桐沢ふき(はつしま)

shipper。はつしま@hatsushima1です。
カーサーちゃんと韓国ドラマ映画よろず
オフラインの名前は桐沢ふきです。
最近K2の譲テツにはまりました。

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投稿日:2022年05月28日 22:31    文字数:9,854

Let's have lunch?

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怪物。ジュウォンくんとドンシクさんの海辺のデート。

タイトルはSherlockS2-1の有名な台詞から。イギリス育ちであんこが苦手なジュウォンくん(ドンシクさんと半分こなら)「鯉焼きも食べます。」

※ベッター再録です。
素敵表紙はこちらからお借りしました。>>> 
https://www.pixiv.net/artworks/92029961
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Let's have lunch?

忙しく人が行き交う市場の中を歩きながら、ハン・ジュウォンは、どこかで休憩を申し出るべきだと半ば真剣に考え始めていた。
ベンチに座ってジュウォンの身体を彼の身体に預ける。あるいは逆でもいい。互いの家では簡単に出来ることが、外では難しい。
行き慣れていない場所というのは、なぜこうも疲弊してしまうのか。その理由のひとつは、この不自由さにある。
とはいえ、全く楽しいことがないわけではない。イ・ドンシクは、優しい顔をして値切るのが得意だった。値切ると言っても、二つ買うので単価を下げる形での「安くしてくれ」という話で、交渉が成功するたびにジュウォンが手首で支える荷物は倍になり、どんどん重くなる。
恋人の真剣かつ美しい横顔に、ロケーションがこの市場でなければ良かった、という率直な感想を胸に抱き、ジュウォンは、マニャンの葦原よりはずっと狭いはずの魚市場の中をドンシクについて歩いた。

週末は市場で新鮮な魚を食べましょう。
明らかに作り笑顔めいた完璧な表情でデートへといざなう恋人に、若干の不信感を感じなかったと言えばうそになる。しかも、苦手とするビデオ通話のアプリを使っての誘いだとすれば尚のこと。
三週間ぶりに丸一日半取れた休暇だった。その貴重な日に恋人に連れ出された先でジュウォンが見たのは、ユ・ジェイと、オ・ジファ、彼女の弟と、他マニャン派出所の誰彼、総勢十名から言い付かったおつかいに奔走する恋人の姿だったというわけだ。手にしているのは、港に停泊中の船乗りが買い出しに来たかと思うような長いリストである。マニャンスーパーが閉店して皆不便をかこっているようで、というドンシクの言い訳に、ジュウォンの内心で吹き荒れていた瞬間風速三十メートルの強風は半ば収まりはしたが、かといって許容は難しい。
不満を抑えて作った顔で、ここは僕がカードで払います、と言うと、後でガソリン代を上乗せして皆から取り立てるんだから、今日の支払いは全部現金でないと、とドンシクに却下されてしまったので、ジュウォンは、ユ・ジェイさんのための大量の若布と、オ・ジフンの依頼で購入したという乾燥スープの素が入った袋を手首に提げている。
今日のジュウォンが周りにじろじろと見られているのは、デートだと思って張り切ってめかしこんだ姿があまりにもこの生活感あふれる場所にそぐわない様子だからに違いない。そうでなければ哀れに思われているのかもしれなった。湿気を含んで冷たい空気の中、漁港に直結しているせいか、あちこちに小さな水たまりが出来ている市場の床の上を、仕事用とは別に買ったおろしたてのウイングチップでぴちゃぴちゃと音立てて歩きながら、ジュウォンは胸の中で嘆息した。事前にドンシクから、市場の中で大量の買い物を済ませる必要があると聞いていたら、ちゃんと海釣りの装備と人に思わせるようなそれなりのスタイルでこのデートに挑んだはずだ。
思えば、これまでのジュウォンは、ドンシクと釣りに行くたびに、自分には無理だと思うような挑戦を続けて来た。魚の腸を裂いて出てくる臓物、その処理に伴うぬるついた血。調理の過程で回避出来ないと分かっている困難を乗り越え、恋人の好みの味を追求して来た。三枚おろしを経て作るカルパッチョは、今やジュウォンの得意料理だ。今更、市場での買い物ぐらいで怯んではいられない。けれど、頭の隅では、七歳のジュウォンが『それとこれとは別問題だ!』とうるさく騒ぎ立てているのだった。
恋人らしく彼をエスコートしたい、という願望が二の次になっているところを見ると、昨日の睡眠不足が効いているようだ。
視線の先には、ドンシクの伸びた背中が映る。
もしこれがポートベロー辺りにあるマーケットなら、ジュウォンもドンシクの手を掴んでフードエリアに移動してさっさと休憩していただろう。それに比べれば、ここはマニャンと同じくらいドンシクの領域で、水を得た魚のように人と人の間を泳いでいるその勢いを遮ってまで好きに振舞うのは難しい。有線から流れる、購買意欲を掻き立てるでもないポップスを聴きながら、僕がサプライズは苦手ということを知っているのに、あの人はどうして、と胸の中で嘆息する。
すると、さあ、次の店だ、と目星をつけた場所に足を止めて、五杯の烏賊を入れた袋を持って交渉を始めたドンシクの左手に輝く、金色の指輪が目に入った。
やはり目立たないプラチナにすれば良かっただろうか、という考えが頭を過り、本人には何の断りもなく購入を独り決めして――押し付けた風に思えなくもないのだろうか――渡すまでのその経緯を思い出した。
お前の将来のために良かれと思ってパブリックスクールに入れたのだと言うハン・ギファンと自分に何の違いがあるのだろう。ジュウォンの頭の片隅に、そうした後ろ向きな思考がやにわに生まれ出て、ドッと不安に胸が鳴った。ジュウォンは、彼の指輪と対になる指輪を填めた左手を、ぎゅっと握る。
まさか、彼は怒ってはいないだろうと思っていたけれど、このペアリングの件では、恋人と何も話し合っていない。ただあの夜、ドンシクは、受け取ってくださいとジュウォンの差し出した指輪をありがとうございますと受け取ってくれた。セックスの後で渡す、というシチュエーションが何かのツボに入ったらしく、彼は秘密めいた小箱の出現にケタケタと笑ってはいたけれど、蓋を開ければ、綺麗だね、と笑って、ジュウォンの目の前で、指に填めてくれた。ジュウォンは嬉しい気持ちのまま、彼と抱き合って眠った、あの日。
冷静に思い返せば、あの人からは、嬉しいとも、性急だとからかう言葉も、何ひとつ聞いていない。先日のビデオ通話でも、彼の指にはこの指輪がなかった。腹に据えかねたとしても、いや、そうだからこそ、ジュウォンの勝手を嗜めることをせず、こちらの気持ちを尊重してくれている可能性は、ゼロではない。
彼を尊重してこちらが負けることが、ドンシクのジュウォンにとっての勝利なのだと、いつも彼に受け入れられるたびにそう思っているのに、結局、ジュウォンは間違えてしまったのだろうか。
恋人が自分の前で笑っているから大丈夫だ、というはっきりとした確信が未だに持てないのは、ジュウォンの経験値の浅さであり、好いた人への弱みでもあった。
とりあえずは、昼食のことを考えよう、と自分の心を落ち着かせることは難しく、支払いを終えて、そのたびにどんどんと目の前から遠ざかっていくように思えるドンシクを呼び止めるため、ジュウォンは彼の名を呼んでみた。
「ドンシクさん。」
「はい。」
見栄えの悪いビニール袋を手首から下げたジュウォンの恋人は、例の長々と書かれた買い物リストを片手に振り返る。
振り返った恋人は、ジュウォンが太刀打ちできないと思うほどに、生き生きとした顔をしていた。
この人は、本当に、人と交わることが好きな人なのだ。
そんな人が、どうしてジュウォンを選んでくれたのか、そんな疑問も、彼の笑顔を見ていると霧消してしまう。
近寄って、彼の隣に立ったときにジュウォンの口から出たのは、「これって、デートなんでしょうか。」という質問だった。
ドンシクは、辺りをきょろきょろと見渡してから顔を近づけ「惚れ合ってるふたりが一緒に出掛けるんだから、デートでしょ。」と何でもないことのように言った。
恋人になる前から、この人はずっとそうだった。内緒話めいた、距離感のない近接戦を好む。
いつもいつも、そう、ジュウォンは負けないように彼に張り合っているつもりで、ドンシクのペースに巻き込まれているのだった。
ジュウォンは「次の商談が終わったら、あなたと手を繋いでもいいでしょうか?」とドンシクに尋ねると、ドンシクはふ、と唇を緩めて笑った。
「どうして、俺がそれをダメということがある?」
「僕が思うに、僕たちの手にある烏賊と若布が問題なのだと思います。」
ジュウォンが肩を竦めると、それもそうだ、と言ってドンシクは楽しそうに笑った。
「いいね。ただ、まだ買い物があるんだけど、……どうする?」
「ドンシクさんの分も、僕が持てば解決すると思いますが。クーラーボックスを買ってもいいです。」
若布の袋の手を持ち替えて彼に手を伸ばすと、ドンシクは、まだいいから、と言った。
近すぎる距離に、キスをしたい、とジュウォンは思い、彼に顔を近づけた。目と目を合わせ、触れるか触れないかのところで「あなた、この手の魚介は苦手でしょ。」という彼の答えが返って来て、ジュウォンの頭に微かに残っていた冷静さを思い出させる。
「それに、この先どれだけの荷物になるか分からないのに、クーラーボックスなんか買っても、容量足りなかったら、後で困るよ。」
まだ買い物はこれだけ残ってる、とリストを差し出される。彼の指の下に書かれているのは、購入物の商品名だった。聞きかじった酒の名称が妙に多い。後はつまみだろうか、いくつか、ジュウォンの知らない綴りや知らない単語があったが、ドンシクの言葉を信じるなら、この中に冷蔵品が混ざっているのだろう。道のりが長すぎる、とは思ったが、手分けをして探しましょう、という言葉は意地でも言いたくなかった。
デート、とドンシクさんが言ったからにはデートなのだ。ジュウォンには、彼とふたりきりのこの時間を、楽しむ権利がある。
「ジュウォナ、買い物が面倒なら、先に休憩所で休んでる?」
「嫌です。僕が休憩するなら、隣にあなたもいないと。それがデートというものでしょう?」
余りにも子供っぽい自分の言い様に、ジュウォンは思わず舌打ちしそうになった。
思った通り、こちらの火を噴かんばかりの反論にも、余裕のある年上の恋人からは、そうだね、という頷きと、恋人に向けるには曖昧すぎる視線が返って来ただけだった。
他に人がいなければ、背伸びをしてこちらの髪を撫でていたに違いない。ドンシクからのその視線を見返すのが恥ずかしくて、ジュウォンは顔を上げた。
少し外した視線の先には、広い市場の隅にあるトイレの場所を指示した標識があり、その隣に、冷蔵庫も兼ねた温度設定付きのロッカーが見えた。百貨店の食品売り場で良く見るような形式のロッカーだ。ドンシクさん、とジュウォンはふたたび恋人に呼びかける。「荷物はあそこに入れて、一旦外に出て休憩しましょう。」
この時期の市場の外には毎日、ジェラートの店が出ているはずだった。お勧めは塩ミルク。漁港近くに移動すれば、立ち食いおでんの屋台もある。入れ替わり立ち替わり客が往来する中で、蓋はずっとオープンにしておくという昔ながらの方法を取る店だ。調理後の作り置きをせず、作ってすぐに食すことを一番の規律にしているジュウォンからすれば言語道断のロケーションだが、この人はこういうのが好きなのだ。
一緒に行きませんか、と彼に勧めると、ドンシクはその提案に、そんなに言うなら、と破顔して、両手の荷物をジュウォンに差し出し、手にしたリストをきっちりと折りたたんでからジャケットのポケットに仕舞い込んだ。
差し出したばかりの荷物をありがと、という言葉で手元に戻そうとするドンシクに「このまま持ってます。」とジュウォンは言った。
「じゃあ、少しだけこうやって歩こうか。」
ドンシクはジュウォンの隣に並び、空いた手を伸ばして小指同士を繋いだ。あの、と声を掛けると、静かにね、と言いたげな彼の茶目っ気のある目と、目があった。
ジュウォンは唇を結んだまま、彼と一緒に、市場の隅に歩いていく。狭いロッカーの中に荷物を押し込んでいくと、すぐに買い付けの品――敢えて手土産とは言うまい――でパンパンになった。
これで肩が軽くなった、と笑顔になったドンシクとジュウォンは、並んで観光客がまばらに行き交う市場の外に出た。
生憎の曇り空で、サングラスを掛ける理由がない。
海は目の前で、石の階段があるその向こうには、砂浜をそぞろ歩きする家族連れやカップルの姿が見える。無難に間食にしましょうか、とドンシクが歩いて行った先には、ホットックのキッチンカーがあった。とにかくおやつは果物以外ならなんでもいいと、個人教授の合間に冷えたホットックを温め直して、こういうのは本来、買ってすぐ食べるのがいいんだ、と大して美味そうでもなく食べていたヒョクの顔が思い浮かんだ。
ジュウォンは、彼の横で出入りの家政婦が準備しておいたコーヒーを飲んでいた。紅茶と違い、舌に馴染みのない味を、悪くはないと己に言い聞かせながら飲んでから、やっと一人になったときには小遣いで買ったウバを入れ直していた。あれは、もう十年も前のことだろうか。
ジュウォンは、人生に安寧を齎すであろう自由と規律の日々を奪った父への個人的な復讐心を抱えていたとはいえ、苦い思い出の他にはさしたる懐かしさもないマニャンに戻ることなど、ちらとも考えていなかった。
「食事は俺が奢るからここはジュウォニが奢ってよ。お勧めは、シナモンの蜂蜜掛けかチーズ入りかな。どっちがいい?」
何度か来ている店なのだろうか、看板を見て、ドンシクが尋ねて来る。
キッチンカーの中から顔を出した初老の男女は共白髪で、にこにことこちらを見ている。
どうも、いくつもあるこれらの選択肢の中で、冒険的なものを勧められているような気がする。
チーズは、駄目だ。フランス製に限るとスノッブらしくこだわるつもりはないとはいえ、帰国後にジュウォンが接したチーズ味の何かとは、すべからくチーズに寄せた合成樹脂を食べさせられているに等しい味付けのものだったからだ。
「他にはないんですか?」とジュウォンは首を傾げた。
「キムチと肉入りも美味いけど。」と言う陽気なドンシクの答えに対して、店主は手を横に振っている。
まさか、店主自ら、美味しくないということもないだろうと不思議に思いながら、ジュウォンはドンシクに向き直り「却下します。一番プレーンそうなものは?」と尋ね直す。
「チーズが嫌なら、小豆かチョコレートが無難。あなたは…そういえば甘い豆が苦手なんだよね。」というドンシクの苦笑したような顔に、ジュウォンは頷く。長年の習慣で豆とはスープに入れるものという意識の強いジュウォンは、甘い豆が食べられなくもないが、好きではなかった。
「チョコレートでお願いします。」
店主に向かってドンシクが「決まったよ。」と言うと、キッチンカーの中で様子を伺っていた髭の店主は、真新しいタブレットを差し出した。ジュウォンも横から覗き込むと、メニューにある選択肢が並んでおり、キムチと肉入りのホットックには『本日売り切れ』と記入してあった。先ほどの手ぶりの意味はこれか、と思い当たる。精算ボタンの横には、本日は店員休暇につき、店主夫婦の対応でご不便おかけします、と書かれている。
ドンシクは、チョコレートひとつ、チーズひとつ、とタッチペンで選択して戻した後で、店主に向かって手を動かしている。ドンシクの動きに店主が頷き、パッケージ用の紙袋を手に保温用のケースに入ったホットックをトングで取っている。ドンシクはその間、彼の隣に居るパートナーと向き合って、滑舌の悪い様子で『ありがとうございます。』と彼女が伝える合間に、合いの手を入れるように手を動かしている。その動きは、手話に違いなかった。ドンシクはその指先の動きひとつひとつに注意を向けて、口話と手話交じりで話している。ジュウォンの記憶にある手話は英語話者のための身振りに限り、アルファベットと挨拶、簡単な単語の他はすっかり忘れてしまったため、ハングルをベースにした手話は、ほとんど読み取れない。それでも、彼らがドンシクの伝えたメニューを確認する以上の話をしていることは、なんとなく分った。
「ワンプラスワンにしようかって言われたけど。」どうする、とドンシクの眼に浮かぶ明るい問いかけの色にジュウォンは逆らえない。
「これから昼食を食べるので。でも飲み物はください。コーヒーをふたつ追加で。」とジュウォンは大きな口を開けて言った。発音からの学び直しをしてから十五年は経っている。今の舌遣いで伝わるだろうか、と思ったが、ふたりとも大きく頷いており、女性の方がドンシクに向かって早い身振りで何かを伝えようとしているようだ。
「ジュウォナ、支払い、カードでも出来るって。どうする?」
「手持ちはあります。それに現金の方が、店でも都合がいいのでは?」
「流石、良く分かってるね。」
ジュウォンが財布を取り出して支払いをする間に、ドンシクが二人前のホットックと紙コップ入りのコーヒーを受け取っている。女性の店主は、ドンシクの左手にあるゴールドの指輪を目ざとく見つけ、指をさし、自分の左手を差し出した。その指にも似たような純金か金メッキかは分からないが、美しい指輪が嵌っている。
ジュウォンを指さして、手話で答えている。何を言われているのか分からないのが居心地が悪いが、共に、ずっとにこにこと掛け合いをしており、男性の店主もまた、ジュウォンとドンシクを見守っているので、こちらに聞かれて不味いことは話していないのだろう、と推察した。
「こっちの道から海辺に行くと階段とベンチがあるってさ。行こうか。」とドンシクが指を差す。道を聞いていたのだろうか。
肩を並べ、いくつかの屋台を横目に暫く歩いていくうちに、波音と水平線が近づいてきて、空にも晴れ間が見えるようになった。
ふたりで、波打ち際を見渡すコンクリートブロックの上に立つ。
海に光が差すと、そこだけが鮮やかな青になるのが、ジュウォンには不思議だった。
テレビやインターネットなどでは、よくエメラルドグリーンの海やスカイブルーの海にお目に掛かるけれど、これまでの人生で縁があったのは、どんよりとした雲に覆われた、灰色の水面ばかりだった。
波の音が高く、吹く風には汐の香が混じる。
冷たい風を弾劾するように、鴎の声がして、それを煩いと思わない自分が不思議だった。
ベンチに座ってまだ暖かいホットックを食べると、ジュウォンは奇妙に安心した。
驚くほど美味いとは思わないが、悪くはないと感じた。
初めてラム肉を食べたときのような気持ちだ。
自分もこういうものを食べて育ってきていたら何かが違っただろうか。そんな風に思いながら、隣のドンシクを見ると、彼は、安い食べ物も悪くないだろ、と言わんばかりの顔で、ジュウォンに向けてにやっと笑った。
後で、階段を下りて浜辺を歩こうか、とドンシクが独り言のように言うので、ジュウォンも、そうしましょう、と言いながらコーヒーを啜った。時間の流れが奇妙にゆったりとしていて、自分でも驚くほどだった。
ドンシクは、ホットックを食べながら、左手を顔の上に掲げた。
彼の指輪は、日に翳すときらきらと光る。
「ドンシクさん。」
「うん?」
「さっきは店の方とお二人で、何を話してたんですか?」というジュウォンの質問に、ドンシクはえ、と声を上げた。ためらうような口ぶりで、「……分かって見てたんじゃないの?」とジュウォンに尋ねて来る。
「あなたはずっと落ち着いていたし、隣で何にも言わないから、俺はてっきりどこかで手話を学んでたのかと。」
ジュウォンがドンシクに「僕が分かるのは、英語話者の手話なので。単語でいくらか分かるものもありますが、習ったものとは全く違います。」と伝えると、年上の恋人は、ああと言って「あなた、全然照れてないから、ちょっとおかしいと思ってた。」と頭を掻いた。
なるほど、と一言、水平線に視線を戻して、ふう、と大きく息を吐いた。
「大した話はしていないよ。この指輪はあなたから貰ったもので、嬉しかったとか。あなたがハンサムだとか。」
ハンサム。
「……え。あ、はい。ありがとうございます。」
ドンシクの口から出て来た言葉に、ジュウォンは自分でも驚くほどに動揺してしまった。
彼から、こんな風にからかわれることには慣れている。けれど、恋人が顔見知りへと惚気る貴重な瞬間を、こんな風にさらりと見逃してしまっていたとは。
「ありがとうございます、って。それはこっちの台詞でしょ。」
そう来ますか、と言ってドンシクはけらけらと笑っている。
「娘さんがいなくて良かったよ。家で言うならともかく、外でこういうこと声に出すのは、恥ずかしいでしょ。」
娘、というのは今日不在だったという従業員のことだろうか。こうした小さな店舗では、人件費を安く抑えられる家族経営が多いことを、ジュウォンは思い出した。彼女はきっと「口話を選んだ人」なのだろう。
「僕も、今日、ドンシクさんが指輪を付けてくれて嬉しかったです。」
「改まって言うなあ。」と一言。ジュウォンの恋人は口元だけで微かに笑みを浮かべている。
「さっき、ドンシクさんの顔を見るまで、ちょっと不安だったので。指輪を贈るとき、あなたに相談もせずに決めてしまったし、普段付けているとも言ってくれないし、先日のビデオ通話でも、」とジュウォンが畳みかけるように言うと「それ、今言いますか?」とドンシクは、またおかしそうに笑った。
「嬉しかったし、気に入ってるからね。なるべく失くさないようにしたいし、重いから本物だと思うけど、メッキだとしたら傷つけたくない。あの日は、電話に出る前に丁度皿洗ってたから外してただけ。あなたみたいにゴム手袋でもすればいいんだろうけどね。」
ジュウォンは、彼の言葉に胸を撫で下ろし、良かったです、と呟いた。
「それにさ、いいもんだよね。」
「?」
「食い物以外のものを誰かから貰うのって。」とドンシクはコーヒーを啜る合間に呟く。「長いこと忘れてたけど、ジファから中古の参考書を貰って以来だな。俺が警官になる前の話だよ。いや、……そういえば、ミンジョンからもビーズの腕輪やら折り紙の花を貰ったこともあったけど、あれは、まあカウントしていいのか分からないし。」
あれは、俺が貰っていいものだったのか、と小声でドンシクは付け加え、自分で口にしたくせに、途端に所在なさそうな顔をしている。
仕方のない人だ、とジュウォンは思う。そもそも、ビーズの腕輪の後も、ジュウォンの指輪の前に、ナム・サンベ署長からの家の寄贈があった。まあ、彼本人がそれを、「嬉しかった」プレゼントの中にはカウントしていないのだとすれば、ジュウォンもそれを指摘することは出来なかった。
長いこと忘れてたけど、という彼の言葉には、過去への追憶が込められていて、その返事にジュウォンは胸が突かれてしまう。
本来ならここは、ユヨンの席であり、ミンジョンの席だった。
彼の隣にいるのが自分でいいのだろうか。そう思っていた。ただ、今、このとき、彼の隣に居て、時間を共にしているのは、ジュウォンだ。
「喜んでいいのだと、僕は思います。あなたへ贈られて、あなたが受け取ったものなら。それを彼女たちも、」望んでいる、と付け加えようとして、言葉を詰まらせたジュウォンに、ドンシクは驚いたような顔を見せた。
「プレゼントを貰ったのは俺の方なのに、なんであなたが泣いてるんですか。」
泣かないで。
そう言って、彼は、ジュウォンの頬を撫でた。
頬を濡らす水は、涙なのだろうか。
正面にいる彼の顔が、ぼやけて見える。
「あなたの勧めてくれたホットックが美味しかったせいです。」とジュウォンが言うと、ドンシクは、寂しそうなあの微笑を唇に浮かべたまま、そうだね、と頷く。
そうして、一息入れた後に、ポケットから刺しゅう入りのハンカチを取り出したジュウォンを見て、また笑った。
あなたが泣き止んだら食事にしよう、という声を聞きながら、ジュウォンは瞼に白いハンカチを押し当てた。いい風だ、というドンシクの声。それに続いて、腹が鳴る音が大きく聞こえてくる。ふふ、とジュウォンが笑うと、ドンシクも声を上げて笑った。
ジュウォンを笑わせるのが得意な恋人は「そろそろ行こうか。」と隣で伸びをしている。
「ええ。」とジュウォンは頷く。
「ムードのないおじさんで悪いね。」とからかうようなドンシクの言葉に「それでも僕はあなたが良いです。」と答えて、ジュウォンはゆっくりと、海辺のベンチから立ち上がった。

 
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忙しく人が行き交う市場の中を歩きながら、ハン・ジュウォンは、どこかで休憩を申し出るべきだと半ば真剣に考え始めていた。
ベンチに座ってジュウォンの身体を彼の身体に預ける。あるいは逆でもいい。互いの家では簡単に出来ることが、外では難しい。
行き慣れていない場所というのは、なぜこうも疲弊してしまうのか。その理由のひとつは、この不自由さにある。
とはいえ、全く楽しいことがないわけではない。イ・ドンシクは、優しい顔をして値切るのが得意だった。値切ると言っても、二つ買うので単価を下げる形での「安くしてくれ」という話で、交渉が成功するたびにジュウォンが手首で支える荷物は倍になり、どんどん重くなる。
恋人の真剣かつ美しい横顔に、ロケーションがこの市場でなければ良かった、という率直な感想を胸に抱き、ジュウォンは、マニャンの葦原よりはずっと狭いはずの魚市場の中をドンシクについて歩いた。

週末は市場で新鮮な魚を食べましょう。
明らかに作り笑顔めいた完璧な表情でデートへといざなう恋人に、若干の不信感を感じなかったと言えばうそになる。しかも、苦手とするビデオ通話のアプリを使っての誘いだとすれば尚のこと。
三週間ぶりに丸一日半取れた休暇だった。その貴重な日に恋人に連れ出された先でジュウォンが見たのは、ユ・ジェイと、オ・ジファ、彼女の弟と、他マニャン派出所の誰彼、総勢十名から言い付かったおつかいに奔走する恋人の姿だったというわけだ。手にしているのは、港に停泊中の船乗りが買い出しに来たかと思うような長いリストである。マニャンスーパーが閉店して皆不便をかこっているようで、というドンシクの言い訳に、ジュウォンの内心で吹き荒れていた瞬間風速三十メートルの強風は半ば収まりはしたが、かといって許容は難しい。
不満を抑えて作った顔で、ここは僕がカードで払います、と言うと、後でガソリン代を上乗せして皆から取り立てるんだから、今日の支払いは全部現金でないと、とドンシクに却下されてしまったので、ジュウォンは、ユ・ジェイさんのための大量の若布と、オ・ジフンの依頼で購入したという乾燥スープの素が入った袋を手首に提げている。
今日のジュウォンが周りにじろじろと見られているのは、デートだと思って張り切ってめかしこんだ姿があまりにもこの生活感あふれる場所にそぐわない様子だからに違いない。そうでなければ哀れに思われているのかもしれなった。湿気を含んで冷たい空気の中、漁港に直結しているせいか、あちこちに小さな水たまりが出来ている市場の床の上を、仕事用とは別に買ったおろしたてのウイングチップでぴちゃぴちゃと音立てて歩きながら、ジュウォンは胸の中で嘆息した。事前にドンシクから、市場の中で大量の買い物を済ませる必要があると聞いていたら、ちゃんと海釣りの装備と人に思わせるようなそれなりのスタイルでこのデートに挑んだはずだ。
思えば、これまでのジュウォンは、ドンシクと釣りに行くたびに、自分には無理だと思うような挑戦を続けて来た。魚の腸を裂いて出てくる臓物、その処理に伴うぬるついた血。調理の過程で回避出来ないと分かっている困難を乗り越え、恋人の好みの味を追求して来た。三枚おろしを経て作るカルパッチョは、今やジュウォンの得意料理だ。今更、市場での買い物ぐらいで怯んではいられない。けれど、頭の隅では、七歳のジュウォンが『それとこれとは別問題だ!』とうるさく騒ぎ立てているのだった。
恋人らしく彼をエスコートしたい、という願望が二の次になっているところを見ると、昨日の睡眠不足が効いているようだ。
視線の先には、ドンシクの伸びた背中が映る。
もしこれがポートベロー辺りにあるマーケットなら、ジュウォンもドンシクの手を掴んでフードエリアに移動してさっさと休憩していただろう。それに比べれば、ここはマニャンと同じくらいドンシクの領域で、水を得た魚のように人と人の間を泳いでいるその勢いを遮ってまで好きに振舞うのは難しい。有線から流れる、購買意欲を掻き立てるでもないポップスを聴きながら、僕がサプライズは苦手ということを知っているのに、あの人はどうして、と胸の中で嘆息する。
すると、さあ、次の店だ、と目星をつけた場所に足を止めて、五杯の烏賊を入れた袋を持って交渉を始めたドンシクの左手に輝く、金色の指輪が目に入った。
やはり目立たないプラチナにすれば良かっただろうか、という考えが頭を過り、本人には何の断りもなく購入を独り決めして――押し付けた風に思えなくもないのだろうか――渡すまでのその経緯を思い出した。
お前の将来のために良かれと思ってパブリックスクールに入れたのだと言うハン・ギファンと自分に何の違いがあるのだろう。ジュウォンの頭の片隅に、そうした後ろ向きな思考がやにわに生まれ出て、ドッと不安に胸が鳴った。ジュウォンは、彼の指輪と対になる指輪を填めた左手を、ぎゅっと握る。
まさか、彼は怒ってはいないだろうと思っていたけれど、このペアリングの件では、恋人と何も話し合っていない。ただあの夜、ドンシクは、受け取ってくださいとジュウォンの差し出した指輪をありがとうございますと受け取ってくれた。セックスの後で渡す、というシチュエーションが何かのツボに入ったらしく、彼は秘密めいた小箱の出現にケタケタと笑ってはいたけれど、蓋を開ければ、綺麗だね、と笑って、ジュウォンの目の前で、指に填めてくれた。ジュウォンは嬉しい気持ちのまま、彼と抱き合って眠った、あの日。
冷静に思い返せば、あの人からは、嬉しいとも、性急だとからかう言葉も、何ひとつ聞いていない。先日のビデオ通話でも、彼の指にはこの指輪がなかった。腹に据えかねたとしても、いや、そうだからこそ、ジュウォンの勝手を嗜めることをせず、こちらの気持ちを尊重してくれている可能性は、ゼロではない。
彼を尊重してこちらが負けることが、ドンシクのジュウォンにとっての勝利なのだと、いつも彼に受け入れられるたびにそう思っているのに、結局、ジュウォンは間違えてしまったのだろうか。
恋人が自分の前で笑っているから大丈夫だ、というはっきりとした確信が未だに持てないのは、ジュウォンの経験値の浅さであり、好いた人への弱みでもあった。
とりあえずは、昼食のことを考えよう、と自分の心を落ち着かせることは難しく、支払いを終えて、そのたびにどんどんと目の前から遠ざかっていくように思えるドンシクを呼び止めるため、ジュウォンは彼の名を呼んでみた。
「ドンシクさん。」
「はい。」
見栄えの悪いビニール袋を手首から下げたジュウォンの恋人は、例の長々と書かれた買い物リストを片手に振り返る。
振り返った恋人は、ジュウォンが太刀打ちできないと思うほどに、生き生きとした顔をしていた。
この人は、本当に、人と交わることが好きな人なのだ。
そんな人が、どうしてジュウォンを選んでくれたのか、そんな疑問も、彼の笑顔を見ていると霧消してしまう。
近寄って、彼の隣に立ったときにジュウォンの口から出たのは、「これって、デートなんでしょうか。」という質問だった。
ドンシクは、辺りをきょろきょろと見渡してから顔を近づけ「惚れ合ってるふたりが一緒に出掛けるんだから、デートでしょ。」と何でもないことのように言った。
恋人になる前から、この人はずっとそうだった。内緒話めいた、距離感のない近接戦を好む。
いつもいつも、そう、ジュウォンは負けないように彼に張り合っているつもりで、ドンシクのペースに巻き込まれているのだった。
ジュウォンは「次の商談が終わったら、あなたと手を繋いでもいいでしょうか?」とドンシクに尋ねると、ドンシクはふ、と唇を緩めて笑った。
「どうして、俺がそれをダメということがある?」
「僕が思うに、僕たちの手にある烏賊と若布が問題なのだと思います。」
ジュウォンが肩を竦めると、それもそうだ、と言ってドンシクは楽しそうに笑った。
「いいね。ただ、まだ買い物があるんだけど、……どうする?」
「ドンシクさんの分も、僕が持てば解決すると思いますが。クーラーボックスを買ってもいいです。」
若布の袋の手を持ち替えて彼に手を伸ばすと、ドンシクは、まだいいから、と言った。
近すぎる距離に、キスをしたい、とジュウォンは思い、彼に顔を近づけた。目と目を合わせ、触れるか触れないかのところで「あなた、この手の魚介は苦手でしょ。」という彼の答えが返って来て、ジュウォンの頭に微かに残っていた冷静さを思い出させる。
「それに、この先どれだけの荷物になるか分からないのに、クーラーボックスなんか買っても、容量足りなかったら、後で困るよ。」
まだ買い物はこれだけ残ってる、とリストを差し出される。彼の指の下に書かれているのは、購入物の商品名だった。聞きかじった酒の名称が妙に多い。後はつまみだろうか、いくつか、ジュウォンの知らない綴りや知らない単語があったが、ドンシクの言葉を信じるなら、この中に冷蔵品が混ざっているのだろう。道のりが長すぎる、とは思ったが、手分けをして探しましょう、という言葉は意地でも言いたくなかった。
デート、とドンシクさんが言ったからにはデートなのだ。ジュウォンには、彼とふたりきりのこの時間を、楽しむ権利がある。
「ジュウォナ、買い物が面倒なら、先に休憩所で休んでる?」
「嫌です。僕が休憩するなら、隣にあなたもいないと。それがデートというものでしょう?」
余りにも子供っぽい自分の言い様に、ジュウォンは思わず舌打ちしそうになった。
思った通り、こちらの火を噴かんばかりの反論にも、余裕のある年上の恋人からは、そうだね、という頷きと、恋人に向けるには曖昧すぎる視線が返って来ただけだった。
他に人がいなければ、背伸びをしてこちらの髪を撫でていたに違いない。ドンシクからのその視線を見返すのが恥ずかしくて、ジュウォンは顔を上げた。
少し外した視線の先には、広い市場の隅にあるトイレの場所を指示した標識があり、その隣に、冷蔵庫も兼ねた温度設定付きのロッカーが見えた。百貨店の食品売り場で良く見るような形式のロッカーだ。ドンシクさん、とジュウォンはふたたび恋人に呼びかける。「荷物はあそこに入れて、一旦外に出て休憩しましょう。」
この時期の市場の外には毎日、ジェラートの店が出ているはずだった。お勧めは塩ミルク。漁港近くに移動すれば、立ち食いおでんの屋台もある。入れ替わり立ち替わり客が往来する中で、蓋はずっとオープンにしておくという昔ながらの方法を取る店だ。調理後の作り置きをせず、作ってすぐに食すことを一番の規律にしているジュウォンからすれば言語道断のロケーションだが、この人はこういうのが好きなのだ。
一緒に行きませんか、と彼に勧めると、ドンシクはその提案に、そんなに言うなら、と破顔して、両手の荷物をジュウォンに差し出し、手にしたリストをきっちりと折りたたんでからジャケットのポケットに仕舞い込んだ。
差し出したばかりの荷物をありがと、という言葉で手元に戻そうとするドンシクに「このまま持ってます。」とジュウォンは言った。
「じゃあ、少しだけこうやって歩こうか。」
ドンシクはジュウォンの隣に並び、空いた手を伸ばして小指同士を繋いだ。あの、と声を掛けると、静かにね、と言いたげな彼の茶目っ気のある目と、目があった。
ジュウォンは唇を結んだまま、彼と一緒に、市場の隅に歩いていく。狭いロッカーの中に荷物を押し込んでいくと、すぐに買い付けの品――敢えて手土産とは言うまい――でパンパンになった。
これで肩が軽くなった、と笑顔になったドンシクとジュウォンは、並んで観光客がまばらに行き交う市場の外に出た。
生憎の曇り空で、サングラスを掛ける理由がない。
海は目の前で、石の階段があるその向こうには、砂浜をそぞろ歩きする家族連れやカップルの姿が見える。無難に間食にしましょうか、とドンシクが歩いて行った先には、ホットックのキッチンカーがあった。とにかくおやつは果物以外ならなんでもいいと、個人教授の合間に冷えたホットックを温め直して、こういうのは本来、買ってすぐ食べるのがいいんだ、と大して美味そうでもなく食べていたヒョクの顔が思い浮かんだ。
ジュウォンは、彼の横で出入りの家政婦が準備しておいたコーヒーを飲んでいた。紅茶と違い、舌に馴染みのない味を、悪くはないと己に言い聞かせながら飲んでから、やっと一人になったときには小遣いで買ったウバを入れ直していた。あれは、もう十年も前のことだろうか。
ジュウォンは、人生に安寧を齎すであろう自由と規律の日々を奪った父への個人的な復讐心を抱えていたとはいえ、苦い思い出の他にはさしたる懐かしさもないマニャンに戻ることなど、ちらとも考えていなかった。
「食事は俺が奢るからここはジュウォニが奢ってよ。お勧めは、シナモンの蜂蜜掛けかチーズ入りかな。どっちがいい?」
何度か来ている店なのだろうか、看板を見て、ドンシクが尋ねて来る。
キッチンカーの中から顔を出した初老の男女は共白髪で、にこにことこちらを見ている。
どうも、いくつもあるこれらの選択肢の中で、冒険的なものを勧められているような気がする。
チーズは、駄目だ。フランス製に限るとスノッブらしくこだわるつもりはないとはいえ、帰国後にジュウォンが接したチーズ味の何かとは、すべからくチーズに寄せた合成樹脂を食べさせられているに等しい味付けのものだったからだ。
「他にはないんですか?」とジュウォンは首を傾げた。
「キムチと肉入りも美味いけど。」と言う陽気なドンシクの答えに対して、店主は手を横に振っている。
まさか、店主自ら、美味しくないということもないだろうと不思議に思いながら、ジュウォンはドンシクに向き直り「却下します。一番プレーンそうなものは?」と尋ね直す。
「チーズが嫌なら、小豆かチョコレートが無難。あなたは…そういえば甘い豆が苦手なんだよね。」というドンシクの苦笑したような顔に、ジュウォンは頷く。長年の習慣で豆とはスープに入れるものという意識の強いジュウォンは、甘い豆が食べられなくもないが、好きではなかった。
「チョコレートでお願いします。」
店主に向かってドンシクが「決まったよ。」と言うと、キッチンカーの中で様子を伺っていた髭の店主は、真新しいタブレットを差し出した。ジュウォンも横から覗き込むと、メニューにある選択肢が並んでおり、キムチと肉入りのホットックには『本日売り切れ』と記入してあった。先ほどの手ぶりの意味はこれか、と思い当たる。精算ボタンの横には、本日は店員休暇につき、店主夫婦の対応でご不便おかけします、と書かれている。
ドンシクは、チョコレートひとつ、チーズひとつ、とタッチペンで選択して戻した後で、店主に向かって手を動かしている。ドンシクの動きに店主が頷き、パッケージ用の紙袋を手に保温用のケースに入ったホットックをトングで取っている。ドンシクはその間、彼の隣に居るパートナーと向き合って、滑舌の悪い様子で『ありがとうございます。』と彼女が伝える合間に、合いの手を入れるように手を動かしている。その動きは、手話に違いなかった。ドンシクはその指先の動きひとつひとつに注意を向けて、口話と手話交じりで話している。ジュウォンの記憶にある手話は英語話者のための身振りに限り、アルファベットと挨拶、簡単な単語の他はすっかり忘れてしまったため、ハングルをベースにした手話は、ほとんど読み取れない。それでも、彼らがドンシクの伝えたメニューを確認する以上の話をしていることは、なんとなく分った。
「ワンプラスワンにしようかって言われたけど。」どうする、とドンシクの眼に浮かぶ明るい問いかけの色にジュウォンは逆らえない。
「これから昼食を食べるので。でも飲み物はください。コーヒーをふたつ追加で。」とジュウォンは大きな口を開けて言った。発音からの学び直しをしてから十五年は経っている。今の舌遣いで伝わるだろうか、と思ったが、ふたりとも大きく頷いており、女性の方がドンシクに向かって早い身振りで何かを伝えようとしているようだ。
「ジュウォナ、支払い、カードでも出来るって。どうする?」
「手持ちはあります。それに現金の方が、店でも都合がいいのでは?」
「流石、良く分かってるね。」
ジュウォンが財布を取り出して支払いをする間に、ドンシクが二人前のホットックと紙コップ入りのコーヒーを受け取っている。女性の店主は、ドンシクの左手にあるゴールドの指輪を目ざとく見つけ、指をさし、自分の左手を差し出した。その指にも似たような純金か金メッキかは分からないが、美しい指輪が嵌っている。
ジュウォンを指さして、手話で答えている。何を言われているのか分からないのが居心地が悪いが、共に、ずっとにこにこと掛け合いをしており、男性の店主もまた、ジュウォンとドンシクを見守っているので、こちらに聞かれて不味いことは話していないのだろう、と推察した。
「こっちの道から海辺に行くと階段とベンチがあるってさ。行こうか。」とドンシクが指を差す。道を聞いていたのだろうか。
肩を並べ、いくつかの屋台を横目に暫く歩いていくうちに、波音と水平線が近づいてきて、空にも晴れ間が見えるようになった。
ふたりで、波打ち際を見渡すコンクリートブロックの上に立つ。
海に光が差すと、そこだけが鮮やかな青になるのが、ジュウォンには不思議だった。
テレビやインターネットなどでは、よくエメラルドグリーンの海やスカイブルーの海にお目に掛かるけれど、これまでの人生で縁があったのは、どんよりとした雲に覆われた、灰色の水面ばかりだった。
波の音が高く、吹く風には汐の香が混じる。
冷たい風を弾劾するように、鴎の声がして、それを煩いと思わない自分が不思議だった。
ベンチに座ってまだ暖かいホットックを食べると、ジュウォンは奇妙に安心した。
驚くほど美味いとは思わないが、悪くはないと感じた。
初めてラム肉を食べたときのような気持ちだ。
自分もこういうものを食べて育ってきていたら何かが違っただろうか。そんな風に思いながら、隣のドンシクを見ると、彼は、安い食べ物も悪くないだろ、と言わんばかりの顔で、ジュウォンに向けてにやっと笑った。
後で、階段を下りて浜辺を歩こうか、とドンシクが独り言のように言うので、ジュウォンも、そうしましょう、と言いながらコーヒーを啜った。時間の流れが奇妙にゆったりとしていて、自分でも驚くほどだった。
ドンシクは、ホットックを食べながら、左手を顔の上に掲げた。
彼の指輪は、日に翳すときらきらと光る。
「ドンシクさん。」
「うん?」
「さっきは店の方とお二人で、何を話してたんですか?」というジュウォンの質問に、ドンシクはえ、と声を上げた。ためらうような口ぶりで、「……分かって見てたんじゃないの?」とジュウォンに尋ねて来る。
「あなたはずっと落ち着いていたし、隣で何にも言わないから、俺はてっきりどこかで手話を学んでたのかと。」
ジュウォンがドンシクに「僕が分かるのは、英語話者の手話なので。単語でいくらか分かるものもありますが、習ったものとは全く違います。」と伝えると、年上の恋人は、ああと言って「あなた、全然照れてないから、ちょっとおかしいと思ってた。」と頭を掻いた。
なるほど、と一言、水平線に視線を戻して、ふう、と大きく息を吐いた。
「大した話はしていないよ。この指輪はあなたから貰ったもので、嬉しかったとか。あなたがハンサムだとか。」
ハンサム。
「……え。あ、はい。ありがとうございます。」
ドンシクの口から出て来た言葉に、ジュウォンは自分でも驚くほどに動揺してしまった。
彼から、こんな風にからかわれることには慣れている。けれど、恋人が顔見知りへと惚気る貴重な瞬間を、こんな風にさらりと見逃してしまっていたとは。
「ありがとうございます、って。それはこっちの台詞でしょ。」
そう来ますか、と言ってドンシクはけらけらと笑っている。
「娘さんがいなくて良かったよ。家で言うならともかく、外でこういうこと声に出すのは、恥ずかしいでしょ。」
娘、というのは今日不在だったという従業員のことだろうか。こうした小さな店舗では、人件費を安く抑えられる家族経営が多いことを、ジュウォンは思い出した。彼女はきっと「口話を選んだ人」なのだろう。
「僕も、今日、ドンシクさんが指輪を付けてくれて嬉しかったです。」
「改まって言うなあ。」と一言。ジュウォンの恋人は口元だけで微かに笑みを浮かべている。
「さっき、ドンシクさんの顔を見るまで、ちょっと不安だったので。指輪を贈るとき、あなたに相談もせずに決めてしまったし、普段付けているとも言ってくれないし、先日のビデオ通話でも、」とジュウォンが畳みかけるように言うと「それ、今言いますか?」とドンシクは、またおかしそうに笑った。
「嬉しかったし、気に入ってるからね。なるべく失くさないようにしたいし、重いから本物だと思うけど、メッキだとしたら傷つけたくない。あの日は、電話に出る前に丁度皿洗ってたから外してただけ。あなたみたいにゴム手袋でもすればいいんだろうけどね。」
ジュウォンは、彼の言葉に胸を撫で下ろし、良かったです、と呟いた。
「それにさ、いいもんだよね。」
「?」
「食い物以外のものを誰かから貰うのって。」とドンシクはコーヒーを啜る合間に呟く。「長いこと忘れてたけど、ジファから中古の参考書を貰って以来だな。俺が警官になる前の話だよ。いや、……そういえば、ミンジョンからもビーズの腕輪やら折り紙の花を貰ったこともあったけど、あれは、まあカウントしていいのか分からないし。」
あれは、俺が貰っていいものだったのか、と小声でドンシクは付け加え、自分で口にしたくせに、途端に所在なさそうな顔をしている。
仕方のない人だ、とジュウォンは思う。そもそも、ビーズの腕輪の後も、ジュウォンの指輪の前に、ナム・サンベ署長からの家の寄贈があった。まあ、彼本人がそれを、「嬉しかった」プレゼントの中にはカウントしていないのだとすれば、ジュウォンもそれを指摘することは出来なかった。
長いこと忘れてたけど、という彼の言葉には、過去への追憶が込められていて、その返事にジュウォンは胸が突かれてしまう。
本来ならここは、ユヨンの席であり、ミンジョンの席だった。
彼の隣にいるのが自分でいいのだろうか。そう思っていた。ただ、今、このとき、彼の隣に居て、時間を共にしているのは、ジュウォンだ。
「喜んでいいのだと、僕は思います。あなたへ贈られて、あなたが受け取ったものなら。それを彼女たちも、」望んでいる、と付け加えようとして、言葉を詰まらせたジュウォンに、ドンシクは驚いたような顔を見せた。
「プレゼントを貰ったのは俺の方なのに、なんであなたが泣いてるんですか。」
泣かないで。
そう言って、彼は、ジュウォンの頬を撫でた。
頬を濡らす水は、涙なのだろうか。
正面にいる彼の顔が、ぼやけて見える。
「あなたの勧めてくれたホットックが美味しかったせいです。」とジュウォンが言うと、ドンシクは、寂しそうなあの微笑を唇に浮かべたまま、そうだね、と頷く。
そうして、一息入れた後に、ポケットから刺しゅう入りのハンカチを取り出したジュウォンを見て、また笑った。
あなたが泣き止んだら食事にしよう、という声を聞きながら、ジュウォンは瞼に白いハンカチを押し当てた。いい風だ、というドンシクの声。それに続いて、腹が鳴る音が大きく聞こえてくる。ふふ、とジュウォンが笑うと、ドンシクも声を上げて笑った。
ジュウォンを笑わせるのが得意な恋人は「そろそろ行こうか。」と隣で伸びをしている。
「ええ。」とジュウォンは頷く。
「ムードのないおじさんで悪いね。」とからかうようなドンシクの言葉に「それでも僕はあなたが良いです。」と答えて、ジュウォンはゆっくりと、海辺のベンチから立ち上がった。

 
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