有情たちの夜
デアドラ陥落後にヒューベルトから尋問されるクロードの話。
フェルヒュー前提
まだ書き終わっていません(2024.3.8)
書き終わりました(2024.4.8)
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1.檻の中
黒い仮面を付けた部下二人が扉の両脇に立っている。ヒューベルトが片手を挙げると左側に立っている部下が恭しく扉を開けた。
物理的に距離を作るために置かれた机の反対側には背もたれ付きの椅子がある。この背もたれは着席する者が快適に過ごすために存在するわけではない。縛りつけるための物だ。そしてそこにはクロード=フォン=リーガンが座って───いや、座らされている。腰を椅子の背もたれに、足首を椅子の脚に縛り付けられても尚、余裕ある態度を崩さない。
「これなら死ぬ前の最後の祈りも捧げられそうだ。身包みも剥がされなかったし案外慈悲深いな」
緑色の瞳にはまだ強い意志の光が宿っている。時間の感覚を奪うため窓を潰したこの部屋を照らす洋燈よりも輝いていた。デアドラでの戦闘が終わり、戦闘不能となった彼はベレスの意志で助命されている。
きっと彼女は反射的にその場で最も危険に晒されている存在の命を助けてしまうのだろう。聖墓で大司教レアの命令に刃向かった時もそうだった。
容赦はしない───そう決めていたせいか柄にもなく、あの時のベレスの振る舞いに感動してしまった己への罰として、ヒューベルトは誓いを立てた。彼女のわがままをそれがどんな物であれ二つは無条件で受け入れる。エーデルガルトは案外君に甘いな、というフェルディナントの指摘は正しい。
「高度な政治的判断です」
ヒューベルトの主君エーデルガルトが何よりも求めるのは確実さだ。だから中央教会とも完全に袂を分かっている。アドラステア帝国の皇帝にとってクロードがこの先、反帝国派の旗印にならないという状態であることが重要なのだ。彼の生死を問うてはいない。殺してしまった方が確実ですらある。
「手を合わせて感謝すべきか迷うところだ」
クロードはおどけて顔の前で手を組んだ。その手首には鎖が巻かれている。気を失った彼の身体を検めた後に鎖を巻いたのはヒューベルトだ。彼の言葉が真実なら誰にも、そう、闇に蠢く者たちにも知られるわけにはいかない。
後ろ手に縛られていないことがどうにもクロードには不思議だった。親指に鎖を絡ませてあるものの手首から先が鬱血しないような配慮を感じる。
「貴殿にいくつか確認したいことがあります」
クロードは幼かった頃、父の子でなかったらという妄想をしていた。受け継ぐのではなく己で国を興す、自分ならあんな国にはしない───だが今回ばかりは父から受け継いだ王の血に感謝するしかなかった。パルミラの王家には変わった風習がある。王族の男子が国外で殺害されたら必ず復讐をするのだ。砦ひとつ滅ぼすだけで済ませる場合もあるが国丸ごと滅ぼした例もある。どうやらアドラステア帝国はゴネリル家を捨て石とするつもりがないようだった。
「知らない方が良い話もあるぜ?」
「その線引きをするのは貴殿ではありません」
ヒューベルトは煩わしげに目を細めている。彼は学生時代と比べて随分と雰囲気が変わった。敗者が勝者を慮るのはおかしな話だが、あの時期は思い詰めていたのだろう。周りの目を欺く暮らしはクロードの身にも覚えがある。
「貴殿がガルグ=マクで見聞きしたもの全てについて話を伺いたい」
「アビスについてはコンスタンツェにでも聞けよ」
ロナート卿やアルファルドの顛末を思うとクロードはエーデルガルトたちの気持ちが分からなくもない。逆の立場なら彼女を殺したくはなかったはずだ。
「何が重要かを確定するのは私であって貴殿ではありません」
黒衣の男はクロードに五年前の春から大修道院が襲撃されたあの日までを詳らかにせよ、と言っている。デアドラは陥落し、王国にとって地獄の釜の蓋は開いた。この勢いを借りて北部へ攻め込みたいが、クロードから得られる情報は全て得ておきたい。ヒューベルトがそう考えているならこの尋問はかなりの長丁場になるだろう。
「今晩は長い夜になりそうだ」
クロードは鎌をかけてみたが今が朝なのか夜なのかヒューベルトの佇まいから読み取ることはできなかった。
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2.箱の中
もしフォドラにクロード=フォン=リーガンが現れなかったらレスター諸侯同盟はどうなっていただろうか。オズワルド公亡き後はエルヴィン=フリッツ=グロスタール伯が盟主の座に就いたはずだ。親帝国派の彼をどのように遇するか、で意見が割れたかもしれない。闇に蠢く者たちが彼に成り代わった可能性もあった。
その場合、彼の嫡子ローレンツはヒューベルトたちと同じ地獄を見ただろう。彼はクロードのもたらした混沌に救われている。そんなローレンツは───クロードを見極めねばならない─── そう言ってベレスの勧誘に対し、首を頑として振らなかった。不規則な彼女の意志は混沌を呼び、世界は撹拌され不規則な救いをもたらす。
目の前で口角を上げている緑の瞳の男が、金継ぎしやすい形で皿を割れたのはグロスタール家の協力があってこそだが、その協力も或いは───という気持ちになる。腹立たしいのが帝国の国庫を当てにしてデアドラの軍港を派手に壊したことだ。これから直接、王国と戦うには海上における補給路を確保せねばならない。黒鷲遊撃軍の中では比較的港湾経営に明るいフェルディナントにこの件を任せる必要があった。
「貴殿が士官学校に入学したのは何故でしょうか」
パルミラ王家での彼の立場について問うても無意味だ。ベレスが彼の命を救ってしまった以上、パルミラを親帝国の国家に作り変えるため今後はクロード、いや、ヒューベルトの目の前にいる名無しの殿下を後押しする他ない。
「祖父さんの狙いは人脈作りだが俺の狙いは謎解きさ。目当ては英雄の遺産だったがいざ中で暮らしてみると不自然過ぎてな」
ヒューベルトは主君であるエーデルガルトと共に天帝の剣を入手し、中央教会とセイロス騎士団の内情を知るため士官学校の生徒となった。自分たちの学生生活の犠牲となったモニカへの罪悪感はいまだに消えない。だが正直言ってガルグ=マクで過ごした日々は案外楽しかったのだ。
黒衣の男には迷いがない。好奇心に負けるかと思ったが当ての外れたクロードは五年前、初めてガルグ=マクに足を踏み入れた時のことを思い出していた。隣室はローレンツで、彼の気直さに度肝を抜かれたことをまだ覚えている。
現在、クロードが捕えられているのはデアドラ近郊の砦だろう。砦を守るのは人だ、とローレンツから指摘されていたのにデアドラへ兵力を集中させるため放棄させてしまった。後日再会する機会を得られればきっととんでもない嫌味を言われるだろう。そのためにもこの尋問を早く終わらせる必要がある。
「何が貴殿に不信感を抱かせたのでしょう」
「全てだよ。敷地内では窓の数や柱の数が広さと合わないし、教会の配置もそうだ。軍の屯所を置きたいところに必ず教会がある」
隠し部屋だらけの王宮育ちであるクロードは真っ先に気がついた。アンヴァルにもフェルディアにも行ったことはないがディミトリも察していたのではないだろうか。その上で彼は別の調べ物をしていた。ディミトリが謎を解けたのかどうかクロードは知らない。
「それは騎士団を抱えているからではありませんか?」
ガルグ=マクを陥落させた側だと言うのにヒューベルトはしらを切った。網のように張り巡らされた教会の目を掻い潜り大軍を展開するのは相当骨が折れたに違いない。
「無謬気取りが気に食わないって理由で網を切り裂く側がそれを言うか?」
「貴殿こそ網ごと食らい尽くすおつもりだったのでは?」
クロードには自らの手でフォドラを統一するつもりがなかった。自分がフォドラ方面軍の将だったとしても鉱山があり豊かな南の土地は欲しいが寒くて貧しい北の土地は持て余してしまうだろう。商行為に制限を掛け、しばらく放置しておけば飢饉が起きて勝手に人口が減っていく。
それが分かっていても尚、エーデルガルトは軍を北に進めようとしている。彼女は一体、フォドラ北部に何を求めているのか。一方的に取り調べを受けるだけでは益がない。
「心外だな。こう見えても俺は美食家でね」
クロードは微笑みを浮かべた。手首を縛られ足首と腰が椅子に括り付けられていようと顔の筋肉だけは自分の思い通りに出来る。
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春の日差しの中、礼服に身を包んだ学生たちが大聖堂に集まる様をヒューベルトは他人事のように眺めていた。今となっては遠い昔のように感じる。実りある一年を過ごして欲しい、と語るレアの言葉に吐き気を覚えた。
「ではまず一年のはじめである春から、話していただきましょう」
「春が一年の初め?誰がそんなことを決めたんだ?暦に対する違和感は今も残ってるぜ」
クロードはもう隣国出身であることを隠そうともしない。ヒューベルトも夜目が効く方だがそれでもあの時の彼が何故あんなことが出来たのか、本当に謎だった。クロードは答え合わせの機会など与えてやる気はなかっただろう。
先ほど意識を失ったクロードの身体を検めた際、ゆったりとした袖の中にフォドラで禁じられている遠眼鏡を見つけた。レンズが縦に並び、フォドラで流通しているものよりもはるか遠くを見渡せる。星を見て方角を把握していたから彼はあの時、駆け出せたのだ。
「ぼろを出さずに済んだのは結構なことですな」
「春と言ったら先生だろ、盗賊から俺たちを救ってくれた」
あの時、コスタスが依頼通りクロードかディミトリの殺害に成功していたら中央教会やセイロス騎士団の権威は権威は失墜していただろう。
「偶然ですかな?」
「おいおい、ルミール村は帝国領だろう?それに先生はエーデルガルトを選んだ」
オズワルド公の手の者───もっと言うならばパルミラの密偵がいた、と言うわけではないらしい。ヒューベルトは偶然というものに頼りたくなかった。だが五年間膠着していた状況が彼女の復帰で動き始めている。現に同盟領は今や帝国のものだ。
「当然のことです。貴殿たちよりエーデルガルト様の方があらゆる面で優れておいでですので」
「度胸があるのは認めるさ、それに俺より確実に頑強だ」
クロードはわざとらしく手首に巻いた鎖を引っ張っている。エーデルガルトではないから引きちぎれない、と訴えかけているのだ。本当に彼を生かしておいてよいのか───実に疑わしい。
あの節にあの課題を与えられたのが金鹿の学級ならどうなっていただろうか。クロードはこれまでその件について考えてみたことがなかった。ハンネマンやマヌエラがいればデアドラを守れたか、と言えばそれは違う。だがコスタスならばベレスがおらずと、も当時のクロードたちだけで何とかなったのではないかと思う。
国境付近には密猟者や旅人を狙った盗賊が出る。クロードは村の者たちが自警団を雇っているのではないか、と咄嗟に思いついた自分をこれまでずっと褒めてきた。しかし手首に鎖を巻かれている現状を鑑みるとしくじったような気がしてならない。苦々しいことにベレスとエーデルガルトの火力にしてやられたのだ。ミルディン陥落までは計算の範囲内で、陥落した時に備えてクロードはグロスタール伯にちょっとした依頼もしてあった。だがそれもデアドラを守れたら、という条件つきだったのだ。
野営の訓練中に他国の者たちを捨て石にして、金鹿の学級の者たちだけを助けていたら今こんな風に手首に鎖をかけられていただろうか。クロードはつくづく己の甘さ、いや、全方面に対して取り繕おうとしたことが嫌になった。エーデルガルトのようになりふり構わない者に敵うわけがない。
「話を続けるとしますか」
学生時代より髪を短くしたヒューベルトは記憶力に自信があるのか何も書き留めずひたすらクロードを観察している。
「あのあと確かエーデルガルトたちはザナドへ行ったんだよな。あそこは一体、何が赤いんだ?」
五年前、課題協力でザナドに行ったローレンツが首を傾げながら帰還してきた。岩も木の葉も別に赤くなかったらしい。それなのに何故、ザナドは昔から赤き谷と呼ばれるのだろうか。素朴だが大切な疑問であるような気がした。
「……とりあえず盗賊の血で赤く染まりましたな」
現にヒューベルトはほんの少しだけ言い淀んだ。どこまで明かすのか迷っているのかもしれない。
「その前から赤き谷、なんだろう?誰の血で染まったから赤き谷なんて呼ばれるようになったんだろうな」
名付けには意志が表れる。ザナドを見て赤い、と感じた者が居たのだ。
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同胞の血で染まった谷を見て赤い、と感じたのは白きものたちだ。やはりクロードは恐ろしく勘が良い。レアのあの姿は見ていないはずなのに。
「その件に関して推測をお話ししたいのであればお聞きしましょう」
「拒否する。それよりロナート卿の話をしようぜ」
緑色の瞳がゆらぐ蝋燭の灯りを受けている。新品のものを用意させたので尽きてしまうことはないだろう。西方教会関連の工作を担当していたのはアランデル公たちだ。彼らに利用された者たちは皆、捨て石にされまともな取り調べも裁判もなしに処刑されている。ダスカーの際もそうだったが、セイロス騎士団と中央教会の乱暴なやり方を目の当たりにしたヒューベルトは改めて彼らを味方に付ける気を失った。神がかった言いがかりをつけ後ろから背中を刺しかねない。
ロナート卿が中央教会の振る舞いに耐えかねた事情はヒューベルトもうっすらと把握していた。───こんな時期に散発的に反乱を起こされてもなんの後押しもしてやれない───一報が入った晩にそう嘆いた主君をモニカならどう励ましただろうか。あの頃は主君と二人きり、ガルグ=マクであれ宮城であれお互い以外に信頼できる存在はなかった。だが今はベレスに背中を任せられる。だからこうしてヒューベルト自身でクロードの尋問が出来るのだ。
「なあ、ヒューベルト。命よりも大切な物はあると思うか?」
ある。ヒューベルトにとって、そしてモニカにとって自分の命よりもずっと大切なのがエーデルガルトだ。
「答えなくて良いぜ。ロナート卿には命より大切なものがあったから勝ち目もないのに蜂起したんだ」
「私どもに勝ち目がないと仰るのですか?」
「俺にはないんだよ。俺にとって命より大切なものはない」
クロードはそう、断言してから顔を歪めた。捨て身の人間が何をやるのか、ロナート卿のことがあったのにきちんと理解出来なかったのが悔しいのだろう。だが彼となら未だ会話や交渉が可能だ。だから答えによっては水くらいなら飲ませてやってもいい。
ヒューベルトは隠しごとをしている。つまりエーデルガルトもまだ何かを隠している、と言うことだ。この部屋に囚われている限り、残念ながらクロードにもう隠しごとはない。ガルグ=マクにいた頃、クロードもディミトリもエーデルガルトも秘密の数を持っていて、そう言う意味では対等だったように思う。だがクロードは父の名を告げてしまったことで強みを失った。それに比べたら些細なことだが意識が戻った時の感触からして、隠し持っていた武器や薬品の類も取り上げられている。
「それが王国と盟約を結ばず中途半端な形で我々に抗った理由ですかな?」
僅かだがヒューベルトの声に好奇心が含まれていた。当然の疑問でローレンツと再会する機会があれば何故、諸侯を結集して事に当たらなかったのか、と詰られるだろう。シルヴァンやメルセデスそれにアネットと親しかった彼は、親帝国派の自分には無理でも盟主になら、という期待を持っていたはずだ。
「違う。イーハ公もディミトリもロナート卿の件について中央教会に苦情申し立てをしなかっただろう?」
国力が落ちてしまった王国が中央教会に鎮圧や捕縛を依頼するところまではクロードにも理解できる。だがどんな小国であろうと死刑に処すならば為政者の名において処さねばならない。
「彼らは委ねてはならないものを教会に委ねました」
ヒューベルトは吐き捨てるようにそう言ったが王国をそこまで弱体化させたのは帝国の手の者たちだろう。そしておそらくその件を成功させたのはヒューベルトと敵対する派閥の者たちだ。些か身勝手だがその失望はクロードにもよく分かる。戦後の論功行賞に向けた味方同士の争いもすでに始まっているのだ。ヒューベルトは、いや、エーデルガルトは敵より憎い同胞を圧倒せねばならない。
「神懸かった理由で背中を刺されるのはごめんでね」
きっとディミトリはそんなことを望まない。だがそうせよと勧める者は彼の周りに必ず存在する。そして彼にもイーハ公にもその暴発を抑える力はない。だからクロードはディミトリと盟約を結ぶ気になれなかった。
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同盟と帝国が手を取る未来もあったのかもしれない。アミッド大河とデアドラを血に染めておきながらそんな妄想をした、とフェルディナントに知られたら彼はどんな顔をするだろうか。
エーギル公失脚後、彼は五年間辛酸を舐めたが真っ直ぐなままだ。折れた骨は強くなるのだ、と言って朗らかに笑う。ヒューベルトに嬉しい驚きをもたらした彼は元から親帝国派であったグロスタール伯そしてエドマンド辺境伯に宛てた書状を書いている。ヒューベルトが前もって作った文面を確認したエーデルガルトがこれでは威圧的すぎる、と眉を顰めたからだ。
「カトリーヌさんはレアさんお気に入りだったが俺としてはああいうのが一番困るんだよ」
彼女はロナート卿の息子クリストフを中央教会に突き出した張本人で、雷霆を振るってセイロス教会に仇なす者を屠る。
「あの様な狂信者が大手を振って歩いているのが中央教会です」
ダスカーでの沙汰はヒューベルトを絶望させた。闇に蠢くものたちが存在する証拠を集め、中央教会に駆け込めば庇護を受けられるのではないか。そう考えていた頃もあったのだ。幼かった自分の見通しの悪さに呆れてしまう。
「ローレンツによると彼女はカロン家の者だとか。なあ、俺の邪推を聞くか?」
クロードが指の節で机を叩いたのでヒューベルトが手首と親指に巻いた鎖も音を立てた。場の主導権を奪うつもりらしい。
「愉快な気分になれそうですな」
「ツィリルもカトリーヌもレアさんが自身の器量がいかにでかいかを示すための装身具なのさ」
パルミラ人とお尋ね者、と言うわけで二人とも一般的なフォドラ人からは眉を顰められる。従者程度なら構わないが、どう見ても経歴が明らかな彼女に偽名と騎士団での役職を与え、英雄の遺産である雷霆も持たせたままだ。気まぐれな慈悲を与えられた側はますますレアに傾倒する。
「私から言わせれば器量の小ささの表れです」
ベレスの判断は間違っていないのかもしれない。ヒューベルトは自分の口角が微かとはいえ、上がっていることに気がついた。
内装からも分かる通りこの部屋は尋問を受ける側の感覚が鈍るように工夫されている。クロードが敗北してしまったので時を告げる教会の鐘を鳴らす者も失せてしまった。風や自然光を遮られているので喉の渇きや空腹感などの身体感覚で時間経過を把握するしかない。
「機嫌がよさそうだ」
───勝ち戦のあとですので寛大な気分にもなろうというものです───クロードの言葉にそう返した癖にヒューベルトは視界を遮るため頭に布の袋を被せた。深く被せる際の動作で自分が頭を打っていたことを思い出す。最後、ベルナデッタに射られて落竜したのだ。
頭を振って外せないようにわざわざ喉元を紐で縛られた時は流石に不愉快だったが、それでも得られるものはある。人間は耳を閉じることはできない。クロードの耳は布の袋越しに扉が開閉される音をとらえた。
他にも何か聞こえないだろうか。クロードの耳がとらえるのは己の鼓動や呼吸音だけで他には何も新しく把握することができない。しばらくの間、焦る気持ちを押し殺していると再び扉が開閉され、喉元の紐が解かれ頭から袋を外してもらえた。目の前にいる人物は変わらないが目の前に水差しと銀の杯が二つある。
ヒューベルトはクロードの目の前で銀の杯に水を汲んで口をつけた。毒に反応する銀の器に加え、行動でこの水に毒は入っていない、と表明している。世の中には無色無臭透明な毒など数えきれないほど存在するし、ヒューベルトが本気でクロードを油断させて毒殺するならやはり今のように目の前で毒入りの水を飲むだろう。多少は苦しむことになるがその後で解毒剤を服用すればいい。
「喉が渇いては大変ですからな。まだ話していただきたいこともありますので」
「そっちこそずっと話し通しだから水を飲みながらの方がいいだろ?もうひとつの杯でいただくよ」
そう言ってクロードが白い歯を見せると意外なことにヒューベルトは親指に巻いた鎖を外してくれた。両手で抱え込む不恰好な形になるが、杯を口元に当てられながら飲むよりもずっとありがたい。
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クロードは一気に杯を空けるようなことはせず、一口ずつ味わって飲んだ。喉を潤せた礼のつもりか両手首をヒューベルトに差し出している。
「結構です」
どうせ尋問が終わったら解放するのだ。親指に鎖を巻き直すより聞き取りを再開したい。ロナート卿の事件の後、ベレスが天帝の剣を手にした。あれこそが淀んだ空気が入れ替わる予兆だったのかもしれない。ガルグ=マクに潜入していた自分に何の断りもなく手を突っ込んできた者たちが失敗したのは愉快だった。
「水の礼をしたいが今は手持ちがなくてね」
「憶測で構いません」
クロードが帝国の者に直接語りかける機会は当分訪れない。ヒューベルトに回答を用意する義務はないが、彼が英雄の遺産についてどんなことを考えているのかは知りたかった。それに統一後はパルミラとも国交を樹立することになる。クロードの考えを把握しておくのは必要なことだ。
「俺たちは天帝の剣にしてやられたわけだが……」
緑の瞳は己の手のひらを見つめている。こぼれ落ちた命を惜しんでいるようにも見えた。ベレスの気まぐれに救われたのは学友のみで後見人であったジュディッドを失っている。
「英雄の遺産について答え合わせは出来ましたかな?」
「まともな推論すら立てられなかったのは誰のせいだ?まあ良いさ。周知の事実だがあれは形状がなんであれ、弓だ。つまり矢と射手が必要な代物だ」
弓は矢がなければ使用できない。弓が遺産、矢が紋章石、射手が紋章保持者、というわけだ。凡庸な例えだがよくまとまっていて分かりやすい。
「天帝の剣には紋章石がはまっていません」
「だからフレンだけでなく先生も誘拐すべきだったのさ」
「それなら同盟は今も健在であったかもしれませんな」
もしベレスが黒鷲優撃軍に合流していなかったら東回りで王国を目指すことは叶わず、アランデル公が地均しした西回りの経路で進軍していただろう。だがそれでは戦後の争いで不利になってしまう。ヒューベルトたちにとって本当の戦いはそこから始まるのだ。
戦争という営為は実に複雑なので現実にはたった一人にしてやられることなどあり得ない。ただもう少し時間が稼げればエーデルガルトが諦めて西から北上する、クロードはそう思っていた。だが事態がこうなってしまってはグロスタール伯たちがうまく後始末をしてくれるよう願うしかない。
「そうかもな。この後は東回りで北上するんだろう?ガスパール領やコナン塔の件はいい予行演習になったな」
もし自分が父のように強い力を持っていたらミルディン大橋を通行不可能になるまで破壊させた。輜重隊の兵も食べねば移動出来ないので補給路が延びれば延びるほど必要な物資が増加していく。そういったことを考えると帝国はミルディン大橋を再建せざるをえないのだ。戦争はただでさえ金がかかる。大橋の再建を妨害しながら時間稼ぎをしているうちに帝国の国庫から戦費が尽きるのではないか───クロードはそう考えたが諸侯たちの理解は得られなかった。
「破裂の槍が射手を選ぶさまは実におぞましかったですよ」
「ローレンツから聞いたよ。神罰、なんていう奴もいたな」
もし神罰というなら神はたまにひどく悪趣味になるらしい。当時の噂話を思い出したのかヒューベルトは失笑している。
「貴殿はどうお考えですか」
クロードは意図的に国を二分して茶番を続けたが王国は本当に国が二分されている。一見エーデルガルトが全権を握っているように見えるが、帝国にはエーデルガルトと敵対する勢力が存在するのだろう。ヒューベルトは彼らを出し抜く手がかりを探すため、打てる手は全て打っている最中なのだ。そうでなければクロードの意見など聞く必要がない。
「陳腐なら単なる願望だし、再現性があるなら神罰と言う印象は受けないな。うまく言えないがもっと神罰ってやつは稀なんじゃないのか?ほら、アリルみたいな」
ガルグ=マクにいた頃、マリアンヌが教えてくれたが女神の怒りに触れたためアリルはあのような土地になったのだと言う。あれこそ、どうすれば人の手で再現できるのかクロードにとって全く見当がつかない事象だった。
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クロードはセイロス教の影響を受けずに育っているので時に思いもよらないようなことを言う。
「再現性ですか」
「俺やヒューベルトだってやろうと思えば人間が魔獣に変化する条件を整えられるんじゃないのか?」
それには紋章石が必須で、白きものの血液もあるに越したことはない。だから彼らはフレンを拐かしたのだ。レアの要請がなければセテスとフレンはガルグ=マクにやって来なかったのだから、彼らだけに責を負わせるのは間違っている。それでもヒューベルトはどうして人里離れた土地で安全を確保してくれなかったのか、と思ってしまう。
「それともあれはトマシュさんの顔を奪ったような連中にしか出来ないのか?」
ヒューベルトの答えを待たずに話し続けたクロードは、暗に取り上げられたフェイルノートとフライクーゲルのことを言っている。紋章を持たない者に英雄の遺産を握らせれば魔獣になるだろう。だがヒューベルトの脳裏に浮かんだのは闇に蠢くものたちの拠点のことだった。奪ったら即座に破壊せよ、と主君であるエーデルガルトから命じられている。だが───
「同じような下衆になれ、と?」
「逆に考えろよ、魔獣から人間に戻す手がかりがあるかもしれないじゃないか。それにトマシュの爺さんみたいに任意で姿を選べた方が有利だろ」
確かに闇に蠢くものたちは都合よく姿を使い分けていた。ヒューベルトは顔と名を奪われる前のアランデル公のことを、モニカのことを覚えている。真の二人はあのような振る舞いをする者たちではなかった。だからこそヒューベルトは闇に蠢くものたちを絶対に許せない。
「その技術が確立され、普及した後はどうやって己が己である、と示すのでしょう?社会から信頼が失われますな」
「少し考えが足りなかったか」
クロードはわざとらしく咳払いをした。全くもって地に足がついていない。ヒューベルトは敬虔なセイロス教徒たちと打ち解けることができなかった。理由は異なるが、クロードとも打ち解けられそうにない。円卓会議に出席していた諸侯たちは暴走しがちな彼を止めるのにかなり苦労したはずだ。
ヒューベルトがクロードの言葉に何かを見出している。だがそれは母国パルミラ関連ではない。客観的に見ればデアドラを奪われ同盟の諸侯たちに合わせる顔もなく───という敗軍の将、クロードのどこに価値を見出しているのか、段々と分からなくなってきた。ガルグ=マクで見聞きしたことを話せ、と言われているが五年間自由に出入り可能だった帝国の者たちの方が修道院やアビスに詳しいに決まっている。では五年前にクロードが夜の探索中に偶然見てしまった何か、に価値があるのだろうか。考える時間を稼ぐためにも無駄話を続けるしかない。問題は無駄話が思ったより楽しいことだ。
「でもな、アリルのようなことですら再現できる存在がいるかもしれない」
「おや、意外ですな。女神が実在する、と?」
「違う。そんなことは言っていない。再現できるならアリルのようなことですら女神の御業とは言えないってことだ」
一般論として、千年も続く組織が清廉潔白なわけがない。ディミトリの考えは聞いてみなければ分からないが、クロードが中央教会に改善を求めなかったのは完全に他人事だったからだ。仮の話だがフォドラがパルミラ王国の新たな領土になるならば、対応が全く異なってくる。内心は問わないとして言動は法律に従わせねばならない。心のうちでは何を信じても構わないが異教徒の子供を生贄にするような儀式は法律で禁ずる。
「ではどう言うことが女神の御業になるのでしょうか?」
クロードの視線に気づいたヒューベルトがそう問いかけながら再び杯に水を注ぐ。話を引き延ばさねばならない立場だが、教会の者たちと積極的に話そうとしなかったヒューベルトがまだ女神について語り続けることはクロードにとって意外だった。小さな丸い水面に視線を落としたが都合よく自分の顔など映ってくれない。
「この世界を作るとかそういう、本当に一度きりしか起きないようなことを起こすのが神様ってやつなんだと思うぜ」
一考に値すると思ったのだろうか。ヒューベルトは顎に手を当て口を閉じてしまった。
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ヒューベルトは主君であるエーデルガルトの身の安全が脅かされること以外怖いものはない。中央教会も闇に蠢くものたちも強大な敵だが対処できる。いや、対処できるように手を打ってきた。
頭は心にそのように感じよという命令を出すが、心は理屈通りにいかない。無理やりねじ伏せた心は次第に何も感じなくなっていったが、近頃はその心に肉迫する者たちがいる。
工作のため主君に付き従って入学した士官学校時代の知己たちは皆、個性的で誰一人として重なるところがない。名前と姿を奪われたアランデル公やモニカのことを思えば、良くないことだとわかっていてもこの五年間ですっかり級友たちに情が湧いてしまった。一度緩んだ蓋はすぐ開いてしまう。だが、諦めにも似た予測を、予測より遥かに上をいくことで驚かされるのは嬉しいのだ。尋問の前にわざわざ時間を作ってヒューベルトを訪ねてくれたフェルディナントの言葉が脳裏に浮かぶ。彼の言う通りクロードのような人間を打ち解けさせる鍵は素直さや誠実さかもしれない。
「意外でした。その手のことは一括して否定にかかるたちかと」
「否定するにしても信仰するにしても全ては知ることから始まるもんだろ」
そう言ったあとクロードは失念していたことでも思い出したのか───あ、と一言だけ声を発すると黙ってしまった。彼は闇に蠢くものたちの行いが人の営為の範疇に収まるという。ルミール村や宮城で連中が何をしたのか知らないからそんな解釈が出来るのだ。
「敵を知らねばならないのは私とて承知しておりますよ」
苛立ちを隠さずそう伝えた。ヒューベルトは、いやヒューベルトたちは目を閉じて見ないふりが出来るような環境にいたことがない。誰かが痛めつけられているうちに必死で安全を確保せねばならなかった。それにそんなことをすれば処断した父と同じになってしまう。
「こっちは知識の扱い方がおかしいんだ。せっかく中央教会に宣戦布告したんだから固執してくれるなよ?」
ヒューベルトに共鳴したかのように緑の瞳にも苛立ちが浮かんだ。クロードはもう笑顔で感情を覆い隠していない。
人生には夜空と宝石が必要、とクロードが悟ったのは前髪が伸びて三つ編みを作れるようになった頃のこと、このままパルミラにいても宝石が手に入らないと悟ったのは初めて毒を盛られた時のことだった。
「何を仰りたいのやら……測りかねますな」
フォドラに住む者たちはセイロス教によって作り上げられた柔らかで強靱な繭に包まれてこの千年を過ごしている。そこにはどこまでも広がる夜空のような思索の広がりが存在しない。
「俺たちは中央教会を知っているが信じていない。だが〝知る〟と〝信じる〟の違いは何だ?」
「経験で信じない、と判断しました」
ヒューベルトの理性的な答えを聞き、クロードは眉を顰めた。やはり自由の何たるかを知らずに生きてきたエーデルガルトとヒューベルトには限界がある。
「その経験を以って誰よりも自分たちの方が上手くやれると〝信じた〟わけだ」
今度はヒューベルトが眉を顰める番だった。
「我々は現実逃避をしません」
ディミトリであればクロードの言葉に引っかからず、そのまま流すだろう。迷いのないヒューベルトの言葉を聞いたクロードはエーデルガルトかディミトリどちらかが死ぬまでこの戦争は終わらない、と悟った。
「中央教会は女神の不在が証明されることを許さなかったから学問や技術に制限をかけたんだ。ヒューベルト、エーデルガルトはどこまでなら許容するんだ?」
例えば、レンズを縦に二枚並べて肉眼では見えない遠くを───夜空を眺めることを中央教会は禁忌としている。この手法を禁じられては肉眼では見えない小さな物体を観察することが出来ない。きっと女神が実存するか否かに関係がある分野なのだ。
「エーデルガルト様は人の世を取り戻すために立ち上がられたのです」
「答えになってないぜ」
この質問が敗軍の将であるクロードからレスターの民にあてた最後の贈り物になるかどうかはヒューベルトにかかっている。
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聖墓での誓いなど反故にしてやりたい。この距離で椅子に括り付けられたクロードにダークスパイクを直撃させてやったらどれだけ気分がいいだろうか。だがこれまでに嵩んだ戦費の件が絡んでいる。主君であるエーデルガルトがベレスの提案を受け入れたのはそういうことだ。ほぼ無傷の同盟領はともかく荒廃した王国を併合すれば復興費用がかかる。それをパルミラとの貿易で賄う算段がついて安堵できたことは否定できない。
ベレスが黒鷲遊撃軍に合流して以来───あと一押し何かあれば、一気に戦局を傾けられるのに───という主君エーデルガルトの口癖はすっかり鳴りを潜めていた。正直言ってヒューベルトにはベレスが何を考えいるのかさっぱり分からない。分からないがそれで構わないとも思っている。ヒューベルトにとってそんな存在は彼女しかいなかった。
水を取りに行った時のようにまた頭に袋を被せてやってもいいのだが、それもクロードの思惑通りのように感じてしまう。ヒューベルトは黒髪をかき上げると緑の瞳をまっすぐ見つめた。この瞳がベレスの行動以外の全てを見通しているとしても、帝国の勝利に変わりはない。
「今は戦時下ですので勝つために必要な制限はかけるでしょうな」
だが自分の返答は何とつまらないのだろう。中央教会を否定するなら終戦後すぐに可能な限り情報を公開し、技術にかけられた制限を取り払ってレアとの違いを打ち出す必要がある。覚悟はしているがやはりどうしても活版印刷が厄介だ。
ヒューベルトも元より情報戦に利用するつもりでいたが、闇に蠢くものたちが活版印刷を悪用しないわけがない。政策に関する的外れな意見はいざとなったら権力で押さえつけることは可能だが、それでは軋轢や遺恨が残る。
「英雄の遺産に関してはどうするんだ?何のために墓荒らしをしたんだ?」
クロードは追求の手を緩めない。戦闘終了後、武装解除をさせた時にクロードからはフェイルノートを、ヒルダからはフライクーゲルを取り上げているので気にかけて当然だった。
フォドラでは世界を作りたもうた女神の御業の詳細を知り、信仰を深めるために学問が存在する。セイロス教会がフォドラの知識を独占するための方便だ。情熱が都合の悪い真実に到達しそうになったら涜神行為だ、と言って阻止すれば良い。地理的な条件でセイロス教の教会は分裂しているが、この中央教会のやり方が激しい反発を呼んだのも分裂した理由の一つだろう。
「残念ながら中央教会の秘密保持は及第点だったようです」
ヒューベルトはもうクロードと話すつもりがないのか尋問を切り上げようとしている。しかしクロードは彼の常識に楔を打ち込めればそれで良かったので───馬鹿正直にパルミラの哲学者たちの間でも未だに〝知る〟と〝信じる〟はどちらが高度な状態であるか論争が続いていることを伝えていない。
「残念ながら、な。ヒューベルト、お前はこれまでも周囲を疑って来たんだろうが、今後の猜疑心はこれまでとは一味違うぜ」
ヒューベルトはこれまで己の全てが中央教会の者たちと異なると〝信じて〟いた。だが今後はその根拠を周囲に、何よりも己に知らしめねばならない。これがクロードが猜疑心の塊を自称する理由だ。
敵の逆張りをするだけなら敵と同じ輪に閉じ込められてしまう。〝知る〟ことは否定を伴うので己を蝕んでいく。そんな心苦しい毎日を送る者は自由な夜空と何があろうと砕けないほど硬く、色褪せずに輝きを放つ宝石のような何かを心に持たねばならない。
「受けて立ちましょう」
揺らぐ蝋燭の灯りに照らされるヒューベルトは心に宝石を持っているのだろうか。
幼い頃に願った、全てを帳消しにするような奇跡は結局、今に至るまでクロードの身には起きなかった。故に絶対という言葉や奇跡の実現をクロードが〝信じる〟ことはない。それでも人生にはそんな言葉を必要とする局面がある。
───クロード、君の追悼文はこの僕が書いてやる。だが、それは遠い未来の話なのだから絶対にまだ死んでくれるなよ───
だからクロードはあの時、どんなに見苦しくも出自を匂わせて命乞いすることが出来たのだ。
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ヒューベルトはデアドラの軍港近くにある館へと足を運んだ。デアドラの街中にあるリーガン邸も接収したが、クロードによってどんな罠が仕掛けられているか分からない建物を本部として使うわけにいかない。それに移動距離の短さがありがたかった。
すぐ拠点としているガルグ=マクへ戻り、今度は王国へ北上する手筈となっている。だが同盟軍の武装解除とクロードの尋問に続けてベルグリーズ伯への引き継ぎも終えたため、ヒューベルトは体力の限界を迎えつつあった。主への報告を終えたら、出発までの数刻で構わないから身体を横たえて瞼を閉じたい。そう考えていたのだが黒鷲遊撃軍の将たちはリンハルトとベレスを除いてとにかく声が大きかった。
「え、ええー!クロードさんがきたですってぇー!!あ、危ない目には合いませんでしたか?!」
「冷静になりたまえ!先生がそばにいたのだぞ?」
そして人間という生き物は瞼を閉じることができても耳を閉じることはできない。仮の執務室から扉越しに聞こえた話し声、というか騒ぎのせいでヒューベルトの眠気は一気に吹き飛んだ。命を助けてやったというのにクロードは最後の最後に場を引っ掻き回したらしい。
「クロード、破れたあと敵だらけの中、潜り込む、すごいです!」
慌てて扉を叩いて開けると落ち着きのない、気が置けない仲間たちにヒューベルトの主君エーデルガルトが囲まれている。かつてはお互い以外、何者をも信用できず声をひそめていたというのに今はこの賑やかさだ。
孤高だったはずの若き女帝は卓に肘をつき顔を覆っている。誰にも───ヒューベルトにすら言わずに済ませようとしたこと、が黒鷲遊撃軍の者たちに発覚してばつが悪いのだろう。賑やかな空間を作り出したベレスはただ一人、表情も変えずに口を閉じている。
「二人とも心配しなくていいぜ!俺はまだ戦えるから安心して背中預けてくれよな!」
「あら、ヒューくんが来たわ。これで安心ね、エーデルちゃん」
「リシテアには挨拶したのかな。ヒューベルト、経過観察ついでに確かめておこうか?」
リンハルトの提案に是、という前に当事者たちの口から事情を聞かねばならない。
「エーデルガルト様、ご説明を」
「私は、大事にしたくなくて……私と師で対処できると判断したの。クロードは本当に挨拶しに寄っただけで……でも師は秘密が嫌いだから……」
彼女の素性についてヒューベルトは幾度となく主君と語り合った。謎は抱えているが秘密はない。父親からもレアからも思わせぶりなことだけ言われ続け、ずっと疎外されたような気持ちでいたのだろう。
「貴殿は秘密がお嫌いですか」
ベレスは無言で頷いた。闇に蠢くものたちは彼女の存在に戸惑っている。クロードが指摘した弓と矢と射手の法則に当てはまらないからだ。
「ですが今後は箝口令が出た件については守っていただきます。今回の件は痛み分けといたしましょう」
ヒューベルトも彼女の存在には戸惑っている。これまで主君と自分しかいなかった閉じた世界に入り込み、あろうことか開閉が自在な扉まで付けたからだ。世界が可変であれと心底願っていたのにその通りである、と示されると尻込みしてしまうのは何故だろうか。
「私も秘密は好きではない。だからクロードが侵入した件について私たちに知らせたのは正しかったと思う。そもそも大事にするかどうかは……」
その扉からヒューベルトの世界に飛び込んできたフェルディナントが自説を滔々と述べている。ガルグ=マクにいた頃は空虚だと感じた彼の言葉はこの五年間でその重みを増した。他人からもたらされる喜びは想像以上に人生に彩りを添えてくれる。
「警備を強化させます。エーデルガルト様、決してお一人には……」
「ヒューベルト!君もだ!私は君を決して一人にしない!」
皆、言っていることがてんでばらばらで本当に騒々しい。今はそんなことを感じるべきではないのに一喝して皆を黙らせたくなるほど───ヒューベルトは幸せだった。
エドマンド港を出た船が西に向けて小麦を積んでいることは今も三年前も変わらない。変わったのはその小麦を受け取る相手だ。クロードが敗北するまではフラルダリウス家だったが今は帝国軍が受け取っている。クロードの勝敗とは関係なくエドマンド辺境伯の懐は豊かになっていく。その手腕を恐ろしいと見るか頼もしいと見るかは人によって意見が異なるだろう。
〝クロード〟が生きている限り反帝国派は打ち負かされたとしても何度でも集うことができる。今は親帝国派とされる同盟の諸侯たちも考えを改めるかもしれない。あの時、エーデルガルトには強い葛藤があったはずだ。念押しはしたものの彼女の胸中から疑念が去ることはない。
「盟主殿が五体満足とは実に驚いたな。首級を確かめにデアドラへ赴く手間が省けたようだ」
帝国の者たちに知られれば叛意あり、と見做されるだろうに辺境伯はエドマンド港に辿り着いたクロードと直接接触していた。この度胸が彼に富と成功をもたらすのだろう。彼に見込まれて養女となったマリアンヌはまず操船技術を叩き込まれたのだと聞いている。残念ながら引っ込み思案な彼女が帆を操る姿を目にする機会はなかった。
「時間節約の手伝いが出来て俺としても光栄だよ。なんだかグロスタール伯と同じくらい忙しそうだ」
「おや、グロスタール伯は盟主殿とお会いになったのですか?」
国外に行くなら、と言う理由でお目溢ししてもらった立場で遠回り出来るわけがない。クロードにとって挨拶せねばならない者と挨拶したい者は残念ながら重ならなかった。ローレンツのことを考えると心が痛む。
直線距離だけで言えばデアドラからパルミラに戻るには海路が一番早いが、それにはいくつか問題があった。第一に今はデアドラ港が使えない。
「残念ながらエドギアに寄る時間がなくてね」
第二にフォドラとパルミラは国交を結んでいない。クロードが嫡子として祖父に招かれた際もスレンを経由してデアドラに入っている。東方の着香茶はフォドラでも人気だがスレンを経由して輸入されているのだ。
「お互い、用件は手短に済ませた方が良さそうだ」
そう言ってエドマンド辺境伯が手のひらを差し出したのでクロードは耳飾りを外した。ある角度で持って光にかざすとパルミラ王家の定紋が浮かび上がる。ヒューベルトもこの耳飾りを改めたはずだ。この耳飾りを作れる職人は技術の流出を防ぐため王都近くの離島に監禁されている。パルミラの内外に広く知られた話だが、外の世界と付き合いがないフォドラの平民たちには知る由もない。
王族の耳飾りについてマリアンヌの義父が知っているのはスレンとの取り引きがあり、パルミラの海賊船から航路を守っているからだ。平和であれば苦労話を詳しく聞く機会があったかもしれない。だがクロードたちにそんな暇はなかった。
「白い紙の上で確かめたほうがわかりやすいぜ」
晴れているので太陽光が一番明るい。クロードの助言を聞き入れたエドマンド辺境伯が白い紙を手に光源を求めて窓に近寄った。検分している時の表情を見られたくないのか偶然なのか彼はクロードに背中を向けている。マリアンヌは養女という話だが、細身で長身なエドマンド辺境伯の後ろ姿は少し彼女と似ていた。薄くとも血縁関係自体はあるらしい。
「一番早いスレン行きの船は明朝に出航します」
クロードが手のひらを差し出すとエドマンド辺境伯がそっと耳飾りをのせた。知る人が見ればこの小さな物体にパルミラ王国の国力が注ぎ込まれている、とわかる。
「殿下に査証をお渡ししたいのですが名義はどうなさいますか?」
エドマンド辺境伯の口調があからさまに変わったことが何故か残念だった。適当に決めた偽名だし名前は単なる記号に過ぎない。それでも失ってしまうとなると何故かやたらと惜しく感じた。
クロードはクロード=フォン=リーガンであることが気に入っていたらしい。だがそのためにレスターの民全てを巻き込み、同盟領の全てを戦場にすることはできなかった。今後、クロードはエーデルガルトとは真逆の理由で悪夢を見ることになるだろう。
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フェルディナントとローレンツはガルグ=マクで出会ってすぐに意気投合した。理想の貴族の在り方を語り合った日々は未だに愛おしい。共に何かを成し遂げよう、と言われた時のこともよく覚えている。父親が失脚しても主君を恨むことはなく、彼の帝国への忠誠心は揺らがなかった。フェルディナントの理想として特に不自然なところはない。
不本意ではあったが帝国出身の学生たちが修道院を去ったあと、ローレンツはクロードと共に彼の部屋を漁った。計画的とは思えなかったが、それでも何か手掛かりがあるかもしれない。フェルディナントの部屋は彼らしく整理整頓されていたが、あくまでも日常の延長、という印象を受けた。あの時、彼がエーデルガルトについていったのは咄嗟の判断だったのだろう。クロードと二人でそう、結論を出した。
その日からローレンツはクロードと共に毎晩、寮の自室で地図を眺めて考えこんでいる。帝国軍が迫る今、学友たちを全て無事に帰すにはどうすべきか。そのためには何が必要か。
「顔を盗むための絶対条件を知りたいよな」
クロードの言葉を聞いたローレンツの眉間に皺が寄る。確かにどんな魔法を使えばあんなことが可能になるのか全く分からない。もしローレンツが顔と名前を奪われたら、自分の偽物が心地よく整えた部屋にクロードを招いたりするのだろうか。好んで集めた香り高い茶葉に毒を混ぜて振る舞う可能性もある。
「見当もつかない」
「でも、考えるのをやめたら人間である意味がないぜ?」
先ほどからクロードの握る鉄筆は蝋引きの書字板に謎の模様ばかり描いていた。だが虚しさではローレンツの握る鉄筆も負けていない。同じ学級に所属する学生の名を書き出しただけだ。
「答えの出ない問いに囚われて決めるべきことから逃げるな。そちらは保留しろ」
帝国軍が迫る中、セイロス騎士団は籠城の準備をしている。それでも修道院から脱出する学生たちに物資が提供された。これを公平感が損なわれないように分配せねばならない。
単純に人数で割れるならローレンツたちは迷わなかった。しかし学生たちはそれぞれ出身地や経済状態が違った。例えばガルグ=マクからかなり近いサウィン村出身のレオニーと遙か東北にあるエドマンド出身のマリアンヌでは、自宅にたどり着くまでの距離が全く違う。
マリアンヌは平民のレオニーと違って路銀をたっぷり持っているが、身分の高さゆえに誘拐される可能性も高い。その辺りのことも含めてローレンツたちはまず、指数を作る必要があった。
距離を基準にするなら移動時間で測るのか、単純な直線距離で測るのか。考え、決定せねばならないことが重大なのに外の状況が全く分からない。
「でも気になるんだよ。なあ、本当に残酷だと思わないか?」
クロードはトマシュと仲が良かったつもり、なのであの禁術に思い入れがあるようだ。実はローレンツにも少し心当たりがある。グロスタール家に仕えていた家臣の一人が行方不明になった。その彼が雇った傭兵団がひどい不祥事を起こしたらしく、父エルヴィンはその後始末に今も苦労している。
「確かに信頼や名誉を搾取されるのは耐えがたい」
「矛盾をなくすために対象を殺害しているだけなのか、殺害が顔を奪うための絶対条件なのかが気になるな」
ローレンツは根拠もなく後者だと思い込んでいたが、クロードが言う通りかもしれない。同一人物が二人同時に現れたら面倒なことになる。
「どちらにしても殺害されるなら、そこを追求する意味はあるのか?」
「分かった。何にしてもまず、一人きりにならないように気をつけよう」
「当たり障りがないな」
不本意だったのかクロードは両手で顔を覆った。しかし奇策ばかり考えつかれてもローレンツは困っただろう。単純に実行が困難かもしれないし、クロードの豊かな発想に強く嫉妬したかもしれない。
「いや、そんなことないだろ。心構えが違うはずだ」
顔を上げ、そう言って照れくさそうに笑う彼が顔を盗まれたら。
「クロード、顔を盗まれたら僕にどうして欲しい?」
絶対に今、問わねばならない───そんな気がした。
絶対に今、答えねばない───そんな気がした。
ローレンツは盟主の指示を仰いでいるわけではない。この一年弱、共に過ごしたクロード個人の意志を確認し、尊重しようとしている。
クロードは改めてローレンツを見つめた。彼は自分と同じく後は寝るばかり、という格好になっている。絹で出来た寝巻きの奥に潜む柔らかな心がクロードの言葉を、声を欲していた。いつもなら容易に作れるはずの笑顔がうまく作れない。
武勇でも血筋でも唯一無二の存在であるディミトリやエーデルガルトは不機嫌であることが許されていたようだがクロード、いや、カリードには常に笑顔を浮かべる以外の選択肢はなかった。
揺らぐ洋灯の灯りは真っ直ぐな紫の髪と同じ色をした美しい瞳を照らしている。ローレンツは感情表現が豊かな方で、クロードも含めた周囲の者は分かりやすい彼をこの一年弱で散々、からかってきた。そんな彼が溢れてくる感情に諦念で蓋をしている。
ガルグ=マクで共に過ごしていなかったら、彼の顔が穏やかに見えたかもしれない。
一方でクロードはこれまでになく、楽に息が出来ているような気がした。吸い込んだ空気が鼻からすうっと腑に落ちていく。ゆっくりと息を吐き、吐き終えた時には胸中にあるものの正体が判っていた。幼い頃から渇望していたもののうち、少なくとも一つはここにある。
「……俺は、俺の名が……汚されないように、最善を尽くして欲しい。それが、お前にとって、どんなに辛いことであっても、だ」
いざ、口に出してみると言葉がやたらと喉に引っかかった。クロードが顔を盗まれたら闇に蠢くものたちはレスターに禍いをもたらし、その後はパルミラへ進出するだろう。パルミラの諸国への影響力は鎖国気味なフォドラとは比べ物にならない。
故にクロードがローレンツにして欲しいこと、は決まっていた。リーガン家とグロスタール家の不仲は有名だ。クロードの名誉を救うため、ローレンツが盗人を殺しても政争の一環として扱われ、彼が罪に問われることはないだろう。だが、そういう問題ではない。
ローレンツは世間から、盟主の座欲しさに友人を殺した、と見做される。かと言ってこの先、闇に蠢く者たちの危険性を広く知らしめるのも考えものだった。偽物だと思ったから処した、と言う建前ができれば社会の箍が外れてしまう。皆が信頼を失えば、恐怖は更なる混乱と悲劇を呼ぶ。
「心得た。この件、僕以外に引き受けられる者はいないだろう」
低く静かで労るような声でローレンツは宣言した。
「……ローレンツ、お前なら俺にどうして欲しい?」
クロードもまた同じことをローレンツに問わねばならない。笑顔は作らず、真正面から彼の顔を見つめた。この一年弱、監視されてばかりだったから偶には逆も良いだろう。ローレンツもいつものようにクロードを真っ直ぐ見ている。
「僕も、君と同じことを頼みたい。一族の者や家臣たちは皆、絶対に君のことを信用しないだろう。だが、それでも、だ」
こんな悲惨な問いの答えが重なったなら、他のものだって重ねても構わないのではないだろうか。撥ね付けられたら一言二言冗談を言って、いつものように笑顔の仮面をかぶればいい。そう考えたクロードは白い手に褐色の手を重ねた。
「分かった。絶対にお前の望みは叶えてやる」
こまめに手入れされた白い手は心労のせいで指先が氷のように冷えている。こんな酷な話し合いをしていれば当たり前かもしれない。
「この件について、君が本物のクロードだ、と確信が持てる今のうちに話し合えてよかった」
そう言うとローレンツはクロードの手に白い手を重ねた。ガルグ=マクを出て離れ離れになったあとで運が悪ければ全ての言葉、全てのやり取りが奪われてしまう。
「なあ、俺たち……他にも今、伝えなきゃならないことがあるよな」
偽物がローレンツに嘘を囁き、彼を弄ぼうとした時に備えて判断材料を与えねばならない───クロードがそう考え、赤く染まった頬に手を添えると自然に彼の瞼は下りた。
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デアドラは謝肉祭の時期を迎えている。フォドラ全土に知られた、セイロス教とは関わりの薄い、ひたすら派手な祭事だ。仮面を被り、仮装して日頃の自分から解放される。心配性のエルヴィンがローレンツに謝肉祭へ参加する許可を与えたのは、士官学校が休校になった後のことだ。ローレンツからすれば意外な話だが、戦時下で祭事を強行することを諸侯たちは非難していない。
だが、エルヴィンはそれなら自分たちも行ってみたい、と騒ぐ下の子供たちに自分の身を自分で守れないうちは駄目だ、と言い聞かせていた。それなら護衛を雇えばよい。問題はそういうことではなく、きっと嫡子に気晴らしの機会を与えたかったのだろう。
ローレンツは円卓会議に随行するついでにデアドラで謝肉祭の衣装を仕立て、仮面や髪飾り、そして扇子などの小物も用意した。食べ歩きも大きな楽しみの一つなので、ローレンツは顔の上半分しか隠れない仮面をつけている。
そのせいでローレンツは、口には話すことと食べること以外にも用途があることを思い知らされていた。毎日手入れしている真っ直ぐな紫の髪ごと後頭部を鷲掴みにされたので、薔薇の花をかたどった髪飾りが少しずれた気がする。謝肉祭の時期に広場の片隅で道化師と喉仏のある貴婦人が口付けをしていても誰も気にしていない。どうせ道化師でも貴婦人でもないからだ。
クロードがこんな風に接触した相手に敵意があったら、と考えつかないわけがない。あの時も今も単なる言い訳だった。葡萄酒の瓶を足元に置いて、彼の背中に腕を回しているローレンツにクロードを攻める資格はない。
あちらこちらに跳ねていた焦茶の髪を中に納めている帽子は先端が二股に分かれていて、それぞれに鈴がついている。体を動かすたびに鈴が鳴ってうるさいので、口が自由になったら来年はその帽子をやめろ、と言わねばならない。入り込んだ舌があの時の取り決めと同じようにローレンツの咥内を楽しんでいる。
「随分、酒臭いな」
「どうやら本人のようだ」
気が済んだクロードの少し厚めの唇に紅が移っていた。これはこれで色男然としていてさまになるが、少し気恥ずかしい。ローレンツがドレスの隠しから手巾を取り出して渡すと、口を拭いていない方の手がそっと伸びてきた。褐色の指がローレンツの唇を拭っていく。
「上手に塗り直してやれたら良いんだが疎くてなあ」
「食べ歩きも楽しみの一つなのでね、満腹になったら鏡のある場所に行くさ」
仮面の奥にある緑の瞳が煌めいたような気がした。彼はローレンツが規範を破ると何故か嬉しそうな顔をする。戻された手巾には紅がついていた。
「四階の桟敷席を押さえてある」
謝肉祭の時期に真面目に観劇するのは演者の身内だけだろう。桟敷席を使う言い訳を提供するために新人俳優や新人女優がつまらないと評判の脚本を演じている。劇伴もあるのでこれほど密談に適している場所はない。
船着場までの道中、宣言通りローレンツは砂糖と砕いて炒った木の実がまぶした揚げ菓子を買った。この時期にしか作られない物で空気のように軽い。クロードが味見をしたいというので食べかけの物を互いに交換したり、とにかく開放感に任せて日頃なら絶対にしないことをした。
渡し船の漕ぎ手たちは組合で決めたのか皆、白い鬘をかぶって黒の法衣を身につけている。動きやすいように裾に切れ目が入っているのは職業意識の現れかもしれない。クロードは漕ぎ手に銀貨を渡して行き先を告げるとローレンツに手を差し出した。手振りが実にわざとらしい。
「お手をどうぞ」
きっと慣れない婦人物の靴を履いているからだろう。手袋越しでしか彼の手を掴めないことを残念に思いながら、ローレンツはクロードの手を取って渡し船に乗り込んだ。追い風がある訳でもないのに渡し船は水路を颯と進んでいく。両岸の建物は謝肉祭のために花や鮮やかな布で美しく飾り付けられていた。
狭い通路を行き交う人々はローレンツたちと同じく日頃とはかけ離れた格好をしている。一年に一度くらいなら羽目を外しても構わないのではないだろうか。
黒衣の貴婦人が広場の階段に座り込んで葡萄酒の瓶に直接、口をつけていた。高価な天鵞絨のドレスも普段着のように扱っていて汚れることを気にしていない。ドレスにも手袋にも金糸の刺繍が入っていて、彼の滑らかな白い肌を引き立てていた。手で梳くと信じられないほど気持ちがいい、まっすぐで艶やかな紫の髪は鬘などで隠さず、そのまま活かすことにしたらしい。
赤い薔薇を模した髪飾りをつけているローレンツの隣に腰を下ろすと、彼が身だしなみでつけている香油の香りがクロードの鼻をくすぐった。甘い薔薇の香りは彼の個性そのものと言える。片隅で互いの自己同一性を確かめてから桟敷席に向かった。
四階の桟敷席はとにかく舞台が見づらく、扉を閉めて赤い窓掛を閉めてしまえば上演中限定の密室が出来上がる。長椅子に並んで座ったがそれなりに大柄な男二人なので密着するしかない。
鈴がうるさいと言われ、帽子と仮面を毟りとられたのでクロードも仕返しにローレンツの仮面を放り投げた。髪飾りは彼の髪によく似合っていたので毟る気になれない。だが耳飾りは邪魔な気がしたので軽く引っ張ってやった。ローレンツはクロードと違って耳たぶに穴を開けていない。
「こら、気に入っているのだから取るな」
「普段使いしたいなら穴開けた方が良いぜ。開けてやろうか?」
「近接戦闘の時に狙われそうだから嫌だ」
パルミラの王宮で、そんな風にいたぶられたことがあるクロードは無言で頷いた。彼にはいつ自分の出自を伝えるべきなのだろう。クロードはそのままローレンツに抱きついて身体を引き寄せた。
「国をふたつに割ったのはいざという時のためだ」
確かにディミトリは中央教会を庇護している。だが帝国は既に中央教会の本拠地を奪ったのだから、独自の教会を作って後は無視すればいい。
飢饉にみまわれ、民族問題を抱える国を併合しようとする意味が何なのか、クロードには理解できなかった。故に円卓会議は帝国の戦費が尽きるのをこのままのらりくらりと待とう、という結論を出している。そのためにもミルディン大橋はこちらから破壊してしまいたかったが、その案は円卓会議で拒否されたので諦めるしかなかった。
「それは道理が通らない。難局を打破したいのであれば皆で団結せねば」
ローレンツがクロードの背中を優しくそっと叩きながら反論してくる。ミルディン大橋に全軍を集結させ、エーデルガルトの直属部隊を破っても終わりではない。
「エーデルガルトにミルディンで勝とうと負けようと無傷の土地が必要なんだ」
真面目な話をしつつクロードはローレンツの背中を探ってドレスの紐を解いていった。フォドラの高級な婦人服は全て後ろ開きで、それぞれの部位は体型に合わせて針で固定するようになっている。一人で着脱出来るような構造をしていない。召使や身体を重ねる相手に脱がされるのが前提の作りとなっている。
「だが、それでは君も含めた反帝国派の諸侯は……」
背中で蠢くクロードの手を無視して、ローレンツが再び言い返してきた。この負けん気の強さが本当に愛おしい。
「勝てば栄誉も何もかも手に入れられる。だからエーデルガルトが覚悟を決めたら、ジュディッドにミルディンを守ってもらうつもりだ」
ミルディン大橋の対岸はベルグリーズ領だ。ミルディンで勝利できた場合は、王国西部にいる部隊を動揺させるためにもベルグリーズ伯がいない間に奪ってしまいたい。ダフネル家に報いることもできるし、エドマンド辺境伯は豊かな穀倉地帯でとれる小麦を喜んで運ぶ。ディミトリがその小麦を高く買ってくれたら王国と盟約を結んでもいい。
「では、望まない結果になった場合はグロスタール家が帝国に恩を売れ、と?」
「その代わり、ミルディンでこっちが完勝した場合は時流に乗れなかった間抜け扱いをされる」
グロスタール家にとって悪い話ではない、と察したローレンツはため息をついた。だがひどく居心地の悪い話であることに変わりはない。彼が考え込んでいるうちにクロードはスカートを固定していた針をそっと引き抜き、失くさないよう長椅子の隅に刺した。
腰の周りが緩められると途端に息が楽になった。息苦しさを感じていたことに気付いていなかったらしい。クロードの手は重大事を語りながらも止まることはなく、ローレンツは手助けなしに人前に出られない状態になっている。いつの間にか巻きつけたスカートを固定する針も引き抜かれていた。
スカートを剥ぎ取られ、補正下着も緩められたので胸当てがずれ、胸の頂が晒け出されている。胼胝だらけの手が肌の上を這い回るたびに身体の奥が疼く。あの熱を知る前の自分に戻りたいのか戻りたくないのか、ローレンツ自身にもよく分からなかった。
何故か体運びの上手いクロードは完全に大柄なローレンツを組み敷いていて、何をされても抵抗できない。晒け出された胸の頂を指で弄ばれると、自分の声とは思えないような甘ったるい声が自然と出てしまう。劇伴はかなり盛り上がっているが聞かれたら、と思うと肝が冷えた。
「クロードぉ……サイレス、かけて…あっ!」
「だめ、声が聞きたい。それと裾めくってくれ」
低く囁く声が頭を支配する。言われるがまま、もはや意味をなさなくなった肌着をめくるとクロードは懐から小さな瓶を出した。
香油をまとった指が坩堝の入口をほぐしていく。指が奥に進むたびに、クロードの温かい咥内に迎え入れられたローレンツの剛直は震えた。これでもうこの身体は二度と誤解を解くことはない気がする。
「もう、焦らすな……ナカ、はや、くぅ……」
ローレンツが下腹部で悪さをしているクロードの頭を掴んでせがむとようやく顔が上がった。乱れきった自分を見るクロードは笑顔を浮かべている。
「俺も脱ぐからちょっと待ってくれ」
手早く服を脱ぎ捨てながらも緑の瞳から放たれる視線はローレンツから離れない。とにかくローレンツはようやく手袋を外すことができた。どうせなら直接彼の温かさを味わいたい。
「上になってくれ」
ローレンツは長椅子に座ったクロードの上にそっと跨った。ゆっくりと身体の奥に彼の熱を納めていく。
「ん……ぁ、あっ!」
「あー、気持ちいい……久しぶりだから、狭くなったな」
動きが制限されるのでどうしても浅いところしか擦ってもらえない。
「んぁ、あっ……ああァっ!くろーどぉ、もっと、おく、っ……きてぇ…ッ!あぁっ!」
褐色の背中に白い手を回してせがむと身体が浮く感覚がした。咄嗟にしがみつくと繋がっている部分を強く意識させられて顔に熱がともる。まだまとわりついている肌着越しに臀部を鷲掴みにされた。
「これで、いい、か……?」
大男の自分をまさか持ち上げるとは。フェイルノートを自在に操るだけあって肩や腕の力はすばらしく強い。
「ぁ、ああっ!くろーどぉ、す、きッ…」
「ちょ、まってくれ、締めんなって!出ちまう!」
クロードの声は本気で焦っていた。しかしローレンツは我慢することができず、クロードの腹もまとわりついていた肌着も白く汚した。
長椅子周りの惨状をどう回復したものか。欲望が満たされて我に返ったローレンツはとにかく身につけていたものをかき集めた。クロードに手伝ってもらうしかない。
うろ覚えで肌着を身につけ、補正下着を巻き付けると察したクロードが背中の紐を結んでくれた。スカートや胸当てを固定し、どうにか体裁を整えていく。
「助かった」
「この経験を活かして、来年はもっと上手く着付けしてやるよ」
「研鑽を積む気はないのか?」
家臣たちは早く妻を娶り愛妾も囲って、クロードの血を引く子供をたくさん作るよう圧をかけているはずだ。出自は明らかではないがクロードは黄金の血を引いている。
だがクロードは首を横に振り、ローレンツの頬に口付けをした。考えが変わる日はきっとやってくる。だが、今日のことは忘れたくない。ローレンツはそう思った。
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13.枠の外へ1_5
せっかく手に入れたデアドラを闇に蠢くものたちに荒らされたくなかったヒューベルトは後事を軍務卿であるベルグリーズ伯に託した。自領を長男に任せられるとは言え、それでも多忙な彼は親帝国派諸侯の領地には殆ど立ち入っていない。故に領主が親帝国派であった場合、その土地の平民の暮らしは戦前と全く変わらなかった。そのことを親帝国派の領主たちは誇っても構わない、とヒューベルトは思う。
ベルグリーズ伯は元よりアミッド大河を挟んで、領地が隣り合うグロスタール家とは長年の消極的な交流があった。そんな蓄積のある彼から見たグロスタール伯エルヴィンは信頼に足るようで、リーガン領はほぼ全域がグロスタール家預かりになりつつある。戦わずして豊かな地域を手に入れたグロスタール家、戦時中に掴んだ商機と利権をいまだに手放さないエドマンド家は妬まれていた。
嫉妬に駆られたものたちと闇に蠢くものたちの思惑が絡みあった結果、再びヒューベルトが自ら取り調べをする羽目になっている。五年前と同じ館を使っているが、使っている部屋も待遇も何もかも違う。端的にいって明るくて心地が良い。一番の違いは弁護人が同席していることだ。キッホルの紋章保持者は親友であるローレンツの隣に座り、珍しく黙っている。
「貴殿が静かにしていると些か調子が狂いますな」
だがヒューベルトはフェルディナントの外聞を気にしないところが好きだ。必要だと思ったら躊躇しないところが自分とよく似ている。正反対と言われながらも彼に惹かれたのはそういうことだろう。
「揶揄わないでくれたまえ」
「事実を申し上げたのみです。ではローレンツ殿、まず……フェイルノートに嵌っていた紋章石の行方について心当たりはおありですかな?」
ヒューベルトの言葉を耳にしてもローレンツは顔色ひとつ変えなかった。英雄の遺産や神聖武器を手に入れるため、闇に蠢くものたちは戦闘終了後にデアドラに乗り込んでいる。だが結果は芳しくなかった。
「私の親友をクロードの身代わりに仕立て上げようという動きは看過できない」
フェルディナントはそう言うが、グロスタール家が先んじて確保していたと言う噂もある。
クロードがローレンツの知らぬ何かを仕掛けてからフォドラを去ったことは、想像に難くない。遅効性の毒が今頃になって効果を発揮したということだろうか。そう言うことなら、ローレンツはクロードに代わってヒルダを守らねばならない。最後まで彼と共にいたヒルダが知らぬうちに悪巧みに巻き込まれている可能性がある。
「他家が保管しているものについて、僕は関知していない」
グロスタール家はテュルソスの杖以外にもいくつかの神聖武器を管理していた。クロードから帝国相手に総力戦はしない、と言われていたが独自に爪と牙を研いでおく必要はある。ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。彼は同じ湯で先にヒューベルトのためにテフを淹れたのできっと安全だろう。
「フェイルノートとフライクーゲルをエーデルガルトから取り上げたのはアランデル公自身ではないか」
素直なフェルディナントの声には苛立ちが混ざっている。武具に詳しくキッホルの紋章を持っている彼がデアドラが陥落した際、武装解除を担当していた。彼以外にフェイルノートとフライクーゲルに触れるのはリンハルトとエーデルガルトしかいない。両名とも戦闘終了後はやることが山積みだった筈だ。自然な役割分担と言える。
「フェルディナントくんが検分した時は特におかしな点はなかったのだろう?」
デアドラ育ちでないとしてもクロードはあの水の都を愛していた。デアドラを守るための戦いで、彼が死力を尽くさなかったとは考えがたい。だが───
「そのように見受けられた。だがエーギル家には残念ながら英雄の遺産や神聖武器の類は伝わっていない」
「それでは確かに知識不足は否めませんな」
「二人ともクロードが作り出した奴自身の虚像に惑わされている。君たちはデアドラで奴に勝ったのだ」
ローレンツは思わず声を荒げた。二人とも相手がクロードでなければとっくに結論に辿り着いている筈だ。
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14.枠の外へ2_5
資格のないものが英雄の遺産に触れると何が起きるのか、ヒューベルトもフェルディナントも目撃している。そしてレアは破裂の槍を手中に収めようとしていた。今思えばベレスはあの時から中央教会に対して不信感を覚えていたのかもしれない。シルヴァンに直接、破裂の槍を返却していた。タルティーンではそのせいでヒューベルトたちは苦労することになる。
だからこそ自分もフェルディナントもローレンツの言うことが俄かには信じがたかった。英雄の遺産は禍々しい面もあるが使用者の力を千人力にする。悪用を恐れて弱体化させておくなど考えられない。
「クロードは英雄の遺産に興味を持っていたが、機序が理解出来ないものを切り札にするつもりはなかったのだ」
先ほど感情を露わにしたことを恥じているのか、ローレンツは淡々と事実を指摘した。クロードの出自を知った今となっては何の不思議もない。デアドラに現れたパルミラ兵こそがクロードの切り札だった。
パルミラ育ちの彼にとってフェイルノートはよく命中し、紋章を持つ射手の体力を回復し続ける弓でしかない。全てを託すつもりはない上に悪用される危険がある、となったら躊躇する理由はないだろう。
「ああ、だから猜疑心の塊を自称していたのだな!」
そこは感心するところではない。フェルディナントが開いた唇に手を添えた。彼の発想はいつも些か突飛でヒューベルトの調子を狂わせる。弁護人が必要、と言うのもフェルディナントの発想でローレンツの要望ではない。
「貴殿が少しは持つべきものですな。そしてクロード殿はもしかしたら……」
フォドラの良き貴族として育てられたフェルディナントとローレンツからしてみれば正気の沙汰ではない。現に大司教を守る剣、と称していたカトリーヌは戦場で常に雷霆を手にしていた。お尋ね者となった〝カサンドラ〟が新しい名とセイロス騎士団での職位を与えられたのは雷霆という手土産があったからかもしれない。今となっては真実を確かめる術は残っていないが、大司教レアの英雄の遺産に対する執着は常軌を逸していた。
ヒューベルトとフェルディナントはそれぞれ別の事象について勝手に納得している。しかしローレンツはこれまでと同じく、胸の内に溢れる納得のいかないこと、を理性でねじ伏せていた。惨めさに騒つく心を飼い慣らさねば門地も領地も危険に晒してしまう。
対外的には戦闘中行方不明ということになっているが、国外追放に至るクロードの奮戦ぶりはフェルディナントから聞いている。民に頭を下げて避難させ、軍港に罠を張った。エーデルガルトとベレスでなければ彼の罠を食い破ることは不可能だっただろう。死地において、クロードはフェイルノートにもローレンツにも頼らなかった。賭けに負けた彼は今どこにいるのだろう。
ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。この茶器はこの館に元からあったものではない。白地に紺の模様が入った帝国風のものだ。そんな些細な事柄がデアドラで円卓会議が開かれる日は二度と来ない、という事実をローレンツに突きつけてくる。
「何にしても、信じがたい愚行だ……では代わりに紛いものが嵌まっていたのか?」
武具に詳しいフェルディナントがかいつまんで説明してくれた。不具合を発見したのは女帝エーデルガルトの伯父、アランデル公らしい。彼も何某かの紋章を持っているのだろう。
「動作確認をした際にその紛いものが割れたので驚愕したそうだよ。破片を調べたところどうやら人造の紋章石が嵌まっていたらしい」
「因みにフライクーゲルに異常はありませんでした」
ヒューベルトの声に微かな苛立ちが混ざっている。視線の先にはフェルディナントが淹れたテフがあった。茶菓は人間に余裕をもたらしてくれる。
帝国が豊かと言えども、あれほどの大乱の戦費が全て開戦前に用立てられるはずがない。しかも戦災で壊滅的な被害を受けたデアドラ港やフェルディアを再興する羽目になっている。この状況ではパルミラとの国境警備はゴネリル家に外注せざるを得ない。クロードはフライクーゲル返還に至る事情まで読んだ上で、フェイルノートだけ無力化したことになる。
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15.枠の外へ3_5
クロードの腹立たしい点はいくつもある。まず、ヒューベルトたちと考えが重なる点があったことが腹立たしい。英雄の遺産に頼らずやってのけようとしたこと、全力を尽くさなかったこと、そのどちらも神経に触る。
「クロードは人の手だけで何とかしようとしたのだ……。知識は間違っていることがあるし、信頼も儚い。未来は観察できないからな」
親友の淹れた紅茶を口にして気が緩んだのか、ローレンツはそう呟いた。領主は即決する力と判断を保留する力、矛盾する二つの力をどちらも求められる。
「ローレンツ、これは私見でしかない。だが私が思うに……最後に残るのは感情や想像力なのだ」
当事者である自分なしに全てが決まっていくことへの憤り、そして悲しみがヒューベルトの主君エーデルガルトの原動力だ。ローレンツは彼自身が傷つかぬよう、得するようにクロードからお膳立てされたがそれでもひどく馬鹿にされた気分だろう。
「おや、想像力はともかく貴殿は感情に振り回された王国の者たちに引導を渡して回っていたではありませんか」
アリアンロッドでもタルティーンでもフェルディアでもフェルディナントは返り血まみれになっていた。彼の燃えるような橙色の髪と違って死人の血はどす黒く、布にこびりついたまま固まると擦れて引っ掻き傷ができる。彼はあの寒い王国でも湯が沸くまで我慢できず、川や池で血を洗い流していた。貴族らしい身なりを保つために野蛮なことをしているのだが、びしょ濡れの彼が火にあたりに行くと兵たちが貴族らしくない、と言って喜ぶ。
「ヒューベルト、混ぜっ返すのはやめてくれたまえ」
苦境はフェルディナントから優雅さを奪うことに失敗した。そして彼の思索はより深い領域まで到達し、政策に活かされることも多い。
「笑顔の奥でどんな感情を抱いていたのやら……」
「ローレンツ、私が共にいるのだから怖がらずに自分の感情を認めて欲しい」
ヒューベルトのフェルディナントに対する評価は戦乱の時を経て、目障りで薄っぺらな理想主義者から生まれついての人たらしへと変化していった。
そもそもローレンツはクロードを疑いの目で見ていた。徹底的に疑ってかかり、理性で彼の人柄や行為に判断を下した結果、なんとも言いがたい関係になっている。
「喜びを感じようとしても常に惨めさと寂しさがまとわりついてくる。現にこうして尋問まで受ける羽目になった」
「矛盾など感じる必要はない。全て自然な感情ではないか」
そう言えば先ほどヒューベルトはまず、と言った。クロードはフェイルノートの損壊以外に何をやらかしたのだろうか。
「こちらは貴殿が彼と共謀していない、という確証が欲しいだけです。では密貿易の件はご存知ですか?」
「当家の立場では推理しかできない」
デアドラ防衛戦で軍港が使用不可能になったため、帝国軍は民間用の港を接収した。活動拠点を奪われても商人や漁師たちは食べていかねばならない。彼らはデアドラ市の対岸にある小さな島に船を移した。その島はかつてクロードが平民たちや商船や漁船を避難させていた島の一つで、急拵えの設備しかない。保安を名目として取り扱いできる荷の量には制限がかけられた。超過分の取引は全て密貿易扱いになる。
逮捕も拿捕も帝国の匙加減次第という危うい状況にも関わらず、その島は戦乱で壊滅的な打撃を受けたファーガスとの貿易の拠点となっていた。彼の地は復興のため、ありとあらゆる物資を必要とする。そこに最近やたらとスレンやパルミラからの荷が増えたらしい。
リーガン領の管理を任せるが港湾および海上を除く、という帝国本土からの通達をローレンツの父エルヴィンが素直にのんだ理由はこれか、とローレンツは悟った。帝国本土から派遣された官吏たちが大型船が接岸出来る港湾関係を取り仕切っている。ファーガスと旧リーガン領の反帝国派同士連携させないために彼らは必死だ。
「ヒューベルト、恣意的な運用に私は反対だ。公正でなくては我々は正当性を失う」
「フェルディナントくん、フェルディアはまだ……」
フェルディナントの表情だけで状況が分かる。民たちにはまだ、どの土地の小麦が口に入っているか考える余裕はない。
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16.枠の外へ4_5
タルティーンの野で敵がかつての再現を狙う様にヒューベルトは失笑してしまった。教会はネメシスを破り、王国は帝国軍を破っている。そんな夢に縋るくらい追い詰められた時点で負けなのだ。
「復興は道半ばですな。王が冷静であればああなっていないでしょう」
紫の瞳がヒューベルトをじっと見つめている。病的なまでに冷静だったクロードとディミトリを比べているのだろうか。ディミトリはタルティーンに出てくる必要などなかった。進軍するふり、だけに留めておけば王都フェルディアを守れただろう。
「僕は魔道学院にいたことがある。情勢が悪化して入学早々、帰国せざるを得なかったが」
「ローレンツには焼け落ちる前のフェルディアの記憶があるのだな。我々と違って」
「華やかではないが落ち着いた雰囲気の良い街だった。王都を陥落させまいとディミトリくんは賭けに出たのだろう」
ヒューベルトはローレンツの知らないことを知っている。ディミトリはヒューベルトの主君、エーデルガルトを殺すためだけにタルティーンの野に出陣した。そして十傑は他民族から中央教会とアンヴァルを守る捨て石に過ぎない。千年の時を経て、少しは愛着が芽生えただろうと思っていた。
「王国軍の者たちは死に物狂いだった」
人間らしさを保証するものは一体なんなのか。フェルディナントは己に刃を向けたものの内にも美徳を見つける。不運にも刃を向ける羽目になった、というつもりだろうか。
「紋章石を手にするほどに、必死でしたな」
タルティーンの野で何があったのか、正確に知るものは少ない。戦場は混乱するものだし、自分がいなかった場所で何が起きたのか把握するのは至難の業だ。だからヒューベルトも魔獣と化した王国兵を見てディミトリがどう感じたのか知らない。
「露悪的な態度を取るのは私がいるせいか?」
フェルディナントの目が細められた。彼は決して不正をするような人物ではない。だがローレンツとの友情が世間に知られている以上、忖度が疑われてしまう。
帝国の者たちは皆ローレンツに敬意を持って接し、人間らしく扱っている。親帝国派として知られるグロスタール家の嫡子で、彼らの予想から逸脱しないからだ。ではクロードはどうだったのだろうか。彼の常軌を逸した行動に人間らしさは見出されたのだろうか。ローレンツはそっと拳を握りしめた。今でも槍の訓練を怠ってはいない。
「紋章石を手に、と聞こえたが合っているだろうか」
「そうだ、我々はこの目で王国兵たちが魔獣になるさまを見た」
帝国軍には緘口令が敷かれている。フェルディナントといえども従わねばならない。ヒューベルトの監視下で、ローレンツがこの場で聞いたことを口外しないと分かっているから命令を破ってくれた。
「追い詰められた、と感じた時点で彼らは負けていたのです」
帝国軍はそんな彼らに勝利している。そこまでして彼らが守りたかった王都はよりによって、セイロス騎士団によって焼き払われたという。
「だが私は戦場で相対した彼らに崇高なものを感じたのだ」
セイロス教に拠って立った国は、皮肉なことにセイロス教を保護したせいで滅亡した。徹底抗戦の末、国土は荒廃し復興は遅々として進まない。クロードはフォドラから追放され、パルミラ産の小麦がファーガスへ輸出されている。この状況はローレンツにとってひどく据わりが悪い。
「それは彼らが王や国を見限ることなく殉じたからだろうか?」
正直に頷くフェルディナントを見て、ローレンツは気がついてしまった。自分はもうクロードやレスター諸侯同盟に殉じることはできない。
「レスター諸侯同盟は諸侯同士が対等な、王がいない国でした」
ヒューベルトに過去形を使われてローレンツの心は痛んだ。薄い唇はまだ言葉を紡いでいる。
「貴殿はフェルディナント殿と仲が良いが、それでもクロードは貴殿のことを真の友と思っていたのでしょう。だから友人が己に殉じることなく息災であってほしい、と願った」
金色の瞳はローレンツではなく隣に座るフェルディナントを見ていた。最後に残る感情、の解釈が合っているかどうか気になるらしい。
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17.枠の外へ5_5
残念ながらローレンツはテフが嫌いなのだ───いつだったか定かではないが、寝物語にフェルディナントが語ってくれたことがある。戯れに、褥を共にしているのに他の男の話など、とヒューベルトが返したらフェルディナントはなんともいえない顔をしていた。
親友であるフェルディナントにテフを振る舞われた時もこんな風に笑顔を浮かべていたのだろう。態度は友好的に、だが口にする意見は明確でなくてはならない。ゆっくりと口角をあげ、ローレンツはヒューベルトに微笑んでみせた。見るものによっては妖艶、とすら感じるかもしれない。彼は確実に名家の嫡子として教育を受けて育っている。
「奴と僕は断じて、友人などではない」
紋章石絡みの話題が出た時と違い、声が上擦るようなことはなかった。だが、その芝居が続く限りは旧同盟領の安全が保たれる。ローレンツは何重にもクロードに守られていて───フェルディナントの言うとおり、その奥にはきっとクロードの感情が秘められているのだ。
フェルディナントは顔をしかめている。彼は感情表現が豊かな方だが、勿論、他者の視線があるところではこんな顔をしない。これはヒューベルトに心を許している証だ。
「では、そういうことにしておきましょう」
帝国は近々、本格的に鎖国政策を取りやめるのでクロードの策に乗ったところでエーデルガルトに損はない。フェルディアの民は食わせてやらねばならないし、あれで外国や異教徒に対する嫌悪感が和らぐなら結構なことだ。クロードは首飾りの向こうから変わりゆくフォドラを見つめている。
感情というものは実に身勝手で現実と折り合いが悪く、自分の理性とすら調和がとれない。ヒューベルトの感情にとって、この件で何よりも重要だったのは闇に蠢くものたちが損をしたことだ。
実際はどうだか知らない。だがアランデル公と名乗るものの手の中で、フェイルノートが壊れたさまを思うとつい、笑いが込み上げてくる。だからベレスに誓いを立てたことは正しかったのだ───感情がヒューベルトにそう、訴えかけてくる。
事前にフェルディナントが言っていた通り、現状の説明を繰り返すだけでヒューベルトがさっと退いた。クロードはここまで予想してファーガスの民を人質に取ったのだろうか。ローレンツは自分の民ではない人々で賭けに出る、彼のやり方に幻滅せねばならない。心に一筋の傷が走ったような気分になったが、フェルディナントは喜んで構わないのだ、と主張する。
「しかし、知らなかったこととはいえ、フェイルノートの件は大問題だ。レスター地方だけの問題ではない」
ローレンツは横目でフェルディナントを眺めた。自分が何を言おうとしているのか、を察した親友が喜びに頬を染めている。レスター〝地方〟と口に出す時に痛みも感じて構わないのだろうか。ヒューベルトもローレンツの言葉を待っていた。
「英雄の遺産はフォドラの至宝だ。政務の合間に僕も本物の紋章石を探してみても構わないだろうか?」
ヒューベルトはフェルディナントを見て目を細めている。フェルディナントは実に上手く立ち回ってくれた。彼が親友を弁護する、と公言したらローレンツを疑うものたちは彼に拮抗する人物を引っ張り出さねばならない。実際は因果が逆なのだが、大抵の他者はそう誤解する。
きっと、彼らは自分らしくないことを実現したいときに互いの印象を利用しあっているのだ。ヒューベルトがクロードにどんな感情を抱いているのかローレンツは知らない。
「よろしいでしょう。ゲルズ公にも話をつけておきます」
形式を守るための馴れ合いに過ぎない、という謗りは甘んじて受けるしかなかった。クロードにまつわる噂は多種多様でどれも説得力がある。だがこれでローレンツは帝国の公式な見解を知ることができた。彼は国外で生存していてこのフォドラに干渉しようとしている。
どこまでも真っ直ぐなローレンツの親友はこれでおしまい、とばかりにファイアーの呪文を唱えた。湯を沸かし、嬉しそうに茶葉を取り替えている。フェルディナントがどこまで計算していたのか追及するほどローレンツもヒューベルトも野暮ではなかった。
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ローレンツを解放した翌日、ヒューベルトは帝国が接収したデアドラ港で遠眼鏡を手にしていた。クロードがちょっかいを出している沖合の島は遠眼鏡を使えばかろうじて目視が出来る。
「ヒューベルト、私にも貸してくれないか?」
好奇心旺盛なフェルディナントが差し出した手に遠眼鏡を渡した。ヒューベルトの主君エーデルガルトが中央教会に宣戦布告するまで、レンズを縦に二枚並べることは禁忌だった。心底くだらない規制だったと思う。
「艀(はしけ)も使うのでしょうがこれは……」
デアドラ港を管理しているのは帝国本土から派遣された官吏たちだ。彼らは帝国の双璧が語り合う様子を緊張した面持ちで見つめている。一人歩きする噂をヒューベルトたちは放置していた。怖がられている方が便利な時もある。
「うむ、かなり大きな船も接岸しているな!」
良港として知られるポラマス港を領地に抱えるフェルディナントの感想はもっともだった。あれは元からなのか、それとも膠着状態だった五年の間にエドマンド辺境伯と組んでクロードが整備させたのか。報告書で読むのと遠目であっても目視するのとでは大違いだ。
ヒューベルトの勘は後者だと言っている。脅威のはずなのにヒューベルトから借りた遠眼鏡で島を見るフェルディナントの横顔はただひたすら純粋な感嘆に満ちていた。彼は常に、無意識のうちに真っ直ぐであろうとする。ヒューベルトよりずっと絆されやすいのに評価は決して属人的ではない。人と行為と結果をきちんと切り分けている。
「実際に足を運んでみようと思います。貴殿は遠慮せずに……」
「同行しよう」
遠眼鏡を返しつつ、フェルディナントはきっぱりと言い切った。父が失脚した後も家臣たちが離れなかったの理由のひとつだろう。
「純粋な厚意を無駄にしないでいただきたい」
自領、フリュム領、帝都、と忙しく行き来している彼が大親友と言って憚らないローレンツと会う機会は滅多にない。フェルディナントは大親友と次に会えたら共にしたいこと、話したいことの一覧を作っていて、会える日をいつも楽しみにしていた。
「ヒューベルト、私は今回ローレンツに言いたいことは全て話したし、淹れた紅茶も飲んでもらえた」
ローレンツの足止めをさせようとしたことを非難しているのかいないのか。士官学校にいた頃はフェルディナントとローレンツが意気投合する様を見て空虚で底が浅いと思っていた。ところが今はどうだろう。フェルディナントにはヒューベルトと違って嘘がないのに意図を測りかねる時がある。
「……分かりました。貴殿の明るい髪や大きな声は印象に残りやすいので頭巾を用意しましょう」
替えを行李の中に入れてあったはずだ。主君エーデルガルトが言うところによると、同性同士で付き合う利点の一つは洋服の貸し借りができること、らしい。幼い頃からエーデルガルトの身の回りの世話をするのはヒューベルトの役目だった。戦時中から顕著だったが、良くも悪くも主君はヒューベルトの手を離れつつある。
「だがその前に官吏たちにいくつか質問してからだな」
ヒューベルトはフェルディナントの言葉に頷いた。専門家ではないので何をもって通常とするのか、最低限の知識を入れておかねばならない。
飾り気のない襯衣と頭巾付きの外套に着替え、ヒューベルトたちは駐在する官吏たちから二人掛けの鞍と飛竜を一頭借りて沖合の島へと向かった。統一前は市街地で産婆と消火隊とリーガン家の者しか街中で飛竜に騎乗することはできなかったと聞く。だが沖合の島とデアドラ市街を往来するには飛竜や天馬を使う者が多い。眼下の船を避ければ〝落とし物〟で迷惑をかけることがないからだ。
飛竜の手綱を操るフェルディナントが眼下の街を見て感嘆の声を上げる。通常なら道があるところが青く、網目状に水路が通っていた。クロードも同じ眺めを楽しんでいたのだろう。わざと旋回した後で一直線に島を目指していく。
「素晴らしい眺めだ!あっという間についてしまうのがもったいないくらいだな!」
ヒューベルトは高いところが苦手だが、彼と共にいる時は恐怖を感じなかった。
クロードの置き土産である沖合の島は帝国が直轄しているわけではない。フォドラ全土が帝国に統一されたので彼らはいつでもここを厳重に管理する権限はある。全てを掌中におさめるため信頼できる官吏たちをフォドラ中に派遣するのが理想だ。だが、五年間に及ぶ大乱で戦死者が出過ぎたので現地の者に任せざるを得ない。
そんな訳でグロスタール家が、もっと正確に言うならローレンツがデアドラ港以外の旧リーガン領を管理していた。敵対していたグロスタール家の嫡子ということで反発は大きい。それでもローレンツは粘り強く各地に顔を出し、膝を折って平民たちの声を聞き続けた。
島で働く者たちに関しては沿岸部に現れた魔獣を撃退してみせたことが、最も効果的だったのかもしれない。今では幾許かの信頼を勝ち取り、皆がこぞって前回の視察後、何があったのかローレンツに報告してくれる。沖合の島は船乗りや荷揚げや荷下ろしに従事する沖仲仕たちが多く皆、気性が荒いが気立ては良い。
「ローレンツ様のいう通り、頭巾を被った男たちが島にやってきました」
ローレンツは島で働く者たちに自分が知る限りだが、帝国の中枢にいる者たちの顔立ちを教えていた。決して危害を加えてはならない、彼らの前では行儀よく、という言葉を添えて。もちろん単なる空似の時の方が多い。だが、数週前にわざわざローレンツを尋問しにきたヒューベルトがこの沖合の島を直接見に来ないわけがなかった。
「二人とも僕と同じくらいの背丈だったのかい?」
沖仲仕が教えてくれた通りならその二人組は帝国の双璧で間違いない。彼らは汗を流すための公衆浴場や沖仲仕たちが船を待つための待機場所などクロードの平民たちへの思いが詰まった場所を訪れたようだ。ローレンツはフェルディナントへ敬意を表し、簡単な読み書きや算術を教える教室も作っている。
「ええ、なんだか変わった人たちで、片方が教室を見て何か言おうとした時に口を押さえられていました」
フェルディナントで間違いないし、彼の口を直接押さえられる男などヒューベルト以外この世に存在しない。ローレンツに言ってくれれば正式に案内もできた。そうしなかったヒューベルトにフェルディナントが強引にくっついてきた、というところだろうか。
「そうか、他には?」
「パルミラからの荷を積んだ船を気にしていました」
やはりクロードはパルミラに追放されたらしい。ヒューベルトは誤解されやすいことが残念だ、というのがフェルディナントの口癖だ。だがローレンツの友人はヒューベルトが陰謀渦巻く宮城で生き延びるために身につけてしまった分かりにくさすら愛している。
「なるほど。特に問題はないが参考になったよ、感謝する」
一節ずれていればパルミラで年に何度か開かれるという大きな薬草市で出回った、使いようによっては危険な薬草が積荷に含まれていた。ヒューベルトの目に止まったら厄介なことになっていただろう。
もう少し話す時間が取れるかと思ったがそこにスレンからの船が着いた。皆の口ぶりからするにどうやら数日遅れていたらしい。ただでさえ遅れている荷揚げや荷下ろしなどの作業に取り掛かるため、ローレンツを囲んでいた者たちはさっと退いていった。だが、空いた時間で蝋引きの書字板に書き留めておくべきことを書いておけるのでこれも悪くない。ローレンツが鉄筆を走らせていると先ほどは人の輪に加わっていなかった者が声をかけてきた。人目を避けるよう指示されていたのかもしれない。
「ローレンツ様、パルミラ船の船員からこんな物を預かりました」
受け取った布の袋を触ると中に何か小さくて固い物が入っている。金貨を渡し、物陰で中身を確認すると赤い薔薇の花を模った髪飾りが出てきた。分かりきっているが、それでも硝子玉なのか本物なのか宝石商に確かめて貰わねばならない。航路の安全性や治安の良さを見せつけてくるような、クロードからの伝言が意味するところは明確だった。
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七年近く失踪していた代償は大きかった。無事、パルミラの大王である父への目通りが叶い、王宮での身分は復活したが、昔と同じく心の置き場がない。血筋の良いシャハドが大して軍功を積んでいなかったことだけが救いだが、先方もそう考えていることだろう。野垂れ死していなかったのは残念だが、華々しい戦果を上げていないのなら許容範囲のはずだ。
均衡を崩したくて大勝負に出たのに王宮内での状況は全く変わっていない。生還を喜ぶ母にせがまれてパルミラと違って熾烈な変化を遂げたフォドラの話をしたが、どうしても祖父、そしてジュディッドの死が影を落とす。不死隊をも打ち破ったエーデルガルトとベレスにどうすれば勝てたのか。苦い記憶は日々、心を蝕むが、それでも───みっともなくベレスとエーデルガルトの慈悲に縋らなかったら母をどれほど悲しませていただろうか。
父にせがんで紹介してもらった密偵の話に耳を傾けるクロードの姿を後代の者たちが不屈、と評するか未練がましい、と評するかは今後の成果にかかっていた。丸い屋根が連なる王宮はそこで夜を過ごす者の数だけ野望を抱えている。
「残念ながらゴネリル家が国境警備の任を解かれることはありませんでした。北方も将はゴーティエ辺境伯のまま変わらないようです」
ファーガスからスレンを経由して王都へ戻ってきた密偵はため息混じりにそう報告した。彼女は口を閉じていると首飾りの向こうによくいる行商人の妻にしか見えない。きっと親のどちらかが戦争捕虜なのだろう。真面目な密偵はゴネリル家が失脚し、帝国本土から派遣された不慣れな将が首飾りの守将に据えられることを望んでいた。
どうやらクロードはデアドラで自分の戦いに付き合ってくれたヒルダやゴネリル家の立場を守ることができたらしい。それが一番の心残りだった。しかしカリード王子として王宮にいる限りあの時クロード=フォン=リーガンとして何を狙っていたのか、は隠し通す必要がある。
「スレンはこの機会を逃さないだろうな」
蝋燭の灯りに丸く照らされながら密偵に語った言葉はクロードの本心を悟らせないためのものだ。だがカリード王子の曇りなき本心でもある。ゴーティエ家がタルティーンで嫡子であるシルヴァン、そして破裂の槍を失ったと知ればスレン族は勢いづくだろう。
ディミトリは命を落とし、彼の皿は粉々に砕けた。だがクロードはあらかじめ皿を真っ二つに割った自分の方がまだましだっただろう、と自慢して回る気にはなれない。心がいまだに割り切れないからだ。
「自由に動かせる手勢がないのが残念ですね」
「いや、何も手がないわけじゃあないさ」
戦士たちはフォドラを臆病者の国、と蔑むが商人たちは違う。もっと正確にいうなら豪商たちの隙をかいくぐって儲けてやろうと企む野心的な若い商人たち、だ。王宮への、まだ見ぬ市場へのとば口を探す若い商人たちなら王子、というだけでカリード王子の言葉にも耳を傾けてくれる。彼らの扱う商品はきっとフォドラ復興の役に立つ。
全てはあの沖合の島が今どうなっているのか、にかかっていた。だがその件に関しては不思議と不安はない。デアドラにおける敗北の記憶が新しい今、クロード、いや、カリード王子の手元に残っているのはパルミラの大王である父の血を引くという事実だけなので慎重に───だが大胆に噂を流す必要がある。
時は来た。同じ話が大王である父の耳に入っているのなら、もう大人しくする必要はない。
「私は王命により再びフォドラに向かいます。個人的に何かお役に立てることがありましたら……」
「いや、王命と自分の安全のことだけ考えてくれ。また王都で会おう」
クロードは語尾に被せるようにして、強引に密偵との話を切り上げた。調べずとも、何も言わずにフォドラを去った自分の後始末をしている者の名を知っている。心が望み、理詰めでそうなるように仕向けた。とにかく、何はなくとも取り急ぎ、まずは王宮出入りの宝石商に声をかけねばならない。彼の髪を飾るのに相応しいものを作るのだ。手持ちの現金、信用の全てを注ぎ込む必要がある。
謝肉祭の開催を宣言するのはリーガン領の領主として最も楽しい仕事だ、とクロードは笑っていた。ローレンツは未だに爵位は継いでおらず、他領の領主の嫡子に過ぎない。だがデアドラに住む民たちが今年はローレンツが宣言すべきだと言ってくれた。
敵対していたグロスタール家の者として厳しい視線に晒された時もある。提案が聞き入れられず歯がゆい思いもしたが、ようやく努力が報われたのかもしれない。
名高い祭事を楽しむためフェルディナントが従者もなしにデアドラまで足を運んでくれた。自ら手にしている大きな行李の中にはどうやら衣装が入っているらしい。何事も全力で取り組む彼は既に目元を隠す仮面を首に引っ掛けている。
「忙しい中、出迎えてもらえるとは思わなかった。ヒューベルトの出迎えは私がしよう」
「ヒューベルトくんは確かファーガスから船で来る予定だったな」
「予定通りなら明日には着く」
多少、遅れても謝肉祭は二週間続くので問題はない。正直言って、前回の再会は深い友情は感じたものの非常に不本意だった。ヒューベルトも仕事であったことは分かっているが、クロードの不在を突きつけられるとどうしてもローレンツの心はざわめく。
「フェルディナントくん、今夜は当家の上屋敷でくつろいでくれたまえ」
そういうとローレンツは大親友が持参した行李を手に取った。ヒューベルトが到着すればフェルディナントは彼と共に過ごす手筈になっている。
「もう何度も訪れているのにこの景色には毎回、感動してしまうな」
水路と歩道しか存在しないデアドラの市街地に馬や飛竜、そして天馬は入れない。街の入り口に馬場があり、訪問者たちは皆そこで下馬する。どんな身分の者でも歩行が可能ならそこから船着場までは歩かねばならない。だが馬場を出た瞬間、目の前には船着場が、渡し船の行き交う水路が広がる。
グロスタール家に仕えている漕ぎ手がローレンツたちに向かって手を振った。あちらだ、と言ってフェルディナントの行李を手に船着場を歩んでいくと、すれ違う者たちが親しげにローレンツに声をかけてくる。フェルディナントが従者を連れていたらきっと追い払ってしまっただろう。
「民たちは皆、君に尻尾がないと知っているのだな」
「フェルディナントくんが言う通り、垣根を取り払った結果だよ」
「何だかクロードに似てきたな」
「うぅ……今後は言動を改めねばな……」
漕ぎ手に荷物を渡し、ローレンツは渡し船に乗り込むフェルディナントの手を取った。胼胝だらけの手から、政務に励んでいるが鍛錬も怠っていない彼の暮らしぶりが伝わってくる。
漕ぎ手が主人と客人の安全を気にして、幌を下ろそうとしたのでローレンツは仕草だけでそっと制止した。フェルディナントに街の景色を楽しんでほしい。
「クロードはこの美しい街をローレンツに託せたのだな。本当に幸せな男だ」
「人を見る目はあったようで安心したよ」
親友の率直な言葉が、未だに割り切れない部分を多く残しているローレンツの心に染み込んでいく。あの髪飾りに込められた感情を、ローレンツは受け取っても良いのだろうか。
帝国によるフォドラ統一が成った後、帝国の臣民たちの間では程よく異国情緒があり、ファーガスと違って安全なレスター地方に旅をすることが流行っている。無事、謝肉祭の初日を迎えたデアドラの市街地はごった返していて誰がどんな格好をして誰と共にいても皆全く気にしない。
だが、すれ違うもの全ての目に留まる見事な髪飾りを付けた黒衣の貴婦人がいた。あの大きさなら紅玉ではなく紅い硝子玉だろう、と理性は判断するが輝きがまるで違う。デアドラは治安が良いが用心しているのか、紫の髪をした貴婦人は侍者と共にいた。
侍者の姿について街の人々の意見は分かれている。あるものたちは背の高い橙色の髪をした裁判官だった、と言い別のものたちは少し小柄で左耳に耳飾りをつけた修道士だった、と言っている。
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デアドラに短期で再び潜入するとしたら謝肉祭の時期が良い。おそらくセイロス教より古い起源のある祭事で、セイロス教の苦手なクロードが居心地の悪さを感じない貴重な祭事だった。余所者だらけで浮かれていて紛れ込みやすい。
あの時期のデアドラで目立ちたくないなら普通の格好をするべきではない───というわけでクロードは王宮内にある倉庫へやってきた。フォドラの首飾りをめぐる戦いで回収されたものが収蔵されている。そこまで古くはない修道士の装備が一式揃っていた。元の持ち主はパルミラ軍に武装解除するように言われたのだろう。もし、元の持ち主から無理やり剥ぎ取られたならば服は破け、繕った跡が残っているはずだ。元の持ち主がパルミラで穏やかに過ごしているのかどうか今のクロードには確かめる術もない。公的な捕虜交換式が開催されていれば違ったのだろうか。
いつか持ち主に礼が言えたらいい。これが一番嵩張らず、クロード=フォン=リーガンらしくなかった。勇猛果敢なパルミラの民は軽視しがちだが、修道士たちは傷病者の救護にあたるため何の武器も持たずに戦場を駆け回る。
彼らこそが勇者だ。回復魔法の才能という点でも度胸という点でもクロードにはこの服に袖を通す資格はない。だがクロードは修道士の装備を一式、拝借して行李の中に入れた。デアドラでローレンツと接触出来たら元の持ち主のためにも捕虜交換式について提案したい。やはりフォドラから手を引くことなど考えられなかった。日々、次から次へと着想が湧いてくる。
船は追放された時の経路を逆に辿ってフォドラへ近づいていった。気温が高い王都と比べると風に恵まれた洋上は実際より寒く感じる。だが、春の始まりを迎えつつあるデアドラは日に照らされ、さぞ暖かいことだろう。
事前の報告通り、クロードが壊したデアドラ港はまだ修理中で沖合いの島に接岸することとなった。デアドラ攻防戦の際に住民たちを非難させていた島はあれ以来、最大限に活用されている。
対岸の市街地は建物すら浮かれているが、沖合いのこの島は辛うじて日常が保たれていた。金を稼ぐためにやってきた余所者の沖仲仕たちが淡々と荷揚げと荷積みをしている。その喧騒と夕闇に紛れてクロードは下船し、再びフォドラの地を踏んだ。
対岸の狭い歩道を行き交う人々は皆、思い思いの衣装に身を包み、月明かりの下で自由と日常からの解放を満喫している。例年通りならそのうち花火が上がるだろう。
ごった返すデアドラでローレンツと確実に再会したいならグロスタール家の上屋敷に行くか、船着場でグロスタール家が所有する船を探せばいい。だがクロードは敢えて修道士姿で街をふらついていた。仮面で目元を隠していると何かを凝視しても周りから気付かれないのが良い。この時期はどうせ水路が珍しい余所者だらけだからそういう意味でも紛れ込める。
街のものたちに時刻を告げる大鐘楼前の広場には、道ゆく人を楽しませるため真ん中に大きな噴水があった。その縁に天鵞絨のドレスに身を包んだ貴婦人が一人きりで座って酒を煽っていても不埒な行為に及ぼうとするものがいない。
道すがら屋台で買った揚げ菓子の味も変わっていないし、物価も治安も保たれている。クロードが実験に使った高価な髪飾りが真っ直ぐな紫の髪に馴染んでいるのも彼が街を、そして民を守ってくれたからだ。
「日が暮れた後で独り歩きとは感心しないな」
隣に腰を下ろすと手袋をしたままの手がすっと顎に伸びてくる。印象が微かにでも変われば良い、ということで頬髭を剃ったのが吉と出るか凶と出るかがわからない。だが薄くて形の良い唇の両端が微かに上がった。
「ここはエドギアと同じくらい治安が良いはずだが、どうやら不審人物が入り込んだようだ」
「確かめ方は分かってるんだろう?」
これだけ密着していると仮面越しでも互いの瞳が見える。薄い唇が軽く開き、白い瞼が下りたのでクロードも礼儀として瞼を下ろした。そのせいで二人の頬には涙が伝っていく。だが、街のものたちは誰も気にしていない。抱き合う二人が貴婦人でも修道士でもないことは分かりきっているからだ。
まだガルグ=マクにいた頃の取り決めはひどく甘い。道具要らずの手段で効率が良く秘密は保たれるが、埋火が身体の熱を一気に上げていく。
互いの息が上がってようやく顔を離した。鏡がないので確かめられないがきっとローレンツは真っ赤になっていることだろう。
「桟敷席は?」
「連絡もなしによくそんなことが言えたものだ」
だが、クロードと再会できると分かっていたらきっと四階席を用意していた。他に人目を避けられなさそうなところがローレンツには思いつかない。この時期のデアドラはどんな小さな歩道にも橋の下にも必ず酔っ払いがいて宿屋は埋まっている。
穴場を教えてやるよ、というとクロードはローレンツの手を引いた。どこに連れて行くつもりなのだろう。若干訝しんでいたが、どうやらデアドラ市内にかつて持っていた拠点のひとつらしい。クロードは針金で裏口の鍵を開け、内側から施錠した。
何があるのかわからない真っ暗な部屋は黴や埃の匂いがしない。中がどうなっているのか把握したくてローレンツはファイアーの呪文を唱えた。魔法陣がかすかに室内を照らす。
「灯りは任せた」
クロードが手にしている蝋燭に火をつけてやると瓶や壺が並んでいるのが見えた。引き払った痕跡はなく、今も何かの店舗として使われているらしい。
「ここは一体……?」
「薬屋だ」
そう言って微笑むとクロードは白い外衣を脱いだ。店の商品らしき瓶を手に取って中身を確かめている。
「何故、寝床が……」
雑紙や瓶をのせたせいで寝床の脇にある台が途端にいかがわしくなる。きっと、日頃は客の私物をのせておくのだろう。
「診察に使うのさ、身体の様子を観察しないと」
導かれるままローレンツは靴を脱ぎ、小さな寝床に腰を下ろした。器用な手がするするとドレスの紐を解いていく。季節は春先だが夜はまだ冷えるせいか晒された肌の上を這い回るクロードの手や舌が熱かった。
「あっ、んんん…っ!ん…っ!あぁっ、やら、あぁッ……!りょうほうッ、やめてぇ!」
半分悲鳴のようなローレンツの声を聞き、胸の頂をねぶっていたクロードが顔を上げる。だが香油をまとった方の指はずっと下腹部を弄び続けていた。身体の奥に入り込んだ指がこの後どうしたいかを告げる。
「ん、だって、良さそうだから……」
日頃は口数の多さをたしなめられる方なのに、こんな時に限ってクロードは舌ったらずだ。珍しい話し方に煽られ、指では届かないところが疼く。もう我慢をしたくない。
「くろーどぉ、きてぇ…ッ!はやく、もう、やだぁ……」
「ん、俺も……もう我慢するの、やだ、な……」
クロードは身体を起こし、瓶の中身を再び手のひらに垂らした。褐色の手が慰めるように興奮したローレンツの前を触り、それと同時に指とは比べ物にならない質量のものが隘路をゆっくりと進んでいく。
「ぁああっ!んッ、あっ……あっ!くろーどぉ、す、きッ…もっとぉ!」
与えられた刺激に反応したローレンツはクロードの手を白く汚していた。何度も腰を打ちつけられ、その度に頭の中が真っ白になり、思考が途切れる。躍起になって考え続けるようなことでもないのだが、それでも、どうしても何度も繰り返してしまう。
猜疑心の塊を自称しているクロードが治安や航路の運行状況を確かめるのは自然なことだ。全く不思議ではない。だが、彼はそのために紅玉で出来た薔薇の形の髪飾りを選んだ。人目を引き、貴族の手に渡るような宝飾品であれば何でも構わなかったはずなのに。
そんな彼を今、この腕で抱きしめられることがたまらなく嬉しい。クロードも言葉にならない呻き声をあげながら、必死でローレンツを抱きしめてくる。久しぶりに放たれた白濁が隘路を満たしていく。
理性はこの先は危険だと訴え、感情は彼と共にありたいと高らかに謳う。クロードが目を細めてそっと紅玉の髪飾りに触れた時、ローレンツの答えは定まった。
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