高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

プロフィールタグ

投稿日:2024年09月09日 22:10    文字数:17,021

64こ目;if~今宵、月はさかさまに満ちて~

コメントを送りました
ステキ!を送りました
ステキ!を取り消しました
ブックマークに登録しました
ブックマークから削除しました
コメントはあなたと作品投稿者のみに名前と内容が表示されます
今回は少し毛色の違ったお話を。
中学2年生の春、蒼生と健太が同じクラスになった場合、
もしかするとあり得たかもしれない過去と未来の話です。
普段よりだいぶ甘さ控えめになっておりますのでご注意ください。

↑初公開時キャプション↑
2022/09/09初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
1 / 1

 涼しい風が吹いていた。見上げる掲示板に貼りだされた紙の、白。髪が頬にかかって少し邪魔だな、と思いながら、僕は立ち尽くすようにそれを見つめていた。
「今年もクラス一緒になったな!」
 嬉しそうな声がして横を見ると、同じように掲示板を眺める健ちゃんがいる。目を戻せば、書かれた文字列がようやく頭に入ってくる。同じ紙の同じ列に、少しだけ離れて書かれた僕らの名前。
「小学校6年と、中学の2年だから、これで8年……幼稚園入れたらもっとになるのか。きっと、オレと蒼生はこのままずーっと一緒にいるって決まってるんだな!」
「……そうだね」
 無邪気に笑う健ちゃんに、僕も笑顔を返す。
 だけど僕は知ってるんだ。そう言うのも今のうちなんだろうなって。健ちゃんは、遠くない未来に、きっと僕から離れていく。僕よりも大切なものを知った健ちゃんは、今でこそ短いスパンでそれを入れ替えているけれど、いつかきちんとお付き合いする人ができるはずだ。明るくて楽しくて人懐こくて、背が高くて笑顔が眩しくて実は真面目で優しい健ちゃん。誰もが好きになるよね。その好意を寄せてくる限りない人たちの中から、選ばれる人がいるはずだ。幼馴染みの僕は、その後押しをするだけだ。
 いや……。それも迷惑なんだろうな。余計な世話だと思われるに決まってる。だからこれ以上健ちゃんの足を引っ張らないように、ただ黙って僕のほうから離れていくべきなんだ。わかってるんだ。大丈夫。

 学年があがって少し余裕が出てきたのかな。健ちゃんの彼女さんとのお付き合いは、少しずつ長続きするようになった。いいことだし喜ばしいことだ。でも、逐一丁寧に報告することはないと思う。
「僕に教えてくれなくてもいいんだよ?」
 そう伝えると、健ちゃんはきょとんとした。
「なんで?」
「なんでって……」
 僕が聞きたくないからだよ。健ちゃんの話は楽しいけど、女の子の話を聞くのは苦痛だった。色恋沙汰のあれこれを聞くのは、しんどい。僕にまったくなんの関係もない話を延々と聞かされるのは、いくら健ちゃんといえど耐えがたい。でも、そうはっきり言うのもよくないな。健ちゃんに嫌な思いをさせたくない。
「だって、健ちゃんだけの話じゃないでしょ。相手のことをあんまり話すのはよくないと思うよ。きっと彼女さんも、内々のやりとりは他人に聞かれたくないと思うなあ」
 すごい。適当に言ったのに、我ながら筋の通った返答が出来たと思う。
「あっ、プライバシーってやつか」
「そうだよ」
 健ちゃんは、はっとしたように頷いた。そう、相手のことを傷付ける人じゃない。だからすぐにわかってくれた。そうだよ、健ちゃんはまっすぐで真剣でとても優しい人だから。そういうところをみんな好きになるんだ。
 そうして落ち着いてくると、次第に僕に飛びついてくることも減っていった。生活の多くが彼女さんとの時間になっていったせいだろう、それを嫌がった僕と話すことも少なくなっていって当然だった。並んで歩くことはあったけど、それだけだ。だよね、もう子供じゃないんだから。……なんだか心がすかすかした気分になる。でも、これが当たり前だ。普通のことなんだ。これまでがおかしかったんだ。サッカーの試合も、今までみたいに毎回見に行ったりしない。それは僕の役目じゃないからだ。
 僕は言い訳をするみたいに、図書室に引きこもることが多くなった。それは学校の図書室のこともあったし、公営の施設に併設された図書館のこともあった。どうせ健ちゃんとは予定が合わないんだ。予習復習をするのも自分の部屋より緊張感があってやりやすいから丁度いいんだ。家に帰ると、健ちゃんが来てたって伝えられることもあったけど、僕が毎度いないと知ると、次第にその回数も減ったようだ。
 おかげで、無意味に成績が上がった。定期試験で学年1位を取れることもあって、なんとなくそれで満足していた。顔くらいしか知らない上位の常連と競うのは、直接のやりとりがないせいもあって少し楽しかった。これで「おまえとはライバルだ!」みたいな会話がなされてたとしたら、僕は早めに離脱を決めたことだろう。
 まあ、きっと、こんな感じで地元の高校に進んで、同じような日々を過ごすんだろうな。
 そう思ってたある日だ。健ちゃんが、珍しく図書館にいる僕を探し出した。
「蒼生」
 ……健ちゃん。僕を見た途端の、ぱっと明るくなる笑顔。
「一緒に帰ろう」
「うん」
 別に仲違いをしたわけじゃない。飛びつかれることも、夜中まで話すことも、一緒に遊ぶことも減ったけれど、僕たちは幼馴染みだ。それは変わらない。だから断る必要はなかった。
 久しぶりだからかな、ちょっと調子に乗っていろいろ話してしまった。健ちゃんも、部活の話や彼女さんの話をしてくれた。うん、久しぶりだし、我慢しよう。
 いつもより短い帰り道だった。あっという間に家の前に着いた時、健ちゃんが切り出す。
「オレね、サッカーの強豪校からスカウトされたんだ」
「え、すごい! おめでとう!」
 そうか、努力が認められたんだ。一生懸命頑張ってたもんね。ちゃんと見てくれた人がいたんだ。よかった。嬉しい。
「ありがとー! やっぱ蒼生に祝ってもらうのが一番嬉しいや」
 そして健ちゃんは、その高校の名前を教えてくれた。僕でさえ知ってる高校。すごい。
 ただ、ひゅっと背中が冷えた。
「……遠いところだねえ」
「ああ。だから、家、出るんだ。春から寮生活だぜ。ちゃんとできるかな」
 そうか。
 うん。
 そうか。
「できるよ。健ちゃん、すごく努力をする人じゃん。それに、すごく人に好かれる人だもん。絶対うまくいくよ」
「ありがとう。すごいな、蒼生に励まされるとすげえ自信湧いてくる!」
 大丈夫。
 わかってたから大丈夫。
 さよならの時が来たんだ。

 僕はそのまま、地元の高校に入った。このあたりの人はそれを標準コースだと思っている節があるから、3分の1くらいは知っている顔だった。ただ、その中に健ちゃんはいない。毎日何事もなくにこにこ無駄に笑顔を振りまいて過ごしていた僕には、そのせいか近くで笑いかけてくるような人たちもいた。けれど、その中には、見ているこっちが元気になるような、健ちゃんのあの明るい笑顔はなかった。
 やることもなかったから、行事をこなしつつ、ただひたすら勉強に励む日々だった。そうしていたら、そういうキャラクターだと思われたんだろう、いつの間にか真面目そうな人たちが周りに集まるようになった。集まって勉強会をする機会も増えた。彼らは真剣に将来を考えて、目標を見据えて勉強している。その中で、僕はただ他にすることがないだけだ。成績だけは結果として出てるから真面目に「見える」だけで、実は一番不真面目なんだ。
 健ちゃんは、定期的にメッセージをくれた。こんな練習をしたよ、とか、次はここと試合をするよ、とか。それに対して、僕は返事をしたりしなかったりした。たくさんの言葉で返してしまうと邪魔だろうし、できれば僕なんかとのやりとりに使う時間を減らしてほしいと思ったから。つい返してしまいそうになるメッセージを、直前で消すことなんてしょっちゅうだった。そんな不誠実な僕に、健ちゃんは懲りずにずっと言葉を送ってくれた。本当に真面目なのは、健ちゃんのほうだと思う。
 休みの日にも部活があったり自主練したりと忙しいみたいで、長い休みでも健ちゃんは帰ってこなかった。自然と、僕と健ちゃんの接点は文字だけになった。時々電話が来ることもあったけど、僕は出なかった。声を聞いたらダメだと思ったからだ。
 進学して初めて顔を合わせたのは、高校2年の夏の終わりごろだったと思う。寺田家のリビングで、健ちゃんの妹みのりちゃんの勉強を見ていた時、突然ふらりと帰ってきた。
 僕は、何故か、息が詰まる感じがした。
「ただいまあ」
 健ちゃんは、よく日に焼けて、背もずっと高くなってた。きらきらした笑顔が眩しくて正面から見られないのは、きっと頑張っている人に対する劣等感のようなものだったんだろう。たぶん、ずっと連絡を怠っていたのを申し訳なく思ったのかな、胸がぎゅっと痛んだのを覚えている。
「なんだよ母さん、そんな変なモン見るような顔で。息子の健太くんですよ~」
「えっ、帰ってくる予定だったっけ?」
「ううん、部活が急遽、顧問の都合で休みになってさ。彼女と旅行しよって話になって、じゃあオレの地元来てみる? って盛り上がっちゃって」
 あー。
 知らない人の話だ。
 いつの間にそんな仲いい彼女が出来たんだろう。
 僕は聞いてない。
 ……いや。そうか。聞こうとしなかったのは僕か。
「どうしましょ、部屋とか物置になっちゃってるんだけど」
「いいよ、急だったからホテル取ったし。ホントは彼女にも家にくればいいじゃんって言ったんだけどさ、緊張するから遠慮するって。だから、とりあえずオレだけ顔出しに来た」
「じゃ彼女ホテルに置いてきたんだ」
「や、なんかひとりで買い物したいんだってさ。なんかこのへんで限定品? が売ってるらしいよ」
 何も聞かない、何も考えないことにして、僕はみのりちゃんの参考書に目を落とす。中学3年生の数学だ、わからないはずはないのに、数字と記号がぐちゃぐちゃに並んでいるようにしか見えなかった。
「蒼生も久しぶり」
 ぎくりと身体が跳ねた。
「あ、うん、久しぶり。元気そうだね」
「それが取り柄だからな! でもこの前、酷い風邪ひいちゃってさぁ。めちゃくちゃ彼女に心配かけちゃって」
 昨日も会っていたかのように、健ちゃんはすらすらと話し出す。まっすぐに僕を見る、澄んだ色の瞳。心臓の音がうるさくて内容はほとんど聞き取れないけれど、低くて優しい声が脳内に響くのを感じていた。なぜか、椅子についた手が震える。勝手に動き出しそうなそれを抑えるのに、ものすごく力が必要だった。
 みのりちゃんが、ばんと机を叩く。
「ねえお兄ちゃん! 久々なのはわかるけどさ! しゃべりすぎ! 今勉強中で教えてもらってるとこなんだけど!」
「あ、悪ぃ悪ぃ。じゃ、いっこだけ。蒼生、覚えてる? 昔よく一緒に行った、かき氷やってる喫茶店」
 胸がきゅうっと締め付けられる。ふたりで、よく、行った。思い出の。
「え……ぁ、うん」
「あそこってまだやってるよな? 彼女連れてってやろうと思ってさ」
「!」
 ……何を僕は勘違いしたんだ? 僕には関係がない。当然じゃないか。
「っと、うん、やってるよ。氷ののぼりもちゃんと出てたから大丈夫だと思う」
「そっかー。ありがとな!」
「どういたしまして」
 笑え。大丈夫だ。笑え。

 さすがに大学の頃になると、健ちゃんからの連絡も減った。そうだろう、忙しいはずだ。僕は相変わらず特にやりたいこともなかったので、家から通える大学に進学した。
 それから、僕、彼女が出来たらしいよ? 知らなかったけど。ゼミの打合せで一緒だった後輩の女性らしい。目を離した隙に携帯に連絡先を入れられた。彼女が吹聴したらしい、翌日からは周りが僕たちを恋人同士として扱いだした。
「身に覚えがありませんけど」
「またまた! 恥ずかしがっちゃって~! 聞いたぞ、熱烈な告白したそうじゃねえか!」
 へえ。こういう話って、先に話したもの勝ちなんだな。後から訂正しても聞いてもらえないみたいだ。……めんどくさいな。
 僕が連絡を見ないので、僕は自分の予定をゼミの先輩や同輩から聞くことになった。だって、数時間ごとに届くメッセージなんて、見るのも面倒だ。どうでもいい日記みたいなのから愚痴みたいなのとかただの挨拶まで、その中に予定をねじ込まれても気が付かないと思う。不思議なんだけど、そもそも、予定ってお互いのスケジュールをすり合わせて決めるものなんじゃなかったのかな。
 ゼミの人たちは、僕の態度を「照れ」だと判断し、性格を「奥手」と受け取ったらしい。きっといい人たちなんだろうな。自分たちが面倒を見てやろうと、変な方向に張り切ってしまったようだ。だからいちいち食事をセッティングしたり、遊びの予定を立てたりする。出来るだけ断ろうとしていたけれど、なにせ誤解されているから、「じゃあダブルデートにしてやろう」などと突拍子もない発想が出てくる。強引に断ればゼミ内のそっちの人間関係にも響くから、やむなく付き合わざるを得なかった。
「どうして僕にこだわるのかな」
 自称彼女のその子に聞いたことがある。
「だって、私、野木沢くんが大好きなんだもん!」
 ……はあ。勘弁してくれないかな。そんなわけないだろ。僕なんかを選ぶ人間がいるはずがない。馬鹿馬鹿しい。恋愛したかったところに、偶然手っ取り早そうな僕がいたってだけの話だ。なんとなく丸め込めそうだと思ったんだろうね。まったく、そういうのはその気がある人同士でやってほしい。ああ、でも、こうして振り切れず連れ回されている自分の意思がない情けないところは、そういう隙があると思われても仕方ないのかな。心底自分が嫌になる。
 そんな一方的な関わり合いの中で、ひとつ成果をあげるとしたら、僕が人に触れられるのがどうしても駄目だというのがわかったことくらいかな。あれは、その子が手を伸ばしてきたときに発覚した。
「ねえ野木沢くん、手えつなご」
「っ!」
「……え?」
 その時は、僕自身何が起きたかわからなかった。その子の手が僕の手に触れて、背中一面に悪寒が走ったのは確かだ。
「ど、どしたの?」
 困惑したように僕の腕に触れてきた手に、急に吐き気を覚えた。
「ごめんね、ちょっと具合悪いみたい」
「え、え、じゃあ、その……休んでいく?」
「ううん。先に帰るよ。今日は送っていけなくてごめんね」
 それがその子に対する拒否反応だったのかどうかが知りたくて、それから僕は他の人にもさりげなく触れてもらうように仕向けてみた。そしてその結果、触れられて気分が悪くなるのには性別も年代も関係ないことがわかった。先輩も、後輩も、教授も。バイト先のお客さんも、一緒に働く人たちも。その人がどういう人なのかも関係なかった。そういえば、僕も誰かに触れたいと思わない。
 つまり、僕はこの先、誰に触れることもない。触れてもらうこともない。
 そういうことなんだな。
 なお、このよくわからないお付き合いとやらは、ある日突然片が付いた。
「野木沢、ごめん。実は、彼女の相談に乗ってるうちに……そういう関係になっちゃって」
 僕は頭を下げるクラスメイトを見ても、特に何も思わなかった。ああ、ようやく平穏な日々が戻るな、とは思ったか。
 でもそう言うのも角が立つ。出来る限り悲しそうな顔を作ってみる。
「……そうか。謝ることじゃないよ、僕が頼りなかっただけなんだろう。彼女をよろしくね」
「ありがとう、おまえ、本当にいい奴だな……」
 本当にいい奴が、せいせいしたーとか思うわけないよね。僕は酷い人間だ。周りを騙すことしかできない。
 とにかく僕は、この出来事で、二度と色恋沙汰には巻き込まれないという決意を新たにした。恋愛なんて碌なことにならない。いや、他人のソレを否定はしないけど、お互いの同意のもとでやってほしい。そして僕を巻き込まないでほしい。
 その後、新しい恋人同士になった2人と、変わらず同じゼミに所属し続けたことで、心の広い人間だとまた違う誤解を呼んでいたみたいだけど、なんだかもうどうでもよかった。逆にそれで、深く傷付いたであろう僕の恋愛事情に口を出すのは憚られる、という空気が生まれたことはありがたかったけど。

 そんなこんなで、僕も今では社会人だ。家も出た。本当は地元で就職してほしかったらしいお母さんにはぐちぐち言われたけど、全国展開する会社のどこで働くことになるかは会社の都合だから……で理解してもらった。本当は、地元採用も提案されたけど、どこでもいいと言ったのは僕だ。とにかく、誰とも喋らない時間が欲しかったから。仕事が終わればひとりになれる、そういう環境が欲しかったからだ。
 とはいえ、そう簡単にはいかないんだよなぁ……。なんで、こんなに頻繁に飲み会があるんだよ……。
 今日も先輩に引っ張ってこられた。今回は隣の部署との懇親会だそうだ。それって必要なのかな。……なんて、僕みたいな新人が口を出せるようなことじゃないけど。
「野木沢さんってお酒強いんですねえ」
 そう声をかけてきたのは、……ええと、誰だっけ。隣の部署の女性だ。ご存じの、といったノリでみんな話しかけてくれるんだけど、かかわりのない人の名前はすぐに抜けていって思い出せない。
「そうでもないんですよ、あまり顔には出ないようなんですが」
「へえ、そうなんですか」
 あんまり飲まないようにしてるだけなんだけどね。人の話を一生懸命聞いてるふうにして、手を動かす回数を出来るだけ減らしているせいだ。
「あ、お食事のほうはあんまり進んでないみたい」
「飲む際はどうしても、そちらがメインになってしまって。よくないとわかってはいるんですけどね」
「そうですよ、ちゃんと食べないと。そうだ、この前、同僚に美味しいお店を教えてもらったんです。今度一緒にいかがですか」
 あー……。
「そうですね、機会があればぜひ」
 言って、僕はテーブルに視線を巡らせる。ちょうど隣の机にいる部長がグラスを空けたところだ。
「あ、すみません、失礼します。……部長、お代わりお注ぎします」
 テーブルの上の瓶をひったくる勢いで奪い、隣の机に移動する。部長は既に赤い顔をしていた。そのグラスに丁寧にお酒を注ぐ。
「おー、野木沢くんか。ありがとな!」
 部長は一気にそれを飲み干すと、僕の肩を掴んだ。…………。大丈夫、大丈夫。
「ずいぶんとシャイなんだなあ。見てたぞ? 隣の部のマドンナの誘いに乗らないとはなあ」
「あはは」
「ダメだぞ、若者がそんなことじゃ! 男は嫁と子供を持って初めて一人前なんだからな!」
「おっ、そうだぞ!」
「なんだ野木沢、彼女いねえのか!」
「そりゃよくないな~。家庭の温かさってモンを教えてやらんと」
「いい子見つけてやんないとな!」
 周囲からもそれを持ちあげる酔っ払った声が聞こえる。
 僕はそっちに向かってにっこりと笑ってみせた。
「いえ、僕なんかまだまだ未熟者ですから。そういったことは、部長や先輩方のように立派に仕事が出来るようになってからですよ」
 彼らを立てる言い方をすると、酔って単純になった彼らは簡単に、そうかぁ、と気持ちよさそうに納得してくれた。
 ふうん。
 そうですか。
 なるほど、じゃあ僕は一生半人前なんですね。
 そう思うけど、僕は笑顔を絶やさない。
 大丈夫、笑って答えるのは、得意だ。
 あー。
 気持ち悪い。早く帰りたい。
 早く。
 ひとりになりたい。
 意味があるのかよくわからない数時間を過ごし、ようやく飲み会は終わる。外の空気は日が落ちてもまだ暑かったけれど、アルコールの匂いがしないだけマシだ。
「なんだよ、二次会行かないのか?」
「すみません、プレゼンの資料を作り終えてなくて」
「え、明日の会議のか。そりゃやべえな!」
「なので、お先に失礼します」
 なんてね、そんなのとっくに終わってるけど。
 そこにさっきの女性が近付いてくる。
「野木沢さん、あの、私も帰ろうかなって思うんですけど」
「ああ、では一緒に、駅まで」
 そう言わないといけない空気。それに、女性を夜の繁華街でひとりにするのがよくないのはいくら僕でもわかる。挨拶をしてその場を離れる僕たちにからかうようにヤジが飛んだ。でも酔っ払いのヤジなんて気にする必要はない。聞き流した僕は、彼女をきちんと駅まで送り届けた。さすがにそこから先は責任の範疇外だ。
「あ、あの」
「ご自宅はどちらですか? ああ、反対方向ですね。それでは失礼します。お気を付けて」
 頭を下げると、引き留めたいと目で訴える彼女に背を向ける。綺麗な人だとは思う。性格も悪くないと同僚が話してた。なおさら勿体ない、僕みたいのなんかに寄り道してないで、ちゃんとした人を捕まえてください。
 数駅先、ワンルームの狭い部屋に戻ると、ようやくちゃんと息が出来る。ベッドとローテーブルと本棚でいっぱいになるくらいの広さしかないけれど、外の世界よりよっぽど圧迫感がない。僕は、その一番場所を取っているベッドの上に、そのまま倒れ込んだ。
 はー。
 着替えもシャワーもどうでもいい。寝たい。でも、目を閉じてしまうと、今日あったことがぐるぐる回り出す。朝一番の言葉が通じていないメール、聞いていない案件とその締め切りが今日だという巻きの電話、ミスの原因が僕だと決めつけてきた同期、席に戻った途端見計らったように鳴る電話、相槌を打たないと空気が悪くなる上司の関係ない長話、夕方になってから発覚する緊急作業、合間に起こる様々な理不尽、定時を過ぎてから告げられる有無を言わせず参加を求められる飲み会。あーあ。
 時々、全部吐き出してしまいたいと思うことがある。だけど、僕の話を聞いてくれる人なんて誰もいない。もちろん僕が望んだことだ。そういうふうに振る舞ってきたのは僕だ。それでいいと思ったし、今でもそう思ってる。だけど、たまに、何もかも投げ出したいと思ってしまう。
 駄目だ。頭がぐちゃぐちゃで眠れない。僕は頭の上にある本棚に手を伸ばした。最近は、本を買ってない。大体、どんな物語にも人間が出てくる。そこには、恨みつらみや恋愛事情が縺れることが多い。今はそういうものには触れたくなかった。だから休みの日に図書館に行き、1週間分の本を借りることにしている。もちろん、人間の話を読みたくないから、そういうのは借りない。ここのところは、もっぱら図鑑とか事典とか研究書を読んでる。図鑑はいいよ、ひたすらそのものの写真と名前と性質だけが書かれているから。僕には意味がわからない学名と鮮やかな色の羅列を眺めていると、余計なことを考えなくて済むから。
 そうやって、日々は繰り返される。
 毎日違うことが起きるけど、大まかにまとめれば同じことの繰り返しだ。
 そうして何日も何日も無駄に過ぎた。
 ちなみに、今日は、取引先との飲み会だった。わかるけど。必要なのはわかるけど。先方のお嬢さんの話とか、する必要あった? 同僚の「おい野木沢、チャンスじゃないか」とかいう冗談も笑えなかったし。ああいうの、固辞するのも印象悪いし、乗り気な様子を見せるのも失礼だし、本当に困るんだよ。
 僕はちゃんと息をするために、家の玄関の鍵を回す。
「……あー。おなかすいた……」
 今日の会食は大皿料理を取り分けるタイプだったから、大食漢の先方に気を遣わせないように僕は自分の分をわずかしか取っていない。気付かれて追加の料理を頼まれてしまうと、支払いはこっちなんだ、経費が増える。そんなことで文句を言われたくもないし。そもそも、僕は料理が出来ないから、家ではまともに食事をしない。昼も時間がなくてパンをひとつかじったくらいだ。……おなかすくのも当たり前だな。でもめんどくさい。いいや。寝よう。どうせ明日は休みだし。
 僕は深呼吸をして、ポストから取ってきた郵便物をばさりとローテーブルの上にぶちまけた。いつもとかわらない、チラシとダイレクトメールばかりの紙束だ。そう思ってきちんと見なかった……のに、ふと白い封筒があることに気が付いた。なんだろうと思って取り上げると、
 ……健ちゃんの、名前?
 エンボス加工のされた、綺麗な真っ白い洋封筒。たぶん健ちゃんの名前を見た時から、僕の思考は止まっている。丁寧にされた封を、同じように丁寧に剥がし、中身を確認する。真っ先に、金色のリボンが結ばれたふたつ折りの厚紙が出てきた。
「あー…………。健ちゃん、結婚するんだ」
 ばたり。全部が滲んで、封筒に水滴が落ちた。
 え?
 なに?
 ばた、ばた。
 本当に、何の音だかわからなかった。
 落ちた水の丸い跡で、それが涙だとわかるのにしばらく時間がかかった。
 なに……?
 あれ?
 僕……泣いてる?
 なんで?
 そこまで思って、ようやく気が付いた。本当に、ようやくだ。
 僕、健ちゃんのことが好きだったんだ。
 なぁんだ。
 そうか、そうだったのか。
 繋がった。
 全部、わかってしまった。
 そしてその瞬間、全部が遅すぎたことを知った。

 翌日、僕がまずしたことは、携帯電話を新規に1台契約することだった。それから、不動産屋に飛び込んだ。細かい条件は後回しにして、とにかく早く動ける場所を探した。これは少し難航するかと思ったけど、時期が良かったのか、意外と早く決まった。新しい部屋は無駄に広い気がしたけれど、そんなことを気にしている暇はなかったから。契約はすべて新しい携帯で登録して、大体のやりとりが済んだところで会社に新しい電話と住所を登録する。それから、今まで使っていた携帯電話を解約した。
 さすがに引っ越しが終わらないうちに、招待状の返事を出す締め切りは来てしまった。本当は全部済んでから出したかったんだけどな。
 その間、ずっと文面には悩んでいた。「健ちゃんの」って付けるのはなんだか嫌だったし、「あなたの」とか「健太くんの」とかはさすがに幼馴染みとしては他人行儀だろうし。だからといって、「2人の」と書くには抵抗がありすぎた。結局、「幸せをいつまでも祈り続けています」とだけ書いた欠席のはがきを、締め切りギリギリに投函した。

 音信不通を貫くのは楽だった。絶対に連絡が来ないとわかっているから。もしかして、なんて薄っぺらな期待を抱くこともないから。
 数年も経つと、僕も一応、ちゃんとした社会人になってきた。理不尽だって飲み込めるし、冗談だってさらりと流せる。表面だけの付き合いは昔から得意だったけれど、さらに上手に出来るようになったと思う。おかげで、責任のある仕事も任せてもらえるようになったし。
 打ち合わせを終えて相手先のビルから出ると、ちょっと時間かかっちゃったせいで、もう日が暮れかかってる。時計を確認したけど、ここから社に戻ると定時過ぎるな。それに、やることはほぼ終わってる。もう今日は直帰でもいいかな。
 一応上司に報告すると、「直帰でいいよ」と返答がきた。せっかく繁華街に出てきてるんだから、直帰できるなら、なにか買って帰ろうか。
 その時。
「……蒼生?」
 えっ。
 ……なに。
 今。
 知っている音が聞こえた気がする。
 何年も……ずーっと誰からも呼ばれていなかった名前。
 だから、一瞬自分の名前だと気付かなかった。
 だけど、声でわかった。
 わかってしまった。
 ああ。
 なんで僕は振り向いてしまったんだろう。
 最後に見た、あの眩しい笑顔で、
 健ちゃんはまっすぐに僕を見ていた。
「やっぱり蒼生だ」
 変わらない……いや、ちょっと丸くなったかな。がっしりして。顔つきも精悍で。社会人のスポーツマンを絵に描いたような。……腕には、2歳くらいの子供。それと、小さな、小さな赤ちゃんが、ベビーカーですやすやと眠っていた。
 二度と会いたくなかった。
 せめて、最後に会ったあの時で全て止まっていてほしかった。
 思い出のまま止めておきたかった時間が、否応なしに動き出す。
「久し振りだな! もう、ずーっと連絡取れなかったからさ。心配してたんだぜ? 携帯どうしたんだ? 家も引っ越しちゃった後みたいだったしさあ」
 やっぱり。あの時の判断は正しかったんだな。
「……うん。いろいろあって」
「そっかー」
 健ちゃんは笑う。細かいこと気にしないところ、変わってないね。いろいろ、って全部健ちゃんのことなんだけどな。
 ……駄目だ。違う。
 大丈夫。ちゃんとする。
「パパ、してるんだね」
 にっこり笑って言うと、健ちゃんは照れたように手元に目を落とす。
「あはは。そうなんだよ。可愛いだろー。嫁さんに似て美人なんだよな。……あ、そうだ、嫁さん、結局紹介も出来てないんだっけ。今そこの店で買い物しててさ。時間あったら紹介したいんだけど」
「ああ、うん。ありがとう。でもごめんね、まだ仕事中で」
「そっか、忙しいんだな。じゃあ今度時間がある時に、改めてゆっくり飯でもしようぜ」
 健ちゃんの腕に抱かれた子が、くりくりした目で不思議そうに健ちゃんを見上げる。ああ、そっくりだな。小さい頃の健ちゃんみたい。でも、同じじゃない。知らない。似てるだけの、知らない子。健ちゃんはその問いかけるような視線に「パパの昔からのお友達だよ」と言っていた。そう。お友達。それ以上のナニモノでもない。
 僕はそのまま、その場を去るべきだった。その言い訳だってもうし終えていたんだから。
 でも。バカだな。聞いてしまった。
「健ちゃんは……今、幸せ?」
 本当にバカだ。決まっているじゃないか。その優しい腕がすべてを物語っていると、誰が見たってわかるのに。
 だけど健ちゃんは、僕のくだらない質問にも、真面目に考えてくれる。
「んー、……うん」
 わかっていた答え。はにかんだ笑顔。そうだ。健ちゃんは幸せなんだ。僕がいなくても。僕の存在は、健ちゃんの幸せになんの影響も与えない。わかってた。
「そうか。そうだよね。よかった」
 大丈夫、笑える。
 笑って、そのまま、別れよう。
 なのに健ちゃんは。
「しかしさぁ。お互い大人になってるなんて、なんか変な感じだな。仕事って今何してるの? どこ住んでるんだ? なんか面白いこととかあった?」
 懐かしい無遠慮さで、僕の心に踏み込んでくる。
「普通の会社員。何事もなく、普通に過ごしてるよ」
「平穏ってことか」
 健ちゃんは他の人みたいに「彼女は?」とか聞かない。
 僕が自分のそういう話を一切したがらないことを知ってるからだ。
 同じように聞きたくないと言った、自分の彼女や子供の話はするくせに、そっちのほうは覚えているんだ。
 いや、違う、よく思い返してみれば、僕の話ははっきり断ったけど、健ちゃんの話はやんわり拒否しただけだったっけ。
 そんな細かいことまで覚えていてくれたのか。
 何も告げず連絡を断った僕に、健ちゃんは今でもちゃんと優しい。
 …………。
 ちょっと。
 もう、駄目だ。
 話さないで。
 その包み込むような目をやめて。
 僕のものではない目を、僕に向けないで。
 健ちゃんが、ふと真剣な目をして、首を傾けた。
「……蒼生。蒼生は今、幸せ?」
 ああ。
 なんで。
 そんな。
「……健ちゃんと一緒だった頃が、一番幸せだったよ」
 最悪だ。
 最低だ。
「ごめん、ばいばい」
「蒼生っ」
 健ちゃんは、両手が塞がっている。幸せで塞がっている。だから僕を追いかけてくることはない。人混みに紛れてしまえば、おしまい。全部がおしまい。終わり。全部。
 あー…………。
 本当に、全部、終わったんだ。
 しかも、最低の終わり方を選んで。
 あんなことを言ったら、絶対健ちゃんは気にするのに。
 優しい健ちゃんは気に病むだろうに。
 ……自分の言葉が、健ちゃんの遺恨になるとわかっていたのに、僕は止められなかった。
 酷い人間だとは思っていたけれど、ここまで最低だったなんて。
 何で、僕は、こんな。
 健ちゃんが、どこかで幸せでいてくれればよかったはずなのに。
 だから僕は健ちゃんから遠く離れていようと思ったはずなのに。
 腕の中の存在に、羨ましいと思ってしまった。
 あの腕は僕のもののはずだった。
 隣にいたかった。
 ずっと抱き締めるのは僕だけであってほしかった。
 本当は、愛されたかった……っ。
 ……ああ。
 そっか。
 僕はただ逃げていただけか。
 自分が一番ではなくなる現実から、逃げたかっただけなんだ。
 そのために、全部忘れるために、必死で生きてきて……なのに。
 …………全部、無駄だったんだな。
 なんでそこまでして、今まで生きてきたんだろう。
 一番ほしかったものは、唯一望んだものは、決して手に入らない。
 このまま生きていたって無駄なんだ。
 僕という存在が、全部無駄だって理解するまでに、こんなに長く生きてしまったんだな。
 ただそれだけだったんだな。
 ごめんね、健ちゃん。
 あー……。
 めんどくさい。
 どうでもいい。
 いつの間にか、僕は眼下に勢いよく走る車の流れを見つめていた。
 歩道橋の上。
 空が高い。
 健ちゃん。


 はっと目が覚めた。
 常夜灯の淡い光。え? 何? 生きて……る?
 あ……。ちがう。
 これ、家だ。家の電気。
 ……っ、と、隣、隣っ……あ、健ちゃ、…………。いる。健ちゃん。
 反対側には、ちゃんと、……冬矢が寝てる。
 ゆ、ゆめ……?
 あー…………。よかった……。あんまりにも長くてはっきりしてて、リアリティがありすぎて……あっちが現実かと思った。よかった。よかった……。
 そっか……。昨夜、なんだか眠れなくて、ぼんやり考え事をしてたんだった。もしも、ふたりがいなかったら僕は今頃どうなってたかな、って。それでこんな夢を見たんだ。
 ……ぞっとする。
 あれは、あり得た未来の話なんだ。
「んー……ぁおいぃ?」
 け、健ちゃん。
「あ、う、起こしちゃった? ごめんね」
「んーん、全然。なんかもぞもぞしちゃって、どした? 寝れねえの?」
 う、ちょっと今は優しい言葉をかけられると……。
「だいじょ、」
 健ちゃんはごそりと体ごと僕のほうに寄ってくると、大きな手をぽふんと僕の頭の上に乗っけた。
「そんな泣きそうな声して、大丈夫なんて言わないの。な。……怖い夢でも見たのか?」
 怖い……夢……。
「……そう。怖い夢、見た……」
 背中のほうでも気配がして、冬矢が起き上がるのがわかる。
「蒼生。怖い夢を見たの?」
 目をやると、心配そうな表情で、僕を見下ろす冬矢の顔。
「し……死ぬ夢を見た……」
「ああ、それは怖かったね」
「というかね、今から死ぬんだろうなってところで目が覚めた。たぶん、もう、心は死んでて。歩道橋から飛び降りるつもりだったと思う」
 ふたりが目を見合わせる。
「……それは、ちょっと穏やかじゃないな」
「ふたりがね、僕のそばにいないの。他の人のものだったんだ。それだけ? って思われるかもしれないけど、それが、か、悲しくって」
 あ、駄目だ。涙が溢れる。一粒零れてしまうと、止められない。たかが夢の話でふたりに心配かけちゃう。
 ぐい、と健ちゃんが僕の体を抱き締め、そのまま体を起こす。冬矢も、僕を後ろから抱き締めてくれる。……あったかい。
「それだけ、なんて言わねえよ」
 直接響く健ちゃんの声。
「そうだよ。その可能性がある中で、俺に出会ってくれて本当にありがとう。大好きだよ、蒼生」
「と、冬矢」
「だよな、こうして今があるのは奇跡なんだよな。これからは、もっと今を大事にする。だからずーっと一緒にいてください」
「健ちゃん……。うん……」
 僕はふたりの抱き締めてくれる腕を、ぎゅっと強く掴む。
 そうだ。
 あの夢の意味は、そういうことだったんだ。
 ちょっと何かを間違ったら、僕たちはこうして一緒にいなかったかもしれない。これが当たり前だなんて思わず、ちゃんとふたりを大切にしていかなきゃいけないんだ。
 そうでなければ、あんな……「死にたい」と思うほどの絶望を……味わうかもしれないんだから。夢の中とは言え、そんな、暗い願望を抱いたのは初めてだった。現実でそんな思いはしたくない。
「そうだ、どういう夢だったか話してみない?」
 突然、明るい声で健ちゃんが言った。
「健太」
 咎める声の冬矢。でも、健ちゃんは怯まない。
「だって、オレたちがいないとどうなるのかって気になるじゃん。蒼生だって、話したらすっきりするかもしれないしさ」
「……まあ、そうだな。蒼生は自分の中に溜め込んでしまうから。抱え込まず吐き出すのはいいかもしれない」
 そんなに甘えていいのかな……。けど、たしかに、これは、ちょっと、否定して欲しいかも。
「あの……重いし暗いし楽しくないけどいい……?」
 ふたりは、僕から手を離さず、頷いた。

 突拍子もない夢の、しかも途中でまた泣いちゃった僕のとりとめもない話を、ふたりはちゃんと最後まで聞いてくれた。途中で茶化すみたいなこともなく、いや、ふたりがそんなことするわけないんだけど、ただ、うんうんと相槌だけで聞いてくれた。それだけですごく気が晴れた。
 そうだよ。夢だもん。
 そうやって息をついた僕を、健ちゃんは冬矢の手から奪うようにして、膝の上に乗せた。えっと思ってその顔を見ると、……ん? むすっとしてる。
「蒼生は、オレに対する認識が甘い!」
 えっ?
「もしも仮に中2で同じクラスになったとしたら、冬矢っていうライバルがいないから、たしかに焦ることはなかったかもな。だけど、付き合うタイミングは遅くなっちゃったかもしれないけど、オレ、絶対いつか気付いたと思うよ」
 目の前で、冬矢も深く頷く。
「そうだな。俺はきっかけのひとつかもしれないが、直接のきっかけではなかったんだろ」
「うん。だからたぶん時間の問題だったんじゃねえかな。相変わらず抱き締めてるうちに、絶対、ぜーったい、あれ? これ好きだな? ってなってたって」
「そ、そうかな」
 健ちゃんはぐっと僕に、くっつくんじゃないかってくらい顔を近付けた。
「あのなあ。オレが学校違ったり連絡もらえなくなった程度でへこたれると思ってる? ってかさ、オレが何も言わないから一緒の高校に行くつもりだとは思わなかったって……そんなわけねえじゃん。蒼生、地元行くんだと思ってたから、一緒だと思ってたから会話に出さなかっただけだって! オレ、ずーっと蒼生と一緒のつもりだったんだぜ! だから冬矢と同じとこ目指すって聞いてオレがどんだけショック受けたか、そっか、蒼生は知らねえんだな」
「えっ、ご、ごめんね……!?」
 そうだったの? そ、それは現実のほうでもずっと誤解してた。そういえば、同じ高校に通えるようになるのが嬉しくて、どうして健ちゃんがそこを目指すつもりになったのかはちゃんと聞いてなかった。うわ、僕と一緒にいたいんだって普通に納得しちゃってたんだ、僕。そんな傲慢なこと思ってたんだ……。健ちゃんの気持ち、ちゃんと聞くべきだったな……。
「あの、本当に、ごめんね」
「……オレこそごめん、蒼生が謝ることじゃないのにな。今ではちゃんと感謝してるんだぜ? あの時、蒼生たちをふたりきりにしたくないと思ったことで、基礎から勉強し直せたんだから。んで、それが今に繋がってんだからさ」
 健ちゃんはそう言ってくれてるけど、反省しよう。健ちゃんが追いかけてくれるの、当たり前だと思っちゃ駄目なんだ。
 とはいえ、当時はそう思う根拠があったんだよな……。
「でも、あの……ほら、あの頃、健ちゃん、次から次に彼女作ってたじゃない? だから、そのうち僕から離れていくんだろうなあって思ってた。僕なんか必要なくなるんだろうなって。だとしたら、いつまでも一緒にいられないなと思ってたんだよ。だからちゃんと独り立ちしなくちゃいけないなって思って……」
 健ちゃんは、うーんと唸って僕越しに腕を組む。完全に健ちゃんの腕に挟まれた格好だ。き、きつい。
「あのー……。これはかっこわるいから今まで言わなかったんだけど……。オレ、彼女から、蒼生より大事にされてないのが嫌だから別れるっつってフラれることがほとんどだったんだよなぁ……」
「……そうなの?」
「そう。んで、オレもオレで、それ言われると、納得しちゃうんだよ。その子と蒼生どっちが大事? って聞かれたら、蒼生って即答できるもん。てか実際してたもん。仕方ねえじゃん、生まれた時からずーっと蒼生が大切だったからさ。……つか、その時点でオレも気付けよって話だよな。それって言葉で自覚してねえだけで、蒼生のこと大好きじゃん、なあ!?」
 そ、そっか。
 だとしたら、僕も、夢の中ほど鈍感じゃなく、どこかで気付いてたかな……。
 冬矢が、僕の髪にキスをくれる。
 眼差しの温かい温度。
「確かに、同じクラスになるというきっかけがなかったら、俺は蒼生を知ることはなかったかもしれない。そうしたら惹かれることもなかったかもしれないね。……だけど、出会っただろ。それが事実なんだ。俺たちは、ちゃんと出会って、ちゃんと愛し合って、こうして今一緒にいるんだよ」
 あ。
 止まってた涙が、また、ひとつ落ちた。
 悲しいからじゃない。
 健ちゃんと冬矢が、子供みたいに夢の話で泣く僕を、ちゃんと慰めてくれるのが嬉しかったから。
 出会って、愛し合って一緒に暮らしていることを、「本当だよ」と認めてくれたから。
 ぽん、と冬矢は僕の両肩を叩く。
「ちょっと甘いものでも飲んで落ち着こうか」
 そう言って、ベッドから降りる。健ちゃんは、とっさに手伝いに行こうと体を起こしかけた僕を離してくれなかった。ずっと、ぎゅうっと強く抱き締めてた。
 はっとする。
「……僕、この話したから、もしかして健ちゃんにも嫌な思いを」
「んー、違うよ。さっきも言ったろ。今抱き締められる幸せを噛みしめてんの。まかり間違っても蒼生がこの手から離れるようなことがないように、マーキングしておかなきゃ。蒼生も、オレがどっか行かないように、絶対オレのこと離さないでね」
 絶対どこにも行かないけど、という呟きを付け加えて、健ちゃんは僕の肩に顔を埋めた。
 ずっと、その体勢だった。
 3つマグカップを持って戻ってきた冬矢は、その健ちゃんの様子を見て笑う。
「ほら、蒼生にカップを渡せないだろ」
 冬矢がそう言うと、わずかに、ほんのわずかに腕の力が緩んだ。おかげで、僕たちはそれぞれがあったかいカップを持つことが出来る。
 あー。
 ココアの香り。
 口いっぱいに広がる優しい味。
 甘い。
 あったかい。
 安心する。
 冬矢が僕の背中を優しくさする。
「もう大丈夫だよ。大丈夫」
 大丈夫……。
 ……夢の中で、僕が何度も何度も自分に向けて言い聞かせた冷たい言葉。
 それが、あったかく、染み渡っていく。
 この温度が、現実で、よかった。
「ふたりとも……大好き。ありがとう」
 ふたりはにっこり笑って、かわりばんこに僕の頬にキスをくれた。
 ……ふふ、くすぐったい。
 そうだ。
 健ちゃんも言ってた。
 この“今”を、大切にしなきゃ。
 僕に与えられた、愛しい奇跡の“今”を。

1 / 1
コメントを送りました
ステキ!を送りました
ステキ!を取り消しました
ブックマークに登録しました
ブックマークから削除しました

コメント

ログインするとコメントを投稿できます

何をコメントすれば良いの?
『コメントって何を投稿したらいいの・・・」と思ったあなたへ。
コメントの文字制限は140文字までとなり、長いコメントを考える必要はございません。
「萌えた」「上手!」「次作品も楽しみ」などひとこと投稿でも大丈夫です。
コメントから交流が生まれ、pictBLandが更に楽しい場所になって頂ければ嬉しいです!

この作品に関連のあるpictSQUAREのイベント

    • 2027年02月05日 22:00〜翌21:00
      受付中
    異世界ファンタジーTLwebオンリー「Belles Fleurs2」
    オリジナル、一次創作、創作男女、異世界ファンタジー
     サークル参加受付期間
    7 / 24sp

    07月28日 00:00 〜 02月01日 00:00
    • 2026年11月14日 13:30〜翌13:00
      受付中
    一次創作WEBイベント【創作の宴 vol,3】
    一次創作 創作 オリジナル 漫画 小説 イラスト グッズ 展示のみOK 既刊のみOK
     サークル参加受付期間
    25 / 29sp

    06月28日 00:00 〜 10月11日 23:00
64こ目;if~今宵、月はさかさまに満ちて~
1 / 1

 涼しい風が吹いていた。見上げる掲示板に貼りだされた紙の、白。髪が頬にかかって少し邪魔だな、と思いながら、僕は立ち尽くすようにそれを見つめていた。
「今年もクラス一緒になったな!」
 嬉しそうな声がして横を見ると、同じように掲示板を眺める健ちゃんがいる。目を戻せば、書かれた文字列がようやく頭に入ってくる。同じ紙の同じ列に、少しだけ離れて書かれた僕らの名前。
「小学校6年と、中学の2年だから、これで8年……幼稚園入れたらもっとになるのか。きっと、オレと蒼生はこのままずーっと一緒にいるって決まってるんだな!」
「……そうだね」
 無邪気に笑う健ちゃんに、僕も笑顔を返す。
 だけど僕は知ってるんだ。そう言うのも今のうちなんだろうなって。健ちゃんは、遠くない未来に、きっと僕から離れていく。僕よりも大切なものを知った健ちゃんは、今でこそ短いスパンでそれを入れ替えているけれど、いつかきちんとお付き合いする人ができるはずだ。明るくて楽しくて人懐こくて、背が高くて笑顔が眩しくて実は真面目で優しい健ちゃん。誰もが好きになるよね。その好意を寄せてくる限りない人たちの中から、選ばれる人がいるはずだ。幼馴染みの僕は、その後押しをするだけだ。
 いや……。それも迷惑なんだろうな。余計な世話だと思われるに決まってる。だからこれ以上健ちゃんの足を引っ張らないように、ただ黙って僕のほうから離れていくべきなんだ。わかってるんだ。大丈夫。

 学年があがって少し余裕が出てきたのかな。健ちゃんの彼女さんとのお付き合いは、少しずつ長続きするようになった。いいことだし喜ばしいことだ。でも、逐一丁寧に報告することはないと思う。
「僕に教えてくれなくてもいいんだよ?」
 そう伝えると、健ちゃんはきょとんとした。
「なんで?」
「なんでって……」
 僕が聞きたくないからだよ。健ちゃんの話は楽しいけど、女の子の話を聞くのは苦痛だった。色恋沙汰のあれこれを聞くのは、しんどい。僕にまったくなんの関係もない話を延々と聞かされるのは、いくら健ちゃんといえど耐えがたい。でも、そうはっきり言うのもよくないな。健ちゃんに嫌な思いをさせたくない。
「だって、健ちゃんだけの話じゃないでしょ。相手のことをあんまり話すのはよくないと思うよ。きっと彼女さんも、内々のやりとりは他人に聞かれたくないと思うなあ」
 すごい。適当に言ったのに、我ながら筋の通った返答が出来たと思う。
「あっ、プライバシーってやつか」
「そうだよ」
 健ちゃんは、はっとしたように頷いた。そう、相手のことを傷付ける人じゃない。だからすぐにわかってくれた。そうだよ、健ちゃんはまっすぐで真剣でとても優しい人だから。そういうところをみんな好きになるんだ。
 そうして落ち着いてくると、次第に僕に飛びついてくることも減っていった。生活の多くが彼女さんとの時間になっていったせいだろう、それを嫌がった僕と話すことも少なくなっていって当然だった。並んで歩くことはあったけど、それだけだ。だよね、もう子供じゃないんだから。……なんだか心がすかすかした気分になる。でも、これが当たり前だ。普通のことなんだ。これまでがおかしかったんだ。サッカーの試合も、今までみたいに毎回見に行ったりしない。それは僕の役目じゃないからだ。
 僕は言い訳をするみたいに、図書室に引きこもることが多くなった。それは学校の図書室のこともあったし、公営の施設に併設された図書館のこともあった。どうせ健ちゃんとは予定が合わないんだ。予習復習をするのも自分の部屋より緊張感があってやりやすいから丁度いいんだ。家に帰ると、健ちゃんが来てたって伝えられることもあったけど、僕が毎度いないと知ると、次第にその回数も減ったようだ。
 おかげで、無意味に成績が上がった。定期試験で学年1位を取れることもあって、なんとなくそれで満足していた。顔くらいしか知らない上位の常連と競うのは、直接のやりとりがないせいもあって少し楽しかった。これで「おまえとはライバルだ!」みたいな会話がなされてたとしたら、僕は早めに離脱を決めたことだろう。
 まあ、きっと、こんな感じで地元の高校に進んで、同じような日々を過ごすんだろうな。
 そう思ってたある日だ。健ちゃんが、珍しく図書館にいる僕を探し出した。
「蒼生」
 ……健ちゃん。僕を見た途端の、ぱっと明るくなる笑顔。
「一緒に帰ろう」
「うん」
 別に仲違いをしたわけじゃない。飛びつかれることも、夜中まで話すことも、一緒に遊ぶことも減ったけれど、僕たちは幼馴染みだ。それは変わらない。だから断る必要はなかった。
 久しぶりだからかな、ちょっと調子に乗っていろいろ話してしまった。健ちゃんも、部活の話や彼女さんの話をしてくれた。うん、久しぶりだし、我慢しよう。
 いつもより短い帰り道だった。あっという間に家の前に着いた時、健ちゃんが切り出す。
「オレね、サッカーの強豪校からスカウトされたんだ」
「え、すごい! おめでとう!」
 そうか、努力が認められたんだ。一生懸命頑張ってたもんね。ちゃんと見てくれた人がいたんだ。よかった。嬉しい。
「ありがとー! やっぱ蒼生に祝ってもらうのが一番嬉しいや」
 そして健ちゃんは、その高校の名前を教えてくれた。僕でさえ知ってる高校。すごい。
 ただ、ひゅっと背中が冷えた。
「……遠いところだねえ」
「ああ。だから、家、出るんだ。春から寮生活だぜ。ちゃんとできるかな」
 そうか。
 うん。
 そうか。
「できるよ。健ちゃん、すごく努力をする人じゃん。それに、すごく人に好かれる人だもん。絶対うまくいくよ」
「ありがとう。すごいな、蒼生に励まされるとすげえ自信湧いてくる!」
 大丈夫。
 わかってたから大丈夫。
 さよならの時が来たんだ。

 僕はそのまま、地元の高校に入った。このあたりの人はそれを標準コースだと思っている節があるから、3分の1くらいは知っている顔だった。ただ、その中に健ちゃんはいない。毎日何事もなくにこにこ無駄に笑顔を振りまいて過ごしていた僕には、そのせいか近くで笑いかけてくるような人たちもいた。けれど、その中には、見ているこっちが元気になるような、健ちゃんのあの明るい笑顔はなかった。
 やることもなかったから、行事をこなしつつ、ただひたすら勉強に励む日々だった。そうしていたら、そういうキャラクターだと思われたんだろう、いつの間にか真面目そうな人たちが周りに集まるようになった。集まって勉強会をする機会も増えた。彼らは真剣に将来を考えて、目標を見据えて勉強している。その中で、僕はただ他にすることがないだけだ。成績だけは結果として出てるから真面目に「見える」だけで、実は一番不真面目なんだ。
 健ちゃんは、定期的にメッセージをくれた。こんな練習をしたよ、とか、次はここと試合をするよ、とか。それに対して、僕は返事をしたりしなかったりした。たくさんの言葉で返してしまうと邪魔だろうし、できれば僕なんかとのやりとりに使う時間を減らしてほしいと思ったから。つい返してしまいそうになるメッセージを、直前で消すことなんてしょっちゅうだった。そんな不誠実な僕に、健ちゃんは懲りずにずっと言葉を送ってくれた。本当に真面目なのは、健ちゃんのほうだと思う。
 休みの日にも部活があったり自主練したりと忙しいみたいで、長い休みでも健ちゃんは帰ってこなかった。自然と、僕と健ちゃんの接点は文字だけになった。時々電話が来ることもあったけど、僕は出なかった。声を聞いたらダメだと思ったからだ。
 進学して初めて顔を合わせたのは、高校2年の夏の終わりごろだったと思う。寺田家のリビングで、健ちゃんの妹みのりちゃんの勉強を見ていた時、突然ふらりと帰ってきた。
 僕は、何故か、息が詰まる感じがした。
「ただいまあ」
 健ちゃんは、よく日に焼けて、背もずっと高くなってた。きらきらした笑顔が眩しくて正面から見られないのは、きっと頑張っている人に対する劣等感のようなものだったんだろう。たぶん、ずっと連絡を怠っていたのを申し訳なく思ったのかな、胸がぎゅっと痛んだのを覚えている。
「なんだよ母さん、そんな変なモン見るような顔で。息子の健太くんですよ~」
「えっ、帰ってくる予定だったっけ?」
「ううん、部活が急遽、顧問の都合で休みになってさ。彼女と旅行しよって話になって、じゃあオレの地元来てみる? って盛り上がっちゃって」
 あー。
 知らない人の話だ。
 いつの間にそんな仲いい彼女が出来たんだろう。
 僕は聞いてない。
 ……いや。そうか。聞こうとしなかったのは僕か。
「どうしましょ、部屋とか物置になっちゃってるんだけど」
「いいよ、急だったからホテル取ったし。ホントは彼女にも家にくればいいじゃんって言ったんだけどさ、緊張するから遠慮するって。だから、とりあえずオレだけ顔出しに来た」
「じゃ彼女ホテルに置いてきたんだ」
「や、なんかひとりで買い物したいんだってさ。なんかこのへんで限定品? が売ってるらしいよ」
 何も聞かない、何も考えないことにして、僕はみのりちゃんの参考書に目を落とす。中学3年生の数学だ、わからないはずはないのに、数字と記号がぐちゃぐちゃに並んでいるようにしか見えなかった。
「蒼生も久しぶり」
 ぎくりと身体が跳ねた。
「あ、うん、久しぶり。元気そうだね」
「それが取り柄だからな! でもこの前、酷い風邪ひいちゃってさぁ。めちゃくちゃ彼女に心配かけちゃって」
 昨日も会っていたかのように、健ちゃんはすらすらと話し出す。まっすぐに僕を見る、澄んだ色の瞳。心臓の音がうるさくて内容はほとんど聞き取れないけれど、低くて優しい声が脳内に響くのを感じていた。なぜか、椅子についた手が震える。勝手に動き出しそうなそれを抑えるのに、ものすごく力が必要だった。
 みのりちゃんが、ばんと机を叩く。
「ねえお兄ちゃん! 久々なのはわかるけどさ! しゃべりすぎ! 今勉強中で教えてもらってるとこなんだけど!」
「あ、悪ぃ悪ぃ。じゃ、いっこだけ。蒼生、覚えてる? 昔よく一緒に行った、かき氷やってる喫茶店」
 胸がきゅうっと締め付けられる。ふたりで、よく、行った。思い出の。
「え……ぁ、うん」
「あそこってまだやってるよな? 彼女連れてってやろうと思ってさ」
「!」
 ……何を僕は勘違いしたんだ? 僕には関係がない。当然じゃないか。
「っと、うん、やってるよ。氷ののぼりもちゃんと出てたから大丈夫だと思う」
「そっかー。ありがとな!」
「どういたしまして」
 笑え。大丈夫だ。笑え。

 さすがに大学の頃になると、健ちゃんからの連絡も減った。そうだろう、忙しいはずだ。僕は相変わらず特にやりたいこともなかったので、家から通える大学に進学した。
 それから、僕、彼女が出来たらしいよ? 知らなかったけど。ゼミの打合せで一緒だった後輩の女性らしい。目を離した隙に携帯に連絡先を入れられた。彼女が吹聴したらしい、翌日からは周りが僕たちを恋人同士として扱いだした。
「身に覚えがありませんけど」
「またまた! 恥ずかしがっちゃって~! 聞いたぞ、熱烈な告白したそうじゃねえか!」
 へえ。こういう話って、先に話したもの勝ちなんだな。後から訂正しても聞いてもらえないみたいだ。……めんどくさいな。
 僕が連絡を見ないので、僕は自分の予定をゼミの先輩や同輩から聞くことになった。だって、数時間ごとに届くメッセージなんて、見るのも面倒だ。どうでもいい日記みたいなのから愚痴みたいなのとかただの挨拶まで、その中に予定をねじ込まれても気が付かないと思う。不思議なんだけど、そもそも、予定ってお互いのスケジュールをすり合わせて決めるものなんじゃなかったのかな。
 ゼミの人たちは、僕の態度を「照れ」だと判断し、性格を「奥手」と受け取ったらしい。きっといい人たちなんだろうな。自分たちが面倒を見てやろうと、変な方向に張り切ってしまったようだ。だからいちいち食事をセッティングしたり、遊びの予定を立てたりする。出来るだけ断ろうとしていたけれど、なにせ誤解されているから、「じゃあダブルデートにしてやろう」などと突拍子もない発想が出てくる。強引に断ればゼミ内のそっちの人間関係にも響くから、やむなく付き合わざるを得なかった。
「どうして僕にこだわるのかな」
 自称彼女のその子に聞いたことがある。
「だって、私、野木沢くんが大好きなんだもん!」
 ……はあ。勘弁してくれないかな。そんなわけないだろ。僕なんかを選ぶ人間がいるはずがない。馬鹿馬鹿しい。恋愛したかったところに、偶然手っ取り早そうな僕がいたってだけの話だ。なんとなく丸め込めそうだと思ったんだろうね。まったく、そういうのはその気がある人同士でやってほしい。ああ、でも、こうして振り切れず連れ回されている自分の意思がない情けないところは、そういう隙があると思われても仕方ないのかな。心底自分が嫌になる。
 そんな一方的な関わり合いの中で、ひとつ成果をあげるとしたら、僕が人に触れられるのがどうしても駄目だというのがわかったことくらいかな。あれは、その子が手を伸ばしてきたときに発覚した。
「ねえ野木沢くん、手えつなご」
「っ!」
「……え?」
 その時は、僕自身何が起きたかわからなかった。その子の手が僕の手に触れて、背中一面に悪寒が走ったのは確かだ。
「ど、どしたの?」
 困惑したように僕の腕に触れてきた手に、急に吐き気を覚えた。
「ごめんね、ちょっと具合悪いみたい」
「え、え、じゃあ、その……休んでいく?」
「ううん。先に帰るよ。今日は送っていけなくてごめんね」
 それがその子に対する拒否反応だったのかどうかが知りたくて、それから僕は他の人にもさりげなく触れてもらうように仕向けてみた。そしてその結果、触れられて気分が悪くなるのには性別も年代も関係ないことがわかった。先輩も、後輩も、教授も。バイト先のお客さんも、一緒に働く人たちも。その人がどういう人なのかも関係なかった。そういえば、僕も誰かに触れたいと思わない。
 つまり、僕はこの先、誰に触れることもない。触れてもらうこともない。
 そういうことなんだな。
 なお、このよくわからないお付き合いとやらは、ある日突然片が付いた。
「野木沢、ごめん。実は、彼女の相談に乗ってるうちに……そういう関係になっちゃって」
 僕は頭を下げるクラスメイトを見ても、特に何も思わなかった。ああ、ようやく平穏な日々が戻るな、とは思ったか。
 でもそう言うのも角が立つ。出来る限り悲しそうな顔を作ってみる。
「……そうか。謝ることじゃないよ、僕が頼りなかっただけなんだろう。彼女をよろしくね」
「ありがとう、おまえ、本当にいい奴だな……」
 本当にいい奴が、せいせいしたーとか思うわけないよね。僕は酷い人間だ。周りを騙すことしかできない。
 とにかく僕は、この出来事で、二度と色恋沙汰には巻き込まれないという決意を新たにした。恋愛なんて碌なことにならない。いや、他人のソレを否定はしないけど、お互いの同意のもとでやってほしい。そして僕を巻き込まないでほしい。
 その後、新しい恋人同士になった2人と、変わらず同じゼミに所属し続けたことで、心の広い人間だとまた違う誤解を呼んでいたみたいだけど、なんだかもうどうでもよかった。逆にそれで、深く傷付いたであろう僕の恋愛事情に口を出すのは憚られる、という空気が生まれたことはありがたかったけど。

 そんなこんなで、僕も今では社会人だ。家も出た。本当は地元で就職してほしかったらしいお母さんにはぐちぐち言われたけど、全国展開する会社のどこで働くことになるかは会社の都合だから……で理解してもらった。本当は、地元採用も提案されたけど、どこでもいいと言ったのは僕だ。とにかく、誰とも喋らない時間が欲しかったから。仕事が終わればひとりになれる、そういう環境が欲しかったからだ。
 とはいえ、そう簡単にはいかないんだよなぁ……。なんで、こんなに頻繁に飲み会があるんだよ……。
 今日も先輩に引っ張ってこられた。今回は隣の部署との懇親会だそうだ。それって必要なのかな。……なんて、僕みたいな新人が口を出せるようなことじゃないけど。
「野木沢さんってお酒強いんですねえ」
 そう声をかけてきたのは、……ええと、誰だっけ。隣の部署の女性だ。ご存じの、といったノリでみんな話しかけてくれるんだけど、かかわりのない人の名前はすぐに抜けていって思い出せない。
「そうでもないんですよ、あまり顔には出ないようなんですが」
「へえ、そうなんですか」
 あんまり飲まないようにしてるだけなんだけどね。人の話を一生懸命聞いてるふうにして、手を動かす回数を出来るだけ減らしているせいだ。
「あ、お食事のほうはあんまり進んでないみたい」
「飲む際はどうしても、そちらがメインになってしまって。よくないとわかってはいるんですけどね」
「そうですよ、ちゃんと食べないと。そうだ、この前、同僚に美味しいお店を教えてもらったんです。今度一緒にいかがですか」
 あー……。
「そうですね、機会があればぜひ」
 言って、僕はテーブルに視線を巡らせる。ちょうど隣の机にいる部長がグラスを空けたところだ。
「あ、すみません、失礼します。……部長、お代わりお注ぎします」
 テーブルの上の瓶をひったくる勢いで奪い、隣の机に移動する。部長は既に赤い顔をしていた。そのグラスに丁寧にお酒を注ぐ。
「おー、野木沢くんか。ありがとな!」
 部長は一気にそれを飲み干すと、僕の肩を掴んだ。…………。大丈夫、大丈夫。
「ずいぶんとシャイなんだなあ。見てたぞ? 隣の部のマドンナの誘いに乗らないとはなあ」
「あはは」
「ダメだぞ、若者がそんなことじゃ! 男は嫁と子供を持って初めて一人前なんだからな!」
「おっ、そうだぞ!」
「なんだ野木沢、彼女いねえのか!」
「そりゃよくないな~。家庭の温かさってモンを教えてやらんと」
「いい子見つけてやんないとな!」
 周囲からもそれを持ちあげる酔っ払った声が聞こえる。
 僕はそっちに向かってにっこりと笑ってみせた。
「いえ、僕なんかまだまだ未熟者ですから。そういったことは、部長や先輩方のように立派に仕事が出来るようになってからですよ」
 彼らを立てる言い方をすると、酔って単純になった彼らは簡単に、そうかぁ、と気持ちよさそうに納得してくれた。
 ふうん。
 そうですか。
 なるほど、じゃあ僕は一生半人前なんですね。
 そう思うけど、僕は笑顔を絶やさない。
 大丈夫、笑って答えるのは、得意だ。
 あー。
 気持ち悪い。早く帰りたい。
 早く。
 ひとりになりたい。
 意味があるのかよくわからない数時間を過ごし、ようやく飲み会は終わる。外の空気は日が落ちてもまだ暑かったけれど、アルコールの匂いがしないだけマシだ。
「なんだよ、二次会行かないのか?」
「すみません、プレゼンの資料を作り終えてなくて」
「え、明日の会議のか。そりゃやべえな!」
「なので、お先に失礼します」
 なんてね、そんなのとっくに終わってるけど。
 そこにさっきの女性が近付いてくる。
「野木沢さん、あの、私も帰ろうかなって思うんですけど」
「ああ、では一緒に、駅まで」
 そう言わないといけない空気。それに、女性を夜の繁華街でひとりにするのがよくないのはいくら僕でもわかる。挨拶をしてその場を離れる僕たちにからかうようにヤジが飛んだ。でも酔っ払いのヤジなんて気にする必要はない。聞き流した僕は、彼女をきちんと駅まで送り届けた。さすがにそこから先は責任の範疇外だ。
「あ、あの」
「ご自宅はどちらですか? ああ、反対方向ですね。それでは失礼します。お気を付けて」
 頭を下げると、引き留めたいと目で訴える彼女に背を向ける。綺麗な人だとは思う。性格も悪くないと同僚が話してた。なおさら勿体ない、僕みたいのなんかに寄り道してないで、ちゃんとした人を捕まえてください。
 数駅先、ワンルームの狭い部屋に戻ると、ようやくちゃんと息が出来る。ベッドとローテーブルと本棚でいっぱいになるくらいの広さしかないけれど、外の世界よりよっぽど圧迫感がない。僕は、その一番場所を取っているベッドの上に、そのまま倒れ込んだ。
 はー。
 着替えもシャワーもどうでもいい。寝たい。でも、目を閉じてしまうと、今日あったことがぐるぐる回り出す。朝一番の言葉が通じていないメール、聞いていない案件とその締め切りが今日だという巻きの電話、ミスの原因が僕だと決めつけてきた同期、席に戻った途端見計らったように鳴る電話、相槌を打たないと空気が悪くなる上司の関係ない長話、夕方になってから発覚する緊急作業、合間に起こる様々な理不尽、定時を過ぎてから告げられる有無を言わせず参加を求められる飲み会。あーあ。
 時々、全部吐き出してしまいたいと思うことがある。だけど、僕の話を聞いてくれる人なんて誰もいない。もちろん僕が望んだことだ。そういうふうに振る舞ってきたのは僕だ。それでいいと思ったし、今でもそう思ってる。だけど、たまに、何もかも投げ出したいと思ってしまう。
 駄目だ。頭がぐちゃぐちゃで眠れない。僕は頭の上にある本棚に手を伸ばした。最近は、本を買ってない。大体、どんな物語にも人間が出てくる。そこには、恨みつらみや恋愛事情が縺れることが多い。今はそういうものには触れたくなかった。だから休みの日に図書館に行き、1週間分の本を借りることにしている。もちろん、人間の話を読みたくないから、そういうのは借りない。ここのところは、もっぱら図鑑とか事典とか研究書を読んでる。図鑑はいいよ、ひたすらそのものの写真と名前と性質だけが書かれているから。僕には意味がわからない学名と鮮やかな色の羅列を眺めていると、余計なことを考えなくて済むから。
 そうやって、日々は繰り返される。
 毎日違うことが起きるけど、大まかにまとめれば同じことの繰り返しだ。
 そうして何日も何日も無駄に過ぎた。
 ちなみに、今日は、取引先との飲み会だった。わかるけど。必要なのはわかるけど。先方のお嬢さんの話とか、する必要あった? 同僚の「おい野木沢、チャンスじゃないか」とかいう冗談も笑えなかったし。ああいうの、固辞するのも印象悪いし、乗り気な様子を見せるのも失礼だし、本当に困るんだよ。
 僕はちゃんと息をするために、家の玄関の鍵を回す。
「……あー。おなかすいた……」
 今日の会食は大皿料理を取り分けるタイプだったから、大食漢の先方に気を遣わせないように僕は自分の分をわずかしか取っていない。気付かれて追加の料理を頼まれてしまうと、支払いはこっちなんだ、経費が増える。そんなことで文句を言われたくもないし。そもそも、僕は料理が出来ないから、家ではまともに食事をしない。昼も時間がなくてパンをひとつかじったくらいだ。……おなかすくのも当たり前だな。でもめんどくさい。いいや。寝よう。どうせ明日は休みだし。
 僕は深呼吸をして、ポストから取ってきた郵便物をばさりとローテーブルの上にぶちまけた。いつもとかわらない、チラシとダイレクトメールばかりの紙束だ。そう思ってきちんと見なかった……のに、ふと白い封筒があることに気が付いた。なんだろうと思って取り上げると、
 ……健ちゃんの、名前?
 エンボス加工のされた、綺麗な真っ白い洋封筒。たぶん健ちゃんの名前を見た時から、僕の思考は止まっている。丁寧にされた封を、同じように丁寧に剥がし、中身を確認する。真っ先に、金色のリボンが結ばれたふたつ折りの厚紙が出てきた。
「あー…………。健ちゃん、結婚するんだ」
 ばたり。全部が滲んで、封筒に水滴が落ちた。
 え?
 なに?
 ばた、ばた。
 本当に、何の音だかわからなかった。
 落ちた水の丸い跡で、それが涙だとわかるのにしばらく時間がかかった。
 なに……?
 あれ?
 僕……泣いてる?
 なんで?
 そこまで思って、ようやく気が付いた。本当に、ようやくだ。
 僕、健ちゃんのことが好きだったんだ。
 なぁんだ。
 そうか、そうだったのか。
 繋がった。
 全部、わかってしまった。
 そしてその瞬間、全部が遅すぎたことを知った。

 翌日、僕がまずしたことは、携帯電話を新規に1台契約することだった。それから、不動産屋に飛び込んだ。細かい条件は後回しにして、とにかく早く動ける場所を探した。これは少し難航するかと思ったけど、時期が良かったのか、意外と早く決まった。新しい部屋は無駄に広い気がしたけれど、そんなことを気にしている暇はなかったから。契約はすべて新しい携帯で登録して、大体のやりとりが済んだところで会社に新しい電話と住所を登録する。それから、今まで使っていた携帯電話を解約した。
 さすがに引っ越しが終わらないうちに、招待状の返事を出す締め切りは来てしまった。本当は全部済んでから出したかったんだけどな。
 その間、ずっと文面には悩んでいた。「健ちゃんの」って付けるのはなんだか嫌だったし、「あなたの」とか「健太くんの」とかはさすがに幼馴染みとしては他人行儀だろうし。だからといって、「2人の」と書くには抵抗がありすぎた。結局、「幸せをいつまでも祈り続けています」とだけ書いた欠席のはがきを、締め切りギリギリに投函した。

 音信不通を貫くのは楽だった。絶対に連絡が来ないとわかっているから。もしかして、なんて薄っぺらな期待を抱くこともないから。
 数年も経つと、僕も一応、ちゃんとした社会人になってきた。理不尽だって飲み込めるし、冗談だってさらりと流せる。表面だけの付き合いは昔から得意だったけれど、さらに上手に出来るようになったと思う。おかげで、責任のある仕事も任せてもらえるようになったし。
 打ち合わせを終えて相手先のビルから出ると、ちょっと時間かかっちゃったせいで、もう日が暮れかかってる。時計を確認したけど、ここから社に戻ると定時過ぎるな。それに、やることはほぼ終わってる。もう今日は直帰でもいいかな。
 一応上司に報告すると、「直帰でいいよ」と返答がきた。せっかく繁華街に出てきてるんだから、直帰できるなら、なにか買って帰ろうか。
 その時。
「……蒼生?」
 えっ。
 ……なに。
 今。
 知っている音が聞こえた気がする。
 何年も……ずーっと誰からも呼ばれていなかった名前。
 だから、一瞬自分の名前だと気付かなかった。
 だけど、声でわかった。
 わかってしまった。
 ああ。
 なんで僕は振り向いてしまったんだろう。
 最後に見た、あの眩しい笑顔で、
 健ちゃんはまっすぐに僕を見ていた。
「やっぱり蒼生だ」
 変わらない……いや、ちょっと丸くなったかな。がっしりして。顔つきも精悍で。社会人のスポーツマンを絵に描いたような。……腕には、2歳くらいの子供。それと、小さな、小さな赤ちゃんが、ベビーカーですやすやと眠っていた。
 二度と会いたくなかった。
 せめて、最後に会ったあの時で全て止まっていてほしかった。
 思い出のまま止めておきたかった時間が、否応なしに動き出す。
「久し振りだな! もう、ずーっと連絡取れなかったからさ。心配してたんだぜ? 携帯どうしたんだ? 家も引っ越しちゃった後みたいだったしさあ」
 やっぱり。あの時の判断は正しかったんだな。
「……うん。いろいろあって」
「そっかー」
 健ちゃんは笑う。細かいこと気にしないところ、変わってないね。いろいろ、って全部健ちゃんのことなんだけどな。
 ……駄目だ。違う。
 大丈夫。ちゃんとする。
「パパ、してるんだね」
 にっこり笑って言うと、健ちゃんは照れたように手元に目を落とす。
「あはは。そうなんだよ。可愛いだろー。嫁さんに似て美人なんだよな。……あ、そうだ、嫁さん、結局紹介も出来てないんだっけ。今そこの店で買い物しててさ。時間あったら紹介したいんだけど」
「ああ、うん。ありがとう。でもごめんね、まだ仕事中で」
「そっか、忙しいんだな。じゃあ今度時間がある時に、改めてゆっくり飯でもしようぜ」
 健ちゃんの腕に抱かれた子が、くりくりした目で不思議そうに健ちゃんを見上げる。ああ、そっくりだな。小さい頃の健ちゃんみたい。でも、同じじゃない。知らない。似てるだけの、知らない子。健ちゃんはその問いかけるような視線に「パパの昔からのお友達だよ」と言っていた。そう。お友達。それ以上のナニモノでもない。
 僕はそのまま、その場を去るべきだった。その言い訳だってもうし終えていたんだから。
 でも。バカだな。聞いてしまった。
「健ちゃんは……今、幸せ?」
 本当にバカだ。決まっているじゃないか。その優しい腕がすべてを物語っていると、誰が見たってわかるのに。
 だけど健ちゃんは、僕のくだらない質問にも、真面目に考えてくれる。
「んー、……うん」
 わかっていた答え。はにかんだ笑顔。そうだ。健ちゃんは幸せなんだ。僕がいなくても。僕の存在は、健ちゃんの幸せになんの影響も与えない。わかってた。
「そうか。そうだよね。よかった」
 大丈夫、笑える。
 笑って、そのまま、別れよう。
 なのに健ちゃんは。
「しかしさぁ。お互い大人になってるなんて、なんか変な感じだな。仕事って今何してるの? どこ住んでるんだ? なんか面白いこととかあった?」
 懐かしい無遠慮さで、僕の心に踏み込んでくる。
「普通の会社員。何事もなく、普通に過ごしてるよ」
「平穏ってことか」
 健ちゃんは他の人みたいに「彼女は?」とか聞かない。
 僕が自分のそういう話を一切したがらないことを知ってるからだ。
 同じように聞きたくないと言った、自分の彼女や子供の話はするくせに、そっちのほうは覚えているんだ。
 いや、違う、よく思い返してみれば、僕の話ははっきり断ったけど、健ちゃんの話はやんわり拒否しただけだったっけ。
 そんな細かいことまで覚えていてくれたのか。
 何も告げず連絡を断った僕に、健ちゃんは今でもちゃんと優しい。
 …………。
 ちょっと。
 もう、駄目だ。
 話さないで。
 その包み込むような目をやめて。
 僕のものではない目を、僕に向けないで。
 健ちゃんが、ふと真剣な目をして、首を傾けた。
「……蒼生。蒼生は今、幸せ?」
 ああ。
 なんで。
 そんな。
「……健ちゃんと一緒だった頃が、一番幸せだったよ」
 最悪だ。
 最低だ。
「ごめん、ばいばい」
「蒼生っ」
 健ちゃんは、両手が塞がっている。幸せで塞がっている。だから僕を追いかけてくることはない。人混みに紛れてしまえば、おしまい。全部がおしまい。終わり。全部。
 あー…………。
 本当に、全部、終わったんだ。
 しかも、最低の終わり方を選んで。
 あんなことを言ったら、絶対健ちゃんは気にするのに。
 優しい健ちゃんは気に病むだろうに。
 ……自分の言葉が、健ちゃんの遺恨になるとわかっていたのに、僕は止められなかった。
 酷い人間だとは思っていたけれど、ここまで最低だったなんて。
 何で、僕は、こんな。
 健ちゃんが、どこかで幸せでいてくれればよかったはずなのに。
 だから僕は健ちゃんから遠く離れていようと思ったはずなのに。
 腕の中の存在に、羨ましいと思ってしまった。
 あの腕は僕のもののはずだった。
 隣にいたかった。
 ずっと抱き締めるのは僕だけであってほしかった。
 本当は、愛されたかった……っ。
 ……ああ。
 そっか。
 僕はただ逃げていただけか。
 自分が一番ではなくなる現実から、逃げたかっただけなんだ。
 そのために、全部忘れるために、必死で生きてきて……なのに。
 …………全部、無駄だったんだな。
 なんでそこまでして、今まで生きてきたんだろう。
 一番ほしかったものは、唯一望んだものは、決して手に入らない。
 このまま生きていたって無駄なんだ。
 僕という存在が、全部無駄だって理解するまでに、こんなに長く生きてしまったんだな。
 ただそれだけだったんだな。
 ごめんね、健ちゃん。
 あー……。
 めんどくさい。
 どうでもいい。
 いつの間にか、僕は眼下に勢いよく走る車の流れを見つめていた。
 歩道橋の上。
 空が高い。
 健ちゃん。


 はっと目が覚めた。
 常夜灯の淡い光。え? 何? 生きて……る?
 あ……。ちがう。
 これ、家だ。家の電気。
 ……っ、と、隣、隣っ……あ、健ちゃ、…………。いる。健ちゃん。
 反対側には、ちゃんと、……冬矢が寝てる。
 ゆ、ゆめ……?
 あー…………。よかった……。あんまりにも長くてはっきりしてて、リアリティがありすぎて……あっちが現実かと思った。よかった。よかった……。
 そっか……。昨夜、なんだか眠れなくて、ぼんやり考え事をしてたんだった。もしも、ふたりがいなかったら僕は今頃どうなってたかな、って。それでこんな夢を見たんだ。
 ……ぞっとする。
 あれは、あり得た未来の話なんだ。
「んー……ぁおいぃ?」
 け、健ちゃん。
「あ、う、起こしちゃった? ごめんね」
「んーん、全然。なんかもぞもぞしちゃって、どした? 寝れねえの?」
 う、ちょっと今は優しい言葉をかけられると……。
「だいじょ、」
 健ちゃんはごそりと体ごと僕のほうに寄ってくると、大きな手をぽふんと僕の頭の上に乗っけた。
「そんな泣きそうな声して、大丈夫なんて言わないの。な。……怖い夢でも見たのか?」
 怖い……夢……。
「……そう。怖い夢、見た……」
 背中のほうでも気配がして、冬矢が起き上がるのがわかる。
「蒼生。怖い夢を見たの?」
 目をやると、心配そうな表情で、僕を見下ろす冬矢の顔。
「し……死ぬ夢を見た……」
「ああ、それは怖かったね」
「というかね、今から死ぬんだろうなってところで目が覚めた。たぶん、もう、心は死んでて。歩道橋から飛び降りるつもりだったと思う」
 ふたりが目を見合わせる。
「……それは、ちょっと穏やかじゃないな」
「ふたりがね、僕のそばにいないの。他の人のものだったんだ。それだけ? って思われるかもしれないけど、それが、か、悲しくって」
 あ、駄目だ。涙が溢れる。一粒零れてしまうと、止められない。たかが夢の話でふたりに心配かけちゃう。
 ぐい、と健ちゃんが僕の体を抱き締め、そのまま体を起こす。冬矢も、僕を後ろから抱き締めてくれる。……あったかい。
「それだけ、なんて言わねえよ」
 直接響く健ちゃんの声。
「そうだよ。その可能性がある中で、俺に出会ってくれて本当にありがとう。大好きだよ、蒼生」
「と、冬矢」
「だよな、こうして今があるのは奇跡なんだよな。これからは、もっと今を大事にする。だからずーっと一緒にいてください」
「健ちゃん……。うん……」
 僕はふたりの抱き締めてくれる腕を、ぎゅっと強く掴む。
 そうだ。
 あの夢の意味は、そういうことだったんだ。
 ちょっと何かを間違ったら、僕たちはこうして一緒にいなかったかもしれない。これが当たり前だなんて思わず、ちゃんとふたりを大切にしていかなきゃいけないんだ。
 そうでなければ、あんな……「死にたい」と思うほどの絶望を……味わうかもしれないんだから。夢の中とは言え、そんな、暗い願望を抱いたのは初めてだった。現実でそんな思いはしたくない。
「そうだ、どういう夢だったか話してみない?」
 突然、明るい声で健ちゃんが言った。
「健太」
 咎める声の冬矢。でも、健ちゃんは怯まない。
「だって、オレたちがいないとどうなるのかって気になるじゃん。蒼生だって、話したらすっきりするかもしれないしさ」
「……まあ、そうだな。蒼生は自分の中に溜め込んでしまうから。抱え込まず吐き出すのはいいかもしれない」
 そんなに甘えていいのかな……。けど、たしかに、これは、ちょっと、否定して欲しいかも。
「あの……重いし暗いし楽しくないけどいい……?」
 ふたりは、僕から手を離さず、頷いた。

 突拍子もない夢の、しかも途中でまた泣いちゃった僕のとりとめもない話を、ふたりはちゃんと最後まで聞いてくれた。途中で茶化すみたいなこともなく、いや、ふたりがそんなことするわけないんだけど、ただ、うんうんと相槌だけで聞いてくれた。それだけですごく気が晴れた。
 そうだよ。夢だもん。
 そうやって息をついた僕を、健ちゃんは冬矢の手から奪うようにして、膝の上に乗せた。えっと思ってその顔を見ると、……ん? むすっとしてる。
「蒼生は、オレに対する認識が甘い!」
 えっ?
「もしも仮に中2で同じクラスになったとしたら、冬矢っていうライバルがいないから、たしかに焦ることはなかったかもな。だけど、付き合うタイミングは遅くなっちゃったかもしれないけど、オレ、絶対いつか気付いたと思うよ」
 目の前で、冬矢も深く頷く。
「そうだな。俺はきっかけのひとつかもしれないが、直接のきっかけではなかったんだろ」
「うん。だからたぶん時間の問題だったんじゃねえかな。相変わらず抱き締めてるうちに、絶対、ぜーったい、あれ? これ好きだな? ってなってたって」
「そ、そうかな」
 健ちゃんはぐっと僕に、くっつくんじゃないかってくらい顔を近付けた。
「あのなあ。オレが学校違ったり連絡もらえなくなった程度でへこたれると思ってる? ってかさ、オレが何も言わないから一緒の高校に行くつもりだとは思わなかったって……そんなわけねえじゃん。蒼生、地元行くんだと思ってたから、一緒だと思ってたから会話に出さなかっただけだって! オレ、ずーっと蒼生と一緒のつもりだったんだぜ! だから冬矢と同じとこ目指すって聞いてオレがどんだけショック受けたか、そっか、蒼生は知らねえんだな」
「えっ、ご、ごめんね……!?」
 そうだったの? そ、それは現実のほうでもずっと誤解してた。そういえば、同じ高校に通えるようになるのが嬉しくて、どうして健ちゃんがそこを目指すつもりになったのかはちゃんと聞いてなかった。うわ、僕と一緒にいたいんだって普通に納得しちゃってたんだ、僕。そんな傲慢なこと思ってたんだ……。健ちゃんの気持ち、ちゃんと聞くべきだったな……。
「あの、本当に、ごめんね」
「……オレこそごめん、蒼生が謝ることじゃないのにな。今ではちゃんと感謝してるんだぜ? あの時、蒼生たちをふたりきりにしたくないと思ったことで、基礎から勉強し直せたんだから。んで、それが今に繋がってんだからさ」
 健ちゃんはそう言ってくれてるけど、反省しよう。健ちゃんが追いかけてくれるの、当たり前だと思っちゃ駄目なんだ。
 とはいえ、当時はそう思う根拠があったんだよな……。
「でも、あの……ほら、あの頃、健ちゃん、次から次に彼女作ってたじゃない? だから、そのうち僕から離れていくんだろうなあって思ってた。僕なんか必要なくなるんだろうなって。だとしたら、いつまでも一緒にいられないなと思ってたんだよ。だからちゃんと独り立ちしなくちゃいけないなって思って……」
 健ちゃんは、うーんと唸って僕越しに腕を組む。完全に健ちゃんの腕に挟まれた格好だ。き、きつい。
「あのー……。これはかっこわるいから今まで言わなかったんだけど……。オレ、彼女から、蒼生より大事にされてないのが嫌だから別れるっつってフラれることがほとんどだったんだよなぁ……」
「……そうなの?」
「そう。んで、オレもオレで、それ言われると、納得しちゃうんだよ。その子と蒼生どっちが大事? って聞かれたら、蒼生って即答できるもん。てか実際してたもん。仕方ねえじゃん、生まれた時からずーっと蒼生が大切だったからさ。……つか、その時点でオレも気付けよって話だよな。それって言葉で自覚してねえだけで、蒼生のこと大好きじゃん、なあ!?」
 そ、そっか。
 だとしたら、僕も、夢の中ほど鈍感じゃなく、どこかで気付いてたかな……。
 冬矢が、僕の髪にキスをくれる。
 眼差しの温かい温度。
「確かに、同じクラスになるというきっかけがなかったら、俺は蒼生を知ることはなかったかもしれない。そうしたら惹かれることもなかったかもしれないね。……だけど、出会っただろ。それが事実なんだ。俺たちは、ちゃんと出会って、ちゃんと愛し合って、こうして今一緒にいるんだよ」
 あ。
 止まってた涙が、また、ひとつ落ちた。
 悲しいからじゃない。
 健ちゃんと冬矢が、子供みたいに夢の話で泣く僕を、ちゃんと慰めてくれるのが嬉しかったから。
 出会って、愛し合って一緒に暮らしていることを、「本当だよ」と認めてくれたから。
 ぽん、と冬矢は僕の両肩を叩く。
「ちょっと甘いものでも飲んで落ち着こうか」
 そう言って、ベッドから降りる。健ちゃんは、とっさに手伝いに行こうと体を起こしかけた僕を離してくれなかった。ずっと、ぎゅうっと強く抱き締めてた。
 はっとする。
「……僕、この話したから、もしかして健ちゃんにも嫌な思いを」
「んー、違うよ。さっきも言ったろ。今抱き締められる幸せを噛みしめてんの。まかり間違っても蒼生がこの手から離れるようなことがないように、マーキングしておかなきゃ。蒼生も、オレがどっか行かないように、絶対オレのこと離さないでね」
 絶対どこにも行かないけど、という呟きを付け加えて、健ちゃんは僕の肩に顔を埋めた。
 ずっと、その体勢だった。
 3つマグカップを持って戻ってきた冬矢は、その健ちゃんの様子を見て笑う。
「ほら、蒼生にカップを渡せないだろ」
 冬矢がそう言うと、わずかに、ほんのわずかに腕の力が緩んだ。おかげで、僕たちはそれぞれがあったかいカップを持つことが出来る。
 あー。
 ココアの香り。
 口いっぱいに広がる優しい味。
 甘い。
 あったかい。
 安心する。
 冬矢が僕の背中を優しくさする。
「もう大丈夫だよ。大丈夫」
 大丈夫……。
 ……夢の中で、僕が何度も何度も自分に向けて言い聞かせた冷たい言葉。
 それが、あったかく、染み渡っていく。
 この温度が、現実で、よかった。
「ふたりとも……大好き。ありがとう」
 ふたりはにっこり笑って、かわりばんこに僕の頬にキスをくれた。
 ……ふふ、くすぐったい。
 そうだ。
 健ちゃんも言ってた。
 この“今”を、大切にしなきゃ。
 僕に与えられた、愛しい奇跡の“今”を。

1 / 1
ステキ!を送ってみましょう!
ステキ!を送ることで、作品への共感や作者様への敬意を伝えることができます。
また、そのステキ!が作者様の背中を押し、次の作品へと繋がっていくかもしれません。
ステキ!は匿名非公開で送ることもできますので、少しでもいいなと思ったら是非、ステキ!を送ってみましょう!

PAGE TOP