高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2023年05月25日 21:59    文字数:12,363

明日咲く花~前編~

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初投稿は、ローズフェスティバル用の短編BL小説です。
幼馴染み再会もの。
後編は後日アップします。

6/22、後編出来ました!> https://pictbland.net/items/detail/2092992
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 小さな子が、膝を抱えるように地面に座り込んでいる。ズボンから覗いた丸い膝を見つめていると、ふいに黒い運動靴が見えた。辿るように目を上げれば、その先にはすらりとした長い脚があって、知らない文字が書かれたシャツを過ぎる。視線の先で、整った顔をした小柄な少年が、困ったように首を傾けていた。手を伸ばせば、なおさら戸惑って、深く澄んだ穏やかな色の瞳を泳がせる。その美しい姿の向こうには、空にかかる橋のように、緑のアーチが見える。そこには、ピンクのバラがたくさん咲いていた。
 一面緑の広い庭だった。壁のように周囲を囲む高い生け垣。中央には壁と同じ高さで緑の柱。それをぐるりと巡るように広い花壇があって、見渡す限り色とりどりの花をつけるバラが植えられていた。その庭の入り口に、そのアーチはあった。
 さわさわと風が吹いて緑の表面を撫でる。それが少年の柔らかな黒髪を揺らしていく。
 小さな手がズボンの裾を離さないのを確認すると、彼はようやく口を開いた。
「……もしも……」


 ピヨピヨピヨピヨ、突然耳に飛び込んでくる音。
 あーっ、もー、やかましいっ。
 布団に潜り込んだまま枕元を探って、派手な音を鳴らしている携帯を握る。停止、停止、ボタンはどこだ。手探りで表面をなぞっていると、ぴたっとその音がやんだ。
 やれやれ……。ったく、また同じ夢を見たよ。いったい何度目だろう。もう何年前のことだか覚えてないし、あの庭がどこだったのかも定かじゃないし、なんであんな状況だったのかもわからない。はっきりしてるのは、あの小さな子は幼い頃の俺で、綺麗な顔をしたお兄ちゃんは俺の初恋の人で、告白は見事に玉砕した、ということだ。あー、目が覚めてよかった! あの後、きっぱり「駄目だよ」って言われたんだよなー。あったかくて優しい声が今でも耳の奥にこびりついてる。それで、俺は性懲りもなく、あの時の困った顔もすっごく綺麗だったな……とか思ってるわけだ。今でも。
 ……それにしても、あの「もしも」の後はなんだったっけ。何か言われた気がするんだけど、覚えてない。なにか大事なことを言われた気がする。なのに、抜け落ちてる。覚えてるなら「駄目だよ」のほうじゃなくて、そっちを覚えてろよ、俺。
「充ー!!」
 うっわ。階段の下からでっかい声。母さんだ。
「早く起きなさい! 入学式に遅刻はかっこ悪いわよー!」
「はーい!」
 やべ。そっか、今日から学校だ。今ので完全に目が覚めた。
 伸びをしながらベッドから足を下ろす。視線の先にはまだ慣れない木目の天井と、足下ではひんやりと畳の感触。机はずっと使ってたのを前の家から持ってきたけど、タンスも棚も死んじゃったじいちゃんが使ってたものだ。部屋だって、ばあちゃんが使ってなかった屋根裏部屋みたいな部屋を掃除してくれたから、そこを使ってる。だからほとんどが今までと違う。や、まあ、中学の卒業式が終わってから引っ越したから、1か月も経ってないんだ。そりゃ仕方ない。慣れるにはもう少し時間がかかるよね。
 パジャマのまま下に降りたら、母さんが呆れた声を上げた。
「まったく、しゃきっとしないわねえ」
「んー。なんか、高校生って実感がない」
「制服に着替えて学校に行けば、そのうち湧いてくるでしょ」
 たしかに、そういうものかもな。ただ、この実感のなさは、受験前にいろいろバタバタしてたせいもあるような気がする。
 もともと仲の良くなかった両親が離婚したのは、去年末のことだ。それまでもずっと揉めてたから、いつかはこうなる気がしてたし、それは今更どうでもいい。ただ、条件に折り合いがつかないのか、いつ決着がつくかわからなかった。で、いざそうなることに決まってから急に、俺と母さんは田舎に住むばあちゃんの家に引っ越すことになったんだよね。そのあたりの経緯までは知らない。別に知らなくていいと思ってる。
 なんにせよ、そこから願書だ受験対策だーって色々準備しなきゃならなかったから、とにかく息つく暇もなかった。志望校がどういう高校かも知らなくて、初めて校舎を見たのが受験の当日だったんだから、そりゃ、実感なんて今の段階で湧くわけないか。
 直前で志望校変えるって、結構大変だよ? ちょっと高望みだった元の志望校より、いくらか受験が楽だったのが唯一の救いといえば救いだったけどさ。でも、結果だけ見れば、「成績も性格も、可もなく不可もなく平均的」とか言われたことのある俺にはちょうどよかったかもしれない。……いや、あれ言った奴、今から思うとずいぶん失礼だな。
「充ちゃん、ごはん冷めちゃうよ。早く召し上がれ」
 ばあちゃんがにこにこしながら低い机の上に焼き立ての鮭を置く。わ、美味しそう。
「いただきます! あー、きゅうりの浅漬けだ。ばあちゃんの漬物大好き!」
「わ、すごい勢い。起きたばっかりでよく食べられるねえ」
「元気でいいことじゃないの。充ちゃんがいると、食卓が明るくなって嬉しいよ」
 茶碗を持った手を止めて、ばあちゃんは俺がご飯をかき込むのを嬉しそうに見ている。そうだよな、「今度の休みは来るのか」「寂しいから会いたい」と積極的に連絡をくれてたじいちゃんが亡くなって以来、何年もここには来なかった。父さんが仕事で忙しいって言って、長期間の旅行に行きたがらなかったからだ。母さんはそれを受け入れてたし、ばあちゃんも父さんに遠慮して何も言わなかった。だから、結果的にはだいぶ疎遠になっちゃってた。ばあちゃんは口には出さなかったけど、寂しかったんだろうな。
 今考えてみると、あの頃から父さんは恋人のところに通ってたんだと思う。その人との間にできた子供との年齢がそんなもんだから。あ、一応、弟の存在について、俺は知らないことになってる。みんなショック受けるだろうからって隠してくれてたみたい。実はその話をしてるの偶然聞いちゃって、「あっちの子のほうが可愛いから充はいらない」って言うシーンをきっかり目撃しちゃった。まあ、おかげで父さんへの、もともとあんまりなかった未練もすっぱり消えたんだけど。
 とにかく、俺と母さんは、前を向くしかないよね! って2人で決めて、ここに来たんだ。母さんとばあちゃんがそのほうがいいって思うなら、俺は知らないふりをするだけだ。
「みっくーん!」
 うわ。縁側のほうから、またまたやかましい声がする。ばあちゃんと母さんが顔を見合わせて笑う。すると、すぐにセーラー服姿の女子が駆け込む勢いで庭に姿を現した。
「おはよ! ……あれ、なーんだ、まだパジャマだ。みっくんの制服姿見に来たのに」
 明らかにつまんなそうな顔をしたのは、隣にある叔母さんの家に住む、1つ年下のいとこ、ありさだ。叔母一家はよく俺の家の近くにあるテーマパークに遊びに来ていたから、久し振り感はない。ここはたまに来てただけの町だから、知ってる人がいること自体はありがたい。とはいえ、俺は昔から積極的に絡んでくる、このいとこが少々苦手だったりする。
「おはよう、ありさちゃん。そうなの、のんびりしてるでしょ」
「だよね、みっくんってのんびり屋さんだもんねー。せっかく見慣れてる高校の制服着てるの見て、変なのって指さして笑ってやろうと思ったのにぃ」
 口の中は鮭とごはんでいっぱいなので、肩をすくめるだけの返事をする。口ではこんなことを言ってるけど、来年同じ高校に行ける、とはしゃいでたって叔母さんから聞いてるからな。ありさの通う中学と俺の入る高校は、同じ大学の付属だから、持ち上がりでそのまま進む人が多いのだそうだ。だからすっかりそのつもりになってるんだろう。そうなったら、俺がありさの面倒を見ることになるんだろうなあ。やれやれ。


 俺が住んでいたあたりは広い土地がなかったから、学校の敷地自体が猫の額みたいなもんだった。それに比べて、こっちはすごいな。一周するのも疲れそうな広いグラウンド、プールがあのフェンスの向こうにあって、あっちにはテニスコートもある。でもって、校舎の裏にはもうひとつグラウンドがあるんだそうだ。中学では運動部の練習場所でいつもごちゃごちゃ揉めてたみたいだけど、ここではそんな問題も起きないんだろう。ま、運動部には縁がないから関係ないけど。
 入学式をやった体育館も、ずいぶん広かったような気がする。少なくとも、スポーツの試合中継で見るような段差に椅子が備え付けられてる観客席なんて、学校で見たことない。その観客席が保護者席になってて、式中にちらっと見たら、母さんが妙にテンション高く楽しそうに椅子を撫でてるのが面白かった。後で聞いたら、学生時代にバスケ部の応援に行ったときのことを思いだしてたんだって。
 式の後は、クラスごとに分かれて、担任の先生の挨拶と生徒同士の顔合わせ会があった。といっても、中学からの進学組が多くて、ほとんどの生徒たちが顔見知りみたいだ。入学式中にも周りの雑談で気付いてたけど、俺みたいな他の中学から来てる生徒はぽつぽつしかいないっぽかった。自己紹介の流れでも、これからもよろしく的な挨拶が多い。これは、ぼっち確定かな? 別にいいけど。
「長野くん、ありがとう。では次、新田くんお願いします」
 俺の番か。とりあえず名前だけでも憶えてってもらおう。
「はーい。……はじめまして、新田充です。両親の離婚で、ばあちゃんちに引っ越してきました。前住んでたのはトレジャーパークのすぐ近くです。趣味はお笑い鑑賞と鉄道旅で、1日中電車にしか乗らない旅行とかしたことがあります」
 あとはなんだろうな。部活歴でもしゃべっておこうか。大したことないけど。と、思ってたら、近くの席の男子生徒が話しかけてきた。
「なあなあ、近くに住んでたってことは、トレジャーパーク、よく行ってた?」
「おお。あそこって乗り物はお金かかるけど、中は自由に入れるじゃん? ほぼ散歩コースだったなあ。向かいにあるラーメン屋がうまくてオススメ」
「散歩! すげぇ!」
 反対側から女子が手を挙げる。
「じゃあさ、この前出来たオレンジタワーって行った?」
「友達に引っ張られて行ったよ。繁華街って気後れするから苦手なんだけどさぁ、初出店っていう海外の店のハンバーガー、めっちゃ並んだけどめっちゃ美味しかった!」
「ごはんばっかりじゃん!」
「食いしん坊か!」
「まあね。この辺で美味しい店あったら教えてくださーい。逆に向こうのことでわかることならお伝えするんで」
 教室に明るいざわめきが満ちる。やっぱなんだかんだ言って、みんな都会の話って興味あるのかな。
 先生がおーい、と声を上げる。
「ほらほら、興味があるんなら、全部終わってから個人的に聞くように! たしかに先生も興味あるけど!」
 その言葉で、クラス中がどっと沸いた。最初に声をかけてきた奴から「あとでな」と言われ、頷く。うん、よさそうなクラスじゃん。
 自己紹介が終わって、今日は解散! ってなったところで、さっきの奴がそそくさと寄って来た。橋本とか言ったっけ。後ろからくっついてくるのは、たしか、深山って奴だ。
「遠いところからようこそ~」
 橋本がぴらぴら手を振るから、俺も同じようにして応える。
「よろしく~。食いついてたけど、トレジャーパーク好きなん?」
「好き! ちっちゃい頃連れてってもらってさ、すっげえ楽しかった記憶があんの。なのに、それ以降はなんだかんだ機会逃して行けてないのさ。だからまた行きたくて」
「オレもオレも。去年、修学旅行でそっち行ったんだけどさー、自由行動の日も遊ぶとこは駄目だとか言われて、なあ?」
「横暴だよな!」
「へーえ。うちの中学は普通に課外学習で行ったよ」
「えっうらやまし! さすが近所!」
 そこから話が盛り上がった。どんな乗り物があるとか、新しい施設はどうだとか、何が美味しいかとか。敷地内のビルにある、俺が入り浸ってた鉄道カフェの話はつい熱く語っちゃった自覚があるけど、2人はちゃんと話についてきてくれた。どうやら彼らも興味があるみたいだ。嬉しいねぇ。途中からは他の男子とか、さっき話しかけてきた女子も加わって、輪っかはずいぶん大きくなった。
 ふむ。この分なら、ぼっちは免れそうだな。


 じわじわと暑くなってきた。今まで暮らしてた地域より幾分か涼しいはずなんだけど、日差しの強さはそんなに変わった気がしない。ひと月も経ったから、こっちの気候に体が慣れてきたんだろう。だから、暑いもんは暑い。
 うん。1か月経った。その間、中学からの持ち上がり組と高校からの途中合流組の間に大きな隔たりを感じることもなく、俺は普通の生活を送っていた。周りがいい奴だらけだったのは、ホントにラッキーだったと思う。
 さて、今日もとっとと帰るか。部活を始めた連中もいるけど、この学校では必須じゃないらしい。だから俺は帰宅部だ。橋本と深山も帰宅部仲間で、家の方向が一緒なこともあって、だいたいいつも並んで帰ってる。
 大通りから曲がって通行人が少なくなった途端、にやにやした深山が、両手でピースを作って見せてくる。
「聞いて。オレ、彼女できました~」
 へぇ。やけに今日ちらちら俺たちを見てたと思ったら、その報告をしたかったわけか。なるほどと頷いた俺に対し、橋本は信じられないものを見る目で深山を見る。
「えっ、いつの間に!? どこで!? どんな子!?」
「この前始めたバイト先で~、可愛い子いるなぁ、と思って声かけてみたら、これがまたすんなりと」
「早っ! ずるいっ!」
「橋本だって中学から付き合ってる彼女いたじゃん」
「過去形ってことは御存じなんでしょぉ!? つい一昨日前連絡したら、新しい彼氏できたって言われたって。別の高校行った時点で別れてるもんだと思ってたんだってさぁ! もう、なんか、おめでとうしか言えなかったわ!」
 あーあ。なるほど、そんなことがあったんなら、橋本が大騒ぎするのもわかるなあ。そりゃしんどかろう。新しい環境で生活を始めたら、その周囲が生活の全部になっちゃう。そばにいられない人より近くにいる人を選ぶんだろうか。
「まあ、長めの休みに連絡して無反応だった時点で御察しだよな」
「忙しいって言うから遠慮したのに……」
 よよよ、と泣き崩れる真似をした橋本が、その勢いで俺の腕に引っ付いてきた。
「涼しい顔しちゃって、新田はどうなんだよっ! あっちで彼女とかいたんだろ!?」
 げっ。矛先がこっち来たか。
「いない、いない。ぜーんぜん、そういう話とは無縁よ」
 正直に言うと、2人はひどく意外そうな顔をした。
「……マジで? え、そこそこ背あるし、そこそこ顔いいし、そこそこ頭もいいのに?」
「そこそこモテそうじゃんなぁ」
「いや、2人して全部“そこそこ”って言ってんじゃん! ……あはは、ま、そういうとこなんじゃない? それに趣味が電車って、それだけで引かれたりするしなぁ。純情でオクテで夢見がち少年にはまだ早いってことさ」
「なんだそりゃ」
 深山はわかったようなわからないような表情で首を傾げる。まだ腕に引っ付いたままだった橋本がぐいっとさらに引っ張ってくる。痛ぇな。
「ってことは、新田、……どーてー?」
「おおよ。ぴっちぴちのチェリーボーイだわ」
「オー! マイディア、ナカーマー! 純情の道を貫こうぜ!」
「とか言って、その時が来たら裏切るつもりだろーが」
「そりゃ、その時はな」
 正直な奴。顔を見合わせて笑うと、深山もつられて笑いだした。げらげら笑う俺たちは少々やかましかったんだろう。不思議そうにこちらを見上げる犬を、おねえさんが慌ててリードを引っ張って連れて行った。
 …………。
 2人には冗談めかして言ったけど、たぶん間違ったことは言ってない。彼女が出来たって友人の話を聞いて、未だにふっと「初恋のお兄ちゃん」の顔を思い出すなんて、夢見がち以外の何物でもないだろ。さらに、思い出した柔らかな表情にきゅんっとするくらいだから、まさに純情そのものじゃない?
 そりゃ、見栄張るわけじゃないけど、俺だって告白されたことくらいあるんだ。可愛い子だなってドキドキすることもある。けど、そのたびにお兄ちゃんの面影が心をよぎり、お兄ちゃんじゃないからってがっかりする。我ながら拗らせてんなあと思う。
 きっと、美化された思い出だ。もう一度会えば、なーんだ全然違うじゃん、って、がっかりして終わる。そのはずだ。マジで、こんなんじゃ、いつまで経っても恋人のひとりも出来やしない。だから、もう一度会いたい。もう一度会って、……。もう一度……。
「新田? どした、おまえんち通り過ぎるぞ」
 はっと我に返る。振り返った半歩前に門柱があった。
「なにこれ。びっくりした」
「オレらのほうがびっくりしたわ。考え事でもしてたん?」
「そんな感じ。えーっと、そうだ、先週出た数学のプリント。明日提出だけど、どこやったかなーって」
「わ。数学の!? あー、思い出しちゃった! まだやってない!」
「思いだせてよかったじゃん。じゃーな。プリント探しとけよー」
「ありがとー。んじゃ、また明日」
「明日~」
 そんなに考え込んでるつもりはなかったのにな。2人と別れて、鉄製の門を開ける。右手に、縁側と生け垣に挟まれた、細長くて狭い庭が見えた。この時間、ばあちゃんはよく縁側に座って俺が帰ってくるのを待ってるんだけど、今日はいないみたいだ。出かけてるのかな?
「ただいま」
 声をかけながら、がらがらとドアを開ける。あれ、鍵がかかってないな、と思ってると、上がり框のとこに座って靴を履こうとしてるばあちゃんの姿が見えた。
「ああ、おかえりなさい」
 にっこり笑ってくれるけど、なんだかちょっとしんどそうだ。背中のあたりがヒヤッとする。
「どうしたの? つらそうだけど、どっか痛い?」
「大丈夫。出かけようとしたら、ちょっと膝がね。たまにこうなるの。でも、休んでたら治るから、心配しなくていいよ」
「じゃあ休んでなよ。買い物? だったら俺が行ってくるし」
「でも、悪いから、いいわ」
 ばあちゃんは、視線を靴箱の上にやる。そこには、いつもばあちゃんが活けてる花瓶があった。ここのところの暑さのせいか、どの花もあんまり元気がなくうなだれ気味で、花びらの色もなんだかくすんでいる。
「花買うの?」
「うん、今日はおじいちゃんの月命日だから、綺麗なお花を飾ってあげたかったんだけど……。明日でもおじいちゃん怒らないでしょ」
 たしかに、優しかったじいちゃんが、そんなことで怒るとは思えない。でも、同時に、じいちゃんってすごい寂しがりやでもあった。
「やっぱり俺が行ってくる。花屋ってどこ?」
「あっちの通りにあるクリーニング屋さんの角曲がって、しばらく行ったところだけど……本当にいいの?」
「うん。ちなみになんて名前の花屋?」
「フラワーエリーっていうの」
「へー、可愛い名前だね。わかった。行ってきます!」
 商店街の店は漢字ばっかりだったから、そんな店があるのがちょっと意外に思えた。俺はばあちゃんに改めて「いってきます」を伝えると、帰って来たそのままの格好でもう一度玄関を出る。あ、花の値段ってわかんないけど、手持ちで足りるかな。
 ようやく覚えた道を辿り、住宅地の中にぽつんとあるクリーニング屋を左に曲がる。商店街とは反対の方向だ。こっちのほうに店なんかあるんだろうか。歩いてくうちに、店どころか家も少なくなって、畑が左右に広がるようになってきた。え、本当にこっちでいいの? もしかしたら「しばらく行ったところ」の「しばらく」は本当にだいぶ遠いのかもしれない。噂によると、都会と田舎の「ちょっと歩く」はずいぶん違うらしいから、「しばらく」だったらどれくらい違うんだろう。
 ちょっと不安になりながら、やがて見えてきたガラス張りの建物の前を通る。キラキラしたその建物は、民家とはちょっと違う雰囲気だ。いくつも並んだビニールハウスとも少し違う。なんだろうと思って中をちらっと覗くと、手前に鉢植えがずらりと並んでいるのが見えた。あ、これって温室か。その温室を通り過ぎると、少し広くなった地面に鉢植えや花の苗が並べられていた。花? あっと思って目を上げると、広場の奥に白い建物がある。両開きになったドアの上には、白い地板にオレンジ色の縁取りがされた看板があって、同じオレンジの手書き文字で「フラワーエリー」と店名が書かれていた。あった。ここだ。
 店に入ると、思ってたより広くて明るい。土と緑と花の香り。入ったところには、よく見る土っぽくて丸いのとか、白いプラスチックのとか、籠っぽいのとか、いろんな種類の植木鉢が置かれている。いや、植木鉢っていうのかわかんないけど。その隣にはビニール袋に入った土がいくつも積まれてた。へえ、土って売ってるんだなぁ。俺の経験上、花屋ってすごく狭くて、両側の冷蔵庫みたいな扉の中に切り花が並んでるみたいなイメージだったけど、ここはちょっと違うみたいだ。
「いらっしゃいませー」
 男の声。奥のほうに見えるレジからだ。たぶんレジだよな、あれ。金髪の若い人がレジの奥にいて、その手前には女の人の後ろ姿がある。金髪の人は大きな花束を作っているところだ。ってことは、切り花もちゃんとあるんだな。店内を見渡すと、店員さんは向こうのほうにもうひとりいて、鉢植えを選ぶおじさんの相手をしているみたいだ。しょうがない、自分で探すか。
 きょろきょろあたりを見渡すと、フラワーアレンジメントって札の付いた、手のひらサイズの寄せ植えの棚がある。あの向こうっぽいな。そっちに向かうと、とたんに花の香りが強くなる。通路の両側には、円筒の花瓶? が並んでる。そのプラスチックの筒に、たくさんの花が刺さってた。店の手前側は緑が多かったから、急にいろんな色が目に飛び込んで来て、くらくらする。ずらりと、よくわからない名前の花でいっぱいだ。
 でも。やけにバラが多いな、と思った。花に詳しくない俺でも、バラくらいはわかる。よく見る赤いのから、黄色やオレンジやピンク、黒っぽいのから白いの……、それがグラデーションのように切り花コーナーの一角を彩っている。すごいな。なんか、圧倒される。こんなにいろんな色があるんだ。
 ……ちょっと待てよ、この中から選ぶの? うわ、全然わからない。
「どんな花をご希望ですか」
 背中から声がかかる。さっきとは違う声だ。
「えっと、祖母に頼まれただけなので、よくわからないんですけど」
 あっちで鉢植えのお客さんの対応していた人かな、と思いながら振り返る。少し長めの黒い髪を軽く括った男の人が、笑顔で立っていた。
 あ。
 ぶわっと、体中の毛が逆立ったみたいな感じがした。
 ……え?
 なんで?
 え?
「……さくちゃんだ」
 口が勝手に動いた。
 忘れてたと思ってた名前が、さらっと零れ落ちた。
 ここにいる自分の存在が、やけにしっくりとくる。
「え?」
 目の前の顔が、不審げに歪む。でも、一緒だ。
 見開かれた目の穏やかな深い色、いたずらっぽい唇の形、優しげで上品な頬の線、ふんわりと柔らかそうな耳朶、緩やかに波を打つくせっ毛は前髪の端っこが一番元気にぴょんと跳ねてる。
 古い本を勢いよくめくるように、記憶が頭の中を巡っていく。
「……会いたかった」
「あの」
 困ったような眼差しが、じんわりと滲む。会いたかった。ずっと。
「あの、どなたかとお間違えでは?」
 低い声は、頭の中に響く声とはずいぶん違っていた。だけど、言い含めるような、あったかい響きは変わってない。
 ……あっ。そうか。俺はずいぶん小さかったから。大きくなった姿にピンと来なくて当然だ。俺だって後ろ姿では気付かなかったじゃないか。
 ぐい、と溢れそうな涙を拭う。
「俺、充です。子供の頃、さくちゃんに告白した、充です」
「みつる……」
 ふんわりとした唇に、俺の名前が載る。それだけで、ぎゅうっと胸が潰れそうになった。
 一度悩むように空を薙いだ目が、驚いたようにゆっくり見開かれていくのが、本当に、花が咲くようで。
 とても綺麗だと思った。
「……あ。みっくんか!」
 両手をぱちんと叩いて、笑顔がこぼれる。さっきとは違う、少し幼い、可愛らしい笑い顔。
「覚えててくれたんですか……」
「そりゃあなぁ。あんな、涙と鼻水でぐっちゃぐっちゃになりながら、必死で熱烈な告白されたら、忘れらんないよな!」
 あ、ちょっと口調がやんちゃになってる。可愛い。
 それに、なにより、
 覚えててくれたんだ。
 覚えててくれたんだ。
 また、勝手に視界がぼやける。
「ふ、あははっ。泣き虫なのは変わってないみたいだ」
 手が伸びて、ぐしゃっと俺の髪をかき混ぜる。少し背伸びする仕草になんか変な感じがするけど、そんなの気にする必要がないくらい気持ちいい。あったかい手。綺麗な顔が近い。心臓が潰れそう。そっか。俺のほうが今は背が高いんだ。
 でも、ぐちゃぐちゃか。そうだったっけ。俺、かっこいい告白をしたはずなんだけど。精一杯、「好きです」を伝えたはずだけど。……でもそれで覚えててくれたなら、よかった。
「まあ、な。うん。お互い、いい思い出だよな」
 えっ。
 俺は思わず動きを止めた。
 いや、思い出は思い出だけど!
「今も好きです!」
 まるで過去の出来事のように言われて、すごくびっくりした。えっ。なんで。
 俺が食い気味に言い返したせいか、見開かれた目が瞬きもせず、じっとこっちに向けられる。
「…………。あの時オレが言ったこと、覚えてる?」
 あの時。
 えっと。
「あの時……?」
 やっぱり、記憶がぽかりと抜けている部分のことだろうか。
 何か言われたはず。それは覚えてるのに、肝心の内容を覚えてない。
「それが、……そこだけ覚えてなくて」
 ふと、かすかに眉が歪み、それから、ふっと笑う。
「じゃあ、ダメ」
「でも、俺、さくちゃんのこと、ずーっと好きで」
「とりあえず、さくちゃん、はやめようか。ちっちゃい子みたいで恥ずかしいわ。オレの名前は朔也」
 さくや。
「朔也さん」
「はい」
「朔也さん」
「なんだよ」
 ああ、とても綺麗な響きだ。声にするたびに、胸がじわっと熱くなる。
 やっぱり、好きだ。
「朔也さん、付き合ってください!」
「ったく。人の話聞いてるんだか聞いてないんだか。あのな、お子様の告白に応える気はないの。オレも大人だからね。……まあ、花なら見繕ってやるから。おばあさんに頼まれたんだっけ」
 少し早口でそこまで言うと、朔也さんは俺の顔を覗き込んできた。
「はい。祖父の月命日なので」
「あ、もしかして、おばあさんって新田のおばちゃん?」
「ええと、新田文江のことなら、そうです」
「そっかそっか、毎月買いに来てくれるもんな。おまえ、新田のおばちゃんのお孫さんなのか。ああ、あの頃、休みの時に遊びに来てるって言ってたけど、田舎がここなんだな。それにしてはずいぶん顔見なかったけど」
 優しい手つきで、朔也さんが紫の縁取りの白い花を花瓶から引き抜くのを、俺はぼんやり見ていた。その動きが美しかったせいもあるけれど、なにより、昔の話を覚えていてくれたことに感動していたからだ。
「……両親が離婚して。それで、祖母の家で暮らすことになったんです」
「ふうん。そうか」
「あの、なんでダメなのか聞いてもいいですか」
「だから、おまえがまだ子供だからだよ」
 でも、
 ごほん、と咳払いの音がした。あ、レジの人。
「若店長ー。お客さんいないんでいいですけど、一応営業時間中ですよ~」
 金髪の人が、間延びした声でそう言った。
「っと、ごめんな」
 朔也さんはその人に向かって、片手で謝るポーズをする。それから、くるりと俺のほうを向いた。
「充」
「! は、はい!」
「先にレジ行ってて。……糸島くん、いつもの新田さんのでレジお願い」
 さらりと俺の名前を呼んだ朔也さんは、するりと俺の脇を抜けた。通路に入り、奥の花に手を伸ばす。
 ……今の……。さっき、思い出すために口ずさんだのとは違う。たしかに、俺を俺と認識して呼んでくれた。俺の名前を呼んでくれた。
 その事実で頭がいっぱいになって、思考が付いていかない。けど、足は朔也さんに言われた通り、勝手にレジに向かっていた。「充」だって。「充」。俺の名前を呼ぶ声が、ひどく優しく脳内に響いてる。
「お会計させていただきますね」
「お願いします」
 この人……糸島、って呼ばれてたな。バイトの人なんだろうか。ちょっとだけ引きつったような顔で、レジに金額を打ち込んでる。彼に言われた通りの料金を支払うと、レシートを書き写して手書きの領収書をくれた。ばあちゃんはいつもこうしてるんだろう。
 …………。支払い作業は全部終わってしまった。妙な間が空く。朔也さんはカウンターの奥に入って作業をしている。そういえば、俺、この人にさっきの告白を全部聞かれてんだよな。しかも、断られてるとこまで。うーん。なんだか気まずい。
 さすがに何か話すべきか、と思ったところで口を開いたのは、糸島さんのほうだった。
「えー……と。新田さんとこのお孫さんだから、新田くん?」
「はい」
「高校生?」
「1年生です」
「そうかあ。ってことは、店長に告ったのは小学生入ったばっかの頃か。うーんと、込み入ったことを聞くようだけど……。彼女は?」
「今まで一度もいません。子供の頃からずっと、朔也さん一途でしたから」
「おー、そりゃ筋金入りだなあ」
 糸島さんはそう言って笑う。仕事の邪魔しちゃったのに、気にしてないみたいだな。ありがたいし、いい人だ。
「ま、ご贔屓にしてやってください」
「はい!」
 そこに、綺麗にラッピングされた花束を持った朔也さんが戻って来た。きゅっと胸が鳴る。華やかだけど落ち着いた花を抱えた朔也さん。すごく、似合う。綺麗だ。
「充、お待たせ」
 話しかけようとした俺に、ばさりと花束を渡してくる。
「早くおばちゃんとこに持ってってやりな。急がないと、心配だって言って迎えにきちゃうぞ」
「えっと」
 朔也さんは、にぃっと笑い、最後に「またな」と言った。
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明日咲く花~前編~
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 小さな子が、膝を抱えるように地面に座り込んでいる。ズボンから覗いた丸い膝を見つめていると、ふいに黒い運動靴が見えた。辿るように目を上げれば、その先にはすらりとした長い脚があって、知らない文字が書かれたシャツを過ぎる。視線の先で、整った顔をした小柄な少年が、困ったように首を傾けていた。手を伸ばせば、なおさら戸惑って、深く澄んだ穏やかな色の瞳を泳がせる。その美しい姿の向こうには、空にかかる橋のように、緑のアーチが見える。そこには、ピンクのバラがたくさん咲いていた。
 一面緑の広い庭だった。壁のように周囲を囲む高い生け垣。中央には壁と同じ高さで緑の柱。それをぐるりと巡るように広い花壇があって、見渡す限り色とりどりの花をつけるバラが植えられていた。その庭の入り口に、そのアーチはあった。
 さわさわと風が吹いて緑の表面を撫でる。それが少年の柔らかな黒髪を揺らしていく。
 小さな手がズボンの裾を離さないのを確認すると、彼はようやく口を開いた。
「……もしも……」


 ピヨピヨピヨピヨ、突然耳に飛び込んでくる音。
 あーっ、もー、やかましいっ。
 布団に潜り込んだまま枕元を探って、派手な音を鳴らしている携帯を握る。停止、停止、ボタンはどこだ。手探りで表面をなぞっていると、ぴたっとその音がやんだ。
 やれやれ……。ったく、また同じ夢を見たよ。いったい何度目だろう。もう何年前のことだか覚えてないし、あの庭がどこだったのかも定かじゃないし、なんであんな状況だったのかもわからない。はっきりしてるのは、あの小さな子は幼い頃の俺で、綺麗な顔をしたお兄ちゃんは俺の初恋の人で、告白は見事に玉砕した、ということだ。あー、目が覚めてよかった! あの後、きっぱり「駄目だよ」って言われたんだよなー。あったかくて優しい声が今でも耳の奥にこびりついてる。それで、俺は性懲りもなく、あの時の困った顔もすっごく綺麗だったな……とか思ってるわけだ。今でも。
 ……それにしても、あの「もしも」の後はなんだったっけ。何か言われた気がするんだけど、覚えてない。なにか大事なことを言われた気がする。なのに、抜け落ちてる。覚えてるなら「駄目だよ」のほうじゃなくて、そっちを覚えてろよ、俺。
「充ー!!」
 うっわ。階段の下からでっかい声。母さんだ。
「早く起きなさい! 入学式に遅刻はかっこ悪いわよー!」
「はーい!」
 やべ。そっか、今日から学校だ。今ので完全に目が覚めた。
 伸びをしながらベッドから足を下ろす。視線の先にはまだ慣れない木目の天井と、足下ではひんやりと畳の感触。机はずっと使ってたのを前の家から持ってきたけど、タンスも棚も死んじゃったじいちゃんが使ってたものだ。部屋だって、ばあちゃんが使ってなかった屋根裏部屋みたいな部屋を掃除してくれたから、そこを使ってる。だからほとんどが今までと違う。や、まあ、中学の卒業式が終わってから引っ越したから、1か月も経ってないんだ。そりゃ仕方ない。慣れるにはもう少し時間がかかるよね。
 パジャマのまま下に降りたら、母さんが呆れた声を上げた。
「まったく、しゃきっとしないわねえ」
「んー。なんか、高校生って実感がない」
「制服に着替えて学校に行けば、そのうち湧いてくるでしょ」
 たしかに、そういうものかもな。ただ、この実感のなさは、受験前にいろいろバタバタしてたせいもあるような気がする。
 もともと仲の良くなかった両親が離婚したのは、去年末のことだ。それまでもずっと揉めてたから、いつかはこうなる気がしてたし、それは今更どうでもいい。ただ、条件に折り合いがつかないのか、いつ決着がつくかわからなかった。で、いざそうなることに決まってから急に、俺と母さんは田舎に住むばあちゃんの家に引っ越すことになったんだよね。そのあたりの経緯までは知らない。別に知らなくていいと思ってる。
 なんにせよ、そこから願書だ受験対策だーって色々準備しなきゃならなかったから、とにかく息つく暇もなかった。志望校がどういう高校かも知らなくて、初めて校舎を見たのが受験の当日だったんだから、そりゃ、実感なんて今の段階で湧くわけないか。
 直前で志望校変えるって、結構大変だよ? ちょっと高望みだった元の志望校より、いくらか受験が楽だったのが唯一の救いといえば救いだったけどさ。でも、結果だけ見れば、「成績も性格も、可もなく不可もなく平均的」とか言われたことのある俺にはちょうどよかったかもしれない。……いや、あれ言った奴、今から思うとずいぶん失礼だな。
「充ちゃん、ごはん冷めちゃうよ。早く召し上がれ」
 ばあちゃんがにこにこしながら低い机の上に焼き立ての鮭を置く。わ、美味しそう。
「いただきます! あー、きゅうりの浅漬けだ。ばあちゃんの漬物大好き!」
「わ、すごい勢い。起きたばっかりでよく食べられるねえ」
「元気でいいことじゃないの。充ちゃんがいると、食卓が明るくなって嬉しいよ」
 茶碗を持った手を止めて、ばあちゃんは俺がご飯をかき込むのを嬉しそうに見ている。そうだよな、「今度の休みは来るのか」「寂しいから会いたい」と積極的に連絡をくれてたじいちゃんが亡くなって以来、何年もここには来なかった。父さんが仕事で忙しいって言って、長期間の旅行に行きたがらなかったからだ。母さんはそれを受け入れてたし、ばあちゃんも父さんに遠慮して何も言わなかった。だから、結果的にはだいぶ疎遠になっちゃってた。ばあちゃんは口には出さなかったけど、寂しかったんだろうな。
 今考えてみると、あの頃から父さんは恋人のところに通ってたんだと思う。その人との間にできた子供との年齢がそんなもんだから。あ、一応、弟の存在について、俺は知らないことになってる。みんなショック受けるだろうからって隠してくれてたみたい。実はその話をしてるの偶然聞いちゃって、「あっちの子のほうが可愛いから充はいらない」って言うシーンをきっかり目撃しちゃった。まあ、おかげで父さんへの、もともとあんまりなかった未練もすっぱり消えたんだけど。
 とにかく、俺と母さんは、前を向くしかないよね! って2人で決めて、ここに来たんだ。母さんとばあちゃんがそのほうがいいって思うなら、俺は知らないふりをするだけだ。
「みっくーん!」
 うわ。縁側のほうから、またまたやかましい声がする。ばあちゃんと母さんが顔を見合わせて笑う。すると、すぐにセーラー服姿の女子が駆け込む勢いで庭に姿を現した。
「おはよ! ……あれ、なーんだ、まだパジャマだ。みっくんの制服姿見に来たのに」
 明らかにつまんなそうな顔をしたのは、隣にある叔母さんの家に住む、1つ年下のいとこ、ありさだ。叔母一家はよく俺の家の近くにあるテーマパークに遊びに来ていたから、久し振り感はない。ここはたまに来てただけの町だから、知ってる人がいること自体はありがたい。とはいえ、俺は昔から積極的に絡んでくる、このいとこが少々苦手だったりする。
「おはよう、ありさちゃん。そうなの、のんびりしてるでしょ」
「だよね、みっくんってのんびり屋さんだもんねー。せっかく見慣れてる高校の制服着てるの見て、変なのって指さして笑ってやろうと思ったのにぃ」
 口の中は鮭とごはんでいっぱいなので、肩をすくめるだけの返事をする。口ではこんなことを言ってるけど、来年同じ高校に行ける、とはしゃいでたって叔母さんから聞いてるからな。ありさの通う中学と俺の入る高校は、同じ大学の付属だから、持ち上がりでそのまま進む人が多いのだそうだ。だからすっかりそのつもりになってるんだろう。そうなったら、俺がありさの面倒を見ることになるんだろうなあ。やれやれ。


 俺が住んでいたあたりは広い土地がなかったから、学校の敷地自体が猫の額みたいなもんだった。それに比べて、こっちはすごいな。一周するのも疲れそうな広いグラウンド、プールがあのフェンスの向こうにあって、あっちにはテニスコートもある。でもって、校舎の裏にはもうひとつグラウンドがあるんだそうだ。中学では運動部の練習場所でいつもごちゃごちゃ揉めてたみたいだけど、ここではそんな問題も起きないんだろう。ま、運動部には縁がないから関係ないけど。
 入学式をやった体育館も、ずいぶん広かったような気がする。少なくとも、スポーツの試合中継で見るような段差に椅子が備え付けられてる観客席なんて、学校で見たことない。その観客席が保護者席になってて、式中にちらっと見たら、母さんが妙にテンション高く楽しそうに椅子を撫でてるのが面白かった。後で聞いたら、学生時代にバスケ部の応援に行ったときのことを思いだしてたんだって。
 式の後は、クラスごとに分かれて、担任の先生の挨拶と生徒同士の顔合わせ会があった。といっても、中学からの進学組が多くて、ほとんどの生徒たちが顔見知りみたいだ。入学式中にも周りの雑談で気付いてたけど、俺みたいな他の中学から来てる生徒はぽつぽつしかいないっぽかった。自己紹介の流れでも、これからもよろしく的な挨拶が多い。これは、ぼっち確定かな? 別にいいけど。
「長野くん、ありがとう。では次、新田くんお願いします」
 俺の番か。とりあえず名前だけでも憶えてってもらおう。
「はーい。……はじめまして、新田充です。両親の離婚で、ばあちゃんちに引っ越してきました。前住んでたのはトレジャーパークのすぐ近くです。趣味はお笑い鑑賞と鉄道旅で、1日中電車にしか乗らない旅行とかしたことがあります」
 あとはなんだろうな。部活歴でもしゃべっておこうか。大したことないけど。と、思ってたら、近くの席の男子生徒が話しかけてきた。
「なあなあ、近くに住んでたってことは、トレジャーパーク、よく行ってた?」
「おお。あそこって乗り物はお金かかるけど、中は自由に入れるじゃん? ほぼ散歩コースだったなあ。向かいにあるラーメン屋がうまくてオススメ」
「散歩! すげぇ!」
 反対側から女子が手を挙げる。
「じゃあさ、この前出来たオレンジタワーって行った?」
「友達に引っ張られて行ったよ。繁華街って気後れするから苦手なんだけどさぁ、初出店っていう海外の店のハンバーガー、めっちゃ並んだけどめっちゃ美味しかった!」
「ごはんばっかりじゃん!」
「食いしん坊か!」
「まあね。この辺で美味しい店あったら教えてくださーい。逆に向こうのことでわかることならお伝えするんで」
 教室に明るいざわめきが満ちる。やっぱなんだかんだ言って、みんな都会の話って興味あるのかな。
 先生がおーい、と声を上げる。
「ほらほら、興味があるんなら、全部終わってから個人的に聞くように! たしかに先生も興味あるけど!」
 その言葉で、クラス中がどっと沸いた。最初に声をかけてきた奴から「あとでな」と言われ、頷く。うん、よさそうなクラスじゃん。
 自己紹介が終わって、今日は解散! ってなったところで、さっきの奴がそそくさと寄って来た。橋本とか言ったっけ。後ろからくっついてくるのは、たしか、深山って奴だ。
「遠いところからようこそ~」
 橋本がぴらぴら手を振るから、俺も同じようにして応える。
「よろしく~。食いついてたけど、トレジャーパーク好きなん?」
「好き! ちっちゃい頃連れてってもらってさ、すっげえ楽しかった記憶があんの。なのに、それ以降はなんだかんだ機会逃して行けてないのさ。だからまた行きたくて」
「オレもオレも。去年、修学旅行でそっち行ったんだけどさー、自由行動の日も遊ぶとこは駄目だとか言われて、なあ?」
「横暴だよな!」
「へーえ。うちの中学は普通に課外学習で行ったよ」
「えっうらやまし! さすが近所!」
 そこから話が盛り上がった。どんな乗り物があるとか、新しい施設はどうだとか、何が美味しいかとか。敷地内のビルにある、俺が入り浸ってた鉄道カフェの話はつい熱く語っちゃった自覚があるけど、2人はちゃんと話についてきてくれた。どうやら彼らも興味があるみたいだ。嬉しいねぇ。途中からは他の男子とか、さっき話しかけてきた女子も加わって、輪っかはずいぶん大きくなった。
 ふむ。この分なら、ぼっちは免れそうだな。


 じわじわと暑くなってきた。今まで暮らしてた地域より幾分か涼しいはずなんだけど、日差しの強さはそんなに変わった気がしない。ひと月も経ったから、こっちの気候に体が慣れてきたんだろう。だから、暑いもんは暑い。
 うん。1か月経った。その間、中学からの持ち上がり組と高校からの途中合流組の間に大きな隔たりを感じることもなく、俺は普通の生活を送っていた。周りがいい奴だらけだったのは、ホントにラッキーだったと思う。
 さて、今日もとっとと帰るか。部活を始めた連中もいるけど、この学校では必須じゃないらしい。だから俺は帰宅部だ。橋本と深山も帰宅部仲間で、家の方向が一緒なこともあって、だいたいいつも並んで帰ってる。
 大通りから曲がって通行人が少なくなった途端、にやにやした深山が、両手でピースを作って見せてくる。
「聞いて。オレ、彼女できました~」
 へぇ。やけに今日ちらちら俺たちを見てたと思ったら、その報告をしたかったわけか。なるほどと頷いた俺に対し、橋本は信じられないものを見る目で深山を見る。
「えっ、いつの間に!? どこで!? どんな子!?」
「この前始めたバイト先で~、可愛い子いるなぁ、と思って声かけてみたら、これがまたすんなりと」
「早っ! ずるいっ!」
「橋本だって中学から付き合ってる彼女いたじゃん」
「過去形ってことは御存じなんでしょぉ!? つい一昨日前連絡したら、新しい彼氏できたって言われたって。別の高校行った時点で別れてるもんだと思ってたんだってさぁ! もう、なんか、おめでとうしか言えなかったわ!」
 あーあ。なるほど、そんなことがあったんなら、橋本が大騒ぎするのもわかるなあ。そりゃしんどかろう。新しい環境で生活を始めたら、その周囲が生活の全部になっちゃう。そばにいられない人より近くにいる人を選ぶんだろうか。
「まあ、長めの休みに連絡して無反応だった時点で御察しだよな」
「忙しいって言うから遠慮したのに……」
 よよよ、と泣き崩れる真似をした橋本が、その勢いで俺の腕に引っ付いてきた。
「涼しい顔しちゃって、新田はどうなんだよっ! あっちで彼女とかいたんだろ!?」
 げっ。矛先がこっち来たか。
「いない、いない。ぜーんぜん、そういう話とは無縁よ」
 正直に言うと、2人はひどく意外そうな顔をした。
「……マジで? え、そこそこ背あるし、そこそこ顔いいし、そこそこ頭もいいのに?」
「そこそこモテそうじゃんなぁ」
「いや、2人して全部“そこそこ”って言ってんじゃん! ……あはは、ま、そういうとこなんじゃない? それに趣味が電車って、それだけで引かれたりするしなぁ。純情でオクテで夢見がち少年にはまだ早いってことさ」
「なんだそりゃ」
 深山はわかったようなわからないような表情で首を傾げる。まだ腕に引っ付いたままだった橋本がぐいっとさらに引っ張ってくる。痛ぇな。
「ってことは、新田、……どーてー?」
「おおよ。ぴっちぴちのチェリーボーイだわ」
「オー! マイディア、ナカーマー! 純情の道を貫こうぜ!」
「とか言って、その時が来たら裏切るつもりだろーが」
「そりゃ、その時はな」
 正直な奴。顔を見合わせて笑うと、深山もつられて笑いだした。げらげら笑う俺たちは少々やかましかったんだろう。不思議そうにこちらを見上げる犬を、おねえさんが慌ててリードを引っ張って連れて行った。
 …………。
 2人には冗談めかして言ったけど、たぶん間違ったことは言ってない。彼女が出来たって友人の話を聞いて、未だにふっと「初恋のお兄ちゃん」の顔を思い出すなんて、夢見がち以外の何物でもないだろ。さらに、思い出した柔らかな表情にきゅんっとするくらいだから、まさに純情そのものじゃない?
 そりゃ、見栄張るわけじゃないけど、俺だって告白されたことくらいあるんだ。可愛い子だなってドキドキすることもある。けど、そのたびにお兄ちゃんの面影が心をよぎり、お兄ちゃんじゃないからってがっかりする。我ながら拗らせてんなあと思う。
 きっと、美化された思い出だ。もう一度会えば、なーんだ全然違うじゃん、って、がっかりして終わる。そのはずだ。マジで、こんなんじゃ、いつまで経っても恋人のひとりも出来やしない。だから、もう一度会いたい。もう一度会って、……。もう一度……。
「新田? どした、おまえんち通り過ぎるぞ」
 はっと我に返る。振り返った半歩前に門柱があった。
「なにこれ。びっくりした」
「オレらのほうがびっくりしたわ。考え事でもしてたん?」
「そんな感じ。えーっと、そうだ、先週出た数学のプリント。明日提出だけど、どこやったかなーって」
「わ。数学の!? あー、思い出しちゃった! まだやってない!」
「思いだせてよかったじゃん。じゃーな。プリント探しとけよー」
「ありがとー。んじゃ、また明日」
「明日~」
 そんなに考え込んでるつもりはなかったのにな。2人と別れて、鉄製の門を開ける。右手に、縁側と生け垣に挟まれた、細長くて狭い庭が見えた。この時間、ばあちゃんはよく縁側に座って俺が帰ってくるのを待ってるんだけど、今日はいないみたいだ。出かけてるのかな?
「ただいま」
 声をかけながら、がらがらとドアを開ける。あれ、鍵がかかってないな、と思ってると、上がり框のとこに座って靴を履こうとしてるばあちゃんの姿が見えた。
「ああ、おかえりなさい」
 にっこり笑ってくれるけど、なんだかちょっとしんどそうだ。背中のあたりがヒヤッとする。
「どうしたの? つらそうだけど、どっか痛い?」
「大丈夫。出かけようとしたら、ちょっと膝がね。たまにこうなるの。でも、休んでたら治るから、心配しなくていいよ」
「じゃあ休んでなよ。買い物? だったら俺が行ってくるし」
「でも、悪いから、いいわ」
 ばあちゃんは、視線を靴箱の上にやる。そこには、いつもばあちゃんが活けてる花瓶があった。ここのところの暑さのせいか、どの花もあんまり元気がなくうなだれ気味で、花びらの色もなんだかくすんでいる。
「花買うの?」
「うん、今日はおじいちゃんの月命日だから、綺麗なお花を飾ってあげたかったんだけど……。明日でもおじいちゃん怒らないでしょ」
 たしかに、優しかったじいちゃんが、そんなことで怒るとは思えない。でも、同時に、じいちゃんってすごい寂しがりやでもあった。
「やっぱり俺が行ってくる。花屋ってどこ?」
「あっちの通りにあるクリーニング屋さんの角曲がって、しばらく行ったところだけど……本当にいいの?」
「うん。ちなみになんて名前の花屋?」
「フラワーエリーっていうの」
「へー、可愛い名前だね。わかった。行ってきます!」
 商店街の店は漢字ばっかりだったから、そんな店があるのがちょっと意外に思えた。俺はばあちゃんに改めて「いってきます」を伝えると、帰って来たそのままの格好でもう一度玄関を出る。あ、花の値段ってわかんないけど、手持ちで足りるかな。
 ようやく覚えた道を辿り、住宅地の中にぽつんとあるクリーニング屋を左に曲がる。商店街とは反対の方向だ。こっちのほうに店なんかあるんだろうか。歩いてくうちに、店どころか家も少なくなって、畑が左右に広がるようになってきた。え、本当にこっちでいいの? もしかしたら「しばらく行ったところ」の「しばらく」は本当にだいぶ遠いのかもしれない。噂によると、都会と田舎の「ちょっと歩く」はずいぶん違うらしいから、「しばらく」だったらどれくらい違うんだろう。
 ちょっと不安になりながら、やがて見えてきたガラス張りの建物の前を通る。キラキラしたその建物は、民家とはちょっと違う雰囲気だ。いくつも並んだビニールハウスとも少し違う。なんだろうと思って中をちらっと覗くと、手前に鉢植えがずらりと並んでいるのが見えた。あ、これって温室か。その温室を通り過ぎると、少し広くなった地面に鉢植えや花の苗が並べられていた。花? あっと思って目を上げると、広場の奥に白い建物がある。両開きになったドアの上には、白い地板にオレンジ色の縁取りがされた看板があって、同じオレンジの手書き文字で「フラワーエリー」と店名が書かれていた。あった。ここだ。
 店に入ると、思ってたより広くて明るい。土と緑と花の香り。入ったところには、よく見る土っぽくて丸いのとか、白いプラスチックのとか、籠っぽいのとか、いろんな種類の植木鉢が置かれている。いや、植木鉢っていうのかわかんないけど。その隣にはビニール袋に入った土がいくつも積まれてた。へえ、土って売ってるんだなぁ。俺の経験上、花屋ってすごく狭くて、両側の冷蔵庫みたいな扉の中に切り花が並んでるみたいなイメージだったけど、ここはちょっと違うみたいだ。
「いらっしゃいませー」
 男の声。奥のほうに見えるレジからだ。たぶんレジだよな、あれ。金髪の若い人がレジの奥にいて、その手前には女の人の後ろ姿がある。金髪の人は大きな花束を作っているところだ。ってことは、切り花もちゃんとあるんだな。店内を見渡すと、店員さんは向こうのほうにもうひとりいて、鉢植えを選ぶおじさんの相手をしているみたいだ。しょうがない、自分で探すか。
 きょろきょろあたりを見渡すと、フラワーアレンジメントって札の付いた、手のひらサイズの寄せ植えの棚がある。あの向こうっぽいな。そっちに向かうと、とたんに花の香りが強くなる。通路の両側には、円筒の花瓶? が並んでる。そのプラスチックの筒に、たくさんの花が刺さってた。店の手前側は緑が多かったから、急にいろんな色が目に飛び込んで来て、くらくらする。ずらりと、よくわからない名前の花でいっぱいだ。
 でも。やけにバラが多いな、と思った。花に詳しくない俺でも、バラくらいはわかる。よく見る赤いのから、黄色やオレンジやピンク、黒っぽいのから白いの……、それがグラデーションのように切り花コーナーの一角を彩っている。すごいな。なんか、圧倒される。こんなにいろんな色があるんだ。
 ……ちょっと待てよ、この中から選ぶの? うわ、全然わからない。
「どんな花をご希望ですか」
 背中から声がかかる。さっきとは違う声だ。
「えっと、祖母に頼まれただけなので、よくわからないんですけど」
 あっちで鉢植えのお客さんの対応していた人かな、と思いながら振り返る。少し長めの黒い髪を軽く括った男の人が、笑顔で立っていた。
 あ。
 ぶわっと、体中の毛が逆立ったみたいな感じがした。
 ……え?
 なんで?
 え?
「……さくちゃんだ」
 口が勝手に動いた。
 忘れてたと思ってた名前が、さらっと零れ落ちた。
 ここにいる自分の存在が、やけにしっくりとくる。
「え?」
 目の前の顔が、不審げに歪む。でも、一緒だ。
 見開かれた目の穏やかな深い色、いたずらっぽい唇の形、優しげで上品な頬の線、ふんわりと柔らかそうな耳朶、緩やかに波を打つくせっ毛は前髪の端っこが一番元気にぴょんと跳ねてる。
 古い本を勢いよくめくるように、記憶が頭の中を巡っていく。
「……会いたかった」
「あの」
 困ったような眼差しが、じんわりと滲む。会いたかった。ずっと。
「あの、どなたかとお間違えでは?」
 低い声は、頭の中に響く声とはずいぶん違っていた。だけど、言い含めるような、あったかい響きは変わってない。
 ……あっ。そうか。俺はずいぶん小さかったから。大きくなった姿にピンと来なくて当然だ。俺だって後ろ姿では気付かなかったじゃないか。
 ぐい、と溢れそうな涙を拭う。
「俺、充です。子供の頃、さくちゃんに告白した、充です」
「みつる……」
 ふんわりとした唇に、俺の名前が載る。それだけで、ぎゅうっと胸が潰れそうになった。
 一度悩むように空を薙いだ目が、驚いたようにゆっくり見開かれていくのが、本当に、花が咲くようで。
 とても綺麗だと思った。
「……あ。みっくんか!」
 両手をぱちんと叩いて、笑顔がこぼれる。さっきとは違う、少し幼い、可愛らしい笑い顔。
「覚えててくれたんですか……」
「そりゃあなぁ。あんな、涙と鼻水でぐっちゃぐっちゃになりながら、必死で熱烈な告白されたら、忘れらんないよな!」
 あ、ちょっと口調がやんちゃになってる。可愛い。
 それに、なにより、
 覚えててくれたんだ。
 覚えててくれたんだ。
 また、勝手に視界がぼやける。
「ふ、あははっ。泣き虫なのは変わってないみたいだ」
 手が伸びて、ぐしゃっと俺の髪をかき混ぜる。少し背伸びする仕草になんか変な感じがするけど、そんなの気にする必要がないくらい気持ちいい。あったかい手。綺麗な顔が近い。心臓が潰れそう。そっか。俺のほうが今は背が高いんだ。
 でも、ぐちゃぐちゃか。そうだったっけ。俺、かっこいい告白をしたはずなんだけど。精一杯、「好きです」を伝えたはずだけど。……でもそれで覚えててくれたなら、よかった。
「まあ、な。うん。お互い、いい思い出だよな」
 えっ。
 俺は思わず動きを止めた。
 いや、思い出は思い出だけど!
「今も好きです!」
 まるで過去の出来事のように言われて、すごくびっくりした。えっ。なんで。
 俺が食い気味に言い返したせいか、見開かれた目が瞬きもせず、じっとこっちに向けられる。
「…………。あの時オレが言ったこと、覚えてる?」
 あの時。
 えっと。
「あの時……?」
 やっぱり、記憶がぽかりと抜けている部分のことだろうか。
 何か言われたはず。それは覚えてるのに、肝心の内容を覚えてない。
「それが、……そこだけ覚えてなくて」
 ふと、かすかに眉が歪み、それから、ふっと笑う。
「じゃあ、ダメ」
「でも、俺、さくちゃんのこと、ずーっと好きで」
「とりあえず、さくちゃん、はやめようか。ちっちゃい子みたいで恥ずかしいわ。オレの名前は朔也」
 さくや。
「朔也さん」
「はい」
「朔也さん」
「なんだよ」
 ああ、とても綺麗な響きだ。声にするたびに、胸がじわっと熱くなる。
 やっぱり、好きだ。
「朔也さん、付き合ってください!」
「ったく。人の話聞いてるんだか聞いてないんだか。あのな、お子様の告白に応える気はないの。オレも大人だからね。……まあ、花なら見繕ってやるから。おばあさんに頼まれたんだっけ」
 少し早口でそこまで言うと、朔也さんは俺の顔を覗き込んできた。
「はい。祖父の月命日なので」
「あ、もしかして、おばあさんって新田のおばちゃん?」
「ええと、新田文江のことなら、そうです」
「そっかそっか、毎月買いに来てくれるもんな。おまえ、新田のおばちゃんのお孫さんなのか。ああ、あの頃、休みの時に遊びに来てるって言ってたけど、田舎がここなんだな。それにしてはずいぶん顔見なかったけど」
 優しい手つきで、朔也さんが紫の縁取りの白い花を花瓶から引き抜くのを、俺はぼんやり見ていた。その動きが美しかったせいもあるけれど、なにより、昔の話を覚えていてくれたことに感動していたからだ。
「……両親が離婚して。それで、祖母の家で暮らすことになったんです」
「ふうん。そうか」
「あの、なんでダメなのか聞いてもいいですか」
「だから、おまえがまだ子供だからだよ」
 でも、
 ごほん、と咳払いの音がした。あ、レジの人。
「若店長ー。お客さんいないんでいいですけど、一応営業時間中ですよ~」
 金髪の人が、間延びした声でそう言った。
「っと、ごめんな」
 朔也さんはその人に向かって、片手で謝るポーズをする。それから、くるりと俺のほうを向いた。
「充」
「! は、はい!」
「先にレジ行ってて。……糸島くん、いつもの新田さんのでレジお願い」
 さらりと俺の名前を呼んだ朔也さんは、するりと俺の脇を抜けた。通路に入り、奥の花に手を伸ばす。
 ……今の……。さっき、思い出すために口ずさんだのとは違う。たしかに、俺を俺と認識して呼んでくれた。俺の名前を呼んでくれた。
 その事実で頭がいっぱいになって、思考が付いていかない。けど、足は朔也さんに言われた通り、勝手にレジに向かっていた。「充」だって。「充」。俺の名前を呼ぶ声が、ひどく優しく脳内に響いてる。
「お会計させていただきますね」
「お願いします」
 この人……糸島、って呼ばれてたな。バイトの人なんだろうか。ちょっとだけ引きつったような顔で、レジに金額を打ち込んでる。彼に言われた通りの料金を支払うと、レシートを書き写して手書きの領収書をくれた。ばあちゃんはいつもこうしてるんだろう。
 …………。支払い作業は全部終わってしまった。妙な間が空く。朔也さんはカウンターの奥に入って作業をしている。そういえば、俺、この人にさっきの告白を全部聞かれてんだよな。しかも、断られてるとこまで。うーん。なんだか気まずい。
 さすがに何か話すべきか、と思ったところで口を開いたのは、糸島さんのほうだった。
「えー……と。新田さんとこのお孫さんだから、新田くん?」
「はい」
「高校生?」
「1年生です」
「そうかあ。ってことは、店長に告ったのは小学生入ったばっかの頃か。うーんと、込み入ったことを聞くようだけど……。彼女は?」
「今まで一度もいません。子供の頃からずっと、朔也さん一途でしたから」
「おー、そりゃ筋金入りだなあ」
 糸島さんはそう言って笑う。仕事の邪魔しちゃったのに、気にしてないみたいだな。ありがたいし、いい人だ。
「ま、ご贔屓にしてやってください」
「はい!」
 そこに、綺麗にラッピングされた花束を持った朔也さんが戻って来た。きゅっと胸が鳴る。華やかだけど落ち着いた花を抱えた朔也さん。すごく、似合う。綺麗だ。
「充、お待たせ」
 話しかけようとした俺に、ばさりと花束を渡してくる。
「早くおばちゃんとこに持ってってやりな。急がないと、心配だって言って迎えにきちゃうぞ」
「えっと」
 朔也さんは、にぃっと笑い、最後に「またな」と言った。
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