投稿日:2017年04月25日 19:36 文字数:11,418
第一章 ヒトツボシ 前編
◆◇◆
その日はなんだかムシャクシャしていた。
些細ないざこざが原因で、バイトをクビになったのだ。
責任者は、すべての非は俺にあると判断した。
そういうことは、これまでにもあった。
気持ちを言葉にするのが極度に苦手な俺は、相手から繰り出される言い訳に上手く反論出来ない。
…というより、反論しても無駄だ、と思う。
普段他者との交流を必要最低限に抑えているから、そもそも周囲における自分の印象はあまり良くないのだ。
こういうことが度々あるのには辟易するが、やれ親睦だなんだと、日頃乗りたくも無い他人の誘いを受けるよりはよほどマシだ。
だから解雇自体は、さほど気に病んではいない。
しかし、明日からまた新たな職を探さなければならないのはとてつもなく億劫だった。
慈玄は、別に生活費など入れなくてもいいと言うが、そうはいかない。
タダ飯を食う義理など無いのだ。金額は減っても、それだけは守らないと…。
三が日を過ぎても、正月気分が抜けきらない連中は街にうようよしている。
いやむしろ、そういう奴等は一年中浮かれたように過ごすのだろうか。
電線が寒風にしなる音に、やたら甲高い馬鹿笑いが混じって聞こえ、苛立ちが更に増す。
とにかく、こんな日はとっとと帰って寝てしまいたい。
そんな事を思いながら、嬌声でざわついている繁華街を通り抜けようとした、そのとき。
「…おい兄ちゃん、今俺の方見て睨んだだろ?なんか言いたい事でもあんのか?」
先程馬鹿笑いを発していた、いかにも柄の悪さを前面に押し出した男に因縁を付けられた。
皮膚は赤黒く染まり、目も充血して澱んでいる。明らかに「出来上がっている」状態だ。
溜息が出た。
これも、「よくあること」だった。
どういう訳か、こんな風に絡まれる事が多い。
多分…いつも不機嫌そうな顔でいるので、目が合うだけで睨み付けてるとでも思われるのだろう。
確かにそいつが大笑いしたときにちらりと視線を投げはしたが、無論言う事など何も無い。
相手が誰であれ、挨拶を交わす気力すら今は持ち合わせていないのに。
「文句があんならハッキリ言えよ、クソガキ」
酒の力で気が大きくなっているのもあるのだろうが、身長こそ俺と大差ないものの男はおそらく屈強な類だ。
着る物に疎い俺でさえ「趣味が悪い」と思う柄のシャツの下は、厚い胸板であることが見て取れる。
どちらかといえば細身の俺を格下と見たらしい。
相手がどう思ったかは知らないが、実は腕には少々覚えがある。
学生の頃は、日々の鬱憤を意味も無く暴力で解消していた時期があった。
それもだんだん虚しく面倒なだけだと思い知り、高校卒業と同時に無益な喧嘩はしなくなったが。
近頃はこういうことがあっても適当にやりすごすのだが、如何せんこの日はムシャクシャしていたのだ。
「ぅるっせぇよ…」
思わず口に出た。
言ってから「拙い」と気付きはしたが、吐く息の酒臭さが感じ取れるほどに近づいた男の耳には届いてしまったようだった。
「んだと、こら」
その後はお決まりのパターンで、がっと胸ぐらを掴まれた。
こうなったら仕方ない…と考えるより先、体の方が反応した。
すかさず蹴りを入れる。が、次の瞬間左頬を殴られた。
蹌踉けながらも素早く足を払う。不意を突かれた男の体は、鈍い音を立ててアスファルトに転がった。
そのまま相手が立ち上がる前にのしかかる。
思考の糸がぷつり、と切れた気がした。組み敷かれ歯噛みしている横っ面に向け、尚も拳を振り上げた時だった。
「はいはい、喧嘩はよくないよ?」
「?!」
突然、後ろから腕を掴まれた。その刹那、下にいた男の足が鳩尾に入る。
「…っつ…っ!」
不覚にも後方へ倒れ込む。
「ふざけんなよ、このガキ!!」
形勢逆転。
酔っ払い男が反撃の鉄拳を振り下ろす姿が視界の端に入り、とっさに目を閉じる。
が、暫くたっても何故か痛みは襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、さっき腕を掴んだ奴の背中が目の前を塞いでいる。
「っ、ぃたた…」
「…ちょ?!あんた!」
殴った方も、別の人間が間に立つとは予想もしなかったらしい。
若干怯んで、軽く後じさった。声も出せずに息を呑んでいたホステス風の女性が、ようやく悲鳴を上げる。
「…そこで何をしてる?」
誰かが通報したのか、騒ぎを聞きつけたのか、制服姿の警官が姿を現した。
相手の男は姑息にもそれを目端に捉えた途端逃げ出したようで、すでに姿はなかった。
警官はあたふたと走り寄り、残された俺達の顔を比べ見る。
「大丈夫か?君、そいつに殴られたのか?」
「いえいえ!とんでもない!!これ、俺の弟で…なんか変なのに絡まれてたから間に入って助けようとしたら、とばっちり受けちゃって。もー、だからこんなとこ来ちゃだめって言ったでしょ?さ、帰ろ?」
割って入った男はしゃがみ込み、俺の腕を取って立ち上がると、戸惑う警官を後目にすたすたと歩き出した。
有無を言わせず俺の手首を握る力は、思いの他強い。
振りほどくのもままならず、ずるずると連れ往かれる。
やがてネオンの灯は姿を消し、暗い住宅街に入っていた。
いきなり家並みが途切れ、ぽっかりと空間が広がる。小さな公園のようだ。
黙ったまま、そして振り向きもしないまま先へ進もうとする男に、しばし呆然と従っていた俺はやっとそこに来て言葉を掛けた。
「離せよ!あんた、一体どーゆうつもりだっ!」
「どうもこうも無いよ。あのまま拘留でもされたかった?」
男は初めてこちらに顔を向け、その上にこっと笑みを浮かべてそんな事を言う。
「あーあ、血が出てるよ?可愛い顔が台無し。手当しないとね?」
そう言うそいつの口の端にも血が滲んでいる。
ボタンダウンのストライプシャツに、ばさりと羽織ったジャケット。
この時期にしては軽装すぎるのではと思う格好だが、やけに様になっている。
先程のチンピラっぽい酔っ払いよりは、遙かにセンスは感じられた。
だが、妙ににやけた顔付きと夜目にも鮮やかな金色に染めた髪は、まるでホストみたいな軽さを匂わせる。
それゆえ口元の怪我はことのほか痛々しく、なおかつ不釣り合いに見えた。
「可愛い…?まぁいい、とにかく離せ!それとも、慰謝料でも請求すんのか?」
住人に聞かれてまた騒ぎになるのも嫌なので、低い声で訴える。
手首に絡んだ指は一向に緩まない。
「何言ってるの?手当てしないと、って言ったでしょ。…ここからもうすぐだから、もう少し我慢してね?」
「…は?」
結局俺は、そんな短い会話を交わしたあとも手を引かれたまま、男に引きずられるようにして歩いた。
一体どこへ連れて行くつもりなのか。恐怖を感じさせる相手ではないが、意図が分からなさすぎて狼狽える。
…どうにも調子が狂う。
◆◇◆
「あ、兄貴おかえり…って?!どーしたんだよその顔っ!!」
「んー、ちょっとね。それより和、この子手当してやってくんない?」
訳も分からないまま到着した場所は、どうやらそいつの自宅らしかった。
ドアホンを鳴らすと、玄関口に灯りがともる。
内から鍵を開け迎え入れたのは、細身の俺より更に華奢げな少年だった。
それが、扉を開いたと同時にぎょっとした表情を見せた。
帰宅した家族の顔に見慣れぬ痕を見付け、おまけに見知らぬ同伴者までくっついていたのだから驚くのも無理はない。
和、と呼ばれた少年は本当の弟だろうか、女の子のような可愛らしい顔つきをしている。
…いや、例え女でもこんな目を引く容姿なのはそうはいないだろう。
「くりくり」という形容がぴったり当て嵌まる、小動物にも似た大きな瞳が印象深い。
軽く跳ねた髪の赤茶色は、兄貴同様生まれ持ったものではないのだろうが。
最初はびっくりしていたが、弟は兄の言葉に速やかに頷く。
「遠慮しないで上がれよ。すぐ薬箱持ってくるからさ」
「和」はそう言って奥に行ったかと思うと、宣言通り即座に薬箱とともに再び現れた。
「ほら、そこ座って?兄貴も」
居間まで案内し置かれたソファへ俺を導いたあと、手早くガーゼと消毒液を用意する。
「…余計なことを…」
ついそんな言葉が口から溢れる。
聞こえるように言ったつもりはなかったが、兄弟は困ったように顔を見合わせた。
…そうだよ、俺になんか構わなくても良いのに、なんでこんな…。
「いいから。少しじっとしててな?」
気を取り直したのか、弟の方が俺の傷口にガーゼを当てた。
消毒液が、電流みたいな痛みをもたらす。
「つ…っ」
「沁みる?ちょっと我慢しとけよ?」
こいつはどう見ても高校生だろう。俺の事を同い年くらいに思っているのか、馴れ馴れしい口調だった。
多少気に障ったが、童顔なのは自覚している。わざわざ訂正する必要も無いと思われた。
「これでよし、っと」
「…あ、ありが…とう」
頼みもしないのに、と思いはした。とはいえ今し方、二人を困惑させたのは少しばかり気が引けたので、形だけの礼を口にする。
「どーいたしまして。あ、俺宮城和宏。こっちは兄貴の光一郎。お前は?」
「…え…あ、烏丸……鞍吉…」
「鞍吉か…んー、ちょっと呼びづらいから鞍でいい?」
「…は?…ぅ、うん……」
兄弟揃ってマイペースというのか、それとも俺がやはり反論下手なだけなのか。
ひたすら面食らって、言葉を失くす。
そんな俺の様子などお構いなしに、和宏は「うん、鞍な?」と勝手に再確認して、屈託無く笑った。
「和〜、俺の手当は〜?」
「あ。全く、兄貴まで怪我してちゃ意味ねーじゃん…ちょっと待ってな鞍、これ終わったらお茶でも淹れるから」
「これ、なんて酷いなぁ…ねぇ、鞍君?」
俺のせいでした怪我なのに…光一郎の方もにっこりと笑いかけてきた。
あの場で割って入られてから今に至るまで、なんとなく軽薄そうな表情も声のトーンも全然変わらない。
それどころか、思えばこいつはあんなふうに殴られたのに、今の今まで「痛い」と一言も洩らさないのだ。
つまらないことに巻き込まれたと、厭味や愚痴の一つくらい言ってもおかしくないのに。
「…いや、その……ごめん…」
いつもならこんなくだらない喧嘩はしないのに、それをしたために誰かを巻き添えにしてしまった。
そのことについては、申し訳なかったと心底思った。
しかし当の光一郎は、そんなことは全く意に介してない様子だった。
「いいよ、俺が勝手に割って入っただけだし」
特に虚勢を張っているわけでも、詫びた俺を気遣ったようでもなく、本心で「どうということはない」と思っているらしい口振りだ。
「…でも…怪我までさせて…」
「別に鞍君が殴ったわけじゃないでしょ?」
そう言って笑う彼は、ちゃらちゃらしたイメージはあるものの、改めて見直せば弟と同じくかなり整った顔立ちだった。
ここに来る途中、俺に対して「可愛い」とかいう、言われ慣れないどころのレベルでは無い御世辞をのたまった気がしたが、顔に怪我を負って台無しなのはむしろそっちだろう、と言いたくなる。
そんな俺の考えに呼応でもしたのか、
「……でもまさか、顔殴られるなんて思わなかったよ」
ぽつりと呟く。
「転職しててよかったなぁ…」
転職?
その言葉の意味ははかりかねたが、初対面の相手に突っ込んだ事情まで聞く道理など俺にはなかった。
どうせこの場限りの出会い、この家を出たら一切無関係となるのだし。
「ほんとだよ、無鉄砲なことして。時期が時期なら母さん達にめちゃくちゃ怒られてたぞ?」
光一郎の口端にも消毒液をすり込んでいた和宏は、兄の言葉を聞きとがめたようだった。
嘆息混じりに返すと、ぐいとガーゼを押しつける。
「いっっだっ!和君〜、もうちょっと優しくー!」
聞くとも無しに兄弟の会話を耳にしながら、ふと気付く。
既に結構な時刻となるのに、その「母さん」が在宅している気配は無い。
共働きで、両親とも帰宅が遅いのだろうか。だとしても、俺みたいな得体の知れない他人がいつまでも上がり込んでいていい時間帯ではないだろう。
用事が済んだのなら早々に退去すべきだ。
「…はい、これでよし。んじゃ、俺お茶淹れてく…」
「俺、もう帰るから」
キッチンへ行こうとする和宏を呼び止めるようにして伝える。
手当をしてもらったのに素っ気ないようだが、遅い時間にこれ以上他人の家に厄介になっているわけにはいかない。
「そう?んじゃ送るよ」
「あ、俺も行くー」
「いっ…いいよ…大した怪我じゃねぇし…」
この程度の怪我で、わざわざ送ってもらうなどあまりにも情けない。
それに…いかにも気の合った兄弟のやりとりを目にしていると、さっきまで独り、苛立ち荒んでいた気分だった俺が惨めに思えてくる。
そしてこんな俺にまで親しげに接してくる二人に、妙にほだされそうになる自分に嫌気がさしていた。
「そんなこと言わずに送らせてよ。俺が無理にここまで引っ張ってきちゃったんだし。ね?」
光一郎が言う。弟よりもこちらが俺と大差ない歳なのだろうと思うが、見た感じは俺よりずいぶん大人びている。
なのにそうやって笑うと、良く言えば無邪気、悪く言えばバカみたいで、何だか力が抜ける。
「…わかったよ」
渋々了承すると、何故か嬉しそうに兄弟は笑いあった。
どうして、見ず知らずの俺にこんなにも構うのか不可解極まりなかったが…
「まぁ…いいか」
やはりペースを乱されてしまったのだろうか。そんなことは、今はどうでもいいと思えた。
すれ違い程度の一瞬の縁、そのはずがこんなことになってしまった。
こいつらにも自分自身にも呆れつつ、宮城家を出た俺は彼等を伴って夜道を歩き出した。
◆◇◆
「なぁ、鞍の家ってどのへん?この近く?」
歩きながら和宏が聞いてくる。
「…いや…少し離れてる…」
「え、学校どこ?」
やはり。こいつは俺を同級くらいに思っていたのだ。
「…俺はもう学生じゃねーよ。いいだろ、そんなのどーでも」
年下に同い年扱いされるのはどうにも屈辱で、そのせいで返事をするのが億劫になり、少しきつい口調になった。
「!…ん、ごめんな、色々訊いちゃって…」
しゅんとして和宏が言う。
分かってはいる…別にこいつが悪いわけではない。
俺は元々自分の事を喋るのが苦手で、結果的にこうやって相手を傷つける。
それに全く気付いていないわけでは無いが、どうしても…他人と打ち解ける事が出来ない。
「まぁいいじゃない。和も、鞍君ちがどんなとこか行けば分かるんだしさ」
のんびりした口調で光一郎が宥める。
しかし、一度漂ってしまった気まずい空気は晴れず、そこからは三人とも無言になった。
すっかり遅くなったので、住宅街は殆ど人通りもない。
あと小一時間で日付が変わる時分なのだから当然だ。家々から漏れる光もまばらになった。
やがて家並が途絶え、ガードレールで片側を塞いだ坂道にさしかかった。
薄暗い外灯のみが、等間隔にぼんやり道路の灰色を照らしている。
高めの塀で囲われている墓地の横を通り過ぎ回り込むと、既に見慣れてきた古い木製の門が姿を現した。
「…お…寺?」
和宏がぽかんと門を見上げ、呟く。
「ここに住んでるの?」
「…まぁな」
ギッと軋んだ音を立て門戸を開き、少々不気味なくらい静まり返った境内を抜け、本堂の横手にある玄関へ向かう。
寺の本堂はかなり古くてボロいが、こちらは築年数こそそれなりだが普通の和風住宅だ。
灯りはまだ点いていた。
「…鞍か?ずいぶん遅かったじゃねぇか、一体何してた…」
半分欠伸をしながら、慈玄が玄関先まで出迎えた。
「どちらさん?」
そして訝しげに、兄弟を三和土の上から見下ろす。
やたらと図体がでかい上、淡いアッシュグレーの長髪に軽僧衣というアンバランスな風貌に唖然としたのだろう、兄弟は同じように目を丸くして慈玄を眺めていた。
「あ、あのっ!」
先に我に返った和宏が口を開いた。
「鞍…吉さんが、なんか殴られたらしいのをうちの兄貴が連れ帰ってきて…それで手当てしてここまで送ってきました。宮城といいます」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「え…何、お前喧嘩なんかしたのか。その上人様に迷惑かけて…全くろくなことしねぇな」
深く息を吐いて、慈玄が俺を咎めた。
「うるっせぇな。勝手に連れてかれたんだよ」
傷に応急処置を施してくれ、物好きなと思いはしても深夜の道をここまで送り届けてくれたのは、二人の厚意だ。
俺とてそんなことは百も承知だが、それでも意地を張って突き放してしまう。
こんな言い方をしてしまう自分が本当に嫌だ。
「いえ…本当にその通りなので」
光一郎が困ったようにフォローを入れた。何も反論すればいいものを。
「いや、何にせよ悪かったな。こんなとこまでこいつを送って貰って。あ、俺は慈玄。一応この寺の住職でな」
兄弟に苦笑を向けながら、慈玄はそう自己紹介した。
二人の顔を順に見渡し、光一郎の口元の痣に気付いたようだった。
「…?そっちの兄ちゃんも怪我してるな?まさか仲介にでも入ったのか?」
「え、ええ…まぁそんなとこで…」
「ははは、そりゃとんだ災難だったな。こいつならそれなりに腕っ節は強いから、助けてやる必要はねぇぜ?」
慈玄とこの寺で同居するようになって半年ほど経つが、その間奴の物言いが気に入らず、口ではまず勝てないので手や足が出たことが時々ある。
もちろんこんな巨漢に…いやそれ以外にも理由はあるが…敵うはずも無かったが、そこら辺の連中相手くらいなら俺の攻撃は有効だと分かっているのだろう。
笑い飛ばす慈玄に、ところが光一郎は僅かにむっとしたような様子で
「だからといって、黙って見過ごすわけにもいかなかったんですよ…喧嘩なんて、決していいと思えないし」
ぽつりと言った。
慈玄は呆気にとられたように目を見開き、その後くすり、と小さく笑いを洩らした。
「確かに…な。いや、すまない。俺からも礼を言うよ、ありがとな」
正直、俺も驚いていた。赤の他人の諍いなど、少しでも関わり合いになりたくないのが人の性というものだ。
悪いが、特に正義感が強いとも見えぬ風貌の光一郎から、こんな台詞が飛び出すとは思わなかった。
それとも…見かけで判断するのは早急だったのだろうか。
「まぁ、せっかく送って貰ったんだ。少し上がっていくか?」
「いえ!もう遅いですから帰ります。行こう?兄貴」
慈玄の誘いに、和宏が断りを入れた。
これで二度と会うことはない。そう思ったが、どういうわけかかすかに名残惜しい気がした。
二人が玄関を出る際、なにげなく光一郎と目が合う。奴はにっこりと微笑んで、軽く手を振った。
…本当に、バカじゃないだろうか。
俺のせいで、しなくてもいい痛い思いをして、何故そんな顔が出来るのか理解に苦しむ。
光一郎の仕草に目を逸らし、俺は兄弟に別れも告げず見送りもせず、奥の座敷に逃げるように駆け込んでいた。
「…仲の良さげな兄弟だな」
表まで見送りに出ていた慈玄が戻ってきて言う。
「さぁね、俺には関係ない」
何もかも面白くない。ただでさえバイトの件で苛ついていたのに。
うっかり低劣な喧嘩を買ってしまった挙げ句、負傷までして初対面の人間にみすみす手当されるなど。
しかも兄弟だ、本当に「仲の良さそう」な。
「…お前にも、兄弟でもいればよかったのにな」
追い打ちをかけるように慈玄の言葉が突き刺さる。
「必要ねぇよ」
吐き捨てるように言うと、慈玄は何度目かの溜息を深々と吐き、
「あのな…不本意だろうと、親切にして貰った人にちゃんと礼くれぇ言うのは、好い加減覚えてくれねぇかな。そんなだと、いつまで経ってもお前自身が辛い思いするだけだぜ?」
と、嘆いた。
こいつはこいつで、俺のことを大事に思い、尚かつ心配してくれているのは判る。
けれど、どうしても素直になれない。
兄弟…家族、か。
俺には、そんなものに全く縁が無かった。
あの二人の、示し合わせたように顔を見合わせたり、邪険にしているようでお互いを思いやっていたり…そんな様子が、ふと羨ましいと思った。そして羨ましいと思った自分に腹が立った。
今更そんな無い物ねだりをしてどうするんだ。
馬鹿馬鹿しい。ひたすら自分に言い聞かせていた。
布団に潜り込むとき、兄弟の姿がまた頭を掠める。
…もう、二度と会うことはないのだ。…
繰り返し振り払おうとしたが、そうすればするほど胸の奥がずきん、と痛んだ。
◆◇◆
数週間後、新しいバイトが何とか見つかった。
勤務先は今まで通っていたところと逆方向にあり、あまり通り抜けたことのなかった道程を辿る。
慈玄の寺は町境にあり、これまではそこから西方面に通っていた。新たな職場は東側に位置している。
桜街、という美しい名の東の町は、その名の通り桜の名所として知られるらしい。
生まれてこの方花見などしたことのなかった俺には、全く縁のない土地だった。
ただでさえ、通勤時に周囲の景色を眺めることなどほとんど無い。
どちらにしても、まだあの白っぽい花が枝中に広がるのが信じられないくらい、裸の木々が冷たい空気にさらされていた季節の事だ。
勤め始めて何日かこの日とは別のルートを通っていたのだが、帰りに食材の買い物でも出来ないものかと思い、少しだけ遠回りを試みた。
商店街は駅前付近だという目測はあったので、その方角に向かい馴染みの無い道をゆく。
すると一角の広大な土地を占めた、両翼のような巨大な建物が視界に入った。
「…へぇ…こんなとこにこんなでけぇ学校あったんだ…」
門柱に掲げられた校名を見るに、どうやら小中高一貫制らしい。
既に日が傾きかけた時刻で、部活動のトレーニングかランニングをする生徒や、数人で固まって下校する生徒が目に付く。
俺も数年前まで高校生だったが、学校生活の思い出などほぼ無いに等しい。
ずば抜けて良くもなく、かといってそんなに悪くもない成績のみ修め、進路相談なども適当に聞き流しているうちに、追われるように卒業しただけだった。
幸か不幸か、将来について煩く言う親もいない。
まれに授業をさぼったり喧嘩沙汰を起こしたり…生活指導面では問題も多かった自分だが、結局出自を気にしてか、教師は素知らぬふりをした。
俺のような生徒は、赤点さえ残さなければさっさと出て行って欲しかったのだろうと思う。
養護施設の長である稲城はそれでも「大学へ行きたいなら支援はする」とは言ってくれたが、そんな気も毛頭無かった。
しかし、今更何故学校になど気を向けたのだろう。
ぼんやりと校舎に目をやり、そのまま立ち去ろうとした。
「…あれ…。もしかして鞍君?」
そのとき、聞き覚えのある声が呼び止める。
もしやと思い振り返れば、案の定そこにあったのは教育の場にはそぐわない金髪と、にやけた顔。
…なんで…再びこいつに会う羽目になったんだろう。
「…あんたは…」
「やだなぁ、もう忘れちゃった?」
忘れては、いない。思い出したくはなかったが。
「なんであんたがこんなとこに。まさか生徒…じゃねぇよな?」
「違うよ。ここの先生」
「……………は?」
耳を疑った。こんな軽そうな奴が教師だって?
「…冗談だろ?」
「本当だって。…ああ、さよならー」
成る程、時々すれ違う生徒達は、光一郎に向かって挨拶をしている。
どうやら嘘でもからかっているわけでもなさそうだ。
「鞍君こそ、どうしてここに?」
「…バイトの帰り…道なだけだけど…」
「そっか。俺も今帰るとこなんだ。ね、せっかく再会したんだからちょっと付き合わない?クレープ御馳走するからさ」
「え…いや…いいよ…」
そんな断りを軽くいなし、光一郎は俺の腕を掴んで歩き出した。
「ちょ…いいって!」
「もう少しだけ鞍君と話がしたいんだ。…駄目かな?」
相変わらず悪意の欠片も見えない…バカみたいな笑顔を浮かべ、以前と同じように俺の手を引いたまま光一郎が振り向く。
不本意とはいえ貸しを作ってしまった手前それ以上強固にも断れず、仕方なく渋々付いていくことにした。
「とっ、取り敢えず手は離せ!…みっともない…」
先日のような暗夜ならいざ知らず、冬の夕刻とは言えまだ陽の光がある。
それに、丁度下校時間…勤め人でも定時上がりならば帰路に就く頃。人目は少なくない。
大の男が手を引かれているのは、周囲には奇異に映るのではないか。
「俺は全然構わないんだけどねぇ」
いやに残念そうな面持ちで、光一郎はようやく指を解いた。
こっちが構うんだよ、と叫びたいのを堪える。
そのまま踵を返し逃げ去ってやろうかと思ったが、それもなんだか大人気ない。
後ろを気にする奴を無視して、わざと間隔を開けるだけに留めた。
いくらか歩くと、公園に辿り着いた。
この間立ち止まったような、住宅街の隙間にあるようなものではなく、そこそこ広さのある場所だ。
この桜街には、街の名の由来ともいわれる桜並木を擁する、「桜公園」という大きな公園がある。
丁度街の中央に位置し、結構な面積を占める…という。地図上の知識だけで、踏み入ったことはないのだが。
しかし連れてこられたのはどうやらその「桜公園」ではないらしい。
学校の裏手にある、小高い丘のようなところだった。
ワゴン車のクレープ屋が店を構えている。
「好きなの注文していいよ。…ええっと俺は…」
奢る、という口実だが結局のところ自分の方が食べたかったのだろう。
まるで子供のように目を輝かせてメニューを見る光一郎を、少し呆れて眺める。
本当にこんなので教師が勤まるのだろうか?
「よし、この苺スペシャルで!鞍君、決まった?」
「…え、ぁ…じゃあ…カスタードホイップ…」
押されるようにそう言うと、光一郎はどこか嬉しそうに頷き、ワゴンの中の店員に注文した。
ほのかに甘い香りが漂う。綺麗に丸められた紙のように薄い生地が、鼻先に差し出されていた。
「はい、どうぞ」
「…あ…御馳走様、です」
車の向かいに置かれたベンチに並んで腰掛け、クレープを受け取り口を付ける。
甘いものは決して嫌いではない。
むしろ…ふわりと口の中で溶けるクリームと、同時に鼻腔をくすぐるバニラの香りは、ささくれ立った気持ちを癒してくれるような気さえした。
そんな様子を悟られるのが気恥ずかしく、やや背を向ける格好のまま口を動かす。
肩越しに俺が食いつくのを覗き込んでから、光一郎は自らの分をぱくぱくと平らげた。子供のように無邪気な、幸せそうな笑顔のまま。
「はぁ…やっぱり仕事終わりの甘いモノって最高だねぇー」
持ち手の紙を名残惜しそうに畳み、呟き声で言う。
「…うん…美味い…」
「そ?良かった」
手持ち無沙汰になったのか、にこにこしながら俺の食べる姿を見つめる。
「…あ、あんま見られると食いづれぇ…んだけど」
「あはは、ごめん」
目線を逸らし、光一郎が訊ねた。
「鞍君は、なんであの寺にいるの?」
「…なんで、って…」
説明するのが難しかった。というより、自分でも判然としづらかった。
慈玄が、前世の俺を知っていて…そのかつての俺を死なせてしまった事が心苦しく、その罪滅ぼしも兼ねて俺の面倒を見ることになった…など、常人に言っても信じて貰えそうもない。
それどころか、当の俺自身も未だ信じられずにいるのだから。
「…慈玄…住職が知り合いで、ちょっと居候させて貰ってるだけだよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
「家族は?」
「いない。…養護施設育ちなんだ、俺」
そう言うと、光一郎は心なしか意外そうな顔をした。
「そうなんだ…じゃあ、俺と一緒だね」
「え?」
(後編へ続く)
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19 / 50sp
01月20日 00:00 〜 09月30日 23:50
第一章 ヒトツボシ 前編
◆◇◆
その日はなんだかムシャクシャしていた。
些細ないざこざが原因で、バイトをクビになったのだ。
責任者は、すべての非は俺にあると判断した。
そういうことは、これまでにもあった。
気持ちを言葉にするのが極度に苦手な俺は、相手から繰り出される言い訳に上手く反論出来ない。
…というより、反論しても無駄だ、と思う。
普段他者との交流を必要最低限に抑えているから、そもそも周囲における自分の印象はあまり良くないのだ。
こういうことが度々あるのには辟易するが、やれ親睦だなんだと、日頃乗りたくも無い他人の誘いを受けるよりはよほどマシだ。
だから解雇自体は、さほど気に病んではいない。
しかし、明日からまた新たな職を探さなければならないのはとてつもなく億劫だった。
慈玄は、別に生活費など入れなくてもいいと言うが、そうはいかない。
タダ飯を食う義理など無いのだ。金額は減っても、それだけは守らないと…。
三が日を過ぎても、正月気分が抜けきらない連中は街にうようよしている。
いやむしろ、そういう奴等は一年中浮かれたように過ごすのだろうか。
電線が寒風にしなる音に、やたら甲高い馬鹿笑いが混じって聞こえ、苛立ちが更に増す。
とにかく、こんな日はとっとと帰って寝てしまいたい。
そんな事を思いながら、嬌声でざわついている繁華街を通り抜けようとした、そのとき。
「…おい兄ちゃん、今俺の方見て睨んだだろ?なんか言いたい事でもあんのか?」
先程馬鹿笑いを発していた、いかにも柄の悪さを前面に押し出した男に因縁を付けられた。
皮膚は赤黒く染まり、目も充血して澱んでいる。明らかに「出来上がっている」状態だ。
溜息が出た。
これも、「よくあること」だった。
どういう訳か、こんな風に絡まれる事が多い。
多分…いつも不機嫌そうな顔でいるので、目が合うだけで睨み付けてるとでも思われるのだろう。
確かにそいつが大笑いしたときにちらりと視線を投げはしたが、無論言う事など何も無い。
相手が誰であれ、挨拶を交わす気力すら今は持ち合わせていないのに。
「文句があんならハッキリ言えよ、クソガキ」
酒の力で気が大きくなっているのもあるのだろうが、身長こそ俺と大差ないものの男はおそらく屈強な類だ。
着る物に疎い俺でさえ「趣味が悪い」と思う柄のシャツの下は、厚い胸板であることが見て取れる。
どちらかといえば細身の俺を格下と見たらしい。
相手がどう思ったかは知らないが、実は腕には少々覚えがある。
学生の頃は、日々の鬱憤を意味も無く暴力で解消していた時期があった。
それもだんだん虚しく面倒なだけだと思い知り、高校卒業と同時に無益な喧嘩はしなくなったが。
近頃はこういうことがあっても適当にやりすごすのだが、如何せんこの日はムシャクシャしていたのだ。
「ぅるっせぇよ…」
思わず口に出た。
言ってから「拙い」と気付きはしたが、吐く息の酒臭さが感じ取れるほどに近づいた男の耳には届いてしまったようだった。
「んだと、こら」
その後はお決まりのパターンで、がっと胸ぐらを掴まれた。
こうなったら仕方ない…と考えるより先、体の方が反応した。
すかさず蹴りを入れる。が、次の瞬間左頬を殴られた。
蹌踉けながらも素早く足を払う。不意を突かれた男の体は、鈍い音を立ててアスファルトに転がった。
そのまま相手が立ち上がる前にのしかかる。
思考の糸がぷつり、と切れた気がした。組み敷かれ歯噛みしている横っ面に向け、尚も拳を振り上げた時だった。
「はいはい、喧嘩はよくないよ?」
「?!」
突然、後ろから腕を掴まれた。その刹那、下にいた男の足が鳩尾に入る。
「…っつ…っ!」
不覚にも後方へ倒れ込む。
「ふざけんなよ、このガキ!!」
形勢逆転。
酔っ払い男が反撃の鉄拳を振り下ろす姿が視界の端に入り、とっさに目を閉じる。
が、暫くたっても何故か痛みは襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、さっき腕を掴んだ奴の背中が目の前を塞いでいる。
「っ、ぃたた…」
「…ちょ?!あんた!」
殴った方も、別の人間が間に立つとは予想もしなかったらしい。
若干怯んで、軽く後じさった。声も出せずに息を呑んでいたホステス風の女性が、ようやく悲鳴を上げる。
「…そこで何をしてる?」
誰かが通報したのか、騒ぎを聞きつけたのか、制服姿の警官が姿を現した。
相手の男は姑息にもそれを目端に捉えた途端逃げ出したようで、すでに姿はなかった。
警官はあたふたと走り寄り、残された俺達の顔を比べ見る。
「大丈夫か?君、そいつに殴られたのか?」
「いえいえ!とんでもない!!これ、俺の弟で…なんか変なのに絡まれてたから間に入って助けようとしたら、とばっちり受けちゃって。もー、だからこんなとこ来ちゃだめって言ったでしょ?さ、帰ろ?」
割って入った男はしゃがみ込み、俺の腕を取って立ち上がると、戸惑う警官を後目にすたすたと歩き出した。
有無を言わせず俺の手首を握る力は、思いの他強い。
振りほどくのもままならず、ずるずると連れ往かれる。
やがてネオンの灯は姿を消し、暗い住宅街に入っていた。
いきなり家並みが途切れ、ぽっかりと空間が広がる。小さな公園のようだ。
黙ったまま、そして振り向きもしないまま先へ進もうとする男に、しばし呆然と従っていた俺はやっとそこに来て言葉を掛けた。
「離せよ!あんた、一体どーゆうつもりだっ!」
「どうもこうも無いよ。あのまま拘留でもされたかった?」
男は初めてこちらに顔を向け、その上にこっと笑みを浮かべてそんな事を言う。
「あーあ、血が出てるよ?可愛い顔が台無し。手当しないとね?」
そう言うそいつの口の端にも血が滲んでいる。
ボタンダウンのストライプシャツに、ばさりと羽織ったジャケット。
この時期にしては軽装すぎるのではと思う格好だが、やけに様になっている。
先程のチンピラっぽい酔っ払いよりは、遙かにセンスは感じられた。
だが、妙ににやけた顔付きと夜目にも鮮やかな金色に染めた髪は、まるでホストみたいな軽さを匂わせる。
それゆえ口元の怪我はことのほか痛々しく、なおかつ不釣り合いに見えた。
「可愛い…?まぁいい、とにかく離せ!それとも、慰謝料でも請求すんのか?」
住人に聞かれてまた騒ぎになるのも嫌なので、低い声で訴える。
手首に絡んだ指は一向に緩まない。
「何言ってるの?手当てしないと、って言ったでしょ。…ここからもうすぐだから、もう少し我慢してね?」
「…は?」
結局俺は、そんな短い会話を交わしたあとも手を引かれたまま、男に引きずられるようにして歩いた。
一体どこへ連れて行くつもりなのか。恐怖を感じさせる相手ではないが、意図が分からなさすぎて狼狽える。
…どうにも調子が狂う。
◆◇◆
「あ、兄貴おかえり…って?!どーしたんだよその顔っ!!」
「んー、ちょっとね。それより和、この子手当してやってくんない?」
訳も分からないまま到着した場所は、どうやらそいつの自宅らしかった。
ドアホンを鳴らすと、玄関口に灯りがともる。
内から鍵を開け迎え入れたのは、細身の俺より更に華奢げな少年だった。
それが、扉を開いたと同時にぎょっとした表情を見せた。
帰宅した家族の顔に見慣れぬ痕を見付け、おまけに見知らぬ同伴者までくっついていたのだから驚くのも無理はない。
和、と呼ばれた少年は本当の弟だろうか、女の子のような可愛らしい顔つきをしている。
…いや、例え女でもこんな目を引く容姿なのはそうはいないだろう。
「くりくり」という形容がぴったり当て嵌まる、小動物にも似た大きな瞳が印象深い。
軽く跳ねた髪の赤茶色は、兄貴同様生まれ持ったものではないのだろうが。
最初はびっくりしていたが、弟は兄の言葉に速やかに頷く。
「遠慮しないで上がれよ。すぐ薬箱持ってくるからさ」
「和」はそう言って奥に行ったかと思うと、宣言通り即座に薬箱とともに再び現れた。
「ほら、そこ座って?兄貴も」
居間まで案内し置かれたソファへ俺を導いたあと、手早くガーゼと消毒液を用意する。
「…余計なことを…」
ついそんな言葉が口から溢れる。
聞こえるように言ったつもりはなかったが、兄弟は困ったように顔を見合わせた。
…そうだよ、俺になんか構わなくても良いのに、なんでこんな…。
「いいから。少しじっとしててな?」
気を取り直したのか、弟の方が俺の傷口にガーゼを当てた。
消毒液が、電流みたいな痛みをもたらす。
「つ…っ」
「沁みる?ちょっと我慢しとけよ?」
こいつはどう見ても高校生だろう。俺の事を同い年くらいに思っているのか、馴れ馴れしい口調だった。
多少気に障ったが、童顔なのは自覚している。わざわざ訂正する必要も無いと思われた。
「これでよし、っと」
「…あ、ありが…とう」
頼みもしないのに、と思いはした。とはいえ今し方、二人を困惑させたのは少しばかり気が引けたので、形だけの礼を口にする。
「どーいたしまして。あ、俺宮城和宏。こっちは兄貴の光一郎。お前は?」
「…え…あ、烏丸……鞍吉…」
「鞍吉か…んー、ちょっと呼びづらいから鞍でいい?」
「…は?…ぅ、うん……」
兄弟揃ってマイペースというのか、それとも俺がやはり反論下手なだけなのか。
ひたすら面食らって、言葉を失くす。
そんな俺の様子などお構いなしに、和宏は「うん、鞍な?」と勝手に再確認して、屈託無く笑った。
「和〜、俺の手当は〜?」
「あ。全く、兄貴まで怪我してちゃ意味ねーじゃん…ちょっと待ってな鞍、これ終わったらお茶でも淹れるから」
「これ、なんて酷いなぁ…ねぇ、鞍君?」
俺のせいでした怪我なのに…光一郎の方もにっこりと笑いかけてきた。
あの場で割って入られてから今に至るまで、なんとなく軽薄そうな表情も声のトーンも全然変わらない。
それどころか、思えばこいつはあんなふうに殴られたのに、今の今まで「痛い」と一言も洩らさないのだ。
つまらないことに巻き込まれたと、厭味や愚痴の一つくらい言ってもおかしくないのに。
「…いや、その……ごめん…」
いつもならこんなくだらない喧嘩はしないのに、それをしたために誰かを巻き添えにしてしまった。
そのことについては、申し訳なかったと心底思った。
しかし当の光一郎は、そんなことは全く意に介してない様子だった。
「いいよ、俺が勝手に割って入っただけだし」
特に虚勢を張っているわけでも、詫びた俺を気遣ったようでもなく、本心で「どうということはない」と思っているらしい口振りだ。
「…でも…怪我までさせて…」
「別に鞍君が殴ったわけじゃないでしょ?」
そう言って笑う彼は、ちゃらちゃらしたイメージはあるものの、改めて見直せば弟と同じくかなり整った顔立ちだった。
ここに来る途中、俺に対して「可愛い」とかいう、言われ慣れないどころのレベルでは無い御世辞をのたまった気がしたが、顔に怪我を負って台無しなのはむしろそっちだろう、と言いたくなる。
そんな俺の考えに呼応でもしたのか、
「……でもまさか、顔殴られるなんて思わなかったよ」
ぽつりと呟く。
「転職しててよかったなぁ…」
転職?
その言葉の意味ははかりかねたが、初対面の相手に突っ込んだ事情まで聞く道理など俺にはなかった。
どうせこの場限りの出会い、この家を出たら一切無関係となるのだし。
「ほんとだよ、無鉄砲なことして。時期が時期なら母さん達にめちゃくちゃ怒られてたぞ?」
光一郎の口端にも消毒液をすり込んでいた和宏は、兄の言葉を聞きとがめたようだった。
嘆息混じりに返すと、ぐいとガーゼを押しつける。
「いっっだっ!和君〜、もうちょっと優しくー!」
聞くとも無しに兄弟の会話を耳にしながら、ふと気付く。
既に結構な時刻となるのに、その「母さん」が在宅している気配は無い。
共働きで、両親とも帰宅が遅いのだろうか。だとしても、俺みたいな得体の知れない他人がいつまでも上がり込んでいていい時間帯ではないだろう。
用事が済んだのなら早々に退去すべきだ。
「…はい、これでよし。んじゃ、俺お茶淹れてく…」
「俺、もう帰るから」
キッチンへ行こうとする和宏を呼び止めるようにして伝える。
手当をしてもらったのに素っ気ないようだが、遅い時間にこれ以上他人の家に厄介になっているわけにはいかない。
「そう?んじゃ送るよ」
「あ、俺も行くー」
「いっ…いいよ…大した怪我じゃねぇし…」
この程度の怪我で、わざわざ送ってもらうなどあまりにも情けない。
それに…いかにも気の合った兄弟のやりとりを目にしていると、さっきまで独り、苛立ち荒んでいた気分だった俺が惨めに思えてくる。
そしてこんな俺にまで親しげに接してくる二人に、妙にほだされそうになる自分に嫌気がさしていた。
「そんなこと言わずに送らせてよ。俺が無理にここまで引っ張ってきちゃったんだし。ね?」
光一郎が言う。弟よりもこちらが俺と大差ない歳なのだろうと思うが、見た感じは俺よりずいぶん大人びている。
なのにそうやって笑うと、良く言えば無邪気、悪く言えばバカみたいで、何だか力が抜ける。
「…わかったよ」
渋々了承すると、何故か嬉しそうに兄弟は笑いあった。
どうして、見ず知らずの俺にこんなにも構うのか不可解極まりなかったが…
「まぁ…いいか」
やはりペースを乱されてしまったのだろうか。そんなことは、今はどうでもいいと思えた。
すれ違い程度の一瞬の縁、そのはずがこんなことになってしまった。
こいつらにも自分自身にも呆れつつ、宮城家を出た俺は彼等を伴って夜道を歩き出した。
◆◇◆
「なぁ、鞍の家ってどのへん?この近く?」
歩きながら和宏が聞いてくる。
「…いや…少し離れてる…」
「え、学校どこ?」
やはり。こいつは俺を同級くらいに思っていたのだ。
「…俺はもう学生じゃねーよ。いいだろ、そんなのどーでも」
年下に同い年扱いされるのはどうにも屈辱で、そのせいで返事をするのが億劫になり、少しきつい口調になった。
「!…ん、ごめんな、色々訊いちゃって…」
しゅんとして和宏が言う。
分かってはいる…別にこいつが悪いわけではない。
俺は元々自分の事を喋るのが苦手で、結果的にこうやって相手を傷つける。
それに全く気付いていないわけでは無いが、どうしても…他人と打ち解ける事が出来ない。
「まぁいいじゃない。和も、鞍君ちがどんなとこか行けば分かるんだしさ」
のんびりした口調で光一郎が宥める。
しかし、一度漂ってしまった気まずい空気は晴れず、そこからは三人とも無言になった。
すっかり遅くなったので、住宅街は殆ど人通りもない。
あと小一時間で日付が変わる時分なのだから当然だ。家々から漏れる光もまばらになった。
やがて家並が途絶え、ガードレールで片側を塞いだ坂道にさしかかった。
薄暗い外灯のみが、等間隔にぼんやり道路の灰色を照らしている。
高めの塀で囲われている墓地の横を通り過ぎ回り込むと、既に見慣れてきた古い木製の門が姿を現した。
「…お…寺?」
和宏がぽかんと門を見上げ、呟く。
「ここに住んでるの?」
「…まぁな」
ギッと軋んだ音を立て門戸を開き、少々不気味なくらい静まり返った境内を抜け、本堂の横手にある玄関へ向かう。
寺の本堂はかなり古くてボロいが、こちらは築年数こそそれなりだが普通の和風住宅だ。
灯りはまだ点いていた。
「…鞍か?ずいぶん遅かったじゃねぇか、一体何してた…」
半分欠伸をしながら、慈玄が玄関先まで出迎えた。
「どちらさん?」
そして訝しげに、兄弟を三和土の上から見下ろす。
やたらと図体がでかい上、淡いアッシュグレーの長髪に軽僧衣というアンバランスな風貌に唖然としたのだろう、兄弟は同じように目を丸くして慈玄を眺めていた。
「あ、あのっ!」
先に我に返った和宏が口を開いた。
「鞍…吉さんが、なんか殴られたらしいのをうちの兄貴が連れ帰ってきて…それで手当てしてここまで送ってきました。宮城といいます」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「え…何、お前喧嘩なんかしたのか。その上人様に迷惑かけて…全くろくなことしねぇな」
深く息を吐いて、慈玄が俺を咎めた。
「うるっせぇな。勝手に連れてかれたんだよ」
傷に応急処置を施してくれ、物好きなと思いはしても深夜の道をここまで送り届けてくれたのは、二人の厚意だ。
俺とてそんなことは百も承知だが、それでも意地を張って突き放してしまう。
こんな言い方をしてしまう自分が本当に嫌だ。
「いえ…本当にその通りなので」
光一郎が困ったようにフォローを入れた。何も反論すればいいものを。
「いや、何にせよ悪かったな。こんなとこまでこいつを送って貰って。あ、俺は慈玄。一応この寺の住職でな」
兄弟に苦笑を向けながら、慈玄はそう自己紹介した。
二人の顔を順に見渡し、光一郎の口元の痣に気付いたようだった。