高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2024年09月17日 23:11    文字数:18,434

65こ目;if+if~さかさまに満ちた月のゆくえ 前編~

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前回『if~今宵、月はさかさまに満ちて』( https://pictbland.net/items/detail/2297821 )で
蒼生の夢の話を聞いた冬矢の心の隅には、ずっとその内容が引っかかっていました。
もし、そこに、自分がいたら……そう考えた冬矢が見た夢は。

続きます!
↑初公開時キャプション↑
2022/09/16初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
1 / 1

 こんな夢を見たのは、たぶん蒼生の夢の話を聞いたからだ。
 そもそも、俺は普段、夢の内容を覚えていない。大体が曖昧で意味不明で、覚えていても意味のない夢ばかり見るから、特に反芻せず朝の支度をしているうちに忘れてしまう。
 けれど、今日の夢は、いやにはっきりしていた。


 俺は、朝の雑踏の中にぼんやりと立っていた。顔のはっきりしない通行人が、不思議と俺にぶつからずに前後左右を通り過ぎていく。ああ、そうか、スクランブル交差点の真ん中にいるんだ。交差点? 何故? そんなところに?
 車のクラクションが鳴って、はっと我に返る。見上げた信号は既に赤になっていた。スピードを緩める車の合間を縫い、急いで歩道に上がる。そのまま信号待ちの人混みを掻き分け、行き当たった商業ビルのショーウィンドウに寄り掛かって息をつく。
 すると、頭がすっきりと晴れ渡ってくる。そうだ、大学進学でこっちに引っ越してきたんだった。別にやりたいことがあったわけじゃないから、面倒になってわりとすぐに中退してしまったけれど。
 それで……ああ、つい今し方、数か月世話になった彼女に追い出されてきたんだったな。思い出すと、はたかれた頬が痛み出す。
「働きもしないで毎日だらだらしてるなんて、フリーターじゃなくてただのヒモじゃん! しかも、慰めてもくれない愚痴を聞いてもくれない家事を手伝ってくれるわけでもない、挙げ句の果てにはセックスも嫌? 何のためにいるのかわかんない、出てって!」
 まったくその通りだから、妙に納得してしまって、特に言い返す言葉はなかった。最初はちゃんと体で返していたんだけどな。自分が稼いでいるんだからあれしろこれしろ、という命令口調にどんどんやる気がなくなっていった。それでも長く付き合ったほうだと思う。今朝までは文句もなく、満足して暮らしているんだろうと思っていたんだ。
 しかし、彼女のところでずいぶん長く過ごしたせいで、しばらくバイトもしていないから財布が軽い。さて、どうするかな。どこかで誰かを引っかけるにしても、元手がいるしな。それには住所がいる。ともあれ、まずは何も食べずに出てしまったから食事もしたいし。とりあえず、今まで知り合った子で適当に遊べる子を当たるか……。
 ポケットから、携帯電話を取り出す。すると、少し前に着信が残っていた。女の子じゃない。唯一連絡先を知っている男だ。なるほど、奴に頼るという方法もあったか。早速折り返すと、数コールで相手が出る。俺が話し始めるよりも早く、電話の向こうからは「ああ、笹原、おはよう」と暢気な声が聞こえた。どうやら、休日で暇だったから、突然で悪いと思いながらも予定を聞こうと電話をかけてきたらしい。なるほど、世の中は休日だったか。追い出されたとたんにこれだ、俺も運がいいな。
 簡単に事情を説明して呼び出すと、その男……森は、いくらもしないうちに俺の目の前に現れた。
「ちょうど近くまで出てきてたんだ。とりあえず昼飯でも食べながら話すか」
 相変わらずの人の好い笑顔でそう言うと、近くのハンバーガー屋に俺を連れて行った。中途半端な時間だというのに、店内はやたらと混んでいる。それでも、ちょうど奥まったところの目立たない席が空いていた。
「んで? 追い出されたんだって?」
「まあ、そういうことだ。今回は、ちょっと長く居すぎたかな」
「そんなに居心地よかったのか」
「そうだな……。何も言わないで置いてくれていたから、そうなのかもしれない。ただ、最近セックスが面倒で避けていたんだが、それが引き金になったようだ」
「あー」
 森は大きめのハンバーガーにかぶりつきながら頷く。
「顔で女の子引っかけて転がり込む生活してて、それが面倒になったら致命傷だな」
「わかってるんだがな。なんだかやる気が出ない」
 こうなったら、そういう、顔を使う商売でもしたほうがいいのか? だが、人前で笑顔を作るのも愛想を振りまくのも得意じゃないからな。だとすると、体で黙らすことが出来ないなら、言葉で落とせるような相手に狙い目を変える……という方法しかないのだろうか。ただ、自分が気持ちいいように体を動かしていればいいセックスとは違って、言葉で口説くのは頭を使う。ああ、それもだいぶ面倒だ。
「今日からどこに泊まるんだ」
 森が発した単純な疑問に、俺は息を吐いた。そうだ、落ち着く先も必要だが、直近のそこから考えなければならないのか。
「とりあえず、今まで感触良かった子に声をかけて……しばらくは短期で渡り歩くかな」
「俺の部屋でも、1日2日は大丈夫だと思うぞ」
「ああ、助かる。どうにもならなくなったら頼むかもしれない」
 こいつは、所属する道場の寮に入っている。臨時で人を泊めることは出来ないこともないらしいが、そのまま居着くわけにはいかない。そう言うと、森は笑った。
「友人の部屋にはいられないが、女子の部屋なら渡り歩いてもいいと思っているあたりがおまえらしいな」
 まあ、一応、おまえは友人だからな。面倒は掛けたくない。
「ただどっちにしても、当面の生活費もないんだろ? それだって頼ってくれていいんだぞ」
「それも最終手段だな。とりあえず、今日の食事代と……遊興費はツケにしておいてくれ」
「あっはっは! そうだな、ゲーセンにでも行って、ぱーっと遊ぶか!」
 理解が早くて助かる。

 久し振りにゲーセンで遊び倒して、なんだかすっとした。昔は騒がしくてそんなに好きでもなかったんだが、今となってはこの喧噪が心地よく思える。
「ずいぶん腕がなまった気がする」
 両手を伸ばすと、ここしばらく使っていなかった筋肉がぴしりと悲鳴を上げた。
「そうかあ? 得意のジャンルじゃ俺をすんなり超えてく奴が言うセリフとは思えないがな」
 それでも、全盛期だったらもっと突き放していたはずだ。それに他のゲームでももう少し競り合えていなかっただろうか。全体的に体を動かしていないせいか? 最近はゲームといえば、家に引きこもってひたすら携帯をいじるばかりだったからな。
「ま、たまにはこうやって遊ぼうぜ」
「そうだな」
 表に出ると、もう夕方だった。日が傾いて、だいぶ暗くなってきている。逃避していたが、いい加減、そろそろ今日の宿を決めなければ。
 駅前の広場まで来て、俺は足を止める。行く先が決まっていないのに、電車に乗っても意味がない。
「行くけど、本当に今日、大丈夫か?」
 森がそう聞くのは何度目だろう。それに対して俺も根拠のない「大丈夫」を何度返したことか。小学生からの腐れ縁だ、気にしてくれているのはありがたい。ただ、なんとかなるはずだ。今までもなんとかなってきたのだから。
「それじゃ、……ん?」
 駅に向かいかけた森が、ロータリーの反対側を見つめている。なんだろうと目で追うが、忙しそうに行き交う人々が見えるばかりだ。
「なんだ?」
「あれ、中学校の時に同学年だった奴らじゃないか?」
 え? 言われてよく見ると、人の流れの中に、ぽつんと逆らうように立ちすくむ2人がいる。ひとりはスーツの男で、もうひとりは子供を抱いてベビーカーに手をかけるラフな格好の男。誰だ? 中学の……なんて、そんなの覚えていない。
「おまえは本当に、よく覚えているな。クラスは別だったってことだろ?」
 こっちは同じクラスの人間すらも覚えていないというのに。
「いや、ほら、有名だった奴らだよ。ずーっと一緒にいてさ、片っぽが引っ付いて離れない、コンビというかセットみたいな2人組いたじゃん。なんて言ったかな、あー……そうだ、サッカー部の寺田と、野木沢」
 ふと、何かが頭を過った。
「そういえば、野木沢も地元高校だったから、おまえ一緒だったんじゃないか?」
 そうだ。俺は考えるのも面倒で、地元の奴らの大半が受験する高校に入ったのだった。そこに彼もいた……ああ、いたな。クラスは別だし、話したこともない。だが、成績はいつも俺と競う位置にいた。だから名前はよく見ていた。俺はつるむのが面倒でひとりで過ごしていたが、あいつは成績上位者のグループに属していた記憶がある。何が面白いのか、いつもへらへら笑顔を浮かべていた。貼り付いたような表面だけの笑顔が、何を考えているかわからなくて気味が悪かった。
「……っと、やばい。そろそろ戻らないと」
 時計を見た森が荷物を抱え直す。
「今日は助かった」
「お安いご用だよ。それじゃ、またな!」
「じゃあ」
 慌てて駅に駆けていく森を見送る。本当に急いでいたのだろう、その背中は、あっという間に消えていった。……さてと、本気で転がり込む先を探すか。
 落ち着いて電話が出来る場所は、と振り向いた俺の目に、さっきの2人が目に入った。途端、野木沢がくるりと振り向いて、俯くように走り去った。寺田は片手を伸ばしたが、子供がぐずったのか、焦って両手で子供をあやす。
 ……おかしいな。森の話によれば、あいつらはセットなのではなかったか? 今の雰囲気は、どうもそんな感じでもなかった。
 ちょっと興味が湧いた。野木沢はどこに行ったのだろう。走って行ったのは、たしかあっちのほうだったな。駅の裏手に向かう道だ。その道はわずかに坂になっており、やかましく電車が走る線路のガード下をくぐるように進むと、木が数本あるくらいの小さな公園の脇を抜け、大きな通りにぶつかる。裏とは言っても繁華街だからな、人通りもあれば車通りも多い。きっと見つからないだろうなと思ってあたりを見渡すと、
 ……歩道橋の上。ぽつんと立つ姿を見つけた。やけに目立つな。ぼんやりと車の流れを見つめる目が、遠目でもわかるほど虚ろだ。
 俺が階段を上っても気が付かないようだった。近付いて見ると、見開いた目は、何かを見ているようでいて、どこにもピントが合っていない感じがした。ふいにゆらりと動いた手が、手すりにかかる。
「野木沢」
 びくん、とその肩が大きく揺れた。
 見開かれた目はそのままに、けれど、また薄っぺらい笑顔を作った野木沢が、ぎこちない動きで顔をこちらに向けた。
「ど、なた……ですか」
 頬の筋肉が不自然に震えている。全力で無理矢理笑顔を作ろうとしているのがわかって痛々しい。こんなに弱っている人間を初めて見たかもしれない。
「覚えていないか? 中学も高校も一緒だったろう。お互い成績上位の常連だったよな」
「あ、……ええと、たしか、笹原くん? 久し振りだね。元気そうでよかった」
 張り上げようとした声が掠れている。本人はわかっていないんだろうな、頬や口は笑顔の形になっているが、目がおかしい。ガラス玉を無理矢理押し込んだような暗い色。まるで壊れた人形を見ているようだ。
 これは、落とせるな、と思った。
 つけいる隙がありすぎる。いや、隙しかない。やはり、今日の俺は運がいいな。
「スーツってことは、まだ仕事中なのかな」
「うう、ん。今日はもう、終わって、直帰するところで」
「そうか。家、近いの?」
「遠い、駅、先の、ニュータウンのとこ、のマンション」
「あ、もしかして誰かと一緒に暮らしているとか?」
「ひとり。誰もいない。ひとり」
 がくがく震える口元。大して親しくもない俺相手に、半笑いですらすらと個人情報を話す。頭が回っていない証拠だ。どこで歯止めをかけたらいいのかがわからなくなっているんだろう。
「さっき一緒だったの、寺田だよね?」
「っ!」
 そうカマをかけると、青かった顔が一気に白くなる。息が浅く、荒くなる。
「ああ、どうした? 具合悪そうだな。家まで送るよ」
「でも」
「気にしないで。それに、俺でよかったら話を聞いてあげる」
 俺は野木沢の腕を掴む。かすかに手を引こうとするのを感じるが、余りに弱くて話にならない。半分引きずるように歩道橋から降りると、手を上げてタクシーを拾った。ぜぇぜぇと息をする野木沢を、後部座席の奥に押し込む。
「住所、言えるね?」
「……っ、うん」
 野木沢の言葉は途切れ途切れだが、わかりやすい名前のマンションだったらしく、運転手にはすぐ伝わった。
「そちらの方、大丈夫ですか」
 訝しげにちらちらとこちらを見る運転手に、「飲み過ぎたみたいで」と頭を下げると、それ以降は何も言われなかった。こんな時間では少々苦しい言い訳のような気もしたが、別におかしいことではないだろう。

 マンションに着くと、野木沢は震える手で鍵を開けた。
 ふうん。ひとり暮らしにしては結構広いな。廊下には風呂とトイレのドアがあり、対面式のキッチンとリビングに、それからおそらく部屋がふたつ。ただ、がらんとしていて物がない。リビング自体の広さはさほどないが、不釣り合いなほど小さなローテーブルが何もないフローリングにぽつんと置かれているだけなので、やたら広く感じる。横目で見たキッチンも、ほとんど使われた形跡がない。なんだ、この生活感というものがまったくない部屋は。朝までいた部屋がごちゃごちゃしていたせいもあったが、呆れるほどに物がない。
 俺は、まだ笑顔を作ろうとする野木沢をローテーブルの前に座らせる。それから、ジャケットだけを脱がせた。
「皺になるからこれだけ掛けておくね。部屋に勝手に入ってもいいかな? あと、冷蔵庫も開けていい?」
 俺の質問に、どちらも黙って頷く。俺はジャケットを手に、リビングに面した部屋に入った。……すごいな、この部屋にも何もない。部屋の端に申し訳程度のベッドがあるだけだ。クローゼットの中を開けると、スーツの上下が数着、ワイシャツが数枚、ネクタイが数本ぶら下げられている。下着などが入った小さなカラーボックスもひとつあったが、奥がしっかり見えている。衣服のみで、本当に数えるほどしか物のない、すかすかのクローゼット。あいつ、普段何を着ているんだろう。
 最初から何にも執着していないような空虚さ。……面白い。
 冷蔵庫の中もからっぽだった。かろうじて何本か茶のペットボトルが入っているくらいだ。食器棚を開けると、中には片手で数えられる程度の皿があるだけ、その横に伏せられていたコップもたった1つきり。とりあえずそれにペットボトルの茶を入れ、さっきからまったく変わらない体勢で座り込んだままの野木沢の前に置く。
「ありがとう」
 へえ。この状態でその言葉が出てくると言うことは、おそらく反射だろう。
 なんとなく見えてきたな。コレは、「いい人間」であろうとした結果だ。必死で作り上げてきた外側の殻が、一気に壊れた。だからドロドロの中身がこぼれ落ちているんだな。そして、その殻を保つ原動力が寺田だったんだろう。
「……傷付いているんだね。可哀想に。寺田に何を言われたんだ?」
 おそらくそういうことではないだろう。だから敢えてそう切り出す。と、ぱっと顔が上がった。
「ち、違う、けっ、健ちゃんは、何も悪く……っ」
 野木沢の目に光が灯る。はは、こんなになってまでもかばうんだな。いいね。いったん感情の堰が切れれば、あとは勝手に流れ出すはずだ。
 あっという間に目に涙をためた野木沢は、それを隠すように両手で顔を押さえて俯いた。俺はその隣に座り、ぽんぽんと肩を叩いた。払いのけるような仕草があったので、ここはとりあえず手を下げる。
「ごめんね。じゃあ、何があったんだ?」
「な、なんにもない。ただ、……ただ、僕が勝手に健ちゃんのことを好きだっただけ。勝手に好きになったのに、幸せな健ちゃんの姿を見て、僕じゃないひとと幸せになる健ちゃんに、勝手に悲しくなっただけ……っ! 僕は、僕は、健ちゃんの幸せを願っているはずだったのに。それだけでいいと思ったのに。なんで、なんで、もう、それでいいと、思ってた、のに。なんで、その、手は、僕じゃなくてっ……」
 吐き出すような言葉。やっぱりそういうことか。さっきのあれは、友人同士の諍いというより、恋人同士の修羅場に見えたからな。
「野木沢は、寺田と付き合ってたの?」
「…………。ううん……。本当に、僕が、一方的に好きだっただけ……。気が付いた時には、全部遅かった。ああ、早くても関係ないや。僕は男だもん。選ばれるはずなんて最初からなかったんだから……」
 もしかして、これは俺向きの展開じゃないか? 好きな相手に振られた奴が目の前にいて。傷ついて今まさに一番どん底にいるタイミングで。警戒心がほぼゼロの状態で。しかも男に懸想していたとくれば、体で落とせる確率はかなり高い。女とは飽きるほどしていたから、たまにはこういう変わった趣旨もありかもしれないな。
 俺は、そっと野木沢の肩を抱いてやる。今度は拒む様子はない。
「そうか。寂しかったんだな。男とかそんなことは関係ないよ。野木沢は、ただ、愛されたかっただけなんだから」
「……っ、う」
 両手の間から涙が落ちるのがはっきり見えた。
 引き寄せると、いっそう嗚咽の声が大きくなる。
「いいよ、いっぱい泣きな。頑張ったね。つらかったね」
 ちり、と頭の隅で何かが引っかかる。でもそれはすぐに消えてしまった。
 野木沢は、俺にすがるように声を上げて泣いた。今夜の宿のためだ、根気よくそれが止むのを待つ。……それにしても、他人に対してここまでの思いを抱くだなんて、面白い奴もいるもんだな。だって、相手はたかがひとりの人間だろ。世の中にどれだけ人間がいると思っているんだ。縁がなければ次に行けばいいだけの話だ。ひとりを深く思うなんて、ただ視野が狭いだけじゃないか。
 ああ、そうか。執着心がないわけじゃなかったのか。寺田ひとりに酷く執着していたんだな。だから他のものには一切興味がなかったのか。
 やがて、野木沢は泣き疲れたのか、少し静かになった。落ち着いたかな。だが、あまり落ち着いて貰っても困る。俺はその肩を支えると、ゆっくり立ち上がらせた。
「さ、笹原く、」
 戸惑う野木沢を連れて寝室へ行き、狭いベッドに座らせる。まだ何が起きているかわかっていないところを、そのまま押し倒した。
「えっ……? あの、ま、待って! ねえ、待って、ねえっ」
 さすがに抵抗するか。だろうな。
「いったん頭を空っぽにしたほうが野木沢のためだよ。何も考えないで、全部俺に任せてくれればいい」
「で、でも、や、こんな……っ」
 俺は野木沢の目を、至近距離から覗き込んで、笑ってやる。
「俺のこと、寺田だと思ってもいいよ」
「え」
 がちがちに固まった体が、緩んだ。バカだな。そこは納得するところじゃないだろう? それもわからないくらい、あいつのことが好きだった? あいつが手に入らないことが、他の男で代用してもいいと思ってしまうくらいショックだった?
 まあ、そんなことどうでもいいけど。
 頬にキスしてやりながら、ネクタイを抜き取り、ワイシャツのボタンを外す。一瞬、ネクタイで腕を縛ってやってもいいかと思ったが、傷心にはひたすら甘くしてやるのが効くだろう。下手に強硬な態度で挑んで、拒まれて追い出されるのも面倒だ。まあ、追い出すようなことが出来そうなタイプでもないから大丈夫だろうけど。直接肌に触れる俺の手を、困ったような手が柔らかく押し返そうとする。抵抗したいが、どう抵抗したらいいのかわからないのだろう。
「笹原くん、ねぇ」
「いいから。乳首、感じる?」
「わ、わかんない……。あの、こんなこと、僕なんか、駄目だよ……」
 知り合いだから拒めないのか? 面白い思考回路だな。俺が知り合いかどうかは関係ないだろ。今、襲われてるんだってわかっていないのかな。
 どこを触れたらいいか加減がわからないが、敏感なところはおそらく男女でそうは変わらない気がする。存在感のない小さな乳首を指でさすってやると、ぴくんと腕の中の体が反応する。
「だ、だめ」
 弱々しい拒否。なんだそれ。そういう態度は逆効果になるって知らないのか。……ああ、知らないのか。一途に寺田を思ってきた野木沢は、誰の手垢もついていない。まっさらだ。新雪のような、何も知らない体に触れている。そう思うと、気分が高揚する。
 ベルトを外し、ズボンを下げると、反応しかけたペニスがぴょんと顔を出す。
「……まだ何もしてないのに、勃ってる」
 野木沢は、ぱちりと目を見開き、それから両手で顔を覆う。さっきとは違う。今は、隙間から見える頬が赤い。
「初めて……人に触られた、から……」
 へえ。
「可愛い」
 口から、そんな言葉が漏れた。俺の下で震えながら、戸惑いながら、体が素直に反応を始めていて、それに対しても困惑している。その姿が、本気でそう思えたからだ。
 そのせいか、なんだか可愛らしく見えてきた熱いペニスをきゅっと握る。
「……っあ」
 零れた声。ぞくぞくする。
 恥ずかしがって口を塞ごうとする両手を、残った手で掴んで口を開かせる。
「教えて。どこを擦られるのが好き?」
「わか、ん、な」
「ふうん。自分でしないの?」
「し、な、ぃ……。悲しく、なる、から……」
 なるほどね。触れて欲しい人に触れてもらえるわけではないからな。自分で慰めても、その後に襲ってくる虚しさが酷く重いのだろう。
「じゃあ、一緒に探そうか」
「あ、やっあ、あ……っ、んっ、あぁっ」
「……先っぽ、好き? この、ぐちゅぐちゅしてるとこ好きなのかな?」
「あっ、あ、そこ、や、っあ、きもち……ぃっ」
 ふ、ふふ。
 初めて言ったね。ここが気持ちいいんだ。
 俺は両手で竿と先端を弄ってやる。
「ひっ。あ、つよ、ぃ、あ、」
 声がどんどん艶めいていく。
 不思議と、それに煽られてくる気がした。
 先走りで滑らせた指を、後ろの穴に滑らせ、その勢いで差し入れる。
「うぁっ」
 きゅっと力が入るそこを、隣の指で撫でながら、くちゅくちゅくすぐってやる。
「わかる? ここ。ここに、俺が入るの……理解出来る?」
「入んないよぉ……」
「理解はしてるんだね。偉い、偉い。入るように、柔らかくしてあげようね。全部俺がしてあげるから、力を抜いて」
「ん……っ」
 ゆっくり息を吸って、吐いて。野木沢は、素直にそうやって体の力を抜いていく。……ちゃんと、言うことを聞くんだな。
「上手だよ。そう……うん。指、増やすからね」
「あ、はあ、あ、ぁ、ん、うん……」
 柔らかく、暖かい野木沢の中を、ゆっくり広げる。指を少し動かすたびに、ぴくんと動いて息が漏れる。やがて、中に、ふっくらとした感触の違う場所を見つけた。
「っあぁっ!」
 ああ。ここか。
「あ、なんか、だめ、そこ、あ、あっ、ぐにぐにしちゃ、だめぇ!」
「ここ、押したら駄目なの?」
「だめ、だめ、なのっ。ぎゅってなる、わかんな、ぁ、や、ぁ」
「そっちに意識が行かないように、前を弄ってあげるね」
 言いながら、止めていたペニスに対する刺激を再開する。野木沢は、両手でシーツを握り締める。
「あんっ、あ、ひっ、う、ふぅう、っう、ら、め」
 足の指に力が入ってる。
 もうすぐだな。
「きもち、の、きちゃ、ぁ」
「いいよ。全部受け止めてあげるからね。ほら。出してごらん」
「…………っ! う、ぁあっ!」
 手のひらに、熱い。
 駄目だ。
 止められない。
 早く。
 この、指を締め付けた暖かい隙間に、入りたい。
 肩で息をする野木沢に、のしかかる。
「……ささは、らくん」
「今から、俺ので、野木沢を慰めてあげる。だから、いいね?」
 野木沢は、半分閉じた目で俺を見て、……ゆったり頷いた。
「うん。いいよ……」
 後は、もう夢中だった。
 指で入った時とはまた違う感触がした。狭くて、ふわふわで、熱くて、柔らかくて、全身が包み込まれるような、不思議な感覚。
 野木沢は、ただ、大きく息をして、俺を受け止めた。
 俺の全部を飲み込むと、そっと自分の腹を撫で、俺を見て、
 笑った。
 熱い。
 頭の中が熱い。
「あっ、あっ、ん、は、ぁ」
 俺の動きに合わせて吐息と一緒に零れる声。
 ペニスに手を添えてやれば、なお一層声が甘い。
「気持ちいいよ、野木沢……」
「あ、うぅ、う、うぇ、ぃ」
 何を言っているのかもうわからない。
 なんだろう。
 気持ちいい。
 繋がったところから、溶けていくようだと思った。
「野木沢、」
「あぁ……うぁぅん……」
 気が付いた時には、縋るような眼差しに引き寄せられるように、キスをしていた。
 甘い。

 目を覚ますと、そこは見慣れない天井だ。ああ、そうか。昨夜は終わった後、気を失うように眠ってしまった野木沢の隣で、俺もそのまま寝てしまったのか。
 野木沢は俺の左側で、俺に背を向けるように壁に向かい、小さくなって眠っている。
 ……今までまったく考えたこともなかったが、男とのセックスも悪くないな。感触も反応も違うのが斬新だった。これはキープしておいてもいいかもな。なんだか、新しいオモチャでも手に入れたような気分だ。
 そこで、ようやく自分が空腹だったことを思い出す。夕飯を提案するような空気ではなかったし、俺も夢中になってしまったからな。何か……宅配でも頼むか。俺は携帯で適当に2人分の朝食を注文すると、シャワーを浴びることにした。タオルはぎりぎり2枚あった。
 玄関のチャイムが鳴ったのは、ちょうど風呂場から出るところだった。それを受け取ってリビングに戻ってくると、野木沢が眠った時のままのシャツと下着姿でよろよろと部屋から出てきた。
「おはよう。ごめんね、シャツとズボン、皺になっちゃったよね」
「え、あ、ううん、平気。あの、おはよう……。あ、たしかに酷いや……。じゃ、ちょっと着替えてくるね」
「うん」
 野木沢は再び部屋に引っ込む。俺はその間に、ローテーブルの上にマフィンのサンドとサラダを並べた。2人分乗せると、ずいぶん狭い。他人の存在をまるきり想定していない大きさだ。
 今度はシャツとズボンを身につけた野木沢が部屋を出てきた。……いや、何か変わっているか? 皺の有無でさっきの服とは違うとわかるが。クローゼットを開けた時も思ったが、休日に表に出るということも想定していない……?
 野木沢はテーブルを眺めて不思議そうにする。
「あの、それは」
「まったく……。野木沢の家、冷蔵庫にもキッチンにもなにもないんだから。適当に注文して持って来て貰った。こういうのでよかったかな」
「あ、お金……」
「あはは。いいよ。昨日泊めてもらった宿賃として取っておいて」
 野木沢はまた困った顔をしたが、少し考えてからこっくりと頷いた。
 そして、俺たちは狭いテーブルに向かい合って座る。
「いただきます」
 どちらからともなく、会話が途切れた。ああ、何か話してやらなきゃいけないかな。そう思ったけれど、久し振りのセックスで体力を使い切ったせいか、なんだか会話をするのも億劫だった。だが、野木沢は沈黙を気にすることもなく、黙々とマフィンを口に運ぶ。食事時に黙っていると、何に怒ってるのかだのつまらないだの散々言われてきたから、不満げにされても当然だろうなと思っていたが、彼にとってはそういうものでもないらしい。
「……美味しい」
「よく行く店のモーニングなんだ。ここの近くだよ」
「そうなんだね。知らなかった」
 そのくらいの会話しかない食事。だが、なんだろう。居心地がいい。野木沢も少し肩の力を抜いたようで、サラダの緑色を静かな目で見つめていた。
 そしてあらかた食事が終わると、野木沢は崩していた足を整え、きちんと正座をした。体、辛いだろうに。
「笹原くん」
「うん」
 野木沢は、昔見たような穏やかな顔をしていた。
「昨日は、ありがとう」
「えっ?」
 思わず声が出た。
 …………は?
 礼……?
「いや、俺は礼を言われるようなことは何もしていないよ。……むしろ、野木沢の意思を無視して無理矢理に事に及んだ事実を、俺が謝るべきだろう」
 しまった。野木沢に、俺に謝罪させる、という選択肢を与えてしまった。謝罪とはつまり、俺が悪いと認めることだ。自分に酷いことをした人間を置いておく道理はない。居心地のいい宿を見つけたと思ったのに、自ら手放すような言葉を使ってしまった。咄嗟とはいえ、何故そんなことを言ってしまったんだろう。
 しかし、野木沢は首を振った。
「ううん。方法はどうあれ、たしかに僕を慰めてくれたのは笹原くんだったよ」
「野木沢」
「たしかに最初はびっくりしたし、嫌だと思った。でも、どうせあのまま死ぬつもりだったんだ。ならどうでもいいやって思って、そのまま流されることにしたのは僕だ。……そしたら、本当に頭が真っ白になって、あの瞬間は全部忘れることが出来たんだ。もう何も感じないだろうなと思ってたけど……しっかり気持ちいいって思っちゃった」
 ふわっ、と野木沢は笑う。
 ……わかっていたのか。
 俺に抱かれると決めて力を抜いたのは、すべてを諦めたからだったのか。
「だから、ありがとうでいいんだ。笹原くんも、気持ちいいって言ってくれたでしょ。僕なんかでも、誰かに何かを感じさせることがあるんだなって思ったら、……うん。ちょっとは生きててもいいのかなって」
「野木沢、携帯貸して」
「えっ?」
 俺は、奪い取るように野木沢から携帯を受け取った。電話帳には、会社だの不動産会社だの事務的な相手しかいない。そこに、俺の番号を放り込む。
「笹原くん?」
「これ、俺の連絡先。心でも、体でも、寂しくなったらすぐ呼んで」
「……え」
 何故そんなことをしたのかわからない。
 ただ、一晩で終わらせるには勿体ないと思った、それだけは確かだ。

 その後、俺は2年前に付き合っていた彼女のもとに転がり込んだ。ちょうど向こうも彼氏と切れたところだったらしく、タイミングがよかった。久しぶりに触れる女の体は、ちゃんと気持ちよかったし、満足できた。
 だが……。
 何故だろう。ふとした瞬間に野木沢の顔が浮かぶ。おそらく、あの朝言われた礼の言葉が、ずっと引っかかっているのだろうと思う。
 しばらく待っても、野木沢から連絡は来ない。あいつは一晩だけだと割り切っているから、連絡を寄越す必要がないのかな。
 いや、待てよ。
 俺はもうわかっている。学生の頃、あいつが浮かべていた笑顔が、ただの外側を覆った殻だったということを。内側でぐちゃぐちゃに泣き叫びながら、繕っていた表面だけの笑顔だと知っている。そんな奴が、自分から連絡を寄越すはずがないんじゃないか?
 それに、……俺が抱いたことで、俺が快感を得たことで、自分にはまだ価値があると思ったと……そんなことを言っていなかったか? まさか、あれで目覚めて、見知らぬ誰かに身体を任せるようなことになってはいないか。いや。それなら、まだいい。まさか、俺がいなくなった後、本当に自分の命に意味を失ってはいないか。
 時間が経つほど心配が募る。
 くそ、どうしてだ。
 何故こんなに、あの薄っぺらな笑顔が頭から離れないんだ。
 連絡して、と言ったのは俺だが、結局、耐えきれなかったのも俺のほうだった。

 部屋のインターホンを鳴らす。静寂が長い。まさか。
 不安になる頃、ようやく鍵の開く音がした。
「……えっ、笹原くん?」
 ぽかんとした顔に、ほっとする。
「よかった、生きてた。少しやつれたようだが」
 野木沢は少しだけ苦く笑い、すぐに優等生の笑顔を貼り付ける。
「どうやらそれには勢いが大事みたい。一度忘れさせられちゃったから、踏ん切りがつかなくて」
 冗談なのか本気なのかわからない。ただ俺は安堵のあまり、スーツ以外に部屋着も持っていたんだな、とかどうでもいいことを考えていた。
「あがっていく?」
「出来ればお願いしたいところなんだが」
「あはは、どうぞ」
 数週間ぶりに訪れたその部屋は、なにひとつ変わっていなかった。殺風景だ。落ち着いてさらによく見てみると、テレビはおろか時計すらない。おそらくあのエアコンも備え付けなのだろう。
「普段、何をしているんだ?」
 あまりに何もなくて、思わずそう聞いた。
「ん? 何も。今日は休みだったから、ただぼーっとしてた」
「食事はどうしてるの」
「……休みの日は、特に、なにも……。食欲とかあんまりなくて……。あ、ほら、平日はね、仕事してるから。そこで栄養は摂ってるから」
 道理で。
 俺は後ろから、野木沢を抱き締める。あの夜より、細い。
「えっと、笹原くん?」
 不思議そうにそう言っただけで、反応はない。
「駄目だよ、食事はちゃんととらないと。そんなことだろうと差し入れを持ってきたから。一緒に食べよう」
「そこまでしてもらうわけには」
「だって、あまり細いと抱き心地が悪いからな」
 野木沢は仰のいて俺を見る。それから、小さく首を傾げた。
「……宿賃?」
「そういうこと」
 ふっと笑う。そこには呆れたような色が乗っていた。
「なら遠慮なく、いただきます。ありがとう」
 言葉通り遠慮することもなく、野木沢は俺の持ってきた出来合いの弁当をあっという間に平らげた。あんなふうに言ってはいたが、体はちゃんと栄養を欲している。もっと早く来ればよかったな。
 ごちそうさまと手を合わせた野木沢は、空になった容器を片付けながらちらりと俺を見た。
「そういえば、あの日はどうして僕に声をかけたの? 別に、僕を止めたかったわけじゃないでしょう」
 ……ふーん。
 時間が経って、ようやく通常の思考が戻ってきたのだろうか。あの日の野木沢は、明らかに普通の状態じゃなかったからな。
「どうしてそう思うのかな」
「冷静になって思い返してみるとね。もともと学校が同じってくらいしか接点なかったし、そういうほぼ赤の他人の、しかも男を偶然見かけたとしても絶対放っておくタイプなような気がしてたから、おかしいなと思った。ごめんね。高校時代、女の子以外にはちょっと冷たい人なのかと思ってたんだ」
「間違いではないな」
「ないんだ。……それに、失恋した人間を相手に強引に性行為に及ぶって、きっと僕を丸め込もうとしているんだろうなって」
 そこまで気が付いていたのか。
 ならば、もう隠す必要はなさそうだ。
 甘い言葉とセックスで誤魔化すことが得意だったからこそ、今までそういう生活が出来た。
 まさか、騙されない奴がいるなんて、本気で思っていなかった。
 俺は息を吐いた。
「頭の回転が速いんだな。おまえみたいな奴は初めてだよ」
「そりゃあ、あの成績順の大きな掲示板に何度も名前を並べていたんだから、同程度ではあるんじゃない?」
「なるほどな」
 お上品な優等生の時には見せなかった、得意げな顔。そうだな、あれだけぐちゃぐちゃな中身をさらしたんだ、こいつも俺に本性を隠す必要がなくなったのかもしれない。
 お互いに外面がバレた。なんだか愉快だな。
 どうせだから、もう全部、洗いざらい吐き出してしまおう。
「……実は、大学進学で出てきたんだが、面倒になって中退して。それからずっと、仕事もせずに女のところを転々とする生活をしていたんだ。じっと目を見て、可愛いね、好きになっちゃった、とか言えば一発だったからさ」
「ああ、笹原くんかっこいいもんね」
「素直な誉め言葉として受け取っておく。それで、あの日、長いこと住まわせてもらっていた家から追い出されて、行くあてがなくて困っていたんだ。その時におまえたちを目撃して。酷く傷ついていたようだったから、簡単に家に上げてもらえるだろうと思って声をかけた」
 野木沢はなんでもないことのように頷いて聞いている。
「おまえを抱いたのもそれが理由。ここで体を使って落としておけば、宿泊場所として使えるんじゃないかと思ったんだ」
「うん、そうだね。妥当な判断だと思う」
「……でも、あの日以来、野木沢がどうしているかずっと気になっていた。これは本当」
 目の前の顔から、表情が消える。俺のことを疑っているのだろう。あれだけのことをしたんだ、当然だと思う。
 でも、もう全部話してしまった。隠しているものはない。
「ヒモやって人を騙してきたことを告白したんだ。これ以上嘘をつく意味はないよ」
「……たしかに。じゃあ、ここから先、嘘はつかない?」
 ああ。そうか。怖いんだな。自分が本当に傷付いた時、どう思ってどう行動するか知ってしまったから。今はただ、もう一度傷付かないように、なんとか自分を守ろうとしているのだろう。
 俺ははっきりと強く頷いた。
「うん。野木沢に嘘はつかない。約束する」
「……女の人を手玉にとって渡り歩いてた人の約束を信じていいのかちょっと不安だけど。信じることにするね」
 言ってくれるなあ。あんなに、周りに対して「自分は優しいですよ、害はないですよ」とにこにこアピールしていた男が。だが、その本性がバレた今、それを知っているのが俺だけだと思うと、不思議な優越感がある。
 テーブルを回り込み、野木沢の隣に膝をついた。野木沢は、空っぽの表情で俺を見上げる。
「この際だからはっきり言う。おまえとのセックスが忘れられない。また抱かせてくれないか」
「もう一度、ってこと?」
「いや。セフレになってほしい」
 それを聞くと、わずかに光が灯った目を細め、小さく笑う。
「嘘はつかないでほしいと思ったけど……。まさかそこまでストレートなお願いをされるとは思ってなかった」
「意外と気持ちよかったんだよ。野木沢はどう思った?」
「僕だって気持ちよかったけど」
「なら、いいんじゃないか」
 野木沢はぱたぱたと膝をはたくと、きちんと座り直す。変なところが真面目だな。
「わかった。もう、なんでもいいよ」
 言って、笑った。
 なんでもいいなら、いいだろ。
 引き寄せて、抱き締める。抵抗はない。それどころか、俺の背に、そっと腕を回してくる。
 ああ、またあの感覚を味わえるんだ。
 俺は野木沢を寝室に連れて入り、ベッドに押し倒して、そのまま抱いた。もう一度、と言った俺に、黙って笑いながら頷く。
 それを繰り返して。
 日が暮れるまで、ずっと抱き合い続けた。
 心地よかった。
「もう、暗いね」
 カーテンを閉めることも忘れていた。外はすっかり暗い。だるそうにそれを眺めていた野木沢は、はあっと息を吐いて布団を被った。
「夕飯はどうする?」
「うーん……疲れちゃったから、今日はもう寝る」
「そうか」
「それより、笹原くんは今日も泊まっていくの?」
 きっと野木沢は俺の答えを知っていただろう。
「むしろ、このままここにいさせてくれないか?」
「いいよ」
 だから、間も開けずにそう言った。
「使ってない部屋もあるし。いたいなら好きなだけいていいよ」
「部屋はここでいい。ベッドもひとつあればいい」
 野木沢は笑う。
「なんでもいいよ」

 転がり込んでおいてなんだが、野木沢はさすがの俺でも心配になるほど、素直で従順だった。
 仕事を終え疲れ果てて帰ってきたことをわかっていて、わざと「抱きたい」と言っても、「いいよ」と服を脱ぐ。逆に、言う必要もないのに「今日は抱かないよ」と言うと、「わかった」と頷く。喘ぎ声を聞くのが苦手だから我慢して、と言えば、唇を噛みしめる。働きに行っている間に買い物に行きたいと言ったら、財布ごと置いていこうとした。自分の昼はどうするんだと聞けば「別にいいかなって」。結局古い財布にいくらか入れてもらい、その金を使って俺が自分の服を買えば「似合うね」。明らかに無駄遣いなほど豪勢な食事を買ってきても「ありがとう」。
 俺を信じると言った野木沢。でもそれは、信頼とか信用とかいうものとはまた異質だ。俺の言葉を受け取り、従う。それを容認したという意味合いが強い。おそらく、このまま野木沢の資産を使い切って俺が逃げたとしても、「どうでもいい」で終わらせるのだろう。
 ベッドの端で体を縮めるように眠っていた野木沢が、もぞもぞ動いたかと思うと、壁に縋り付くように起き上がる。
「おはよう」
 声を掛けると、申し訳なさそうな顔がこちらを向いた。
「おはよう。ごめんね、起こしちゃった」
「いや、起きていたから大丈夫だ」
「そう? ならよかった。朝ご飯作るね」
 俺は、野木沢の腰に手を回す。滑らかな手触り。
「ん? なあに?」
「体つき、戻ってきたなと思って。最近はちゃんと食事をするようになったからだろうな。運動もしっかりしているし」
「笹原くんが毎日夕飯買ってきてくれるでしょう。おかげで三食欠かさないようになったからかな。……でも運動って言っても、朝晩の通勤とか外回りくらいでたいしたことはしてないけどね」
「毎日してるだろ、セックス」
「……ふふっ。それか。毎日でもないじゃないか」
 野木沢は笑って、ベッドから下りて部屋を出て行った。
 体型が戻るに従って、ささくれ立つような雰囲気は次第に消えてきた。一緒に住むようになった当初は、目を離すと窓から飛び降りるんじゃないかくらいの危うさがあったから。今は、飛び降りるんでも一言くらいは寄越す気がする。
 外に出る用事もないが、なんとなく惰性で服を着替えてからリビングに出ると、ベーコンの焼けるいい匂いがした。
「ごめんね、ちょっと卵崩れちゃった」
 キッチンから、野木沢の声。今まで野木沢はまともに料理をしたことがなかったらしい。朝食は抜き、昼を会社の食堂か出先で済ませ、夜も出来合いか食べないかという生活をしていたんだそうだ。話を聞けば聞くほど、野木沢は自分のことに無頓着だった。
 ……だから、これは大きな進化なのだと思う。
 俺はキッチンを覗き込んだ。崩れた、といっても黄身が割れている程度だ。
「少し形が悪いくらいなんてことないさ。食べてしまえば一緒だろ。ああ、ベーコンは美味しそうに焼けているね」
 最初の頃は、どこまで焼いていいか真剣に悩んでいたからな。適当、が難しかったのだと思う。
 うん? なんだ、野木沢が戸惑ったような困ったような不思議な表情をしている。
「野木沢? 冷めるよ?」
「あっ、あ、そうだね。食べよう」
 朝食くらいならテーブルに乗るが、やはり狭い。もう少し考えたほうがよさそうだな。それに毎朝パンというのも、悪くはないが……たまには炊きたての白米が欲しくなる。炊飯器くらいはあってもいいのではないだろうか。鍋が1つにフライパン1つという体制もいかがなものかと思う。洗濯も洗濯機がないからすべてコインランドリーだぞ。本当にこの家には物が少なすぎる。
「……野木沢って、物が多いと落ち着かないタイプなのかな」
「えっ?」
「部屋。これだけスペースがあるのに、狭いアパート一室に収まるくらいしか物がないだろう? ずっと疑問だったんだが」
 野木沢は、またもや複雑な顔で部屋を見渡した。
「大した洞察力だねえ。……全部、前に住んでた部屋に置いてあった物だよ。ここにあるものは全部。それからなんにも増やしてない」
 ざくり、と野木沢はサラダにフォークを刺した。俺が箸で、野木沢がフォーク。これも1つずつしかないからだ。
「この部屋、慌てて契約したんだ。健ちゃんの結婚式の案内状が来てから、もう、とにかくどこかに引っ越さなくちゃと思って。そしたら、家賃はそんなにびっくりするほど上がらなかったけど、会社からは遠くなるし、無駄に広いばっかりだし」
「なるほどな。仲良しだと思っていた幼馴染みから結婚式に欠席の返事を貰ったら……寺田だったら乗り込んできそうだからな」
「知り合いでもない笹原くんに言われるなんて、健ちゃんも相当だなあ」
 ちゃんと笑って話している。何度も唇を噛むから辛そうではあるけれども。
「でも、たぶん、そうだったと思う。僕も失礼なことしちゃったから。……あのね、招待状の中にね、スピーチをお願いするカード、も、入っててね。そん、なの、出来るわけ……っ」
 しまった。
「ごめん、野木沢。思い出させてごめん。それは、寺田の落ち度だよ。ちゃんと事前に話を入れておくべきだ。いきなりそんなものを見たら、野木沢は動揺する。当然だと思う」
「……あ、ごめ……。ううん、健ちゃんは、僕が健ちゃんを好きなことは知らなかったから、仕方ないんだ……。とにかく、顔を合わせたらおかしなこと言っちゃいそうだし、結婚式に出たら倒れてただろうし、スピーチなんかしたら勢いでぶちまけて酷い迷惑を掛けることになってたかもしれないし。だからそうやって、見つからないように逃げたんだ。……でも結局この前、偶然会っちゃって、……僕、健ちゃんといた時が一番幸せだった……って。言っちゃった。バカだよね。言わないって決めたなら、死ぬまで口をつぐめばいいのにね」
 俺は野木沢の隣に移動し、野木沢を抱き締める。
 我慢している、決壊ギリギリに涙を浮かべた目が、俺を見上げた。
「野木沢は十分我慢したよ。大丈夫、ずっと一緒にいた幼馴染みなんだろう? その程度の引っかかりくらい、寺田にも背負って貰えばいい。いつか、その釈明だって出来るんだから」
 ことん、と、俺の肩に野木沢の額がぶつかる。
「……やっぱり、笹原くんって優しいね」
 え? 何を突然。
 呆れたことを言う奴だな。
「優しいわけないだろう。俺がどうやって生活してきたか知っているくせに」
「ううん。優しい。それでも、僕の話を聞いてくれるもの。一緒に考えてくれるもの」
「騙されているよ、それが俺の手段だとわかっ」
「でも、僕にはもう嘘はつかないんでしょ?」
 …………。
 言い返せなかった。
 いや、言い返す意味がなかった、ということなのかもしれない。
 けれど、俺は……。
 そっと野木沢を引き剥がすと、その目を覗き込む。
 綺麗だな。
「あのな。嘘はつかない。だが、俺はいつかここを出て行く人間だぞ」
 野木沢は俺を信じると言った、だが俺は自分を信じない。適当に女の間を渡り歩いてきた人間だ。それが性分なんだ。俺はおまえを傷付ける人間だ。
 なのに。
「……いいんだ。僕はただの家主だよ。それから、セフレでしょ。わかってる。いいんだ、今、存在に名前があるだけで」
 そう言って、儚げに笑う。
 だけどおまえは、傷付いたら……また、あんなふうにぐちゃぐちゃになってしまうんだろう?

(続く)

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65こ目;if+if~さかさまに満ちた月のゆくえ 前編~

キーワードタグ 僕+君→Waltz!  創作BL小説  創作BL  一次創作  幼馴染  三角関係  R18 
作品の説明 前回『if~今宵、月はさかさまに満ちて』( https://pictbland.net/items/detail/2297821 )で
蒼生の夢の話を聞いた冬矢の心の隅には、ずっとその内容が引っかかっていました。
もし、そこに、自分がいたら……そう考えた冬矢が見た夢は。

続きます!
↑初公開時キャプション↑
2022/09/16初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
65こ目;if+if~さかさまに満ちた月のゆくえ 前編~
1 / 1

 こんな夢を見たのは、たぶん蒼生の夢の話を聞いたからだ。
 そもそも、俺は普段、夢の内容を覚えていない。大体が曖昧で意味不明で、覚えていても意味のない夢ばかり見るから、特に反芻せず朝の支度をしているうちに忘れてしまう。
 けれど、今日の夢は、いやにはっきりしていた。


 俺は、朝の雑踏の中にぼんやりと立っていた。顔のはっきりしない通行人が、不思議と俺にぶつからずに前後左右を通り過ぎていく。ああ、そうか、スクランブル交差点の真ん中にいるんだ。交差点? 何故? そんなところに?
 車のクラクションが鳴って、はっと我に返る。見上げた信号は既に赤になっていた。スピードを緩める車の合間を縫い、急いで歩道に上がる。そのまま信号待ちの人混みを掻き分け、行き当たった商業ビルのショーウィンドウに寄り掛かって息をつく。
 すると、頭がすっきりと晴れ渡ってくる。そうだ、大学進学でこっちに引っ越してきたんだった。別にやりたいことがあったわけじゃないから、面倒になってわりとすぐに中退してしまったけれど。
 それで……ああ、つい今し方、数か月世話になった彼女に追い出されてきたんだったな。思い出すと、はたかれた頬が痛み出す。
「働きもしないで毎日だらだらしてるなんて、フリーターじゃなくてただのヒモじゃん! しかも、慰めてもくれない愚痴を聞いてもくれない家事を手伝ってくれるわけでもない、挙げ句の果てにはセックスも嫌? 何のためにいるのかわかんない、出てって!」
 まったくその通りだから、妙に納得してしまって、特に言い返す言葉はなかった。最初はちゃんと体で返していたんだけどな。自分が稼いでいるんだからあれしろこれしろ、という命令口調にどんどんやる気がなくなっていった。それでも長く付き合ったほうだと思う。今朝までは文句もなく、満足して暮らしているんだろうと思っていたんだ。
 しかし、彼女のところでずいぶん長く過ごしたせいで、しばらくバイトもしていないから財布が軽い。さて、どうするかな。どこかで誰かを引っかけるにしても、元手がいるしな。それには住所がいる。ともあれ、まずは何も食べずに出てしまったから食事もしたいし。とりあえず、今まで知り合った子で適当に遊べる子を当たるか……。
 ポケットから、携帯電話を取り出す。すると、少し前に着信が残っていた。女の子じゃない。唯一連絡先を知っている男だ。なるほど、奴に頼るという方法もあったか。早速折り返すと、数コールで相手が出る。俺が話し始めるよりも早く、電話の向こうからは「ああ、笹原、おはよう」と暢気な声が聞こえた。どうやら、休日で暇だったから、突然で悪いと思いながらも予定を聞こうと電話をかけてきたらしい。なるほど、世の中は休日だったか。追い出されたとたんにこれだ、俺も運がいいな。
 簡単に事情を説明して呼び出すと、その男……森は、いくらもしないうちに俺の目の前に現れた。
「ちょうど近くまで出てきてたんだ。とりあえず昼飯でも食べながら話すか」
 相変わらずの人の好い笑顔でそう言うと、近くのハンバーガー屋に俺を連れて行った。中途半端な時間だというのに、店内はやたらと混んでいる。それでも、ちょうど奥まったところの目立たない席が空いていた。
「んで? 追い出されたんだって?」
「まあ、そういうことだ。今回は、ちょっと長く居すぎたかな」
「そんなに居心地よかったのか」
「そうだな……。何も言わないで置いてくれていたから、そうなのかもしれない。ただ、最近セックスが面倒で避けていたんだが、それが引き金になったようだ」
「あー」
 森は大きめのハンバーガーにかぶりつきながら頷く。
「顔で女の子引っかけて転がり込む生活してて、それが面倒になったら致命傷だな」
「わかってるんだがな。なんだかやる気が出ない」
 こうなったら、そういう、顔を使う商売でもしたほうがいいのか? だが、人前で笑顔を作るのも愛想を振りまくのも得意じゃないからな。だとすると、体で黙らすことが出来ないなら、言葉で落とせるような相手に狙い目を変える……という方法しかないのだろうか。ただ、自分が気持ちいいように体を動かしていればいいセックスとは違って、言葉で口説くのは頭を使う。ああ、それもだいぶ面倒だ。
「今日からどこに泊まるんだ」
 森が発した単純な疑問に、俺は息を吐いた。そうだ、落ち着く先も必要だが、直近のそこから考えなければならないのか。
「とりあえず、今まで感触良かった子に声をかけて……しばらくは短期で渡り歩くかな」
「俺の部屋でも、1日2日は大丈夫だと思うぞ」
「ああ、助かる。どうにもならなくなったら頼むかもしれない」
 こいつは、所属する道場の寮に入っている。臨時で人を泊めることは出来ないこともないらしいが、そのまま居着くわけにはいかない。そう言うと、森は笑った。
「友人の部屋にはいられないが、女子の部屋なら渡り歩いてもいいと思っているあたりがおまえらしいな」
 まあ、一応、おまえは友人だからな。面倒は掛けたくない。
「ただどっちにしても、当面の生活費もないんだろ? それだって頼ってくれていいんだぞ」
「それも最終手段だな。とりあえず、今日の食事代と……遊興費はツケにしておいてくれ」
「あっはっは! そうだな、ゲーセンにでも行って、ぱーっと遊ぶか!」
 理解が早くて助かる。

 久し振りにゲーセンで遊び倒して、なんだかすっとした。昔は騒がしくてそんなに好きでもなかったんだが、今となってはこの喧噪が心地よく思える。
「ずいぶん腕がなまった気がする」
 両手を伸ばすと、ここしばらく使っていなかった筋肉がぴしりと悲鳴を上げた。
「そうかあ? 得意のジャンルじゃ俺をすんなり超えてく奴が言うセリフとは思えないがな」
 それでも、全盛期だったらもっと突き放していたはずだ。それに他のゲームでももう少し競り合えていなかっただろうか。全体的に体を動かしていないせいか? 最近はゲームといえば、家に引きこもってひたすら携帯をいじるばかりだったからな。
「ま、たまにはこうやって遊ぼうぜ」
「そうだな」
 表に出ると、もう夕方だった。日が傾いて、だいぶ暗くなってきている。逃避していたが、いい加減、そろそろ今日の宿を決めなければ。
 駅前の広場まで来て、俺は足を止める。行く先が決まっていないのに、電車に乗っても意味がない。
「行くけど、本当に今日、大丈夫か?」
 森がそう聞くのは何度目だろう。それに対して俺も根拠のない「大丈夫」を何度返したことか。小学生からの腐れ縁だ、気にしてくれているのはありがたい。ただ、なんとかなるはずだ。今までもなんとかなってきたのだから。
「それじゃ、……ん?」
 駅に向かいかけた森が、ロータリーの反対側を見つめている。なんだろうと目で追うが、忙しそうに行き交う人々が見えるばかりだ。
「なんだ?」
「あれ、中学校の時に同学年だった奴らじゃないか?」
 え? 言われてよく見ると、人の流れの中に、ぽつんと逆らうように立ちすくむ2人がいる。ひとりはスーツの男で、もうひとりは子供を抱いてベビーカーに手をかけるラフな格好の男。誰だ? 中学の……なんて、そんなの覚えていない。
「おまえは本当に、よく覚えているな。クラスは別だったってことだろ?」
 こっちは同じクラスの人間すらも覚えていないというのに。
「いや、ほら、有名だった奴らだよ。ずーっと一緒にいてさ、片っぽが引っ付いて離れない、コンビというかセットみたいな2人組いたじゃん。なんて言ったかな、あー……そうだ、サッカー部の寺田と、野木沢」
 ふと、何かが頭を過った。
「そういえば、野木沢も地元高校だったから、おまえ一緒だったんじゃないか?」
 そうだ。俺は考えるのも面倒で、地元の奴らの大半が受験する高校に入ったのだった。そこに彼もいた……ああ、いたな。クラスは別だし、話したこともない。だが、成績はいつも俺と競う位置にいた。だから名前はよく見ていた。俺はつるむのが面倒でひとりで過ごしていたが、あいつは成績上位者のグループに属していた記憶がある。何が面白いのか、いつもへらへら笑顔を浮かべていた。貼り付いたような表面だけの笑顔が、何を考えているかわからなくて気味が悪かった。
「……っと、やばい。そろそろ戻らないと」
 時計を見た森が荷物を抱え直す。
「今日は助かった」
「お安いご用だよ。それじゃ、またな!」
「じゃあ」
 慌てて駅に駆けていく森を見送る。本当に急いでいたのだろう、その背中は、あっという間に消えていった。……さてと、本気で転がり込む先を探すか。
 落ち着いて電話が出来る場所は、と振り向いた俺の目に、さっきの2人が目に入った。途端、野木沢がくるりと振り向いて、俯くように走り去った。寺田は片手を伸ばしたが、子供がぐずったのか、焦って両手で子供をあやす。
 ……おかしいな。森の話によれば、あいつらはセットなのではなかったか? 今の雰囲気は、どうもそんな感じでもなかった。
 ちょっと興味が湧いた。野木沢はどこに行ったのだろう。走って行ったのは、たしかあっちのほうだったな。駅の裏手に向かう道だ。その道はわずかに坂になっており、やかましく電車が走る線路のガード下をくぐるように進むと、木が数本あるくらいの小さな公園の脇を抜け、大きな通りにぶつかる。裏とは言っても繁華街だからな、人通りもあれば車通りも多い。きっと見つからないだろうなと思ってあたりを見渡すと、
 ……歩道橋の上。ぽつんと立つ姿を見つけた。やけに目立つな。ぼんやりと車の流れを見つめる目が、遠目でもわかるほど虚ろだ。
 俺が階段を上っても気が付かないようだった。近付いて見ると、見開いた目は、何かを見ているようでいて、どこにもピントが合っていない感じがした。ふいにゆらりと動いた手が、手すりにかかる。
「野木沢」
 びくん、とその肩が大きく揺れた。
 見開かれた目はそのままに、けれど、また薄っぺらい笑顔を作った野木沢が、ぎこちない動きで顔をこちらに向けた。
「ど、なた……ですか」
 頬の筋肉が不自然に震えている。全力で無理矢理笑顔を作ろうとしているのがわかって痛々しい。こんなに弱っている人間を初めて見たかもしれない。
「覚えていないか? 中学も高校も一緒だったろう。お互い成績上位の常連だったよな」
「あ、……ええと、たしか、笹原くん? 久し振りだね。元気そうでよかった」
 張り上げようとした声が掠れている。本人はわかっていないんだろうな、頬や口は笑顔の形になっているが、目がおかしい。ガラス玉を無理矢理押し込んだような暗い色。まるで壊れた人形を見ているようだ。
 これは、落とせるな、と思った。
 つけいる隙がありすぎる。いや、隙しかない。やはり、今日の俺は運がいいな。
「スーツってことは、まだ仕事中なのかな」
「うう、ん。今日はもう、終わって、直帰するところで」
「そうか。家、近いの?」
「遠い、駅、先の、ニュータウンのとこ、のマンション」
「あ、もしかして誰かと一緒に暮らしているとか?」
「ひとり。誰もいない。ひとり」
 がくがく震える口元。大して親しくもない俺相手に、半笑いですらすらと個人情報を話す。頭が回っていない証拠だ。どこで歯止めをかけたらいいのかがわからなくなっているんだろう。
「さっき一緒だったの、寺田だよね?」
「っ!」
 そうカマをかけると、青かった顔が一気に白くなる。息が浅く、荒くなる。
「ああ、どうした? 具合悪そうだな。家まで送るよ」
「でも」
「気にしないで。それに、俺でよかったら話を聞いてあげる」
 俺は野木沢の腕を掴む。かすかに手を引こうとするのを感じるが、余りに弱くて話にならない。半分引きずるように歩道橋から降りると、手を上げてタクシーを拾った。ぜぇぜぇと息をする野木沢を、後部座席の奥に押し込む。
「住所、言えるね?」
「……っ、うん」
 野木沢の言葉は途切れ途切れだが、わかりやすい名前のマンションだったらしく、運転手にはすぐ伝わった。
「そちらの方、大丈夫ですか」
 訝しげにちらちらとこちらを見る運転手に、「飲み過ぎたみたいで」と頭を下げると、それ以降は何も言われなかった。こんな時間では少々苦しい言い訳のような気もしたが、別におかしいことではないだろう。

 マンションに着くと、野木沢は震える手で鍵を開けた。
 ふうん。ひとり暮らしにしては結構広いな。廊下には風呂とトイレのドアがあり、対面式のキッチンとリビングに、それからおそらく部屋がふたつ。ただ、がらんとしていて物がない。リビング自体の広さはさほどないが、不釣り合いなほど小さなローテーブルが何もないフローリングにぽつんと置かれているだけなので、やたら広く感じる。横目で見たキッチンも、ほとんど使われた形跡がない。なんだ、この生活感というものがまったくない部屋は。朝までいた部屋がごちゃごちゃしていたせいもあったが、呆れるほどに物がない。
 俺は、まだ笑顔を作ろうとする野木沢をローテーブルの前に座らせる。それから、ジャケットだけを脱がせた。
「皺になるからこれだけ掛けておくね。部屋に勝手に入ってもいいかな? あと、冷蔵庫も開けていい?」
 俺の質問に、どちらも黙って頷く。俺はジャケットを手に、リビングに面した部屋に入った。……すごいな、この部屋にも何もない。部屋の端に申し訳程度のベッドがあるだけだ。クローゼットの中を開けると、スーツの上下が数着、ワイシャツが数枚、ネクタイが数本ぶら下げられている。下着などが入った小さなカラーボックスもひとつあったが、奥がしっかり見えている。衣服のみで、本当に数えるほどしか物のない、すかすかのクローゼット。あいつ、普段何を着ているんだろう。
 最初から何にも執着していないような空虚さ。……面白い。
 冷蔵庫の中もからっぽだった。かろうじて何本か茶のペットボトルが入っているくらいだ。食器棚を開けると、中には片手で数えられる程度の皿があるだけ、その横に伏せられていたコップもたった1つきり。とりあえずそれにペットボトルの茶を入れ、さっきからまったく変わらない体勢で座り込んだままの野木沢の前に置く。
「ありがとう」
 へえ。この状態でその言葉が出てくると言うことは、おそらく反射だろう。
 なんとなく見えてきたな。コレは、「いい人間」であろうとした結果だ。必死で作り上げてきた外側の殻が、一気に壊れた。だからドロドロの中身がこぼれ落ちているんだな。そして、その殻を保つ原動力が寺田だったんだろう。
「……傷付いているんだね。可哀想に。寺田に何を言われたんだ?」
 おそらくそういうことではないだろう。だから敢えてそう切り出す。と、ぱっと顔が上がった。
「ち、違う、けっ、健ちゃんは、何も悪く……っ」
 野木沢の目に光が灯る。はは、こんなになってまでもかばうんだな。いいね。いったん感情の堰が切れれば、あとは勝手に流れ出すはずだ。
 あっという間に目に涙をためた野木沢は、それを隠すように両手で顔を押さえて俯いた。俺はその隣に座り、ぽんぽんと肩を叩いた。払いのけるような仕草があったので、ここはとりあえず手を下げる。
「ごめんね。じゃあ、何があったんだ?」
「な、なんにもない。ただ、……ただ、僕が勝手に健ちゃんのことを好きだっただけ。勝手に好きになったのに、幸せな健ちゃんの姿を見て、僕じゃないひとと幸せになる健ちゃんに、勝手に悲しくなっただけ……っ! 僕は、僕は、健ちゃんの幸せを願っているはずだったのに。それだけでいいと思ったのに。なんで、なんで、もう、それでいいと、思ってた、のに。なんで、その、手は、僕じゃなくてっ……」
 吐き出すような言葉。やっぱりそういうことか。さっきのあれは、友人同士の諍いというより、恋人同士の修羅場に見えたからな。
「野木沢は、寺田と付き合ってたの?」
「…………。ううん……。本当に、僕が、一方的に好きだっただけ……。気が付いた時には、全部遅かった。ああ、早くても関係ないや。僕は男だもん。選ばれるはずなんて最初からなかったんだから……」
 もしかして、これは俺向きの展開じゃないか? 好きな相手に振られた奴が目の前にいて。傷ついて今まさに一番どん底にいるタイミングで。警戒心がほぼゼロの状態で。しかも男に懸想していたとくれば、体で落とせる確率はかなり高い。女とは飽きるほどしていたから、たまにはこういう変わった趣旨もありかもしれないな。
 俺は、そっと野木沢の肩を抱いてやる。今度は拒む様子はない。
「そうか。寂しかったんだな。男とかそんなことは関係ないよ。野木沢は、ただ、愛されたかっただけなんだから」
「……っ、う」
 両手の間から涙が落ちるのがはっきり見えた。
 引き寄せると、いっそう嗚咽の声が大きくなる。
「いいよ、いっぱい泣きな。頑張ったね。つらかったね」
 ちり、と頭の隅で何かが引っかかる。でもそれはすぐに消えてしまった。
 野木沢は、俺にすがるように声を上げて泣いた。今夜の宿のためだ、根気よくそれが止むのを待つ。……それにしても、他人に対してここまでの思いを抱くだなんて、面白い奴もいるもんだな。だって、相手はたかがひとりの人間だろ。世の中にどれだけ人間がいると思っているんだ。縁がなければ次に行けばいいだけの話だ。ひとりを深く思うなんて、ただ視野が狭いだけじゃないか。
 ああ、そうか。執着心がないわけじゃなかったのか。寺田ひとりに酷く執着していたんだな。だから他のものには一切興味がなかったのか。
 やがて、野木沢は泣き疲れたのか、少し静かになった。落ち着いたかな。だが、あまり落ち着いて貰っても困る。俺はその肩を支えると、ゆっくり立ち上がらせた。
「さ、笹原く、」
 戸惑う野木沢を連れて寝室へ行き、狭いベッドに座らせる。まだ何が起きているかわかっていないところを、そのまま押し倒した。
「えっ……? あの、ま、待って! ねえ、待って、ねえっ」
 さすがに抵抗するか。だろうな。
「いったん頭を空っぽにしたほうが野木沢のためだよ。何も考えないで、全部俺に任せてくれればいい」
「で、でも、や、こんな……っ」
 俺は野木沢の目を、至近距離から覗き込んで、笑ってやる。
「俺のこと、寺田だと思ってもいいよ」
「え」
 がちがちに固まった体が、緩んだ。バカだな。そこは納得するところじゃないだろう? それもわからないくらい、あいつのことが好きだった? あいつが手に入らないことが、他の男で代用してもいいと思ってしまうくらいショックだった?
 まあ、そんなことどうでもいいけど。
 頬にキスしてやりながら、ネクタイを抜き取り、ワイシャツのボタンを外す。一瞬、ネクタイで腕を縛ってやってもいいかと思ったが、傷心にはひたすら甘くしてやるのが効くだろう。下手に強硬な態度で挑んで、拒まれて追い出されるのも面倒だ。まあ、追い出すようなことが出来そうなタイプでもないから大丈夫だろうけど。直接肌に触れる俺の手を、困ったような手が柔らかく押し返そうとする。抵抗したいが、どう抵抗したらいいのかわからないのだろう。
「笹原くん、ねぇ」
「いいから。乳首、感じる?」
「わ、わかんない……。あの、こんなこと、僕なんか、駄目だよ……」
 知り合いだから拒めないのか? 面白い思考回路だな。俺が知り合いかどうかは関係ないだろ。今、襲われてるんだってわかっていないのかな。
 どこを触れたらいいか加減がわからないが、敏感なところはおそらく男女でそうは変わらない気がする。存在感のない小さな乳首を指でさすってやると、ぴくんと腕の中の体が反応する。
「だ、だめ」
 弱々しい拒否。なんだそれ。そういう態度は逆効果になるって知らないのか。……ああ、知らないのか。一途に寺田を思ってきた野木沢は、誰の手垢もついていない。まっさらだ。新雪のような、何も知らない体に触れている。そう思うと、気分が高揚する。
 ベルトを外し、ズボンを下げると、反応しかけたペニスがぴょんと顔を出す。
「……まだ何もしてないのに、勃ってる」
 野木沢は、ぱちりと目を見開き、それから両手で顔を覆う。さっきとは違う。今は、隙間から見える頬が赤い。
「初めて……人に触られた、から……」
 へえ。
「可愛い」
 口から、そんな言葉が漏れた。俺の下で震えながら、戸惑いながら、体が素直に反応を始めていて、それに対しても困惑している。その姿が、本気でそう思えたからだ。
 そのせいか、なんだか可愛らしく見えてきた熱いペニスをきゅっと握る。
「……っあ」
 零れた声。ぞくぞくする。
 恥ずかしがって口を塞ごうとする両手を、残った手で掴んで口を開かせる。
「教えて。どこを擦られるのが好き?」
「わか、ん、な」
「ふうん。自分でしないの?」
「し、な、ぃ……。悲しく、なる、から……」
 なるほどね。触れて欲しい人に触れてもらえるわけではないからな。自分で慰めても、その後に襲ってくる虚しさが酷く重いのだろう。
「じゃあ、一緒に探そうか」
「あ、やっあ、あ……っ、んっ、あぁっ」
「……先っぽ、好き? この、ぐちゅぐちゅしてるとこ好きなのかな?」
「あっ、あ、そこ、や、っあ、きもち……ぃっ」
 ふ、ふふ。
 初めて言ったね。ここが気持ちいいんだ。
 俺は両手で竿と先端を弄ってやる。
「ひっ。あ、つよ、ぃ、あ、」
 声がどんどん艶めいていく。
 不思議と、それに煽られてくる気がした。
 先走りで滑らせた指を、後ろの穴に滑らせ、その勢いで差し入れる。
「うぁっ」
 きゅっと力が入るそこを、隣の指で撫でながら、くちゅくちゅくすぐってやる。
「わかる? ここ。ここに、俺が入るの……理解出来る?」
「入んないよぉ……」
「理解はしてるんだね。偉い、偉い。入るように、柔らかくしてあげようね。全部俺がしてあげるから、力を抜いて」
「ん……っ」
 ゆっくり息を吸って、吐いて。野木沢は、素直にそうやって体の力を抜いていく。……ちゃんと、言うことを聞くんだな。
「上手だよ。そう……うん。指、増やすからね」
「あ、はあ、あ、ぁ、ん、うん……」
 柔らかく、暖かい野木沢の中を、ゆっくり広げる。指を少し動かすたびに、ぴくんと動いて息が漏れる。やがて、中に、ふっくらとした感触の違う場所を見つけた。
「っあぁっ!」
 ああ。ここか。
「あ、なんか、だめ、そこ、あ、あっ、ぐにぐにしちゃ、だめぇ!」
「ここ、押したら駄目なの?」
「だめ、だめ、なのっ。ぎゅってなる、わかんな、ぁ、や、ぁ」
「そっちに意識が行かないように、前を弄ってあげるね」
 言いながら、止めていたペニスに対する刺激を再開する。野木沢は、両手でシーツを握り締める。
「あんっ、あ、ひっ、う、ふぅう、っう、ら、め」
 足の指に力が入ってる。
 もうすぐだな。
「きもち、の、きちゃ、ぁ」
「いいよ。全部受け止めてあげるからね。ほら。出してごらん」
「…………っ! う、ぁあっ!」
 手のひらに、熱い。
 駄目だ。
 止められない。
 早く。
 この、指を締め付けた暖かい隙間に、入りたい。
 肩で息をする野木沢に、のしかかる。
「……ささは、らくん」
「今から、俺ので、野木沢を慰めてあげる。だから、いいね?」
 野木沢は、半分閉じた目で俺を見て、……ゆったり頷いた。
「うん。いいよ……」
 後は、もう夢中だった。
 指で入った時とはまた違う感触がした。狭くて、ふわふわで、熱くて、柔らかくて、全身が包み込まれるような、不思議な感覚。
 野木沢は、ただ、大きく息をして、俺を受け止めた。
 俺の全部を飲み込むと、そっと自分の腹を撫で、俺を見て、
 笑った。
 熱い。
 頭の中が熱い。
「あっ、あっ、ん、は、ぁ」
 俺の動きに合わせて吐息と一緒に零れる声。
 ペニスに手を添えてやれば、なお一層声が甘い。
「気持ちいいよ、野木沢……」
「あ、うぅ、う、うぇ、ぃ」
 何を言っているのかもうわからない。
 なんだろう。
 気持ちいい。
 繋がったところから、溶けていくようだと思った。
「野木沢、」
「あぁ……うぁぅん……」
 気が付いた時には、縋るような眼差しに引き寄せられるように、キスをしていた。
 甘い。

 目を覚ますと、そこは見慣れない天井だ。ああ、そうか。昨夜は終わった後、気を失うように眠ってしまった野木沢の隣で、俺もそのまま寝てしまったのか。
 野木沢は俺の左側で、俺に背を向けるように壁に向かい、小さくなって眠っている。
 ……今までまったく考えたこともなかったが、男とのセックスも悪くないな。感触も反応も違うのが斬新だった。これはキープしておいてもいいかもな。なんだか、新しいオモチャでも手に入れたような気分だ。
 そこで、ようやく自分が空腹だったことを思い出す。夕飯を提案するような空気ではなかったし、俺も夢中になってしまったからな。何か……宅配でも頼むか。俺は携帯で適当に2人分の朝食を注文すると、シャワーを浴びることにした。タオルはぎりぎり2枚あった。
 玄関のチャイムが鳴ったのは、ちょうど風呂場から出るところだった。それを受け取ってリビングに戻ってくると、野木沢が眠った時のままのシャツと下着姿でよろよろと部屋から出てきた。
「おはよう。ごめんね、シャツとズボン、皺になっちゃったよね」
「え、あ、ううん、平気。あの、おはよう……。あ、たしかに酷いや……。じゃ、ちょっと着替えてくるね」
「うん」
 野木沢は再び部屋に引っ込む。俺はその間に、ローテーブルの上にマフィンのサンドとサラダを並べた。2人分乗せると、ずいぶん狭い。他人の存在をまるきり想定していない大きさだ。
 今度はシャツとズボンを身につけた野木沢が部屋を出てきた。……いや、何か変わっているか? 皺の有無でさっきの服とは違うとわかるが。クローゼットを開けた時も思ったが、休日に表に出るということも想定していない……?
 野木沢はテーブルを眺めて不思議そうにする。
「あの、それは」
「まったく……。野木沢の家、冷蔵庫にもキッチンにもなにもないんだから。適当に注文して持って来て貰った。こういうのでよかったかな」
「あ、お金……」
「あはは。いいよ。昨日泊めてもらった宿賃として取っておいて」
 野木沢はまた困った顔をしたが、少し考えてからこっくりと頷いた。
 そして、俺たちは狭いテーブルに向かい合って座る。
「いただきます」
 どちらからともなく、会話が途切れた。ああ、何か話してやらなきゃいけないかな。そう思ったけれど、久し振りのセックスで体力を使い切ったせいか、なんだか会話をするのも億劫だった。だが、野木沢は沈黙を気にすることもなく、黙々とマフィンを口に運ぶ。食事時に黙っていると、何に怒ってるのかだのつまらないだの散々言われてきたから、不満げにされても当然だろうなと思っていたが、彼にとってはそういうものでもないらしい。
「……美味しい」
「よく行く店のモーニングなんだ。ここの近くだよ」
「そうなんだね。知らなかった」
 そのくらいの会話しかない食事。だが、なんだろう。居心地がいい。野木沢も少し肩の力を抜いたようで、サラダの緑色を静かな目で見つめていた。
 そしてあらかた食事が終わると、野木沢は崩していた足を整え、きちんと正座をした。体、辛いだろうに。
「笹原くん」
「うん」
 野木沢は、昔見たような穏やかな顔をしていた。
「昨日は、ありがとう」
「えっ?」
 思わず声が出た。
 …………は?
 礼……?
「いや、俺は礼を言われるようなことは何もしていないよ。……むしろ、野木沢の意思を無視して無理矢理に事に及んだ事実を、俺が謝るべきだろう」
 しまった。野木沢に、俺に謝罪させる、という選択肢を与えてしまった。謝罪とはつまり、俺が悪いと認めることだ。自分に酷いことをした人間を置いておく道理はない。居心地のいい宿を見つけたと思ったのに、自ら手放すような言葉を使ってしまった。咄嗟とはいえ、何故そんなことを言ってしまったんだろう。
 しかし、野木沢は首を振った。
「ううん。方法はどうあれ、たしかに僕を慰めてくれたのは笹原くんだったよ」
「野木沢」
「たしかに最初はびっくりしたし、嫌だと思った。でも、どうせあのまま死ぬつもりだったんだ。ならどうでもいいやって思って、そのまま流されることにしたのは僕だ。……そしたら、本当に頭が真っ白になって、あの瞬間は全部忘れることが出来たんだ。もう何も感じないだろうなと思ってたけど……しっかり気持ちいいって思っちゃった」
 ふわっ、と野木沢は笑う。
 ……わかっていたのか。
 俺に抱かれると決めて力を抜いたのは、すべてを諦めたからだったのか。
「だから、ありがとうでいいんだ。笹原くんも、気持ちいいって言ってくれたでしょ。僕なんかでも、誰かに何かを感じさせることがあるんだなって思ったら、……うん。ちょっとは生きててもいいのかなって」
「野木沢、携帯貸して」
「えっ?」
 俺は、奪い取るように野木沢から携帯を受け取った。電話帳には、会社だの不動産会社だの事務的な相手しかいない。そこに、俺の番号を放り込む。
「笹原くん?」
「これ、俺の連絡先。心でも、体でも、寂しくなったらすぐ呼んで」
「……え」
 何故そんなことをしたのかわからない。
 ただ、一晩で終わらせるには勿体ないと思った、それだけは確かだ。

 その後、俺は2年前に付き合っていた彼女のもとに転がり込んだ。ちょうど向こうも彼氏と切れたところだったらしく、タイミングがよかった。久しぶりに触れる女の体は、ちゃんと気持ちよかったし、満足できた。
 だが……。
 何故だろう。ふとした瞬間に野木沢の顔が浮かぶ。おそらく、あの朝言われた礼の言葉が、ずっと引っかかっているのだろうと思う。
 しばらく待っても、野木沢から連絡は来ない。あいつは一晩だけだと割り切っているから、連絡を寄越す必要がないのかな。
 いや、待てよ。
 俺はもうわかっている。学生の頃、あいつが浮かべていた笑顔が、ただの外側を覆った殻だったということを。内側でぐちゃぐちゃに泣き叫びながら、繕っていた表面だけの笑顔だと知っている。そんな奴が、自分から連絡を寄越すはずがないんじゃないか?
 それに、……俺が抱いたことで、俺が快感を得たことで、自分にはまだ価値があると思ったと……そんなことを言っていなかったか? まさか、あれで目覚めて、見知らぬ誰かに身体を任せるようなことになってはいないか。いや。それなら、まだいい。まさか、俺がいなくなった後、本当に自分の命に意味を失ってはいないか。
 時間が経つほど心配が募る。
 くそ、どうしてだ。
 何故こんなに、あの薄っぺらな笑顔が頭から離れないんだ。
 連絡して、と言ったのは俺だが、結局、耐えきれなかったのも俺のほうだった。

 部屋のインターホンを鳴らす。静寂が長い。まさか。
 不安になる頃、ようやく鍵の開く音がした。
「……えっ、笹原くん?」
 ぽかんとした顔に、ほっとする。
「よかった、生きてた。少しやつれたようだが」
 野木沢は少しだけ苦く笑い、すぐに優等生の笑顔を貼り付ける。
「どうやらそれには勢いが大事みたい。一度忘れさせられちゃったから、踏ん切りがつかなくて」
 冗談なのか本気なのかわからない。ただ俺は安堵のあまり、スーツ以外に部屋着も持っていたんだな、とかどうでもいいことを考えていた。
「あがっていく?」
「出来ればお願いしたいところなんだが」
「あはは、どうぞ」
 数週間ぶりに訪れたその部屋は、なにひとつ変わっていなかった。殺風景だ。落ち着いてさらによく見てみると、テレビはおろか時計すらない。おそらくあのエアコンも備え付けなのだろう。
「普段、何をしているんだ?」
 あまりに何もなくて、思わずそう聞いた。
「ん? 何も。今日は休みだったから、ただぼーっとしてた」
「食事はどうしてるの」
「……休みの日は、特に、なにも……。食欲とかあんまりなくて……。あ、ほら、平日はね、仕事してるから。そこで栄養は摂ってるから」
 道理で。
 俺は後ろから、野木沢を抱き締める。あの夜より、細い。
「えっと、笹原くん?」
 不思議そうにそう言っただけで、反応はない。
「駄目だよ、食事はちゃんととらないと。そんなことだろうと差し入れを持ってきたから。一緒に食べよう」
「そこまでしてもらうわけには」
「だって、あまり細いと抱き心地が悪いからな」
 野木沢は仰のいて俺を見る。それから、小さく首を傾げた。
「……宿賃?」
「そういうこと」
 ふっと笑う。そこには呆れたような色が乗っていた。
「なら遠慮なく、いただきます。ありがとう」
 言葉通り遠慮することもなく、野木沢は俺の持ってきた出来合いの弁当をあっという間に平らげた。あんなふうに言ってはいたが、体はちゃんと栄養を欲している。もっと早く来ればよかったな。
 ごちそうさまと手を合わせた野木沢は、空になった容器を片付けながらちらりと俺を見た。
「そういえば、あの日はどうして僕に声をかけたの? 別に、僕を止めたかったわけじゃないでしょう」
 ……ふーん。
 時間が経って、ようやく通常の思考が戻ってきたのだろうか。あの日の野木沢は、明らかに普通の状態じゃなかったからな。
「どうしてそう思うのかな」
「冷静になって思い返してみるとね。もともと学校が同じってくらいしか接点なかったし、そういうほぼ赤の他人の、しかも男を偶然見かけたとしても絶対放っておくタイプなような気がしてたから、おかしいなと思った。ごめんね。高校時代、女の子以外にはちょっと冷たい人なのかと思ってたんだ」
「間違いではないな」
「ないんだ。……それに、失恋した人間を相手に強引に性行為に及ぶって、きっと僕を丸め込もうとしているんだろうなって」
 そこまで気が付いていたのか。
 ならば、もう隠す必要はなさそうだ。
 甘い言葉とセックスで誤魔化すことが得意だったからこそ、今までそういう生活が出来た。
 まさか、騙されない奴がいるなんて、本気で思っていなかった。
 俺は息を吐いた。
「頭の回転が速いんだな。おまえみたいな奴は初めてだよ」
「そりゃあ、あの成績順の大きな掲示板に何度も名前を並べていたんだから、同程度ではあるんじゃない?」
「なるほどな」
 お上品な優等生の時には見せなかった、得意げな顔。そうだな、あれだけぐちゃぐちゃな中身をさらしたんだ、こいつも俺に本性を隠す必要がなくなったのかもしれない。
 お互いに外面がバレた。なんだか愉快だな。
 どうせだから、もう全部、洗いざらい吐き出してしまおう。
「……実は、大学進学で出てきたんだが、面倒になって中退して。それからずっと、仕事もせずに女のところを転々とする生活をしていたんだ。じっと目を見て、可愛いね、好きになっちゃった、とか言えば一発だったからさ」
「ああ、笹原くんかっこいいもんね」
「素直な誉め言葉として受け取っておく。それで、あの日、長いこと住まわせてもらっていた家から追い出されて、行くあてがなくて困っていたんだ。その時におまえたちを目撃して。酷く傷ついていたようだったから、簡単に家に上げてもらえるだろうと思って声をかけた」
 野木沢はなんでもないことのように頷いて聞いている。
「おまえを抱いたのもそれが理由。ここで体を使って落としておけば、宿泊場所として使えるんじゃないかと思ったんだ」
「うん、そうだね。妥当な判断だと思う」
「……でも、あの日以来、野木沢がどうしているかずっと気になっていた。これは本当」
 目の前の顔から、表情が消える。俺のことを疑っているのだろう。あれだけのことをしたんだ、当然だと思う。
 でも、もう全部話してしまった。隠しているものはない。
「ヒモやって人を騙してきたことを告白したんだ。これ以上嘘をつく意味はないよ」
「……たしかに。じゃあ、ここから先、嘘はつかない?」
 ああ。そうか。怖いんだな。自分が本当に傷付いた時、どう思ってどう行動するか知ってしまったから。今はただ、もう一度傷付かないように、なんとか自分を守ろうとしているのだろう。
 俺ははっきりと強く頷いた。
「うん。野木沢に嘘はつかない。約束する」
「……女の人を手玉にとって渡り歩いてた人の約束を信じていいのかちょっと不安だけど。信じることにするね」
 言ってくれるなあ。あんなに、周りに対して「自分は優しいですよ、害はないですよ」とにこにこアピールしていた男が。だが、その本性がバレた今、それを知っているのが俺だけだと思うと、不思議な優越感がある。
 テーブルを回り込み、野木沢の隣に膝をついた。野木沢は、空っぽの表情で俺を見上げる。
「この際だからはっきり言う。おまえとのセックスが忘れられない。また抱かせてくれないか」
「もう一度、ってこと?」
「いや。セフレになってほしい」
 それを聞くと、わずかに光が灯った目を細め、小さく笑う。
「嘘はつかないでほしいと思ったけど……。まさかそこまでストレートなお願いをされるとは思ってなかった」
「意外と気持ちよかったんだよ。野木沢はどう思った?」
「僕だって気持ちよかったけど」
「なら、いいんじゃないか」
 野木沢はぱたぱたと膝をはたくと、きちんと座り直す。変なところが真面目だな。
「わかった。もう、なんでもいいよ」
 言って、笑った。
 なんでもいいなら、いいだろ。
 引き寄せて、抱き締める。抵抗はない。それどころか、俺の背に、そっと腕を回してくる。
 ああ、またあの感覚を味わえるんだ。
 俺は野木沢を寝室に連れて入り、ベッドに押し倒して、そのまま抱いた。もう一度、と言った俺に、黙って笑いながら頷く。
 それを繰り返して。
 日が暮れるまで、ずっと抱き合い続けた。
 心地よかった。
「もう、暗いね」
 カーテンを閉めることも忘れていた。外はすっかり暗い。だるそうにそれを眺めていた野木沢は、はあっと息を吐いて布団を被った。
「夕飯はどうする?」
「うーん……疲れちゃったから、今日はもう寝る」
「そうか」
「それより、笹原くんは今日も泊まっていくの?」
 きっと野木沢は俺の答えを知っていただろう。
「むしろ、このままここにいさせてくれないか?」
「いいよ」
 だから、間も開けずにそう言った。
「使ってない部屋もあるし。いたいなら好きなだけいていいよ」
「部屋はここでいい。ベッドもひとつあればいい」
 野木沢は笑う。
「なんでもいいよ」

 転がり込んでおいてなんだが、野木沢はさすがの俺でも心配になるほど、素直で従順だった。
 仕事を終え疲れ果てて帰ってきたことをわかっていて、わざと「抱きたい」と言っても、「いいよ」と服を脱ぐ。逆に、言う必要もないのに「今日は抱かないよ」と言うと、「わかった」と頷く。喘ぎ声を聞くのが苦手だから我慢して、と言えば、唇を噛みしめる。働きに行っている間に買い物に行きたいと言ったら、財布ごと置いていこうとした。自分の昼はどうするんだと聞けば「別にいいかなって」。結局古い財布にいくらか入れてもらい、その金を使って俺が自分の服を買えば「似合うね」。明らかに無駄遣いなほど豪勢な食事を買ってきても「ありがとう」。
 俺を信じると言った野木沢。でもそれは、信頼とか信用とかいうものとはまた異質だ。俺の言葉を受け取り、従う。それを容認したという意味合いが強い。おそらく、このまま野木沢の資産を使い切って俺が逃げたとしても、「どうでもいい」で終わらせるのだろう。
 ベッドの端で体を縮めるように眠っていた野木沢が、もぞもぞ動いたかと思うと、壁に縋り付くように起き上がる。
「おはよう」
 声を掛けると、申し訳なさそうな顔がこちらを向いた。
「おはよう。ごめんね、起こしちゃった」
「いや、起きていたから大丈夫だ」
「そう? ならよかった。朝ご飯作るね」
 俺は、野木沢の腰に手を回す。滑らかな手触り。
「ん? なあに?」
「体つき、戻ってきたなと思って。最近はちゃんと食事をするようになったからだろうな。運動もしっかりしているし」
「笹原くんが毎日夕飯買ってきてくれるでしょう。おかげで三食欠かさないようになったからかな。……でも運動って言っても、朝晩の通勤とか外回りくらいでたいしたことはしてないけどね」
「毎日してるだろ、セックス」
「……ふふっ。それか。毎日でもないじゃないか」
 野木沢は笑って、ベッドから下りて部屋を出て行った。
 体型が戻るに従って、ささくれ立つような雰囲気は次第に消えてきた。一緒に住むようになった当初は、目を離すと窓から飛び降りるんじゃないかくらいの危うさがあったから。今は、飛び降りるんでも一言くらいは寄越す気がする。
 外に出る用事もないが、なんとなく惰性で服を着替えてからリビングに出ると、ベーコンの焼けるいい匂いがした。
「ごめんね、ちょっと卵崩れちゃった」
 キッチンから、野木沢の声。今まで野木沢はまともに料理をしたことがなかったらしい。朝食は抜き、昼を会社の食堂か出先で済ませ、夜も出来合いか食べないかという生活をしていたんだそうだ。話を聞けば聞くほど、野木沢は自分のことに無頓着だった。
 ……だから、これは大きな進化なのだと思う。
 俺はキッチンを覗き込んだ。崩れた、といっても黄身が割れている程度だ。
「少し形が悪いくらいなんてことないさ。食べてしまえば一緒だろ。ああ、ベーコンは美味しそうに焼けているね」
 最初の頃は、どこまで焼いていいか真剣に悩んでいたからな。適当、が難しかったのだと思う。
 うん? なんだ、野木沢が戸惑ったような困ったような不思議な表情をしている。
「野木沢? 冷めるよ?」
「あっ、あ、そうだね。食べよう」
 朝食くらいならテーブルに乗るが、やはり狭い。もう少し考えたほうがよさそうだな。それに毎朝パンというのも、悪くはないが……たまには炊きたての白米が欲しくなる。炊飯器くらいはあってもいいのではないだろうか。鍋が1つにフライパン1つという体制もいかがなものかと思う。洗濯も洗濯機がないからすべてコインランドリーだぞ。本当にこの家には物が少なすぎる。
「……野木沢って、物が多いと落ち着かないタイプなのかな」
「えっ?」
「部屋。これだけスペースがあるのに、狭いアパート一室に収まるくらいしか物がないだろう? ずっと疑問だったんだが」
 野木沢は、またもや複雑な顔で部屋を見渡した。
「大した洞察力だねえ。……全部、前に住んでた部屋に置いてあった物だよ。ここにあるものは全部。それからなんにも増やしてない」
 ざくり、と野木沢はサラダにフォークを刺した。俺が箸で、野木沢がフォーク。これも1つずつしかないからだ。
「この部屋、慌てて契約したんだ。健ちゃんの結婚式の案内状が来てから、もう、とにかくどこかに引っ越さなくちゃと思って。そしたら、家賃はそんなにびっくりするほど上がらなかったけど、会社からは遠くなるし、無駄に広いばっかりだし」
「なるほどな。仲良しだと思っていた幼馴染みから結婚式に欠席の返事を貰ったら……寺田だったら乗り込んできそうだからな」
「知り合いでもない笹原くんに言われるなんて、健ちゃんも相当だなあ」
 ちゃんと笑って話している。何度も唇を噛むから辛そうではあるけれども。
「でも、たぶん、そうだったと思う。僕も失礼なことしちゃったから。……あのね、招待状の中にね、スピーチをお願いするカード、も、入っててね。そん、なの、出来るわけ……っ」
 しまった。
「ごめん、野木沢。思い出させてごめん。それは、寺田の落ち度だよ。ちゃんと事前に話を入れておくべきだ。いきなりそんなものを見たら、野木沢は動揺する。当然だと思う」
「……あ、ごめ……。ううん、健ちゃんは、僕が健ちゃんを好きなことは知らなかったから、仕方ないんだ……。とにかく、顔を合わせたらおかしなこと言っちゃいそうだし、結婚式に出たら倒れてただろうし、スピーチなんかしたら勢いでぶちまけて酷い迷惑を掛けることになってたかもしれないし。だからそうやって、見つからないように逃げたんだ。……でも結局この前、偶然会っちゃって、……僕、健ちゃんといた時が一番幸せだった……って。言っちゃった。バカだよね。言わないって決めたなら、死ぬまで口をつぐめばいいのにね」
 俺は野木沢の隣に移動し、野木沢を抱き締める。
 我慢している、決壊ギリギリに涙を浮かべた目が、俺を見上げた。
「野木沢は十分我慢したよ。大丈夫、ずっと一緒にいた幼馴染みなんだろう? その程度の引っかかりくらい、寺田にも背負って貰えばいい。いつか、その釈明だって出来るんだから」
 ことん、と、俺の肩に野木沢の額がぶつかる。
「……やっぱり、笹原くんって優しいね」
 え? 何を突然。
 呆れたことを言う奴だな。
「優しいわけないだろう。俺がどうやって生活してきたか知っているくせに」
「ううん。優しい。それでも、僕の話を聞いてくれるもの。一緒に考えてくれるもの」
「騙されているよ、それが俺の手段だとわかっ」
「でも、僕にはもう嘘はつかないんでしょ?」
 …………。
 言い返せなかった。
 いや、言い返す意味がなかった、ということなのかもしれない。
 けれど、俺は……。
 そっと野木沢を引き剥がすと、その目を覗き込む。
 綺麗だな。
「あのな。嘘はつかない。だが、俺はいつかここを出て行く人間だぞ」
 野木沢は俺を信じると言った、だが俺は自分を信じない。適当に女の間を渡り歩いてきた人間だ。それが性分なんだ。俺はおまえを傷付ける人間だ。
 なのに。
「……いいんだ。僕はただの家主だよ。それから、セフレでしょ。わかってる。いいんだ、今、存在に名前があるだけで」
 そう言って、儚げに笑う。
 だけどおまえは、傷付いたら……また、あんなふうにぐちゃぐちゃになってしまうんだろう?

(続く)

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