投稿日:2023年10月19日 21:36 文字数:11,121
13こ目;Powder Sugar Waltz 第3話
ステキ数:1
進路を決める中学3年になった冬矢。
自分の中にある相反する思いと、
蒼生との距離感に戸惑いを覚えながら出した結論は。
↑初掲載時キャプション↑
2021/08/27初掲載。
僕+君→Waltz!シリーズの13こ目は引き続き冬矢のお話です。
自分の中にある相反する思いと、
蒼生との距離感に戸惑いを覚えながら出した結論は。
↑初掲載時キャプション↑
2021/08/27初掲載。
僕+君→Waltz!シリーズの13こ目は引き続き冬矢のお話です。
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塀の向こうで緑の木々が揺れる。渡り廊下の窓からは、昇降口に近い通用門を見下ろすことが出来た。部活がない生徒たちのほとんどが帰ってしまった時間帯のせいか、人通りはない。校舎の陰に見えるのは、スカートの後ろ姿だ。その向こうにいるだろうはずの姿は見えない。背中までの髪を2つに結ったその人物は、頭を下げたり振ったりしたのち、深く俯く。しばらくして、そのまま踵を返すと、昇降口に消えていった。表情は見えなかったが、明るい顔はしていないだろう。
そこまでを見届けると、俺は窓から離れた。渡り廊下が終わった先にある階段を上り、校舎の中央あたりの教室に入る。
教室の中では、何人かが机に向かって勉強している。受験まで1年を切り、自宅で勉強するより集中できるということなのだろう。学習塾に通う人数も増えてきたようだ。そんな中、立ったまま鞄に教科書を詰め込んでいる森の姿があった。森はこちらに気が付くと、ひらひらと手を振る。
「笹原、まだいたんだ。しばらく見ないから帰ったかと思ったよ」
「ちょっと息抜きに散歩してた。部活終わったのか? 早いな」
「今日はミーティングだけだったんだ。せっかくだからこの後ちょっと道場のほうに顔出そうと思ってさ」
森はおそらくスポーツ推薦で高校に進むのだろう。はっきり聞いたことはないが、スカウトのような打診もあるらしい。
「まだ残るの」
「ああ、きりのいいとこまで問題集を片付けてから帰る」
「そっか、じゃあな」
荷物を抱えると、忙しそうに教室から出て行く。俺はその背を見送ると、椅子を引いて座った。窓の外、見上げる角度の雲が目に見える速度で流れていく。
やがて廊下の向こうから足音が聞こえてくる。これだけ静かだとひとり分の足音でも結構聞こえるものだ。その足音は、まっすぐこの教室に入ってきた。振り向くと、目を上げた野木沢と視線が合う。自分の席に戻りそうな気配を出すので手招きすると、ほんの少し首を傾げてこちらへやってくる。
「問題集、一緒にやってかないか」
俺がそう誘うと、野木沢の肩から力が抜け、その目が和む。
「うん」
既に帰っている隣の席の机を合わせ、俺と野木沢は向き合う形で問題集を広げた。得意不得意はあるが、野木沢とは速度が似ている。ほぼ同じペースで進めるのは気分がいい。お互いに引っかかるところが違っても、質問するタイミングと解いている箇所がそんなに違わないから、思考があちこち乱れることもない。却って自分で見落としていたところに気付くことも多く、効率がよかった。
一言で言い表すとしたら、「波長が合う」。そういうことなんだと思う。
野木沢の目が紙の上の字を追う。まばたきのたびに揺れる睫毛や、考え込むときの小さな首の動き、息を吸うかすかな音、ペンを握る指の滑らかさ。
顔を上げる気配に、俺は逆に目を落とす。
「野木沢、そこrが1個足りない」
「えっ。あ、ほんとだ」
1年なんてあっという間だ。おそらく今年はいつもよりきっと早い。次の春が来る頃には、たぶん、もう。
俺はペンを置いた。
「このくらいにして帰ろうかな。野木沢はどうする?」
聞くと、同じようにペンを置いて両腕をぐっと上に伸ばす。
「僕もやめよう」
「途中まで一緒に帰るか」
「そうだね」
教室を出る俺たちに、残っていた何人かから挨拶が飛んでくる。適当に返す俺に対し、野木沢は律義に笑顔で返していた。
空はすっかり夕焼けの色だった。外に出るなり強い風に煽られる。ざあっと木々が大きく喚いた。
「今日は風が強いねえ」
独り言のようにつぶやいて、野木沢は乱れた前髪をかきあげた。手から滑り落ちた弁当袋が落ちそうになったので、とっさに手を伸ばす。無事に俺の手に落ちたそれを渡すと、野木沢は照れたように笑う。
「ありがとう」
「どういたしまして。……それよりさ」
言葉を繋げると、何? と言うように首を傾げた。
「野木沢って、全部断るんだな」
言ってから顔を見ると、野木沢は片手を口元に当てて、なにやら気まずそうにしている。何を、とは言わなかったが、伝わったらしい。
「あー……見てた?」
「見えた」
少しばかり嘘だが、この程度なら許されるだろう。
「いっそ誰かと付き合ってみたら? そしたら告白も減るんじゃないか」
「やだよ面倒だし……」
否定の言葉がすぐに返ってきた。
「まだ誰とも付き合ったことないんだろ。1回試してみるのもありだと思うぞ」
いっそ、そうなってくれたほうが。けれど野木沢は首を振る。
「僕には無理だと思うなあ……。ずっと楽しいわけじゃないし、終わりはいつかくるし、維持するのにもすごくパワーがいるでしょ。なんだろうな、うまく言えないんだけど……恋愛事に関わりたくないんだ。このまま波風立てずに人生終われたらいいと思う」
野木沢はこういうところがある。最初から線を引いている感じ。自分が勝手に引いた線を、頑なに守っている。
「じゃあ、俺がとっかえひっかえしてるの、快く思ってないんだ」
意地悪を言った。野木沢の反応が見たかったからだ。それから、俺は野木沢の前では彼女の話とかできるだけしないようにしていたから、どのくらい知っているのか確かめたかったのもある。
野木沢は弾かれたようにぱっと顔を上げた。
「あ、ごめん、失言。あくまで僕の考え方ってだけだから、忘れて。笹原くんには笹原くんの恋愛観があるんだし。ごめんね、そういうこと言っちゃうから僕ダメなんだよ」
そんなの、口にするの俺に対してだけだろ。つまり普段から野木沢はそんなふうに、自分をダメだなんて考えてるってことだ。
……ただ、今のセリフでわかった。結構バレてたんだな。それから、野木沢がそれをあまりよく思ってないだろうことも。まあ、そうだよな。そうなんだと思う。求められたから応じてただけだと言っても、やっていたことには変わりがない。そのまま切れることも多かったから、不誠実だとなじられても釈明は出来ないと思う。満たされたことのなかった行為を繰り返すのは不毛だ。いい機会だ、もうやめよう。どうせ最近はそんな気すら起きなくなっていて、今は誰とも付き合ってないんだから。
俺は息を一つ吐く。
「俺は野木沢の考え方がわかるから、別にダメじゃないと思うけどな。……それに俺も反省すべき点が多いことに気付いた」
野木沢は半歩遅れて、申し訳なさそうにしている。もう一歩踏み込むつもりで、俺は声のトーンを少し上げた。
「な、野木沢が告白断るのって、理由それだけ?」
「え?」
「付き合ってからが面倒だって以外にないの、理由」
想定していなかっただろう問いに、野木沢の動きが止まる。考えているだけでは出てこないだろう。だからさらに揺さぶりをかけてみることにした。
「うーん」
「ほら、探して。3秒以内な。3、2、」
「えっ」
「1、0、はい」
「あっ、ぼ、僕のことなんか誰も好きになるはずないから」
……ふーん。
視線が足元を左右に泳ぐ。どうやら自分の答えに戸惑っているようだ。意識して出した答えじゃないんだろう。
「なんでそう思うの」
畳みかけると、野木沢は下げていた目をわずかに浮かせる。
「だって……僕、本当はこんなだし……付き合ったっていつかバレて、絶対向こうから面倒に思われて終わりだと思う……」
「……じゃあ、もとからバレてる相手だったら?」
「そしたら最初から僕のこと好きにはならないでしょ?」
最後の答えはきっぱりとしていた。
「なるほどね……」
それは、野木沢の中で普段からはっきりしていることだからなんだろう。
家のドアを開けると、出汁の香りがする。母さんだろうと思ったから、別に急ぐ必要はない。部屋着に着替えるところまで済ませてからリビングに入った。するとキッチンに立った母さんが顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ただいま。今日は早かったね」
「外出先から直帰してきちゃった」
普段は遅いことが多いから、たまにはそういうのもありなんだろう。俺はそのままキッチンに入ると、シンクに置かれた里芋に目をやる。
「これ、どうする予定?」
「煮物にしようかと思うんだけど、任せていい?」
「わかった」
包丁を取り出していると、母さんが「そうそう」と切り出した。
「急なんだけど、今週末留守にすることになって」
「父さんのとこ?」
「ううん、出張。土曜日の朝に出て、日曜の夕方に帰る感じになりそう。大丈夫?」
「了解」
母さんがいないのはしょっちゅうあることだ。その間は好き勝手できるから楽だしな。去年までは俺も外で遊んでいたけれど、もう予定もないし、おとなしく家で課題でも……。
いや。
俺は手を止める。
「母さん、その日、友達呼んでもいいかな」
「え?」
びっくりした顔で母さんが俺を見た。
「え、いいけど、泊まりでってこと?」
「出来れば」
「あ、そう、じゃ、お客さん用の布団出しとくね。……え、冬矢、友達呼びたいなんて言ったの……初めてじゃない!?」
「まあ……。予定聞いてからだからわからないけど」
そう、と母さんは嬉しそうに頷いた。
「でも母さんがいない時っていうのがちょっと悔しいわね。そんな仲いい子がいたなんて。今度ちゃんと紹介してね」
俺は、それにはなんとなく曖昧に頷いた。
週末の土曜日。レポートのまとめ課題を一緒にやるという名目で、俺は野木沢を家に招き入れた。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
鞄を抱き締めるようにして、おそるおそる野木沢が玄関に足を踏み入れる。借りてきた猫みたいだ。
「家族の人は?」
「ああ、父さんは単身赴任で母さんが明日まで出張。誰もいないから好きにしてていいよ」
目を丸くして、俺と室内を交互に見る。ふっ、なんで緊張してるんだ。
そうだな、野木沢はずっと寺田と一緒に行動してた。ひとりで動くことに耐性がないのかもしれない。
たぶん、俺は、野木沢に俺といることに慣れてほしいんだと思う。ずいぶん慣れてくれたとは思う、でもまだこうしてふたりきりだと緊張されてしまう。
「あ、これ、手土産」
野木沢がぎこちなく持っていた紙袋を差し出す。律義なご家庭なんだな。
「ありがとう。初めてだから受け取っとくな。で、ここ、俺の部屋。入ってて」
部屋のドアを開けると、野木沢はこくりと頷いた。
俺はまず洗面所のドアを開けて電気をつけ、リビングに入ったところで息をついた。俺だって緊張してるんだ、これでも。人を家に呼ぶのは好きじゃないから。誰かと会う時は必ず外だった。女子を連れ込むのも嫌だった。家がバレるのを避けたかったのもあるし、自分の部屋に自分以外の誰かがいるのが耐えられなかった。でも、野木沢ならいい。
昼飯を一緒に食べながら、自室のローテーブルの上に教科書と資料を広げ、まとめの方向性を話し合う。それぞれがやらなきゃならないから結論は自分で書くんだが、とりあえず正解がどの方向にあるのかのすり合わせをしたかった。理科の分野は野木沢のほうが得意だ。点と点を結びつける発想が次々出てくるのがすごいと思う。そのおかげで、まとめ始めるとお互いスムーズに進めることが出来た。夜までかかる覚悟をしてたので正直拍子抜けだ。
ただ、これはあくまで口実だったから、実はどうでもいいんだけどな。
野木沢は出来上がったレポートをいそいそと鞄にしまうと、ちらりと本棚を見た。いや、レポート書いてる時から見てたな。
「気になる?」
「あ……ひとの本棚ってじっくり見たことないから……。漫画読むんだね、なんか意外な気がする」
「ははっ、俺をなんだと思ってるんだよ。普通に読むよ。野木沢も字の本以外読むイメージないけど」
「僕もそれなりに読むほうだと思う」
「そっか。読む?」
「うん」
ふたりで本棚ににじり寄り、野木沢は冒険アクションもの、俺は人気作家の古い作品集を手に取った。そしてベッドの前の床に並んで座って背もたれ代わりにする。本を開いたと思ったらそのままあっという間に話に没頭する野木沢が微笑ましい。
なんとなく時計を気にしながら分厚い漫画を読んでいると、しばらくして野木沢がことんと首を傾げた。
「どうした?」
「あ、ごめんごめん。ちょっと苦手なシーンに行き当たっちゃって」
「苦手なシーン?」
覗き込むと、気弱な主人公が初恋の少女と会話している場面だ。落ち込む主人公に少女が自分の恋心を打ち明け、それに応えることにした主人公が奮起するという、物語が動く箇所。
「ふーん……どの辺が苦手なんだ?」
「この、主人公が自分のことを卑下したときにこの子が言う『自分の好きな人を悪く言わないで、傷つく』っていうやつ。時々見るんだけど、すごく落ち込む」
「……野木沢もネガティブだもんな。自分が言われてる気になる?」
「そうなのかなあ」
なんでもないシーンだし、主人公が一歩踏み出すきっかけのシーンでもある。それが野木沢には自分に刃を向けられているように見えるのかな。
俺は野木沢のほうに体ひとつ分寄る。
「実際言われたらどう思う?」
「僕が?」
「うん、参考までに」
「んー……。自分にとっては事実を述べてるだけなのに、それを否定されるのがすごくしんどい。そのうえ……それが相手を傷つけてるってわかったら、余計に自分のことが嫌いになりそう。自分自身の存在自体が好きな相手を傷つけてるなら、そばにいたくないよね、離れなきゃなって思う」
「……なるほど、参考になった」
「なんの?」
野木沢はなんでもないように笑う。俺は野木沢の言葉をそっと胸に刻んだ。
そろそろ始めるか。本を閉じ、ローテーブルの上に置く。隣を見ると、野木沢は手元に集中しているようだ。わかる、そのあたりは最初のクライマックスみたいなところがあるからな。
俺は野木沢の集中を途切れさせないようにそっと立ち上がる。ちらりともこちらを見ない。俺の動きに気付いてないようだ。左手の小指が薬指の横をかすかに撫でている。夢中になっている時の野木沢の癖だった。
リビングに戻り、大きく深呼吸をする。人のいる自分の部屋で、なにもしゃべらず、ただ黙って過ごせる。他人と長時間いるなんて考えただけでも息苦しかったはずなのに、苦しいどころかひどく気分が高揚する。纏う空気そのものが心地いいひとなんて、いると思わなかったし、出会えると思わなかったし、友人になれるなんて思わなかった。
もう一度息を吐き、俺は冷蔵庫を開ける。食べられないものはないって言ってたな。アレルギーもなし、と。予定とは違うけど、いいブロッコリーが買えたからこれを使おう。
校外学習で料理が出来ると言った、あの時のまなざしが忘れられなかった。あれから、いつか何か作って驚かせてやりたいと思っていた。何を作ったら喜んでくれるかって。もうずいぶん前のことなのに。
自分のことだが、きっと俺は、今まで自分が思っていたより、ずっと重い。
でも、たぶん、野木沢は喜んでくれると思う。とにかく今はその顔が見たかった。
しばらくして、準備がまだ終わらないうちに、廊下のドアが開く。予想より早いな。
「あれ。読み終わった?」
声をかけると、こっちを見た野木沢が、目を真ん丸くしてキッチンの柱をきゅっと掴む。覗き込むような恰好が、小さな子供みたいだ。
「え、あの、まだだけど……えっ? ごはん?」
「うん。もう少しかかるから待ってて」
本当は出来てから呼ぶつもりだったんだけどな。全部並べてから驚いてほしかった。まあ、いい。それは明日の朝にやろう。
野木沢は固まったように俺の手元を見ていたが、はっとしたように柱の陰から飛び出してくる。
「う、うわ、ひとりでのんびりしちゃってごめん! 手伝う!」
「いいよ、今日は俺の腕前を見せつけるって決めたからさ」
ええ、とつぶやいて、困った様子であちこちに視線を泳がせる。次第に手まで泳ぎ始めるので、俺はぴしっとソファを指さした。
「そこ座って、適当にテレビでも見てな。リモコンはそこに置いてあるから。部屋戻って続き読んでてもいいよ」
「ええ……」
無理矢理追い立てると、しぶしぶといった感じでソファに座る。
いつもキッチンから見る景色には誰もいない。なのに、今はソファの背の向こうに黒い髪が覗いている。それだけのことが。こんなに。
「笹原くん」
何分経っただろうか、小さな声が聞こえる。リビングを見ると、顔半分だけ見せた野木沢が、やっぱり困った顔をしていた。
「やっぱりお手伝い……」
「駄ー目。おとなしくしてろって」
「えー」
ソファに沈んでいく仕草が可愛い。
野木沢は、優しくてふんわりにこにこ笑っている自分を、繕った偽物の姿だと言う。ネガティブで面倒くさがりなのが本当の自分なのだと。でも、たぶん、その向こうにいる本人にも見えていない一番奥の野木沢は、すごく真面目で優しい。あと、本当に、可愛い。
「出来たよ」
ちらちら視線を感じながら、最後の一皿までを並べたうえで声をかける。野木沢は弾かれるように立ち上がると、そのままの勢いでこっちへ来た。
「わぁ」
メインをチキンドリアにしたから、あとはブロッコリーのポタージュとスティックサラダにしたんだけど、品数としては寂しいかな。そう思っていたが、野木沢の表情を見ると大丈夫そうだ。
「すごいね……。はー、すごい。ひとりで全部作れるなんて、ほんと、かっこいい」
……野木沢のこれは無意識なんだろうか。
「じゃ、食べよう」
大きく頷いた野木沢は、にこにこしながら俺の引いた椅子に座った。
「いただきます」
嬉しそうにスプーンを手に取る。ポタージュを口に含んだ野木沢の顔がぱっと明るくなった。
「美味しい。……こっちも美味しい。チキンふわふわで、香ばしくて、美味しい。ブロッコリーってこんなふうになるんだね。すごい、美味しい」
一口一口嬉しそうに食べる野木沢を見て、俺のほうがたぶん嬉しく感じていたと思う。家族以外の誰かに食事を出すことなんてなかったけど、こんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。俺に気持ちを隠さない野木沢が、俺に見せてくれる笑顔。これが見たかった。
しかし、これでよく今まで誰にも本性バレなかったよな。
片付けの手伝いをしたがる野木沢を浴室に追いやり、シンクに食器を積む。
はあ。
俺は何がしたいんだろうな。どうなりたいんだろうな。時間が経つにつれ、俺は自分がわからなくなってきていた。野木沢に、俺に慣れてほしい。喜ぶ顔が見たい。少しでも長く一緒にいたい。今はそう思っている。じゃあ、その先は? それを考えたときに、動けなくなる。互いに楽しく笑っていられる、いい友人関係を築けていると思っている。それでいいと思う俺と、それでいいのかと問う俺がいる。
それでいい、はずだ。野木沢はそう望んでいるはずだ。野木沢の望まないことは避けるべきだ。
それに、わからなくなる自分の影に、知らない自分が見えることがあった。それは、ひどく重くて暗い。自分でも時折ぞっとすることがある。これは野木沢に背負わせてはいけないものだ。
このままなら、来年の春には俺たちの道は分かれる。それでいい。野木沢はいい友人だ。
でも、と聞こえる胸の奥からの声を、俺はそっと塞いで閉じ込める。
鞄から出した封筒を机の上に置く。
「分厚い」
斜め後ろの席で課題のプリントと格闘していた森が目を瞠った。
「まだ全然絞れてないからな」
封筒から中身を取り出す。明るい色と爽やかな写真が並べられたたくさんの資料。様々な高校から取り寄せたパンフレットだ。
「すごい進学校目指すとかなのかと思ってたけど、そういうわけでもなさそうな感じか」
「今のところ別に目指してるとこがあるわけじゃない。ただ、その先に幅持たせることをある程度視野に入れて考えようかと思って」
へえ、とつぶやき、森は手を伸ばしてパンフレットをいくつか取る。
「……結構、電車使う学校多いな。進学校目指さないならもっと近くでもいいだろうに」
「深い意味はないよ」
「そうか?」
森は億劫そうにパンフレットの束をめくっている。なんだよ。
「言いたいことでもあるのか」
「いや? やけにここから離れたがるなって思っただけだよ。笹原はそれでいいんだ?」
何が言いたいのかは察しがついてる。だから俺はそれに気が付かないふりをする。
「電車通学してみたいんだよ」
「そうか。……な、笹原。俺、今すごく楽しいよ。柔道の話だけじゃなくて趣味の話たくさん出来るようになったの、ほんと去年からだ」
「よかったな」
「野木沢はいつも俺の話を聞いてくれる。あ、もちろんおまえも、いつもありがとう」
「どうも」
畳み掛けてくるな。こっちはわざとそっけなく返事してるのに。絶対引かないつもりか。
「俺はさ、まあ、春になったら離れちゃうわけだけど。笹原は、それでいいのか」
「…………」
「おまえも最近楽しそうじゃん。そこから逃げようとする意味、あるの」
……それをはっきり答えられるようなら、こんなに悩んだりしない。本能が近付こうとしていて、理性が逃げ出そうとする。自分でも意味なんてわからない。
森はパンフレットを整え、机に置いた。
「俺はそんなふうに悩む笹原、いいと思うけどな。悩んで足掻け、青少年!」
「同い年だろ」
反射的に返す。森は朗らかに笑った。
俺はひとつひとつパンフレットを眺めていく。正直どこでもよかった。そういえば今まで、何になりたいとか将来やりたいこととか、考えもしなかったな。学校で聞かれた憧れの職業、空欄で提出して担任を困らせたこともあった。
たぶん、俺は空欄なんだ。真っ白な解答用紙。埋める気すらないんだから笑えるな。本当は野木沢に偉そうなこと言える人間じゃないんだ。
……さて、どうしようかな。まだ結論は出さなくてもいいが、とりあえず目標があったほうがいいだろう。後々を考えると、付属って手もあるか。レベルも高いし、周りに対して説得力もある。そこのパンフレットを一番上に乗せて眺める。古い校舎がいかにも名門といった感じだ。
そこに、廊下から話し声が近付いてくる。野木沢の声だ。教室に入ってくるのを見ると、相手はクラスメイトの、たしか花井とかいったか。同じ小学校だったらしく、俺や森といない時にはよく一緒にいる。
「やばい、時間時間。じゃーな! 笹原もばいばい!」
「また明日ね」
花井は机からひったくるように鞄を掴むと、慌てた様子で出ていった。教室には手を振る野木沢が残される。
「図書委員の仕事?」
「うん。花井くんが今日最後のお客さんだったんだ」
わずかに表情を和らげた野木沢が、俺の机に近寄ってくる。
「笹原くんは何を……あ、学校案内?」
隣の椅子を引き寄せ、机の上を覗き込んだ。
「わ、ちゃんと考えてるんだ。偉いね」
……ぎしり、胸が痛む。
「僕も見ていい?」
「ああ、もちろん」
野木沢は上から順にパンフレットを眺める。
「高校ってこんなにあるんだ。もうアタリつけたりしてるの?」
「まだなんにも決まってないからこの量だよ。野木沢は? 地元受けるの?」
「あー、うん、そう、かな? 悪くないところだし徒歩で行けるのはいいなと思ってる」
おそらくこのへんの奴は大抵そうだろう。駅の反対側にはなるが、進学率はそこそこで設備もいい高校がある。よほどこだわりがなければそこに進学する奴は多いらしい。そのせいか「地元」で通じる高校だ。
「じゃあ、寺田と一緒になりそうかな」
「あんまり進学の話しないから聞いてないけど、そうなるのかなあ」
寺田と一緒なら、それでいいのかもしれない。最初からそうだったしな。
でも意外だ。あの寺田なら真っ先に「同じ高校へ行こう」とか言い出しそうなものなのに。野木沢の口調からすると、まだ何の約束もしていないような。
待てよ。
俺は小さく息をのんだ。
「……野木沢は将来何になりたい?」
何故だろう。
その答えを知っている気がする。
「将来? うーん……あんまり考えたことないなあ……。適当に生きて適当に終われないかなあ」
目だけは手元の写真を追いながら、さらりと言う。
その瞬間、俺は大きな間違いに気が付いた。
野木沢と向き合う時に出来る自分の影が怖くて、野木沢から離れようとしている俺。それは野木沢を突き放すのと同じことじゃないか? 無意識に自分の言葉で自分を刺す野木沢を理解しているのは、今、俺しかいないのに。
そうだ。野木沢を支えたい。本音を聞いてやりたい。引き出してやりたい。ずっと先のことはわからない、でも今はそれが一番の望みだ。
野木沢に、そばにいろって言ったのは他でもない、俺だ。その俺が離れてどうするんだ。俺が怯えるのが俺自身なら、自分で律することだって出来るはずだ。
俺が何を考えているか野木沢は知らないだろう。それでいい。
野木沢は真ん中のほうにあった、とある高校のパンフレットで手を止めた。
「え……何ここ」
声が上擦っている。本がずらりと並んだ写真と、建物の写真。さっき見て、候補から外しかけた高校のものだった。
「ああ、図書室じゃなくて図書館、なんだってさ」
「図書館!? 独立した施設なの!?」
「創立者が物書きだったとかで、文学系の資料を筆頭にすごい蔵書量らしいよ」
「住みた……あ、」
俺は思わず吹き出した。野木沢は顔を赤くする。
「ふっ……ははっ。住みたい、か。野木沢らしい……はははっ」
「わ、笑いすぎ……」
頬を膨らませる野木沢とか、可愛すぎだろ。
そうか。図書館、か。好きそうだな。
「な、野木沢」
「何」
「一緒にここ目指そうか」
「へ?」
拗ねたような顔。それが急にぽかんとした表情に変わる。
「友達と同じ高校目指すとかさ、いいじゃん。青春ぽくて」
野木沢は再び手元に目を落とす。レトロな建物がかなり強めのツボだったらしい。それから俺を見て、照れたような喜んでいるような曖昧な笑い方をする。
「まさか自分の人生で青春なんて言葉を使うとは思わなかったし、それを笹原くんの口から聞くことになるなんて」
「俺も自分の口から出すことになるなんて思ってなかったから引き分けだな」
「ふふっ。うん。だね」
野木沢は今度こそ嬉しそうに笑った。
ああ、欲が出た。
隣にいたい。
隣で笑っていてほしい。
そこまでを見届けると、俺は窓から離れた。渡り廊下が終わった先にある階段を上り、校舎の中央あたりの教室に入る。
教室の中では、何人かが机に向かって勉強している。受験まで1年を切り、自宅で勉強するより集中できるということなのだろう。学習塾に通う人数も増えてきたようだ。そんな中、立ったまま鞄に教科書を詰め込んでいる森の姿があった。森はこちらに気が付くと、ひらひらと手を振る。
「笹原、まだいたんだ。しばらく見ないから帰ったかと思ったよ」
「ちょっと息抜きに散歩してた。部活終わったのか? 早いな」
「今日はミーティングだけだったんだ。せっかくだからこの後ちょっと道場のほうに顔出そうと思ってさ」
森はおそらくスポーツ推薦で高校に進むのだろう。はっきり聞いたことはないが、スカウトのような打診もあるらしい。
「まだ残るの」
「ああ、きりのいいとこまで問題集を片付けてから帰る」
「そっか、じゃあな」
荷物を抱えると、忙しそうに教室から出て行く。俺はその背を見送ると、椅子を引いて座った。窓の外、見上げる角度の雲が目に見える速度で流れていく。
やがて廊下の向こうから足音が聞こえてくる。これだけ静かだとひとり分の足音でも結構聞こえるものだ。その足音は、まっすぐこの教室に入ってきた。振り向くと、目を上げた野木沢と視線が合う。自分の席に戻りそうな気配を出すので手招きすると、ほんの少し首を傾げてこちらへやってくる。
「問題集、一緒にやってかないか」
俺がそう誘うと、野木沢の肩から力が抜け、その目が和む。
「うん」
既に帰っている隣の席の机を合わせ、俺と野木沢は向き合う形で問題集を広げた。得意不得意はあるが、野木沢とは速度が似ている。ほぼ同じペースで進めるのは気分がいい。お互いに引っかかるところが違っても、質問するタイミングと解いている箇所がそんなに違わないから、思考があちこち乱れることもない。却って自分で見落としていたところに気付くことも多く、効率がよかった。
一言で言い表すとしたら、「波長が合う」。そういうことなんだと思う。
野木沢の目が紙の上の字を追う。まばたきのたびに揺れる睫毛や、考え込むときの小さな首の動き、息を吸うかすかな音、ペンを握る指の滑らかさ。
顔を上げる気配に、俺は逆に目を落とす。
「野木沢、そこrが1個足りない」
「えっ。あ、ほんとだ」
1年なんてあっという間だ。おそらく今年はいつもよりきっと早い。次の春が来る頃には、たぶん、もう。
俺はペンを置いた。
「このくらいにして帰ろうかな。野木沢はどうする?」
聞くと、同じようにペンを置いて両腕をぐっと上に伸ばす。
「僕もやめよう」
「途中まで一緒に帰るか」
「そうだね」
教室を出る俺たちに、残っていた何人かから挨拶が飛んでくる。適当に返す俺に対し、野木沢は律義に笑顔で返していた。
空はすっかり夕焼けの色だった。外に出るなり強い風に煽られる。ざあっと木々が大きく喚いた。
「今日は風が強いねえ」
独り言のようにつぶやいて、野木沢は乱れた前髪をかきあげた。手から滑り落ちた弁当袋が落ちそうになったので、とっさに手を伸ばす。無事に俺の手に落ちたそれを渡すと、野木沢は照れたように笑う。
「ありがとう」
「どういたしまして。……それよりさ」
言葉を繋げると、何? と言うように首を傾げた。
「野木沢って、全部断るんだな」
言ってから顔を見ると、野木沢は片手を口元に当てて、なにやら気まずそうにしている。何を、とは言わなかったが、伝わったらしい。
「あー……見てた?」
「見えた」
少しばかり嘘だが、この程度なら許されるだろう。
「いっそ誰かと付き合ってみたら? そしたら告白も減るんじゃないか」
「やだよ面倒だし……」
否定の言葉がすぐに返ってきた。
「まだ誰とも付き合ったことないんだろ。1回試してみるのもありだと思うぞ」
いっそ、そうなってくれたほうが。けれど野木沢は首を振る。
「僕には無理だと思うなあ……。ずっと楽しいわけじゃないし、終わりはいつかくるし、維持するのにもすごくパワーがいるでしょ。なんだろうな、うまく言えないんだけど……恋愛事に関わりたくないんだ。このまま波風立てずに人生終われたらいいと思う」
野木沢はこういうところがある。最初から線を引いている感じ。自分が勝手に引いた線を、頑なに守っている。
「じゃあ、俺がとっかえひっかえしてるの、快く思ってないんだ」
意地悪を言った。野木沢の反応が見たかったからだ。それから、俺は野木沢の前では彼女の話とかできるだけしないようにしていたから、どのくらい知っているのか確かめたかったのもある。
野木沢は弾かれたようにぱっと顔を上げた。
「あ、ごめん、失言。あくまで僕の考え方ってだけだから、忘れて。笹原くんには笹原くんの恋愛観があるんだし。ごめんね、そういうこと言っちゃうから僕ダメなんだよ」
そんなの、口にするの俺に対してだけだろ。つまり普段から野木沢はそんなふうに、自分をダメだなんて考えてるってことだ。
……ただ、今のセリフでわかった。結構バレてたんだな。それから、野木沢がそれをあまりよく思ってないだろうことも。まあ、そうだよな。そうなんだと思う。求められたから応じてただけだと言っても、やっていたことには変わりがない。そのまま切れることも多かったから、不誠実だとなじられても釈明は出来ないと思う。満たされたことのなかった行為を繰り返すのは不毛だ。いい機会だ、もうやめよう。どうせ最近はそんな気すら起きなくなっていて、今は誰とも付き合ってないんだから。
俺は息を一つ吐く。
「俺は野木沢の考え方がわかるから、別にダメじゃないと思うけどな。……それに俺も反省すべき点が多いことに気付いた」
野木沢は半歩遅れて、申し訳なさそうにしている。もう一歩踏み込むつもりで、俺は声のトーンを少し上げた。
「な、野木沢が告白断るのって、理由それだけ?」
「え?」
「付き合ってからが面倒だって以外にないの、理由」
想定していなかっただろう問いに、野木沢の動きが止まる。考えているだけでは出てこないだろう。だからさらに揺さぶりをかけてみることにした。
「うーん」
「ほら、探して。3秒以内な。3、2、」
「えっ」
「1、0、はい」
「あっ、ぼ、僕のことなんか誰も好きになるはずないから」
……ふーん。
視線が足元を左右に泳ぐ。どうやら自分の答えに戸惑っているようだ。意識して出した答えじゃないんだろう。
「なんでそう思うの」
畳みかけると、野木沢は下げていた目をわずかに浮かせる。
「だって……僕、本当はこんなだし……付き合ったっていつかバレて、絶対向こうから面倒に思われて終わりだと思う……」
「……じゃあ、もとからバレてる相手だったら?」
「そしたら最初から僕のこと好きにはならないでしょ?」
最後の答えはきっぱりとしていた。
「なるほどね……」
それは、野木沢の中で普段からはっきりしていることだからなんだろう。
家のドアを開けると、出汁の香りがする。母さんだろうと思ったから、別に急ぐ必要はない。部屋着に着替えるところまで済ませてからリビングに入った。するとキッチンに立った母さんが顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ただいま。今日は早かったね」
「外出先から直帰してきちゃった」
普段は遅いことが多いから、たまにはそういうのもありなんだろう。俺はそのままキッチンに入ると、シンクに置かれた里芋に目をやる。
「これ、どうする予定?」
「煮物にしようかと思うんだけど、任せていい?」
「わかった」
包丁を取り出していると、母さんが「そうそう」と切り出した。
「急なんだけど、今週末留守にすることになって」
「父さんのとこ?」
「ううん、出張。土曜日の朝に出て、日曜の夕方に帰る感じになりそう。大丈夫?」
「了解」
母さんがいないのはしょっちゅうあることだ。その間は好き勝手できるから楽だしな。去年までは俺も外で遊んでいたけれど、もう予定もないし、おとなしく家で課題でも……。
いや。
俺は手を止める。
「母さん、その日、友達呼んでもいいかな」
「え?」
びっくりした顔で母さんが俺を見た。
「え、いいけど、泊まりでってこと?」
「出来れば」
「あ、そう、じゃ、お客さん用の布団出しとくね。……え、冬矢、友達呼びたいなんて言ったの……初めてじゃない!?」
「まあ……。予定聞いてからだからわからないけど」
そう、と母さんは嬉しそうに頷いた。
「でも母さんがいない時っていうのがちょっと悔しいわね。そんな仲いい子がいたなんて。今度ちゃんと紹介してね」
俺は、それにはなんとなく曖昧に頷いた。
週末の土曜日。レポートのまとめ課題を一緒にやるという名目で、俺は野木沢を家に招き入れた。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
鞄を抱き締めるようにして、おそるおそる野木沢が玄関に足を踏み入れる。借りてきた猫みたいだ。
「家族の人は?」
「ああ、父さんは単身赴任で母さんが明日まで出張。誰もいないから好きにしてていいよ」
目を丸くして、俺と室内を交互に見る。ふっ、なんで緊張してるんだ。
そうだな、野木沢はずっと寺田と一緒に行動してた。ひとりで動くことに耐性がないのかもしれない。
たぶん、俺は、野木沢に俺といることに慣れてほしいんだと思う。ずいぶん慣れてくれたとは思う、でもまだこうしてふたりきりだと緊張されてしまう。
「あ、これ、手土産」
野木沢がぎこちなく持っていた紙袋を差し出す。律義なご家庭なんだな。
「ありがとう。初めてだから受け取っとくな。で、ここ、俺の部屋。入ってて」
部屋のドアを開けると、野木沢はこくりと頷いた。
俺はまず洗面所のドアを開けて電気をつけ、リビングに入ったところで息をついた。俺だって緊張してるんだ、これでも。人を家に呼ぶのは好きじゃないから。誰かと会う時は必ず外だった。女子を連れ込むのも嫌だった。家がバレるのを避けたかったのもあるし、自分の部屋に自分以外の誰かがいるのが耐えられなかった。でも、野木沢ならいい。
昼飯を一緒に食べながら、自室のローテーブルの上に教科書と資料を広げ、まとめの方向性を話し合う。それぞれがやらなきゃならないから結論は自分で書くんだが、とりあえず正解がどの方向にあるのかのすり合わせをしたかった。理科の分野は野木沢のほうが得意だ。点と点を結びつける発想が次々出てくるのがすごいと思う。そのおかげで、まとめ始めるとお互いスムーズに進めることが出来た。夜までかかる覚悟をしてたので正直拍子抜けだ。
ただ、これはあくまで口実だったから、実はどうでもいいんだけどな。
野木沢は出来上がったレポートをいそいそと鞄にしまうと、ちらりと本棚を見た。いや、レポート書いてる時から見てたな。
「気になる?」
「あ……ひとの本棚ってじっくり見たことないから……。漫画読むんだね、なんか意外な気がする」
「ははっ、俺をなんだと思ってるんだよ。普通に読むよ。野木沢も字の本以外読むイメージないけど」
「僕もそれなりに読むほうだと思う」
「そっか。読む?」
「うん」
ふたりで本棚ににじり寄り、野木沢は冒険アクションもの、俺は人気作家の古い作品集を手に取った。そしてベッドの前の床に並んで座って背もたれ代わりにする。本を開いたと思ったらそのままあっという間に話に没頭する野木沢が微笑ましい。
なんとなく時計を気にしながら分厚い漫画を読んでいると、しばらくして野木沢がことんと首を傾げた。
「どうした?」
「あ、ごめんごめん。ちょっと苦手なシーンに行き当たっちゃって」
「苦手なシーン?」
覗き込むと、気弱な主人公が初恋の少女と会話している場面だ。落ち込む主人公に少女が自分の恋心を打ち明け、それに応えることにした主人公が奮起するという、物語が動く箇所。
「ふーん……どの辺が苦手なんだ?」
「この、主人公が自分のことを卑下したときにこの子が言う『自分の好きな人を悪く言わないで、傷つく』っていうやつ。時々見るんだけど、すごく落ち込む」
「……野木沢もネガティブだもんな。自分が言われてる気になる?」
「そうなのかなあ」
なんでもないシーンだし、主人公が一歩踏み出すきっかけのシーンでもある。それが野木沢には自分に刃を向けられているように見えるのかな。
俺は野木沢のほうに体ひとつ分寄る。
「実際言われたらどう思う?」
「僕が?」
「うん、参考までに」
「んー……。自分にとっては事実を述べてるだけなのに、それを否定されるのがすごくしんどい。そのうえ……それが相手を傷つけてるってわかったら、余計に自分のことが嫌いになりそう。自分自身の存在自体が好きな相手を傷つけてるなら、そばにいたくないよね、離れなきゃなって思う」
「……なるほど、参考になった」
「なんの?」
野木沢はなんでもないように笑う。俺は野木沢の言葉をそっと胸に刻んだ。
そろそろ始めるか。本を閉じ、ローテーブルの上に置く。隣を見ると、野木沢は手元に集中しているようだ。わかる、そのあたりは最初のクライマックスみたいなところがあるからな。
俺は野木沢の集中を途切れさせないようにそっと立ち上がる。ちらりともこちらを見ない。俺の動きに気付いてないようだ。左手の小指が薬指の横をかすかに撫でている。夢中になっている時の野木沢の癖だった。
リビングに戻り、大きく深呼吸をする。人のいる自分の部屋で、なにもしゃべらず、ただ黙って過ごせる。他人と長時間いるなんて考えただけでも息苦しかったはずなのに、苦しいどころかひどく気分が高揚する。纏う空気そのものが心地いいひとなんて、いると思わなかったし、出会えると思わなかったし、友人になれるなんて思わなかった。
もう一度息を吐き、俺は冷蔵庫を開ける。食べられないものはないって言ってたな。アレルギーもなし、と。予定とは違うけど、いいブロッコリーが買えたからこれを使おう。
校外学習で料理が出来ると言った、あの時のまなざしが忘れられなかった。あれから、いつか何か作って驚かせてやりたいと思っていた。何を作ったら喜んでくれるかって。もうずいぶん前のことなのに。
自分のことだが、きっと俺は、今まで自分が思っていたより、ずっと重い。
でも、たぶん、野木沢は喜んでくれると思う。とにかく今はその顔が見たかった。
しばらくして、準備がまだ終わらないうちに、廊下のドアが開く。予想より早いな。
「あれ。読み終わった?」
声をかけると、こっちを見た野木沢が、目を真ん丸くしてキッチンの柱をきゅっと掴む。覗き込むような恰好が、小さな子供みたいだ。
「え、あの、まだだけど……えっ? ごはん?」
「うん。もう少しかかるから待ってて」
本当は出来てから呼ぶつもりだったんだけどな。全部並べてから驚いてほしかった。まあ、いい。それは明日の朝にやろう。
野木沢は固まったように俺の手元を見ていたが、はっとしたように柱の陰から飛び出してくる。
「う、うわ、ひとりでのんびりしちゃってごめん! 手伝う!」
「いいよ、今日は俺の腕前を見せつけるって決めたからさ」
ええ、とつぶやいて、困った様子であちこちに視線を泳がせる。次第に手まで泳ぎ始めるので、俺はぴしっとソファを指さした。
「そこ座って、適当にテレビでも見てな。リモコンはそこに置いてあるから。部屋戻って続き読んでてもいいよ」
「ええ……」
無理矢理追い立てると、しぶしぶといった感じでソファに座る。
いつもキッチンから見る景色には誰もいない。なのに、今はソファの背の向こうに黒い髪が覗いている。それだけのことが。こんなに。
「笹原くん」
何分経っただろうか、小さな声が聞こえる。リビングを見ると、顔半分だけ見せた野木沢が、やっぱり困った顔をしていた。
「やっぱりお手伝い……」
「駄ー目。おとなしくしてろって」
「えー」
ソファに沈んでいく仕草が可愛い。
野木沢は、優しくてふんわりにこにこ笑っている自分を、繕った偽物の姿だと言う。ネガティブで面倒くさがりなのが本当の自分なのだと。でも、たぶん、その向こうにいる本人にも見えていない一番奥の野木沢は、すごく真面目で優しい。あと、本当に、可愛い。
「出来たよ」
ちらちら視線を感じながら、最後の一皿までを並べたうえで声をかける。野木沢は弾かれるように立ち上がると、そのままの勢いでこっちへ来た。
「わぁ」
メインをチキンドリアにしたから、あとはブロッコリーのポタージュとスティックサラダにしたんだけど、品数としては寂しいかな。そう思っていたが、野木沢の表情を見ると大丈夫そうだ。
「すごいね……。はー、すごい。ひとりで全部作れるなんて、ほんと、かっこいい」
……野木沢のこれは無意識なんだろうか。
「じゃ、食べよう」
大きく頷いた野木沢は、にこにこしながら俺の引いた椅子に座った。
「いただきます」
嬉しそうにスプーンを手に取る。ポタージュを口に含んだ野木沢の顔がぱっと明るくなった。
「美味しい。……こっちも美味しい。チキンふわふわで、香ばしくて、美味しい。ブロッコリーってこんなふうになるんだね。すごい、美味しい」
一口一口嬉しそうに食べる野木沢を見て、俺のほうがたぶん嬉しく感じていたと思う。家族以外の誰かに食事を出すことなんてなかったけど、こんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。俺に気持ちを隠さない野木沢が、俺に見せてくれる笑顔。これが見たかった。
しかし、これでよく今まで誰にも本性バレなかったよな。
片付けの手伝いをしたがる野木沢を浴室に追いやり、シンクに食器を積む。
はあ。
俺は何がしたいんだろうな。どうなりたいんだろうな。時間が経つにつれ、俺は自分がわからなくなってきていた。野木沢に、俺に慣れてほしい。喜ぶ顔が見たい。少しでも長く一緒にいたい。今はそう思っている。じゃあ、その先は? それを考えたときに、動けなくなる。互いに楽しく笑っていられる、いい友人関係を築けていると思っている。それでいいと思う俺と、それでいいのかと問う俺がいる。
それでいい、はずだ。野木沢はそう望んでいるはずだ。野木沢の望まないことは避けるべきだ。
それに、わからなくなる自分の影に、知らない自分が見えることがあった。それは、ひどく重くて暗い。自分でも時折ぞっとすることがある。これは野木沢に背負わせてはいけないものだ。
このままなら、来年の春には俺たちの道は分かれる。それでいい。野木沢はいい友人だ。
でも、と聞こえる胸の奥からの声を、俺はそっと塞いで閉じ込める。
鞄から出した封筒を机の上に置く。
「分厚い」
斜め後ろの席で課題のプリントと格闘していた森が目を瞠った。
「まだ全然絞れてないからな」
封筒から中身を取り出す。明るい色と爽やかな写真が並べられたたくさんの資料。様々な高校から取り寄せたパンフレットだ。
「すごい進学校目指すとかなのかと思ってたけど、そういうわけでもなさそうな感じか」
「今のところ別に目指してるとこがあるわけじゃない。ただ、その先に幅持たせることをある程度視野に入れて考えようかと思って」
へえ、とつぶやき、森は手を伸ばしてパンフレットをいくつか取る。
「……結構、電車使う学校多いな。進学校目指さないならもっと近くでもいいだろうに」
「深い意味はないよ」
「そうか?」
森は億劫そうにパンフレットの束をめくっている。なんだよ。
「言いたいことでもあるのか」
「いや? やけにここから離れたがるなって思っただけだよ。笹原はそれでいいんだ?」
何が言いたいのかは察しがついてる。だから俺はそれに気が付かないふりをする。
「電車通学してみたいんだよ」
「そうか。……な、笹原。俺、今すごく楽しいよ。柔道の話だけじゃなくて趣味の話たくさん出来るようになったの、ほんと去年からだ」
「よかったな」
「野木沢はいつも俺の話を聞いてくれる。あ、もちろんおまえも、いつもありがとう」
「どうも」
畳み掛けてくるな。こっちはわざとそっけなく返事してるのに。絶対引かないつもりか。
「俺はさ、まあ、春になったら離れちゃうわけだけど。笹原は、それでいいのか」
「…………」
「おまえも最近楽しそうじゃん。そこから逃げようとする意味、あるの」
……それをはっきり答えられるようなら、こんなに悩んだりしない。本能が近付こうとしていて、理性が逃げ出そうとする。自分でも意味なんてわからない。
森はパンフレットを整え、机に置いた。
「俺はそんなふうに悩む笹原、いいと思うけどな。悩んで足掻け、青少年!」
「同い年だろ」
反射的に返す。森は朗らかに笑った。
俺はひとつひとつパンフレットを眺めていく。正直どこでもよかった。そういえば今まで、何になりたいとか将来やりたいこととか、考えもしなかったな。学校で聞かれた憧れの職業、空欄で提出して担任を困らせたこともあった。
たぶん、俺は空欄なんだ。真っ白な解答用紙。埋める気すらないんだから笑えるな。本当は野木沢に偉そうなこと言える人間じゃないんだ。
……さて、どうしようかな。まだ結論は出さなくてもいいが、とりあえず目標があったほうがいいだろう。後々を考えると、付属って手もあるか。レベルも高いし、周りに対して説得力もある。そこのパンフレットを一番上に乗せて眺める。古い校舎がいかにも名門といった感じだ。
そこに、廊下から話し声が近付いてくる。野木沢の声だ。教室に入ってくるのを見ると、相手はクラスメイトの、たしか花井とかいったか。同じ小学校だったらしく、俺や森といない時にはよく一緒にいる。
「やばい、時間時間。じゃーな! 笹原もばいばい!」
「また明日ね」
花井は机からひったくるように鞄を掴むと、慌てた様子で出ていった。教室には手を振る野木沢が残される。
「図書委員の仕事?」
「うん。花井くんが今日最後のお客さんだったんだ」
わずかに表情を和らげた野木沢が、俺の机に近寄ってくる。
「笹原くんは何を……あ、学校案内?」
隣の椅子を引き寄せ、机の上を覗き込んだ。
「わ、ちゃんと考えてるんだ。偉いね」
……ぎしり、胸が痛む。
「僕も見ていい?」
「ああ、もちろん」
野木沢は上から順にパンフレットを眺める。
「高校ってこんなにあるんだ。もうアタリつけたりしてるの?」
「まだなんにも決まってないからこの量だよ。野木沢は? 地元受けるの?」
「あー、うん、そう、かな? 悪くないところだし徒歩で行けるのはいいなと思ってる」
おそらくこのへんの奴は大抵そうだろう。駅の反対側にはなるが、進学率はそこそこで設備もいい高校がある。よほどこだわりがなければそこに進学する奴は多いらしい。そのせいか「地元」で通じる高校だ。
「じゃあ、寺田と一緒になりそうかな」
「あんまり進学の話しないから聞いてないけど、そうなるのかなあ」
寺田と一緒なら、それでいいのかもしれない。最初からそうだったしな。
でも意外だ。あの寺田なら真っ先に「同じ高校へ行こう」とか言い出しそうなものなのに。野木沢の口調からすると、まだ何の約束もしていないような。
待てよ。
俺は小さく息をのんだ。
「……野木沢は将来何になりたい?」
何故だろう。
その答えを知っている気がする。
「将来? うーん……あんまり考えたことないなあ……。適当に生きて適当に終われないかなあ」
目だけは手元の写真を追いながら、さらりと言う。
その瞬間、俺は大きな間違いに気が付いた。
野木沢と向き合う時に出来る自分の影が怖くて、野木沢から離れようとしている俺。それは野木沢を突き放すのと同じことじゃないか? 無意識に自分の言葉で自分を刺す野木沢を理解しているのは、今、俺しかいないのに。
そうだ。野木沢を支えたい。本音を聞いてやりたい。引き出してやりたい。ずっと先のことはわからない、でも今はそれが一番の望みだ。
野木沢に、そばにいろって言ったのは他でもない、俺だ。その俺が離れてどうするんだ。俺が怯えるのが俺自身なら、自分で律することだって出来るはずだ。
俺が何を考えているか野木沢は知らないだろう。それでいい。
野木沢は真ん中のほうにあった、とある高校のパンフレットで手を止めた。
「え……何ここ」
声が上擦っている。本がずらりと並んだ写真と、建物の写真。さっき見て、候補から外しかけた高校のものだった。
「ああ、図書室じゃなくて図書館、なんだってさ」
「図書館!? 独立した施設なの!?」
「創立者が物書きだったとかで、文学系の資料を筆頭にすごい蔵書量らしいよ」
「住みた……あ、」
俺は思わず吹き出した。野木沢は顔を赤くする。
「ふっ……ははっ。住みたい、か。野木沢らしい……はははっ」
「わ、笑いすぎ……」
頬を膨らませる野木沢とか、可愛すぎだろ。
そうか。図書館、か。好きそうだな。
「な、野木沢」
「何」
「一緒にここ目指そうか」
「へ?」
拗ねたような顔。それが急にぽかんとした表情に変わる。
「友達と同じ高校目指すとかさ、いいじゃん。青春ぽくて」
野木沢は再び手元に目を落とす。レトロな建物がかなり強めのツボだったらしい。それから俺を見て、照れたような喜んでいるような曖昧な笑い方をする。
「まさか自分の人生で青春なんて言葉を使うとは思わなかったし、それを笹原くんの口から聞くことになるなんて」
「俺も自分の口から出すことになるなんて思ってなかったから引き分けだな」
「ふふっ。うん。だね」
野木沢は今度こそ嬉しそうに笑った。
ああ、欲が出た。
隣にいたい。
隣で笑っていてほしい。
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