高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2024年12月12日 21:00    文字数:24,936

72こ目;写真の笑顔の過去と今

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ふとしたきっかけで、昔の蒼生の写真を見た健太と冬矢。
そこから笑いかけてくる蒼生の姿に、ふたりは別のことを考えていました。

なお、この世界では20歳が成人で、成人式も学籍年齢20歳で出席することになっています。

↑初公開時キャプション↑
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 早朝の町に、靴の音が規則的に響く。葉が色づく季節が近付き、耳に当たる風がだいぶひんやりしてきた。それが囁き声みたいだな、と思ったとたん、急に不安が襲ってくる。「あれ、いいの?」と聞こえるような音。そういえば昨夜書いていたレポートに途中で誤字を見つけたのだが、そのままにしてきたような気がしてくる。中途半端なところで切り上げても意味がないことはわかっているが、気になり始めるとそれにばかり気が行ってしまう。いや、たしか、書いている途中で、あれっと気になって、直したはず。おそらく。たぶん。だが、後で直そうといったん放っておいてからの記憶があまりない。早く終わらせようと焦っていたから、そのままだった気もする。普通の誤字ならともかく、少々卑猥な間違いだったので、あれをそのままにするわけにはいかない。健太は思い切って、今日のランニングの距離を短めにすることにした。
 ショートカットをするために、普段走らない道に入る。と、いきなり目に飛び込んできたのは、道路の片側にずらりと並ぶテントだった。朝早く、気温も昨日よりぐっと冷え込んでいるというのに、それを取り囲むようにそこそこ人通りもある。初めて見る光景に、いったいなんだろうと足を止め、近くにあったテントを覗き込んだ。すると、折り畳みテーブルの上には発泡スチロールの箱が置いてあり、氷水の中に魚が沈んでいた。
「あ、寺田くん」
 隣のテントから呼びかけられ、はっと顔を上げる。そこには、にこにこと笑う割烹着姿の女性がいた。
「あれっ、お惣菜屋のおばちゃんだ」
 よく見るその皺だらけの顔は、商店街の半ばにある惣菜屋の店主だ。普段の買い物はスーパーやショッピングセンターに行くのだが、健太は人とのやりとりが楽しめる商店街も好きだった。
「こんな早くにどうしたの」
「走るの日課なんだー。それより、これ、何?」
「朝市よ。月に2回、商店街でイベントとしてやってるの。私たちだけじゃなくて、近郊の農家さんたちも直接出店してるのよ」
「へーえ」
 見回してみると、さらに隣のテントには野菜が並び、その向こうは花を売っているようだ。これは自分より、蒼生や冬矢が見たら喜びそうだなと思う。
「せっかくだし、朝ご飯に何か買っていきなさいな。普段よりお得だから。今日はね、豚の角煮がおすすめ」
 示される手元を見ると、どんとボリュームたっぷりの角煮が、美味しそうな照りをこれでもかと見せつけてくる。健太はごくんと唾を飲んだ。朝ご飯にしては少し重いような気がするが、健太にとってはさほどの問題ではない。
「サダちゃん、ちょっと、この子にお野菜持たせてやって!」
 惣菜屋の女性は、大きく手を振って隣のテントに声をかける。振り向いたのは、よく日に焼けた年嵩の男性だ。
「おや、新顔かい」
「たまに顔出してくれる子だよ。去年地方から引っ越してきたの。この街にずっといてもらえるように、胃袋掴んでおかなくちゃ」
「そうだねえ、若者には居ついてほしいね!」
 言うと、シートの上に並んでいた白菜をひと玉と、健太には種類のわからないボリュームのある草を袋に入れて持ってくる。健太は慌てて両方のポケットに手を突っ込んだ。
「ごめんおばちゃん、オレ、あんまりお金持ってきてない」
 なにかあったら困るから、と蒼生が心配するので、邪魔にならない程度の紙幣はいつも忍ばせてあったが、買い物をするほどは持っていない。
「どんだけ持ってんの?」
「えっと……、これだけ」
「あーら、大金持ちじゃない。じゃあ、これと、これも。持っていきなさいな」
 健太の腕に野菜の入った袋をかけた女性は、その腕に角煮のパックと切り干し大根のパック、さらには揚げ物の詰め込まれたパックを乗せてきた。
「えっ、ええっ、多すぎない?」
「いいのよ~、リピーターになってくれれば」
 焦る健太の肩を、女性がぱんっと叩いた。腕にはまだほんのり暖かい惣菜の重さがかかる。
「ありがとう。じゃ、次、同居人連れてくるよ。いつやんの?」
「普通に店に来てくれてもいいけどね」
 そう言って笑いながら、朝市のスケジュールが書かれたチラシを袋に突っ込んでくれた。

 健太はほくほくした気分で家に戻った。食品だけでも様々な種類があったようだし、次回開催される際にはふたりを連れて行こう。今日はずいぶんおまけをしてもらったが、置いてあった値札も通常よりだいぶ安価に設定されているようだった。きっと楽しいし、喜ぶはずだ。
 キッチンに野菜の袋と惣菜のパックを置く。……と、その手が止まった。なにか、することがあった気がする。
 そこに、寝室のドアが開く音がした。足音から推測した通り、起きてきたのは冬矢だった。
「ああ、おかえり」
「ただいまー。あとおはよう」
「おはよう」
 冬矢はキッチンに立っている健太を不思議に思ったのか、まっすぐにキッチンにやって来た。そして、そこに置かれた食材を見て首を傾げる。
「どこに行ってきたんだ?」
「あー、なんかね、朝市やってて。惣菜屋のおばちゃんと農家のおじさんから安く買わせてもらったんだ。美味そうじゃね、ほら、角煮」
「本当だ。じゃあ今日のメニューに加えさせていただこう。そっちは野菜か。ずいぶん立派な白菜とちぢみほうれん草だな」
 健太は冬矢と一緒になって袋を覗き込む。
「これってほうれん草? なんか形違くない?」
「一緒だけど、育て方が違うんだ。冬の時期になると出てくる野菜で……。そうだな、サラダにしようか、バターで炒めようか」
「炒めるやつ!」
「わかった」
 そう言われると、分厚い葉が急に美味しそうに見えてくるから不思議だ。冬矢は次に白菜に手をやり、何を作ろうか考えているようだ。
「な、今度さ、早起きして行ってみようぜ。魚とかも売ってたし」
「いいね。きっと蒼生も喜ぶ」
 健太は、だよな、と大きく頷いた。嬉しそうな蒼生の表情を思い浮かべるだけで心臓が高鳴る。
「その可愛い可愛い蒼生はまだ寝てるんだろ?」
「ああ。可愛い可愛い顔して寝てるよ」
 昨日も何かと忙しそうだったし、早く起きる用事もないのだから、寝かせておいてあげたい。本当は寝顔を拝みに行きたいところだが、起こしてしまっては可哀想だ。さらに、そのあまりに可愛い姿を見たら、ベッドに飛び込んでしまう可能性すらある。
 袋の中からチラシを見つけた冬矢が、それを見ながら不思議そうに健太を見た。
「それにしても、このあたりの道を通るなんて珍しいな。住宅街だから朝は避けているんじゃなかったか」
「ん? ちょっとな、気になることがあって、急いで帰んなきゃってショートカットしたんだ。そしたら……。っあ」
 唐突に思い出した。
「そうだ、オレ、レポートにミスがあった気がして、気が気じゃなくてとっとと戻って来たんだった!」
 大きな声を上げてから慌てて口を両手でふさいだ健太に、冬矢は目を見開いて、それから肩をすくめて笑った。
「蒼生の喜ぶ顔ばかりを考えていて、大事なことが抜けたか」
 全くその通りで、言い返す言葉がない。
 洗面所に向かう冬矢の後ろからリビングに出ると、健太は物音をさせないようにこっそりとパソコンを引っ張り出した。そうだ、何のために急いで戻るつもりになったのか。目的のファイルを開き、誤字を見つけた箇所を探す。それは半ばあたりにあったはずだ。目で追って、指で辿って、何度か読み返してみたが、どうやらちゃんと直っている。よかった、とほっとすると同時に、今度は途中が合っているのかどうかが不安になってくる。むむ、と健太は腕を組んで、画面を見つめた。
 しばらく悩んでいると、冬矢が戻ってくる。
「どうした。難しい顔してるな」
「あ、冬矢ぁ。ちょっとここの計算見てくんね?」
「ここか?」
「そ。これで合ってる?」
 冬矢は、ふぅんと呟き、画面を覗き込む。
「……大丈夫だよ。合ってる」
「ほんと? よかったー。ありがとな」
 ようやくすべて納得できたらしい。大きく息を吐くと、健太はファイルを閉じた。と同時に、背後に気配を感じて、がばっと立ち上がる。
「ふたりとも、おはよぉ……」
 ゆったりとした足音をさせ、まだ眠たそうに瞼を擦りながら蒼生が寝室から出てきたので、感情が高ぶるのに任せて勢いよく抱きつく。
「わっ」
「蒼生ぃ、おはよっ! 今日という日の朝日がのぼって一番最初の蒼生の声を聞ける幸せ……。あー、一緒に暮らしててよかった! あーもう、好き好き、大好き!」
「あ、ありがと、僕も好き……だけどちょっと苦しい」
「えっ。あ、ごめん。じゃあちゅーしよ」
 ぷはっと顔を上げた蒼生が、ことんと首を傾げる。じゃあ、の脈絡がよくわからない。だが言いたいことは分かった。
「でも、僕、まだ口ゆすいでないから」
「ダメ?」
 蒼生は腕の中でもがくように背を伸ばすと、健太に唇を合わせるだけのキスをした。
「まずはこれだけ。ね」
「……っ!」
 思わず手を離し、その場に崩れ落ちる健太だ。可愛いと思っていたが、寝ぼけたままでもこんなに可愛いなんて許されていいのだろうか。日々可愛いを更新してくる蒼生に、いつ心臓がもたなくなるかわからない。
 うずくまった健太に慌てたのは蒼生だ。驚いて抱き上げようと伸ばしたその手を、途中で冬矢が奪う。そして片手で顎を掴んで蒼生をこちらに向かせると、何かを言う前にそっと唇をふさいだ。
「!?」
 すぐに顔を離した冬矢は、びっくりした表情のままの蒼生を抱き締め、優しく髪を撫でた。
「おはよう。健太の言い方は大仰だが、内容については同意するよ」
「う、うん」
 2回のキスですっかり目が覚めたらしい蒼生は、名残惜しそうに冬矢の腕からそっと離れると、
「えっと、歯を磨いてきます……」
 ほんのり染まった頬を両手で押さえながらぱたぱたとリビングを出て行った。
「……か、可愛い……」
 呻くように健太が呟く。冬矢も微笑ましい気持ちで背中を見送ったのだが、蒼生がドアを閉めると、すっと視線の温度を戻す。
「健太」
「ん?」
 呼ばれて顔を上げると、冬矢はファイルが閉じられたばかりのパソコンの画面を見つめている。
「ごめん、目に入って」
 冬矢は勝手に個人情報を覗いたという意味で謝ったのだが、健太はまったく気にしていないようだ。「ああ」と笑顔で頷く。
「このフォルダだろ? わかるわかる、恋人の名前ってつい目に入っちゃうよな~」
 立ち上がって再び椅子に座った健太は、画面の右端にあるフォルダを眺める。そこには、“蒼生”と書かれたフォルダ名がある。
「なんのファイルが入っているんだ?」
「今まで撮りためた蒼生の写真~」
 健太は嬉しそうにそれを開く。そこにはさらにフォルダがずらりと並んでいて、年月らしき数字がそれぞれに付番されている。その最初の数字が書かれたフォルダをまた開けば、中には何十枚もの写真が入っていた。
「これが最初」
 画面の中央に表示されたのは、小さな写真だった。画質が荒いうえにかなりブレていて、何が写っているかはわからない。かろうじて人を写したのだろうということがなんとなく感じ取れる程度だ。
「蒼生?」
「うん。初めて携帯買ってもらった時でさ。電話の使い方とかよりまず、写真が撮れるってことにびっくりして。じゃあとにかく最初は大事なものを撮らなくちゃって張り切った結果が、こちらの写真です」
「せっかくの蒼生の写真なのに、まったく誰だかわからないな」
「あはは。写真の撮り方もわかんなかったからなー。でも消せねえんだ。初めて撮った蒼生の写真だから」
「……わかる」
 矢印のボタンが押されると、2枚目の写真が表れる。椅子に座った幼い蒼生が、にこにことこちらを見ている写真だった。やはり、少しピントが甘い。
「あー……可愛い」
 健太が零す。隣で冬矢も深く頷いた。
 3枚目も。4枚目も。同じ格好の蒼生が、少しずつ画角を変えて写っている。ぼやけていた画像が次第にはっきりしていき、それに従って蒼生の表情が和らいでいく。ほとんど同じ写真が続いていくだけにもかかわらず、健太も冬矢も頬を緩めてずっと眺めてしまう。やがて、画面の中の蒼生が少々困った笑顔になった。
「これはねー、いつまで撮るの? ってちょっと困ったみたいに言った時の顔。すっげえ可愛かったから、ここから何枚かはこの顔です」
 言うとおり、同じような写真がまた続く。けれど、蒼生はちゃんと付き合ってくれたようだ。最後、ふわっと笑う綺麗な顔になるまで、同じポーズで座っていた。
「……優しい。可愛い。ちょっと落ち込みそうになった時とか、この写真見るんだ。そうすると頑張れんだよ」
「だろうな。辛抱強くて優しい蒼生がいつもちゃんとそばにいてくれるとわかれば、何でも出来そうな気がする」
「そう、そうなんだよな」
 次のフォルダには、今見た姿とあまり変わらない蒼生の笑顔がたくさんある。そうだろう、日付を見れば数日しか経っていない。それでも、空色のシャツで庭に立つ姿は、また違った趣があって、とても良い。
「これも、庭の木に水やってる蒼生が可愛くて思わず撮った」
「……もしかして、この頃から可愛いと思ってたのか?」
「んー」
 ぱらぱらとめくるように写真を先へ送りながら、健太は黙り込んだ。が、わずかな間を開けただけで、こっくりと頷く。
「思ってたな。うん。可愛いなーって思って、ドキドキしてた。だけど、この頃の男子って、可愛いって言われると嫌じゃん? 少なくともオレはそうだったから、蒼生には言わないようにしてたんだ。でもさあ、蒼生がオレに向かって笑ってくれると、きゅーって胸が締め付けられるほど可愛くて可愛くて。なんでこんなふうになるんだろってずっと不思議だった」
 立ったままだった冬矢は、さらに近くで見ようと隣の椅子を引いて座る。
「おまえ……それでよく蒼生のことが好きだと自覚しなかったな」
「ホントだよ。可愛い可愛いって思いながらこんな連写しまくってるの、どう考えても好きに決まってるよなあ」
 当時の健太が恋愛感情にひどく鈍感だったことに、冬矢はそっと感謝する。傍目から見ると距離感がおかしいだけの大変仲の良い2人1セットの幼馴染みという認識だったようだが、健太の中にある蒼生に対するまっすぐな愛情は既にこの時点で確立されていたのだ。
 ふと、写真がすべて蒼生ひとりだけだということに気が付く。逆はどうだったのだろう。蒼生が健太を撮った写真はないのだろうか。それを見れば当時蒼生が健太をどう思っていたか垣間見えるかもしれない。
「おまえの写真は蒼生の携帯の中か?」
「ん? この頃のだったら、ないよ。蒼生、携帯持ってなかったから」
「へえ、同じタイミングで持ったのかと思っていたが」
 健太は、口を尖らせて首を振る。
「オレは一緒に持ちたかったけど、蒼生が嫌だって言ったんだ」
「え?」
「いつでも連絡が取れるようになるのが嫌だって言ってさ。電話かけられて居場所を突き止められるのがなんとなく嫌だったみたい。外にいる時に家から電話がかかってきてほしくないんだって」
「ふうん……」
 首を捻るより早く、冬矢はまたひとつ“許し”に気が付いた。おそらく、蒼生はひとりの時間が重要なタイプだった。誰にも見つからず、誰にも気付かれず、ただひとりでひっそりとしていたかったのだろう。例外を除いては。
「でさー、じゃあ親のほうから説得してもらおうと思っておばさんに言ったらさ、蒼生にはまだ早いってこっちもこっちで拒否られて。高校生になったら考えるとか、けんもほろろってやつ? そのあともしょっちゅう説得してたんだけど、どっちも頑固でさぁ。中学入る時に、行動範囲広がるんだからなんとかお願いって頼み込んだんだ。最終的には、蒼生に携帯を持たせないならオレの部屋と直接内線繋いでくれ! って言ったらようやく親子揃って納得してくれた」
「つまり、おまえは蒼生に携帯を持たせたかったんじゃなくて、おまえが蒼生に直接連絡する手段が欲しかったのか」
「そう。急に蒼生の声聞きたくなった時に困るだろ」
 どこまでも蒼生が中心なのだな、と思う。だがきっと、それは蒼生にも良い効果があったはずだ。
「俺が蒼生とメッセージのIDを交換した時、蒼生の携帯には家族の電話番号と、おまえのIDと番号しか入っていなかった」
「……なんだよ、すぐに蒼生と連絡先交換したって自慢?」
「それもあるが」
「あるのかよ」
「俺とおまえはその頃から蒼生に特別扱いされていたんだな、ということだ。そして蒼生も、俺たちの名前を手元に見ることで、それを自覚しただろうな」
 健太はぱっと顔を輝かせ、机に置いたままの携帯を見つめた。それは最初から連絡先で溢れていた。とにかく携帯を持ったことが嬉しくて、周りで同じように持ち始めた友人と片っ端から登録し合ったからだ。蒼生はそれをしなかった。周りに所持したことを伝えたりもせず、ただ緊急連絡先として家族の番号を登録した。そして、健太とだけ番号とメッセージIDを交換したのだ。それが蒼生にとって“特別”なのだということを、健太は付き合って初めて知った。そうでない時期から自分は蒼生にとって大切だったのだと思うと、胸が熱くなる。
 その様子を横目で見て、冬矢は再びフォルダの名前に目をやった。細かく刻まれた日付は、それだけ健太が蒼生と一緒にいたことを示し、また彼がどれだけ蒼生をずっと見ていたかったかをはっきり伝えてくる。
「それにしても、すごい数だな。……付き合ってくれた蒼生に感謝しろよ」
 告げると、健太は楽しそうに胸を張った。
「もちろん、感謝してるし、見返すたびに可愛くて悶絶してる! そうだ、そのおかげで、フォルダをランダムで選ぶとその日の思い出の蒼生に再会できるっていう対自分用サプライズもできるんだぜ」
 そう言うと、画面から目をそらし、適当にフォルダを開く。ぱっと表示されたのは、屋外のベンチに座って本を読んでいる蒼生の横顔だった。背景には大きな木があって、ログハウスふうの建物が見えるから、街中ではないようだ。時折目を上げる写真もあったが、そのどれもが愁いを帯びて遠くを見つめていた。一目でいい写真だなと思えるほど、綺麗な風景だ。それは蒼生自身がとても綺麗だからだ。
「おっ。家族で高原のペンション行った時の蒼生だ。オレたちが遊びに行ってる間、蒼生がいないなーと思ったらここで本読んでて。それが綺麗だなって思ったから撮ったんだ」
「……これって盗撮じゃないのか」
「盗撮だな。けど、蒼生に許可は取ってるから大丈夫」
「は?」
「ちゃんと盗撮させてって頼んだんだよ。無断はよくないなって思ってさ。そしたら、いいけど、変な顔のは消してねって言ってくれた」
 写真の中の蒼生は、寂しげに目を落とした数枚後に、健太が向けるレンズに気が付いたらしい。はっと驚いた顔。照れたように笑う顔。次第に近付いていく撮影者に、どんどんと柔らかくなっていく表情。
 どうやら健太の言うとおりのようだ。無断で写真を撮られていたことに、蒼生はまったく咎めるような様子はない。むしろ嬉しそうに健太を見て、最後にはレンズに向かって微笑みかけている。
「だが……」
 ぽつりと冬矢が声を上げ、健太が不思議そうにそれを見た。健太はなにも疑問を感じていない。
 冬矢は、以前蒼生とふたりで卒業アルバムを眺めたことがあった。そこで、蒼生の小学校時代のアルバムに学校行事の写真を収めた数ページがあったのを思い出す。そこには、名札の色が違うことから、ほぼクラスがごちゃごちゃに入り交じっていることがわかる写真ばかりが載っていた。それを眺めてみると、別のクラスの子と仲良く写る健太の姿を容易に、しかも複数見つけることが出来た。なのに、それに比べて蒼生の姿は極端に少なかった。いたとしても、引っ張り込まれたことに困惑したような少し硬い笑顔。出来るだけ端を位置取ろうとしている姿。おそらく、蒼生は。
 ぱたぱたと足音がして、蒼生がリビングに戻ってくる。先程までの寝ぼけたようなパジャマ姿から、きりりとした普段着姿になっている。冬矢と目が合うと、蒼生は嬉しそうに笑った。
「蒼生」
「なに?」
「蒼生って、写真に写るの嫌いだよね」
 突然の質問に、蒼生はぽかんとする。
「? どうしたの、突然。嫌いだけど」
「えっ」
 がたん、と健太が大きく音をたてて立ち上がる。嫌い? 写真が?
 健太の深刻そうな顔に、さらに蒼生は首を傾げる。そしてその原因を探るべく視線を巡らせた蒼生の視界に、自分の昔の写真が表示されているパソコンの画面が飛び込んできた。そこで、ふたりの言動の意味に気が付く。
「あっ。ち、違うよ? あくまでも、自分の姿を残したくないのと、他の人と写るのが嫌いなだけで、健ちゃんと冬矢と一緒ならいいんだよ? ちょっと、自分でもよくわかんなくて説明が難しいんだけど」
 おそるおそる、健太が手を伸ばす。蒼生はその手を取ってぎゅっと握った。
「オレ、無理させてた?」
「だから、違うよ、無理なんてしてない。昔言ったでしょ、健ちゃんが撮ってくれるのは嬉しいよって。他の人の記憶には残りたくないけど、ふたりの中にはずっといたい」
 冬矢も立ち上がり、蒼生の肩にそっと額を寄せた。
「……それが本音なら、よかった」
「もちろん、紛れもない本音だよ。健ちゃんと冬矢とはいっぱい思い出作りたいし、写真も残したい。まだ、全然足りない。もっともっと、増やしていきたいんだ」
 健太と冬矢は、ほっとして両側から蒼生に抱きついた。ふたりが安心した気配を察知して、蒼生もほおっと息を吐く。
 蒼生が、ぱっと顔を上げ「あ」と声を上げた。
「でも、……その、僕ひとりだけの写真は、あんまり、その……恥ずかしいから……一緒に写ってるの見ようよ」
「こんなに可愛いのに?」
「ふたりにとってはそうかもしれないけど、自分の顔って恥ずかしいんだもん」
 わずかに頬を膨らませて、蒼生はふたりを見上げる。なるほど、写真も大変に可愛らしいが、やはり直に見る姿が一番愛らしい。
「じゃあ、朝ご飯のあとは鑑賞会といこうか」
「あ、僕、高2の旅行の写真見たい」
「よし、見ようぜ。とにかく、先に食事の準備だな!」
 3人は顔を見合わせて笑う。健太は、パソコンの画面をぱたんと閉じた。


 長い講義を終えて、健太はぐーっと背を伸ばす。
「ねー、今のやつわかった?」
「最後のとこが全然」
「うげえ、これ、年明けにレポート提出あるんだよね。出来るかなあ」
 周囲を囲んだ友人たちがそんなやりとりをしている。たしかに急に話が複雑になってきた感じがする。自分も大丈夫だろうかと教科書の該当箇所に目を落とした途端、鞄のポケットで携帯が唸った。なんだろうと取り出すと、メッセージが届いたようだ。差出人は、“花井タクト”とある。
「……タクト?」
 周りの友人たちがふと健太を見る。
「誰? 知らない名前~」
「あ、中学まで一緒だった奴。同じサッカー部だったんだ」
「そういえば昔サッカーやってたんだっけ」
「私ソフトボール部だったよ」
「意外~」
 そこから周囲は中学時代の部活の話で盛り上がり始めたので、とりあえず健太は花井からのメッセージを確認することにした。
 メッセージの冒頭は、同じくサッカー部で一緒だった辻と街中でばったり会った話が事細かに書かれていた。ふたりとも地元から離れていないので不思議ではないのだが、なんと持っていた鞄がまる被りだったらしい。さらにファストフード店で盛り上がった帰り道にお互いの鞄が入れ替わって大騒ぎだったことが長々と書かれていた。そのあと、「ところで」と書いてあるところからが本題のようだ。曰く、成人式の後で中学の同窓会が開かれる予定らしく、案内状が届いたのだという。せっかくだからそのあと飲みに行かないか、という誘いだった。
 それを見て、ようやく健太はその行事の存在に気が付いた。二十歳を迎える年の1月とは、そうか、来年のことか。しかし、当然のことながら初めてのことなのでよくわからない。花井のメッセージを読む限りでは、同窓会は地元で開催されるようだ。健太の元には案内状は届いていないが、中学の連絡先をもとに送られているのなら、今頃実家に届いているのだろう。ということは、成人式とは育った地で出席するものなのだろうか。
「なあ、成人式ってどこで出んの? 育ったとこ? 住んでるとこ?」
 健太が聞くと、周囲の友人らは一斉に首を捻った。
「成人式? ……さあ……。俺は実家暮らしだから」
「私も。だから普通に地元で出るもんだと思ってたけど……。そういえばどうするもんなのかな」
 見渡せば、たしかにちょうどこっちが地元の人間ばかりのようだ。仕方がない、後で調べてみよう、と健太は席を立つ。
「よくわかんないよな。ん、ありがと。したら帰るか」
「おお。だな」
 それを皮切りに、全員が席を立つ。話題はそこで変わるかと思ったが、女子2人は話したりなかったらしい。
「前撮りってもうやった?」
「うん、お盆にお父さんが単身赴任先から帰って来たから、その時にね~。私より両親が盛り上がっちゃって」
「だよね、うちもそうだった! えー、着物どんなの?」
「黄色のね、可愛いやつだよ。でも夏に外で撮るからめっちゃ暑くって」
「写真見せて~!」
「いいよ!」
 健太はそれをなんとなく聞いていた。晴れ着を着る女子らは、ずいぶんと早めに記念写真を撮るらしい。なるほど、親元で暮らしていればそういう話題も早々に出るのだろう。そういえば受験生だったのであまり関わらなかったが、姉の成人式も早めの準備やら写真やらで大騒ぎだったような記憶がわずかにある。受験直前のかなりシビアな時期にもかかわらず、寺田・野木沢両家で食事会もやった。では男子組はどうだったろうと思い返してみたが、あれだけ親しかった蒼生の兄2人の成人式の様子を覚えていない。別日だったにも関わらず姉が晴れ着で食事会に出たことを考えると、姉はあれを見せたかっただけで、普通は当人が成人式に出るだけなのかもしれない。
 一緒に教室を出たものの、行く先が違う友人たちとはぱらぱらと別れていき、電車に乗る頃にはひとりになった。夕方のホームは学生だけでなく、仕事帰りの人々の姿がある。そのほとんどが手にした携帯に目を落とし、次の電車を待っていた。その中に、目を上げて何かを見ている、よく見知った顔を見つけた。
「冬矢」
 声をかけると、一度こちらを見るが、すぐに視線が正面に戻る。健太は近くまで寄ると、その視線の先を辿った。そこには大きな看板があり、まもなく始まる予定のライトアップの広告が掲示されていた。
「へーえ。蒼生喜びそうじゃん」
「混むだろうけどな」
「これって道路1本まるまる使うんだろ? 全員が端から端まで歩くわけじゃないだろうし、下を少し通るくらいなら大丈夫じゃね?」
「そうか……。うん」
 健太はじっと広告を見つめたままの冬矢を微笑ましく見る。ずいぶん真剣な表情に見えたが、その頭の中は蒼生を喜ばせることでいっぱいだったのか。改めて健太も同じ看板を見る。ビルの間を走る道路と黒く塗りつぶされた空、その下に広がる白い光。蒼生は綺麗な景色が好きだから、きっと見に行きたいと思うだろう。きっと笑顔を見せてくれるだろう。そう考えてしまうと、一刻も早く蒼生に会いたくなる。すぐに顔が見たい。
 同じことを考えていたのか、最寄り駅についてからのふたりの歩行速度は、いつもより幾分か早かった。そもそも蒼生を家にひとりにしておくこと自体が心苦しくてならないのだ。日の落ちた道を急いで辿れば、見上げる角度に部屋の電気が灯っているのが見えた。ほっとして階段を上り、鍵を開けてドアを開けることももどかしい。がちゃんばたばたと大きな音をさせながらリビングに繋がるドアを開けると、つんとした香りがふわりと包み込んでくる。その向こう、キッチンでは、エプロン姿の蒼生がにこにこと笑っていた。
「おかえりなさい。ふたり一緒だったんだね。そんなに急いでどうしたの?」
 はああ、とふたり同時に息を吐く。きらきらと輝いて見える笑顔も、美味しそうな香りも、暖かな空気も、思い描く理想そのものだ。いや、それ以上かもしれない。
 ふたりは荷物を置くのもそこそこにキッチンに入ると、左右から蒼生に寄り添った。蒼生は食事の支度をしているのだ、抱き締めるのは我慢する。
「ただいま。早く蒼生に会いたくて急いで帰って来た……」
「そうなの?」
「俺もだよ。ただいま、蒼生。いい香りだね」
「あ、今ね、ハンバーグ煮込み始めたところ。もうちょっとでできるから、待ってて」
 そう言って、蒼生はタイマーのボタンを押した。鍋を覗き込んだ健太がゴクリと喉を鳴らす。
「すげえ。ハンバーグって煮込むの?」
「えっと、時間なかったから、買い置きの冷凍のやつにして……。それだけだと寂しいなって思ってトマト缶で煮てるだけだから」
「えー……蒼生、めちゃくちゃ好き……」
「へっ?」
 蒼生も今日が休みだったわけではない。健太と冬矢より1つ授業が少なかっただけだ。しかも、蒼生の学部は学内でも奥のほうで、駅に向かうにしてもふたりより時間がかかる。そんな中で、ふたりのことを思って食事の準備をしてくれているのだと思うと、愛おしくてたまらない。
「可愛い可愛い、俺の蒼生。着替えたら手伝うからね」
「ひぇっ……お、おねがいします……?」
 突然ふたりがスイッチを入れて愛を囁いてくることは珍しいことではない。が、今は何かきっかけがあっただろうか。自分たちの間で首を傾げながら緩みそうな頬を両手で押さえる蒼生を、ますます抱き締めたい衝動に駆られながら、ふたりはいったんキッチンを離れた。
 先に戻ったのは冬矢だ。健太は先程まで一緒だった友人から明日の講義についての持ち物の問い合わせがあり、その確認をしていたためわずかに遅れてしまった。蒼生の隣をキープしてブロッコリーを切り分けている冬矢に恨みがましい目を向けると、それでも蒼生の役に立ちたい健太は、おそらく使うであろう食器を先に出しておくことにした。
 取り皿を机に並べながら、ふと思い立つ。さっきは何の情報も得られなかったが、このふたりに聞けば何かわかるのではないか。
「なあ、成人式ってさ、住んでる地域のやつに出るの? 育ったとこで出るもん?」
 ふたりは、意外なことを聞かれたような顔で健太を見る。口を開いたのは冬矢だ。
「基本的には住民票がある自治体から案内状が届くはずだ。ただ育った地域で参加したいと思う人もいるだろうから、そのための制度もあるらしい」
「へー。オレたちのいたとこってどうなんだろ」
「調べていないからわからないが……。事前に申請すれば出られるところや、直接会場に行ってもいいところもあるのだそうだ」
「じゃあ、その申請ってやつをすればいいのかな」
 花井の連絡では、ずっと一緒に成人式から飲みまで行こうというニュアンスだった。つまり、地元にもそういった制度があるのだろう。
「急にどうしたんだ?」
「あー、タクトから連絡来たんだよ。地元で成人式出て、そのあと中学の同窓会あって、それから飲みに行こうぜって。あ、そう、オレら全員家出ちゃってるから、同窓会の連絡届いてないっぽいんだけどさ」
 実家に届いているのなら、そのうち転送されてくるか、連絡が来るはずだ。健太はそわそわしながらポケットの携帯を一度確認する。新しい連絡はまだ入っていない。誰が郵便物を受け取ったかわからないが、母はのんびりしているし、姉妹は健太へ連絡を転送するのは面倒がって後回しにしそうだ。これは花井に問い合わせたほうが早いかもしれない。わくわくした顔で、健太は蒼生を見た。
「な、蒼生も一緒に帰るよな」
 花井たちも蒼生とは友人同士だった。きっと会いたいと思っているに違いない。
 けれど、蒼生は静かな表情で首を振った。
「帰らないよ。こっちでも出るつもりないし」
「……えっ!? なんで!?」
 ぎょっとして健太はカウンターに身を乗り出す。蒼生から出てきた言葉が、まったく思いもよらないものだったからだ。当然一緒に行くのだと考えていた健太は、殴られたようなショックを受ける。対する蒼生は不思議そうに健太を見つめ返す。
「なんでって……。来賓の挨拶の中身って大体想像つくから。わざわざそれ聞くためにきちんとした格好して出かけなきゃいけないのって面倒だと思うんだよね」
「だけど」
「それに、ああいうのって、昔の友達に会うためにみんな出席するんでしょ。僕は別に誰かに会いたいとは思わないし、今の僕を知られるのも嫌だし。そもそも僕に会いたいなんて奇特な人はいないからね。でも、健ちゃんは行ってきなよ。健ちゃん人気者だったから、みんな喜ぶと思うよ」
 健太は言葉を失う。すらすらと語る口調は、それが蒼生の包み隠さない本音だと教えてくれているからだ。
 そもそも、蒼生は自分への興味が薄い。誕生日にすら興味がないので、成人だからどうという感慨はなかった。ハタチになったことも「健太と冬矢と」だから嬉しいし、互いに祝いもするのだが、自治体という第三者から祝われることについてはまったく関心がない。そのうえ、蒼生には既に式を終えている2人の兄がいる。すぐ上の緑は「友人との飲み会は楽しかったけど、成人式自体はものすごく退屈で眠たいだけだった」とさんざん文句を言っていたし、さらに上の兄である紅輝に至っては、式に出る前に落ち合った友人らとそのまま夜通し遊んでいたそうだ。そんな2人に対し、両親も何も言わなかった。だから、蒼生にとっては、成人式とはただの自治体の行事でしかないのだ。
 ぎゅっと健太が拳を握る。そうして、カウンターから体を離すと、大股でキッチンに回り込み、蒼生の前に立った。
「……やだ。じゃあ、オレ、こっちの成人式に出る」
 蒼生は戸惑い、子供の頃のように泣きそうな顔をする健太を見上げる。
「どうして?」
「やだ! 蒼生と一緒に出る!」
「健ちゃん」
 思わず蒼生が伸ばした手を、健太がおずおずと掴む。
「別に、昔の友達に会いたいんじゃないよ。偉い人の話聞きに行きたいわけでもない。生まれた時から一緒にいる蒼生と、一緒に大人になったのを祝いたいんだ。ずっと一緒にいられたお祝いなんだよ。だから、お願い! オレと一緒に出席してください!」
 健太は蒼生の手を握ったまま、がばっと頭を下げる。
 今度は、蒼生が言葉を失う番だった。涙が出そうになるのをなんとか堪える。そんなふうに考えたことはなかったから驚いたということも大きかったが、何より、健太が自分と共に過ごした時間をそこまで重要だと想ってくれていることが素直に嬉しかった。健太の言葉を聞いてしまうと、自分の考えが恥ずかしく思えてくる。そうだ、健太にとってはただの20年ではない。蒼生と過ごした大切な年月なのだ。
 繋がれた手を、蒼生はぐっと引っ張る。そして、珍しくよろけた健太の胸にそのまま飛び込んだ。
「……蒼生」
「うん。そうだね。ごめん。……一緒に出ようね」
「……ん。ありがとう」
 蒼生は、埋めていた顔を上げ、健太に向けてふんわりと笑った。
 ぎゅうっと胸が潰れるような思いでそれを受け止めた健太は、何の陰もない柔らかな笑顔の恋人に心底ほっとする。健太の言い分は、はっきり言ってわがままだった。蒼生がどう思っていようとそれを強制されるべきではないとわかっていたからだ。けれど、蒼生は健太の話をちゃんと聞いてくれた。そしてその上で納得してくれた。
「うー……好き」
「僕だって」
 蒼生も暖かい気持ちでいっぱいだった。健太のまっすぐさに触れていると、自分のひねくれた考えも引っ張られてまっすぐになってしまう。それは蒼生にとって、これまでどれだけ救いになってきたことか。
 ふたりがお互いの暖かさを再確認していると、水を差すようにピピピッと電子音が鳴った。はっとして、健太がキッチンタイマーのボタンを押す。
「あ、で、できたみたい」
「そ、そうだな、あ、こっちの皿出してねえや、大きい皿いるよな?」
「うん、お願いします」
 慌ててぎくしゃく動き出すふたりに、ふっと冬矢が笑う。そういえばこいついたんだったな、と涙目で蒼生に縋り付いた自分の姿を見られていたことに気付いた健太は、照れ隠しに冬矢を横目で睨む。
「んで、ずーっと黙ってたおまえはどうすんだよ」
 冬矢はブロッコリーにドレッシングを絡めながら小さく笑った。
「俺も出る気はなかったんだけどな。蒼生が出るならやぶさかではない」
 まったく、素直ではない。はっきり蒼生と一緒にいたいと言えばいいのに。そう心の中で毒づいた健太は、ふと先程の女子たちの会話を思い出した。
「そうだ。なあ、写真撮ろ! ちゃんと写真屋行ってさ!」
 腕の中で蒼生がぱちぱちと目を瞬かせる。
「写真? ああいうのやるのって女の子だけじゃないの?」
「まー、たしかにオレらの身内じゃ姉ちゃんしか撮ってないもんな。でも、いいんじゃね? 記念に撮ろうぜ」
「うーん。でも写真屋さんに撮ってもらうのって結構かかるんじゃないのかな……」
 どうやら蒼生にはハードルが高いようだ。写真が嫌いだとふたりにはっきりバレたので、遠慮なく抵抗を示しているらしい。それも可愛いが、きちんとした蒼生を写真に残したい。ここはふたりがかりで落としにかかるのがよさそうだ。
「だって、一生に一度のハタチの記念だからさ、な、冬矢!」
 健太がわざとらしく強調して名前を呼んだ意図は伝わったらしい。冬矢はにっこり蒼生に笑いかける。
「そうだね。誰に見せるわけでもないからそれを見るのは俺たちだけだけど、思い出の1枚に加えるのはいいんじゃないかな」
 しかし、蒼生のイメージする写真屋の記念写真とは、健太の姉の優美が写ったひとかかえもあるような大きなアルバムだ。あんな大きな自分の写真など、考えるだけでぞっとする。
「写真屋さんのって、ゆみちゃんの時みたいな、大きい写真になるんでしょ」
「仕上がりは選べるから、大きなアルバムを作る必要はないんだ。普通の写真のサイズでいいんだよ」
「……そうなの?」
「それに、俺と健太のきちんとした写真、蒼生も見たいだろう?」
「そ、それは……っ」
「あ、なあ、そしたら3人で撮ってもらおうぜ! 並んでさ、一緒に」
「……一緒?」
 蒼生がぽかんとするので、ふたりで頷いてみせる。すると、少し考えてから、ようやく蒼生は頷いてくれた。
「うん。それなら、撮る」
「! じゃ、写真屋探そ!」
「なるべく落ち着いて撮りたいから、個人でやっているところがよさそうだな」
「商店街のおばちゃんに聞いてみるか。パンフもあるといいよな」
 早速頭の上で話し合いを始めるふたりを、蒼生は交互に眺める。
「……まずはごはんにしない? とりあえず、いったん離していただけると……」
 そこで、健太は蒼生をずっと抱き締めたままだったことをようやく思い出したのだった。


 蒼生が頷いたのならば話は早い。
 翌日、冬矢はどこから取り寄せたのか、成人式用前撮り写真のパンフレットを数冊持って来た。
「女性用が多いようだけれど、ほら。ちゃんと男性のもあるだろう?」
「本当だ。スーツでいいんだ。袴の人もいるけど……レンタルでもかなりするんだねえ」
「…………。そうだね、蒼生は似合うと思うし、袴姿も綺麗なんだろうな。ただ、3人で、となると、だいぶ仰々しい感じがするかもしれないね」
「うん、だよね。ちょっと恥ずかしい」
「コスプレ感出ちゃう気がするもんなー。そういうのさ、どっか遊びに行った時に遊びで着ようぜ! それに、オレも動きづらいからスーツがいい!」
「遊び? うん、それ楽しそう」
「決まりだな。じゃあスーツにしよう」
 そしてその翌日には、健太が写真屋を決めてきた。
「お惣菜屋のおばちゃんが紹介してくれた! お孫さんの成人式の写真撮ったとこで、腕のいいおじさんがいるよって。夫婦だけでこぢんまりとやってるって言ってたよ」
「それなら人目を気にする必要もなさそうだね」
「今の時期って予約取れるのかな?」
「それも大丈夫そう。最近はチェーン店で撮る人が多いから、そんなに混雑しないんだって。ゆったり撮っても大丈夫だってさ。おじさんいい人だったし、スタジオも綺麗だったよ」
「……おまえ、もう行ってきたのか」
「行動力すご……」
 というわけで、トントン拍子に3人の成人式記念写真撮影の日程は決まった。
 当日は、ひんやりとした空気が気持ちのいい、よく晴れた日だった。それぞれ誂えたばかりのスーツに身を包み、髪型まできちんと整えた3人は、商店街からわずかに離れた位置にある写真館の前に立つ。蒼生はレトロな建物に掲げられた銀色の看板と、小さなショーウィンドウに並べられたたくさんの記念写真を見て息を呑んだ。
「き、緊張してきた」
「ふふ。大丈夫。俺たちがいるからね」
「……うん」
 言葉では頷くものの、体をぎゅっと強張らせている蒼生の肩をぽんと叩き、健太は短い階段の奥にある木製のドアを元気よく開けた。
「おはようございまーす!」
 勢いよく飛び込む健太に、蒼生はおろおろと冬矢を見る。冬矢も笑って、蒼生の背中を優しく押した。それでようやく決心がついたのか、なんとか一歩を踏み入れる。
 ふわ、と温かい空気に包まれる。建物自体は年代を感じさせるたたずまいだったが、ドアの中は壁紙の白が目に眩しいこざっぱりとした空間だった。壁には記念写真だけではなく、たくさんの風景写真が飾られている。カメラや写真立てなどの商品を収めた白い棚があり、白いソファにシンプルなテーブルが一組あるほかは、どこででも見るようなカウンターがひとつあるだけだ。そのカウンターの中で作業をしていた丸眼鏡の男性が、健太の声にひょいと顔を上げた。
「おー、寺田くん。いらっしゃい」
 年の頃は、父親よりひとまわり上だろうか。にかっと笑った顔が、人の好さを表している。
「おはようございます」
「今日はよろしくお願いします」
 冬矢と蒼生が頭を下げると、彼は目を見開いてふたりを見る。それから元通りの笑顔に戻った。
「なるほど、なるほど。今日は久し振りに腕が鳴るなあ」
 そして、紺色のカーテンの裏に向かって「おーい」と声をかけた。すぐさま「はーい」と澄んだ声がして、中から女性が出てきた。よく見れば男性とは同年代のようだが、ずいぶん若く見える。目鼻立ちがはっきりしていてきらびやかな、絵に描いたような美人だ。
「改めて、僕がカメラマンの柚木です。柚子の木って書いてユノキと読みます。そしてこっちがアシスタントで妻のマキエ」
「気軽にマキちゃんって呼んでくださいね!」
 不思議なオーラがある女性だ。それに蒼生と冬矢は少々気圧されていたようだが、まったく動じない健太がにこにこと自己紹介をしたので、それに続く。夫妻はそれを嬉しそうに聞いていた。
「いやー、成人式の写真ってほとんどが女性でね。男の子の写真撮ることって少ないんだ。だから今日、おじさん張り切ってるんだよ。じゃあ早速打合せから始めようか」
 2人は蒼生たちをソファに座らせると、湯気の立つ茶碗を3つと何冊かのアルバムをテーブルの上に広げた。その薄く大きなアルバムを目にして、ふたりの間ですっと背筋を伸ばす蒼生に冬矢が小さく笑う。
 柚木は女性の肩幅ほどの台紙を手に取り、ぱたぱたと開いた。中央と左右と1枚ずつ、大きな3枚の写真が並んでいる。
「一般的な仕上がりだと、これが人気かな。こんなふうに、アップと全身とバックスタイルと。家族写真を加える人もいるよ。えーと、前もって寺田くんから聞いてる話では、それぞれの記念写真と、3人で一緒の写真を撮りたいってことだったね。ちなみに昔はついでにお見合い写真にもしたものだけど、今の人たちには」
「そうですね。その用途はないです。あくまで自分たちの記念なので、小さなアルバムにとどめたいと考えています。3人まとめて1冊で」
「うん、わかりました」
 お見合い、という単語に蒼生が反応する前に、きっぱりと冬矢が否定する。蒼生がほっとその横顔を眺めていると、反対側で健太が身を乗り出した。
「でもせっかくなんで、一緒の写真とそれぞれのソロ数枚で、そんな大きくないサイズにまとめたりとかできますか?」
「もちろん。A4とかB5くらいかな。だとすればこういう台紙があるよ」
「できればある程度大きさ欲しいんだけど……。やだ?」
 健太がぱっと蒼生を見る。蒼生は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐにその視線をテーブルの上に落とす。健太の言うサイズでは、だいぶ自分の粗が目立つだろう。本来ならばすぐに否定したいところだ。が、実際目にしてみると、思っていたよりは小ぶりだ。それに、よく考えてみれば、蒼生の写真を見るのは健太と冬矢だけなのだから、普段から散々至近距離で見つめられていることを考えると大した問題ではないのかもしれない。だとすれば、健太がそれを欲しがる気持ちを無碍にはしたくない。
「ううん。健ちゃんに任せる」
「ん、ありがと。じゃあ、この台紙とー、冬矢が言ってたこのアルバムで作ってもらおうよ」
「そうだね」
「うん」
 柚木は3人の話し合いを頷きながら聞いている。そして、テーブルの下からソフトケースに入った料金表を取り出した。
「少し料金はかかるけど、撮った写真を全部データにしてお渡しすることもでき……」
「お願いします」
 ぴったりと健太と冬矢の声が揃った。蒼生がぎょっと身を固めるが、ふたりの眼差しは真剣だ。マキエがそれを眺めて楽しそうに笑った。
「そしたら、撮影に移りましょうねえ。もちろん撮影中もご自身のカメラや携帯での撮影は問題ないから、たくさん撮ってくださいな」
 そう言うと、ひらっと立ち上がり、奥のカーテンをさあっと開いた。
 導かれるままに進んだカーテンの向こうは、爽やかなグリーンのスクリーンが下りたスタジオになっていた。見渡せば、天井や壁際には様々な種類の照明が設置され、使用用途がわからない黒い機材が積まれたラックが端に寄せられている。その中に、カメラが据えられた大きな三脚が3人を待ち構えていた。
「まずは誰かな」
「ん、じゃオレお願いします!」
 健太が手を挙げる。一番手だと蒼生が緊張するだろうから、物怖じしない健太を先にして雰囲気に慣れてもらおうと健太と冬矢が相談して決めたことだった。健太は持っていた鞄をごそごそと探ると、一眼レフのずしりと重いカメラを蒼生に手渡した。
「えっ? ぼ、僕が?」
「そ。自分の写真が欲しいわけじゃないけどさ、蒼生に撮ってもらいたいんだ」
「けど、ちゃんと上手に撮れるかな……」
「大丈夫だよー。何もしなくてもいいように設定してあるから。上手じゃなくてもいいんだ、蒼生が撮ったオレの写真だーって後でにやにやしたいだけだよ」
 蒼生は少し困ったようにカメラを撫でる。健太の言葉に裏がないことはわかっているが、だからこそプレッシャーに感じてしまう。健太はそっと蒼生の耳元に顔を近付けた。
「蒼生が好きだなって思う表情があったら、撮って」
「ひぇ」
 目を見開く蒼生の背中を軽く叩き、健太はスクリーンの中央に歩いて行く。蒼生はその背中を呆然と見送った。好きと思う表情、と口の中で復唱する。
 隣で聞いていた冬矢はなるほどと頷く。蒼生の好きな自分を、蒼生自身に切り取ってもらうというのはなかなかいい提案だ。
「お願いしまーす!」
「こちらこそ、お願いします! じゃあまずは、普通にまっすぐこっち見てみようか。ちょっと背筋伸ばして。もう少し右。次に、腕を少し上げてみて。うん、顔の角度だけこっちにね」
「はーい」
 柚木の流れるような指示に、健太はまったく迷わずついていく。冬矢はそれに感心する。言葉通りに体を動かせるというのは、運動神経のなせる業なのだろうか。本人の性質がとても素直だからかもしれない。撮影される側にも上手下手があるようだ。
 蒼生のほうは、それどころではない。ファインダー越しに見る健太の表情は、笑ったりすうっと真面目な顔になったり、くるくる変わる。次の瞬間には違う顔をしているから、どこに照準を合わせていいのかがわからないのだ。アップにしていいのか、引いたほうがいいのかの判断も難しい。とにかく、好き、と思うタイミングでシャッターを切った。ボタンを押す数が「好き」の数だと思うと、きゅっと胸が締め付けられる。ただ、ひとつ不満はあったが。
「よーし、OK。そしたら野木沢くんと交替で!」
「っ、はい!」
 ぴんっと蒼生が姿勢を正す。戻って来た健太にカメラをバトンのように渡しながら、息を吐いてスタジオの奥に向かう。
 一瞬蒼生の指に触れた健太は目を細める。その指先は、ひんやり冷たかった。緊張しているんだな、と思う。実際、振り向いてカメラに向かった蒼生はとても綺麗な笑顔をしていた。きりっとして涼しげで美しく、優しく穏やかな笑顔だ。完全に余所行きの顔をしていることを確認して、ふたりはちらりと視線を交わす。
「うん、いいね。もう少し右足下げられる?」
「はい」
 しばらくそれを眺めていた健太は、頃合いを見計らって一歩下がる。そして端に置いてあった椅子の背に上着を脱いでかけたかと思うと、改めてカメラを構え、床に片膝をついた。いくら集中していても、カメラ脇で健太が大きく動けば蒼生も当然気が付く。それを目にした蒼生が「あれ」という顔をするが、構わず健太はファインダーを覗き込む。気付けば、メインのカメラの音よりも激しいシャッター音がそこから響いてくる。その激しい音に、冬矢が笑う。
「健太、今どれくらい撮ってる?」
「さあ? 300枚くらい?」
「さっ……?」
 蒼生はきょとんとして、それから、くすっと笑った。
「!」
 はっと息を飲んだのは柚木だ。思わず黙ってシャッターを切る。
「ふふ。ねえ、健ちゃん、ちょっと計算おかしくない? そんなに時間経ってないと思うけど」
「そうかぁ? まだ足りねえよ」
 どんどん体勢が低くなり、床の高さに近付いていくカメラに、蒼生は緩んでしまいそうな頬を必死で堪える。だが健太はますます楽しげに角度を変えていく。
 何かを察したのだろうか、柚木が冬矢に向かって手招きをする。
「笹原くん。このモニター、見てくれるかい」
 示されたのは、カメラの脇に取り付けられている小さなモニターだ。近付いた冬矢が覗き込むと、それはカメラと連動しているらしく、少し大きめに蒼生の姿が映っていた。
「これね、細かい表情を確認するためについてるんだ。どうかな、気になるところはないかな?」
「そうですね。……ああ、少しネクタイがきつめに見えるような気がします。襟の角度かな」
「マキちゃん、よろしく」
「はいはーい」
 マキエがぱっと蒼生の側に走り寄り、襟を少し整える。それから袖をぴっと引っ張り、上着の裾を綺麗に整える。
「どうでしょ」
「うん。笹原くん、どうかな」
「いいと思います。蒼生、ちょっとレンズを見て。……ああ、うん。目が合っているみたいだ」
 冬矢はモニターを見ながら満足げに頷く。
 目? それを聞いた蒼生は、そうか、と息を吐いた。小さい頃から、レンズの中に見える四角が、なんとなく無機質で怖い感じがしていた。が、あれは今、冬矢の目なのだ。あれを見ると、冬矢と見つめ合える。そう思うと、急に息がとても楽になった気がした。
「うん! いいね、野木沢くん、上手だよ! そう、ちょっと首傾げて。少し寺田くんのほうに体向けて、顔だけこっち。今度は手をもう少し柔らかく、おー、いい感じだ」
 柚木の弾む声。それに応えるたびに、健太が嬉しそうにシャッターを切り、冬矢が温かい眼差しでモニターに向かって頷く。ふたりが見ている。それを意識すると、この空間がとても幸せなものに思えてくる。
 はあっと柚木が大きく息を吐く。
「いやー、楽しい! 野木沢くんありがとう。よし、笹原くん行こうか!」
「はい」
 蒼生もほっと胸を撫で下ろす。ふたりがいるので大丈夫ではあるのだが、注目されるのはやはり恥ずかしい。速足でカメラの後ろに戻った蒼生に、健太が笑顔でカメラを渡す。
「よろしく」
「え、健ちゃんのが上手なのに」
「冬矢がオレに撮られたいわけないだろーに」
「……そっか」
 再び持たされたカメラを手に振り向くと、冬矢が嬉しそうに笑う。どうやら健太の言うとおりらしい。冬矢も、蒼生に好きな表情を切り取ってほしいと考えているのか。
 しかし、冬矢の撮影が始まると、そんなことを考えている余裕は全くなくなった。冬矢はどうやら蒼生が自分の写真を撮るということで、きっかりスイッチを入れたようだ。それでなくとも華やかな外見が、ぴしりとポーズをとっていることでさらに磨きがかかって見える。
 蒼生は何度もぎゅっと目を閉じては開くことを繰り返した。なにせ、健太も冬矢も眩しすぎる。それはスタジオのライトのせいだけではないと思う。
 そうして3人がどんどん乗ってきていることで、柚木のテンションも上がっていっているようだ。
「あー、もう、なんでこれで素人かなあ! 寺田くん、野木沢くん、入って! 3人で撮るよ!」
「はい」
「はーい」
 最早はしゃいでいるといってもいいくらいのテンションで撮影枚数を増やしていく柚木に、蒼生は次第に緊張がほぐれてくるのを感じていた。
 それに、健太と共に向かう場所には冬矢が笑って待っている。嬉しさでいっぱいになった蒼生は、ふわりと笑う。
「ふふふ。あなた、撮りすぎじゃない?」
「こんな素晴らしい被写体を前に止まっていられるか! マキちゃん、この前使った造花あったよね、あれ持って来てくれる!?」
「あれね。了解」
「さあ、盛り上がって来たぞ!」
 腕を大きく回す柚木に、3人は思わず噴き出した。


 後日、写真が出来上がったと連絡を受け、3人は再び写真館を訪れた。柚木は出来上がったアルバムを丁寧に袋に詰め込みながら、まだ興奮冷めやらぬ様子だった。
「本当にねー、楽しかったよ。もう、3人とも表情もポーズもすごく上手だったからね。久し振りにめちゃくちゃいい仕事が出来たよ! もしよかったら、僕の仕事の成果として3人の写真を店頭に飾ってもいいかな」
 思ってもみない提案に、3人は驚いて目を瞠る。ショーウィンドウに並ぶ写真はどれも小さく、ただのサンプル程度で、人の目に留まるほどのものでもない。だが、蒼生が誰かに注目されてしまうのは望むところではないのだ。それを警戒して、冬矢だけでなく健太も口ごもった。そんなふたりをよそに、蒼生は少し悩んでからこくんと頷く。
「あの……小さいサイズなら」
 ふたりは驚く。後で聞いたのだが、蒼生はふたりと並んで撮れた写真をとても誇らしく思っていた。だから、自分の左右にいる素晴らしいふたりを見てほしいという気持ちがあったのだそうだ。
「本当かい!? ありがとう! それで、もうひとつお願いがあるんだ。もしよかったら、暇な時にまた付き合ってくれないかな。実はね、趣味で風景写真をよく撮るんだけど、人物写真も久々に撮ってみたくてさ!」
「え、まあ……遊びくらいでなら、なあ?」
「うん」
 3人が頷くと、ますます柚木は嬉しそうだ。横で聞いていたマキエがくすくすと笑う。
「実はね、この人、昔プロのカメラマンで、アイドルのブロマイドとか雑誌の写真とか撮ってたのよ」
「えっ?」
「きっとその頃の血が騒ぐんでしょうね。たまにでいいから、ちょっと付き合ってあげてね。ちなみに、私も当時の被写体だったの」
「えっ!?」
 2人は「ね」と顔を合わせて笑う。耳慣れない言葉に驚く3人だが、華々しい雰囲気はそのせいだったのかと納得する。
「なるほど、アイドルの方だったんですね。道理でオーラがすごいと思ってました」
「あら、本当? まだ私も捨てたもんじゃないわね!」
 マキエは声を上げて笑った。

 不思議な人脈が出来たものだと少々妙な気分になりながら、3人は家に帰った。そして、急いで手を洗って、ローテーブルの前に全員で正座をする。
 まずは、少し大きなノートくらいの大きさの台紙を丁寧に取り出す。折りたたまれた形になっているのを左右に広げると、そこはまだ綺麗なモスグリーンの台紙だ。ただ、右のページの下には金文字で撮影日が印字されていて、とても上品な雰囲気になっていた。それをさらに左右に開けば、ローテーブルいっぱいに4ページが広がる。
「うわ」
「わぁ」
「へえ」
 3人はそれぞれ感嘆の声をあげた。
 左から、冬矢、蒼生、健太の順にアップと引きの写真が2枚ずつ並び、一番右のページには3人で撮った写真が大きく1枚飾られている。写真館でも仕上がりの確認のためちらりと見せてもらったが、ゆっくり眺めると細かい部分や表情が良く見える。
「……いやー、載せる写真、柚木さんに選んでもらったの正解だったかもな。プロってすっげぇ。きりっとしためっちゃくちゃ美人の蒼生と、ふんわりした可愛い蒼生が両方見られる!」
「どちらの蒼生もすごくいいな。うん。素敵だ。もとの素材が良すぎるんだろうね。可愛い……。いや可愛すぎないか?」
「だよな、やべぇ。世界で一番可愛い」
「世界どころじゃないだろう」
「たしかに! な! ……蒼生?」
 自分を挟んで繰り広げられるやたらとスケールの大きな会話に、普段なら過剰に反応するはずの蒼生が、はあ、という吐息だけで返してきた。おや、と思う。覗き込んでみると、蒼生はほんのり頬を染めて、目線を左右に動かしている。その目はわずかに潤んでいるようだ。
「蒼生? どした?」
「……こういう、写真って、攻撃力強いんだね……」
「ん?」
「ふたりとも、もともとすっごくかっこいいのに、これでもかってくらい迫力がある……。見慣れたかなって思ってたけど、新鮮にかっこよくてびっくりする。改めてこんなイケメンが僕の彼氏なんだと思うとドキドキしすぎて心臓が痛い……」
 その言葉に、健太と冬矢は固まってしまう。そんなことを考えて赤くなるなんて。
「本当に蒼生は可愛いな……。どうにかなってしまいそうだ」
「え?」
 きょとんと見つめてくる瞳に、冬矢は本当にどうにかしそうになるのをなんとか堪える。
「っていうかさ、そこまでオレのこと褒めてくれるのって蒼生だけだよ……」
「? 健ちゃんはすっごくかっこいいんだよ?」
 スポーツをやっているのと明るい性格で割り増しに思われているんだろうなと自覚している健太だが、蒼生は疑うことなくそう思っているらしい。思わず自分の心臓の上あたりの服を掴み、跳ね上がりそうな脈拍を抑える。
 写真に視線を戻した蒼生が、でもね、と続けた。
「スタジオで写真撮ってる時、僕が大きなカメラを持ってたでしょ。あれでもたくさんふたりのかっこいい写真撮ったんだ。我ながら、ふふ、いい写真が撮れたと思うよ。どんな表情も好きすぎて困っちゃうくらいだった。……でも、目が合わないのがちょっと寂しかった。だから、こうやってこっちを見てる写真……いいね」
 ふわっと笑って、写真の中のふたりと目を合わせる蒼生。健太と冬矢は、ぐいっと両側から蒼生の腕を引っ張り、ソファにもたれかからせるように引き倒した。
「……ちゃんと、直に目を合わせるほうがいいだろ」
「レンズは見ていたけれど、ずっと蒼生のカメラを意識していたよ」
 ぱちぱち、と蒼生が瞬きの数を増やす。
「え。写真の自分にやきもち? ……ふ、あははは。ふたりとも、そういうとこ可愛い」
「蒼生のほうがずーっと可愛いよ」
「そうだそうだ! ナマが一番可愛い!」
「言い方がなあ」
 笑う蒼生をふたりがかりで抱き締める。ふわりと甘い香り。写真の蒼生はとても綺麗で可愛いけれど、この香りは至近距離でしか感じられない。
 蒼生は左右からの強い力に、体中が暖かい愛に満たされていることを改めて噛みしめる。ひとりで広いスタジオの真ん中に立っている時も、ふたりの姿が見えて安心したが、隣にいてくれた時のほうが嬉しかったことを思い出す。あの写真は、広げたページの一番右にある。
「ねえ」
 呼びかけると、ふたりは名残惜しそうに蒼生の肩に押しつけていた頭を上げた。
「ん?」
「3人で撮った写真も楽しかったね」
「ああ、そうだね」
 冬矢が腕を伸ばし、テーブルの上から台紙を取った。盛り上がった柚木によって、3人は様々なポーズをとらされた。いったいどれが選ばれるのかと思っていたのだが、彼が選んだのは、造花を持った写真だった。白い花を持った蒼生が背もたれの高い椅子にゆったりと座り、向かって左の健太は赤い花を持って椅子に寄り掛かり、右に立った冬矢は悠然と黄色い花を胸元に持っている。
「なんか、雑誌で見たことありそうなポーズだよな」
「昔アイドルを撮影していたカメラマンということだからね」
「ふ、ふふ。そういう柄じゃないけど、ふたりとならこういうのも悪くないなって思ったよ」
 全員が、楽しそうに、穏やかに笑いながら、ひとつの塊のような空気を醸し出す写真だ。口には出さなかったけれど、とてもいい写真だと3人は思っていた。実はこのポーズの別カットがショーウィンドウの隅に展示され、彼らは一体誰なのかと一部で話題になるのだが、それはまた別の話だ。
「ね、今度はあっちのアルバムのほう見ようよ」
「よし、見ようぜ。めちゃくちゃ数あるから、見応えありそうだぞ」
「なんだかんだでページ数が多くなってしまったからね」
「あ、そうすると僕のソロのシーンがけっこうあるのか……。自分で耐えられるかな」
「大丈夫、1枚1枚ちゃんと味わっていくから」
「……大丈夫ってどういう意味なんだろう……」
 健太が立ち上がり、袋の中からアルバムを取り出す。小さな冊子程度の大きさだが、厚みがかなりあった。
 その健太の手元で、いつ撮られたのだろうと思うくらい自然に笑う3人の顔が表紙になっているのが目に入り、蒼生はくすぐったそうに笑った。

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72こ目;写真の笑顔の過去と今
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 早朝の町に、靴の音が規則的に響く。葉が色づく季節が近付き、耳に当たる風がだいぶひんやりしてきた。それが囁き声みたいだな、と思ったとたん、急に不安が襲ってくる。「あれ、いいの?」と聞こえるような音。そういえば昨夜書いていたレポートに途中で誤字を見つけたのだが、そのままにしてきたような気がしてくる。中途半端なところで切り上げても意味がないことはわかっているが、気になり始めるとそれにばかり気が行ってしまう。いや、たしか、書いている途中で、あれっと気になって、直したはず。おそらく。たぶん。だが、後で直そうといったん放っておいてからの記憶があまりない。早く終わらせようと焦っていたから、そのままだった気もする。普通の誤字ならともかく、少々卑猥な間違いだったので、あれをそのままにするわけにはいかない。健太は思い切って、今日のランニングの距離を短めにすることにした。
 ショートカットをするために、普段走らない道に入る。と、いきなり目に飛び込んできたのは、道路の片側にずらりと並ぶテントだった。朝早く、気温も昨日よりぐっと冷え込んでいるというのに、それを取り囲むようにそこそこ人通りもある。初めて見る光景に、いったいなんだろうと足を止め、近くにあったテントを覗き込んだ。すると、折り畳みテーブルの上には発泡スチロールの箱が置いてあり、氷水の中に魚が沈んでいた。
「あ、寺田くん」
 隣のテントから呼びかけられ、はっと顔を上げる。そこには、にこにこと笑う割烹着姿の女性がいた。
「あれっ、お惣菜屋のおばちゃんだ」
 よく見るその皺だらけの顔は、商店街の半ばにある惣菜屋の店主だ。普段の買い物はスーパーやショッピングセンターに行くのだが、健太は人とのやりとりが楽しめる商店街も好きだった。
「こんな早くにどうしたの」
「走るの日課なんだー。それより、これ、何?」
「朝市よ。月に2回、商店街でイベントとしてやってるの。私たちだけじゃなくて、近郊の農家さんたちも直接出店してるのよ」
「へーえ」
 見回してみると、さらに隣のテントには野菜が並び、その向こうは花を売っているようだ。これは自分より、蒼生や冬矢が見たら喜びそうだなと思う。
「せっかくだし、朝ご飯に何か買っていきなさいな。普段よりお得だから。今日はね、豚の角煮がおすすめ」
 示される手元を見ると、どんとボリュームたっぷりの角煮が、美味しそうな照りをこれでもかと見せつけてくる。健太はごくんと唾を飲んだ。朝ご飯にしては少し重いような気がするが、健太にとってはさほどの問題ではない。
「サダちゃん、ちょっと、この子にお野菜持たせてやって!」
 惣菜屋の女性は、大きく手を振って隣のテントに声をかける。振り向いたのは、よく日に焼けた年嵩の男性だ。
「おや、新顔かい」
「たまに顔出してくれる子だよ。去年地方から引っ越してきたの。この街にずっといてもらえるように、胃袋掴んでおかなくちゃ」
「そうだねえ、若者には居ついてほしいね!」
 言うと、シートの上に並んでいた白菜をひと玉と、健太には種類のわからないボリュームのある草を袋に入れて持ってくる。健太は慌てて両方のポケットに手を突っ込んだ。
「ごめんおばちゃん、オレ、あんまりお金持ってきてない」
 なにかあったら困るから、と蒼生が心配するので、邪魔にならない程度の紙幣はいつも忍ばせてあったが、買い物をするほどは持っていない。
「どんだけ持ってんの?」
「えっと……、これだけ」
「あーら、大金持ちじゃない。じゃあ、これと、これも。持っていきなさいな」
 健太の腕に野菜の入った袋をかけた女性は、その腕に角煮のパックと切り干し大根のパック、さらには揚げ物の詰め込まれたパックを乗せてきた。
「えっ、ええっ、多すぎない?」
「いいのよ~、リピーターになってくれれば」
 焦る健太の肩を、女性がぱんっと叩いた。腕にはまだほんのり暖かい惣菜の重さがかかる。
「ありがとう。じゃ、次、同居人連れてくるよ。いつやんの?」
「普通に店に来てくれてもいいけどね」
 そう言って笑いながら、朝市のスケジュールが書かれたチラシを袋に突っ込んでくれた。

 健太はほくほくした気分で家に戻った。食品だけでも様々な種類があったようだし、次回開催される際にはふたりを連れて行こう。今日はずいぶんおまけをしてもらったが、置いてあった値札も通常よりだいぶ安価に設定されているようだった。きっと楽しいし、喜ぶはずだ。
 キッチンに野菜の袋と惣菜のパックを置く。……と、その手が止まった。なにか、することがあった気がする。
 そこに、寝室のドアが開く音がした。足音から推測した通り、起きてきたのは冬矢だった。
「ああ、おかえり」
「ただいまー。あとおはよう」
「おはよう」
 冬矢はキッチンに立っている健太を不思議に思ったのか、まっすぐにキッチンにやって来た。そして、そこに置かれた食材を見て首を傾げる。
「どこに行ってきたんだ?」
「あー、なんかね、朝市やってて。惣菜屋のおばちゃんと農家のおじさんから安く買わせてもらったんだ。美味そうじゃね、ほら、角煮」
「本当だ。じゃあ今日のメニューに加えさせていただこう。そっちは野菜か。ずいぶん立派な白菜とちぢみほうれん草だな」
 健太は冬矢と一緒になって袋を覗き込む。
「これってほうれん草? なんか形違くない?」
「一緒だけど、育て方が違うんだ。冬の時期になると出てくる野菜で……。そうだな、サラダにしようか、バターで炒めようか」
「炒めるやつ!」
「わかった」
 そう言われると、分厚い葉が急に美味しそうに見えてくるから不思議だ。冬矢は次に白菜に手をやり、何を作ろうか考えているようだ。
「な、今度さ、早起きして行ってみようぜ。魚とかも売ってたし」
「いいね。きっと蒼生も喜ぶ」
 健太は、だよな、と大きく頷いた。嬉しそうな蒼生の表情を思い浮かべるだけで心臓が高鳴る。
「その可愛い可愛い蒼生はまだ寝てるんだろ?」
「ああ。可愛い可愛い顔して寝てるよ」
 昨日も何かと忙しそうだったし、早く起きる用事もないのだから、寝かせておいてあげたい。本当は寝顔を拝みに行きたいところだが、起こしてしまっては可哀想だ。さらに、そのあまりに可愛い姿を見たら、ベッドに飛び込んでしまう可能性すらある。
 袋の中からチラシを見つけた冬矢が、それを見ながら不思議そうに健太を見た。
「それにしても、このあたりの道を通るなんて珍しいな。住宅街だから朝は避けているんじゃなかったか」
「ん? ちょっとな、気になることがあって、急いで帰んなきゃってショートカットしたんだ。そしたら……。っあ」
 唐突に思い出した。
「そうだ、オレ、レポートにミスがあった気がして、気が気じゃなくてとっとと戻って来たんだった!」
 大きな声を上げてから慌てて口を両手でふさいだ健太に、冬矢は目を見開いて、それから肩をすくめて笑った。
「蒼生の喜ぶ顔ばかりを考えていて、大事なことが抜けたか」
 全くその通りで、言い返す言葉がない。
 洗面所に向かう冬矢の後ろからリビングに出ると、健太は物音をさせないようにこっそりとパソコンを引っ張り出した。そうだ、何のために急いで戻るつもりになったのか。目的のファイルを開き、誤字を見つけた箇所を探す。それは半ばあたりにあったはずだ。目で追って、指で辿って、何度か読み返してみたが、どうやらちゃんと直っている。よかった、とほっとすると同時に、今度は途中が合っているのかどうかが不安になってくる。むむ、と健太は腕を組んで、画面を見つめた。
 しばらく悩んでいると、冬矢が戻ってくる。
「どうした。難しい顔してるな」
「あ、冬矢ぁ。ちょっとここの計算見てくんね?」
「ここか?」
「そ。これで合ってる?」
 冬矢は、ふぅんと呟き、画面を覗き込む。
「……大丈夫だよ。合ってる」
「ほんと? よかったー。ありがとな」
 ようやくすべて納得できたらしい。大きく息を吐くと、健太はファイルを閉じた。と同時に、背後に気配を感じて、がばっと立ち上がる。
「ふたりとも、おはよぉ……」
 ゆったりとした足音をさせ、まだ眠たそうに瞼を擦りながら蒼生が寝室から出てきたので、感情が高ぶるのに任せて勢いよく抱きつく。
「わっ」
「蒼生ぃ、おはよっ! 今日という日の朝日がのぼって一番最初の蒼生の声を聞ける幸せ……。あー、一緒に暮らしててよかった! あーもう、好き好き、大好き!」
「あ、ありがと、僕も好き……だけどちょっと苦しい」
「えっ。あ、ごめん。じゃあちゅーしよ」
 ぷはっと顔を上げた蒼生が、ことんと首を傾げる。じゃあ、の脈絡がよくわからない。だが言いたいことは分かった。
「でも、僕、まだ口ゆすいでないから」
「ダメ?」
 蒼生は腕の中でもがくように背を伸ばすと、健太に唇を合わせるだけのキスをした。
「まずはこれだけ。ね」
「……っ!」
 思わず手を離し、その場に崩れ落ちる健太だ。可愛いと思っていたが、寝ぼけたままでもこんなに可愛いなんて許されていいのだろうか。日々可愛いを更新してくる蒼生に、いつ心臓がもたなくなるかわからない。
 うずくまった健太に慌てたのは蒼生だ。驚いて抱き上げようと伸ばしたその手を、途中で冬矢が奪う。そして片手で顎を掴んで蒼生をこちらに向かせると、何かを言う前にそっと唇をふさいだ。
「!?」
 すぐに顔を離した冬矢は、びっくりした表情のままの蒼生を抱き締め、優しく髪を撫でた。
「おはよう。健太の言い方は大仰だが、内容については同意するよ」
「う、うん」
 2回のキスですっかり目が覚めたらしい蒼生は、名残惜しそうに冬矢の腕からそっと離れると、
「えっと、歯を磨いてきます……」
 ほんのり染まった頬を両手で押さえながらぱたぱたとリビングを出て行った。
「……か、可愛い……」
 呻くように健太が呟く。冬矢も微笑ましい気持ちで背中を見送ったのだが、蒼生がドアを閉めると、すっと視線の温度を戻す。
「健太」
「ん?」
 呼ばれて顔を上げると、冬矢はファイルが閉じられたばかりのパソコンの画面を見つめている。
「ごめん、目に入って」
 冬矢は勝手に個人情報を覗いたという意味で謝ったのだが、健太はまったく気にしていないようだ。「ああ」と笑顔で頷く。
「このフォルダだろ? わかるわかる、恋人の名前ってつい目に入っちゃうよな~」
 立ち上がって再び椅子に座った健太は、画面の右端にあるフォルダを眺める。そこには、“蒼生”と書かれたフォルダ名がある。
「なんのファイルが入っているんだ?」
「今まで撮りためた蒼生の写真~」
 健太は嬉しそうにそれを開く。そこにはさらにフォルダがずらりと並んでいて、年月らしき数字がそれぞれに付番されている。その最初の数字が書かれたフォルダをまた開けば、中には何十枚もの写真が入っていた。
「これが最初」
 画面の中央に表示されたのは、小さな写真だった。画質が荒いうえにかなりブレていて、何が写っているかはわからない。かろうじて人を写したのだろうということがなんとなく感じ取れる程度だ。
「蒼生?」
「うん。初めて携帯買ってもらった時でさ。電話の使い方とかよりまず、写真が撮れるってことにびっくりして。じゃあとにかく最初は大事なものを撮らなくちゃって張り切った結果が、こちらの写真です」
「せっかくの蒼生の写真なのに、まったく誰だかわからないな」
「あはは。写真の撮り方もわかんなかったからなー。でも消せねえんだ。初めて撮った蒼生の写真だから」
「……わかる」
 矢印のボタンが押されると、2枚目の写真が表れる。椅子に座った幼い蒼生が、にこにことこちらを見ている写真だった。やはり、少しピントが甘い。
「あー……可愛い」
 健太が零す。隣で冬矢も深く頷いた。
 3枚目も。4枚目も。同じ格好の蒼生が、少しずつ画角を変えて写っている。ぼやけていた画像が次第にはっきりしていき、それに従って蒼生の表情が和らいでいく。ほとんど同じ写真が続いていくだけにもかかわらず、健太も冬矢も頬を緩めてずっと眺めてしまう。やがて、画面の中の蒼生が少々困った笑顔になった。
「これはねー、いつまで撮るの? ってちょっと困ったみたいに言った時の顔。すっげえ可愛かったから、ここから何枚かはこの顔です」
 言うとおり、同じような写真がまた続く。けれど、蒼生はちゃんと付き合ってくれたようだ。最後、ふわっと笑う綺麗な顔になるまで、同じポーズで座っていた。
「……優しい。可愛い。ちょっと落ち込みそうになった時とか、この写真見るんだ。そうすると頑張れんだよ」
「だろうな。辛抱強くて優しい蒼生がいつもちゃんとそばにいてくれるとわかれば、何でも出来そうな気がする」
「そう、そうなんだよな」
 次のフォルダには、今見た姿とあまり変わらない蒼生の笑顔がたくさんある。そうだろう、日付を見れば数日しか経っていない。それでも、空色のシャツで庭に立つ姿は、また違った趣があって、とても良い。
「これも、庭の木に水やってる蒼生が可愛くて思わず撮った」
「……もしかして、この頃から可愛いと思ってたのか?」
「んー」
 ぱらぱらとめくるように写真を先へ送りながら、健太は黙り込んだ。が、わずかな間を開けただけで、こっくりと頷く。
「思ってたな。うん。可愛いなーって思って、ドキドキしてた。だけど、この頃の男子って、可愛いって言われると嫌じゃん? 少なくともオレはそうだったから、蒼生には言わないようにしてたんだ。でもさあ、蒼生がオレに向かって笑ってくれると、きゅーって胸が締め付けられるほど可愛くて可愛くて。なんでこんなふうになるんだろってずっと不思議だった」
 立ったままだった冬矢は、さらに近くで見ようと隣の椅子を引いて座る。
「おまえ……それでよく蒼生のことが好きだと自覚しなかったな」
「ホントだよ。可愛い可愛いって思いながらこんな連写しまくってるの、どう考えても好きに決まってるよなあ」
 当時の健太が恋愛感情にひどく鈍感だったことに、冬矢はそっと感謝する。傍目から見ると距離感がおかしいだけの大変仲の良い2人1セットの幼馴染みという認識だったようだが、健太の中にある蒼生に対するまっすぐな愛情は既にこの時点で確立されていたのだ。
 ふと、写真がすべて蒼生ひとりだけだということに気が付く。逆はどうだったのだろう。蒼生が健太を撮った写真はないのだろうか。それを見れば当時蒼生が健太をどう思っていたか垣間見えるかもしれない。
「おまえの写真は蒼生の携帯の中か?」
「ん? この頃のだったら、ないよ。蒼生、携帯持ってなかったから」
「へえ、同じタイミングで持ったのかと思っていたが」
 健太は、口を尖らせて首を振る。
「オレは一緒に持ちたかったけど、蒼生が嫌だって言ったんだ」
「え?」
「いつでも連絡が取れるようになるのが嫌だって言ってさ。電話かけられて居場所を突き止められるのがなんとなく嫌だったみたい。外にいる時に家から電話がかかってきてほしくないんだって」
「ふうん……」
 首を捻るより早く、冬矢はまたひとつ“許し”に気が付いた。おそらく、蒼生はひとりの時間が重要なタイプだった。誰にも見つからず、誰にも気付かれず、ただひとりでひっそりとしていたかったのだろう。例外を除いては。
「でさー、じゃあ親のほうから説得してもらおうと思っておばさんに言ったらさ、蒼生にはまだ早いってこっちもこっちで拒否られて。高校生になったら考えるとか、けんもほろろってやつ? そのあともしょっちゅう説得してたんだけど、どっちも頑固でさぁ。中学入る時に、行動範囲広がるんだからなんとかお願いって頼み込んだんだ。最終的には、蒼生に携帯を持たせないならオレの部屋と直接内線繋いでくれ! って言ったらようやく親子揃って納得してくれた」
「つまり、おまえは蒼生に携帯を持たせたかったんじゃなくて、おまえが蒼生に直接連絡する手段が欲しかったのか」
「そう。急に蒼生の声聞きたくなった時に困るだろ」
 どこまでも蒼生が中心なのだな、と思う。だがきっと、それは蒼生にも良い効果があったはずだ。
「俺が蒼生とメッセージのIDを交換した時、蒼生の携帯には家族の電話番号と、おまえのIDと番号しか入っていなかった」
「……なんだよ、すぐに蒼生と連絡先交換したって自慢?」
「それもあるが」
「あるのかよ」
「俺とおまえはその頃から蒼生に特別扱いされていたんだな、ということだ。そして蒼生も、俺たちの名前を手元に見ることで、それを自覚しただろうな」
 健太はぱっと顔を輝かせ、机に置いたままの携帯を見つめた。それは最初から連絡先で溢れていた。とにかく携帯を持ったことが嬉しくて、周りで同じように持ち始めた友人と片っ端から登録し合ったからだ。蒼生はそれをしなかった。周りに所持したことを伝えたりもせず、ただ緊急連絡先として家族の番号を登録した。そして、健太とだけ番号とメッセージIDを交換したのだ。それが蒼生にとって“特別”なのだということを、健太は付き合って初めて知った。そうでない時期から自分は蒼生にとって大切だったのだと思うと、胸が熱くなる。
 その様子を横目で見て、冬矢は再びフォルダの名前に目をやった。細かく刻まれた日付は、それだけ健太が蒼生と一緒にいたことを示し、また彼がどれだけ蒼生をずっと見ていたかったかをはっきり伝えてくる。
「それにしても、すごい数だな。……付き合ってくれた蒼生に感謝しろよ」
 告げると、健太は楽しそうに胸を張った。
「もちろん、感謝してるし、見返すたびに可愛くて悶絶してる! そうだ、そのおかげで、フォルダをランダムで選ぶとその日の思い出の蒼生に再会できるっていう対自分用サプライズもできるんだぜ」
 そう言うと、画面から目をそらし、適当にフォルダを開く。ぱっと表示されたのは、屋外のベンチに座って本を読んでいる蒼生の横顔だった。背景には大きな木があって、ログハウスふうの建物が見えるから、街中ではないようだ。時折目を上げる写真もあったが、そのどれもが愁いを帯びて遠くを見つめていた。一目でいい写真だなと思えるほど、綺麗な風景だ。それは蒼生自身がとても綺麗だからだ。
「おっ。家族で高原のペンション行った時の蒼生だ。オレたちが遊びに行ってる間、蒼生がいないなーと思ったらここで本読んでて。それが綺麗だなって思ったから撮ったんだ」
「……これって盗撮じゃないのか」
「盗撮だな。けど、蒼生に許可は取ってるから大丈夫」
「は?」
「ちゃんと盗撮させてって頼んだんだよ。無断はよくないなって思ってさ。そしたら、いいけど、変な顔のは消してねって言ってくれた」
 写真の中の蒼生は、寂しげに目を落とした数枚後に、健太が向けるレンズに気が付いたらしい。はっと驚いた顔。照れたように笑う顔。次第に近付いていく撮影者に、どんどんと柔らかくなっていく表情。
 どうやら健太の言うとおりのようだ。無断で写真を撮られていたことに、蒼生はまったく咎めるような様子はない。むしろ嬉しそうに健太を見て、最後にはレンズに向かって微笑みかけている。
「だが……」
 ぽつりと冬矢が声を上げ、健太が不思議そうにそれを見た。健太はなにも疑問を感じていない。
 冬矢は、以前蒼生とふたりで卒業アルバムを眺めたことがあった。そこで、蒼生の小学校時代のアルバムに学校行事の写真を収めた数ページがあったのを思い出す。そこには、名札の色が違うことから、ほぼクラスがごちゃごちゃに入り交じっていることがわかる写真ばかりが載っていた。それを眺めてみると、別のクラスの子と仲良く写る健太の姿を容易に、しかも複数見つけることが出来た。なのに、それに比べて蒼生の姿は極端に少なかった。いたとしても、引っ張り込まれたことに困惑したような少し硬い笑顔。出来るだけ端を位置取ろうとしている姿。おそらく、蒼生は。
 ぱたぱたと足音がして、蒼生がリビングに戻ってくる。先程までの寝ぼけたようなパジャマ姿から、きりりとした普段着姿になっている。冬矢と目が合うと、蒼生は嬉しそうに笑った。
「蒼生」
「なに?」
「蒼生って、写真に写るの嫌いだよね」
 突然の質問に、蒼生はぽかんとする。
「? どうしたの、突然。嫌いだけど」
「えっ」
 がたん、と健太が大きく音をたてて立ち上がる。嫌い? 写真が?
 健太の深刻そうな顔に、さらに蒼生は首を傾げる。そしてその原因を探るべく視線を巡らせた蒼生の視界に、自分の昔の写真が表示されているパソコンの画面が飛び込んできた。そこで、ふたりの言動の意味に気が付く。
「あっ。ち、違うよ? あくまでも、自分の姿を残したくないのと、他の人と写るのが嫌いなだけで、健ちゃんと冬矢と一緒ならいいんだよ? ちょっと、自分でもよくわかんなくて説明が難しいんだけど」
 おそるおそる、健太が手を伸ばす。蒼生はその手を取ってぎゅっと握った。
「オレ、無理させてた?」
「だから、違うよ、無理なんてしてない。昔言ったでしょ、健ちゃんが撮ってくれるのは嬉しいよって。他の人の記憶には残りたくないけど、ふたりの中にはずっといたい」
 冬矢も立ち上がり、蒼生の肩にそっと額を寄せた。
「……それが本音なら、よかった」
「もちろん、紛れもない本音だよ。健ちゃんと冬矢とはいっぱい思い出作りたいし、写真も残したい。まだ、全然足りない。もっともっと、増やしていきたいんだ」
 健太と冬矢は、ほっとして両側から蒼生に抱きついた。ふたりが安心した気配を察知して、蒼生もほおっと息を吐く。
 蒼生が、ぱっと顔を上げ「あ」と声を上げた。
「でも、……その、僕ひとりだけの写真は、あんまり、その……恥ずかしいから……一緒に写ってるの見ようよ」
「こんなに可愛いのに?」
「ふたりにとってはそうかもしれないけど、自分の顔って恥ずかしいんだもん」
 わずかに頬を膨らませて、蒼生はふたりを見上げる。なるほど、写真も大変に可愛らしいが、やはり直に見る姿が一番愛らしい。
「じゃあ、朝ご飯のあとは鑑賞会といこうか」
「あ、僕、高2の旅行の写真見たい」
「よし、見ようぜ。とにかく、先に食事の準備だな!」
 3人は顔を見合わせて笑う。健太は、パソコンの画面をぱたんと閉じた。


 長い講義を終えて、健太はぐーっと背を伸ばす。
「ねー、今のやつわかった?」
「最後のとこが全然」
「うげえ、これ、年明けにレポート提出あるんだよね。出来るかなあ」
 周囲を囲んだ友人たちがそんなやりとりをしている。たしかに急に話が複雑になってきた感じがする。自分も大丈夫だろうかと教科書の該当箇所に目を落とした途端、鞄のポケットで携帯が唸った。なんだろうと取り出すと、メッセージが届いたようだ。差出人は、“花井タクト”とある。
「……タクト?」
 周りの友人たちがふと健太を見る。
「誰? 知らない名前~」
「あ、中学まで一緒だった奴。同じサッカー部だったんだ」
「そういえば昔サッカーやってたんだっけ」
「私ソフトボール部だったよ」
「意外~」
 そこから周囲は中学時代の部活の話で盛り上がり始めたので、とりあえず健太は花井からのメッセージを確認することにした。
 メッセージの冒頭は、同じくサッカー部で一緒だった辻と街中でばったり会った話が事細かに書かれていた。ふたりとも地元から離れていないので不思議ではないのだが、なんと持っていた鞄がまる被りだったらしい。さらにファストフード店で盛り上がった帰り道にお互いの鞄が入れ替わって大騒ぎだったことが長々と書かれていた。そのあと、「ところで」と書いてあるところからが本題のようだ。曰く、成人式の後で中学の同窓会が開かれる予定らしく、案内状が届いたのだという。せっかくだからそのあと飲みに行かないか、という誘いだった。
 それを見て、ようやく健太はその行事の存在に気が付いた。二十歳を迎える年の1月とは、そうか、来年のことか。しかし、当然のことながら初めてのことなのでよくわからない。花井のメッセージを読む限りでは、同窓会は地元で開催されるようだ。健太の元には案内状は届いていないが、中学の連絡先をもとに送られているのなら、今頃実家に届いているのだろう。ということは、成人式とは育った地で出席するものなのだろうか。
「なあ、成人式ってどこで出んの? 育ったとこ? 住んでるとこ?」
 健太が聞くと、周囲の友人らは一斉に首を捻った。
「成人式? ……さあ……。俺は実家暮らしだから」
「私も。だから普通に地元で出るもんだと思ってたけど……。そういえばどうするもんなのかな」
 見渡せば、たしかにちょうどこっちが地元の人間ばかりのようだ。仕方がない、後で調べてみよう、と健太は席を立つ。
「よくわかんないよな。ん、ありがと。したら帰るか」
「おお。だな」
 それを皮切りに、全員が席を立つ。話題はそこで変わるかと思ったが、女子2人は話したりなかったらしい。
「前撮りってもうやった?」
「うん、お盆にお父さんが単身赴任先から帰って来たから、その時にね~。私より両親が盛り上がっちゃって」
「だよね、うちもそうだった! えー、着物どんなの?」
「黄色のね、可愛いやつだよ。でも夏に外で撮るからめっちゃ暑くって」
「写真見せて~!」
「いいよ!」
 健太はそれをなんとなく聞いていた。晴れ着を着る女子らは、ずいぶんと早めに記念写真を撮るらしい。なるほど、親元で暮らしていればそういう話題も早々に出るのだろう。そういえば受験生だったのであまり関わらなかったが、姉の成人式も早めの準備やら写真やらで大騒ぎだったような記憶がわずかにある。受験直前のかなりシビアな時期にもかかわらず、寺田・野木沢両家で食事会もやった。では男子組はどうだったろうと思い返してみたが、あれだけ親しかった蒼生の兄2人の成人式の様子を覚えていない。別日だったにも関わらず姉が晴れ着で食事会に出たことを考えると、姉はあれを見せたかっただけで、普通は当人が成人式に出るだけなのかもしれない。
 一緒に教室を出たものの、行く先が違う友人たちとはぱらぱらと別れていき、電車に乗る頃にはひとりになった。夕方のホームは学生だけでなく、仕事帰りの人々の姿がある。そのほとんどが手にした携帯に目を落とし、次の電車を待っていた。その中に、目を上げて何かを見ている、よく見知った顔を見つけた。
「冬矢」
 声をかけると、一度こちらを見るが、すぐに視線が正面に戻る。健太は近くまで寄ると、その視線の先を辿った。そこには大きな看板があり、まもなく始まる予定のライトアップの広告が掲示されていた。
「へーえ。蒼生喜びそうじゃん」
「混むだろうけどな」
「これって道路1本まるまる使うんだろ? 全員が端から端まで歩くわけじゃないだろうし、下を少し通るくらいなら大丈夫じゃね?」
「そうか……。うん」
 健太はじっと広告を見つめたままの冬矢を微笑ましく見る。ずいぶん真剣な表情に見えたが、その頭の中は蒼生を喜ばせることでいっぱいだったのか。改めて健太も同じ看板を見る。ビルの間を走る道路と黒く塗りつぶされた空、その下に広がる白い光。蒼生は綺麗な景色が好きだから、きっと見に行きたいと思うだろう。きっと笑顔を見せてくれるだろう。そう考えてしまうと、一刻も早く蒼生に会いたくなる。すぐに顔が見たい。
 同じことを考えていたのか、最寄り駅についてからのふたりの歩行速度は、いつもより幾分か早かった。そもそも蒼生を家にひとりにしておくこと自体が心苦しくてならないのだ。日の落ちた道を急いで辿れば、見上げる角度に部屋の電気が灯っているのが見えた。ほっとして階段を上り、鍵を開けてドアを開けることももどかしい。がちゃんばたばたと大きな音をさせながらリビングに繋がるドアを開けると、つんとした香りがふわりと包み込んでくる。その向こう、キッチンでは、エプロン姿の蒼生がにこにこと笑っていた。
「おかえりなさい。ふたり一緒だったんだね。そんなに急いでどうしたの?」
 はああ、とふたり同時に息を吐く。きらきらと輝いて見える笑顔も、美味しそうな香りも、暖かな空気も、思い描く理想そのものだ。いや、それ以上かもしれない。
 ふたりは荷物を置くのもそこそこにキッチンに入ると、左右から蒼生に寄り添った。蒼生は食事の支度をしているのだ、抱き締めるのは我慢する。
「ただいま。早く蒼生に会いたくて急いで帰って来た……」
「そうなの?」
「俺もだよ。ただいま、蒼生。いい香りだね」
「あ、今ね、ハンバーグ煮込み始めたところ。もうちょっとでできるから、待ってて」
 そう言って、蒼生はタイマーのボタンを押した。鍋を覗き込んだ健太がゴクリと喉を鳴らす。
「すげえ。ハンバーグって煮込むの?」
「えっと、時間なかったから、買い置きの冷凍のやつにして……。それだけだと寂しいなって思ってトマト缶で煮てるだけだから」
「えー……蒼生、めちゃくちゃ好き……」
「へっ?」
 蒼生も今日が休みだったわけではない。健太と冬矢より1つ授業が少なかっただけだ。しかも、蒼生の学部は学内でも奥のほうで、駅に向かうにしてもふたりより時間がかかる。そんな中で、ふたりのことを思って食事の準備をしてくれているのだと思うと、愛おしくてたまらない。
「可愛い可愛い、俺の蒼生。着替えたら手伝うからね」
「ひぇっ……お、おねがいします……?」
 突然ふたりがスイッチを入れて愛を囁いてくることは珍しいことではない。が、今は何かきっかけがあっただろうか。自分たちの間で首を傾げながら緩みそうな頬を両手で押さえる蒼生を、ますます抱き締めたい衝動に駆られながら、ふたりはいったんキッチンを離れた。
 先に戻ったのは冬矢だ。健太は先程まで一緒だった友人から明日の講義についての持ち物の問い合わせがあり、その確認をしていたためわずかに遅れてしまった。蒼生の隣をキープしてブロッコリーを切り分けている冬矢に恨みがましい目を向けると、それでも蒼生の役に立ちたい健太は、おそらく使うであろう食器を先に出しておくことにした。
 取り皿を机に並べながら、ふと思い立つ。さっきは何の情報も得られなかったが、このふたりに聞けば何かわかるのではないか。
「なあ、成人式ってさ、住んでる地域のやつに出るの? 育ったとこで出るもん?」
 ふたりは、意外なことを聞かれたような顔で健太を見る。口を開いたのは冬矢だ。
「基本的には住民票がある自治体から案内状が届くはずだ。ただ育った地域で参加したいと思う人もいるだろうから、そのための制度もあるらしい」
「へー。オレたちのいたとこってどうなんだろ」
「調べていないからわからないが……。事前に申請すれば出られるところや、直接会場に行ってもいいところもあるのだそうだ」
「じゃあ、その申請ってやつをすればいいのかな」
 花井の連絡では、ずっと一緒に成人式から飲みまで行こうというニュアンスだった。つまり、地元にもそういった制度があるのだろう。
「急にどうしたんだ?」
「あー、タクトから連絡来たんだよ。地元で成人式出て、そのあと中学の同窓会あって、それから飲みに行こうぜって。あ、そう、オレら全員家出ちゃってるから、同窓会の連絡届いてないっぽいんだけどさ」
 実家に届いているのなら、そのうち転送されてくるか、連絡が来るはずだ。健太はそわそわしながらポケットの携帯を一度確認する。新しい連絡はまだ入っていない。誰が郵便物を受け取ったかわからないが、母はのんびりしているし、姉妹は健太へ連絡を転送するのは面倒がって後回しにしそうだ。これは花井に問い合わせたほうが早いかもしれない。わくわくした顔で、健太は蒼生を見た。
「な、蒼生も一緒に帰るよな」
 花井たちも蒼生とは友人同士だった。きっと会いたいと思っているに違いない。
 けれど、蒼生は静かな表情で首を振った。
「帰らないよ。こっちでも出るつもりないし」
「……えっ!? なんで!?」
 ぎょっとして健太はカウンターに身を乗り出す。蒼生から出てきた言葉が、まったく思いもよらないものだったからだ。当然一緒に行くのだと考えていた健太は、殴られたようなショックを受ける。対する蒼生は不思議そうに健太を見つめ返す。
「なんでって……。来賓の挨拶の中身って大体想像つくから。わざわざそれ聞くためにきちんとした格好して出かけなきゃいけないのって面倒だと思うんだよね」
「だけど」
「それに、ああいうのって、昔の友達に会うためにみんな出席するんでしょ。僕は別に誰かに会いたいとは思わないし、今の僕を知られるのも嫌だし。そもそも僕に会いたいなんて奇特な人はいないからね。でも、健ちゃんは行ってきなよ。健ちゃん人気者だったから、みんな喜ぶと思うよ」
 健太は言葉を失う。すらすらと語る口調は、それが蒼生の包み隠さない本音だと教えてくれているからだ。
 そもそも、蒼生は自分への興味が薄い。誕生日にすら興味がないので、成人だからどうという感慨はなかった。ハタチになったことも「健太と冬矢と」だから嬉しいし、互いに祝いもするのだが、自治体という第三者から祝われることについてはまったく関心がない。そのうえ、蒼生には既に式を終えている2人の兄がいる。すぐ上の緑は「友人との飲み会は楽しかったけど、成人式自体はものすごく退屈で眠たいだけだった」とさんざん文句を言っていたし、さらに上の兄である紅輝に至っては、式に出る前に落ち合った友人らとそのまま夜通し遊んでいたそうだ。そんな2人に対し、両親も何も言わなかった。だから、蒼生にとっては、成人式とはただの自治体の行事でしかないのだ。
 ぎゅっと健太が拳を握る。そうして、カウンターから体を離すと、大股でキッチンに回り込み、蒼生の前に立った。
「……やだ。じゃあ、オレ、こっちの成人式に出る」
 蒼生は戸惑い、子供の頃のように泣きそうな顔をする健太を見上げる。
「どうして?」
「やだ! 蒼生と一緒に出る!」
「健ちゃん」
 思わず蒼生が伸ばした手を、健太がおずおずと掴む。
「別に、昔の友達に会いたいんじゃないよ。偉い人の話聞きに行きたいわけでもない。生まれた時から一緒にいる蒼生と、一緒に大人になったのを祝いたいんだ。ずっと一緒にいられたお祝いなんだよ。だから、お願い! オレと一緒に出席してください!」
 健太は蒼生の手を握ったまま、がばっと頭を下げる。
 今度は、蒼生が言葉を失う番だった。涙が出そうになるのをなんとか堪える。そんなふうに考えたことはなかったから驚いたということも大きかったが、何より、健太が自分と共に過ごした時間をそこまで重要だと想ってくれていることが素直に嬉しかった。健太の言葉を聞いてしまうと、自分の考えが恥ずかしく思えてくる。そうだ、健太にとってはただの20年ではない。蒼生と過ごした大切な年月なのだ。
 繋がれた手を、蒼生はぐっと引っ張る。そして、珍しくよろけた健太の胸にそのまま飛び込んだ。
「……蒼生」
「うん。そうだね。ごめん。……一緒に出ようね」
「……ん。ありがとう」
 蒼生は、埋めていた顔を上げ、健太に向けてふんわりと笑った。
 ぎゅうっと胸が潰れるような思いでそれを受け止めた健太は、何の陰もない柔らかな笑顔の恋人に心底ほっとする。健太の言い分は、はっきり言ってわがままだった。蒼生がどう思っていようとそれを強制されるべきではないとわかっていたからだ。けれど、蒼生は健太の話をちゃんと聞いてくれた。そしてその上で納得してくれた。
「うー……好き」
「僕だって」
 蒼生も暖かい気持ちでいっぱいだった。健太のまっすぐさに触れていると、自分のひねくれた考えも引っ張られてまっすぐになってしまう。それは蒼生にとって、これまでどれだけ救いになってきたことか。
 ふたりがお互いの暖かさを再確認していると、水を差すようにピピピッと電子音が鳴った。はっとして、健太がキッチンタイマーのボタンを押す。
「あ、で、できたみたい」
「そ、そうだな、あ、こっちの皿出してねえや、大きい皿いるよな?」
「うん、お願いします」
 慌ててぎくしゃく動き出すふたりに、ふっと冬矢が笑う。そういえばこいついたんだったな、と涙目で蒼生に縋り付いた自分の姿を見られていたことに気付いた健太は、照れ隠しに冬矢を横目で睨む。
「んで、ずーっと黙ってたおまえはどうすんだよ」
 冬矢はブロッコリーにドレッシングを絡めながら小さく笑った。
「俺も出る気はなかったんだけどな。蒼生が出るならやぶさかではない」
 まったく、素直ではない。はっきり蒼生と一緒にいたいと言えばいいのに。そう心の中で毒づいた健太は、ふと先程の女子たちの会話を思い出した。
「そうだ。なあ、写真撮ろ! ちゃんと写真屋行ってさ!」
 腕の中で蒼生がぱちぱちと目を瞬かせる。
「写真? ああいうのやるのって女の子だけじゃないの?」
「まー、たしかにオレらの身内じゃ姉ちゃんしか撮ってないもんな。でも、いいんじゃね? 記念に撮ろうぜ」
「うーん。でも写真屋さんに撮ってもらうのって結構かかるんじゃないのかな……」
 どうやら蒼生にはハードルが高いようだ。写真が嫌いだとふたりにはっきりバレたので、遠慮なく抵抗を示しているらしい。それも可愛いが、きちんとした蒼生を写真に残したい。ここはふたりがかりで落としにかかるのがよさそうだ。
「だって、一生に一度のハタチの記念だからさ、な、冬矢!」
 健太がわざとらしく強調して名前を呼んだ意図は伝わったらしい。冬矢はにっこり蒼生に笑いかける。
「そうだね。誰に見せるわけでもないからそれを見るのは俺たちだけだけど、思い出の1枚に加えるのはいいんじゃないかな」
 しかし、蒼生のイメージする写真屋の記念写真とは、健太の姉の優美が写ったひとかかえもあるような大きなアルバムだ。あんな大きな自分の写真など、考えるだけでぞっとする。
「写真屋さんのって、ゆみちゃんの時みたいな、大きい写真になるんでしょ」
「仕上がりは選べるから、大きなアルバムを作る必要はないんだ。普通の写真のサイズでいいんだよ」
「……そうなの?」
「それに、俺と健太のきちんとした写真、蒼生も見たいだろう?」
「そ、それは……っ」
「あ、なあ、そしたら3人で撮ってもらおうぜ! 並んでさ、一緒に」
「……一緒?」
 蒼生がぽかんとするので、ふたりで頷いてみせる。すると、少し考えてから、ようやく蒼生は頷いてくれた。
「うん。それなら、撮る」
「! じゃ、写真屋探そ!」
「なるべく落ち着いて撮りたいから、個人でやっているところがよさそうだな」
「商店街のおばちゃんに聞いてみるか。パンフもあるといいよな」
 早速頭の上で話し合いを始めるふたりを、蒼生は交互に眺める。
「……まずはごはんにしない? とりあえず、いったん離していただけると……」
 そこで、健太は蒼生をずっと抱き締めたままだったことをようやく思い出したのだった。


 蒼生が頷いたのならば話は早い。
 翌日、冬矢はどこから取り寄せたのか、成人式用前撮り写真のパンフレットを数冊持って来た。
「女性用が多いようだけれど、ほら。ちゃんと男性のもあるだろう?」
「本当だ。スーツでいいんだ。袴の人もいるけど……レンタルでもかなりするんだねえ」
「…………。そうだね、蒼生は似合うと思うし、袴姿も綺麗なんだろうな。ただ、3人で、となると、だいぶ仰々しい感じがするかもしれないね」
「うん、だよね。ちょっと恥ずかしい」
「コスプレ感出ちゃう気がするもんなー。そういうのさ、どっか遊びに行った時に遊びで着ようぜ! それに、オレも動きづらいからスーツがいい!」
「遊び? うん、それ楽しそう」
「決まりだな。じゃあスーツにしよう」
 そしてその翌日には、健太が写真屋を決めてきた。
「お惣菜屋のおばちゃんが紹介してくれた! お孫さんの成人式の写真撮ったとこで、腕のいいおじさんがいるよって。夫婦だけでこぢんまりとやってるって言ってたよ」
「それなら人目を気にする必要もなさそうだね」
「今の時期って予約取れるのかな?」
「それも大丈夫そう。最近はチェーン店で撮る人が多いから、そんなに混雑しないんだって。ゆったり撮っても大丈夫だってさ。おじさんいい人だったし、スタジオも綺麗だったよ」
「……おまえ、もう行ってきたのか」
「行動力すご……」
 というわけで、トントン拍子に3人の成人式記念写真撮影の日程は決まった。
 当日は、ひんやりとした空気が気持ちのいい、よく晴れた日だった。それぞれ誂えたばかりのスーツに身を包み、髪型まできちんと整えた3人は、商店街からわずかに離れた位置にある写真館の前に立つ。蒼生はレトロな建物に掲げられた銀色の看板と、小さなショーウィンドウに並べられたたくさんの記念写真を見て息を呑んだ。
「き、緊張してきた」
「ふふ。大丈夫。俺たちがいるからね」
「……うん」
 言葉では頷くものの、体をぎゅっと強張らせている蒼生の肩をぽんと叩き、健太は短い階段の奥にある木製のドアを元気よく開けた。
「おはようございまーす!」
 勢いよく飛び込む健太に、蒼生はおろおろと冬矢を見る。冬矢も笑って、蒼生の背中を優しく押した。それでようやく決心がついたのか、なんとか一歩を踏み入れる。
 ふわ、と温かい空気に包まれる。建物自体は年代を感じさせるたたずまいだったが、ドアの中は壁紙の白が目に眩しいこざっぱりとした空間だった。壁には記念写真だけではなく、たくさんの風景写真が飾られている。カメラや写真立てなどの商品を収めた白い棚があり、白いソファにシンプルなテーブルが一組あるほかは、どこででも見るようなカウンターがひとつあるだけだ。そのカウンターの中で作業をしていた丸眼鏡の男性が、健太の声にひょいと顔を上げた。
「おー、寺田くん。いらっしゃい」
 年の頃は、父親よりひとまわり上だろうか。にかっと笑った顔が、人の好さを表している。
「おはようございます」
「今日はよろしくお願いします」
 冬矢と蒼生が頭を下げると、彼は目を見開いてふたりを見る。それから元通りの笑顔に戻った。
「なるほど、なるほど。今日は久し振りに腕が鳴るなあ」
 そして、紺色のカーテンの裏に向かって「おーい」と声をかけた。すぐさま「はーい」と澄んだ声がして、中から女性が出てきた。よく見れば男性とは同年代のようだが、ずいぶん若く見える。目鼻立ちがはっきりしていてきらびやかな、絵に描いたような美人だ。
「改めて、僕がカメラマンの柚木です。柚子の木って書いてユノキと読みます。そしてこっちがアシスタントで妻のマキエ」
「気軽にマキちゃんって呼んでくださいね!」
 不思議なオーラがある女性だ。それに蒼生と冬矢は少々気圧されていたようだが、まったく動じない健太がにこにこと自己紹介をしたので、それに続く。夫妻はそれを嬉しそうに聞いていた。
「いやー、成人式の写真ってほとんどが女性でね。男の子の写真撮ることって少ないんだ。だから今日、おじさん張り切ってるんだよ。じゃあ早速打合せから始めようか」
 2人は蒼生たちをソファに座らせると、湯気の立つ茶碗を3つと何冊かのアルバムをテーブルの上に広げた。その薄く大きなアルバムを目にして、ふたりの間ですっと背筋を伸ばす蒼生に冬矢が小さく笑う。
 柚木は女性の肩幅ほどの台紙を手に取り、ぱたぱたと開いた。中央と左右と1枚ずつ、大きな3枚の写真が並んでいる。
「一般的な仕上がりだと、これが人気かな。こんなふうに、アップと全身とバックスタイルと。家族写真を加える人もいるよ。えーと、前もって寺田くんから聞いてる話では、それぞれの記念写真と、3人で一緒の写真を撮りたいってことだったね。ちなみに昔はついでにお見合い写真にもしたものだけど、今の人たちには」
「そうですね。その用途はないです。あくまで自分たちの記念なので、小さなアルバムにとどめたいと考えています。3人まとめて1冊で」
「うん、わかりました」
 お見合い、という単語に蒼生が反応する前に、きっぱりと冬矢が否定する。蒼生がほっとその横顔を眺めていると、反対側で健太が身を乗り出した。
「でもせっかくなんで、一緒の写真とそれぞれのソロ数枚で、そんな大きくないサイズにまとめたりとかできますか?」
「もちろん。A4とかB5くらいかな。だとすればこういう台紙があるよ」
「できればある程度大きさ欲しいんだけど……。やだ?」
 健太がぱっと蒼生を見る。蒼生は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐにその視線をテーブルの上に落とす。健太の言うサイズでは、だいぶ自分の粗が目立つだろう。本来ならばすぐに否定したいところだ。が、実際目にしてみると、思っていたよりは小ぶりだ。それに、よく考えてみれば、蒼生の写真を見るのは健太と冬矢だけなのだから、普段から散々至近距離で見つめられていることを考えると大した問題ではないのかもしれない。だとすれば、健太がそれを欲しがる気持ちを無碍にはしたくない。
「ううん。健ちゃんに任せる」
「ん、ありがと。じゃあ、この台紙とー、冬矢が言ってたこのアルバムで作ってもらおうよ」
「そうだね」
「うん」
 柚木は3人の話し合いを頷きながら聞いている。そして、テーブルの下からソフトケースに入った料金表を取り出した。
「少し料金はかかるけど、撮った写真を全部データにしてお渡しすることもでき……」
「お願いします」
 ぴったりと健太と冬矢の声が揃った。蒼生がぎょっと身を固めるが、ふたりの眼差しは真剣だ。マキエがそれを眺めて楽しそうに笑った。
「そしたら、撮影に移りましょうねえ。もちろん撮影中もご自身のカメラや携帯での撮影は問題ないから、たくさん撮ってくださいな」
 そう言うと、ひらっと立ち上がり、奥のカーテンをさあっと開いた。
 導かれるままに進んだカーテンの向こうは、爽やかなグリーンのスクリーンが下りたスタジオになっていた。見渡せば、天井や壁際には様々な種類の照明が設置され、使用用途がわからない黒い機材が積まれたラックが端に寄せられている。その中に、カメラが据えられた大きな三脚が3人を待ち構えていた。
「まずは誰かな」
「ん、じゃオレお願いします!」
 健太が手を挙げる。一番手だと蒼生が緊張するだろうから、物怖じしない健太を先にして雰囲気に慣れてもらおうと健太と冬矢が相談して決めたことだった。健太は持っていた鞄をごそごそと探ると、一眼レフのずしりと重いカメラを蒼生に手渡した。
「えっ? ぼ、僕が?」
「そ。自分の写真が欲しいわけじゃないけどさ、蒼生に撮ってもらいたいんだ」
「けど、ちゃんと上手に撮れるかな……」
「大丈夫だよー。何もしなくてもいいように設定してあるから。上手じゃなくてもいいんだ、蒼生が撮ったオレの写真だーって後でにやにやしたいだけだよ」
 蒼生は少し困ったようにカメラを撫でる。健太の言葉に裏がないことはわかっているが、だからこそプレッシャーに感じてしまう。健太はそっと蒼生の耳元に顔を近付けた。
「蒼生が好きだなって思う表情があったら、撮って」
「ひぇ」
 目を見開く蒼生の背中を軽く叩き、健太はスクリーンの中央に歩いて行く。蒼生はその背中を呆然と見送った。好きと思う表情、と口の中で復唱する。
 隣で聞いていた冬矢はなるほどと頷く。蒼生の好きな自分を、蒼生自身に切り取ってもらうというのはなかなかいい提案だ。
「お願いしまーす!」
「こちらこそ、お願いします! じゃあまずは、普通にまっすぐこっち見てみようか。ちょっと背筋伸ばして。もう少し右。次に、腕を少し上げてみて。うん、顔の角度だけこっちにね」
「はーい」
 柚木の流れるような指示に、健太はまったく迷わずついていく。冬矢はそれに感心する。言葉通りに体を動かせるというのは、運動神経のなせる業なのだろうか。本人の性質がとても素直だからかもしれない。撮影される側にも上手下手があるようだ。
 蒼生のほうは、それどころではない。ファインダー越しに見る健太の表情は、笑ったりすうっと真面目な顔になったり、くるくる変わる。次の瞬間には違う顔をしているから、どこに照準を合わせていいのかがわからないのだ。アップにしていいのか、引いたほうがいいのかの判断も難しい。とにかく、好き、と思うタイミングでシャッターを切った。ボタンを押す数が「好き」の数だと思うと、きゅっと胸が締め付けられる。ただ、ひとつ不満はあったが。
「よーし、OK。そしたら野木沢くんと交替で!」
「っ、はい!」
 ぴんっと蒼生が姿勢を正す。戻って来た健太にカメラをバトンのように渡しながら、息を吐いてスタジオの奥に向かう。
 一瞬蒼生の指に触れた健太は目を細める。その指先は、ひんやり冷たかった。緊張しているんだな、と思う。実際、振り向いてカメラに向かった蒼生はとても綺麗な笑顔をしていた。きりっとして涼しげで美しく、優しく穏やかな笑顔だ。完全に余所行きの顔をしていることを確認して、ふたりはちらりと視線を交わす。
「うん、いいね。もう少し右足下げられる?」
「はい」
 しばらくそれを眺めていた健太は、頃合いを見計らって一歩下がる。そして端に置いてあった椅子の背に上着を脱いでかけたかと思うと、改めてカメラを構え、床に片膝をついた。いくら集中していても、カメラ脇で健太が大きく動けば蒼生も当然気が付く。それを目にした蒼生が「あれ」という顔をするが、構わず健太はファインダーを覗き込む。気付けば、メインのカメラの音よりも激しいシャッター音がそこから響いてくる。その激しい音に、冬矢が笑う。
「健太、今どれくらい撮ってる?」
「さあ? 300枚くらい?」
「さっ……?」
 蒼生はきょとんとして、それから、くすっと笑った。
「!」
 はっと息を飲んだのは柚木だ。思わず黙ってシャッターを切る。
「ふふ。ねえ、健ちゃん、ちょっと計算おかしくない? そんなに時間経ってないと思うけど」
「そうかぁ? まだ足りねえよ」
 どんどん体勢が低くなり、床の高さに近付いていくカメラに、蒼生は緩んでしまいそうな頬を必死で堪える。だが健太はますます楽しげに角度を変えていく。
 何かを察したのだろうか、柚木が冬矢に向かって手招きをする。
「笹原くん。このモニター、見てくれるかい」
 示されたのは、カメラの脇に取り付けられている小さなモニターだ。近付いた冬矢が覗き込むと、それはカメラと連動しているらしく、少し大きめに蒼生の姿が映っていた。
「これね、細かい表情を確認するためについてるんだ。どうかな、気になるところはないかな?」
「そうですね。……ああ、少しネクタイがきつめに見えるような気がします。襟の角度かな」
「マキちゃん、よろしく」
「はいはーい」
 マキエがぱっと蒼生の側に走り寄り、襟を少し整える。それから袖をぴっと引っ張り、上着の裾を綺麗に整える。
「どうでしょ」
「うん。笹原くん、どうかな」
「いいと思います。蒼生、ちょっとレンズを見て。……ああ、うん。目が合っているみたいだ」
 冬矢はモニターを見ながら満足げに頷く。
 目? それを聞いた蒼生は、そうか、と息を吐いた。小さい頃から、レンズの中に見える四角が、なんとなく無機質で怖い感じがしていた。が、あれは今、冬矢の目なのだ。あれを見ると、冬矢と見つめ合える。そう思うと、急に息がとても楽になった気がした。
「うん! いいね、野木沢くん、上手だよ! そう、ちょっと首傾げて。少し寺田くんのほうに体向けて、顔だけこっち。今度は手をもう少し柔らかく、おー、いい感じだ」
 柚木の弾む声。それに応えるたびに、健太が嬉しそうにシャッターを切り、冬矢が温かい眼差しでモニターに向かって頷く。ふたりが見ている。それを意識すると、この空間がとても幸せなものに思えてくる。
 はあっと柚木が大きく息を吐く。
「いやー、楽しい! 野木沢くんありがとう。よし、笹原くん行こうか!」
「はい」
 蒼生もほっと胸を撫で下ろす。ふたりがいるので大丈夫ではあるのだが、注目されるのはやはり恥ずかしい。速足でカメラの後ろに戻った蒼生に、健太が笑顔でカメラを渡す。
「よろしく」
「え、健ちゃんのが上手なのに」
「冬矢がオレに撮られたいわけないだろーに」
「……そっか」
 再び持たされたカメラを手に振り向くと、冬矢が嬉しそうに笑う。どうやら健太の言うとおりらしい。冬矢も、蒼生に好きな表情を切り取ってほしいと考えているのか。
 しかし、冬矢の撮影が始まると、そんなことを考えている余裕は全くなくなった。冬矢はどうやら蒼生が自分の写真を撮るということで、きっかりスイッチを入れたようだ。それでなくとも華やかな外見が、ぴしりとポーズをとっていることでさらに磨きがかかって見える。
 蒼生は何度もぎゅっと目を閉じては開くことを繰り返した。なにせ、健太も冬矢も眩しすぎる。それはスタジオのライトのせいだけではないと思う。
 そうして3人がどんどん乗ってきていることで、柚木のテンションも上がっていっているようだ。
「あー、もう、なんでこれで素人かなあ! 寺田くん、野木沢くん、入って! 3人で撮るよ!」
「はい」
「はーい」
 最早はしゃいでいるといってもいいくらいのテンションで撮影枚数を増やしていく柚木に、蒼生は次第に緊張がほぐれてくるのを感じていた。
 それに、健太と共に向かう場所には冬矢が笑って待っている。嬉しさでいっぱいになった蒼生は、ふわりと笑う。
「ふふふ。あなた、撮りすぎじゃない?」
「こんな素晴らしい被写体を前に止まっていられるか! マキちゃん、この前使った造花あったよね、あれ持って来てくれる!?」
「あれね。了解」
「さあ、盛り上がって来たぞ!」
 腕を大きく回す柚木に、3人は思わず噴き出した。


 後日、写真が出来上がったと連絡を受け、3人は再び写真館を訪れた。柚木は出来上がったアルバムを丁寧に袋に詰め込みながら、まだ興奮冷めやらぬ様子だった。
「本当にねー、楽しかったよ。もう、3人とも表情もポーズもすごく上手だったからね。久し振りにめちゃくちゃいい仕事が出来たよ! もしよかったら、僕の仕事の成果として3人の写真を店頭に飾ってもいいかな」
 思ってもみない提案に、3人は驚いて目を瞠る。ショーウィンドウに並ぶ写真はどれも小さく、ただのサンプル程度で、人の目に留まるほどのものでもない。だが、蒼生が誰かに注目されてしまうのは望むところではないのだ。それを警戒して、冬矢だけでなく健太も口ごもった。そんなふたりをよそに、蒼生は少し悩んでからこくんと頷く。
「あの……小さいサイズなら」
 ふたりは驚く。後で聞いたのだが、蒼生はふたりと並んで撮れた写真をとても誇らしく思っていた。だから、自分の左右にいる素晴らしいふたりを見てほしいという気持ちがあったのだそうだ。
「本当かい!? ありがとう! それで、もうひとつお願いがあるんだ。もしよかったら、暇な時にまた付き合ってくれないかな。実はね、趣味で風景写真をよく撮るんだけど、人物写真も久々に撮ってみたくてさ!」
「え、まあ……遊びくらいでなら、なあ?」
「うん」
 3人が頷くと、ますます柚木は嬉しそうだ。横で聞いていたマキエがくすくすと笑う。
「実はね、この人、昔プロのカメラマンで、アイドルのブロマイドとか雑誌の写真とか撮ってたのよ」
「えっ?」
「きっとその頃の血が騒ぐんでしょうね。たまにでいいから、ちょっと付き合ってあげてね。ちなみに、私も当時の被写体だったの」
「えっ!?」
 2人は「ね」と顔を合わせて笑う。耳慣れない言葉に驚く3人だが、華々しい雰囲気はそのせいだったのかと納得する。
「なるほど、アイドルの方だったんですね。道理でオーラがすごいと思ってました」
「あら、本当? まだ私も捨てたもんじゃないわね!」
 マキエは声を上げて笑った。

 不思議な人脈が出来たものだと少々妙な気分になりながら、3人は家に帰った。そして、急いで手を洗って、ローテーブルの前に全員で正座をする。
 まずは、少し大きなノートくらいの大きさの台紙を丁寧に取り出す。折りたたまれた形になっているのを左右に広げると、そこはまだ綺麗なモスグリーンの台紙だ。ただ、右のページの下には金文字で撮影日が印字されていて、とても上品な雰囲気になっていた。それをさらに左右に開けば、ローテーブルいっぱいに4ページが広がる。
「うわ」
「わぁ」
「へえ」
 3人はそれぞれ感嘆の声をあげた。
 左から、冬矢、蒼生、健太の順にアップと引きの写真が2枚ずつ並び、一番右のページには3人で撮った写真が大きく1枚飾られている。写真館でも仕上がりの確認のためちらりと見せてもらったが、ゆっくり眺めると細かい部分や表情が良く見える。
「……いやー、載せる写真、柚木さんに選んでもらったの正解だったかもな。プロってすっげぇ。きりっとしためっちゃくちゃ美人の蒼生と、ふんわりした可愛い蒼生が両方見られる!」
「どちらの蒼生もすごくいいな。うん。素敵だ。もとの素材が良すぎるんだろうね。可愛い……。いや可愛すぎないか?」
「だよな、やべぇ。世界で一番可愛い」
「世界どころじゃないだろう」
「たしかに! な! ……蒼生?」
 自分を挟んで繰り広げられるやたらとスケールの大きな会話に、普段なら過剰に反応するはずの蒼生が、はあ、という吐息だけで返してきた。おや、と思う。覗き込んでみると、蒼生はほんのり頬を染めて、目線を左右に動かしている。その目はわずかに潤んでいるようだ。
「蒼生? どした?」
「……こういう、写真って、攻撃力強いんだね……」
「ん?」
「ふたりとも、もともとすっごくかっこいいのに、これでもかってくらい迫力がある……。見慣れたかなって思ってたけど、新鮮にかっこよくてびっくりする。改めてこんなイケメンが僕の彼氏なんだと思うとドキドキしすぎて心臓が痛い……」
 その言葉に、健太と冬矢は固まってしまう。そんなことを考えて赤くなるなんて。
「本当に蒼生は可愛いな……。どうにかなってしまいそうだ」
「え?」
 きょとんと見つめてくる瞳に、冬矢は本当にどうにかしそうになるのをなんとか堪える。
「っていうかさ、そこまでオレのこと褒めてくれるのって蒼生だけだよ……」
「? 健ちゃんはすっごくかっこいいんだよ?」
 スポーツをやっているのと明るい性格で割り増しに思われているんだろうなと自覚している健太だが、蒼生は疑うことなくそう思っているらしい。思わず自分の心臓の上あたりの服を掴み、跳ね上がりそうな脈拍を抑える。
 写真に視線を戻した蒼生が、でもね、と続けた。
「スタジオで写真撮ってる時、僕が大きなカメラを持ってたでしょ。あれでもたくさんふたりのかっこいい写真撮ったんだ。我ながら、ふふ、いい写真が撮れたと思うよ。どんな表情も好きすぎて困っちゃうくらいだった。……でも、目が合わないのがちょっと寂しかった。だから、こうやってこっちを見てる写真……いいね」
 ふわっと笑って、写真の中のふたりと目を合わせる蒼生。健太と冬矢は、ぐいっと両側から蒼生の腕を引っ張り、ソファにもたれかからせるように引き倒した。
「……ちゃんと、直に目を合わせるほうがいいだろ」
「レンズは見ていたけれど、ずっと蒼生のカメラを意識していたよ」
 ぱちぱち、と蒼生が瞬きの数を増やす。
「え。写真の自分にやきもち? ……ふ、あははは。ふたりとも、そういうとこ可愛い」
「蒼生のほうがずーっと可愛いよ」
「そうだそうだ! ナマが一番可愛い!」
「言い方がなあ」
 笑う蒼生をふたりがかりで抱き締める。ふわりと甘い香り。写真の蒼生はとても綺麗で可愛いけれど、この香りは至近距離でしか感じられない。
 蒼生は左右からの強い力に、体中が暖かい愛に満たされていることを改めて噛みしめる。ひとりで広いスタジオの真ん中に立っている時も、ふたりの姿が見えて安心したが、隣にいてくれた時のほうが嬉しかったことを思い出す。あの写真は、広げたページの一番右にある。
「ねえ」
 呼びかけると、ふたりは名残惜しそうに蒼生の肩に押しつけていた頭を上げた。
「ん?」
「3人で撮った写真も楽しかったね」
「ああ、そうだね」
 冬矢が腕を伸ばし、テーブルの上から台紙を取った。盛り上がった柚木によって、3人は様々なポーズをとらされた。いったいどれが選ばれるのかと思っていたのだが、彼が選んだのは、造花を持った写真だった。白い花を持った蒼生が背もたれの高い椅子にゆったりと座り、向かって左の健太は赤い花を持って椅子に寄り掛かり、右に立った冬矢は悠然と黄色い花を胸元に持っている。
「なんか、雑誌で見たことありそうなポーズだよな」
「昔アイドルを撮影していたカメラマンということだからね」
「ふ、ふふ。そういう柄じゃないけど、ふたりとならこういうのも悪くないなって思ったよ」
 全員が、楽しそうに、穏やかに笑いながら、ひとつの塊のような空気を醸し出す写真だ。口には出さなかったけれど、とてもいい写真だと3人は思っていた。実はこのポーズの別カットがショーウィンドウの隅に展示され、彼らは一体誰なのかと一部で話題になるのだが、それはまた別の話だ。
「ね、今度はあっちのアルバムのほう見ようよ」
「よし、見ようぜ。めちゃくちゃ数あるから、見応えありそうだぞ」
「なんだかんだでページ数が多くなってしまったからね」
「あ、そうすると僕のソロのシーンがけっこうあるのか……。自分で耐えられるかな」
「大丈夫、1枚1枚ちゃんと味わっていくから」
「……大丈夫ってどういう意味なんだろう……」
 健太が立ち上がり、袋の中からアルバムを取り出す。小さな冊子程度の大きさだが、厚みがかなりあった。
 その健太の手元で、いつ撮られたのだろうと思うくらい自然に笑う3人の顔が表紙になっているのが目に入り、蒼生はくすぐったそうに笑った。

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