投稿日:2019年09月21日 14:47 文字数:5,464
『I am GHOST』本文サンプル
ステキ数:3
10/6Jgarden47新刊。
異世界の図書館が舞台の特殊装丁本「蔵書票シリーズ」読切新作。ルームメイトの近衛と吉野が殺人事件に巻き込まれるバディもの。全年齢。
糸を切らなければ本を開くことができない仕様の特殊装丁です。
あらすじ:
公文書士の近衛と司書の吉野。正反対の性格でありながら、二人は数年来のルームメイトだった。
あるとき近衛は思わぬ縁で、首都を震撼させる連続殺人事件の捜査に巻き込まれる。公文書館や図書館の資料から真相に肉薄した近衛はやがて、吉野の恋人に辿りつく…
異世界の図書館が舞台の特殊装丁本「蔵書票シリーズ」読切新作。ルームメイトの近衛と吉野が殺人事件に巻き込まれるバディもの。全年齢。
糸を切らなければ本を開くことができない仕様の特殊装丁です。
あらすじ:
公文書士の近衛と司書の吉野。正反対の性格でありながら、二人は数年来のルームメイトだった。
あるとき近衛は思わぬ縁で、首都を震撼させる連続殺人事件の捜査に巻き込まれる。公文書館や図書館の資料から真相に肉薄した近衛はやがて、吉野の恋人に辿りつく…
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やかましく騒ぎ立てる目覚まし時計を黙らせ、毛布を頭からかぶった。あと五分だけ。五分だけ……。
だが寝室の扉は遠慮なく開かれる。
「朝だぞ」
この世で最も無愛想な声だと、近衛は毎朝思う。
「知ってる……」
吉野は寝室のドアを開け放ったまま、朝食のために二人の部屋を出ていった。
近衛はベッドの中で七転八倒したのち、あきらめて身を起こす。
朝食前に声をかけてくれと頼んだのは自分だ。朝日が少しでも差し込むように寝室のドアを閉めないでくれと頼んだのも。だがこの季節は冷気がさっと入り込んできて、ベッドから出る気力を余計に削ぐ。
同居人は嫌な顔ひとつせずそれを自らの朝の習慣に組み込んだが、それは「近衛を起こす」と同義ではない。頼まれた以上のことは決してしない、機械のような男なのだ。
のろのろと顔を洗って身支度を調える。
どれほど朝が弱くても、部屋を出るときには一分の隙もない姿でなければならない。制服に埃や皺などないのはもちろん、艶やかな黒髪に寝ぐせがついていてもいけないし、希有な青い瞳が曇ったままなのも許されない。幸い、目の下に隈はできていないようだ。姿見の前でタイを直し前髪を指先で整え、笑顔を作った。この笑みが人間関係を左右することもある。
目を覚ますための珈琲を淹れたころ、再び部屋のドアが開いた。
「おはよう」
食堂から戻ってきた吉野が、リビングで珈琲を飲んでいる近衛に憐れむような目を向けてくる。だが朝食抜きを説教されたりはしない。気遣いというよりは、そこまでルームメイトに興味がないだけなのだということはわかっていた。
「久しぶりだな」
「そうか」
吉野は二日前の早朝から泊まりがけの仕事で出ていて、昨日の遅くに帰宅した。近衛が盛り場から帰ってきたのは日付が変わってからだったため、丸三日ほど顔を合わせる機会がなかったことになる。
友人や同僚ならば感じないが、毎朝顔を突き合わせる相手だと「久しぶり」という言葉が出てもおかしくはない。
吉野は向かいのソファに腰かけ、朝刊を広げた。こちらもさほど美味くない珈琲をのんびり味わう。彼が新聞を読んでいるあいだは、近衛もまだ出勤の支度をしなくていいということなのだ。
少しずつ頭が覚めてきて、ゆうべパブで聞いた話を思い出した。
「先週、山櫻出版の社長に呼ばれたって?」
「……ああ」
ちらりと目を上げた彼は、小さくため息をついて新聞をめくる。
「さすがの情報網だな」
「司書が個人の邸宅に呼ばれる理由は、そう多くないからな。中央図書館 の制服を見たと聞けば、察しがつく。それに、あのへんはおまえの担当区域だったと思ってな」
「……それを、おまえはどこかの店で、おしゃべりな使用人あたりから聞き出したと」
「残念、書生だ」
「大して変わらない」
吉野の返しがそっけないのはいつものことだから、気にせず言葉をつづける。
「若手の記者がやられたとか」
「ああ」
「あの屋敷は社長の別荘だと聞いたぞ。自分のところから出した本も、あちこちから集めた資料も山ほどあって、編集部員たちの図書館代わりになっているそうじゃないか」
「よく知ってるな」
本の整理をしているという書生から聞いたのだ。しかし、書生には答えられないこともある。
「だが、本の主はまだ生きているのに、どうして古書に取り込まれたのか、それが謎だ」
古書が人の心を取り込むという事件が発生するようになって、何十年か経つ。本の持ち主が蔵書を管理できなくなったとき……具体的には、持ち主の蔵書票が破れたり剥がれたりして他人の手に渡ったとき、本は人に襲いかかるのだという。
持ち主がまだ手放していないはずの本を開いても、事故が起きることはない。今回の件で納得できなかったのはその点だった。
吉野は新聞から顔を上げずに答えた。
「今おまえが言ったとおりだよ。方々から集めた資料の中に、破れた蔵書票の貼られた古書がまぎれ込んでいた。それを、調べ物をしていた記者が偶然開いてしまった」
「なるほど……持ち主不明の本というわけか」
話しているうちに思い出してきたのか、吉野は感心したような口調でつけ加えた。
「さすが出版社……本に関わる仕事をしているだけあって、連絡は早かったな。いつもあれくらいだと助かるんだが」
問題のある本、通称危険図書を手にした人間はその場で昏倒する。だが傍目にはただ眠っているようにしか見えない。実際、眠っているのだ。本という夢の中で。本は被害者自身の夢に入り込むため、現実から消えてしまう。昏睡の原因が古書だとだれも気づかない場合は中央図書館 に連絡が来ないまま、眠りつづけて衰弱死する以外の結末はない。
「未だに都市伝説だと思われている節があるからな。ゆうべ話した書生も、現実にある恐怖なのだと今さら怯えていた」
そもそも「蔵書票が貼られた古書」自体に遭遇する市民がさほど多くないためか、週に一度以上は発生している事故にも関わらず、周知が進んでいない。知識人や富裕層でも「信じていない」者はいる。もう半世紀も前から、中央図書館 には専門の部署があるというのにだ。
「限定的な事故といえばそうだし、中央図書館 の広報にも限界がある」
そして広報は自分の仕事ではない、とばかりに吉野は新聞をたたんで立ち上がる。
彼が自室から持ってきた鞄を開けるのを、近衛は横目で眺めていた。
中央図書館 に寄らず出張先から帰ってきたため、司書の仕事道具もそのまま持ち帰ったらしい。彼は小型のそのトランクを開け、中身の点検を始めた。
司書専用の銃、そしてケースに並んだ二色の弾丸。危険図書をあつかうための手袋、本の中を歩き回るときのコンパスとなる腕時計と色眼鏡。回収した本を保護する布袋、本の危険性を無効化するための蔵書票。
それらが決められた場所に全て収められ、現場ですぐ使えるようになっている。
「何度確認するんだ」
呆れた声で問いかけるが、吉野は顔を上げない。
「いつどこで道具のひとつやふたつ、紛失しないとも限らない……というのが、室長の安全管理方針でね。移動の前に必ず鞄の中身を再確認することが義務づけられている」
昨日も駅から寄り道もせず寮へまっすぐ帰っただろうに、なんという手間か。同室の自分まで疑われているようで、釈然としない方針だった。
「律儀に従わなくてもいいんじゃないか」
目を伏せたまま、吉野はなぜか楽しそうに口の端を上げた。
「手順を省いたことがばれると、室長お得意の小言を食らう。忘れ物なんかしようものなら、文房具ひとつでも始末書を書かされる」
聞くだけでもうんざりする。
吉野が所属している古書管理閲覧室といえば、花形であると同時に激務の部署でもあった。
「つくづく、司書にならなくてよかったよ」
学年は異なるが、近衛も吉野と同じ専門学院に通い、司書の国家資格は取得している。近衛は図書館への配属を希望しなかった。彼と相部屋になったのは偶然だが、横で見ていると想像以上にたいへんな仕事だ。
道具の点検が終わってコートに袖を通した彼は、ポケットにペーパーバックを突っ込もうとする。近衛はふとその表紙に目を留めた。
「おまえ、その本……」
「ああ、昨日買った。読むか?」
「まさか」
重度の活字中毒であるらしい吉野は、仕事とは関係なく、常になにかしらの本を持ち歩いていた。小説、随筆、詩集、旅行記、学術書……分野にこれといったこだわりはないらしい。彼と本という取り合わせがあまりになじみすぎて、普段はほとんど意識もしないのだが。
著者名の『近衛雪路』を睨みつけながら、近衛は肩をすくめる。
「専門的すぎて意味がわからないだろう、漢籍の研究書なんて……」
「そうでもない。よく配慮された解説書だよ。平易な言葉を選んで書かれている」
吉野は笑ってその本をポケットにしまい込んだ。
「兄にそう伝えておく」
いくらなんでも読むとはいえ、その本を選んだのは近衛の兄が書いたものだからだろう。彼でなければ嫌味かと思うところだが、この男にそこまでの気は回らないのも事実なのだ。
帽子を取って、一言つけ加える言葉にも、決して他意はない。
「昇進したんだろ。遅刻の数は少ないほうがいいぞ、近衛主任」
中央公文書館の文書管理室主任、それが今の近衛の立場だった。副主任から一段上がったのはつい先月のことだ。
「どうせお飾りだよ」
三十になる前の若造が、普通のルートで主任になどなれるはずがない。近衛が公文書館に入ったときから決まっていたことであり、それは近衛の勤勉さや努力などは全く反映されない。
吉野は返事の代わりに肩をすくめただけで、一足先に出勤していった。
珈琲のカップを空にして立ち上がり、ふと吉野がテーブルの上に置いていった新聞に目を落とす。
――幽霊(ゴースト)、三度現る…
「また出たのか……」
ゴシップ紙ではないから派手な見出しはないが、それでも一面を飾るのはセンセーショナルな文言で、それだけ衝撃的な事件ということだ。
先日、相次いで二人の作家が殺された。全く同じ手口で、現場には『I am GHOST(私は幽霊)』というメッセージカードが添えてあったという。同一犯であることは明白で「幽霊による殺人」として世間を騒然とさせた。そしてついに三人目の犠牲者が出たことにより、それがいつ終わるとも知れない「連続殺人事件」であることが確定した。さまざまな憶測が飛んでいるが、現時点では犯人の目星もついていないらしい。
「まあ、作家でもない一市民には関係ないか……」
時計を見上げた近衛は、あわててコートと帽子を掴んで吉野の後を追った。
中央公文書館は、中央図書館 と肩を並べている。つまり、乗るバスもルームメイトと同じということだ。
「おはようございます、近衛主任」
朝からにこりともせず近衛の前に立ちはだかるのは、主任補佐官の冬馬。
部下の中では最も若いが、それでも近衛より二十ほども年上で、補佐官とは名ばかりの「お目付役」だった。
ただでさえベテランぞろい……といえば聞こえがいいが、要は年寄りしかいない文書管理室の職員たちは、主任たる近衛の存在を文書一枚ほども重要だとは思っていない。その年寄りたちとお飾りの主任を仲介するのが、この男の役目でもある。
ならば彼が主任になればよいのに、と近衛は常々思っているが、いちおうの礼儀として口に出すことは慎んでいる。
「さっそく、本日の業務をご確認いただいてもよろしいでしょうか」
少しも敬意の感じられない慇懃な態度にうんざりしながら、自席に腰を下ろした。
「よろしくお願いしますよ、できれば手短に」
「昨日、主任が早めに退勤されたおかげで先延ばしにされた件を本日手短に処理していただければ、ご希望に添えるかもしれません」
「……………」
言い返す気もなくなって、無言で手を差し出し彼を促す。冬馬は眼鏡を押し上げ、今日の……正しくは昨日からの業務を読み上げはじめた。
「まず昨日中断された、法務省からの昨年度裁判記録の受け入れ確認につきまして、全件への承認を今日中にお願いいたします」
「ええ、あと三分の一程度ですか」
「残りは全体の四割ほどです」
文書管理室の業務は、中央公文書館で管理する全ての公文書を、国や自治体の各所から受け入れ精査分類すること。一般開示の是非、保存期間や保存場所などを熟練の公文書士たちが判断する。
「つづいて、来月閉鎖される公立資料館からの資料移管作業ですが、保存状態がよくない文書も多いため、修復室との打ち合わせが必要になります。十三時から会議の予定を入れておきました。それまでに、移管リストに目を通しておいていただけますか」
人口減少によってゆるやかに衰退していく「黄昏の時代」と呼ばれる現代において、その営みの証拠を残す公文書館の仕事は、むしろ増加している。住人がいなくなり町がひとつ消滅すれば、その役場や公的機関で管理されていた資料は、首都の中央公文書館に移管される。
公文書は日々あらゆる機関で増えていく。当然全てを残すことはできない。適切な保存期間と重要度に従って、厳密に振り分けていく必要がある。
古書が人を襲うようになってから中央図書館 の役割が大きく変わったため、図書館から移管されてきた歴史的資料も多い。仕事は日々山積みだ。
「また、今週末が期限の書類をこちらにまとめてありますので、早めのご確認をお願いいたします」
実際、冬馬の仕事は的確で周到だった。
どちらかといえば職人気質で黙々と仕事をこなす管理室の公文書士たちを相手に、各自の状況に応じて担当を割り振っている。他部署との折衝なども迅速で無駄がない。主任の近衛に対しては、常に業務の全体を把握させようと報告を怠らない。
こちらがやる気になれば、の話だが。怠惰な上司にとっては、有能な部下は存在自体が嫌味でしかない。 どうにも先延ばしができないようだと見てとり、ひとまず昨日のつづきからはじめようと書類の詰まった箱に手を伸ばす。
「……冬馬補佐官、仕事の前に珈琲を一杯飲んできてもいいかな?」
「その箱の中身をまず十件処理されましたら、わたしが淹れてまいりましょう」
まったく、いやになるほど周到なのだ。
(本文より抜粋)
だが寝室の扉は遠慮なく開かれる。
「朝だぞ」
この世で最も無愛想な声だと、近衛は毎朝思う。
「知ってる……」
吉野は寝室のドアを開け放ったまま、朝食のために二人の部屋を出ていった。
近衛はベッドの中で七転八倒したのち、あきらめて身を起こす。
朝食前に声をかけてくれと頼んだのは自分だ。朝日が少しでも差し込むように寝室のドアを閉めないでくれと頼んだのも。だがこの季節は冷気がさっと入り込んできて、ベッドから出る気力を余計に削ぐ。
同居人は嫌な顔ひとつせずそれを自らの朝の習慣に組み込んだが、それは「近衛を起こす」と同義ではない。頼まれた以上のことは決してしない、機械のような男なのだ。
のろのろと顔を洗って身支度を調える。
どれほど朝が弱くても、部屋を出るときには一分の隙もない姿でなければならない。制服に埃や皺などないのはもちろん、艶やかな黒髪に寝ぐせがついていてもいけないし、希有な青い瞳が曇ったままなのも許されない。幸い、目の下に隈はできていないようだ。姿見の前でタイを直し前髪を指先で整え、笑顔を作った。この笑みが人間関係を左右することもある。
目を覚ますための珈琲を淹れたころ、再び部屋のドアが開いた。
「おはよう」
食堂から戻ってきた吉野が、リビングで珈琲を飲んでいる近衛に憐れむような目を向けてくる。だが朝食抜きを説教されたりはしない。気遣いというよりは、そこまでルームメイトに興味がないだけなのだということはわかっていた。
「久しぶりだな」
「そうか」
吉野は二日前の早朝から泊まりがけの仕事で出ていて、昨日の遅くに帰宅した。近衛が盛り場から帰ってきたのは日付が変わってからだったため、丸三日ほど顔を合わせる機会がなかったことになる。
友人や同僚ならば感じないが、毎朝顔を突き合わせる相手だと「久しぶり」という言葉が出てもおかしくはない。
吉野は向かいのソファに腰かけ、朝刊を広げた。こちらもさほど美味くない珈琲をのんびり味わう。彼が新聞を読んでいるあいだは、近衛もまだ出勤の支度をしなくていいということなのだ。
少しずつ頭が覚めてきて、ゆうべパブで聞いた話を思い出した。
「先週、山櫻出版の社長に呼ばれたって?」
「……ああ」
ちらりと目を上げた彼は、小さくため息をついて新聞をめくる。
「さすがの情報網だな」
「司書が個人の邸宅に呼ばれる理由は、そう多くないからな。中央図書館 の制服を見たと聞けば、察しがつく。それに、あのへんはおまえの担当区域だったと思ってな」
「……それを、おまえはどこかの店で、おしゃべりな使用人あたりから聞き出したと」
「残念、書生だ」
「大して変わらない」
吉野の返しがそっけないのはいつものことだから、気にせず言葉をつづける。
「若手の記者がやられたとか」
「ああ」
「あの屋敷は社長の別荘だと聞いたぞ。自分のところから出した本も、あちこちから集めた資料も山ほどあって、編集部員たちの図書館代わりになっているそうじゃないか」
「よく知ってるな」
本の整理をしているという書生から聞いたのだ。しかし、書生には答えられないこともある。
「だが、本の主はまだ生きているのに、どうして古書に取り込まれたのか、それが謎だ」
古書が人の心を取り込むという事件が発生するようになって、何十年か経つ。本の持ち主が蔵書を管理できなくなったとき……具体的には、持ち主の蔵書票が破れたり剥がれたりして他人の手に渡ったとき、本は人に襲いかかるのだという。
持ち主がまだ手放していないはずの本を開いても、事故が起きることはない。今回の件で納得できなかったのはその点だった。
吉野は新聞から顔を上げずに答えた。
「今おまえが言ったとおりだよ。方々から集めた資料の中に、破れた蔵書票の貼られた古書がまぎれ込んでいた。それを、調べ物をしていた記者が偶然開いてしまった」
「なるほど……持ち主不明の本というわけか」
話しているうちに思い出してきたのか、吉野は感心したような口調でつけ加えた。
「さすが出版社……本に関わる仕事をしているだけあって、連絡は早かったな。いつもあれくらいだと助かるんだが」
問題のある本、通称危険図書を手にした人間はその場で昏倒する。だが傍目にはただ眠っているようにしか見えない。実際、眠っているのだ。本という夢の中で。本は被害者自身の夢に入り込むため、現実から消えてしまう。昏睡の原因が古書だとだれも気づかない場合は中央図書館 に連絡が来ないまま、眠りつづけて衰弱死する以外の結末はない。
「未だに都市伝説だと思われている節があるからな。ゆうべ話した書生も、現実にある恐怖なのだと今さら怯えていた」
そもそも「蔵書票が貼られた古書」自体に遭遇する市民がさほど多くないためか、週に一度以上は発生している事故にも関わらず、周知が進んでいない。知識人や富裕層でも「信じていない」者はいる。もう半世紀も前から、中央図書館 には専門の部署があるというのにだ。
「限定的な事故といえばそうだし、中央図書館 の広報にも限界がある」
そして広報は自分の仕事ではない、とばかりに吉野は新聞をたたんで立ち上がる。
彼が自室から持ってきた鞄を開けるのを、近衛は横目で眺めていた。
中央図書館 に寄らず出張先から帰ってきたため、司書の仕事道具もそのまま持ち帰ったらしい。彼は小型のそのトランクを開け、中身の点検を始めた。
司書専用の銃、そしてケースに並んだ二色の弾丸。危険図書をあつかうための手袋、本の中を歩き回るときのコンパスとなる腕時計と色眼鏡。回収した本を保護する布袋、本の危険性を無効化するための蔵書票。
それらが決められた場所に全て収められ、現場ですぐ使えるようになっている。
「何度確認するんだ」
呆れた声で問いかけるが、吉野は顔を上げない。
「いつどこで道具のひとつやふたつ、紛失しないとも限らない……というのが、室長の安全管理方針でね。移動の前に必ず鞄の中身を再確認することが義務づけられている」
昨日も駅から寄り道もせず寮へまっすぐ帰っただろうに、なんという手間か。同室の自分まで疑われているようで、釈然としない方針だった。
「律儀に従わなくてもいいんじゃないか」
目を伏せたまま、吉野はなぜか楽しそうに口の端を上げた。
「手順を省いたことがばれると、室長お得意の小言を食らう。忘れ物なんかしようものなら、文房具ひとつでも始末書を書かされる」
聞くだけでもうんざりする。
吉野が所属している古書管理閲覧室といえば、花形であると同時に激務の部署でもあった。
「つくづく、司書にならなくてよかったよ」
学年は異なるが、近衛も吉野と同じ専門学院に通い、司書の国家資格は取得している。近衛は図書館への配属を希望しなかった。彼と相部屋になったのは偶然だが、横で見ていると想像以上にたいへんな仕事だ。
道具の点検が終わってコートに袖を通した彼は、ポケットにペーパーバックを突っ込もうとする。近衛はふとその表紙に目を留めた。
「おまえ、その本……」
「ああ、昨日買った。読むか?」
「まさか」
重度の活字中毒であるらしい吉野は、仕事とは関係なく、常になにかしらの本を持ち歩いていた。小説、随筆、詩集、旅行記、学術書……分野にこれといったこだわりはないらしい。彼と本という取り合わせがあまりになじみすぎて、普段はほとんど意識もしないのだが。
著者名の『近衛雪路』を睨みつけながら、近衛は肩をすくめる。
「専門的すぎて意味がわからないだろう、漢籍の研究書なんて……」
「そうでもない。よく配慮された解説書だよ。平易な言葉を選んで書かれている」
吉野は笑ってその本をポケットにしまい込んだ。
「兄にそう伝えておく」
いくらなんでも読むとはいえ、その本を選んだのは近衛の兄が書いたものだからだろう。彼でなければ嫌味かと思うところだが、この男にそこまでの気は回らないのも事実なのだ。
帽子を取って、一言つけ加える言葉にも、決して他意はない。
「昇進したんだろ。遅刻の数は少ないほうがいいぞ、近衛主任」
中央公文書館の文書管理室主任、それが今の近衛の立場だった。副主任から一段上がったのはつい先月のことだ。
「どうせお飾りだよ」
三十になる前の若造が、普通のルートで主任になどなれるはずがない。近衛が公文書館に入ったときから決まっていたことであり、それは近衛の勤勉さや努力などは全く反映されない。
吉野は返事の代わりに肩をすくめただけで、一足先に出勤していった。
珈琲のカップを空にして立ち上がり、ふと吉野がテーブルの上に置いていった新聞に目を落とす。
――幽霊(ゴースト)、三度現る…
「また出たのか……」
ゴシップ紙ではないから派手な見出しはないが、それでも一面を飾るのはセンセーショナルな文言で、それだけ衝撃的な事件ということだ。
先日、相次いで二人の作家が殺された。全く同じ手口で、現場には『I am GHOST(私は幽霊)』というメッセージカードが添えてあったという。同一犯であることは明白で「幽霊による殺人」として世間を騒然とさせた。そしてついに三人目の犠牲者が出たことにより、それがいつ終わるとも知れない「連続殺人事件」であることが確定した。さまざまな憶測が飛んでいるが、現時点では犯人の目星もついていないらしい。
「まあ、作家でもない一市民には関係ないか……」
時計を見上げた近衛は、あわててコートと帽子を掴んで吉野の後を追った。
中央公文書館は、中央図書館 と肩を並べている。つまり、乗るバスもルームメイトと同じということだ。
「おはようございます、近衛主任」
朝からにこりともせず近衛の前に立ちはだかるのは、主任補佐官の冬馬。
部下の中では最も若いが、それでも近衛より二十ほども年上で、補佐官とは名ばかりの「お目付役」だった。
ただでさえベテランぞろい……といえば聞こえがいいが、要は年寄りしかいない文書管理室の職員たちは、主任たる近衛の存在を文書一枚ほども重要だとは思っていない。その年寄りたちとお飾りの主任を仲介するのが、この男の役目でもある。
ならば彼が主任になればよいのに、と近衛は常々思っているが、いちおうの礼儀として口に出すことは慎んでいる。
「さっそく、本日の業務をご確認いただいてもよろしいでしょうか」
少しも敬意の感じられない慇懃な態度にうんざりしながら、自席に腰を下ろした。
「よろしくお願いしますよ、できれば手短に」
「昨日、主任が早めに退勤されたおかげで先延ばしにされた件を本日手短に処理していただければ、ご希望に添えるかもしれません」
「……………」
言い返す気もなくなって、無言で手を差し出し彼を促す。冬馬は眼鏡を押し上げ、今日の……正しくは昨日からの業務を読み上げはじめた。
「まず昨日中断された、法務省からの昨年度裁判記録の受け入れ確認につきまして、全件への承認を今日中にお願いいたします」
「ええ、あと三分の一程度ですか」
「残りは全体の四割ほどです」
文書管理室の業務は、中央公文書館で管理する全ての公文書を、国や自治体の各所から受け入れ精査分類すること。一般開示の是非、保存期間や保存場所などを熟練の公文書士たちが判断する。
「つづいて、来月閉鎖される公立資料館からの資料移管作業ですが、保存状態がよくない文書も多いため、修復室との打ち合わせが必要になります。十三時から会議の予定を入れておきました。それまでに、移管リストに目を通しておいていただけますか」
人口減少によってゆるやかに衰退していく「黄昏の時代」と呼ばれる現代において、その営みの証拠を残す公文書館の仕事は、むしろ増加している。住人がいなくなり町がひとつ消滅すれば、その役場や公的機関で管理されていた資料は、首都の中央公文書館に移管される。
公文書は日々あらゆる機関で増えていく。当然全てを残すことはできない。適切な保存期間と重要度に従って、厳密に振り分けていく必要がある。
古書が人を襲うようになってから中央図書館 の役割が大きく変わったため、図書館から移管されてきた歴史的資料も多い。仕事は日々山積みだ。
「また、今週末が期限の書類をこちらにまとめてありますので、早めのご確認をお願いいたします」
実際、冬馬の仕事は的確で周到だった。
どちらかといえば職人気質で黙々と仕事をこなす管理室の公文書士たちを相手に、各自の状況に応じて担当を割り振っている。他部署との折衝なども迅速で無駄がない。主任の近衛に対しては、常に業務の全体を把握させようと報告を怠らない。
こちらがやる気になれば、の話だが。怠惰な上司にとっては、有能な部下は存在自体が嫌味でしかない。 どうにも先延ばしができないようだと見てとり、ひとまず昨日のつづきからはじめようと書類の詰まった箱に手を伸ばす。
「……冬馬補佐官、仕事の前に珈琲を一杯飲んできてもいいかな?」
「その箱の中身をまず十件処理されましたら、わたしが淹れてまいりましょう」
まったく、いやになるほど周到なのだ。
(本文より抜粋)
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