのかと尋ねた。
「豪炎寺、俺……なんだか体が苦しくて」
「苦しい? どこがだ」
 豪炎寺の問いに、風丸は赤い頬をさらに赤らめた。体は震えている。豪炎寺はそっと頭の先に触れた。
「あ……、豪炎寺」
 風丸は微かにうめき声をあげた。一体どこが悪いのだろうと、髪を撫でてやる。
「豪炎寺。……あの、さすってくれないか? 俺の……体」
「本当に悪そうだな。さすってやればいいのか?」
 豪炎寺が訊くと、風丸は恥ずかしそうに俯いていたが、決心してシャツをめくりあげた。裾から、素肌が覗く。緩やかな胸としなやかな腹部のライン……。
 風丸を介抱しようとして、豪炎寺はこれが夢だと気づいた。いくらなんでもいつもの風丸なら、こんな風に他人に身を任せることなどない。
 だが豪炎寺はほくそ笑む。夢なら、どんな行為をしても、怒られるともないし、咎められることもないだろうから。
「分かった。すぐ楽にしてやるからな、風丸」
 豪炎寺は風丸に囁くと、人差し指の先で肌をそっと撫でる。風丸は仰け反って吐息を漏らした。
「あっ……。ご、豪炎寺」
 豪炎寺は風丸の体を掴むと、ゆっくり親指の腹で素肌の上を撫でまわした。豪炎寺の指がうごめくたび、風丸は体をよじらせて切ない声をあげる。
 風丸の声に挑発されるように、豪炎寺も動かしている指を激しく擦りあげた。
「ああっ、気持ち、いい……!」
 これは夢だ。本当の風丸はこんな対応なんかしないし、こんな声も出さない。
 そう、分かってはいても、豪炎寺はその手を休めることはなかった。風丸の胸元を親指でさすってやりながら、片方の指で頭の先をゆっくり撫でる。そうしてやると、風丸は歓喜の声さえあげるのだ。
「どうだ、風丸?」
 尋ねると、風丸は頬を上気させてこくんと頷く。
「うん……。もっと、豪炎寺……」
 豪炎寺はいい気分になり、更に風丸をもっと良くしてやろうと思った。風丸の着ているシャツを脱がすと、次に下のハーフパンツを取り去ろうとした。
「豪炎寺……!」
 なんだか、首元の辺りに軽い衝撃を感じる。そう気づいたら、今度は耳元に風丸の声が響いた。
「おい、豪炎寺ってば!!」
 はっと目を覚ますと、風丸が自分の顔を覗きこんでいた。豪炎寺は慌てて起きあがる。途端に、どうしようもなく下腹部が熱くなっているのを感じた。
「どうしたんだ? またうなされていたから、俺、心配になって……」
 風丸が気遣っている顔を見せているというのに、豪炎寺は股間の熱を持てあましている自分の状態に、滅入っていた。
「なんでもない」
 言い訳にならない言葉をつぶやいて、そしらぬ顔をすると、風丸はいぶかしげに首を捻る。
「大丈夫かよ?」
 心配そうに手を出してくる風丸を、豪炎寺は思わず手で払ってしまった。勢いで風丸の小さな体はもんどり打って、豪炎寺の上を転げ落ちる。
「うわっ!」
「あ……すまない」
 運が悪い。そんな言葉で片付けるには、いささか乱暴かもしれない。風丸の体は豪炎寺の体の上にとどまっていたが、転がった先は股間の上だった。
「もう! どうしたんだ、一体……」
 掴まる場所を手を伸ばした風丸が、とにかく探り当てた箇所は硬くせり上がっていて、その違和感に目を丸くした。スエットのズボンは生地が比較的薄手だった所為か、己が触っているものの正体に気づいたとき、風丸はびくっと鳥肌を立てた。
「あっ? あああ、うわっ!!」
 慌てて豪炎寺の体から飛び降りた風丸は、まるで汚らしいものを見るかのように、嫌悪で一杯な顔をする。
「豪炎寺……、お、お前!」
 豪炎寺本人も、風丸の手が自分の屹立したものに触れたことに、内心慌てていた。
「なっ、何だ?」
「お前、何デカくしてんだよ……。朝っぱらから!」
「あ、朝だからだ」
 まさか、風丸にこんな自分を見せることになろうとは、思っても見なかった。できるなら、格好いいところだけを見せたい。ささやかだが行為を持っている相手にできる、精一杯のことだった。
「お前だって、起きぬけのときだとか、朝勃ちくらいするだろ? 男なんだから」
 その現象は、男ならごく当たり前に経験することだったが、風丸は聞いた途端、顔を真っ赤に染めてしまった。そして言うに事欠いて、風丸の口から出たのは、この一言だ。
「す、するわけないだろ!!」
 豪炎寺は呆れて風丸を見おろした。ベッドの上で片膝を立てて、腕組みする。
「嘘をつけ。男なら当たり前だ」
 きっぱり言ってやったが、風丸は首をぶるぶると振った。
「しないぞ。豪炎寺じゃあるまいし!」
 さすがに、かちんときた。
 なんて言い様だ。しない訳がないだろうに。
「バカなことを言うな。お前、もう生えてるだろうが」
「生えてる、って何が……?」
 きょとんと首を傾げた風丸が、豪炎寺の言った意味に気がついて、顔どころか全身を真っ赤にしたのは無理もなかった。
「お、お前! 風呂はいってるとき、見てたな!!」
「見たくて見たわけじゃない」
 豪炎寺は不機嫌な顔で、横を向いた。
「見てるじゃないか! うわ、いやらしい。どういう目で人を見てるんだか……」
 おそらく、売り言葉に買い言葉とは、今のようなことを言うのだろう。忌々しく思った豪炎寺は乱暴な仕草でベッドから降りると、着替えだした。
「な、何だよ」
 気分を害している風丸がとげとげしい声で身構えると、豪炎寺はつんと横を向いたまま言い放った。
「トイレでオナニーしてくる。お前がいると邪魔だからな」
「な!」
 それはどう言う意味なんだ、と風丸がわめいていたが、それは無視してトイレにかけこんだ。用をすませると、便器に座り込んで頭をかきむしる。
 違う。あんなことを言うつもりじゃなかったんだ。つまらない言い争いなどしたくはなかったのに……。
 そう思っていても、突然湧きあがった小さなわだかまりは、豪炎寺と風丸の間に深い溝を作っていた。
 その日は土曜日で学校はなかったが、豪炎寺の父親は出勤で、妹の夕香も歯医者の検診があったのでそれぞれ予定があった。朝食を済ませると、豪炎寺は外出用のパーカーに腕を通した。
「お前も出かけるのか?」
 おずおずと風丸が話しかけてくる。だが、豪炎寺はろくに返事もせず、部屋をあとにした。

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 秋晴れの朝は、陽の光がやたらと眩しく、この季節にしては肌暖かい。あてもなく外へ飛び出したが、豪炎寺には何処に行ったらいいのか、自分でも分からなかった。
 学校に行っても校門は閉じてるだろうし、図書館はまだ開館にはまだ早い。せいぜい、近所ではコンビニか喫茶店が開いてる程度だ。
 豪炎寺は辺りを見回してみてふと目に入った、天を突く鋭い先端に釘付けになった。
 この町のシンボルである鉄塔だ。
 豪炎寺の瞳に安堵が宿った。あそこなら、確実にあいつがいるに違いない。
 パーカーのポケットに両手を突っ込むと、豪炎寺は鉄塔広場へと足を向けた。ゆるい坂道を登った先にその広場はある。
 はたして、広場からは聞き慣れた声が聞こえてくる。階段を上がって、豪炎寺は振動で揺れている梢の下で特訓に精をだしている円堂に声をかけた。
「円堂。やっぱりここにいたんだな」
「豪炎寺じゃないか。おはよう!」
 巨木の枝にくくりつけたワイヤーにぶら下がっている古タイヤと格闘していた円堂が、豪炎寺に気づいて振り向いた。
「なんだ? お前、ヒマなのか?」
「まあ……な」
 ポケットに手を突っ込んだまま、豪炎寺は木の幹にもたれ掛かった。
「そっか。だったら、特訓に付き合ってくれないか?」
「いいだろう」
 豪炎寺は頷くと、木の傍に置いてある古びたサッカーボールを手にとる。円堂が自分に向き直るのを確かめて、思い切りボールを蹴った。
 はっ、と昨日の光景が胸によみがえる。
 机の上で、力のままにボールを蹴る風丸の姿を。
「よーし! いいぞ、豪炎寺。やっぱ、タイヤ相手より、こっちの方がいいなぁ!」
 快活な円堂の声で我に返る。
 豪炎寺はかぶりを振ると、円堂が返して寄越したボールをもう一度蹴った。
 スパーン、と小気味のいい音で、円堂がボールを受け止める。
 それなのに、豪炎寺の胸にはもやもやと苦しさが募った。
「よしっ! もっといいの、頼むぜ!」
 円堂が威勢のいい声で返すボールをトラップして蹴りかえす。頭の中で思い浮かぶイメージが、どうしても昨日の風丸と重なってしまい、豪炎寺はこみ上げてくるものに嘆きたくなった。
「おい、……豪炎寺?」
 膝に手をついて肩であえいでいると、円堂が心配げな顔で豪炎寺を覗き込んだ。
「どうした? なにか……あったのか」
 栗色の丸い瞳と視線があって、豪炎寺はまぶたを閉じた。
「円堂……」
「ん?」
 しばらく黙り込んだ末にやっと絞り出した言葉を、円堂はじっと待っていてくれていた。
「お前、ケンカをしたことはあるか? その……風丸と」
「風丸?」
 きょとんとした顔で円堂は首を傾げた。
「あ、いや。ダーク・エンペラーズのことは勘定に入れなくていい」
 円堂が眉をひそめたのを見て、豪炎寺は補足した。円堂があのことを未だに気に病んでいるのは、どことなく認識していたからだ。豪炎寺がそう言ってやると、円堂はほっとした顔をしている。
「風丸とかぁ。そうだなぁ……」
 円堂は首をひねって考えはじめた。
 ああ、やっぱり……。
 豪炎寺はこんな質問をしてしまったのを、後悔した。やはり、普段から円堂と風丸の仲の良さを見るにつけ、このふたりには諍いなどある訳がないのだろう。
「いっぺんだけなら、凄ぇやつしたこと、あるぜ?」
 だが、円堂の口からは意外な言葉がこぼれた。豪炎寺は息を呑んだ。
「あるのか。お前たちでも」
「あるって。あれは確か……。小5の時だったかな?」
 円堂は腰に両手を当てて、ふと周りを見回すと、すぐそばのベンチに豪炎寺を招いた。スポーツバッグを開けて、中に入れてあった水筒を取り出し、一旦喉を潤した。
 円堂はスポーツドリンクを飲むと、懐かしむように語りはじめた。
「小5の頃さ。それまで、俺と風丸とは毎日のように一緒に遊んでたんだ。よくあの、河川敷の公園に行ってはさ。俺はいつもボール持ってったから、自然とあいつとサッカーすることが多かったな」
「風丸は陸上出身じゃなかったか?」
 円堂の話を聞いていて豪炎寺は、ふと思った疑問を口にした。
「うん、確かにそうなんだけどさ。俺と一緒のときはよくつきあってくれたんだぜ」
「そうか」
 円堂のサッカー好きを知っている身となれば、彼の言っていることは納得できる。
「でさ。そんな感じでいつも遊んでたんだけど、小5になったある日、風丸が陸上部に入ることになったのさ」
「風丸が自分で決めたのか?」
「う~ん。先生に頼まれたんだと思う、確か。まあ、風丸も走ること自体は凄い好きだったからな」
 豪炎寺は頷くと、円堂に話の続きを促した。
「で、風丸が陸上に行くって話になったとき、俺に聞いたんだ。『いいのか』って」
 円堂はそこまで言うと、一旦切って、ドリンクの入った水筒に手を伸ばした。一口喉を潤し、口元をぬぐう。
「それで?」
 円堂が一息ついたのを見て、豪炎寺は尋ねた。
「俺としてはさ。やっぱ、風丸が望むとおりにするのが一番だよな……って思って、『もちろんだ』って答えたらさ。いきなりあいつ、怒りだしちゃって」
「怒った? 風丸がか?」
 豪炎寺が尋ねると、円堂はこくこくと頷いた。
「ああ。『本当にそれでいいのか』って風丸は言ってたんだけど、俺は本気の本気だったからな。でも、それからしばらく、風丸は俺と口聞いてくれなくなって……」
 秋特有の高く広がる空に、風に吹かれた梢がざわめいている。円堂は虚空をながめて、溜息ともつかない息を吐いた。
「俺は、風丸が走るのが好きだって知ってたし、走ってるときの風丸はすごくキラキラしてて、何よりも楽しいんだろうなって感じてた。だから、風丸が怒ってるのは、全然わけが分からなかったよ。今でもさ」
 豪炎寺は黙って円堂の話を聞いていた。円堂が理解できなかった、風丸の気持ちが分かる気がしたのは何故だろう……。
「でも、まー、仲たがいしてたのはせいぜい一週間くらいでさ。どっちからだったかは忘れたけど、気まずくなってるのに耐えられなくなって、お互い謝ってケンカは終了したぜ。それからはもう……。アレ以外では」
 ベンチに腰かけた円堂は、所在なさげに脚をぶらぶらしていた。少し辛いことを思い出したのか、眉をほんのちょっと、曇らせている。
「円堂」
「なんだ?」
「風丸はお前に、引き留めて貰いたかったんじゃないか?」
 思い迷ったが、そのものずばりに豪炎寺は頭に浮かんだことを口にした。
「そ……」
 円堂は口をぽかんと開けてあっけに取られていた。
「そんなワケないだろ! 風丸にとって陸上部から誘われたのは、すごいチャンスで、あいつだってもっと速く走れるって、言ってたし……」
「風丸はひとりでサッカーボールを蹴っているお前を見兼ねて、迷ってたんじゃないのか」
 その場にいたわけでもないし、本人に聞いたわけでもなかったが、風丸の気持ちがありありと分かった。自分よりも他人を尊重する彼ならば、そう思うのは必然だろう。
「でも、だからと言ったって、俺はやっぱり風丸を喜んで陸上部に送り出したと思うぜ?」
 きっぱりと円堂はそう言った。その言葉も豪炎寺は織りこみ済みだ。
「ああ。でも風丸は、お前にそう言ってもらいたかったんだと思う」
 豪炎寺が答えると、円堂は頭を抱えだした。
「じゃあ、おれのやったこと逆効果だった、ってワケか?」
「そんな思いつめなくていい。結局、結果はオーライだったんだろう?」
「ああ! 陸上始めた風丸はめちゃめちゃ足が速くなってさ。元から速かったのに、さらに磨きがかかったらしいから、すげー喜んでたよ。……まさか、2年も経ったいま、また風丸と一緒にサッカーやれるとは思ってもみなかったけど」
 不思議だなぁ、と円堂は呟くように言った。
 風丸が再び円堂とサッカーを始めたのは、元はと言えば豪炎寺が雷門に転校してからの騒動が発端だ。
「そうだな」
と豪炎寺が答えると、円堂も、
「運命なのかもな。風丸のことも、お前も」
と言う。豪炎寺は密かに微笑んだ。
「しかし、風丸がお前を放っておけるとは思えないがな。お前と風丸のことは、いわば必然だっただけで」
「そっかなー?」
「そんなの決まってる。風丸は他人のことは放ってはおけない奴だ。いつだって自分よりも他人の幸福を考える」
 豪炎寺がそう言うと、円堂は目を何度も瞬かせた。
「豪炎寺……。お前、俺より風丸のことが分かってるんだな」
「えっ」
 円堂の言葉に驚くのは、そう言われた豪炎寺の方だった。
「お前なんか、すげー。……けど、ちょっと妬けるなぁ」
 流石にそれには、頬が熱くなる。
「いや。別にそんなわけでは……」
 言い訳じみた言葉を紡ぎ出そうとして、もう風丸とは五日も一緒にいるのだ、と我に返った。
 このたった五日間で、風丸のことがずいぶん分かってきた。今まで知らなかったことも、手をとるように理解できる。それほどまでに親密になっていたことを、豪炎寺は自覚した。
 それなのに、朝の俺の態度は……。
 今頃になってようやく、風丸に対して自分がとった行動を猛省する。
 一刻でも早く、風丸に謝るべきだ。
 それに気がついて、豪炎寺は自宅のあるマンションの方に向き直った。
 そわそわとした仕草の豪炎寺に、円堂が訝しげな顔をする。
「どうした、豪炎寺?」
「円堂……俺は。行かなくちゃならない」
「ん? 用事あるのか」
 豪炎寺が頷くと、円堂はにこやかに笑った。
「だったら、もう行けよ。俺は夕方までここにいるからさ。暇になったら、いつでも来いよ!」
 そう言うと、気軽に豪炎寺を送り出した。彼の寛容さに感謝すると、豪炎寺は鉄塔広場を駆けだした。

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 豪炎寺が出ていってしまってから、風丸は机に転がっていたボールを一心に蹴っていた。
 さっきの豪炎寺の態度に、いきようのない憤りを叩きつけながら。
「何だよ、あれ! 俺に対するあてつけかよ」
 朝、ベッドでまだ眠っている豪炎寺が、うなされているようだから、心配して声をかけただけなのに……。
 どちらかと言えば、ぶっきらぼうで本心をあまり見せない奴だと思っていたが、それでも彼のことは信頼していた。
「くそっ!」
 目の前に戻ってきたボールに、風丸は力の限り思いをこめる。勢いよく蹴られたボールは、まっすぐ机の先にあるゴールネットに突き刺さった。
 言葉が少なくても、自分に対する行動はよく考えられたものだった。気遣いもあり、優しく包みこんでくれる。
 特にあの、一昨日校内ではぐれたあと、息せき切って駆けよってくれた時の安堵感は今まで味わったことのないものだった。なのに。
「豪炎寺の……バカ野郎!」
 今朝の彼の態度は、今まで築いた信頼を覆すのに十分だった。
 ころんと転がって戻るボールを、風丸は腹立たしく蹴りつける。怒っているのに、目から涙の粒があふれてくる。
「くそっ。くそぉ!」
 天井を仰いで、まぶたをぎゅっと閉じた。目元が熱い。思わず、顔を伏せた。
 何故俺は、こんなにも悔しいのだろう……。
 そう、思ったらボールを蹴るのさえ、虚しくなった。
「だって、豪炎寺の奴が……」
 言い訳じみた言葉を吐こうとして、風丸はある違和感にやっと気付いた。
 顔をあげて、目の前を見つめる。
 机の上の、端っこにあるゴールネット。
「ゴールネット?」
 風丸はまじまじと前方を見た。近寄って、昨夜まではなかった異物を確かめる。金属の棒を折り曲げてあるネットは、よく見るとハンガーか何かを加工したようであるし、白いネットは洗濯用のものに似通っていた。それを動かないように、底面に重たそうなプラスチック製の板を貼り付けてあった。
 このゴールネットのミニチュアは、おそらく誰かのお手製の様で……。
「豪炎寺……、あいつ」
 胸の内を、熱いものがこみ上げる。多分。いいや、これは確実に豪炎寺が自分のために作ったものだ。
 自分の……、俺のために……。
 そう感じたら、さっきまでの怒っていたことがとてつもなく恥ずかしくなった。豪炎寺はいつも、自分のために苦心してくれているのに、なんであんなことを言っちまったんだろう。
 風丸はゴールネットの金属棒を手でさすると、うなだれた。


 豪炎寺が自宅のマンションに戻ると、まず夕香とフクさんが出迎えた。
「風丸は!?」
 訊くと、ふたりがおずおずと答える。
「それが修也さんの部屋にこもりきりでして」
「夕香があそぼ、って言っても、お兄ちゃんを待ってるからって」
 それだけ聞くと、急いで自室に上がった。
「風丸!」
 果たして風丸は、夜中に作ったゴールネットの隣でじっと立ち尽くしていた。
「すまない。今朝の俺はどうかしていた。お前の気持ちを考えてなくて……。虫のいい話だが、許してくれないか」
 とりも直さずそう詫びると、風丸はただ首を横に振った。
「謝らなきゃならないのは、俺の方だ。あんなくだらないことで腹を立てちまった俺が悪い」
「もう、怒ってないのか?」
「お前の方こそ」
 互いに謝っていると、何故だか笑顔がこぼれた。
「よく考えたら、デリカシーのないことをお前に言ってしまった。ああいうのは、お前も嫌なんだろう?」
 豪炎寺が素直な気持ちで話すと、風丸はにこやかな顔で答える。
「いいよ。実際、お前の言うとおりだったし。あの程度でムカつくだなんて、大人げなかったよ」
 豪炎寺は風丸の言葉をほっとして受けとめた。風丸はもう怒ってはいない。
「あんなことで、お前と仲たがいするのはやっぱ、嫌だ。せっかく、俺たち仲良くなったのに」
 風丸がそう言うと、豪炎寺も頷く。
「ああ。これからもずっと、俺たちはお互いにいい関係にしよう」
 熱意をこめて言うと、風丸は頬をほんのり染めた。こくんと頷き、豪炎寺に笑いかける。
「これ……。このゴールネット。お前が作ったんだな」
 風丸は、ネットの支柱を愛おしそうに撫でながら言った。豪炎寺はああ、とほくそ笑む。
「昨日のお前を見てて、あった方が喜ぶかと思ってな」
「ありがとう。嬉しいよ」
「本当か?」
「当たり前だろ! お前の心遣いがよく分かった」
 風丸が自分に向ける視線が熱く感じられて、豪炎寺は心がくすぐられる気分がした。
「だから……良かった。お前と仲直りできて。本当に……良かった……」
 どこか、たどたどしい声で風丸は豪炎寺にそう言った。嬉しくなって頷き返す。
 だが次の瞬間、風丸はその場に崩れ落ちた。
「風丸?」
 豪炎寺がいつも使っている机の上、きのう夜中までかかってこしらえたゴールネットのそばで。風丸の小さな体は、倒れた。
「風丸!」
 豪炎寺はあわてて、倒れた風丸を助け起こした。手足に触れて、初めて風丸の体が熱っぽいことに気づき、息を呑む。
 さっき風丸の頬が赤く染まっていたのは、恥ずかしいからではない。熱の所為だ。
 額を指先で触れる。昨日までの風丸より、ずっと高い体温だ。
 風丸は荒く息を吐いている。豪炎寺はぞっとした。


 豪炎寺の父親が診療を終えて、自宅のマンションに帰宅したときには時計の針が4時近くを指していた。
「父さん! 風丸が……」
「風丸お兄ちゃんがお熱なの!」
 玄関で靴を脱いでいた父は、急いで豪炎寺の部屋に行くと、ベッドに寝かされている風丸の体を診た。
「咳はないのかね? 頭痛は?」
 てきばきとした仕草で、豪炎寺の父は風丸の体温を測り、脈をとった。そこは流石に医者の仕事だと、豪炎寺は思う。
 ただ、父が風丸を診た後、長い溜息をついたのが気になった。
「父さん、風丸の容体は……」
 書斎に入った父親を追いかけて、豪炎寺は尋ねた。父は椅子に深く座ると、眼鏡を取って目頭を押さえた。
「分からん。咳、鼻水はないから風邪ではないと思うが……。高熱の原因さえはっきりしない」
「分からない、って……」
 父親に診せさえすれば、すぐに良くなると思い込んでいた豪炎寺にとって、それは不安をかきたてるものでしかなかった。
「修也。風丸くんを預かってから、ずっと考えていたのだが……」
 父は慎重な面持ちで言い出した。
「風丸くんは、私の知り合いの大学病院の特殊治療のリーダーに任せて貰おうと思う」
 豪炎寺の中で、父親の言葉はとてつもなく非情に思えた。
「ど、どうしてです? 風丸を見捨てるって言うんですか?」
「修也、そこなら、ここと違って専門の医療チームをつけられる。風丸くんを元の体に戻すのも、もっと楽になるだろう」
「そんなことをしたら、風丸はもう、二度と外に出ることはできなくなるんじゃないですか!? 風丸の症状は特別です。実験台にするつもりじゃ」
「そんなことはさせないよう、お願いしておく」
「でも、父さん!」
 必死に説得する豪炎寺に、父は決定的なことを述べた。
「私は外科医だ! 風丸くんの症状は専門外だ。私には……手に負えん」
 豪炎寺にとっても父親にとっても、それは抗えないほどの自分たちの無力さを示していた。
 がくりと肩を落として自室に戻ると、ベッドの上で風丸はぐったりと
横たわっていた。
「風丸……」
 呼びかけてみても、紅潮した顔で、時折荒い息であえいでいるだけだ。
「くそっ」
 行き場のない気持ちを、机の天板に拳を叩きつけても、晴れることはなかった。このままだと、風丸にはもう会えなくなるのか……。
 そう考えると、ますます気は滅入った。
 体は元に戻らない上に、この高熱。父が言うとおりにするのなら、風丸は自分ばかりかクラスメイトらチームのみんなとも、会うことは叶わなくなるだろう。
 そう、円堂とも……。
 豪炎寺は、はっと部屋の時計を確かめた。針はもうじき5時を示している。
 いてもたってもいられなくなり、豪炎寺は部屋を飛び出した。夕香が、
「どうしたの? お兄ちゃん」
と尋ねたが、首を振るのがやっとだった。

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 マンションのエントランスを出ると、迷わず目的地へと走り出す。今朝、向かった場所だ。
 晩秋の空は既に日が落ち、夜の帳が下りてゆく中で、豪炎寺は鉄塔広場への道を走り抜けた。階段をのぼって、未だ例の場所から彼の威勢のいい掛け声が聞こえてきたことに、豪炎寺は安堵した。
「円堂!」
 呼びかけると、古タイヤ相手に特訓していた円堂が、手を休めて振り返った。
「豪炎寺! 来たのか。もうそろそろうちに帰ろうかと思ってたところなんだぜ」
 丸い輪郭に笑顔をほころばせて、円堂が応える。だが、豪炎寺は彼の腕を掴むと、有無を言わせず引っ張った。
「円堂、今すぐ来てくれ」
「いや。もう帰るとこなんだけど……」
「どうしても、お前をつれて行きたいところがある!」
「どこなんだよ?」
 困惑した顔の円堂に、豪炎寺は半ば怒るように答える。
「風丸のところだ!」
「風丸?」
 円堂の、それまで人懐こい表情が、その名を聞いた途端に強張った。
「風丸って? どうしてお前が?」
「来てくれればわかる」
 街灯が辺りをほのかに照らす広場で、真剣な顔でそう告げると、豪炎寺は円堂に着いてこいと仕草で示した。円堂は強張った表情のまま、黙って豪炎寺に頷いた。登ってくる月のゆるりとした光を、いつの間にか黒い雲が覆い隠してゆく。
 マンションへと向かうふたりに、湿った空気がまとわりついた。雨粒を含んだ風が、容赦無く吹きすさぶ。それを腕で振り払って、ふたりは豪炎寺の自宅へと急いだ。
 ようやくマンションにたどり着いた豪炎寺は、円堂を自宅へ招いた。エレベーターをおりて、玄関を抜け、豪炎寺の部屋に入った円堂は、ベッドにやけに小さなものがあることに、違和感を抱いた。
 ベッドのそばに、豪炎寺の妹が座り込んでいる。豪炎寺が帰ってくると、泣きはらした目を向けた。
「夕香。風丸は?」
「お熱はさがらないままだよ……」
 妹はかなしそうに、首を振った。
「熱? 風丸は熱があるのか!?」
 円堂の問いに、豪炎寺は頷くことで応えた。だが、円堂にはぐったりとしているだろう風丸の姿は目に映らなかった。きょろきょろと風丸を捜す円堂に、豪炎寺はベッドを指差した。
「円堂……、風丸はそこだ」
「そこ、って……。そんなところに風丸はいないだろ」
 円堂は人が寝ているようには見えないベッドの前で目を凝らした。夕香が座っている前に、小さな膨らみがあるだけだ。ほんの、人形の大きさほどの……。
「え?」
 円堂が声をあげたのは、数秒もたった後のことだ。顔を引きつらせて、ベッドにがばっと覆いかぶさった。ベッドに寝かされている、小さなものが件の風丸だと分かると、円堂は声にならない声をあげた。
 目の前に小さな風丸が、紅潮させた肌で荒い呼吸をしている。いかにも苦しげそうに、眉間にはしわが寄っていた。指先で肌に触れると、高い熱が伝わった。
「な、なんで。なんで風丸は、こんな小さくなっちまってるんだよ!?」
 豪炎寺のシャツの首元をひっ掴むと、円堂は尋ねた。
「……分からない。家に帰る途中、俺の目の前でいきなり風丸は小さくなってしまった。危険だと思ったから、俺が風丸を保護した」
「いつの話だよ!?」
「一週間前だ」
「一週間前だって?」
 円堂は豪炎寺の答えを聞くと、大きく溜息ともつかない息を吐いた。すぐさま、豪炎寺に疑問をぶつける。
「じゃ、じゃあ。なんでお前、今まで黙ってたんだよ? 俺、ずっと心配してただろ」
 遂にこの質問が来たかと、豪炎寺は観念した。言いづらくて、思わず言葉は淀んでしまう。
「それは……、俺が……」
 息が詰まる。風丸の話をしてしまえば、円堂は必ず側について離れないだろう。風丸も円堂だけを頼りにするだろう。そんな事は言うまでもなく分かっている。
 だから、言えなかった。
 自分だけで、風丸の視線を独り占めできるこの機会を失いたくなかった。
 それが愚かな欲望だとしても。
 だがもう、今の豪炎寺にはそれを隠し通す道理はなかった。
「俺の所為だ」
 そう、言おうとしたとき、豪炎寺の言葉は誰あろう風丸の言葉でさえぎられた。
「俺が頼んだんだ、円堂」
「風丸?」
 ぜいぜいと肩で息をしながらも、伏せていた風丸は起き上がる。慌てて円堂が手で支えた。
「なんでだよ? お前、こんなになってるのに」
「……お前に、俺のこんな姿を見せたくなかったから」
 熱で朦朧としているのに、毅然として風丸は円堂に言った。
「風丸、お前……」
「お前に心配かけたくなかったんだ。すまん」
 そう言って、頭を下げる。円堂はぐっと、こみあげてくるものを堪えているようだった。
「分かったよ。もういいから、今はゆっくり寝てろよ?」
 円堂は風丸の小さな頭を撫でてやると、再びベッドに寝かしつけた。豪炎寺はそんな円堂に、廊下に行くように仕草で促した。
「どうしたんだ?」
「円堂。風丸にはエイリア石の影響がまだ残ってる」
 どう、打ち明けようかと考えあぐねたが、結局豪炎寺はそのものずばりに風丸の状況を伝えた。たちまち円堂の顔が凍りついた。
「ちょ、ちょっと待てよ! エイリア石だって!? あの石は俺たちの目の前で壊れたはずだろ!」
「ああ……、だが」
 円堂の反応は当然のことと感じながらも、きっぱりと豪炎寺は続ける。
「風丸の体にはあの石の力があったんだ。どういう訳かは知らない。今のあの状態も多分……」
「そんな!」
 円堂ががっくりと肩を落とすのを、豪炎寺は心苦しい気持ちを抱えたまま言葉を続けた。
「俺の父さんは風丸を大学病院の医療チームに預ける気だ。そうなったらもう……風丸とは二度と会えなくなるかも知れない」
「なんだって!?」
 今度こそ、円堂は心底信じられない、という顔をした。
「……人間の体が縮む、なんてことは本来あり得ないからな。そんな症例を前にして、病院側が普通に治療するとは思えない。最悪、風丸は検査や実験を受け続けることになるだろう」
 いきなり風丸の事情を知らされた上、こんなことを伝えるのは残酷だ。
 そうは思う。自分だって、そんなことを言われたら、一体どうしたら良いのか……。
 だが、豪炎寺はざわつく心を抑えた。
 ただたんたんと、事実と予想されるすべてを円堂に告げた。
 目の前で円堂の顔が青ざめてゆく。豪炎寺は見ていられなくなって、円堂から視線をそらした。
「そんなこと……させない!」
 円堂が豪炎寺の肩に、ぐっと力を込めて手をかけた。
「……もう、無理だ。風丸の熱を冷ます方法さえ、俺たちには分からない。せめてお前には、病院に行く前に風丸に会わせよう、そう思って俺は」
 こんこんと円堂を諭す豪炎寺に、円堂はきっと顔を向けた。
「そんなこと言われたって、俺は諦めない!」
 そう言うと、廊下を横切って居間で腕組みをしてベランダの外をじっと凝視していた豪炎寺の父を捕まえた。
「お願いです! 風丸を病院に連れて行くのだけはやめてください!!」
 懇願する円堂に、だが豪炎寺の父は頑なに首を横に振った。
「君の願いは受けられない。風丸くんは専門の医師に診てもらうのが最も最良だ」
「でも、それじゃ風丸は……!」
「くどいな、君は。私では手に負えんのだ。残念なことだがな」
 厳格そうな態度で豪炎寺の父はふいと横を向く。
「だったら。専門に診てもらう人を連れてくれば、病院に行かなくても、良いんですよね!?」
「そんな医師が存在するとあればな」
「じゃあ、連れてきます!」
「え、円堂?」
 豪炎寺は思わず円堂を呼び止めてしまった。
「連れてくる。って、宛てはあるのか?」
 いつも突拍子もないことをしでかす円堂だが、流石に豪炎寺は面食らってしまった。だが、円堂は豪炎寺の予想を遥かに凌ぐ表情を見せた。
「瞳子監督だ。あの人なら、こんなときどうしたらいいのか、絶対アドバイスをくれるはずだ!」
 満点の笑みで、円堂は両の拳を握りしめる。
「あっ、ああ……」
 瞳子監督はエイリア学園との死闘で、円堂たち雷門イレブンを率いた女性だ。今は逮捕された彼女の父・吉良星二郎に代わりおひさま園や企業の経営管理に追われているらしい。
 確かに瞳子監督なら、エイリア石のことは自分たちよりずっと詳しいに違いない。
 豪炎寺は円堂の考えを理解して頷いたがはた、とあることに気がついた。
「おい、円堂。瞳子監督が、何処にいるのか、知っているのか?」
 まさか、と危惧したが円堂はにっこりと笑い返す。
「分かってるよ。静岡だろ」
 そう言うと、豪炎寺のベッドに寝かされている風丸にそっと話しかけた。
「風丸、待ってろよ。絶対お前を病院なんか行かせないからな!」
 風丸は眠っているようで、円堂の言葉には反応しなかった。ただ、苦しそうな吐息だけが聞こえていた。
「じゃあ、行ってくる!」
 走りだす円堂の後ろ姿を見送って、豪炎寺はやっと胸のつかえが下りた気がした。
 だが、部屋に戻ってベッドで苦しんでいる風丸を見ると、それもつかの間の安堵だと思い知らされる。
「夕香。あとはお兄ちゃんが看てるから風丸は任せてくれ」
 ベッドの側で座り込んでいる妹をリビングに行かせると、豪炎寺は熱でぐったりしている風丸の体を手のひらで包み込んだ。小さな体を指でさすって、早く元の元気な風丸に戻れるようにと願いを込めた。
 窓の外は真っ暗になっていて、時折激しい雨音がガラスを、叩き続けていた。

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~七日目、そして~


 そこは白い部屋だった。
 部屋の至る場所に数々の計器。機械からは幾つものコードがのびて、チューブが巡らされている。部屋の真ん中には、小さなガラスのケースが鎮座しており、たくさんのコードやチューブばそれに繋がれていた。
 角が湾曲している奇妙なケースの中には、小さな小さな人影がぽつんと立ち尽くすんでいる。白い看護服に身を包んだ彼は、長く蒼い髪を肩に垂らして呆然としていた。
 そこへ、白い服の一群が部屋に入ってきた。彼らはそれぞれ書類を綴じたバインダーやパソコン、もしくは見たこともない器具を手にしている。近づいてくる一群に気づくと、ケースの中では小さな人影は怯えだした。
 ケースのガラスの壁を叩いて、何かを叫んでいる。だがその声は聞こえない。
 人影の様子を確認して、手に何かスイッチのようなものを持った白衣の男は、冷たい顔でボタンを押す。途端に人影は、雷に打たれたみたいに痙攣した。
 絶望が、彼を襲った。
 思わず、大声で呼ぶ。
「風丸!」
 気がつくと、そこは暗い自分のベッドの上で、今まで見ていたものはただの夢だと分かった。風丸を看病しているうちに、寝てしまったらしい。ここ数日風丸の夢を見たが、今のが一番最悪だ、と豪炎寺は思った。
 豪炎寺は起き上がると、傍の風丸を確かめた。側で眠っていることに、豪炎寺は心底ほっとする。まぶたは閉じたままなので、豪炎寺の寝言で起きた気配はない。
 小さな額に触れてみる。まだ熱は下がっておらず、変わらずに呼吸は荒かった。
 フクさんお手製のパジャマは汗でびっしょり湿っている。確か替えの分も用意してくれてたはずだ。豪炎寺は、まるで人形の服のような真新しいパジャマを机の上に置かれた風丸専用の衣服入れから取り出すと、風丸を、着替えさせてやろうとした。
 横たわる風丸にかぶせてある毛布代りのタオルをめくって、汗ぐっしょりのパジャマのごく小さなボタンを外す。前身頃を開いてみて、風丸の肌が汗でまみれているのに、豪炎寺ははっとなった。ベッド脇に置いてある洗面器に水をひたしてあるのを思い出し、ガーゼをその水で濡らした。
 風丸のパジャマを脱がせると、手のひらで支えながら慎重深く体を拭いてやる。不意に風丸が目を開けた。
「あ……」
 腫れぼったいまぶたで瞬くと、大きな瞳が潤んだ。豪炎寺は風丸の前髪をかき分けて、額を露わにすると冷たい水で拭ってやった。
「ありがとう。頭がすっとして気持ちいい……」
 水を含んだガーゼの冷気の余韻を味わう風丸が、昨日見た夢の中のしどけない姿と重なって、豪炎寺は動揺しかける。だが気を落ちつけ、極めて平静を装った。
 今は、そんなことに気を取られてる場合じゃない。
 体を拭き終えると、真新しいパジャマに着替えさせた。
「具合はどうだ?」
 尋ねると、風丸は苦い笑みを浮かべて首を振った。未だ熱が下がらないのでは無理もないだろう。
 豪炎寺は風丸を再びベッドに横たわらせると、タオルをしっかりと掛けてやった。
「豪炎寺」
「なんだ?」
 か細い声で風丸が話しかけてくるので、豪炎寺は耳を傾けて言葉の続きを待った。
「今まで、本当にありがとうな。お前のお陰で、俺はどんなに救われたか。感謝してるよ」
「それぐらい……当然のことをしたまでだ」
 心くすぐる風丸の言葉を受け止めながら、タオルの上から体に沿って撫でてやる。
「でももうこれ以上、俺はお前やこのうちの人たちに迷惑はかけられないよ」
「風丸?」
 嫌な予感がして風丸の顔をじっと見つめた。
「俺……お前のお父さんが言うように、病院に行こうと思う」
「風丸!」
 豪炎寺は驚いて、風丸の体をタオルごと手にとった。風丸はそんな豪炎寺に構わずに言葉を続ける。
「俺の体はもう、元になんか戻らないよ。でもいいんだ。これは自分自身で受けた罰なんだから。だけど、もうお前たちに余計なことで煩わせたくはないんだ。だから」
「だめだ!!」
 豪炎寺は慌てて風丸の体を掴みあげた。じっと目を見つめて諭す。
「円堂がお前のために静岡の瞳子監督のところまで行ってる。だからまだ、なんとかなる」
 だが風丸は切なげに首を振った。かすれた声で断言する。
「俺はもう心を決めた」
「諦めるな!」
 思わず大声が出た。
「約束しただろう! 治ったら一緒にサッカーすると。だから、だから……諦めたりするな!」
 豪炎寺の熱のこもった声を聞いて、乾いた風丸の表情がわずかに緩んだ。
「豪炎寺……」
「俺は、お前と一緒にピッチに立ちたいんだ……」
 豪炎寺は風丸を両手で持ち上げると、頬に押し当てた。パジャマの生地越しに、高い体温が伝わる。
 せめてこの熱が、自分の肌に移ってしまえばいいのに……と、思いながら。
 手のひらの中で風丸の体が震えた。熱が辛いのかと思ったが、風丸の顔が触れている自分の頬がほんの少し濡れているのに気づいて、豪炎寺は息を呑んだ。
「……俺も、俺もお前とサッカーしたい、豪炎寺!」
 気持ちが通じたのか、風丸の口から言葉がほとばしる。背中を撫でてやりながら、頷いた。
「サッカー部のみんなも、お前が戻って来るのを待ってる」
「……ああ! 俺、するんだ。サッカー。するんだ……」
 こんなのはただの気休めかもしれない。だけど今のふたりには、希望を持ち続けることだけが頼りだった。
 窓の外は相変わらず、晩秋の雨が降り続いている。その雨音を聞きながら、ベッドの上で豪炎寺は風丸の体を抱きしめていた。時折震える背中を、指でそっと撫でながら。

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 自分が再び眠りに落ちたのに豪炎寺が気づいたのは、朝の光をまぶたの裏に感じた時だ。
 しまった。寝ている間に風丸を押し潰してはいないだろうか。
 ぎょっとして目をあけた時、視界に入ったのは蒼い波の流れだったことに、豪炎寺はうろたえた。
 一体何だろうか、これは。
 訝しげにそれに触れると、艶やかな糸のような物がさっと動いて離れた。慌ててそれを掴もうとして、豪炎寺はそれの正体が風丸の髪の毛だと思い当たった。
 いや。だが、おかしい。
 風丸の髪の毛にしては、量が多過ぎやしないか。
 夜中に触れた風丸の髪は、自分の手のひらの中にすっぽりと隠れてしまう程度しかなかったはずなのに……。
「う、うぅん……」
 軽く呻いたあと、風丸が寝返りを打つ。豪炎寺の方へ向いた顔は、ほんの少し近づくだけで触れるくらいの距離だ。息づかいさえも間近に聞こえる。
 豪炎寺は息を飲み込むと、風丸の頬に触れた。手のひらの中が、風丸の柔らかな肌でいっぱいになる。この感触。紛れもない。
「か、風丸……」
 かすれる声で名前を呼んだ。言いたいことは山のようにある。けれども、豪炎寺の口からは名前を呼ぶのだけが精一杯だった。
「風丸!」
 肩をそっと揺すった。布団にくるまれた風丸は何も肌につけていない。夜中に着替えてやったパジャマはどこにいってしまったのだろうか。
「う~……ん」
 煩わしそうに眉間にしわを寄せると、風丸はやっとまぶたを開けた。まだ焦点の合わない目で、豪炎寺の顔を見る。
「風丸……」
 大きめの、明るい褐色がじっと豪炎寺を見ている。最初はぼんやり気味だったのが、急にはっと見開いた。
「えっ」
 異変にやっと気付いたのか、風丸は自分の体を確かめ、そのあと豪炎寺に手を伸ばしてきた。豪炎寺は頷くとその手をしっかりと握った。手のひらと手のひらは、ほんのちょっとしか変わらない大きさで、握ると互いの温もりが広がる。
「あ、ああ……」
 風丸はがばっと起きあがると、もう一度自分を確かめた。
「豪炎寺。おれ……、俺!」
「ああ」
 豪炎寺が応えると、風丸の表情が戸惑いから確信へと変化した。
「戻った! 俺、元に戻ったんだ!」
 喜びの笑みをこぼして、風丸は豪炎寺に抱きついてきた。頬と頬が触れあう。じんわりと豪炎寺の中にも喜びが広がるのを感じた。
「あははっ! やった。やったぜ!」
 歓喜の声をあげる風丸に、豪炎寺はその感情のまま、顔を傾ける。
「ん」
 気がついたら口づけていた。ほんの、唇と唇が触れあうだけの。
「あ……」
 抱きついていた風丸の体が震えた。だが、抵抗はしない。瞳は際限まで見開かれ、頬は赤く染まっていた。
 唇に触れる温もりが消えるのが惜しい気がして、ずっとそのままでいたかったが、やっとの思いで豪炎寺は風丸から離れた。
 自分の頬が熱い。きっと風丸に負けないほど、自分の顔も赤くなっているはずだ。
「豪炎寺……どうして……」
 かすれた声で風丸は尋ねた。豪炎寺は熱くなる頬を気にしながら答える。
「俺は、ずっとお前にこうしたかった。……そう思う。たぶん」
 風丸が口をわななかせて、何か言おうとしたが、それは眠そうに目をこすりながら部屋に入ってきた妹の声で遮られた。
「ん……。お兄ちゃん、どうしたの……?」
 慌てて裸のままの風丸に毛布をかぶせると、豪炎寺は夕香に父親とフクさんを呼んでもらうよう頼んだ。
 夕香は風丸の体が元に戻ってるのに気づくと、歓喜した顔で部屋を出て行った。可愛らしい足音を聞きながら、豪炎寺はとりあえず落ち着こう、と深呼吸した。
 まず、風丸の為に服を渡そうとして、自分のタンスを開けて……。
 いや、何をやってるんだ。
と、思い直す。
 風丸の服なら、ここに来た日に着ていた制服と下着がある。フクさんがきちんと洗ってたたんだのが、部屋の隅にカバンと一緒に置いてあった。
 豪炎寺はそれを取ると、毛布をかぶった風丸に渡してやった。
「あ、ありがとう」
 風丸の頬は未だ赤い。だがそれは、もう高熱の所為なんかじゃないと思うと、豪炎寺は心底ほっとする。
 廊下に出ると、夕香を伴って父とフクさんがやって来た。フクさんはいつもなら夜には帰るのに、風丸の看護の為にわざわざ泊まってくれていた。
「父さん、フクさん。風丸は……元の体に戻りました」
 豪炎寺が告げると、憔悴気味だった父親は姿勢をただし、フクさんは歓喜の笑みを漏らす。着替え終えたのを確認してから、父は風丸の体を診た。身体中を弄り回すくらいの勢いに、豪炎寺は風丸の心を案じてしまったが、それは思い過ごしだった。
「信じられん……。全く悪いところはない」
 大きな溜息をついて、医師はリビングのソファーに腰掛けていた風丸の両手を膝の上に置いてやった。
「気分はどうだね?」
 父の問いに、風丸ははにかんで答えた。
「すごい、すっきりした感じです」
「そうか……」
 手癖のように、手元のカルテにペンを走らせると、父はやっと笑みを見せる。
「良かったですね、風丸さん。おなかが空いているでしょう。ご用意ができてますよ。病み上がりには栄養のあるものが一番ですよ!」
 破顔したフクさんが、待ち構えたように風丸に話しかけた。そう言われて、風丸はこくんと微笑んで頷いた。
 風丸を囲んで、家族全員で朝食を摂る。彼が一緒に食卓につくのは、たった一週間前からのことなのに、もうずっと、かなり昔からこうしているのが当たり前のように感じる。ささやかだが、暖かい団欒。豪炎寺には、まるで夢の続きのように思えた。
 朝食を終えてみんなでお茶をすすっていると、けたたましいインターホンが和やかな時間の終末を告げた。
「修也さん。円堂さんがいらっしゃいましたよ」
 何事かと、慌ててエントランスと通じてるインターホンに出たフクさんが豪炎寺に伝えた。
 ……ああ。そうだった。風丸の事で円堂は瞳子監督のもとに馳せ参じたのだった。
 そう、気付いたとき。豪炎寺は風丸の顔をぱっと見た。風丸も、豪炎寺の顔をじっと見る。
 たったのひとときの間に、昨日までの出来事を忘れていたのだ。
「瞳子監督っ、連れて来たぞー!!」
 チャイムを鳴らすのさえもどかしそうに、円堂は豪炎寺家のマンションのドアを開けるなり、そう叫んで入ってきた。
「円堂……」
 真っ先に出たのは風丸だった。困惑した顔で、だが、くすぐったいように微笑んでる風丸の姿を見ると、円堂は一瞬口をあんぐりと開けて惚けた。
「あ……?」
「早かったな。円堂」
「か、風丸」
 多分、その顔はさっきまでの自分たちと同じだ。
「お前、どうし、風丸、な、治ったのか!?」
 風丸が頷くなり、円堂は
「やったー!!」
と、雄叫びをあげて走り寄った。勢いをつけて円堂が抱きつく。その所為で風丸の体は、廊下にもんどり打ってしまった。
「やった! やったやった!! 元に戻ったんだな、風丸」
「おい。人の家だぞ、円堂」
 たしなめる風丸自身も笑みを隠せなかった。
「風丸くん、その調子だと大丈夫そうね。私の出る幕はなかったかしら?」
 瞳子監督が玄関で苦笑いして話しかけてきたので、円堂と風丸は気まずい顔で姿勢をただした。
「す、すみません。まさか、戻ったら風丸が治ってるとは思わなくて」
「わざわざ俺の為に来ていただいて、ありがとうございます。でも……」
 ふたりの弁明を、瞳子は目を細めて見守る。
「いいえ。風丸くんが良くなったのなら、何よりだわ」
 そこへ、豪炎寺の父が廊下に迎え出た。
「ご足労をかけまして、申し訳ありません。できれば、風丸くんの症状について詳しいお話を聞かせてはもらえないでしょうか?」
 豪炎寺の父が室内にあがるよう、指し示した。家族団欒の朝食の席は、今度はリビングでの質疑へと変わった。
「そうですか……。一週間の間、風丸くんの体はそんな変化をしていたのね」
 瞳子監督は風丸と豪炎寺の長い話を聞いたあと、溜息をついてティーカップを持ち上げた。フクさんが淹れた紅茶から、温かそうな湯気が立ちのぼる。
「あの……、瞳子監督。俺の体が縮んでしまったのは、エイリア石の影響なんでしょうか?」
 単刀直入にそう訊いたのは風丸だった。
「そうね……。私たちの元に残っていた資料では、その事例は見当たらないのだけれど、おそらくは……」
 こくりと一口、白い陶磁の中の香ばしい液体を飲むと、瞳子は紅茶のカップをテーブルに置いた。
「まず、はじめから説明するわね。数年前、とある隕石が富士山麓樹海に飛来したの。それを最初に発見したのは、私の父の事業のひとつ、薬学関連会社の研究員でした」
 瞳子の話は、円堂と豪炎寺にとっては既知のものだったが、風丸や豪炎寺の父親には初めて知ることで、彼らには充分過ぎるほど驚愕の事実だ。
「そんなものが地球上に墜落したとは……。何故、それを学会に発表なさらなかったのです!?」
 豪炎寺の父は尤もな質問をしたが、瞳子は苦しげな面持ちで答えた。
「それは……。父がエイリア石の情報を独り占めしようとしたのでしょう」
 恥ずかしげに言うと、瞳子はため息をついた。円堂が気遣って「まあ、まあ」と取りなそうとし始める。
「心配には及ばないわ。これは紛れもない事実なのだから」
 こほんと咳をすると、瞳子は再び話を続ける。
「そしてこれは、まだ誰も知らないことなのだけれども……。残された資料によると、エイリア石と一緒に未知の生物も同時に地上に落ちていたのよ」
「未知の生物!? それって、ホントの宇宙人なんですか??」
 円堂があわてて尋ねたので、瞳子は苦笑いを浮かべた。
「宇宙人……ねえ。正確に言えば、『人』ではないわね」
「どういう意味ですか?」
 豪炎寺も首をひねりながら訊く。風丸がきょとんとして、円堂と顔を見合わせた。
「“それ”はごくわずかな大きさの生命体よ。決して人の目では知覚できない、顕微鏡でやっと見られるほどの、バクテリアみたいなもの、と言えばお分かりいただけるかしら」
 瞳子は豪炎寺の父に頷きかけると、円堂たちの顔を見回した。
「バクテリア……?」
「その微細物に何かあるんですか?」
 円堂と風丸が交互に尋ねると、瞳子は気難しい顔でこう答えた。
「その微生物の大きな特徴は……。それは単体では生きられない。他の生命体、特に高度な知能を持つ生物に寄生することで生命を成り立たせているの」
「寄生って……!」
「そう。風丸くん、あなたはその生命体に寄生されていたのよ……!」
 瞳子の言葉に、風丸は一瞬言葉を失った。そしてはっと思い当たって、豪炎寺たちを見た。
「じゃ、じゃあ……」
「ああ、慌てないで。風丸くん、その生命体はエイリア石を使用するものだけに寄生するの」
「石を使用する生物のみに寄生すると言うことは、その生命体には何らかのメリットがあるのでしょうか?」
 興味深そうに豪炎寺の父が身を乗り出して尋ねた。
「そうですね。エイリア石を使用する者が、そのバクテリア型生命体のいわば餌になる物質を出すのではないでしょうか。残念ながら、私の手に残っている資料では、それがなんなのかは、分からないままなのです」
 瞳子はそこまで言うと、風丸に向き直った。
「風丸くん。ちょっとうなじを見せてもらって構わないかしら?」
 風丸は戸惑いながらも、頷いた。立ち上がった瞳子たちに、背中を向けると顔をうつむいて括っている髪を横に垂らす。豪炎寺も風丸のうなじを覗きこんだ。はえぎわの真下の首筋にぽつんと、まるで象形文字のような赤い斑点があった。
「これが寄生されていた証拠です」
 瞳子は風丸のうなじの小さな斑点を、豪炎寺たちに示した。風丸は凝視されているだろう箇所が気になるのか、指で確認しようとしていたが、感触では分からないようだ。
「しかし、未知生命体に寄生されていたとなると、今回の風丸くんの症状は……」
「ええ。断言はできませんが、おそらく。研究所に残っていた資料では風丸くんと同じ症例はありませんでしたが……」
「ど、どう言うことなんです? それと風丸が小さくなったことが関係あるんですか?」
 瞳子と豪炎寺の父親との会話に円堂が口を挟んだ。
「そうね、分かりやすく説明するわね。エイリア石を使う者に寄生する生命体は、エネルギーをもらう代わりに、寄生者に変化をもたらすわ。あなたたちも会ったでしょう。ジェミニストームのレーゼやイプシロンのデザーム。彼らはみな、エイリア石の寄生生命体によって、姿を変えられていたの」
 瞳子の口から出た名前を聞いて、一同は吐息を漏らす。豪炎寺の父親だけが、黙ったままでいた。
「ああ! だから、風丸たちの様子が変だったのも、それの所為だったのか!」
 合点がいったのか、円堂がぽんと手のひらを拳で鳴らした。
「俺はあまり……、外見のことは気にならなかったんだが、円堂と豪炎寺には変な感じに見えたのか?」
 風丸がおずおずと言うと、豪炎寺は頷いた。それを見て、風丸はたじろいだようだ。
「そ、そうか。俺はエイリア石から溢れる、とてつもない力のことしか考えてなかった……」
「風丸! もう、そんなことは忘れろって!」
 円堂が慌てた顔で言うと、風丸は苦い顔で微笑んだ。
「ともかく、エイリア石の寄生生命体は宿主を細胞単位のレベルで変化させる力があるの。今回の風丸くんのケースも、その生命体が引き起こしたとしか、考えられないわ」
 瞳子がそう宣言すると、円堂が首を傾げた。
「でも、おかしいですよ、瞳子監督。エイリア石は俺たちの目の前で砕け散ったんですよ?」
「そうだ……。エイリア石はなくなったはずなのに、あの力は俺の中に残ったままで……」
 風丸が震える声で、拳を握りしめた。瞳子がそっとなだめる声をかけた。
「もしかしたら……、石が砕けた時に破片が風丸くんの体に入り込んでしまったのかも知れないわね」
「破片!?」
 円堂と豪炎寺が同時に息をのんだ。
「そうとしか考えられないわ。だから、生命体は風丸くんの体に寄生し続けた」
 瞳子の言葉に風丸ははっと顔をあげた。
「そう言えば。あのあと、俺は異様に体が疲れるようになったんです。それも、そいつの……?」
「でしょうね。エイリア石は多大なパワーを持つ者に与えるけれども、その力は石の大きさに比例します。エイリア石に力を引き出された風丸くんは、そのまま力を使い続けたのね……。けれど、それに値するだけのパワーを与えられなかったら……」
「つまり、風丸はエネルギー切れを起こしていた、と言うことですか?」
 豪炎寺が尋ねると、瞳子は頷いた。
「多分そうね。だから、生命体は風丸くんの体を、残っていたエイリア石に見合うだけの体積へ作り変えた。……私の元にある資料から考えられるのは、これだけです」
 流れる髪を手ぐしでかきあげながら、瞳子はきっぱりとそう言った。
「ふむ……。驚くべきことだが、あなたの説明を信用するしかありませんな。では、何故、風丸くんは元の体に戻れたのですか?」
 豪炎寺の父が、じっと瞳子の目を見つめて尋ねた。
「エイリア石の寄生生命体が活動できるのは、思ったより低温なのです。彼らは摂氏40度以上の環境では完全に死滅します」
 瞳子の説明に豪炎寺の父は唸った。豪炎寺自身もよく覚えている。風丸が倒れたとき、図った熱は40度を超えていたことを!
「そ、それじゃ……!」
「ええ、風丸くん。あなたはもう、エイリア石の影響を受けることは二度とないわ」
 微笑んで言う瞳子に、風丸ははじめ放心した様子を見せた。隣に座っていた円堂が、風丸の両肩をぎゅっと掴んだ。
「やったなー! 風丸! お前もう、何の心配もいらないぜ!!」
「あ……、ああ!」
 風丸がやっと、心の底からの笑顔を見せる。豪炎寺はそれを安堵して眺めた。
 それと同時に、一抹の虚しさを感じる。風丸が完全に元に戻ったのなら、もう、ここに用なんかなくなるのだ……。
 テーブルに置かれたカップを取ると、豪炎寺は冷めた紅茶を飲みほした。いつもなら美味しく感じる、フクさんの淹れたお茶が妙に苦く思えた。
 そのとき、来客を知らせるチャイムが鳴った。豪炎寺が立ってインターホンに出ると、見知らぬ中年のふたり連れの男女がモニターに映っている。女の方は、髪型さえ違ったが風丸に瓜二つだった。

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 迎えにきた両親をリビングに通され、風丸が初めて嗚咽を漏らした。豪炎寺の父に詳細を知らされた彼らは、驚いた表情を見せたが、風丸の無事な姿を確認してほっとしていた。
「よかったな~。なあ、風丸」
 円堂が風丸の肩を叩いてなだめていたが、豪炎寺は複雑な想いを抱えていた。
 風丸の両親が訪ねてきたということは、これで完全に風丸は自宅に戻ってしまう。蜜月のような日々も本当に終わりを迎えたのだ。
「おうちに帰っちゃうの、風丸お兄ちゃん? このまま、うちにずっといればいいのに……」
 両親と共に玄関で別れを言うとき、夕香が風丸に名残惜しそうに悲しげな顔を見せた。
「わがままを言ってはいけないぞ」
 豪炎寺は苦い想いを抱きつつも、妹に苦言を言ったが、風丸はにこやかな顔で小指を差し出した。
「また遊びに来るよ。一緒にご本読もう」
 夕香と約束のゆびきりを済ますと、風丸は姿勢をただして豪炎寺と父親、それにフクさんに向き直った。
「今迄、俺の世話を焼いてくださって、本当にありがとうございました。この一週間のご恩は、一生忘れません。俺の体が元に戻れたのも、皆さんのおかげです。では……」
 きっぱりした顔で頭を下げた。
 それが、風丸が豪炎寺家で一緒にいた間の最後の言葉だった。
 風丸は両親と一緒に家に帰ると、瞳子は円堂が駅まで送っていった。
 来客たちがいなくなり、静まりかえったマンションの部屋で、豪炎寺は自分のベッドが乱れたままなのにふと気がついた。朝からそんなことも気にならない程、せわしなかったのだ。苦笑いして掛け布団をめくると、シーツの上に小さな布切れがあった。大きく引き裂かれ、縫い目もほとんどほつれているそれは、紛れもなく風丸が夜中に着ていたパジャマだ。
 豪炎寺は息を呑むとそれを取りあげた。手のひらに隠れてしまう程の、ほんの小さな布地は、もう、風丸の体に纏うにはあまりにも小さすぎた。
 胸にこみ上げてくるものを、ぐっと堪えて机に向かうと、今度はきちんと洗濯され、折りたたんである手縫いのユニフォームが置いてあるのが目についた。
 豪炎寺は息を吐き出すと、乱暴気味に椅子に座り込む。目頭を抑えて、顔を天井に向けた。
 ほんの朝方までは、確実に風丸は自分の手のひらの中にいた。だが、もう彼はこの部屋にはいない。手を握りしめても、掴めるのはただの空虚だけだ。


 翌朝、ベッドに自分以外誰もいないことに溜息をついて、豪炎寺は起きあがった。早朝から朝食の仕度をしに訪れたフクさんに礼を言い、夕香を起こしてやる。
 本当にいつも通りの朝だ。
 ただ、昨日までいた存在だけが消え失せている。
 朝食をとり制服に着替え、仕度を終える。肩掛けカバンを取ろうとして、机の上に小さな人形用の椅子に目をやった。椅子には畳まれたユニフォームが乗っている。豪炎寺は、苦い気持ちでそれから目を背けた。
 学校に着くと、昇降口で円堂の声が聞こえてきた。朝練のない日はもっと遅いのに珍しい……。そう思っていたら、低めのアルトが混じっている。胸がどきんとした。
 ああ、そう言うことか。一週間ぶりだから、円堂は風丸と時間を合わせて早めに登校したのか。
 そう気づいて、靴箱に行くと廊下で待っている風丸と上靴に履き替えている円堂と出くわした。
「お。豪炎寺、おはよう!」
 快活な声で円堂が呼びかける。
「おはよう」
と返答したが、廊下にいる風丸が豪炎寺に気づいて顔を下に向けた。
「おはよう……豪炎寺」
 今日、風丸に会えたらどんな顔を見せてくれるのだろうかと、期待していたが、こんなよそよそしい態度で出迎えられるとは思ってもみなかったので、豪炎寺は面食らった。
 風丸は挨拶だけを返すと、円堂の制服の袖を引っ張り、ひそひそと一言二言交わすと、ふたり連れ立って階段を上がって行ってしまった。
 まるで、七日間きっかり時間が巻き戻ってしまった気分を朝から覚えていたが、風丸の態度だけが変わってしまっている。
 何故なんだ? と思わず鼻白んで、はっと昨日風丸にキスしてしまったのを思い出す。
 もしや、あの所為か。
 体が元に戻った嬉しさのあまりとは言え、男に口づけされるだなんて、風丸にとっては憤慨ものだったのかもしれない。
 だが、後悔しても後の祭りだ。
 豪炎寺は腹を据えた。キスしたのも、そうしたいと言ったのも、風丸を好きだからという理由は変わらない。想いが通じなくても、この気持ちは大切にしよう。そう心に決めた。
 授業は瞬く間に過ぎ、待ちに待った部活の時間になった。とは言っても期末テストを控え、今日を最後にしばらく部活は休止になる。久し振りに風丸がいるので、豪炎寺は楽しみだった。
 教室の掃除もそこそこに、おんぼろだが馴染みの部室へ向かうと、当の風丸と鉢合わせになった。
「豪炎寺……」
「出るんだろう、部活」
「うん……」
 嫌われようが構わない気持ちで話しかけると、頷いてくれたが、それ以上はなにも言わない。黙ったまま並んで部室へ行くと、丁度やってきた一年たちが風丸の姿を見て、取り囲んだ。
「あっ、風丸さん!」
「風丸先輩、もう体の具合は良くなったんですか?」
「やっぱ、風丸さんがいると安心するでやんすー!」
 口々に風丸の身を案じ、久し振りに姿を見せたことを喜び合う。少し遅れて来た二年の連中もそれに加わり、風丸は嬉しそうな顔をしたが、すぐに生来の生真面目な表情に戻った。
「やっぱり、みんなには言っておこうと思う……」
 部室にサッカー全員が揃ったとき、風丸はみんなの顔を見渡すとそう切り出した。
「俺、この一週間休んでいたのは、インフルエンザなんかじゃなかったんだ」
「インフルじゃない、ってどういうことだよ?」
 染岡が首をひねって尋ねる。風丸はどうする? とでも訊くように、豪炎寺に視線を送ってきた。真実を言うつもりなのか。と、豪炎寺は風丸を慮ったが、慎重に頷くとほっとした顔を見せた。
 風丸は一週間の出来事をかいつまんでみんなに話しはじめた。流石に、豪炎寺と一緒に学校に来たことまでは教えなかったが、体が縮んでから高熱を出して倒れたこと、奇跡的に治ったこと、瞳子にエイリア石の真実を聞かされたことまで、大部分は洗いざらい伝えてしまった。
「そんなことがあったのか、風丸……」
「大変だったんですね」
 みんなは風丸の身に起こった災難に同情した。栗松だけが
「俺も風丸さんを手の上に乗っけてみたかったでやんす……」
と、豪炎寺を羨ましげに見たので、他の部員たちが一斉に呆れた顔をした。
「ったく。水くせーんだよ、お前は。最初から言ってくれれば、お前が困ってるときは俺たちも一緒に何とかしようとしただろ?」
 ぶっきらぼうに染岡が言うと、頑な顔で風丸は首を振った。
「すまない……。どうしても言えなかったんだ」
「そこがお前の悪いとこだろ」
 染岡にズバリと言われ、風丸が顔をうつむける。豪炎寺ははらはらしたが、風丸はすぐに顔をあげた。
「そうだな……、悪かったよ。ともかく、みんなは俺みたいに体に異変があったりしていないか? 異常に疲れるとか、そんなことはないか?」
 風丸はかつて同じようにエイリア石に囚われた他のみんなが気になっていたようだ。自分のことより、まず他人を考える風丸らしい、と豪炎寺は感心した。
「だいじょーぶ。風丸が心配するようなことは全っ然ないから」
 マックスがおどけた調子で答えると、他の部員たちも風丸に笑顔で応じた。豪炎寺と円堂も頷いたので、風丸がやっと笑顔を返す。
「そうか。そのことだけが、心配だったんだ。ほっとしたよ」
 風丸の告白が済んで、いつもの、活気のある部活に戻った。円堂の鼓舞でみんなは練習に精を出す。今日はウォーミングアップが終わると、全員でシュート特訓だ。
「よしいいぞ、染岡! 次、豪炎寺!!」
 風丸が戻ってきたおかげで、心地よい空気になったサッカー部を満喫しながら、豪炎寺は思いきりボールを蹴る。スパンといい音を立てて、ボールは円堂が捕獲した。
「よし! 相変わらずお前のシュートは凄いな! じゃ、次。え~と……風丸!」
 ディフェンス陣の面々を指差して、円堂が指定したのは風丸だった。
「おう!」
 晴々とした顔で風丸は応じる。円堂が守るゴールに向かって前に出ると、仲間がボールを渡した。
「思いっきり撃ってこいよ!」
 円堂が手をぱんぱんと叩いて、身構える。風丸はこくんと頷くと、慎重にシュートコースを見極めた。次の瞬間、ボールは鋭い弧を描くと、円堂の耳元をかすめてゴールネットに突き刺さった。
 さっきまで上がってた軽い歓声が途切れた。円堂が信じられない顔でボールの行方を追う。豪炎寺が伺うと、風丸は愕然とした顔で立ち尽くしていた。
「そんな……。もう、エイリア石の力からは解き放たれたって思ったのに……。こんなの、俺の力じゃない……」
 風丸は体を震わせて両手を見つめる。部員たちも声を失ったまま、ことの次第をじっと見守っていた。
「違うんじゃないのか」
 そこへかけてきた声は、鬼道のものだった。
「俺は違うと思う。エイリア石と言うのは、要するに人間が本来持っている力を最大限まで引き出すのだろう? あの石に頼らなければ得られなかった力を、お前はやっと自分だけで使えるようになった。俺はそう解釈したのだが」
「俺だけで……?」
「鬼道の言う通りだな」
 豪炎寺は鬼道の言葉を継ぐように付け加えた。
「今まで、お前は力をセーブしていただろう。だから、気がつかなかったんだな。お前の体が、エイリア石なしにあの力を出せるようになってることに」
「じゃあ、今のは? 俺の本当の……力?」
 ゴールに転がっているボールと、みんなの顔とを交互に見て、風丸は戸惑う表情になった。豪炎寺と鬼道、そして円堂が
「ああ!」
と答えると、風丸の顔から喜びがこぼれた。
「よーし。もう一度だ、風丸! 今度は取ってやるから、全力で来い!!」
 転がっているボールを取ると、円堂が思いきり風丸に投げる。風丸は胸を使って止めると、前を見据えた。大きく構えると、ゴールめがけて撃ち込む。全力の力だった。
 円堂はいつになく真剣な気迫を見せると、迫ってきたボールを腕だけでなく全身で押さえ込む。勢いで後ずさったものの、何とか腕の中に収めた。
「ははっ! すげーいいシュートだ、風丸!!」
 取ったボールを高々とあげる。その挙動に一斉に部員たちの歓声があがった。染岡が風丸の背後から首元に腕を回すと、
「へっ、やるじゃねーか」
と、賛美の言葉を送った。豪炎寺も安堵して風丸を見た。
 もう安心だ。あんな辛そうな風丸を見ることも、もうないだろう。
 けれども、心の何処かで何かがちりちりと焦げるのを感じた。特に、風丸が円堂とにこやかに笑いあってると、胸の辺りが重くなる。
 何をやっているんだ、俺は。最初から分かっていただろうが。
 苦い笑いを吐いて、豪炎寺は仲間たちに囲まれている風丸を眺めた。
 風丸は元々円堂にべったりだったし、一緒に学校に行ったときは常に心配していた。円堂も風丸の危機を知ると、彼のためにわざわざ静岡まで行って瞳子監督を連れてきたじゃないか。
 ふたりの絆には自分が入る隙なんかなかったのだ。
 あの7日間は奇跡のようなもので、風丸と自分が触れあうのはまるでひとつの夢物語だった。
 夢の時間はもう終わってしまったのだ。

26 / 27
27 / 27


 楽しい練習時間はあっという間に過ぎ、赤い夕陽が西へ落ちはじめると、もう帰らなければいけない時刻だ。こころよい疲労を感じながらも、部員たちはじきに迫った試験の話に花を咲かせる。みんなで雷々軒に監督のラーメンを食いに行こう、という話になって着替え終えた風丸が済まなそうな顔で断った。
「悪い。今日はまっすぐ家に帰りたいんだ」
「そっかー。まあ、久しぶりでお前も疲れてるだろうしな」
 円堂ががっかりしていたが、風丸の体調を考えて誘うのは諦めたらしい。
「じゃあ、お先に!」
 風丸はカバンを抱えて、部室を出て行った。残された仲間たちは頼むメニューの品定めを始めた。
 豪炎寺はどうしようかと迷った。みんなと一緒に行くのもいい。だが、風丸が帰ってしまったので、いまいち興が乗らない。
「俺も先に帰る」
 円堂に伝えると、
「夕香ちゃんと約束か?」
と聞かれた。豪炎寺は曖昧に頷いた。本当のことを伝えても、微妙な反応を返されるだろうな、と考えながら。
 さっさと学ランに着替えると、みんなに挨拶して部室を出た。外に出ると、校庭は茜色に染まっている。なんだか、物寂しさを覚えながら校門をくぐると、いきなり背後から名前を呼ばれた。
「豪炎寺」
 その声にはっとして、振り返る。
 風丸が校門に背を預けて立っていた。
「あのさ……。一緒に帰ろうぜ」
「あ、……ああ」
 自分の顔は、とっさのことで間抜けな顔をしていたに違いない。豪炎寺は顔から火が出るかと思ったが、風丸は横に並ぶと、にこやかに笑いかけてきた。
「待ってたのか? 俺を」
「ん」
 尋ねると、はにかんだ顔で応える。今朝のような、よそよそしい態度ではない。
「今日は……、疲れただろう?」
「ああ。一週間ぶりだしな。でも、おとついまでの全身から力が抜けるような感じは、もう全然ないよ」
「それは良かった」
 朝は久しぶりの登校だったから、緊張してたのかもしれない。風丸は親しげに話してくる。
 夕陽が今日最後の光を輝かせる中、ふたり連れ立って帰路についている。まるで夢の続きのようだ、と思った。
 歩いている途中で、七日前に風丸の体が縮んでしまった道に出た。緩やかな坂の下。ここで風丸は……。
「ここの道な。あの坂がカーブしてる所為で、昔から事故が多いんだってさ。稲妻町の魔のカーブ、って呼ばれてる」
「へえ……」
「まあ、俺の体のこととは関係ないだろうけど。でも、ここでお前に助けられなければ、俺は小さい体のまんまで、どうしようもない目にあってたんだろうなぁ……。そう思うとな、感謝してるんだ。お前の存在に」
 夕陽が風丸の横顔を照らす。大きな瞳と形のいい鼻筋。すんなりと描く顎のラインを、豪炎寺は綺麗だと見とれた。
「豪炎寺のお陰で、こうして元通りになれたしな。それより、明日から試験休みだろ。今日はもうちょっと部活を楽しみたかったよ。あ、そうだ」
「なんだ?」
 風丸が何か思い出したのか、真顔で向き直ったので、豪炎寺は首をひねった。
「今度、俺ん家で一緒に試験勉強しないか? 一週間も休んでたから、すっかり遅れちまってるし、それに、お前のところで散々ご馳走になったしな。お礼と言っちゃなんだけど、晩メシ食ってけよ」
 風丸の申し出はうれしいが、心がくすぐったくなるのを感じた。
「いや、そんなのは気にしなくていい」
「俺の気が済まないんだ。それにお前と一緒だと、頼もしいし……嬉しい」
 風丸の終わりの言葉に、豪炎寺は胸が熱くなった。
「そ、そうか……」
「うん……」
 風丸の頬が赤い。夕陽はすでに地平線へと吸い込まれそうになっている。周りは赤いのにもかかわらず、はっきりと分かるくらい、風丸は頬を染めていた。
「豪炎寺。お前あのときさ、俺にしただろ? キス……」
 いきなりそう切り出されたので、豪炎寺はしどろもどろになった。
「あ。……ああ」
「お、俺……。あのときびっくりしたけど。嫌じゃ……なかったぜ」
「そ……!」
 心臓がどきりと鳴った。自分の頬が熱い。風丸は潤んだ瞳で豪炎寺をじっと見上げていた。
「お、お前は……。円堂が好きなんじゃないのか?」
 風丸の言葉が予想外過ぎて、豪炎寺は思わず普段から疑問に思っていたことを口にした。風丸はきょとんとまぶたを瞬かせた。
「円堂、って。……ああ、好きだぜ。あいつのことは」
 なんの躊躇もなく答える風丸に、豪炎寺はやっぱりな、と思った。
「まあ、好きは好きだけど。でも、円堂は俺にとって、手のかかる弟であって、同時に頼もしい兄貴みたいなもんだぜ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
 多分、自分は間抜けな顔をしている。豪炎寺はそう自覚したが、どうにもならない。風丸の言葉が信じられない。じゃああのときの、円堂を心配そうにしていたのは? 円堂を思って窓辺でひとり思案にくれていた夜は何だったのか?
 何も言い出せないでいると、風丸は首をかしげながら眉を曇らせている。
「豪炎寺……」
 名前を呼ばれた。
「あ。何だ?」
 そう答えた筈だった。でも、言葉は風に消える。
 顔を寄せてきた風丸の唇が自分のそれに重なったから。
 柔らかい感触だった。
 その温もりはほんの一瞬で、すぐに豪炎寺から離れた。
「かぜま……」
「俺、こんなこと、円堂としたいとは思わないからな。でもお前となら……」
 そこまで言うと、風丸は顔を真っ赤にして俯いた。
「お、お前には俺の恥ずかしいとこ、何度も見られたけどっ。けど、今のが一番……はずかしい……な」
「風丸。お前……なぜ……?」
 まともな言葉が返せない。ただ、驚愕だけが豪炎寺の中で轟いていた。
「なぜって。お前だって、あのときしただろ……。俺の方が聞きたいくらいだ」
 それは勿論。
「好きだからだ……」
 そう呟くと、風丸は頬を染めながらも顔を上げ、豪炎寺をまっすぐ見つめた。
「じゃあ、お前。ひとつだけ聞くけど、なんで俺が好きなんだ……?」
 なんで、って。ひとを好きになるのに理由など要るのだろうか。自分を見つめる風丸の瞳に、夕陽が輝いている。その光はとても懐かしい。
「お前の目だ……!」
「えっ?」
 記憶の中の母親がよみがえる。愛おしそうにペンダントの奇石を幼い自分に差し出す。その輝きは風丸の瞳と寸分変わらなかった。
「俺の母の形見の宝石が、お前の目と同じ色なんだ。だから最初お前の目が気になって……」
 否。違う、そうじゃない。
 風丸への気持ちはそんなんじゃない。
「けれど、この七日間でお前と一緒にいるうち、好きになってしまったんだ……お前のことが」
 正直、顔から火が出そうだ。と思った。まともに風丸の顔が見られない。
「そっか。俺も……、お前のことは帝国との練習試合の時からすごいと思ってたけど。この一週間で俺の中で俺の知らないお前のこと、どんどん知るうちにお前の存在がどんどん大きくなっちまって。それに、俺に頼ってくれなんて言ってくれたのは、お前だけだ。だから」
 風丸の言葉はとても真摯だ。心の底からの、本当の気持ちなんだろう。豪炎寺は思いきって風丸と視線を合わせた。瞳の中に自分が映っている。
「俺と同じなんだな?」
「ん……」
「まだ、恥ずかしいか?」
「そりゃあ……。でもこれが俺の本心だから」
「俺も恥ずかしい」
「えっ?」
 風丸が信じられない、という顔をする。
「俺だって恥ずかしいと思うときがある。お前だけじゃないさ」
「でもお前は、いつだって何でもやれて、俺にはすごく羨ましい奴で」
 豪炎寺はかぶりを振った。
「俺はそんな完璧なヤツじゃない」
 不思議そうにしている風丸が、妙に可愛らしく見えて思わず苦笑した。
「お前が恥ずかしい、って言うんなら、俺はお前の言葉を信用する」
 それが本当のことだから。
 恥ずかしいのを堪えた上の口づけと告白と分かったなら、自分はそれに応えよう。豪炎寺は決意した。
 夕陽が今日最後の光を地上に届けたとき、豪炎寺は風丸の両肩を引き寄せると、その唇を自分のそれで塞いだ。
 風丸の体がびくんとしなる。
 てのひらの中には、風丸の体はもう全然収まらなくなってしまっていたが、その温もりは小さいときよりももっともっと感じられた。
 口づけを交わした時間はほんの少しだったけれど、それは多分、この七日以上に大きいものだった。
 口づけのあと、ふたり気まずそうに顔を見合わせた。
「ホント……恥ずかしいな、これ」
「……全くだ」
「こんなとこでやるもんじゃないぜ」
「お前が先にしたんだぞ」
「お前の方が長かった」
 互いに言い訳じみた会話をして、そのあと可笑しそうに噴き出した。
「あ、そうだ」
 笑い合って突然、風丸が思いだしたのか目尻を拭う。
「あのさ。お前が俺のために縫ってくれたユニフォーム。あれ、俺にくれないか? 記念にしたいんだ……」
 風丸の頼みに、豪炎寺はかぶりを振った。
「すまない。あれはあげられない」
「そうなのか?」
「だって、ドン引きなんだろ?」
 夜なべで縫ったユニフォームは今、豪炎寺の机の上にある。それを風丸に渡したとき、言われたことを思いだした。
「あっ。まだそんなこと気にしてたのかよ! あれは……お前がすごいと思って、羨ましかっただけだぜ……」
 なんだ、そんな理由か。
 豪炎寺は微笑ましく思った。
「冗談だ。本当は……あのユニフォームは俺にとっても記念だから」
「そうなのか。だったらいい」
「お前が良ければ新しく作ってやるよ」
「ホントか?」
 風丸の表情がくるくる変わる様を見て、本当に分かりやすいヤツだと感じる。
「うんまあ……、俺それでいいよ。でも、試験のあとでな」
 陽が落ちた黄昏色の風景の中、風丸は一歩後ずさる。瞳はずっと豪炎寺に向けている。
「じゃあ、また明日な!」
 名残惜しそうな顔で風丸は豪炎寺に手を振る。二、三歩後ずさりしたあと、思いきったように背を向けた。緩い坂道を俊敏な脚で登って行ってしまった。
 豪炎寺はその背中を、手を振りながらずっと見送っていた。
 まるで一陣の風のようだと。
 この七日間で、豪炎寺は風丸のことを少しずつ知っていった。自分が知らないことも何もかも。それでもまだまだ、これから知っていくことも沢山あるのだろう。
 でもそれでいい。そう思う。
 明日はまた風丸のことを知っていくのだろう。それは多分、風丸にしても同じように自分を。
 少しずつ、てのひらのぶんだけ。

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てのひら7デイズ
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てのひら7デイズ

~一日目~

 稲妻町に平穏が訪れて、一月ほどが過ぎた。もう、校舎を破壊しようと襲ってくる奴らや、サッカーを悪用して国を乗っ取ろうとする大人たちなどいない。
 町の中ほどに位置する雷門中は、元々部活動の盛んな中学だったが、とりわけサッカー部は『宇宙人と名乗るテロリストから日本を守った偉大なヒーロー』として、内外で有名となっていた。
 そんな好奇心の目もなんのそので、キャプテンの円堂守以下、サッカー部員たちは今日も練習に精を出している。
「宍戸、少林 。行けっ! 壁山に負けるんじゃないぞ!」
 円堂が檄を飛ばす。
「って言いますけど、キャプテン。壁山の奴、スッゲー強くなってますよ」
「そうですよ。やっぱ『地上最強』の名は伊達じゃないよね」
 一年生の宍戸と少林が羨ましげに言うと、当の壁山は巨体をプルプルと真横に振った。
「そんなことないッス。みんなだって前よりうんと早くなってるッスよ」
「どうしたんだ、お前ら」
「風丸……」
  一年たちが互いに戸惑った顔を見合わせているのを、円堂が苦笑している所に親友の風丸が話しかけてきた。
「風丸センパイ。壁山のヤツ、前よりずいぶん強くなってますよね?」
「そういう宍戸や少林だって、スピードアップしてるッス。俺じゃ追いつけないッスよ」
 早速質問攻めを始める一年たちを見て、円堂は肩をすくめた。
「ってワケさ。言ってやってくれ、風丸」
「なるほどな」
 理解したのか風丸は頷くと、胸を張って腰に手をやる。
「壁山はどんなに辛くても、逃げずにがんばった。宍戸と少林もあんなことがあっても、ちゃんと反省してそれを返上しようとしてる。お前ら全員みんな、強くなってるのさ。それが結果として出ただけのことだ」
 風丸の言葉に、後ろで聞いていた円堂がうんうんと頷く。一年たちの顔に笑みが広がった。
「エヘヘッ。そうッスね。みんなガンバってるッスから」
「だよね。俺たちいっぱい練習してるし」
 にこにこと笑顔を振りまく壁山と少林寺。そして宍戸も風丸を見るとこう言い出した。
「そういう風丸さんこそ、ますます速さに磨きがかかっているじゃないですか」
「そうそう! もう誰も追いつけないって言うか」
 いきなり自分を讃える言葉に、風丸は首をふった。 
「俺はそれほど……。まだまだ、練習が足りないぜ」
「そんなことないぞ、風丸」
 円堂は、風丸が謙遜してるのかと打ち消す言葉を投げた。
「速さだけじゃない、ドリブルもシュート力も前よりずっと強くなってるぞ」
「そうかな……」
 首をひねる風丸に円堂は、にかっと笑いかけると一年生たちの顔を見回した。
「みんな、負けずに切磋琢磨しようぜ。そして、次の大会も優勝だ!!」
 円堂が天に向かって拳を振り上げると、周りのみんなも同じように拳をかざす。そんな彼らを離れた場所にいた豪炎寺はじっと眺めていた。目を細めて、円堂と同じように笑う風丸を微笑ましげに見ていると、鬼道が話しかけてきた。
「どうした、豪炎寺」
「えっ」
 思わず赤くなった頬を気にして、豪炎寺は咳払いした。鬼道は豪炎寺の視線の先にあるものを認めてほくそ笑んだ。
「風丸、か」
「いや。俺は」
 取り繕う言葉を胸の内で探している豪炎寺の心を知ってか知らずか、鬼道は円堂たちといる同胞をじっと眺めた。
「あいつは最近、随分力をつけてきてるな。以前とは比べ物にならない程だ」
「ああ……。そうだな」
 鬼道にはまだ気がつかれてないと分かると、豪炎寺はやっと頷く。
「前より足も速くなってるし、ブロックもドリブルも上がってる」
「あの分だと、もうエイリア石なんかに頼る気もないだろう」
 鬼道の言葉を聞いていて、豪炎寺はもうひと月ほども前の光景を思いだす。風丸が入院していた仲間たちを率いて、敵として自分たちの前に立ちはだかった時のことを。
 だが今、目の前にでみんなと笑っている風丸は、暗黒の力に魅入られたことなんか微塵も感じさせない。本当に元通りのいつもの彼だ。
 陽の光の下で生き生きとボールを追う風丸を見ていると、豪炎寺は心がほころぶのを感じていた。それは少々不思議だったが、自分でも止められないままでいる。
 思えば、雷門中に転校してからというもの、豪炎寺の生活は木戸川にいた頃より目まぐるしく変化している。病院のベッドで眠ったままだった妹の夕香が何よりも気がかりだったし、フットボールフロンティアで優勝を目指すのだけでも、精一杯で他のことなんか構っていられなかった。見事に優勝を勝ち取り、夕香も元のように元気になったかと思えば、今度はエイリア学園の襲来である。豪炎寺にとってこの数ヶ月は、緊張の連続だった。
 だがそんな慌ただしい日々も過ぎ去り、何の変哲もない平穏な日が訪れると、やっとゆっくり自分の周りを見れるようになった。そうして漸く、風丸の存在が気になりだした。
 風丸は円堂の昔からの親友とあって、彼とは非常に仲がいい。クラスこそ別なものの、豪炎寺と円堂は一緒だったので、休み時間にはしょっちゅう風丸が教室に訪れてきた。部活の時も、仲間たちとの信頼が厚いので、みんなから慕われている。
 それだけなら豪炎寺にとって、風丸は仲のいい仲間の一人に過ぎなかっただろう。
 だが風丸が見せる、まっすぐでひたむきな性格と、時折覗かせるナイーブな部分に、豪炎寺は気をひかれた。
 そうなってしまうと、風丸のすべてが豪炎寺を未知の感情へと誘い込む。
 特に、走っている時の、しなやかで伸びやかな脚と、きらめく茶色の瞳が豪炎寺は気にいっていた。
 あの瞳の色は見覚えがある。あれは確か、豪炎寺の亡くなった母親が大切にしていたネックレスについていた石と同じ輝きだ。
「ほら、見て。修也。綺麗でしょう、この石。決して高価なものではないけれど、お母さんは大好きなの」
 そう言って、宝石箱から時々、見せてもらった記憶がある。
 あの輝きは、豪炎寺を懐かしい気持ちにさせる。もちろん、風丸自身は豪炎寺がそんな気持ちで自分を見てるだなんて、思ってもみないだろうけど。
 豪炎寺と鬼道が見守る中、一年たちに発破をかけている風丸が急に頭を押さえたのは、そんな時だった。
「どうした? 風丸」
 円堂が心配そうな顔をする。風丸は姿勢を正して首を振った。
「いや、なんでもないぜ」
「何かあったのか?」
 鬼道が風丸たちを見て、眉をひそめたが、豪炎寺も首を傾げるだけだった。当の風丸は何事もなかったように、練習メニューをこなし始めている。
 その日の練習が終わり、生徒たちを追い出すチャイムが校庭に鳴り響くと、部員たちは晴れ晴れとした顔で帰り仕度を始めた。
「雷々軒で響木監督の特製ラーメン食べてこうぜ!」
 円堂のひと声で、部員たちの帰りの予定が決まる。そんな中、風丸は学ランに袖を通すと、円堂に断りの言葉をかけた。
「悪い。俺、まっすぐ帰るぜ」
「風丸は行かないのか?」
「ああ。宿題もあるしな」
「そっか」
 円堂は残念そうな顔をしたが、風丸は簡単に予定を変える男ではないので、仕方なく笑みを浮かべた。
「じゃあ、また明日な!」
 校門で雷々軒に行くメンツに手を振ると、風丸は自宅の方へと歩きだした。
 豪炎寺はというと、自宅のマンションで待ちわびているだろう、妹の夕香の事が気にかかったので、みんなと同行するのは遠慮してやはりまっすぐ帰ることにした。円堂たちに別れを告げると、風丸に少し遅れる形で帰路につく。
 風丸とは同じ方向だ。
 先を行く風丸の背中に、幾ばくかのときめきを感じながら、豪炎寺は歩く。決して、
「一緒に帰ろう」
とは言えないが。
 多少、口下手なきらいはあるが、風丸とさほど親密なわけではない。それでも、同じ道を歩いている。それだけで豪炎寺にとっては幸いな時間だった。
 西に傾いた夕陽は通りを紅く染め変えて、心の奥まで暖かく照らしていた。
 風丸の、どちらかといえば頼りなさげな背中を追っていた豪炎寺は、急にふらりとポニーテールが揺れるのを認めた。
「ん?」
 今一度見直すと、歩道脇の電信柱に風丸が寄っかかっている。練習の時といい、どこか具合でも悪いのだろうか。
「大丈夫か?」
 豪炎寺は風丸に駆け寄ると背中を揺すった。電柱に肩をもたれて深く呼吸をしていた風丸が、ぴくんと体を震わせる。
「豪炎寺……?」
 振り向いた風丸の顔が意外そうなのは、自分の後ろに知り合いがいるだなんて思いもしてなかった所為だろう。
「どこか悪いのか、お前。練習の時もフラついてただろう」
 だが豪炎寺の呼びかけに、風丸は笑って首を振った。
「いや。何でもないぜ」
 豪炎寺は笑顔を貼り付けた風丸の顔に、微かな嘘を感じとった。無理をしているのか、それとも気を遣わせまいとしているのか……。風丸は電柱から離れると、何事もなかったかのように背筋を伸ばして立ち上がった。
「大丈夫だぜ。ほらっ」
 風丸はにっこり笑って振り返る。
 だが豪炎寺の目には、笑顔の風丸の向こうに、勢い良く走ってくるトラックが写っていた。それはまるで、一年も前に、妹の夕香がはねられた時と同じ。
 思わず体が動いた。
 目の前で親しい奴が事故に遭う光景なんて、何度も見たいものではない。
「風丸!!」
 黒く細めの学ランの背中を抱きとめた。間一髪で走るトラックから風丸を庇う。
 豪炎寺は無我夢中で地面を蹴った。その勢いが余って、二つの体は歩道に倒れこんだ。
 トラックは何事もなく走り去る。ほっとしてそれを見送ると、豪炎寺は自分の腕の中の風丸の無事を確かめようとした。
 が。
 腕の中はまるで空っぽで頼りなく、抱きとめたはずの風丸の体の感触がない。
「えっ」
 ぎょっとして、腕の中を見た。だが、風丸の存在はなく、黒い学ランだけが残されていた。
 そんなバカな。
 慌てて辺りを見回した。歩道の脇に風丸が背負っていたカバンが転がっているだけだ。
 青ざめた顔で豪炎寺は立ち上がった。
 腕の中に風丸がいないのなら、何処かに倒れているのか。それともトラックにはねられて、体が吹き飛んでしまったのか。最悪の状況が脳裏に浮かんだが、何処にも風丸の姿はなく、血しぶきすらない。
「か……風丸?」
 学ランの布地を握りしめて、訳もわからずに立ち尽くしていると、不意に微かだが、聞き覚えのある声がした。
「俺はここだ」

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 意外にも声はすぐ側から聞こえる。豪炎寺は辺りを見回したが、声の主は見つからなかった。
「どこだ? どこにいる、風丸!」
「ここだよ!」
 声がするのは腕の中だと気づくのに、時間が必要だった。しかし、その中ということは……。
 そんなハズがない。だって、腕の中にはもぬけの殻の学ランが……。
 そう思ったけれども、改めて腕の中に目を落とすと、黒い学ランの中で何かが蠢いているのに気付いた。もぞもぞと布地が動いたと思えば、すぐさま、蒼い絹糸の塊が覗いた。
「うっ!?」
 襟のカラーに、小指ほどの小さな手がかけられると、ピンポン玉程の丸い物が飛び出してきた。
 ぷはぁ、と、大きく息を吐く。その小さな“モノ”はつい今、抱きしめたはずの風丸と寸分変わらない形をしていた。
「ああもう、参ったぜ。急にトラックが走ってきて、お前に掴まれたと思ったら、あとはワケが分かんなくなってさ……」
 そこまで“風丸の形をしたモノ”がせわしなく話すと、すぐさまきょとんと首を傾げた。
「豪炎寺。なんか……、お前がすごくデカく見えるんだが」
 “風丸”の問いに豪炎寺はふるふると首を振った。
「ち……違う。お前が小さくなってるんだ」
「え」
 目を瞬かせて、未だこの状況を把握してない風丸に、豪炎寺は右の人差し指を向けると、風丸の頭にちょこんと触れた。まるで、人形の頭部のようだった。
「え。えええええええ! な、なな。なんでこんな!?」
「いや。訊きたいのは俺の方なんだが」
「どうなってんだよ、これ。縮んじまったのか、俺!? あああっ。どんだけ小さくなってるんだ俺!!」
「風丸。……落ち着け」
 パニック気味の風丸を、とりあえず宥めようと、豪炎寺は学ランの襟元から小さな体を引っ張りだそうとした。ところが、小さくなったのは風丸の体だけで、着ていたものは全て元の大きさのままだったらしい。人形みたいに小さな体を引っ張りあげると、服の中から出てきた風丸は裸のままだった。
「うわ!」
「う……っ!?」
 その事に気付くと、豪炎寺は慌てて服の中に戻す。歩道に転がったままのカバンを取ろうとして、アスファルトの上にころんとシューズがこぼれ落ちた。それを急いで拾い上げると、風丸のカバンに学ランもろとも中に押しこんだ。
「とりあえず、俺の家に行くぞ!」
「なっ、なんでだよ!?」
 風丸は抗議の声をあげたが、それに構わず豪炎寺は自宅のマンションに向かって走り出した。
 事故、というか事件が起こった道路から、マンションまでは歩いて十数分ほど。走れば十分もかからないだろう。豪炎寺は全速力で自宅への道を走った。息を切らせてマンションにたどり着くと、エレベーターに乗り込む。自宅のある階を示すボタンを押すと、やっと抱きかかえていたカバンを確かめた。
 はたして、カバンの中には、詰め込んだ学ランと元から入っていた教科書とノート、それらもろもろの間で風丸の小さな体はもみくちゃになった哀れな姿を晒していた。
「……もうちょっと、人のこと考えてくれ。お前は平気でも、俺には辛いんだよ……」
 半ばふらふらの状態になりながらも風丸は文句を言う。豪炎寺は平謝りするしかなかった。
「す、すまない」
 そんなやり取りを交わしてるうち、エレベーターは豪炎寺の自宅のある階に着いた。
「風丸、もうちょっと我慢してくれ」
 カバンのふたを閉じると、玄関のインターホンを押す。鍵は開いていた。
「ただいま」
 靴を脱いでいると、豪炎寺の妹の夕香が嬉しそうな顔で飛びだしてきた。豪炎寺はそっと風丸のカバンを腕で隠した。
「おかえりっ、お兄ちゃん。見てー、夕香、テストで百点とったんだよ!」
 赤ペンで丸だけが踊ってる答案用紙を妹は誇らしげに掲げる。豪炎寺は目を細めて、夕香の頭を撫でた。
「すごいな。さすが夕香だ」
「えへへっ」
 いつもなら、そこで夕香を交えて夕食を取りながら、学校の話題に花を咲かせるのだが、今はそれどころじゃなかった。
「ごめんな、夕香。お兄ちゃん、宿題がいっぱいあるんだ。悪いけど一緒に遊べない」
「えー!?」
 夕香は不満げな声を漏らす。後ろめたく思いながらも、豪炎寺は苦い気持ちで言い訳を繕った。
「すまない。また明日遊ぼうな」
 お手伝いのフクさんに、夕食を勉強部屋に運んでくださいと頼むと、豪炎寺は夕香にリビングへ行くよう促した。
 何も知らない夕香は素直にそれを聞き入れる。夕香の小さな背中を見送って、豪炎寺は自分の部屋に入りドアを閉めた。誰も居ない部屋の様子にほっと息をつく。
「大丈夫か、風丸」
 カバンを開けると、件の風丸はその小さな体に、中に入れてあったのだろうか、ブルーのタオルを巻きつけていた。
「まあ、何とか」
 豪炎寺は慎重に風丸の体を掴むと、自分の机の上に乗せてやった。椅子の背もたれを前にして風丸と向かい合わせに座る。
「──で。一体、何故、こんなことになったんだ?」
「俺だってわからないよ。歩いてて、急にめまいがしたと思ったら、あんなことになっちまったんだ」
 机の上であぐらをかいて、風丸は肩で息をつく。
「めまいか。お前、昼間も具合が悪そうだったな」
「……うん。睡眠はちゃんととってるんだけどな」
 兆候はあったのだろうか。風丸には思い当たる節は見出せないようだった。腕組みをして考えている。
「今は気分はどうなんだ?」
 豪炎寺が尋ねると、風丸は大きな目を開いて首を傾げた。
「そうだな……。めまいとかはないぜ。でもなんか、急に周りの物が大きくなった所為かな。うまく感覚が掴みにくいんだ」
「感覚か……」
 豪炎寺は考える。が、風丸の感覚は当の本人にしか分からないものだろう。豪炎寺からしてみれば、いつも見ている風丸の姿が異様に小さくなっているだけだ。
「修也さん。お食事をお持ちしましたよ」
 フクさんがドアをノックしたので、思考はそこで中断された。食事の乗ったトレーを受け取ると、礼を言って下がってもらった。風丸はその間、見つからないように写真立ての後ろに隠れていた。
「風丸、腹へってないか? 良かったら一緒にどうだ」
「ありがとう。うん、もらうよ」
 写真立ての裏側からひょいと顔を出すと、風丸ははにかんだ笑みを見せた。豪炎寺は頷くと、机の上に食事が盛られたトレーを置いた。温かい湯気がのぼる。夕食はハンバーグとコーンスープ、それに野菜サラダとご飯だ。
「あっ」
 食事に添えられた箸とフォーク、スプーンを見て、豪炎寺は気がついた。
 ──風丸にこれは大きすぎる。
 スプーンは大ぶりで、すくう部分が今の風丸の顔ほどだし、フォークも同じようなものだ。箸は風丸の背ほどあるし、このまま渡していいものか戸惑ってしまう。
「どうした?」
 腰に手を当てて、首を傾げてる風丸の声で我にかえった。
「いや。……口、開けてろ」
「ん?」
 迷ったが、豪炎寺はスプーンを取ると、スープをひとさじ心持ち少なめにすくった。息を吹きかけて冷ますと、風丸の口元に持っていく。
「ほら」
「え。こうやって食うのか?」
 頭ほどもあるスプーンの中身を前にし、風丸は困惑顔だ。
「今のお前には、この方法しかないだろう」
「まあ……。確かにそうだけどさ」
 風丸がほんのちょっと顔を赤らめてるには、恥ずかしい所為だろう。その気持ちは分からないでもないが、背に腹はかえられない。目の前から漂う美味そうな香りに、さしもの風丸も耐えられなくなったのか、軽く溜息をつくと頷いた。
「ああ。分かった。しょうがないよな」
 頷いたのを見て、豪炎寺は風丸の口元そばにスプーンを傾けてやった。風丸は恐る恐るスプーンに口をつけた。こくんと喉が動く。
「あ。美味いな、これ」
「そうか。もっと飲むか?」
「うん」
 風丸が再びスープに口をつける。加減良く冷めたのか、ごくごくと飲みはじめた。思ってるよりも早く風丸が飲んでしまうので、豪炎寺はスプーンを更に傾けてやった。
「……! けほっ」
 風丸が急に咳き込む。いきなりスプーンを傾けられたので、むせてしまったのだろう。慌ててスプーンを置くと、風丸の背中を親指でさすってやった。
「すまない。大丈夫か!?」
 風丸は口元を押さえて咳き込んでいたが、やがて楽になったのか、荒く息を吐くと顔をあげた。
「だ、大丈夫だ。ちょっとむせただけだ」
 口元と髪にスープがべったり付いてしまったのを見て、豪炎寺はティッシュを取ると、拭いてやった。
「ありがとう」
 苦笑いして風丸は礼を言う。体が小さくなってしまってから、風丸がいつも頭の天辺で結っているポニーテールが、今は解けている。そして、体にタオルを巻きつけただけの姿に、豪炎寺は改めて考えた。
 ──風丸をこの格好のままにしていいのか?
 考えたところで、いい妙案が浮かぶわけではない。一旦諦めて豪炎寺は箸で白飯をすくった。
「もう少し気をつける。ほら、これも食えよ」
 風丸は素直に頷いた。ほんのちょっとの飯粒でも、風丸にとっては十分すぎる量だ。大きく口を開けて飯粒に食らいついている。
「うん。美味い」
「次はこれだ」
 豪炎寺はなるべく細かくなるようにハンバーグを箸で砕くと、小さな欠片を風丸の口元に持って行った。

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「……はぁ。食った食った」
 ものの数分で風丸は食事を終えた。腹をさすって、満足げに机の上で胡座をかいている。風丸のその姿を見て、豪炎寺はほっとして自分も食事を始めた。
「あ……、ごめんな豪炎寺」
「え?」
 いきなり風丸がしゅんと頭を下げたのを、不思議に思いながら、箸をくわえた。
「いや。お前、俺が食い終わるまで自分は食わずに待っててくれただろう」
 ああ、と豪炎寺は風丸の謝罪の意味を理解した。
「それに、妹さんにも悪いことをした」
 夕香にまで言及するということは、さっきの玄関での会話をカバンの中で聞いていたんだろう。豪炎寺は首を振った。
「そんなことならいいさ。お前のことが心配だったし、夕香とはいつでも遊べる」
「そうか……?」
 小首をかしげて自分の顔を見上げる風丸に憐憫さを感じて、余計にこの事態を何とかしようと豪炎寺は決心した。
「俺のことは気にするな。お前は早く元の体に戻れるようにしないと。その間は俺が力になる」
 豪炎寺がきっぱりと言い放つと、風丸は瞳を潤ませている。涙がこぼれてしまいそうになるのを、拳で拭って首を振った。
「ありがとう、豪炎寺。なんて礼を言えばいいのか、俺……わかんないけど」
 風丸はそう言うと、右手を差しだした。ほんの小さな、小指の先ほどの手。でもその手には、豪炎寺に対する感謝の気持ちがあふれていた。豪炎寺は手を差しだそうとして風丸の手と自分のと、その大きさの違いに躊躇し、改めて人差し指だけを出した。
 風丸はにこりと笑うと、その指を握りしめた。
 風丸は自分を信頼してくれている。突然体が小さくなっている今、心細いだろうと思うと、絶対にその信頼に応えるべきだ、と豪炎寺は残った夕食をかきこみながらそう誓った。
 早々に食事を終えると、豪炎寺は空の食器を乗せたトレーを持って立ち上がる。
「風丸。片付けてくるから、ちょっと待っててくれ」
「ああ!」
 大きく手を降って、風丸は部屋を出てゆく豪炎寺を見送っている。それを微笑ましく感じながらも、夕食を平らげながら思いついた考えを実行することに決めた。
 まず、食器をダイニングキッチンに置いてくると、夕香の部屋を訪れた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 勉強机に向かっていた夕香は、スケッチブックに走らせていたクレヨンを持つ手を止めて訊いた。
「夕香。お人形の洋服セットを持ってたろう? お兄ちゃんにちょっとの間貸してくれないか」
「いいけど……、どうして?」
 夕香は怪訝そうに首をひねった。
「あっ、いやその」
 いくらなんでも、無理すぎた。豪炎寺は焦った。
 夕香のように小さな女の子ならまだしも、自分のように中学生の男子が着せ替え人形の洋服に興味を持つワケがない。実際、そんなヤツがいたとしたら、ファッション関係の仕事を目指しているか、下手をすれば変態くらいなものだ。
 それでも、今はそれがとても必要だった。豪炎寺は何とか理由を言い繕った。
「お、お兄ちゃんな。家庭科の宿題で必要なんだ。人形に興味があるワケじゃないぞ」
「ふ~ん」
 夕香はくるくるした黒い目で兄の顔をじっと見たが、椅子からおりると、飾り棚に置いてある着せ替え人形の洋服がつめてある箱を取り出した。
「はいっ、お兄ちゃん。どうぞ」
 クローゼットを模した箱を手渡され、豪炎寺は内心ほっとして受け取った。
「ありがとう、夕香」
 用を終えると豪炎寺は早速自分の部屋に戻った。机の上で、小さなままの風丸が物珍しそうに室内を見回していた。
「風丸、見てみろ。夕香から人形用の服を借りてきた。お前が着れるのがあればいいんだが……」
 豪炎寺は机の上に箱を置くと、扉の形をしたふたを開けた。箱の中はプラスチックの棒が通してあり、そこに色とりどりの服がかけてあった。赤、ピンク、白、黄色、水色……。
 箱の中を覗きこんだ風丸は、あれこれ物色していたが、最初は喜色満面だった顔が次第に険しいものになった。
「豪炎寺、これ……」
「どうした? サイズが合わないのか?」
 豪炎寺が尋ねると、風丸は苦い顔で首を振った。
「いや、サイズは問題ない、たぶん。ただ……」
「ただ?」
「スカートしかないんだ……」
 消え入りそうな声で風丸が答える。豪炎寺はやっと、風丸がなぜ嫌そうな顔をしてるかを理解した。自分で箱の中を確認したが、洋服はスカートかワンピースしかなかった。それも、ほとんどがひらひらしたフリルのついたものばかりだ。
「わ、悪い! てっきりズボンもあるかと……」
「いや。お前の気持ちは嬉しいさ! ま、まあ、このカッコのままもなんだしな……。スカートでも、ガマンするさ」
 風丸は箱の中から、制服のようなシャツとクリーム色のベストに紺のチェックのミニスカートを取ると、体に合わせた。その服はあつらえたみたいにぴったりだったが、どこからどう見ても少女にしか見えず、風丸と豪炎寺は、思わず溜息をついた。
 風丸は肩をすくめると、服を着ようとしたが、急に体を震わせるともじもじと身をよじりだした。
「どうした? 風丸」
 豪炎寺が尋ねる。風丸の突然の態度は、一体何が起きたのだろうか。
「あ、あのさ……」
 風丸の体はぶるぶる震えてる。さっぱり分からず、豪炎寺は首を捻った。
「とっ、ト。トイレ……。トイレに行かせて……くれ」
 羞恥のあまりに真っ赤に染まった顔が、風丸の緊急事態を告げていた。豪炎寺はやっと、ああ、と理解した。食うものは食ったので、次に出すものを出さなければならないのは、自然の摂理だ。
「すまん。今連れてってやる」
 豪炎寺は風丸の人形ほどの体を掴んで立ち上がった。見つからないように、そっと廊下を伺ったが、夕香もフクさんもリビングにいるようだった。
 幸いとトイレに潜り込む。洋式便器のふたを上げると、風丸をふちに立たせてやった。クリーム色の陶器の肌はつるりとしていて、その上だと滑りそうだと豪炎寺は思った。
「ふう……」
 排尿してるあいだ、豪炎寺は指で支えてやったが、行為をすませた風丸がそのことに気づくと、いきなりうろたえだした。
「あああああ。豪炎寺、もしかして見てた……のか?」
 またもや豪炎寺は風丸の態度に疑問を持つ羽目になる。
「支えてたからな。見えてしまうのはしょうがないだろう」
「あ、ああ。そうか。でも……」
 風丸の顔どころか、身体中が真っ赤になってしまっている。豪炎寺には、風丸がそれほどまでに、恥ずかしがる理由がさっぱり分からなかった。
「お前が支えてなくても……できるぜ。だから、俺がしてる最中は……」
「うん?」
 豪炎寺は首を傾げてた。
「滑って落ちると危ないんじゃないか?」
「それは、そうだけど。でも! 俺は……」
「風丸」
 豪炎寺はなんとなく、風丸が恥らう訳が分かった気がした。例え小さくなったとしても、他人の手を借りるのは自尊心が許さないのだ。
 その気持ちは分からないでもない。だが今は風丸を一人きりにするのは、危険な気がした。
「俺は、お前を守る義務がある。俺の家で、お前に危害が及ぶようなことは、なるべく避けたい。だから、多少恥ずかしくても、俺に従ってくれ」
「豪炎寺……」
 風丸は豪炎寺の手の中で、うなだれてしまった。蒼く長い前髪が、風丸の顔を隠してしまう。豪炎寺は言いすぎたかと思ったが、すぐに風丸は顔を上げた。
「すまん。俺って……ワガママだよな。お前は俺のこと、守ってくれようとしてるのに。はっきり言って自分で自分が情けないんだ。こんなことすら、ひとりでやれないなんて」
 風丸の声がかすかに震えていた。
「あまり、気にしない方がいいんじゃないのか」
 うなだれたまま、風丸はこくんと頷いた。豪炎寺はそれ以上かける言葉を失ってしまい、ただ指先で背中をさすってやることしかできなかった。
 とりあえず部屋に戻ろうと、トイレから出ると、リビングのドアを開けて夕香が豪炎寺に声をかける。
「お兄ちゃん、お風呂わいたよー」
 風呂か……と考えて、手に隠し持った風丸を思った。気分転換も兼ねて、入らせた方がいいかも知れない。

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「ああ。今、入るよ」
 妹にそう答えると、豪炎寺は支度を始めた。パジャマ替りのスウェットの上下の中に下着と一緒に風丸を隠すと、誰にも見つからないように、脱衣所を兼ねた洗面所に入った。
「悪いけど、一緒に風呂入るぞ」
 風丸が返事をするのもそこそこに、豪炎寺はさっさと服を脱ぐ。タオルを巻きつけたままの風丸を掴むと、腰掛の上に置いてやる。湯船から洗面器で湯をすくうと、まず自分の体に掛け、それから風丸に丁寧に掛けようとして、戸惑った。
 豪炎寺が手を止めたので、風丸は不審に思ったが、まだ自分の体にタオルを巻いたままだと気づいた。
「あっ、すまん」
 風丸は苦笑いすると、きっちり巻きつけていたタオルを解いた。タオルの下から、健康そうな素肌が覗く。つややかなその肌は、かけた湯をさらりとはじいた。
 豪炎寺は湯を掛け終わると、裸の風丸を持ち上げて湯船に入った。湯につからせて、ユニットバスの底の深さを目で確認すると、体を掴んでいたのを手のひらで包み込むように持ち直した。
「おっ。凄いなー。風呂っていうより、温水プールみたいだ」
 風丸が感嘆して底を覗く。
「プールにしては底が深すぎるんじゃないか。気をつけろよ」
 豪炎寺は慎重に風丸の腰のあたりを包んでいる。風丸は苦笑すると、手で湯を掻き分けるように泳ぎだした。
「大丈夫だ、これくらい」
 豪炎寺の手の内から見事なクロールで抜けだすと、風丸はトビウオのように温かい湯を進んでゆく。バスタブの縁に右手をタッチすると、身を乗りあげて湯から上がった。
「床まで2メートル、って感じするな。ん……」
 風丸はバスタブの縁から床までの距離を目線で測ると、喜々として振り返った。
「なあ! 豪炎寺。さっきの洗面器に湯を張って、床に置いといてくれないか」
「洗面器か?」
 豪炎寺は言われた通り、洗面器に風呂の湯をなみなみと注ぐと、床に置いた。
「あ、もうちょいこっち」
 風丸は下を覗きながら、洗面器の位置を調整させる。豪炎寺は言われるままに置き直したが、風丸がなにをしたいのか、分からないままだ。
「一体、なにをしようって言うんだ……?」
 首を捻っていると、風丸はバスタブの縁の上に、まっすぐ立った。一旦腰を屈めると、綺麗な放物線を描いて、床に置いてある洗面器目がけて飛びこんだ。
「おい!」
 バシャンと音を立てて湯の中で一回転し、床の洗面器の中で立ち上がる風丸に、豪炎寺は苦言を呈した。
「危ないぞ。何かあったらどうする?」
「平気だって。お前、意外と心配性だな」
 洗面器の中で仁王立ちになっている風丸を、豪炎寺は手で摘みあげる。
「お前、自分の体がどうなってるかくらい自覚しろ。頭でもぶつけたらどうする?」
「でも今は上手くいっただろ」
 自信満々な顔の風丸に、豪炎寺は首を振る。
「ともかく、洗面器はやめとけ。どうせならこうすればいい」
 豪炎寺はそう言うと、風丸を手のひらに載せて中腰で湯船の中に立った。
「ここから飛びこめ」
「なるほど」
 豪炎寺の手のひらから真下を覗き込むと、風丸は満足げに立ち上がる。両腕をまっすぐ伸ばし、バスタブの湯の波に向けた。そのまますっと飛び込む。風丸の小さな体は水しぶきをあげて、湯の中でくるりと回転した。愉快そうにはしゃいだ声を上げた。
「楽しそうだな」
「ああ。俺さ、小学校の頃よく、円堂とプールに行った時はこんな風に一緒に飛び込みしてたんだ。俺もあいつも競いあってさ。……そういえば、雷門に入ってからは、やってないな」
「そうか」
 風丸は思い出話を語りながら、湯船を背泳ぎでゆっくりと漂っている。豪炎寺は、風丸が股間も何もかもさらけ出してるのに気付くと、思わず目を背けた。
 ──さっきはトイレであんなに恥ずかしがったくせに……。と心で舌打ちしながら。
「豪炎寺」
 風丸が呼ぶ。
「どうした? 変な顔して」
「いや。何でもない」
 目をそらせたまま、豪炎寺は応える。風丸は首を傾げて豪炎寺の顔を見上げたが、そのまま視線をゆっくり下へさげて、ある一点まで行くと慌てて横を向いた。
「そろそろ体……洗うぞ」
 豪炎寺が言うと、風丸は顔を赤くして頷いた。
 豪炎寺の家では、体は大抵ブラシで洗う。木の杓子のようなブラシの先に豚毛が植えられてるものだ。ただ、それを使うのは父親と豪炎寺だけで、妹の夕香は柔らかいスポンジを使う。
 豪炎寺がそのブラシを使って、ごしごしと洗っているのを、風丸は髪を洗いながら羨ましそうにしていた。
「それ、気持ち良さそうだな。俺んちはスポンジだからさー」
「貸してやりたいが、お前の体じゃ……無理だろ」
「だよなぁ……」
 苦笑いを浮かべながら、風丸は豪炎寺に手伝ってもらい髪を洗い流す。
「風丸。ちょっと待ってろ」
 急に思いついて、豪炎寺は風呂場から洗面所のドアを開けた。体からぽたぽた湯が零れる。洗面台のひきだしを物色すると、難なく目的のものを探しだした。すぐに風呂場に戻る。
「風丸。これを使え」
 豪炎寺が風丸に差しだしたのは、真新しい歯ブラシだ。
「考えたな。うん、これなら俺の体に合う」
 歯ブラシを試すがめす、風丸は顔を綻ばせた。
「これは浴用のブラシと同じで豚毛の奴なんだ。そんなに硬くないから、お前の体を洗うのに十分だと思う」
 だが風丸は綻んだ顔をすぐに引き締めた。
「いいのか? 俺なんかが使っても……」
「これは客用の買い置きだ。お前は俺の客なんだから、遠慮はするな」
「豪炎寺……」
 風丸は神妙な顔で豪炎寺の顔を見つめた。
「ありがとう」
 感謝の言葉と同時に向けられた笑顔は喜びに溢れていて、豪炎寺には心の奥がくすぐられる感じがした。
 互いの体を洗い終えると、ふたりは早々に風呂場を後にした。とは言え、風丸は多少はしゃぎすぎたのか、少しぐったりしている。
「ふぅ。ちょっとのぼせた」
 手のひらを扇子代わりにして、風丸は火照った肌に風を送っている。
 豪炎寺は洗面所で着替えたが、風丸は裸にタオルを巻いたままの姿だ。
「おい。服はどうする」
 豪炎寺が夕香の人形の服を示すと、風丸は横目で溜息をついた。
「はぁ……、そうだったな。う~ん」
 洋服の入れられた箱の前で、風丸は腕組みをすると、半ば嫌そうな顔で一着のワンピースを選んだ。水色のそれは袖にも裾にもフリルがひしめいていた。
「これにする」
「いいのか? それで」
「ああ。着るのが一番楽そうだからな」
 溜息をつきつつ豪炎寺に背を向けると、風丸はタオルを解いてワンピースに袖を通した。服を整えながら、豪炎寺に苦笑いを向ける。
「何というか……すまない」
 豪炎寺は頭を下げた。
「いや、文句を言える立場じゃないさ。だけど、……なんか股がスースーする」
 ワンピースの裾から覗くすらりとした風丸の脚が、妙にまぶしく見えて豪炎寺は視線を反らせた。
「そ、そうか」
「パンツ履いてないからな」
「下着までは考えてなかった……」
 豪炎寺は慌てて、もう一度頭を下げた。その姿を見て、風丸は苦笑いのまま首を振った。
「もういいって……」
 風丸はふと、部屋中を見回すと、壁に掛けられた時計に気がついた。短針は9を差している。
「もうこんな時間か……」
 豪炎寺も時計を見て、あることに気づく。
「お前、家に連絡しなくていいのか?」
 風丸の顔には浮かない表情が張り付き、まぶたは伏せがちになった。
「分かってる。けど、どう説明すればいいのか……」
「そうか。お前の体のことを教えた方がいいか?」
 豪炎寺の問いに風丸は首を振った。
「でも、とりあえず連絡はした方がいいだろう?」
「うん……」
 風丸は机の上で、ぽつんと佇んでいる。両手はフリルの裾をぎゅっと握りしめていたが、その顔には迷いが見えていた。豪炎寺は部屋の隅に隠してある風丸のカバンを探ると、サッカーボールのストラップのついた青い携帯電話を取り出した。
「お前の家にかけるぞ」
 豪炎寺が促すと風丸はこくんと頷く。メモリーに入っている風丸の自宅を呼びだすと、風丸の側に差し向けた。1回呼び出し音が鳴っただけで、すぐに電話は繋がった。
「あ。もしもし。母さん、俺。……ごめん。実は……俺ちょっと……体が……」
 如何にも言いにくそうな風丸を見かねて、豪炎寺は携帯を掴むと受話器に耳を当てた。
「話の途中すみません。俺、風丸と同じ、サッカー部の豪炎寺です。風丸は体の具合が悪くて、俺の家にいます」
 電話の相手はどうやら風丸の母親だったようだ。柔和そうな声が、豪炎寺の言葉で不安を募らせるのが分かる。
「風丸は熱で動けないんです。もしかしたらインフルエンザかもしれません。いえ……。俺は予防接種を受けてるから大丈夫です。俺の親は医者ですから、暫くのあいだ、俺の所に任せてくれませんか?」
 風丸は豪炎寺が通話してる間、不安そうに見上げている。それを横目で見ながら、豪炎寺は何とか風丸の親を説き伏せることに成功した。
「でまかせばっかり……」
 通話を終えたあと、風丸は半ば呆れたように呟いた。
「だが、上手くいっただろう。インフルでもなんでもいいが、お前を数日のあいだ表に出なくてもいいようにするには、これしかないんだから」
「……数日ですめばいいんだけどな」
「それはおいおい考えるしかないだろ」
 豪炎寺は風丸の携帯を閉じると、元にあったカバンに戻そうとして、連絡するのは風丸の親だけで良かっただろうかと考えた。……例えば。
「円堂には……」
 連絡しないのか? そう訊ねようとして、その言葉を飲み込んでしまった。
 円堂に今の風丸の状態を伝えるべきか、豪炎寺は迷った。円堂ならば、何よりも風丸の体を心配してくれるだろうことは、想像するに容易い。だが、何故か円堂に伝えることを、心の何処かが拒絶してしまう。
 豪炎寺はその気持ちが何故、己の心に湧きあがってしまうのか、戸惑った挙句、風丸に問うことを保留してしまった。
「なんだ? 豪炎寺」
 机の上でちっぽけな体の風丸が首をひねっている。豪炎寺は苦笑いで打ち消した。
「いや。宿題があるから、さっさと片付けないと……と思ってな」
「宿題かぁ……」
 風丸は豪炎寺が机の上に広げたプリントを眺める。
「俺も宿題あるけど、やれそうにないな」
 今はそれどころじゃないだろう、と豪炎寺はなだめる言葉をかけようと思った。だが、却って気を悪くするのでは……と躊躇していると、今まで聞こえていた風丸のしゃべり声が途切れたのに気づいた。プリントから顔を上げると、風丸はいつの間にか消しゴムを枕にして寝息を立てていた。
 豪炎寺は苦笑いすると、眠っている風丸をそっと持ち上げて、ベッドに寝かせてやった。それから残りの宿題を片付け、明日の準備をしている途中、はっとあることに気がついた。
 クローゼットを開けて、引き出しを探り出す。目的のものは奥深くに大事にしまってあった。それはフットボールフロンティア決勝戦の時に着ていたユニフォームだ。
 豪炎寺はユニフォームを広げて確かめる。生地はあちこちボロボロで、焼け焦げてる部分もある。だがこれは、自分にとってかけがえのない大切な、思い出の詰まったものだ。生地を確認すると、豪炎寺は頷いた。
「これなら……大丈夫だ」
 そう呟くと、棚から家庭科で使う裁縫セットを取り出すと、ハサミを手にした。

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~二日目~

 目を覚ました時、風丸は目に見える景色がいつもと違っていることに、戸惑った。天井は普段見慣れているものよりずっと高く、そして真新しい。横を向くと、ごくシンプルで家具調度の少ない室内。かろうじて一枚だけ張ってあるサッカー選手のカレンダーだけが、この部屋の持ち主の趣味を思わせた。
 慌てて起きあがる。整ったベッドに寝かされていたのだと気付くと同時に、持ち主の気配がないのに違和感を覚えた。見回すと、部屋の主人は勉強机に突っ伏している。
 風丸はベッドから滑り降りようとして、それがとんでもなく広いものだと分かり、昨日、自分に起こった異変を思い出した。
 ──ああ。俺は人形ほどに小さくなっちまったんだっけ……。
 躊躇したが、思いきってベッドから飛び降りた。意外だけれども、着地のショックはあまり感じなかった。豪炎寺が座っている椅子まで駆け寄ると、下から呼びかける。
「豪炎寺! おい、起きろよ!」
 だが豪炎寺はすっかり寝入っているらしく、風丸の声では起きなかった。まだ浅暗い中を、風丸は椅子をよじ登ることにした。キャスターの上に立ち、見上げる。豪炎寺の脚を伝っていけば、上までいけそうだ。
 風丸は何とか豪炎寺の膝のあたりまで這い上がると、体を揺する。それでも、豪炎寺は起きない。とうとう風丸は豪炎寺のスウェットシャツを伝い始めた。
「まるでアスレチックスだな」
と、ひとりごちながら。
 豪炎寺は机の上で腕を枕に頭をもたれている。耳元に近寄ると、大声で叫んだ。
「豪炎寺! 起きろ!!」
 風丸の声にやっと気付いたのか、豪炎寺はびくんと体を揺らすと、むくりと起き上がった。勢いで風丸の体がもんどり打った。
「あ……、風丸?」
「やっと起きたな」
 豪炎寺は何度もまぶたを瞬かせると、目の前の風丸の姿を見て、事態を飲み込んだ。
「ああ。朝か……」
 風丸が頷いたが、豪炎寺は壁にかかっている時計を見て、呆れた声を出す。
「まだ5時だぞ」
「ああ。普段からこれくらいだぜ」
「ずいぶん早起きだな」
「朝は日課のランニングしてるからな。それから朝メシまで勉強してるし」
「こんな時間にか?」
 豪炎寺は机に頬杖をついて尋ねると、風丸は万年の笑みを見せた。
「ああ。この時間の方が、頭がスッキリしていいんだ。夜は部活の疲れが残ってるしな」
「なるほど……」
 豪炎寺は納得して頷いた。
「それにしても、お前。何でベッドじゃなくて、こんな所で寝てるんだ?」
 風丸は首を捻る。豪炎寺はああ、と昨夜遅くまでしていた作業を思い出した。成果は裁縫箱の上に揃えて置いてあった。
「これを作ってた。お前が着れるかと思って」
 豪炎寺は昨日こしらえたものを取ると、風丸に見せた。
「あっ……、それは」
 風丸が声をあげて驚く。豪炎寺が見せたものは、雷門のユニフォームと寸分違わぬものだ。ただし、風丸の体に合わせてかなり小さくなっている。
「これ……お前が作ったのか?」
「ああ。使い古しのユニフォームを使った。着てみろよ」
「あ……うん。でもなんか」
 小さなユニフォームを手渡され、風丸は戸惑った。
「どうした」
「こんなのまで作れるなんて……。お前、ちょっと引く。ドン引き」
 風丸の口から出た意外な言葉に、豪炎寺は思わず驚愕した。
「なっ……、引くって?」
「だってお前。サッカーがすげぇ上手くて、勉強だってそれなりにできて、料理なんかも上手くて、それでコレだろ? ……完璧過ぎなんだよ、お前」
 風丸の最後の言葉には、どこか羨ましげなものがあるのを、豪炎寺は伺ってしまった。
「俺はお前が思ってるほど、完璧じゃないぞ」
 豪炎寺が言うと、風丸は首を傾げた。
「でも、いつだって何でもこなしちまうだろ、お前は」
「何でも出来るようでも、俺が目指す完璧とはほど遠いのさ。だからいつも足掻いてる」
「足掻いてるって。お前が?」
 風丸の問いに豪炎寺は頷いた。
「そんな風に見えないぞ」
「お前から見ると、そう見えるのかもしれない。でも実際は違うし、俺よりももっと上手いやつらだって一杯いる。正直、そいつらに出会う度に、俺は嫉妬してるんだが……」
「お前が嫉妬って。俺ならともかく」
 風丸は自嘲気味にそう言うと、豪炎寺は首を振った。その様に悲しい色が帯びているような気がして、はっと息を呑んだ。風丸はしばらく考えこんでいたが、納得するときっぱりと頭を下げた。
「ごめん。俺ちょっと言い過ぎた」
「いや。謝るほどじゃない」
 豪炎寺はそう言ったが、風丸は首を横に振ると、ユニフォームを手に掲げた。
「せっかくお前が作ってくれたこの服、着てみるよ」
「お前の体に合えばいいんだが……」
 風丸は豪炎寺に背を向けると、まず紺色のハーフパンツ……のようなものを履いた。次にブルーのワンピースを脱ぎ捨てると、襟付きのシャツを着る。長い髪を整えながら振り返った。
「どうだ?」
「うん。結構いいぜ。俺の体にはぴったり合ってる」
「それは良かった」
 豪炎寺はほっと胸を撫で下ろすと、人形の洋服入れに入っていた白のハイソックスと短靴を風丸に渡した。靴の色こそ違うものの、いつも通り部活で見る姿になった。ただ一点の違いはあったが。
 手ぐしで髪を整えながら、風丸は自分の格好を確認した。
「髪をどうかしないとな」
「ちょっと待ってろ、風丸」
 豪炎寺は立ち上がると、そっとキッチンに向かった。まだ朝は早いので、家族を起こさないように静かに目的のものを探した。引き出しに小さな輪ゴムがあったのを発見し、急いで引き返す。
「これ、良かったら使え」
「ありがとう。助かる」
 風丸が受けとった輪ゴムを使って器用に髪を結び上げる。ぱちんと音を立ててまとめると、その蒼く長い髪は風丸が頭をさっと振るだけで、さらりと流れる。本当に、普段見慣れた風丸の姿だ。
「やっぱり、その格好の方が良いな」
「パンツがないから、ちょっと収まりがアレだけどな」
「下着の件はいずれ何とかする」
 豪炎寺が手をついて頭を下げると、風丸は慌てて両手を振った。
「ああ! そんなこと気にするなって。あんまり注文つける立場じゃないしさ」
 風丸は机から椅子を伝って軽々と飛び降りると、おもむろに床を走り始めた。
「何をやってるんだ?」
「ランニングだよ。日課の」
「ああ。そうか」
 豪炎寺は納得して風丸が床を走るのを眺めていたが、ついつい、あくびが出始める。それをかみ殺していると、風丸が呼びかけてきた。
「眠いんなら、軽く寝といたらどうだ? 時間が来たら、起こしてやるから」
「ああ、頼む」
 豪炎寺は風丸の申し出に甘えて、ベッドに潜ると横になった。部屋の中にはカーテン越しに朝一番の光が差し込んだが、昨夜遅くまで作業していた豪炎寺にはそれよりも睡眠を貪る方が大事だった。まぶたは次第に重くなり、豪炎寺の意識からは外の様子への興味が消えてゆく。

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「お兄ちゃん。お兄ちゃんってば!!」
 豪炎寺が次に目を覚ましたのは、7時を回った頃で起こしに来たのも、風丸ではなく夕香の方だった。
「起きてー、朝だよー」
 目をこすりながらまぶたを開けると、風丸の姿が見えないことに豪炎寺は動転した。
「あっ……!」
 風丸は!? と夕香に訊こうとして、豪炎寺はもう少しでとんでもない過ちを侵すところだったと気付いた。
「お兄ちゃん、遅起きだよー」
「……すまない、夕香」
「朝ごはん、できてるからねー」
 妹はそう告げると、ぱたぱたとスリッパの音を立てて部屋を出て行った。彼女が出て行くのを見計らったように、布団から小さな風丸がひょいと顔を出した。
「悪い、豪炎寺。お前を起こそうとしたら、夕香ちゃんが来たんで、隠れてたんだ」
「そうか。お前が見えないんで、驚いた」
 お互いほっと息をついて、ふたりはベッドから起き上がった。豪炎寺はトイレに行こうとして、風丸にふと声をかけた。
「お前、トイレは大丈夫か?」
 途端に風丸はぷるぷる首を振った。
「ああっ、だ、大丈夫だ、俺。先に済ませろよ、豪炎寺」
 あからさまに慌てた態度を、豪炎寺は不審に思いながら洋式便器に腰かけて思案する。
「あれはどう見ても、我慢してるって顔だ……」
 そう確信すると、豪炎寺はさっさと用を済ませて、風丸の所へ舞い戻った。
「お前の番だ」
 一言告げると、有無を言わせず風丸の体を掴み上げて、トイレへ連れて行った。
「あ……、ありがとう。あとは俺ひとりでやれるから、お前は……外で待っててくれ」
 豪炎寺は何の気なしに尋ねる。
「支えてなくても、大丈夫なのか?」
「だっ、大丈夫大丈夫! だからっ、外で待っててくれ。今すぐ!」
 風丸は青ざめた顔でドアを指差した。却って心配だったが、仕方なく豪炎寺はドアを閉めて廊下で待った。その間、2、3分ほど。
「ごっ、豪炎寺! きっ、来てくれ!」
 悲鳴にも似た声で風丸が呼ぶ。豪炎寺は首を捻りながら、ドアを開けてトイレに入った。
「何かあったのか!?」
 トイレの中を見回してみたが、異変が起きたようには見えない。
「あ、あの。豪炎寺! トイレの水、流して……くれないか。お願いだからっ!」
「ああ」
 何だそんなことかと、豪炎寺は水洗タンクに近寄ると、風丸の声が更に上ずる。
「あっ、中は見るなよ。臭いも絶対嗅ぐなっ!!」
 豪炎寺は口をあんぐりと開け、便器にまたがって……というより、しがみついて、の方が正しかったが……顔を真っ赤にして身悶えている風丸に呆れた顔を見せた。大きく溜息をつくと、水洗コックを回してしゃがみこむ。豪炎寺の目の先にちょうど風丸が座っている。水が流れる音が、狭い部屋の中で響いた。
「お前な。人間なんだから、出すもんは出すのは当たり前だ。多少臭かろうが、それくらいでお前を非難したりバカになんかしない」
「でっ、でも……。こんなの……人前で……」
「だからその程度で、取り乱すことはないだろ」
「う……」
 風丸は返す言葉もなく、うなだれてしまった。豪炎寺は立ちあがると、風丸を掴み上げる。風丸はうなだれながらも、下げていたハーフパンツをいそいそと引き上げた。
 自分の部屋に戻ると、豪炎寺は机の上に風丸を置いてやった。制服に着替え、今度はダイニングに向かう。風丸には、食べ物を持ってくると、言い残して。
 食卓のテーブルで朝食をとっている夕香と、改めて朝の挨拶を交わす。テーブルの上にはサンドウィッチとジュースが用意されていた。ありがたい、これなら風丸も食べやすいだろうと、豪炎寺は安堵した。
 一切れを残してさっさと平らげると、豪炎寺は残ったサンドウィッチを紙ナプキンに包んで、ついでに冷蔵庫を物色して見つけた乳酸菌飲料を掴むといそいそとダイニングを後にすることにした。
「お兄ちゃん、もう食べちゃったの?」
 夕香がきょとんと目を丸くする。豪炎寺は冷や汗をかきながら、
「ああ。残りは宿題をチェックしながら食べる」
と、言い訳した。
 部屋に戻ると、風丸は豪炎寺の机の上でじっと待っていた。もう、さっきみたいに、うろたえた表情は見せない。
「風丸。サンドウィッチ持って来た。あと、これも」
 紙ナプキンに包んだサンドウィッチと、極細のストローのついた乳酸菌飲料を差し出す。
「まあ、一度には食えないだろうが、昼の分もそれで我慢してくれ」
 豪炎寺がそう言うと、風丸はにっこり笑って頷く。
「ありがとう、わざわざ……。すまないな」
「いいんだ。俺は学校行くけど、昼間はフクさんがここを掃除しに来ると思うから、その間は机のどこかに隠れててくれ」
「分かった」
 紙ナプキンの包みを開けて、風丸は中身をぱくついている。豪炎寺はストローを乳酸菌飲料のアルミ蓋に突き刺して、風丸の前に置いてやった。
 壁の時計は8時を差している。できるものなら、このまま部屋で風丸の面倒を見てやりたい、と思いながらも豪炎寺はその気持ちを振り切った。
「じゃあ……。気をつけろよ」
「ああ。いってらっしゃい」
 風丸はぱくついていたサンドウィッチから顔を上げると、大きく手を振った。後ろ髪を引かれる思いを抱えて、豪炎寺は学校へと向う。
 その日は一日中、風丸のことが気になってしまい半ば上の空で授業を受けた。同じクラスの円堂も、どこかつまらなそうな顔をしている。昼になり給食を一緒に摂っていると、ついに円堂は思いきり溜息をついた。
「どうした。メニューが気に入らないのか?」
 気になって尋ねると、円堂は口をへの字にして涙ぐむ。
「違うよ、好物ばっかだしさ。けど、今日は風丸が休みだからさ……。美味いもんも腹に入ってかない」
 円堂の口から出た「風丸」に、豪炎寺は思わず身を固くした。
「あいつ休みなのか?」
「うん。風邪だって。もしかしたらインフルかもしてないって……」
「え? 風丸くん、インフルエンザなの?」
 横から、マネージャーの木野が口をはさんだ。
「そうじゃないかって。だからしばらく、学校もサッカーも休むって……風丸んとこのおばさんが言ってた」
 円堂が木野にそう説明する。ということは、風丸の母親は豪炎寺が言った通りのことを信じたらしい。内心、複雑な思いで豪炎寺はふたりの会話を聞いていた。
「大変ねぇ。それじゃ、今週いっぱいは家から出られないんじゃない?」
「うん。伝染るから見舞いにも行けない」
 そう言うと、円堂は盛大に溜息を吐き出す。
「風丸がいないなんて俺、耐えられるかなぁ……」
「いつも一緒だったものね」
 木野の言う「いつも」には勿論、風丸がイナズマキャラバンで離脱していた時期は含まれていない。あの時は非常事態だったというのもあるが、円堂や木野を含む、サッカー部員みんなの中で無意識にそれを忘れようとしてるのだ。
「あ~あ、つまんないなぁ。早く一緒にサッカーしたいのに風丸……」
「で、でも五日くらいの辛抱でしょ。風丸くんもちゃんと治さないと」
「そうなんだけどさ」
 円堂の一言二言に、豪炎寺は気まずいものを感じた。風丸はインフルエンザなんかじゃないし、手のひらの中に収まるくらい縮んで、豪炎寺の部屋に隠れているのだ。
 6時限目が過ぎて、ホームルームが終わると校内は途端に生徒たちのざわめきで埋め尽くされる。今日は職員会議があるため、部活動は全て休みだ。その所為もあってか、今日の円堂は精彩を欠いているのが、豪炎寺にもありありと分った。
「俺、これから鉄塔広場に直行して、特訓しに行くよ。豪炎寺、良かったらつきあってくれるか?」
 鬱憤を吹き飛ばすかのように、円堂は立ちあがるとそう宣言した。
「あ……すまない円堂」
 普段なら自分もボールを蹴らないと気が済まないのだが、今日はそれどころじゃない。ひとつはどうしても足さなければならない用事があるのと、もうひとつは事実を伏せたまま円堂と一緒にいるのが辛いからだ。
「夕香ちゃんと約束があるのか?」
「まぁ、そんなところだ」
 円堂は自他共に認めるほどのサッカーバカだが、他人の都合を思い図らない奴ではない。豪炎寺がやんわりと断ると、すぐに苦笑いで応じた。
「そっかー、じゃあ仕方ないな。俺、日がくれるまで特訓してるから、都合が良くなったらいつでも来てくれ!」
 曖昧に頷くと、豪炎寺は教室で円堂と別れた。太陽のような笑顔が教室から消えると、ほっと息をついて豪炎寺は授業中思いついたことを実行に移すと決めた。

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 自宅のマンションにはまっすぐ帰らず、豪炎寺は稲妻町の商店街へ足を運ぶ。駅からさほど離れていないそこはアーケード街になっていて、町民にはお馴染みのショッピングゾーンだ。
 商店街は若者向けのファッション店から、老人の憩いとなる和風喫茶まで、それこそありとあらゆる店でひしめいている。本屋、靴屋、八百屋、時計店。揚げたてのコロッケが美味いと評判の肉屋や、ホカホカの湯気を立てた肉まんを売る中華料理店。はたまたその隣には渋い手ぬぐいや扇子などを並べる和装小物店……。電子音が響くゲームセンターがあれば、更には白いフリルのエプロンをつけたメイド喫茶の店員がチラシを配っているという塩梅だ。
 豪炎寺はその中のひとつ、ひっそりと構えている小さな店に入った。ドアベルがちりんと奏でる扉の向こうには、アーケード街とはまるで違う雰囲気を醸し出す空間が広がっていた。
 思わず息を呑む。しんと静まり返った店内は、大小数々の人形がひしめいていた。他にも、豪勢なつくりのドールハウスや人形用の衣服、ミニチュアの家具などが店内の至るところに展示されている。
 豪炎寺は以前、夕香と共にこの店を訪れていた。妹の持っている人形や洋服は、退院祝いとしてここで買ったものだ。授業中、この店のことを思い出した豪炎寺は、ここになら風丸が満足できるものがあるに違いない、と目星をつけたのだ。
 店内を色々見回ってみる。この店には、少女を象った人形だけでなく、凛とした少年の人形もあったはずだ。
「……あった!」
 豪炎寺が目にしたものは、その少年の人形に着せる為の洋服だった。チェック模様のシャツや、コーデュロイのズボン、それに白い下履きもある。豪炎寺はそれを手に取る。サイズといい、申し分ない。ほっとしたのもつかの間、値段を確かめると意外にも人形用の衣服は豪炎寺が思ってる以上の数字が並んでいた。
 制服のズボンのポケットにある財布を握りしめる。手持ちの金では洗い替え用の分までは足りそうにない。溜息をついて、豪炎寺はそれ一枚だけを手にした。
 他にも店内を物色してみると、様々なものがあるのに気付く。この店は人形に関するものはありとあらゆるものを取り揃えているらしく、自分でカスタマイズするための髪の毛まで置いてある。特に豪炎寺の気を引いたのは家具のコーナーで、人形のサイズに合わせた椅子やテーブル、食器などの小物だった。
 陶磁でできたテーブルセットは宮廷貴族の食卓のよう。モダンなデザインの椅子は60年代風だ。ごく小さな食器の一揃いを眺めて、これを使えば風丸も不自由しないのでは、と思い馳せた。ああどうせなら……。
 豪炎寺は思わず便器はないのかと店内を探してみて、流石にそんなものまではないと気付いた。それはそうだ。ここにあるのは、飽くまで人間を模したものたち。無機質な体は食事を摂らないし、排便なんかするわけがない。埃はつくだろうが、風呂で汗を流すことさえないのだ。
 豪炎寺は店内の棚いっぱいに並べられた人形たちを仰ぎ見た。青や茶色や緑のガラスをはめこんだ瞳が一斉に豪炎寺を見たが、どれもこれも魂を感じさせない。
 風丸は、違う。
 風丸は息をして、鼓動をたてて、ものを食べ、歩いて、走って、時折悲しい顔をして、そして豪炎寺に笑いかける。
 人形とは違うのだ。
 触れると温かい肌を持ち、乱暴にすれば怒るし、優しく扱えば感謝の眼差しで見てくれるのだ。
 豪炎寺は、もっと風丸を理解してやらなければ、と思った。今の風丸の気持ちを分かってあげられるのは、自分しかいないのだから。
 そこまで考えると、豪炎寺は手にした下着をレジに持って行った。とりあえず、これだけは買っておこう。これは今、風丸に最も必要なものだ。
 ひしめく人形の森を抜けて、レジにたどり着いた豪炎寺は、そばの丸いテーブルに展示されてる、値引き処分品の木製の椅子に目を止めた。それはごくシンプルな作りだったけれど、風丸が座るのにちょうど良さそうだ。値段も手持ちの金で充分足りる。
「これ、下さい」
 レジにいたゴシックな成りの店員に、豪炎寺は声をかけた。


 風丸が自分がかなりの間寝ていたのと気づいたのは、もう陽が真上にある頃だった。豪炎寺が登校してすぐに、フクさんが部屋の掃除に来たので、食いかけのサンドウィッチと一緒に自分も机の棚に隠れているうち、ついうっかり寝てしまったのだろう。
 部屋の中は陽光で明るい。そして誰もいない所為か静かだ。窓の外を小鳥のさえずる声だけが聞こえている。
 風丸は机の上に這い出ると、残りのサンドウィッチを引きずりだして食べようとした。寝ていただけなのに、腹がどうしようもなく減っている。ストローを差した乳酸菌飲料に口をつけた。喉もかなり渇いている。
 サンドウィッチを食べ尽くして、飲み物もあるだけ飲んで……。風丸はふと机のを見回すと、飾ってある写真立てに目を奪われた。今の今まで気がつかなかったが、写真立ての中身は一枚の家族写真だと気付いた。手前にいる髪を立てた小さな男の子は、幼い頃の豪炎寺だ。サッカーボールを手で抱えている。右奥にいるのは風丸も見覚えのある男性で、浅黒い肌に太めのフレームの眼鏡が印象的だ。この人は豪炎寺の父親で稲妻病院に勤務している外科医……だが、風丸の知っている医師はいつもしかめ面で、写真の様に優しそうな笑みは見せたことがない。
 その左にいるのは見たことのない女性で、栗色の長い髪を肩口でふんわりと前にまとめて垂らしている。腕にはピンク色の産着を着た赤ん坊を抱いていた。柔和そうな笑顔がこの家族を微笑ましく見せていた。
「この人は……」
 風丸は首を傾げた。多分、彼女は豪炎寺の母親なのだろう。だが、昨日と今朝にかけてこのマンションにいたが、この人の存在を感じたことはなかった。
 写っていて風丸に分かるのは、幼い豪炎寺とまだ乳児だろう彼の妹。笑っている医師。
 ──ああ。そうか……。
 風丸は彼女が既にここにいない存在なのだと悟った。そう言えば、部活の時など、仲間たちが母親の話題を口にするのに、豪炎寺だけは……正確には鬼道も、だがそれは彼が実の両親を亡くしているのが暗黙の了解だからだが……、母親の話だけは絶対にしないという事実をなんとなく気付いていたのだが。
「あいつ……」
 風丸は複雑な思いで写真を見た。写真立てを前にして、机に腰をおろす。頬杖をついてじっと豪炎寺のことを考えているうちに、再び眠気が襲ってきた。
「あ、ヤバい……」
 このまま眠っては、大変なことになる。そう、頭の中で分かっているはずなのに、いつの間にか風丸は眠りの世界へ旅立っていた。


 人の気配がする。
 風丸は自分の体が誰かに触られている、と感じ薄目を開けた。
「わぁ!」
 びっくりして思いきり目を開ける。目の前に女の子の顔がある。その顔の作りは豪炎寺にとても良く似ている。
 夕香ちゃんだ、と気付いた瞬間、風丸はマズいことになった、と冷や汗をかいた。
「すごーい! このお人形、目を開けるんだぁ!」
 幸いにして、夕香は風丸をただの人形と思いこんでいる。このまま人形のふりをしていれば、大ごとにはならないだろうと踏んだ風丸は、身を硬くして成り行きを見守ることにした。
「でも……。なんでお兄ちゃんお人形なんか持ってるのかな? それも風丸お兄ちゃんソックリだし……」
 夕香は首をひねった。引きつりそうになる顔を必死に保って、風丸は彼女にバレないようにと、祈るしかなかった。
「ま、いっかぁ!」
 夕香は頷くと、それ以上詮索するのはやめて風丸を机の上に戻し、部屋を出て行ってしまった。
「はぁー……。あせった」
 彼女が出て行ったと同時に、ほっと息をつく。風丸は天井を仰いで大事に至らなかったのを実感した。
 それもつかの間。
 再び可愛らしい足音が部屋へと近づく。びくんと風丸は動きを止めた。ドアを開けて入ってきた夕香は、手に亜麻色の髪の少女人形を手にしている。にこにこと笑いながら彼女は、その人形を風丸の隣りに並べた。まだ机の上に置いてあったままの洋服入れの中を覗いて、
「う~ん……」
と、首を傾げる。少々考えあぐねた挙句、ひと揃いの服を取りだすと風丸の体に当てた。その服は昨日、風丸が最初選んだもので、クリーム色のベストに白い開襟シャツ、短めのプリーツスカートが学生服のように見える。夕香はそれが風丸によく似合うと確かめると、にっこり笑った。
「うん。これ!」
 彼女は服を机に置くと、今度は風丸が今着ているものを脱がしにかかった。
 やめてくれっ!!
 そう叫びたかったが、そんなことを言おうものならば、大変な騒ぎになるのは日の目を見るより明らかだ。だが、今、風丸は下着がないので素肌の上に直にハーフパンツをはいている。いくら夕香が幼い少女だとして、裸の下半身を見られるのは恥ずかしい。ただでさえ、女物の服を着せられるのは嫌でしょうがないのに。
「んん~。この服、ぬがせずらーい」
 夕香は風丸のユニフォームをまくりあげ、ハーフパンツを指でひっぱって脱がせようとしている。風丸は必死に体を動かさないまま、脱がされないように抵抗するしかなかった。
 風丸の窮地を救ったのは、玄関から響いたチャイムだった。きっと豪炎寺が帰ってきたに違いない。
「あっ!」
 夕香もぱっと顔を輝かせると、風丸を手にしたまま、廊下へ飛び出す。キッチンで食事の支度をしていたフクさんがいそいそとやってきた。
「あっ。おかえりなさい、……お父さん」
 ドアを開けて入ってきたのは、豪炎寺ではなく彼の父親だった。
「ただいま、夕香」
 豪炎寺の父は夕香の頭をそっと撫でる。ふと視線を下に落とし、彼女が手にしているものが見覚えのないものだと気付いた。首を捻ると、父親は娘に尋ねた。
「夕香。その人形はどうしたんだ」
「あっ。……ううん、ちがうの。これは……お兄ちゃんの」
 夕香はしどろもどろになって、父親に答える。
「修也のだと!?」
 娘の答えに、豪炎寺の父は眉をひそめた。
 豪炎寺が帰宅したのは、その最悪な状況が起きていた時だった。風丸が喜ぶだろうと、買ったものを大事に抱えて帰った豪炎寺は、自分がいない間に大変な騒ぎになっていたとは思いもよらなかった。

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 玄関に入るなり、父の厳格な声が呼ぶ。
「修也!!」
「父さん? おかえりなさい」
 父がいつになく怒りを露わにしていることに豪炎寺は内心、不穏に思った。
「これは一体なんだ!?」
 父の手に風丸が握られているのを発見した時、豪炎寺は血の気が引くのを感じた。
「それは……」
 握られながらも、目が合うと風丸は豪炎寺に合図を送ってきた。真実を話すのはダメだ、と。豪炎寺は頷いて、何とか父を説き伏せようとした。
「これはお前のだな?」
「……はい。返してくれませんか?」
 豪炎寺はまっすぐ父親の顔を見上げる。だが、父は却って怒りを募らせた。
「お前が、こんなものをか?」
「俺にとっては、とても大事なものなんです。返して下さい」
「修也!」
 激昂が廊下に響いた。フクさんはオロオロとふたりの間で気を揉んでいるし、夕香は今にも泣きそうな顔をしている。豪炎寺はただひたすら、口元をひきしめて父を見上げている。
「お前はなんだというのだ。いつまでも球遊びに興じているかと思えば……。私はな。お前を中学生にもなって人形遊びをするような息子に育てた覚えはない!!」
 豪炎寺の父は腕を振り上げた。手の中の風丸を見ると、ぐっと指に力をこめる。
「やめて下さい! それは、風丸は俺の、大事な……!」
 豪炎寺は血相を変えて父にすがりついた。振り払うように、父は叫んだ。
「こんなもの!!」
 だが、豪炎寺の父が次に見たものは、自分の手の中にある『人形』がうめき声をあげる光景だった。
「ううあっ……!!」
「父さん!」
 手の中の人形は苦しみもがいて、掴んでいる手の甲に爪を立てている。父はそれをあり得ないものと認識した瞬間、得体のしれない畏怖から思わず自分の手から「それ」を振り落してしまった。
「風丸!!」
 豪炎寺は振り落とされた風丸を、慌ててダイビングキャッチした。上手いこと床に落ちる前に、手のひらに救出する。手の中に風丸がいると分かり、豪炎寺は安堵した。
「大丈夫か? ケガはないのか?」
「う……うん」
 だが、風丸はぐったりとして豪炎寺に体を預けている。目の前が青ざめるのを感じた。そこへ豪炎寺の父が、信じられないもの見るような顔をして尋ねる。
「修也。これは一体、どういうことなんだ……?」
 隠し通すことを諦めた豪炎寺は、父親に今までのいきさつをかいつまんで説明した。夕香はまだぐったりしたままの風丸を、両手でさすっている。
「ごめんなさい……。ごめんなさい」
 夕香は目に涙の粒を浮かべている。風丸は彼女を見上げて、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫……だから」
 豪炎寺の父が、それを見やって深い溜息をついた。
「修也。なぜお前は最初から私に話さなかった?」
「でも父さん。俺が、風丸がいきなり小さくなりました。と言って、信じてくれますか?」
「それは……」
「俺だって、信じられません。でも、風丸があんな姿になったのは事実です。黙って俺の部屋に連れてきたのは、悪かったと思います。けれど仲間が困ってるのに、俺は何もしないままでいるのは……」
 そこまで説明すると、豪炎寺の父は立ちあがった。夕香の元にいくと、両手で撫でさすっている風丸に手を伸ばした。
「貸しなさい、夕香」
 夕香はたじろいだが、すぐに言う通りに風丸を手渡した。父は風丸の体じゅうを調べると、着ているユニフォームをめくった。
「と、父さん!」
 豪炎寺が止めようとしたが、険しい顔がそれを阻む。
「これでも私は風丸くんの主治医だ。患者の容態くらい私が診るべきだろう」
 一ヶ月以上も前、風丸が福岡から稲妻病院に転院した時、担当していたのは豪炎寺の父だったことを豪炎寺は思いだした。
「ふむ……、骨折は見あたらない。チアノーゼは出ていないようだが。風丸くん、痛みはないかね?」
 豪炎寺医師は風丸の体のあちこちを指で揉むように確かめると、そう尋ねる。風丸は首を振った。
「少し息が苦しいだけです」
「一時的に呼吸困難になった所為だな。……風丸くん、済まなかった。もう少しで君を死なせてしまうところだった」
 沈痛な面持ちで豪炎寺の父がそう言うと、風丸はもう一度首を振った。
「いいえ。先生の気持ちはわかります。でも豪炎寺は悪くないです。豪炎寺はずっと俺を守ってくれました」
 豪炎寺の父は黙ったまま風丸の服を整えると、そばでじっと見守っている豪炎寺に振り返った。
「修也。風丸くんのご両親には連絡はしたのか?」
「はい」
「私から改めて話したい。連絡先を教えてくれ」
 父が風丸の体を手のひらに横たえて豪炎寺に手渡した。風丸と顔を見合わせたが、頷いて返したので、豪炎寺は夕香に彼を託すと自分の部屋へ行った。風丸のカバンから携帯を取り出し自宅の番号メモリを探す。リビングに戻って携帯を示すと、豪炎寺の父は電話をかけはじめた。
 結局、豪炎寺の父は風丸の親に真実を話すことはなかった。但し風丸の体調を彼が管理することになり、毎日決まった時間に診察すること、という条件をつけられた。
「風丸くんのケースは非常に稀だ。しばらく私が様子を見ることにする」
「父さん。それでは……」
「ああ。風丸くんはうちで預かる」
 豪炎寺と風丸は父親の言葉を聞き終えると、互いに喜びあった。もちろん、妹の夕香も嬉しそうにはしゃいだ声をあげた。
 その日、風丸は豪炎寺一家と共に夕食をとり、隠れることもなしにのんびり風呂に入った。フクさんが風丸のために急ごしらえの寝床を用意してくれたし、昨日よりはぐっと快適になったので、豪炎寺も心配するようなことが減ってほっと胸をなでおろした。
 宿題をすませて明日の用意をしていると、机の上で豪炎寺が買ってきた椅子に座っていた風丸がくつろぎながら話しかけてきた。
「豪炎寺、俺さ。お前の家族にバレてかえって良かったって思うよ」
「そうか?」
 豪炎寺が返すと風丸はこくんと頷く。
「みんな、俺に良くしてくれるしな。夕香ちゃんに見つかったときは、どうなるかと思ったけど」
 風丸は自嘲気味に微笑むと、ひざの上にひじを乗せて頬杖をつく。
「それと……ありがとうな。わざわざ俺のために買ってくれて」
 風丸は座っている椅子の背を手でぽんと叩く。
「お前の下着を買わなきゃならなかったし、それはついでだ」
「俺、気に入ったよ、これ。いつかお前が気にいるもの買って返さなくちゃな」
 そう言うと、豪炎寺は首を振った。
「いや、気にするな。お前が今しなくちゃいけないのは、元の体に戻ることだ」
「元の体か……」
 風丸は窓の外を仰ぎ見て、つぶやいた。外は夜もふけて、月が冷たい光で煌々と町を照らしている。
「そうだ。しばらくは俺とうちの家族がお前を守ってやるから、そこは心配ない。今度はなんとか元通りになる方法を見つけよう」
 豪炎寺が言うと、風丸はほんのちょっと考え込んだが、すぐにゆっくり頷いた。小さな顔に伏せたまぶたは長いまつ毛で飾られていて、それが豪炎寺には夕方あの店で見た人形のように見えて、ぎくりと冷たいものが胸をよぎった。
 いいや。風丸は生きている。
 人形の訳がない。
 そう思い直すと、勉強机の椅子から立ち上がった。
「もう寝よう。とりあえず明日から一緒に考えよう」
「そうだな」
 風丸を寝床に運んであげてから、豪炎寺も自分のベッドに潜り込む。枕に頭を乗せて、だが、本当に風丸を戻す方法があるのだろうか……と考えているうち、深い眠りについた。


 その夜ふたりが寝静まったあと、豪炎寺の部屋を父はそっと覗きこんだ。ベッドのそばにつくられた小さな寝床に、人形のように小さな風丸が寝返りを打つのを見て、父はひとりごちる。
「信じられん……。こんなことが人体に起こるものなのか……?」

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~三日目~


 豪炎寺は迷っていた。
 風丸を元の体に戻す方法…なんて、いくら考えても頭に浮かばない。ベッドの上に座り、天井を見あげる。思わず吐きだす溜息を、そばに同じように足を投げだして座ってる風丸が、浮かない顔で見た。
「詰まってるな。お前」
 豪炎寺は頷くと、 風丸を手のひらに乗せて胸元に運んだ。
「お前を早く元に戻してやりたい。……そう思ってるんだが、なかなかその方法が見つからない」
「……ごめんな」
 豪炎寺が頭を抱えてると、いきなり風丸はそう言い出した。
「お前は俺のために色々考えてくれてるのに」
「いや。これは当然のことだと思ってる」
 豪炎寺が首を振ると、風丸はにっこり笑いかけた。
「そうだ。気分転換にいいことしてやるよ」
「いいこと、ってなんだ?」
 そう訊くと風丸は、豪炎寺の手からひざの上に滑りおりると股間に手を伸ばしてくる。
「気持ち良くなるようにさすってやるよ。こういう時はすっきりするのが一番なんだぜ?」
「風丸……お前!」
 豪炎寺は慌てて首を横に振った。風丸はそれに構わず、両手をスウェットの布地の上からしごくように撫でつける。
「これはお礼だよ。今の俺にできることなんてこれくらいだしさ。遠慮するな」
 触られた部分からせりあがる悦楽はとても心地よい。だが、豪炎寺は必死にそれを受けいれるまい、とした。
「ダメだ……風丸」
「……豪炎寺!」
 耳元に聞こえる風丸の声と、ぺちぺちと誰かが自分の頬をつつく感触に、豪炎寺は我に返った。
「豪炎寺、大丈夫か?」
 目を開けると、風丸が相変わらず小さいままの姿で、心配そうに自分の顔を覗きこんでいる。豪炎寺は寝ぼけまなこをこすった。
「お前、うなされてたんだぜ。だから起こしたんだけどさ」
「そ、そうか」
 どうやら眠りから覚めたらしい。風丸の反応からして、あれは夢か。
「よっぽど怖い夢見たんだな。どんなのだよ?」
 何の気もなしに風丸は尋ねてくる。豪炎寺は夢の中での強烈なイメージと現実の違いに困惑しながらも、風丸に本当のことなど言えるわけもなく、
「さあ……どうだったかな」
と、忘れた振りをした。
「なんだよー」
 苦笑いすると風丸は、もう朝食ができてると告げた。
「俺、お前のお父さんに体を診てもらわなきゃならないから」
 風丸はそう言うと、ベッドから滑りおりて部屋の外で待っているらしいフクさんの元へ走っていった。豪炎寺は起きあがると、大股で部屋を横切りトイレに閉じこもる。
 なんて夢だ。俺は無意識下で風丸をあんな欲望の目で見ていたのか?
 便器に腰かけて豪炎寺は頭を掻きむしった。
 そんなはずはない。あくまで風丸はサッカー部の仲間。
 第一あいつはれっきとした男で……。
 確かに、最初あいつを見たときは、一瞬女子かと見間違えそうになった。でもそれは、他の……サッカー部だけでなく他の同級生にも同じようなやつがいるとは聞いているし、風丸の髪型を見ればそう思いこむのも仕方がないだろう。
 でも風丸の性格を知れば、全くそうじゃないと誰もが分かる話だ。
 だが、己の股間は朝特有の、いきり勃つ兆しを見せていることに、豪炎寺は舌打ちする。
 豪炎寺は盛大に溜息をついた。
 あれは夢だ。単なる夢。
 それにこれはただの生理現象であって、夢のことなど関係はない。
 昨日だって一緒に風呂に入ったが、風丸の裸を見ても、別に興奮も何もしなかった。
 連日の、風丸が小さくなってしまったという非日常のせいで、疲れてるんだろう。
 豪炎寺はそう思い直すと、済ませるものを済ませてトイレを出た。洗面台で冷たい水で顔を洗うと、やっといつもの冷静さを取り戻した。
 服を着替え、風丸や夕香と共に朝食をとる。風丸は昨日よりも生き生きとしていて、これはやはり隠れてこそこそする必要がなくなったからだろうと、半ば安心した。
「それじゃ、行ってくる。風丸、何があるかもしれないから、気をつけろよ」
「ああ」
 後のことをフクさんに託し、豪炎寺は登校することにした。
 外へ出ると空はうららかで、気分のいい朝だ。澄んだ空気を吸いこむと、朝見た、淫らな夢のことなど遠いものに思える。豪炎寺は幸いにと、夢のことを頭から追い出した。そんなものでいつまでも気を揉む必要はないのだ。
 今考えなくてはならないのは、風丸の体を元に戻す方法。そっちの方が問題なのだから。
 朝のホームルーム前の教室は活気があり、クラスメイトたちのざわめきで満ちている。豪炎寺が席に着くと、斜め向かいの席で円堂が背中を丸めて溜息をついていた。昨日の円堂を思えば、未だ病欠中の……ということになっている風丸が気にかかっているのだろう。
「円堂」
 思わず寂しげな背中に呼びかけて、豪炎寺はためらいがちに円堂の顔を見た。
「豪炎寺。……おはよう」
 円堂は背中を丸めたまま、返答する。
「円堂。あのな」
 こんな消沈している円堂を見ていると、やはり風丸のことは話しておいた方がいいんじゃないかと豪炎寺は逡巡しはじめた。
「ん? 何だ」
 円堂が振り向く。言うのなら今がチャンスだ。円堂なら一緒に風丸を元に戻す方法だって考えてくれる。今のうちなら……。
 けれど、鳴り響くチャイムが豪炎寺の決心を揺るがす。
「どうした豪炎寺?」
「いや。……何でもない」
 一千一隅のチャンスをのがした豪炎寺は、円堂に手を振って席に座る。円堂は首をかしげたが、教室に入ってきた担任に気を取られて、結局はそのまま授業を受けた。

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 授業を終え、待ちに待った部活の時間。一日振りのサッカー部は、いつもなら活気あふれているはずが、部員たちの中には微妙な雰囲気が流れている。
 円堂が自分の気持ちを振り払うようにカラ元気な声を出している、のはまだいい。2年生の一部はどこか寂しげだし、1年生に至ってはすっかり意気消沈している。
「一体、どうしたのよ。今日のみんなは覇気がないんじゃない!?」
 マネージャーの夏未が練習中のサッカー部を見て、ぷりぷり小言を言っている。同じくマネージャーの木野と音無が顔を見合わせた。
「さ、さぁ……。おとついまではいつも通りだったんですけどねー」
 今日の、いつもとは違う点はたったひとつしか彼女たちは知らない。
「風丸くんがお休み……だからじゃないかしら」
「風丸くん、休みなの? だったらなぜこんな状態なの? どうして?」
「どうして、って言われても……」
 木野は困り顔を夏未に見せるだけだ。
 部員たちに流れる沈んだ雰囲気は、いつしか一部に苛つきを生じさせた。
「お前ら、たるんでるぞ! 特に1年! 気合入れろ、気合!」
 ついの言葉が出たのは、染岡だった。やり玉に挙げられた1年生からは、ため息ともつかない息がもれる。
「だってしょうがないじゃないですか。何だか分からないけど、そういう気分にならないんですから」
 宍戸がぶつくさと言うと、余計に染岡は怒りを募らせる。
「気分にならないって、どういうこったぁ!?」
 グラウンドに鳴り響く怒号に、1年生たちが
「ひいっ!」
とおののいた。流石に他の2年生たちが何事かと駆けつけ、円堂のとりなしで一旦休憩することになった。
「でもそういや、今日はなんだか活気がないよな」
 半田がドリンクで喉をうるおしながら、円堂に同意を求めた。
「ん~……。そうか?」
 問われた円堂もどこか生返事だ。
 豪炎寺にはその原因が分かっている。何せ、教室での円堂をよく見ているのだから、分からない訳がない。風丸が休んでいる所為だ。
「とか何とか、平気なフリしちゃってキャプテン。僕には分かるよ」
 松野が黒目がちな瞳を円堂にじっと向けた。
「な、なんだよマックス」
「しらばっくれて……。風丸の所為でしょ。か・ぜ・ま・るの」
「うっ」
 と円堂が図星をつかれて、ドリンクを取り落としそうになる。と同時に、1年生たちがしゅんと肩を落とした。
「風丸は確か、今週一杯休みだったな」
 鬼道が確認するように尋ねる。
「インフルエンザだっけ?」
「まだ流行る時期じゃないのにな」
 風丸と同じクラスの土門が言うと、一之瀬が首をひねった。ずっと聞いていた豪炎寺は、胸の内に不味いものを感じた。
「……流石、風丸くんだ。流行に乗るのも早い……」
 影野がぼそりとつぶやいたので、部員たちはがくりと顎を落とした。
「笑いごっちゃねぇぞ!」
 と染岡が怒鳴ったが、みんなが噴きだしたので、豪炎寺は逆に安堵した。
「ってか、マックスの言う通りだ。円堂! 1年がたるんでるのも、お前が気合入ってない所為じゃないか!」
 染岡に指摘され、流石に円堂は溜息をもらして頭を掻いた。
「う~……悪い。みんなの言う通りかも」
 1年生たちも一緒になって溜息をつく。
「そうッスよ。風丸さんがいない所為か、なんか張りあいないッス」
「いつもなら、風丸さんが俺たちの面倒見てくれるんですけどね……」
 それを聞いて、染岡が呆気に取られた顔をした。
「お前ら、風丸、風丸って……。あいつはお前らのおふくろじゃねぇぞ」
「おふくろって……」
 土門と一之瀬が顔を見合わせて、堪えきれずに苦笑いした。すると、練習中の頃からひっそり虚しい顔を見せていた栗松がいきなり悶えるように体をねじりだした。
「うう……体が……燃えない、でやんす」
「おいおい」
 半田が大丈夫かと、栗松の目の前で手を上下に振ってみせた。
「まあ、言われてみれば1年生の面倒って、たいてい風丸くんが見てましたねぇ……」
 目金がかけている眼鏡のフレームを人差し指で直しながら、みんなに同意を求める。他の部員たちも思い当たることがあるのか、一斉に頷いた。
「風丸がおふくろかぁ~。言い得て妙だな」
 誰ともなしにそんな声が聞こえる。だが円堂は首を横に振った。
「俺、風丸をそんな風に思ったことないぜ」
「またまた。キャプテンは自覚ないだけだよ」
 松野がにやにや笑みを浮かべる。
「おふくろかどうかは兎も角、円堂が風丸を頼りっぱなしなのは、確かだな」
 鬼道がきっぱりと、そう言う。流石に円堂は反論し始めた。
「鬼道までそんなこと言うのかよ。俺、風丸を母ちゃん扱いなんかしてないし、あいつの負担になることなんか、何も……!」
「って実際、何かあれば風丸、風丸って飛んでいってるだろうが」
「帝国と最初に試合やる時だって、真っ先に風丸に助っ人頼みに行ったんじゃなかったっけ?」
 染岡と半田が矢継ぎばやで言うので、円堂はしどろもどろになった。
「そ、それは……」
「そうそう。前に風丸、夏休みが終わるたびに宿題手伝わされるってボヤいてた」
「なんだそりゃあ」
 部員たちの間で、笑いが起こる。
「でもさぁ。このままだと、風丸は一生キャプテンの面倒することにならない?」
「え~。そんなことないって」
 円堂が否定の意味で手を横に振ったが、部員たちの視線は有無を言わせなかった。
「おい、円堂。風丸のことも考えてやれよ。お前の面倒見てばっかじゃ、あいつ一生結婚するどころか女のひとつも作れなくなるぞ」
「結婚、って。まだ俺もあいつもそんなこと考えんの早すぎだろ」
 円堂が苦い顔をすると、松野が溜息ともつかない息を吐きだして肩をすくめた。
「甘いね、キャプテン。風丸は特に奥手なんだから。だったら、もしも風丸が大人になっても彼女もいないようなら、責任とってキャプテンがお嫁に貰ってやれば?」
 松野が言い終わると、一瞬仲間たちが口をつぐんだ。しんと静まり返ったかと思えば、すぐに爆笑の渦が起こった。
「ないない! それはないっ!」
「も~。お前ら、風丸が休みだからってここぞとばかりに笑い話にするなよ~!」
 ひどい冗談で盛り上がっている一同を尻目に、栗松がつぶらな瞳をうるうると潤しながらひとりごちた。
「……風丸さんがお嫁さん……。いいでやんすね~」
「え」
「風丸さんのことだから、さぞかししっかり者のお嫁さんでやんしょね。羨ましいでやんす!」
 部員たちが思わず黙り込む。栗松がぽっと頬を染めながら夢見るように宙に視線を漂わせてるので、みんなは更に顔を引きつらせた。
「お……おい、栗松。マジで言ってんのか、お前?」
「俺は本気でやんすよ!?」
「まさかお前、……風丸で“抜いて”たりしねぇだろうな?」
 染岡が青ざめた顔で尋ねると、栗松は血相を変えた。
「なっ、なに言うでやんす! 神聖な風丸さんでそんなことするワケないでやんすよっ!!」
「『神聖』っていうか、『真性』だなこりゃ」
 みんなが絶句してる中、土門がオーバー気味の仕草でそう言う。他の部員たちがすっかり引いている中、一番小柄な少林寺だけが首を傾げている。
「ねぇ、“抜く”って何のこと?」
「少林はまだ知らなくていいよ……」
 宍戸が慌てて首を振っていると、一之瀬がにっこり微笑みながら栗松の肩にぽんと手を置いた。
「大丈夫だ、栗松。日本じゃまだムリだけど、アメリカでは州によっては同性婚が認められてるから、将来のことは安心していいよ」
「お、俺はホモじゃないでやんす!」
「一之瀬、空気読めよ~」
 一部に不穏な空気が流れる中、半田がとりなすようにみんなに落ち着けと両手で合図をかけた。
「ま、まあさ。もうやめようぜ、この話題! っていうか、こんなとき諌めてくれるのって風丸の役目だったよな……」
 半田が何気なく言った言葉に、一同ははっとなった。
「そう言えば風丸がいるときはこんな話題なんて出なかったよな」
「自然とそうなるカンジッスよね」
「俺たちも、1年の面倒は風丸はやってくれるから、ってあいつに任せっきりだったかもな」
 それぞれの口から、ぼそりと気づいたことが出る。鬼道が厳かな顔でみんなを見回した。
「なるほど。風丸が休んだことでやっと俺たちは自覚できたのか。あいつがこのチームの潤滑剤だったと」
 チームのみんなそれぞれが、風丸の不在で彼がどんなに必要不可欠だったかを思い知る。一同にしんみりとした空気が流れた。
「円堂だけじゃない。俺たちも風丸離れする時が来たという事だ。あいつがいない時でも、このチームを滞りなく活動させるのが俺たちの務めだ。風丸がしていた仕事は他の奴がフォローしなければな」
 鬼道が宣言すると、みんなも理解したのか頷いて応える。だが、円堂だけは首を振った。
「でも、風丸の代わりになれるのは、風丸ひとりだけだぜ。おんなじように鬼道は鬼道だし、豪炎寺は豪炎寺だよ。他のみんなだってそうだ」
 円堂の言葉に、鬼道は
「違うぞ、円堂」
と苦く笑う。
「風丸がしていた事をひとりで肩代わりする訳じゃない。ひとりの分の穴埋めはみんなでカバーしようという話だ。試合の時だって、同じ様にひとりが抜けた時は全員でカバーするだろう?」
 サッカーで例えられて、さしもの円堂も鬼道が言っていることを理解できた。
「そっか。そういうことか」
 すぐれなかった顔色にさっと明るい色が混じった。
「ま、風丸がいない間にガンガン練習して、あいつを驚かせてやろうぜ!」
 染岡が己の頬をてのひらで喝をいれる。
「風丸が来れるのっていつだっけ?」
「ん~。来週の頭には登校できるはずだけど」
 半田の問いに、円堂は指を折って数えた。
「そんなにかかるか」
「そんなトコだろ」
 首を捻る半田に染岡が腕組みで答えると、出し抜けに一之瀬が切りだした。
「それにしてもこの時期にインフルエンザって、風丸も災難だよな。もしかしてインフルじゃなくて、エイリア石の影響が今頃出たとか?」
 苦笑しながら言う一之瀬に、部員みんなの顔が凍りついた。土門が慌てて一之瀬の口をふさぐ。
「く、空気読めよ、お前!」
「なんだよ。ただのアメリカンジョークだろ」
「笑えないんだよ、それ」
「……そんなワケない」
 円堂の口から、わなわなと震える声が響いた。
「エイリア石は俺が壊した! あんなものに風丸がまた囚われることなんて、ゼッタイないっ!!」
 下ろした拳が震えている。円堂の顔は引きつって、わなないている。それを見て、一之瀬が周りを気にしながら肩をすくめた。
「で、ですよね~……」
 一之瀬の頭を手で下げさせながら、土門がとりなすように言った。

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 一悶着はあったが、その日の練習はいつも通りに終わった。練習が終わる頃には、部員たちの気持ちも落ち着いて、
「今日は目一杯練習したから疲れたな」
「明日もガンバろうぜ」
などと声が出ている。
 豪炎寺が重い気分で制服に着替えていると、円堂が気遣うように話しかけた。
「豪炎寺……。今日、具合でも悪いのか?」
「いや、別に。どうしてだ?」
 訊き返すと円堂はほっとした顔で答える。
「今日のお前、なんか塞ぎこんでるみたいだからさ。でもなんともないんだよな。良かった」
 太陽のような笑顔は、豪炎寺の心を見透かしてるみたいに感じ、胸が焦げる思いがした。豪炎寺は円堂に顔を背ける。
「ちょっと疲れてるだけだ」
「そうなのか? 気をつけろよ」
 その時、すぐそばで制服に着替え終えた土門が、カバンを肩にかけようとしてあっと声をあげた。
「いけね。担任から風丸にプリント渡しといてくれって言われたんだけど、俺、風丸ん家がどこだか知らないんだよな」
 額を長い指でかきながら、土門は弱った顔をした。土門は風丸と同じクラスなので、頼まれたのだろう。
「ああ。それなら俺が渡しとく」
 土門からプリントを受け取ろうとした円堂の手を、豪炎寺は払いのけた。
「俺がやろう」
「豪炎寺?」
 円堂はきょとんとした目で、土門からプリントを奪い取る豪炎寺を不思議そうに見た。はっと豪炎寺は身をすくめる。
「どうせお前はいつもみたいに、鉄塔広場で特訓するつもりだろう? それに俺の方が風丸の家に近い」
 豪炎寺がそう言うと、それを聞いた円堂は照れ気味に笑った。
「ああ! そうなんだよ。じゃあ、頼むぜ」
 実際のところ、そんなのはとっさについた言い訳だった。円堂が自分に信頼を寄せてるのが、却って気に重い。
「あれ、でも豪炎寺。お前、風丸の家がどこか、知ってたっけ?」
「あ。……ああ」
 知ってると言っても、正確な場所までは実は知らない。でも、見当はついている。豪炎寺はプリントを掲げると、円堂たちに背を向けた。
「頼んだぞ、豪炎寺!」
と呼びかける円堂の声を聞きながら。
 豪炎寺は灯りが落ちたグラウンドを抜け、校門を出た辺りでやっと大きく息をついた。手の中のプリントに目を落として、もう少しでヤバくなるところだったと冷や汗をかく。円堂が風丸の家に行けば、彼が不在なことに気づかない訳がない。
 どうしても、その役目は自分が背負わなければならなかった。
 風丸の自宅に向かう途中、コンビニに寄ってコピーを取ることにした。学校からPTAへのお知らせとかはいい。もうじきテストが近いから 、学習範囲のプリントなどは風丸に直接見せた方がいいだろう。
 どうせなら、縮小コピーなら風丸も読みやすいだろうと気づいて、設定を変えて1枚ずつコピーを取った。
 コンビニの用を済ませると、目ぼしのついていた方角へ足を向ける。風丸の家は案外簡単に見つかった。
 既に陽のおちた通りは、街灯の明かりだけでどこか薄暗い。風丸の家は誰もいないようで、窓は真っ暗だ。多分、両親は共働きだと聞いてたのでまだ仕事から帰ってないのだろう。
 門から少し入った場所に、青銅色のポストが立っていた。半円柱を横倒しにしたようなポストは、天辺に小さな風見鶏がついている。豪炎寺はそれを見て、そういえば、風丸と始めて一緒に練習した技は『炎の風見鶏』だったな、と思い出してくすりと笑った。
 ポストを開けて、重ねたプリントを押し込むと踵を返す。早くマンションへ帰らなければ。
 帰るすがら、今日、練習中にみんなが話していたことを思いかえす。風丸は思っていた以上に、仲間たちになくてはならない存在なのだと、豪炎寺は悟った。
 最も気を引いたのは、1年生たちが風丸に頼りきりになっていることだ。
 他の部員が彼らから見て、先輩として劣っているという訳ではない。円堂なんかはその包容力で1年のみならず、同学年からも一目おかれている。でも風丸特有の、気の細やかさは他のみんなにはない部分なのだろう。
 それを思うたび、自分が風丸を独り占めしているのではないかと、胸にしこりのようにこびりつくのを感じ始めている。
 結局、円堂に本当のことが伝えられなかった。仲間たちになら更にだ。円堂が無理でも、鬼道に言うのも考えたが、風丸がてのひらほどに縮んでしまったなどと、少々堅物な彼には通じないかもしれない。
 自分の親にさえ、風丸の姿を見せてやっと、という始末だったのに。
 暗い道のりを歩いていると、件の、風丸が小さくなってしまった通りに出た。このゆるいカーブのかかった坂道の下は普段から人通りが少なく、今思えば、誰かに見られなくて良かったと思う。
 一応見回してみたが、風丸を元に戻すヒントのようなものは見つからなかった。
 豪炎寺は深く息を吐くと、風丸と妹の待つマンションへ足を進めた。
 自宅へ帰るなり、風丸と夕香が笑顔で出迎える。
「おかえりっ、お兄ちゃん」
「豪炎寺見てくれよ!」
 風丸はリビングのテーブルの上で、にこにこと笑うとターンして背中を見せた。何だろうと首をひねって目を向けると、風丸のユニフォーム……に似せた上衣の背には、ブルーの糸で『2』と背番号が刺繍されていた。
「スゴイだろ。フクさんが手をいれてくれたんだ。それから!」
 夕香がぱっと手の中にあったものを、誇らしげに掲げた。それはとても小さな、シャツとズボンだ。
「服も縫ってくれたんだ。それから、パジャマも」
 風丸ははしゃいだ声で、夕香から手渡された服を体に当てた。心底嬉しそうな風丸を見ていると、豪炎寺も昼間の喧騒を忘れてしまいそうになる。
「それは……良かったな、風丸」
 キッチンで夕食の支度をしているフクさんに、豪炎寺は礼を述べた。
「ありがとう、フクさん。おかげで風丸も喜んでます」
「いいんですよ。大した手間じゃありませんし。それに、私の若い頃はああいう人形の服を作るのが趣味でしたから、昔を思い出します」
 フクさんはふくよかな顔を綻ばせると、目尻のしわを揺らせた。
「今日ねぇ、風丸お兄ちゃんと一緒にご本読んだんだよ。おもしろかったー!」
 夕香は鮮やかな色が印象的な表紙の本を抱えると、豪炎寺に示した。
「良かったな、夕香」
と、頭をなでてやる。テーブルの上で両手を後ろで組みながら、風丸ははにかむ笑みを見せていた。
 その晩、一緒に風呂に入りながら、昼間のことを思い返していた。仲間たちが口にした、風丸への思いを胸のうちで何度もくりかえした。
 風丸が誰にでもこころ配り、他人のことを優先してくれる奴なのだと。
 でも今、自分と一緒にいる風丸にはみんなが知らない部分がある。
 妙に恥ずかしがりだったり、落ちこんだ姿をこの三日間で風丸は豪炎寺に見せている。こんな風丸を知っているのは、せいぜい円堂くらいなものだろう。
「どうした? 豪炎寺」
 湯船に浮かべた洗面器に湯を張った中で、風丸は手足をゆったり伸ばしてくつろいでいる。豪炎寺の顔を見上げて、首を捻っていた。
「いや。ちょっと考えごとしてただけだ」
「そうか。あ、あのさ」
 豪炎寺が応じると、風丸は逆におずおずと尋ねてくる。
「サッカー部のみんな元気か?」
「ああ」
「円堂、ちゃんとやってるか?」
「大丈夫だ。お前は気にしなくていい」
 豪炎寺は風丸に余計な心配をかけさせまいと、少々へこみ気味だった円堂のことは隠して答えた。
「1年のみんなは? あいつらのこと、気になってしょうがない」
「風丸……」
 ああ、そうか。
 豪炎寺は風丸を自宅に連れてきてからずっと、感じ取っていたものの正体が分かった気がした。
 風丸はみんなから頼りにされているが、逆に風丸が誰かに頼ろうとしているのを見た覚えがない。
 風丸は人に頼る、ということに慣れてないのかも知れない。
「お前、人に頼みごとをすることはないのか」
 風丸はきょとんとした顔で豪炎寺を見つめる。
「なんでいきなり」
「お前が人を頼りにしてるのを見たことがないから……」
 すると風丸は湯船に体を沈めて、ゆっくりと嘆息した。
「そうだな。そう言えば」
 豪炎寺が風丸の面倒を見るたび、何度も異様に恥かしがったりしたのも、もしかしたらこれがひとつの要因なのだろうか。
「俺、昔っから円堂の面倒見てたけど、それが苦痛だとか思ったことないんだ。俺が協力してやって、それが円堂の喜びになるんなら、俺だって嬉しい。あいつが喜ぶ顔見れるだけでいいんだ。だから他のみんなに対したって、おんなじことなんだよ」
 豪炎寺は風丸の言葉を納得はしたが、それでも理解できない部分があると感じた。
「でも、お前が辛いときはどうするんだ。そんなときは、誰かにすがりたいとは思わないのか?」
「それは……」
 風丸の口が澱んだ。自分が浸かっている湯の中で両手で膝を抱えて、口元まで体を漬ける。
「お前が頼ろうって人間はいるのか?」
 豪炎寺の問いに、風丸はまぶたを伏せると首を横に振った。振った先から、洗面器に張った湯が水音を立てて波紋を広げる。まるで風丸の心を写すようだった。
「俺が」
 豪炎寺は言い淀みそうになったが、思いきって風丸に自分の気持を伝える。
「誰にも頼れそうにないときは、俺がお前の支えになる。頼る奴がいないんなら、俺に頼れ」
「豪炎寺……」
 風丸は顔をあげて、洗面器から豪炎寺を見つめた。
「いいのかよ」
 豪炎寺は頷いた。
「お前の頼みなら、何でも聞いてやる」
 そうきっぱり言いきると、こわばった風丸の顔にふわりと笑みがこぼれた。
「何でも聞いていいんだな?」
「ああ」
 そう応えると、風丸は両手で洗面器の縁につかまりながら湯から立ちあがった。
「お願いがあるんだ。明日俺を、一緒に学校へ連れてってほしい」

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~四日目~


「本当に行くつもりなのか?」
 翌朝、制服に手を通しながら、豪炎寺は風丸に尋ねた。もうおなじみになってしまった、豪炎寺が縫ったユニフォーム姿の風丸が、こくんと頷く。
「俺、円堂やサッカー部のみんながどうしてるのか知りたい。俺がいなくても、しっかりやってるのかって」
「お前が心配するほどでもないと思うけどな」
 豪炎寺が言うと、風丸は
「うん、……でも」
と頭を巡らせた。
「やっぱり、直に俺の目で見たいから」
 それが、第一の理由らしい。
 何でも頼みを聞いてやる、と言った手前、豪炎寺は断ることはできなかった。
「じゃあ、確認する。できる限り無理はしない。俺のそばから離れないようにする。以上だ。俺も可能な限りお前をサポートしよう」
「分かった」
 互いに約束を交わすと、豪炎寺と風丸は頷きあった。
 フクさんには一応話しておいたが、父親には今回の件を内緒にすることにした。止められるのは、分かりきっている。
 豪炎寺は風丸の小さな体を掴みあげた。カバンに入れようとしたが、悩んだ末に制服の胸ポケットに変えた。
「何だか、面白いな。わくわくするよ」
 風丸の言葉を聞いて、苦く笑う。
「はしゃぐな。俺は心配でたまらない」
「すまん。でも、二日ぶりだからさ……」
 ポケットに手をかけて、しゅんと肩をすくめる風丸に、豪炎寺は複雑な思いを抱いた。
 この三日間、ずっと我慢を強いられていただろうとは、想像に硬くない。はっきり言って、風丸を学校へ連れて行くのはリスクが高すぎる。だが、風丸が喜ぶのなら、それもいい。
 風丸は俺が絶対に守ってやる……。
 そう心に誓うと、豪炎寺はマンションを出た。学校までの道のりはまさに順風満帆で、何のアクシデントも起こりそうになかった。
 深く色づきはじめた街路樹が青空に映えているのを、風丸はポケットから身を乗り出して眺めている。
「もうすっかり秋だよなぁ」
「あまり顔を出すな。落っこちるぞ」
 胸ポケットを抑えて、たしなめていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、豪炎寺」
 振り返らなくても、声で誰かは分かる。
 円堂だ。
「おはよう」
 豪炎寺はそっと胸ポケットを抑えて、風丸を隠そうとした。
「昨日はありがとな。プリント」
「あ、ああ」
 円堂に言われて、昨夜風丸の家にプリントを届けたのを思いだす。
「風丸……元気だったか?」
 円堂がおずおずと尋ねてくる。豪炎寺は心臓が凍りつく思いがした。
「いや。会ってはいない。家の中が暗かったから、寝てるんだろうと思ってポストに入れておいた」
 事実のみを伝えると、円堂はがっかりした顔を見せた。
「そっかぁ」
「どっちにせよ、直には会えないんじゃないのか」
 休む理由が理由だからな、と付け加えると、円堂はやっと破顔した。
「そういやそうだった」
 豪炎寺はちらりと胸ポケットを覗く。風丸の小さな頭だけが見えたが、表情までは分からなかった。


 円堂と一緒に教室へ入った豪炎寺は、それぞれの机についた。一時間目の用意をしながら、風丸の様子を確認してみる。
 胸ポケットの中から、風丸が豪炎寺の顔を見上げていた。見つからないように周囲を見回しながら、風丸の体を摘み上げる。
「注意しろ。誰が見ているか分からんからな」
 そう言葉をかけると、風丸は身を屈めて頷いた。
 時を置かずして、ホームルームの時間を知らすチャイムが鳴る。周りでざわざわと話を交わしていたクラスメイト達が次々と席に着いた。
 豪炎寺は風丸を隠しながら、一時間目の用意をした。
 最初の一、二時間はなんとかやり過ごした。三時間目にちょっとしたアクシデントが起こった。
 豪炎寺の席は、円堂の斜め後ろにある。机の上で風丸が、豪炎寺の腕に隠れながら前方を伺っていると、円堂の背中がかくんと傾きだした。
「な、何やってるんだ、円堂!?」
 風丸が呆れた声で前を見ている。豪炎寺も前方を見ると、円堂はどうやら居眠りしているのだと気づいた。
「寝てる……な」
「寝てる、じゃねぇよ。円堂、授業中いつもああなのか?」
 もうすっかり机に突っ伏して惰眠を貪っている円堂を、風丸ははらはらした風情で見守っている。
「いや。いつもはちゃんと授業を受けてるが……」
「ホントかよ」
 疑わしげな顔で風丸は豪炎寺を見る。
「俺を信じろ」
 できる限り周りに聞こえないように言い聞かせると、一応は納得した顔を風丸は見せた。それでも、見ていられないらしく、終いには円堂を起こしに机から飛び降りようとしたから、豪炎寺はあわてて止める羽目になった。
「行かせろよ、俺が円堂を起こすんだから!」
 両手で逃げだそうとする風丸を何とかガードする。
「ダメだ。自分の立場を考えろ」
「でも!」
 豪炎寺は風丸の体を摘み上げると、胸ポケットに押しこんでしまった。
「俺が起こす」
と囁くと、机から脚を伸ばし斜め前の円堂めがけ、蹴りを入れる。椅子の脚に豪炎寺のキックは当たったが、最初の一撃では円堂はうんともすんとも言わない。次に蹴り出したキックで、円堂はむくりと身を起こした。
「んんっ!?」
 円堂が起きたのを確認すると、風丸はポケットのヘリにつかまってほっと息を吐く。円堂は豪炎寺に振り返って、苦笑いしながら、感謝の仕草を送ってきた。
「まったく。心配かけさせやがるぜ……」
 だが風丸の安堵はそこで終わったわけではなかった。
 次の時間、再び眠気と格闘し始めた円堂に風丸はやきもきする羽目になる。殊勝なことに、円堂はぐらつきそうな体を何度も持ち直そうとしていたが。
 何度目かにこくりと傾いたその時、理科の教師に名をよばれ、円堂は慌てて姿勢を正した。
「円堂。鉄の元素記号を言ってみろ」
「て、鉄ですか。えっ、と……。fwは、違うか」
 円堂は焦りながらも正解にたどり着こうと、頭の中で記号の羅列と戦っている。風丸は豪炎寺の胸ポケットの中で頭を抱えていた。
「円堂……。それ、一学期に習っただろ!」
「どうした、円堂。答えられないか?」
 教師の問いに、円堂は大業にかぶりを振る。
「あ、待ってください。えっと……」
 円堂の態度に、とうとう堪えきれなくなったのか、風丸はポケットから頭を出すと大声を上げた。
「鉄はfeだろ!!」
 風丸の声は思ってる以上に教室に響く。
 豪炎寺はぎょっとなって、胸ポケットを抑えて風丸の頭を押しこんだ。
「ああ、そうだ。feです。fe!!」
 円堂は耳に届いた声で、見事正解を出したが教師は苦笑いで
「よし。もう居眠りするなよ、円堂」
とたしなめると、元の授業に戻った。円堂もほっとした顔で頭をかくと、くるりと教室を見まわし不思議そうな顔で首をひねった。
 さっきの声はクラスメイトの誰かが出したと思われたのか、誰もその正体に気付いた者はいないようだった。
 豪炎寺がそっと胸ポケットを覗くと、風丸が口元を手で抑えて、身を縮めていた。心なしか体が震えていたのを、豪炎寺は見逃さなかった。

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「正直、ひやひやしたぞ」
「すまん! もうしない」
 給食後の昼休み、屋上で豪炎寺はフェンスにもたれながら、風丸と話をした。ここは普段、他の生徒が来ることはなく、ひとりで考えごとをしたい時や、惰眠を貪りたい時にもっぱら訪れている。
「ホント、悪かったと思ってるよ。反省してる」
 風丸はフクさんが持たせてくれた小さなサンドウィッチにかじりつきながら、しゅんと肩を落としている。
「でも、円堂のこと、どうにかしてやんなくちゃ……って思ったら、つい」
 その気持ちは分からないでもない。だが、今の風丸のとっては無謀な行為だ。
「お前は円堂に対して過保護だ。授業中に居眠りしてるのを、わざわざ起こすこともない。怒られたって、それはあいつ自身の所為だ」
「それはそうだけどさ……」
 屋上は風が吹いていて、豪炎寺と風丸の間をすうっと抜けてゆく。風丸の蒼く長い髪が風に吹かれて、たなびくのが奇妙なほど綺麗だ、と感じた。
「見てらんなかったんだよ、俺……。円堂の為にはならない、それは分かってるつもりなんだけど」
「俺だって授業中眠たいときは寝る」
「ええ!? お前が?」
「その方が却ってすっきりするんだ」
 風丸は参った顔で豪炎寺を見た。まあ、風丸は授業中にいくら眠たくなろうとも、ずっと我慢してるだろうことは分かりきっている。だが、それにしたって風丸は円堂に構いすぎだ。
 ふと豪炎寺は、昨日の鬼道の言葉を思い出した。
『円堂だけではない。俺たちも風丸離れする時が来たという事だ……』
「お前は円堂離れした方がいいんじゃないのか……?」
 それを踏まえてそう話すと、風丸は大きな瞳を開いて豪炎寺を見あげた。
「円堂離れって……」
「円堂だけじゃない、一年の奴らもだ。あいつらはお前が思ってるより、よっぽどしっかりしてる。お前がいなくたって、やっていけるさ」
「そんな」
「お前は円堂や一年の奴らが心配でここに来たんだろう?」
 尋ねると風丸は、こくんと頷く。
「だったら今日一日、あいつらが頑張ってる姿を見るといい」


 五時間目の開始を知らせるチャイムが鳴るころ、豪炎寺は風丸を連れて教室に戻った。自分の席に着くなり、円堂が話しかけてくる。
「どこ行ってたんだよ、豪炎寺? 給食終わったらもういなかっただろ」
「ああ。昼寝してた」
 しれっと事実ではないことを言う。
「お前みたく、授業中に寝るほどじゃないからな」
 それを指摘されると、円堂は参った顔で苦笑いした。
「いやさぁ、ちょっと寝不足なだけだ」
「お前、大丈夫か」
「ああ……。それよりさ。四時間目の話なんだけど」
 円堂はそっと声を落とす。あまり他人には聞かせたくない話らしい。
「俺が当てられた時、風丸の声が聞こえなかったか?」
 豪炎寺は絶句した。あの時、風丸の声は円堂に届いていたのだ。
「俺に答えを教えてくれたのは、絶対風丸の声だった。間違いない」
 確信を含んだ声で、円堂は頷く。豪炎寺は胸が疼くのを感じた。
「……何を言ってるんだ? 俺には風丸の声なんて聞こえなかったぞ」
 思わず声がかすれる。だが、そんな状態でも豪炎寺は知らない振りをした。
「お前、風丸のことを考えてばかりいる所為で、聞き間違えたんじゃないのか」
 円堂に言うにはあんまりな言葉だ。と思いながらも、豪炎寺はそう言い切らなければならなかった。
「そ……そっかな」
 円堂は半ば青ざめた顔で言う。真実を話せないという、今の状態を豪炎寺は呪った。
 突然、廊下からけたたましいベルの音が鳴り響いたのはその時だった。
「な、何だ!?」
 耳障りなベルの音は校舎中に鳴り続けており、教室の中では生徒たちがざわめいている。
「あら。円堂くんたち知らなかったの? 今週、抜き打ちで防災訓練するって」
 何事かと、騒然とした校内を見回す円堂と豪炎寺に、マネージャーの木野がそう教えてくれた。
「あ、そうだっけ」
「防災訓練……」
 風丸は大丈夫だろうか。豪炎寺は胸ポケットを手でそっと抑えた。混乱で何か大変な事態になる気がしてしょうがない。
「風丸」
 豪炎寺は隠れるように教室の角に行くと、胸ポケットに入ったままの風丸にそっと呼びかけた。
「防災訓練だろ。分かってる」
「ああ。何が起こるか分からない。危険だからそこじゃなく、内側のポケットに移動してくれ」
 制服の裏側に、ファスナーで閉じられる内ポケットがついている。多少息苦しいだろうが、そこなら今の状態より安全だろう。そう思って豪炎寺は彼を移動させることに決めた。
 風丸の体をひょいと掴むと、詰襟のホックを外す。人形のような体を掴んだまま、器用に内ポケットのファスナーを開けて風丸をその中に押しこんだ。
 これでいい。ひとまずは安心だ。
 豪炎寺はふっと息をつくと、円堂たちに合流して校舎から避難することになった。
 ただ、豪炎寺にとって誤算だったのは、避難訓練に気を取られて風丸をきちんと確認できなかったことだ。
 ポケットに入れたはずが、実際は風丸をこぼしてしまったのに気づいたのは、既に校舎を出たあとだった。


「うわあぁぁぁあっ!」
 豪炎寺の手で移されたはずなのに、風丸の体は入るべきポケットをすり抜け、制服の裏地を滑り落ちていく。何がなんだか分からないまま、風丸は必死に何処か掴まる場所を探した。
 だが、思っているよりも制服の生地は何の手ごたえもなく、風丸は歩き出す豪炎寺から振り落とされた。
「豪炎寺!」
 叫んでも、周囲の喧騒に小さな風丸の声は豪炎寺に届かない。立ち並ぶ生徒たちの群れにまぎれて、豪炎寺の大きな背中は消えてしまう。
「置いてかれたか……」
 風丸は溜息をついて廊下の先を眺めていた。
 仕方がない、教室に戻ろう……。と、豪炎寺の席へ向かうべく踵を返したとき、廊下の向こうから轟く激震に風丸は我を失いそうになった。
「な、なんだよ。あれは!?」
 とんでもないほど巨大な、黒い山のようなモノが自分のいる場所に接近してくる! それに気づいたとき風丸は、思わず廊下を飛びすさった。
「あわわわわぁ! 火事は怖いッス~!」
「壁山! 火事でないでやんす。これでは避難訓練でやんす!」
 自分の上を通り過ぎていくふたつの声は聞き覚えがある。一年の壁山と栗松だ。
「あいつら、慌てすぎだろ」
 と呆れる暇もなく、次に襲ってくる何十もの足の群れに、風丸は翻弄された。風丸の存在にまったく気づかない彼らは、遠慮なく廊下の床を踏みつけ、足早に通り過ぎようとしている。
 風丸はその度に飛び退き、また、ジャンプで回避しなければならなかった。自分の足の早さに、この時ほど感謝することはないだろう。
「こんなんで豪炎寺の席まで行けるのかよ……」
 這々の体だったが、なんとか廊下の隅にある消火栓のまでたどり着いたとき、風丸はやっと一息つくことができた。
「豪炎寺……」
 今頃、豪炎寺はどうしてるだろうか。自分がいないのに、気がついただろうか。それとも、まったく気がつかないままなんだろうか……。
 廊下は人の気配がなく、さっきまで校舎に広がっていた騒音も消え、しんと静まっている。風丸は初めて、自分が誰もいない空間に取り残されたと実感した。
 あの時。自分の体が小さくなってしまったとき、豪炎寺が助けてくれなかったら。今ごろ同じように心細い気持ちでひとり、世界から隔離されてたのだろうか。
 それを思うと、風丸はぞっとした。
「豪炎寺……」
 もう一度、風丸は彼の名をつぶやいた。
 途端に、早く自分を取り戻しにきて欲しいと願った。そう望んでいる自分が今ここに存在することの違和感に、気づかないまま……。


 避難訓練は校庭にそれぞれのクラスごとに整列したあと、校長や都の消防署職員のスピーチを聞いて終了する。豪炎寺は円堂と一緒に校庭に着いて、ほっとして内ポケットを上から触れて初めて、まるで感触がないことに気がついた。
 手のひらで内ポケットを押さえるが、なんの手ごたえもなく、ポケットは乾いた音をたてた。慌てて制服のポケット全てを探るが、どこにも風丸の存在はなかった。
 途中どこかで落としたのか。豪炎寺は最悪の事態に、心臓が止まる思いがした。
 校舎の方を仰ぎ見る。風丸はそこに取り残されたのだ。
 そう確信すると、豪炎寺はたった今通った経路を一目散で駆けだした。
「豪炎寺? どうした!?」
 円堂が何事かと呼びかけたが、ただ頷くだけで精一杯だった。
 校舎の中は誰もいない。ここぞとばかりに、大きな声で風丸を呼んだ。
「風丸!! どこだ、風丸!」
 一階には見当たらない。やはり、自分たちの教室か。
 階段を駆けあがり、ふたたび名を呼ぶ。
「風丸!!」
 返事はない。
 誰もいない廊下を突っ切って、自分のクラスの教室に入る。期待を込めて探すが、風丸の姿はどこにもなかった。
「か、風丸……」
 豪炎寺は真っ青になって、自分の机に手をついた。
 まさか、風丸は避難する生徒たちに踏みつぶされてしまったのか。自分がちょっと気が回らない所為で、風丸の身に危害を及ぼしてしまったのか。
 己のバカさ加減に、豪炎寺は自分を殴りたくなる。
 その時。廊下から自分を呼ぶ声が聞こえた。

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 壁にそって立っている消火栓の陰で、風丸は座りこんだ。ぐったりと背をもたれ、ただ豪炎寺が戻ってくるのを待った。廊下の外から、グラウンドのスピーカーの声が微かに響いてくる。今ごろ生徒たちはグラウンドに集合してるんだろう。豪炎寺が戻ってくるまでまだしばらく時間がかかるのかも知れない。
 そう思って、風丸はがっかりしながら膝を抱え込んでいると、突然、廊下の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえる。 
「風丸!」
 はっとして、風丸は顔を上げた。そんなバカな。豪炎寺が今来るはずはない。
 だが、確実に耳に響くのは豪炎寺の声だ。
「風丸!! どこだ、風丸!」
 風丸は立ち上がって、消火栓の下から廊下に出た。豪炎寺が教室の中に入るのが見える。どうやら、集団の生徒たちから逃げるとき、避難経路と逆方向に逃げたのだと風丸は気づいた。急いで風丸は教室へと向かった。
「豪炎寺!」
 でも小さな自分の体から発する声は、小さくて、教室の中までは届かない。今度はできる限り大きな声で風丸は叫んだ。 
「豪炎寺、俺はここだ……!」
 豪炎寺が慌てたように廊下に出てくる。
「風丸!!」
 豪炎寺が自分に向かって走り寄ってくる。風丸も全速力で駆け寄ると、豪炎寺は両手で自分の体をすくいあげた。
 豪炎寺は風丸を手のひらに乗せると、体中を調べだした。体に異常はないと確認すると、豪炎寺はほっとした顔で、風丸を首元に引き寄せ頬擦りしてきた。
「すまない。俺がお前を落としてしまった所為だな。本当にすまなかった」
「いや。俺、何ともなかったし」
 風丸はいきなり自分が優しく受け止められて、豪炎寺の暖かい手で握られ、戸惑いを感じた。
「本当に何もなかったのか?」
 じっと熱い視線で見つめられる。なぜだかぽっと頬が熱くなる。
「まあ、ちょっとスリルを味わったけどな。とりあえず何ともないぜ、俺は」
「そうか。それは良かった」
 豪炎寺が笑いかける。風丸は妙にくすぐったさを感じ、恥ずかしくなった。
「豪炎寺! どうしたんだよ!?」
 廊下の向こうから円堂と担任の教師がやって来るのが見えて、風丸は慌てて豪炎寺の手の中に隠れた。豪炎寺が何げない仕草で、制服の左ポケットに風丸を入れた。
「円堂」
 しゃがみ込んでいた豪炎寺が立ち上がる。
「落とし物を探していた」
「落とし物?」
 ポケットにいた風丸がそっと覗いたところ、豪炎寺が生徒手帳を円堂と担任に見せているようだ。
「お前、血相かえて走ってくから、何かと思った」
「豪炎寺くん。ひとりで別行動はいけませんよ」
「すみません」
 とりあえず、危機は去ったと分かり風丸はやっと一息ついた。円堂たちと一緒にグラウンドへ向かう、豪炎寺の制服のポケットの中で風丸は次第に眠気に誘われていた。


 再び風丸が目を覚ましたのは、授業が終わって豪炎寺が部室に向かっている時だった。まだ他の部員たちは来ていないのか、豪炎寺はさっさと部室に入ると、人目がないのを確認してロッカーに風丸を隠す。
「お前はここにいろ。誰にもバレないようにな」
「分かった」
 豪炎寺は練習用のユニフォームに着替えると、そっとロッカーの扉を閉める。しばらくすると、他の部室たちがぞくぞくやって来て、わいわいと騒がしく語らいながら着替えだした。
 話の内容は今日の授業のこと、練習メニューのこと、もうすぐ始まるテストのこと……。いつもとまったく変わらない仲間たちの会話に、風丸はどこかほっとしたような、けれどもちょっと羨ましい気持ちでいっぱいになった。
「風丸さん、今ごろどうしてるッスかねぇ」
 いきなり壁山の声が自分の話題を出したので、風丸はロッカーの扉に耳を押し当てた。
「……壁山。俺たちがいまやらなきゃならないのは、風丸さんを心配することじゃないでやんす。風丸さんが良くなって、元通りにサッカー部に戻って来たとき、俺たちがどれだけ成長したか見せられるように練習するでやんすよ!」
「栗松……」
 壁山がつぶやいたかと思うと、いきなり雄叫びをあげた。
「うおぉぉ! そうッス!! 風丸さんのために俺たち、がんばらなくっちゃならないッス!」
 意気投合したふたりに、他の一年たちも合意して檄を飛ばし合うと、揃ってグラウンドへ向かった。
「あ、あいつら……」
 豪炎寺のロッカーの中で、風丸は一年たちのいじましさに胸を焦がした。
 やがて、部員たち全員がグラウンドへと出てゆき、部室が空っぽになると、風丸はそっとロッカーを開けた。おんぼろ小屋のサッカー部室は部員たちの汗臭い空気で充満していたが、風丸にとってそれはとても懐かしい匂いだった。
 開いている窓の向こうから、部員たちが練習する音と声が聞こえる。それを聞いていると、何故だか涙がこぼれそうになり、風丸は拳で目元をぬぐう。
 できるものなら、今すぐにでも部室を飛び出して仲間たちと合流したい。一緒に汗を流し、ボールを追いかけ、思う存分グラウンドを走りたい。
 けれど、ああ……。
 この体じゃ、到底──。
 自分の小さな拳に目を落として、風丸は溜息をついた。と、その時。背後に何者かの気配を感じ、慌てて振り返る。
「うわっ!?」
 ロッカーの陰から黒光りする異様なモノが、のそりと出現した。自分の知っているよりも巨大で、得体の知れない雰囲気を醸しだす“ソレ”の存在に、風丸は顔を引きつらせて、身を硬くした。
「ゴ、ゴキブ……!」
 風丸が叫ぶと、その生物はかさついた音を立て、再びロッカーの陰へ逃げていった。思わずあがってしまった鼓動を抑え、風丸は大きな息をひとつ吐いて胸をなでおろす。
「何で、あんなのが部室に巣食ってるんだ……?」
 首をひねってみて、ああ、と頭に浮かんだのは、毎日のようにスナック菓子を部室に持ちこむ巨体の1年生の姿だった。
「壁山だな……。あいつがこぼした菓子の所為だ」
 頭を抱えて風丸はひとりごちる。
「俺が元に戻ったら、ちゃんと言ってやんなきゃな」
 先輩として、きちんと壁山に注意する自分を想像して風丸は、がくぜんと肩を落とした。
 ……元に戻るって、いつの話だよ?
 元の体に戻る、宛てなんか今はない。
 豪炎寺やその家族の人たちにはとても良くしてもらってる。だが、今の風丸に取って一番熱望していることが叶う、希望とかそういったものは未だに見えない。
 なぜだか、息が苦しい。
 風丸は胸に拳をあてると、ぜえぜえと息を吸いこんでは吐いた。いくら新鮮な空気を吸っても、胸の苦しみは消えなかった。


 豪炎寺が練習を終え部室に戻ると、ロッカーの中では風丸がカバンに入れたスポーツタオルの上で膝を抱えていた。扉で中を隠すように豪炎寺は風丸を伺う。薄暗いロッカーの中で、顔を上げると豪炎寺にただ頷くだけだった。
 頷きかえすと豪炎寺は風丸をタオルでカバンに隠し入れて、制服へと着替えはじめた。
 部室では、練習を終えた部員たちが続々とグラウンドから戻ってきて、わいわい騒ぎながら汗と泥で汚れたユニフォームを脱いでいる。それは変哲もないいつもの光景だが、最後に戻ってきた円堂が心なしか元気なさそうな顔でいるので、他の部員たちがいぶかし気な目で見た。
「……円堂。まだ風丸が休んでること、気に病んでるのか?」
 半田が心底心配そうに尋ねる。
「う~……ん。気に病んでるって言うか」
「お前。いい加減風丸離れしろって昨日さんざん言われただろ」
 染岡もぶっきらぼうに言うが、円堂は指で頬をこすりながら答える。
「いやさ、そんなんじゃないんだ。ただ……風丸から連絡が何もなくって」
「連絡?」
 風丸の話題が出たので、豪炎寺は息を呑んだ。
「いつもならさ。風丸が熱出して学校休んだときなんか、俺からかけなくっても、あいつから必ず連絡くれたんだ。なのに……今回はまだ……」
 肩をすくめて、円堂は周りに集まった顔を順に眺めた。
「やっぱさ、心配なんだよ。いつもちゃんと連絡してくれるのに。もしかして、まだ具合良くないのかなぁ……」
 円堂は天井を仰いで、部室に灯る蛍光灯の光に目を細める。円堂がつぶやくのを豪炎寺はシャツを身につけながら、背中越しに聞いていた。
 ロッカーの中の風丸は円堂の言葉をどんな気持ちで聞いただろうか。仲間たちの目が気になって、それは伺い知れない。

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 部活を終えて、豪炎寺は風丸を連れて学校を後にする。風丸の様子が気になったが、話しかけてもうつむき加減で返ってくる言葉は少ない。
 銀杏並木の歩道は夕焼けに照らされて、黄金色に輝いている。はらはらと葉を散らしては実を落とす銀杏を眺めながら、豪炎寺は胸ポケットの風丸に何の言葉もかけられないまま、黙って歩いた。
 マンションに帰ったふたりに待ち構えていたのは、豪炎寺の父の説教だった。
「風丸くん。君は自分の立場というものをまったく分かっていないようだ」
 黙って学校に行ったのを知った父は、厳めしい表情と口調で風丸を責めたてる。
「君は病人だ。それを呑気に学校に行くなどと!」
「すみません……」
 風丸はうなだれて豪炎寺の父の言葉をかみしめ、ただ詫びを言うだけだった。
「それと修也! お前にも今回の責任がある」
 風丸の返事に溜息をついた父の怒りの矛先は、次に豪炎寺自身に向かった。
「分かっています」
 玄関で怒りを隠せない父親の姿を見た時から、一番責められるのは自分であろうことは分かりきっていた。
「分かっているのなら、なぜ風丸くんを連れて行った? 私に無断で」
「待ってください!」
 風丸が慌てて取りなそうとし始める。
「悪いのは俺なんです。俺が豪炎寺に頼んだから!」
「風丸……」
 豪炎寺はリビングのテーブルの上に立っていた風丸を掴むと、下がって3人を見守っていたフクさんに託した。そして父親に向かうと、
「父さん。向こうの部屋でお願いします」
と、父の書斎の扉を指差した。父は頷くと、豪炎寺を伴ってリビングから出て行ってしまった。
 依然として自分たちを止めようとしていたが、多分、疲れきっているだろう風丸に、これ以上の精神的な負担はかけたくない。その気持ちは豪炎寺もその父親も同様だった。
 結局、風丸に対しだされた処遇は、体が元に戻るまでの外出禁止令だった。


 その日、夕食をとり風呂に入ったあとは、風丸は疲労を理由に早々に寝てしまった。やはり、学校へ行ったのはかなりの負担だったのだろう。
 練習から戻ったとき、風丸が妙にふさぎ込んでいたのは気にかかったが、それを尋ねることもできそうになかった。
 そして気にかかることは、もうひとつ……。
 けれども、どっちにせよ今日はもう無理だろう。宿題を終えて10時を回った時計の針を眺め、寝入っている風丸の様子を伺っていると、豪炎寺も眠気を感じはじめた。
 今日はもう休もう。昼間は色んなことがありすぎた。
 欠伸をひとつかくと、ベッドに潜り込む。そのまま豪炎寺は眠りについた。


 夜中にふと、目が覚めた。
 なぜだか不思議な予感がした。
 カーテンを引くのを忘れていたのだろう。窓から部屋じゅうに月の光が差し込んで充満している。
 豪炎寺はまぶたをこすると、ベッドから身を起こした。ふと、机の上を見ると、あの人形店で買いあたえた椅子に風丸が座っていた。
 風丸は豪炎寺に背を向けていて、こちらには気づかない。膝を抱え、まっすぐ夜空の月を見上げている。
「眠れないのか?」
 豪炎寺が呼びかけると、やっと風丸はふりむいた。ベッドから降りて机に歩み寄ると、風丸は何も答えず曖昧に笑う。その微笑みは悲しげだった。
 その微笑みを見た豪炎寺は部屋の隅に置いてある、風丸のカバンをさぐった。夕方、部活から帰るとき気にかかっていたこと。今ならそれを実行できると思った。
 カバンから取り出したのは風丸の携帯だ。切っていた電源を入れると、着信履歴のランプが灯った。
 ディスプレーに映っていたのは円堂の携帯番号だ。
「風丸」
 豪炎寺は携帯を風丸に差し出す。
「円堂にかけろ。あいつはお前がかけてくるのを待ってる」
 風丸は首を横に振った。それに構わず、円堂へ返信ボタンを押すと風丸にもういちど差し出した。受話口からコール音が聞こえる。1、2度鳴っただけですぐに相手が出た。
「風丸っ!?」
 円堂の声が切羽詰まっているのが分かり、風丸は思わず声を出した。
「円堂……」
「風丸。体は大丈夫なのか?」
 ほんの少し、風丸は躊躇したがすぐに話し始めた。
「……大丈夫だ。熱とかないから」
「ホントか!」
 携帯の受話口の向こうで、円堂の声が歓喜に変わる。
「すまん、連絡遅れて」
「あ~、そっか。それならいいんだ!」
「心配……かけたか?」
「いやいや。風丸が大丈夫だって分かってホッとした。来週にはまた学校来れるんだろ?」
 風丸が思わず黙り込む。黙って動向を見守っていた豪炎寺は眉をひそめた。
「ああ……。たぶん……」
 やっとの思いで紡ぎだした言葉を、携帯の向こうの円堂は気にも留めてなかったようだ。
「またな」の言葉を最後に、通話を終えた風丸は両手で顔を覆ってしまった。
「風丸……」
 豪炎寺は風丸の携帯の電源を落とし、そっと声をかける。
「……すまん。わざわざ……。豪炎寺、お前は……」
 とぎれとぎれになる風丸の声。だが、豪炎寺は自分のしたことは悪いとは思わなかった。
「俺は、あいつにはちゃんと話すべきだと思う」
「うん……。そうだけど、だけど……」
 風丸が嘆いているのは、円堂に嘘をついたからなんだろう。風丸の心情を思うと豪炎寺も胸が苦しくなる。
 豪炎寺は携帯を机に置くと、椅子に座っている風丸の髪をそっと撫でた。最初は人差し指の先で触れ、次に親指の腹で髪の流れを梳くように。
「俺さ。今日、学校へ行ったこと、後悔してない。あいつらの元気な姿見れて、良かったと思う」
「ああ」
「でもさ。俺、俺の体、元に戻れるのは一体いつになるんだろう……。そう思ったらさ、どうしても、俺は……」
「分かってる」
 豪炎寺は風丸の体を掴むと、一緒にベッドに連れて行った。そっと傍らに置き、再び髪を撫でてやる。風丸は抵抗も何もせず、豪炎寺のなすがままにベッドに横たえた。目元は拳で押さえたままだった。

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~五日目~


 翌朝、いつものように風丸に起こされた。豪炎寺は風丸の様子を伺ったが、昨夜見たときと違ってけろっとしている。引きずっていなかったのは、意外だった。
「今朝もランニングしたのか?」
と尋ねれば、こくんと頷いた。
「日課だからな。毎日やらないと体が鈍っちまう」
 きわめて快活に風丸は笑う。あっけに取られながらも、豪炎寺は内心ほっとした。
 朝食の前には、豪炎寺の父による診察。書斎の机の上が、間に合わせの診察台になった。
 知り合いから借りたのだという、マウス用の体温計と心拍計で豪炎寺医師は風丸の体を診る。舌と口内を最後に今朝の分は終わった。
 風丸をダイニングに連れていくと、豪炎寺はひとり父の書斎に戻る。
「どうなんですか、父さん。風丸の具合は?」
 豪炎寺が訊くと父はかけている眼鏡のフレームをずらせて目頭を指で押さえた。
「どうにも、風丸くんの体に異常は見られない。体温も脈も通常の人間とまったく同じだ」
「だったらいいじゃありませんか」
「そう思うのか、お前は?」
 豪炎寺の父は曰くありげな顔で、渋い表情を作った。
「私には却ってそれが恐ろしい。あれほど体に異変があって、他には何も見当たらない、というのはな」
 心拍計を片付けながら父は大きく溜息を吐いた。豪炎寺は何も言えずに書斎を出た。
 風丸に何の異常もないのなら、それですむじゃないか。
 豪炎寺はダイニングのテーブルで夕香と一緒朝食をとっている風丸を見て、そう心に言い聞かせた。
 今日はひとりでの登校だったが、晴れやかな気分だ。教室に着くと、すぐ遅れて円堂が入ってくる。
「おはよう、豪炎寺!」
 昨日までと打って変わった円堂の声で、どうやら抱えてた不安は解消したと分かる。
「昨日さ、……昨日って言うか、夜中なんだけど。風丸から電話あったんだ!」
 快活な声は、そのまま円堂の表情までもを明るくさせている。
「そうか。……良かったな」
「ああ! 来週には出られそうだって」
 円堂の言葉を聞いて、豪炎寺は心にまずいものを感じていた。


 その日もいつも通りに一日は過ぎた。風丸を元に戻す方法は見いだせないままだ。
 マンションに帰る道を歩きながら考え込んだが、簡単に上手い考えなど浮かぶわけでもない。
 もう、既に五日過ぎている。このまま風丸は小さい体でいるのだろうか……。
 マンションの自宅に帰ると、夕香とフクさんが出迎えた。
「風丸は?」
 豪炎寺が尋ねると、フクさんが
「今、お休みになってますよ」
と答えた。自室へ行くと、教えられた通り風丸は寝息を立てて寝床で眠っている。豪炎寺は思わず目をみはった。
 指先でそっと触れてみる。髪の毛の先、つるんとした頬。
 袖と裾から伸びている、しなやかな手脚。
 そのどれもが、誘惑に満ちていた。指で脇腹をくすぐると、堪らない風に体を震わせる。
「も~、やめてくれよ。円堂……」
 微かに飛びだした寝言に、豪炎寺はムッとした。こんな時にまで『円堂』か!
 むかついたついでに、指で頬を突っつくと軽くうめき声をあげる。風丸はやっと目を覚ました。
「うう……ん。あれ?」
 まぶたををしょぼつかせて、身を起こした風丸は豪炎寺を見てやっと我に返った。
「あ、すまん。眠っちまったようだ」
 豪炎寺は黙ったままでいると、風丸はきょとんと首を傾げる。
「どうかしたか?」
「いや。……なんでもない」
 胸の奥に一度ともった嫉妬の炎に、豪炎寺はなんてことだと思った。

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 夕食をみんなでとったあと、夕香がトランプをしたいと言い出したが、豪炎寺は済まない顔をして断った。
「悪いな、夕香。お兄ちゃんは勉強しなくちゃならないんだ」
「え~っ」
 夕香はがっかりした顔をする。
「じゃあ、風丸お兄ちゃん。いっしょにご本読もう!」
 夕香は夕食後のひとときを、家族との団らんで過ごしたかったのだろう。だが、頼みの綱の風丸でさえ首を振った。
「ごめん。俺も豪炎寺の勉強に付き合いたいんだ……」
 風丸の答えに、さすがの夕香も頬を膨らませてしまった。
「あ~ん。風丸お兄ちゃんもなの?」
「夕香ちゃん、お兄ちゃんたちを困らせてはいけませんよ」
「う~、……はぁい」
 フクさんが優しく諭してくれたお陰で、夕香はやっと納得したようだ。安心して、豪炎寺は風丸を連れて部屋に戻ることにした。
「テスト準備の勉強、するんだろ」
 豪炎寺が揃えた勉強道具を見て、風丸が確信していた。教科書、ノート、テスト範囲のプリント……などが机に並んでいる。
 ああ、と豪炎寺は勘付いた。風丸はもう四日も勉強していない。昨日のことでさえ、円堂の様子を見る為であって、風丸自身は授業の内容を聞くどころではなかった。
 来週の末には期末テストが始まる。それが受けられないのは、風丸にとって大問題だろう。
「俺と一緒に……、するか?」
 豪炎寺が訊くと、風丸は頷いた。
 風丸の体が元に戻れるか、戻れないか。そんな事はともかくとして、彼が望む通りにしてやろう、豪炎寺はそう心に決めた。
 まず、プリントを確認して教科書と照らし合わせる。そのページに応じたノートを広げて風丸に見せた。
「これが期末の範囲内か?」
「ああ。中間よりもかなり広い」
 風丸はプリントを見ると、顎を手で押さえて考え込んだ。
「うーん。となると要点をまとめておいた方が得策かもな」
 そう言うと、豪炎寺のとったノートを広げてはめくって確かめる。風丸の小さな体では、その行為はずいぶん大業に見えて、なんだか可笑しくなった。
「な、何だよ。俺、変なことしたか?」
 流石に風丸も気づいたのか、豪炎寺の顔を見て怪訝そうな仕草をした。
「いや、すまん。変じゃない」
 慌てて表情を引き締めて、風丸に答えると豪炎寺はシャーペンをとった。風丸は首を傾げたが、すぐにノートに目を向ける。
「ところで豪炎寺。このノートだけど」
 風丸が足元を指差す。ご丁寧に、立っているのは書込みを避けた余白の部分だ。
「俺から見て気になったんだけど、このノートの取り方はもっと工夫できると思う」
「ノートの取り方……?」
 豪炎寺はまぶたを瞬かせて、風丸をまじまじと見た。
「どう工夫しろって言うんだ?」
 自分でノートを見る限り、それ以上いいやり方など思い浮かぶ訳がない。
「例えばさ」
 風丸はペンスタンドからピンク色のマーカーを取り出すと、おもむろに豪炎寺のノートに線を引き始めた。
「こうやってさ、特に重要な部分を囲んだりチェックしてやると、一目見ただけで分かりやすくなるんだ。俺はいつもこうやってる」
 風丸がピンク色で囲んだり下線を引いたノートを見て、豪炎寺はつい苦言を呈した。
「俺はそういうのはあまり好きじゃない。女のノートみたいで」
 途端に、風丸が豪炎寺の鼻先にマーカーを突きつけた。
「女みたいってどういう意味だ!?」
 風丸の顔は明らかに怒っている。豪炎寺はしまった、と思い訂正の言葉を述べた。
「いや、お前のことを言ってるんじゃない。……恥ずかしいだけだ。ピンク色とか」
 豪炎寺がぼやくように言うと、一瞬きょとんとした風丸が可笑しそうに噴きだした。
「恥ずかしいって、お前そんなことくらいで?」
 風丸はくすくす笑っている。自分が笑われてると思うと、豪炎寺はなんだか不機嫌になった。
「悪いか?」
「いや、悪くはないけど」
 風丸は必死に笑いをこらえようとしている。何度か咳払いして、息を整えた。
「お前がそれくらいで恥ずかしがるとか、全然思わないからさ」
「俺だって、恥ずかしいと思うことだってある」
「そうだな、ごめん」
 素直に謝る風丸を見て、ああ、これこそが風丸だと豪炎寺は思う。このさっぱりした気性が、風丸らしさなのだと。
 豪炎寺が思い直してると、風丸はマーカーをピンクからブルーに替えた。そして再び説明しながら、ノートに書き込んでいく。
「色なんか、何でもいいんだ。要するに効率よくノートを取ろうと思ったら、こんな風に一目でわかるようにしとけば便利なんたぜ」
 ノートの書き込みに下線を引いたあと、風丸はマーカーで『ここ重要!』と注意書きを入れる。
「ああ」
 豪炎寺が相槌を打つと、風丸はマーカーを立てて一旦休めた。
「お前はいつもこうやってノートを取っているのか?」
「まあな。やっぱ、どうしても部活やってるとそれだけ勉強時間が取れなくなるだろ。それでいっぺん、成績が落ちそうになったから、効率よく勉強する方法を探してて……。で、結局ノートの取り方を工夫する事で落ちついた」
「なるほど」
「まあ、俺の真似しろってわけじゃないけどな」
 豪炎寺が感心していると、風丸ははにかんだ顔で応えた。

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 そうやって、ふたりで話し合いながら勉強に勤しんでいると、ドアをこんこんと叩く音がした。ひょいと顔をのぞかせたのは、妹の夕香だ。
「お兄ちゃん。ちょっといい?」
「どうした、夕香」
 手を休めて振り返ると、夕香はにこにこ微笑みながら部屋に入ってくる。「あのね、あのね。いま、学校のお友だちとでけしゴムあつめがはやってるの。それで、きょう交換したんだけどー」
 夕香は後ろに回していた手をぱっと
差し出した。手の中には小さなサッカーボールを模した消しゴムが乗っていた。
「これ、風丸お兄ちゃんにあげる」
「俺に!?」
 風丸が驚いた顔で尋ねると、夕香はこくんと頷いた。手の中の丸い消しゴムを風丸の両手に握らせる。
「本当かい? ありがとう、夕香ちゃん」
 夕香はにっこりとして笑顔を保ったまま、豪炎寺の部屋から出ていった。
「じゃ、おやすみなさい。お風呂冷めないうちに入りなさい、だって!」
 ことづけを残して夕香が出ていくと、 風丸は豪炎寺をじっと見上げた。
「もらっちゃった。これ、蹴ってもいいのかな?」
「お前の好きにしたらいいんじゃないか」
「うん!」
 さっそく風丸は消しゴムのボールを机に置くと、まずは軽くさばいた。足で感触を確かめるように、転がしていく。
「どうだ……?」
 豪炎寺が尋ねると、はしゃいだ顔で答えが来る。
「ああ。いいぜ、これ! ドリブルの練習にはもってこいだ」
「それは良かったな」
 こんな嬉しそうな風丸は、久しぶりに見た気がした。ボールを蹴りながら、ジグザグと動くさまは確かに月曜日以来だった。
 風丸の動きを目で追っていると、そのうち豪炎寺も一緒にやりたくなり、指を使ってディフェンスを仕掛けてみた。
「おっ、負けるかよ!」
 風丸が楽しんでるのを見て、今度は筆立てを机の端に置いてみる。
「風丸。ここにシュート打ってみろ」
「ああ!」
 軽い声で受けおうと、風丸は机に置いたボールを思いきり打ち込んだ。
 その刹那。
 風丸が打ったボールは、豪炎寺の頬先をびゅんとかすめ、机端にあった筆立てを壊すかの勢いではじき飛ばした。
 弾かれた筆立ては派手な音を立て、机の上で転がり、何度も叩きつけられたあと、やっと動きを止めた。
 豪炎寺は信じられない顔で筆立てを置きなおす。ダイキャスト製の筆立てはかなりの重さがあり、ちょっとやそっとの衝撃では揺れるはずがないものだ。
「あ……、ああ。す、すまない。力を加減したつもりなんだが」
 風丸は青ざめた顔でそう言うと、慌てて首を振った。
「あ、違う。つい、力が入ってしまって……、だ、だから……俺、は……」
 風丸はうなだれて机の上で立ち尽くしている。手がぶるぶる震えていた。
 豪炎寺は風丸が打ったボールを探した。顔をかすめ筆立てに当たったボールは、跳ね返って机の隣にしつらえた本棚の端に転がっている。
 指で拾い上げると、消しゴムのボールは表面に黒く擦ったあとが残っていたが、壊れてはいないようだった。
 机に戻ると、風丸は立ち尽くした姿のままでいた。ボールをそっと足元に置いてやる。
「風丸。今のシュート、すごいじゃないか」
 呼びかけてみても、風丸は答えない。
 力を加減した? それとも力が入り過ぎた?
 さっき風丸が言っていたが、今の様子では言い直した方が真実とは思えなかった。
 ふと、おとつい一之瀬が言っていた言葉が、頭に浮かんだ。
「もしかして、エイリア石の影響が今頃出たとか……」
 その時はみんなに、空気の読めない奴だと諌められたが、もし、一之瀬が言っていたことが真実だとしたら……。
「風丸」
 豪炎寺はもう一度風丸に呼びかける。返事はなかったが、尚も言葉を続けた。
「お前。その力はエイリア石の……」
「その通りだよ」
 絞るような声で、風丸は答えた。手の震えは止まず、顔は俯けたままだ。
「俺の中……、あの力はまだ残っている」
 風丸は震えの止まらない手を開いてじっと見つめる。
「あの石は円堂が壊したんじゃなかったか」
 あの時、風丸や染岡たちがエイリア石の力で剣崎に洗脳されていた時、豪炎寺は見た。風丸の首にぶら下がっていた妖しい紫の光を放つ石は、円堂の必死の説得で粉々に砕け散ったのを。
「そうだ。円堂のお陰で俺は。……なのに」
 大きく開いた右手を、風丸はぎゅっと握りしめる。
「なのに、あの力は俺の中から消えてなかったんだ!」
 風丸の声は苦しげに震え、かすれていた。
「何故かは分かるか?」
 豪炎寺が問うと、風丸は悲しげに首を振った。
「分からない。とにかく、あの力は消えてなかった。最初は戸惑ったよ。あの石は砕けたのに、力は元のままだったから。だからなるべく、誰にも悟られないように力を加減するようにしてた」
 風丸はぽつりぽつりと話し始める。豪炎寺は黙ってそれを聞くことにした。
「エイリア石っていうのは、どうやら人の潜在的な力を引き出し、なおかつ強力なエナジーを与えるらしい。通常よりも強い力を出せば、その分、反動や疲労が出るんだが、エイリア石はそれを軽減してくれる。だが、エイリア石がない状態で力を出し続けると……」
 そこまで言うと、風丸は自嘲気味に苦笑いした。
「どんなに力を加減していても、夕方頃には力が尽きてしまうんだ。学校から家に帰ると、そのままベッドで眠りこけてた。夕飯を食う間もなく、な」
 豪炎寺は胸にこみ上げてくるものを感じた。風丸は誰に知れることもなく、苦しい思いを抱えていたのだ。
 そして、風丸に言われてやっと気づいた事がある。勉強は朝にやっているらしいということ。やけに寝ている姿を見たこと。
 昨日も、あの避難訓練の騒ぎのあと、風丸はポケットの中でいつの間にか眠っていた。今日だって豪炎寺が学校から帰った時も、風丸は寝ていたじゃないか。
 そもそも豪炎寺の目の前で体が縮んでしまった時も、風丸はふらふらと辛そうにしていた筈だ。
「お前がよく寝ていたのも、その所為だったんだな」
 豪炎寺が言うと、風丸は頷く。
「勉強を朝にしているというのも、夜にできないからか?」
「ああ。朝くらいしか時間がないからな。効率のいいノートの取り方は元々やってたんだが、おかげで役にたったよ」
「誰にもその事を話してないのか? 円堂には?」
 豪炎寺の問いに風丸は首を振って応じた。
「言えるワケ、ないだろ。あいつは俺の事でずいぶん苦しんだ。もうあんな思い、円堂にはさせたくないんだよ」
「しかし」
「分かってる。そもそも、悪いのはあんな力に頼ろうとした俺の所為なんだから……」
 風丸は俯きながらも、右手を何度も握っては開いた。
「でも、お前ひとりが辛い思いをしなくてもいいじゃないのか?」
 豪炎寺はそう声をかけたが、風丸は何も答えない。
 風丸の気持ちを考えると、それ以上、なにも言わないのがいいのかもしれない。だが、豪炎寺は無性に風丸のために何かしてやりたかった。
 今、風丸の足元には夕香があげた消しゴムのボールが転がっている。豪炎寺はふと、そのボールを置き直した。
「風丸。打ってみろ」
「えっ?」
「そのボール、打ってみろ。思いっきりな」
 風丸はたじろいで豪炎寺を見上げた。
「思いっきり、って」
「お前、さっき言ってた分だと、しばらくのあいだ加減してて、力一杯打ってないんじゃないか? だったらこの際だ。やってみろ」
「でも……」
 風丸は躊躇していたが、豪炎寺が首を横に振るのを見ると、息を呑んだ。足元のボールを手に取り、じっと凝視する。
 やがて目を閉じると、ボールに額を押し当てた。ほんのちょっと、そうしていたが、すぐに目を開けるとボールを自分の手前に置いた。
「やってみる」
 決心した顔で豪炎寺に頷くと、足でボールを引き寄せる。豪炎寺は筆立てを前に倒して、手で押さえると風丸に合図した。
 風丸は深呼吸すると、次の瞬間、力の限りボールを蹴りつけた。ボールは凄まじい回転をつけて、まっすぐ豪炎寺が押さえている筆立ての開口部へと飛んでゆく。
 次の瞬間、豪炎寺は鈍い音とともに押さえていた筆立てに重い衝撃を感じた。思っていたものよりずっと、手のひらにずしり、ときた。
 これが、今の風丸の力なのか……。
 そう思って前を見ると、風丸が深く息を呑んでいる。
「風丸。すごいな、お前は」
 豪炎寺が呼びかけると、風丸はえっ、という顔をした。
「お前はすごい。俺も負けられないな」
「そんな……」
「元の体に戻ったら、俺と一緒にサッカーしよう」
「豪炎寺……」
「お前と競いたい」
 じっと目を見つめると、風丸はわずかに瞬きしたが、ふっと笑みをこぼした。
「うん。俺もお前と一緒にサッカーしたい!」
「ああ!」
 互いに気持ちを認めあうと、じんわり胸が熱くなるのを感じた。

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 それから、いつものようにふたりで風呂を浴び、寝巻きに着替えて寝ることにした。
 フクさんお手製のパジャマを身につけた風丸は、髪を下ろしている所為か、普段より幼く見える。
 本当なら、風丸のために用意した寝床で寝るのだが、昨夜のようにふたり並んで豪炎寺のベッドに横になった。
「あのな、豪炎寺」
 横になって少し経ったあと、だしぬけに風丸が話しかけてきた。
「どうした?」
 何の気なしに応えると、風丸は豪炎寺をじっと見つめてぽつりと話し始めた。
「さっきな、ノートの取り方の話のときなんだけど」
「ああ」
「お前、俺のやり方が女みたいで嫌だって言ってただろ」
「色の話だぞ、それは」
「うん。いや、それでちょっと昔のこと思いだしたんだ」
「昔?」
 風丸は豪炎寺に向けていた視線を天井へと移した。まるで、遥か遠くを見据えるみたいに。
「俺が小学生の頃、クラスメイトの女子で俺をたびたび苛めてくる子がいたんだ」
 豪炎寺はぎょっとして風丸を見た。風丸は視線を真上に向けたままだ。
「その女子、いっつも俺を『男子のくせに』って言ってたぜ。口癖みたいにな。俺、その頃から髪を伸ばしてたからかな」
 豪炎寺は何も言えずに、ただ風丸の横顔を見ていることしかできなかった。
「だから、髪を引っ張られたり、上靴やリコーダーを隠されたりなんか、しょっちゅうだったぜ。明らかに犯人はその子だったけど、悪びれもせずに『ふん』って横向いてさ。今でこそ笑い話だけど、その当時はムカついてしょうがなかったな」
 話を続ける風丸の顔は笑っている。豪炎寺は少々ほっとした。
「その女子や同調した奴らに酷いことされても、俺には円堂がいたから平気だったんだ。たとえクラス中が俺を苛めたって、円堂だけはずっとそばにいて俺を守ってくれたから」
 昔話をし続ける風丸の視線がふと、ゆるんだ。何か、感慨深いものを思い出したのか。そこまでも風丸と円堂のあいだには深い絆があるのだと、豪炎寺は実感した。
「それで、学芸会の時さ。クラスでシンデレラの劇をやることに決まったんだ。そしたら、その女子が俺をシンデレラ役に推薦しやがってさ」
「シンデレラ!?」
 豪炎寺が思わず訊きなおすと、風丸が可笑しそうに鼻で笑う。
「ふざけてるだろ? 俺が女みたいだからって当てこすりさ。もちろん、俺や円堂は反対したけど、多数決で俺に決まってしまったんだ」
「それで」
 豪炎寺は深刻な目で風丸を見つめる。だが、風丸は視線をすぐに天井へと戻してしまった。
「ムカついたけど俺は、腹を据えたな。こうなったら、とことんシンデレラになりきってやろうと思って、必死で練習したよ。で結局、学芸会の劇は俺たちのクラスが一番に決まってな。会場は拍手喝采。PTAや先生たちにも好評だったくらいさ」
 風丸は一旦話を切る。興味を持った豪炎寺は風丸が続けるのを待った。
「で、それから俺への苛めはぱったり止んでしまった。俺がシンデレラ役をやったことで、やっとクラスメイトは俺を認めてくれたんだ。根性あるってな」
「その女子はどうなったんだ?」
 尋ねると、風丸はゆっくりと豪炎寺を見た。
「その子だけは俺を認めも肯定もしなかった。ただ俺のことを無視するだけで、苛めるのはやめたけどな」
「そうか……」
「話はこれで終わりだ。悪かったな、くだらない話で」
 話を終えた風丸を、豪炎寺はじっと見続けた。風丸の話は、豪炎寺にとってずいぶん興味を惹かれたが、ひとつだけ、気にかかることがあった。
「風丸。その女子のことだが」
「ん? 言っとくけど、その子とは別の中学だから、そのあとどうなったかまでは知らないぜ?」
「違う。その女子はお前のことが好きだったんじゃないのか?」
「えっ?」
 風丸はびっくりした顔で豪炎寺を見る。そんなことは想像もしてなかったようだ。
「そんな……、まさか」
「お前が好きだったからこそ、気を引きたかったんじゃないのか」
 豪炎寺には確信があった。それは、いつも風丸と円堂が一緒にいるところを見ていたからだ。
 苛めの原因に嫉妬があるのを感じたのは、それが普段、風丸と円堂へ感じる豪炎寺自身の気持ちだからだ。
 言われた風丸はといえば、不思議そうに首を傾げている。
「そうかぁ? 全然そんな風に思わなかったぜ」
「好きだからこそ苛める。よくある話だ」
「そんな……。そんなの、ずいぶんガキっぽい話だぜ……」
「子供だからだろう」
「そんな……」
 風丸の声はそこで途切れた。ふと見ると、風丸は目を閉じて眠りについていた。
 ああ、そうか。エネルギー切れか。
 豪炎寺はそう気がつくと、タオルケットを寝ている風丸にかけてやった。
 部屋を見回して、机を見る。夕香があげた消しゴム製のサッカーボールが転がっていた。
 豪炎寺はベッドから起き上がって、そのボールを手にした。表面には黒い擦りあとが残っている。
 風丸の話を聞いて、一体自分は何をしてあげられるのだろうと思った。もちろん、一番にしてやらなければならないのは、風丸の体を元に戻してあげることだ。
 だが、それ以外にも何かしてあげたい、という意思が心の奥から沸きあがってくる。
 ボールと、さっき吹き飛ばした筆立てを交互に見て、豪炎寺はふと思いたった。
 そうだ。あれなら、風丸も喜ぶに違いない。
 豪炎寺は確信すると、材料を求めて部屋を抜け出した。

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~六日目~


 気がつくと、豪炎寺の前には風丸が立っている。彼の頬は紅潮し、どこか儚げだ。
 ぽつんと立っている様が、妙なくらいにせつなく思えるので、どうしたのかと尋ねた。
「豪炎寺、俺……なんだか体が苦しくて」
「苦しい? どこがだ」
 豪炎寺の問いに、風丸は赤い頬をさらに赤らめた。体は震えている。豪炎寺はそっと頭の先に触れた。
「あ……、豪炎寺」
 風丸は微かにうめき声をあげた。一体どこが悪いのだろうと、髪を撫でてやる。
「豪炎寺。……あの、さすってくれないか? 俺の……体」
「本当に悪そうだな。さすってやればいいのか?」
 豪炎寺が訊くと、風丸は恥ずかしそうに俯いていたが、決心してシャツをめくりあげた。裾から、素肌が覗く。緩やかな胸としなやかな腹部のライン……。
 風丸を介抱しようとして、豪炎寺はこれが夢だと気づいた。いくらなんでもいつもの風丸なら、こんな風に他人に身を任せることなどない。
 だが豪炎寺はほくそ笑む。夢なら、どんな行為をしても、怒られるともないし、咎められることもないだろうから。
「分かった。すぐ楽にしてやるからな、風丸」
 豪炎寺は風丸に囁くと、人差し指の先で肌をそっと撫でる。風丸は仰け反って吐息を漏らした。
「あっ……。ご、豪炎寺」
 豪炎寺は風丸の体を掴むと、ゆっくり親指の腹で素肌の上を撫でまわした。豪炎寺の指がうごめくたび、風丸は体をよじらせて切ない声をあげる。
 風丸の声に挑発されるように、豪炎寺も動かしている指を激しく擦りあげた。
「ああっ、気持ち、いい……!」
 これは夢だ。本当の風丸はこんな対応なんかしないし、こんな声も出さない。
 そう、分かってはいても、豪炎寺はその手を休めることはなかった。風丸の胸元を親指でさすってやりながら、片方の指で頭の先をゆっくり撫でる。そうしてやると、風丸は歓喜の声さえあげるのだ。
「どうだ、風丸?」
 尋ねると、風丸は頬を上気させてこくんと頷く。
「うん……。もっと、豪炎寺……」
 豪炎寺はいい気分になり、更に風丸をもっと良くしてやろうと思った。風丸の着ているシャツを脱がすと、次に下のハーフパンツを取り去ろうとした。
「豪炎寺……!」
 なんだか、首元の辺りに軽い衝撃を感じる。そう気づいたら、今度は耳元に風丸の声が響いた。
「おい、豪炎寺ってば!!」
 はっと目を覚ますと、風丸が自分の顔を覗きこんでいた。豪炎寺は慌てて起きあがる。途端に、どうしようもなく下腹部が熱くなっているのを感じた。
「どうしたんだ? またうなされていたから、俺、心配になって……」
 風丸が気遣っている顔を見せているというのに、豪炎寺は股間の熱を持てあましている自分の状態に、滅入っていた。
「なんでもない」
 言い訳にならない言葉をつぶやいて、そしらぬ顔をすると、風丸はいぶかしげに首を捻る。
「大丈夫かよ?」
 心配そうに手を出してくる風丸を、豪炎寺は思わず手で払ってしまった。勢いで風丸の小さな体はもんどり打って、豪炎寺の上を転げ落ちる。
「うわっ!」
「あ……すまない」
 運が悪い。そんな言葉で片付けるには、いささか乱暴かもしれない。風丸の体は豪炎寺の体の上にとどまっていたが、転がった先は股間の上だった。
「もう! どうしたんだ、一体……」
 掴まる場所を手を伸ばした風丸が、とにかく探り当てた箇所は硬くせり上がっていて、その違和感に目を丸くした。スエットのズボンは生地が比較的薄手だった所為か、己が触っているものの正体に気づいたとき、風丸はびくっと鳥肌を立てた。
「あっ? あああ、うわっ!!」
 慌てて豪炎寺の体から飛び降りた風丸は、まるで汚らしいものを見るかのように、嫌悪で一杯な顔をする。
「豪炎寺……、お、お前!」
 豪炎寺本人も、風丸の手が自分の屹立したものに触れたことに、内心慌てていた。
「なっ、何だ?」
「お前、何デカくしてんだよ……。朝っぱらから!」
「あ、朝だからだ」
 まさか、風丸にこんな自分を見せることになろうとは、思っても見なかった。できるなら、格好いいところだけを見せたい。ささやかだが行為を持っている相手にできる、精一杯のことだった。
「お前だって、起きぬけのときだとか、朝勃ちくらいするだろ? 男なんだから」
 その現象は、男ならごく当たり前に経験することだったが、風丸は聞いた途端、顔を真っ赤に染めてしまった。そして言うに事欠いて、風丸の口から出たのは、この一言だ。
「す、するわけないだろ!!」
 豪炎寺は呆れて風丸を見おろした。ベッドの上で片膝を立てて、腕組みする。
「嘘をつけ。男なら当たり前だ」
 きっぱり言ってやったが、風丸は首をぶるぶると振った。
「しないぞ。豪炎寺じゃあるまいし!」
 さすがに、かちんときた。
 なんて言い様だ。しない訳がないだろうに。
「バカなことを言うな。お前、もう生えてるだろうが」
「生えてる、って何が……?」
 きょとんと首を傾げた風丸が、豪炎寺の言った意味に気がついて、顔どころか全身を真っ赤にしたのは無理もなかった。
「お、お前! 風呂はいってるとき、見てたな!!」
「見たくて見たわけじゃない」
 豪炎寺は不機嫌な顔で、横を向いた。
「見てるじゃないか! うわ、いやらしい。どういう目で人を見てるんだか……」
 おそらく、売り言葉に買い言葉とは、今のようなことを言うのだろう。忌々しく思った豪炎寺は乱暴な仕草でベッドから降りると、着替えだした。
「な、何だよ」
 気分を害している風丸がとげとげしい声で身構えると、豪炎寺はつんと横を向いたまま言い放った。
「トイレでオナニーしてくる。お前がいると邪魔だからな」
「な!」
 それはどう言う意味なんだ、と風丸がわめいていたが、それは無視してトイレにかけこんだ。用をすませると、便器に座り込んで頭をかきむしる。
 違う。あんなことを言うつもりじゃなかったんだ。つまらない言い争いなどしたくはなかったのに……。
 そう思っていても、突然湧きあがった小さなわだかまりは、豪炎寺と風丸の間に深い溝を作っていた。
 その日は土曜日で学校はなかったが、豪炎寺の父親は出勤で、妹の夕香も歯医者の検診があったのでそれぞれ予定があった。朝食を済ませると、豪炎寺は外出用のパーカーに腕を通した。
「お前も出かけるのか?」
 おずおずと風丸が話しかけてくる。だが、豪炎寺はろくに返事もせず、部屋をあとにした。

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 秋晴れの朝は、陽の光がやたらと眩しく、この季節にしては肌暖かい。あてもなく外へ飛び出したが、豪炎寺には何処に行ったらいいのか、自分でも分からなかった。
 学校に行っても校門は閉じてるだろうし、図書館はまだ開館にはまだ早い。せいぜい、近所ではコンビニか喫茶店が開いてる程度だ。
 豪炎寺は辺りを見回してみてふと目に入った、天を突く鋭い先端に釘付けになった。
 この町のシンボルである鉄塔だ。
 豪炎寺の瞳に安堵が宿った。あそこなら、確実にあいつがいるに違いない。
 パーカーのポケットに両手を突っ込むと、豪炎寺は鉄塔広場へと足を向けた。ゆるい坂道を登った先にその広場はある。
 はたして、広場からは聞き慣れた声が聞こえてくる。階段を上がって、豪炎寺は振動で揺れている梢の下で特訓に精をだしている円堂に声をかけた。
「円堂。やっぱりここにいたんだな」
「豪炎寺じゃないか。おはよう!」
 巨木の枝にくくりつけたワイヤーにぶら下がっている古タイヤと格闘していた円堂が、豪炎寺に気づいて振り向いた。
「なんだ? お前、ヒマなのか?」
「まあ……な」
 ポケットに手を突っ込んだまま、豪炎寺は木の幹にもたれ掛かった。
「そっか。だったら、特訓に付き合ってくれないか?」
「いいだろう」
 豪炎寺は頷くと、木の傍に置いてある古びたサッカーボールを手にとる。円堂が自分に向き直るのを確かめて、思い切りボールを蹴った。
 はっ、と昨日の光景が胸によみがえる。
 机の上で、力のままにボールを蹴る風丸の姿を。
「よーし! いいぞ、豪炎寺。やっぱ、タイヤ相手より、こっちの方がいいなぁ!」
 快活な円堂の声で我に返る。
 豪炎寺はかぶりを振ると、円堂が返して寄越したボールをもう一度蹴った。
 スパーン、と小気味のいい音で、円堂がボールを受け止める。
 それなのに、豪炎寺の胸にはもやもやと苦しさが募った。
「よしっ! もっといいの、頼むぜ!」
 円堂が威勢のいい声で返すボールをトラップして蹴りかえす。頭の中で思い浮かぶイメージが、どうしても昨日の風丸と重なってしまい、豪炎寺はこみ上げてくるものに嘆きたくなった。
「おい、……豪炎寺?」
 膝に手をついて肩であえいでいると、円堂が心配げな顔で豪炎寺を覗き込んだ。
「どうした? なにか……あったのか」
 栗色の丸い瞳と視線があって、豪炎寺はまぶたを閉じた。
「円堂……」
「ん?」
 しばらく黙り込んだ末にやっと絞り出した言葉を、円堂はじっと待っていてくれていた。
「お前、ケンカをしたことはあるか? その……風丸と」
「風丸?」
 きょとんとした顔で円堂は首を傾げた。
「あ、いや。ダーク・エンペラーズのことは勘定に入れなくていい」
 円堂が眉をひそめたのを見て、豪炎寺は補足した。円堂があのことを未だに気に病んでいるのは、どことなく認識していたからだ。豪炎寺がそう言ってやると、円堂はほっとした顔をしている。
「風丸とかぁ。そうだなぁ……」
 円堂は首をひねって考えはじめた。
 ああ、やっぱり……。
 豪炎寺はこんな質問をしてしまったのを、後悔した。やはり、普段から円堂と風丸の仲の良さを見るにつけ、このふたりには諍いなどある訳がないのだろう。
「いっぺんだけなら、凄ぇやつしたこと、あるぜ?」
 だが、円堂の口からは意外な言葉がこぼれた。豪炎寺は息を呑んだ。
「あるのか。お前たちでも」
「あるって。あれは確か……。小5の時だったかな?」
 円堂は腰に両手を当てて、ふと周りを見回すと、すぐそばのベンチに豪炎寺を招いた。スポーツバッグを開けて、中に入れてあった水筒を取り出し、一旦喉を潤した。
 円堂はスポーツドリンクを飲むと、懐かしむように語りはじめた。
「小5の頃さ。それまで、俺と風丸とは毎日のように一緒に遊んでたんだ。よくあの、河川敷の公園に行ってはさ。俺はいつもボール持ってったから、自然とあいつとサッカーすることが多かったな」
「風丸は陸上出身じゃなかったか?」
 円堂の話を聞いていて豪炎寺は、ふと思った疑問を口にした。
「うん、確かにそうなんだけどさ。俺と一緒のときはよくつきあってくれたんだぜ」
「そうか」
 円堂のサッカー好きを知っている身となれば、彼の言っていることは納得できる。
「でさ。そんな感じでいつも遊んでたんだけど、小5になったある日、風丸が陸上部に入ることになったのさ」
「風丸が自分で決めたのか?」
「う~ん。先生に頼まれたんだと思う、確か。まあ、風丸も走ること自体は凄い好きだったからな」
 豪炎寺は頷くと、円堂に話の続きを促した。
「で、風丸が陸上に行くって話になったとき、俺に聞いたんだ。『いいのか』って」
 円堂はそこまで言うと、一旦切って、ドリンクの入った水筒に手を伸ばした。一口喉を潤し、口元をぬぐう。
「それで?」
 円堂が一息ついたのを見て、豪炎寺は尋ねた。
「俺としてはさ。やっぱ、風丸が望むとおりにするのが一番だよな……って思って、『もちろんだ』って答えたらさ。いきなりあいつ、怒りだしちゃって」
「怒った? 風丸がか?」
 豪炎寺が尋ねると、円堂はこくこくと頷いた。
「ああ。『本当にそれでいいのか』って風丸は言ってたんだけど、俺は本気の本気だったからな。でも、それからしばらく、風丸は俺と口聞いてくれなくなって……」
 秋特有の高く広がる空に、風に吹かれた梢がざわめいている。円堂は虚空をながめて、溜息ともつかない息を吐いた。
「俺は、風丸が走るのが好きだって知ってたし、走ってるときの風丸はすごくキラキラしてて、何よりも楽しいんだろうなって感じてた。だから、風丸が怒ってるのは、全然わけが分からなかったよ。今でもさ」
 豪炎寺は黙って円堂の話を聞いていた。円堂が理解できなかった、風丸の気持ちが分かる気がしたのは何故だろう……。
「でも、まー、仲たがいしてたのはせいぜい一週間くらいでさ。どっちからだったかは忘れたけど、気まずくなってるのに耐えられなくなって、お互い謝ってケンカは終了したぜ。それからはもう……。アレ以外では」
 ベンチに腰かけた円堂は、所在なさげに脚をぶらぶらしていた。少し辛いことを思い出したのか、眉をほんのちょっと、曇らせている。
「円堂」
「なんだ?」
「風丸はお前に、引き留めて貰いたかったんじゃないか?」
 思い迷ったが、そのものずばりに豪炎寺は頭に浮かんだことを口にした。
「そ……」
 円堂は口をぽかんと開けてあっけに取られていた。
「そんなワケないだろ! 風丸にとって陸上部から誘われたのは、すごいチャンスで、あいつだってもっと速く走れるって、言ってたし……」
「風丸はひとりでサッカーボールを蹴っているお前を見兼ねて、迷ってたんじゃないのか」
 その場にいたわけでもないし、本人に聞いたわけでもなかったが、風丸の気持ちがありありと分かった。自分よりも他人を尊重する彼ならば、そう思うのは必然だろう。
「でも、だからと言ったって、俺はやっぱり風丸を喜んで陸上部に送り出したと思うぜ?」
 きっぱりと円堂はそう言った。その言葉も豪炎寺は織りこみ済みだ。
「ああ。でも風丸は、お前にそう言ってもらいたかったんだと思う」
 豪炎寺が答えると、円堂は頭を抱えだした。
「じゃあ、おれのやったこと逆効果だった、ってワケか?」
「そんな思いつめなくていい。結局、結果はオーライだったんだろう?」
「ああ! 陸上始めた風丸はめちゃめちゃ足が速くなってさ。元から速かったのに、さらに磨きがかかったらしいから、すげー喜んでたよ。……まさか、2年も経ったいま、また風丸と一緒にサッカーやれるとは思ってもみなかったけど」
 不思議だなぁ、と円堂は呟くように言った。
 風丸が再び円堂とサッカーを始めたのは、元はと言えば豪炎寺が雷門に転校してからの騒動が発端だ。
「そうだな」
と豪炎寺が答えると、円堂も、
「運命なのかもな。風丸のことも、お前も」
と言う。豪炎寺は密かに微笑んだ。
「しかし、風丸がお前を放っておけるとは思えないがな。お前と風丸のことは、いわば必然だっただけで」
「そっかなー?」
「そんなの決まってる。風丸は他人のことは放ってはおけない奴だ。いつだって自分よりも他人の幸福を考える」
 豪炎寺がそう言うと、円堂は目を何度も瞬かせた。
「豪炎寺……。お前、俺より風丸のことが分かってるんだな」
「えっ」
 円堂の言葉に驚くのは、そう言われた豪炎寺の方だった。
「お前なんか、すげー。……けど、ちょっと妬けるなぁ」
 流石にそれには、頬が熱くなる。
「いや。別にそんなわけでは……」
 言い訳じみた言葉を紡ぎ出そうとして、もう風丸とは五日も一緒にいるのだ、と我に返った。
 このたった五日間で、風丸のことがずいぶん分かってきた。今まで知らなかったことも、手をとるように理解できる。それほどまでに親密になっていたことを、豪炎寺は自覚した。
 それなのに、朝の俺の態度は……。
 今頃になってようやく、風丸に対して自分がとった行動を猛省する。
 一刻でも早く、風丸に謝るべきだ。
 それに気がついて、豪炎寺は自宅のあるマンションの方に向き直った。
 そわそわとした仕草の豪炎寺に、円堂が訝しげな顔をする。
「どうした、豪炎寺?」
「円堂……俺は。行かなくちゃならない」
「ん? 用事あるのか」
 豪炎寺が頷くと、円堂はにこやかに笑った。
「だったら、もう行けよ。俺は夕方までここにいるからさ。暇になったら、いつでも来いよ!」
 そう言うと、気軽に豪炎寺を送り出した。彼の寛容さに感謝すると、豪炎寺は鉄塔広場を駆けだした。

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 豪炎寺が出ていってしまってから、風丸は机に転がっていたボールを一心に蹴っていた。
 さっきの豪炎寺の態度に、いきようのない憤りを叩きつけながら。
「何だよ、あれ! 俺に対するあてつけかよ」
 朝、ベッドでまだ眠っている豪炎寺が、うなされているようだから、心配して声をかけただけなのに……。
 どちらかと言えば、ぶっきらぼうで本心をあまり見せない奴だと思っていたが、それでも彼のことは信頼していた。
「くそっ!」
 目の前に戻ってきたボールに、風丸は力の限り思いをこめる。勢いよく蹴られたボールは、まっすぐ机の先にあるゴールネットに突き刺さった。
 言葉が少なくても、自分に対する行動はよく考えられたものだった。気遣いもあり、優しく包みこんでくれる。
 特にあの、一昨日校内ではぐれたあと、息せき切って駆けよってくれた時の安堵感は今まで味わったことのないものだった。なのに。
「豪炎寺の……バカ野郎!」
 今朝の彼の態度は、今まで築いた信頼を覆すのに十分だった。
 ころんと転がって戻るボールを、風丸は腹立たしく蹴りつける。怒っているのに、目から涙の粒があふれてくる。
「くそっ。くそぉ!」
 天井を仰いで、まぶたをぎゅっと閉じた。目元が熱い。思わず、顔を伏せた。
 何故俺は、こんなにも悔しいのだろう……。
 そう、思ったらボールを蹴るのさえ、虚しくなった。
「だって、豪炎寺の奴が……」
 言い訳じみた言葉を吐こうとして、風丸はある違和感にやっと気付いた。
 顔をあげて、目の前を見つめる。
 机の上の、端っこにあるゴールネット。
「ゴールネット?」
 風丸はまじまじと前方を見た。近寄って、昨夜まではなかった異物を確かめる。金属の棒を折り曲げてあるネットは、よく見るとハンガーか何かを加工したようであるし、白いネットは洗濯用のものに似通っていた。それを動かないように、底面に重たそうなプラスチック製の板を貼り付けてあった。
 このゴールネットのミニチュアは、おそらく誰かのお手製の様で……。
「豪炎寺……、あいつ」
 胸の内を、熱いものがこみ上げる。多分。いいや、これは確実に豪炎寺が自分のために作ったものだ。
 自分の……、俺のために……。
 そう感じたら、さっきまでの怒っていたことがとてつもなく恥ずかしくなった。豪炎寺はいつも、自分のために苦心してくれているのに、なんであんなことを言っちまったんだろう。
 風丸はゴールネットの金属棒を手でさすると、うなだれた。


 豪炎寺が自宅のマンションに戻ると、まず夕香とフクさんが出迎えた。
「風丸は!?」
 訊くと、ふたりがおずおずと答える。
「それが修也さんの部屋にこもりきりでして」
「夕香があそぼ、って言っても、お兄ちゃんを待ってるからって」
 それだけ聞くと、急いで自室に上がった。
「風丸!」
 果たして風丸は、夜中に作ったゴールネットの隣でじっと立ち尽くしていた。
「すまない。今朝の俺はどうかしていた。お前の気持ちを考えてなくて……。虫のいい話だが、許してくれないか」
 とりも直さずそう詫びると、風丸はただ首を横に振った。
「謝らなきゃならないのは、俺の方だ。あんなくだらないことで腹を立てちまった俺が悪い」
「もう、怒ってないのか?」
「お前の方こそ」
 互いに謝っていると、何故だか笑顔がこぼれた。
「よく考えたら、デリカシーのないことをお前に言ってしまった。ああいうのは、お前も嫌なんだろう?」
 豪炎寺が素直な気持ちで話すと、風丸はにこやかな顔で答える。
「いいよ。実際、お前の言うとおりだったし。あの程度でムカつくだなんて、大人げなかったよ」
 豪炎寺は風丸の言葉をほっとして受けとめた。風丸はもう怒ってはいない。
「あんなことで、お前と仲たがいするのはやっぱ、嫌だ。せっかく、俺たち仲良くなったのに」
 風丸がそう言うと、豪炎寺も頷く。
「ああ。これからもずっと、俺たちはお互いにいい関係にしよう」
 熱意をこめて言うと、風丸は頬をほんのり染めた。こくんと頷き、豪炎寺に笑いかける。
「これ……。このゴールネット。お前が作ったんだな」
 風丸は、ネットの支柱を愛おしそうに撫でながら言った。豪炎寺はああ、とほくそ笑む。
「昨日のお前を見てて、あった方が喜ぶかと思ってな」
「ありがとう。嬉しいよ」
「本当か?」
「当たり前だろ! お前の心遣いがよく分かった」
 風丸が自分に向ける視線が熱く感じられて、豪炎寺は心がくすぐられる気分がした。
「だから……良かった。お前と仲直りできて。本当に……良かった……」
 どこか、たどたどしい声で風丸は豪炎寺にそう言った。嬉しくなって頷き返す。
 だが次の瞬間、風丸はその場に崩れ落ちた。
「風丸?」
 豪炎寺がいつも使っている机の上、きのう夜中までかかってこしらえたゴールネットのそばで。風丸の小さな体は、倒れた。
「風丸!」
 豪炎寺はあわてて、倒れた風丸を助け起こした。手足に触れて、初めて風丸の体が熱っぽいことに気づき、息を呑む。
 さっき風丸の頬が赤く染まっていたのは、恥ずかしいからではない。熱の所為だ。
 額を指先で触れる。昨日までの風丸より、ずっと高い体温だ。
 風丸は荒く息を吐いている。豪炎寺はぞっとした。


 豪炎寺の父親が診療を終えて、自宅のマンションに帰宅したときには時計の針が4時近くを指していた。
「父さん! 風丸が……」
「風丸お兄ちゃんがお熱なの!」
 玄関で靴を脱いでいた父は、急いで豪炎寺の部屋に行くと、ベッドに寝かされている風丸の体を診た。
「咳はないのかね? 頭痛は?」
 てきばきとした仕草で、豪炎寺の父は風丸の体温を測り、脈をとった。そこは流石に医者の仕事だと、豪炎寺は思う。
 ただ、父が風丸を診た後、長い溜息をついたのが気になった。
「父さん、風丸の容体は……」
 書斎に入った父親を追いかけて、豪炎寺は尋ねた。父は椅子に深く座ると、眼鏡を取って目頭を押さえた。
「分からん。咳、鼻水はないから風邪ではないと思うが……。高熱の原因さえはっきりしない」
「分からない、って……」
 父親に診せさえすれば、すぐに良くなると思い込んでいた豪炎寺にとって、それは不安をかきたてるものでしかなかった。
「修也。風丸くんを預かってから、ずっと考えていたのだが……」
 父は慎重な面持ちで言い出した。
「風丸くんは、私の知り合いの大学病院の特殊治療のリーダーに任せて貰おうと思う」
 豪炎寺の中で、父親の言葉はとてつもなく非情に思えた。
「ど、どうしてです? 風丸を見捨てるって言うんですか?」
「修也、そこなら、ここと違って専門の医療チームをつけられる。風丸くんを元の体に戻すのも、もっと楽になるだろう」
「そんなことをしたら、風丸はもう、二度と外に出ることはできなくなるんじゃないですか!? 風丸の症状は特別です。実験台にするつもりじゃ」
「そんなことはさせないよう、お願いしておく」
「でも、父さん!」
 必死に説得する豪炎寺に、父は決定的なことを述べた。
「私は外科医だ! 風丸くんの症状は専門外だ。私には……手に負えん」
 豪炎寺にとっても父親にとっても、それは抗えないほどの自分たちの無力さを示していた。
 がくりと肩を落として自室に戻ると、ベッドの上で風丸はぐったりと
横たわっていた。
「風丸……」
 呼びかけてみても、紅潮した顔で、時折荒い息であえいでいるだけだ。
「くそっ」
 行き場のない気持ちを、机の天板に拳を叩きつけても、晴れることはなかった。このままだと、風丸にはもう会えなくなるのか……。
 そう考えると、ますます気は滅入った。
 体は元に戻らない上に、この高熱。父が言うとおりにするのなら、風丸は自分ばかりかクラスメイトらチームのみんなとも、会うことは叶わなくなるだろう。
 そう、円堂とも……。
 豪炎寺は、はっと部屋の時計を確かめた。針はもうじき5時を示している。
 いてもたってもいられなくなり、豪炎寺は部屋を飛び出した。夕香が、
「どうしたの? お兄ちゃん」
と尋ねたが、首を振るのがやっとだった。

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 マンションのエントランスを出ると、迷わず目的地へと走り出す。今朝、向かった場所だ。
 晩秋の空は既に日が落ち、夜の帳が下りてゆく中で、豪炎寺は鉄塔広場への道を走り抜けた。階段をのぼって、未だ例の場所から彼の威勢のいい掛け声が聞こえてきたことに、豪炎寺は安堵した。
「円堂!」
 呼びかけると、古タイヤ相手に特訓していた円堂が、手を休めて振り返った。
「豪炎寺! 来たのか。もうそろそろうちに帰ろうかと思ってたところなんだぜ」
 丸い輪郭に笑顔をほころばせて、円堂が応える。だが、豪炎寺は彼の腕を掴むと、有無を言わせず引っ張った。
「円堂、今すぐ来てくれ」
「いや。もう帰るとこなんだけど……」
「どうしても、お前をつれて行きたいところがある!」
「どこなんだよ?」
 困惑した顔の円堂に、豪炎寺は半ば怒るように答える。
「風丸のところだ!」
「風丸?」
 円堂の、それまで人懐こい表情が、その名を聞いた途端に強張った。
「風丸って? どうしてお前が?」
「来てくれればわかる」
 街灯が辺りをほのかに照らす広場で、真剣な顔でそう告げると、豪炎寺は円堂に着いてこいと仕草で示した。円堂は強張った表情のまま、黙って豪炎寺に頷いた。登ってくる月のゆるりとした光を、いつの間にか黒い雲が覆い隠してゆく。
 マンションへと向かうふたりに、湿った空気がまとわりついた。雨粒を含んだ風が、容赦無く吹きすさぶ。それを腕で振り払って、ふたりは豪炎寺の自宅へと急いだ。
 ようやくマンションにたどり着いた豪炎寺は、円堂を自宅へ招いた。エレベーターをおりて、玄関を抜け、豪炎寺の部屋に入った円堂は、ベッドにやけに小さなものがあることに、違和感を抱いた。
 ベッドのそばに、豪炎寺の妹が座り込んでいる。豪炎寺が帰ってくると、泣きはらした目を向けた。
「夕香。風丸は?」
「お熱はさがらないままだよ……」
 妹はかなしそうに、首を振った。
「熱? 風丸は熱があるのか!?」
 円堂の問いに、豪炎寺は頷くことで応えた。だが、円堂にはぐったりとしているだろう風丸の姿は目に映らなかった。きょろきょろと風丸を捜す円堂に、豪炎寺はベッドを指差した。
「円堂……、風丸はそこだ」
「そこ、って……。そんなところに風丸はいないだろ」
 円堂は人が寝ているようには見えないベッドの前で目を凝らした。夕香が座っている前に、小さな膨らみがあるだけだ。ほんの、人形の大きさほどの……。
「え?」
 円堂が声をあげたのは、数秒もたった後のことだ。顔を引きつらせて、ベッドにがばっと覆いかぶさった。ベッドに寝かされている、小さなものが件の風丸だと分かると、円堂は声にならない声をあげた。
 目の前に小さな風丸が、紅潮させた肌で荒い呼吸をしている。いかにも苦しげそうに、眉間にはしわが寄っていた。指先で肌に触れると、高い熱が伝わった。
「な、なんで。なんで風丸は、こんな小さくなっちまってるんだよ!?」
 豪炎寺のシャツの首元をひっ掴むと、円堂は尋ねた。
「……分からない。家に帰る途中、俺の目の前でいきなり風丸は小さくなってしまった。危険だと思ったから、俺が風丸を保護した」
「いつの話だよ!?」
「一週間前だ」
「一週間前だって?」
 円堂は豪炎寺の答えを聞くと、大きく溜息ともつかない息を吐いた。すぐさま、豪炎寺に疑問をぶつける。
「じゃ、じゃあ。なんでお前、今まで黙ってたんだよ? 俺、ずっと心配してただろ」
 遂にこの質問が来たかと、豪炎寺は観念した。言いづらくて、思わず言葉は淀んでしまう。
「それは……、俺が……」
 息が詰まる。風丸の話をしてしまえば、円堂は必ず側について離れないだろう。風丸も円堂だけを頼りにするだろう。そんな事は言うまでもなく分かっている。
 だから、言えなかった。
 自分だけで、風丸の視線を独り占めできるこの機会を失いたくなかった。
 それが愚かな欲望だとしても。
 だがもう、今の豪炎寺にはそれを隠し通す道理はなかった。
「俺の所為だ」
 そう、言おうとしたとき、豪炎寺の言葉は誰あろう風丸の言葉でさえぎられた。
「俺が頼んだんだ、円堂」
「風丸?」
 ぜいぜいと肩で息をしながらも、伏せていた風丸は起き上がる。慌てて円堂が手で支えた。
「なんでだよ? お前、こんなになってるのに」
「……お前に、俺のこんな姿を見せたくなかったから」
 熱で朦朧としているのに、毅然として風丸は円堂に言った。
「風丸、お前……」
「お前に心配かけたくなかったんだ。すまん」
 そう言って、頭を下げる。円堂はぐっと、こみあげてくるものを堪えているようだった。
「分かったよ。もういいから、今はゆっくり寝てろよ?」
 円堂は風丸の小さな頭を撫でてやると、再びベッドに寝かしつけた。豪炎寺はそんな円堂に、廊下に行くように仕草で促した。
「どうしたんだ?」
「円堂。風丸にはエイリア石の影響がまだ残ってる」
 どう、打ち明けようかと考えあぐねたが、結局豪炎寺はそのものずばりに風丸の状況を伝えた。たちまち円堂の顔が凍りついた。
「ちょ、ちょっと待てよ! エイリア石だって!? あの石は俺たちの目の前で壊れたはずだろ!」
「ああ……、だが」
 円堂の反応は当然のことと感じながらも、きっぱりと豪炎寺は続ける。
「風丸の体にはあの石の力があったんだ。どういう訳かは知らない。今のあの状態も多分……」
「そんな!」
 円堂ががっくりと肩を落とすのを、豪炎寺は心苦しい気持ちを抱えたまま言葉を続けた。
「俺の父さんは風丸を大学病院の医療チームに預ける気だ。そうなったらもう……風丸とは二度と会えなくなるかも知れない」
「なんだって!?」
 今度こそ、円堂は心底信じられない、という顔をした。
「……人間の体が縮む、なんてことは本来あり得ないからな。そんな症例を前にして、病院側が普通に治療するとは思えない。最悪、風丸は検査や実験を受け続けることになるだろう」
 いきなり風丸の事情を知らされた上、こんなことを伝えるのは残酷だ。
 そうは思う。自分だって、そんなことを言われたら、一体どうしたら良いのか……。
 だが、豪炎寺はざわつく心を抑えた。
 ただたんたんと、事実と予想されるすべてを円堂に告げた。
 目の前で円堂の顔が青ざめてゆく。豪炎寺は見ていられなくなって、円堂から視線をそらした。
「そんなこと……させない!」
 円堂が豪炎寺の肩に、ぐっと力を込めて手をかけた。
「……もう、無理だ。風丸の熱を冷ます方法さえ、俺たちには分からない。せめてお前には、病院に行く前に風丸に会わせよう、そう思って俺は」
 こんこんと円堂を諭す豪炎寺に、円堂はきっと顔を向けた。
「そんなこと言われたって、俺は諦めない!」
 そう言うと、廊下を横切って居間で腕組みをしてベランダの外をじっと凝視していた豪炎寺の父を捕まえた。
「お願いです! 風丸を病院に連れて行くのだけはやめてください!!」
 懇願する円堂に、だが豪炎寺の父は頑なに首を横に振った。
「君の願いは受けられない。風丸くんは専門の医師に診てもらうのが最も最良だ」
「でも、それじゃ風丸は……!」
「くどいな、君は。私では手に負えんのだ。残念なことだがな」
 厳格そうな態度で豪炎寺の父はふいと横を向く。
「だったら。専門に診てもらう人を連れてくれば、病院に行かなくても、良いんですよね!?」
「そんな医師が存在するとあればな」
「じゃあ、連れてきます!」
「え、円堂?」
 豪炎寺は思わず円堂を呼び止めてしまった。
「連れてくる。って、宛てはあるのか?」
 いつも突拍子もないことをしでかす円堂だが、流石に豪炎寺は面食らってしまった。だが、円堂は豪炎寺の予想を遥かに凌ぐ表情を見せた。
「瞳子監督だ。あの人なら、こんなときどうしたらいいのか、絶対アドバイスをくれるはずだ!」
 満点の笑みで、円堂は両の拳を握りしめる。
「あっ、ああ……」
 瞳子監督はエイリア学園との死闘で、円堂たち雷門イレブンを率いた女性だ。今は逮捕された彼女の父・吉良星二郎に代わりおひさま園や企業の経営管理に追われているらしい。
 確かに瞳子監督なら、エイリア石のことは自分たちよりずっと詳しいに違いない。
 豪炎寺は円堂の考えを理解して頷いたがはた、とあることに気がついた。
「おい、円堂。瞳子監督が、何処にいるのか、知っているのか?」
 まさか、と危惧したが円堂はにっこりと笑い返す。
「分かってるよ。静岡だろ」
 そう言うと、豪炎寺のベッドに寝かされている風丸にそっと話しかけた。
「風丸、待ってろよ。絶対お前を病院なんか行かせないからな!」
 風丸は眠っているようで、円堂の言葉には反応しなかった。ただ、苦しそうな吐息だけが聞こえていた。
「じゃあ、行ってくる!」
 走りだす円堂の後ろ姿を見送って、豪炎寺はやっと胸のつかえが下りた気がした。
 だが、部屋に戻ってベッドで苦しんでいる風丸を見ると、それもつかの間の安堵だと思い知らされる。
「夕香。あとはお兄ちゃんが看てるから風丸は任せてくれ」
 ベッドの側で座り込んでいる妹をリビングに行かせると、豪炎寺は熱でぐったりしている風丸の体を手のひらで包み込んだ。小さな体を指でさすって、早く元の元気な風丸に戻れるようにと願いを込めた。
 窓の外は真っ暗になっていて、時折激しい雨音がガラスを、叩き続けていた。

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~七日目、そして~


 そこは白い部屋だった。
 部屋の至る場所に数々の計器。機械からは幾つものコードがのびて、チューブが巡らされている。部屋の真ん中には、小さなガラスのケースが鎮座しており、たくさんのコードやチューブばそれに繋がれていた。
 角が湾曲している奇妙なケースの中には、小さな小さな人影がぽつんと立ち尽くすんでいる。白い看護服に身を包んだ彼は、長く蒼い髪を肩に垂らして呆然としていた。
 そこへ、白い服の一群が部屋に入ってきた。彼らはそれぞれ書類を綴じたバインダーやパソコン、もしくは見たこともない器具を手にしている。近づいてくる一群に気づくと、ケースの中では小さな人影は怯えだした。
 ケースのガラスの壁を叩いて、何かを叫んでいる。だがその声は聞こえない。
 人影の様子を確認して、手に何かスイッチのようなものを持った白衣の男は、冷たい顔でボタンを押す。途端に人影は、雷に打たれたみたいに痙攣した。
 絶望が、彼を襲った。
 思わず、大声で呼ぶ。
「風丸!」
 気がつくと、そこは暗い自分のベッドの上で、今まで見ていたものはただの夢だと分かった。風丸を看病しているうちに、寝てしまったらしい。ここ数日風丸の夢を見たが、今のが一番最悪だ、と豪炎寺は思った。
 豪炎寺は起き上がると、傍の風丸を確かめた。側で眠っていることに、豪炎寺は心底ほっとする。まぶたは閉じたままなので、豪炎寺の寝言で起きた気配はない。
 小さな額に触れてみる。まだ熱は下がっておらず、変わらずに呼吸は荒かった。
 フクさんお手製のパジャマは汗でびっしょり湿っている。確か替えの分も用意してくれてたはずだ。豪炎寺は、まるで人形の服のような真新しいパジャマを机の上に置かれた風丸専用の衣服入れから取り出すと、風丸を、着替えさせてやろうとした。
 横たわる風丸にかぶせてある毛布代りのタオルをめくって、汗ぐっしょりのパジャマのごく小さなボタンを外す。前身頃を開いてみて、風丸の肌が汗でまみれているのに、豪炎寺ははっとなった。ベッド脇に置いてある洗面器に水をひたしてあるのを思い出し、ガーゼをその水で濡らした。
 風丸のパジャマを脱がせると、手のひらで支えながら慎重深く体を拭いてやる。不意に風丸が目を開けた。
「あ……」
 腫れぼったいまぶたで瞬くと、大きな瞳が潤んだ。豪炎寺は風丸の前髪をかき分けて、額を露わにすると冷たい水で拭ってやった。
「ありがとう。頭がすっとして気持ちいい……」
 水を含んだガーゼの冷気の余韻を味わう風丸が、昨日見た夢の中のしどけない姿と重なって、豪炎寺は動揺しかける。だが気を落ちつけ、極めて平静を装った。
 今は、そんなことに気を取られてる場合じゃない。
 体を拭き終えると、真新しいパジャマに着替えさせた。
「具合はどうだ?」
 尋ねると、風丸は苦い笑みを浮かべて首を振った。未だ熱が下がらないのでは無理もないだろう。
 豪炎寺は風丸を再びベッドに横たわらせると、タオルをしっかりと掛けてやった。
「豪炎寺」
「なんだ?」
 か細い声で風丸が話しかけてくるので、豪炎寺は耳を傾けて言葉の続きを待った。
「今まで、本当にありがとうな。お前のお陰で、俺はどんなに救われたか。感謝してるよ」
「それぐらい……当然のことをしたまでだ」
 心くすぐる風丸の言葉を受け止めながら、タオルの上から体に沿って撫でてやる。
「でももうこれ以上、俺はお前やこのうちの人たちに迷惑はかけられないよ」
「風丸?」
 嫌な予感がして風丸の顔をじっと見つめた。
「俺……お前のお父さんが言うように、病院に行こうと思う」
「風丸!」
 豪炎寺は驚いて、風丸の体をタオルごと手にとった。風丸はそんな豪炎寺に構わずに言葉を続ける。
「俺の体はもう、元になんか戻らないよ。でもいいんだ。これは自分自身で受けた罰なんだから。だけど、もうお前たちに余計なことで煩わせたくはないんだ。だから」
「だめだ!!」
 豪炎寺は慌てて風丸の体を掴みあげた。じっと目を見つめて諭す。
「円堂がお前のために静岡の瞳子監督のところまで行ってる。だからまだ、なんとかなる」
 だが風丸は切なげに首を振った。かすれた声で断言する。
「俺はもう心を決めた」
「諦めるな!」
 思わず大声が出た。
「約束しただろう! 治ったら一緒にサッカーすると。だから、だから……諦めたりするな!」
 豪炎寺の熱のこもった声を聞いて、乾いた風丸の表情がわずかに緩んだ。
「豪炎寺……」
「俺は、お前と一緒にピッチに立ちたいんだ……」
 豪炎寺は風丸を両手で持ち上げると、頬に押し当てた。パジャマの生地越しに、高い体温が伝わる。
 せめてこの熱が、自分の肌に移ってしまえばいいのに……と、思いながら。
 手のひらの中で風丸の体が震えた。熱が辛いのかと思ったが、風丸の顔が触れている自分の頬がほんの少し濡れているのに気づいて、豪炎寺は息を呑んだ。
「……俺も、俺もお前とサッカーしたい、豪炎寺!」
 気持ちが通じたのか、風丸の口から言葉がほとばしる。背中を撫でてやりながら、頷いた。
「サッカー部のみんなも、お前が戻って来るのを待ってる」
「……ああ! 俺、するんだ。サッカー。するんだ……」
 こんなのはただの気休めかもしれない。だけど今のふたりには、希望を持ち続けることだけが頼りだった。
 窓の外は相変わらず、晩秋の雨が降り続いている。その雨音を聞きながら、ベッドの上で豪炎寺は風丸の体を抱きしめていた。時折震える背中を、指でそっと撫でながら。

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 自分が再び眠りに落ちたのに豪炎寺が気づいたのは、朝の光をまぶたの裏に感じた時だ。
 しまった。寝ている間に風丸を押し潰してはいないだろうか。
 ぎょっとして目をあけた時、視界に入ったのは蒼い波の流れだったことに、豪炎寺はうろたえた。
 一体何だろうか、これは。
 訝しげにそれに触れると、艶やかな糸のような物がさっと動いて離れた。慌ててそれを掴もうとして、豪炎寺はそれの正体が風丸の髪の毛だと思い当たった。
 いや。だが、おかしい。
 風丸の髪の毛にしては、量が多過ぎやしないか。
 夜中に触れた風丸の髪は、自分の手のひらの中にすっぽりと隠れてしまう程度しかなかったはずなのに……。
「う、うぅん……」
 軽く呻いたあと、風丸が寝返りを打つ。豪炎寺の方へ向いた顔は、ほんの少し近づくだけで触れるくらいの距離だ。息づかいさえも間近に聞こえる。
 豪炎寺は息を飲み込むと、風丸の頬に触れた。手のひらの中が、風丸の柔らかな肌でいっぱいになる。この感触。紛れもない。
「か、風丸……」
 かすれる声で名前を呼んだ。言いたいことは山のようにある。けれども、豪炎寺の口からは名前を呼ぶのだけが精一杯だった。
「風丸!」
 肩をそっと揺すった。布団にくるまれた風丸は何も肌につけていない。夜中に着替えてやったパジャマはどこにいってしまったのだろうか。
「う~……ん」
 煩わしそうに眉間にしわを寄せると、風丸はやっとまぶたを開けた。まだ焦点の合わない目で、豪炎寺の顔を見る。
「風丸……」
 大きめの、明るい褐色がじっと豪炎寺を見ている。最初はぼんやり気味だったのが、急にはっと見開いた。
「えっ」
 異変にやっと気付いたのか、風丸は自分の体を確かめ、そのあと豪炎寺に手を伸ばしてきた。豪炎寺は頷くとその手をしっかりと握った。手のひらと手のひらは、ほんのちょっとしか変わらない大きさで、握ると互いの温もりが広がる。
「あ、ああ……」
 風丸はがばっと起きあがると、もう一度自分を確かめた。
「豪炎寺。おれ……、俺!」
「ああ」
 豪炎寺が応えると、風丸の表情が戸惑いから確信へと変化した。
「戻った! 俺、元に戻ったんだ!」
 喜びの笑みをこぼして、風丸は豪炎寺に抱きついてきた。頬と頬が触れあう。じんわりと豪炎寺の中にも喜びが広がるのを感じた。
「あははっ! やった。やったぜ!」
 歓喜の声をあげる風丸に、豪炎寺はその感情のまま、顔を傾ける。
「ん」
 気がついたら口づけていた。ほんの、唇と唇が触れあうだけの。
「あ……」
 抱きついていた風丸の体が震えた。だが、抵抗はしない。瞳は際限まで見開かれ、頬は赤く染まっていた。
 唇に触れる温もりが消えるのが惜しい気がして、ずっとそのままでいたかったが、やっとの思いで豪炎寺は風丸から離れた。
 自分の頬が熱い。きっと風丸に負けないほど、自分の顔も赤くなっているはずだ。
「豪炎寺……どうして……」
 かすれた声で風丸は尋ねた。豪炎寺は熱くなる頬を気にしながら答える。
「俺は、ずっとお前にこうしたかった。……そう思う。たぶん」
 風丸が口をわななかせて、何か言おうとしたが、それは眠そうに目をこすりながら部屋に入ってきた妹の声で遮られた。
「ん……。お兄ちゃん、どうしたの……?」
 慌てて裸のままの風丸に毛布をかぶせると、豪炎寺は夕香に父親とフクさんを呼んでもらうよう頼んだ。
 夕香は風丸の体が元に戻ってるのに気づくと、歓喜した顔で部屋を出て行った。可愛らしい足音を聞きながら、豪炎寺はとりあえず落ち着こう、と深呼吸した。
 まず、風丸の為に服を渡そうとして、自分のタンスを開けて……。
 いや、何をやってるんだ。
と、思い直す。
 風丸の服なら、ここに来た日に着ていた制服と下着がある。フクさんがきちんと洗ってたたんだのが、部屋の隅にカバンと一緒に置いてあった。
 豪炎寺はそれを取ると、毛布をかぶった風丸に渡してやった。
「あ、ありがとう」
 風丸の頬は未だ赤い。だがそれは、もう高熱の所為なんかじゃないと思うと、豪炎寺は心底ほっとする。
 廊下に出ると、夕香を伴って父とフクさんがやって来た。フクさんはいつもなら夜には帰るのに、風丸の看護の為にわざわざ泊まってくれていた。
「父さん、フクさん。風丸は……元の体に戻りました」
 豪炎寺が告げると、憔悴気味だった父親は姿勢をただし、フクさんは歓喜の笑みを漏らす。着替え終えたのを確認してから、父は風丸の体を診た。身体中を弄り回すくらいの勢いに、豪炎寺は風丸の心を案じてしまったが、それは思い過ごしだった。
「信じられん……。全く悪いところはない」
 大きな溜息をついて、医師はリビングのソファーに腰掛けていた風丸の両手を膝の上に置いてやった。
「気分はどうだね?」
 父の問いに、風丸ははにかんで答えた。
「すごい、すっきりした感じです」
「そうか……」
 手癖のように、手元のカルテにペンを走らせると、父はやっと笑みを見せる。
「良かったですね、風丸さん。おなかが空いているでしょう。ご用意ができてますよ。病み上がりには栄養のあるものが一番ですよ!」
 破顔したフクさんが、待ち構えたように風丸に話しかけた。そう言われて、風丸はこくんと微笑んで頷いた。
 風丸を囲んで、家族全員で朝食を摂る。彼が一緒に食卓につくのは、たった一週間前からのことなのに、もうずっと、かなり昔からこうしているのが当たり前のように感じる。ささやかだが、暖かい団欒。豪炎寺には、まるで夢の続きのように思えた。
 朝食を終えてみんなでお茶をすすっていると、けたたましいインターホンが和やかな時間の終末を告げた。
「修也さん。円堂さんがいらっしゃいましたよ」
 何事かと、慌ててエントランスと通じてるインターホンに出たフクさんが豪炎寺に伝えた。
 ……ああ。そうだった。風丸の事で円堂は瞳子監督のもとに馳せ参じたのだった。
 そう、気付いたとき。豪炎寺は風丸の顔をぱっと見た。風丸も、豪炎寺の顔をじっと見る。
 たったのひとときの間に、昨日までの出来事を忘れていたのだ。
「瞳子監督っ、連れて来たぞー!!」
 チャイムを鳴らすのさえもどかしそうに、円堂は豪炎寺家のマンションのドアを開けるなり、そう叫んで入ってきた。
「円堂……」
 真っ先に出たのは風丸だった。困惑した顔で、だが、くすぐったいように微笑んでる風丸の姿を見ると、円堂は一瞬口をあんぐりと開けて惚けた。
「あ……?」
「早かったな。円堂」
「か、風丸」
 多分、その顔はさっきまでの自分たちと同じだ。
「お前、どうし、風丸、な、治ったのか!?」
 風丸が頷くなり、円堂は
「やったー!!」
と、雄叫びをあげて走り寄った。勢いをつけて円堂が抱きつく。その所為で風丸の体は、廊下にもんどり打ってしまった。
「やった! やったやった!! 元に戻ったんだな、風丸」
「おい。人の家だぞ、円堂」
 たしなめる風丸自身も笑みを隠せなかった。
「風丸くん、その調子だと大丈夫そうね。私の出る幕はなかったかしら?」
 瞳子監督が玄関で苦笑いして話しかけてきたので、円堂と風丸は気まずい顔で姿勢をただした。
「す、すみません。まさか、戻ったら風丸が治ってるとは思わなくて」
「わざわざ俺の為に来ていただいて、ありがとうございます。でも……」
 ふたりの弁明を、瞳子は目を細めて見守る。
「いいえ。風丸くんが良くなったのなら、何よりだわ」
 そこへ、豪炎寺の父が廊下に迎え出た。
「ご足労をかけまして、申し訳ありません。できれば、風丸くんの症状について詳しいお話を聞かせてはもらえないでしょうか?」
 豪炎寺の父が室内にあがるよう、指し示した。家族団欒の朝食の席は、今度はリビングでの質疑へと変わった。
「そうですか……。一週間の間、風丸くんの体はそんな変化をしていたのね」
 瞳子監督は風丸と豪炎寺の長い話を聞いたあと、溜息をついてティーカップを持ち上げた。フクさんが淹れた紅茶から、温かそうな湯気が立ちのぼる。
「あの……、瞳子監督。俺の体が縮んでしまったのは、エイリア石の影響なんでしょうか?」
 単刀直入にそう訊いたのは風丸だった。
「そうね……。私たちの元に残っていた資料では、その事例は見当たらないのだけれど、おそらくは……」
 こくりと一口、白い陶磁の中の香ばしい液体を飲むと、瞳子は紅茶のカップをテーブルに置いた。
「まず、はじめから説明するわね。数年前、とある隕石が富士山麓樹海に飛来したの。それを最初に発見したのは、私の父の事業のひとつ、薬学関連会社の研究員でした」
 瞳子の話は、円堂と豪炎寺にとっては既知のものだったが、風丸や豪炎寺の父親には初めて知ることで、彼らには充分過ぎるほど驚愕の事実だ。
「そんなものが地球上に墜落したとは……。何故、それを学会に発表なさらなかったのです!?」
 豪炎寺の父は尤もな質問をしたが、瞳子は苦しげな面持ちで答えた。
「それは……。父がエイリア石の情報を独り占めしようとしたのでしょう」
 恥ずかしげに言うと、瞳子はため息をついた。円堂が気遣って「まあ、まあ」と取りなそうとし始める。
「心配には及ばないわ。これは紛れもない事実なのだから」
 こほんと咳をすると、瞳子は再び話を続ける。
「そしてこれは、まだ誰も知らないことなのだけれども……。残された資料によると、エイリア石と一緒に未知の生物も同時に地上に落ちていたのよ」
「未知の生物!? それって、ホントの宇宙人なんですか??」
 円堂があわてて尋ねたので、瞳子は苦笑いを浮かべた。
「宇宙人……ねえ。正確に言えば、『人』ではないわね」
「どういう意味ですか?」
 豪炎寺も首をひねりながら訊く。風丸がきょとんとして、円堂と顔を見合わせた。
「“それ”はごくわずかな大きさの生命体よ。決して人の目では知覚できない、顕微鏡でやっと見られるほどの、バクテリアみたいなもの、と言えばお分かりいただけるかしら」
 瞳子は豪炎寺の父に頷きかけると、円堂たちの顔を見回した。
「バクテリア……?」
「その微細物に何かあるんですか?」
 円堂と風丸が交互に尋ねると、瞳子は気難しい顔でこう答えた。
「その微生物の大きな特徴は……。それは単体では生きられない。他の生命体、特に高度な知能を持つ生物に寄生することで生命を成り立たせているの」
「寄生って……!」
「そう。風丸くん、あなたはその生命体に寄生されていたのよ……!」
 瞳子の言葉に、風丸は一瞬言葉を失った。そしてはっと思い当たって、豪炎寺たちを見た。
「じゃ、じゃあ……」
「ああ、慌てないで。風丸くん、その生命体はエイリア石を使用するものだけに寄生するの」
「石を使用する生物のみに寄生すると言うことは、その生命体には何らかのメリットがあるのでしょうか?」
 興味深そうに豪炎寺の父が身を乗り出して尋ねた。
「そうですね。エイリア石を使用する者が、そのバクテリア型生命体のいわば餌になる物質を出すのではないでしょうか。残念ながら、私の手に残っている資料では、それがなんなのかは、分からないままなのです」
 瞳子はそこまで言うと、風丸に向き直った。
「風丸くん。ちょっとうなじを見せてもらって構わないかしら?」
 風丸は戸惑いながらも、頷いた。立ち上がった瞳子たちに、背中を向けると顔をうつむいて括っている髪を横に垂らす。豪炎寺も風丸のうなじを覗きこんだ。はえぎわの真下の首筋にぽつんと、まるで象形文字のような赤い斑点があった。
「これが寄生されていた証拠です」
 瞳子は風丸のうなじの小さな斑点を、豪炎寺たちに示した。風丸は凝視されているだろう箇所が気になるのか、指で確認しようとしていたが、感触では分からないようだ。
「しかし、未知生命体に寄生されていたとなると、今回の風丸くんの症状は……」
「ええ。断言はできませんが、おそらく。研究所に残っていた資料では風丸くんと同じ症例はありませんでしたが……」
「ど、どう言うことなんです? それと風丸が小さくなったことが関係あるんですか?」
 瞳子と豪炎寺の父親との会話に円堂が口を挟んだ。
「そうね、分かりやすく説明するわね。エイリア石を使う者に寄生する生命体は、エネルギーをもらう代わりに、寄生者に変化をもたらすわ。あなたたちも会ったでしょう。ジェミニストームのレーゼやイプシロンのデザーム。彼らはみな、エイリア石の寄生生命体によって、姿を変えられていたの」
 瞳子の口から出た名前を聞いて、一同は吐息を漏らす。豪炎寺の父親だけが、黙ったままでいた。
「ああ! だから、風丸たちの様子が変だったのも、それの所為だったのか!」
 合点がいったのか、円堂がぽんと手のひらを拳で鳴らした。
「俺はあまり……、外見のことは気にならなかったんだが、円堂と豪炎寺には変な感じに見えたのか?」
 風丸がおずおずと言うと、豪炎寺は頷いた。それを見て、風丸はたじろいだようだ。
「そ、そうか。俺はエイリア石から溢れる、とてつもない力のことしか考えてなかった……」
「風丸! もう、そんなことは忘れろって!」
 円堂が慌てた顔で言うと、風丸は苦い顔で微笑んだ。
「ともかく、エイリア石の寄生生命体は宿主を細胞単位のレベルで変化させる力があるの。今回の風丸くんのケースも、その生命体が引き起こしたとしか、考えられないわ」
 瞳子がそう宣言すると、円堂が首を傾げた。
「でも、おかしいですよ、瞳子監督。エイリア石は俺たちの目の前で砕け散ったんですよ?」
「そうだ……。エイリア石はなくなったはずなのに、あの力は俺の中に残ったままで……」
 風丸が震える声で、拳を握りしめた。瞳子がそっとなだめる声をかけた。
「もしかしたら……、石が砕けた時に破片が風丸くんの体に入り込んでしまったのかも知れないわね」
「破片!?」
 円堂と豪炎寺が同時に息をのんだ。
「そうとしか考えられないわ。だから、生命体は風丸くんの体に寄生し続けた」
 瞳子の言葉に風丸ははっと顔をあげた。
「そう言えば。あのあと、俺は異様に体が疲れるようになったんです。それも、そいつの……?」
「でしょうね。エイリア石は多大なパワーを持つ者に与えるけれども、その力は石の大きさに比例します。エイリア石に力を引き出された風丸くんは、そのまま力を使い続けたのね……。けれど、それに値するだけのパワーを与えられなかったら……」
「つまり、風丸はエネルギー切れを起こしていた、と言うことですか?」
 豪炎寺が尋ねると、瞳子は頷いた。
「多分そうね。だから、生命体は風丸くんの体を、残っていたエイリア石に見合うだけの体積へ作り変えた。……私の元にある資料から考えられるのは、これだけです」
 流れる髪を手ぐしでかきあげながら、瞳子はきっぱりとそう言った。
「ふむ……。驚くべきことだが、あなたの説明を信用するしかありませんな。では、何故、風丸くんは元の体に戻れたのですか?」
 豪炎寺の父が、じっと瞳子の目を見つめて尋ねた。
「エイリア石の寄生生命体が活動できるのは、思ったより低温なのです。彼らは摂氏40度以上の環境では完全に死滅します」
 瞳子の説明に豪炎寺の父は唸った。豪炎寺自身もよく覚えている。風丸が倒れたとき、図った熱は40度を超えていたことを!
「そ、それじゃ……!」
「ええ、風丸くん。あなたはもう、エイリア石の影響を受けることは二度とないわ」
 微笑んで言う瞳子に、風丸ははじめ放心した様子を見せた。隣に座っていた円堂が、風丸の両肩をぎゅっと掴んだ。
「やったなー! 風丸! お前もう、何の心配もいらないぜ!!」
「あ……、ああ!」
 風丸がやっと、心の底からの笑顔を見せる。豪炎寺はそれを安堵して眺めた。
 それと同時に、一抹の虚しさを感じる。風丸が完全に元に戻ったのなら、もう、ここに用なんかなくなるのだ……。
 テーブルに置かれたカップを取ると、豪炎寺は冷めた紅茶を飲みほした。いつもなら美味しく感じる、フクさんの淹れたお茶が妙に苦く思えた。
 そのとき、来客を知らせるチャイムが鳴った。豪炎寺が立ってインターホンに出ると、見知らぬ中年のふたり連れの男女がモニターに映っている。女の方は、髪型さえ違ったが風丸に瓜二つだった。

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 迎えにきた両親をリビングに通され、風丸が初めて嗚咽を漏らした。豪炎寺の父に詳細を知らされた彼らは、驚いた表情を見せたが、風丸の無事な姿を確認してほっとしていた。
「よかったな~。なあ、風丸」
 円堂が風丸の肩を叩いてなだめていたが、豪炎寺は複雑な想いを抱えていた。
 風丸の両親が訪ねてきたということは、これで完全に風丸は自宅に戻ってしまう。蜜月のような日々も本当に終わりを迎えたのだ。
「おうちに帰っちゃうの、風丸お兄ちゃん? このまま、うちにずっといればいいのに……」
 両親と共に玄関で別れを言うとき、夕香が風丸に名残惜しそうに悲しげな顔を見せた。
「わがままを言ってはいけないぞ」
 豪炎寺は苦い想いを抱きつつも、妹に苦言を言ったが、風丸はにこやかな顔で小指を差し出した。
「また遊びに来るよ。一緒にご本読もう」
 夕香と約束のゆびきりを済ますと、風丸は姿勢をただして豪炎寺と父親、それにフクさんに向き直った。
「今迄、俺の世話を焼いてくださって、本当にありがとうございました。この一週間のご恩は、一生忘れません。俺の体が元に戻れたのも、皆さんのおかげです。では……」
 きっぱりした顔で頭を下げた。
 それが、風丸が豪炎寺家で一緒にいた間の最後の言葉だった。
 風丸は両親と一緒に家に帰ると、瞳子は円堂が駅まで送っていった。
 来客たちがいなくなり、静まりかえったマンションの部屋で、豪炎寺は自分のベッドが乱れたままなのにふと気がついた。朝からそんなことも気にならない程、せわしなかったのだ。苦笑いして掛け布団をめくると、シーツの上に小さな布切れがあった。大きく引き裂かれ、縫い目もほとんどほつれているそれは、紛れもなく風丸が夜中に着ていたパジャマだ。
 豪炎寺は息を呑むとそれを取りあげた。手のひらに隠れてしまう程の、ほんの小さな布地は、もう、風丸の体に纏うにはあまりにも小さすぎた。
 胸にこみ上げてくるものを、ぐっと堪えて机に向かうと、今度はきちんと洗濯され、折りたたんである手縫いのユニフォームが置いてあるのが目についた。
 豪炎寺は息を吐き出すと、乱暴気味に椅子に座り込む。目頭を抑えて、顔を天井に向けた。
 ほんの朝方までは、確実に風丸は自分の手のひらの中にいた。だが、もう彼はこの部屋にはいない。手を握りしめても、掴めるのはただの空虚だけだ。


 翌朝、ベッドに自分以外誰もいないことに溜息をついて、豪炎寺は起きあがった。早朝から朝食の仕度をしに訪れたフクさんに礼を言い、夕香を起こしてやる。
 本当にいつも通りの朝だ。
 ただ、昨日までいた存在だけが消え失せている。
 朝食をとり制服に着替え、仕度を終える。肩掛けカバンを取ろうとして、机の上に小さな人形用の椅子に目をやった。椅子には畳まれたユニフォームが乗っている。豪炎寺は、苦い気持ちでそれから目を背けた。
 学校に着くと、昇降口で円堂の声が聞こえてきた。朝練のない日はもっと遅いのに珍しい……。そう思っていたら、低めのアルトが混じっている。胸がどきんとした。
 ああ、そう言うことか。一週間ぶりだから、円堂は風丸と時間を合わせて早めに登校したのか。
 そう気づいて、靴箱に行くと廊下で待っている風丸と上靴に履き替えている円堂と出くわした。
「お。豪炎寺、おはよう!」
 快活な声で円堂が呼びかける。
「おはよう」
と返答したが、廊下にいる風丸が豪炎寺に気づいて顔を下に向けた。
「おはよう……豪炎寺」
 今日、風丸に会えたらどんな顔を見せてくれるのだろうかと、期待していたが、こんなよそよそしい態度で出迎えられるとは思ってもみなかったので、豪炎寺は面食らった。
 風丸は挨拶だけを返すと、円堂の制服の袖を引っ張り、ひそひそと一言二言交わすと、ふたり連れ立って階段を上がって行ってしまった。
 まるで、七日間きっかり時間が巻き戻ってしまった気分を朝から覚えていたが、風丸の態度だけが変わってしまっている。
 何故なんだ? と思わず鼻白んで、はっと昨日風丸にキスしてしまったのを思い出す。
 もしや、あの所為か。
 体が元に戻った嬉しさのあまりとは言え、男に口づけされるだなんて、風丸にとっては憤慨ものだったのかもしれない。
 だが、後悔しても後の祭りだ。
 豪炎寺は腹を据えた。キスしたのも、そうしたいと言ったのも、風丸を好きだからという理由は変わらない。想いが通じなくても、この気持ちは大切にしよう。そう心に決めた。
 授業は瞬く間に過ぎ、待ちに待った部活の時間になった。とは言っても期末テストを控え、今日を最後にしばらく部活は休止になる。久し振りに風丸がいるので、豪炎寺は楽しみだった。
 教室の掃除もそこそこに、おんぼろだが馴染みの部室へ向かうと、当の風丸と鉢合わせになった。
「豪炎寺……」
「出るんだろう、部活」
「うん……」
 嫌われようが構わない気持ちで話しかけると、頷いてくれたが、それ以上はなにも言わない。黙ったまま並んで部室へ行くと、丁度やってきた一年たちが風丸の姿を見て、取り囲んだ。
「あっ、風丸さん!」
「風丸先輩、もう体の具合は良くなったんですか?」
「やっぱ、風丸さんがいると安心するでやんすー!」
 口々に風丸の身を案じ、久し振りに姿を見せたことを喜び合う。少し遅れて来た二年の連中もそれに加わり、風丸は嬉しそうな顔をしたが、すぐに生来の生真面目な表情に戻った。
「やっぱり、みんなには言っておこうと思う……」
 部室にサッカー全員が揃ったとき、風丸はみんなの顔を見渡すとそう切り出した。
「俺、この一週間休んでいたのは、インフルエンザなんかじゃなかったんだ」
「インフルじゃない、ってどういうことだよ?」
 染岡が首をひねって尋ねる。風丸はどうする? とでも訊くように、豪炎寺に視線を送ってきた。真実を言うつもりなのか。と、豪炎寺は風丸を慮ったが、慎重に頷くとほっとした顔を見せた。
 風丸は一週間の出来事をかいつまんでみんなに話しはじめた。流石に、豪炎寺と一緒に学校に来たことまでは教えなかったが、体が縮んでから高熱を出して倒れたこと、奇跡的に治ったこと、瞳子にエイリア石の真実を聞かされたことまで、大部分は洗いざらい伝えてしまった。
「そんなことがあったのか、風丸……」
「大変だったんですね」
 みんなは風丸の身に起こった災難に同情した。栗松だけが
「俺も風丸さんを手の上に乗っけてみたかったでやんす……」
と、豪炎寺を羨ましげに見たので、他の部員たちが一斉に呆れた顔をした。
「ったく。水くせーんだよ、お前は。最初から言ってくれれば、お前が困ってるときは俺たちも一緒に何とかしようとしただろ?」
 ぶっきらぼうに染岡が言うと、頑な顔で風丸は首を振った。
「すまない……。どうしても言えなかったんだ」
「そこがお前の悪いとこだろ」
 染岡にズバリと言われ、風丸が顔をうつむける。豪炎寺ははらはらしたが、風丸はすぐに顔をあげた。
「そうだな……、悪かったよ。ともかく、みんなは俺みたいに体に異変があったりしていないか? 異常に疲れるとか、そんなことはないか?」
 風丸はかつて同じようにエイリア石に囚われた他のみんなが気になっていたようだ。自分のことより、まず他人を考える風丸らしい、と豪炎寺は感心した。
「だいじょーぶ。風丸が心配するようなことは全っ然ないから」
 マックスがおどけた調子で答えると、他の部員たちも風丸に笑顔で応じた。豪炎寺と円堂も頷いたので、風丸がやっと笑顔を返す。
「そうか。そのことだけが、心配だったんだ。ほっとしたよ」
 風丸の告白が済んで、いつもの、活気のある部活に戻った。円堂の鼓舞でみんなは練習に精を出す。今日はウォーミングアップが終わると、全員でシュート特訓だ。
「よしいいぞ、染岡! 次、豪炎寺!!」
 風丸が戻ってきたおかげで、心地よい空気になったサッカー部を満喫しながら、豪炎寺は思いきりボールを蹴る。スパンといい音を立てて、ボールは円堂が捕獲した。
「よし! 相変わらずお前のシュートは凄いな! じゃ、次。え~と……風丸!」
 ディフェンス陣の面々を指差して、円堂が指定したのは風丸だった。
「おう!」
 晴々とした顔で風丸は応じる。円堂が守るゴールに向かって前に出ると、仲間がボールを渡した。
「思いっきり撃ってこいよ!」
 円堂が手をぱんぱんと叩いて、身構える。風丸はこくんと頷くと、慎重にシュートコースを見極めた。次の瞬間、ボールは鋭い弧を描くと、円堂の耳元をかすめてゴールネットに突き刺さった。
 さっきまで上がってた軽い歓声が途切れた。円堂が信じられない顔でボールの行方を追う。豪炎寺が伺うと、風丸は愕然とした顔で立ち尽くしていた。
「そんな……。もう、エイリア石の力からは解き放たれたって思ったのに……。こんなの、俺の力じゃない……」
 風丸は体を震わせて両手を見つめる。部員たちも声を失ったまま、ことの次第をじっと見守っていた。
「違うんじゃないのか」
 そこへかけてきた声は、鬼道のものだった。
「俺は違うと思う。エイリア石と言うのは、要するに人間が本来持っている力を最大限まで引き出すのだろう? あの石に頼らなければ得られなかった力を、お前はやっと自分だけで使えるようになった。俺はそう解釈したのだが」
「俺だけで……?」
「鬼道の言う通りだな」
 豪炎寺は鬼道の言葉を継ぐように付け加えた。
「今まで、お前は力をセーブしていただろう。だから、気がつかなかったんだな。お前の体が、エイリア石なしにあの力を出せるようになってることに」
「じゃあ、今のは? 俺の本当の……力?」
 ゴールに転がっているボールと、みんなの顔とを交互に見て、風丸は戸惑う表情になった。豪炎寺と鬼道、そして円堂が
「ああ!」
と答えると、風丸の顔から喜びがこぼれた。
「よーし。もう一度だ、風丸! 今度は取ってやるから、全力で来い!!」
 転がっているボールを取ると、円堂が思いきり風丸に投げる。風丸は胸を使って止めると、前を見据えた。大きく構えると、ゴールめがけて撃ち込む。全力の力だった。
 円堂はいつになく真剣な気迫を見せると、迫ってきたボールを腕だけでなく全身で押さえ込む。勢いで後ずさったものの、何とか腕の中に収めた。
「ははっ! すげーいいシュートだ、風丸!!」
 取ったボールを高々とあげる。その挙動に一斉に部員たちの歓声があがった。染岡が風丸の背後から首元に腕を回すと、
「へっ、やるじゃねーか」
と、賛美の言葉を送った。豪炎寺も安堵して風丸を見た。
 もう安心だ。あんな辛そうな風丸を見ることも、もうないだろう。
 けれども、心の何処かで何かがちりちりと焦げるのを感じた。特に、風丸が円堂とにこやかに笑いあってると、胸の辺りが重くなる。
 何をやっているんだ、俺は。最初から分かっていただろうが。
 苦い笑いを吐いて、豪炎寺は仲間たちに囲まれている風丸を眺めた。
 風丸は元々円堂にべったりだったし、一緒に学校に行ったときは常に心配していた。円堂も風丸の危機を知ると、彼のためにわざわざ静岡まで行って瞳子監督を連れてきたじゃないか。
 ふたりの絆には自分が入る隙なんかなかったのだ。
 あの7日間は奇跡のようなもので、風丸と自分が触れあうのはまるでひとつの夢物語だった。
 夢の時間はもう終わってしまったのだ。

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 楽しい練習時間はあっという間に過ぎ、赤い夕陽が西へ落ちはじめると、もう帰らなければいけない時刻だ。こころよい疲労を感じながらも、部員たちはじきに迫った試験の話に花を咲かせる。みんなで雷々軒に監督のラーメンを食いに行こう、という話になって着替え終えた風丸が済まなそうな顔で断った。
「悪い。今日はまっすぐ家に帰りたいんだ」
「そっかー。まあ、久しぶりでお前も疲れてるだろうしな」
 円堂ががっかりしていたが、風丸の体調を考えて誘うのは諦めたらしい。
「じゃあ、お先に!」
 風丸はカバンを抱えて、部室を出て行った。残された仲間たちは頼むメニューの品定めを始めた。
 豪炎寺はどうしようかと迷った。みんなと一緒に行くのもいい。だが、風丸が帰ってしまったので、いまいち興が乗らない。
「俺も先に帰る」
 円堂に伝えると、
「夕香ちゃんと約束か?」
と聞かれた。豪炎寺は曖昧に頷いた。本当のことを伝えても、微妙な反応を返されるだろうな、と考えながら。
 さっさと学ランに着替えると、みんなに挨拶して部室を出た。外に出ると、校庭は茜色に染まっている。なんだか、物寂しさを覚えながら校門をくぐると、いきなり背後から名前を呼ばれた。
「豪炎寺」
 その声にはっとして、振り返る。
 風丸が校門に背を預けて立っていた。
「あのさ……。一緒に帰ろうぜ」
「あ、……ああ」
 自分の顔は、とっさのことで間抜けな顔をしていたに違いない。豪炎寺は顔から火が出るかと思ったが、風丸は横に並ぶと、にこやかに笑いかけてきた。
「待ってたのか? 俺を」
「ん」
 尋ねると、はにかんだ顔で応える。今朝のような、よそよそしい態度ではない。
「今日は……、疲れただろう?」
「ああ。一週間ぶりだしな。でも、おとついまでの全身から力が抜けるような感じは、もう全然ないよ」
「それは良かった」
 朝は久しぶりの登校だったから、緊張してたのかもしれない。風丸は親しげに話してくる。
 夕陽が今日最後の光を輝かせる中、ふたり連れ立って帰路についている。まるで夢の続きのようだ、と思った。
 歩いている途中で、七日前に風丸の体が縮んでしまった道に出た。緩やかな坂の下。ここで風丸は……。
「ここの道な。あの坂がカーブしてる所為で、昔から事故が多いんだってさ。稲妻町の魔のカーブ、って呼ばれてる」
「へえ……」
「まあ、俺の体のこととは関係ないだろうけど。でも、ここでお前に助けられなければ、俺は小さい体のまんまで、どうしようもない目にあってたんだろうなぁ……。そう思うとな、感謝してるんだ。お前の存在に」
 夕陽が風丸の横顔を照らす。大きな瞳と形のいい鼻筋。すんなりと描く顎のラインを、豪炎寺は綺麗だと見とれた。
「豪炎寺のお陰で、こうして元通りになれたしな。それより、明日から試験休みだろ。今日はもうちょっと部活を楽しみたかったよ。あ、そうだ」
「なんだ?」
 風丸が何か思い出したのか、真顔で向き直ったので、豪炎寺は首をひねった。
「今度、俺ん家で一緒に試験勉強しないか? 一週間も休んでたから、すっかり遅れちまってるし、それに、お前のところで散々ご馳走になったしな。お礼と言っちゃなんだけど、晩メシ食ってけよ」
 風丸の申し出はうれしいが、心がくすぐったくなるのを感じた。
「いや、そんなのは気にしなくていい」
「俺の気が済まないんだ。それにお前と一緒だと、頼もしいし……嬉しい」
 風丸の終わりの言葉に、豪炎寺は胸が熱くなった。
「そ、そうか……」
「うん……」
 風丸の頬が赤い。夕陽はすでに地平線へと吸い込まれそうになっている。周りは赤いのにもかかわらず、はっきりと分かるくらい、風丸は頬を染めていた。
「豪炎寺。お前あのときさ、俺にしただろ? キス……」
 いきなりそう切り出されたので、豪炎寺はしどろもどろになった。
「あ。……ああ」
「お、俺……。あのときびっくりしたけど。嫌じゃ……なかったぜ」
「そ……!」
 心臓がどきりと鳴った。自分の頬が熱い。風丸は潤んだ瞳で豪炎寺をじっと見上げていた。
「お、お前は……。円堂が好きなんじゃないのか?」
 風丸の言葉が予想外過ぎて、豪炎寺は思わず普段から疑問に思っていたことを口にした。風丸はきょとんとまぶたを瞬かせた。
「円堂、って。……ああ、好きだぜ。あいつのことは」
 なんの躊躇もなく答える風丸に、豪炎寺はやっぱりな、と思った。
「まあ、好きは好きだけど。でも、円堂は俺にとって、手のかかる弟であって、同時に頼もしい兄貴みたいなもんだぜ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
 多分、自分は間抜けな顔をしている。豪炎寺はそう自覚したが、どうにもならない。風丸の言葉が信じられない。じゃああのときの、円堂を心配そうにしていたのは? 円堂を思って窓辺でひとり思案にくれていた夜は何だったのか?
 何も言い出せないでいると、風丸は首をかしげながら眉を曇らせている。
「豪炎寺……」
 名前を呼ばれた。
「あ。何だ?」
 そう答えた筈だった。でも、言葉は風に消える。
 顔を寄せてきた風丸の唇が自分のそれに重なったから。
 柔らかい感触だった。
 その温もりはほんの一瞬で、すぐに豪炎寺から離れた。
「かぜま……」
「俺、こんなこと、円堂としたいとは思わないからな。でもお前となら……」
 そこまで言うと、風丸は顔を真っ赤にして俯いた。
「お、お前には俺の恥ずかしいとこ、何度も見られたけどっ。けど、今のが一番……はずかしい……な」
「風丸。お前……なぜ……?」
 まともな言葉が返せない。ただ、驚愕だけが豪炎寺の中で轟いていた。
「なぜって。お前だって、あのときしただろ……。俺の方が聞きたいくらいだ」
 それは勿論。
「好きだからだ……」
 そう呟くと、風丸は頬を染めながらも顔を上げ、豪炎寺をまっすぐ見つめた。
「じゃあ、お前。ひとつだけ聞くけど、なんで俺が好きなんだ……?」
 なんで、って。ひとを好きになるのに理由など要るのだろうか。自分を見つめる風丸の瞳に、夕陽が輝いている。その光はとても懐かしい。
「お前の目だ……!」
「えっ?」
 記憶の中の母親がよみがえる。愛おしそうにペンダントの奇石を幼い自分に差し出す。その輝きは風丸の瞳と寸分変わらなかった。
「俺の母の形見の宝石が、お前の目と同じ色なんだ。だから最初お前の目が気になって……」
 否。違う、そうじゃない。
 風丸への気持ちはそんなんじゃない。
「けれど、この七日間でお前と一緒にいるうち、好きになってしまったんだ……お前のことが」
 正直、顔から火が出そうだ。と思った。まともに風丸の顔が見られない。
「そっか。俺も……、お前のことは帝国との練習試合の時からすごいと思ってたけど。この一週間で俺の中で俺の知らないお前のこと、どんどん知るうちにお前の存在がどんどん大きくなっちまって。それに、俺に頼ってくれなんて言ってくれたのは、お前だけだ。だから」
 風丸の言葉はとても真摯だ。心の底からの、本当の気持ちなんだろう。豪炎寺は思いきって風丸と視線を合わせた。瞳の中に自分が映っている。
「俺と同じなんだな?」
「ん……」
「まだ、恥ずかしいか?」
「そりゃあ……。でもこれが俺の本心だから」
「俺も恥ずかしい」
「えっ?」
 風丸が信じられない、という顔をする。
「俺だって恥ずかしいと思うときがある。お前だけじゃないさ」
「でもお前は、いつだって何でもやれて、俺にはすごく羨ましい奴で」
 豪炎寺はかぶりを振った。
「俺はそんな完璧なヤツじゃない」
 不思議そうにしている風丸が、妙に可愛らしく見えて思わず苦笑した。
「お前が恥ずかしい、って言うんなら、俺はお前の言葉を信用する」
 それが本当のことだから。
 恥ずかしいのを堪えた上の口づけと告白と分かったなら、自分はそれに応えよう。豪炎寺は決意した。
 夕陽が今日最後の光を地上に届けたとき、豪炎寺は風丸の両肩を引き寄せると、その唇を自分のそれで塞いだ。
 風丸の体がびくんとしなる。
 てのひらの中には、風丸の体はもう全然収まらなくなってしまっていたが、その温もりは小さいときよりももっともっと感じられた。
 口づけを交わした時間はほんの少しだったけれど、それは多分、この七日以上に大きいものだった。
 口づけのあと、ふたり気まずそうに顔を見合わせた。
「ホント……恥ずかしいな、これ」
「……全くだ」
「こんなとこでやるもんじゃないぜ」
「お前が先にしたんだぞ」
「お前の方が長かった」
 互いに言い訳じみた会話をして、そのあと可笑しそうに噴き出した。
「あ、そうだ」
 笑い合って突然、風丸が思いだしたのか目尻を拭う。
「あのさ。お前が俺のために縫ってくれたユニフォーム。あれ、俺にくれないか? 記念にしたいんだ……」
 風丸の頼みに、豪炎寺はかぶりを振った。
「すまない。あれはあげられない」
「そうなのか?」
「だって、ドン引きなんだろ?」
 夜なべで縫ったユニフォームは今、豪炎寺の机の上にある。それを風丸に渡したとき、言われたことを思いだした。
「あっ。まだそんなこと気にしてたのかよ! あれは……お前がすごいと思って、羨ましかっただけだぜ……」
 なんだ、そんな理由か。
 豪炎寺は微笑ましく思った。
「冗談だ。本当は……あのユニフォームは俺にとっても記念だから」
「そうなのか。だったらいい」
「お前が良ければ新しく作ってやるよ」
「ホントか?」
 風丸の表情がくるくる変わる様を見て、本当に分かりやすいヤツだと感じる。
「うんまあ……、俺それでいいよ。でも、試験のあとでな」
 陽が落ちた黄昏色の風景の中、風丸は一歩後ずさる。瞳はずっと豪炎寺に向けている。
「じゃあ、また明日な!」
 名残惜しそうな顔で風丸は豪炎寺に手を振る。二、三歩後ずさりしたあと、思いきったように背を向けた。緩い坂道を俊敏な脚で登って行ってしまった。
 豪炎寺はその背中を、手を振りながらずっと見送っていた。
 まるで一陣の風のようだと。
 この七日間で、豪炎寺は風丸のことを少しずつ知っていった。自分が知らないことも何もかも。それでもまだまだ、これから知っていくことも沢山あるのだろう。
 でもそれでいい。そう思う。
 明日はまた風丸のことを知っていくのだろう。それは多分、風丸にしても同じように自分を。
 少しずつ、てのひらのぶんだけ。

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