投稿日:2018年02月18日 12:48 文字数:9,942
どうか星降る空をみせて
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鍵主です。自宅部長設定「日暮白夜(ひぐれ・びゃくや)」。糖分過多につきご注意ください。甘いえろがすきです。
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「先輩は、僕の気持ちとか、考えたことあります?」
そう言った彼は、いつになく厳しい表情をしていた。白夜はなんと答えていいのかわからず、俯いた。
いつも皮肉ばかり言っていて辛辣な印象の彼だが、強引なことはしない。人と話す時は常に相手の仕草や感情に気を配っていて、察しはいい方だ。
……色々な。とても色々な過程を経て、白夜と彼――鍵介が交際をするようになっても、それは変わらなかった。
少しずつ、おずおずと手を触れあうように歩み寄りながらも、決して先を急いだり、無理強いもしない。そんな付き合いが続いた。
しかし今日は、そんな彼が少し強引で。
「先輩の家、行ってもいいですか」
そこまでは、今までも何度かあった。休日や放課後を一緒に過ごすこともあったし、食事をしたこともある。
でも、自室に招くのは初めてだった。
……正直、不安だった。何かが起こる予感はしていて、そして、期待と不安、どちらの重量の方が重かったかと言われれば、きっと不安だった。それでも承諾したのは、彼と交際を始めたときと全く同じ理由から。
――彼が、響鍵介というひとが、白夜にとって、この世界で最も大切なひとだから、だった。
白夜が、失っていた現実での記憶を取り戻したのは、少し前のことだった。
記憶が戻ったきっかけ自体はとても些細だなことだったが、戻ってきたものは、あまりに重い。現実での出来事をそのまま仲間たちに話す勇気は、まだなかった。もちろん、鍵介にも。
自然と彼と一緒に過ごす時間は減っていく。元々白夜はあまり要領のいい方ではなく、その避け方はあからさまだったに違いない。
そうして彼は痺れを切らして、そんな風に誘ってきたのだ。少なくとも、白夜はそう思っていた。
招かれた白夜の部屋は、男性の部屋にしては几帳面に、そして小奇麗に片付けられた部屋だった。
大きめのベッドがひとつ。隣接して、勉強机と小さな本棚。勉強机には教科書と参考書。本棚の中身はほとんど小説と音楽CDだ。棚の一番上にはジャムか何かの空き瓶らしいものが綺麗に洗われいくつか並んでいて、中にはぎっしりと、色とりどりのガラス玉が詰まっていた。うちひとつは蓋が開いていて、棚の上に倒されて中からガラス玉が零れ落ちている。ガラス玉は外から差し込む陽光を反射して、きらきらと輝いていた。
そんな部屋で、鍵介は絨毯の敷かれた床に座り、ベッドに腰掛ける白夜を見上げていた。
「恋人にあれだけあからさまに避けられたら、さすがにヘコむでしょう、普通。せめて理由を教えてくれませんか」
白夜は黙り込む。話すことはできる。可能か不可能かで言えば。ただ、それを話すことのできる白夜が、彼にすべてを打ち明けることを恐れているだけだ。
話したら、鍵介はどう思うだろう。
この世界で出会って、一緒にいられて、そして恋人にまでなれた。それだけで夢のようだった。記憶を取り戻した今なら、それがどれだけ物語めいた奇跡かわかる。
その奇跡のような時間を、一瞬で打ち砕くだけの秘密が、今の白夜にはある。
「まただんまりですね。先輩はいつもそうだ。大事なことは、いつも話してくれない」
「…………ごめん」
鍵介の声から色濃く感じるのは、怒りよりも、苛立ちよりも、悲しみだった。
それが一番痛い、と白夜は思う。怒りや苛立ちを向けられるなら、まだいい。たくさん耐えたこともあるし、慣れている。けれど、自分が彼を悲しませているのだと思うと、いてもたってもいられなくなる。
「先輩は、卑怯ですよ」
僕の気持ちとか、考えたことないでしょう。鍵介は最初の言葉を、確定に変えて繰り返した。
「先輩は僕の話を聞いてくれましたよね。僕がもう構わないでくださいと言ったのに、それでもずっと。僕が心配だって。僕には同じこともさせてくれないんですか。自分だけ一方的に僕を救っておいて、それで先輩は逃げるんですか。心配もさせてくれないんですか」
鍵介の言葉が胸に刺さって、白夜はまた俯いた。刺さった言葉は抜けるどころか、時間が経てば経つほど深いところに沈んでいくようだ。
鍵介が悲しそうな顔をしている。させているのは自分だ。それがたまらなく辛い。
「……理由を話すことは、できる。でも」
だから死ぬほど怖くても、この人に嘘や誤魔化しは言えない。
「怖いんだ」
声を押し殺して、白夜はやっとそう言った。白夜が弱音らしい弱音を吐いたのはこれが初めてで、鍵介が少しだけ驚いたように目を見開く。
「話した方がいいのは分かってる。でも、怖い。話したら、色々変わってしまいそうで、それが怖いんだ。俺は今、凄く幸せで、でもこの幸せは絶対に続かないって、そう思う。話したら、きっとそこからこの幸せは終わるんだ。これ以上を望んだら、全部消えそうな気がする」
何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。途中から、取り戻した記憶とメビウスで培った自分とが混ざり合って、言葉にならなくなる。
怖い。その恐怖の根源は、思い出した現実での記憶だ。やっと思い出した記憶の中の自分は、ひたすらに、こう囁いている。
望んではいけない。失ったとき悲しいから。願ってはいけない。きっと叶わないから。
ただ与えられるものに感謝し、許されることに安堵していればいい。「俺」は、今のままで充分幸せだ。もう、鍵介と出会って恋人になれたなんて奇跡を享受しているじゃないか。
期待はするな。望みを持つな。その幸せが長く続くなどと信じてはいけない。
その代わり、悪意も敵意も嘲笑も憐憫も同情も、信じなければ事実にはならない。どんな痛みも、気づかないふりをしてじっと耐えていればいつかは終わる。
石のように。あるいは石になれないなら貝のように、柔らかな心は閉ざし、終わりを待てばいい。そうすれば手がかじかむように、痛みも悲しみも和らいでいく。
思わず白夜が、自分の身体を抱きしめる。そうやって目を閉じても、思い出した記憶は消えてくれない。
「先輩、まさか」
鍵介もなんとなく、白夜が思い出したことを察したのだろう。一瞬何か言いかけるが、しかし、その言葉の続きは飲み込んだ。そして、白夜の正面に移動して、自分自身の肩を抱くその手に、そっと触れる。
びくりと一瞬だけ白夜の身体が震えるが、拒絶はされなかった。鍵介はそのことにほっとしながら、続ける。
「わかりました。何があったのかは、もう聞きません。先輩が言ってくれるまで待ちます。でも、これだけは教えてください」
白夜が、ゆっくりと顔を上げる。灰色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「先輩は、僕のことが好きですか?」
こくり、と、白夜は頷いた。
「僕も先輩が好きです。それを、信じてくれますか?」
今度は少しだけ間を空けて、しかし、白夜はまた頷く。白夜の手に触れていた鍵介の手が、そっと、肩を抱いていたその手を握る。するりと白夜の手が肩を離れ、指は鍵介の指に絡まった。指先から暖かな体温が伝わってくる。
鍵介がここにいる。指先から伝わる体温が、それを教えてくれる。そして目の前の鍵介が、優しく微笑んだ。
「それなら。先輩がこれ以上を望むのが怖くても、僕は望みます。先輩は人間が出来てて無欲なのかも知れませんけど、僕はそうじゃないんですよ」
白夜の強張った手を、かじかんで縮こまった身体を温めるように、鍵介は努めて明るく言った。
「メビウスから現実へ帰っても先輩に会いに行きたいと思ってます。もっと先輩に触りたいと思ってますし、先輩にキスもしたいですし、まあ、それ以上のことだってしたいと思ってますよ。現状で充分だなんて、思ったことないです。これからのことを、嫌というほど考えますよ」
すみません、と言いながら、全く悪びれない口調だった。白夜の手がやっと肩から完全に離れ、鍵介の手にされるがままに握られる。鍵介が空いた方の手を白夜の頬に伸ばし、触れた。
「それで……出来れば、先輩も同じように、望んで欲しいと思ってます。これからのことを」
今の幸せを信じるのも難しい白夜には、それはとんでもなく難しいことのように思えた。思わず手に力が入る。だから、白夜が鍵介の手をぎゅっと握ることになった。鍵介がそれを握り返し、そのまま少しだけ手を引いた。ベッドに座っていた白夜の身体が傾いで、鍵介の身体にもたれかかる。
「もちろん、今はそこまで望みませんから。その代わり、今日は先輩からキスしてくれませんか?」
「え……」
突然の要求に、白夜の思考が一瞬止まった。しかし、鍵介は大真面目な顔で続ける。
「いいじゃないですか。練習みたいなものですよ」
嫌ならいいんですけど、と、それから悪戯っぽく笑われて、それ以上何も言えなくなってしまった。
嫌なわけがない。嫌なら、もっともっと簡単だった。こんなに怖いのも苦しいのも、何もかも全て、このひとのことが好きでしょうがないせいだ。過去を暴かれるのが苦しいのも、未来を信じるのが怖いのも全て。
白夜は少しだけためらったが、そのまま鍵介の唇にそっと口付ける。自分から身を乗り出して、鍵介の背中に手を回し、自分からその唇を望む。
柔らかな感触が伝わってくる。キスは甘い、と昔読んだ物語は語ったけれど、本当はそんなことはない。そんな馬鹿みたいに当たり前の話を、今の白夜は知っている。それを教えてくれたのは鍵介だった。
本当のキスは甘くない。でも、最愛の人と過ごす時間は、とろけるように甘いのだ、と。
「んっ……」
そっと重ねるだけのキスを白夜が終えようとしたとき、今度は鍵介が頭の後ろに手を回し、白夜の身体を引き寄せた。そのまま唇に舌を割り入れ、口内に侵入してくる。思わず逃げようとする身体は、背中側に回った手が制した。そのまま舌先が歯列をなぞり、お互いの舌を絡めて誘ってくる。
「っは、……ぅ……」
息を奪われるような思いがして、なんとか呼吸を止めないように気をつける。やっと開放されたと思ったら、もう一度軽く口付けられて、そっと肩を押し返された。くらり、と視界が反転して、ベッドに背中を預けていた。目の前に天井が見えていたのはほんの一瞬で、すぐに鍵介が覆いかぶさってくるのが見えた。
白夜はただ、それをぼうっと眺める。これから何をされるのか、わからないわけではなかったけれど、拒絶する気は全くなかった。
「止めないと、続けますよ。大丈夫ですか?」
上から、少し苦笑い気味の声が降ってくる。また息が止まっちゃうとか止めてくださいね、と言われて、思わず顔が熱くなる。
……大丈夫、ゆっくり息をすればいい。自分に必死で言い聞かせる。
口付けが首筋に移動する。鎖骨の辺り、肩口に唇や舌が触れると、ぞくぞくとした快感が体中を駆けて、思わず声が漏れそうになった。なんとか押しとどめるが、吐息までは抑えられない。
するり、と布ずれの音がして、タイが外される。これから何が起こるのかを安易に想像させて、心臓が鼓動を早めたのがわかった。シャツのボタンも外され露わになった胸元に、鍵介の指が滑っていく。
「…………っ、……ぁ」
微かに漏れ出る声を抑えようと、思わず手を口元にやる。見上げた鍵介は、それを見て少しだけ笑った気がした。さら、と落ちる亜麻色の髪。こちらを見下ろす灰色の瞳。彼の手が眼鏡を外して、遮るもののない視線が白夜に注がれている。
「先輩」
好きですよ、と。甘く綻んだ唇が白夜を呼ぶ。幸せそうな声音で囁く。
胸元を滑っていた指が離れ、白夜の背中の方へ手が回される。そのまま上半身を起こされて、服がするりとはがされた。されるがままにしていると、今度は胸元に唇を寄せられる。ちゅ、と音を立てて吸い付かれると、羞恥にまた顔が熱くなった。
そのまま柔らかな唇に蹂躙されて、時折首筋にも吸い付かれる。ぞくぞくとした快感が波のように襲ってきて、白夜は無意識のうちに鍵介にしがみついた。
「なかなか可愛いことしますね」
ふふ、とからかうような声も、半分くらい聞こえていない。ただ、与えられる快楽を拾うのに忙しかった。
「っあ!」
抱き上げられて無防備な背中を、指先がすーっと滑っていく。瞬間的な強い快感に、思わず声を上げさせられた。びくりと震えた身体を再び押されて倒されると、落ちた花びらのように残された衣服の上に転がされる。
倒れた拍子にベッドが大きく揺れて、隣り合っていた棚もわずかに揺れた。その拍子に、視界の端で、瓶から零れていたガラス玉が棚から零れ落ちる。ひとつ、ふたつ。もう十分に斜陽と呼べる陽光を反射して、色とりどりのガラスが煌いていた。
また現実逃避。綺麗だな、と、快楽にふやかされた頭で考えた。しかし、今回はすぐ、より強い快楽に意識を引き戻される。
「あ、あ! や、鍵介……っ」
びくり、と思わず身体が跳ねた。余所見をしているうちにベルトを外され、露わになったそれに鍵介が手を這わせている。
そこは驚くほどに敏感で、経験したことのない感覚が容赦なく神経を焼いた。裏側を撫でられ、刺激を与えられると、さっきまで感じていた快感の何倍もの快感が押し寄せる。呼吸も浅く速くなって、先端を指の腹で刺激されると、あまりの快楽に喉の奥で声が詰まった。
「嫌、ですか?」
本当に? というニュアンスを込めて、鍵介が白夜を覗き込んだ。白夜は反射的に溜まった涙をこらえて、それでも弱々しく首を横に振った。
嫌じゃない。その答えを見て取って、鍵介がまた口付けを与えてくれる。吐息を漏らし、まるで雛鳥のようにそれを享受しながら、白夜は終わらない快楽の中で考えていた。
――幸せだ。こんなにも幸せだ。
だからこそ怖いのだ。もしかしたら、もっと望めばもっとあなたが手に入るのだろうか? と思わせられるのが。
あなたを知って、あなたにこれ以上を望んでしまえば、きっと、叶わなかったとき、とても痛い。必死で守ってきた心の柔らかな部分に、もうすでに触れてしまったあなたが、その時俺に与える痛みは、きっと死ぬよりも辛い痛みだ。
あなたはすでに、失うには痛すぎる心の一部だ。
「……先輩?」
鍵介がふと、怪訝そうに白夜を呼んだのは、白夜の両手が、鍵介に向かって伸びてきたからだ。そのままその両手は鍵介の頬を包み、白夜は少しだけ身を起こし、口付けを返す。より深いキスを強請るような、触れるだけのキス。鍵介が応えて深く口付けても、両手は頬を包んだままだ。
――本当は、俺も信じたい。望みたい。
その願いが叶うかも知れないと、あなたと一緒に信じてみたい。
あなたと過ごした時間や、あなたに差し出した気持ちや、あなたがくれた気持ち、「好き」を、信じてみたい。
「(だけど)」
するり、と鍵介の頬を包んでいた両手が離れる。白夜の目尻から、生理的なものか、それとも別のものかも分からない涙が零れていった。
奇跡は起きない。奇跡は起きないんだ。
俺は知っている。俺が悪くなくても、あなたが悪くなくても。理不尽な不幸は、ある日突然俺たちの足元にぽっかりと大穴を開け、一瞬で飲み込んでしまう。
誰が悪いわけでもない。俺が悪いわけでも、あなたが悪いわけでもない。
ただ、そういう偶然が起こり得る。過程なんて大きな世界にとってはきっとどうでもよくて、ただ、結果だけが在る。
俺が生まれ、家族は不幸になったという結果だけが在る。
「もしも俺が生まれなかったら」。そんな来ない「もしも」を考えることに意味はない。けれど、人は想像してしまう生き物だから。もしも自分がこの世に生まれず、幸せに笑う家族を想像して、そのたびに心が抉り取られる思いがした。
だから、信じられない。でも信じたい。心からの幸せを。……信じさせて、ほしい。
ひとつ。ふたつ。零れる涙を、最愛の人の指が拭った。
「やっぱり怖いですか?」
尋ねられて、答えに迷う。
怖い。でもそれは、この行為が怖いわけじゃなく、ただ自分が臆病すぎるんだと伝えられるだろうか。
「……どうやったら信じてもらえるんですかね」
わざわざ鍵介がそう呟いたのは、分かってますよ、という代わりだったのだと思う。
そのとき不意に思い出す。昔、読んだ本にこんなやりとりがあった。
ある少年が、想い人である少女に尋ねる。「どうやったら僕の気持ちを信じて頂けますか」と。少女は天を指し、少年にこう答えた。
「今、この空から星が降ったのなら」と。
それは、あの空に瞬く星が降る奇跡と同じくらい、ありえないことだ――と。
「んっぅ、あ、あ……、ひ……っ」
ほどなく再開された愛撫に、白夜の意識が強制的に持っていかれる。ぐちゅ、ぐちゅ、と、耳に届く卑猥な水音に羞恥心を煽られ、目を閉じた。それは白夜自身が零す先走りが立てている音で、それは、自分の上で鍵介が絶えず白夜を愛撫しているからだ。そう認識するだけで、羞恥で死にそうになる。でも、同時にぞくぞくとした悦楽と、どろりとした感情が溢れ出すのも分かっていた。
鍵介がこちらをじっと見下ろしている。さっきまで余裕が見えていた瞳が、少しずつ情欲に溺れていく。それはきっと白夜自身も同じなのだけれど、二人でお互いに溺れるのなら、それはどこか心地いい。
「あ、ぁああぁ……っぅ、けんすけっ、だめ、だ……それっ……」
びくびくと、白夜の身体が震える。白夜自身を愛撫する手が早くなり、先端を強めに刺激されると、艶を帯びた声も抑えることが出来ずに口元を手で押さえるしかない。
「先輩、手、どけて」
頭上から、そんな声が降ってくる。甘やかすような、優しくあやすような声だった。白夜は欲に溺れて潤んだ瞳で、声の主を見上げる。
「声、聞きたいです。大丈夫、笑いませんから」
言われて、白夜はゆっくりと、言われた通りに手をどけた。透けるかと思うほど白い素肌はうっすらと上気して桃色をしている。全部これが鍵介のせいなのだ、そう思うとたまらない。
「素直ですよね、先輩。僕にだけそうなら、いいんですけど」
独占欲がちらつくセリフに、心臓がまた高鳴った。そして、また弱い部分を攻められる。
「ッ、あ、ぁ、ぁぁあああぁ、だめ、だめ、だ……っ……けんすけっ、ひ、ぅ……んんッ」
今までゆっくりと寄せては返していた快楽の波が、強さを増す。身体が制御出来ないほどに震えて、思わず身を反らす。投げ出した足先までぴんと張り詰めて、自分の身体が言うことを聞かなくなる。口元を覆うことも出来ず、行き場の無くなった手はベッドのシーツをぎゅうっと強く握り締めた。一気に引いた快楽の波は、一瞬の停滞のあと、一気に戻ってくる。
硬く閉じた瞼の向こうで、思考がちかちかと白く染まった。続いて、心地いい倦怠感が全身を襲う。は、は、と短く息を吐く自分をようやく認識して、額に張り付く髪の感触を思い出した。
「けん、すけ……?」
冷静な思考が戻ってこない。そこにいるのかと確かめるように名前を呼ぶと、初めての時のような短いキスが返ってきた。
「すみません、さすがに限界なんで……もう止めても聞けませんよ」
止めるって何を? と、もう理性などほとんど擦り切れた頭で考えた。着ていたものは全て取り去られて、足が持ち上げられるのが分かる。やがてひんやりしたものが秘部に当たって、ようやくこれから起こることを理解した。
「……っ、……ぅ」
濡らされた秘部に、指が入り込んでくる。二人の上半身はまた近づいて、じゃれ合うようなキスや、思い出したように深い口付けを繰り返した。入り口や、内壁の弱い部分を刺激されると、背中と先ほど欲を吐き出したばかりの中心とを強い快感が貫く。
ここにいる。ここでお互いを求めているという実感を、かき集めた。自分はこの人が好きで、この人も自分が好きなのだ。最初に確かめ合ったことを思い起こす。互いが互いの最愛であるという奇跡を、少しでも長く実感したかった。
そうやって、しばらく内壁を撫で刺激していた指が引き抜かれ、喪失感に息を吐く。しかし間をおかず、今度はもっと質量のあるものが秘部の入り口にあてがわれた。
「っく、」
小さく呻いた彼に、しがみついた。怖くないと言えば嘘になる。でも、止めて欲しいとは思わなかった。どろりとした感情はもう溢れてしまって、止まらない。
怖い。恐怖は振り払えず、どんなに繋がろうと、抱えた問題も、未来にあり得るだろう不幸も消えない。それでも。
「(俺は、この人が欲しいんだ)」
見上げる灰色の瞳は、自分と同じように欲に溺れていた。さらさらした亜麻色の髪も、自分と同じように汗で張り付いている。鍵介も、白夜が欲しいと思ってくれている、のだと思う。そのことが、嬉しい。
この人が欲しい。この人を求めて尚続く未来を信じたい。
――空に瞬く星が降るような。そんな奇跡が起こると、どうか信じさせて。
あの物語の少女だって、もしかしたら、そう言いたかったのかも知れない。あの物語は悲しい終わり方だったけれど、それでも。
「けんすけ、けんすけ……っ、あ、あつい……っ、ぅあ、あ、っあ」
何度か白夜の様子を伺うように止まりながらも、腰を進められ、ゆるゆると揺さぶられる。なんともいえない違和感と、波打つような快感がまた押し寄せてきた。さっきよりもずっと、鍵介を近くに感じる。
ここが理想の世界だからか、痛みはほとんど感じなかった。感じるのは自分の内壁を嬲る熱と、幸福感だけだ。
繰り返す呼吸は荒いままで、それは白夜も鍵介も同じだった。夢中になって腰を揺らして、お互いだけを見て、それ以外の世界が酷く遠く感じる。与えられる快感と幸福感に耐え切れず、白夜が再びベッドに身体を投げ出し、目を硬く閉じた。
そして、もう一度目を開く。
外は夕暮れを越え、もう夜を迎えていた。カーテンの隙間からは淡い月明かりと星明かりが差し込んでいて――
あ、と。白夜は思わず、自分にしか聞こえないくらい、微かな声を上げた。
――星が。
涙が零れる。汗が落ちる。酸素を求めて頭はくらくらしていた。そんな視界と涙の膜が張る瞳が見せる世界は、ぼんやりと滲んでいる。
棚の上で零れたガラス玉が、窓から漏れる優しい光を拡散させて、キラキラしていた。
滲んだ視界が見せるその光景は、まるで星が降っているようで。
「せん、ぱい?」
鍵介が荒い息の間を縫って白夜を呼んだ。心配そうなその声に、応えなければと思った。だから、必死で息を整え、答える。
「だい、じょうぶ……だいじょうぶ、だ」
間近であなたの息遣いが感じられる。暖かい。私の中にあなたがいる。涙が零れて、止まらない。
「痛い、ですか?」
ちがう、と必死で首を横に振る。
「ちょ、っと、びっくり、してただけ」
そう、少し驚いただけ。奇跡なんて、案外起こってしまうものなのかも知れない、と。
息吐いて、と言われて、言う通りにした。その分だけ、また奥に鍵介の熱を感じる。それはあまりに幸せで、でも、やはり、足りないのだ。
「そばに、いて」
もっと近くへ。もっとそばへ。出来るのなら、ここを出てもずっと。
「はい」
鍵介は答えた。それが嬉しくてたまらない。
鍵介はまだ、白夜がどんな場所で生きているかを知らない。現実でどんな形をして、どんなものを背負っているのかも知らないだろう。それはもしかしたら、あまりに幼く無謀な約束なのかも知れない。信じれば痛む希望なのかも知れない。
「好きだ……鍵介が、好きだよ」
好きで好きで、たまらないんだ。今までもこれからも。はい、と返ってきた返事に、耳を澄ます。
「鍵介も、俺を、好きになって、よ」
「……はい」
涙がまた視界を滲ませる。視界で星が翻る。最愛の人が、一番欲しい言葉をくれる。
「好きです、先輩。大好きですよ」
自分の奥で熱が弾けるのを感じながら、白夜もより強く鍵介にしがみ付き、か細い悲鳴を上げた。また白く染まるような感覚を覚えながら、意識を手放す。
――それでも。その幼く無謀な約束を、信じよう。世界は理不尽かも知れないけれど、奇跡だって起こすのだから。
そう言った彼は、いつになく厳しい表情をしていた。白夜はなんと答えていいのかわからず、俯いた。
いつも皮肉ばかり言っていて辛辣な印象の彼だが、強引なことはしない。人と話す時は常に相手の仕草や感情に気を配っていて、察しはいい方だ。
……色々な。とても色々な過程を経て、白夜と彼――鍵介が交際をするようになっても、それは変わらなかった。
少しずつ、おずおずと手を触れあうように歩み寄りながらも、決して先を急いだり、無理強いもしない。そんな付き合いが続いた。
しかし今日は、そんな彼が少し強引で。
「先輩の家、行ってもいいですか」
そこまでは、今までも何度かあった。休日や放課後を一緒に過ごすこともあったし、食事をしたこともある。
でも、自室に招くのは初めてだった。
……正直、不安だった。何かが起こる予感はしていて、そして、期待と不安、どちらの重量の方が重かったかと言われれば、きっと不安だった。それでも承諾したのは、彼と交際を始めたときと全く同じ理由から。
――彼が、響鍵介というひとが、白夜にとって、この世界で最も大切なひとだから、だった。
白夜が、失っていた現実での記憶を取り戻したのは、少し前のことだった。
記憶が戻ったきっかけ自体はとても些細だなことだったが、戻ってきたものは、あまりに重い。現実での出来事をそのまま仲間たちに話す勇気は、まだなかった。もちろん、鍵介にも。
自然と彼と一緒に過ごす時間は減っていく。元々白夜はあまり要領のいい方ではなく、その避け方はあからさまだったに違いない。
そうして彼は痺れを切らして、そんな風に誘ってきたのだ。少なくとも、白夜はそう思っていた。
招かれた白夜の部屋は、男性の部屋にしては几帳面に、そして小奇麗に片付けられた部屋だった。
大きめのベッドがひとつ。隣接して、勉強机と小さな本棚。勉強机には教科書と参考書。本棚の中身はほとんど小説と音楽CDだ。棚の一番上にはジャムか何かの空き瓶らしいものが綺麗に洗われいくつか並んでいて、中にはぎっしりと、色とりどりのガラス玉が詰まっていた。うちひとつは蓋が開いていて、棚の上に倒されて中からガラス玉が零れ落ちている。ガラス玉は外から差し込む陽光を反射して、きらきらと輝いていた。
そんな部屋で、鍵介は絨毯の敷かれた床に座り、ベッドに腰掛ける白夜を見上げていた。
「恋人にあれだけあからさまに避けられたら、さすがにヘコむでしょう、普通。せめて理由を教えてくれませんか」
白夜は黙り込む。話すことはできる。可能か不可能かで言えば。ただ、それを話すことのできる白夜が、彼にすべてを打ち明けることを恐れているだけだ。
話したら、鍵介はどう思うだろう。
この世界で出会って、一緒にいられて、そして恋人にまでなれた。それだけで夢のようだった。記憶を取り戻した今なら、それがどれだけ物語めいた奇跡かわかる。
その奇跡のような時間を、一瞬で打ち砕くだけの秘密が、今の白夜にはある。
「まただんまりですね。先輩はいつもそうだ。大事なことは、いつも話してくれない」
「…………ごめん」
鍵介の声から色濃く感じるのは、怒りよりも、苛立ちよりも、悲しみだった。
それが一番痛い、と白夜は思う。怒りや苛立ちを向けられるなら、まだいい。たくさん耐えたこともあるし、慣れている。けれど、自分が彼を悲しませているのだと思うと、いてもたってもいられなくなる。
「先輩は、卑怯ですよ」
僕の気持ちとか、考えたことないでしょう。鍵介は最初の言葉を、確定に変えて繰り返した。
「先輩は僕の話を聞いてくれましたよね。僕がもう構わないでくださいと言ったのに、それでもずっと。僕が心配だって。僕には同じこともさせてくれないんですか。自分だけ一方的に僕を救っておいて、それで先輩は逃げるんですか。心配もさせてくれないんですか」
鍵介の言葉が胸に刺さって、白夜はまた俯いた。刺さった言葉は抜けるどころか、時間が経てば経つほど深いところに沈んでいくようだ。
鍵介が悲しそうな顔をしている。させているのは自分だ。それがたまらなく辛い。
「……理由を話すことは、できる。でも」
だから死ぬほど怖くても、この人に嘘や誤魔化しは言えない。
「怖いんだ」
声を押し殺して、白夜はやっとそう言った。白夜が弱音らしい弱音を吐いたのはこれが初めてで、鍵介が少しだけ驚いたように目を見開く。
「話した方がいいのは分かってる。でも、怖い。話したら、色々変わってしまいそうで、それが怖いんだ。俺は今、凄く幸せで、でもこの幸せは絶対に続かないって、そう思う。話したら、きっとそこからこの幸せは終わるんだ。これ以上を望んだら、全部消えそうな気がする」
何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。途中から、取り戻した記憶とメビウスで培った自分とが混ざり合って、言葉にならなくなる。
怖い。その恐怖の根源は、思い出した現実での記憶だ。やっと思い出した記憶の中の自分は、ひたすらに、こう囁いている。
望んではいけない。失ったとき悲しいから。願ってはいけない。きっと叶わないから。
ただ与えられるものに感謝し、許されることに安堵していればいい。「俺」は、今のままで充分幸せだ。もう、鍵介と出会って恋人になれたなんて奇跡を享受しているじゃないか。
期待はするな。望みを持つな。その幸せが長く続くなどと信じてはいけない。
その代わり、悪意も敵意も嘲笑も憐憫も同情も、信じなければ事実にはならない。どんな痛みも、気づかないふりをしてじっと耐えていればいつかは終わる。
石のように。あるいは石になれないなら貝のように、柔らかな心は閉ざし、終わりを待てばいい。そうすれば手がかじかむように、痛みも悲しみも和らいでいく。
思わず白夜が、自分の身体を抱きしめる。そうやって目を閉じても、思い出した記憶は消えてくれない。
「先輩、まさか」
鍵介もなんとなく、白夜が思い出したことを察したのだろう。一瞬何か言いかけるが、しかし、その言葉の続きは飲み込んだ。そして、白夜の正面に移動して、自分自身の肩を抱くその手に、そっと触れる。
びくりと一瞬だけ白夜の身体が震えるが、拒絶はされなかった。鍵介はそのことにほっとしながら、続ける。
「わかりました。何があったのかは、もう聞きません。先輩が言ってくれるまで待ちます。でも、これだけは教えてください」
白夜が、ゆっくりと顔を上げる。灰色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「先輩は、僕のことが好きですか?」
こくり、と、白夜は頷いた。
「僕も先輩が好きです。それを、信じてくれますか?」
今度は少しだけ間を空けて、しかし、白夜はまた頷く。白夜の手に触れていた鍵介の手が、そっと、肩を抱いていたその手を握る。するりと白夜の手が肩を離れ、指は鍵介の指に絡まった。指先から暖かな体温が伝わってくる。
鍵介がここにいる。指先から伝わる体温が、それを教えてくれる。そして目の前の鍵介が、優しく微笑んだ。
「それなら。先輩がこれ以上を望むのが怖くても、僕は望みます。先輩は人間が出来てて無欲なのかも知れませんけど、僕はそうじゃないんですよ」
白夜の強張った手を、かじかんで縮こまった身体を温めるように、鍵介は努めて明るく言った。
「メビウスから現実へ帰っても先輩に会いに行きたいと思ってます。もっと先輩に触りたいと思ってますし、先輩にキスもしたいですし、まあ、それ以上のことだってしたいと思ってますよ。現状で充分だなんて、思ったことないです。これからのことを、嫌というほど考えますよ」
すみません、と言いながら、全く悪びれない口調だった。白夜の手がやっと肩から完全に離れ、鍵介の手にされるがままに握られる。鍵介が空いた方の手を白夜の頬に伸ばし、触れた。
「それで……出来れば、先輩も同じように、望んで欲しいと思ってます。これからのことを」
今の幸せを信じるのも難しい白夜には、それはとんでもなく難しいことのように思えた。思わず手に力が入る。だから、白夜が鍵介の手をぎゅっと握ることになった。鍵介がそれを握り返し、そのまま少しだけ手を引いた。ベッドに座っていた白夜の身体が傾いで、鍵介の身体にもたれかかる。
「もちろん、今はそこまで望みませんから。その代わり、今日は先輩からキスしてくれませんか?」
「え……」
突然の要求に、白夜の思考が一瞬止まった。しかし、鍵介は大真面目な顔で続ける。
「いいじゃないですか。練習みたいなものですよ」
嫌ならいいんですけど、と、それから悪戯っぽく笑われて、それ以上何も言えなくなってしまった。
嫌なわけがない。嫌なら、もっともっと簡単だった。こんなに怖いのも苦しいのも、何もかも全て、このひとのことが好きでしょうがないせいだ。過去を暴かれるのが苦しいのも、未来を信じるのが怖いのも全て。
白夜は少しだけためらったが、そのまま鍵介の唇にそっと口付ける。自分から身を乗り出して、鍵介の背中に手を回し、自分からその唇を望む。
柔らかな感触が伝わってくる。キスは甘い、と昔読んだ物語は語ったけれど、本当はそんなことはない。そんな馬鹿みたいに当たり前の話を、今の白夜は知っている。それを教えてくれたのは鍵介だった。
本当のキスは甘くない。でも、最愛の人と過ごす時間は、とろけるように甘いのだ、と。
「んっ……」
そっと重ねるだけのキスを白夜が終えようとしたとき、今度は鍵介が頭の後ろに手を回し、白夜の身体を引き寄せた。そのまま唇に舌を割り入れ、口内に侵入してくる。思わず逃げようとする身体は、背中側に回った手が制した。そのまま舌先が歯列をなぞり、お互いの舌を絡めて誘ってくる。
「っは、……ぅ……」
息を奪われるような思いがして、なんとか呼吸を止めないように気をつける。やっと開放されたと思ったら、もう一度軽く口付けられて、そっと肩を押し返された。くらり、と視界が反転して、ベッドに背中を預けていた。目の前に天井が見えていたのはほんの一瞬で、すぐに鍵介が覆いかぶさってくるのが見えた。
白夜はただ、それをぼうっと眺める。これから何をされるのか、わからないわけではなかったけれど、拒絶する気は全くなかった。
「止めないと、続けますよ。大丈夫ですか?」
上から、少し苦笑い気味の声が降ってくる。また息が止まっちゃうとか止めてくださいね、と言われて、思わず顔が熱くなる。
……大丈夫、ゆっくり息をすればいい。自分に必死で言い聞かせる。
口付けが首筋に移動する。鎖骨の辺り、肩口に唇や舌が触れると、ぞくぞくとした快感が体中を駆けて、思わず声が漏れそうになった。なんとか押しとどめるが、吐息までは抑えられない。
するり、と布ずれの音がして、タイが外される。これから何が起こるのかを安易に想像させて、心臓が鼓動を早めたのがわかった。シャツのボタンも外され露わになった胸元に、鍵介の指が滑っていく。
「…………っ、……ぁ」
微かに漏れ出る声を抑えようと、思わず手を口元にやる。見上げた鍵介は、それを見て少しだけ笑った気がした。さら、と落ちる亜麻色の髪。こちらを見下ろす灰色の瞳。彼の手が眼鏡を外して、遮るもののない視線が白夜に注がれている。
「先輩」
好きですよ、と。甘く綻んだ唇が白夜を呼ぶ。幸せそうな声音で囁く。
胸元を滑っていた指が離れ、白夜の背中の方へ手が回される。そのまま上半身を起こされて、服がするりとはがされた。されるがままにしていると、今度は胸元に唇を寄せられる。ちゅ、と音を立てて吸い付かれると、羞恥にまた顔が熱くなった。
そのまま柔らかな唇に蹂躙されて、時折首筋にも吸い付かれる。ぞくぞくとした快感が波のように襲ってきて、白夜は無意識のうちに鍵介にしがみついた。
「なかなか可愛いことしますね」
ふふ、とからかうような声も、半分くらい聞こえていない。ただ、与えられる快楽を拾うのに忙しかった。
「っあ!」
抱き上げられて無防備な背中を、指先がすーっと滑っていく。瞬間的な強い快感に、思わず声を上げさせられた。びくりと震えた身体を再び押されて倒されると、落ちた花びらのように残された衣服の上に転がされる。
倒れた拍子にベッドが大きく揺れて、隣り合っていた棚もわずかに揺れた。その拍子に、視界の端で、瓶から零れていたガラス玉が棚から零れ落ちる。ひとつ、ふたつ。もう十分に斜陽と呼べる陽光を反射して、色とりどりのガラスが煌いていた。
また現実逃避。綺麗だな、と、快楽にふやかされた頭で考えた。しかし、今回はすぐ、より強い快楽に意識を引き戻される。
「あ、あ! や、鍵介……っ」
びくり、と思わず身体が跳ねた。余所見をしているうちにベルトを外され、露わになったそれに鍵介が手を這わせている。
そこは驚くほどに敏感で、経験したことのない感覚が容赦なく神経を焼いた。裏側を撫でられ、刺激を与えられると、さっきまで感じていた快感の何倍もの快感が押し寄せる。呼吸も浅く速くなって、先端を指の腹で刺激されると、あまりの快楽に喉の奥で声が詰まった。
「嫌、ですか?」
本当に? というニュアンスを込めて、鍵介が白夜を覗き込んだ。白夜は反射的に溜まった涙をこらえて、それでも弱々しく首を横に振った。
嫌じゃない。その答えを見て取って、鍵介がまた口付けを与えてくれる。吐息を漏らし、まるで雛鳥のようにそれを享受しながら、白夜は終わらない快楽の中で考えていた。
――幸せだ。こんなにも幸せだ。
だからこそ怖いのだ。もしかしたら、もっと望めばもっとあなたが手に入るのだろうか? と思わせられるのが。
あなたを知って、あなたにこれ以上を望んでしまえば、きっと、叶わなかったとき、とても痛い。必死で守ってきた心の柔らかな部分に、もうすでに触れてしまったあなたが、その時俺に与える痛みは、きっと死ぬよりも辛い痛みだ。
あなたはすでに、失うには痛すぎる心の一部だ。
「……先輩?」
鍵介がふと、怪訝そうに白夜を呼んだのは、白夜の両手が、鍵介に向かって伸びてきたからだ。そのままその両手は鍵介の頬を包み、白夜は少しだけ身を起こし、口付けを返す。より深いキスを強請るような、触れるだけのキス。鍵介が応えて深く口付けても、両手は頬を包んだままだ。
――本当は、俺も信じたい。望みたい。
その願いが叶うかも知れないと、あなたと一緒に信じてみたい。
あなたと過ごした時間や、あなたに差し出した気持ちや、あなたがくれた気持ち、「好き」を、信じてみたい。
「(だけど)」
するり、と鍵介の頬を包んでいた両手が離れる。白夜の目尻から、生理的なものか、それとも別のものかも分からない涙が零れていった。
奇跡は起きない。奇跡は起きないんだ。
俺は知っている。俺が悪くなくても、あなたが悪くなくても。理不尽な不幸は、ある日突然俺たちの足元にぽっかりと大穴を開け、一瞬で飲み込んでしまう。
誰が悪いわけでもない。俺が悪いわけでも、あなたが悪いわけでもない。
ただ、そういう偶然が起こり得る。過程なんて大きな世界にとってはきっとどうでもよくて、ただ、結果だけが在る。
俺が生まれ、家族は不幸になったという結果だけが在る。
「もしも俺が生まれなかったら」。そんな来ない「もしも」を考えることに意味はない。けれど、人は想像してしまう生き物だから。もしも自分がこの世に生まれず、幸せに笑う家族を想像して、そのたびに心が抉り取られる思いがした。
だから、信じられない。でも信じたい。心からの幸せを。……信じさせて、ほしい。
ひとつ。ふたつ。零れる涙を、最愛の人の指が拭った。
「やっぱり怖いですか?」
尋ねられて、答えに迷う。
怖い。でもそれは、この行為が怖いわけじゃなく、ただ自分が臆病すぎるんだと伝えられるだろうか。
「……どうやったら信じてもらえるんですかね」
わざわざ鍵介がそう呟いたのは、分かってますよ、という代わりだったのだと思う。
そのとき不意に思い出す。昔、読んだ本にこんなやりとりがあった。
ある少年が、想い人である少女に尋ねる。「どうやったら僕の気持ちを信じて頂けますか」と。少女は天を指し、少年にこう答えた。
「今、この空から星が降ったのなら」と。
それは、あの空に瞬く星が降る奇跡と同じくらい、ありえないことだ――と。
「んっぅ、あ、あ……、ひ……っ」
ほどなく再開された愛撫に、白夜の意識が強制的に持っていかれる。ぐちゅ、ぐちゅ、と、耳に届く卑猥な水音に羞恥心を煽られ、目を閉じた。それは白夜自身が零す先走りが立てている音で、それは、自分の上で鍵介が絶えず白夜を愛撫しているからだ。そう認識するだけで、羞恥で死にそうになる。でも、同時にぞくぞくとした悦楽と、どろりとした感情が溢れ出すのも分かっていた。
鍵介がこちらをじっと見下ろしている。さっきまで余裕が見えていた瞳が、少しずつ情欲に溺れていく。それはきっと白夜自身も同じなのだけれど、二人でお互いに溺れるのなら、それはどこか心地いい。
「あ、ぁああぁ……っぅ、けんすけっ、だめ、だ……それっ……」
びくびくと、白夜の身体が震える。白夜自身を愛撫する手が早くなり、先端を強めに刺激されると、艶を帯びた声も抑えることが出来ずに口元を手で押さえるしかない。
「先輩、手、どけて」
頭上から、そんな声が降ってくる。甘やかすような、優しくあやすような声だった。白夜は欲に溺れて潤んだ瞳で、声の主を見上げる。
「声、聞きたいです。大丈夫、笑いませんから」
言われて、白夜はゆっくりと、言われた通りに手をどけた。透けるかと思うほど白い素肌はうっすらと上気して桃色をしている。全部これが鍵介のせいなのだ、そう思うとたまらない。
「素直ですよね、先輩。僕にだけそうなら、いいんですけど」
独占欲がちらつくセリフに、心臓がまた高鳴った。そして、また弱い部分を攻められる。
「ッ、あ、ぁ、ぁぁあああぁ、だめ、だめ、だ……っ……けんすけっ、ひ、ぅ……んんッ」
今までゆっくりと寄せては返していた快楽の波が、強さを増す。身体が制御出来ないほどに震えて、思わず身を反らす。投げ出した足先までぴんと張り詰めて、自分の身体が言うことを聞かなくなる。口元を覆うことも出来ず、行き場の無くなった手はベッドのシーツをぎゅうっと強く握り締めた。一気に引いた快楽の波は、一瞬の停滞のあと、一気に戻ってくる。
硬く閉じた瞼の向こうで、思考がちかちかと白く染まった。続いて、心地いい倦怠感が全身を襲う。は、は、と短く息を吐く自分をようやく認識して、額に張り付く髪の感触を思い出した。
「けん、すけ……?」
冷静な思考が戻ってこない。そこにいるのかと確かめるように名前を呼ぶと、初めての時のような短いキスが返ってきた。
「すみません、さすがに限界なんで……もう止めても聞けませんよ」
止めるって何を? と、もう理性などほとんど擦り切れた頭で考えた。着ていたものは全て取り去られて、足が持ち上げられるのが分かる。やがてひんやりしたものが秘部に当たって、ようやくこれから起こることを理解した。
「……っ、……ぅ」
濡らされた秘部に、指が入り込んでくる。二人の上半身はまた近づいて、じゃれ合うようなキスや、思い出したように深い口付けを繰り返した。入り口や、内壁の弱い部分を刺激されると、背中と先ほど欲を吐き出したばかりの中心とを強い快感が貫く。
ここにいる。ここでお互いを求めているという実感を、かき集めた。自分はこの人が好きで、この人も自分が好きなのだ。最初に確かめ合ったことを思い起こす。互いが互いの最愛であるという奇跡を、少しでも長く実感したかった。
そうやって、しばらく内壁を撫で刺激していた指が引き抜かれ、喪失感に息を吐く。しかし間をおかず、今度はもっと質量のあるものが秘部の入り口にあてがわれた。
「っく、」
小さく呻いた彼に、しがみついた。怖くないと言えば嘘になる。でも、止めて欲しいとは思わなかった。どろりとした感情はもう溢れてしまって、止まらない。
怖い。恐怖は振り払えず、どんなに繋がろうと、抱えた問題も、未来にあり得るだろう不幸も消えない。それでも。
「(俺は、この人が欲しいんだ)」
見上げる灰色の瞳は、自分と同じように欲に溺れていた。さらさらした亜麻色の髪も、自分と同じように汗で張り付いている。鍵介も、白夜が欲しいと思ってくれている、のだと思う。そのことが、嬉しい。
この人が欲しい。この人を求めて尚続く未来を信じたい。
――空に瞬く星が降るような。そんな奇跡が起こると、どうか信じさせて。
あの物語の少女だって、もしかしたら、そう言いたかったのかも知れない。あの物語は悲しい終わり方だったけれど、それでも。
「けんすけ、けんすけ……っ、あ、あつい……っ、ぅあ、あ、っあ」
何度か白夜の様子を伺うように止まりながらも、腰を進められ、ゆるゆると揺さぶられる。なんともいえない違和感と、波打つような快感がまた押し寄せてきた。さっきよりもずっと、鍵介を近くに感じる。
ここが理想の世界だからか、痛みはほとんど感じなかった。感じるのは自分の内壁を嬲る熱と、幸福感だけだ。
繰り返す呼吸は荒いままで、それは白夜も鍵介も同じだった。夢中になって腰を揺らして、お互いだけを見て、それ以外の世界が酷く遠く感じる。与えられる快感と幸福感に耐え切れず、白夜が再びベッドに身体を投げ出し、目を硬く閉じた。
そして、もう一度目を開く。
外は夕暮れを越え、もう夜を迎えていた。カーテンの隙間からは淡い月明かりと星明かりが差し込んでいて――
あ、と。白夜は思わず、自分にしか聞こえないくらい、微かな声を上げた。
――星が。
涙が零れる。汗が落ちる。酸素を求めて頭はくらくらしていた。そんな視界と涙の膜が張る瞳が見せる世界は、ぼんやりと滲んでいる。
棚の上で零れたガラス玉が、窓から漏れる優しい光を拡散させて、キラキラしていた。
滲んだ視界が見せるその光景は、まるで星が降っているようで。
「せん、ぱい?」
鍵介が荒い息の間を縫って白夜を呼んだ。心配そうなその声に、応えなければと思った。だから、必死で息を整え、答える。
「だい、じょうぶ……だいじょうぶ、だ」
間近であなたの息遣いが感じられる。暖かい。私の中にあなたがいる。涙が零れて、止まらない。
「痛い、ですか?」
ちがう、と必死で首を横に振る。
「ちょ、っと、びっくり、してただけ」
そう、少し驚いただけ。奇跡なんて、案外起こってしまうものなのかも知れない、と。
息吐いて、と言われて、言う通りにした。その分だけ、また奥に鍵介の熱を感じる。それはあまりに幸せで、でも、やはり、足りないのだ。
「そばに、いて」
もっと近くへ。もっとそばへ。出来るのなら、ここを出てもずっと。
「はい」
鍵介は答えた。それが嬉しくてたまらない。
鍵介はまだ、白夜がどんな場所で生きているかを知らない。現実でどんな形をして、どんなものを背負っているのかも知らないだろう。それはもしかしたら、あまりに幼く無謀な約束なのかも知れない。信じれば痛む希望なのかも知れない。
「好きだ……鍵介が、好きだよ」
好きで好きで、たまらないんだ。今までもこれからも。はい、と返ってきた返事に、耳を澄ます。
「鍵介も、俺を、好きになって、よ」
「……はい」
涙がまた視界を滲ませる。視界で星が翻る。最愛の人が、一番欲しい言葉をくれる。
「好きです、先輩。大好きですよ」
自分の奥で熱が弾けるのを感じながら、白夜もより強く鍵介にしがみ付き、か細い悲鳴を上げた。また白く染まるような感覚を覚えながら、意識を手放す。
――それでも。その幼く無謀な約束を、信じよう。世界は理不尽かも知れないけれど、奇跡だって起こすのだから。
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コメントの文字制限は140文字までとなり、長いコメントを考える必要はございません。
「萌えた」「上手!」「次作品も楽しみ」などひとこと投稿でも大丈夫です。
コメントから交流が生まれ、pictBLandが更に楽しい場所になって頂ければ嬉しいです!
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