なぜ、遅れてやってきたのか?【仗露】
ウロブネ
◆露伴先生の失恋疑惑の話。
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「露伴先生、もういいんですか」
「えッ?」
隣の友人が発した言葉に、仗助は驚いてしまった。彼は、正面からゆったりと歩いてくる漫画家に軽く頭を下げたところだった。
康一はいかにも心配そうな顔つきであるのだが、奇妙なことに、それを言われた相手のほうもなぜか驚いたように「えッ?」と声を発していた。何かを思い出そうとしたのか、露伴は一瞬視線をさまよわせてふと仗助を見、一瞬だけ苦々しい顔つきになった(少しばかり腹が立った)。仗助は、その様子をかすかな違和感をもって見つめていた。
「……ああ。大丈夫だよ、もう」
「なら良かったですが」
「何が」
仗助は思わず尋ねてしまった。露伴に続いて困惑の表情を見せたのは康一で、どことなく迷子のような目で漫画家を見ている。露伴は、その康一に向けて人差し指を唇の前に立ててみせた。康一の表情はますます複雑なものになっていく。
一連のやりとりを見てしまった仗助は、なんだかのけ者にされたようで癪である。
彼が「大丈夫」の詳細を聞くために、つい口を挟んでしまったのには理由がある。露伴は、明らかに仗助の存在を気にして、それでいてなお詳細を隠そうとしたのだ。
気づかわしげにこちらを見る康一が、曖昧に笑って言った。
「えっと……ね、ちょっと前、約束が反故になっちゃって」
仗助の疑問に答えたのは康一だったのだが、仗助はじとりと露伴を見る。すると彼はすっと視線をそらしてしまう。珍しい。あまりにも不自然だ。ますます怪しい。
「ともかく、悪かったね。埋め合わせはまたするからさ」
そう言ってひらっと手を振った露伴は、さっさと向こうへ行ってしまう。実際忙しいのかもしれないのだが、今の彼はまるで、「忙しい人」を演じているようにも見えた。
「ふーん……」
「仗助くん」
去っていく漫画家の背を眺めたまま、仗助は隣の友人にささやくようにして言った。
「……康一、チコっと頼まれてくれっかなァ」
◆
「……なんの用だよ」
「お届け物っスよ」
仗助は一度康一の家へ行き、その足で近所の漫画家の屋敷に向かった。インターフォンを押せば、幸い家主からは応答があった。玄関で会うなり、嫌な顔をされたのだが。
仗助が気にしていたのは、康一がうっかり口走った「もういいんですか」という言葉であった。それはつまり、裏を返せば「まだだめ」な時期があったということだ。しかも露伴は、仗助に対してそれを隠した。それに加えて気になる点もある。先ほど会ったときから(今もだ)彼はどこか覇気がないのだ。
「宅配業者かよ」
「そーっスね。あ、これは康一からね。アンタに会って、渡すものがあったって思い出したらしいっス。でも塾だっつーから、オレが」
いかにも、わかりやすい嘘だ。仗助が手に持っている紙袋は急ごしらえで康一が用意してくれたもので、「『ピンクダークの少年』の今月号の感想」である。仗助のしらじらしい態度を露伴も怪しんでいるようで、その眉は片方だけ上がっている。そして細まる目は、ナイフのような光を宿しているように見えた。
しかし彼は一瞬だけ肩の力を抜いて、ドアの影からため息をつくように言ったのだった。この場で無駄な時間を消費することに嫌気がさしたらしい。
「……ご苦労だったな」
よこせよ、と伸ばされた手を避けるように、仗助は差し出していた紙袋を背中側へ引っ込めてしまった。
「なんだよ」
「オレ喉渇いたなァ」
「それを渡してさっさとお家へ帰りなよ」
「ええー、どーしよっかなァ~。オレん家より露伴先生ん家のほうがいい飲み物ありそうじゃあないっスかァ」
抜け目なく視線を走らせる仗助を、露伴は少しだけ警戒しているようだった。
「なんのつもりだよ」
「いや、なーんにも? でも、チコっとご褒美くれたっていいじゃあないっスか。わざわざ持ってきてやったんだしよー」
こうなれば仗助も意外と頑固である。一歩も引かない様子を察したらしく、露伴は無言で玄関の扉を大きく開けた。RPGゲームのダンジョンで、城の門扉が開いたところをふと思い浮かべた。
ソファーに座るなり、仗助はずばりと切り出した。
「アンタ、怪我したんスか? 康一が、言ってたっスが」
――ちょっと怪我しちまったから、今日の約束はまた後日でいいかい。
康一によると、露伴からは電話でそう言われたらしい。「理由は何も説明されなかったんだ」と言う康一は、無謀な取材をしがちな漫画家のことを気にかけていたようだった。
「……もう治ったんだ」
殊勝な友人を裏切ることも忍びないと感じたか、露伴は正直に言って笑った。
怪我か。ならばなぜオレを呼ばなかった、と仗助は言おうとしたが、露伴は仗助を呼ぶことはないのだろう、と思う。その事実が妙に悲しい。
「どこ」
「もういいよ。相手からも、ちょっとやりすぎたって謝られたし」
「誰かからやられたのか!?」
突然話題に上がった「相手」に驚き、仗助は少しだけ声を荒らげてしまった。本人の過失ではなく、他害だったのか? 仗助が身を乗り出したぶん、露伴が引いた。
「よくわかんないけど、怒るなよ!」
露伴は紅茶を一口飲み、仗助に対してたしなめるような口調で説明をしてみせた。
「ちょっと最近、スパーリングをやってみたんだ。興味があって」
「スパークリング?」
「シャンパンかよ、違うよ」
曰く、実戦形式のボクシングの練習だという。「飽きて止めちまった」と彼は笑った。漫画に必要なリアリティはなかったらしい。
「ぼくがあまりにも強いから、トレーナーも焦ったらしい。ちょっと手加減なしで思いっきり殴られちまって」
「それが『怪我』?」
よくよく見れば、髪に隠れた箇所に、少しだけ色の変わった部分がある。殴られたのはそこだろうか。露伴は弁解するようにつけ足した。
「たいしたことないんだ。それに怪我だけじゃあ、康一君との約束なんてドタキャンしないよ」
「じゃあ、何があったってんだよ」
そこで、不意に露伴が口ごもった。怪我が「たいしたことない」のならば、なぜ予定をキャンセルしたというのか。
「うーん……。その後、なんというか、ちょっと誰にも会いたくなくなっちまって。怪我は正直、言い訳だったんだよ」
「はァ?」
「落ち込んじまったっていうか。なんていうんだろうなァ、この感じ」
しばらく何かを考えていた露伴は、ふっと目を見開いて、「あ」とつぶやいたのだ。
「『失恋』……」
「えッ」
不思議なことに、それは「何かを発見した」ようなつぶやきだった。彼は今、自分の感情に気づいたかのようだったのだ。そして相手は、口を滑らせたことに対する後悔の念を抱いたらしい。「しまった」と小さく肩をすくめている。
失恋? 誰に? トレーナーにか?
絶句した仗助の前で露伴が浮かべていたのは、どこか納得したような表情だった。それが、少々気に食わない。
「……あッ、いや、違う。いや、違わない……? ともかく勘違いするなよ。康一くんに会えなくなったのは、怪我がひどかったからじゃあなく、落ち込んだからだ。もういいだろ」
すかさず補足が入るが、仗助にとっては大きな衝撃だった。岸辺露伴が言う「失恋らしきもの」というのは、相手がいるからこそ起こったことでは? つまり彼は「好きな人」……いや、「好きだった人」……「らしき」存在をほのめかしたのだと思った。
なぜか仗助は、自身の心が何か重いものにつぶされたような心地がした。
「まあちょっと、頭に衝撃を受けたのもきっかけだったのかなァ。なんというか、気分が落ちること、あるだろ? 君にも」
遠くを見るような表情でそんなことをのたまう漫画家は、仗助から見れば「本当に恋をしているような人間」の目をしていた。本人は失恋というやつを否定しているのだが、仗助にとってはやや気になる。もう少し探ってみても良いのかもしれない、と彼は思った。
「その『失恋』って……そういう誰かがいたんスか。それは、オレの知ってる人……っスか」
「いや、本当に失恋したわけじゃあないよ。そもそも、なんで君がそんなこと気にするわけ」
「れ、鈴美さん……とか」
仗助がおそるおそる出した人物の名を聞いた露伴は大笑いした。心外である。
「男だよ」
な? 失恋じゃあないだろ? 露伴はそう続けて、彼の感情が恋愛ではないと根拠づけたつもりらしい。しかし仗助はさらなるショックを受けていた。
「だからねェ、好きとかそういうんじゃあないんだけど。……ちょっと思い出したやつがいただけっていうかさ」
「……それが? 『失恋』?」
「くどいな君。そうじゃあないって言ってるだろ。それに、もうふっ切れたっていうかさァ。ほらぼくはピンピンしてるだろ。もういいんだよ」
露伴はあっけらかんとしている。……ように見せかけている。彼の顔は、どこか影を含んでいて危うく見えた。仗助は何人かのクラスメイトの姿を見て知っている。失恋明けのやつは、独特の哀愁を醸し出すことが多い。
「……そういう話ってよ」
仗助は続ける。
「オレ以外のやつともすんの? 恋バナ」
「は? これは恋バナじゃあない。だいたい、こんな話、康一くんともしてないさ。っていうか『失恋』ってのがなんとなくしっくりきただけで、しかも今気づいたんだぜ」
オレ以外のやつとはしてない。良かった、と思う。自分以外のやつに、そんな顔を見せないでほしいと仗助は願ってしまった。
「もうお前も帰れよ」
紅茶のカップを空にして、露伴は仗助に告げた。彼は窓を指さしている。橙がかった日射しが、夕方を告げているようだった。勢いにまかせ、仗助は身を乗り出す。
「なァ先生、しばらくオレと遊ばない?」
「……え?」
「落ち込んでたんだろ? じゃあ、新しい刺激が必要かなって思うんスよー。明日、ゲーム持ってきていいっスか。トランプとかでもいいっスよ」
仗助は笑う。彼は軽く言うが、つまり明日もここに来るということを意味している。
「君、何考えてんだよ!」
問われるが、自分でもわからなかった。オレ、何を考えてるんだろうなァ。
◆
スパーリングをしてみたのは、ちょっとした出来心だった。漫画に活かせればいいな、という、軽い気持ちでもあった。それがもしかしたらいけなかったのかもなァ、と露伴は思う。
彼は殴られた瞬間、思い出してしまったのだった。過去に自身をタコ殴りにしたやつの存在を。
――なんだ、この程度か。
瞬発的にそう考えた。
――ぼくをもっとひどく殴ったやつは別にいて、そいつの目はとてもおっかなかったけど、綺麗だったんだぜ。その髪型にまつわる話にも、心底惹かれたような気がするんだ。
そう、隕石が落ちるように、彼はあの鮮烈な場面を思い出したのだった。今さらだ。でも、仕方がなかった。そして過去のあの場面を「いいなあ」と思ったところで、仗助がこちらに向けていたのは怒りの感情であったことも自覚した。
――だめだな。
露伴の「いいなあ」は、東方仗助には絶対に通じない。あいつは露伴のことを嫌いだと断言したではないか。
それでも露伴は、パンチを受けて、あいつはもっと強い力で殴ったぞ、と思ったのだ。とても美しい思い出だった。
――恋愛じゃあ決してない。だけど、なんだかあいつに対する焦がれるような気持ちを家に帰って自覚したとき、ショックで寝込んだんだ。
しかし、厄介なものこそ、遅れてやってきては大きなダメージを与えてくるものだと露伴は思う。まるで遅効性の毒のようである。思えば東方仗助は、吉良吉影を追い詰めた日の朝も、寝坊して遅れてやってきた。
今だってそうだ。ようやく自身の気持ちに整理がついたところで、時間差でやってきて「遊ばない?」なんて言ってくる。意味がわからない。
ぼくの「失恋」、全部君のせいなんだが。そう言ってやったら、こいつは驚くだろうか。絶対言わないが。
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