高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2024年03月25日 22:10    文字数:17,202

44こ目;名前のもつ意味

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名付けの元、ではなくて、名前そのもののお話。
後半の遊びについては、本当に全く全然ひとかけらもそんなこと考えていなくて、
蒼生と一緒にびっくりしておりました。
あれこれ綺麗に片付いたので、最終回かと思いましたよ。
(※もうちょっと続きます。そのはずです)

↑初掲載時キャプション↑
2022/03/25初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
ここから2年経ちますが、まだ続いていますね。
これからも続くはずです。
よろしくお願いします!
1 / 1
 チャイムが鳴った途端、隣の席に座った友人がびくりとして飛び起きた。
「それでは、この答えを出席カードの裏に書いて提出していくように」
 教授は教科書類をまとめながら、黒板の文字列をコンッと指先で弾く。友人はその文字と自分の手元のミミズ文字を見比べ、申し訳なさそうな顔をして、下から覗き込んでくる。
「……ごめん、健太、あれ何?」
 カードに書き込みをしていた健太は、苦笑いで自分のノートの右上あたりをペンの頭でとんとん、と叩く。
「ああっ、サンキュ!」
「おまえ、今日ほとんど寝てたもんな。蹴っても全然起きねえから、どうしたのかと思ったよ」
「それがさー、ゆうべ、話題になってた映画見てたんだけど、これがまた面白くてシリーズ全作追っちゃって……あ、お詫びにこれ出しに行くわ」
「ん、よろしくー」
 書き終わっていた出席カードを一緒にひっつかんで、ばたばたと前に走っていく友人を眺め、健太はぐーっと背を伸ばす。確かに、今の授業は退屈だった。次から次へと初めて聞く単語が出てきて、それが教授の単調な声に乗るものだから、まるで子守唄のように聞こえた。昔の自分だったらまず間違いなく同じように居眠りしていただろう。
「寺っち」
 後ろからのんびりした声が聞こえる。最近よく聞く声だ。振り向くと、首の後ろでゆったりと髪を結った女子学生が鞄を抱えて立っていた。
「よお。今の授業どしたんだよ?」
「ギリギリで飛び込んだから後ろで聞いてた。ところで、今の答えって何?」
「なんだなんだ、佑月もか。今、柴崎も同じこと聞いてきたよ」
「柴っちも適当だからなあ」
「人のこと……まあいいや、これだよこれ。早くしねえと教授行っちゃうぜ?」
「おっと」
 佑月は慌てた様子もなく、それを書き写して教卓のほうに向かう。目で追うと、なんとか出ていきかけた教授の手元にちゃんと届けられたようだ。そして、そこにいた柴崎と一緒に戻ってくる。
「いやー、助かった助かった。あ、みんな下にいるってさ、一緒に昼食お」
「おー」
 机の上にごちゃごちゃと広がる教材をまとめ、鞄に放り込む。柴崎が「あ」と声をあげた。
「そういや、下にいるメンツで思い出したけどさ、昨日の授業のレポート……なんだっけ、博物館行って展示内容まとめるやつ、明日行こうかって話してるんだけど。健太はどうする?」
「明日? あ、バイト入っちゃってる。んー、別途で行くわ、誘ってくれてありがとな」
「なんだ、残念。せいぜいひとりで頑張れよ~?」
「くっそ、頼りにならねえなあ」
「えー、俺たちのせい!? むしろ、それ、こっちのセリフだよ? 本音言えば手伝ってほしかったのに!」
「あははは」
「ね、早くいこー」
「おお」
 2人と連れ立って歩きながら、健太は不思議なもんだな、としみじみ思う。まさかこんなふうに自分がきちんと授業を聞いて、人に頼られるようになるとは思わなかった。それもこれも、「蒼生がいないんだからしっかりしなきゃ」という一言に尽きる。つまり今まで、どれだけ蒼生に甘えていたかということだ。蒼生がいてくれる、蒼生が支えてくれる、蒼生がなんとかしてくれる。意識はしていなかったが、ずっとそう考えていたのだろう。
 一緒に暮らすようになって、生活を共にする時間が増えた。その一方、離れた場所で授業を受けるようになって、学校で時間を共有することが減った。隣にいる時間がぐるりと反転したことで、意識は確実に変わった。それでも変わらないのは、どちらにしても蒼生の存在はとても大切で、絶対に必要だということだ。根底に蒼生の存在があるからこそ、今ここで、ひとりでもいられる。
 そんなことを考えていたら、無性に蒼生に会いたくなった。……蒼生がいなければ寂しい、というのも変わらない。本当は四六時中そばにいたい。
「そういえば、寺っち」
 突然佑月が話しかけてきて、健太は慌てて思考を引き戻す。
「ん、何?」
「今日はこの前の続き持ってきたよ」
「マジ?」
 佑月とは、漫画の趣味がよく合った。好きな漫画が同じだとわかって話す機会が増えると、同系統の漫画を数多く所持していた彼女は、これ幸いと健太に次々貸すようになったのだ。しかも、そこにこっそり自分のおすすめの漫画も忍ばせてくる。それで、なし崩し的に、今まで読んだことのなかった少女漫画の類も読むようになった。最初は目がちかちかしていたものの、慣れてきたのか最近ではなかなか面白いなと思い始めている。
 4冊の本を鞄から出した佑月は、にやにやしながら表紙をちらりと見せてくる。
「これが続きの3冊と、あと最近買って面白かったやつ」
「お、またキラキラしたやつか」
「キラキラっていうか……ぐちゃぐちゃ? 三角関係ものだねえ」
「……えっ、それを恋人とのラブラブ充実ライフ満喫中のオレに貸そうと?」
「ふっふっふ。せいぜい波風立たせるといいよ」
「ったく、面白がるなよ……」
 健太は基本的に、少しでもそういう話題が出そうな時、先に“恋人います宣言”をするようにしている。恋人斡旋だの合コンだのから身を守るための作戦だ。佑月にもそれは言ってあるし、彼女はそういったものにあまり関心はないようだったが、……とはいえちょっかいを出すことは好きらしい。
「まあまあ、普通に面白いからさ」
 溜め息をつく健太に、佑月はさらににやにやしながら4冊をまとめて手渡した。

 改札を出ると、蒼生の姿にすぐに気付いた冬矢が、小さく手を振って笑った。それを見てしまうと、自然と速度が上がる。抱きつきたいほど嬉しいが、それ以上の速度にならないようなんとか制御して冬矢のもとへ着くと、冬矢は一瞬だけ指先で頬に触れた。
「おかえり、蒼生」
「た、ただいま」
 目が合うことが嬉しくて、今度こそ飛び込んでしまいそうになったので、蒼生は誤魔化すようにあたりを見渡した。
「冬矢ひとり? 健ちゃんは来てないんだ」
「ああ、漫画を読んでいたから、置いてきた。一応声はかけたけどな」
「僕を呼び出したことは言ってないの」
「……まあね」
 蒼生が帰り時間を連絡すると、冬矢からわざわざ「時間が合いそうだから待ち合わせしよう、ちょうど買い物に出ようとしたところだから」とメッセージが来たので、そんなに大変な買い物なら健太も荷物持ちで引っ張ってくるのだと思っていた。連れてこなかったということは、ただ自分を独り占めしたかっただけなのだろうか。なんだかくすぐったい気持ちになる。
 それ以上その話題に触れず、くるりと方向を変えた冬矢に、帰ってからまた騒ぎになるなあと思って蒼生はくすっと笑った。
「そうだ、スーパーの催事コーナーで、各地で人気のパン屋がいろいろ出店してるってお知らせが入っていたよ」
「わ、見てみたいな」
「うん。ちょうど食パンも買おうと思ってたところだしね」
 冬矢はさりげなく蒼生の背をそっと押す。その手のひらのわずかなぬくもりで、体中が温かさに包まれたような気がした。
 そうして辿り着いたスーパーの広い催事コーナーには、たくさんのショーケースが並べられ、ちょっとした市場のようになっていた。目移りしてしまうくらい様々な種類のパンが並び、あたりは甘い香りや香ばしい香りで満たされている。
「せっかくだから、今夜は総菜パンで夕飯にしようか」
「うん、いいね、そうする! ……あれ、でも、今夜のぶんってもう準備してるんじゃないの?」
「下ごしらえの段階だし、生ものは冷蔵庫から出してないから、明日に回せるよ。こっちのほうが賞味期限短いんじゃないかな」
「じゃあ、いろんなの買っちゃおう。健ちゃんも来ればよかったのに」
「蒼生が選んで健太が文句言うはずないだろ」
「……そっかぁ。ふふ」
 嬉しそうに笑い、蒼生はショーケースを見比べながら歩きだす。明るく笑う蒼生を見るのがなによりの癒しだと自覚している冬矢は、その後ろ姿を、温かい気持ちで見つめていた。
 結局、今夜のぶんと明日朝のぶん、それに食パンを2斤、さらに買い足した野菜で両手がふさがることになった。おかずが挟まっているせいか、パンといえどかなり重みがある。ただ、蒼生はその重さにもわくわくしていた。3人で一緒に、どれにしようか悩みながら食べるのが楽しみだったからだ。
 蒼生たちが家に帰ると、ソファに座っていた健太が、蒼生の声に反応してがばっと顔を上げた。
「えっ? 蒼生? え? おかえり……えっ、一緒?」
「そうだよー。美味しそうなパン、いっぱい買ってきたんだ」
「あ、うん、いい匂い、だけど」
 にこにこ笑う蒼生に、健太は少々難しい顔をし、それから冬矢を横目で睨んだ。どうやら蒼生の独り占めがバレたようだが、冬矢はそれをしれっと受け流す。なるほどこれは相手にしないつもりだと瞬時に理解した健太は、はあっと大きく息をついて手招きをした。
「え、でも」
 言いかけた蒼生の手から、冬矢がさっと袋を奪う。
「え」
 蒼生は困ったようにふたりを見比べるが、健太の手招きがやまない。買ってきたものをしまうところまでちゃんとやらないと、と思いつつ、妙に必死な様子の健太も気になるので、そっとソファに近付いた。すると健太は、腰に巻き付くように抱きついてきた。
 おや、と思う。いつもと比べて、勢いはないが腕の力が強い。蒼生が頭を撫でると、ぐりぐりとさらに擦り寄ってくる。
「? 健ちゃん。なにかあった?」
「んー……。ちょっとだけもやもやしてんの、聞いてくれるか」
「うん」
「友達に漫画借りて読んでたんだけど」
「うん」
 蒼生はちらりとローテーブルに目をやる。そこには蒼生たちも読ませてもらっている続き物の漫画とは別に、可愛らしい絵柄の表紙の本が1冊あった。それだけ重ねられず、手前に適当な感じに置かれていたから、きっとこっちのほうの話だろう。
「内容がな、その……三角関係モノで」
「この可愛らしい絵で?」
「この可愛らしい絵で。んでな、小さい頃から仲良しで、周りからもいつ付き合うんだろうって思われてる2人がいるんだけどさ。その女の子が住んでる隣の家に、小さな男の子が引っ越してくるんだ」
「うん」
 なんとなく先が見えて、蒼生は残りの手を健太の背に寄せる。
「彼女は小さいその子がかわいくて、面倒を見てやるわけ。で、そうこうしてるうちにとうとう幼馴染み同士で付き合うようになるんだけど、その頃には隣の子も女の子が好きなわけよ。それに気が付いた幼馴染みの男は、女の子の心が隣の子にあるのがわかっちゃって、別れちゃうんだ。だけど女の子はやっぱり幼馴染みのことも好きで、だから隣の子の気持ちにも応えられなくって、どうしよう……って話だった」
「そこで次の巻に続く?」
「そう」
 健太は困ったような顔で蒼生を見上げる。
「なんか……後から来た奴に取られちゃったのが、なんか、自分にも言えるみたいで、すっげぇもやもやしてる」
「うーん」
 健太の頭を撫で続けながら、蒼生は首を傾げた。確かにかぶるところもありそうだが、常にどちらかを選ぶ状態を強いられているその子と、最初から両手にすべてを与えられた蒼生とでは状況が違う。ただ、それをどう説明したらいいのか。
 そこに、食材をしまい終えた冬矢がキッチンから出てくる。
「人間関係を構成する単語が一緒だからといって、関係そのものが同じなわけではないだろう。少なくとも今、俺たちは蒼生を困らせてるつもりはないけど。蒼生はどう思う?」
 蒼生は慌ててこくこくと頷いて見せる。
「僕は、ちゃんとふたりのものだよ」
「……だよな」
 わずかに唇を尖らせながら健太は小さく笑った。
 冬矢が溜め息交じりに続ける。
「そもそも三角関係なんて、ありがちな題材じゃないか。今までだってそういうのは読んできただろうに、なんだって今回だけそんなに引っかかったんだ」
「それが……幼馴染みのあだ名が健ちゃん、なんだ」
「あぁ……」
 蒼生と冬矢は声を合わせて苦笑した。なるほど、そういうことか。自分と同じ名前を見つけてそわそわしてしまうのは、よくあることだ。さらに立場が似ているとなれば、つい目線を合わせてしまってもおかしくない。
「わかってんだよ、オレも別に珍しい名前じゃねえわけだし。初めての男子で、元気な子に育ちますようにって思ったら、まあ、健康の健だもん、よく使うだろなって。親も言ってたもんなあ、オレの名前は、“太陽のように健やかに”ってことなんだって。夏生まれだから、夏の太陽をイメージしたんだってさ」
「なるほどな、イメージ通りだ」
「だから、同じ名前……しかもあだ名同士なんだし、ホントに全っ然関係ないんだけど、いつも蒼生に呼ばれてるから、つい感情移入しちゃってさあ……。…………。あ! でも! ちょっとそう思っただけで、オレはこれからも蒼生と一緒に毎日楽しく暮らしていくので安心してください!」
 健太がいつもの笑顔でそう言うと、蒼生は心の底からほっとしたように、
「うん」
 と答えた。
 ただ。思ったことがすぐに口から出るタイプの健太だが、さすがに寸前で飲み込んだ言葉がある。沈黙に隠した、「だって蒼生はオレより冬矢のほうが好きだろ」という言葉。告白してからしばらくは、ずっとそう思っていた。冬矢がこの関係を提案していなければ、蒼生は冬矢を選んだのだろうと。もちろん、今はそんなふうには思っていない。途中からどうでもよくなったのだ。蒼生はいつも嬉しそうに健太のそばにいてくれる、そこに嘘も偽りもないのだから。蒼生は今、「僕はふたりのもの」だと言った。蒼生が言うならそれでいい。実際がどうだったとしても、本当にどうでもいい。もしも、動揺してそれを口にしてしまっていたら、蒼生の心を不用意に揺さぶってしまっただろう。変に焦って言ってしまわなくてよかった。
 とにかくこのストーリーは、早く忘れてしまったほうがいい。自分から言い出したことだし、言わなければよかったのかなとも思うのだが、蒼生からはっきり自分のものだと言われて気が晴れたのも確かだ。だから、それだけを胸に刻んで、あとは忘れてしまおう。
 健太は、片手で蒼生の腰を抱いたまま、その膝をすくって自分の隣に座らせ、息を吐いて別の話題を探す。
「……そういえばさ、小学校の時、クラスにオレと同じ名前の奴いたよな。健太トリオ、覚えてる?」
 蒼生がぽんと手を叩く。
「ああ、うん。いつも張り合ってたよね。4年の時だっけ」
「そうそう。誰が一番健太かコンテストを毎週のように開催してたんだよな」
「運動がテーマの時はいつも健ちゃんが一番だった」
「テストじゃどうしても勝てなかったからなー。絶対スポーツでは負けらんねえって、マジ必死だったっけ」
「あの頃から、健ちゃん体力おばけになってった気がする」
「褒めてる?」
「もちろん」
 とすん、と蒼生は健太の肩に頭を乗せる。ちらりと見ると、気付いた蒼生がふわっと笑う。
「僕の前にいきなりただ3人並んで、誰が一番だ、って僕に勝敗決めさせるやつ……。あれが一番よく意味がわかんなかったなあ」
「わかんなかった?」
「うん。だって、僕が他の誰かを選ぶわけがないのに。何百人何千人同じ名前の人を並べたって、僕には健ちゃんしかいないもん」
「蒼生……。オレも、世界中の“あおい”集めた選手権でも絶対蒼生を選ぶから!」
「…………。うん」
「大好き!」
「……えへへ、僕も好きー」
 思わず蒼生を抱き締めようとした瞬間、ローテーブルにどんっとマグカップが置かれた。驚いて見れば、そこには口元だけ笑顔の形にした冬矢が立っている。
「お茶が入りましたよ」
「……絵に描いたようなヤキモチだな……」
 蒼生は少し困ったようにローテーブルに目を落とし、ふたりの顔を見比べる視線の三角形を何度か作ってから、おずおずとカップを手に取った。健太は大仰にソファの背に倒れ込むように後ずさる。
「もしかして、オレのにだけ激辛ソースが入ってたりするやつか!?」
 はあ、と冬矢は息を吐いた。
「そんなことするはずないだろ」
「だよな、おまえはオレにだってちゃんと優し」
「健太にそんなことしたら蒼生が悲しむじゃないか」
「はい」
 たしかに、と健太は納得する。冬矢の思考の中心には常に蒼生の存在があって、物事はそれを基準に考えられている。それは健太も同じだ。自分が冬矢を害するようなことをすれば、蒼生が悲しむ原因を自分が作ることになる。そんなことを自分が望むはずがない。第一、冬矢に何かしたら速攻やり返されそうなのも怖いし。
 一瞬で大人しくなった健太に笑い、蒼生は改めてふわりと届くほんのり甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。冬矢が置いたのは、鮮やかな色の紅茶だ。ひとくち含むと、力が抜けたのか表情が柔らかくなった。健太も、倣うように深呼吸をする。昔は紅茶が苦手だったが、すれ違った時に蒼生から香る匂いだと気付いてからは、なんとなく好きになってきた。
 ようやくちゃんと落ち着いた気がして、健太は大きく息を吐いた。
「そういえばさ。なんで冬矢は冬矢なんだ?」
「は? なんだ唐突に」
「いや、名前の話になったからついでに。ほら、おまえ、5月生まれじゃん? 全然冬じゃねえのになーってずっと思ってたんだよな」
「ああ……。祖父が“春”の付く名前だったからだな。伯父に“夏”、父に“秋”が使われた結果、俺は“冬”になったわけだ」
「へー。じゃあ、おまえに子供がいたらまた春に戻んのか」
 わずかに目を見開いて、それから冬矢は笑う。
「俺で終わりだよ」
 はっとして健太は手を止めた。
 隣の蒼生がぎゅっとカップを握りしめたのがわかる。健太が慌てて体を蒼生のほうに向けると、蒼生は揺れる視線を落として、見るからに動揺しているようだった。
「……そ、そっか……。ぼ、僕だったから……その先は、ないんだ……。僕は……すごく悪いことをしちゃったんじゃ……本当ならあったはずの、冬矢の未来を」
「蒼生」
 静かに呼んで言葉を止めさせた冬矢は、ゆっくり蒼生の前にひざまずく。それから、カップを握る手ごと両手で包み込む。
「選んだのは俺なんだからいいんだよ。俺は名前を繋げるために生きてるわけじゃない。俺自身の幸せのために生きてるんだから」
「……冬矢」
 蒼生は言葉に迷っているようだった。
「ごめん、失言だった」
 はっきり自覚している健太は、素直に頭を下げる。冬矢はそれを見て苦笑する。
「おまえまでなんだよ。いいって言ってるだろ。それに、俺の家の話だったら、従兄弟が既に春と夏を使ってる。本当に気にしなくていいんだ。……第一、俺にとってそれが幸せなんだと考えていたら、とっくに実行しているからな。どんな相手だろうと、それこそよりどりみどりだったろうね」
 自信にあふれる発言に、蒼生は少しだけ表情を和らげた。
「……すごい説得力」
「だろ? その俺が選んだのは蒼生なんだから。蒼生はもっと実感持ってくれていいんだよ?」
「うん……」
 その顔が、すぐにすっと曇る。
 まだ蒼生が乗り越えられない壁。
「……ごめんね。ふたりのこと、信じたいし、信じようとしてるんだけど、どうしても、時々、不安になっちゃうんだ」
 冬矢がちらりと健太に目線をやる。健太は困ったように小さく頷いた。
 蒼生は、時々それを口にする。人を信じるのが怖い、と言ったこともある。けれど、本当に信用していない相手に、蒼生ほど慎重な人間がそれを直接伝えるはずはない。信頼しきっていなければ絶対に見せないだろう顔もたくさん知っている。つまり、蒼生が信じていないのは健太と冬矢ではない。自分自身なのだ。
 すっと立ち上がり、冬矢は蒼生の隣に座って健太の反対側からその腰を抱いた。
「不安になった時に黙っていられるより、そうやってちゃんと口にしてくれるほうが嬉しいよ。蒼生の不安を聞くことで、今の自分がきちんと蒼生と向き合えているのか、俺自身も改めて冷静に考えることが出来る。だからそれでいいんじゃないかな。蒼生は俺に、しっかり考える機会を与えてくれているんだと思ってる。愛情の上にあぐらを掻いて、停滞するよりずっといい」
「考える、機会?」
「そう。それに、蒼生は、俺の幸せを考えてくれたから不安になっちゃったんだろう? ありがとう。俺は今この瞬間も、世界で一番蒼生が好きだよ」
 揺れる視線をなだめるように、頬にキスして、続ける。
「だけど、こんな話題を振ってきた健太にはきっかり責任を取ってもらおうな。俺に対するあれは別になんでもないが、蒼生に対する失言は黙っていられないからな」
「え?」
 蒼生と健太は同時にぱっと顔を上げた。なんのことかわからない、という様子のふたりに、冬矢は積まれた漫画本の下敷きになっていたチラシを引っ張り出して見せた。そのチラシには、大きな赤い宝石を中央に据えたくすんだ金の冠の写真が載せられ、下には「歴史の偉人と宝石展」と華やかな字体が配置されている。
「これ、明らかにおまえの趣味じゃないよな。レポートの題材か。どうせひとりじゃどうしようもないから、蒼生についてきてもらうつもりでチラシをもらってきたんだろう」
「え……そう、その通りだけど……」
「蒼生、ついていくついでに、健太に豪華なランチでも奢ってもらおうな」
「う、うん……。ねえ冬矢、僕への失言ってなに? 僕、何も言われてないけど」
 冬矢はふっと笑う。
「さっき、漫画の幼馴染みと自分が重なるって言っていただろ。つまり、当てはめていえば、そういう状況になったら自分は蒼生を捨てるかもしれないって不安になったってことだよな? 少なくとも脳裏をよぎったというわけだ」
「っ!」
「捨て……」
 がばっと体を起こし、健太は呆然と呟いた蒼生の両肩を思い切り掴む。
「ねえよ! 絶対ねえって! そんなことするわけねぇだろ! さっきも言ったけど、これからも蒼生とずっとずっとずっとずーっと一緒に暮らすんだ。オレはなにがあっても、一生蒼生から離れねえって決めてんだから!」
「健ちゃ……」
 蒼生は唇を空振りさせながら迷うように健太の目を覗き込み、健太はそこから目をそらさない。
 はあっと息を吐いた冬矢が、後ろから蒼生をぎゅっと抱き締めた。
「だから、そういうことだよ。俺たちは俺たちだ、別の存在を俺たちの関係に当てはめても意味がない。おまえがそう決めてるように、俺だって一生蒼生といるつもりなんだ」
「! ……ん。そうだよな……。ごめん」
「蒼生も。それが俺の思う幸せなんだから、勝手に俺の幸せが違うところにあるなんて思い込まないこと。そこは反省しなよ」
「……はい」
 素直に頷いた蒼生は、どこかほっとした表情をしていた。もしかして、と冬矢は思う。ただ蒼生の言い分を受け入れて許すだけではなく、非を指摘して少しずつ正してやることも、蒼生にとっては救いになるなのかもしれない。そうか。自分を否定する蒼生ごと認めるということか。そうやって、少しずつ、少しずつでいい。いつか、蒼生が安心して、ふたりの間で、ただ笑っていられるように。
 健太は、ちらっと視線を泳がせ、そーっと鞄を引き寄せる。そして中をごそごそ探ってチケットを取り出し、ふたりに向かって同じくそーっと差し出した。
「……改めて。一緒に行って手伝ってください」
 蒼生はぱちくりと目を丸くする。
「3枚」
 冬矢も呆れたように笑う。
「最初からそのつもりだったか」
「健ちゃんって、昔からこういうとこあるよね」
 目を細め、蒼生はチケットを受け取った。その手を健太ががしっと掴む。
「昼飯も! なんっっっっでも! 好きなもん食べて!!」
「ふ、ふふ……。じゃあ考えとく」
 勢いに押されるように、蒼生はふんわり微笑んだ。
「うっし、なんか腹減ったわ、早めに夕飯にしねえ? いっぱいパンあるんだよな!」
 もともと切り替えの早い健太は、そう言うと元気よく立ち上がる。
「うん、健ちゃんにはね、たこパンを食べてほしくて」
「なにそれ!? 面白そうだな」
「見た目がインパクトあって、健ちゃんにウケそうだなって思ったんだよね」
「そういうの好き!」
「じゃあ、スープだけ作るか。何がいいかな」
「このまえキノコの買ったろ、あれにしようぜ」
「了解」
 あっという間にいつもの穏やかな空気に戻る。冬矢は感心したように健太を見ると、立ち上がってキッチンに向かった。


 高いビルに囲まれて、やけに空が広い空間がある。開けた視界に突然飛び込んできたのは、箱を重ねたような奇妙な形の建物だ。どうやら目的の博物館はこれらしい。地図によれば、正面ではなく建物を回り込んだ先にある大きな長方形の建物が、企画展をやっている特別展示棟のようだ。その棟の前にある「歴史の偉人と宝石展」と書かれた大きなポスターを前に、健太が腕を組む。
「やべえ……どっちも興味ねえ」
 隣に立っていた蒼生は首を傾げながら、“ご自由にお取りください”の札があるラックに手を伸ばして、展示案内のパンフレットを取った。
「健ちゃん、高校時代はわりと歴史得意だったじゃない」
「それは蒼生が得意だったからさ。蒼生が説明したとこだけはきっかり覚えられたんだよ」
「そういう理由だったかあ」
「そ。だから、今回書くレポートのお題の博物館は他にもあったんだけど、蒼生なら説明してくれそうだなって思って。てか、そもそも博物館とか美術館とか、こういうとこ苦手なんだよな」
 蒼生の手元を横から覗き込んでいた冬矢も不思議そうな顔をする。
「教養科目だから必須ではないわけだし、最初からこういう課題が出るのはわかってたはずだろう?」
「わかってたけどさ、前後期合わせて4回くらいレポート出して出席だけしてれば余裕で単位取れるって聞いたから~」
「…………。最初から、それを口実に蒼生とデートする気だったのか」
「! 冬矢って人の心読めたりする!?」
「いかにもおまえが考えそうなことじゃないか」
「だって何から何まで違う授業ばっかじゃん。蒼生と一緒に何かできたらいいなと思ったんだよ。……そりゃ蒼生の単位にはならねえけど」
 ぴくんと蒼生が反応する。ちら、と健太を見上げた。
「そんなこと考えながら授業選択したの?」
 すると健太は自信満々に視線を返してくる。
「オレは常に蒼生のこと考えてるからな」
「ひぇ。い、一緒のことできるのは嬉しいけど、今はレポートのことだけ考えてください」
 それに答えたのは、何故か冬矢だ。
「無理だろ」
 ぴしっと、一言。やけに真剣な目をした健太が、それを聞いて仰々しく頷いた。蒼生はすっかり困った顔で視線をあちこちにやったが、結局言葉が見つからなかったのか、そっとふたりの袖を引く。
「……そろそろ中に入ろ?」
 そんなやり取りの末、3人はようやく会場内に入った。会期も半ばで、平日の午前という条件も重なり、客の数はまばらだ。これなら多少話していても迷惑がかかることはないだろう。
 蒼生と冬矢が、主催者挨拶の大きな看板の前に立つ。
「健太、レポートのテーマは?」
「あー、いや。行って、見て、まとめろってだけ」
「ふーん。じゃあ無難なところに落とし込めばいいか」
「興味のある分野なら個人的な視点でも面白そうだけど、そうでもないならね」
「後で突っ込まれると厄介だからな。客観的に趣旨をまとめるほうがいいんだろう」
「そうすると、権威とそれに比例する宝石の希少価値、あたりかな。それとも産出量からのアプローチのほうがわかりやすい?」
「主題からして、そのあたりがまとめやすそうだな。両方向から考えていって、より結論に近いほうに合わせる感じにしたほうがいいんじゃないか」
「どっちにしても、後半に重点置いたほうがよさそうだよね」
 きょとんと健太はふたりのやりとりを見守る。授業を受けている自分より、よほど真剣に課題に向き合っているような気がする。蒼生は生真面目な性格だからわかるが、冬矢もずいぶん協力的だ。今度ふたりが調べ物をするときには積極的に手伝おう、とこっそり心に決める健太だ。
「頼もしい~」
 思わずつぶやくと、冬矢が腕を組んで息を吐く。
「俺たちが手を出すのは情報を集めるところまでで、まとめるのはおまえだからな」
「重々承知しております」
「なお、健太がそれをやっている間は、俺が蒼生を独占する」
「えっ」
「えっ」
「それが協力の条件」
「……後出ししてくるなあ……」
 果たして、健太にやる気を出させるためなのか、ただ蒼生を独占したいだけなのか。健太は窺うように冬矢を見たが、冬矢はその視線ににやっと笑って見せただけで、答えを言う気はなさそうだった。
「えーと、じゃあ、早めに片付けちゃおうね」
 蒼生は、やはりちょっと困ったように笑って、ささっと最初の展示物に向かって歩いて行く。逃げたなあ、と微笑ましく思いながら、ふたりもそのあとに続いた。
 肝心の展示についてだが、残念ながら装飾品に興味のないトリオには案の定あまり刺さらない内容だった。ただ、歴史が得意な蒼生にとって、知識にある言葉と目の前の展示品が重なること自体は面白い。それに、時代が下るにつれ、研磨技術が発達し輝きを増していく石は、純粋にとても綺麗だと思えた。余談を加えながら歴史的背景について生き生きと説明する蒼生の言葉を、健太はメモを取りながら真剣に聞く。それを見ている冬矢もいつの間にかその世界観に引き込まれていったようだ。
「健太、これ。題材にしやすいんじゃないか。国王の宝玉椅子だそうだ」
 冬矢はぴしりと説明文を指さす。展示品にぐっと顔を近付けた健太が真面目な顔で頷いた。
「座るとこまで宝石びっしりじゃん。座ったら痛くねえのかな」
「実際に使ったというより、象徴的に作られたものだろうな。当時、一番流行していた宝石の産出量が最も多かった国だ」
「量……さっき蒼生が言ってたやつな。そっか、その緑の石がたくさん使われてる」
「それだけじゃない、こっちの地域を守った、と書かれているだろう」
「なになに、……へー、国を守った英雄って言われてるんだ。その功績をたたえて一時期子供に宝石の名前を付けることが流行した、か。そういえばこの王様の名前聞いたことあるな」
「彼が守ったとされる地域の宝石も、数多く装飾に用いられているのがわかるか」
「……えーと、さっき見た王冠のとこだよな」
「そうだ。つまり、ここで関係性が」
 冬矢のスイッチが入ったようなので、自分があえて口を挟まなくてもいいだろう。きちんと説明する冬矢と、きっかりメモを取る健太を、蒼生はにこにこしながら見つめる。文句を言いながらも面倒見がいい冬矢が好きだし、それを素直に受け止める健太も好きだ。薄暗い展示室内で、宝石を輝かせるためのスポットライトが展示品に近付いたふたりを照らしているのを見ると、まるでそれがふたりのための光に思える。つくづく、自分は本当に得難いものを得ているのだなあ、という喜びのようなものがふつふつと湧いてくる気がした。
 冬矢の解説が続いているので、それを耳に入れながら次の展示品の前まで歩く。色とりどりの石が通り過ぎていく視界の中で、ふと蒼生の目に留まったのは、大きな水色の宝石だった。細かな銀細工の首飾りの中央に据えられた石で、周りをきらきらしたたくさんの色石で囲まれているが、それが見劣りするほど美しい。晴れた日の澄んだ空のような。サンゴ礁に囲まれた穏やかな海のような。
 ひょいっと横から健太が覗き込んできた。それも、わざわざ蒼生の肩越しに。
「サファイアってやつ?」
「よりは色が薄いと思うんだけど」
「そっか。青の石ってそれしか知らねえからなあ」
 冬矢が少し離れたところにある説明文を読み上げる。
「王女が身に着けていたとされる装飾品の数々。中でも首飾りに使用されているブルー・トパーズは国内随一の宝玉とされ……。ブルー・トパーズって石のようだね」
 ふうん、と健太は深く頷く。
「すっげぇ、綺麗な石だな。なんか……蒼生って感じがする」
「え?」
 驚いた蒼生が視線をやると、健太はじぃっと吸い込まれているような眼差しで、その石を見つめていた。
「青くて、きらきらして、深くて、穏やかで優しい。そうだよな、蒼生って名前、なんだか宝石みたいだもんな」
 蒼生はきゅっと唇を噛むと、一歩、横に踏み出す。
 それから、深く息を吐いた。
「……健ちゃんはよく知ってるでしょ。僕の名前の由来。お母さんの好きな色が赤と緑とピンクで、3人目は女の子のつもりでピンクを用意してたけど、途中で男だってわかったらから使えなくて余りの色にしたって。字も適当に読める字を充てたんだって」
 その場に取り残されていた健太はまったく動じる様子もない。ただ笑って手を伸ばし、蒼生を後ろからぎゅっと抱き締めた。
「ってことはさ。蒼生の名前には、誰の好みも意思も入ってない。本当に蒼生だけの名前ってことじゃん」
「……健ちゃん」
 冬矢も微笑んで蒼生の手を取る。
「そうだよ。名前は最初に親からもらうものかもしれないけれど、もらった以上自分のものだからな。それに、蒼生の名前を一番呼ぶのは誰? そう、俺だろ。それは蒼生自身のものであると同時に、俺のものでもあるんだよ」
「冬矢」
 ぽこん、と。
 胸に大きくあいた穴が、埋まった気がした。
 健太がむすっとした顔をして、冬矢の手から蒼生を引き剥がそうとする。
「オレを抜かすなって。脳内含めて世界で一番オレが蒼生の名前呼んでるんだ。つまりオレのものでもあるってことじゃんか」
 冬矢は負けずに蒼生の腕を抱く。
「脳内じゃ比べられないな」
「オレはおまえより蒼生歴が10年以上長いんだぜ? キャリアが違ぇわ、キャリアが」
 ふたりに引っ張られながら、蒼生は改めてその石に目を落とした。
 美しい青い石は、スポットライトを反射して、凛と煌めく。
「……そっか。僕の名前は……ふたりのものなんだ」
 ふいに、それが大事なものに思える。価値がないと決めつけ、どうでもよかったはずのものが。
 蒼生の小さな声に、ふたりは言葉を止めた。そして、同時に蒼生の頭をぽんぽん、と叩いた。


 後日。
 レポートをまとめるためダイニングテーブルについた健太に対し、冬矢はきっかり蒼生の独占を宣言した。どうやら、あの日の言葉は本気だったようだ。どうせそんなことだろうと思ってはいた健太ではあるが、首を振ってぴしっとソファを指さした。
「せめて! せめてオレの目の届くとこにいて!」
 どうやらそこは譲れないらしい。さすがに何かをしようとしていたわけでもない冬矢と、健太の作業が気になる蒼生は、特に異論なく頷いた。そのまま背中を合わせて座り、ソファの背に寄りかかるゆったりとした姿勢で本を読み始めるふたりを見て、健太はなんとなく胸を撫でおろした。
 健太が作業をしている間、家の中はとても静かだ。もともと蒼生と冬矢は沈黙が苦にならないタイプであり、会話を繋げなければと気負う関係でもない。蒼生にとって、お互いの動く微かな音だけが聞こえる空間は、とても心地いいものだった。もちろん会話があれば、とても楽しい、それもわかっているけれど。冬矢の体温を背中で感じ、真面目に課題に取り組む健太の顔を眺めて、蒼生は穏やかで温かい気持ちでいっぱいになる。その空気でさらに体を満たしたくて大きく深呼吸をすると、ふと健太が手を止めた。
「……そういえばさあ」
 しんとした時間が苦手な健太は、どうやら声を出すきっかけを探っていたらしい。
「オレ、よく考えたら詳しく知らないなって思って、蒼生の蒼っていう字、調べてみたんだよ」
「うん?」
 蒼生が首を傾げ、冬矢も不思議そうに振り返る。視線を受けた健太が、えっと、と言葉を繋げた。
「そしたらさ、普通の青? にも使うんだけど、あおあおとした草っていうだろ、そういう意味があるんだってさ」
「へえ……」
 蒼生は目をぱちくりさせながら、読んでいた本を傍らに置く。小学生の頃、名前の由来を調べる授業があった。それで親に名付けのきっかけを聞いてがっかりしてから、一度も自分の名前について調べようとは思わなかった。むしろ、その字自体を避けていた節もある。その封印を、……健太は何でもないことのようにこじ開けた。
 草、か。蒼生は、この前の会話をふと思い出し、「あ」と思う。健太は夏の太陽。冬矢は、冬の……放たれる矢のイメージは、風だろうか。だとすれば。
「僕は……健ちゃんがくれる夏の太陽の熱さと、冬矢がくれる冬の風の強さで、生かされてる草なのかな」
 ぴんっと背を伸ばした健太が蒼生を見る。冬矢がソファに座りなおす。
 はっとした蒼生は別の意味で「あ」と思い、かあっと頬を赤くした。
「……あ、あの! 今の忘れて! 僕今、すっごく恥ずかしいこと言った! そんな、言葉遊びみたいなの、うわあ……。こじつけもいいとこだよね! あの、あの、今読んでた本が、その、詩人のお話で! そ、そのっ、だから」
 慌てて首を振る蒼生に、健太はぽんっと手を叩く。
「なるほど。オレたちと付き合って、蒼生、それまでよりすっごく綺麗になったけど。そうか、花が咲いたんだ」
「え」
 至って真面目な顔の健太。それをまじまじと見て、蒼生は赤い顔をさらに赤くする。
「え? え? そんなこと、思ってたの?」
「うん。もちろん、それまでも綺麗だったし可愛いと思ってたよ。でも、そっかあ、そういうことかあ。すっげぇ、綺麗な花が咲いたなあ」
「……ひぇ」
 もはや顔を上げていられない。曲げた膝に埋めるようにして頭を抱える。
 背中のほうで、ふっと冬矢が笑った気配がした。蒼生は知っている。こういう時、冬矢が追撃の手を緩めるはずがないと。
「俺も辞書を引いてみたんだ。蒼生の蒼に、天使の天と書いて、そうてん、と読むんだけど。青い空という意味のほかに、春の空って意味があるんだそうだよ」
「春……?」
「そう。冬と夏から、決して切り離せない、春」
「冬矢もそんなこと調べてたの?」
「うん。いざという時に伝えようと思ってたんだ。こんなに早くその時が来るなんてね」
 がたん、健太が勢いよく立ち上がる。
「そっか、冬と春と夏なんだ。すげえな! 秋はないけど」
 冬矢がはたと顔を上げ、蒼生の肩を後ろから抱く。
「……わかった」
「ん?」
「蒼生が言葉遊びっていうから、ふと気付いたんだけど。秋がないってことは、つまり、飽きることがないってことなんじゃないか」
「あー! ほんとだ! そうだよな、蒼生に飽きるなんて、世界が滅びてもあり得ないもんな!」
 嬉しそうな声に、思わず蒼生も目を上げる。目が合うと、にっこり笑って大股で歩いてきて、健太はぎゅっと蒼生の両手を握った。
「もう、こんなの運命じゃねえか!」
 運命なんて、この瞬間まで信じていなかったのに。最初から決められていたことなんて興味がないと思っていたはずなのに。健太がそう言うのなら、それでもいいと思えてしまう。
 けれど、なんと答えたらいいのか、蒼生は混乱する。健太は蒼生を運命だと言う。冬矢は蒼生を切り離せない存在だと言う。どう答えれば。
 困り果てて、もう、そのまま伝えることにした。
「……ぼ、僕は……その、よく、わからないけど……。今、ものすごく、……嬉しい。許されるなら、僕も、一生ふたりのそばにいたい……」
 健太と冬矢は、とろけるように笑う。
「許されるもなにも、そうじゃなきゃやだって思ってるよ」
「蒼生がそう言ってくれて、本当に嬉しい」
 蒼生はきゅっと唇を噛んだ。
 そうしないと、泣き崩れてしまいそうだと思ったからだ。

 その蒼生の気配を察したらしい。
 冬矢が笑顔にいたずらっぽい色を乗せた。
「名前といえば、少し後悔していることがあるんだ」
「……え?」
「なんだよ」
「よくあるだろう。それまで名字で呼び合っていたのに、セックスの最中に名前で呼ぶと急に感度がよくなるって」
「!?」
 蒼生はぴたりと動きを止め、目を丸くする。健太は思い出したように頷いた。
「あー、漫画でよく見るやつだ」
「やってみたかったな。早く名前で呼び合いたくて、そこまで計算できなかった」
「あれってホントなのかな」
「どう思う?」
 ふたりの視線を集め、顔を赤くした蒼生は思わず立ち上がった。
「し、知らない!」
 そのままぱたぱたとキッチンに駆け込む蒼生の背中を、健太と冬矢は愛おしく見送る。
 が。
 カウンター越しにちらりとこちらを見た蒼生の一言で、状況は一変した。
「……知らないけど、ふたりが名前呼んでくれると、……きもちぃ」
 言ったかと思うと、さっとしゃがみこんで姿を消す。
 健太と冬矢は、揃ってゆらりと立ち上がる。
「へぇ……煽るじゃん」
「それを俺たちに伝えたうえで、行き止まりに逃げ込んだってことは、どういうことか自分でわかってるね……?」
「ひぇ」
 蒼生はキッチンの奥の壁に懐きながら、そのゆっくりしたふたりぶんの足音を、背中越しにどきどきしながら聞くのだった。
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44こ目;名前のもつ意味
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 チャイムが鳴った途端、隣の席に座った友人がびくりとして飛び起きた。
「それでは、この答えを出席カードの裏に書いて提出していくように」
 教授は教科書類をまとめながら、黒板の文字列をコンッと指先で弾く。友人はその文字と自分の手元のミミズ文字を見比べ、申し訳なさそうな顔をして、下から覗き込んでくる。
「……ごめん、健太、あれ何?」
 カードに書き込みをしていた健太は、苦笑いで自分のノートの右上あたりをペンの頭でとんとん、と叩く。
「ああっ、サンキュ!」
「おまえ、今日ほとんど寝てたもんな。蹴っても全然起きねえから、どうしたのかと思ったよ」
「それがさー、ゆうべ、話題になってた映画見てたんだけど、これがまた面白くてシリーズ全作追っちゃって……あ、お詫びにこれ出しに行くわ」
「ん、よろしくー」
 書き終わっていた出席カードを一緒にひっつかんで、ばたばたと前に走っていく友人を眺め、健太はぐーっと背を伸ばす。確かに、今の授業は退屈だった。次から次へと初めて聞く単語が出てきて、それが教授の単調な声に乗るものだから、まるで子守唄のように聞こえた。昔の自分だったらまず間違いなく同じように居眠りしていただろう。
「寺っち」
 後ろからのんびりした声が聞こえる。最近よく聞く声だ。振り向くと、首の後ろでゆったりと髪を結った女子学生が鞄を抱えて立っていた。
「よお。今の授業どしたんだよ?」
「ギリギリで飛び込んだから後ろで聞いてた。ところで、今の答えって何?」
「なんだなんだ、佑月もか。今、柴崎も同じこと聞いてきたよ」
「柴っちも適当だからなあ」
「人のこと……まあいいや、これだよこれ。早くしねえと教授行っちゃうぜ?」
「おっと」
 佑月は慌てた様子もなく、それを書き写して教卓のほうに向かう。目で追うと、なんとか出ていきかけた教授の手元にちゃんと届けられたようだ。そして、そこにいた柴崎と一緒に戻ってくる。
「いやー、助かった助かった。あ、みんな下にいるってさ、一緒に昼食お」
「おー」
 机の上にごちゃごちゃと広がる教材をまとめ、鞄に放り込む。柴崎が「あ」と声をあげた。
「そういや、下にいるメンツで思い出したけどさ、昨日の授業のレポート……なんだっけ、博物館行って展示内容まとめるやつ、明日行こうかって話してるんだけど。健太はどうする?」
「明日? あ、バイト入っちゃってる。んー、別途で行くわ、誘ってくれてありがとな」
「なんだ、残念。せいぜいひとりで頑張れよ~?」
「くっそ、頼りにならねえなあ」
「えー、俺たちのせい!? むしろ、それ、こっちのセリフだよ? 本音言えば手伝ってほしかったのに!」
「あははは」
「ね、早くいこー」
「おお」
 2人と連れ立って歩きながら、健太は不思議なもんだな、としみじみ思う。まさかこんなふうに自分がきちんと授業を聞いて、人に頼られるようになるとは思わなかった。それもこれも、「蒼生がいないんだからしっかりしなきゃ」という一言に尽きる。つまり今まで、どれだけ蒼生に甘えていたかということだ。蒼生がいてくれる、蒼生が支えてくれる、蒼生がなんとかしてくれる。意識はしていなかったが、ずっとそう考えていたのだろう。
 一緒に暮らすようになって、生活を共にする時間が増えた。その一方、離れた場所で授業を受けるようになって、学校で時間を共有することが減った。隣にいる時間がぐるりと反転したことで、意識は確実に変わった。それでも変わらないのは、どちらにしても蒼生の存在はとても大切で、絶対に必要だということだ。根底に蒼生の存在があるからこそ、今ここで、ひとりでもいられる。
 そんなことを考えていたら、無性に蒼生に会いたくなった。……蒼生がいなければ寂しい、というのも変わらない。本当は四六時中そばにいたい。
「そういえば、寺っち」
 突然佑月が話しかけてきて、健太は慌てて思考を引き戻す。
「ん、何?」
「今日はこの前の続き持ってきたよ」
「マジ?」
 佑月とは、漫画の趣味がよく合った。好きな漫画が同じだとわかって話す機会が増えると、同系統の漫画を数多く所持していた彼女は、これ幸いと健太に次々貸すようになったのだ。しかも、そこにこっそり自分のおすすめの漫画も忍ばせてくる。それで、なし崩し的に、今まで読んだことのなかった少女漫画の類も読むようになった。最初は目がちかちかしていたものの、慣れてきたのか最近ではなかなか面白いなと思い始めている。
 4冊の本を鞄から出した佑月は、にやにやしながら表紙をちらりと見せてくる。
「これが続きの3冊と、あと最近買って面白かったやつ」
「お、またキラキラしたやつか」
「キラキラっていうか……ぐちゃぐちゃ? 三角関係ものだねえ」
「……えっ、それを恋人とのラブラブ充実ライフ満喫中のオレに貸そうと?」
「ふっふっふ。せいぜい波風立たせるといいよ」
「ったく、面白がるなよ……」
 健太は基本的に、少しでもそういう話題が出そうな時、先に“恋人います宣言”をするようにしている。恋人斡旋だの合コンだのから身を守るための作戦だ。佑月にもそれは言ってあるし、彼女はそういったものにあまり関心はないようだったが、……とはいえちょっかいを出すことは好きらしい。
「まあまあ、普通に面白いからさ」
 溜め息をつく健太に、佑月はさらににやにやしながら4冊をまとめて手渡した。

 改札を出ると、蒼生の姿にすぐに気付いた冬矢が、小さく手を振って笑った。それを見てしまうと、自然と速度が上がる。抱きつきたいほど嬉しいが、それ以上の速度にならないようなんとか制御して冬矢のもとへ着くと、冬矢は一瞬だけ指先で頬に触れた。
「おかえり、蒼生」
「た、ただいま」
 目が合うことが嬉しくて、今度こそ飛び込んでしまいそうになったので、蒼生は誤魔化すようにあたりを見渡した。
「冬矢ひとり? 健ちゃんは来てないんだ」
「ああ、漫画を読んでいたから、置いてきた。一応声はかけたけどな」
「僕を呼び出したことは言ってないの」
「……まあね」
 蒼生が帰り時間を連絡すると、冬矢からわざわざ「時間が合いそうだから待ち合わせしよう、ちょうど買い物に出ようとしたところだから」とメッセージが来たので、そんなに大変な買い物なら健太も荷物持ちで引っ張ってくるのだと思っていた。連れてこなかったということは、ただ自分を独り占めしたかっただけなのだろうか。なんだかくすぐったい気持ちになる。
 それ以上その話題に触れず、くるりと方向を変えた冬矢に、帰ってからまた騒ぎになるなあと思って蒼生はくすっと笑った。
「そうだ、スーパーの催事コーナーで、各地で人気のパン屋がいろいろ出店してるってお知らせが入っていたよ」
「わ、見てみたいな」
「うん。ちょうど食パンも買おうと思ってたところだしね」
 冬矢はさりげなく蒼生の背をそっと押す。その手のひらのわずかなぬくもりで、体中が温かさに包まれたような気がした。
 そうして辿り着いたスーパーの広い催事コーナーには、たくさんのショーケースが並べられ、ちょっとした市場のようになっていた。目移りしてしまうくらい様々な種類のパンが並び、あたりは甘い香りや香ばしい香りで満たされている。
「せっかくだから、今夜は総菜パンで夕飯にしようか」
「うん、いいね、そうする! ……あれ、でも、今夜のぶんってもう準備してるんじゃないの?」
「下ごしらえの段階だし、生ものは冷蔵庫から出してないから、明日に回せるよ。こっちのほうが賞味期限短いんじゃないかな」
「じゃあ、いろんなの買っちゃおう。健ちゃんも来ればよかったのに」
「蒼生が選んで健太が文句言うはずないだろ」
「……そっかぁ。ふふ」
 嬉しそうに笑い、蒼生はショーケースを見比べながら歩きだす。明るく笑う蒼生を見るのがなによりの癒しだと自覚している冬矢は、その後ろ姿を、温かい気持ちで見つめていた。
 結局、今夜のぶんと明日朝のぶん、それに食パンを2斤、さらに買い足した野菜で両手がふさがることになった。おかずが挟まっているせいか、パンといえどかなり重みがある。ただ、蒼生はその重さにもわくわくしていた。3人で一緒に、どれにしようか悩みながら食べるのが楽しみだったからだ。
 蒼生たちが家に帰ると、ソファに座っていた健太が、蒼生の声に反応してがばっと顔を上げた。
「えっ? 蒼生? え? おかえり……えっ、一緒?」
「そうだよー。美味しそうなパン、いっぱい買ってきたんだ」
「あ、うん、いい匂い、だけど」
 にこにこ笑う蒼生に、健太は少々難しい顔をし、それから冬矢を横目で睨んだ。どうやら蒼生の独り占めがバレたようだが、冬矢はそれをしれっと受け流す。なるほどこれは相手にしないつもりだと瞬時に理解した健太は、はあっと大きく息をついて手招きをした。
「え、でも」
 言いかけた蒼生の手から、冬矢がさっと袋を奪う。
「え」
 蒼生は困ったようにふたりを見比べるが、健太の手招きがやまない。買ってきたものをしまうところまでちゃんとやらないと、と思いつつ、妙に必死な様子の健太も気になるので、そっとソファに近付いた。すると健太は、腰に巻き付くように抱きついてきた。
 おや、と思う。いつもと比べて、勢いはないが腕の力が強い。蒼生が頭を撫でると、ぐりぐりとさらに擦り寄ってくる。
「? 健ちゃん。なにかあった?」
「んー……。ちょっとだけもやもやしてんの、聞いてくれるか」
「うん」
「友達に漫画借りて読んでたんだけど」
「うん」
 蒼生はちらりとローテーブルに目をやる。そこには蒼生たちも読ませてもらっている続き物の漫画とは別に、可愛らしい絵柄の表紙の本が1冊あった。それだけ重ねられず、手前に適当な感じに置かれていたから、きっとこっちのほうの話だろう。
「内容がな、その……三角関係モノで」
「この可愛らしい絵で?」
「この可愛らしい絵で。んでな、小さい頃から仲良しで、周りからもいつ付き合うんだろうって思われてる2人がいるんだけどさ。その女の子が住んでる隣の家に、小さな男の子が引っ越してくるんだ」
「うん」
 なんとなく先が見えて、蒼生は残りの手を健太の背に寄せる。
「彼女は小さいその子がかわいくて、面倒を見てやるわけ。で、そうこうしてるうちにとうとう幼馴染み同士で付き合うようになるんだけど、その頃には隣の子も女の子が好きなわけよ。それに気が付いた幼馴染みの男は、女の子の心が隣の子にあるのがわかっちゃって、別れちゃうんだ。だけど女の子はやっぱり幼馴染みのことも好きで、だから隣の子の気持ちにも応えられなくって、どうしよう……って話だった」
「そこで次の巻に続く?」
「そう」
 健太は困ったような顔で蒼生を見上げる。
「なんか……後から来た奴に取られちゃったのが、なんか、自分にも言えるみたいで、すっげぇもやもやしてる」
「うーん」
 健太の頭を撫で続けながら、蒼生は首を傾げた。確かにかぶるところもありそうだが、常にどちらかを選ぶ状態を強いられているその子と、最初から両手にすべてを与えられた蒼生とでは状況が違う。ただ、それをどう説明したらいいのか。
 そこに、食材をしまい終えた冬矢がキッチンから出てくる。
「人間関係を構成する単語が一緒だからといって、関係そのものが同じなわけではないだろう。少なくとも今、俺たちは蒼生を困らせてるつもりはないけど。蒼生はどう思う?」
 蒼生は慌ててこくこくと頷いて見せる。
「僕は、ちゃんとふたりのものだよ」
「……だよな」
 わずかに唇を尖らせながら健太は小さく笑った。
 冬矢が溜め息交じりに続ける。
「そもそも三角関係なんて、ありがちな題材じゃないか。今までだってそういうのは読んできただろうに、なんだって今回だけそんなに引っかかったんだ」
「それが……幼馴染みのあだ名が健ちゃん、なんだ」
「あぁ……」
 蒼生と冬矢は声を合わせて苦笑した。なるほど、そういうことか。自分と同じ名前を見つけてそわそわしてしまうのは、よくあることだ。さらに立場が似ているとなれば、つい目線を合わせてしまってもおかしくない。
「わかってんだよ、オレも別に珍しい名前じゃねえわけだし。初めての男子で、元気な子に育ちますようにって思ったら、まあ、健康の健だもん、よく使うだろなって。親も言ってたもんなあ、オレの名前は、“太陽のように健やかに”ってことなんだって。夏生まれだから、夏の太陽をイメージしたんだってさ」
「なるほどな、イメージ通りだ」
「だから、同じ名前……しかもあだ名同士なんだし、ホントに全っ然関係ないんだけど、いつも蒼生に呼ばれてるから、つい感情移入しちゃってさあ……。…………。あ! でも! ちょっとそう思っただけで、オレはこれからも蒼生と一緒に毎日楽しく暮らしていくので安心してください!」
 健太がいつもの笑顔でそう言うと、蒼生は心の底からほっとしたように、
「うん」
 と答えた。
 ただ。思ったことがすぐに口から出るタイプの健太だが、さすがに寸前で飲み込んだ言葉がある。沈黙に隠した、「だって蒼生はオレより冬矢のほうが好きだろ」という言葉。告白してからしばらくは、ずっとそう思っていた。冬矢がこの関係を提案していなければ、蒼生は冬矢を選んだのだろうと。もちろん、今はそんなふうには思っていない。途中からどうでもよくなったのだ。蒼生はいつも嬉しそうに健太のそばにいてくれる、そこに嘘も偽りもないのだから。蒼生は今、「僕はふたりのもの」だと言った。蒼生が言うならそれでいい。実際がどうだったとしても、本当にどうでもいい。もしも、動揺してそれを口にしてしまっていたら、蒼生の心を不用意に揺さぶってしまっただろう。変に焦って言ってしまわなくてよかった。
 とにかくこのストーリーは、早く忘れてしまったほうがいい。自分から言い出したことだし、言わなければよかったのかなとも思うのだが、蒼生からはっきり自分のものだと言われて気が晴れたのも確かだ。だから、それだけを胸に刻んで、あとは忘れてしまおう。
 健太は、片手で蒼生の腰を抱いたまま、その膝をすくって自分の隣に座らせ、息を吐いて別の話題を探す。
「……そういえばさ、小学校の時、クラスにオレと同じ名前の奴いたよな。健太トリオ、覚えてる?」
 蒼生がぽんと手を叩く。
「ああ、うん。いつも張り合ってたよね。4年の時だっけ」
「そうそう。誰が一番健太かコンテストを毎週のように開催してたんだよな」
「運動がテーマの時はいつも健ちゃんが一番だった」
「テストじゃどうしても勝てなかったからなー。絶対スポーツでは負けらんねえって、マジ必死だったっけ」
「あの頃から、健ちゃん体力おばけになってった気がする」
「褒めてる?」
「もちろん」
 とすん、と蒼生は健太の肩に頭を乗せる。ちらりと見ると、気付いた蒼生がふわっと笑う。
「僕の前にいきなりただ3人並んで、誰が一番だ、って僕に勝敗決めさせるやつ……。あれが一番よく意味がわかんなかったなあ」
「わかんなかった?」
「うん。だって、僕が他の誰かを選ぶわけがないのに。何百人何千人同じ名前の人を並べたって、僕には健ちゃんしかいないもん」
「蒼生……。オレも、世界中の“あおい”集めた選手権でも絶対蒼生を選ぶから!」
「…………。うん」
「大好き!」
「……えへへ、僕も好きー」
 思わず蒼生を抱き締めようとした瞬間、ローテーブルにどんっとマグカップが置かれた。驚いて見れば、そこには口元だけ笑顔の形にした冬矢が立っている。
「お茶が入りましたよ」
「……絵に描いたようなヤキモチだな……」
 蒼生は少し困ったようにローテーブルに目を落とし、ふたりの顔を見比べる視線の三角形を何度か作ってから、おずおずとカップを手に取った。健太は大仰にソファの背に倒れ込むように後ずさる。
「もしかして、オレのにだけ激辛ソースが入ってたりするやつか!?」
 はあ、と冬矢は息を吐いた。
「そんなことするはずないだろ」
「だよな、おまえはオレにだってちゃんと優し」
「健太にそんなことしたら蒼生が悲しむじゃないか」
「はい」
 たしかに、と健太は納得する。冬矢の思考の中心には常に蒼生の存在があって、物事はそれを基準に考えられている。それは健太も同じだ。自分が冬矢を害するようなことをすれば、蒼生が悲しむ原因を自分が作ることになる。そんなことを自分が望むはずがない。第一、冬矢に何かしたら速攻やり返されそうなのも怖いし。
 一瞬で大人しくなった健太に笑い、蒼生は改めてふわりと届くほんのり甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。冬矢が置いたのは、鮮やかな色の紅茶だ。ひとくち含むと、力が抜けたのか表情が柔らかくなった。健太も、倣うように深呼吸をする。昔は紅茶が苦手だったが、すれ違った時に蒼生から香る匂いだと気付いてからは、なんとなく好きになってきた。
 ようやくちゃんと落ち着いた気がして、健太は大きく息を吐いた。
「そういえばさ。なんで冬矢は冬矢なんだ?」
「は? なんだ唐突に」
「いや、名前の話になったからついでに。ほら、おまえ、5月生まれじゃん? 全然冬じゃねえのになーってずっと思ってたんだよな」
「ああ……。祖父が“春”の付く名前だったからだな。伯父に“夏”、父に“秋”が使われた結果、俺は“冬”になったわけだ」
「へー。じゃあ、おまえに子供がいたらまた春に戻んのか」
 わずかに目を見開いて、それから冬矢は笑う。
「俺で終わりだよ」
 はっとして健太は手を止めた。
 隣の蒼生がぎゅっとカップを握りしめたのがわかる。健太が慌てて体を蒼生のほうに向けると、蒼生は揺れる視線を落として、見るからに動揺しているようだった。
「……そ、そっか……。ぼ、僕だったから……その先は、ないんだ……。僕は……すごく悪いことをしちゃったんじゃ……本当ならあったはずの、冬矢の未来を」
「蒼生」
 静かに呼んで言葉を止めさせた冬矢は、ゆっくり蒼生の前にひざまずく。それから、カップを握る手ごと両手で包み込む。
「選んだのは俺なんだからいいんだよ。俺は名前を繋げるために生きてるわけじゃない。俺自身の幸せのために生きてるんだから」
「……冬矢」
 蒼生は言葉に迷っているようだった。
「ごめん、失言だった」
 はっきり自覚している健太は、素直に頭を下げる。冬矢はそれを見て苦笑する。
「おまえまでなんだよ。いいって言ってるだろ。それに、俺の家の話だったら、従兄弟が既に春と夏を使ってる。本当に気にしなくていいんだ。……第一、俺にとってそれが幸せなんだと考えていたら、とっくに実行しているからな。どんな相手だろうと、それこそよりどりみどりだったろうね」
 自信にあふれる発言に、蒼生は少しだけ表情を和らげた。
「……すごい説得力」
「だろ? その俺が選んだのは蒼生なんだから。蒼生はもっと実感持ってくれていいんだよ?」
「うん……」
 その顔が、すぐにすっと曇る。
 まだ蒼生が乗り越えられない壁。
「……ごめんね。ふたりのこと、信じたいし、信じようとしてるんだけど、どうしても、時々、不安になっちゃうんだ」
 冬矢がちらりと健太に目線をやる。健太は困ったように小さく頷いた。
 蒼生は、時々それを口にする。人を信じるのが怖い、と言ったこともある。けれど、本当に信用していない相手に、蒼生ほど慎重な人間がそれを直接伝えるはずはない。信頼しきっていなければ絶対に見せないだろう顔もたくさん知っている。つまり、蒼生が信じていないのは健太と冬矢ではない。自分自身なのだ。
 すっと立ち上がり、冬矢は蒼生の隣に座って健太の反対側からその腰を抱いた。
「不安になった時に黙っていられるより、そうやってちゃんと口にしてくれるほうが嬉しいよ。蒼生の不安を聞くことで、今の自分がきちんと蒼生と向き合えているのか、俺自身も改めて冷静に考えることが出来る。だからそれでいいんじゃないかな。蒼生は俺に、しっかり考える機会を与えてくれているんだと思ってる。愛情の上にあぐらを掻いて、停滞するよりずっといい」
「考える、機会?」
「そう。それに、蒼生は、俺の幸せを考えてくれたから不安になっちゃったんだろう? ありがとう。俺は今この瞬間も、世界で一番蒼生が好きだよ」
 揺れる視線をなだめるように、頬にキスして、続ける。
「だけど、こんな話題を振ってきた健太にはきっかり責任を取ってもらおうな。俺に対するあれは別になんでもないが、蒼生に対する失言は黙っていられないからな」
「え?」
 蒼生と健太は同時にぱっと顔を上げた。なんのことかわからない、という様子のふたりに、冬矢は積まれた漫画本の下敷きになっていたチラシを引っ張り出して見せた。そのチラシには、大きな赤い宝石を中央に据えたくすんだ金の冠の写真が載せられ、下には「歴史の偉人と宝石展」と華やかな字体が配置されている。
「これ、明らかにおまえの趣味じゃないよな。レポートの題材か。どうせひとりじゃどうしようもないから、蒼生についてきてもらうつもりでチラシをもらってきたんだろう」
「え……そう、その通りだけど……」
「蒼生、ついていくついでに、健太に豪華なランチでも奢ってもらおうな」
「う、うん……。ねえ冬矢、僕への失言ってなに? 僕、何も言われてないけど」
 冬矢はふっと笑う。
「さっき、漫画の幼馴染みと自分が重なるって言っていただろ。つまり、当てはめていえば、そういう状況になったら自分は蒼生を捨てるかもしれないって不安になったってことだよな? 少なくとも脳裏をよぎったというわけだ」
「っ!」
「捨て……」
 がばっと体を起こし、健太は呆然と呟いた蒼生の両肩を思い切り掴む。
「ねえよ! 絶対ねえって! そんなことするわけねぇだろ! さっきも言ったけど、これからも蒼生とずっとずっとずっとずーっと一緒に暮らすんだ。オレはなにがあっても、一生蒼生から離れねえって決めてんだから!」
「健ちゃ……」
 蒼生は唇を空振りさせながら迷うように健太の目を覗き込み、健太はそこから目をそらさない。
 はあっと息を吐いた冬矢が、後ろから蒼生をぎゅっと抱き締めた。
「だから、そういうことだよ。俺たちは俺たちだ、別の存在を俺たちの関係に当てはめても意味がない。おまえがそう決めてるように、俺だって一生蒼生といるつもりなんだ」
「! ……ん。そうだよな……。ごめん」
「蒼生も。それが俺の思う幸せなんだから、勝手に俺の幸せが違うところにあるなんて思い込まないこと。そこは反省しなよ」
「……はい」
 素直に頷いた蒼生は、どこかほっとした表情をしていた。もしかして、と冬矢は思う。ただ蒼生の言い分を受け入れて許すだけではなく、非を指摘して少しずつ正してやることも、蒼生にとっては救いになるなのかもしれない。そうか。自分を否定する蒼生ごと認めるということか。そうやって、少しずつ、少しずつでいい。いつか、蒼生が安心して、ふたりの間で、ただ笑っていられるように。
 健太は、ちらっと視線を泳がせ、そーっと鞄を引き寄せる。そして中をごそごそ探ってチケットを取り出し、ふたりに向かって同じくそーっと差し出した。
「……改めて。一緒に行って手伝ってください」
 蒼生はぱちくりと目を丸くする。
「3枚」
 冬矢も呆れたように笑う。
「最初からそのつもりだったか」
「健ちゃんって、昔からこういうとこあるよね」
 目を細め、蒼生はチケットを受け取った。その手を健太ががしっと掴む。
「昼飯も! なんっっっっでも! 好きなもん食べて!!」
「ふ、ふふ……。じゃあ考えとく」
 勢いに押されるように、蒼生はふんわり微笑んだ。
「うっし、なんか腹減ったわ、早めに夕飯にしねえ? いっぱいパンあるんだよな!」
 もともと切り替えの早い健太は、そう言うと元気よく立ち上がる。
「うん、健ちゃんにはね、たこパンを食べてほしくて」
「なにそれ!? 面白そうだな」
「見た目がインパクトあって、健ちゃんにウケそうだなって思ったんだよね」
「そういうの好き!」
「じゃあ、スープだけ作るか。何がいいかな」
「このまえキノコの買ったろ、あれにしようぜ」
「了解」
 あっという間にいつもの穏やかな空気に戻る。冬矢は感心したように健太を見ると、立ち上がってキッチンに向かった。


 高いビルに囲まれて、やけに空が広い空間がある。開けた視界に突然飛び込んできたのは、箱を重ねたような奇妙な形の建物だ。どうやら目的の博物館はこれらしい。地図によれば、正面ではなく建物を回り込んだ先にある大きな長方形の建物が、企画展をやっている特別展示棟のようだ。その棟の前にある「歴史の偉人と宝石展」と書かれた大きなポスターを前に、健太が腕を組む。
「やべえ……どっちも興味ねえ」
 隣に立っていた蒼生は首を傾げながら、“ご自由にお取りください”の札があるラックに手を伸ばして、展示案内のパンフレットを取った。
「健ちゃん、高校時代はわりと歴史得意だったじゃない」
「それは蒼生が得意だったからさ。蒼生が説明したとこだけはきっかり覚えられたんだよ」
「そういう理由だったかあ」
「そ。だから、今回書くレポートのお題の博物館は他にもあったんだけど、蒼生なら説明してくれそうだなって思って。てか、そもそも博物館とか美術館とか、こういうとこ苦手なんだよな」
 蒼生の手元を横から覗き込んでいた冬矢も不思議そうな顔をする。
「教養科目だから必須ではないわけだし、最初からこういう課題が出るのはわかってたはずだろう?」
「わかってたけどさ、前後期合わせて4回くらいレポート出して出席だけしてれば余裕で単位取れるって聞いたから~」
「…………。最初から、それを口実に蒼生とデートする気だったのか」
「! 冬矢って人の心読めたりする!?」
「いかにもおまえが考えそうなことじゃないか」
「だって何から何まで違う授業ばっかじゃん。蒼生と一緒に何かできたらいいなと思ったんだよ。……そりゃ蒼生の単位にはならねえけど」
 ぴくんと蒼生が反応する。ちら、と健太を見上げた。
「そんなこと考えながら授業選択したの?」
 すると健太は自信満々に視線を返してくる。
「オレは常に蒼生のこと考えてるからな」
「ひぇ。い、一緒のことできるのは嬉しいけど、今はレポートのことだけ考えてください」
 それに答えたのは、何故か冬矢だ。
「無理だろ」
 ぴしっと、一言。やけに真剣な目をした健太が、それを聞いて仰々しく頷いた。蒼生はすっかり困った顔で視線をあちこちにやったが、結局言葉が見つからなかったのか、そっとふたりの袖を引く。
「……そろそろ中に入ろ?」
 そんなやり取りの末、3人はようやく会場内に入った。会期も半ばで、平日の午前という条件も重なり、客の数はまばらだ。これなら多少話していても迷惑がかかることはないだろう。
 蒼生と冬矢が、主催者挨拶の大きな看板の前に立つ。
「健太、レポートのテーマは?」
「あー、いや。行って、見て、まとめろってだけ」
「ふーん。じゃあ無難なところに落とし込めばいいか」
「興味のある分野なら個人的な視点でも面白そうだけど、そうでもないならね」
「後で突っ込まれると厄介だからな。客観的に趣旨をまとめるほうがいいんだろう」
「そうすると、権威とそれに比例する宝石の希少価値、あたりかな。それとも産出量からのアプローチのほうがわかりやすい?」
「主題からして、そのあたりがまとめやすそうだな。両方向から考えていって、より結論に近いほうに合わせる感じにしたほうがいいんじゃないか」
「どっちにしても、後半に重点置いたほうがよさそうだよね」
 きょとんと健太はふたりのやりとりを見守る。授業を受けている自分より、よほど真剣に課題に向き合っているような気がする。蒼生は生真面目な性格だからわかるが、冬矢もずいぶん協力的だ。今度ふたりが調べ物をするときには積極的に手伝おう、とこっそり心に決める健太だ。
「頼もしい~」
 思わずつぶやくと、冬矢が腕を組んで息を吐く。
「俺たちが手を出すのは情報を集めるところまでで、まとめるのはおまえだからな」
「重々承知しております」
「なお、健太がそれをやっている間は、俺が蒼生を独占する」
「えっ」
「えっ」
「それが協力の条件」
「……後出ししてくるなあ……」
 果たして、健太にやる気を出させるためなのか、ただ蒼生を独占したいだけなのか。健太は窺うように冬矢を見たが、冬矢はその視線ににやっと笑って見せただけで、答えを言う気はなさそうだった。
「えーと、じゃあ、早めに片付けちゃおうね」
 蒼生は、やはりちょっと困ったように笑って、ささっと最初の展示物に向かって歩いて行く。逃げたなあ、と微笑ましく思いながら、ふたりもそのあとに続いた。
 肝心の展示についてだが、残念ながら装飾品に興味のないトリオには案の定あまり刺さらない内容だった。ただ、歴史が得意な蒼生にとって、知識にある言葉と目の前の展示品が重なること自体は面白い。それに、時代が下るにつれ、研磨技術が発達し輝きを増していく石は、純粋にとても綺麗だと思えた。余談を加えながら歴史的背景について生き生きと説明する蒼生の言葉を、健太はメモを取りながら真剣に聞く。それを見ている冬矢もいつの間にかその世界観に引き込まれていったようだ。
「健太、これ。題材にしやすいんじゃないか。国王の宝玉椅子だそうだ」
 冬矢はぴしりと説明文を指さす。展示品にぐっと顔を近付けた健太が真面目な顔で頷いた。
「座るとこまで宝石びっしりじゃん。座ったら痛くねえのかな」
「実際に使ったというより、象徴的に作られたものだろうな。当時、一番流行していた宝石の産出量が最も多かった国だ」
「量……さっき蒼生が言ってたやつな。そっか、その緑の石がたくさん使われてる」
「それだけじゃない、こっちの地域を守った、と書かれているだろう」
「なになに、……へー、国を守った英雄って言われてるんだ。その功績をたたえて一時期子供に宝石の名前を付けることが流行した、か。そういえばこの王様の名前聞いたことあるな」
「彼が守ったとされる地域の宝石も、数多く装飾に用いられているのがわかるか」
「……えーと、さっき見た王冠のとこだよな」
「そうだ。つまり、ここで関係性が」
 冬矢のスイッチが入ったようなので、自分があえて口を挟まなくてもいいだろう。きちんと説明する冬矢と、きっかりメモを取る健太を、蒼生はにこにこしながら見つめる。文句を言いながらも面倒見がいい冬矢が好きだし、それを素直に受け止める健太も好きだ。薄暗い展示室内で、宝石を輝かせるためのスポットライトが展示品に近付いたふたりを照らしているのを見ると、まるでそれがふたりのための光に思える。つくづく、自分は本当に得難いものを得ているのだなあ、という喜びのようなものがふつふつと湧いてくる気がした。
 冬矢の解説が続いているので、それを耳に入れながら次の展示品の前まで歩く。色とりどりの石が通り過ぎていく視界の中で、ふと蒼生の目に留まったのは、大きな水色の宝石だった。細かな銀細工の首飾りの中央に据えられた石で、周りをきらきらしたたくさんの色石で囲まれているが、それが見劣りするほど美しい。晴れた日の澄んだ空のような。サンゴ礁に囲まれた穏やかな海のような。
 ひょいっと横から健太が覗き込んできた。それも、わざわざ蒼生の肩越しに。
「サファイアってやつ?」
「よりは色が薄いと思うんだけど」
「そっか。青の石ってそれしか知らねえからなあ」
 冬矢が少し離れたところにある説明文を読み上げる。
「王女が身に着けていたとされる装飾品の数々。中でも首飾りに使用されているブルー・トパーズは国内随一の宝玉とされ……。ブルー・トパーズって石のようだね」
 ふうん、と健太は深く頷く。
「すっげぇ、綺麗な石だな。なんか……蒼生って感じがする」
「え?」
 驚いた蒼生が視線をやると、健太はじぃっと吸い込まれているような眼差しで、その石を見つめていた。
「青くて、きらきらして、深くて、穏やかで優しい。そうだよな、蒼生って名前、なんだか宝石みたいだもんな」
 蒼生はきゅっと唇を噛むと、一歩、横に踏み出す。
 それから、深く息を吐いた。
「……健ちゃんはよく知ってるでしょ。僕の名前の由来。お母さんの好きな色が赤と緑とピンクで、3人目は女の子のつもりでピンクを用意してたけど、途中で男だってわかったらから使えなくて余りの色にしたって。字も適当に読める字を充てたんだって」
 その場に取り残されていた健太はまったく動じる様子もない。ただ笑って手を伸ばし、蒼生を後ろからぎゅっと抱き締めた。
「ってことはさ。蒼生の名前には、誰の好みも意思も入ってない。本当に蒼生だけの名前ってことじゃん」
「……健ちゃん」
 冬矢も微笑んで蒼生の手を取る。
「そうだよ。名前は最初に親からもらうものかもしれないけれど、もらった以上自分のものだからな。それに、蒼生の名前を一番呼ぶのは誰? そう、俺だろ。それは蒼生自身のものであると同時に、俺のものでもあるんだよ」
「冬矢」
 ぽこん、と。
 胸に大きくあいた穴が、埋まった気がした。
 健太がむすっとした顔をして、冬矢の手から蒼生を引き剥がそうとする。
「オレを抜かすなって。脳内含めて世界で一番オレが蒼生の名前呼んでるんだ。つまりオレのものでもあるってことじゃんか」
 冬矢は負けずに蒼生の腕を抱く。
「脳内じゃ比べられないな」
「オレはおまえより蒼生歴が10年以上長いんだぜ? キャリアが違ぇわ、キャリアが」
 ふたりに引っ張られながら、蒼生は改めてその石に目を落とした。
 美しい青い石は、スポットライトを反射して、凛と煌めく。
「……そっか。僕の名前は……ふたりのものなんだ」
 ふいに、それが大事なものに思える。価値がないと決めつけ、どうでもよかったはずのものが。
 蒼生の小さな声に、ふたりは言葉を止めた。そして、同時に蒼生の頭をぽんぽん、と叩いた。


 後日。
 レポートをまとめるためダイニングテーブルについた健太に対し、冬矢はきっかり蒼生の独占を宣言した。どうやら、あの日の言葉は本気だったようだ。どうせそんなことだろうと思ってはいた健太ではあるが、首を振ってぴしっとソファを指さした。
「せめて! せめてオレの目の届くとこにいて!」
 どうやらそこは譲れないらしい。さすがに何かをしようとしていたわけでもない冬矢と、健太の作業が気になる蒼生は、特に異論なく頷いた。そのまま背中を合わせて座り、ソファの背に寄りかかるゆったりとした姿勢で本を読み始めるふたりを見て、健太はなんとなく胸を撫でおろした。
 健太が作業をしている間、家の中はとても静かだ。もともと蒼生と冬矢は沈黙が苦にならないタイプであり、会話を繋げなければと気負う関係でもない。蒼生にとって、お互いの動く微かな音だけが聞こえる空間は、とても心地いいものだった。もちろん会話があれば、とても楽しい、それもわかっているけれど。冬矢の体温を背中で感じ、真面目に課題に取り組む健太の顔を眺めて、蒼生は穏やかで温かい気持ちでいっぱいになる。その空気でさらに体を満たしたくて大きく深呼吸をすると、ふと健太が手を止めた。
「……そういえばさあ」
 しんとした時間が苦手な健太は、どうやら声を出すきっかけを探っていたらしい。
「オレ、よく考えたら詳しく知らないなって思って、蒼生の蒼っていう字、調べてみたんだよ」
「うん?」
 蒼生が首を傾げ、冬矢も不思議そうに振り返る。視線を受けた健太が、えっと、と言葉を繋げた。
「そしたらさ、普通の青? にも使うんだけど、あおあおとした草っていうだろ、そういう意味があるんだってさ」
「へえ……」
 蒼生は目をぱちくりさせながら、読んでいた本を傍らに置く。小学生の頃、名前の由来を調べる授業があった。それで親に名付けのきっかけを聞いてがっかりしてから、一度も自分の名前について調べようとは思わなかった。むしろ、その字自体を避けていた節もある。その封印を、……健太は何でもないことのようにこじ開けた。
 草、か。蒼生は、この前の会話をふと思い出し、「あ」と思う。健太は夏の太陽。冬矢は、冬の……放たれる矢のイメージは、風だろうか。だとすれば。
「僕は……健ちゃんがくれる夏の太陽の熱さと、冬矢がくれる冬の風の強さで、生かされてる草なのかな」
 ぴんっと背を伸ばした健太が蒼生を見る。冬矢がソファに座りなおす。
 はっとした蒼生は別の意味で「あ」と思い、かあっと頬を赤くした。
「……あ、あの! 今の忘れて! 僕今、すっごく恥ずかしいこと言った! そんな、言葉遊びみたいなの、うわあ……。こじつけもいいとこだよね! あの、あの、今読んでた本が、その、詩人のお話で! そ、そのっ、だから」
 慌てて首を振る蒼生に、健太はぽんっと手を叩く。
「なるほど。オレたちと付き合って、蒼生、それまでよりすっごく綺麗になったけど。そうか、花が咲いたんだ」
「え」
 至って真面目な顔の健太。それをまじまじと見て、蒼生は赤い顔をさらに赤くする。
「え? え? そんなこと、思ってたの?」
「うん。もちろん、それまでも綺麗だったし可愛いと思ってたよ。でも、そっかあ、そういうことかあ。すっげぇ、綺麗な花が咲いたなあ」
「……ひぇ」
 もはや顔を上げていられない。曲げた膝に埋めるようにして頭を抱える。
 背中のほうで、ふっと冬矢が笑った気配がした。蒼生は知っている。こういう時、冬矢が追撃の手を緩めるはずがないと。
「俺も辞書を引いてみたんだ。蒼生の蒼に、天使の天と書いて、そうてん、と読むんだけど。青い空という意味のほかに、春の空って意味があるんだそうだよ」
「春……?」
「そう。冬と夏から、決して切り離せない、春」
「冬矢もそんなこと調べてたの?」
「うん。いざという時に伝えようと思ってたんだ。こんなに早くその時が来るなんてね」
 がたん、健太が勢いよく立ち上がる。
「そっか、冬と春と夏なんだ。すげえな! 秋はないけど」
 冬矢がはたと顔を上げ、蒼生の肩を後ろから抱く。
「……わかった」
「ん?」
「蒼生が言葉遊びっていうから、ふと気付いたんだけど。秋がないってことは、つまり、飽きることがないってことなんじゃないか」
「あー! ほんとだ! そうだよな、蒼生に飽きるなんて、世界が滅びてもあり得ないもんな!」
 嬉しそうな声に、思わず蒼生も目を上げる。目が合うと、にっこり笑って大股で歩いてきて、健太はぎゅっと蒼生の両手を握った。
「もう、こんなの運命じゃねえか!」
 運命なんて、この瞬間まで信じていなかったのに。最初から決められていたことなんて興味がないと思っていたはずなのに。健太がそう言うのなら、それでもいいと思えてしまう。
 けれど、なんと答えたらいいのか、蒼生は混乱する。健太は蒼生を運命だと言う。冬矢は蒼生を切り離せない存在だと言う。どう答えれば。
 困り果てて、もう、そのまま伝えることにした。
「……ぼ、僕は……その、よく、わからないけど……。今、ものすごく、……嬉しい。許されるなら、僕も、一生ふたりのそばにいたい……」
 健太と冬矢は、とろけるように笑う。
「許されるもなにも、そうじゃなきゃやだって思ってるよ」
「蒼生がそう言ってくれて、本当に嬉しい」
 蒼生はきゅっと唇を噛んだ。
 そうしないと、泣き崩れてしまいそうだと思ったからだ。

 その蒼生の気配を察したらしい。
 冬矢が笑顔にいたずらっぽい色を乗せた。
「名前といえば、少し後悔していることがあるんだ」
「……え?」
「なんだよ」
「よくあるだろう。それまで名字で呼び合っていたのに、セックスの最中に名前で呼ぶと急に感度がよくなるって」
「!?」
 蒼生はぴたりと動きを止め、目を丸くする。健太は思い出したように頷いた。
「あー、漫画でよく見るやつだ」
「やってみたかったな。早く名前で呼び合いたくて、そこまで計算できなかった」
「あれってホントなのかな」
「どう思う?」
 ふたりの視線を集め、顔を赤くした蒼生は思わず立ち上がった。
「し、知らない!」
 そのままぱたぱたとキッチンに駆け込む蒼生の背中を、健太と冬矢は愛おしく見送る。
 が。
 カウンター越しにちらりとこちらを見た蒼生の一言で、状況は一変した。
「……知らないけど、ふたりが名前呼んでくれると、……きもちぃ」
 言ったかと思うと、さっとしゃがみこんで姿を消す。
 健太と冬矢は、揃ってゆらりと立ち上がる。
「へぇ……煽るじゃん」
「それを俺たちに伝えたうえで、行き止まりに逃げ込んだってことは、どういうことか自分でわかってるね……?」
「ひぇ」
 蒼生はキッチンの奥の壁に懐きながら、そのゆっくりしたふたりぶんの足音を、背中越しにどきどきしながら聞くのだった。
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