99こ目;独りぼっちの夢
生憎どちらも自分たちの意志では動かすことの出来ない日程でした。
蒼生は心配しないでほしいとふたりを送りだすのですが…。
今回は少しテイストが違う感じでございますが、安心してください。
きちんとハッピーエンドです!
↑初公開時キャプション↑
2024/05/01初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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寝る前に少しだけ遊びたいと言って、買ったばかりのゲームをいそいそと出してきたのは健ちゃんだ。冬矢がすぐに誘いに乗り、僕も手招きされるがままにソファに座ってコントローラーを握った。うーん、僕が入ると健ちゃんも冬矢も手加減をしちゃうから、ふたりだけでやったほうがいいんじゃないかなあ。僕だってゲームは好きだからそこそこは出来ると思うけど、ふたりのレベルに比べたら全然話にならないってわかってるのに。
そろそろ眠いのもあるし辞退したほうがいいかなとか、ちょっと思ってるのがバレたみたい。冬矢が僕の髪をそっと撫でる。あ、気持ちいい。
「俺も操作方法がわからないんだ。気負わなくていいよ。適当にやってみよう」
「それ言ったら、オレだって説明書ぜんっぜん読んでねえし。むしろ今開けたばっかだよ。条件は一緒じゃね?」
「その状況で人を誘おうというのは度胸があるじゃないか」
「だって早く触ってみたいじゃん。他人誘うならもうちょっと気は遣うけどさ」
「ふーん。まあ、やってみたい気持ちもわかる。話題のソフトだからな」
そっかぁ。ふたりがそう言うなら、やってみようかな。たぶんふたりが操作に慣れるよりも、僕が音を上げるほうが早いだろうけど。
健ちゃんが隣に座ると同時に、ぱっと画面にオープニング映像が流れ始める。ん、あれ。ずいぶん可愛らしい絵柄だ。なんだかアニメの映像みたい。健ちゃんが普段やってるゲームって、写真みたいな映像のが多いのに、珍しいな。そういえばパッケージもデフォルメされたキャラが描かれてたっけ。ジャンルは、えーと、アクションっぽいね。二頭身くらいの小さなキャラが4人、各々武器を持って画面の半分を占めるくらいの大きな岩型の敵に飛び込んでいってる。あれ? このデザイン、なんとなく見覚えがあるような……?
「ねえ健ちゃん。このキャラクター、どっかで見たことがある気がするんだけど」
「うん。蒼生も知ってるでしょ、オレが昔からやってる、毎回お姫さまが自ら脱走して誰が先に連れ戻せるか競争するやつ。あれの番外編なんだって」
「あ、それで知ってるんだ」
「じゃないかな。サブタイトルが夢の国で大冒険~ってだけあって、雰囲気がふわふわしてて楽しそうじゃん? しかも今回のって、お互いにバトルするんじゃなくて、みんなで遊べるパーティタイプなんだ。ひとりでも出来るし協力も出来るから、一緒に遊べると思ってさ」
ああ、なるほど。僕と遊びたくて買ってきたんだ。ふふ。昔から、こういう可愛いとこ変わらないよなあ。
今のでだいぶ眠気が飛んだ。ふむふむ、このセレクト画面で使うキャラクターを選ぶのか。ええと、どれにしよう。知ってるっていっても、健ちゃんがやってたゲームを後ろから見てただけだから、メイン以外は名前もわからないんだよね。わかんないなら、どれでも一緒かな。んー、じゃあこの星の飾りが付いたステッキを持ってる子にしよう。
わ、始まった。向こうにお城が見える広場に、僕らが選んだ丸っこいキャラクターが3人並んでる。
「立て看板に矢印が書いてある。ってことは、あっちの方向に進むのか」
「あ、ほんとだ、道があるね」
「表示からすると、健太がメインプレーヤーになるようだな。俺と蒼生はついていけばよさそうだよ」
「はーい。ジャンプするのはこのボタンかな……あ、なんか星が飛んだ」
「星がぶつかると敵が消えるね。蒼生のキャラクターは遠距離攻撃ができるのか」
「蒼生が押したのどれ? それ? んじゃ、それが攻撃ボタンか。どれどれ。あ、オレのは剣だ! 背中の棒って剣の鞘だったんだな。するとー、隣のボタンが、おー、ジャンプボタンだ」
「ああ、俺も近距離攻撃タイプのようだ」
これは楽しいかも。まだ序盤だっていうのもあるんだろうけど、マップは単純で、出てくる敵もすごく弱い。攻撃は味方に当たらないから、ちょっと離れた後ろ側からぽんぽんボタンを押していれば何とかなる。
「これ上に行けそうじゃね? 蒼生、こっちおいでー」
「うん。あ、わ、この子、ジャンプ力弱いかもっ」
「この蔦に飛びつくとよじ登れるみたいだ」
「ええと、こう?」
「そう。上手」
このゲーム、いいかも。ふたりとおしゃべりしながらプレイできる。あと、じたばたして両隣にぶつかっちゃっても、ふたりとも避けないでいてくれるどころか僕のほうに寄り添ってきてくれてる。ゆったりした世界観だからできるんだろうなあ。嬉しい。これがハードなアクションを要求されるやつだと、邪魔になりそうで僕自身も遠慮しちゃうところだ。
ふたりの活躍でどんどんゲームは進む。夢の中の景色っぽい、緑色の雲の上をぽよんと弾みながら3人で滑り降りていく。なんだか気持ちいい。両側から感じるふたりの体温のあったかさもあって、体が眠気を訴えてくる。そろそろ限界かも。
そう思ってた時、ダイニングテーブルに置きっぱなしだった冬矢の携帯が鳴った。
「健ちゃん、いったん止めよ」
「うん。えーっと、ポーズって出来んのかな」
「いいよ、止めなくて。相手によっては後でかけ直せばいい」
「だけど夜にかかってくる電話って急ぎだったりするし……。確認だけでもしてみたら?」
「……そうだね」
手を止めた冬矢が、ぽんと僕の頭に手を置いてから立ち上がる。
「お、普通に止められたわ」
健ちゃんがボタンを押すと、画面が薄暗くなった。すると、僕たちが使ってるキャラクターのイラストが表示される。その脇にはボタンの名称とそれに対応するアクションが書いてあった。
「あ、これ見れば使い方わかるんじゃん。こっちがジャンプでこれが攻撃、特殊能力なんてのもある。へえ、ゲージが溜まるとこれが使えるんだ。取説読まなくてもなんとかなるようになってんだな」
「便利だねえ」
僕はわりと冊子になってる説明書を読むのが好きだったりするけど、好きなゲームを一刻も早く遊びたいって気持ちも理解できる。それに、いっぱいいるキャラクターの特性を覚えるのって大変だもん、こんなふうにすぐにわかるようになってるのは親切だなあと思う。連携技もあるみたいだから、3人で使えたら気持ちいいだろうなぁ。
「……いや、だから、その日は都合が悪いんだよ」
あれ。冬矢の少しイラついた声。どうしたんだろう。見れば、冬矢は僕たちに背を向けてる。電話の相手の声は聞こえないけど、たぶんご両親のどちらかだと思う。冬矢がはっきり嫌だって意思表示する相手はそんなにいないから。
「そもそも俺は行かなくていいという話だったじゃないか。……うん。いや、そうかもしれないけれど」
やっぱり何かあったのかな。嫌な知らせだったのかな。
健ちゃんと目を合わせると、健ちゃんも戸惑った顔で首を傾げた。
「ともかく、少し時間をもらうよ。ああ。うん。じゃあ」
電話を切るなり、冬矢ははあっと大きく息を吐いた。僕が立ち上がると、困ったように笑う。
「冬矢……何か緊急事態?」
「ううん。そういうわけじゃないから、蒼生は何も心配しなくていい」
「でも」
僕は言いかけて、止めた。冬矢が僕に言う必要がないって言うなら、無理に聞き出さないほうがいいんだ。きっと僕には関係のない話だろうし。
「……うん」
頷くと、健ちゃんが勢いよく僕の腕を引っ張った。
「わ」
「おい」
ソファに転ぶような格好で再び座ることになった僕は、健ちゃんの不満げな声に慌てて顔を上げる。でも、健ちゃんの目線は僕じゃなくて冬矢に向かっていた。
「心配しなくていいなら、ざっくりでも話しときゃいいじゃねえか。言えねえっつーんだったらその理由だってあるだろ。モヤモヤする話し方すんなよ」
「け、健ちゃん。冬矢の都合もあるんだし、強引に聞くのはよくないよ」
言いたくないことだって、ある、と、思うし。
だけど、首を振ったのは冬矢のほうだった。
「ああ……いや。うん。そうだ。健太の言う通りだな。ちゃんとそう考える理由を告げるべきだ。……ごめんね蒼生。気にするといけないから黙っていようと思ったけれど、そうすると余計気になってしまうのは当然だよね」
冬矢は困ったような顔で笑う。
「実は、親戚の法事があるんだ。ただ、滅多に会わないような少し遠い親戚でね。先方もわざわざ遠くまで来るのも大変だろうと言ってくれて、俺は欠席でいいという話になっていたから、そうすることにした。でも別の筋に口うるさい人がいて、きちんと全員集まるべきだと言いだしたらしいんだ」
「えっ。後のことを考えると、行っておいたほうがいいんじゃない?」
「それが、日がよくない。健太がサッカー教室の手伝いに行く日程とまったく同じなんだよ」
僕はもう一度「えっ」と思う。自分のじゃなくて、健ちゃんとの日程被り?
「うわー、来月のやつか」
「ああ。時間は少しずれるだろうが、金曜に出て日曜に戻るのは変わらないと思う」
「そりゃちょっとよくねえな。なんか急遽無理になったとかって断ろうかな」
「お前のほうが迷惑をかける範囲が大きいだろう。やはり俺が断るのが筋だと思う」
すっと背筋が冷える。冬矢が黙っていようとしたのはそのせいか。僕のせいなのか。
それはすごくよくないことだ。頭の中がぐるぐるする。一度冬矢が断ったのに改めてご両親を通じて連絡してくるって、かなり温度が高い要求なんだと思う。だって、冬矢のご両親って、冬矢の意思を一番大切にする人たちなんだ。それなのに再度お願いしてくるってことは、もしかすると、冬矢を連れてくるよう言った人は親戚の中でも発言権が強いとか、反対されると周りに対してよくない感情を抱くタイプかもしれない。万が一そうだった場合、どうしても行かないなんて言ったら、冬矢の立場が悪くなるんじゃない? 僕のせいで、冬矢が悪い印象を持たれてしまうなんて。それがきっかけで冬矢や冬矢のご両親が親戚の人たちと疎遠になってしまうことだってあるんじゃないの?
「……僕がふたりの行動の妨げになってるなら、そんなの嫌だ」
言葉が詰まったけど、なんとかそれだけを告げた。それが正解の言葉だったかわからない。でも、嫌だって思ったのだけは確かだ。邪魔をしたいわけじゃないんだ。枷になりたくない。ううん、既に枷でしかないのに。
膝を見つめる僕のわずかに歪んだ視界に、冬矢の困惑した顔が割り込んでくる。
「蒼生。たしかに、蒼生をひとりにしたくないのも理由のひとつだということは否定しない。ただ、俺が面倒だから行きたくないのが一番の理由だよ。自分の気持ちを蒼生のために犠牲にしているなんてことはないんだからね」
冬矢の言葉は、僕を見透かすかのよう。僕が嫌だと思った、その曖昧な気持ちが、冬矢の言葉ですとんと落ち着いた。僕にもわからない僕の気持ちが、冬矢には伝わってしまうんだ。
「蒼生、オレ……」
目を上げると、健ちゃんも困った顔をしてた。やっぱり僕と同じように、何を言っていいか自分でもはっきりわからないみたい。優しい健ちゃんは、自分が出かけていいかどうか判断に迷っているんじゃないかな。
だけど、健ちゃんだって断るべきじゃない。健ちゃんの用事は、同学部の先輩がボランティアで参加しているというちびっこサッカー教室の合宿のお手伝いだ。その先輩というのは僕たちと同じ高校出身で、健ちゃんにとってはサッカー部の先輩でもあった。1年生の時に3年だったから、付き合い自体は長くないんだって。なのに、会った瞬間すぐに健ちゃんのことがわかったくらい、現役当時は可愛がってくれてたんだそうだ。健ちゃんから話を聞いてると、あちこちに顔が広い人らしいから、将来的にきっと健ちゃんのためになるお付き合いだと思う。
ベストな形はひとつしかない。
「わかった。……ふたりとも、行ってきて」
「蒼生」
「先輩が信頼して健ちゃんにお手伝いを任せてくれたんでしょう? そういうご縁は大事にした方がいいよ。冬矢も、今繋がっている人たちは大切にしておいたほうがいいと思う。だって、人との関係なんて、いつ切れるかわからないんだから」
大学生になってこの街に越してきて、大学の友達とかバイト仲間とか地元の人とか、たくさんの新しい縁を得た。なによりも、健ちゃんと冬矢との関係がますます深くなったと感じてる。……だけどその代わり、僕は帰る家を失った。
いや、たぶん、そんな深刻な事態じゃないんだとは思う。誰とも連絡を取れないとかそういうことじゃないから。時間が経てば、何事もなかったように帰れるかもしれない。だけど、お母さんに、これから先僕に対して出来ることは何もないって言われた。それから、二度と帰ってこなくていいって言われた。どう判断したらいいか悩んだけど、僕はそれを言葉通りに受け取ることにした。納得して家を出てきたんだ。昔だったら絶対に言ってただろう「ごめんなさい、やっぱりやめます」は言わなかった。言いたくなかった。どうしてもふたりと生活を共にすることを選びたかった。たまに心がざわめくことがあるけど、後悔は、してない。
……だけど、そういう思いを冬矢がしたら嫌だな、と思った。
だから笑ってみせる。
「っていうか! ふたりとも、何の心配をしてるの? 僕だって一応一人前だよ。ばらばらに出かけることだってあるんだから、ひとりになることなんて珍しくないでしょ。それにたかだか3日なんだから。大丈夫だよ。健ちゃんも冬矢も、頑張ってきて。ね?」
大丈夫。ちゃんと自分の足で立たなくちゃ。頼ってばっかりじゃだめなんだ。
ほっとしたみたいに、健ちゃんは首を縦に振った。冬矢はまだ少し納得のいかない顔をしてたけど、しばらく僕のことをまじまじと見た後で、小さく笑って頷いた。
朝早く出かけていった健ちゃんは、起きるなり僕のことを起こした。もちろん僕だってちゃんと起きるつもりだったけど、どうしても僕とたくさん会話してから出かけたかったんだそうだ。3日分、って言って、いっぱい抱き締めてくれた。顔いっぱいに書いた「寂しい」を隠したりもしなかった。そういえば、部活の合宿に行く時もいつもこんな顔をしてたっけ。昔から健ちゃんは僕と離れたくないって思ってくれてたんだ。
それでも元気よく出発した健ちゃんを見送ってからしばらくして。僕は今、駅へ向かう道を冬矢とふたりで歩いてる。
「今日行くところって、冬矢の田舎っていうわけじゃないんだよね」
「そう。伯母が馴染みにしている小さなペンションがあって、そこを貸し切りにしたそうだよ」
「大がかりだねえ」
「俺の好みではないんだけれどね。ずいぶん派手好きな人がいるらしい」
苦く笑う冬矢に、ずきんと胸が鳴る。冬矢は行きたくなかった。わかってたのに、僕が無理に行けって言ったんだ。僕のせいで。
「……ごめんなさい」
「うん? ……ああ、まだ気にしているんだね。言ったじゃないか、蒼生が俺のためを思って、しっかり考えてくれたからこその言葉だとちゃんと理解したよって。それを聞いて、俺も苦手なことから逃げてばかりなのはよくないな、と反省したんだから」
「でも」
「むしろ今は、早く帰って蒼生に会うことが楽しみなんだ。明後日の夜が待ち遠しくてならないよ。そうだ、お土産に悩んでいるんだけど、甘いのとしょっぱいのなら、どっちがいい?」
「……甘いの」
「わかった。じゃあ美味しそうなものを探してこよう」
冬矢が僕の指を優しく撫でる。今にも繋ぎそうな手。人ごみの中では、重なりそうで重ならない。でも。冬矢が帰ったら。きっと。ちゃんと繋げる。
そう思うときゅーっと体の奥が切なくなる。顔が見たくなって目を上げると、冬矢は柔らかな表情を僕に向けて、静かに首を傾げた。僕を包み込むような眼差しは、きちんと意志を固めたからのように思えた。冬矢が優しすぎて、自分の情けなさがはっきり可視化されてしまう。きっと今、僕はとてもひどい顔をしているはずだ。
ああ、もう駅に着いちゃう。この道が終わると、……着いちゃった。なんでこんなに近いんだろう。駅ビルに入れば、すぐに改札が見えてしまう。
すると、冬矢がつんと僕の指をつついた。なに? 横を見上げると、冬矢はきょろきょろと辺りを見回してからふいっと方向を変え、改札じゃなくてエスカレーターの近くにある非常階段のほうに向かった。あれ。どうしたんだろう? 何も言わない冬矢の後ろについて行くと、端っこに僕を引き込んで、……キスをくれた。冬矢の、いたずらっぽい笑顔。
「帰ったら、すぐにこの続きをするから、その予約」
「……うん。ふふ」
ちょっと浮上した。嬉しい。僕の顔が相当寂しそうに見えたんだろうな。もちろんこれじゃ足りないけど、我慢しなくちゃ。
「冬矢、大好き。続き、楽しみにしてるから。気を付けて行ってきてね」
「蒼生もくれぐれも気を付けて。チャイムが鳴っても出ちゃ駄目だよ」
「心配性だなぁ。うん、ありがと」
改札を通った冬矢は、一度だけ振り返ると、穏やかな笑顔を残して人波に埋もれていった。
…………。……うん。さて! レポート用の資料、探しに行こう! 駅の近くにある図書館に籠もるって決めたんだ。時間はいっぱいあるし、時計を気にする必要はない。チャンスだ。そう、チャンスなんだから。いつまでも改札見てたって、冬矢はもういないんだ。……冬矢……いない……。っ、あー、ほら、図書館、図書館!
そうだよ、ひとりになることなんて珍しくない。バイトがあったり帰る時間が違ったりで、家にひとりきりなんてしょっちゅうだ。大学にいる時だって、サークルは一緒でも学部が違うからほとんど行動はバラバラだもん。それに、授業では友人と一緒なことも多いけど、僕って基本的にはひとりが好きなんだ。なんでも自分の決めた通りに行動できるし、人に迷惑をかけることもないし、すごく楽なんだよね。人の気配のない静かな場所にいると、心が落ち着いて、ようやく呼吸ができるような感じがする。中学まではそうやってあえてひとりになろうとしてた。
なのに。
ふたりとはずっと一緒にいたい。
離れたくない。
離してほしくない。
世界が僕たちの部屋だけになって、3人だけで生きていけたらいいのに。
……なんてね。現実的じゃないのは当然わかってる。そんなこと、叶うわけがないんだ。
図書館を出ると、もう夕方だった。こんなに時間が経ってるとは思わなかったから、少し自分でもびっくりした。でも、作業にちゃんと集中出来た証拠だ。大学の図書館と違って専門書は少ないけど、地元に関する資料がたくさんあって、意外に小学生向けの地図帳が役に立った。そうだ、近くに郷土資料館もあったよね。なんだかんだでまだ行く機会がなかったから、今度行ってみよう。冬矢は進んでついてきてくれそう。健ちゃんもきっと一緒に来てくれる。帰ってきたら誘ってみようかな。
そういえば、おなかすいた。こんな空回りした状態でも、きっかり空腹はわかるらしい。そっか、ずっと図書館にいたから、昼ごはん食べ損ねてるのか。何か食べようっていう考えが浮かばなかった。少し早いけど、夜ごはんと一緒にしちゃおう。だけど、……自分だけの食事を準備するのはすごく億劫だ。何を食べたいか考えるのも面倒くさい。もういっそ、帰って寝ちゃえばいいかな。そうすればおなかすいてるのも忘れられる。……ダメだ、そんなことしたってバレたら健ちゃんが悲しむし、冬矢も心配する。ちゃんとしなくちゃ。
ふと目を上げると、ぼんやりしてた頭にようやく商店街の景色が入って来た。足早に歩く人や、店先に立ち止まる人、たくさん人がいた。よくぶつからずに歩いていられたなぁ。もう少しぼけっとしてたら、小さな間口の食パン屋さんに並ぶ人たちに突進するところだった。あ、そうだ。たしかこのパン屋さんの先、曲がり角のところに定食屋さんがあったはずだ。そこに入ろう。今の時間でもやってるかな。
少し歩けば、趣のある店舗が見えてくる。暖簾は出てるみたいだ。もっと近付くと、営業中の札がかかってるのも見えた。よかった。ガラスがはまった横開きの引き戸を開ける。ふわっとあったかい空気が頬を撫でるように背中に向かって流れていく。
「はい、いらっしゃーい」
店主のおじさんの明るい声。こぢんまりした店内には、お客さんは2人だけだ。時間が中途半端だしね。カウンターにいる人も、隅っこのテーブルで新聞を開いている人も、どうやらお酒を飲んでいるらしかった。
「いらっしゃいませぇ。あ、お久し振りねえ。珍しい、今日はおひとり?」
厨房からトレイを持って出てきたのは店主の奥さんだ。たまにしか来ないのに覚えててくれたんだ。それより、セットで覚えられてるのが嬉しいな。
「はい。ふたりとも出かけてて」
「それじゃあ好きなところにかけてちょうだいね。ああ、せっかくだから、カウンター席にいらっしゃいな」
そっか、3人だとテーブル席に着くのが普通だから、たまにはそういうのもいいかもしれない。カウンター席に座ると、厨房で手際よく料理を作ってる姿がよく見えてちょっと楽しい。綺麗なオレンジ色に染まっていくスパゲティを見ていると、なんとなく気分が落ち着く。健ちゃんも自分が作るのは好きじゃないけど、こういう作業を見るのは好きだよね。製造工程が見えるお店行くと、興味深そうに眺めてるもんね。
しばらくして、僕の前にサバみりん干し定食がやってきた。新しくできたメニューらしくて、おすすめだって言われたから。それに、たぶん、冬矢が好きそう。あ、うん、美味しい。パリパリでしっとり。好きだって言うと思う。
ああ。やっぱり、3人で来たいなあ。
「ごちそうさまでした。今度はまた3人で来ます」
「ありがとうね。来月からハンバーグ再開するから、おっきい子にも言っといてちょうだい!」
「わあ、楽しみです!」
健ちゃん、美味しいって絶賛してたもんね。きっと喜ぶだろうなあ。ふふ。
戸を開けたとたん、あれっと思う。外がずいぶん暗くなってる。そんなに長居してないはずだけど。風もやけに冷たい。店の外に1歩出た瞬間、冷たい粒が頬に落ちた。雨? アーケードの下とはいえ、十字路の角だから道のほうから吹き込んできてるのか。道理で暗いわけだ。だけど天気予報では降る予定じゃなかったから、そんなに長くは降らないんじゃないかな。商店街の中はいいけど、そこから先は傘が必要そうだ。鞄に折り畳み傘を入れておいてよかった。入り口の前にいると邪魔だから、ショーケースの前に移動して鞄の中身を探る。本と、財布と。端っこのほうに傘が入ってる。
「うわ!」
えっ。
急に腕が引っ張られる感じがして、踏みとどまれずに地面に転がる。
え? なに? 目の前……自転車?
「危ねえな! ちゃんと前見て歩け! 馬鹿が!」
っ……。え? 立ってただけなのに? ぽかんとしていると、その自転車は勢いよく走って行った。傘を差した若い男性だったな、くらいしか頭が働かない。
「あらあらあら、大丈夫!?」
大きな音を聞きつけたのか、店の中から奥さんが走り出してくる。
「あ、……はい」
向かいの店からも、店員さんとお客さんが慌てた様子で駆けつけてくれた。
「大丈夫ですか!? もう、なんなのあれ! ちゃんと見てなかったのはあっちなのに!」
「危ないなと思ってちょうど見てたんですけど、あの人、傘を肩で押さえて電話弄りながら乗ってましたよ」
「えーっ。そもそも商店街の中は自転車降りて歩かなきゃですよね!?」
「少なくとも屋根があるんだから、傘はたたんでおけばいいのに。面倒がって人に迷惑を掛けるなんて酷いじゃないですか! お兄さん、ケガはない?」
みんなが僕を囲んで口々に話すのを、ノイズがかかったようなぼんやりした感覚で聞いてた。自転車の勢いで、気持ちだけ遠くに弾き飛ばされてしまったような妙な感じ。
でも、いつまでも座ってたら迷惑だ。立ち上がって、ぱたぱたと服をはたく。
「すみません、皆さん。ご心配いただいてありがとうございます。ちょっと驚いただけなので大丈夫です。お時間取らせてしまってごめんなさい」
笑ってみせると、周りの人たちはほっとした顔をした。
「よかった」
「商店街の会長には改めて、自転車のルール周知してもらうからね」
「ありがとうございます」
そこからは、どうやって帰ったかよく覚えてない。体が覚えてたから、気が付いたら玄関の中に立ってた。
頭がぐわんぐわんする。頭をぶつけたわけじゃないから、怪我とかではないと思う。どこも痛く……いや、手とか膝とか、……痛い。だけどそれ以上に怒鳴られた大きな声が頭の中で反響してる。
家の中は、しーんとして暗い。だから余計に大声が耳に残る。痛い。
健ちゃんと冬矢がいなくて良かった。ケガしたなんてって知ったら、絶対ふたりは心配する。心配かけたくない。取り出しかけた携帯を、ポケットの中でぎゅっと握り締めた。
ぽつん。
どうしてだろう。
真っ暗な中に、僕はひとりで立っている。
なにかがおかしいはずなのに何も考える気が起きなくて、なんとなく目を落とす。その先には白い靴が見えた。爪先と底に青いゴムがついたやつ。ああ、小学校の上履きだ。そっか。僕は小学生だったっけ。
足の下には、見慣れた廊下の薄茶色。がらりとドアが開いた音。僕は教室の中にいて、6つ並べた机を囲んで座っている。いつの間に座ったんだろうと目を上げると、他の席にも人が座っていた。誰だか知らないけど、クラスメイトだと思った。
「ねえ聞いてる!?」
「やっといてって言ったのに! なんで何もしてくれないの!」
「うるさいな! 押しつけてきたのはそっちだろ!」
「ねえ、もう帰らなきゃなんないんだけど」
「これが終わんないとダメだっつったろ!」
「もうやだーっ」
びりびりと、耳に響く音が痛い。
目の前には、ざらざらした薄っぺらい紙が乱雑に積み上げられてる。みかん、とか、りんご、と手書きの文字。ああ、これ、授業で研究発表をするためにクラスでとったアンケートだ。そうだ、それをまとめるために班で集まったんだ。集めるのを女子がやって、あとは男子がやるって算段だったのか。話を聞いていると、渡された男子が勝手に役割を決められたことに腹を立ててそのままほっぽっておいたらしい。
それはそれとして、今は言い争いをしている場合じゃない。時間の無駄だと思う。
「とにかく、発表まで時間がないよ。まずは作業をしちゃわない?」
なるべく双方の気持ちを落ち着かせようと、ゆっくり、笑いながら話しかける。ばん、と机を叩いて立ち上がったのは女子3人。
「用事あるから。もともとそっちの仕事でしょ」
そういう話だったかどうかは覚えてない。でも、脳裏には「言われてない」という言葉が浮かぶ。だけどそれを言ったらまた話がこじれちゃう。
「それは、」
「野木沢はいつでも女にいい顔するよな! ってかそう言うなら野木沢がやりゃいいじゃん。俺ら知らねぇし!」
「そうだよ、いつもへらへらしやがって!」
え、別に、そんな。
何か言おうと思ったときには、僕はひとりになっていた。……僕はいつもこうだ。周りの人を不快にするんだ。
からっぽの席を眺めて首を捻るけど、わからない。
どう立ち回っていいのかわからない。
何を話せば正解なのかがわからない。
だからひとりでやればいいんだ。僕は机の上に散らばった紙をかき集める。
「オレは蒼生の言うとおりだと思うけどなー。みんなでとっととやっちゃえば終わるじゃん」
僕の隣で、健ちゃんがそう言った。
座ってたみんなは、顔を見合わせて頷く。ほっとして肩から力が抜けた。
すると、また僕は廊下にいる。あれ……健ちゃんは? 見渡しても、しーんとした廊下には、健ちゃんだけじゃなくて誰もいなかった。健ちゃん、どこ? 窓の外は明るいから、放課後でもないのかな。授業中? じゃあどうして僕はここにいるんだろう。そうか、さっきのアンケートを先生に見せに行くんだ。
突きあたりまで行くと、非常口があった。ちょうどいい高さに窓があったので、そこから外を眺めてみる。でも真っ白で何も見えない。誰かにこれを伝えなくちゃと思ったけど、授業中なら邪魔をしちゃいけない。近くにあった階段を下りれば教員室があるはずだ。やけに薄暗い階段の踊り場を過ぎると、そこは保健室だった。ああ、間違えちゃった。もう一度上の階に戻って、長い廊下に出た。向こうのほうに昇降口が見える。目指して歩きだすけど、いくつもいくつも教室を過ぎても、ちっとも辿り着けなかった。
「野木沢くん」
突然声がして、振り返る。そこには長い髪の女の子がひとり立っていた。毛先はわずかにウェーブがかかっていて、たしかに見覚えがあった。でも、顔を見ても誰だかわからない。はっきり顔は見えているはずなのに、そこだけ絵の具をかき混ぜたようにぼんやりしてひどく曖昧な感じがした。そのせいなのか、すごく心がもやっとする。嫌なことが起きるんだとなんとなくわかった。
「あのね、私ね、」
色素の薄い髪がふわっと靡いて、僕はどこかの窓が開いてるんだろうかとぼんやり思っていた。その先に言われる言葉を知っている。
「優しくてかっこいい野木沢くんが好きなの。お付き合い、してくれませんか」
ざらざら、と目の前を黒い砂が覆っていくような感じ。
嘘だぁ。
僕にその価値はない。
何もできない、何の役にもたたない。
ただ周りに迷惑を掛けないように、僕自身の心に波風を立てないように、おとなしくしてるだけだ。それが時々こんな誤解を生む。
僕は優しくなんかない。優しくあってほしいという願望が僕をそう見せているだけなんだ。自分に都合良くあってほしいってことが、君に対して優しいということなんだ。そうでなければおかしい。僕なんかが誰かに愛されるはずがないんだから。僕のことなんて誰も好きにならない。そのはずなんだ。
だから、この人は嘘をついているということだ。
そんなに簡単に嘘をつけるんだから、この人は信用しちゃいけない。
目の前がどんどん暗くなっていく。
ざらざらと砂煙になって。
とうとう真っ暗になる。
けど、僕の手を握る誰かがいる。
「されたの? 告白」
健ちゃん。
さあっと景色が戻ってくる。
「されたよ。でも、僕には、そういうの早いから」
早いとかじゃなくて、必要ないんだけど。そう言ってしまうのは良くない気がして、言葉を濁した。だけど健ちゃんはそれを素直に受け取ったのか、「そっか」と言って笑った。気のせいか、それはすごくほっとしたような顔だった。
それを見て、僕の気持ちも軽くなる。
ずっとずっと昔から、いつもいつもそうだった。健ちゃんはどんな時でも僕の側にいてくれた。僕がぎゅうっと胸を潰されるような思いをすると、それを知ってるみたいに飛び付いてきてくれた。そうすると、嫌な気分は驚くほどあっさりと蒸発していってしまう。健ちゃんはすごい。健ちゃんは不思議な力を持っているんだ。
でも。
そんな健ちゃんのあったかさは、僕だけのものじゃない。いずれみんなが健ちゃんのすごさに気付く。健ちゃんの周りには、もっとたくさんの人が集まってくる。そうなったら、くだらなくてつまらない僕なんか忘れて、健ちゃんはそっちに行っちゃうんだ。
ぱしっと健ちゃんが僕の手を振り払った。
「あ」
ほら。
一瞬で遠ざかる。健ちゃんの背中と、楽しそうに笑う横顔が、手を伸ばしても届かない場所にあった。隣にいるのは誰だか知らない、けれど華奢で可愛らしい女の子だ。とてもお似合いの2人だ。そうだ、健ちゃんは「もの」じゃない。だから僕の「もの」にはならない。当たり前のことだ。
僕は身動きひとつ取れずに、その光景を、ただ、眺める。
置いて行かれてしまう。
だけど、それでいいんだ。
初めて彼女を作った健ちゃん。それはすぐに終わってしまったけれど、健ちゃんの魅力に気付いた子たちがどんどんその後を埋めていく。それにつれて、僕の元へ駆けつけてくれることも減っていった。
それでいいんだ。
ずっと健ちゃんに頼り過ぎだったんだ。独り立ちしなくちゃ。健ちゃんに頼らずに、自分でなんとかしなきゃ。僕は独りでいい。独りがいい。健ちゃんがいないなら、それが一番いい。
くるり、と後ろを向く。ああ、体が動く。これでいいんだ。
振り向いたところは、教室だった。たくさん人がいて、ひとつだけ空いた席があったから、あれが僕の席なんだとわかる。机の中には教科書が詰まっていた。それを全部取り出して机の上に並べていく。教卓の前には誰もいない。黒板にはびっしりと何かが書き込まれている。文字のはずだけど、読み取れなかった。
「野木沢、教科書忘れちゃった。見せて」
「いいよ」
「ねえ、ここわかんないんだけど」
「ここはね」
「これ手伝ってもらってもいい?」
「もちろん」
ひっきりなしに、周りが話しかけてくる。笑って答えれば、誰も怒らない。全部穏便に済ませたい。だって問題が起きたら面倒だから。
だけど、
「野木沢くんって好きな人いるの?」
「うーん。まだわかんないな」
時々それ系の質問を受ける。なんでそんなおかしなことを聞いてくるんだろう。僕に興味なんてないだろうに。
「一緒に帰ろ」
「ごめんね、ちょっと急がなきゃいけなくて」
何が目的で近寄ってくるんだろう。僕なんかに関わって何の得があるんだろう。
踏み込まれるのは嫌だ。誰も僕に関わらないで。ちゃんと受け答えはするから、ちゃんと役に立つようにするから。それだけの存在なんだから。放っておいて。僕のことなんか本当は好きでもないのに、なんで僕に構ってくるの。
ああ、どっちを向いて笑っていいのかわからない。
「野木沢って誰にでも調子いいよなー。先生にいいかっこ見せたいんだ? 優等生ってやだね」
「あはは、そんなつもりはないよ」
「先生のお気に入りってやつだ」
あー。
どうでもいい。
全部どうでもいい。
人垣の向こう側に、健ちゃんの姿が見えた。誰かと笑ってる。僕じゃない。もういい。健ちゃんのことなんて、どうでも……ううん。健ちゃんはどうでもよくない。どうでもいいのは僕だ。僕だ。僕なんて、いっそ、
…………っ。
見慣れた常夜灯のオレンジの光が目に飛び込んで来て、体の全部が急に覚めた感じがする。息が苦しくて、胸が、ぎゅうっと掴まれてるみたい。汗が首筋を流れるのが気持ち悪い。
「変な、夢……」
息を吐きながら、ぼそりと呟く。そうすると、今目の前で起きていたような出来事がただの夢だったとはっきり認識できる。ほんとに、変な夢だった。ほとんどが実際にあったことじゃないと思う。それに似たニュアンスの言葉を言われたことはあったかもしれないけど、あんなにつらいばっかりじゃなかったはずだ。なんだか、いろんな出来事をまとめてぐちゃぐちゃにしてすり潰したみたいな、おかしな夢だった。
そうだ、あんなことはなかった。にこにこしてれば大体みんな協力してくれたじゃないか。揉め事になる前になんとかなってた。そうすることが楽だったから、そうしていただけだ。それで全部うまくいってた。そんなふうに適当に対応する僕を快く思ってなかった人たちもいただろうし、裏で何を言われてたかはわからない。僕のことは便利だから使ってたんだと思う。あの頃の僕はそれこそどうでもよくて、なんとも思ってなかった。けど、今こうして冷静に振り返ると、しんどかったような気もする。もう覚えてない。
でも。これだけはわかる。改めて自覚したけど、結局、僕は健ちゃんから独り立ちできなかった。ずっと……頼りっぱなしで今まで甘えちゃってたんだ。だから、嫌だと思ってたことが夢になったっていうより、自分の情けなさが見せた夢だったんだろう。しっかりしろってことなんだ。
はあっと息を吐いて、ヘッドボードの上を見る。置時計が、やけに大きな音を立てて時間を刻んでる。ちょっと早いけど、起きてもいい時間だ。起きて体を動かしてたら、少しはすっきりするかもしれない。
……携帯……。健ちゃんと冬矢からの連絡は、ない。無事に現地に着いたってメッセージはもらったけど、それ以降はなにも。
忙しいんだと思う。だって、健ちゃんは小さい子相手にサッカーを教えるお手伝いをしてるんだもん。たくさんの子に囲まれてたら、電話なんて弄る暇ないよね。1日そうやって動いてたら、夜だって疲れちゃってすぐに寝ちゃうよね。今頃はまだ寝てるんじゃないかな。冬矢だって大変なんだ。親戚の人たちは久し振りに会う冬矢と話したいことがたくさんあるだろう。質問攻めにされちゃってるかもしれない。ペンションを貸し切りにしてるんなら、息抜きに逃げる場所もないと思う。ふたりとも体力や気力をたくさん使ってるはずだ。変な夢を見たくらいで連絡なんかしちゃダメだ。優しいから、きっと僕の心配をしちゃう。
うん。冬矢には止められたんだけど、今日バイトを入れておいて良かった。何も予定がなかったら、もっと変なことを考えてしまいそうだ。働いていれば頭の中は仕事でいっぱいになるはずだから。
そう思っていたのに。
いや、たしかに、バイトをしてるときは少し気が紛れた。トラブルもあってかなり忙しかったおかげで常に動いていたから、なんとかなった。やっぱり健ちゃんと冬矢の顔がずっと頭から離れなくて寂しかったけど、全部上手に対応出来たと思う。
でも。
濡れた傘を抱えて家に帰ると、しんとして真っ暗な部屋。
出かけたときと、まったくおんなじ、どこも代わってない配置。
当たり前だけど。
なのにそれが、ひどく重く心に突き刺さった。
火口の近くにある岩棚には、両手を広げた幅にだけ不自然にツタが密集している場所があった。登山者が集まる休憩所への通路の途中にあるのに、通り過ぎる多くの人たちは気にも留めない。どうしてもそれが気になってツタを手で避けると、小物を売る雑貨屋があった。構わず奥の扉から出れば、途端に景色が開ける。ガラス張りの大きな建物が奥に向かって延々と続いているのが見えたけれど、入り口はどこにもなかった。早くここから抜け出さなければ。追っ手はすぐそこまで迫っている。
ぱっと顔を上げると、僕はモスグリーンのソファに座っていた。目の前には床から天井までの大きな窓が広がっていて、よく晴れた空の青と少し遠くにある木々の緑が鮮やかなコントラストになっている。春の暖かさに誘われて、ぽつぽつと紫の花が咲き始めているのがとても綺麗だった。座っている角度では見えないけれど、近付いて見降ろせば谷の底に沢が見えるはずだ。天井や柱と同じ色の明るい板張りの床は、靴下越しにひんやりと冷たい。
それで僕は、追われているのが手元にある小説の中の話だったことに気が付く。そうだ、僕は本を読んでいたんだ。ひとつの章が終わったから、現実の世界が急に現れたように思えたんだろう。
すると、お母さんとななママが2人でしゃべっている声が突然聞こえるようになる。ああ、家族旅行でここに来てるんだっけ。学年が上がったから、3人が本格的に受験の時期に入る。僕と健ちゃんが高校受験、兄のみどりちゃんが大学受験だ。僕の家と健ちゃんの家で10人いて、そのうち受験生が3人ともなると、さすがに旅行とも言っていられない。しばらく一緒に行けなくなるだろうから豪勢にいこう、と温泉地にあるホテルに泊まることになったんだ。でも静かな場所にあるホテルだから、近くに遊ぶところがない。博物館に寄ってからチェックインしたところで、体を動かし足りないみんなはお父さんたちと敷地の中にあるテニスコートに行った。お母さんたちは疲れたからと部屋に残り、どうしても買ってもらったばかりの本が気になって仕方がない僕も出かけない選択をした。
状況を把握できたから、もう一度本に向き合おうと目を落とす。でも、いったん集中力が途切れたせいか、周りの音が気になるようになってしまった。
「ふうん、じゃあ緑くんってそこが第一志望なんだ」
あ。聞きたくない話になりそう。そう思うと余計に意識してしまって、逆に聞き流すことが出来なくなってしまう。僕はソファに沈み込むように体勢を崩す。お母さんたちが話してるテーブルは、窓に向けて置かれたソファから見ると後ろ側にある。ソファの背があるおかげで僕の姿は見えないはずだ。出来るだけ息をひそめていれば、僕の存在を忘れてくれるんじゃないだろうか。
「そう。付き合ってる子と同じ大学に行きたいからっていう動機はどうかと思うんだけどねえ。まあ、ランクとしてはいいとこだし、そんなに反対しなくてもいいかなって。別れたらどうするのかなとは思うけど」
「緑くんなら長続きしそうじゃない?」
「紅輝に比べたらねー。だってあの子、はっきりとは言わないんだけど、しょっちゅう彼女変わってるみたいなのよ」
「すごくモテるんだってね。優美も言ってたよ」
「いや、彼女を作るのはいいの。そういう年頃だし。でも、だからって頻繁に相手を変えるのってどうなの? ちょっとおかしいんじゃないかと思って」
心臓がばくばくと大きく音を立ててる。こういう話は、やだ。息が苦しくなる。
「うーん。その子ならではの考え方がいろいろあるんじゃないの? うちだって、優美も美野里も彼氏ひとり連れてきたことないよ」
「女の子はそのくらい慎重なほうがいいでしょ。うちのもうひとりは全然からっきしだから。……ねえ、蒼生」
ぎくりと肩が勝手に跳ねる。聞こえなかったことにできないかな。
「ちょっと、蒼生。聞こえないの?」
だめ、か。だめだよね。お母さんは少し機嫌を損ねた声をしていた。
「……ごめんなさい、本を読んでたから」
ソファの背から顔を出して言うと、はああっと長い溜め息が帰ってくる。胸がぎゅうっとする。
「あんたはホントにぼんやりしてるのね。本、本って。ちゃんと人と向き合わなきゃ碌な大人にならないんだから。そんなことだから女の子とも付き合えないんでしょ。紅輝みたいになれとは言わないけど、少しは社会性を身につけないとダメよ。気になる子のひとりくらいいないの?」
「…………ない」
「はあ。少しくらい他人に興味持ちなさい。自分からどうにかしないと、そんなんじゃ誰にも好きになってもらえないからね」
わかってる。
いつも言われてるから、わかってる。誰も僕のことなんか好きにならないんだ。知ってる。いいんだ。それでいいんだ。
「消極的で意気地がない蒼生には、元気で引っ張ってくれそうな美野里ちゃんとかどうかしら。気心が知れてるほうがこの子にはいいんじゃないかと思うんだけど」
「蒼生ちゃんがいいっていってるなら、まだいいんじゃない?」
僕は耳を塞いで、再びソファに沈み込む。
でも聞こえてしまった。
「だって健太くんだって、彼女いるでしょ」
「うん。でも、うちの健太も何故か長続きしないの」
「紅輝が悪い影響与えてなきゃいいけど」
お母さんたちの話は続く。だけど、もう僕の頭の中には意味のある言葉には聞こえない。
……健ちゃん。
健ちゃん。
おかしい、今、健ちゃんは来てくれるはずなんだ。ばたんって大きな音でドアを開けて、僕を連れ出してくれなきゃいけないんだ。
なんで?
どうして来てくれないの?
僕じゃダメだから?
僕を好きじゃないから?
健ちゃん……。
やっぱりそうなんだ。
本当に、僕なんかを好きになってくれる人なんかいないんだ。
世界に僕は必要ない。
どうでもいい存在なんだ。
頬が熱くて目が覚めた。ああ、やっぱり、常夜灯の明かり。でもそれがひどく滲んで霞んで揺れている。頬を拭うと、パジャマの袖がしっとりと濡れる。夢なんかで泣いて起きるなんて、いつ以来だろう。
……大丈夫。
僕は、ちゃんと好きになってもらえた。健ちゃんと冬矢が、僕のことを好きになってくれた。僕もふたりのことが大好きだ。だからもう大丈夫。
今日の夢は、昨日のと違って、本当にあったことだ。本の中身は全然違ってたから、あの瞬間に夢から記憶に切り替わったんだろう。お母さんたちの言葉もはっきり覚えてる。でも、夢では開かなかったけど、現実ではあの時、ドアは勢いよく開いたんだ。それで健ちゃんが飛び込んで来て、「やっぱり蒼生も一緒に行こ!」って僕を引っ張っていってくれた。あの時も僕は健ちゃんに助けられてたんだ。
なのに、お母さんたちの話は夕飯の時も続いてて、それを聞いた健ちゃんが、
「蒼生のお嫁さんは幸せだろうな」
ってにこにこ笑ってて……。それがものすごくショックだったことを思い出す。ああ、思い出しちゃった。健ちゃんは僕が誰かと一緒になってもいいんだ、って思ったら、その晩は全然眠れなかった。
今になって思えば、あれは中3の時だから、僕は健ちゃんのことも冬矢のことも好きだった。自覚はしてなかったけど、ふたりに恋をしていた。だから健ちゃんの言葉が刺さるのは当然だった。あの頃それに気が付いていたら、僕たちはもっと早くから一緒にいられたんだろうか。今はひとりっきりだけど。
…………。
ざわっと背中が寒くなる。ひとり。家の中には、誰もいない。僕だけだ。僕とふたりは、お互いに大好きだ。そのはずだ。でも、本当に?
駄目だ、信じてる、信じてるのに、おなかの奥からちりちりと痛みが広がってくる。
僕が落ち込んだとき、嫌な気持ちになったとき、駆けつけてくれたはずのふたりは、今、いない。
どうして、なんでこんな暗い気持ちになるの?
ふたりがいない理由なんてよくわかってるはずなのに。
僕を置いていくつもりなんてなかったって知ってるはずなのに。
だって、僕が送り出したんだから。
ふたりは僕を心配しながら、早く帰るからねって出かけて行ったんだから。
頭の中に広がる靄と、全身を覆う寒気が治まらない。
でも、だけど、って言葉がぐるぐる回る。
駄目だ、駄目だ、こんなことじゃ駄目だ。
ちゃんとしなくちゃ。しっかりしなくちゃ。ひとりでも大丈夫にならなくちゃ。
僕は布団を引っ張って、頭から被る。膝を抱いて、できるだけ、小さく体を折りたたむ。ばたばた涙が零れていくけど、これは放っておけばいい。こうしていれば、いつか自分の気も済むから。泣くだけ泣いてしまえばいい。だって、周りに迷惑を掛けているのも、お母さんに呆れられたのも、僕が悪いんだ。僕がちゃんとしてれば誰も失望させることはなかったのに。僕のせいできっとみんなに嫌な思いをさせてる。ちゃんと、それを飲み込まなくちゃ。僕はそういう悪い存在なんだ。僕なんてこの世界に必要ないんだ。
目をぎゅっとつぶると、脳みそがじんとして、思考の渦がはっきり見える気がした。
ぐらぐら揺れる感覚。
苦しい。
息がきちんと出来なくて、なんとか浅い呼吸で空気を吸い込む。
ぼーっとした頭は、やがて教室の景色を描いていく。さすがにこれは夢だと気付く。布団にくるまっているうちに、なんとか眠れたらしい。でもそれがよかったのかどうかはわからない。教室。やっぱり中学校の教室だ。誰もいないと思っていたそこに、2つの影が見える。勝手に体が動く。近付けば、それは前後の机に座って話をしている、冬矢と森くんだとわかる。間に1席空いていて、ああ、あれは僕の席だ。
なのに、僕が辿り着く前に、そこに誰かが座った。誰だかはわからない。俯いて座っているからか、全然顔が見えないからだ。
「そこは僕の席だよ」
僕の口を介して、何かがしゃべった。ひどく錆び付いた声だ。
こっちに気が付いたらしい冬矢が顔を上げた。とても迷惑そうな表情。
「誰」
…………っ、あ。
誰だかわからないのは僕のほうだったんだ。
なんの興味も示していない、空っぽの声。冷たいそれが、本当に水になったように頭から僕の全身を冷やしていく。
間に座らなかった僕は、もう何者でもなくなっていく。
ぐら、と景色が歪んだ。
暗い。
真っ暗だ。
僕は倒れてしまったのか、背中に床の感触がある。そんなに硬くない。手で触れると、少しふわふわしている感じがした。だけど、それだけしか動かない。あれ。なんで動かないんだろう。手首から先は動く。足も同じ感じ。……重い? まるで、何かが僕の上に載っているみたいだ。
ぎくりとする。
これは、嫌だ。
ほんとうに、駄目だ。
もう僕はこれが夢だってはっきりわかっていて、ここから先に起こることも知ってる。
だから、嫌だ。
覚めろ。
早く。
僕の上に黒い影がある。
やめて。
視線の一番奥に格子が見えて、だからそれがぎりぎり人の形なのだとわかる。
嫌だ。
首筋が、胸元がぞわぞわする。
やだ。
ぐちゃぐちゃと何かが蠢く音がする。
怖い。
生暖かい空気が体を包んでく。
だめ。
ぎょろ、と、僕を見下ろすように一対の目が現れる。
目。だけ。
赤く血走った白目と、ただの穴にしか見えない黒目。
やだ。
怖い。
怖い。
息が、
「忘れろ」
ばちっと目が覚めた。
だけどやっぱり暗闇で、僕は慌てて掛け布団を放り投げる。
しんとした部屋に、僕の情けない泣き声だけが響く。
……なんで……また、あの夢を見ちゃったんだろう。
昔からよく見てた、怖い夢。
小学生の頃は、この夢を見るたびに飛び起きてた。それで隣で寝てるみどりちゃんにうるさいって文句を言われてたことを思い出す。
中学に上がってひとり部屋を貰ってから見た時は、ベッドに寝ていることも怖くなって、部屋の隅っこで小さくなって布団を被って座ったまま寝た。
最近はほとんど見なくなってたのに。なんで今になって……。
ぶる、と体が震える。
まだ背中が寒い。僕は健ちゃんと冬矢の枕を引き寄せて、両腕に抱える。ぎゅうっと抱き締めて大きく息を吸うと、ほんの少しだけ、落ち着く気がした。
気が付くと、時計の針はお昼近くを指していた。目が重い。あれからもうとうとするたびに些細な、けど心がずしりと重くなる短い夢を見ては目が覚めた。明け方になってようやく疲れ果てて寝落ちしたらしい。
まずは枕カバーを洗濯しなくちゃ。自分のだけじゃなくて、ふたりのも涙でぐちゃぐちゃにしちゃったから。昨日一昨日と違ってよく晴れてるし、寝る前までには乾くはずだ。それから、朝ごはんとも昼ごはんともつかない食事をとることにする。腫れぼったい瞼で酷い顔をしたままで外に出るのはさすがに気が引けたから、面倒だったけど、自分で適当に作って食べた。味はよくわかんなかった。あまりにも静かなのが怖くてテレビをつけたけど、内容はほとんど頭に入ってこない。
……部屋。静かだな。このままふたりが帰って来なかったら……。
っ。
ない、そんなことない。
ふたりは帰ってきてくれる。だから、迎え入れる準備をしておかなくちゃ。掃除をして。お風呂の支度をして。ごはんを作って。
夕飯の食材だけは昨日のうちに買い物しといてよかった。なんだか時間を追うごとにだるくなってくる。ふたりから相次いで入った、もうすぐ帰る、ってメッセージがなかったら、ぐったり倒れ込んでしまったかもしれない。なにそれ。本当に僕って面倒な奴だ。こんなことでは、帰って来たふたりに迷惑をかけかねない。そう思うと、壊れた蛇口みたいに涙が溢れてくる。駄目だ、泣き止まなきゃ、ふたりを困らせてしまう。
ああ。動いて気を紛らわせようとしてるうちに、やることは全部終わってしまった。掃除もした。お風呂ももう沸いてる。ごはんの支度もできた。だけど自分のために何かをする気にはなれなくて、ソファに座る。膝を抱えてうずくまると、やっぱり少し楽になる感じがした。
やだな。
もう何も考えたくないな。
頭がじんわり締め付けられるみたいだ。
しばらくそうやってじっとしてると、遠くでがちゃりと音がした。鍵の音だ。鍵。ぱっと顔を上げたら、電気をつけない部屋の中はわずかに薄暗い。明かりをつけなくちゃと頭では思うのに、僕の足はまっすぐ玄関に向かっていた。
ドア。
開く。
空気がふわっと動いて、……健ちゃん。
「ただいま、蒼生」
「健ちゃん、おかえり」
ようやく会えた。健ちゃん、健ちゃん。
「あっ、触んないで」
え?
え?
……あ……。
伸ばした手が、止まる。そっか。やっぱり。僕の存在は迷惑なんだ。きっと僕と離れて、それに気付いてしまったんだ。冷静になってみたら、違う、って思ったんだ。大丈夫。ずっと不安だったことが、現実になっただけ。
「……うん。わかっ」
「わかっちゃダメ!」
「っ!」
健ちゃんの焦ったみたいな大きな声に、勝手に肩が揺れた。
なに……?
「わ、声のボリュームおかしかったな。びっくりさせてごめんね。いや、よくわかんないんだけど、今のやつはたぶんわかっちゃダメなやつだよ。あー、とにかく、あれだ」
頭をがしがしと掻いてから、健ちゃんは持っていた大きな鞄や袋を床に置いた。それから靴を脱いで上がってきて、さらに靴下を脱いで揃えておいたスリッパを履く。
「一緒に来て」
そう言って健ちゃんは僕の前に立って歩き出した。つられて、僕の足もそっちに向かう。上着を脱ぎながら健ちゃんが入ったのは洗面所だ。だから僕もその後に続いた。
「ずっとそこにいて。あっち行っちゃ駄目だよ」
「うん」
慌ててるみたいだから、脱ぐのも大変そうだ。でも、触っちゃ、駄目だから。
上に着てたのを全部脱いで洗面台に置いて、……洗面台? 洗濯カゴじゃなくて? ぽかんとしてると、ズボンや靴下もそこに載せる。下着1枚になった健ちゃんは、首を傾げながら何かを確かめるようにお尻の部分をぱんぱんと叩いた。
「ん、よし」
頷いて、ぱっと手を伸ばし、あっという間に僕のことを抱き締める。
……あ。
「い、い……の?」
「? 何が? はー、蒼生、蒼生だー。えへへ。嬉しい」
健ちゃんの顔は僕の肩の上にあるから、どんな顔をしてるか見えない。だけど、すごく嬉しそうな声で、にこにこ笑顔なのはすぐにわかる。
でも僕は頭がこんがらがる。何が、って、だって。
「だって、さっき、僕に触っちゃ駄目って言った」
「あ、さっきの? 汚れた服はもう脱いじゃったから、もう大丈夫!」
「服?」
わずかに僕から体を離した健ちゃんは、やっぱり笑ってた。ちょっと恥ずかしそうな顔で。
「そ。聞いてくれる? 合宿してたあたりは見事に晴れてたんだけどさ、昨日こっち雨だったんだってな。バスから降りたらグラウンドの周り、まだぐちゃぐちゃなとこ多くてさー。小学生たちがわざと踏んで面白がってんの。気持ちはわかるんだ、葉っぱ踏んだらじゅわって水が溢れるの、なんか面白いし。けど転んだら危ないじゃん? だから注意しに行こうとしたらさ、用具入れの上にかけてあったビニールシートを引っ張った連中がいて。んで、そこに溜まってた水が、オレの上にばっしゃーん。雨水と泥かぶっちゃったってわけ」
はっと僕は顔を上げる。健ちゃんの背中に手を回すと、たしかにしっとりしてる。
「う、わ。あ、蒼生」
そういえば頬に触れた肩も少し濡れてる。大変だ。
「なら、早くお風呂に入ってあったまったほうがいいよ。もう沸いてるから」
ええと、バスタオルを用意して、着替えも準備しなくっちゃ。健ちゃんが風邪でも引いたら僕が嫌だもん。まだ早い時間だから、パジャマじゃなくて普段着がいいよね。
動きかけた僕を、健ちゃんはもう一度ぎゅって抱き締めた。
「待って。蒼生、一緒に入ろ」
「え、でも、着替えの支度してないよ」
「いいじゃん、あとであとで」
「出たら裸で服取りに行かなきゃいけなくなっちゃう」
「んー、オレたちの関係なら今更なのに、そういうとこきちんとしたがる蒼生、大好き」
あれ。これ、健ちゃん、僕のこと離すつもりないな。だってもう指が僕の胸元のボタンを引っ掻いてるもん。脱がせたいと思ってるのが伝わってくる。そうだよね、家の中なんだから、少し行儀が悪いことをしてもいっか。
「うん。わかった。一緒に入ろう」
「へへ、やったー」
満足そうな健ちゃんは、今度は堂々と僕の服の裾を掴む。僕も断る理由はないから、そのまま脱がせて貰うことにした。
ああ、嬉しそうな顔。それを見ると僕も嬉しくなる。健ちゃんの笑顔は、いい香りのする石鹸みたいだ。そのいっぱいの泡で僕を包み込んで、汚れた思考を全部洗い流してくれるような気がする。
「ホントはちゃんと体洗ってから入んなきゃいけないんだけどー、今日は早くいちゃいちゃしたいから特別!」
僕はなんにも言ってないんだけどなあ。言い訳しながらざあっとシャワーを浴びた健ちゃんは、ちょうどいい温度になっているはずの湯船に浸かる。
「気持ちいー。な、蒼生も早くー」
「はぁい」
待たせたくなくて、僕も簡単にシャワーだけ浴びる。僕の場合は、掃除が終わったあとにいったんシャワーしてるから大丈夫なんだけど。お湯を止めて振り返ると、健ちゃんが「あっ」と言って立ち上がった。
「ちょ……蒼生! 膝! と、腕のとこ!」
「え? あ」
「ケガしてるじゃん! 擦り傷と、アザと……。えっ、何があった!? なんで、え、どした!?」
そういえばケガしてたんだけっけ。なんかもうすっかり忘れちゃってた。ズキズキ痛くて酷いケガだったような気がしたけど、落ち着いて見たら軽い擦り傷と少し大きめのアザが出来てるだけだったから。血だってもうとっくに止まってる。だけど、健ちゃんは泣きそうな顔で赤い点々を見つめていた。僕はそれを隠すように湯船に足を入れる。たぶん気のせいだけど、傷口がぴりっとした。向き合うようにしてそっとしゃがむと、健ちゃんもゆっくり腰を下ろす。でも、目は僕の膝に行ったままだ。
「えっと。その……ちょっと……自転車と接触しまして」
「っ、自転車!?」
「あの、そんなたいしたことじゃないんだ。よく見えなかったんだけど、走ってきた自転車に鞄のベルトが引っかかっちゃったみたいで……」
「それで転んだの? 可哀想に、痛かっただろ……」
健ちゃんの目が潤む。待って、僕もまた泣きそうになっちゃう。せっかく止まったのに。ずっと泣いてたせいで、泣き癖がついてるんだろうな。それでなくとも健ちゃんに心配かけてるのに、もっと困らせるのはよくない。我慢しなくちゃ。
僕が唇を噛んだのに気が付いたのか、健ちゃんは僕の両手を掴んだ。そのまま引き寄せてくれて、背中から抱き締めてくれる。
「……痛そ。蒼生が気付かなかったってことは、後ろから来たんだろ? 歩行者にそんな近寄って走るなんて、ひどい運転するのがいるんだな」
「後ろっていうか、横、かな。定食屋さんの前に立って鞄の中見てたからよく見てなくて。周りの人が言ってたんだけど、携帯見ながら走ってたって。お互い周囲に気を付けてなかったからぶつかっちゃったんだと思う」
「え、商店街の中なの? そりゃ自転車が悪いよ。蒼生にぶつかってケガさせておきながらごめんで済ませるなんて…………もしかして、それもなかった?」
「うーんと、……邪魔だって怒鳴られた」
「酷ぇ」
ぎゅーっと健ちゃんは腕に力を込め、肩に頭を載せてくる。ちょっと痛いなと思ったけど、傷の痛みより強いのが嬉しかった。ケガなんて本当に大したことないんだと思えた。手のひらであやされるようにぽんぽんと叩かれるのも心地いい。
「はー……。そんな怖い思いしてたなんて、知らなかった」
え、と思って、僕は健ちゃんの頭に頬を寄せる。
「大丈夫だよ。心配させたくなくて黙ってたのはたしかだけど、大したことはなかったし。そんな、怒鳴られて怖いなんて、ちっちゃい子みたいなこと」
「そうかなあ、オレだって知らない人に突然怒鳴られたらめちゃくちゃ怖いけど」
その言葉を聞いて、胸のあたりでざわざわしていたものがさあっと引いてく気がした。心の雲が晴れた感じ。そうか。僕、怖かったのか。
頭を上げた健ちゃんは、僕の顎に手を添えて、自分のほうに向かせる。心許なさそうな眼差しと目が合った。
「だから泣いちゃったの?」
「……バレてた」
「わかるよ、だって蒼生の顔は生まれた時からずっとずーっと見てるんだから。瞼、腫れてる。そんな顔も愛しくて可愛いなあと思うけど、悲しくて泣いてるのはやだな」
「ん……。健ちゃんの言う通り、怖いっていうのもあったのかもしれない。だけど、全部ひっくるめて一言で言ったら、寂しかったっていうのが一番強いかも。あー、もう、それこそちっちゃい子みたいだね」
健ちゃんはちょっと首を傾げて、それから僕の瞼にキスをくれた。
「それはオレも一緒だよ。オレだってめちゃくちゃ寂しかったんだから。蒼生がそばにいないと、どうも調子狂っちゃう。今朝起きた時だって、寝ぼけて蒼生の名前呼んじゃってさー。ちょうど誰も聞いてなかったからセーフだったけど」
「先輩たちと一緒の部屋だったんだ」
「うん。さすがに監督は別だったけど、他のコーチの人も一緒で、ほぼ雑魚寝状態! でもま、先輩からいろんな話聞けたし、いい経験だったなって」
そっか。じゃあやっぱり連絡したら周りの人に揶揄われてたかもしれないんだ。電話しなくて正解だったみたい。
「よかった。楽しめたんだね」
「オレが気分よく出かけられるように蒼生が送り出してくれたおかげだよ。ありがとな。だけどさ、小学生に囲まれてると、ちっちゃかったときの蒼生のこと思い出しちゃってさあ。あれ可愛かったなー、とか、今だったら絶対抱き締めるのになーとか、そういう妄想ばっかしてた」
ひゅっと一瞬息が止まった。健ちゃんに会えて、全部消えちゃったと思ってた夢の記憶が一気に蘇る。小学生の僕。周りにヘラヘラ合わせてただけの。今もそうだ。
「蒼生?」
「……っあ、ごめんね。実は、ちょっと嫌な夢を見て……」
「どんな?」
「どんなって……えっと」
ちょっと迷う。嫌な夢っていうか、僕の嫌なところの話だ。そんなのをしゃべっちゃっていいのかなって思った。だけど、僕も少しは学んでる。何か引っかかることがあったら、洗いざらいぶちまけちゃうのがいいんだ。僕たち3人はそれができる。
あのね、と繋げて、僕は最初の夜に見た小学校時代の夢をかいつまんで話した。健ちゃんは僕の片手をぎゅっと握って、うんうんと頷きながら聞いてくれる。面白くもない話なのに。
「なるほど。周りのみんなは蒼生が先生にいいとこ見せようとしてるから嫌な奴だと思ってたんじゃないかって? うーん。オレはそんな雰囲気感じたことないけどなあ」
「そうなの?」
「みんな蒼生のこと、頭良くて優しくて近くにいるとすっごく和むし癒やされるって言ってたし。まあ中にはそういうふうに思う捻くれた奴もいたかもしんねえけどな。ケンカしてても蒼生のにこにこ見てると怒りがふわーって消えちゃうんだってさ。オレばっか蒼生の側にいるのがズルいって何度言われたかな。蒼生の隣はオレのもんなんでって毎回断ってたけど」
「……そうなの?」
健ちゃんの話と、僕の見ていた景色が噛み合わない。眉をひそめて首を傾けると、健ちゃんは笑って僕の頭を撫でた。
「自分のこと、誰も好きじゃないって思ってた蒼生にはわかんなかったのかもな。蒼生のこと大好きなオレから見たら、あっあいつもオレとおんなじふうに蒼生のこと見てる! ってのよくわかっちゃうんだよな。蒼生に近付きたい奴とか、蒼生に恋しちゃってる子とか、めっちゃいっぱいいたんだぜ。今思えば、蒼生を取られたくなくて必死だったなー」
「…………。じゃあ……僕が落ち込んだときに健ちゃんはいつもすぐに駆けつけて助けてくれたけど、それも面倒じゃなかったの?」
「んー、オレは蒼生のこと助けてるって意識は全然なくて。オレがただひたすら蒼生の隣にいたかっただけだから、面倒なんて思ったことないよ。だから、オレに蒼生が必要だったのとおんなじみたいに、蒼生にもオレが必要だったってことだろ。つまり、オレと蒼生はずーっと一緒なんだよ」
「……そっか。うん」
無意識に、ほっと息が抜けていった。
僕は余計なことを考えすぎてるのかもしれない。だって、健ちゃんは絶対に帰ってくるんだから。僕はただ、健ちゃんの安全を願ってるだけでよかったんだ。
「そうだよね。健ちゃんが帰ってこないはずないもんね」
「えっ。そんな心配してたの? 帰るよー。どんなことがあってもオレが帰るのは蒼生のとこだって決まってるんだから。あ、これ、漫画だったらフラグになるやつだな。実際はそんなもんへし折るけど」
「ふふふ。お願いします。……ああ、よかった。ずっと不安でそんな心配ばっかりして、ちゃんと留守番できなかったなって反省してたんだけど」
はあっと息を吐いたのを、健ちゃんはにこにこしながら見ててくれる。それで、また後ろからぎゅっと僕を抱き締めた。
「蒼生は真面目だからなあ。だーいじょうぶ。無事オレたち再会できたんだから、その時点で留守番大成功じゃん! しかも帰ってくる時間に合わせてお風呂用意してくれてるし、ごはんも準備してくれたんでしょ? 家に入った瞬間、カレーのいい匂いしたもん。蒼生が寂しいって泣いてたのも、ごめんね、嬉しかった」
「嬉しい?」
「だってオレがいないと寂しいって思っちゃうんだなー、オレって蒼生に熱烈に求められてるんだなーって思ったら、舞い上がっちゃう。あ、でも、にこってしててくれるのが一番好きだけど」
肩に、唇の感触。それから、首筋にひとつ。だからそっちに顔を向けると、健ちゃんは嬉しそうな顔して、唇にもキスをくれた。
「それにさー、蒼生が不安になっちゃったのは、昔のことを変な感じに夢に見ちゃったからでしょ。怖い思いしたから、夢も変なふうになっちゃったんじゃない? 不可抗力だよ。あー……でも、それに関しちゃ、オレも反省しなきゃだなぁ」
健ちゃんが? なんで?
聞こうとしたけど、もう一度のキスで僕の言葉は奪われる。
「あるんですよ。反省点が」
言って、僕の手を片っぽずつ掴むと、指を絡ませて握り締めた。
「あのねー。きっと蒼生は滅多にないひとりきりの生活を楽しんでるだろうから、オレが邪魔しちゃいけないよなって思って、電話もメッセージも遠慮しちゃった。それにもしかしたら、あんまり頻繁に連絡して、鬱陶しい奴だなって思われたらやだったし。だけど一番大きいのは、蒼生の声聞いたら、会いたくて会いたくてすぐに引き返したくなっちゃうと思ったんだ。……でも、それで蒼生に寂しい思いさせたんなら間違いだったなって」
「……僕も、邪魔しちゃいけないと思って連絡しなかった」
「お互い、失敗だったな。今度からちゃんと連絡するようにする。蒼生もそうして」
「わかった」
なんだ。
健ちゃんも僕と同じ思いだったんだ。さっきは電話しなくてよかった、なんて思っちゃったけど、きっとそんなこと気にしないで出てくれたんだろうな。解決してしまうと、本当に些細なこと悩んでたんだなって思う。
びしょびしょの手で、健ちゃんは僕の頬を両手で包み込む。
「落ち着いた?」
「ん……気持ちいい……」
僕は左の頬にあった健ちゃんの手を取り、胸元に抱え込む。それから体をずらして、鎖骨の下で盛り上がる筋肉にそっと頬を寄せた。お互いの水分でひたりとくっつくのが心地よかった。健ちゃんはくすぐったそうに笑って、右手を僕の腰に回した。あったかい。
遠くから、ばたばたと物音が聞こえる。あ、嬉しい。心臓が喜びに跳ねたのがわかる。次第に大きくなる、それは間違いなく冬矢が帰ってきた音だ。でも冬矢にしては慌ててる?
浴室のドアは、シルエットが映るとほぼ同時に勢いよく開いた。やっぱり冬矢は焦った顔をしていた。どうしたのかなと思ったけど、それよりも冬矢の顔を見られた安心感でいっぱいになる。
「おかえりなさい、冬矢」
「ただいま、蒼生。……何かあった? 泣いていたの?」
冬矢はそのまま浴室に飛び込んでくる。えっ。
「ねえ、靴下、濡れちゃうよ」
「そんなことに構っている場合じゃないだろう。ああ、こんなに目を腫らして……」
両手で僕の顔を包んで覗き込んでくる心配そうな眼差しは、どこまでも優しい。
ああ、今、僕はふたりの手に支えられてる。
そう思うと、また涙が浮かんでくる。
「! 蒼生」
「あ、ごめん、違うの。さっきまで寂しくて泣いちゃってたのは本当だけど、今はすごくほっとしてるんだ。無事に帰ってきてくれてよかった。嬉しい」
同じように胸がきゅっと締め付けられるけど、さっきまでの刺すような痛みとは違う。あたたかくて、じんわりした、優しい感覚。
「……蒼生、その膝」
わ。冬矢にもすぐバレた。冬矢の顔色がさっと変わる。慌てて弁明しようとすると、健ちゃんが冬矢の前にぱっと手を挙げた。
「待った。おまえも脱いでこいよ。服着たまんまびしょ濡れになったら蒼生も気にするし、ドア開けっぱなしで寒くなっちゃうだろ」
「あっ……、悪い」
冬矢は自分でも驚いてるみたいで、目を丸くして振り返る。
「でも3人で入ったらさすがに狭くないか」
「おまえが来たらオレ体洗うし」
健ちゃん、優しい。きっと冬矢の体のことを考えてくれてるんだろうな。冬矢はすんなり頷くと、濡れて色の変わったズボンの膝あたりを指先で引っ張り、すぐに戻るって言っていったん浴室を出て行った。
ドアが閉まった途端、健ちゃんは僕の首の後ろにちゅっと音を立ててキスをくれる。
「蒼生も体洗う?」
「大丈夫。実は、さっきお風呂洗う時についでに自分も洗っちゃったんだ」
「え、じゃあ、2度目なんだ。誘っちゃって悪かったな」
「ううん、一緒に入れて嬉しいよ」
「狭いけどな」
「狭いけどね」
「まあ、びたーってくっつけるからいいよな!」
「えへへ、うん」
この家はもともとファミリー向けの部屋らしい。だから、ひとり暮らし用のお風呂に比べたらずいぶん広いほうだ。とはいっても、さすがにふたりで湯船に浸かるとみちみちになるんだなあ、と今更ながら思った。たぶんふたりがいなくて緊張していたのが、ようやく緩んできたみたい。
冬矢が浴室に戻ってくる。シャワーを浴びた冬矢は、僕に向かって手を伸ばす。その手を取ると、軽く体が浮いた。健ちゃんと冬矢が交代する合図だったんだろう、健ちゃんが湯船から上がり、冬矢がその位置に収まる。
「改めて。蒼生、ただいま」
「おかえり」
遠慮なく寄りかかる僕をじっと見つめてくれる、冬矢の穏やかな瞳。ああ、嬉しい。
「そういやさっき、おまえめちゃくちゃ慌ててたなあ。どした?」
健ちゃんの問いかけに、冬矢はわずかに息を吐いて、僕の手を取る。指で撫でてくれるのが気持ちいい。
「どうした、じゃないだろう。玄関に健太の荷物が乱雑に置いてあった。しかも蒼生に渡したくて買ってきたのだろう手土産の袋もそのままだ。仮に顔を合わせるなり盛り上がったのだとしても、健太は自分が蒼生のために用意したものを渡すことを優先するはず。つまり、荷物を部屋まで運び入れる余裕がない何かが起きたと考えるのが妥当だ」
「はー。すげえな」
「案の定、蒼生の滑らかで綺麗な肌に傷がついている。……何があったの?」
相変わらず冬矢はよく見てるなあ。感心するのと同時に、真剣な色を帯びた表情につんと胸が痛む。健ちゃんも冬矢も、こんな小さなケガなのに、本気で心配してくれる。
「……えっとね。自転車と接触しまして」
「自転車!?」
わわっ。急に冬矢が体勢を変えるから一瞬体が沈みそうになった。健ちゃんと反応が一緒だったことになんとなく嬉しくなったけど、そんなぼやっとした感想より、冬矢の心配を和らげるほうが先だよね。
「あ、うん、ぶつかったんじゃなくて、鞄が引っかかっちゃって引っ張られた感じ。それで転んじゃった。だから、擦り傷はこことこっちにあるんだけど、……あとちょっとアザができてるくらいで、無事だから、心配しないで。むしろね、健ちゃんに言われて気付いたんだけど、そのあとで大声出されたのがショックだったみたいで」
「邪魔だとか怒鳴られて轢き逃げされたんだよ」
「け、健ちゃん! 大げさだよ」
「だって事実じゃん」
ぷくっと健ちゃんが頬を膨らませる。あれ、健ちゃん、ちょっと怒ってる?
「……はぁ……」
え、冬矢も溜め息? あ、もしかして、ケガ適当にほっといたのを呆れてる?
「ご、ごめ」
「違う。蒼生が謝るところじゃないよ。誤解させてごめんね。今深呼吸をしたのは、犯人に対する怒りで頭がいっぱいになりそうだったのを落ち着かせたんだ。そいつは許せないが、それを蒼生に言っても仕方がないことだから」
「悪いのは蒼生じゃなくて、その自転車の奴だもんな」
ああ、そうか。ふたりの言葉が、じんわりと響く。僕がケガをしたら、ふたりは僕の鈍さに怒るんじゃなくて、僕にケガをさせたものに対して怒るんだ。そうなんだ……。
「ありがと」
僕がそう言うと、ふたりは不思議そうに僕を見た。
「お礼? なんで?」
「ふたりの言葉でようやく理解が追いついたから。あの瞬間は何が起きたのかよくわかんなくって、混乱して感情を飲み込んじゃったみたいなんだけど、今わかった。僕、めちゃくちゃ理不尽なこと言われた。転ばされてケガして、酷い目に遭わされた!」
「おー! そうだそうだ!」
「で、今ふたりが怒ってくれたから、……ふふ。なんだかすーっと消化されちゃった。もう大丈夫。今度から、もっと周りに注意することにする」
目撃証言から言っても、相手方が悪いことに間違いはないと思う。だけど、周辺をよく確認して気を付けるに越したことはないはずだ。
冬矢は優しく僕の髪を撫でてくれる。
「たまには蒼生もきちんと怒ることは大切だと思うけれど……。いつ何が起こるかわからないから周囲に気を配るほうがいいというのは間違いないね。ただ、蒼生がそんなに腫れた目をしているのはそれだけが理由ではないだろう?」
「……うん」
僕はちょっと斜めになってた体を起こし、冬矢の顔がはっきり見えるように横向きに座った。膝を抱えるかっこになって、だいぶぎちぎちな感じになる。けど、こうするとどっちの顔もちゃんと視界に入る。さっき健ちゃんに話したおかげで、僕の中ではだいぶ整理がついてるから、たぶんわかりやすく伝えられるはずだ。
「あのね、昨日も一昨日も、嫌な夢見ちゃったんだ。怖い、っていうか、寂しいっていうか、ひとりぼっちでいる夢」
「どんな夢だったのか教えてくれる?」
さっきより少し言葉をまとめながら、健ちゃんにしたのと同じように冬矢に話す。冬矢は僕の目を見ながら真剣に聞いてくれた。健ちゃんも、同じ話なのにちゃんと聞いてくれてる。でも、ふたりが真面目なぶん、僕のほうが恥ずかしくなってきちゃう。だって、ただの夢なのに。
「なんか、ありもしない夢で怖くなって泣いちゃうなんて、ちっちゃい子みたい」
照れ隠しに笑いながら言った僕の肩を、冬矢は優しい手で包み込む。
「小さい子でも、大人になっても、夢の中ではなかなか自分の思う通りには動けないからね。対処のしようがないのだから、怖くても仕方ないよ。様々なマイナス要因が重なったせいで、もしこうなったらどうしようという不安が形になって現れたのかもしれない。だとすれば、蒼生自身が自覚しきれない気持ちを夢として教えてくれたんだね」
「ほら。冬矢も同じこと言うだろー」
「ん……。そうだね」
ああ、やっぱり、健ちゃんと冬矢に話すのは安心する。ふたりが言葉にしてくれるおかげで、自分ひとりでは掴み切れない曖昧な思いが、はっきりと輪郭を持って見えるようになるんだ。
「……なるほどー、そっかぁ……。全部、こうなったら嫌だっていう、僕の願望とは真逆の世界だったんだ。だから健ちゃんが助けに来てくれなかったり、冬矢が僕に興味なかったりしたのかあ」
「え、オレそんな奴だったの!?」
「昨日の夢ではね。絶対そんなことあるわけないから、すっごく混乱しちゃった」
「つまり、俺たちがいないと寂しい、俺たちにいてほしい、というのが蒼生の心からの想いなんだね」
「うん、そう!」
「えへへ。言い切ってくれんの嬉しいな」
ずっとふたりと一緒にいたい。一緒じゃなきゃやだ。それはすごく幼い願いに思える。だけど、僕はそれを望んでいいんだ。僕がそう望むことを、ふたりは喜んでくれるんだから。
はー、すっきりした。2日間の長い夢も、ただ「これはやだな」の積み重ねでしかなかったのか。わかってしまえば、なーんだ、で済む話だったんだ。
あ。もしかして。
「小さい頃から見てる怖い夢を久し振りに見ちゃったのも、ふたりがいなくて寂しかったからかも」
健ちゃんが頭を泡だらけにしながらきょとんと僕を見る。
「えっ、なにそれ。聞いたことない」
「よく考えたら、この家に住んでからは一度も見てなかったんだ。だから一緒に寝る時に見たことがないから話す機会がなかったんだよね。それに、見るたびに泣いちゃうような怖い夢だもん。恥ずかしくて人には言えなかったんだよ」
「えっ、えっ、そんなに怖いの? ならなおさら頼ってよ!」
「お互い小さかった頃から見てる夢の話だよ? あの時は、まだ僕のほうがちょっと背が高いくらいのちびっこだったんだ。怖がらせちゃいけないでしょ。おばけに捕まる夢なんて」
「オレおばけ怖くねえもん」
突然、冬矢が僕の顎に手を寄せた。ん? と思ってると、冬矢のほうに顔を向けさせられる。
「どんなふうに捕まるの」
「んぇ? えーっとね、上に乗っかってきて、押さえつけられる感じかな。真っ黒なおばけで、血走った目しかないんだ。動きたいんだけど、全然動けなくて逃げられないんだよ」
「そういや蒼生さ、前にちっちゃい頃おばけ屋敷でおばけに捕まったって話してたよな。それのこと?」
「あー、あったね。……でも実はそれも記憶があやふやで、なんか……あれ? 言われてみたらなんかよくわかんなくなってきた。本当にそうだったっけ。あれ? 夢とごっちゃになってるかも……?」
うーん? あれぇ? 改めて思い返してみると、なんかこう、記憶が靄の中にあるみたいにはっきりしない。黒い影の夢のことは覚えてるんだ。間違って見ちゃった怖い映画かドラマの影響なのかと思ったこともある。それはそれとして、幼稚園くらいのころ、お化け屋敷で捕まった……ような気がしてるんだけど。あれ? 腕掴まれて……引きずり込まれたような……あれ? どこまでが記憶で、どこからが夢なんだ?
ぐいっと引き寄せられ、僕は冬矢の腕の中にすっぽり収まる。
「ごめん。混乱させちゃったね。怖い夢を思い出させるつもりはなかったんだけど、少し引っかかることがあって。ああ、でも、覚えていないことを無理に考えても仕方がない。もしまた同じ夢を見るようなことがあったら教えてね」
「うん」
なんだろう。何か、忘れてることでもあるのかなあ。でも、ふたりと一緒なら見なくて済むんだ。それでいいのかなとも思う。
頭からシャワーを浴びた健ちゃんが、ぷるぷると頭を振る。
「やっぱ、出来るだけスケジュール調整はちゃんとしような。蒼生がひとりでそんな夢見ないようにさ」
「……そんなに僕ひとりじゃ心配?」
「んー、心配とか不安っていうか、そういうんじゃなくてさ」
「そうだね。俺たちが、蒼生をひとりにしたくない。どちらかというと俺たちの我が儘だな」
「なー」
ふたりの……。そういうことにしてくれるんだ。本当に本当に、僕の恋人はなんて優しいんだろう。
「蒼生をひとりにしない相手っていうかな。そういう意味じゃ、こいつのこと信頼してるし」
「まあ、俺も助かる部分はあるかな」
「お、部分だと?」
またふたりしてわいわい小競り合いをし始めるのをほかほかした気持ちで眺める。はあ。こういうの、好き。嬉しい。気持ちいい。ふたりの声はずっと聞いていられる。
と、ふたりが僕の視線に気が付いたみたい。ぴたりと言葉を止めると、冬矢の手が頭をポンポンと叩き、手を伸ばした健ちゃんが僕の手を握った。
「蒼生はちゃんと立派に留守番してくれたもんな。だって、冬矢も気付いたろ? 家に入った瞬間、カレーのすっげぇいい匂いがしたの」
「ああ。すごく美味しそうだった。蒼生が心を込めて作ってくれた夕飯だ、楽しみで仕方がないよ」
嬉しい。
すごく嬉しい。
「あのね、実は、お昼ごはんに作り過ぎちゃったホットケーキも残ってるんだ。それも食べてくれると嬉しいな」
「ふふ、もちろん」
「デザートじゃん! やったぁ」
健ちゃんと冬矢もにこにこ頷いてくれる。嬉しい。
「そんなにたくさん作ったの?」
「一人前のつもりだったんだ。でも、ぼんやりしてたらびっくりするくらい量が多くって……。ひとりぶんの加減がわからなかった。僕に独り立ちはまだ早いみたい」
体を洗い終わった健ちゃんが、ざぶんと湯船に入ってきた。ざあっとお湯が勢いよく溢れる。
ぎちぎちで、本格的に狭い。だけど、やっぱり嬉しい。
「あははっ。無意識にオレたちのぶんまで考えちゃってたんだよ。オレたちに食べさせたいって思ってくれてたんでしょ」
「……そうかも」
「独り立ちとひとりぼっちは違うと思うよ。蒼生は十分独り立ちしている。そのうえで俺たちは一緒にいるんだ。たとえ大人になったからといって、寂しい気持ちがなくなるわけじゃないからね」
「そっか。うん」
素直に寂しいと思っていいんだ。早く帰ってきてほしいって願ってもいいんだ。僕は健ちゃんと冬矢のことをずっと想っている。ふたりも、たぶん、僕のことを。
「ていうかさ、冬矢も全然蒼生に連絡しなかったんだって? ダメじゃん」
「おまえに言われるのは癪だが、……その通りだな。ごめんね。親戚の子たちにまとわりつかれて時間が取れなかったのもあるけれど、……泊まっていた場所があたり一帯ほぼ圏外で」
「わあ、そんなに遠いところだったの?」
「完全に山だったな」
なんだか電話って当たり前みたいに繋がるものだと思ってた。そんな場所もあるんだね。
「とはいえ、ペンションの電話を借りるという手もあったと反省している」
「オレもオレも。寂しいと思ったら、遠慮なくちゃんと連絡し合うのって大事だと反省しました!」
「僕も、変な意地張ってないで、連絡したいと思ったときにちゃんとするようにする。そうだよね、心配させたくなくてもふたりは僕のこと心配しちゃうんだ。だって、ふたりとも僕のこと大好きなんだもん」
健ちゃんはぱあっと目を見開いた。
冬矢はふわっと目を細めた。
「わかってんじゃん」
「大好きなんだから、仕方ないよね」
ふふふ。
ふたりは、僕が作ったカレーを美味しい美味しいとおかわりして食べてくれた。
自分で意識してたよりたくさん残ってたホットケーキも、あっという間になくなってしまった。
昼間はなんの味もしなかったのに、ちゃんと甘くてふかふかで美味しかった。
ふたりが買ってきたお土産は、明日一緒に食べようねって約束した。
よかった。
僕、ちゃんとふたりを迎えられたんだ。
嬉しい。
それから、たくさん愛してもらって。
3人並んで、寄り添って眠った。
変な夢は、もう、見なかった。
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