桐沢ふき(はつしま)

shipper。はつしま@hatsushima1です。
カーサーちゃんと韓国ドラマ映画よろず
オフラインの名前は桐沢ふきです。
最近K2の譲テツにはまりました。

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投稿日:2022年06月11日 10:32    文字数:7,087

Palace

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怪物。夜のキッチンで。
ドンシクとユヨンの回想、おまけのJWDSです。

ベッター再録です。
素敵表紙はこちらからお借りしています >>>
https://www.pixiv.net/artworks/95932571
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Palace


夜の台所には、月の明かりが差し込んでいる。
ドンシクは、ケトルに水を注いで、ここぞと当たりを付けた場所に指先を伸ばし、電磁調理器の電源ボタンを押した。
電熱部分は、電気がついたことを知らせるためにか、暗がりの中で赤く、鈍く光っている。
デフォルトは弱火になっているので、電源の隣のボタンで温度を強火に調節した。
もう、火に掛けるとは言わないのだな、と奇妙な感慨に浸りながら、湯が沸くのを待つ。デジタル表記の数字は、この台所ではなんと揚げ物も出来ますよ、とドンシクに知らせている。そう思うと、奇妙に腹が減って来たが、後四時間もすれば朝食の時間だ。
キッチンの暗さにも夜目が慣れてきたので、灯りを付けないままで食器棚へと移動し、中からジュウォンが気に入っている白いティーポットを出した。
薄暗い中で、真価を発揮する、丸みのあるフォルム。ジュウォン坊ちゃんは、恋人の選び方はともかく、基本的には趣味がいい。
暗がりの中で、ドンシクは辺りをそっと見渡した。
白湯でもいいかと思ったけれど、この時間なら何か適当な茶がいいだろうか。
適当と言っても、中年男のドンシクには、基本的には選択肢は少ない。
パスタや何か乾物と一緒にストックされているコーヒー、紅茶の類は、この時間に飲むと寝付けなくなる。
ドンシクは、そっと、廊下から漏れ出る細い光を頼りに手を伸ばして、食卓に出しっぱなしになっていた、持ち込みのコーン茶のティーバックをポットに入れた。それから、湯が沸くまでの暇つぶしにと、恋人の家の冷蔵庫を覗いた。
扉の中には、ジュウォンの好きそうな塊肉とパプリカ、レタス。バターや厳選された調味料の隙間に、卵。
非常食とか常備菜の概念がない空間には、水のボトルがほとんどダース単位で並んでいた。
お宅拝見とばかりに野次馬根性を出してみたものの、ほとんど想像した通り、ジュウォンはあまり変わってなくて、笑ってしまう。
この間来た時に、皮から作ってくれた餃子スープは、きっとあの日限定の幻の料理だったのだろう。
大は小を兼ねるというが、と思いながら下の部分にあるだろう野菜室の引き出しを引くとなぜか缶のワインが転がっている。
からかうつもりで、このうちワインセラーないの、と尋ねると、瓶をゴミに出すのが面倒なので、たまに外で飲むくらいですと返されたことがあったな。別にワインを飲みたいとリクエストした訳ではなかったのに、こういうところが律義だった。



ケトルのホイッスルが夜のしじまを引き裂くように音を立てたので、冷蔵庫から出し損ねたワインを戻して扉を閉める。
ポットの丸みを、掌で確かめ、ふたを取って湯を注いだ。
蒸らし蓋をせずに、立ち上る湯気の暖かさを掌で楽しむ。
夜の、誰にも邪魔されない時間と言うのはいいものだ。
思いもよらない開放感だった。
この感覚には、覚えがある。
自然と口先が尖り、忘れていたと思っていた音律を唇が紡ぎ出す。懐かしのエルトン・ジョン。
人の家だというのも忘れて、ドンシクは口笛を吹いていた。
小さな頃の家では、父母は店の経営に忙しく、妹は律義に寄り道をせず家で宿題をしているものだから、ジェイとつるむようになって、それからのふたりにジョンジェがくっついてくるまでは、夕日の落ちる公園で、口笛を吹く練習をしていた。
拘置所に入れた人間に、こうして口笛を吹くことで勝手に親近感を抱かれたこともあったし、俺が口笛を吹くと、腕を捻られると思って身体を固くする容疑者もいた。組織の一員として、クソも飯も自儘に出来ない日常で働いていると、本当に機嫌がいいときというより、自分の機嫌をなだめるために口笛を吹くことが多くなった。
今日は、いつもの口笛を吹くような気分とは、全く違っていた。
年下の男が隙もなく整頓した狭い狭い台所で、それでも寛いでいて、何もかもが自由だった。
こんな風に思うのは、とどのつまり、この家にドンシクの時間を束縛しようとする人間がいるからだった。
ひとりぼっちというのは、そう、二人だから安心して楽しめるというところがある。
それが本当の孤独ではないことを、ドンシクは生まれたときから知っていた。
讃美歌を弾くのが何より幸せだという顔をして、指先で奏でるのはサティ、クイーン、エルトン・ジョン。
マニャンガーデンでは有線を契約していて、小さな頃のユヨンは、流行りの曲をカセットに録音するのが好きだった。扉を隔てて隣の部屋から聞こえるモールス信号のようなオルガンのシャドウ練習には、ラジオから聞こえてくる、数年前に流行ったポップスをなぞるハミングが付き物だった。ソウルの大学に行って遊びたいのだろうと陰口を叩かれないようにか、あの年でも律義に教会に通っている優等生の妹が、オルガンではなく、シンセサイザーやピアノがやりたいと思っていることを、母も父も、ジョンジェも知らなかっただろう。そういう練習をするのは大抵が、ユヨンが友人の塾の課題のコピーを手元に、数学や英語の設問を解いている夜中で、ドンシクは、重いばかりのギターを取り出すよりも、宿題を放り出してベッドに寝転がり、口笛を吹く方を選んだ。

みんなに言っていいよ、これは君の歌だって。
とてもシンプルな歌だけれど、今出来たばかりだ。
気に入ってくれるといいんだけれど。

今にも、意気揚々と外へ出て行く、という顔つきをしたことはついぞなかったように思う。
ユヨンにとって、ソウルの大学へ行くというのは、マニャンからの脱出ではあっただろう。きょうだいはふたりきりで、一時の息抜きか、永遠の脱出になるかは誰にも分からない、運任せの逃避行だ。あの頃は、父さんも母さんもふたりして頑健で、ドンシクも兵役が終わればマニャンで生きる人生を選ぶつもりだったから、家の事情で強制的に帰宅させられることはないだろうことは確信していた。
隣で、故郷を飛び出すための人生計画を立てながら、軽々と、英語を唇に載せるふたごの妹が、とびきり優秀であることを疎ましく思わない日はなかったけれど、それでも妹の作る旋律を気の抜けた口笛で真似た夜、ドンシクは確かに幸せだった。
軽快なリズムを刻む妹の指は、確かにそこに存在していて。小さな子どもの頃と同じ壁紙が貼られた部屋が、どこよりもくつろげる、宮殿だったのだ。



「……っ、誰ですか。」
暗がりの中、警戒するようなジュウォンの声がして、ドンシクは口笛を止めてそちらを見る。
「誰って、俺ですけど。」
「……ドンシクさん。」
ジュウォンの、安心したような嘆息が聞こえてくる。
不意打ちの訪問に動揺している様子のジュウォンは、いつものように睫毛が長く、いつもと違って少し髭が伸びていた。
「あの、電気を付けて構いませんか。」とドンシクが尋ねると、ジュウォンは「どうぞ。」と言って灯りのスイッチを押した。
今夜のジュウォンは、パジャマを着た上に、汚れることを想定していないような白いカーディガンを羽織っている。
前に、連絡もせずにこの部屋に侵入したのは、もう去年の話だ。
暑さにかまけて、裸で寝ていたらしいジュウォンは、ガウンを羽織って出てきて、それがあまりにも「らしい」ものだから、大爆笑してしまった。
誰から教わったのか、と聞いたら、押し黙ってしまったけれど、まさかあの兄貴分のクォン・ヒョク検事の訓示だったのだろうか。真実は分からないまま、あれから数回こうして逢ってはいるが、あの薄いラベンダー色をしたシルクのガウンを着ているところは見ていない。
「どうしたんですか、急に。」と尋ねるジュウォンはいつもに増して白い顔だ。
いただいた合鍵をやっぱり返しましょうか、と尋ねたくなるような様子のジュウォンと向かい合うと、「すいませんね、連絡もせずに。」という言葉が口をついて出て来た。
「幽霊が出たのかと思いました。」とこちらに告げるジュウォンの顔つきは真剣で、真面目な顔でこちらをからかっているようにも思えない。
「幽霊なんて、いないですよ。睡眠不足とか、飲んでる薬の副作用とか。」
「そうですね。」と言って、頭では分かっています、という顔をジュウォンはした。
無防備な、仕事で見せない顔が可愛くて、近づいて頬にキスをする。
余裕を取り戻したらしいジュウォンが、ぎゅっと抱き着いて来た。幽霊じゃないですよ、というと、良かったですという小さな声が聞こえてきて、今夜来て良かった、とドンシクは思った。


ポットに二人分の湯を注ぎ足している間に、キッチンは昼間の明るさを取り戻した。
「さっきの口笛で起きてきたんですか?」
「寝る前に、寝室の扉を閉め忘れていた僕のせいです、ドンシクさんは気にしないでください。音が聞こえたので、まさかケトルを掛けたまま寝たのかと思って。」
「俺に合鍵を渡したのは、すっかり忘れてしまった?」
「あなた、いつも僕の寝床に直行して潜り込んでくるでしょう……。」
台所から気配がするなんて、想定外です、と年下の男は頬を膨らませて言い訳をする。
「中年男の数すくない愉しみなんだから、見逃してください。」
アポなしで真夜中に訪問すると、ときどき何も着てないジュウォンに遭遇する可能性があって、それがまた面白い。
潔癖なくせに、シーツとベッドカバーは洗濯するからいいんです、と言い返すのだ。
「まあ、茶でも飲みましょう。」と言うと、頑是ない子どもがぬいぐるみにするように抱き着いていたのが恥ずかしいのか何なのか、ジュウォンは、いつもぱっと身体を離す。
他人に束縛をされるのが嫌だという坊ちゃんは、自分もそうしたくないと思っているらしく、ここぞという時に、こうして情緒不足になるのだ。付き合って下さい、そうしましょう、と言い交わしてかなり経つのに、そこがなかなか治らないのは困ったものだ。
「……なんですか?」こちらの表情から、言いたいことを感じ取ったのか、ジュウォンがむくれた表情になる。
「なんでもありません、ハン・ジュウォン警部。」とにっこり笑うと、ジュウォンは、どうぞ座ってください、と言った。

お茶は僕が、というジュウォンは、秋の葦原を思わせる色の茶をいつものカップに注ぎ、どうぞ、とこちらに差し出してきた。
「苦手なんですか、幽霊。」とドンシクは、まだ固い顔をしたままのジュウォンに微笑みかける。
あなたも座って、というと、素敵なキッチンをお持ちの家主は、ため息を吐きそうな顔で椅子に腰かける。
「別に、いいじゃないですか。僕が何を嫌いでも。」
ジュウォンが口にしたのは、この頃では滅多に聞かなくなった、ちょっとばかり言い訳がましい言葉だった。
カップに手を伸ばしたドンシクの年下の恋人は、自分の手に大きめのマグカップを引き寄せ、「誰にも迷惑はかけていませんよ。」と小さく言って口を尖らせた。
それはほとんど、子どものように頬を膨らませるのと同義で、ドンシクはなんだか笑い出したくなる。
含みのあるドンシクの沈黙をどう受け止めたのか、ジュウォンは、不貞腐れたような顔で「そうやって、馬鹿にしててください。」と言った。
「馬鹿になんてしてませんよ。」と言って、ドンシクは微笑みながら、ジュウォンが茶を飲み干してテーブルに置いた手に指を伸ばした。
マグカップでほどよく暖まった指先同士が絡まると、ジュウォンの視線がドンシクに引き寄せられる。
この時間から、睡眠不足の状態でまともに情を交わせるかどうかは別としても、恋人が、その気になるのは、嬉しいことだ。
「それにしても、ハン・ジュウォン警部補。どうしてまた、そんな非科学的な迷信を信じてるんですか? 生きている人間の方が、ずっと怖いでしょうに。……幽霊が人に悪さをするのは、映画や本の中だけですよ。」
そう言って、ドンシクが指を離して茶を啜ろうとすると、「そう思うなら、数日でも数か月でもいい、ドンシクさんも、古くて広くて廊下が軋むような場所で暮らしてみればいいんです。」とジュウォンは甘えたような声で言った。
留学時代の話だろうか。シェイクスピアの生まれた国で育てば、幽霊も人も――迷惑さで言えば、僅かに人間が勝るくらいのもので――さして変わりのないような煩わしさだと思っていいような気もするが。
「それに、幽霊は実体がないからそうはいきませんが、人間には立ち向かっていけるでしょう。」とジュウォンは、清々しいような顔でドンシクに告げる。
「それはまた……新しい視点ですね。」
確かに、ドンシクにしても、人間に立ち向かうのは、確かに幽霊を相手取るよりは慣れている。
とはいえ、それが悪辣な意思を持つ相手であればあるほど、こちらが消耗するし、対抗するにはひどく気力を削がれることでもある。
それに、幽霊ならば、誰が、とは言わないが、一度目の前に出てきて欲しいくらいなのだ。
断罪でも、恨み言でも、何でもいい。
警察にいるときも、辞めてしまった今でも。
自分の在り様に迷いがある夜、誰かにその鬱積した気持ちを話してみたい、あるいは、今の自分を、断罪して欲しい、という気持ちがないではない。誰だって、自分の決断の全てに、責任が取れるわけじゃない。理由もなく踏みつけられたあの日からずっと、法律に背いた人間に責任を取らせる立場に立ちながら、ずっと、心の中で、そんな免罪符を唱えながら行動して来た。
そんな自分は、今こうして、恋人と向かい合って、ティーカップを前に安らいだ気持ちで椅子に座っている。
短い沈黙にさざ波を起こしたくて「そこに洋館という縛りがないなら、今住んでる所長の家も、十分何かが出そうですけどね。」とドンシクはジュウォンに言った。人の骨以外で、という話ですけど、と付け加えるのは、流石に悪趣味だろうか。
からかいの気持ちで言った言葉の締めにドンシクが口角を上げると、ジュウォンは、はて、何かを思い出したような顔になった。
止めて欲しい。
心当たりがないでもないです、なんてさっきの真顔で言われたら、いつものベッドに帰って寝るのが恐ろしくなりそうだ。
外から、救急車の音が聞こえてきて、カップの中身を半分飲み干すと、咽そうになった。当然のようにコーン茶だと思って入れたというのに、なぜかカップの中身が人参か何かが入っているようなブレンド茶だった。
「ジュウォナ……俺がこの間持って来たコーン茶、どうしたんですか?」
「ドンシクさんが前に来てから、ほとんど半年も経つのに、なぜ同じものが残っていると思うんですか?」とっくに飲み切ってしまいました、とあきれたような声で言われてしまう。
「じゃあ、この人参茶は?」
「頂きものです。」
「誰から?」と言うドンシクの疑問に、被せるように「あなたの知らない人、と言ったら妬いてくれます?」とジュウォンが問い掛けてくる。疑問に疑問を返すのは反則だろう、と思う一方で、恋人としてのジュウォンの成長が微笑ましくもある。
「どうかな。俺が知らない……って言っても、範囲が広すぎますよ。俺だって、派出所に届いた落とし物の持ち主から、家にあるものだけど、って人参入りのチューブの、分かるでしょう、健康にいいけど、あの不味いやつ。そういうのを貰ったこともありましたしね。」
「ドンシクさん、それを聞いて、僕がやきもきするとでも思ってます?」
「実際そういう顔をしてますけど? 俺が好きな、可愛い顔。」
「……どういう顔をしてるかなんて、自分ではわかりません。あの、ドンシクさん、」
久しぶりに会えたドンシクをなんと言ってベッドに誘おうかと考え込んでいる様子のジュウォンに向けて、「ジュウォナ。」と名前を呼んだ。
手を伸ばして、ちくちくと髭が差すジュウォンの頬に触れる。
――僕と、寝ても構わないと思ったら、名前を呼んで、それから僕に合図してください。性行為なんていうのは、紅茶を飲むのと同じで、一緒にと言う人間に、相手が、じゃあ私もと言わなければ、本当の愉しみにはなりませんから。
年下の恋人は、こんな風にすり減った中年男にも、そうした行為の同意を取りつけようとするところが可愛い。
意を汲んだ様子のジュウォンは、「はい。」と尻尾を振りそうな様子で頷くので、一分でも早くベッドに行きたいと思うのに、もう少しからかいたくなってしまう。
「幽霊が出たら、いちゃいちゃしてるところを見せつけてやりましょう。」
「ドンシクさん!」
「まあ、霊感など、お互いないに越したことはないですけど、もし俺がこの家に幽霊になって出てきたら、ちゃんと話を聞いてくださいね。」
ドンシクが微笑むと、「縁起でもない話はやめてください。」とジュウォンは眉を寄せる。
「いいじゃないですか。そんなのは、きっと、もっとずっと先のことですよ。」ドンシクは、心配性の恋人の反応に笑ってしまう。
「あの、」と一言。ジュウォンは、不安というのではないけれど、何か意を決したような、いつかの、玄関先に薔薇の花束を渡しに来た日のような顔つきになって、「ドンシクさん、それまで、僕と一緒にいてくれますか?」とドンシクに尋ねる。
このまま頬を撫でていようと思ったのに、つい頭を撫でたくなってしまう。
余計なことを口走る前に、と「あなたが良ければ、そうしたいと思っていますよ。」とドンシクは答える。
そのくらいは、お安い御用だ。
あなたが俺に用意してくれた、この新しい「宮殿」に比べたらね。
 
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夜の台所には、月の明かりが差し込んでいる。
ドンシクは、ケトルに水を注いで、ここぞと当たりを付けた場所に指先を伸ばし、電磁調理器の電源ボタンを押した。
電熱部分は、電気がついたことを知らせるためにか、暗がりの中で赤く、鈍く光っている。
デフォルトは弱火になっているので、電源の隣のボタンで温度を強火に調節した。
もう、火に掛けるとは言わないのだな、と奇妙な感慨に浸りながら、湯が沸くのを待つ。デジタル表記の数字は、この台所ではなんと揚げ物も出来ますよ、とドンシクに知らせている。そう思うと、奇妙に腹が減って来たが、後四時間もすれば朝食の時間だ。
キッチンの暗さにも夜目が慣れてきたので、灯りを付けないままで食器棚へと移動し、中からジュウォンが気に入っている白いティーポットを出した。
薄暗い中で、真価を発揮する、丸みのあるフォルム。ジュウォン坊ちゃんは、恋人の選び方はともかく、基本的には趣味がいい。
暗がりの中で、ドンシクは辺りをそっと見渡した。
白湯でもいいかと思ったけれど、この時間なら何か適当な茶がいいだろうか。
適当と言っても、中年男のドンシクには、基本的には選択肢は少ない。
パスタや何か乾物と一緒にストックされているコーヒー、紅茶の類は、この時間に飲むと寝付けなくなる。
ドンシクは、そっと、廊下から漏れ出る細い光を頼りに手を伸ばして、食卓に出しっぱなしになっていた、持ち込みのコーン茶のティーバックをポットに入れた。それから、湯が沸くまでの暇つぶしにと、恋人の家の冷蔵庫を覗いた。
扉の中には、ジュウォンの好きそうな塊肉とパプリカ、レタス。バターや厳選された調味料の隙間に、卵。
非常食とか常備菜の概念がない空間には、水のボトルがほとんどダース単位で並んでいた。
お宅拝見とばかりに野次馬根性を出してみたものの、ほとんど想像した通り、ジュウォンはあまり変わってなくて、笑ってしまう。
この間来た時に、皮から作ってくれた餃子スープは、きっとあの日限定の幻の料理だったのだろう。
大は小を兼ねるというが、と思いながら下の部分にあるだろう野菜室の引き出しを引くとなぜか缶のワインが転がっている。
からかうつもりで、このうちワインセラーないの、と尋ねると、瓶をゴミに出すのが面倒なので、たまに外で飲むくらいですと返されたことがあったな。別にワインを飲みたいとリクエストした訳ではなかったのに、こういうところが律義だった。



ケトルのホイッスルが夜のしじまを引き裂くように音を立てたので、冷蔵庫から出し損ねたワインを戻して扉を閉める。
ポットの丸みを、掌で確かめ、ふたを取って湯を注いだ。
蒸らし蓋をせずに、立ち上る湯気の暖かさを掌で楽しむ。
夜の、誰にも邪魔されない時間と言うのはいいものだ。
思いもよらない開放感だった。
この感覚には、覚えがある。
自然と口先が尖り、忘れていたと思っていた音律を唇が紡ぎ出す。懐かしのエルトン・ジョン。
人の家だというのも忘れて、ドンシクは口笛を吹いていた。
小さな頃の家では、父母は店の経営に忙しく、妹は律義に寄り道をせず家で宿題をしているものだから、ジェイとつるむようになって、それからのふたりにジョンジェがくっついてくるまでは、夕日の落ちる公園で、口笛を吹く練習をしていた。
拘置所に入れた人間に、こうして口笛を吹くことで勝手に親近感を抱かれたこともあったし、俺が口笛を吹くと、腕を捻られると思って身体を固くする容疑者もいた。組織の一員として、クソも飯も自儘に出来ない日常で働いていると、本当に機嫌がいいときというより、自分の機嫌をなだめるために口笛を吹くことが多くなった。
今日は、いつもの口笛を吹くような気分とは、全く違っていた。
年下の男が隙もなく整頓した狭い狭い台所で、それでも寛いでいて、何もかもが自由だった。
こんな風に思うのは、とどのつまり、この家にドンシクの時間を束縛しようとする人間がいるからだった。
ひとりぼっちというのは、そう、二人だから安心して楽しめるというところがある。
それが本当の孤独ではないことを、ドンシクは生まれたときから知っていた。
讃美歌を弾くのが何より幸せだという顔をして、指先で奏でるのはサティ、クイーン、エルトン・ジョン。
マニャンガーデンでは有線を契約していて、小さな頃のユヨンは、流行りの曲をカセットに録音するのが好きだった。扉を隔てて隣の部屋から聞こえるモールス信号のようなオルガンのシャドウ練習には、ラジオから聞こえてくる、数年前に流行ったポップスをなぞるハミングが付き物だった。ソウルの大学に行って遊びたいのだろうと陰口を叩かれないようにか、あの年でも律義に教会に通っている優等生の妹が、オルガンではなく、シンセサイザーやピアノがやりたいと思っていることを、母も父も、ジョンジェも知らなかっただろう。そういう練習をするのは大抵が、ユヨンが友人の塾の課題のコピーを手元に、数学や英語の設問を解いている夜中で、ドンシクは、重いばかりのギターを取り出すよりも、宿題を放り出してベッドに寝転がり、口笛を吹く方を選んだ。

みんなに言っていいよ、これは君の歌だって。
とてもシンプルな歌だけれど、今出来たばかりだ。
気に入ってくれるといいんだけれど。

今にも、意気揚々と外へ出て行く、という顔つきをしたことはついぞなかったように思う。
ユヨンにとって、ソウルの大学へ行くというのは、マニャンからの脱出ではあっただろう。きょうだいはふたりきりで、一時の息抜きか、永遠の脱出になるかは誰にも分からない、運任せの逃避行だ。あの頃は、父さんも母さんもふたりして頑健で、ドンシクも兵役が終わればマニャンで生きる人生を選ぶつもりだったから、家の事情で強制的に帰宅させられることはないだろうことは確信していた。
隣で、故郷を飛び出すための人生計画を立てながら、軽々と、英語を唇に載せるふたごの妹が、とびきり優秀であることを疎ましく思わない日はなかったけれど、それでも妹の作る旋律を気の抜けた口笛で真似た夜、ドンシクは確かに幸せだった。
軽快なリズムを刻む妹の指は、確かにそこに存在していて。小さな子どもの頃と同じ壁紙が貼られた部屋が、どこよりもくつろげる、宮殿だったのだ。



「……っ、誰ですか。」
暗がりの中、警戒するようなジュウォンの声がして、ドンシクは口笛を止めてそちらを見る。
「誰って、俺ですけど。」
「……ドンシクさん。」
ジュウォンの、安心したような嘆息が聞こえてくる。
不意打ちの訪問に動揺している様子のジュウォンは、いつものように睫毛が長く、いつもと違って少し髭が伸びていた。
「あの、電気を付けて構いませんか。」とドンシクが尋ねると、ジュウォンは「どうぞ。」と言って灯りのスイッチを押した。
今夜のジュウォンは、パジャマを着た上に、汚れることを想定していないような白いカーディガンを羽織っている。
前に、連絡もせずにこの部屋に侵入したのは、もう去年の話だ。
暑さにかまけて、裸で寝ていたらしいジュウォンは、ガウンを羽織って出てきて、それがあまりにも「らしい」ものだから、大爆笑してしまった。
誰から教わったのか、と聞いたら、押し黙ってしまったけれど、まさかあの兄貴分のクォン・ヒョク検事の訓示だったのだろうか。真実は分からないまま、あれから数回こうして逢ってはいるが、あの薄いラベンダー色をしたシルクのガウンを着ているところは見ていない。
「どうしたんですか、急に。」と尋ねるジュウォンはいつもに増して白い顔だ。
いただいた合鍵をやっぱり返しましょうか、と尋ねたくなるような様子のジュウォンと向かい合うと、「すいませんね、連絡もせずに。」という言葉が口をついて出て来た。
「幽霊が出たのかと思いました。」とこちらに告げるジュウォンの顔つきは真剣で、真面目な顔でこちらをからかっているようにも思えない。
「幽霊なんて、いないですよ。睡眠不足とか、飲んでる薬の副作用とか。」
「そうですね。」と言って、頭では分かっています、という顔をジュウォンはした。
無防備な、仕事で見せない顔が可愛くて、近づいて頬にキスをする。
余裕を取り戻したらしいジュウォンが、ぎゅっと抱き着いて来た。幽霊じゃないですよ、というと、良かったですという小さな声が聞こえてきて、今夜来て良かった、とドンシクは思った。


ポットに二人分の湯を注ぎ足している間に、キッチンは昼間の明るさを取り戻した。
「さっきの口笛で起きてきたんですか?」
「寝る前に、寝室の扉を閉め忘れていた僕のせいです、ドンシクさんは気にしないでください。音が聞こえたので、まさかケトルを掛けたまま寝たのかと思って。」
「俺に合鍵を渡したのは、すっかり忘れてしまった?」
「あなた、いつも僕の寝床に直行して潜り込んでくるでしょう……。」
台所から気配がするなんて、想定外です、と年下の男は頬を膨らませて言い訳をする。
「中年男の数すくない愉しみなんだから、見逃してください。」
アポなしで真夜中に訪問すると、ときどき何も着てないジュウォンに遭遇する可能性があって、それがまた面白い。
潔癖なくせに、シーツとベッドカバーは洗濯するからいいんです、と言い返すのだ。
「まあ、茶でも飲みましょう。」と言うと、頑是ない子どもがぬいぐるみにするように抱き着いていたのが恥ずかしいのか何なのか、ジュウォンは、いつもぱっと身体を離す。
他人に束縛をされるのが嫌だという坊ちゃんは、自分もそうしたくないと思っているらしく、ここぞという時に、こうして情緒不足になるのだ。付き合って下さい、そうしましょう、と言い交わしてかなり経つのに、そこがなかなか治らないのは困ったものだ。
「……なんですか?」こちらの表情から、言いたいことを感じ取ったのか、ジュウォンがむくれた表情になる。
「なんでもありません、ハン・ジュウォン警部。」とにっこり笑うと、ジュウォンは、どうぞ座ってください、と言った。

お茶は僕が、というジュウォンは、秋の葦原を思わせる色の茶をいつものカップに注ぎ、どうぞ、とこちらに差し出してきた。
「苦手なんですか、幽霊。」とドンシクは、まだ固い顔をしたままのジュウォンに微笑みかける。
あなたも座って、というと、素敵なキッチンをお持ちの家主は、ため息を吐きそうな顔で椅子に腰かける。
「別に、いいじゃないですか。僕が何を嫌いでも。」
ジュウォンが口にしたのは、この頃では滅多に聞かなくなった、ちょっとばかり言い訳がましい言葉だった。
カップに手を伸ばしたドンシクの年下の恋人は、自分の手に大きめのマグカップを引き寄せ、「誰にも迷惑はかけていませんよ。」と小さく言って口を尖らせた。
それはほとんど、子どものように頬を膨らませるのと同義で、ドンシクはなんだか笑い出したくなる。
含みのあるドンシクの沈黙をどう受け止めたのか、ジュウォンは、不貞腐れたような顔で「そうやって、馬鹿にしててください。」と言った。
「馬鹿になんてしてませんよ。」と言って、ドンシクは微笑みながら、ジュウォンが茶を飲み干してテーブルに置いた手に指を伸ばした。
マグカップでほどよく暖まった指先同士が絡まると、ジュウォンの視線がドンシクに引き寄せられる。
この時間から、睡眠不足の状態でまともに情を交わせるかどうかは別としても、恋人が、その気になるのは、嬉しいことだ。
「それにしても、ハン・ジュウォン警部補。どうしてまた、そんな非科学的な迷信を信じてるんですか? 生きている人間の方が、ずっと怖いでしょうに。……幽霊が人に悪さをするのは、映画や本の中だけですよ。」
そう言って、ドンシクが指を離して茶を啜ろうとすると、「そう思うなら、数日でも数か月でもいい、ドンシクさんも、古くて広くて廊下が軋むような場所で暮らしてみればいいんです。」とジュウォンは甘えたような声で言った。
留学時代の話だろうか。シェイクスピアの生まれた国で育てば、幽霊も人も――迷惑さで言えば、僅かに人間が勝るくらいのもので――さして変わりのないような煩わしさだと思っていいような気もするが。
「それに、幽霊は実体がないからそうはいきませんが、人間には立ち向かっていけるでしょう。」とジュウォンは、清々しいような顔でドンシクに告げる。
「それはまた……新しい視点ですね。」
確かに、ドンシクにしても、人間に立ち向かうのは、確かに幽霊を相手取るよりは慣れている。
とはいえ、それが悪辣な意思を持つ相手であればあるほど、こちらが消耗するし、対抗するにはひどく気力を削がれることでもある。
それに、幽霊ならば、誰が、とは言わないが、一度目の前に出てきて欲しいくらいなのだ。
断罪でも、恨み言でも、何でもいい。
警察にいるときも、辞めてしまった今でも。
自分の在り様に迷いがある夜、誰かにその鬱積した気持ちを話してみたい、あるいは、今の自分を、断罪して欲しい、という気持ちがないではない。誰だって、自分の決断の全てに、責任が取れるわけじゃない。理由もなく踏みつけられたあの日からずっと、法律に背いた人間に責任を取らせる立場に立ちながら、ずっと、心の中で、そんな免罪符を唱えながら行動して来た。
そんな自分は、今こうして、恋人と向かい合って、ティーカップを前に安らいだ気持ちで椅子に座っている。
短い沈黙にさざ波を起こしたくて「そこに洋館という縛りがないなら、今住んでる所長の家も、十分何かが出そうですけどね。」とドンシクはジュウォンに言った。人の骨以外で、という話ですけど、と付け加えるのは、流石に悪趣味だろうか。
からかいの気持ちで言った言葉の締めにドンシクが口角を上げると、ジュウォンは、はて、何かを思い出したような顔になった。
止めて欲しい。
心当たりがないでもないです、なんてさっきの真顔で言われたら、いつものベッドに帰って寝るのが恐ろしくなりそうだ。
外から、救急車の音が聞こえてきて、カップの中身を半分飲み干すと、咽そうになった。当然のようにコーン茶だと思って入れたというのに、なぜかカップの中身が人参か何かが入っているようなブレンド茶だった。
「ジュウォナ……俺がこの間持って来たコーン茶、どうしたんですか?」
「ドンシクさんが前に来てから、ほとんど半年も経つのに、なぜ同じものが残っていると思うんですか?」とっくに飲み切ってしまいました、とあきれたような声で言われてしまう。
「じゃあ、この人参茶は?」
「頂きものです。」
「誰から?」と言うドンシクの疑問に、被せるように「あなたの知らない人、と言ったら妬いてくれます?」とジュウォンが問い掛けてくる。疑問に疑問を返すのは反則だろう、と思う一方で、恋人としてのジュウォンの成長が微笑ましくもある。
「どうかな。俺が知らない……って言っても、範囲が広すぎますよ。俺だって、派出所に届いた落とし物の持ち主から、家にあるものだけど、って人参入りのチューブの、分かるでしょう、健康にいいけど、あの不味いやつ。そういうのを貰ったこともありましたしね。」
「ドンシクさん、それを聞いて、僕がやきもきするとでも思ってます?」
「実際そういう顔をしてますけど? 俺が好きな、可愛い顔。」
「……どういう顔をしてるかなんて、自分ではわかりません。あの、ドンシクさん、」
久しぶりに会えたドンシクをなんと言ってベッドに誘おうかと考え込んでいる様子のジュウォンに向けて、「ジュウォナ。」と名前を呼んだ。
手を伸ばして、ちくちくと髭が差すジュウォンの頬に触れる。
――僕と、寝ても構わないと思ったら、名前を呼んで、それから僕に合図してください。性行為なんていうのは、紅茶を飲むのと同じで、一緒にと言う人間に、相手が、じゃあ私もと言わなければ、本当の愉しみにはなりませんから。
年下の恋人は、こんな風にすり減った中年男にも、そうした行為の同意を取りつけようとするところが可愛い。
意を汲んだ様子のジュウォンは、「はい。」と尻尾を振りそうな様子で頷くので、一分でも早くベッドに行きたいと思うのに、もう少しからかいたくなってしまう。
「幽霊が出たら、いちゃいちゃしてるところを見せつけてやりましょう。」
「ドンシクさん!」
「まあ、霊感など、お互いないに越したことはないですけど、もし俺がこの家に幽霊になって出てきたら、ちゃんと話を聞いてくださいね。」
ドンシクが微笑むと、「縁起でもない話はやめてください。」とジュウォンは眉を寄せる。
「いいじゃないですか。そんなのは、きっと、もっとずっと先のことですよ。」ドンシクは、心配性の恋人の反応に笑ってしまう。
「あの、」と一言。ジュウォンは、不安というのではないけれど、何か意を決したような、いつかの、玄関先に薔薇の花束を渡しに来た日のような顔つきになって、「ドンシクさん、それまで、僕と一緒にいてくれますか?」とドンシクに尋ねる。
このまま頬を撫でていようと思ったのに、つい頭を撫でたくなってしまう。
余計なことを口走る前に、と「あなたが良ければ、そうしたいと思っていますよ。」とドンシクは答える。
そのくらいは、お安い御用だ。
あなたが俺に用意してくれた、この新しい「宮殿」に比べたらね。
 
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