高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2024年06月04日 23:00    文字数:22,547

54こ目;夏の日差しと砂の影~後編~

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前話( https://pictbland.net/items/detail/2246661 )の続きのお話。
とうとうサークル合宿の日がやってきました。
半分が楽しみなイベント、残り半分が不得意なイベント。
なんとかすべてを頑張ろうとする蒼生の前に、苦手なことが次々起こって…。

↑初公開時キャプション↑
2022/06/03初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 なんだかんだでばたばたしたが、夏休みも後半が見える頃、とうとう2泊3日の合宿の日が来た。当初は大学の最寄り駅集合という案が出ていたが、結局、現地集合現地解散になった。帰省途中のメンバーや遠回りになるメンバーがいるからということらしいが、少しでも邪魔される時間を短くしたかった健太と冬矢にとってはありがたい決定だった。蒼生と一緒にどこかに出かけるのは嬉しいのだが、そこに他人が絡むとなると話は別だ。高校時代はいろいろあったなあ、と思い返して遠い目をするふたりだ。
 ところが先日、蒼生が急にこんなことを言いだした。
「何回かしか話したことない人と同じ部屋で寝るんなら、お互いもうちょっと慣れておいたほうがいいんじゃないかな」
 健太はなるほど、と素直に思った。サッカー部の合宿で同じく合宿に来ていた他校のサッカー部と仲良くなり、部屋に潜り込んで雑魚寝をして、翌朝先生に怒られたエピソードを持つ健太にはどうということもないが、蒼生はほぼ初対面の人間と一緒に寝ることに緊張感を覚えるのだろう。何か起こって夜中にいきなりぎこちなくなることなどがあっては、確かにいただけない。
 不満に思ったのは冬矢だ。蒼生以外に興味がない。健太ならなんとか許すが、基本的に誰かに合わせるのが嫌いだ。蒼生相手だから柔らかく考えられるのであって、持って生まれた性質が変わったわけではない。それでも頷いたのは、人付き合いを頑張ろうとする蒼生の助けになると思ったからだ。蒼生のためだと思えば、態度を取り繕うくらいわけはない。それに、なにより、
「……って言っておきながら僕が我慢できなくなっちゃったらごめんね。と、突然抱きつくなどの奇行に走らないように努力します……!」
 とぷるぷる震えながら宣言した蒼生がとても可愛かったので、それでチャラだ。
 ただ、電車の向かい合わせになった4つの席では、問答無用で蒼生の隣に座った。長年の付き合いで察することもあったのか、健太も何も言わなかった。
「改めて、よろしくお願いします」
 蒼生がぺこりと頭を下げ、3人がつられるようにそれに倣う。
 木之下は、小柄で物静かな青年だ。一度も色を染めたことのないような黒髪に、黒縁眼鏡という外見で、真面目で芯が強そうな印象だった。意外と今まで近くにいなかったタイプだ。
「ごめん、3人はもともと友達なんだよな。割り込むような形になって悪いかなと思ったんだけど、どうしても講演会が気になって」
 蒼生の挨拶を受けてからの最初の言葉がそれだったので、健太はすぐに「いい人だ」と思う。とっつきにくそうな雰囲気は感じるものの、友達にはなれそうだ。
「や、せっかく同じサークル入ったのに、全然話せなくて気になってたんだよ。ほら、1年男子ってオレたちだけじゃん」
「先輩たちはもう少し増やしたいと思ってるらしいよ。この前聞いたんだけど」
「へえ、そうなんだ」
 蒼生がぽんと手を叩く。
「……ああ、急にイベントが増えたのはそういうことなのかな」
「みたいだよ。俺は大勢でわいわいするより少人数のほうが気楽だと思うのに」
「あはは。そういうイメージのサークルだしね」
 隣で聞いていて、冬矢はさすがだなと思う。蒼生はこれができる人間だ。穏やかに優しくきちんと相手の話を聞いて、和やかに話を進めていく。本音では人付き合いが面倒だと思っているようにはとても見えない。それだけ頑張っているのだろう。だから自分も負けるわけにはいかない。そんな蒼生を支える存在でありたいのだから。
「講演会目当てということは、現代文学のほうが好きなのかな」
「本当はもう少し時代を遡るほうが好きだよ。硬い文章が好きで」
「なるほどね。わかる気がする」
 こちらから歩み寄ったからだろうか。構えられるのを覚悟していたのだが、木之下は比較的すんなり輪の中に入ってきたようだ。冬矢はそれでも注意深く目の前の人物を見つめる。
「おはよう」
 そこに、知っている声が頭上から降ってきた。ひらひらと手を振っているのは、覗き込むようにこちらを見下ろす神崎だ。蒼生は、恋人の空気がぴりっとしたのを感じる。
「みんなも同じ電車だったんだ」
「おはようございます、先輩」
「3日間、よろしくおねがいします」
 立ち上がろうとした健太を手で制して、神崎は4人の顔を順番に眺める。
「なるほど、知ってる声だと思ったら、早速1年同士で交流してるんだ。いいことだね。これ、よかったらどうぞ」
「わ」
 神崎が抱えていたペットボトルを1本引き抜き、冷たいそれを蒼生の頬に押し当てる。当然、健太と冬矢の目の色が変わった。
「ありがとうございます」
 蒼生は一瞬驚いた顔を見せただけで、にこりと笑って受け取る。咄嗟に蒼生を引き寄せるような行動も起こさず黙って耐えたのを褒められるべきだ、と冬矢が密かに拳を握った。健太はそんなふたりを横目で見てからさっと立ち上がって手を出す。
「すみません、わざわざ。あ、いただきます!」
 そのまま蒼生に残りの3本を渡そうとしていた神崎は、ふっと笑ってそれを健太に差し出した。
「細谷が君たちにってことだったから、礼なら細谷に言ってやって。俺は使いっ走り。……って、立ってるのも邪魔だな。それじゃあ、降りたら落ち合おう」
「はい」
 冬矢は唇を噛む。やはり蒼生は窓際にしておけばよかった。本当に、どこから刺客が現れるかわかったものではない。
 その様子に、蒼生はそっと目を落とす。正直、内心殺気立つふたりに、どう対応すべきか悩んでいた。ここまでふたりが警戒する相手は初めてかもしれない。もちろん、言う通り気を付けるつもりではあるが、どう振る舞うのが正解なのだろう。
「先輩たち優しいよね」
 ペットボトルの蓋を開けながらの木之下の言葉に、とりあえず代表して蒼生が頷いた。

 現地に到着してからは、資料館と記念館の見学時間がじっくりと取られていた。学校行事ではないので、夕飯までに各自見て回ってホテルに戻ればいいという気軽さだ。しかも騒ぐ場所でもないことから、メンバーの女子たちが遠巻きにこちらを見ているのが気になった程度で、1日目の行程は終了した。恐れていた懇親会も、学部長の肩書を持つ顧問教授が1年生の席に座ってそれぞれと話していたせいか、終始静かでおとなしい会となった。その後、教授は学会の都合で明日の講演会が終わり次第帰るということで、成人だけを連れて改めて夜の街に出発し、残された未成年はそこで解放された。
 レストランから出た4人は、そそくさと割り当てられた部屋に向かう。すると、木之下が蒼生の隣に並んだ。
「野木沢たちって意外と話しやすくて驚いた。俺とは住む世界が違うと思ってたから」
「住む世界?」
「女の子に囲まれてキャーキャー、みたいな」
「あはは、ないない。特に僕なんか、そういうの苦手だからね」
「そうなんだ。俺も不得意」
 冬矢は後ろから2人の様子を窺う。半日行動を共にしたが、やはり木之下は蒼生が一番話しやすいようだ。無理もない、聞き上手で優しい蒼生には、大体の者がそういう印象を受ける。だが神崎と違って、過剰に蒼生にだけ近付く様子はないので、ひとまずは安心だ。それに、健太がしつこく話しかけても鬱陶しがる様子を見せないし、自分に対しても臆さず話に乗ってくるので、健太の印象通り普通にいい奴なのかもしれない。
 一応リゾートホテルの肩書を持つそのホテルは、多少年季が入っているものの、ゆったりとしていて過ごしやすい雰囲気だ。廊下に面した大きなガラス窓の下は中庭になっているらしいが、今はライトで照らされた屋外プールがぼんやりと浮かび上がっているのが見えるだけだ。健太はそれを眺めながら、合宿でなければ遊びに行くんだけどな、と思う。やはり建物の中で動かないものを見ていることより、外で騒ぐほうが自分には合っている。蒼生がいるから、蒼生といたいから、という理由で大人しく出来ているだけだ。
 まもなく部屋に着くというところで、木之下が足を止めた。
「……あ。飲み物全部飲んじゃったんだった。みんなは大丈夫?」
「さっき買ったばっかだからまだ大丈夫かな」
「そうか。じゃあ、ちょっと下のコンビニ寄ってくる。これ、鍵」
「お。ありがと。行ってらっしゃーい」
 健太の手に渡されたのは、部屋番号が書かれたアクリルの棒がぶら下がる鍵だ。最近はカードキーばかりをよく目にするので、昔ながらといった風情があってなかなかいい。それをドアの穴に差し込み、回しながらドアを押す。部屋は広くない。電気をつけると、短い廊下の先にベッドが3つとソファがあるのが見えた。
 ぱたん、とドアが閉じる。同時に、蒼生が弾かれたように冬矢の腕を引いた。わずかによろけた冬矢の首に腕を回すと、そのまま勢いで唇を奪う。
「! どした蒼生、奇行出てるぞ」
 蒼生は冬矢に腰を抱かれたまま、背を捻って片手を健太に向かって伸ばす。
「健ちゃんも、健ちゃんも」
「ははっ。……ん」
 健太は求められるまま唇を寄せ、開いた隙間から舌を吸う。ふたりがかりで抱き締めてやると、ようやく落ち着いたようだ。はーっと深く息を吐いた蒼生が、頬を赤らめたままふたりを見た。
「…………ごめん。我慢できなかった」
 冬矢は嬉しそうに蒼生の髪を撫でる。
「可愛い。我慢してたんだ」
「してた……。今までも、遠足とか修学旅行とか、他の人も一緒に行動することあったのに。なんでか今日はすごくもどかしくて。ふたりといるのにくっつけないのが地味に心に来る……」
「ん。わかるよ。しんどいな。ずーっと3人で一緒にいて満足してるから、きっと足りなくなっちゃうんだな」
 それぞれに縋りつく蒼生の手をそっと撫で、ベッドに座らせる。その両隣に座ると、蒼生は両腕でふたりの腕をぎゅっと抱いた。
「ふたりだって我慢してるのに、ごめんね。僕の趣味に付き合わせてるよね」
「そんなことねえよ。……あー、ま、我慢してねえわけじゃねえけど。オレもいっぱい蒼生に触りたかったし。でも、オレ、蒼生といられるだけで楽しいんだぜ。あの記念館? めっちゃくちゃ楽しそうだったな!」
「うん、すごくおもしろかった。やっぱり肉筆って迫力が違うなって。ペンの種類もすごかった、1作ごとに新しいペンで書くのが趣味だったって聞いてたけど、あそこまで大きさも違うの使うんだなって。インクの色も綺麗だったなあ。それから資料館も、」
 きらきら目を輝かせて、蒼生は次々に言葉を紡ぐ。おそらく、その場で言いたかったのも堪えていたのだろう。ひとしきり蒼生が語り終えると、冬矢はそっと頬に口づける。
「そんなに喜んでる蒼生を見られるんだから、来てよかったと思うよ」
「蒼生が嬉しいとやっぱ嬉しいもんなあ」
「……ふたりは僕に甘い」
「甘やかしたくて甘やかしているんだから当然だね。でも、我慢させてるって思っているなら、帰ってから蒼生にはたくさん頑張ってもらおうかな」
 え、と呟いた蒼生は、すぐにふにゃりと力の抜けた笑顔になった。
「頑張るって……それは、……そういう意味の?」
 可愛い。ぎゅっと胸を掴まれたような気がして、健太と冬矢は同時に自分の胸元を押さえる。この可愛い顔を見られれば、それだけで今日1日のすべてが報われていく。愛おしい。ふたりの表情も自然と緩む。
「ああ。そういう意味の」
「……うん」
「そういう意味ってそういう意味だろ? オレも混ぜて?」
「へへ、もちろん」
 そこに、こんこん、とドアのノック音。木之下が戻ってきたのだろう。鍵がひとつしかないのはこういう時に助かる。健太は一度蒼生にキスをして立ち上がった。
「オレ開けてくるから。蒼生、顔」
「はいっ」
 蒼生は、ぱっと凛々しい顔になる。その変わり具合がまたあまりにも可愛くて、冬矢はその頭を撫でてから窓辺に歩み寄る。その先には海があるはずだったが、部屋の明かりが反射しているせいか、足元の店の明かりくらいで何も見えなかった。今すぐ蒼生を連れ去りたい衝動に耐えるには、このくらい空っぽの景色のほうがちょうどいい。
 3人は何事もなかったように木之下を迎え入れる。彼も今までこの部屋が甘い空気で満たされていたなんて考えもしないだろう。そうでなければ、さらりとこんな提案をしてくるはずがない。
「今、通りかかったら、大浴場がちょうどすいてるみたいだったよ。よかったら一緒に行かないか?」
 へえ、と真っ先に健太が反応した。
「広い風呂あるんだ」
「合宿のしおりにも書いてあったけど、さては寺田、読んでないな」
「あはは、細かいとこまではねー。一応全部の流れ的なやつはちゃんと読んだよ?」
「たしかにそれで充分かも。……で、大浴場なんだけどさ。実は……俺、視力悪くて眼鏡外すとよく見えないんだよね」
「ああ、なるほど。そういう理由もあるのか。俺たちは裸眼だから想像するしかないけど、たしかに大浴場で見えないのは大変そうだ。普段はどうしてるの?」
「いつもは壊れてもいい眼鏡を持ってくるんだけど、今日は忘れちゃってさ。だから助けてくれると嬉しいなって」
「とか言って、木之下もしおり読んでないんじゃねえのー?」
「読んだ……はずなんだけどなあ」
「ははは。じゃ、せっかくだし行こっか」
 なんとなく全員で行く雰囲気になって準備を始めたところで、健太と冬矢が気付く。こういう時、最初に無邪気に了承するはずの蒼生がまだ何も発言していない。同時にふたりの視線を受けた蒼生は、バッグの中を探る手を止め、笑顔を返した。そしてふたりが口を挟むより早く、小さくまとめた袋を抱えて木之下のもとに近付く。
「準備できた? 行こう」
「うん」
 どうやら何か言いづらいことがあるらしい。
 やってきた大浴場には、時間帯のせいか、小さな子供を連れた家族2組と、楽しそうに語り合う中年の2人がいるだけだった。若者の宿泊客は自分たちのサークルだけではないはずだが、先輩らのように遊びに行ってしまっているのかもしれない。人目はゼロではないが、少なくとも知り合いがいないだけでも気が休まるのはたしかだ。
 眼鏡を外した途端にふらついた木之下が、蒼生に支えてもらって踏みとどまる。
「木之下くんて、視力、そんなに悪いの?」
「そうなんだよ。特にこういう湯気とかあるとよけい見づらくて……段差があったんだね」
 木之下の腕を掴んだまま、ちらっと蒼生が冬矢を見る。何かと思って近付くが、それで満足したのか、蒼生は何も言わない。
 洗い場では、当然のように健太と冬矢が蒼生を挟んで座る。健太はタオル1枚を決して手放さない蒼生が気になるが、こうして蒼生の隣にいることについては楽しくて仕方がない。並んで体を洗うなんて、相当広い洗い場がないと不可能だ。蒼生は修学旅行でも家族旅行でも内風呂があれば必ずそちらを選択するから、最後にこんなふうにしたのは中学1年頃の家族で行った山間の……。
 そこまで考えて、ひとつ思い出したことがある。あれはたしか小学5年生の学校行事、スキー合宿の時だ。班が違ったため入浴時間が健太とずれた蒼生は「風邪っぽい」と言って大浴場には行かなかった。あの丈夫な蒼生が風邪? と心配したから記憶に間違いはないはずだ。
 考え込みながらも、健太は隣の木之下のサポートをする。シャンプーの位置を教えたり風呂桶をずらしたり、意外に手間がかかる。木之下はそれを申し訳なく思うらしく一応遠慮するのだが、どうしても隣であたふたされるとつい手が出てしまう。しかも、
「ありがとう、寺田。助かったよ。あそこにあるの、サウナかな。ちょっと行ってくる」
「ああ、そうみたいだな。……えっ、ちょ、危ないって」
 急に立ち上がったかと思うと、向こうに見えるガラス窓付きの木製のドアに向けて歩き出す。その一瞬の隙に、自分の座っていた椅子に躓きかけた木之下の腕を、健太は慌てて掴んだ。
「もー、介助いるじゃんー。これ、あれだぞ、出る時も声かけてくれよ?」
「寺田は頼りになるな」
「おまえが頼りにならないだけじゃね?」
 木之下と一緒に歩き出した健太を見て、蒼生がさあっと顔色を変えた。
「健ちゃ……っ、おいてか……っ」
「蒼生」
 そっと膝に手を置くと、蒼生の肩から力が抜ける。
「っあ、冬矢……」
「健太じゃなくちゃだめ?」
「ううん、ごめん、違うんだ、ちょっと慌てちゃっただけ。えへへ。大丈夫」
 今の健太の行動に対してだけではない、木之下が大浴場の話題を出してからの緊張感も同時に抜けたようだ。それは近くにいるのが冬矢だけだからかもしれない。ふにゃ、と表情を崩し、はっとあたりを窺って視線がないことを確認してから、穏やかな外向けの顔をする。この状態の蒼生相手では、さすがに劣情を表に出すわけにはいかなかった。
「……浴槽のほう、行こうか」
「うん、行く」
 誘うと、素直に頷いた蒼生がついてくる。浴槽の湯は白く濁っている都合のいいタイプだ。温度もぬるめで、落ち着くにはちょうどいい。子供たちが楽しそうにばしゃばしゃと飛沫を上げるあたりからは少し外れ、ふたり並んで浴槽に体を沈めたところで、木之下を送った健太が戻ってきた。
 ざぶんと波を作った健太は、それに揺らされて笑う蒼生にいきなり詰め寄る。
「蒼生、大きい風呂苦手なの?」
「バレたか」
 蒼生はなんでもないことのように、さらっと白状した。冬矢も身を乗り出す。
「そういうことだったのか。無理しなくていいのに」
「苦手だからってずっと避けてるわけにもいかないなあと思って。たぶんふたりがいたら大丈夫だと思ったし、ふたりがいたからほんとに怖くなかった。よかった」
「中2の校外学習で一緒に入ったよな?」
「うん。あれも、冬矢と森くんがいたから」
 蒼生は肩まで湯につかり、ふんわりした眼差しでふたりを見上げる。
「頑張れば頑張れるもんだなあ。……だけど、やっぱ、離れるのはちょっと嫌かも」
「……んー。まあなんにせよ、近くにいてくれんのはオレも助かるからいいけど」
「そうだね。蒼生の肌を誰にも見せたくないと思うのは俺も一緒だから」
 健太は見えない湯の中で、そっと蒼生の腰を抱く。
「でも、頑張るのはいいけど、無茶は違うと思うからさ。なんかあったらオレたちにはちゃんと言って?」
 蒼生がぱちぱち、と瞬きを増やす。
「……うん。わかった」
 蒼生の両手をふたりで掴むと、ようやく自然な笑顔が戻った。
 子供たちがはしゃぐ声を聞きながら3人でのんびりしていると、向こうのほうでサウナのドアが開くのが見える。慌てて健太が立ち上がった。
「やべ、あの危なっかしいの迎えに行ってくるわ」
「あはは。いってらっしゃーい」
 今日1日ですっかりイメージが定着してしまった。彼は、真面目で一見とっつきにくいが、根は単純でおっちょこちょいだ。目を離してはいけないタイプらしい。健太に連れられて浴槽に来ても、遠くを見ていて目が合わないのが面白い。
「ああ、お湯はわりと冷たい?」
「サウナであったまってきたからじゃねえ?」
「なるほど。交互に入るといいのかな」
 それに、ちょっと天然かもしれない。蒼生と冬矢は目を見合わせて笑った。


 翌日、午前中の講演会が終わって、午後はレクリエーションの時間になる。各自、水着に着替えてから集合、ということだったのだが。
「というわけでー、偶然同じホテルに宿泊していたテニスサークルのみなさんと合同でレクリエーションを行うことにしまーす」
 蒼生と冬矢は集団の後ろのほうで、見事な外面でにこにこと笑っている。隣の健太は、近くの店先から漂ってくるトウモロコシの香りに気を取られているようだ。
「……ねえ蒼生。同じ大学のサークルが偶然同じ日に同じ宿泊先になると思う?」
「あんまり思わない、かなぁ……」
「オレさっき聞いたんだけどさ、3年の先輩の彼氏さんがいるサークルなんだってさ」
「最初からそういうことだったんだろうな」
 なにやら向こうは女性のほうが多そうだ。それに加えて一気に人数が増えたのもあり、急速に「帰りたい」空気を進行させているふたりを眺め、健太も困ったように笑った。
「オレも、今日のピーク既に終わっちゃってるからな。自由時間になったらとっとと消えようぜ」
 レクリエーションに取られた時間は長いものの、前半のみ全員参加であとは自由参加になっている。今思えば、仲良くなって自由に遊ぶための時間ということなのだろう。
 蒼生が健太を見上げる。
「ね、今日のピークって? 講演会はたしかにものすごく興味深くて面白かったけど、健ちゃん寝てたよね?」
「もっと前だよ。今朝さ、蒼生、オレに抱きついて寝てたじゃん。目が覚めた時めちゃくちゃ嬉しくてさー。あれがピーク」
「えっ。……ピークが1日の頭じゃ早すぎることと、まだそのこと言うのってことと、無意識だったんだから忘れてってことと、どこを中心に突っ込んだらいい?」
「突っ込まなくていいです」
「やっぱり今夜は配置を考え直したほうがいいな」
「おまえのほうに行かなかったから妬いてんだろ」
「まあな」
「ひぇ」
 部屋にあったのは通常のベッド3つとソファベッドだった。そのため、ソファベッドに誰が寝るかは話し合おうとしたのだが、普段床に布団を敷いて寝ているという木之下が、一番硬いソファが寝やすいと申告した。それで3人は普段の並びで寝たのだが、いつも通り健太が一番早く起きると、腕に抱きついて蒼生が眠っていたのだ。健太が驚いて起き上がり、それで目が覚めた蒼生自身も驚いていた。木之下がまだ寝ていてよかったと心底思った3人だ。
「気を付けてたはずなんだけどな……。ふたりとの間もちゃんと空けてたし」
「たぶん本能が寂しいって言ってたんだよ」
「ほ、ん」
「あのままめちゃくちゃに可愛がりたかったのになー。そのオレが選んだ水着も、ホントは今すぐ抱き締めて可愛い可愛い大騒ぎしてえのにさ。不自由だ~」
「……見慣れるためって言って家で何度も着させたじゃん」
「見慣れるわけねぇだろ常に新鮮に可愛いわ」
「えぇ……」
「ともあれ、今日が午前で終わりだったらどれだけよかったろうな」
 冬矢の言葉に、蒼生と健太は深く頷いた。
 両部長からの挨拶が終わると、なんとなく各サークルでまとまっていた円がばらばらになる。この隙にどこかに逃げられないかなとぼんやり思っていると、木之下と1年女子の3人がこちらに気が付いて近寄ってきた。
「ああ、ここにいたんだ。姿が見えないからどうしたかなと思ったよ」
「んー、あはは」
 健太が曖昧に笑う。
「すごいよ、ほら、ビーチバレーのコートが出来てる。先輩たちがめっちゃやる気なの」
「とりあえずランチしながら見てていいらしいし、野木沢くんたちも一緒にごはんしようよ」
「そうだね」
 にこりと蒼生が答える。そう答える以外に選択肢はないだろう。
 だが、こうして囲まれるのも以前よりしんどくはなくなったと思う蒼生だ。授業でも班が変わるたびほぼ知らない人と話しているせいもあるのだろうが、耐えるだけだった他人との会話を、普通にこなせるようになってきた気がする。もしかすると、健太と冬矢と暮らすようになって、1日に1度は必ず息を抜けるようになった。その余裕が現れてきたのかもしれない。ならばふたりに心配されないように、普通に他人と話が出来る自分を見せていこうと蒼生は張り切っている。実はその行動こそが、他人の蒼生に対する好意を押し上げる結果になっているのを理解しているふたりに、余計に心配をかけているとはまだ蒼生は知らないままだ。
「わー、すご、先輩ムキになってるー」
「あはは、がんばれー」
 女子たちの応援に笑いながら、その間でオレンジジュースを飲んでいる蒼生を見る健太と冬矢は、気が気ではない。
「今回、合宿が海だって聞いてびっくりしたの。だって読書と海って関係なくない? でもせっかくだから新しい水着買っちゃった。どう?」
「綺麗だよね。オレンジの鮮やかな花柄がすごく似合ってる」
「の、野木沢くん、私は?」
「らしくていいなと思うよ。フリルとパレオがすごく可愛いね」
 これが素なのだ。無意識でこれだ。この前水着を買いに行くまで、パレオなんて言葉すら知らなかったというのに。どんな時も出来るだけ相手のいいところを見つけて褒めようとするのが、小さい頃からの蒼生の処世術だった。それは男女問わずなので男子でも同様なのだが、こうして感想を聞きに来るほとんどが女子だということもあり、女子に甘いように見えてしまう。
 冬矢には、それでやっかんだ男子が自分も褒めてみろと蒼生に詰め寄って、蒼生が不思議そうにしながらも彼のいいところを褒めまくった結果、蒼生に恋心を抱くまでになってしまったという苦い思い出がある。近くですべて見ていたので、もちろんすぐに撃退したが。そのためやむを得ず、冬矢も会話に参加する。女子を褒め、話を聞く。あまり蒼生に目が集中して、惚れられるようなことがあっては面倒だからだ。
 ちなみに、当の蒼生はそんな会話をしながら「この子の名前なんだっけ」と思っている。
「おーい、1年。のんびりしてんなあ」
 先輩が苦笑いをしながら、1年に占領されたパラソルのもとにやってくる。
「あ。見てましたよ、さっきのブロックすごかったじゃないですか」
「ホントに見てたかあ? ちらっと見たけど、寺田おまえ、トウモロコシに夢中になってたじゃないか」
「見てましたって! トウモロコシ越しでしたけど!」
 どっと女子が盛り上がる。仕方ない奴だな、と先輩は頭を掻く。
「ところで、次、誰か出てみないか? 一応1年生の歓迎会も兼ねてるしな」
「えぇえ、私ちょっと苦手ぇ」
「うん、だよなー。うちのサークルの趣旨考えると、あんまり得意な子いないよな。とはいえ、一組でいいから、形だけでも」
「オレ、出ます!」
 手を挙げたのは健太だ。蒼生の側から離れたくないのが本音だが、運動が得意な者はいないという言葉に少々引っかかったらしい。たしかに、健太はそもそも体育会系の人間だから、出番としては最適だろう。冬矢の隣にいた女子も健太を見て立ち上がる。
「じゃあ私、寺田くんのパートナーになるっ!」
「よっしゃ、あっちのサークルに目にもの見せてやろうぜ!」
「おー!」
 ちら、と蒼生が目を上げた。
 前の試合が終わったらしく、わっと歓声が上がる。なるほど、全体的な流れでは完全にこっちのサークルが押し負けているようだ。なんとか追加の1勝が欲しいところらしい。文化部と運動部で争おうというのがまず間違っているような気もするが。
 木之下と残りの女子も健太たちの出番とあって前に見学に出て行く。蒼生はその背を表情もなく見送った。
「蒼生はいいの? 健太の応援したいんだろ」
「えっ? あー、したい。けど、素が出そうで怖い」
「はは、夢中になって可愛い応援しちゃいそう?」
「かっ……。それはどうかわかんないけど、昔から体動かしてる健ちゃん見ると、なんか、胸がぎゅってなって……」
 冬矢はふっと笑って蒼生の肩をぽんと叩いた。
 ふたりだけになったパラソルの下からも、試合の様子は見える。遊びのようなものだから、笑いながら跳んだり跳ねたり、ボールがあっちへ行ったりこっちへ行ったりと楽しそうな雰囲気だ。そんな中でも、健太はきっかり点を重ねている。
「……あいつ、結構真剣にやってるな」
「たっか……。え、あんなに高く跳べるもの? 相手チームと比べものにならないじゃん。あ、また入った。わー、すご。かっこいい」
「自慢の彼氏だもんな。蒼生、可愛い顔出てる」
「えええ? うー、やっぱり前に出るのは無謀だったね……。けど、今僕は、動の彼氏と静の彼氏の間でどっちに視線をやったらいいか真剣に悩んでるとこですよ。どっちも自慢の彼氏なので」
「ふーん……」
 それだけ言うと口元を隠して片肘をテーブルにつく冬矢を、蒼生はちらりと見る。冬矢はそれに視線だけを返した。
「……蒼生、上手になったね」
「本音ですけど」
「今すぐ連れ去って逃げたい」
「僕だって連れ去られたいよ」
 蒼生が言葉にわずかに溜め息を混ぜたのは、明らかにこちらを目指して歩いてくる女子たちに気が付いたからだ。冬矢も蒼生の視線の先を辿ったらしく、すっと眼差しの温度を下げる。
「こんにちは。読書サークルさんのとこの1年生だよね?」
「はい」
「今バレーやってる男の子と一緒にいたでしょ。私たち2年で1個先輩だよ。ねえ、なんだかみんなスポーツ好きそうじゃん。うちのサークルにも入らない?」
「あはは、勧誘ですか?」
「んー、表向きはそうかもね?」
 サークルにも色というものがあるのか、こちらの女子の皆さんは一段と華やかな集団だ。プロポーションもまた抜群で、本人らもそれを理解しているせいか、自信に溢れてキラキラとしている。彼女募集中の男子だったら天国のような状況なのだろうが、生憎ふたりは恋人しか目に入らないので、アタックするだけ無駄だ。それをわかってもらえればいいのだが。
 蒼生は彼女らの隙間からあたりを窺う。すると、隣のパラソルの下にいた同サークル3年の男子と目が合った。彼はぎょっとした顔でこちらの状況を見ていたが、蒼生がにこりと笑いかけて指先を招くように動かすと、意図が通じたらしくぱっと立ち上がった。そして、そこにいた2人を連れてこちらへやってくる。
「あれー。うちのルーキーの引き抜きぃ?」
「あははは。やだぁ、バレちゃいました?」
「ホントにそれだけかなあ」
「え、どういう意味です~?」
 楽しそうな会話が始まり、蒼生はほっとする。明らかにそういう目的で近付いて来た者には、そういう目的を持っている者に相手をしてもらうに限る。性格の悪い考え方かな、と一瞬思うが、お互いの目的が一致しているならいいか、という結論に達した。2年と3年に囲まれて座っているのもおかしいと思って立ち上がると、すぐに女子がそこに2人座る。完全に居場所を失ったのは逆に有難い。ここを離れるきっかけになる。
 できれば一緒に冬矢を連れて行きたかったのだが、囲まれて矢継ぎ早に質問を受けているらしく、声をかけづらい。それに、ここで冬矢を引き抜いては完全に空気を悪くするだろう。とりあえずいったんこの場を離れ、あとで助けに戻ることにした。
 サークルで確保しているパラソルの下には、クーラーボックスが置いてある。そこにはミネラルウォーターや清涼飲料水が入れてあり、熱中症対策で好きに持っていっていいということになっていた。さっき甘いものを飲んだので、口の中をさっぱりさせたい。蒼生は氷水の中に浮かぶミネラルウォーターのペットボトルを取ると、少し考えてからもう1本取った。3人で飲むなら2本は必要だろう。直で飲み物のやりとりができない面倒なふたりがいる以上は。
「野木沢」
 声をかけられて、はっとして振り向く。過剰に反応したのは、それが神崎の声だったからだ。
「先輩も休憩ですか」
「ああ。ビーチバレーは初めてだったけど、足を取られるから結構体力使うんだな。でもなかなか楽しかったよ。野木沢は参加しないの?」
「見ているほうが好きです」
 神崎がビーチチェアに座ったので、蒼生はとりあえず持っていたペットボトルを渡す。
「ありがとう。そうなんだ、運動神経は良さそうだけどね。それとも女の子たちと話してるほうが楽しいのかな。今も囲まれてただろ」
「いや、それは……」
「誤魔化さなくてもいいよ。清潔感のある男子はモテるもんな。きっかり処理してきてるじゃないか。ほら、綺麗な脚だね」
「やっ……」
 突然、ふくらはぎをさらりと撫でられて、思わず声が漏れた。はっとして手で口を覆う。神崎はすうっと目を細める。
「……驚かせてごめん。あんまりにも手触りが良さそうだったから」
「ご、ごめんなさい、その、人に触れられるの得意じゃなくて。それに、その、普段から身だしなみとしてしてるだけで、モテたいとかそういうことじゃないです。そういうの、いらないので」
「へえ?」
 ばくばくと心臓が大きく脈打っているのがわかる。不意の出来事で、一瞬だったとはいえ、ぞっとした。あっという間に体が冷えた気がする。戻ろう。早く。
 神崎が、蒼生の手首を握った。
「ぇ」
「次はサークル対抗スイカ割りだってさ。そういうのなら体動かすことでもないし、参加してもらえるよな」
 蒼生は混乱する。はっきり言ったはずだ。「人に触られるのが得意じゃない」と。それでもこの人は腕を掴んだ。
 そのまま神崎は立ち上がると、残った手で蒼生の肩を抱く。ざわっと体中の毛が逆立つ感覚。
「せんぱ……っ、手、お願いします、離して……」
「面白い反応するね。このくらいなら大丈夫だろ?」
 ぐいっと手に力を入れられて、よろけた足は前に進んでしまう。するとイベントのために開けられた場所に押し出される格好になる。
「それじゃあ、トップバッターはうちのサークルの期待の1年生が務めますね」
「……っ」
 人の目が一斉に集まる。ひゅっと息が詰まる。慌てて見上げた神崎は、何の悪意もない顔で、にこにこと笑っていた。
「これだけ注目されて、やめますって言ったら印象悪いと思わない?」
 わいわいと先輩たちが集まってきて、神崎はその手を離した。今の行動は蒼生をここに引っ張り出すためだったのだろうか。だが、手が離れれば大丈夫だ。蒼生はふうっと息を吐いて、周りに笑顔を向ける。注目されるのは得意ではない、だが、出来る。いつものように、ただ行事をこなせばいい。周りに楽しんでもらえればいい。
「蒼生っ」
 慌てて駆けつけてきたのは冬矢だ。心配そうに蒼生の側に寄る。
「おお、笹原。野木沢がトップ張ってくれるってさ。応援してやってくれよ」
 明るい先輩の声に、蒼生も笑ってみせる。
「なりゆきでこうなった。ちゃんと割れるかな」
「蒼生……」
「それじゃ、目隠しな」
 冬矢との会話を遮るように、アイマスクを持った神崎が蒼生の前に立つ。蒼生が自分でやろうとするのを押しとどめ、正面から蒼生にそれを付ける。
「…………?」
 ぴた、と蒼生が動きを止めた。
 冬矢がすぐに気付く。
 わずかに間をおいて、蒼生は見えない目できょろきょろとあたりを窺いだす。肩の線で、息が荒くなったのがわかる。小さく開かれた唇が震えている。おかしい。割って入って腕に触れると、肩がびくりと大きく跳ねる。
「蒼生」
「あ、冬矢、か」
 ほっとしたような声。
「なんか、急に、怖い、気がして。でも、大丈夫だよ。大丈夫」
「大丈夫って……」
 冬矢が黙ると、再び蒼生の肩が強張る。これのどこが大丈夫だと言うのだろう。蒼生の大丈夫、は自分への発破でしかない。唇を噛むと、視線を巡らせてその輪から抜ける。早足で向かうその先には、奥に戻ろうとする健太の姿があった。
「健太」
「あれ。蒼生はどした?」
「……引っ張って行かれた」
「は? って、次、スイカ割りとか言ってたけど、それ?」
「それだ。だが蒼生の様子がおかしい。怖いって言ってる」
「怖い?」
「とにかく、ゴールのほうに行ってくれ。蒼生に指示を出すのはおまえがいい」
「わかった」
 すぐに状況を把握した健太は、ひとつ頷くと、セッティングが始まっている向こうの人だかりのほうへ駆けて行く。それを見て、冬矢も踵を返した。
 スタート地点では、既に蒼生がひとり立たされている。周りからの「頑張って」という無邪気な黄色い声ににっこり笑っているが、小さく唇を噛んでいる。泣きそうな顔だ、と冬矢は胸が痛くなる。
「蒼生」
「ぁ、とぉや……」
「向こうに、健太がいるから。他の声は聞かなくていい、健太の声だけ聞くんだ」
「う、うん」
「俺もここにいる。何かあったらすぐに駆けつけるからね」
「……うん」
 何人かはふたりのやりとりを不思議そうに見ていたようだが、他の者はイベントごとに夢中で気にしていない。むしろそれでいい。
 スタートの号令が響き、わあっと皆が騒ぎ出す。右だ左だ、と、敵味方入り乱れて適当な指示が飛び交う。そこに。
「蒼生、こっち!」
 ぴくっと蒼生の肩が揺れた。
「こっちだよ、蒼生! おいで!」
「……健ちゃん」
 ほっとした声が漏れる。一度聞いてしまえば、冬矢に言われるまでもなく、健太の声しか聞こえなくなった。健太の声だ。記憶の底からずっとある声。
「ん、そうそう、そのままそのまま。いいよ。まっすぐおいで。うん、もう少し。そうだよ。あと1歩。そう。そこで手を挙げて。もうちょっとオレのほうに体向けて。よし、オッケー」
 健太の合図で、手に持った棒を振り下ろす。ぱしん、と音がして、歓声が大きくなった。
「おー! 一発じゃん!」
「真ん中じゃなかったのが惜しいけど、当たったからうちのリードだな!」
 その声に、もういいんだ、と蒼生はアイマスクを勢いよく剥ぎ取る。足下には、片側がわずかに削れているスイカが転がっていた。
「お疲れ様ー!」
 先輩の女子が駆け寄ってきて、手を伸ばす。蒼生は笑ってその手に棒を押しつけ、すごいすごいとかけられる声をかいくぐって、笑顔の健太に引き寄せられるように歩いて行く。
「頑張ったな」
「健ちゃん……」
 その手を取った途端、膝から力が抜けた。
「よし、ちょっと離れような」
 健太は事もなげに蒼生の腕を支えると、輪を抜けるように歩き出した。

 日陰を探して、いくつも並んだ海の家の間に入る。そこまできちんとついてきた蒼生は、人の目がなくなったとわかって気が抜けたのか、膝から崩れ落ちた。
「蒼生!」
「蒼生っ!」
 そこに駆け付けた冬矢とふたりで、座り込んだ蒼生を慌てて覗き込む。蒼生は真っ青な顔で、両手で口を覆っていた。その手も肩も震え、見開いた眼で折った膝の少し先の砂をただ見つめている。
「…………?」
 小さく首が傾く。蒼生自身も何が起きているかわかっていないようだ。
「……蒼生」
 健太が優しく話しかけると、揺れた瞳がわずかに上を向いた。
「ぅ……わかんない。わかんない。なに……? きもちわるい……」
 そっと冬矢が頭に手を乗せる。すると、蒼生の体から少しだけ緊張が抜けたようだ。
「蒼生、深呼吸」
「うん……」
「上手だね。それから、ゆっくり見てごらん。今、蒼生の目の前にいるのは誰?」
「? 冬矢と健ちゃん……」
「そう。俺と健太だ。蒼生は安全な場所にいる。他の誰の手も届かない。だから大丈夫だね」
 虚ろだった目に、さあっと霧が晴れるように光が戻る。蒼生はその目をぱちぱちと瞬かせた。
「あ、れ。治った気がする。あれ?」
 冬矢が、はーっと息を吐いて、頭に乗せたままの手でそっと髪を撫でる。
「もしかしたら暑かったからかもな。涼しいところで休んだほうがいい」
「……そっか、暑かったからか」
「健太、蒼生を。俺は部長に一言言ってくるから」
「あ、わかった」
 健太は蒼生の手を引いて立たせる。その手はいつもの暖かい手だ。さっき握った時は、氷のように冷たかった。あんな温度は初めてで、正直、とても怖かった。……初めて? いや、知っている気がする。ぎゅ、と健太は指に力を込めた。
 きちんと冷房が完備されていそうな海の家を見繕って中に入る。やはり天気もいいし、ほとんどの客は店先で買って浜辺に戻っていくせいか、店内の客はまばらだった。一応横になってもいいように、奥の板敷きの席を選ぶ。すだれがかかって視界が遮られたそこは、隣の席との間にもすだれがあり、半分個室のような状態だ。蒼生はそこに入ると、長く息を吐いて、壁にもたれかかった。
「あー、涼しい。やっぱり暑かったのと、水分少なかったかな」
「……そうかもな」
 健太が頬に触れると、蒼生は嬉しそうに表情を崩す。だいぶ顔色も戻ってきたようだ。
 それからまもなく、健太から店名の連絡を受けていた冬矢が、すだれを上げて入ってくる。
「蒼生が熱中症かもしれないって伝えてきたよ。このまま自由行動にしていいって」
「ありがと。よかった」
 ほっとしたように息を吐くと、蒼生は体を起こした。ふたりがはっと身構える。
「どした?」
「ちょっとトイレ」
「まだふらつくだろ。ついて行こうか」
「あはは、大丈夫」
 先程のやりとりで信頼度が地に落ちたはずの「大丈夫」を口にし、蒼生は厨房裏にあるトイレに向かってふらふらと歩いていく。あの様子では心配するなというほうが無理な話だ。ふたりは、じっと蒼生が消えたドアを見つめる。
 その体勢のまま、健太が冬矢に顔を向けた。
「……なあ、これ、どういうことだと思う?」
「俺も専門家じゃないんだがな。……ただ、状況を見ると、明らかに蒼生の様子が変わったのは、視界を閉ざされてからだ。人の気配や話し声に怯えているようだった。俺が話しかけている時だけは落ち着いていたと思う」
 健太は首を捻る。
「スイカ割りなんて、それこそちっちゃい時は家族でもやってたんだぜ。その時は目隠ししても、上の奴らにぐるんぐるん回転させられてふらふらしてても、にこにこしてて。……いや、今思うとあれが平気だったかどうかもわかんねえけど、少なくともさっきみたいな状態にはならなかった」
「……そうか」
「あ、でも、ちょっと前、目隠ししたら急に蒼生が不安がったことがあったな」
 ぎらりと冬矢の目が光る。
「は?」
「っ、いや、合意の上! 合意の上!! それまではちゃんと蒼生も楽しんでたんだよ。なのに、目の上にタオルかけたとたんに心細そうになったんだ。もちろんすぐ外したさ。言われてみりゃ、たしかにオレとしゃべってる時はほっとしてたかも。蒼生本人もなんでだかわかんないみたいで、それっきり気にもしなかったんだけど」
 冬矢は腕を組んで深く息をついた。
「周りに誰かいる状況で……その誰かを自分では把握できない時にパニックになるのか……? はっきりしているのは、蒼生本人が制御できないほど、恐怖としてそれが深く刷り込まれているということか」
「んー……。知らない人に触られそうなのが怖い、とかか?」
「……それが、小さい頃の蒼生にはなかった、と」
「てことは……。やっぱ」
「フラッシュバックか」
 会話が途切れる。ふたりの脳裏をよぎっていたのは、あの校舎裏にあった古い倉庫での出来事だ。薄暗く埃っぽい閉ざされた空間で襲われた蒼生。あの場面は、今でもふたりの中に、重く苦しい光景としてこびりついて離れない。自身の記憶を根底から揺るがすほど、吐き気を催す最悪の場面。あの空気を思い出すだけで恐怖がはっきりと蘇る。だが、蒼生はそれより強烈なダメージを受けたはずだ。蒼生はもうなんでもないと笑うけれど、一番傷ついたのは間違いなく蒼生だ。蒼生自身が気付かない場所で傷が膿んでいたとしても不思議ではない。
「……やっぱりあいつ、潰しておけばよかった」
「おまえらしくないことを言うよな。あれ以降手ぇ出してこなかった以上、潰したとこで蒼生に起きたことをなかったことには出来ねえだろ」
「…………。わかっている。わかってはいるが」
「そりゃオレだって……許せねえけどさ」
 あれがどこの誰だかは調べはついている。が、脅しが効いて、明らかに3人を避ける動きをしていた相手を、わざわざ追い詰めるのは得策ではない。反撃にあう可能性も大きいからだ。だが、だからといって、それですべてが許せるはずはない。おそらくこの先も許すことはないだろう。こうして蒼生に傷が残っていることがわかってしまったからには。
「……オレらに出来ることは、これ以上刺激しないことくらいか……」
「そうだな。……なんとかこれも上書き出来ればいいんだが」
「ああ。その方法を考えていくしかねえんだろうな」
 そこに、ぱたんとドアを開けて、蒼生が出てきた。ふたりは目配せをすると、深く息を吸い、表情を整えた。ここで自分たちが暗い顔をしていては、蒼生は余計に気にするだろう。
「ただいま」
「ん、おかえり」
 蒼生はにこにこと笑っている。まだ本調子ではなさそうだ。わずかに他人行儀な笑顔は、気を張っていないと駄目だという証拠だ。
「吐くかと思ったけど大丈夫だった」
 健太ががくりと肩を落とす。
「吐くかと思った時点で大丈夫じゃねえだろ……」
「あはは」
 誤魔化すように笑った蒼生がサンダルを脱ぎ捨て、一段高くなった床にぽすんと座る。それからぐーっと手足を伸ばして、壁に再び寄り掛かった。
「それで、ふたりはどうしたの? ちょっとぴりぴりした空気だけど」
 ぐっと健太が息を呑む。やはり隠しきれないか。対する冬矢は、はーっと息を吐いて、笑う。
「俺たちの心配をしている場合じゃないだろ。蒼生のことを心配していたんだよ」
「……あ。そっか、だよね、ごめん」
「わ、謝んないでって。しょーがないじゃん、な、暑い中で他人がいっぱいで緊張しちゃったら、そりゃ体調も崩すよな」
「そうだよ。仕方ないよ。ああ、少し冷たいものでも食べようか。落ち着くかもしれないし。いきなり体を冷やすのもいけないから、分けっこして食べよう」
 蒼生の具合の悪さは、おそらく心情から来るものだ。気分を変えたほうがいいはずだと考えた冬矢の提案に、蒼生はぱっと顔を輝かせる。
「いいね! 食べる!」
「ってことは、焼きそばかイカ焼き?」
「えっ。健ちゃん?」
「あっはは、冗談冗談。んー、やっぱかき氷かなー。いちご、メロン、レモンとか……へえ、サイダーとかオレンジとか抹茶とか、いろいろあるぞ」
「びっくりした、健ちゃんのことだから本気かと思った。……うー、いっぱいあるんだね……。健ちゃんと冬矢は……」
「蒼生がメインなんだから、蒼生が好きなもん選ばねえとダメだろ」
「……うー…………じゃあ、いちご」
「おっけ」
「うー」
 選び終えてもまだ悩んでいる様子に、健太と冬矢は胸を撫で下ろした。
 やがて3人の真ん中に、どんっと山盛りの氷が置かれた。原色で波と太陽が描かれた大きめのコップから溢れそうな、目に眩しい鮮やかな赤は、いかにも夏らしい色彩だ。
「早く食べないとすぐ水になりそうだな」
「わー、食べよ食べよ」
「三方向からだからな、崩さないように気を付けないと」
「よし、いきまーす。……冷たっ」
「うわー、これキーンってなるやつだろ」
「でも美味しいね」
「蒼生、そっち零れそうだよ」
「え、あ、健ちゃん、ヘルプヘルプ」
「任せろ」
 インパクトのあった大きさは、3人がかりで立ち向かっていくと、みるみるその体積を減らしていく。蒼生のために買ったものだが、健太が遠慮なく口に運ぶのを見て、蒼生はとても嬉しそうだった。
 最後に残った赤い冷水をぐーっと飲み干して、健太がぱんっと手を叩く。
「ごちそうさまでしたっ!」
「はー、さっぱりした。けど、勢いよくいったから舌が冷たい。しゃべりづらい」
 笑って蒼生が舌を出す。普段より赤みが強いのは、シロップの色のせいだろう。健太は蒼生にぶつかるほど近付くと、その舌をぺろりと舐め上げた。
「!?」
「お、ホントだ。冷たいな」
「どれどれ」
 冬矢も反対側から近付き、蒼生の舌を吸って自分の口の中に招き入れる。
「? …………!?」
「……っふ。だいぶ暖まったかな」
 蒼生はぱちくりと目を見開きながら、頬から耳までを真っ赤にする。
「そっ……外っ、なのにっ」
 小声で抗議しながら、蒼生はふたりの上着の裾を掴んだ。
「すだれかかってるから見えないって、大丈夫」
「あっ……あと、ふたりの舌も冷たかったんだけど!」
「じゃあ、あとでもっとあったかいの、しようね」
「…………っ、それは、……する」
 するのか。ぎゅうっとその手に力が入るのを、ふたりはようやく落ち着いた気持ちで眺めた。

 夕食は、例のテニスサークルと合同での宴会になったらしい。そんな急に予定は変更できないだろうから、これも決まっていたことなのだろう。
 先にホテルに戻っていた3人は、ロビーで宴会の準備のために他のメンバーより早く帰って来た細谷の姿を見つけた。ソファから立ち上がると、細谷はすぐ気が付いて駆け寄ってくる。
「野木沢くん! 大丈夫? 熱中症って聞いたけど。ごめんね、部長の自分がちゃんと見てあげられなくて……」
「いえ、ちょっと熱気にあてられただけみたいで、少し休んだら楽になりました」
「あー、ほんと? それはよかった。食事はどうかな。食べられそう?」
 もともと蒼生を宴会の場に出したくないふたりにとって、それはありがたい質問だった。ロビーで寛いでいたのは、それを頼むべく細谷を捕まえたいと思っての行動でもあったのだ。
「せっかくなのですが、もう少し休ませたいと思います」
 えっ、と声を上げたのは蒼生だ。
「冬矢、僕、平気だよ」
「駄目。大事を取った方がいい」
「そうだよ。きちんと治しとかないと、明日の電車もしんどいだろ」
「健ちゃんまで……」
 細谷は3人を笑顔で見て、うんうんと頷いた。
「2人は心配性なんだね。でも、その通りだと思うよ。じゃあ、2人も一緒に?」
「はい、適当に済ませますので、すみません」
「わかった。みんなにはそう言っておくね。野木沢くん、明日の午前中は希望者のみの周辺散策だろ。ぜひ君を……君たちを連れて行きたいところがあるんだ。だから、ゆっくり、早めに休んで明日までに元気になってね」
「……ありがとうございます」
 つくづくいい人だ。蒼生が感動しつつその背を見送る後ろで、健太と冬矢は頷き合う。
「じゃ、そういうことで、健太は食事の調達を頼む」
「ん。おまえは蒼生と部屋戻ってて。蒼生、すぐ戻るからな」
「うん」
 そうして、冬矢とふたりでしんとした部屋に戻る。電気をつけるよりも先に、蒼生はそっと冬矢に寄り掛かった。まだ気分が悪いのだろうかと冬矢はそっと顔を覗き込む。
「蒼生?」
 蒼生は気を抜いたようなほんわりした表情をしていた。
「ありがとね。なんか……いろいろ」
「いや……。それより、夕飯、ちゃんと食べたかったろうに、俺が」
「ううん、美味しいごはんは食べたいけど、絶対知らない人に取り囲まれてわいわいなるから嫌だったんだ。せめてサークルの皆さんだけなら、だいぶ見慣れてきたから平気だったのに」
 それに対して、冬矢の返事はすぐに来なかった。あ、と蒼生は顔を上げる。
「そうだ。言い忘れてたけど……やっぱり、僕も、神崎先輩には気を付ける」
「! 何かあったのか?」
「僕、人に触られるのが苦手だってはっきり言ったのに、そのまま肩抱かれた。なんてことないかもしれないけど、やだったから」
「……そうか。教えてくれてありがとう。怖かったな」
 ふわりと優しく、冬矢が蒼生を抱き締める。蒼生が息を吐いて肩に額を乗せてくると、改めてその手に力を込めた。背中に触れた手から、蒼生の安心しきった様子が伝わってくる。愛しい、愛しい温度。人に触れられて嫌だったと語ったばかりの蒼生を、こうして抱き締めても、決して拒まれることはない。許されている、愛されているという実感。
「……好きだよ、蒼生」
 何度も伝えた言葉。けれど、そのたびに、蒼生は嬉しそうに笑う。
「僕も好き」
 ずっとこのまま、ふたりでいられたらいいのに。
 冬矢の思惑はいつもの通り、ノックの音で遮られた。やれやれ、と肩をすくめ、蒼生を抱いたままドアスコープを覗く。そこにいるのが健太だということを確認して、手を離さずにドアを開けた。その隙間から、するりと健太が入ってくる。
「おかえり、健ちゃん」
「ただいまー……って、電気もつけずになにしてんだよ。まさか、ドアの前でずーっとそうやって抱き合ってたの? オレが買い物してる間ずっと?」
「……えへへ」
「ずっるい! オレも! 冬矢、おい、交代!」
 仕方なさそうに冬矢が手を離すと、隙間に割り込むように健太が蒼生を抱き締める。
「蒼生~。ぎゅー。あと、ちゅーも」
「うん」
「んー」
 健太は満面の笑みで、蒼生に何度も何度も口づける。そして、その片手間で冬矢に向かって袋を差し出した。呆れたように笑って、冬矢がそれを受け取った。
「ありがとう。あれ、コンビニに行ったんじゃないのか」
「ああ、そうしようかと、んっ、思ったんだけど、外、裏っかわに、パン屋さんあるって、んー、聞いて、んっ、手作りだって」
「キスしながらしゃべるな、蒼生が苦しそうにしてるだろ」
「あっ、ごめん! つい夢中で」
「ふはー……。ううん、嬉しい……」
 肩で息をしながら、蒼生はにこにこと笑っていた。
 袋の中身は様々な総菜パンだった。フィルムに包まれているのが、町のパン屋さんらしくていい雰囲気だ。ふんわりしたコッペパンに挟まっているのは、コロッケや魚のフライもあれば生クリームのものもある。カレーパンは揚げたてらしくほかほかだ。ミニクロワッサンもバターのいい香りを漂わせている。どれも美味しそうだ。
 部屋には小さな机があったが、3人はベッドに並んで座る。蒼生がふたりから離れたがらなかったせいだ。口では大丈夫だと言っているが、揺らぐ部分もあるのだろう。
「やっぱ、今度は3人でどっか行こうな」
 健太はフライを飲み込んで言った。
「うん」
 もぐもぐと口を動かしながら蒼生も頷く。冬矢が手に取ったクロワッサンを眺めながらしみじみ呟く。
「そうだね。せっかく買った水着なのに、水に入る機会がなかったからね。たまにはそういうのもありかもな」
「うん、健ちゃんと冬矢となら行く」
 それを聞いた健太は嬉しそうだ。インドア派のふたりから出た肯定的な発言が撤回されないうちにと身を乗り出す。
「3人だけで行くときにはもうちょっと可愛いのも蒼生に着せたいなあ」
「ええ、新しいの買ったばっかなのに、もったいないよ」
「だって見たいんだもん。可愛いやつ」
「そもそも男性用の水着に対して可愛いって難しくない?」
「んー……。じゃ色気は求めていい?」
「!?」
「健太。それじゃ人目があるところでは着せられないだろう」
「ああ、そっか。そうだな。なんかさあ、貸し切りにできるプールとかないのかな」
「調べてみよう」
「ひぇ……」
 途中から話に入ってきた冬矢も何故か乗り気だ。こうなると誰も止める者がいない。どういう格好をさせられるかわからない蒼生でさえ、好奇心に負けそうだからだ。次第に真剣になっていくふたりを、蒼生は穏やかな顔で、何度も交互に眺めていた。

 翌朝、朝食のためにロビーまで降りようとエレベーターホールに出た3人と木之下は、そこでばったり細谷と神崎に出くわした。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日もいい天気みたいで、よかったですね」
 言いながら、健太が蒼生の前に立つ。冬矢から昨日の情報を共有されていたため、健太も警戒心を最大限に高めている。
 細谷は蒼生の顔を見てほっと息をついた。
「昨日会った時は顔色悪かったけど、だいぶ良くなったみたいだね」
「お気遣いいただいてありがとうございました。おかげさまですっかり元気になりました」
「じゃあ今日は一緒に出掛けられそうかな」
「はい」
 全員笑顔だが、ふわふわした会話をしている隣では、健太と冬矢が神崎との間で静かに火花を散らしている。
 そこにエレベーターがやってくる。全員の意識が開いたドアに行った瞬間、ほんのわずかな隙を見つけた、というより無理矢理ねじ込んでくるように、神崎が蒼生の肩を抱いた。
「昨日は具合悪いのに気付いてあげられなくてごめんね」
「っ!」
 健太が蒼生の手を引いて剥がし、冬矢が蒼生をエレベーターの隅に押しやる。
「昨日の彼の話、ちゃんと聞いていました? スキンシップが苦手だとはっきり伝えたと聞きましたけど?」
「君たちとは平気そうじゃないか」
「オレたちだけ特殊なんでー」
「そうか、じゃあ俺も特殊になれるように頑張ろうかな」
「無駄だと思いますけど」
 狭い空間での妙なやりとりに、細谷と木之下は不思議そうに首を傾げる。木之下が、隅っこで潰されている蒼生を覗き込んだ。
「野木沢、何かあったの?」
「いやー……あはは」
 この状況をなんと説明したらよいのやら。まず蒼生自身がよくわかっていない。なんだって神崎はこんなに自分に近寄ろうとしてくるのだろう。
 穏やかなサークル活動を望んでいたはずだが、なかなかすべて平穏無事に、とはいかないようだ。

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是非、コメントを投稿して頂き、皆様と共にBLを愛する場所としてpictBLandを盛り上げていければと思います。
54こ目;夏の日差しと砂の影~後編~
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 なんだかんだでばたばたしたが、夏休みも後半が見える頃、とうとう2泊3日の合宿の日が来た。当初は大学の最寄り駅集合という案が出ていたが、結局、現地集合現地解散になった。帰省途中のメンバーや遠回りになるメンバーがいるからということらしいが、少しでも邪魔される時間を短くしたかった健太と冬矢にとってはありがたい決定だった。蒼生と一緒にどこかに出かけるのは嬉しいのだが、そこに他人が絡むとなると話は別だ。高校時代はいろいろあったなあ、と思い返して遠い目をするふたりだ。
 ところが先日、蒼生が急にこんなことを言いだした。
「何回かしか話したことない人と同じ部屋で寝るんなら、お互いもうちょっと慣れておいたほうがいいんじゃないかな」
 健太はなるほど、と素直に思った。サッカー部の合宿で同じく合宿に来ていた他校のサッカー部と仲良くなり、部屋に潜り込んで雑魚寝をして、翌朝先生に怒られたエピソードを持つ健太にはどうということもないが、蒼生はほぼ初対面の人間と一緒に寝ることに緊張感を覚えるのだろう。何か起こって夜中にいきなりぎこちなくなることなどがあっては、確かにいただけない。
 不満に思ったのは冬矢だ。蒼生以外に興味がない。健太ならなんとか許すが、基本的に誰かに合わせるのが嫌いだ。蒼生相手だから柔らかく考えられるのであって、持って生まれた性質が変わったわけではない。それでも頷いたのは、人付き合いを頑張ろうとする蒼生の助けになると思ったからだ。蒼生のためだと思えば、態度を取り繕うくらいわけはない。それに、なにより、
「……って言っておきながら僕が我慢できなくなっちゃったらごめんね。と、突然抱きつくなどの奇行に走らないように努力します……!」
 とぷるぷる震えながら宣言した蒼生がとても可愛かったので、それでチャラだ。
 ただ、電車の向かい合わせになった4つの席では、問答無用で蒼生の隣に座った。長年の付き合いで察することもあったのか、健太も何も言わなかった。
「改めて、よろしくお願いします」
 蒼生がぺこりと頭を下げ、3人がつられるようにそれに倣う。
 木之下は、小柄で物静かな青年だ。一度も色を染めたことのないような黒髪に、黒縁眼鏡という外見で、真面目で芯が強そうな印象だった。意外と今まで近くにいなかったタイプだ。
「ごめん、3人はもともと友達なんだよな。割り込むような形になって悪いかなと思ったんだけど、どうしても講演会が気になって」
 蒼生の挨拶を受けてからの最初の言葉がそれだったので、健太はすぐに「いい人だ」と思う。とっつきにくそうな雰囲気は感じるものの、友達にはなれそうだ。
「や、せっかく同じサークル入ったのに、全然話せなくて気になってたんだよ。ほら、1年男子ってオレたちだけじゃん」
「先輩たちはもう少し増やしたいと思ってるらしいよ。この前聞いたんだけど」
「へえ、そうなんだ」
 蒼生がぽんと手を叩く。
「……ああ、急にイベントが増えたのはそういうことなのかな」
「みたいだよ。俺は大勢でわいわいするより少人数のほうが気楽だと思うのに」
「あはは。そういうイメージのサークルだしね」
 隣で聞いていて、冬矢はさすがだなと思う。蒼生はこれができる人間だ。穏やかに優しくきちんと相手の話を聞いて、和やかに話を進めていく。本音では人付き合いが面倒だと思っているようにはとても見えない。それだけ頑張っているのだろう。だから自分も負けるわけにはいかない。そんな蒼生を支える存在でありたいのだから。
「講演会目当てということは、現代文学のほうが好きなのかな」
「本当はもう少し時代を遡るほうが好きだよ。硬い文章が好きで」
「なるほどね。わかる気がする」
 こちらから歩み寄ったからだろうか。構えられるのを覚悟していたのだが、木之下は比較的すんなり輪の中に入ってきたようだ。冬矢はそれでも注意深く目の前の人物を見つめる。
「おはよう」
 そこに、知っている声が頭上から降ってきた。ひらひらと手を振っているのは、覗き込むようにこちらを見下ろす神崎だ。蒼生は、恋人の空気がぴりっとしたのを感じる。
「みんなも同じ電車だったんだ」
「おはようございます、先輩」
「3日間、よろしくおねがいします」
 立ち上がろうとした健太を手で制して、神崎は4人の顔を順番に眺める。
「なるほど、知ってる声だと思ったら、早速1年同士で交流してるんだ。いいことだね。これ、よかったらどうぞ」
「わ」
 神崎が抱えていたペットボトルを1本引き抜き、冷たいそれを蒼生の頬に押し当てる。当然、健太と冬矢の目の色が変わった。
「ありがとうございます」
 蒼生は一瞬驚いた顔を見せただけで、にこりと笑って受け取る。咄嗟に蒼生を引き寄せるような行動も起こさず黙って耐えたのを褒められるべきだ、と冬矢が密かに拳を握った。健太はそんなふたりを横目で見てからさっと立ち上がって手を出す。
「すみません、わざわざ。あ、いただきます!」
 そのまま蒼生に残りの3本を渡そうとしていた神崎は、ふっと笑ってそれを健太に差し出した。
「細谷が君たちにってことだったから、礼なら細谷に言ってやって。俺は使いっ走り。……って、立ってるのも邪魔だな。それじゃあ、降りたら落ち合おう」
「はい」
 冬矢は唇を噛む。やはり蒼生は窓際にしておけばよかった。本当に、どこから刺客が現れるかわかったものではない。
 その様子に、蒼生はそっと目を落とす。正直、内心殺気立つふたりに、どう対応すべきか悩んでいた。ここまでふたりが警戒する相手は初めてかもしれない。もちろん、言う通り気を付けるつもりではあるが、どう振る舞うのが正解なのだろう。
「先輩たち優しいよね」
 ペットボトルの蓋を開けながらの木之下の言葉に、とりあえず代表して蒼生が頷いた。

 現地に到着してからは、資料館と記念館の見学時間がじっくりと取られていた。学校行事ではないので、夕飯までに各自見て回ってホテルに戻ればいいという気軽さだ。しかも騒ぐ場所でもないことから、メンバーの女子たちが遠巻きにこちらを見ているのが気になった程度で、1日目の行程は終了した。恐れていた懇親会も、学部長の肩書を持つ顧問教授が1年生の席に座ってそれぞれと話していたせいか、終始静かでおとなしい会となった。その後、教授は学会の都合で明日の講演会が終わり次第帰るということで、成人だけを連れて改めて夜の街に出発し、残された未成年はそこで解放された。
 レストランから出た4人は、そそくさと割り当てられた部屋に向かう。すると、木之下が蒼生の隣に並んだ。
「野木沢たちって意外と話しやすくて驚いた。俺とは住む世界が違うと思ってたから」
「住む世界?」
「女の子に囲まれてキャーキャー、みたいな」
「あはは、ないない。特に僕なんか、そういうの苦手だからね」
「そうなんだ。俺も不得意」
 冬矢は後ろから2人の様子を窺う。半日行動を共にしたが、やはり木之下は蒼生が一番話しやすいようだ。無理もない、聞き上手で優しい蒼生には、大体の者がそういう印象を受ける。だが神崎と違って、過剰に蒼生にだけ近付く様子はないので、ひとまずは安心だ。それに、健太がしつこく話しかけても鬱陶しがる様子を見せないし、自分に対しても臆さず話に乗ってくるので、健太の印象通り普通にいい奴なのかもしれない。
 一応リゾートホテルの肩書を持つそのホテルは、多少年季が入っているものの、ゆったりとしていて過ごしやすい雰囲気だ。廊下に面した大きなガラス窓の下は中庭になっているらしいが、今はライトで照らされた屋外プールがぼんやりと浮かび上がっているのが見えるだけだ。健太はそれを眺めながら、合宿でなければ遊びに行くんだけどな、と思う。やはり建物の中で動かないものを見ていることより、外で騒ぐほうが自分には合っている。蒼生がいるから、蒼生といたいから、という理由で大人しく出来ているだけだ。
 まもなく部屋に着くというところで、木之下が足を止めた。
「……あ。飲み物全部飲んじゃったんだった。みんなは大丈夫?」
「さっき買ったばっかだからまだ大丈夫かな」
「そうか。じゃあ、ちょっと下のコンビニ寄ってくる。これ、鍵」
「お。ありがと。行ってらっしゃーい」
 健太の手に渡されたのは、部屋番号が書かれたアクリルの棒がぶら下がる鍵だ。最近はカードキーばかりをよく目にするので、昔ながらといった風情があってなかなかいい。それをドアの穴に差し込み、回しながらドアを押す。部屋は広くない。電気をつけると、短い廊下の先にベッドが3つとソファがあるのが見えた。
 ぱたん、とドアが閉じる。同時に、蒼生が弾かれたように冬矢の腕を引いた。わずかによろけた冬矢の首に腕を回すと、そのまま勢いで唇を奪う。
「! どした蒼生、奇行出てるぞ」
 蒼生は冬矢に腰を抱かれたまま、背を捻って片手を健太に向かって伸ばす。
「健ちゃんも、健ちゃんも」
「ははっ。……ん」
 健太は求められるまま唇を寄せ、開いた隙間から舌を吸う。ふたりがかりで抱き締めてやると、ようやく落ち着いたようだ。はーっと深く息を吐いた蒼生が、頬を赤らめたままふたりを見た。
「…………ごめん。我慢できなかった」
 冬矢は嬉しそうに蒼生の髪を撫でる。
「可愛い。我慢してたんだ」
「してた……。今までも、遠足とか修学旅行とか、他の人も一緒に行動することあったのに。なんでか今日はすごくもどかしくて。ふたりといるのにくっつけないのが地味に心に来る……」
「ん。わかるよ。しんどいな。ずーっと3人で一緒にいて満足してるから、きっと足りなくなっちゃうんだな」
 それぞれに縋りつく蒼生の手をそっと撫で、ベッドに座らせる。その両隣に座ると、蒼生は両腕でふたりの腕をぎゅっと抱いた。
「ふたりだって我慢してるのに、ごめんね。僕の趣味に付き合わせてるよね」
「そんなことねえよ。……あー、ま、我慢してねえわけじゃねえけど。オレもいっぱい蒼生に触りたかったし。でも、オレ、蒼生といられるだけで楽しいんだぜ。あの記念館? めっちゃくちゃ楽しそうだったな!」
「うん、すごくおもしろかった。やっぱり肉筆って迫力が違うなって。ペンの種類もすごかった、1作ごとに新しいペンで書くのが趣味だったって聞いてたけど、あそこまで大きさも違うの使うんだなって。インクの色も綺麗だったなあ。それから資料館も、」
 きらきら目を輝かせて、蒼生は次々に言葉を紡ぐ。おそらく、その場で言いたかったのも堪えていたのだろう。ひとしきり蒼生が語り終えると、冬矢はそっと頬に口づける。
「そんなに喜んでる蒼生を見られるんだから、来てよかったと思うよ」
「蒼生が嬉しいとやっぱ嬉しいもんなあ」
「……ふたりは僕に甘い」
「甘やかしたくて甘やかしているんだから当然だね。でも、我慢させてるって思っているなら、帰ってから蒼生にはたくさん頑張ってもらおうかな」
 え、と呟いた蒼生は、すぐにふにゃりと力の抜けた笑顔になった。
「頑張るって……それは、……そういう意味の?」
 可愛い。ぎゅっと胸を掴まれたような気がして、健太と冬矢は同時に自分の胸元を押さえる。この可愛い顔を見られれば、それだけで今日1日のすべてが報われていく。愛おしい。ふたりの表情も自然と緩む。
「ああ。そういう意味の」
「……うん」
「そういう意味ってそういう意味だろ? オレも混ぜて?」
「へへ、もちろん」
 そこに、こんこん、とドアのノック音。木之下が戻ってきたのだろう。鍵がひとつしかないのはこういう時に助かる。健太は一度蒼生にキスをして立ち上がった。
「オレ開けてくるから。蒼生、顔」
「はいっ」
 蒼生は、ぱっと凛々しい顔になる。その変わり具合がまたあまりにも可愛くて、冬矢はその頭を撫でてから窓辺に歩み寄る。その先には海があるはずだったが、部屋の明かりが反射しているせいか、足元の店の明かりくらいで何も見えなかった。今すぐ蒼生を連れ去りたい衝動に耐えるには、このくらい空っぽの景色のほうがちょうどいい。
 3人は何事もなかったように木之下を迎え入れる。彼も今までこの部屋が甘い空気で満たされていたなんて考えもしないだろう。そうでなければ、さらりとこんな提案をしてくるはずがない。
「今、通りかかったら、大浴場がちょうどすいてるみたいだったよ。よかったら一緒に行かないか?」
 へえ、と真っ先に健太が反応した。
「広い風呂あるんだ」
「合宿のしおりにも書いてあったけど、さては寺田、読んでないな」
「あはは、細かいとこまではねー。一応全部の流れ的なやつはちゃんと読んだよ?」
「たしかにそれで充分かも。……で、大浴場なんだけどさ。実は……俺、視力悪くて眼鏡外すとよく見えないんだよね」
「ああ、なるほど。そういう理由もあるのか。俺たちは裸眼だから想像するしかないけど、たしかに大浴場で見えないのは大変そうだ。普段はどうしてるの?」
「いつもは壊れてもいい眼鏡を持ってくるんだけど、今日は忘れちゃってさ。だから助けてくれると嬉しいなって」
「とか言って、木之下もしおり読んでないんじゃねえのー?」
「読んだ……はずなんだけどなあ」
「ははは。じゃ、せっかくだし行こっか」
 なんとなく全員で行く雰囲気になって準備を始めたところで、健太と冬矢が気付く。こういう時、最初に無邪気に了承するはずの蒼生がまだ何も発言していない。同時にふたりの視線を受けた蒼生は、バッグの中を探る手を止め、笑顔を返した。そしてふたりが口を挟むより早く、小さくまとめた袋を抱えて木之下のもとに近付く。
「準備できた? 行こう」
「うん」
 どうやら何か言いづらいことがあるらしい。
 やってきた大浴場には、時間帯のせいか、小さな子供を連れた家族2組と、楽しそうに語り合う中年の2人がいるだけだった。若者の宿泊客は自分たちのサークルだけではないはずだが、先輩らのように遊びに行ってしまっているのかもしれない。人目はゼロではないが、少なくとも知り合いがいないだけでも気が休まるのはたしかだ。
 眼鏡を外した途端にふらついた木之下が、蒼生に支えてもらって踏みとどまる。
「木之下くんて、視力、そんなに悪いの?」
「そうなんだよ。特にこういう湯気とかあるとよけい見づらくて……段差があったんだね」
 木之下の腕を掴んだまま、ちらっと蒼生が冬矢を見る。何かと思って近付くが、それで満足したのか、蒼生は何も言わない。
 洗い場では、当然のように健太と冬矢が蒼生を挟んで座る。健太はタオル1枚を決して手放さない蒼生が気になるが、こうして蒼生の隣にいることについては楽しくて仕方がない。並んで体を洗うなんて、相当広い洗い場がないと不可能だ。蒼生は修学旅行でも家族旅行でも内風呂があれば必ずそちらを選択するから、最後にこんなふうにしたのは中学1年頃の家族で行った山間の……。
 そこまで考えて、ひとつ思い出したことがある。あれはたしか小学5年生の学校行事、スキー合宿の時だ。班が違ったため入浴時間が健太とずれた蒼生は「風邪っぽい」と言って大浴場には行かなかった。あの丈夫な蒼生が風邪? と心配したから記憶に間違いはないはずだ。
 考え込みながらも、健太は隣の木之下のサポートをする。シャンプーの位置を教えたり風呂桶をずらしたり、意外に手間がかかる。木之下はそれを申し訳なく思うらしく一応遠慮するのだが、どうしても隣であたふたされるとつい手が出てしまう。しかも、
「ありがとう、寺田。助かったよ。あそこにあるの、サウナかな。ちょっと行ってくる」
「ああ、そうみたいだな。……えっ、ちょ、危ないって」
 急に立ち上がったかと思うと、向こうに見えるガラス窓付きの木製のドアに向けて歩き出す。その一瞬の隙に、自分の座っていた椅子に躓きかけた木之下の腕を、健太は慌てて掴んだ。
「もー、介助いるじゃんー。これ、あれだぞ、出る時も声かけてくれよ?」
「寺田は頼りになるな」
「おまえが頼りにならないだけじゃね?」
 木之下と一緒に歩き出した健太を見て、蒼生がさあっと顔色を変えた。
「健ちゃ……っ、おいてか……っ」
「蒼生」
 そっと膝に手を置くと、蒼生の肩から力が抜ける。
「っあ、冬矢……」
「健太じゃなくちゃだめ?」
「ううん、ごめん、違うんだ、ちょっと慌てちゃっただけ。えへへ。大丈夫」
 今の健太の行動に対してだけではない、木之下が大浴場の話題を出してからの緊張感も同時に抜けたようだ。それは近くにいるのが冬矢だけだからかもしれない。ふにゃ、と表情を崩し、はっとあたりを窺って視線がないことを確認してから、穏やかな外向けの顔をする。この状態の蒼生相手では、さすがに劣情を表に出すわけにはいかなかった。
「……浴槽のほう、行こうか」
「うん、行く」
 誘うと、素直に頷いた蒼生がついてくる。浴槽の湯は白く濁っている都合のいいタイプだ。温度もぬるめで、落ち着くにはちょうどいい。子供たちが楽しそうにばしゃばしゃと飛沫を上げるあたりからは少し外れ、ふたり並んで浴槽に体を沈めたところで、木之下を送った健太が戻ってきた。
 ざぶんと波を作った健太は、それに揺らされて笑う蒼生にいきなり詰め寄る。
「蒼生、大きい風呂苦手なの?」
「バレたか」
 蒼生はなんでもないことのように、さらっと白状した。冬矢も身を乗り出す。
「そういうことだったのか。無理しなくていいのに」
「苦手だからってずっと避けてるわけにもいかないなあと思って。たぶんふたりがいたら大丈夫だと思ったし、ふたりがいたからほんとに怖くなかった。よかった」
「中2の校外学習で一緒に入ったよな?」
「うん。あれも、冬矢と森くんがいたから」
 蒼生は肩まで湯につかり、ふんわりした眼差しでふたりを見上げる。
「頑張れば頑張れるもんだなあ。……だけど、やっぱ、離れるのはちょっと嫌かも」
「……んー。まあなんにせよ、近くにいてくれんのはオレも助かるからいいけど」
「そうだね。蒼生の肌を誰にも見せたくないと思うのは俺も一緒だから」
 健太は見えない湯の中で、そっと蒼生の腰を抱く。
「でも、頑張るのはいいけど、無茶は違うと思うからさ。なんかあったらオレたちにはちゃんと言って?」
 蒼生がぱちぱち、と瞬きを増やす。
「……うん。わかった」
 蒼生の両手をふたりで掴むと、ようやく自然な笑顔が戻った。
 子供たちがはしゃぐ声を聞きながら3人でのんびりしていると、向こうのほうでサウナのドアが開くのが見える。慌てて健太が立ち上がった。
「やべ、あの危なっかしいの迎えに行ってくるわ」
「あはは。いってらっしゃーい」
 今日1日ですっかりイメージが定着してしまった。彼は、真面目で一見とっつきにくいが、根は単純でおっちょこちょいだ。目を離してはいけないタイプらしい。健太に連れられて浴槽に来ても、遠くを見ていて目が合わないのが面白い。
「ああ、お湯はわりと冷たい?」
「サウナであったまってきたからじゃねえ?」
「なるほど。交互に入るといいのかな」
 それに、ちょっと天然かもしれない。蒼生と冬矢は目を見合わせて笑った。


 翌日、午前中の講演会が終わって、午後はレクリエーションの時間になる。各自、水着に着替えてから集合、ということだったのだが。
「というわけでー、偶然同じホテルに宿泊していたテニスサークルのみなさんと合同でレクリエーションを行うことにしまーす」
 蒼生と冬矢は集団の後ろのほうで、見事な外面でにこにこと笑っている。隣の健太は、近くの店先から漂ってくるトウモロコシの香りに気を取られているようだ。
「……ねえ蒼生。同じ大学のサークルが偶然同じ日に同じ宿泊先になると思う?」
「あんまり思わない、かなぁ……」
「オレさっき聞いたんだけどさ、3年の先輩の彼氏さんがいるサークルなんだってさ」
「最初からそういうことだったんだろうな」
 なにやら向こうは女性のほうが多そうだ。それに加えて一気に人数が増えたのもあり、急速に「帰りたい」空気を進行させているふたりを眺め、健太も困ったように笑った。
「オレも、今日のピーク既に終わっちゃってるからな。自由時間になったらとっとと消えようぜ」
 レクリエーションに取られた時間は長いものの、前半のみ全員参加であとは自由参加になっている。今思えば、仲良くなって自由に遊ぶための時間ということなのだろう。
 蒼生が健太を見上げる。
「ね、今日のピークって? 講演会はたしかにものすごく興味深くて面白かったけど、健ちゃん寝てたよね?」
「もっと前だよ。今朝さ、蒼生、オレに抱きついて寝てたじゃん。目が覚めた時めちゃくちゃ嬉しくてさー。あれがピーク」
「えっ。……ピークが1日の頭じゃ早すぎることと、まだそのこと言うのってことと、無意識だったんだから忘れてってことと、どこを中心に突っ込んだらいい?」
「突っ込まなくていいです」
「やっぱり今夜は配置を考え直したほうがいいな」
「おまえのほうに行かなかったから妬いてんだろ」
「まあな」
「ひぇ」
 部屋にあったのは通常のベッド3つとソファベッドだった。そのため、ソファベッドに誰が寝るかは話し合おうとしたのだが、普段床に布団を敷いて寝ているという木之下が、一番硬いソファが寝やすいと申告した。それで3人は普段の並びで寝たのだが、いつも通り健太が一番早く起きると、腕に抱きついて蒼生が眠っていたのだ。健太が驚いて起き上がり、それで目が覚めた蒼生自身も驚いていた。木之下がまだ寝ていてよかったと心底思った3人だ。
「気を付けてたはずなんだけどな……。ふたりとの間もちゃんと空けてたし」
「たぶん本能が寂しいって言ってたんだよ」
「ほ、ん」
「あのままめちゃくちゃに可愛がりたかったのになー。そのオレが選んだ水着も、ホントは今すぐ抱き締めて可愛い可愛い大騒ぎしてえのにさ。不自由だ~」
「……見慣れるためって言って家で何度も着させたじゃん」
「見慣れるわけねぇだろ常に新鮮に可愛いわ」
「えぇ……」
「ともあれ、今日が午前で終わりだったらどれだけよかったろうな」
 冬矢の言葉に、蒼生と健太は深く頷いた。
 両部長からの挨拶が終わると、なんとなく各サークルでまとまっていた円がばらばらになる。この隙にどこかに逃げられないかなとぼんやり思っていると、木之下と1年女子の3人がこちらに気が付いて近寄ってきた。
「ああ、ここにいたんだ。姿が見えないからどうしたかなと思ったよ」
「んー、あはは」
 健太が曖昧に笑う。
「すごいよ、ほら、ビーチバレーのコートが出来てる。先輩たちがめっちゃやる気なの」
「とりあえずランチしながら見てていいらしいし、野木沢くんたちも一緒にごはんしようよ」
「そうだね」
 にこりと蒼生が答える。そう答える以外に選択肢はないだろう。
 だが、こうして囲まれるのも以前よりしんどくはなくなったと思う蒼生だ。授業でも班が変わるたびほぼ知らない人と話しているせいもあるのだろうが、耐えるだけだった他人との会話を、普通にこなせるようになってきた気がする。もしかすると、健太と冬矢と暮らすようになって、1日に1度は必ず息を抜けるようになった。その余裕が現れてきたのかもしれない。ならばふたりに心配されないように、普通に他人と話が出来る自分を見せていこうと蒼生は張り切っている。実はその行動こそが、他人の蒼生に対する好意を押し上げる結果になっているのを理解しているふたりに、余計に心配をかけているとはまだ蒼生は知らないままだ。
「わー、すご、先輩ムキになってるー」
「あはは、がんばれー」
 女子たちの応援に笑いながら、その間でオレンジジュースを飲んでいる蒼生を見る健太と冬矢は、気が気ではない。
「今回、合宿が海だって聞いてびっくりしたの。だって読書と海って関係なくない? でもせっかくだから新しい水着買っちゃった。どう?」
「綺麗だよね。オレンジの鮮やかな花柄がすごく似合ってる」
「の、野木沢くん、私は?」
「らしくていいなと思うよ。フリルとパレオがすごく可愛いね」
 これが素なのだ。無意識でこれだ。この前水着を買いに行くまで、パレオなんて言葉すら知らなかったというのに。どんな時も出来るだけ相手のいいところを見つけて褒めようとするのが、小さい頃からの蒼生の処世術だった。それは男女問わずなので男子でも同様なのだが、こうして感想を聞きに来るほとんどが女子だということもあり、女子に甘いように見えてしまう。
 冬矢には、それでやっかんだ男子が自分も褒めてみろと蒼生に詰め寄って、蒼生が不思議そうにしながらも彼のいいところを褒めまくった結果、蒼生に恋心を抱くまでになってしまったという苦い思い出がある。近くですべて見ていたので、もちろんすぐに撃退したが。そのためやむを得ず、冬矢も会話に参加する。女子を褒め、話を聞く。あまり蒼生に目が集中して、惚れられるようなことがあっては面倒だからだ。
 ちなみに、当の蒼生はそんな会話をしながら「この子の名前なんだっけ」と思っている。
「おーい、1年。のんびりしてんなあ」
 先輩が苦笑いをしながら、1年に占領されたパラソルのもとにやってくる。
「あ。見てましたよ、さっきのブロックすごかったじゃないですか」
「ホントに見てたかあ? ちらっと見たけど、寺田おまえ、トウモロコシに夢中になってたじゃないか」
「見てましたって! トウモロコシ越しでしたけど!」
 どっと女子が盛り上がる。仕方ない奴だな、と先輩は頭を掻く。
「ところで、次、誰か出てみないか? 一応1年生の歓迎会も兼ねてるしな」
「えぇえ、私ちょっと苦手ぇ」
「うん、だよなー。うちのサークルの趣旨考えると、あんまり得意な子いないよな。とはいえ、一組でいいから、形だけでも」
「オレ、出ます!」
 手を挙げたのは健太だ。蒼生の側から離れたくないのが本音だが、運動が得意な者はいないという言葉に少々引っかかったらしい。たしかに、健太はそもそも体育会系の人間だから、出番としては最適だろう。冬矢の隣にいた女子も健太を見て立ち上がる。
「じゃあ私、寺田くんのパートナーになるっ!」
「よっしゃ、あっちのサークルに目にもの見せてやろうぜ!」
「おー!」
 ちら、と蒼生が目を上げた。
 前の試合が終わったらしく、わっと歓声が上がる。なるほど、全体的な流れでは完全にこっちのサークルが押し負けているようだ。なんとか追加の1勝が欲しいところらしい。文化部と運動部で争おうというのがまず間違っているような気もするが。
 木之下と残りの女子も健太たちの出番とあって前に見学に出て行く。蒼生はその背を表情もなく見送った。
「蒼生はいいの? 健太の応援したいんだろ」
「えっ? あー、したい。けど、素が出そうで怖い」
「はは、夢中になって可愛い応援しちゃいそう?」
「かっ……。それはどうかわかんないけど、昔から体動かしてる健ちゃん見ると、なんか、胸がぎゅってなって……」
 冬矢はふっと笑って蒼生の肩をぽんと叩いた。
 ふたりだけになったパラソルの下からも、試合の様子は見える。遊びのようなものだから、笑いながら跳んだり跳ねたり、ボールがあっちへ行ったりこっちへ行ったりと楽しそうな雰囲気だ。そんな中でも、健太はきっかり点を重ねている。
「……あいつ、結構真剣にやってるな」
「たっか……。え、あんなに高く跳べるもの? 相手チームと比べものにならないじゃん。あ、また入った。わー、すご。かっこいい」
「自慢の彼氏だもんな。蒼生、可愛い顔出てる」
「えええ? うー、やっぱり前に出るのは無謀だったね……。けど、今僕は、動の彼氏と静の彼氏の間でどっちに視線をやったらいいか真剣に悩んでるとこですよ。どっちも自慢の彼氏なので」
「ふーん……」
 それだけ言うと口元を隠して片肘をテーブルにつく冬矢を、蒼生はちらりと見る。冬矢はそれに視線だけを返した。
「……蒼生、上手になったね」
「本音ですけど」
「今すぐ連れ去って逃げたい」
「僕だって連れ去られたいよ」
 蒼生が言葉にわずかに溜め息を混ぜたのは、明らかにこちらを目指して歩いてくる女子たちに気が付いたからだ。冬矢も蒼生の視線の先を辿ったらしく、すっと眼差しの温度を下げる。
「こんにちは。読書サークルさんのとこの1年生だよね?」
「はい」
「今バレーやってる男の子と一緒にいたでしょ。私たち2年で1個先輩だよ。ねえ、なんだかみんなスポーツ好きそうじゃん。うちのサークルにも入らない?」
「あはは、勧誘ですか?」
「んー、表向きはそうかもね?」
 サークルにも色というものがあるのか、こちらの女子の皆さんは一段と華やかな集団だ。プロポーションもまた抜群で、本人らもそれを理解しているせいか、自信に溢れてキラキラとしている。彼女募集中の男子だったら天国のような状況なのだろうが、生憎ふたりは恋人しか目に入らないので、アタックするだけ無駄だ。それをわかってもらえればいいのだが。
 蒼生は彼女らの隙間からあたりを窺う。すると、隣のパラソルの下にいた同サークル3年の男子と目が合った。彼はぎょっとした顔でこちらの状況を見ていたが、蒼生がにこりと笑いかけて指先を招くように動かすと、意図が通じたらしくぱっと立ち上がった。そして、そこにいた2人を連れてこちらへやってくる。
「あれー。うちのルーキーの引き抜きぃ?」
「あははは。やだぁ、バレちゃいました?」
「ホントにそれだけかなあ」
「え、どういう意味です~?」
 楽しそうな会話が始まり、蒼生はほっとする。明らかにそういう目的で近付いて来た者には、そういう目的を持っている者に相手をしてもらうに限る。性格の悪い考え方かな、と一瞬思うが、お互いの目的が一致しているならいいか、という結論に達した。2年と3年に囲まれて座っているのもおかしいと思って立ち上がると、すぐに女子がそこに2人座る。完全に居場所を失ったのは逆に有難い。ここを離れるきっかけになる。
 できれば一緒に冬矢を連れて行きたかったのだが、囲まれて矢継ぎ早に質問を受けているらしく、声をかけづらい。それに、ここで冬矢を引き抜いては完全に空気を悪くするだろう。とりあえずいったんこの場を離れ、あとで助けに戻ることにした。
 サークルで確保しているパラソルの下には、クーラーボックスが置いてある。そこにはミネラルウォーターや清涼飲料水が入れてあり、熱中症対策で好きに持っていっていいということになっていた。さっき甘いものを飲んだので、口の中をさっぱりさせたい。蒼生は氷水の中に浮かぶミネラルウォーターのペットボトルを取ると、少し考えてからもう1本取った。3人で飲むなら2本は必要だろう。直で飲み物のやりとりができない面倒なふたりがいる以上は。
「野木沢」
 声をかけられて、はっとして振り向く。過剰に反応したのは、それが神崎の声だったからだ。
「先輩も休憩ですか」
「ああ。ビーチバレーは初めてだったけど、足を取られるから結構体力使うんだな。でもなかなか楽しかったよ。野木沢は参加しないの?」
「見ているほうが好きです」
 神崎がビーチチェアに座ったので、蒼生はとりあえず持っていたペットボトルを渡す。
「ありがとう。そうなんだ、運動神経は良さそうだけどね。それとも女の子たちと話してるほうが楽しいのかな。今も囲まれてただろ」
「いや、それは……」
「誤魔化さなくてもいいよ。清潔感のある男子はモテるもんな。きっかり処理してきてるじゃないか。ほら、綺麗な脚だね」
「やっ……」
 突然、ふくらはぎをさらりと撫でられて、思わず声が漏れた。はっとして手で口を覆う。神崎はすうっと目を細める。
「……驚かせてごめん。あんまりにも手触りが良さそうだったから」
「ご、ごめんなさい、その、人に触れられるの得意じゃなくて。それに、その、普段から身だしなみとしてしてるだけで、モテたいとかそういうことじゃないです。そういうの、いらないので」
「へえ?」
 ばくばくと心臓が大きく脈打っているのがわかる。不意の出来事で、一瞬だったとはいえ、ぞっとした。あっという間に体が冷えた気がする。戻ろう。早く。
 神崎が、蒼生の手首を握った。
「ぇ」
「次はサークル対抗スイカ割りだってさ。そういうのなら体動かすことでもないし、参加してもらえるよな」
 蒼生は混乱する。はっきり言ったはずだ。「人に触られるのが得意じゃない」と。それでもこの人は腕を掴んだ。
 そのまま神崎は立ち上がると、残った手で蒼生の肩を抱く。ざわっと体中の毛が逆立つ感覚。
「せんぱ……っ、手、お願いします、離して……」
「面白い反応するね。このくらいなら大丈夫だろ?」
 ぐいっと手に力を入れられて、よろけた足は前に進んでしまう。するとイベントのために開けられた場所に押し出される格好になる。
「それじゃあ、トップバッターはうちのサークルの期待の1年生が務めますね」
「……っ」
 人の目が一斉に集まる。ひゅっと息が詰まる。慌てて見上げた神崎は、何の悪意もない顔で、にこにこと笑っていた。
「これだけ注目されて、やめますって言ったら印象悪いと思わない?」
 わいわいと先輩たちが集まってきて、神崎はその手を離した。今の行動は蒼生をここに引っ張り出すためだったのだろうか。だが、手が離れれば大丈夫だ。蒼生はふうっと息を吐いて、周りに笑顔を向ける。注目されるのは得意ではない、だが、出来る。いつものように、ただ行事をこなせばいい。周りに楽しんでもらえればいい。
「蒼生っ」
 慌てて駆けつけてきたのは冬矢だ。心配そうに蒼生の側に寄る。
「おお、笹原。野木沢がトップ張ってくれるってさ。応援してやってくれよ」
 明るい先輩の声に、蒼生も笑ってみせる。
「なりゆきでこうなった。ちゃんと割れるかな」
「蒼生……」
「それじゃ、目隠しな」
 冬矢との会話を遮るように、アイマスクを持った神崎が蒼生の前に立つ。蒼生が自分でやろうとするのを押しとどめ、正面から蒼生にそれを付ける。
「…………?」
 ぴた、と蒼生が動きを止めた。
 冬矢がすぐに気付く。
 わずかに間をおいて、蒼生は見えない目できょろきょろとあたりを窺いだす。肩の線で、息が荒くなったのがわかる。小さく開かれた唇が震えている。おかしい。割って入って腕に触れると、肩がびくりと大きく跳ねる。
「蒼生」
「あ、冬矢、か」
 ほっとしたような声。
「なんか、急に、怖い、気がして。でも、大丈夫だよ。大丈夫」
「大丈夫って……」
 冬矢が黙ると、再び蒼生の肩が強張る。これのどこが大丈夫だと言うのだろう。蒼生の大丈夫、は自分への発破でしかない。唇を噛むと、視線を巡らせてその輪から抜ける。早足で向かうその先には、奥に戻ろうとする健太の姿があった。
「健太」
「あれ。蒼生はどした?」
「……引っ張って行かれた」
「は? って、次、スイカ割りとか言ってたけど、それ?」
「それだ。だが蒼生の様子がおかしい。怖いって言ってる」
「怖い?」
「とにかく、ゴールのほうに行ってくれ。蒼生に指示を出すのはおまえがいい」
「わかった」
 すぐに状況を把握した健太は、ひとつ頷くと、セッティングが始まっている向こうの人だかりのほうへ駆けて行く。それを見て、冬矢も踵を返した。
 スタート地点では、既に蒼生がひとり立たされている。周りからの「頑張って」という無邪気な黄色い声ににっこり笑っているが、小さく唇を噛んでいる。泣きそうな顔だ、と冬矢は胸が痛くなる。
「蒼生」
「ぁ、とぉや……」
「向こうに、健太がいるから。他の声は聞かなくていい、健太の声だけ聞くんだ」
「う、うん」
「俺もここにいる。何かあったらすぐに駆けつけるからね」
「……うん」
 何人かはふたりのやりとりを不思議そうに見ていたようだが、他の者はイベントごとに夢中で気にしていない。むしろそれでいい。
 スタートの号令が響き、わあっと皆が騒ぎ出す。右だ左だ、と、敵味方入り乱れて適当な指示が飛び交う。そこに。
「蒼生、こっち!」
 ぴくっと蒼生の肩が揺れた。
「こっちだよ、蒼生! おいで!」
「……健ちゃん」
 ほっとした声が漏れる。一度聞いてしまえば、冬矢に言われるまでもなく、健太の声しか聞こえなくなった。健太の声だ。記憶の底からずっとある声。
「ん、そうそう、そのままそのまま。いいよ。まっすぐおいで。うん、もう少し。そうだよ。あと1歩。そう。そこで手を挙げて。もうちょっとオレのほうに体向けて。よし、オッケー」
 健太の合図で、手に持った棒を振り下ろす。ぱしん、と音がして、歓声が大きくなった。
「おー! 一発じゃん!」
「真ん中じゃなかったのが惜しいけど、当たったからうちのリードだな!」
 その声に、もういいんだ、と蒼生はアイマスクを勢いよく剥ぎ取る。足下には、片側がわずかに削れているスイカが転がっていた。
「お疲れ様ー!」
 先輩の女子が駆け寄ってきて、手を伸ばす。蒼生は笑ってその手に棒を押しつけ、すごいすごいとかけられる声をかいくぐって、笑顔の健太に引き寄せられるように歩いて行く。
「頑張ったな」
「健ちゃん……」
 その手を取った途端、膝から力が抜けた。
「よし、ちょっと離れような」
 健太は事もなげに蒼生の腕を支えると、輪を抜けるように歩き出した。

 日陰を探して、いくつも並んだ海の家の間に入る。そこまできちんとついてきた蒼生は、人の目がなくなったとわかって気が抜けたのか、膝から崩れ落ちた。
「蒼生!」
「蒼生っ!」
 そこに駆け付けた冬矢とふたりで、座り込んだ蒼生を慌てて覗き込む。蒼生は真っ青な顔で、両手で口を覆っていた。その手も肩も震え、見開いた眼で折った膝の少し先の砂をただ見つめている。
「…………?」
 小さく首が傾く。蒼生自身も何が起きているかわかっていないようだ。
「……蒼生」
 健太が優しく話しかけると、揺れた瞳がわずかに上を向いた。
「ぅ……わかんない。わかんない。なに……? きもちわるい……」
 そっと冬矢が頭に手を乗せる。すると、蒼生の体から少しだけ緊張が抜けたようだ。
「蒼生、深呼吸」
「うん……」
「上手だね。それから、ゆっくり見てごらん。今、蒼生の目の前にいるのは誰?」
「? 冬矢と健ちゃん……」
「そう。俺と健太だ。蒼生は安全な場所にいる。他の誰の手も届かない。だから大丈夫だね」
 虚ろだった目に、さあっと霧が晴れるように光が戻る。蒼生はその目をぱちぱちと瞬かせた。
「あ、れ。治った気がする。あれ?」
 冬矢が、はーっと息を吐いて、頭に乗せたままの手でそっと髪を撫でる。
「もしかしたら暑かったからかもな。涼しいところで休んだほうがいい」
「……そっか、暑かったからか」
「健太、蒼生を。俺は部長に一言言ってくるから」
「あ、わかった」
 健太は蒼生の手を引いて立たせる。その手はいつもの暖かい手だ。さっき握った時は、氷のように冷たかった。あんな温度は初めてで、正直、とても怖かった。……初めて? いや、知っている気がする。ぎゅ、と健太は指に力を込めた。
 きちんと冷房が完備されていそうな海の家を見繕って中に入る。やはり天気もいいし、ほとんどの客は店先で買って浜辺に戻っていくせいか、店内の客はまばらだった。一応横になってもいいように、奥の板敷きの席を選ぶ。すだれがかかって視界が遮られたそこは、隣の席との間にもすだれがあり、半分個室のような状態だ。蒼生はそこに入ると、長く息を吐いて、壁にもたれかかった。
「あー、涼しい。やっぱり暑かったのと、水分少なかったかな」
「……そうかもな」
 健太が頬に触れると、蒼生は嬉しそうに表情を崩す。だいぶ顔色も戻ってきたようだ。
 それからまもなく、健太から店名の連絡を受けていた冬矢が、すだれを上げて入ってくる。
「蒼生が熱中症かもしれないって伝えてきたよ。このまま自由行動にしていいって」
「ありがと。よかった」
 ほっとしたように息を吐くと、蒼生は体を起こした。ふたりがはっと身構える。
「どした?」
「ちょっとトイレ」
「まだふらつくだろ。ついて行こうか」
「あはは、大丈夫」
 先程のやりとりで信頼度が地に落ちたはずの「大丈夫」を口にし、蒼生は厨房裏にあるトイレに向かってふらふらと歩いていく。あの様子では心配するなというほうが無理な話だ。ふたりは、じっと蒼生が消えたドアを見つめる。
 その体勢のまま、健太が冬矢に顔を向けた。
「……なあ、これ、どういうことだと思う?」
「俺も専門家じゃないんだがな。……ただ、状況を見ると、明らかに蒼生の様子が変わったのは、視界を閉ざされてからだ。人の気配や話し声に怯えているようだった。俺が話しかけている時だけは落ち着いていたと思う」
 健太は首を捻る。
「スイカ割りなんて、それこそちっちゃい時は家族でもやってたんだぜ。その時は目隠ししても、上の奴らにぐるんぐるん回転させられてふらふらしてても、にこにこしてて。……いや、今思うとあれが平気だったかどうかもわかんねえけど、少なくともさっきみたいな状態にはならなかった」
「……そうか」
「あ、でも、ちょっと前、目隠ししたら急に蒼生が不安がったことがあったな」
 ぎらりと冬矢の目が光る。
「は?」
「っ、いや、合意の上! 合意の上!! それまではちゃんと蒼生も楽しんでたんだよ。なのに、目の上にタオルかけたとたんに心細そうになったんだ。もちろんすぐ外したさ。言われてみりゃ、たしかにオレとしゃべってる時はほっとしてたかも。蒼生本人もなんでだかわかんないみたいで、それっきり気にもしなかったんだけど」
 冬矢は腕を組んで深く息をついた。
「周りに誰かいる状況で……その誰かを自分では把握できない時にパニックになるのか……? はっきりしているのは、蒼生本人が制御できないほど、恐怖としてそれが深く刷り込まれているということか」
「んー……。知らない人に触られそうなのが怖い、とかか?」
「……それが、小さい頃の蒼生にはなかった、と」
「てことは……。やっぱ」
「フラッシュバックか」
 会話が途切れる。ふたりの脳裏をよぎっていたのは、あの校舎裏にあった古い倉庫での出来事だ。薄暗く埃っぽい閉ざされた空間で襲われた蒼生。あの場面は、今でもふたりの中に、重く苦しい光景としてこびりついて離れない。自身の記憶を根底から揺るがすほど、吐き気を催す最悪の場面。あの空気を思い出すだけで恐怖がはっきりと蘇る。だが、蒼生はそれより強烈なダメージを受けたはずだ。蒼生はもうなんでもないと笑うけれど、一番傷ついたのは間違いなく蒼生だ。蒼生自身が気付かない場所で傷が膿んでいたとしても不思議ではない。
「……やっぱりあいつ、潰しておけばよかった」
「おまえらしくないことを言うよな。あれ以降手ぇ出してこなかった以上、潰したとこで蒼生に起きたことをなかったことには出来ねえだろ」
「…………。わかっている。わかってはいるが」
「そりゃオレだって……許せねえけどさ」
 あれがどこの誰だかは調べはついている。が、脅しが効いて、明らかに3人を避ける動きをしていた相手を、わざわざ追い詰めるのは得策ではない。反撃にあう可能性も大きいからだ。だが、だからといって、それですべてが許せるはずはない。おそらくこの先も許すことはないだろう。こうして蒼生に傷が残っていることがわかってしまったからには。
「……オレらに出来ることは、これ以上刺激しないことくらいか……」
「そうだな。……なんとかこれも上書き出来ればいいんだが」
「ああ。その方法を考えていくしかねえんだろうな」
 そこに、ぱたんとドアを開けて、蒼生が出てきた。ふたりは目配せをすると、深く息を吸い、表情を整えた。ここで自分たちが暗い顔をしていては、蒼生は余計に気にするだろう。
「ただいま」
「ん、おかえり」
 蒼生はにこにこと笑っている。まだ本調子ではなさそうだ。わずかに他人行儀な笑顔は、気を張っていないと駄目だという証拠だ。
「吐くかと思ったけど大丈夫だった」
 健太ががくりと肩を落とす。
「吐くかと思った時点で大丈夫じゃねえだろ……」
「あはは」
 誤魔化すように笑った蒼生がサンダルを脱ぎ捨て、一段高くなった床にぽすんと座る。それからぐーっと手足を伸ばして、壁に再び寄り掛かった。
「それで、ふたりはどうしたの? ちょっとぴりぴりした空気だけど」
 ぐっと健太が息を呑む。やはり隠しきれないか。対する冬矢は、はーっと息を吐いて、笑う。
「俺たちの心配をしている場合じゃないだろ。蒼生のことを心配していたんだよ」
「……あ。そっか、だよね、ごめん」
「わ、謝んないでって。しょーがないじゃん、な、暑い中で他人がいっぱいで緊張しちゃったら、そりゃ体調も崩すよな」
「そうだよ。仕方ないよ。ああ、少し冷たいものでも食べようか。落ち着くかもしれないし。いきなり体を冷やすのもいけないから、分けっこして食べよう」
 蒼生の具合の悪さは、おそらく心情から来るものだ。気分を変えたほうがいいはずだと考えた冬矢の提案に、蒼生はぱっと顔を輝かせる。
「いいね! 食べる!」
「ってことは、焼きそばかイカ焼き?」
「えっ。健ちゃん?」
「あっはは、冗談冗談。んー、やっぱかき氷かなー。いちご、メロン、レモンとか……へえ、サイダーとかオレンジとか抹茶とか、いろいろあるぞ」
「びっくりした、健ちゃんのことだから本気かと思った。……うー、いっぱいあるんだね……。健ちゃんと冬矢は……」
「蒼生がメインなんだから、蒼生が好きなもん選ばねえとダメだろ」
「……うー…………じゃあ、いちご」
「おっけ」
「うー」
 選び終えてもまだ悩んでいる様子に、健太と冬矢は胸を撫で下ろした。
 やがて3人の真ん中に、どんっと山盛りの氷が置かれた。原色で波と太陽が描かれた大きめのコップから溢れそうな、目に眩しい鮮やかな赤は、いかにも夏らしい色彩だ。
「早く食べないとすぐ水になりそうだな」
「わー、食べよ食べよ」
「三方向からだからな、崩さないように気を付けないと」
「よし、いきまーす。……冷たっ」
「うわー、これキーンってなるやつだろ」
「でも美味しいね」
「蒼生、そっち零れそうだよ」
「え、あ、健ちゃん、ヘルプヘルプ」
「任せろ」
 インパクトのあった大きさは、3人がかりで立ち向かっていくと、みるみるその体積を減らしていく。蒼生のために買ったものだが、健太が遠慮なく口に運ぶのを見て、蒼生はとても嬉しそうだった。
 最後に残った赤い冷水をぐーっと飲み干して、健太がぱんっと手を叩く。
「ごちそうさまでしたっ!」
「はー、さっぱりした。けど、勢いよくいったから舌が冷たい。しゃべりづらい」
 笑って蒼生が舌を出す。普段より赤みが強いのは、シロップの色のせいだろう。健太は蒼生にぶつかるほど近付くと、その舌をぺろりと舐め上げた。
「!?」
「お、ホントだ。冷たいな」
「どれどれ」
 冬矢も反対側から近付き、蒼生の舌を吸って自分の口の中に招き入れる。
「? …………!?」
「……っふ。だいぶ暖まったかな」
 蒼生はぱちくりと目を見開きながら、頬から耳までを真っ赤にする。
「そっ……外っ、なのにっ」
 小声で抗議しながら、蒼生はふたりの上着の裾を掴んだ。
「すだれかかってるから見えないって、大丈夫」
「あっ……あと、ふたりの舌も冷たかったんだけど!」
「じゃあ、あとでもっとあったかいの、しようね」
「…………っ、それは、……する」
 するのか。ぎゅうっとその手に力が入るのを、ふたりはようやく落ち着いた気持ちで眺めた。

 夕食は、例のテニスサークルと合同での宴会になったらしい。そんな急に予定は変更できないだろうから、これも決まっていたことなのだろう。
 先にホテルに戻っていた3人は、ロビーで宴会の準備のために他のメンバーより早く帰って来た細谷の姿を見つけた。ソファから立ち上がると、細谷はすぐ気が付いて駆け寄ってくる。
「野木沢くん! 大丈夫? 熱中症って聞いたけど。ごめんね、部長の自分がちゃんと見てあげられなくて……」
「いえ、ちょっと熱気にあてられただけみたいで、少し休んだら楽になりました」
「あー、ほんと? それはよかった。食事はどうかな。食べられそう?」
 もともと蒼生を宴会の場に出したくないふたりにとって、それはありがたい質問だった。ロビーで寛いでいたのは、それを頼むべく細谷を捕まえたいと思っての行動でもあったのだ。
「せっかくなのですが、もう少し休ませたいと思います」
 えっ、と声を上げたのは蒼生だ。
「冬矢、僕、平気だよ」
「駄目。大事を取った方がいい」
「そうだよ。きちんと治しとかないと、明日の電車もしんどいだろ」
「健ちゃんまで……」
 細谷は3人を笑顔で見て、うんうんと頷いた。
「2人は心配性なんだね。でも、その通りだと思うよ。じゃあ、2人も一緒に?」
「はい、適当に済ませますので、すみません」
「わかった。みんなにはそう言っておくね。野木沢くん、明日の午前中は希望者のみの周辺散策だろ。ぜひ君を……君たちを連れて行きたいところがあるんだ。だから、ゆっくり、早めに休んで明日までに元気になってね」
「……ありがとうございます」
 つくづくいい人だ。蒼生が感動しつつその背を見送る後ろで、健太と冬矢は頷き合う。
「じゃ、そういうことで、健太は食事の調達を頼む」
「ん。おまえは蒼生と部屋戻ってて。蒼生、すぐ戻るからな」
「うん」
 そうして、冬矢とふたりでしんとした部屋に戻る。電気をつけるよりも先に、蒼生はそっと冬矢に寄り掛かった。まだ気分が悪いのだろうかと冬矢はそっと顔を覗き込む。
「蒼生?」
 蒼生は気を抜いたようなほんわりした表情をしていた。
「ありがとね。なんか……いろいろ」
「いや……。それより、夕飯、ちゃんと食べたかったろうに、俺が」
「ううん、美味しいごはんは食べたいけど、絶対知らない人に取り囲まれてわいわいなるから嫌だったんだ。せめてサークルの皆さんだけなら、だいぶ見慣れてきたから平気だったのに」
 それに対して、冬矢の返事はすぐに来なかった。あ、と蒼生は顔を上げる。
「そうだ。言い忘れてたけど……やっぱり、僕も、神崎先輩には気を付ける」
「! 何かあったのか?」
「僕、人に触られるのが苦手だってはっきり言ったのに、そのまま肩抱かれた。なんてことないかもしれないけど、やだったから」
「……そうか。教えてくれてありがとう。怖かったな」
 ふわりと優しく、冬矢が蒼生を抱き締める。蒼生が息を吐いて肩に額を乗せてくると、改めてその手に力を込めた。背中に触れた手から、蒼生の安心しきった様子が伝わってくる。愛しい、愛しい温度。人に触れられて嫌だったと語ったばかりの蒼生を、こうして抱き締めても、決して拒まれることはない。許されている、愛されているという実感。
「……好きだよ、蒼生」
 何度も伝えた言葉。けれど、そのたびに、蒼生は嬉しそうに笑う。
「僕も好き」
 ずっとこのまま、ふたりでいられたらいいのに。
 冬矢の思惑はいつもの通り、ノックの音で遮られた。やれやれ、と肩をすくめ、蒼生を抱いたままドアスコープを覗く。そこにいるのが健太だということを確認して、手を離さずにドアを開けた。その隙間から、するりと健太が入ってくる。
「おかえり、健ちゃん」
「ただいまー……って、電気もつけずになにしてんだよ。まさか、ドアの前でずーっとそうやって抱き合ってたの? オレが買い物してる間ずっと?」
「……えへへ」
「ずっるい! オレも! 冬矢、おい、交代!」
 仕方なさそうに冬矢が手を離すと、隙間に割り込むように健太が蒼生を抱き締める。
「蒼生~。ぎゅー。あと、ちゅーも」
「うん」
「んー」
 健太は満面の笑みで、蒼生に何度も何度も口づける。そして、その片手間で冬矢に向かって袋を差し出した。呆れたように笑って、冬矢がそれを受け取った。
「ありがとう。あれ、コンビニに行ったんじゃないのか」
「ああ、そうしようかと、んっ、思ったんだけど、外、裏っかわに、パン屋さんあるって、んー、聞いて、んっ、手作りだって」
「キスしながらしゃべるな、蒼生が苦しそうにしてるだろ」
「あっ、ごめん! つい夢中で」
「ふはー……。ううん、嬉しい……」
 肩で息をしながら、蒼生はにこにこと笑っていた。
 袋の中身は様々な総菜パンだった。フィルムに包まれているのが、町のパン屋さんらしくていい雰囲気だ。ふんわりしたコッペパンに挟まっているのは、コロッケや魚のフライもあれば生クリームのものもある。カレーパンは揚げたてらしくほかほかだ。ミニクロワッサンもバターのいい香りを漂わせている。どれも美味しそうだ。
 部屋には小さな机があったが、3人はベッドに並んで座る。蒼生がふたりから離れたがらなかったせいだ。口では大丈夫だと言っているが、揺らぐ部分もあるのだろう。
「やっぱ、今度は3人でどっか行こうな」
 健太はフライを飲み込んで言った。
「うん」
 もぐもぐと口を動かしながら蒼生も頷く。冬矢が手に取ったクロワッサンを眺めながらしみじみ呟く。
「そうだね。せっかく買った水着なのに、水に入る機会がなかったからね。たまにはそういうのもありかもな」
「うん、健ちゃんと冬矢となら行く」
 それを聞いた健太は嬉しそうだ。インドア派のふたりから出た肯定的な発言が撤回されないうちにと身を乗り出す。
「3人だけで行くときにはもうちょっと可愛いのも蒼生に着せたいなあ」
「ええ、新しいの買ったばっかなのに、もったいないよ」
「だって見たいんだもん。可愛いやつ」
「そもそも男性用の水着に対して可愛いって難しくない?」
「んー……。じゃ色気は求めていい?」
「!?」
「健太。それじゃ人目があるところでは着せられないだろう」
「ああ、そっか。そうだな。なんかさあ、貸し切りにできるプールとかないのかな」
「調べてみよう」
「ひぇ……」
 途中から話に入ってきた冬矢も何故か乗り気だ。こうなると誰も止める者がいない。どういう格好をさせられるかわからない蒼生でさえ、好奇心に負けそうだからだ。次第に真剣になっていくふたりを、蒼生は穏やかな顔で、何度も交互に眺めていた。

 翌朝、朝食のためにロビーまで降りようとエレベーターホールに出た3人と木之下は、そこでばったり細谷と神崎に出くわした。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日もいい天気みたいで、よかったですね」
 言いながら、健太が蒼生の前に立つ。冬矢から昨日の情報を共有されていたため、健太も警戒心を最大限に高めている。
 細谷は蒼生の顔を見てほっと息をついた。
「昨日会った時は顔色悪かったけど、だいぶ良くなったみたいだね」
「お気遣いいただいてありがとうございました。おかげさまですっかり元気になりました」
「じゃあ今日は一緒に出掛けられそうかな」
「はい」
 全員笑顔だが、ふわふわした会話をしている隣では、健太と冬矢が神崎との間で静かに火花を散らしている。
 そこにエレベーターがやってくる。全員の意識が開いたドアに行った瞬間、ほんのわずかな隙を見つけた、というより無理矢理ねじ込んでくるように、神崎が蒼生の肩を抱いた。
「昨日は具合悪いのに気付いてあげられなくてごめんね」
「っ!」
 健太が蒼生の手を引いて剥がし、冬矢が蒼生をエレベーターの隅に押しやる。
「昨日の彼の話、ちゃんと聞いていました? スキンシップが苦手だとはっきり伝えたと聞きましたけど?」
「君たちとは平気そうじゃないか」
「オレたちだけ特殊なんでー」
「そうか、じゃあ俺も特殊になれるように頑張ろうかな」
「無駄だと思いますけど」
 狭い空間での妙なやりとりに、細谷と木之下は不思議そうに首を傾げる。木之下が、隅っこで潰されている蒼生を覗き込んだ。
「野木沢、何かあったの?」
「いやー……あはは」
 この状況をなんと説明したらよいのやら。まず蒼生自身がよくわかっていない。なんだって神崎はこんなに自分に近寄ろうとしてくるのだろう。
 穏やかなサークル活動を望んでいたはずだが、なかなかすべて平穏無事に、とはいかないようだ。

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