投稿日:2024年02月02日 22:25 文字数:18,143
37こ目;空色の雨傘
ステキ数:1
雨が降る穏やかな休日の午後、古い箱を開けた蒼生と冬矢。
その中にはアルバムが入っていました。
そこには、暖かな思い出だけではなく、まだ消化しきれない影も落ちていて…。
↑初掲載時キャプション↑
2022/02/04初掲載
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
ちなみに、話題に上がった「そいつ」は、後の話で出てきます。
出てきたら「あっ」と思っていただければ幸いです。
その中にはアルバムが入っていました。
そこには、暖かな思い出だけではなく、まだ消化しきれない影も落ちていて…。
↑初掲載時キャプション↑
2022/02/04初掲載
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
ちなみに、話題に上がった「そいつ」は、後の話で出てきます。
出てきたら「あっ」と思っていただければ幸いです。
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ウォークインクローゼットの中での作業を終えて寝室に出ると、さっきまで明るかった窓の外がわずかに暗くなっていた。昨日の予報では曇りで済むはずだったが、よく見ればぽつぽつと雨粒が見える。きっといつの間にか予報が変わっていたんだろう。
「雨が降ってきたね」
リビングまで戻り、ソファで本を読んでいた蒼生に声をかける。集中していたのだろう、顔を上げるまでにわずかに間があった。
「え? あ、ほんとだ。健ちゃん傘持って出たかなあ」
「どうだろう。あいつが天気予報を見て出ていくとはあんまり思えないけどな」
「だとしたら終わって連絡くれればいいんだけど」
健太は、今日も張り切って早くからバイトに行っている。終わる時間が見えていればいいが、他人の手伝いで残業することがそこそこあるので読み切れない。あいつも面倒見がいいからな。蒼生は心配するけれど、外に出て雨が降っているとなれば、さすがに連絡を寄越すなり雨具を調達するなりするだろう。おそらく。
窓に近付いてよく見ると、意外としっかり降っているようだ。
「買い物ついでに昼食外に行こうって話してたけど、荷物が多いと大変かもしれないな。家にあるもので済ませようか」
「うん。買い物は大丈夫だっけ」
「明日でも平気だよ。夕飯の分は買ってあるから」
キッチンに行くと、本をローテーブルに置いた蒼生が後ろからついてくる。そして、ストックの食材を覗き込む俺の隣で、腰をかがめて同じように覗き込む。その仕草で、前髪がさらりと額に落ちた。
「なにがあるの?」
「そうだね。……ああ、袋が開いてるスパゲッティがあるな。健太がいたら足りない量だけど、ふたりなら足りるだろ」
「いいねぇ」
「この前買ったブロックのベーコンがあるから、そうだな。スープスパゲッティにするか……クリームソースも出来るかな。冷凍してある挽肉でボロネーゼも出来そうだけど。そういえば冷凍室にたらこもあったな。納豆で和風にしてもいいし」
「うーん……」
蒼生は難しそうな顔をして腕を組んだ。……また余計な事考えてるな。俺が持っているはずの正解を探しているんだろう。誰かの考えを当てることが自分が出すべき答えだと思っている節がある蒼生だ。そう考えてしまう癖がついている。でも、そんなものないんだよ。俺にとって、蒼生が選ぶものが正解なんだから。
「何で悩んでる?」
「う、え、うーんと……」
「いったん頭真っ白にして。じゃあ2択だったらどれとどれ?」
「えぇっと、スープかクリーム……」
うん。なるほど。ベーコンが頭を離れなかったんだね。
「よし、わかった。両方作ろう」
「へ」
「手伝ってくれるだろ?」
「それは、もちろん」
戸惑った顔の蒼生の頭をぽんと軽く叩く。
「それじゃあまずお湯沸かしておこうか。はい、鍋」
「はっ、はい!」
蒼生はぴしりと背筋を正した。ふふ。
鼻歌を歌いながら、蒼生が皿を洗っている。
「ほうれん草とクリームのソース、美味しかったなあ。とろんとしてるから、よく絡むってことだよね。濃厚でベーコンの味が口の中で広がるのすごかった。見た目がちょっと緑なのも綺麗だったし。もちろんスープのほうもさっぱりしてて、いくらでも食べられちゃいそうで好き。ベーコン、薄いのと厚いので全然食べた感じ違うの、楽しかったぁ。ほんと、どっちも美味しかったから、また作ってね」
何度目かわからない褒め言葉をいただく。食べている最中もずっと言ってたもんな。特にクリームソースが相当気に入ったみたいだ。もちろん、蒼生の好みに寄せたんだ、そう言ってくれて嬉しい。
俺は少し気になったコンロの汚れを磨いていた。大した汚れじゃないし、別に今やらなければならないことではなかったが、蒼生の隣に立って作業をしていたかった。蒼生がにこにこと話しかけてくるのが、これ以上ないくらい癒やしになっているからだ。
蒼生とふたり、キッチンに立っていられるなんて、なんて幸せなことだろう。ずっとこんな生活を夢見ていた。蒼生の隣で笑いあっていたかった。蒼生が同棲を受け入れてくれた時、どんなにどんなに嬉しかったか。蒼生はきっとわかっていないと思う。
タイミングを計ってさりげなく合わせたから、蒼生が水を止めるのと俺が乾いた布巾で仕上げ磨きを終わらせたのはほぼ同時だ。ぴったり合うのがまた気持ちいい。
「洗剤なくなりそう。詰め替えってあったっけ」
ふいに、ブルーのボトルを照明に翳すようにして蒼生が言った。たしかに傾けてもほんの少ししか残りがない。気付かなかったな。最近、片付けは健太が積極的にやってくれるから意識していなかった。
「たしかこの前まとめ買いしたからあるはずだよ。洗面所の下の棚だったかな」
「そっか、買ったね。えーと、たしか、キッチン周りのは入りきらなくて……どこだっけ。……あ、そうだ、とりあえず向こうの部屋の押し入れに入れたんだった」
「じゃあ俺が取ってくるね」
「ありがとう」
蒼生の笑顔に送られ、キッチンを出てドアを開ける。
短い廊下の先、玄関入ってすぐの部屋はほとんど使っていない部屋だった。俺も健太も常に蒼生と一緒にいたいので、勉強するにしてもレポートを書くにしてもリビングと寝室があれば十分だからだ。一応言い訳としては、ここは「客間」ということになっている。友人や家族が来た時のために、と言えば格好はつくだろう。実際はその予定もつもりもないが。
部屋に入ると、ダンベルくらいしか使い方がわからない器具が置いてあるのが目に飛び込んできた。そうそう、健太が筋トレ部屋として使っているんだったな。さすがにリビングでやられると邪魔だから。蒼生はいいよ、と言っているけれど、健太にぶつからないように腕の届く範囲を避けながら歩く蒼生を見てからは、大人しくこの部屋に収まるようになった。側にはいたいが、邪魔に思われたくない気持ちが勝ったらしい。
それ以外には、蒼生の本棚が並んでいるのと、両開きの押し入れのドア。それだけの部屋だ。だから俺がこの部屋に入ることはほとんどなかった。もともとは和室で、押し入れも襖だったらしいが、リフォームした際にドアに替えたのだと入居時に説明を受けた。だから折り畳み式のドアを開けると、昔ながらの押し入れの造りが残っている。
その上の段には、圧縮された布団が2組だけ入れてあった。この部屋で使う分と、ソファをベッドにした時に使う分だ。これも、言い訳だな。寝室にベッドが2つとソファベッド、一応3人分の寝床が確保されている状態を保ちたいからだ。万が一誰かに踏み込まれでもした場合、1つに繋げたベッドに3人で寝ているなんて、どう思われるかわかったものではないから。……一応学生のうちは何かあった時のためにという理由で、それぞれの家に鍵を預けてある。ないとは思うが、本当に万が一があった時、一番傷付くのが蒼生だというのは想像に難くない。用心するに越したことはないわけだ。
とはいえ、ではソファベッドに押し込まれているのは誰だと問い詰められる可能性もあるわけだが、その辺りはその時に適当に考えればいい。体格を考えれば俺か蒼生がその役だろうけれど、設定上でも蒼生と別々は嫌だからな。
さて、用があるのは下の段だ。掃除機を収めた箱の隣にカゴが置いてあって、台所用の消耗品のストックが綺麗に整頓して入れられていた。ただ少し取り出しづらいから、ラックを作ってもいいかもしれないな。
その中から洗剤のボトルを探すと、奥にきちんと立っているのがわかる。取り出そうと押し入れに少し入る格好になると、今度はカゴの脇にある箱が気になった。積まれた2つの箱。なんだろうな、これ。しばらくここにあるということは普段使わないものだろうか。少し押してみると、そこそこの重さがありそうだ。蒼生は全部片付けたと言っていたから、健太のものということになる。だが、それぞれに書かれた「他」という字はどちらも蒼生の字だ。
なら、蒼生に聞けばわかるんだろう。
「蒼生ー。この箱なに?」
廊下の向こうに向かって話しかける。リビングに続くドアは閉めてきたから、聞こえるかどうかわからなかった。けれど、すぐに開く音がして、蒼生の声が飛んでくる。
「箱? どれ?」
「他、って蒼生の字で書いてある2つの箱」
ああ、と笑って、エプロン姿のままの蒼生がぱたぱたとこっちへやってくる。それから俺の隣に膝をついて、押し入れの中の箱を眺めた。
「これね、字は僕のだし、詰めたのも僕だけど、中身は一応健ちゃんの」
「一応?」
「……見てみる?」
「ああ」
蒼生の言い方が少し引っかかるから、俺は即座に頷いた。それに、健太のものだと言いながら、蒼生が開けることを躊躇わないのも妙だ。
重いその箱を蒼生とふたりがかりで引っ張り出す。それから、上に重なった箱を床に下ろした。蒼生が開けようとしているのは、下になっていた箱のほうらしい。テープが剥がされていた蓋を開けると、中には缶や紙の、新しそうなものや年季の入ったもの、様々な箱が詰め込まれていた。端には、大きな冊子のようなものが数冊ある。その幾つかには見覚えがあった。ああ、中学と高校の卒業アルバムだ。ということは、その隣にあるのは小学校のアルバムか。まだ他にもあるみたいだな。
「健太、アルバムも持って来てたのか」
「うん。これには経緯があってね。ほら、僕たち、まるっきり同じもの2冊ずつ持ってるでしょ。だから僕のは捨てようと思ってたんだ」
さらっと、何でもないことのように蒼生が言う。
「だけど、健ちゃんが、捨てちゃうのもなんか勿体ないから全部貰うって言い出して。で、健ちゃんの部屋に持ってったんだけど、同じの2冊並んでるのもおかしいしね。結局、僕のが健ちゃんの部屋に残ってて、健ちゃんのがここにあるというわけ」
なるほど。蒼生は未練なくそれを捨ててもいいと思っていたわけだ。だが健太はそれに抵抗があった。ずっと一緒にいたわけだから、その頃をなかったことにしたくないとかなんとか思ったんだろう。さらに、今ここにあるこれは健太のものだから、蒼生は勝手に捨てられない。
……蒼生は、家を出るにあたって、自分の部屋を明け渡してきている。私物も、持って来たもの以外は全部処分したんだそうだ。蒼生が日用品と本以外に捨てられないと運び込んだのは、衣装ケースにひとつだけ、それも余裕で入った。半分にも満たない量だ。そして、全部、俺たちがあげたものや一緒に買ったものだけ。
おそらく、健太は、蒼生が捨てるものを出来るだけ少なくしたかったんだと思う。きっと、アルバム以外にもたくさん、蒼生から引き取ったものを自分の部屋に残してきたんだろうな。そういう奴だ。
俺は端の、数冊ある合皮のアルバムに触れる。
「こっちのアルバムも?」
「それは僕の小さい頃の。これも捨てるつもりだったんだけど、健ちゃんにめちゃくちゃ止められた。それで何故か、健ちゃんに所有権が移ることになったんだよね」
笑いながら蒼生は言う。
やっぱり他にもあるんだな。
胸が痛む。
俺でもわかるよ、笑って言うことじゃないって。目の奥が揺れるのを見逃すわけがないじゃないか。まだ俺では癒やせていない部分が蒼生の中にあることを、こういう時に実感してしまう。
……そして、そうさせた原因の何割かは俺だ。蒼生を無理に連れ出さなければ。けれどそれについては後悔しないと決めた。
蒼生はふっと目をそらす。
「健ちゃんのお父さんの趣味が写真でね、両家の区別なくたくさん撮ってくれてたんだよ。それをまた健ちゃんのお母さんがアルバムにまとめるのが好きでね。小学校卒業するくらいまでの写真が入ってるんじゃないかな。あれ、健ちゃんのお母さんが作ったんだから、僕のものってわけでもないのかも?」
悪い癖が出てるな。視線を逃がして饒舌になる時、蒼生は頭の中で自分を踏み潰している。
俺は、蒼生を引き寄せ、抱き締める。
「と、冬矢?」
驚いて戸惑った声。無意識に自分を刺す蒼生には、俺の行動は突拍子もなく思えるだろう。気にせず、髪を撫でる。背中でクロスするエプロンの紐を緩く引いてやると、蒼生の肩からすうっと力が抜けた。
「ねえ、蒼生」
「ん、うん?」
「俺が知らない頃の蒼生、見せてくれる?」
「な、なんか恥ずかしいかも……」
「どうして? 全部見せて?」
「いやあの、言い方がなんか……。あ、でも、文集のとこはダメなので……それでよければ……」
「……ふ。わかったよ。ありがと」
中学2年からずーっと一緒にいるんだから、蒼生がちゃんとした綺麗な文章を書くことは知っている。それでも恥ずかしいだなんて、何を書いたんだろう。後で説得してみようかな。
健太の母親が作ったというアルバムは、表紙を開いたところから早速全力で殴られたような衝撃を与えてきた。
「……可愛いね」
「しわしわじゃん……」
ダイニングテーブルにアルバムを広げた俺は、とことん過去の蒼生を堪能するつもりでいる。隣に座れば、と言ったのに、蒼生は首を振って隣に立った。その位置のままで呻くようにそう呟くと、両手で顔を覆った。
俺はその蒼生の言葉を受け流して、引き延ばされた1枚目の写真をじっくり見る。本当に生まれたばかりなのだろう、小さな小さな指先が蒼生の言うとおりふやけている。けれど顔はとてもすっきりしていて、赤い頬がふくりと愛らしい。まだ笑うという感情もなく、表情も作れないはずなのに、どこか微笑んだような口元。閉じられた瞼の穏やかな角度は優しい性格の表れだろう。今でももちろん可愛いけれど、この蒼生は、健太が天使と表現するのが至極当然だと思えるほど可愛らしい。
ページをめくると、最初こそ蒼生と家族の写真が並んでいたが、わずか数枚で眠る健太の姿が隣に並ぶ。いや健太、だと思う。赤ん坊なんて最初は全部同じような見た目だ。だからこそ蒼生の綺麗さが際立つわけだが。同じ日なのだろうか、健太が暴れて泣いているのを蒼生がじっと眺めているように見える写真が、今の関係にも繋がっているようで面白い。
リビングで眠る写真。庭で遊んでいる写真。どこかに旅行に行っている写真。山の写真。海辺の写真。……いろんな所に行っているんだな。そのどれもこれも、両家は共に行動していたようだ。どんな写真も蒼生の隣には健太がいて、表情が確認できるものはすべて、ふわふわにこにこと笑っている。幼稚園の看板の隣にふたりで立っている入園写真。すいか割りをしている蒼生と、後ろで騒いでいる健太。組み立て式のプールの前でポーズをとる健太と隣に立つ蒼生。演奏会の写真なのだろうか、他の子よりも大きく太鼓のバチを振り上げた健太の袖を蒼生が手綱を引くように引っ張っている。クリスマス会の写真は、笑う蒼生の隣、健太の前にふたつケーキが置いてある。……本当にずっと一緒にいたんだな。
「……ものすごくいたたまれない……」
我慢出来なくなったように蒼生が後退った。
「どうして?」
「そ、そんな1枚1枚にいちいち感想言われるの、恥ずかしいよ……」
「だって全部可愛いんだから仕方ないだろう。徹底して健太が隣にいるのが悔しいけど」
蒼生は真っ赤な顔で頷く。
「だからわかると思うんだけど。健ちゃんのアルバムも、そんな感じなんだよ。ほとんど写真が一緒なの。僕が捨てても問題ないでしょ」
「そのおかげで、俺が今こうして小さくて愛らしい蒼生を堪能できるんだから、捨てないでいてくれてよかったよ」
「……うー。あ、乾燥機そろそろ止まる時間だ!」
ああ、逃げた。たしかに時間はそのくらいかもしれないけれど、止まってアラームが鳴ってから行けばいいのに。でも、照れて逃げる蒼生が可愛いから、俺はただその背中を見送った。今も、昔も、本当に可愛い。
またアルバムに目を落とす。写真の中で、蒼生たちは小学生になっていた。ここから先のページ数は少ない。兄姉も大きくなって、家族旅行に行く数も減ってきたということなのだろう。それに大人が参加しない行事も増えていくから、比例して学校が用意した写真が増えていく。そのせいか、時々、健太のいない写真が混じってきた。学芸会や運動会、遠足……蒼生は同じ顔で笑っている。これが正解の顔でしょう、と作った笑顔。
乾燥機から出したばかりのタオルの山を抱えた蒼生が部屋に戻ってくる。
「蒼生」
「はーい」
「可愛いけど……俺との写真がないの、やっぱり寂しいね」
言うと、蒼生は「あ」と視線を天井に上げた。
「そういえば、中学校の行事の写真も箱の中にあったかも」
「そんなのあったっけ?」
「冬矢のおうちでも買ってるんじゃないかな。写真屋さんが撮ってくれた写真、保護者会経由で売ってたみたいだよ。僕も知らなくて、後で見せて貰ったんだ」
へえ。どうだろうな、母さんも仕事が忙しくてなかなかそういう会合には出られなかったはずだ。母さんのことだから、買っていたら見せてくれそうなものだけどな。いや、自分で楽しんで俺に見せるのを忘れている可能性もあるか。それが一番ありそうだ。
「探してくるね」
蒼生はソファに持っていたものを置くと、またぱたぱたと廊下を駆けていった。
その間に、俺は小学校時代の卒業アルバムに手を伸ばす。紙のケースに入れられた、布張りのアルバムだ。俺のはどんなのだったかな。興味がなかったから覚えてない。……それにしてもこのケース、取り出しづらいな。かなりキツい。無理矢理入れた感じだけれど、こんなにサイズが合っていないなんてことはあるだろうか。
なんとか取り出して、中身を見る。最初がクラス写真、半ばに全員の卒業文集、それから最後にカラー写真でそれぞれの思い出が綴られているという形式だ。クラス写真の蒼生は、もうすっかり出会った頃と変わらない。綺麗で大人しくて、物静かだけれど静かなぶんだけ別の存在感がある。大輪の花というわけではない、ただ、一度目に入ってしまえば二度と目が離せない、純白の花だ。空気すら輝かせてしまうほどの、まばゆい花。初めて会った時に気付いてもよかったのに、あの頃の俺は本当に目が曇っていたんだとよくわかる。
文集……は、蒼生が嫌がっていたので、飛ばして後ろの写真を見る。約束を破るつもりはない、きちんと蒼生の許可を得てからだ。まずはクラブ活動の写真か。蒼生は読書クラブだったな。人数が少ないからすぐにわかる。蒼生は、その端に立っていた。その次は1年生からの行事写真が小さなカットでたくさん並んでいる。この中でひとりを探すのは骨が折れそうなものだが、蒼生の姿には吸い付くように目が留まる。
「…………?」
こうして見てみると、健太と一緒にいない時の蒼生は、常に端のほうにいるな。出来れば写りたくないと思っていたんだろう。おそらくあの頃の蒼生なら、そう思っても不思議ではない。それに、中央に寄せようと腕を引かれたり、列の中央に組み込まれて肩を抱かれたりしているカット……。どれもこれも、笑顔に無理がある。ずっと、こんなにもわかりやすく不安がっていたのに、誰ひとりとして蒼生の本性に気付かなかったというのか? 蒼生の作る外側の殻がどれだけ精巧に出来ていたかに感心もするが、一方でぞっとする。俺がいなければ……蒼生はどうなっていたのだろう。
蒼生のいないページに用はないので、後半は飛ばし飛ばし確認する。残念ながら健太の姿はよく目に入った。こいつは、いつでも画面の中央にいる。この頃になると、蒼生は写真に写らないテクニックを覚えたのだろう。たしかに、当時の蒼生の胸中を考えると、捨ててもいいと思うのかもしれない。
と、最後のページに何か挟まっているのに気付いた。厚紙? いや、色紙か。これが挟まっていたからあんなにキツかったんだな。何気なく裏返して見ると、子供っぽい乱雑な字が放射線状に並んでいる。中央には、「健太へ」と書かれていた。ああ、そういえばこれは健太の持ち物だったか。ならば読むのはよくないだろうと思うものの、字が大きいので自然に読めてしまう。「別の中学に行っても仲良くしような」とか「また3年間一緒に遊べるな」とか。文章の内容の方向が違うことを考えると、これは餞別の寄せ書きではなく、それぞれが相手に書いた友人同士のメッセージなのだろう。他の奴らが持っている色紙には、同じように健太のメッセージもあるはずだ。ということは、「一緒に」と書かれた数名は、俺とも同じ中学に進んだわけだ。なるほど、ぼんやりどこかで見たような名前が……あるようなないような気がする。
とりあえず、後で健太には報告して別の場所にしまわせよう。同じ場所にしまっては、アルバムにとってもよくない。蒼生の写真に負担をかけるわけにはいかないから。それに、勝手に読んでしまって申し訳ない気持ちがなくもないしな。
「あったよー」
蒼生の明るい声がリビングに戻ってくる。手には、小さな洋菓子の缶。
「こっちがたしか僕の分。健ちゃんのもあったけど、冬矢は」
「興味ない」
「あはは、そう言うと思った」
テーブルの上に缶を置くと、蒼生はそれを開けた。写真よりひとまわりだけ大きい缶の中には封筒が入っているようだ。
「これ、中2の時の校外学習で……こっちが遠足、体育祭。中3がえーっと、修学旅行と、あと……」
ごそごそやっている隣で、俺は校外学習と書かれた封筒から写真を取り出す。……懐かしい。出会った頃の、蒼生と俺。そういえば写真屋が行事のたびにいたような気がするな。行事に参加すること自体が大して面白いと思わなかったから気にも留めていなかったし、なんなら声をかけられても流していた。
封筒を次々開けて中身を確認していく。ああ、でもこうして見ると、俺もちゃんと写っているんだな。どれもこれも、きちんと参加している。さっき健太ばかり隣にいることに妬いていたけれど、なんだ、俺と森も似たようなものじゃないか。常に俺たち2人は蒼生のそばにいたんだな。ここまではっきり証明されてしまうと、なんだか笑えてくる。
「出会った頃から、冬矢ってかっこよかったよね」
しみじみと蒼生が呟く。顔を窺うと、冗談を言っているわけでもなさそうだ。
「冬矢はアルバムとか持って来てないの?」
「母さんが大事に持ってるし、自分の写真に興味ないし」
「いつか見たいな。だって、小さい頃の冬矢も絶対かっこいいと思うもん」
……可愛いことを言う。自分が言われるのは照れるくせに。
「それにしても、蒼生、俺とも距離近いよね」
「ああ、ほんとだね。……たぶんもう好きだったんだろうなあ……」
あの頃、蒼生の気持ちに気が付いていれば。それはずっと俺の後悔だ。けれど、今が幸せだから、これでよかったんだとも思う。
「すれ違ったままでいなくてよかった。蒼生と付き合えて本当に幸せだよ」
「! ふふ、うん。あの日、踏み出してくれてありがとう」
ふんわりと蒼生が笑う。それから、最後のページを開いたままだった卒業アルバムをぱらぱらとめくり、モノクロのページで手を止めた。
「冬矢。これ、僕の小学生の時の作文」
「いいの?」
「たぶん、冬矢ならわかってくれると思うから」
俺なら? 蒼生が頷くので、俺はその文章に目を落とす。6年間の思い出と感謝を伝える文章。普段よりかしこまった文字の形。まっすぐ線を引いたように綺麗に整った文字列。大人しくて、優しくて、頭脳明晰そうな、穏やかで静かな海のような、……見事に優等生の文章だ。
ああ。そうか。
俺に出会う前の蒼生だ。
「蒼生は“これ”になろうとしてたんだね」
「……ここから引っ張り上げてくれたのは、冬矢だよ。幸せなのは、僕のほう」
さあて。それはどうだろうね。
俺は自分と蒼生が写った写真に目を落とす。蒼生は、俺に寄り添うようにしてふんわりと笑っている。健太といる時のような、自然で柔らかい笑顔。それを俺のそばでも浮かべていてくれたことを客観的に見て、今、心から安堵している俺がいることをそのまま伝えたい。そして、自分がこんな穏やかな顔をしていたのだと初めて知った、この安らいだ気持ちも。
窓の外、雨は本降りになっていた。
一通り眺めながら、あの時はああだった、こうだったと談笑する。蒼生は俺の隣、肩の触れ合う距離に座っている。時間を気にせず、ただ、こうしてふたりでのんびり話していられる。
「お茶でもいれようか。何にする?」
「りんごの紅茶!」
「ああ、いいね」
元々の俺はコーヒー派だった。親がそうだったから。でも、緑茶や紅茶が好きな蒼生と同じものを飲んでいるうちに、すっかり紅茶派になってきた。この前、蒼生と一緒に茶葉の店に行ってみたんだが、思っていたより種類が多くて驚いた。少しずつ様々な種類を買ってきたから、これから蒼生と試していくつもりだ。
「お待たせ」
「わ、いい香り」
恋人に趣味を合わせるなんてどうなんだろうと、蒼生と付き合うまではずっと思っていた。彼女たちの多くが俺に無理に合わせようとしてくるのを、ひたすら重たいと感じていた。けれど、あれは無理にやっているわけではなかったんだな。ただ、自然と、好きな人の好きなことを知りたいと思う。それだけのことだったんだな。
「……あれ? これなんだろ」
アルバムを抱えた蒼生が、その下に置いておいた健太の色紙に気が付いたようだ。
「健太が友達同士で交換した卒業メッセージみたいだな。俺もさっき勝手に見ちゃって」
「へえ? そんなのやってたんだ。健ちゃん友達たくさんいたからなあ」
蒼生は笑って、その色紙の表を見る。小学校の頃だから、蒼生も知り合いだろう。俺ならともかく、蒼生なら見ても健太は文句なんて言わないはずだ。
「…………」
……?
ふいに、蒼生の表情が曇った。と、いうより、消えた?
「蒼生?」
ああ。
すぐにわかる。
これは、尋常じゃない。
「蒼生」
もう一度呼ぶと、蒼生ははっと目を見開き、それからいつも通りの、外向けの顔をする。
「ううん。ごめん。あんまり、いい思い出のある名前じゃなかったから。ちょっと思い出しちゃっただけ」
ぱさりとその色紙をテーブルの上に落とす。その指先は、強張って震えているようだ。
「蒼生がそんな顔をするなんて、ちょっとじゃないだろう。何かあったんだな」
「あー……。うーん……。いや……たぶん、これ、悪口っていうか陰口になっちゃうから、さ」
なるほど。これだけ温厚な蒼生が、敵意を持つほどの相手か。
俺は蒼生に体を向ける。少し困った顔の蒼生が、上目遣いで唇を軽く噛んだ。
たぶん、今ここにいるのが俺じゃなく健太だったら、何事もなく取り繕っていたはずだ。俺になら話していいのではないかと迷っているんだろう。蒼生は本当は吐き出したがっている。ずっと蒼生の中で澱んでいたものなら、とっとと吐き出して捨ててしまったほうがいい。
「俺しか聞いていないから。気持ちを整理するためにも、話して」
「……うん」
素直に、蒼生が頷く。そして膝を俺に寄せると、はあっと大きく息を吐いた。
「簡単に言うとね。僕、ここのグループに一番絡まれてたんだ」
「絡まれてた?」
「そう。健ちゃんと仲いいっていうか、健ちゃんをリーダーと慕ってる感じの人たちで、簡単に言えば、僕と健ちゃんの距離が近いから……嫉妬してたのかな。僕が邪魔だったみたい」
は? 蒼生が?
「健ちゃんがいないところで校舎裏に引きずり込まれて小突かれたり、教室の見えないところで足かけられたり、帰り道で蹴飛ばされたり、上履き投げられたり、ノート破られたり、まあ定番だよね。階段から突き落とされたこともある」
「っ、ケガは?」
蒼生は曖昧に笑う。
……その場に居合わせたかった。そうしたら即座にやり返してやったのに。いや、それだけでは足りない。
「それ、健太は」
「知らない。さんざん“健太に泣きつけば?”って言われたけど。僕自身が悔しかったのもあるし。……それに、だって、健ちゃんはそいつらと仲いいんだもん、僕が告げ口して関係壊すのもおかしいなって思って。今思えば、たしかな証拠もないわけだし、僕が他人の悪口を捏造して関係を悪化させようとする悪者だ、って健ちゃんに思わせる作戦だったのかな」
果たして、そんな子供っぽいことをするような奴らが、そこまでのことを考えていただろうか。ただ単に「蒼生は言わないだろう」と高をくくっていたような気もするが。実際蒼生は健太に何も言わなかった。
いや、違う。
「健太に、言えなかった?」
「……考えもしなかった、が近いかな。僕はこんなことをされる程度の人間なんだなあ、僕が僕だからこうなってるんだな、なんだ、僕が悪いんだぁって思ってた。僕が悪いなら仕方ないなって」
あの頃の蒼生なら……そうか、そう思ってしまうか。
「あの人たちからしたら、僕と健ちゃんは一番の仲良しに見えたんだろうな。でも、健ちゃんは僕のものじゃなかった。友達なんて健ちゃんには他にもたくさんいたから。……もういっそ世界に僕と健ちゃんだけならいいのにって思ったりしたけど、そんなこと起こるはずもなかった。だから、あの人たちがしてることは無駄なのになって思うと、理不尽が過ぎて、どうでもよくなっちゃって」
吐き捨てるように言った蒼生の手を、握る。蒼生はわずかに表情を和らげた。
「あのさ、中3の頃……健ちゃんが僕たちのクラスに来ると、結構な確率で健ちゃんを迎えに来てた人、覚えてる?」
「え? ……あー……いた、ような気がするな。あれか、毎回わざわざ蒼生に健太を連れてくからって宣言してた奴か?」
「そう、それ。それがこの人。中3で久々に同じクラスになったから、健ちゃんが出てくのに気付くと追いかけてきてたみたい。いちいち僕を牽制するみたいに、わざと僕に向かってにこやかに話してたよね。思い返せばあの頃が一番酷かったかもしれない。冬矢と森くんが僕の側にいてくれたからスルーできてたけど、そうじゃなかったら事件のひとつでも起こしてたんじゃないかな」
……蒼生がそんなふうに言うなんて余程だな。うっすらとしか覚えていないが、わざわざ友達に会いに来た奴を引っ張っていくものだろうかと疑問に思ったことはたしかにある。当時俺にとって、健太は蒼生との間にある障害物のようなものだったから、正直助かるなと思っていたのは蒼生には黙っておこう。いや蒼生のことだ、気付いているかもしれないが。
だが、一番酷かった? その頃に何かケガでもするようなことがあれば、すぐにわかっていたと思う。……嫌な予感がした。物理的な暴力でなければ、言葉か。
「何を言われた?」
すっと蒼生が視線を落とす。その視線が床を撫でる。
「おまえ、健太とセックスしてるんだろ? 健太のオンナなんだよなあ? だからいっつもベタベタしてんだろ気持ち悪ぃ。ケツ掘られ慣れてんならオレらにも使わせろよ、それとも健太がそっち?」
「……は?」
それ以上言葉が出なかった。かわりに、血が逆流するような感覚に襲われる。
なんてことを。
蒼生に。
なにより、どうして俺はその時気が付けなかったんだ、蒼生が苦しい思いをしている時に!
「あーあ、なんであんなの一言一句覚えてるかな……。ホントに記憶の無駄遣いだよなあ。それにさ、僕だけならともかく、健ちゃんのことも馬鹿にした言い方じゃない? よくそれで仲良しヅラ出来るよねって逆に感心した。裏で馬鹿にしたこと言っておいて、表では仲良しです? 健ちゃんの側にいたいのは僕なのに、そんな奴らが健ちゃんの近くにいるんだなって思うと、最低の気分だったよね」
蒼生が深呼吸をひとつしたのと、俺が思わず抱き締めたのは、ほぼ同時だった。
「……ごめん。蒼生がそんな思いをしている時に、俺は」
少し笑う気配だけで、蒼生は腕の中で身動きを取らない。
「ううん。あれ言われても耐えられたのは、教室に戻れば冬矢がいるってわかってたからだよ。だから平然と、想像力豊かなんだねえって笑って返せたんだ。僕がまったく動じなかったせいかな、その日はそれで終わっちゃった」
「蒼生」
俺の存在は、おまえの助けになれていた? 本当に? そうであってほしいと、願う。
蒼生は、ようやく顔をあげて、うーんと首を捻る。
「まあ、あの時はあれ、事実じゃなかったからそれで済んでたけど。こうなってからだったらどうだったかな。もう面倒くさくなって、その通りです! って開き直っちゃうかもなあ。あー、でもやっぱり、仲良くもない人たちには、……言いたくないかな」
「それはそうだ。信頼できる人間ならともかく、興味本位や揶揄い半分の奴らに言うことはないと思う」
「だよね。そういう勘繰りする人、たまにいるからね。別に思ってるだけなら別にいいんだけど、わざわざ聞いてくる人は苦手。男女カップルの話なら、付き合ってます、ああそう、で終わるのにさあ。同性だとどっちがどっち? って高確率で言われるのがね。まず付き合ってるとも答えてないのに。第一、上だの下だの、どっちがどっちだって別にいいじゃんって思うし。……それにその瞬間、相手の頭の中で裸に剥かれてるんだと思うと、それがとにかく不愉快」
「たしかに……不愉快だ」
想像の中だろうと、俺の蒼生に不埒な目を向けられて、気分がいいはずがない。それが揶揄目的ならなおさらだ。
俺が肩に乗せた手に力を入れたのがわかったのだろうか。蒼生は俺の手をそのままに椅子から腰を上げると、滑るように膝の上に乗ってきた。至近距離になった綺麗な黒い瞳は、さっきより明るい色をしている。
「でも、この人は面と向かってきたから対処は楽だったんだよね。そのあともチクチク言ってきたから、頭にきて、先生に密告するって言ったら、そこから先はなにも言わなくなったから」
「それでよく収まったな」
「あのね、君たちがそういう根も葉もない噂を簡単に信じるなら、たとえば同年代の交友関係が広い健ちゃんと、先生や保護者に受けがいい僕がその気になったらどうなるんだろうね、って笑ってやった」
「……へえ」
少し感心した。そんな言葉が蒼生の口から出てくると思わなかった。
蒼生はただ黙って受け流すように見えていただろうから、そいつも突然そんなことを言われて驚いたのだろう。おそらく健太には絶対に告げ口をしないから甘く見られていたのもあったのだと思う。それが堂々と健太にもバラすとほのめかされては、引き下がらざるを得ないだろう。目的は蒼生を貶めることより、自分が健太に近付くためなのだから。
「時期もよかったのかもね。受験前で、内申点も怖いだろうし。……それで僕、気付いたんだ。それまで先生の手伝いって嫌々やってたけど、進んでやれば、これって武器になるぞって」
「温厚と見せかけて、蒼生も敵に回したくないタイプだな」
蒼生は、ふふっと笑ってテーブルの上を見る。広げたままのアルバムに、きっといるだろう、そいつ。正直俺ははっきり覚えていないが、蒼生の脳には焼き付いてしまっているのだろう。
「健ちゃんが傷付くようなこと裏でやってる奴に向ける慈悲なんてないもん。こういう人たちって、明るくて友達がいっぱいいる健ちゃんじゃなくて、絶対目立たない僕のほうに言ってくるんだよね。ま、健ちゃんの耳に届かなくてよかったけど。健ちゃんにまで実害が及ぶようなら、脅しで済ませなかったと思う」
ああ、そうか。健太に言わなかったのは、なにより、健太を守るためか。自分よりも。まず健太を。
蒼生にとって、本当に健太は大切な存在なんだ。
「……健太は果報者だな」
羨ましい。
ぱっと蒼生が顔を上げた。
きょとんとした表情。
「冬矢だって、僕、守る気でいるよ?」
「……!」
はっとする。
高校時代、俺の悪い噂が流れた時……まあ、あれは噂というより事実が明るみに出たというだけだから、俺自身は気にしていなかった。けれど、蒼生はそれに積極的に立ち向かっていっていたのを思い出す。……まさか。
「っ、もしかして、俺に気がある子に嫌がらせされたりなんか」
「……さあ?」
蒼生はさらりと流すように笑った。
ああ。馬鹿だな、俺は。健太と自分を比べる意味なんてないのに。
自分に自信がなくて、すべてを面倒がっていた蒼生。変わらない部分も多いけれど、俺たちを守るために戦う強さがある。身に着けてくれたものかもしれない、もともとの資質なのかもしれない、それはわからないが、これが今の蒼生だ。
蒼生自身のことも大切にしてほしいと心から願う、だが同時に、俺たちを最も大切にしてくれていることが嬉しい。
愛しい。
こんなにも愛しい。
俺はたまらず蒼生を強く抱き締めた。
「……愛してるよ、蒼生」
肩口に頬を摺り寄せた蒼生が、とろけるように微笑む。
「僕も。愛してる」
顔を近付けると、嬉しそうに角度を変えて、俺の唇を受け止めてくれる。
このまま。
離したくない。
ずっと抱き締めていたい。
蒼生。
「えへへ。嬉しい」
そう言った蒼生の目は、わずかに濡れて揺れていた。映る自分の姿が滲んで見える。本当にこういう景色が存在するんだ、と、胸が熱くなる。
いつも蒼生は、俺の知らない世界をくれる。
「……よかった、健太に先を越されちゃったからな」
「え?」
「俺も、ずっと言いたかったんだ。だけど、ずっと“大好き”って伝えていたから、いつ伝えていいのかタイミングが掴めずに……ここまで待たせて、ごめんね。本当に、一生言えないんじゃないかなんて気すらしてたよ」
蒼生が首を横に振る。
「ううん。……冬矢もだったんだね。実は、僕も。好きで、大好きで、もっと伝えたいなって思ってたのに、急に、……あ、愛してる、って言うの、なんだか恥ずかしい気がして、困ってた」
俺たち、ふたりとも言い出すタイミングを計っていたのか。ふふ。
「健太はいつも、停滞をぶち壊していくな」
「それが健ちゃんの強いとこだよね。……だけど、ずっと考えてくれてた冬矢の気持ちも嬉しい」
蒼生は腕を伸ばして、俺の首に回す。俺もそっとその髪を撫でる。
はあ、と大きく溜め息交じりの声が耳に飛び込んできた。
「それにしたって、冬矢は僕の口を割らせるの、本当に得意だよね」
「へえ?」
「僕、この話、墓場まで持ってくつもりだったのに」
「……ふっ。本当に、俺の恋人は頼もしいな。でも、俺は……いや、健太も、守られるだけでいるつもりはないよ。もし、これからそんな敵が現れたとしたら、一緒に戦っていこう」
小さく笑う声。
「協力プレイだ」
「そう。いつかのゲームセンターでやったみたいに」
「……うん」
思い出したのだろうか。蒼生は、腕にぎゅっと力をこめて、俺の首筋に顔を埋める。楽しかったよね。そう。あの時のように。共に。
「あのね。僕、ちゃんとふたりに守られてる自覚もあるよ。だから戦えるんだ」
「そうか……」
とくん、とくん、と。
鼓動が聞こえる。
とても、とても優しい音だと思った。
「……蒼生。今度は、俺たちだけのアルバムを作ろう。ここにあるだけじゃなくて、お互い携帯の中にたくさんあるだろ。それで、一緒に写った写真だけで、俺たちの思い出を形にしよう?」
「いいね。たくさんあるから、すぐにページが埋まりそうだなぁ」
蒼生は笑う。
健太は、晴れた空の下で育ってきたような人間だと思うことが何度もあった。それは、蒼生という傘がいつも健太を守っていたからだったんだな。だから、健太が見上げる空は、いつでも青空だったんだろう。
でも、健太だけでは進めない道だってきっとある。当然、俺だけでも、蒼生だけでも進めない道がある。だが、俺たちは3人だ。誰かが打ち破れば、同じ道を進んでいける。俺たちは、3人がちょうどいいのかもしれない。
しばらくすると、玄関で鍵の開く音がした。蒼生はぱっと立ち上がる。……残念だ。
「ずっと俺の上に座っていればいいのに」
「それもいいけど、また健ちゃんが大騒ぎするよ?」
蒼生はそう笑うと、玄関のほうに向かって歩いて行く。心地よい重さと熱が一度に奪われて、急に手持ち無沙汰になる。とりあえずテーブルの上を片付けるとするか。
「……えっ!?」
突然、廊下の向こうから蒼生の声が聞こえた。
まさか蒼生に何か、と思って俺も廊下に出る。すると、蒼生がちょうど慌てた様子で洗面所に駆け込むところだった。一体何だ。
玄関まで行くと、…………嘘だろ。
「おー、ただいまぁ」
「何を暢気なことを」
呆れて言葉が途切れた。目の前には、滴を落としてへらへら笑う健太がいる。いや、もう、本当に何から言ってやればいいのか。
「……傘は」
「降るなんて思ってなかったから持ってなくてさあ」
「それでも子供じゃないんだ、そのあたりで買うなり俺たちに連絡するなり出来ることはあっただろ」
「あはは、走ったら行けるんじゃねえかなって思ったんだけど、結構酷かったわ」
こんな様子では、蒼生が「守らなければ」と思ってしまうのも仕方ない……。
そこに蒼生がバスタオルを抱えて戻ってくる。
「健ちゃん、ほら、タオル。早く拭いて!」
「はぁい」
さっきの写真を思い出す。小さなふたり。おそらくずっとこんなだったんだろう。俺は息を吐いて、健太の手から鞄を取った。これはあまり濡れていないようだ。
「荷物置いて着替え持ってくるから、その濡れた服とっとと脱いどけ」
「よろしく~」
やれやれ。
着替えだ洗濯だ濡れた廊下の掃除だとばたばたして、ようやくリビングに戻る。まったく、蒼生と静かな時間を過ごしていたというのに、突然騒がしくなるんだからな。
健太は部屋に入るなり、片付ける暇のなかったテーブルに目を留めた。
「お、アルバムじゃん。ふたりで見てたんだ。思い出話でもしてた?」
「うん。あと、いざって時には僕ら共闘しよう、って話」
不思議そうな顔をして、健太は蒼生を覗き込む。
「え? 何? オレ、倒されちゃうの?」
俺と蒼生は同時に噴き出した。俺たちが、健太を? それはそれで面白そうだな。
「違う、違う。僕たち、全員で協力して敵に立ち向かっていこうね、って、そっちだよ」
「そっちかあ、よかった。冬矢ならともかく蒼生に反撃できないからな」
ふーん。俺とは対決する意思がある、と。まあどんな勝負でも負けないつもりでいるけどな。
あ、と健太が手を叩く。
「それで思い出したんだけどさ、昨日ゲームの新作出たって話したじゃん。帰りに買ってきたんだ」
「そっか。どうりで、ちょっと遅いと思った」
「だから鞄が濡れないようにかばって本人がびしょ濡れになったわけか」
「まあまあ。だってさ、協力プレイでエンディングが変わってくるんだぜ? 3人でやるのめちゃくちゃ楽しみにしてたんだからさぁ」
健太は嬉しそうに、鞄の中からゲームのパッケージを取り出す。そしていそいそとゲーム機のセッティングを始めた。
「僕、役に立つかなあ」
「大丈夫だよ、オレと冬矢がサポートするから。な!」
「ああ。すぐに慣れるよ」
健太がケーブルを繋ぐ傍ら、蒼生は真剣な表情で操作ガイドを目で追っている。俺はコントローラーをそっと撫で、そんなふたりを眺める。
ひとりで戦うのではなく。
ただ守られるだけでなく。
“一緒に戦う”っていうのは、いいな。
俺も、精一杯、力になりたい。
本当にそう思うよ。
「雨が降ってきたね」
リビングまで戻り、ソファで本を読んでいた蒼生に声をかける。集中していたのだろう、顔を上げるまでにわずかに間があった。
「え? あ、ほんとだ。健ちゃん傘持って出たかなあ」
「どうだろう。あいつが天気予報を見て出ていくとはあんまり思えないけどな」
「だとしたら終わって連絡くれればいいんだけど」
健太は、今日も張り切って早くからバイトに行っている。終わる時間が見えていればいいが、他人の手伝いで残業することがそこそこあるので読み切れない。あいつも面倒見がいいからな。蒼生は心配するけれど、外に出て雨が降っているとなれば、さすがに連絡を寄越すなり雨具を調達するなりするだろう。おそらく。
窓に近付いてよく見ると、意外としっかり降っているようだ。
「買い物ついでに昼食外に行こうって話してたけど、荷物が多いと大変かもしれないな。家にあるもので済ませようか」
「うん。買い物は大丈夫だっけ」
「明日でも平気だよ。夕飯の分は買ってあるから」
キッチンに行くと、本をローテーブルに置いた蒼生が後ろからついてくる。そして、ストックの食材を覗き込む俺の隣で、腰をかがめて同じように覗き込む。その仕草で、前髪がさらりと額に落ちた。
「なにがあるの?」
「そうだね。……ああ、袋が開いてるスパゲッティがあるな。健太がいたら足りない量だけど、ふたりなら足りるだろ」
「いいねぇ」
「この前買ったブロックのベーコンがあるから、そうだな。スープスパゲッティにするか……クリームソースも出来るかな。冷凍してある挽肉でボロネーゼも出来そうだけど。そういえば冷凍室にたらこもあったな。納豆で和風にしてもいいし」
「うーん……」
蒼生は難しそうな顔をして腕を組んだ。……また余計な事考えてるな。俺が持っているはずの正解を探しているんだろう。誰かの考えを当てることが自分が出すべき答えだと思っている節がある蒼生だ。そう考えてしまう癖がついている。でも、そんなものないんだよ。俺にとって、蒼生が選ぶものが正解なんだから。
「何で悩んでる?」
「う、え、うーんと……」
「いったん頭真っ白にして。じゃあ2択だったらどれとどれ?」
「えぇっと、スープかクリーム……」
うん。なるほど。ベーコンが頭を離れなかったんだね。
「よし、わかった。両方作ろう」
「へ」
「手伝ってくれるだろ?」
「それは、もちろん」
戸惑った顔の蒼生の頭をぽんと軽く叩く。
「それじゃあまずお湯沸かしておこうか。はい、鍋」
「はっ、はい!」
蒼生はぴしりと背筋を正した。ふふ。
鼻歌を歌いながら、蒼生が皿を洗っている。
「ほうれん草とクリームのソース、美味しかったなあ。とろんとしてるから、よく絡むってことだよね。濃厚でベーコンの味が口の中で広がるのすごかった。見た目がちょっと緑なのも綺麗だったし。もちろんスープのほうもさっぱりしてて、いくらでも食べられちゃいそうで好き。ベーコン、薄いのと厚いので全然食べた感じ違うの、楽しかったぁ。ほんと、どっちも美味しかったから、また作ってね」
何度目かわからない褒め言葉をいただく。食べている最中もずっと言ってたもんな。特にクリームソースが相当気に入ったみたいだ。もちろん、蒼生の好みに寄せたんだ、そう言ってくれて嬉しい。
俺は少し気になったコンロの汚れを磨いていた。大した汚れじゃないし、別に今やらなければならないことではなかったが、蒼生の隣に立って作業をしていたかった。蒼生がにこにこと話しかけてくるのが、これ以上ないくらい癒やしになっているからだ。
蒼生とふたり、キッチンに立っていられるなんて、なんて幸せなことだろう。ずっとこんな生活を夢見ていた。蒼生の隣で笑いあっていたかった。蒼生が同棲を受け入れてくれた時、どんなにどんなに嬉しかったか。蒼生はきっとわかっていないと思う。
タイミングを計ってさりげなく合わせたから、蒼生が水を止めるのと俺が乾いた布巾で仕上げ磨きを終わらせたのはほぼ同時だ。ぴったり合うのがまた気持ちいい。
「洗剤なくなりそう。詰め替えってあったっけ」
ふいに、ブルーのボトルを照明に翳すようにして蒼生が言った。たしかに傾けてもほんの少ししか残りがない。気付かなかったな。最近、片付けは健太が積極的にやってくれるから意識していなかった。
「たしかこの前まとめ買いしたからあるはずだよ。洗面所の下の棚だったかな」
「そっか、買ったね。えーと、たしか、キッチン周りのは入りきらなくて……どこだっけ。……あ、そうだ、とりあえず向こうの部屋の押し入れに入れたんだった」
「じゃあ俺が取ってくるね」
「ありがとう」
蒼生の笑顔に送られ、キッチンを出てドアを開ける。
短い廊下の先、玄関入ってすぐの部屋はほとんど使っていない部屋だった。俺も健太も常に蒼生と一緒にいたいので、勉強するにしてもレポートを書くにしてもリビングと寝室があれば十分だからだ。一応言い訳としては、ここは「客間」ということになっている。友人や家族が来た時のために、と言えば格好はつくだろう。実際はその予定もつもりもないが。
部屋に入ると、ダンベルくらいしか使い方がわからない器具が置いてあるのが目に飛び込んできた。そうそう、健太が筋トレ部屋として使っているんだったな。さすがにリビングでやられると邪魔だから。蒼生はいいよ、と言っているけれど、健太にぶつからないように腕の届く範囲を避けながら歩く蒼生を見てからは、大人しくこの部屋に収まるようになった。側にはいたいが、邪魔に思われたくない気持ちが勝ったらしい。
それ以外には、蒼生の本棚が並んでいるのと、両開きの押し入れのドア。それだけの部屋だ。だから俺がこの部屋に入ることはほとんどなかった。もともとは和室で、押し入れも襖だったらしいが、リフォームした際にドアに替えたのだと入居時に説明を受けた。だから折り畳み式のドアを開けると、昔ながらの押し入れの造りが残っている。
その上の段には、圧縮された布団が2組だけ入れてあった。この部屋で使う分と、ソファをベッドにした時に使う分だ。これも、言い訳だな。寝室にベッドが2つとソファベッド、一応3人分の寝床が確保されている状態を保ちたいからだ。万が一誰かに踏み込まれでもした場合、1つに繋げたベッドに3人で寝ているなんて、どう思われるかわかったものではないから。……一応学生のうちは何かあった時のためにという理由で、それぞれの家に鍵を預けてある。ないとは思うが、本当に万が一があった時、一番傷付くのが蒼生だというのは想像に難くない。用心するに越したことはないわけだ。
とはいえ、ではソファベッドに押し込まれているのは誰だと問い詰められる可能性もあるわけだが、その辺りはその時に適当に考えればいい。体格を考えれば俺か蒼生がその役だろうけれど、設定上でも蒼生と別々は嫌だからな。
さて、用があるのは下の段だ。掃除機を収めた箱の隣にカゴが置いてあって、台所用の消耗品のストックが綺麗に整頓して入れられていた。ただ少し取り出しづらいから、ラックを作ってもいいかもしれないな。
その中から洗剤のボトルを探すと、奥にきちんと立っているのがわかる。取り出そうと押し入れに少し入る格好になると、今度はカゴの脇にある箱が気になった。積まれた2つの箱。なんだろうな、これ。しばらくここにあるということは普段使わないものだろうか。少し押してみると、そこそこの重さがありそうだ。蒼生は全部片付けたと言っていたから、健太のものということになる。だが、それぞれに書かれた「他」という字はどちらも蒼生の字だ。
なら、蒼生に聞けばわかるんだろう。
「蒼生ー。この箱なに?」
廊下の向こうに向かって話しかける。リビングに続くドアは閉めてきたから、聞こえるかどうかわからなかった。けれど、すぐに開く音がして、蒼生の声が飛んでくる。
「箱? どれ?」
「他、って蒼生の字で書いてある2つの箱」
ああ、と笑って、エプロン姿のままの蒼生がぱたぱたとこっちへやってくる。それから俺の隣に膝をついて、押し入れの中の箱を眺めた。
「これね、字は僕のだし、詰めたのも僕だけど、中身は一応健ちゃんの」
「一応?」
「……見てみる?」
「ああ」
蒼生の言い方が少し引っかかるから、俺は即座に頷いた。それに、健太のものだと言いながら、蒼生が開けることを躊躇わないのも妙だ。
重いその箱を蒼生とふたりがかりで引っ張り出す。それから、上に重なった箱を床に下ろした。蒼生が開けようとしているのは、下になっていた箱のほうらしい。テープが剥がされていた蓋を開けると、中には缶や紙の、新しそうなものや年季の入ったもの、様々な箱が詰め込まれていた。端には、大きな冊子のようなものが数冊ある。その幾つかには見覚えがあった。ああ、中学と高校の卒業アルバムだ。ということは、その隣にあるのは小学校のアルバムか。まだ他にもあるみたいだな。
「健太、アルバムも持って来てたのか」
「うん。これには経緯があってね。ほら、僕たち、まるっきり同じもの2冊ずつ持ってるでしょ。だから僕のは捨てようと思ってたんだ」
さらっと、何でもないことのように蒼生が言う。
「だけど、健ちゃんが、捨てちゃうのもなんか勿体ないから全部貰うって言い出して。で、健ちゃんの部屋に持ってったんだけど、同じの2冊並んでるのもおかしいしね。結局、僕のが健ちゃんの部屋に残ってて、健ちゃんのがここにあるというわけ」
なるほど。蒼生は未練なくそれを捨ててもいいと思っていたわけだ。だが健太はそれに抵抗があった。ずっと一緒にいたわけだから、その頃をなかったことにしたくないとかなんとか思ったんだろう。さらに、今ここにあるこれは健太のものだから、蒼生は勝手に捨てられない。
……蒼生は、家を出るにあたって、自分の部屋を明け渡してきている。私物も、持って来たもの以外は全部処分したんだそうだ。蒼生が日用品と本以外に捨てられないと運び込んだのは、衣装ケースにひとつだけ、それも余裕で入った。半分にも満たない量だ。そして、全部、俺たちがあげたものや一緒に買ったものだけ。
おそらく、健太は、蒼生が捨てるものを出来るだけ少なくしたかったんだと思う。きっと、アルバム以外にもたくさん、蒼生から引き取ったものを自分の部屋に残してきたんだろうな。そういう奴だ。
俺は端の、数冊ある合皮のアルバムに触れる。
「こっちのアルバムも?」
「それは僕の小さい頃の。これも捨てるつもりだったんだけど、健ちゃんにめちゃくちゃ止められた。それで何故か、健ちゃんに所有権が移ることになったんだよね」
笑いながら蒼生は言う。
やっぱり他にもあるんだな。
胸が痛む。
俺でもわかるよ、笑って言うことじゃないって。目の奥が揺れるのを見逃すわけがないじゃないか。まだ俺では癒やせていない部分が蒼生の中にあることを、こういう時に実感してしまう。
……そして、そうさせた原因の何割かは俺だ。蒼生を無理に連れ出さなければ。けれどそれについては後悔しないと決めた。
蒼生はふっと目をそらす。
「健ちゃんのお父さんの趣味が写真でね、両家の区別なくたくさん撮ってくれてたんだよ。それをまた健ちゃんのお母さんがアルバムにまとめるのが好きでね。小学校卒業するくらいまでの写真が入ってるんじゃないかな。あれ、健ちゃんのお母さんが作ったんだから、僕のものってわけでもないのかも?」
悪い癖が出てるな。視線を逃がして饒舌になる時、蒼生は頭の中で自分を踏み潰している。
俺は、蒼生を引き寄せ、抱き締める。
「と、冬矢?」
驚いて戸惑った声。無意識に自分を刺す蒼生には、俺の行動は突拍子もなく思えるだろう。気にせず、髪を撫でる。背中でクロスするエプロンの紐を緩く引いてやると、蒼生の肩からすうっと力が抜けた。
「ねえ、蒼生」
「ん、うん?」
「俺が知らない頃の蒼生、見せてくれる?」
「な、なんか恥ずかしいかも……」
「どうして? 全部見せて?」
「いやあの、言い方がなんか……。あ、でも、文集のとこはダメなので……それでよければ……」
「……ふ。わかったよ。ありがと」
中学2年からずーっと一緒にいるんだから、蒼生がちゃんとした綺麗な文章を書くことは知っている。それでも恥ずかしいだなんて、何を書いたんだろう。後で説得してみようかな。
健太の母親が作ったというアルバムは、表紙を開いたところから早速全力で殴られたような衝撃を与えてきた。
「……可愛いね」
「しわしわじゃん……」
ダイニングテーブルにアルバムを広げた俺は、とことん過去の蒼生を堪能するつもりでいる。隣に座れば、と言ったのに、蒼生は首を振って隣に立った。その位置のままで呻くようにそう呟くと、両手で顔を覆った。
俺はその蒼生の言葉を受け流して、引き延ばされた1枚目の写真をじっくり見る。本当に生まれたばかりなのだろう、小さな小さな指先が蒼生の言うとおりふやけている。けれど顔はとてもすっきりしていて、赤い頬がふくりと愛らしい。まだ笑うという感情もなく、表情も作れないはずなのに、どこか微笑んだような口元。閉じられた瞼の穏やかな角度は優しい性格の表れだろう。今でももちろん可愛いけれど、この蒼生は、健太が天使と表現するのが至極当然だと思えるほど可愛らしい。
ページをめくると、最初こそ蒼生と家族の写真が並んでいたが、わずか数枚で眠る健太の姿が隣に並ぶ。いや健太、だと思う。赤ん坊なんて最初は全部同じような見た目だ。だからこそ蒼生の綺麗さが際立つわけだが。同じ日なのだろうか、健太が暴れて泣いているのを蒼生がじっと眺めているように見える写真が、今の関係にも繋がっているようで面白い。
リビングで眠る写真。庭で遊んでいる写真。どこかに旅行に行っている写真。山の写真。海辺の写真。……いろんな所に行っているんだな。そのどれもこれも、両家は共に行動していたようだ。どんな写真も蒼生の隣には健太がいて、表情が確認できるものはすべて、ふわふわにこにこと笑っている。幼稚園の看板の隣にふたりで立っている入園写真。すいか割りをしている蒼生と、後ろで騒いでいる健太。組み立て式のプールの前でポーズをとる健太と隣に立つ蒼生。演奏会の写真なのだろうか、他の子よりも大きく太鼓のバチを振り上げた健太の袖を蒼生が手綱を引くように引っ張っている。クリスマス会の写真は、笑う蒼生の隣、健太の前にふたつケーキが置いてある。……本当にずっと一緒にいたんだな。
「……ものすごくいたたまれない……」
我慢出来なくなったように蒼生が後退った。
「どうして?」
「そ、そんな1枚1枚にいちいち感想言われるの、恥ずかしいよ……」
「だって全部可愛いんだから仕方ないだろう。徹底して健太が隣にいるのが悔しいけど」
蒼生は真っ赤な顔で頷く。
「だからわかると思うんだけど。健ちゃんのアルバムも、そんな感じなんだよ。ほとんど写真が一緒なの。僕が捨てても問題ないでしょ」
「そのおかげで、俺が今こうして小さくて愛らしい蒼生を堪能できるんだから、捨てないでいてくれてよかったよ」
「……うー。あ、乾燥機そろそろ止まる時間だ!」
ああ、逃げた。たしかに時間はそのくらいかもしれないけれど、止まってアラームが鳴ってから行けばいいのに。でも、照れて逃げる蒼生が可愛いから、俺はただその背中を見送った。今も、昔も、本当に可愛い。
またアルバムに目を落とす。写真の中で、蒼生たちは小学生になっていた。ここから先のページ数は少ない。兄姉も大きくなって、家族旅行に行く数も減ってきたということなのだろう。それに大人が参加しない行事も増えていくから、比例して学校が用意した写真が増えていく。そのせいか、時々、健太のいない写真が混じってきた。学芸会や運動会、遠足……蒼生は同じ顔で笑っている。これが正解の顔でしょう、と作った笑顔。
乾燥機から出したばかりのタオルの山を抱えた蒼生が部屋に戻ってくる。
「蒼生」
「はーい」
「可愛いけど……俺との写真がないの、やっぱり寂しいね」
言うと、蒼生は「あ」と視線を天井に上げた。
「そういえば、中学校の行事の写真も箱の中にあったかも」
「そんなのあったっけ?」
「冬矢のおうちでも買ってるんじゃないかな。写真屋さんが撮ってくれた写真、保護者会経由で売ってたみたいだよ。僕も知らなくて、後で見せて貰ったんだ」
へえ。どうだろうな、母さんも仕事が忙しくてなかなかそういう会合には出られなかったはずだ。母さんのことだから、買っていたら見せてくれそうなものだけどな。いや、自分で楽しんで俺に見せるのを忘れている可能性もあるか。それが一番ありそうだ。
「探してくるね」
蒼生はソファに持っていたものを置くと、またぱたぱたと廊下を駆けていった。
その間に、俺は小学校時代の卒業アルバムに手を伸ばす。紙のケースに入れられた、布張りのアルバムだ。俺のはどんなのだったかな。興味がなかったから覚えてない。……それにしてもこのケース、取り出しづらいな。かなりキツい。無理矢理入れた感じだけれど、こんなにサイズが合っていないなんてことはあるだろうか。
なんとか取り出して、中身を見る。最初がクラス写真、半ばに全員の卒業文集、それから最後にカラー写真でそれぞれの思い出が綴られているという形式だ。クラス写真の蒼生は、もうすっかり出会った頃と変わらない。綺麗で大人しくて、物静かだけれど静かなぶんだけ別の存在感がある。大輪の花というわけではない、ただ、一度目に入ってしまえば二度と目が離せない、純白の花だ。空気すら輝かせてしまうほどの、まばゆい花。初めて会った時に気付いてもよかったのに、あの頃の俺は本当に目が曇っていたんだとよくわかる。
文集……は、蒼生が嫌がっていたので、飛ばして後ろの写真を見る。約束を破るつもりはない、きちんと蒼生の許可を得てからだ。まずはクラブ活動の写真か。蒼生は読書クラブだったな。人数が少ないからすぐにわかる。蒼生は、その端に立っていた。その次は1年生からの行事写真が小さなカットでたくさん並んでいる。この中でひとりを探すのは骨が折れそうなものだが、蒼生の姿には吸い付くように目が留まる。
「…………?」
こうして見てみると、健太と一緒にいない時の蒼生は、常に端のほうにいるな。出来れば写りたくないと思っていたんだろう。おそらくあの頃の蒼生なら、そう思っても不思議ではない。それに、中央に寄せようと腕を引かれたり、列の中央に組み込まれて肩を抱かれたりしているカット……。どれもこれも、笑顔に無理がある。ずっと、こんなにもわかりやすく不安がっていたのに、誰ひとりとして蒼生の本性に気付かなかったというのか? 蒼生の作る外側の殻がどれだけ精巧に出来ていたかに感心もするが、一方でぞっとする。俺がいなければ……蒼生はどうなっていたのだろう。
蒼生のいないページに用はないので、後半は飛ばし飛ばし確認する。残念ながら健太の姿はよく目に入った。こいつは、いつでも画面の中央にいる。この頃になると、蒼生は写真に写らないテクニックを覚えたのだろう。たしかに、当時の蒼生の胸中を考えると、捨ててもいいと思うのかもしれない。
と、最後のページに何か挟まっているのに気付いた。厚紙? いや、色紙か。これが挟まっていたからあんなにキツかったんだな。何気なく裏返して見ると、子供っぽい乱雑な字が放射線状に並んでいる。中央には、「健太へ」と書かれていた。ああ、そういえばこれは健太の持ち物だったか。ならば読むのはよくないだろうと思うものの、字が大きいので自然に読めてしまう。「別の中学に行っても仲良くしような」とか「また3年間一緒に遊べるな」とか。文章の内容の方向が違うことを考えると、これは餞別の寄せ書きではなく、それぞれが相手に書いた友人同士のメッセージなのだろう。他の奴らが持っている色紙には、同じように健太のメッセージもあるはずだ。ということは、「一緒に」と書かれた数名は、俺とも同じ中学に進んだわけだ。なるほど、ぼんやりどこかで見たような名前が……あるようなないような気がする。
とりあえず、後で健太には報告して別の場所にしまわせよう。同じ場所にしまっては、アルバムにとってもよくない。蒼生の写真に負担をかけるわけにはいかないから。それに、勝手に読んでしまって申し訳ない気持ちがなくもないしな。
「あったよー」
蒼生の明るい声がリビングに戻ってくる。手には、小さな洋菓子の缶。
「こっちがたしか僕の分。健ちゃんのもあったけど、冬矢は」
「興味ない」
「あはは、そう言うと思った」
テーブルの上に缶を置くと、蒼生はそれを開けた。写真よりひとまわりだけ大きい缶の中には封筒が入っているようだ。
「これ、中2の時の校外学習で……こっちが遠足、体育祭。中3がえーっと、修学旅行と、あと……」
ごそごそやっている隣で、俺は校外学習と書かれた封筒から写真を取り出す。……懐かしい。出会った頃の、蒼生と俺。そういえば写真屋が行事のたびにいたような気がするな。行事に参加すること自体が大して面白いと思わなかったから気にも留めていなかったし、なんなら声をかけられても流していた。
封筒を次々開けて中身を確認していく。ああ、でもこうして見ると、俺もちゃんと写っているんだな。どれもこれも、きちんと参加している。さっき健太ばかり隣にいることに妬いていたけれど、なんだ、俺と森も似たようなものじゃないか。常に俺たち2人は蒼生のそばにいたんだな。ここまではっきり証明されてしまうと、なんだか笑えてくる。
「出会った頃から、冬矢ってかっこよかったよね」
しみじみと蒼生が呟く。顔を窺うと、冗談を言っているわけでもなさそうだ。
「冬矢はアルバムとか持って来てないの?」
「母さんが大事に持ってるし、自分の写真に興味ないし」
「いつか見たいな。だって、小さい頃の冬矢も絶対かっこいいと思うもん」
……可愛いことを言う。自分が言われるのは照れるくせに。
「それにしても、蒼生、俺とも距離近いよね」
「ああ、ほんとだね。……たぶんもう好きだったんだろうなあ……」
あの頃、蒼生の気持ちに気が付いていれば。それはずっと俺の後悔だ。けれど、今が幸せだから、これでよかったんだとも思う。
「すれ違ったままでいなくてよかった。蒼生と付き合えて本当に幸せだよ」
「! ふふ、うん。あの日、踏み出してくれてありがとう」
ふんわりと蒼生が笑う。それから、最後のページを開いたままだった卒業アルバムをぱらぱらとめくり、モノクロのページで手を止めた。
「冬矢。これ、僕の小学生の時の作文」
「いいの?」
「たぶん、冬矢ならわかってくれると思うから」
俺なら? 蒼生が頷くので、俺はその文章に目を落とす。6年間の思い出と感謝を伝える文章。普段よりかしこまった文字の形。まっすぐ線を引いたように綺麗に整った文字列。大人しくて、優しくて、頭脳明晰そうな、穏やかで静かな海のような、……見事に優等生の文章だ。
ああ。そうか。
俺に出会う前の蒼生だ。
「蒼生は“これ”になろうとしてたんだね」
「……ここから引っ張り上げてくれたのは、冬矢だよ。幸せなのは、僕のほう」
さあて。それはどうだろうね。
俺は自分と蒼生が写った写真に目を落とす。蒼生は、俺に寄り添うようにしてふんわりと笑っている。健太といる時のような、自然で柔らかい笑顔。それを俺のそばでも浮かべていてくれたことを客観的に見て、今、心から安堵している俺がいることをそのまま伝えたい。そして、自分がこんな穏やかな顔をしていたのだと初めて知った、この安らいだ気持ちも。
窓の外、雨は本降りになっていた。
一通り眺めながら、あの時はああだった、こうだったと談笑する。蒼生は俺の隣、肩の触れ合う距離に座っている。時間を気にせず、ただ、こうしてふたりでのんびり話していられる。
「お茶でもいれようか。何にする?」
「りんごの紅茶!」
「ああ、いいね」
元々の俺はコーヒー派だった。親がそうだったから。でも、緑茶や紅茶が好きな蒼生と同じものを飲んでいるうちに、すっかり紅茶派になってきた。この前、蒼生と一緒に茶葉の店に行ってみたんだが、思っていたより種類が多くて驚いた。少しずつ様々な種類を買ってきたから、これから蒼生と試していくつもりだ。
「お待たせ」
「わ、いい香り」
恋人に趣味を合わせるなんてどうなんだろうと、蒼生と付き合うまではずっと思っていた。彼女たちの多くが俺に無理に合わせようとしてくるのを、ひたすら重たいと感じていた。けれど、あれは無理にやっているわけではなかったんだな。ただ、自然と、好きな人の好きなことを知りたいと思う。それだけのことだったんだな。
「……あれ? これなんだろ」
アルバムを抱えた蒼生が、その下に置いておいた健太の色紙に気が付いたようだ。
「健太が友達同士で交換した卒業メッセージみたいだな。俺もさっき勝手に見ちゃって」
「へえ? そんなのやってたんだ。健ちゃん友達たくさんいたからなあ」
蒼生は笑って、その色紙の表を見る。小学校の頃だから、蒼生も知り合いだろう。俺ならともかく、蒼生なら見ても健太は文句なんて言わないはずだ。
「…………」
……?
ふいに、蒼生の表情が曇った。と、いうより、消えた?
「蒼生?」
ああ。
すぐにわかる。
これは、尋常じゃない。
「蒼生」
もう一度呼ぶと、蒼生ははっと目を見開き、それからいつも通りの、外向けの顔をする。
「ううん。ごめん。あんまり、いい思い出のある名前じゃなかったから。ちょっと思い出しちゃっただけ」
ぱさりとその色紙をテーブルの上に落とす。その指先は、強張って震えているようだ。
「蒼生がそんな顔をするなんて、ちょっとじゃないだろう。何かあったんだな」
「あー……。うーん……。いや……たぶん、これ、悪口っていうか陰口になっちゃうから、さ」
なるほど。これだけ温厚な蒼生が、敵意を持つほどの相手か。
俺は蒼生に体を向ける。少し困った顔の蒼生が、上目遣いで唇を軽く噛んだ。
たぶん、今ここにいるのが俺じゃなく健太だったら、何事もなく取り繕っていたはずだ。俺になら話していいのではないかと迷っているんだろう。蒼生は本当は吐き出したがっている。ずっと蒼生の中で澱んでいたものなら、とっとと吐き出して捨ててしまったほうがいい。
「俺しか聞いていないから。気持ちを整理するためにも、話して」
「……うん」
素直に、蒼生が頷く。そして膝を俺に寄せると、はあっと大きく息を吐いた。
「簡単に言うとね。僕、ここのグループに一番絡まれてたんだ」
「絡まれてた?」
「そう。健ちゃんと仲いいっていうか、健ちゃんをリーダーと慕ってる感じの人たちで、簡単に言えば、僕と健ちゃんの距離が近いから……嫉妬してたのかな。僕が邪魔だったみたい」
は? 蒼生が?
「健ちゃんがいないところで校舎裏に引きずり込まれて小突かれたり、教室の見えないところで足かけられたり、帰り道で蹴飛ばされたり、上履き投げられたり、ノート破られたり、まあ定番だよね。階段から突き落とされたこともある」
「っ、ケガは?」
蒼生は曖昧に笑う。
……その場に居合わせたかった。そうしたら即座にやり返してやったのに。いや、それだけでは足りない。
「それ、健太は」
「知らない。さんざん“健太に泣きつけば?”って言われたけど。僕自身が悔しかったのもあるし。……それに、だって、健ちゃんはそいつらと仲いいんだもん、僕が告げ口して関係壊すのもおかしいなって思って。今思えば、たしかな証拠もないわけだし、僕が他人の悪口を捏造して関係を悪化させようとする悪者だ、って健ちゃんに思わせる作戦だったのかな」
果たして、そんな子供っぽいことをするような奴らが、そこまでのことを考えていただろうか。ただ単に「蒼生は言わないだろう」と高をくくっていたような気もするが。実際蒼生は健太に何も言わなかった。
いや、違う。
「健太に、言えなかった?」
「……考えもしなかった、が近いかな。僕はこんなことをされる程度の人間なんだなあ、僕が僕だからこうなってるんだな、なんだ、僕が悪いんだぁって思ってた。僕が悪いなら仕方ないなって」
あの頃の蒼生なら……そうか、そう思ってしまうか。
「あの人たちからしたら、僕と健ちゃんは一番の仲良しに見えたんだろうな。でも、健ちゃんは僕のものじゃなかった。友達なんて健ちゃんには他にもたくさんいたから。……もういっそ世界に僕と健ちゃんだけならいいのにって思ったりしたけど、そんなこと起こるはずもなかった。だから、あの人たちがしてることは無駄なのになって思うと、理不尽が過ぎて、どうでもよくなっちゃって」
吐き捨てるように言った蒼生の手を、握る。蒼生はわずかに表情を和らげた。
「あのさ、中3の頃……健ちゃんが僕たちのクラスに来ると、結構な確率で健ちゃんを迎えに来てた人、覚えてる?」
「え? ……あー……いた、ような気がするな。あれか、毎回わざわざ蒼生に健太を連れてくからって宣言してた奴か?」
「そう、それ。それがこの人。中3で久々に同じクラスになったから、健ちゃんが出てくのに気付くと追いかけてきてたみたい。いちいち僕を牽制するみたいに、わざと僕に向かってにこやかに話してたよね。思い返せばあの頃が一番酷かったかもしれない。冬矢と森くんが僕の側にいてくれたからスルーできてたけど、そうじゃなかったら事件のひとつでも起こしてたんじゃないかな」
……蒼生がそんなふうに言うなんて余程だな。うっすらとしか覚えていないが、わざわざ友達に会いに来た奴を引っ張っていくものだろうかと疑問に思ったことはたしかにある。当時俺にとって、健太は蒼生との間にある障害物のようなものだったから、正直助かるなと思っていたのは蒼生には黙っておこう。いや蒼生のことだ、気付いているかもしれないが。
だが、一番酷かった? その頃に何かケガでもするようなことがあれば、すぐにわかっていたと思う。……嫌な予感がした。物理的な暴力でなければ、言葉か。
「何を言われた?」
すっと蒼生が視線を落とす。その視線が床を撫でる。
「おまえ、健太とセックスしてるんだろ? 健太のオンナなんだよなあ? だからいっつもベタベタしてんだろ気持ち悪ぃ。ケツ掘られ慣れてんならオレらにも使わせろよ、それとも健太がそっち?」
「……は?」
それ以上言葉が出なかった。かわりに、血が逆流するような感覚に襲われる。
なんてことを。
蒼生に。
なにより、どうして俺はその時気が付けなかったんだ、蒼生が苦しい思いをしている時に!
「あーあ、なんであんなの一言一句覚えてるかな……。ホントに記憶の無駄遣いだよなあ。それにさ、僕だけならともかく、健ちゃんのことも馬鹿にした言い方じゃない? よくそれで仲良しヅラ出来るよねって逆に感心した。裏で馬鹿にしたこと言っておいて、表では仲良しです? 健ちゃんの側にいたいのは僕なのに、そんな奴らが健ちゃんの近くにいるんだなって思うと、最低の気分だったよね」
蒼生が深呼吸をひとつしたのと、俺が思わず抱き締めたのは、ほぼ同時だった。
「……ごめん。蒼生がそんな思いをしている時に、俺は」
少し笑う気配だけで、蒼生は腕の中で身動きを取らない。
「ううん。あれ言われても耐えられたのは、教室に戻れば冬矢がいるってわかってたからだよ。だから平然と、想像力豊かなんだねえって笑って返せたんだ。僕がまったく動じなかったせいかな、その日はそれで終わっちゃった」
「蒼生」
俺の存在は、おまえの助けになれていた? 本当に? そうであってほしいと、願う。
蒼生は、ようやく顔をあげて、うーんと首を捻る。
「まあ、あの時はあれ、事実じゃなかったからそれで済んでたけど。こうなってからだったらどうだったかな。もう面倒くさくなって、その通りです! って開き直っちゃうかもなあ。あー、でもやっぱり、仲良くもない人たちには、……言いたくないかな」
「それはそうだ。信頼できる人間ならともかく、興味本位や揶揄い半分の奴らに言うことはないと思う」
「だよね。そういう勘繰りする人、たまにいるからね。別に思ってるだけなら別にいいんだけど、わざわざ聞いてくる人は苦手。男女カップルの話なら、付き合ってます、ああそう、で終わるのにさあ。同性だとどっちがどっち? って高確率で言われるのがね。まず付き合ってるとも答えてないのに。第一、上だの下だの、どっちがどっちだって別にいいじゃんって思うし。……それにその瞬間、相手の頭の中で裸に剥かれてるんだと思うと、それがとにかく不愉快」
「たしかに……不愉快だ」
想像の中だろうと、俺の蒼生に不埒な目を向けられて、気分がいいはずがない。それが揶揄目的ならなおさらだ。
俺が肩に乗せた手に力を入れたのがわかったのだろうか。蒼生は俺の手をそのままに椅子から腰を上げると、滑るように膝の上に乗ってきた。至近距離になった綺麗な黒い瞳は、さっきより明るい色をしている。
「でも、この人は面と向かってきたから対処は楽だったんだよね。そのあともチクチク言ってきたから、頭にきて、先生に密告するって言ったら、そこから先はなにも言わなくなったから」
「それでよく収まったな」
「あのね、君たちがそういう根も葉もない噂を簡単に信じるなら、たとえば同年代の交友関係が広い健ちゃんと、先生や保護者に受けがいい僕がその気になったらどうなるんだろうね、って笑ってやった」
「……へえ」
少し感心した。そんな言葉が蒼生の口から出てくると思わなかった。
蒼生はただ黙って受け流すように見えていただろうから、そいつも突然そんなことを言われて驚いたのだろう。おそらく健太には絶対に告げ口をしないから甘く見られていたのもあったのだと思う。それが堂々と健太にもバラすとほのめかされては、引き下がらざるを得ないだろう。目的は蒼生を貶めることより、自分が健太に近付くためなのだから。
「時期もよかったのかもね。受験前で、内申点も怖いだろうし。……それで僕、気付いたんだ。それまで先生の手伝いって嫌々やってたけど、進んでやれば、これって武器になるぞって」
「温厚と見せかけて、蒼生も敵に回したくないタイプだな」
蒼生は、ふふっと笑ってテーブルの上を見る。広げたままのアルバムに、きっといるだろう、そいつ。正直俺ははっきり覚えていないが、蒼生の脳には焼き付いてしまっているのだろう。
「健ちゃんが傷付くようなこと裏でやってる奴に向ける慈悲なんてないもん。こういう人たちって、明るくて友達がいっぱいいる健ちゃんじゃなくて、絶対目立たない僕のほうに言ってくるんだよね。ま、健ちゃんの耳に届かなくてよかったけど。健ちゃんにまで実害が及ぶようなら、脅しで済ませなかったと思う」
ああ、そうか。健太に言わなかったのは、なにより、健太を守るためか。自分よりも。まず健太を。
蒼生にとって、本当に健太は大切な存在なんだ。
「……健太は果報者だな」
羨ましい。
ぱっと蒼生が顔を上げた。
きょとんとした表情。
「冬矢だって、僕、守る気でいるよ?」
「……!」
はっとする。
高校時代、俺の悪い噂が流れた時……まあ、あれは噂というより事実が明るみに出たというだけだから、俺自身は気にしていなかった。けれど、蒼生はそれに積極的に立ち向かっていっていたのを思い出す。……まさか。
「っ、もしかして、俺に気がある子に嫌がらせされたりなんか」
「……さあ?」
蒼生はさらりと流すように笑った。
ああ。馬鹿だな、俺は。健太と自分を比べる意味なんてないのに。
自分に自信がなくて、すべてを面倒がっていた蒼生。変わらない部分も多いけれど、俺たちを守るために戦う強さがある。身に着けてくれたものかもしれない、もともとの資質なのかもしれない、それはわからないが、これが今の蒼生だ。
蒼生自身のことも大切にしてほしいと心から願う、だが同時に、俺たちを最も大切にしてくれていることが嬉しい。
愛しい。
こんなにも愛しい。
俺はたまらず蒼生を強く抱き締めた。
「……愛してるよ、蒼生」
肩口に頬を摺り寄せた蒼生が、とろけるように微笑む。
「僕も。愛してる」
顔を近付けると、嬉しそうに角度を変えて、俺の唇を受け止めてくれる。
このまま。
離したくない。
ずっと抱き締めていたい。
蒼生。
「えへへ。嬉しい」
そう言った蒼生の目は、わずかに濡れて揺れていた。映る自分の姿が滲んで見える。本当にこういう景色が存在するんだ、と、胸が熱くなる。
いつも蒼生は、俺の知らない世界をくれる。
「……よかった、健太に先を越されちゃったからな」
「え?」
「俺も、ずっと言いたかったんだ。だけど、ずっと“大好き”って伝えていたから、いつ伝えていいのかタイミングが掴めずに……ここまで待たせて、ごめんね。本当に、一生言えないんじゃないかなんて気すらしてたよ」
蒼生が首を横に振る。
「ううん。……冬矢もだったんだね。実は、僕も。好きで、大好きで、もっと伝えたいなって思ってたのに、急に、……あ、愛してる、って言うの、なんだか恥ずかしい気がして、困ってた」
俺たち、ふたりとも言い出すタイミングを計っていたのか。ふふ。
「健太はいつも、停滞をぶち壊していくな」
「それが健ちゃんの強いとこだよね。……だけど、ずっと考えてくれてた冬矢の気持ちも嬉しい」
蒼生は腕を伸ばして、俺の首に回す。俺もそっとその髪を撫でる。
はあ、と大きく溜め息交じりの声が耳に飛び込んできた。
「それにしたって、冬矢は僕の口を割らせるの、本当に得意だよね」
「へえ?」
「僕、この話、墓場まで持ってくつもりだったのに」
「……ふっ。本当に、俺の恋人は頼もしいな。でも、俺は……いや、健太も、守られるだけでいるつもりはないよ。もし、これからそんな敵が現れたとしたら、一緒に戦っていこう」
小さく笑う声。
「協力プレイだ」
「そう。いつかのゲームセンターでやったみたいに」
「……うん」
思い出したのだろうか。蒼生は、腕にぎゅっと力をこめて、俺の首筋に顔を埋める。楽しかったよね。そう。あの時のように。共に。
「あのね。僕、ちゃんとふたりに守られてる自覚もあるよ。だから戦えるんだ」
「そうか……」
とくん、とくん、と。
鼓動が聞こえる。
とても、とても優しい音だと思った。
「……蒼生。今度は、俺たちだけのアルバムを作ろう。ここにあるだけじゃなくて、お互い携帯の中にたくさんあるだろ。それで、一緒に写った写真だけで、俺たちの思い出を形にしよう?」
「いいね。たくさんあるから、すぐにページが埋まりそうだなぁ」
蒼生は笑う。
健太は、晴れた空の下で育ってきたような人間だと思うことが何度もあった。それは、蒼生という傘がいつも健太を守っていたからだったんだな。だから、健太が見上げる空は、いつでも青空だったんだろう。
でも、健太だけでは進めない道だってきっとある。当然、俺だけでも、蒼生だけでも進めない道がある。だが、俺たちは3人だ。誰かが打ち破れば、同じ道を進んでいける。俺たちは、3人がちょうどいいのかもしれない。
しばらくすると、玄関で鍵の開く音がした。蒼生はぱっと立ち上がる。……残念だ。
「ずっと俺の上に座っていればいいのに」
「それもいいけど、また健ちゃんが大騒ぎするよ?」
蒼生はそう笑うと、玄関のほうに向かって歩いて行く。心地よい重さと熱が一度に奪われて、急に手持ち無沙汰になる。とりあえずテーブルの上を片付けるとするか。
「……えっ!?」
突然、廊下の向こうから蒼生の声が聞こえた。
まさか蒼生に何か、と思って俺も廊下に出る。すると、蒼生がちょうど慌てた様子で洗面所に駆け込むところだった。一体何だ。
玄関まで行くと、…………嘘だろ。
「おー、ただいまぁ」
「何を暢気なことを」
呆れて言葉が途切れた。目の前には、滴を落としてへらへら笑う健太がいる。いや、もう、本当に何から言ってやればいいのか。
「……傘は」
「降るなんて思ってなかったから持ってなくてさあ」
「それでも子供じゃないんだ、そのあたりで買うなり俺たちに連絡するなり出来ることはあっただろ」
「あはは、走ったら行けるんじゃねえかなって思ったんだけど、結構酷かったわ」
こんな様子では、蒼生が「守らなければ」と思ってしまうのも仕方ない……。
そこに蒼生がバスタオルを抱えて戻ってくる。
「健ちゃん、ほら、タオル。早く拭いて!」
「はぁい」
さっきの写真を思い出す。小さなふたり。おそらくずっとこんなだったんだろう。俺は息を吐いて、健太の手から鞄を取った。これはあまり濡れていないようだ。
「荷物置いて着替え持ってくるから、その濡れた服とっとと脱いどけ」
「よろしく~」
やれやれ。
着替えだ洗濯だ濡れた廊下の掃除だとばたばたして、ようやくリビングに戻る。まったく、蒼生と静かな時間を過ごしていたというのに、突然騒がしくなるんだからな。
健太は部屋に入るなり、片付ける暇のなかったテーブルに目を留めた。
「お、アルバムじゃん。ふたりで見てたんだ。思い出話でもしてた?」
「うん。あと、いざって時には僕ら共闘しよう、って話」
不思議そうな顔をして、健太は蒼生を覗き込む。
「え? 何? オレ、倒されちゃうの?」
俺と蒼生は同時に噴き出した。俺たちが、健太を? それはそれで面白そうだな。
「違う、違う。僕たち、全員で協力して敵に立ち向かっていこうね、って、そっちだよ」
「そっちかあ、よかった。冬矢ならともかく蒼生に反撃できないからな」
ふーん。俺とは対決する意思がある、と。まあどんな勝負でも負けないつもりでいるけどな。
あ、と健太が手を叩く。
「それで思い出したんだけどさ、昨日ゲームの新作出たって話したじゃん。帰りに買ってきたんだ」
「そっか。どうりで、ちょっと遅いと思った」
「だから鞄が濡れないようにかばって本人がびしょ濡れになったわけか」
「まあまあ。だってさ、協力プレイでエンディングが変わってくるんだぜ? 3人でやるのめちゃくちゃ楽しみにしてたんだからさぁ」
健太は嬉しそうに、鞄の中からゲームのパッケージを取り出す。そしていそいそとゲーム機のセッティングを始めた。
「僕、役に立つかなあ」
「大丈夫だよ、オレと冬矢がサポートするから。な!」
「ああ。すぐに慣れるよ」
健太がケーブルを繋ぐ傍ら、蒼生は真剣な表情で操作ガイドを目で追っている。俺はコントローラーをそっと撫で、そんなふたりを眺める。
ひとりで戦うのではなく。
ただ守られるだけでなく。
“一緒に戦う”っていうのは、いいな。
俺も、精一杯、力になりたい。
本当にそう思うよ。
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