高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2025年02月14日 18:00    文字数:17,119

77こ目;愛しきショコラ

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一緒に暮らして初めてのバレンタインデーのおはなし。
3人きりで、誰にも邪魔をされることのない初めてのバレンタインには楽しみしかないはずですが、
冬矢には懸念事項があるようで…?

↑初公開時キャプション↑
2023/02/14初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 カウンターに置かれた卓上カレンダーを眺めて、冬矢は考え込んでいた。新しくなったばかりのそのカレンダーは、年末に蒼生が文房具屋で眺めていたものだ。月日の書かれた四角い枠の外は紺の濃淡で塗りつぶされており、そこに金色の線で星座が描かれていて、片隅には小さくそれにまつわるエピソードが添えられている。しかも星座部分に蛍光塗料が使われているらしく、暗くすると光るらしい。あまりにも蒼生が長いことじぃっと眺めているので、かなり気に入ったのだろうと思った。
「これ、買おうか」
「え、……ううん、予定って携帯で見るでしょ。使わないから勿体ないし」
「そんなことはないよ。今年だって結局、商店街でいただいたカレンダー、重宝したじゃないか。せっかくなら気に入ったものを使おう?」
 そう説得して買った時の蒼生の嬉しそうな顔を思い出し、冬矢は頬に笑みを浮かべた。が、すぐに我に返る。蒼生との思い出に浸っていたいが、その蒼生のことで悩んでいたのだ。
 そこに、客間で筋トレをしていた健太が戻ってきた。健太は鼻歌交じりで冷蔵庫を開けると、作り置きの冷茶のボトルを取り出す。
「健太、相談があるんだが」
「んー?」
 冷茶をコップに注いだ健太は、それを持って不思議そうにリビングに出てくる。冬矢の真剣な様子に、何事かと視線の先のカレンダーを同様に覗き込むが、そこには何も書かれていない。
「なんだよ」
「もうすぐバレンタインデーだろ」
 ああ、と頷いて健太は相好を崩す。バレンタインデー。恋人同士の甘い甘いイベントだ。
「そうだな! 今年は何しようかなー。今まではそれぞれ用意してたけど、一緒に住んでんだから、もっと派手にしてもいいんじゃねえかな!」
「……それなんだが。きっと蒼生もそう考えるんじゃないかと思うんだ」
 もう一度健太が首を傾げる。なぜ冬矢はこんなに浮かない様子なのだろう。蒼生とのイベントなのだから、楽しみに決まっているはずなのに。
「そりゃ、蒼生のことだから、オレたちのことは考えてくれてると思うけど」
「そうだな。蒼生が考えるのは、俺と健太のふたり分だ。そして、おまえも蒼生に何かしようと考えてる」
「当然」
「そうしたら、蒼生もお返しを考える」
「……あっ」
 健太が目を見開く。
「渡すのもお返しも、蒼生だけ倍じゃん!」
 ふう、と冬矢が息を吐いた。それから、卓上カレンダーをそっと手に取る。
「それについては、どのイベントについても同じだろう。これが普通の恋人同士なら1対1だから、……蒼生の負担は常に倍だ」
「けど、蒼生はたぶんそれを負担だとは思ってないんじゃねえか。……負担かけてる側が言うのもよくないと思うけど」
「そうだな。だからこそ、俺たちはそのぶん、きちんと蒼生に全力で返していかなければならないんだ。可愛い笑顔も、優しい心も、いつも俺たちがもらっているものに対して、真摯に向き合うべきだ」
「うん。蒼生には、いつもいっぱいいっぱいもらってるもんな」
 ふたりの脳内で、蒼生がふんわりと笑う。それだけで心が熱くなって、心臓がひどく高鳴る。愛しい蒼生は、今頃家に向かって歩いているはずだ。もうすぐ帰るとさっき連絡があったのだから。
 はっと気付いて、冬矢は再び表情を引き締める。そして俯いてニヤニヤしている健太の頭を軽くはたいた。
「違う。まだ話には続きがあるんだ。今回はバレンタインだ、それが問題なんだ」
「えー。なんだよ」
「いいか、バレンタインに送るものといえば主にチョコレートだろう。俺たちも今まで、なんとなくチョコレートに関連するものを送り合っていたよな」
 健太は頷く。時期が近付くと自然にチョコレート売り場が増えていくから、そういうものなのだろうと受け止め、あまり深く考えたことはない。
 ぴっと冬矢が指を立てた。
「今年は、一緒に暮らして初めてのバレンタインだ。さっきおまえも言ったとおり、特別なイベントであるような気がしている」
「え、うん」
「あちこちの店に、これから様々な商品が出揃ってくるだろうな。有名店の評判がいいものから、滅多に見ない輸入ものや、ビジュアルにこだわった可愛いもの、蒼生が好きそうな綺麗なものまで」
「……おお」
 頭の中に、冬矢が言ったような商品がずらりと並んでいく。想像だけでどれもこれもきらきらと輝いて美しいのだから、実際に並んでいるのを見たら思わず手にしてしまいそうだ。
「蒼生は家の人から、何をもらったのか、誰からもらったのかを詰問されるから、大仰なものをもらうのは少し苦手だと言っていたな」
 健太は、ふっと顔を曇らせる。今まで綺麗だった脳内に、俯く小さな蒼生の背中が浮かんだ。
「ん。そういえば……小学生の頃、家で誕生会やってた時、プレゼントにってクラスの女子が合同でぬいぐるみを買って蒼生に渡してたんだけど。こんな大きなものもらうなんて非常識だっておばさんが蒼生に説教してるのを見た」
 別に蒼生が欲しがったわけではない。蒼生を好きな子たちが抜け駆けをしないために、話し合ってみんなで買おうと決めたのだと後日健太が本人たちから聞いた。なのに、責められたのは蒼生だった。今から思えば、自分と合同で行われた誕生日パーティで蒼生が一歩引き始めたのは、あの頃からだったかもしれない。
 冬矢も大きく息を吐く。
「そんなことまであったのか。いつ聞いても納得がいかないが、それは置いておいて。そういう事情があったから涙を呑んでずっと遠慮していたわけだが、今は違う。誰も咎める者はいない。蒼生が好きなものを、好きなように、好きなだけ蒼生に渡すことが出来るんだ。この状況で、俺たちは蒼生に可愛いお菓子を大量に買うことを我慢出来ると思うか?」
「…………! 出来ねえ……!」
 自分たちが何かをすれば、蒼生は喜んでくれる。その顔が見たくて、あれもこれもと抱えきれないほど手に取ってしまう可能性はほぼ100パーセントだ。
「それが、2か月連続で起きる」
「さ、さすがに体に良くねえな……!」
「そのうえ、いくら特別なものを用意しても、たくさんあったらその価値は下がるんじゃないだろうか」
「賞味期限も危ういしな」
 真面目な顔で、健太は深く頷く。
「話はわかった。ってことは、蒼生に提案する内容がもうおまえの中にはあるってことだよな」
「ああ。今年は、蒼生の腕をもらおうと思う」
「なんだそれ、怖い話か?」
「そんなわけがあるか」
「だよな」
 そこに、玄関のチャイムが軽快に鳴った。

 ドアを開ければ、満面の笑顔の蒼生が立っている。
「っ、蒼生ーっ! おかえり!」
「おかえり」
「ただいま。ごめんね、ふたりが待っててくれてることがわかってたから、迎えに来てほしくて、つい……」
 照れたような申し訳ないような表情をする蒼生に、ふたりは早く玄関の中に入るように促す。そして、ドアが閉まるや否や、ぎゅっと抱き締めた。さっきまでは幻だった温度が、たしかに感じられる。
「あー、今日も無事に帰ってきてくれてありがとう……」
「ふふふ、大げさだなあ」
「表現はそうかもしれないけれど、俺たちの本音だよ」
「……うん。僕もふたりの顔が見られて本当に嬉しい」
 その声は、蒼生の「嬉しい」をたしかにふたりに伝える。蒼生がそれを心の底から思ってくれていることが、ふたりにとっても例えようのないほどの幸福だった。
 冬矢が唇で耳に触れると、ひんやりと冷たい。寒い中を帰ってきたのだ、当然だろう。健太は同じように冷たい手をぎゅっと握った。
「早く部屋の中に行こ。ちゃんとあっためといたから!」
「ありがと。……あれ、健ちゃんもあったかい」
「ふっふーん。オレもついさっきまで筋トレしてたからね」
「まさかおまえ、このために?」
「だとしたらどうする?」
「少々引くかな」
「僕は嬉しいよ!」
 蒼生はにこにことそう言うと、リビングに連れ去ろうとする健太の腕の中に収まった。まったく蒼生は健太に甘いな、と冬矢は小さく笑う。だが、その冬矢の心の声を知れば、健太も同じように笑うだろう。
 部屋に入ると、健太の言ったとおり、心地よい温度がふうっと肺の中に満ちていく。外は風が強く、実際の気温よりかなり低く感じられたから、まるで別世界のようだ。しかもその空気は、ほのかな甘い香りをしていた。
「あれ、いい香り。紅茶?」
「よくわかったね。蒼生が帰ってくる頃だと思ったから、イチゴの紅茶を用意しているところだよ」
「わ、嬉しい!」
 ありがとう、と冬矢に一度きゅっと抱きつくと、蒼生は軽やかな足取りで寝室に入っていく。そこで部屋着に着替えてから戻ってくるはずだ。健太はちらっと冬矢を見る。その視線を受け、冬矢が頷く。先程の話を、蒼生に聞いてもらわなければ。
 暖かな部屋着に身を包んだ蒼生は、リビングに戻るなりびくっと体を震わせて、動きを止めた。ダイニングテーブルには紅茶のカップが3つ。2つ並んだ前には、どうしたことか健太と冬矢が並んで座っている。
「蒼生、ちょっと提案が」
 健太の必要以上に固い声に、蒼生は不安げな表情を浮かべた。
「……なに?」
 慌てて健太が両手をぶんぶんと振る。
「あ、違っ、大丈夫大丈夫。怖い話じゃないから。ちょっと、ホントに相談だけ」
「相談?」
「うん。座ってくれるかな」
 健太が大丈夫だと言い切るなら怯える必要はないのだろう。だが、あまりいい話でもなさそうだ。蒼生はそろそろと紅茶の前に座り、ふたりの表情を窺う。
 切り出したのは、空気に耐えられなくなった健太だ。
「あのね。もうすぐバレンタインでしょ?」
 ぴっと蒼生が背筋を伸ばす。
「っ、ちゅ、中止はやだよ? 僕、ちゃんとやりたい……」
 小さくその目が揺れたので、今度は冬矢も揃って慌てる。
「待って、蒼生。逆なんだ」
「そう! 逆、逆。ですよね、冬矢さん!」
「うん。大丈夫だから」
「ほら、まずは紅茶飲んで。ね?」
「ん、うん」
 慌てるふたりに対して何度か瞬きを見せ、蒼生はそっとカップを持ち上げた。ふわりと甘く香る湯気をゆっくりと吸い込み、暖かい液体を喉に通すと、わずかに気持ちが静まる。
「……ごめん、先走って。もしかして、と思って、つい悪い想像しちゃった」
「俺たちのほうこそ、おかしな雰囲気を作ってごめんね。でも、そう思ったことをはっきり言ってくれてありがとう」
 昔の蒼生なら、黙って飲み込み、さらに悪いほうに想像を膨らませてひとりで落ち込んでいただろう。それをすんでの所で踏みとどまって、自分たちにきちんと話してくれたのは、とてもよい変化だと思う。
 ほっと息を吐き、健太と冬矢はきちんと椅子に座り直した。
「改めて。さっき健太と話したんだけどね。今年はほら、一緒に暮らして初めてのバレンタインデーになるわけだろう? 気持ちが盛り上がって、絶対にあれもこれもと買い込んでしまいそうな気がするんだ」
「うーん、たしかに」
「蒼生もそう思うだろ? 絶対たっくさん買っちゃって、賞味期限内に食べきれなくなっちゃうんじゃないかってさ。んで、期限内に食べなきゃっていう義務感で無理に食べるのって、せっかくの美味しいのが台無しじゃん。食べ過ぎもよくないだろうし」
「うん」
 素直に蒼生は頷く。たしかに言われてみれば、だんだんに鮮やかさを増していく菓子コーナーを目にするたび、どんなものを用意したら喜んでくれるかを考えると同時に、自分用にも欲しいと思ったことがある。その勢いのままに3人がかりで増やしていけば、健太の言う通りになってもおかしくない。
「そこで、改めて提案だが」
 冬矢の言葉に、蒼生だけでなく健太も興味深げにその顔を覗き込んだ。先程の話し合いは途中だったので、健太もその先を知らない。冬矢はふたりの視線を確認すると、蒼生に向かってにこりと笑った。
「今年は、蒼生にチョコレートケーキを作ってもらいたいんだ」
「僕?」
 驚く蒼生に、冬矢が頷く。その隣で健太が渋い顔をした。
「ってことは、オレは」
「健太と俺は準備を我慢する。蒼生の作ってくれるケーキを唯一の特別にしたいから」
 それは健太にとっては少々納得のいかない話だったため、一瞬だけ不満に思う。が、蒼生の特別、という言葉を聞いた途端にすんなりと納得した。蒼生が自分のために何かをしてくれるのだと思えば、文句などあろうはずがない。なるほど、「蒼生の腕」というのはそういう意味だったのかと健太はひとり頷いた。
 そして、蒼生にも同じ言葉が響いていた。自分が何かをすることが、ふたりにとって「唯一」で「特別」なのかと。
「……それなら、わかった。ケーキとか作ったことないけど……うん。頑張ってみる」
 両手をぎゅっと握り、蒼生はその手をじっと見つめた。そして、ちら、と冬矢を上目で窺う。
「ちなみに、僕も同じ要求をしたら、許される?」
 冬矢はふっと笑い、身を乗り出して蒼生の両手を自分の両手で包み込んだ。
「もちろん。ホワイトデーには蒼生が食べたいケーキを焼いてあげる。だから、よろしくね」
 対照的にきりりと蒼生が表情を引き締めたのが愛おしい。思わず冬矢は手に力を込め、健太は胸を押さえて机に突っ伏した。


 その次の日から、蒼生はふたりの目が届かなくなるたびに、こっそりとレシピ本を読むようになった。いや、蒼生はこっそりしているつもりだったようだが、時折字を追うのに夢中になって視線に気付かないことがあったので、実はふたりにはとっくにバレている。見覚えのある本ではなかったから、おそらくわざわざ買ってきたのだろう。紙の本を選ぶあたりが蒼生らしくて可愛いと思うふたりだ。なお、蒼生本人はバレているとは微塵も思っていないらしく、それもとても可愛い。また、夜中に急に気になることもあるようで、ベッドの中で突然レシピを検索しだしたりもする。当然ふたりはそれにも気付かないふりをしていたのだが、もうあまりの可愛さに毎回飛び起きて抱き締めたくなってしまうのをなんとか堪える日々が続いていた。
 健太の我慢がそろそろ限界に近付き始める頃、蒼生の実践を伴う練習が始まった。おそらく、難関はスポンジケーキだろう。体験談を読んでいると、そこが一番失敗を伴う工程らしい。となれば、本番一発勝負は危険だからだ。
 レシピ通りの材料を揃え。レシピ通りに混ぜ合わせ。レシピ通りにオーブンで焼く。それだけのはず、だった。
「……んー?」
 ケーキクーラーの上で、ぺしゃりと力なく横たわる茶色いスポンジに、蒼生は首を傾げる。想像の中では、もっとふんわりしていたはずだ。だが、目の前のケーキは、どう見ても疲れ果てた風貌をしている。
「んー……」
 蒼生は再び唸る。何がいけなかったのだろう。レシピ本を開き、ひとつひとつ工程を読み返していく。
 そこに、元気なドアの音を立て、健太が帰ってきた。
「ただいまあ!」
「おかえり、健ちゃん」
 さすがにここまで来たら隠すことは難しいと思っていたので、蒼生は手元を隠すでも慌てるでもなく健太を迎え入れた。ちゃんといつも通りの挨拶が出来たと思っていたのだが、健太にはお見通しだったようだ。
「蒼生? どうした? ちょっとしょんぼりしてる? あと、いい匂い」
 ひくひくと鼻を動かす健太に、蒼生は困ったように笑った。
「健ちゃんにはすぐわかっちゃうなあ。……初めてスポンジケーキを焼いてみたんだけど、失敗しちゃって」
「ふうん?」
 健太はキッチンを覗き込む。銀色の網の上に、甘い香りがする丸い塊がいる。健太の胃はすぐさまそれを求めて、ぐーっと存在を主張した。
「蒼生。味見」
「えっ」
「味見する」
「でも、失敗したやつだし……」
「もったいないもん。おやつ……」
 蒼生は口を尖らせる健太と、失敗作のケーキを見比べる。それから指先で頬を掻いて、包丁を手に取った。その刃をケーキに入れていくと、ずいぶんと重い。
「あー……スポンジケーキの感触じゃない……」
「どれどれ」
 健太の声はわずかに弾んでいる。そのままぱかんと口を開けるので、仕方なく切り取った一切れを差し出す。健太は迷わずそれに齧り付いた。
「ん。んー、うん。味は美味しいよ!」
「そう?」
 手元に残る半分になった一切れを、蒼生は自分の口に放り込んだ。たしかに、味は悪くない。分量通りに材料を入れているのだから、それはそうだろう。だが、食感が明らかに思い描くスポンジではない。
「……もったりしてて硬い。あとなんかパサつく……」
「んー。あ、これ、牛乳が合うと思う。もう一切れちょうだい」
 健太が早速冷蔵庫を開け、中から牛乳のパックを取りだしてコップに注ぐ。その間に蒼生は同じくらいに切ったスポンジをさらに半分に切った。
「蒼生、あーん」
「はい」
 それから、牛乳を一口。
「! んん。ん、ん」
 目を瞬かせて頷いた健太は、蒼生にコップを差し出す。蒼生もスポンジを口に含んでから一口飲んでみた。その甘い塊は、ほろほろと口の中でほどけてゆく。
「あ、うん。なんだろ……ココアの感じが強くなるね」
「な、こうすると美味しく食べられるだろ」
「そうだね。……って言っても、何度も失敗したくはないんだけど……」
「だーいじょうぶ! そのたびにちゃんとオレがいただくから!」
 どんと健太は自分の胸を叩く。ちょうど小腹の空く時間だ、さほど大きくないこの1ホールくらいは余裕で食べられる。目を輝かせる健太を、蒼生は呆れたように見つめ、それからふんわりと目元を和ませた。
 ところで。バレンタイン用に練習しているものを食べさせてもらうというのは、実は先行して渡していることにならないだろうか。それには双方なんとなく気付いていたが、熟慮した結果、ここは気付かなかったことにする。蒼生と健太は目を合わせ、くすっと笑い合った。
 冬矢が帰ってきたのは、それからしばらくしてからだ。その頃にはわずかな一切れが小さな皿にひとつ乗るだけになっていた。本当にすべて平らげようとする健太に対し、「失敗の原因、教えてもらわなきゃいけないから!」と蒼生が死守した結果だ。
「ただいま、蒼生」
「おかえりなさい!」
 すぐに冬矢は甘い香りに気が付く。
「ああ、もしかして練習してみたの?」
「うん。でも失敗しちゃって」
 トーンの落ちた蒼生の声に、冬矢は視線を巡らせる。なるほど、皿の上にはしぼんだスポンジケーキが寂しそうにたたずんでいる。
「そうか。スポンジケーキは失敗も多いからね。それでも初めて焼いたにしては綺麗だと思うけれど。いただいてもいいかな」
「失敗作でよろしければぜひご助言を……」
「あはは、では頂戴します」
 冬矢が皿ごとケーキを手にし、じっくり眺めてから口に入れるのを、ふたりは固唾を呑んで見守る。冬矢は口を動かしながら、何度か頷いた。
「……うん。味はいいね。おそらく工程にもほとんど問題はなさそうかな。そうだな、次に作る時は、卵の泡立てをもう少し多めにやって……粉を混ぜ合わせる時の混ぜる回数を少しだけ少なめにしてみるといいかもしれない」
 蒼生と健太は目を見開いて顔を見合わせる。
「一口だけでそんなことがわかんのか!?」
「いや、失敗例としてはよくあるパターンだからね」
「すご……もう先生だね」
「冬矢先生!」
 ふっと冬矢は笑い、蒼生の頭をぽんぽんと叩いた。
「俺も最初は失敗したものだよ。蒼生に食べて欲しくて何度も練習した」
「! ……うん。僕も頑張る!」
 蒼生がようやくいつもの笑顔に戻ったので、健太と冬矢は安心してほおっと息を吐いた。


 さて、バレンタインデー当日である。
 冬矢がチョコレートケーキを要望として提案し、蒼生はココア生地のスポンジケーキを練習していた。だから何が出来るかはわかっていたし、ふたりがわかっていることを蒼生自身も知っていたはずだ。
 けれど、
「あの、簡単なのしか出来ないから、期待しないでね。絶対しないでね。それから、できれば、見ないでほしくて、その……っ」
 エプロン姿が可愛い蒼生は、指を小さく絡ませてそう言った。
「なるほど、俺たちは外出していればいいかな」
「……っ、で、できれば……」
「そっか。わかった。んじゃ、出かけてくるから、何かあったらすぐに連絡しろよ」
「うん……っ」
 冬矢は優しく蒼生の髪を撫でる。
「夕飯は俺たちで適当に買ってくるから、蒼生は気にしなくていいからね」
「え? でも」
「そうだな、パーティだもんな! んで、楽しみはデザートにってわけだ」
 健太が楽しそうに言うと、蒼生は少々戸惑った顔をしつつも、最終的には頷いた。
 家を出るなり、健太と冬矢は肩を並べて腕を組む。
「……一生懸命頑張ってる姿を見られたくないからって、オレたちを追い出す蒼生……めちゃくちゃ可愛いな……」
「やはりカメラを仕掛けておくべきだったか……。絶対可愛い映像が撮れたぞ」
「っ、わかる……けど……隠すのはダメじゃねえか? 頼んだらなんだかんだ言いつつOKしてくれそうだけど」
「そうかもしれないな。だが、緊張させてしまうと思うと可哀想だという気持ちもある」
「あー、それもわかる……」
 はあっとふたりで息を吐く。自分で言い出したことなのに、申し訳なさそうに玄関先で手を振った蒼生の顔が脳裏から離れない。可愛いし愛おしいし、今すぐ戻って抱き締めたい。だが、こうやっていつまでも家の前にいるわけにもいかないだろう。
「んで、どうする」
「どうするもなにも。別に、俺たちが一緒に行動する必要はないだろう」
「だよな。夕飯買う頃に合流すりゃいいか。どこ行きゃいい?」
「駅ビルで」
「了解」
 ふたりはその場で分かれ、健太は商店街のほうへ向かう。冬矢は大通りを目指して歩いて行ったようだ。あくまで一緒にいたいのは蒼生であって、健太と冬矢には共にいなければならない理由はないのだから。
 健太はぶらぶらと歩く。特にどこへ行く用事はない。もともとこの日には何も予定は入れていなかった。蒼生と一緒にいるつもりだったし、ましてやバイトを入れたりなどして他の誰かから何かをもらうのは義理といえど避けたかったからだ。
 商店街に入ると、なんとなく手前にある古着屋に足を踏み入れた。何か見ていれば、必要なものも見つかるかもしれない。ハンガーにかかった男性物の衣類をとりあえず片っ端から眺めていく。ふと、落ち着いた空色のジャケットが目に入った。これは蒼生に似合いそうだ。次に目にしたシャツは少し蒼生には小さい。次は……。
 はっとして頭を振る。今日は自分のものを見なければ。今回のイベントの趣旨は、蒼生が作るものに集中しようということだ。ここでプレゼントをしてしまっては、蒼生が気にしてしまう。来月の蒼生がお返しを考えなくて済むように、自分は我慢をしなければならないのだ。ぐぐっと堪え、春先に使えそうな上下をそれぞれ1枚ずつ買って店を出た。
 和菓子屋の前を通る。ガラスのドアの向こうで、春めいた柔らかな色の上生菓子がショーケースに並んでいた。小さなピンクの花がひとつだけ乗った、白くて丸い形が目に留まる。きっと蒼生はあれを選ぶだろう。……いや、今度蒼生と一緒に見に来ようと健太は再度頭を振る。
 洋菓子屋の前。艶やかで魅力的なチョコレートが、これでもかと甘い香りで誘ってくる。それでも、隣に並んでいる、蒼生が好きなサブレのほうに目が行ってしまう。なんと、季節限定で桜味が出ているではないか。
 鞄屋。そういえば蒼生がもう少し幅広の鞄が欲しいと言っていた。まだ使えるから勿体ないとも言っていたが、蒼生はもう少し持ち物を増やしてもいいと思う。
 肉屋。蒼生はここのコロッケが好きだ。ほんのり甘いのがソースに合うのだと笑っていた。
 喫茶店。バレンタインフェアは今日までで、明日からはストロベリーフェアをやるらしい。蒼生が喜びそうだ。
 雑貨屋。店頭に並べられたアクセサリーの綺麗な青い石は、どうしても蒼生を思い出させる。
「……あー……、今日はだめだぁ」
 がしがしと健太は思い切り頭を掻く。ひとりで買い物なんて慣れたものだ。あちこちふらふらするのも好きだ。なのに、今日はどうしても蒼生のことが頭から離れない。いや、常に離れることなんてないのだが、ここまでぎゅうぎゅうに埋め尽くされてしまうとは。
 そのあともいくつか店を巡ったが、どこに行っても症状は治まらなかった。最終的には隣に蒼生がいるつもりで何もない空間に向かって話しかけてしまい、頭を抱える結果になった。もうこうなったら大人しくしているのが得策だろう。そう考えた健太は、くるりと行き先を変え、駅ビルの1階にあるコーヒーショップに入った。頼んだのはブラックコーヒーだ。これで少しは目が冴えるかもしれない。カウンターでカップを受け取り、席を探す。と。
「あれ」
 窓際に見慣れた姿を見つけ、健太はきょとんとして立ち止まった。その声にこちらを見た冬矢が、わずかに目を見開いて、それからすぐに呆れ顔で笑った。
「おまえもか」
 そのセリフから察するに、冬矢も同じ行程を経てここに辿り着いたのだろう。健太は冬矢の前の席にどっかりと座り込んだ。
「あー、もう、全然ダメ。どこ行っても何見ても蒼生のことばっか考えちゃって、ろくに買い物も出来ねえの」
「俺もだ。一応、勉強をしようと参考書も持って図書館に行ったんだけどな。本の匂いに囲まれていると、蒼生に会いたくなって……まったく集中出来なかった」
 冬矢がそんな状態になるとは、よっぽどのことだ。というか、健太はずっと奇妙に思っていたのだが、バレンタインデーの話を出してきた時から冬矢のテンションがいつもと違いすぎないだろうか。
「なあ、おまえさあ。……実はものすごく楽しみにしてたんだろ、バレンタイン」
「当たり前だろう」
「うわ即答だ」
「考えてもみろ。蒼生の手作りのチョコレートケーキを食べられる最初の機会なんだぞ。蒼生の手作りというだけで普段の食事から天に昇るほど嬉しいのに、嗜好品を用意してくれるんだ。わざわざ。俺のために」
 ふむ、と健太は腕を組む。冬矢は自分の作った食事は蒼生にしか与えたくないと思っている。健太はどこまでも「ついで」だ。つまり、それだけ手作りというものを特別視しているのだろう。だから蒼生がバレンタインデーに初めて作るチョコレートケーキにこだわっているというわけだ。なかなか可愛いとこあるよなこいつ、と思って、コーヒーをずずっとすすった。
「おまえの、だけじゃなくて、オレのぶんも含まれてんだけどなぁ。……あー、まあ、どっちにしても、オレらを追い出した蒼生の姿がどうしても可愛くて頭から離れなくて早く蒼生のところに戻りたいって気持ちは一致してるわけだ」
「そう。だが蒼生の邪魔をしたくないから帰るわけにもいかないという悶々とした思いも同じだろうな」
 結局、「蒼生が大好きで大切にしたい」という点で、ふたりの思惑は一致しているのだ。もしかすると、この世界で一番わかりあえるのはお互いなのかもしれない。それを認めるのはなんだか悔しいので、双方口にすることは決してないのだが。
 はあ、と健太は息を吐く。
「しょうがねえなぁ。ゲーセンでも行くか」
「おまえとふたりで?」
「だって、ここで顔つき合わせてても意味ねえだろ。蒼生のことしか考えられないんだから、いっそ蒼生を賭けて勝負しようぜ」
 冬矢は驚いたように瞬きをし、それからにやりと笑った。
「蒼生の何を賭ける?」
「んー……そうだなー……。勝ったほうは、今日の夜寝る時に、蒼生がぎゅってしてくれる」
「ふっ。それは負けられないな」
 目を合わせて残りのコーヒーを飲み干すと、ふたりはがたりと席を立った。

 鍵を開けて家に入ると、奥から蒼生がぱたぱたと駆けてくる。
「おかえりなさーい!」
「ただいまー」
「ただいま」
 にこにこと明るい笑顔にほっとする。自分たちが出かけている間、何事もなかったようだ。会いたくて会いたくて仕方がなかった愛しい恋人を、順に抱き締める。
「予定より早く戻ってきてしまったけれど、大丈夫だった?」
「うん。協力してくれてありがとう」
「もうね、ずっと蒼生の顔見たかったんだ」
「嬉しい」
 蒼生はふにゃりと表情を崩し、抱き締めるそれぞれの肩口に頬を摺り寄せる。離れて堪えていたぶん愛おしさが溢れて、このまま抱き上げて寝室に連れ込んでしまいたい気持ちを必死で押さえ、健太は持っていた袋を蒼生の目線の高さに上げた。
「蒼生、これ、おみやげ!」
「おみやげ?」
 顔を上げた蒼生は、健太の掲げる袋の中を覗き込む。そこには、駄菓子がたくさん詰まった一抱えもある袋が入っていた。
「…………? お菓子? ふたりとも、どこに行ってたの?」
「ゲーセン! いろんなゲームで勝負してさあ。これはクレーンゲームで勝った時のやつ!」
「ああ、大きなお菓子が入ってるクレーンゲームってあるもんね。でも取るの大変だったでしょ」
 健太は得意げに指を2本立てる。
「それがなんと、2回で取れたんだぜ!」
「え、すごいね」
 そのやりとりを聞いていた冬矢は、ぽんと蒼生の頭に手を乗せた。
「ただ、全体的な勝負では俺が勝ったからね。今夜、蒼生は俺に抱きついて寝るんだよ」
「へ?」
 蒼生はきょとんとして、勝ち誇った顔の冬矢と、一気に悔しそうな顔になった健太を見比べる。そして、そっと口元を押さえて肩をぷるぷると震わせた。
「……ふ、ふふふっ。そっか。勝負ってそういうことかあ」
 それから、ぱっと花が咲いたような笑顔で、ふたりの腕をきゅっと掴んだ。
「まずはごはんにしよう? 少し早いかもしれないけど、その後デザートがあるもんね。ねえ、何を買ってきてくれたの?」
「寿司と唐揚げー。パーティだからな!」
「それじゃあ、準備しようか」
 少々バランスが悪い気のするメニューだが、どちらも健太の要望だ。冬矢は何か惣菜でもと考えていたのだが、健太が何度も繰り返すとおり、パーティだと捉えてもいいのだろう。実際、3人が3人ともどこかふわふわした気分だった。蒼生と健太はずっとそわそわしており、冬矢も態度には出さないものの緊張に似たざわめきを胸の中で感じていた。
 そうして、後に出てくるメインディッシュのことを考えて控えめに買ってきた夕飯は、健太と冬矢の熱い勝負の話で盛り上がるうちにあっという間に食卓から消えてしまった。
「美味しかった! ごちそうさまー。それにしても、シューティングバトルは僕も見たかったなあ」
「今度は蒼生も一緒に行こうね」
「うん」
「やっぱり蒼生が見ててくれると気合いも違うもんな」
「あはは、すごい勝負を期待してる!」
 蒼生はふたりの対決を見るのが好きだった。家でのゲームは時間をかけてやるものが多く、比較的協力しあいながらプレイしている姿をよく見る。それも仲が良さそうで好きなのだが、対戦で真剣にぶつかり合っている姿が格好良くて大好きなのだ。
「……蒼生?」
「うん?」
「にこにこしてる蒼生、すっげえ可愛いから、このまま見ていたいと思うんだよ。だけど、その」
「あ」
 ぽんと蒼生が手を叩く。
「そうだよね、うん、準備するから、もうちょっとだけ待っててくれる?」
 言うと、慌てて立ち上がり、キッチンに駆けていく。残ったふたりは、蒼生の様子を温かい気持ちで見送ると、手早くテーブルの上を片付けた。ただ、このまま食器をキッチンに持っていくと、蒼生がこっそり最終作業をしているところを見てしまうことになる。だから、そっとまとめてカウンターに乗せておいた。
 その間、蒼生はぱたぱたとせわしなくキッチンの中を動いている。冷蔵庫を開けたり、奥に行ったり手前に来たり。一体どんな作業をしているのだろうと気になって仕方がない。だが、もう少し我慢だ。
「……よし。うん」
 ちらちらとキッチンを窺っていると、やがて、決意を込めた声が聞こえる。
「ふたりとも、目、閉じてて」
「ん」
「わかった」
 最後の最後まで内緒にしておくつもりらしい。可愛いことをするものだとふたりは思わず微笑みながら目を瞑った。
 スリッパの軽い足音。
 遠くで香っていた甘い匂いがふんわりと強くなる。
「あの……。き、期待しちゃだめだよ。ハードル下げてね。じっと見ちゃだめだからね」
 どれだけ心配なのだろう。健太は小さな衣擦れの音を聞きながら、甘い香りを大きく吸い込んだ。蒼生の言葉は、かえって期待を駆り立てる。言い訳を繰り返すのは、それだけ蒼生が一生懸命頑張ったという証拠だ。全力で取り組んだからこそ細かい粗が目立つ気がするのだろう。
 冬矢は蒼生の不安の理由がわかった気がした。蒼生にとってひとりでケーキ作りをするのは初めてだ。つまり、このジャンルにおいて褒められたことがないから、自信がないのだ。その著しい過小評価は、まだ蒼生の中に染みついている。それをひとつひとつ塗りつぶしていけば、そんなに心配しなくても大丈夫だと、いつかわかってくれるだろう。
 ごとん、と。向き合う健太と冬矢の中央で、重たげな音がした。
「……えーっと。……どうぞ」
 ぱっと目を開ける。
「おー!」
「え……!」
 それと同時に声が出た。
 大きな皿の中央に、ココア色のクリームを纏った小さめのケーキがひとつ。その上には細かく刻まれたチョコレートが敷き詰められている。周りには、たくさんのチョコレートが並んでいた。それは、ハート型のもの、星形のもの、ドライフルーツが埋め込まれたものや金箔で飾られたものなどバラエティに富んでいる。中には、トリュフチョコレートも混じっているようだ。それらを飾り立てるように並ぶイチゴとバナナの赤と白がさらに目に美しい。
 なにより。ふたりに向けてケーキに立てかけられたホワイトチョコのプレートに、チョコレートペンでそれぞれ丁寧に書かれた、「健ちゃんだいすき」「冬矢だいすき」の文字。
 がたん、と冬矢が立ち上がり、その勢いで蒼生に抱きつく。
「……っわ」
 バランスを崩した蒼生に、慌てた健太が手を差し伸べ、背中側から抱きとめる。
「……すごい。とても綺麗じゃないか。ありがとう。嬉しい。俺も大好きだよ、蒼生」
 わずかに揺れる冬矢の声色。蒼生は小さく笑うと、そっと手を伸ばし、背中をとんとん、と叩いた。
「冬矢のリクエスト、応えられたかなあ」
「もちろん。丁寧で繊細で、愛に溢れていて、蒼生らしい。本当にありがとう」
 褒められることに慣れない蒼生は、少し困ったように指先をすり合わせる。
「でも、クリーム上手に塗れなくて、何度もやり直してるからがたがたになってるし、トリュフも真ん丸にならなかったんだ」
「ああ、そこを気にしていたんだね。初めてなのにとても丁寧だと思っていたよ。凝り性な蒼生らしい感想だ。むしろ、買ったものでは味わえない、手作りの愛しさが感じられて嬉しい」
「と、冬矢」
 蒼生まで声が震えだしたのに気付き、健太が頬を蒼生の頬にぴたりと付けた。
「それにしても、蒼生、頑張ったねえ。すごいボリュームじゃん」
 明るい声で言うと、蒼生もわずかに頬を緩める。
「うん。あのね。止められなかったんだ」
「へえ?」
「最初にチョコレートを刻むんだけど。包丁で板チョコを削るたびに、その音が“好き”って聞こえるようになってきて。あー、これ、僕が健ちゃんと冬矢のこと好きって思ってる気持ちなんだあって思ったら、嬉しくて楽しくてどうしようもなくなっちゃったんだ。しかも、予備のチョコまで刻んだだけじゃ足りなくて、たくさん買い足しちゃった……」
「……え」
「他の人相手だったら、こんな、練習までして何かを作るなんて面倒なことは絶対したくないのに。健ちゃんと冬矢にあげるんだって思ったら、そんなこと、ひとかけらも考えなかった。もう、好き好き大好き! って、我慢できなくなっちゃったんだよ。だから、実は、お皿に乗せきれなかった分が、キッチンにまだあったりします……」
 思わず健太は蒼生を抱く手に力を入れる。冬矢もますます蒼生に体重をかける。
「つ、潰れるぅ」
 蒼生からは苦情が出るが、ふたりはその手を緩められない。
「だって、蒼生があんまりにも可愛いこと言うから!」
「俺たちも我慢できずに早く帰ってきてしまったけれど、蒼生も我慢できなかったんだね」
「……うん。追い出して、ほんとごめんね」
「その間、蒼生がこんなに頑張ってくれていたと思えば、その時間も愛おしいさ」
「だよな。ずーっと蒼生のこと考えてたもん。……だから、早く食べよ」
 健太のうずうずした言葉に、蒼生と冬矢はくすりと笑った。たしかに、健太の言う通りだ。
 改めてケーキに向き合う。
 蒼生がたくさんの“好き”を込めたと知れば、なおさらに愛おしい。
「オレには切れないので、蒼生さんお願いします」
「あはは。はーい」
 ナイフがふわりと吸い込まれていく。その断面は、濃い茶色と薄い茶色が綺麗な層になっている。さらに、フォークで切れば、驚くほど軽い。
「! 美味しい!」
「ああ、スポンジケーキがすごくふわふわだ。練習の成果が現れているね」
「クリーム、すっごい軽いな! 口の中でとける!」
「甘さ控えめなんだね。美味しい」
「ほんとにありがとな、蒼生」
「俺はなんて幸せ者なんだろう」
 健太と冬矢が口々に褒め称えるので、蒼生は困ってふたりの顔を見比べる。健太が笑って、ケーキを大きめに切って小さな皿に乗せ、蒼生に向かって差し出した。
「ほら、蒼生も自分で食べてみて。完成品は初めてだろ」
「うん。……あれ、ほんとだ。美味しい」
「だろ!? な!?」
 自分のことのように喜ぶ健太を見て、蒼生はようやくほっと息を吐いた。ふたりが「美味しい」と言ってくれるまで、本当に心配だったからだ。途中で何度も味見をして、大丈夫だとは思っていたが、自分では気付かないミスもあるかもしれないのだから。そして、実際に口にしてみると、甘いスポンジケーキとさっぱりめのクリームがとても合う。軽くてしつこさもなく、すぐに一切れを食べ終えてしまいそうだ。それに、なにより、ふたりが褒めてくれたケーキだ。より一層美味しく感じられても不思議ではない。
「僕……。上手にできたかも」
 ぽつんと蒼生が呟く。健太は嬉しそうに頷き、冬矢も一瞬目を見開いてから笑った。
「マジでこれ、1ホールひとりで食べられちゃうかも」
「たしかにそのくらい軽くて美味しいね」
「あ、こっちのチョコもいただきます! わー、トリュフのやつ、うまっ」
「こっちもどうかな……」
「滑らかで美味しいよ」
 3人で、手を伸ばす。
 そして。
 あれだけたくさん乗っていた皿の上はあっという間に空っぽになってしまった。
 そして最後にとっておいた「だいすき」のプレートを、健太と冬矢は噛みしめるように味わった。嬉しそうなふたりの顔を、蒼生はさらに嬉しそうににこにこと見つめていた。

 甘いもので満たされた3人は、風呂上がりの穏やかな時間をソファの上で過ごす。
 少し眠くなってきている蒼生だが、左右からもたれかかってくるふたりは離れる気配を見せなかった。それでもいいかと思い、蒼生はふたりの体温を感じながらふわふわと浮かんでいるような気分でいる。
 ただ、ふたりがあまりにも長時間静かなので、少し心配になってきた。
「ねえ……。まだ寝ないの?」
 小声で話しかけると、ふたりがわずかに身じろぎをする。
「うん、もうちょっとこのままでいたい」
「今日が終わるのがもったいないと思っているんだよ」
「そっかあ。……あの、そんなに嬉しかった?」
 すると、ふたりはがばっと体を起こした。
「当然! めちゃくちゃ嬉しかったよ! ありがとう、蒼生大好き!」
「こんなに嬉しい日はないと毎日思っているよ。その中でも今日はさらに特別だ」
 蒼生は、口の中で「そっかぁ」ともう一度呟く。それから、ふふっと笑った。
「僕も楽しかった。時間はかかっちゃったけど、ふたりのことを考えながら作業するのはすごく楽しかったし、なによりふたりが喜んでくれたのがよかった」
 冬矢は柔らかな蒼生の髪をくしゃりと掻き混ぜる。
「俺の提案、悪くなかっただろ?」
「うん。僕の全力を健ちゃんと冬矢に“どうぞ!”って出来るのが、誇らしいっていうのかな? すごく気持ちよかった」
「ホワイトデーは俺が全力を出すからね」
「えへへ、楽しみ」
 健太は蒼生の手を取り、そっと指を絡ませる。
「オレも楽しかったし嬉しかったし、来月どうしようかなってわくわくしてる。……けど、蒼生ばっかに任せてるのはちょっとだけ寂しいかなーって。ほんのちょびっと、な」
 ちらりと冬矢が健太の手元に目をやる。蒼生の指を弄る指先は、まるきり拗ねた子供のようだ。
「それは、俺だって蒼生にはしてあげたい気持ちのほうが強いけどな」
「いや、ちゃんと冬矢の言い分はわかってるし、蒼生が楽しくてよかったって心から思ってるぜ? ただ、今日、オレは蒼生に何もしてないなあって」
 あ、と蒼生が声を上げた。
「そしたらさあ、ふたりに寂しい思いさせちゃったなら、僕がなんでもひとつお願いを聞くよ。僕にしたいことでも、僕にしてほしいことでも。バレンタインデーの準備を我慢した人に特典があってもいいよね」
「え、いいの!?」
「蒼生、それは」
 口を挟みかけた冬矢に、蒼生はにこりと笑いかける。結局蒼生が何かをすることになるのではないか、と言いかけたが、それを健太には気付かせないつもりのようだ。なるほど、蒼生は最後まで健太を甘やかす気でいるらしい。蒼生がそのつもりなら黙っていよう。
「ん? おまえ、なんか言いかけた?」
「……いや。これからも色々なパターンがあっても面白いだろうなと思った。例えば、バレンタインを俺たちがやって、ホワイトデーを蒼生がする、とかね」
「おお。じゃあ勝負して勝ったら用意できる、なんてのもアリだな。食べ物を買っていいのはひとりだけ~、とかさ」
「ということは、毎年違うのかもしれないってことだね」
 頷いて冬矢は笑う。
「そうだね。なにせ、これから何度も繰り返す行事だから。今年は何をしようと話し合うのもいいじゃないか。それごと楽しんでいこう」
「何度も……」
 嬉しそうに蒼生が呟く。一度きりでは終わらない。ずっとずっと、続いていく。これから、ずっと。
 蒼生はふたりの腕をぎゅっと抱き締めた。
「……それじゃあ、まずは大好きなふたりの、今日のぶんのお願いを聞こうかな。僕に何をしてほしい?」
 健太が目を輝かせる。
 冬矢が顔をほころばせる。
「じゃあ……」
 ふたりがそれぞれ耳打ちしてくるのを、蒼生はくすぐったそうに聞く。
「……ふふ。もちろん、いいよ」
 部屋の中は、まだチョコレートの甘い香りで満たされていた。

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    08月28日 13:00 〜 12月16日 00:00
77こ目;愛しきショコラ
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 カウンターに置かれた卓上カレンダーを眺めて、冬矢は考え込んでいた。新しくなったばかりのそのカレンダーは、年末に蒼生が文房具屋で眺めていたものだ。月日の書かれた四角い枠の外は紺の濃淡で塗りつぶされており、そこに金色の線で星座が描かれていて、片隅には小さくそれにまつわるエピソードが添えられている。しかも星座部分に蛍光塗料が使われているらしく、暗くすると光るらしい。あまりにも蒼生が長いことじぃっと眺めているので、かなり気に入ったのだろうと思った。
「これ、買おうか」
「え、……ううん、予定って携帯で見るでしょ。使わないから勿体ないし」
「そんなことはないよ。今年だって結局、商店街でいただいたカレンダー、重宝したじゃないか。せっかくなら気に入ったものを使おう?」
 そう説得して買った時の蒼生の嬉しそうな顔を思い出し、冬矢は頬に笑みを浮かべた。が、すぐに我に返る。蒼生との思い出に浸っていたいが、その蒼生のことで悩んでいたのだ。
 そこに、客間で筋トレをしていた健太が戻ってきた。健太は鼻歌交じりで冷蔵庫を開けると、作り置きの冷茶のボトルを取り出す。
「健太、相談があるんだが」
「んー?」
 冷茶をコップに注いだ健太は、それを持って不思議そうにリビングに出てくる。冬矢の真剣な様子に、何事かと視線の先のカレンダーを同様に覗き込むが、そこには何も書かれていない。
「なんだよ」
「もうすぐバレンタインデーだろ」
 ああ、と頷いて健太は相好を崩す。バレンタインデー。恋人同士の甘い甘いイベントだ。
「そうだな! 今年は何しようかなー。今まではそれぞれ用意してたけど、一緒に住んでんだから、もっと派手にしてもいいんじゃねえかな!」
「……それなんだが。きっと蒼生もそう考えるんじゃないかと思うんだ」
 もう一度健太が首を傾げる。なぜ冬矢はこんなに浮かない様子なのだろう。蒼生とのイベントなのだから、楽しみに決まっているはずなのに。
「そりゃ、蒼生のことだから、オレたちのことは考えてくれてると思うけど」
「そうだな。蒼生が考えるのは、俺と健太のふたり分だ。そして、おまえも蒼生に何かしようと考えてる」
「当然」
「そうしたら、蒼生もお返しを考える」
「……あっ」
 健太が目を見開く。
「渡すのもお返しも、蒼生だけ倍じゃん!」
 ふう、と冬矢が息を吐いた。それから、卓上カレンダーをそっと手に取る。
「それについては、どのイベントについても同じだろう。これが普通の恋人同士なら1対1だから、……蒼生の負担は常に倍だ」
「けど、蒼生はたぶんそれを負担だとは思ってないんじゃねえか。……負担かけてる側が言うのもよくないと思うけど」
「そうだな。だからこそ、俺たちはそのぶん、きちんと蒼生に全力で返していかなければならないんだ。可愛い笑顔も、優しい心も、いつも俺たちがもらっているものに対して、真摯に向き合うべきだ」
「うん。蒼生には、いつもいっぱいいっぱいもらってるもんな」
 ふたりの脳内で、蒼生がふんわりと笑う。それだけで心が熱くなって、心臓がひどく高鳴る。愛しい蒼生は、今頃家に向かって歩いているはずだ。もうすぐ帰るとさっき連絡があったのだから。
 はっと気付いて、冬矢は再び表情を引き締める。そして俯いてニヤニヤしている健太の頭を軽くはたいた。
「違う。まだ話には続きがあるんだ。今回はバレンタインだ、それが問題なんだ」
「えー。なんだよ」
「いいか、バレンタインに送るものといえば主にチョコレートだろう。俺たちも今まで、なんとなくチョコレートに関連するものを送り合っていたよな」
 健太は頷く。時期が近付くと自然にチョコレート売り場が増えていくから、そういうものなのだろうと受け止め、あまり深く考えたことはない。
 ぴっと冬矢が指を立てた。
「今年は、一緒に暮らして初めてのバレンタインだ。さっきおまえも言ったとおり、特別なイベントであるような気がしている」
「え、うん」
「あちこちの店に、これから様々な商品が出揃ってくるだろうな。有名店の評判がいいものから、滅多に見ない輸入ものや、ビジュアルにこだわった可愛いもの、蒼生が好きそうな綺麗なものまで」
「……おお」
 頭の中に、冬矢が言ったような商品がずらりと並んでいく。想像だけでどれもこれもきらきらと輝いて美しいのだから、実際に並んでいるのを見たら思わず手にしてしまいそうだ。
「蒼生は家の人から、何をもらったのか、誰からもらったのかを詰問されるから、大仰なものをもらうのは少し苦手だと言っていたな」
 健太は、ふっと顔を曇らせる。今まで綺麗だった脳内に、俯く小さな蒼生の背中が浮かんだ。
「ん。そういえば……小学生の頃、家で誕生会やってた時、プレゼントにってクラスの女子が合同でぬいぐるみを買って蒼生に渡してたんだけど。こんな大きなものもらうなんて非常識だっておばさんが蒼生に説教してるのを見た」
 別に蒼生が欲しがったわけではない。蒼生を好きな子たちが抜け駆けをしないために、話し合ってみんなで買おうと決めたのだと後日健太が本人たちから聞いた。なのに、責められたのは蒼生だった。今から思えば、自分と合同で行われた誕生日パーティで蒼生が一歩引き始めたのは、あの頃からだったかもしれない。
 冬矢も大きく息を吐く。
「そんなことまであったのか。いつ聞いても納得がいかないが、それは置いておいて。そういう事情があったから涙を呑んでずっと遠慮していたわけだが、今は違う。誰も咎める者はいない。蒼生が好きなものを、好きなように、好きなだけ蒼生に渡すことが出来るんだ。この状況で、俺たちは蒼生に可愛いお菓子を大量に買うことを我慢出来ると思うか?」
「…………! 出来ねえ……!」
 自分たちが何かをすれば、蒼生は喜んでくれる。その顔が見たくて、あれもこれもと抱えきれないほど手に取ってしまう可能性はほぼ100パーセントだ。
「それが、2か月連続で起きる」
「さ、さすがに体に良くねえな……!」
「そのうえ、いくら特別なものを用意しても、たくさんあったらその価値は下がるんじゃないだろうか」
「賞味期限も危ういしな」
 真面目な顔で、健太は深く頷く。
「話はわかった。ってことは、蒼生に提案する内容がもうおまえの中にはあるってことだよな」
「ああ。今年は、蒼生の腕をもらおうと思う」
「なんだそれ、怖い話か?」
「そんなわけがあるか」
「だよな」
 そこに、玄関のチャイムが軽快に鳴った。

 ドアを開ければ、満面の笑顔の蒼生が立っている。
「っ、蒼生ーっ! おかえり!」
「おかえり」
「ただいま。ごめんね、ふたりが待っててくれてることがわかってたから、迎えに来てほしくて、つい……」
 照れたような申し訳ないような表情をする蒼生に、ふたりは早く玄関の中に入るように促す。そして、ドアが閉まるや否や、ぎゅっと抱き締めた。さっきまでは幻だった温度が、たしかに感じられる。
「あー、今日も無事に帰ってきてくれてありがとう……」
「ふふふ、大げさだなあ」
「表現はそうかもしれないけれど、俺たちの本音だよ」
「……うん。僕もふたりの顔が見られて本当に嬉しい」
 その声は、蒼生の「嬉しい」をたしかにふたりに伝える。蒼生がそれを心の底から思ってくれていることが、ふたりにとっても例えようのないほどの幸福だった。
 冬矢が唇で耳に触れると、ひんやりと冷たい。寒い中を帰ってきたのだ、当然だろう。健太は同じように冷たい手をぎゅっと握った。
「早く部屋の中に行こ。ちゃんとあっためといたから!」
「ありがと。……あれ、健ちゃんもあったかい」
「ふっふーん。オレもついさっきまで筋トレしてたからね」
「まさかおまえ、このために?」
「だとしたらどうする?」
「少々引くかな」
「僕は嬉しいよ!」
 蒼生はにこにことそう言うと、リビングに連れ去ろうとする健太の腕の中に収まった。まったく蒼生は健太に甘いな、と冬矢は小さく笑う。だが、その冬矢の心の声を知れば、健太も同じように笑うだろう。
 部屋に入ると、健太の言ったとおり、心地よい温度がふうっと肺の中に満ちていく。外は風が強く、実際の気温よりかなり低く感じられたから、まるで別世界のようだ。しかもその空気は、ほのかな甘い香りをしていた。
「あれ、いい香り。紅茶?」
「よくわかったね。蒼生が帰ってくる頃だと思ったから、イチゴの紅茶を用意しているところだよ」
「わ、嬉しい!」
 ありがとう、と冬矢に一度きゅっと抱きつくと、蒼生は軽やかな足取りで寝室に入っていく。そこで部屋着に着替えてから戻ってくるはずだ。健太はちらっと冬矢を見る。その視線を受け、冬矢が頷く。先程の話を、蒼生に聞いてもらわなければ。
 暖かな部屋着に身を包んだ蒼生は、リビングに戻るなりびくっと体を震わせて、動きを止めた。ダイニングテーブルには紅茶のカップが3つ。2つ並んだ前には、どうしたことか健太と冬矢が並んで座っている。
「蒼生、ちょっと提案が」
 健太の必要以上に固い声に、蒼生は不安げな表情を浮かべた。
「……なに?」
 慌てて健太が両手をぶんぶんと振る。
「あ、違っ、大丈夫大丈夫。怖い話じゃないから。ちょっと、ホントに相談だけ」
「相談?」
「うん。座ってくれるかな」
 健太が大丈夫だと言い切るなら怯える必要はないのだろう。だが、あまりいい話でもなさそうだ。蒼生はそろそろと紅茶の前に座り、ふたりの表情を窺う。
 切り出したのは、空気に耐えられなくなった健太だ。
「あのね。もうすぐバレンタインでしょ?」
 ぴっと蒼生が背筋を伸ばす。
「っ、ちゅ、中止はやだよ? 僕、ちゃんとやりたい……」
 小さくその目が揺れたので、今度は冬矢も揃って慌てる。
「待って、蒼生。逆なんだ」
「そう! 逆、逆。ですよね、冬矢さん!」
「うん。大丈夫だから」
「ほら、まずは紅茶飲んで。ね?」
「ん、うん」
 慌てるふたりに対して何度か瞬きを見せ、蒼生はそっとカップを持ち上げた。ふわりと甘く香る湯気をゆっくりと吸い込み、暖かい液体を喉に通すと、わずかに気持ちが静まる。
「……ごめん、先走って。もしかして、と思って、つい悪い想像しちゃった」
「俺たちのほうこそ、おかしな雰囲気を作ってごめんね。でも、そう思ったことをはっきり言ってくれてありがとう」
 昔の蒼生なら、黙って飲み込み、さらに悪いほうに想像を膨らませてひとりで落ち込んでいただろう。それをすんでの所で踏みとどまって、自分たちにきちんと話してくれたのは、とてもよい変化だと思う。
 ほっと息を吐き、健太と冬矢はきちんと椅子に座り直した。
「改めて。さっき健太と話したんだけどね。今年はほら、一緒に暮らして初めてのバレンタインデーになるわけだろう? 気持ちが盛り上がって、絶対にあれもこれもと買い込んでしまいそうな気がするんだ」
「うーん、たしかに」
「蒼生もそう思うだろ? 絶対たっくさん買っちゃって、賞味期限内に食べきれなくなっちゃうんじゃないかってさ。んで、期限内に食べなきゃっていう義務感で無理に食べるのって、せっかくの美味しいのが台無しじゃん。食べ過ぎもよくないだろうし」
「うん」
 素直に蒼生は頷く。たしかに言われてみれば、だんだんに鮮やかさを増していく菓子コーナーを目にするたび、どんなものを用意したら喜んでくれるかを考えると同時に、自分用にも欲しいと思ったことがある。その勢いのままに3人がかりで増やしていけば、健太の言う通りになってもおかしくない。
「そこで、改めて提案だが」
 冬矢の言葉に、蒼生だけでなく健太も興味深げにその顔を覗き込んだ。先程の話し合いは途中だったので、健太もその先を知らない。冬矢はふたりの視線を確認すると、蒼生に向かってにこりと笑った。
「今年は、蒼生にチョコレートケーキを作ってもらいたいんだ」
「僕?」
 驚く蒼生に、冬矢が頷く。その隣で健太が渋い顔をした。
「ってことは、オレは」
「健太と俺は準備を我慢する。蒼生の作ってくれるケーキを唯一の特別にしたいから」
 それは健太にとっては少々納得のいかない話だったため、一瞬だけ不満に思う。が、蒼生の特別、という言葉を聞いた途端にすんなりと納得した。蒼生が自分のために何かをしてくれるのだと思えば、文句などあろうはずがない。なるほど、「蒼生の腕」というのはそういう意味だったのかと健太はひとり頷いた。
 そして、蒼生にも同じ言葉が響いていた。自分が何かをすることが、ふたりにとって「唯一」で「特別」なのかと。
「……それなら、わかった。ケーキとか作ったことないけど……うん。頑張ってみる」
 両手をぎゅっと握り、蒼生はその手をじっと見つめた。そして、ちら、と冬矢を上目で窺う。
「ちなみに、僕も同じ要求をしたら、許される?」
 冬矢はふっと笑い、身を乗り出して蒼生の両手を自分の両手で包み込んだ。
「もちろん。ホワイトデーには蒼生が食べたいケーキを焼いてあげる。だから、よろしくね」
 対照的にきりりと蒼生が表情を引き締めたのが愛おしい。思わず冬矢は手に力を込め、健太は胸を押さえて机に突っ伏した。


 その次の日から、蒼生はふたりの目が届かなくなるたびに、こっそりとレシピ本を読むようになった。いや、蒼生はこっそりしているつもりだったようだが、時折字を追うのに夢中になって視線に気付かないことがあったので、実はふたりにはとっくにバレている。見覚えのある本ではなかったから、おそらくわざわざ買ってきたのだろう。紙の本を選ぶあたりが蒼生らしくて可愛いと思うふたりだ。なお、蒼生本人はバレているとは微塵も思っていないらしく、それもとても可愛い。また、夜中に急に気になることもあるようで、ベッドの中で突然レシピを検索しだしたりもする。当然ふたりはそれにも気付かないふりをしていたのだが、もうあまりの可愛さに毎回飛び起きて抱き締めたくなってしまうのをなんとか堪える日々が続いていた。
 健太の我慢がそろそろ限界に近付き始める頃、蒼生の実践を伴う練習が始まった。おそらく、難関はスポンジケーキだろう。体験談を読んでいると、そこが一番失敗を伴う工程らしい。となれば、本番一発勝負は危険だからだ。
 レシピ通りの材料を揃え。レシピ通りに混ぜ合わせ。レシピ通りにオーブンで焼く。それだけのはず、だった。
「……んー?」
 ケーキクーラーの上で、ぺしゃりと力なく横たわる茶色いスポンジに、蒼生は首を傾げる。想像の中では、もっとふんわりしていたはずだ。だが、目の前のケーキは、どう見ても疲れ果てた風貌をしている。
「んー……」
 蒼生は再び唸る。何がいけなかったのだろう。レシピ本を開き、ひとつひとつ工程を読み返していく。
 そこに、元気なドアの音を立て、健太が帰ってきた。
「ただいまあ!」
「おかえり、健ちゃん」
 さすがにここまで来たら隠すことは難しいと思っていたので、蒼生は手元を隠すでも慌てるでもなく健太を迎え入れた。ちゃんといつも通りの挨拶が出来たと思っていたのだが、健太にはお見通しだったようだ。
「蒼生? どうした? ちょっとしょんぼりしてる? あと、いい匂い」
 ひくひくと鼻を動かす健太に、蒼生は困ったように笑った。
「健ちゃんにはすぐわかっちゃうなあ。……初めてスポンジケーキを焼いてみたんだけど、失敗しちゃって」
「ふうん?」
 健太はキッチンを覗き込む。銀色の網の上に、甘い香りがする丸い塊がいる。健太の胃はすぐさまそれを求めて、ぐーっと存在を主張した。
「蒼生。味見」
「えっ」
「味見する」
「でも、失敗したやつだし……」
「もったいないもん。おやつ……」
 蒼生は口を尖らせる健太と、失敗作のケーキを見比べる。それから指先で頬を掻いて、包丁を手に取った。その刃をケーキに入れていくと、ずいぶんと重い。
「あー……スポンジケーキの感触じゃない……」
「どれどれ」
 健太の声はわずかに弾んでいる。そのままぱかんと口を開けるので、仕方なく切り取った一切れを差し出す。健太は迷わずそれに齧り付いた。
「ん。んー、うん。味は美味しいよ!」
「そう?」
 手元に残る半分になった一切れを、蒼生は自分の口に放り込んだ。たしかに、味は悪くない。分量通りに材料を入れているのだから、それはそうだろう。だが、食感が明らかに思い描くスポンジではない。
「……もったりしてて硬い。あとなんかパサつく……」
「んー。あ、これ、牛乳が合うと思う。もう一切れちょうだい」
 健太が早速冷蔵庫を開け、中から牛乳のパックを取りだしてコップに注ぐ。その間に蒼生は同じくらいに切ったスポンジをさらに半分に切った。
「蒼生、あーん」
「はい」
 それから、牛乳を一口。
「! んん。ん、ん」
 目を瞬かせて頷いた健太は、蒼生にコップを差し出す。蒼生もスポンジを口に含んでから一口飲んでみた。その甘い塊は、ほろほろと口の中でほどけてゆく。
「あ、うん。なんだろ……ココアの感じが強くなるね」
「な、こうすると美味しく食べられるだろ」
「そうだね。……って言っても、何度も失敗したくはないんだけど……」
「だーいじょうぶ! そのたびにちゃんとオレがいただくから!」
 どんと健太は自分の胸を叩く。ちょうど小腹の空く時間だ、さほど大きくないこの1ホールくらいは余裕で食べられる。目を輝かせる健太を、蒼生は呆れたように見つめ、それからふんわりと目元を和ませた。
 ところで。バレンタイン用に練習しているものを食べさせてもらうというのは、実は先行して渡していることにならないだろうか。それには双方なんとなく気付いていたが、熟慮した結果、ここは気付かなかったことにする。蒼生と健太は目を合わせ、くすっと笑い合った。
 冬矢が帰ってきたのは、それからしばらくしてからだ。その頃にはわずかな一切れが小さな皿にひとつ乗るだけになっていた。本当にすべて平らげようとする健太に対し、「失敗の原因、教えてもらわなきゃいけないから!」と蒼生が死守した結果だ。
「ただいま、蒼生」
「おかえりなさい!」
 すぐに冬矢は甘い香りに気が付く。
「ああ、もしかして練習してみたの?」
「うん。でも失敗しちゃって」
 トーンの落ちた蒼生の声に、冬矢は視線を巡らせる。なるほど、皿の上にはしぼんだスポンジケーキが寂しそうにたたずんでいる。
「そうか。スポンジケーキは失敗も多いからね。それでも初めて焼いたにしては綺麗だと思うけれど。いただいてもいいかな」
「失敗作でよろしければぜひご助言を……」
「あはは、では頂戴します」
 冬矢が皿ごとケーキを手にし、じっくり眺めてから口に入れるのを、ふたりは固唾を呑んで見守る。冬矢は口を動かしながら、何度か頷いた。
「……うん。味はいいね。おそらく工程にもほとんど問題はなさそうかな。そうだな、次に作る時は、卵の泡立てをもう少し多めにやって……粉を混ぜ合わせる時の混ぜる回数を少しだけ少なめにしてみるといいかもしれない」
 蒼生と健太は目を見開いて顔を見合わせる。
「一口だけでそんなことがわかんのか!?」
「いや、失敗例としてはよくあるパターンだからね」
「すご……もう先生だね」
「冬矢先生!」
 ふっと冬矢は笑い、蒼生の頭をぽんぽんと叩いた。
「俺も最初は失敗したものだよ。蒼生に食べて欲しくて何度も練習した」
「! ……うん。僕も頑張る!」
 蒼生がようやくいつもの笑顔に戻ったので、健太と冬矢は安心してほおっと息を吐いた。


 さて、バレンタインデー当日である。
 冬矢がチョコレートケーキを要望として提案し、蒼生はココア生地のスポンジケーキを練習していた。だから何が出来るかはわかっていたし、ふたりがわかっていることを蒼生自身も知っていたはずだ。
 けれど、
「あの、簡単なのしか出来ないから、期待しないでね。絶対しないでね。それから、できれば、見ないでほしくて、その……っ」
 エプロン姿が可愛い蒼生は、指を小さく絡ませてそう言った。
「なるほど、俺たちは外出していればいいかな」
「……っ、で、できれば……」
「そっか。わかった。んじゃ、出かけてくるから、何かあったらすぐに連絡しろよ」
「うん……っ」
 冬矢は優しく蒼生の髪を撫でる。
「夕飯は俺たちで適当に買ってくるから、蒼生は気にしなくていいからね」
「え? でも」
「そうだな、パーティだもんな! んで、楽しみはデザートにってわけだ」
 健太が楽しそうに言うと、蒼生は少々戸惑った顔をしつつも、最終的には頷いた。
 家を出るなり、健太と冬矢は肩を並べて腕を組む。
「……一生懸命頑張ってる姿を見られたくないからって、オレたちを追い出す蒼生……めちゃくちゃ可愛いな……」
「やはりカメラを仕掛けておくべきだったか……。絶対可愛い映像が撮れたぞ」
「っ、わかる……けど……隠すのはダメじゃねえか? 頼んだらなんだかんだ言いつつOKしてくれそうだけど」
「そうかもしれないな。だが、緊張させてしまうと思うと可哀想だという気持ちもある」
「あー、それもわかる……」
 はあっとふたりで息を吐く。自分で言い出したことなのに、申し訳なさそうに玄関先で手を振った蒼生の顔が脳裏から離れない。可愛いし愛おしいし、今すぐ戻って抱き締めたい。だが、こうやっていつまでも家の前にいるわけにもいかないだろう。
「んで、どうする」
「どうするもなにも。別に、俺たちが一緒に行動する必要はないだろう」
「だよな。夕飯買う頃に合流すりゃいいか。どこ行きゃいい?」
「駅ビルで」
「了解」
 ふたりはその場で分かれ、健太は商店街のほうへ向かう。冬矢は大通りを目指して歩いて行ったようだ。あくまで一緒にいたいのは蒼生であって、健太と冬矢には共にいなければならない理由はないのだから。
 健太はぶらぶらと歩く。特にどこへ行く用事はない。もともとこの日には何も予定は入れていなかった。蒼生と一緒にいるつもりだったし、ましてやバイトを入れたりなどして他の誰かから何かをもらうのは義理といえど避けたかったからだ。
 商店街に入ると、なんとなく手前にある古着屋に足を踏み入れた。何か見ていれば、必要なものも見つかるかもしれない。ハンガーにかかった男性物の衣類をとりあえず片っ端から眺めていく。ふと、落ち着いた空色のジャケットが目に入った。これは蒼生に似合いそうだ。次に目にしたシャツは少し蒼生には小さい。次は……。
 はっとして頭を振る。今日は自分のものを見なければ。今回のイベントの趣旨は、蒼生が作るものに集中しようということだ。ここでプレゼントをしてしまっては、蒼生が気にしてしまう。来月の蒼生がお返しを考えなくて済むように、自分は我慢をしなければならないのだ。ぐぐっと堪え、春先に使えそうな上下をそれぞれ1枚ずつ買って店を出た。
 和菓子屋の前を通る。ガラスのドアの向こうで、春めいた柔らかな色の上生菓子がショーケースに並んでいた。小さなピンクの花がひとつだけ乗った、白くて丸い形が目に留まる。きっと蒼生はあれを選ぶだろう。……いや、今度蒼生と一緒に見に来ようと健太は再度頭を振る。
 洋菓子屋の前。艶やかで魅力的なチョコレートが、これでもかと甘い香りで誘ってくる。それでも、隣に並んでいる、蒼生が好きなサブレのほうに目が行ってしまう。なんと、季節限定で桜味が出ているではないか。
 鞄屋。そういえば蒼生がもう少し幅広の鞄が欲しいと言っていた。まだ使えるから勿体ないとも言っていたが、蒼生はもう少し持ち物を増やしてもいいと思う。
 肉屋。蒼生はここのコロッケが好きだ。ほんのり甘いのがソースに合うのだと笑っていた。
 喫茶店。バレンタインフェアは今日までで、明日からはストロベリーフェアをやるらしい。蒼生が喜びそうだ。
 雑貨屋。店頭に並べられたアクセサリーの綺麗な青い石は、どうしても蒼生を思い出させる。
「……あー……、今日はだめだぁ」
 がしがしと健太は思い切り頭を掻く。ひとりで買い物なんて慣れたものだ。あちこちふらふらするのも好きだ。なのに、今日はどうしても蒼生のことが頭から離れない。いや、常に離れることなんてないのだが、ここまでぎゅうぎゅうに埋め尽くされてしまうとは。
 そのあともいくつか店を巡ったが、どこに行っても症状は治まらなかった。最終的には隣に蒼生がいるつもりで何もない空間に向かって話しかけてしまい、頭を抱える結果になった。もうこうなったら大人しくしているのが得策だろう。そう考えた健太は、くるりと行き先を変え、駅ビルの1階にあるコーヒーショップに入った。頼んだのはブラックコーヒーだ。これで少しは目が冴えるかもしれない。カウンターでカップを受け取り、席を探す。と。
「あれ」
 窓際に見慣れた姿を見つけ、健太はきょとんとして立ち止まった。その声にこちらを見た冬矢が、わずかに目を見開いて、それからすぐに呆れ顔で笑った。
「おまえもか」
 そのセリフから察するに、冬矢も同じ行程を経てここに辿り着いたのだろう。健太は冬矢の前の席にどっかりと座り込んだ。
「あー、もう、全然ダメ。どこ行っても何見ても蒼生のことばっか考えちゃって、ろくに買い物も出来ねえの」
「俺もだ。一応、勉強をしようと参考書も持って図書館に行ったんだけどな。本の匂いに囲まれていると、蒼生に会いたくなって……まったく集中出来なかった」
 冬矢がそんな状態になるとは、よっぽどのことだ。というか、健太はずっと奇妙に思っていたのだが、バレンタインデーの話を出してきた時から冬矢のテンションがいつもと違いすぎないだろうか。
「なあ、おまえさあ。……実はものすごく楽しみにしてたんだろ、バレンタイン」
「当たり前だろう」
「うわ即答だ」
「考えてもみろ。蒼生の手作りのチョコレートケーキを食べられる最初の機会なんだぞ。蒼生の手作りというだけで普段の食事から天に昇るほど嬉しいのに、嗜好品を用意してくれるんだ。わざわざ。俺のために」
 ふむ、と健太は腕を組む。冬矢は自分の作った食事は蒼生にしか与えたくないと思っている。健太はどこまでも「ついで」だ。つまり、それだけ手作りというものを特別視しているのだろう。だから蒼生がバレンタインデーに初めて作るチョコレートケーキにこだわっているというわけだ。なかなか可愛いとこあるよなこいつ、と思って、コーヒーをずずっとすすった。
「おまえの、だけじゃなくて、オレのぶんも含まれてんだけどなぁ。……あー、まあ、どっちにしても、オレらを追い出した蒼生の姿がどうしても可愛くて頭から離れなくて早く蒼生のところに戻りたいって気持ちは一致してるわけだ」
「そう。だが蒼生の邪魔をしたくないから帰るわけにもいかないという悶々とした思いも同じだろうな」
 結局、「蒼生が大好きで大切にしたい」という点で、ふたりの思惑は一致しているのだ。もしかすると、この世界で一番わかりあえるのはお互いなのかもしれない。それを認めるのはなんだか悔しいので、双方口にすることは決してないのだが。
 はあ、と健太は息を吐く。
「しょうがねえなぁ。ゲーセンでも行くか」
「おまえとふたりで?」
「だって、ここで顔つき合わせてても意味ねえだろ。蒼生のことしか考えられないんだから、いっそ蒼生を賭けて勝負しようぜ」
 冬矢は驚いたように瞬きをし、それからにやりと笑った。
「蒼生の何を賭ける?」
「んー……そうだなー……。勝ったほうは、今日の夜寝る時に、蒼生がぎゅってしてくれる」
「ふっ。それは負けられないな」
 目を合わせて残りのコーヒーを飲み干すと、ふたりはがたりと席を立った。

 鍵を開けて家に入ると、奥から蒼生がぱたぱたと駆けてくる。
「おかえりなさーい!」
「ただいまー」
「ただいま」
 にこにこと明るい笑顔にほっとする。自分たちが出かけている間、何事もなかったようだ。会いたくて会いたくて仕方がなかった愛しい恋人を、順に抱き締める。
「予定より早く戻ってきてしまったけれど、大丈夫だった?」
「うん。協力してくれてありがとう」
「もうね、ずっと蒼生の顔見たかったんだ」
「嬉しい」
 蒼生はふにゃりと表情を崩し、抱き締めるそれぞれの肩口に頬を摺り寄せる。離れて堪えていたぶん愛おしさが溢れて、このまま抱き上げて寝室に連れ込んでしまいたい気持ちを必死で押さえ、健太は持っていた袋を蒼生の目線の高さに上げた。
「蒼生、これ、おみやげ!」
「おみやげ?」
 顔を上げた蒼生は、健太の掲げる袋の中を覗き込む。そこには、駄菓子がたくさん詰まった一抱えもある袋が入っていた。
「…………? お菓子? ふたりとも、どこに行ってたの?」
「ゲーセン! いろんなゲームで勝負してさあ。これはクレーンゲームで勝った時のやつ!」
「ああ、大きなお菓子が入ってるクレーンゲームってあるもんね。でも取るの大変だったでしょ」
 健太は得意げに指を2本立てる。
「それがなんと、2回で取れたんだぜ!」
「え、すごいね」
 そのやりとりを聞いていた冬矢は、ぽんと蒼生の頭に手を乗せた。
「ただ、全体的な勝負では俺が勝ったからね。今夜、蒼生は俺に抱きついて寝るんだよ」
「へ?」
 蒼生はきょとんとして、勝ち誇った顔の冬矢と、一気に悔しそうな顔になった健太を見比べる。そして、そっと口元を押さえて肩をぷるぷると震わせた。
「……ふ、ふふふっ。そっか。勝負ってそういうことかあ」
 それから、ぱっと花が咲いたような笑顔で、ふたりの腕をきゅっと掴んだ。
「まずはごはんにしよう? 少し早いかもしれないけど、その後デザートがあるもんね。ねえ、何を買ってきてくれたの?」
「寿司と唐揚げー。パーティだからな!」
「それじゃあ、準備しようか」
 少々バランスが悪い気のするメニューだが、どちらも健太の要望だ。冬矢は何か惣菜でもと考えていたのだが、健太が何度も繰り返すとおり、パーティだと捉えてもいいのだろう。実際、3人が3人ともどこかふわふわした気分だった。蒼生と健太はずっとそわそわしており、冬矢も態度には出さないものの緊張に似たざわめきを胸の中で感じていた。
 そうして、後に出てくるメインディッシュのことを考えて控えめに買ってきた夕飯は、健太と冬矢の熱い勝負の話で盛り上がるうちにあっという間に食卓から消えてしまった。
「美味しかった! ごちそうさまー。それにしても、シューティングバトルは僕も見たかったなあ」
「今度は蒼生も一緒に行こうね」
「うん」
「やっぱり蒼生が見ててくれると気合いも違うもんな」
「あはは、すごい勝負を期待してる!」
 蒼生はふたりの対決を見るのが好きだった。家でのゲームは時間をかけてやるものが多く、比較的協力しあいながらプレイしている姿をよく見る。それも仲が良さそうで好きなのだが、対戦で真剣にぶつかり合っている姿が格好良くて大好きなのだ。
「……蒼生?」
「うん?」
「にこにこしてる蒼生、すっげえ可愛いから、このまま見ていたいと思うんだよ。だけど、その」
「あ」
 ぽんと蒼生が手を叩く。
「そうだよね、うん、準備するから、もうちょっとだけ待っててくれる?」
 言うと、慌てて立ち上がり、キッチンに駆けていく。残ったふたりは、蒼生の様子を温かい気持ちで見送ると、手早くテーブルの上を片付けた。ただ、このまま食器をキッチンに持っていくと、蒼生がこっそり最終作業をしているところを見てしまうことになる。だから、そっとまとめてカウンターに乗せておいた。
 その間、蒼生はぱたぱたとせわしなくキッチンの中を動いている。冷蔵庫を開けたり、奥に行ったり手前に来たり。一体どんな作業をしているのだろうと気になって仕方がない。だが、もう少し我慢だ。
「……よし。うん」
 ちらちらとキッチンを窺っていると、やがて、決意を込めた声が聞こえる。
「ふたりとも、目、閉じてて」
「ん」
「わかった」
 最後の最後まで内緒にしておくつもりらしい。可愛いことをするものだとふたりは思わず微笑みながら目を瞑った。
 スリッパの軽い足音。
 遠くで香っていた甘い匂いがふんわりと強くなる。
「あの……。き、期待しちゃだめだよ。ハードル下げてね。じっと見ちゃだめだからね」
 どれだけ心配なのだろう。健太は小さな衣擦れの音を聞きながら、甘い香りを大きく吸い込んだ。蒼生の言葉は、かえって期待を駆り立てる。言い訳を繰り返すのは、それだけ蒼生が一生懸命頑張ったという証拠だ。全力で取り組んだからこそ細かい粗が目立つ気がするのだろう。
 冬矢は蒼生の不安の理由がわかった気がした。蒼生にとってひとりでケーキ作りをするのは初めてだ。つまり、このジャンルにおいて褒められたことがないから、自信がないのだ。その著しい過小評価は、まだ蒼生の中に染みついている。それをひとつひとつ塗りつぶしていけば、そんなに心配しなくても大丈夫だと、いつかわかってくれるだろう。
 ごとん、と。向き合う健太と冬矢の中央で、重たげな音がした。
「……えーっと。……どうぞ」
 ぱっと目を開ける。
「おー!」
「え……!」
 それと同時に声が出た。
 大きな皿の中央に、ココア色のクリームを纏った小さめのケーキがひとつ。その上には細かく刻まれたチョコレートが敷き詰められている。周りには、たくさんのチョコレートが並んでいた。それは、ハート型のもの、星形のもの、ドライフルーツが埋め込まれたものや金箔で飾られたものなどバラエティに富んでいる。中には、トリュフチョコレートも混じっているようだ。それらを飾り立てるように並ぶイチゴとバナナの赤と白がさらに目に美しい。
 なにより。ふたりに向けてケーキに立てかけられたホワイトチョコのプレートに、チョコレートペンでそれぞれ丁寧に書かれた、「健ちゃんだいすき」「冬矢だいすき」の文字。
 がたん、と冬矢が立ち上がり、その勢いで蒼生に抱きつく。
「……っわ」
 バランスを崩した蒼生に、慌てた健太が手を差し伸べ、背中側から抱きとめる。
「……すごい。とても綺麗じゃないか。ありがとう。嬉しい。俺も大好きだよ、蒼生」
 わずかに揺れる冬矢の声色。蒼生は小さく笑うと、そっと手を伸ばし、背中をとんとん、と叩いた。
「冬矢のリクエスト、応えられたかなあ」
「もちろん。丁寧で繊細で、愛に溢れていて、蒼生らしい。本当にありがとう」
 褒められることに慣れない蒼生は、少し困ったように指先をすり合わせる。
「でも、クリーム上手に塗れなくて、何度もやり直してるからがたがたになってるし、トリュフも真ん丸にならなかったんだ」
「ああ、そこを気にしていたんだね。初めてなのにとても丁寧だと思っていたよ。凝り性な蒼生らしい感想だ。むしろ、買ったものでは味わえない、手作りの愛しさが感じられて嬉しい」
「と、冬矢」
 蒼生まで声が震えだしたのに気付き、健太が頬を蒼生の頬にぴたりと付けた。
「それにしても、蒼生、頑張ったねえ。すごいボリュームじゃん」
 明るい声で言うと、蒼生もわずかに頬を緩める。
「うん。あのね。止められなかったんだ」
「へえ?」
「最初にチョコレートを刻むんだけど。包丁で板チョコを削るたびに、その音が“好き”って聞こえるようになってきて。あー、これ、僕が健ちゃんと冬矢のこと好きって思ってる気持ちなんだあって思ったら、嬉しくて楽しくてどうしようもなくなっちゃったんだ。しかも、予備のチョコまで刻んだだけじゃ足りなくて、たくさん買い足しちゃった……」
「……え」
「他の人相手だったら、こんな、練習までして何かを作るなんて面倒なことは絶対したくないのに。健ちゃんと冬矢にあげるんだって思ったら、そんなこと、ひとかけらも考えなかった。もう、好き好き大好き! って、我慢できなくなっちゃったんだよ。だから、実は、お皿に乗せきれなかった分が、キッチンにまだあったりします……」
 思わず健太は蒼生を抱く手に力を入れる。冬矢もますます蒼生に体重をかける。
「つ、潰れるぅ」
 蒼生からは苦情が出るが、ふたりはその手を緩められない。
「だって、蒼生があんまりにも可愛いこと言うから!」
「俺たちも我慢できずに早く帰ってきてしまったけれど、蒼生も我慢できなかったんだね」
「……うん。追い出して、ほんとごめんね」
「その間、蒼生がこんなに頑張ってくれていたと思えば、その時間も愛おしいさ」
「だよな。ずーっと蒼生のこと考えてたもん。……だから、早く食べよ」
 健太のうずうずした言葉に、蒼生と冬矢はくすりと笑った。たしかに、健太の言う通りだ。
 改めてケーキに向き合う。
 蒼生がたくさんの“好き”を込めたと知れば、なおさらに愛おしい。
「オレには切れないので、蒼生さんお願いします」
「あはは。はーい」
 ナイフがふわりと吸い込まれていく。その断面は、濃い茶色と薄い茶色が綺麗な層になっている。さらに、フォークで切れば、驚くほど軽い。
「! 美味しい!」
「ああ、スポンジケーキがすごくふわふわだ。練習の成果が現れているね」
「クリーム、すっごい軽いな! 口の中でとける!」
「甘さ控えめなんだね。美味しい」
「ほんとにありがとな、蒼生」
「俺はなんて幸せ者なんだろう」
 健太と冬矢が口々に褒め称えるので、蒼生は困ってふたりの顔を見比べる。健太が笑って、ケーキを大きめに切って小さな皿に乗せ、蒼生に向かって差し出した。
「ほら、蒼生も自分で食べてみて。完成品は初めてだろ」
「うん。……あれ、ほんとだ。美味しい」
「だろ!? な!?」
 自分のことのように喜ぶ健太を見て、蒼生はようやくほっと息を吐いた。ふたりが「美味しい」と言ってくれるまで、本当に心配だったからだ。途中で何度も味見をして、大丈夫だとは思っていたが、自分では気付かないミスもあるかもしれないのだから。そして、実際に口にしてみると、甘いスポンジケーキとさっぱりめのクリームがとても合う。軽くてしつこさもなく、すぐに一切れを食べ終えてしまいそうだ。それに、なにより、ふたりが褒めてくれたケーキだ。より一層美味しく感じられても不思議ではない。
「僕……。上手にできたかも」
 ぽつんと蒼生が呟く。健太は嬉しそうに頷き、冬矢も一瞬目を見開いてから笑った。
「マジでこれ、1ホールひとりで食べられちゃうかも」
「たしかにそのくらい軽くて美味しいね」
「あ、こっちのチョコもいただきます! わー、トリュフのやつ、うまっ」
「こっちもどうかな……」
「滑らかで美味しいよ」
 3人で、手を伸ばす。
 そして。
 あれだけたくさん乗っていた皿の上はあっという間に空っぽになってしまった。
 そして最後にとっておいた「だいすき」のプレートを、健太と冬矢は噛みしめるように味わった。嬉しそうなふたりの顔を、蒼生はさらに嬉しそうににこにこと見つめていた。

 甘いもので満たされた3人は、風呂上がりの穏やかな時間をソファの上で過ごす。
 少し眠くなってきている蒼生だが、左右からもたれかかってくるふたりは離れる気配を見せなかった。それでもいいかと思い、蒼生はふたりの体温を感じながらふわふわと浮かんでいるような気分でいる。
 ただ、ふたりがあまりにも長時間静かなので、少し心配になってきた。
「ねえ……。まだ寝ないの?」
 小声で話しかけると、ふたりがわずかに身じろぎをする。
「うん、もうちょっとこのままでいたい」
「今日が終わるのがもったいないと思っているんだよ」
「そっかあ。……あの、そんなに嬉しかった?」
 すると、ふたりはがばっと体を起こした。
「当然! めちゃくちゃ嬉しかったよ! ありがとう、蒼生大好き!」
「こんなに嬉しい日はないと毎日思っているよ。その中でも今日はさらに特別だ」
 蒼生は、口の中で「そっかぁ」ともう一度呟く。それから、ふふっと笑った。
「僕も楽しかった。時間はかかっちゃったけど、ふたりのことを考えながら作業するのはすごく楽しかったし、なによりふたりが喜んでくれたのがよかった」
 冬矢は柔らかな蒼生の髪をくしゃりと掻き混ぜる。
「俺の提案、悪くなかっただろ?」
「うん。僕の全力を健ちゃんと冬矢に“どうぞ!”って出来るのが、誇らしいっていうのかな? すごく気持ちよかった」
「ホワイトデーは俺が全力を出すからね」
「えへへ、楽しみ」
 健太は蒼生の手を取り、そっと指を絡ませる。
「オレも楽しかったし嬉しかったし、来月どうしようかなってわくわくしてる。……けど、蒼生ばっかに任せてるのはちょっとだけ寂しいかなーって。ほんのちょびっと、な」
 ちらりと冬矢が健太の手元に目をやる。蒼生の指を弄る指先は、まるきり拗ねた子供のようだ。
「それは、俺だって蒼生にはしてあげたい気持ちのほうが強いけどな」
「いや、ちゃんと冬矢の言い分はわかってるし、蒼生が楽しくてよかったって心から思ってるぜ? ただ、今日、オレは蒼生に何もしてないなあって」
 あ、と蒼生が声を上げた。
「そしたらさあ、ふたりに寂しい思いさせちゃったなら、僕がなんでもひとつお願いを聞くよ。僕にしたいことでも、僕にしてほしいことでも。バレンタインデーの準備を我慢した人に特典があってもいいよね」
「え、いいの!?」
「蒼生、それは」
 口を挟みかけた冬矢に、蒼生はにこりと笑いかける。結局蒼生が何かをすることになるのではないか、と言いかけたが、それを健太には気付かせないつもりのようだ。なるほど、蒼生は最後まで健太を甘やかす気でいるらしい。蒼生がそのつもりなら黙っていよう。
「ん? おまえ、なんか言いかけた?」
「……いや。これからも色々なパターンがあっても面白いだろうなと思った。例えば、バレンタインを俺たちがやって、ホワイトデーを蒼生がする、とかね」
「おお。じゃあ勝負して勝ったら用意できる、なんてのもアリだな。食べ物を買っていいのはひとりだけ~、とかさ」
「ということは、毎年違うのかもしれないってことだね」
 頷いて冬矢は笑う。
「そうだね。なにせ、これから何度も繰り返す行事だから。今年は何をしようと話し合うのもいいじゃないか。それごと楽しんでいこう」
「何度も……」
 嬉しそうに蒼生が呟く。一度きりでは終わらない。ずっとずっと、続いていく。これから、ずっと。
 蒼生はふたりの腕をぎゅっと抱き締めた。
「……それじゃあ、まずは大好きなふたりの、今日のぶんのお願いを聞こうかな。僕に何をしてほしい?」
 健太が目を輝かせる。
 冬矢が顔をほころばせる。
「じゃあ……」
 ふたりがそれぞれ耳打ちしてくるのを、蒼生はくすぐったそうに聞く。
「……ふふ。もちろん、いいよ」
 部屋の中は、まだチョコレートの甘い香りで満たされていた。

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