高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2025年10月08日 21:00    文字数:19,236

92こ目;ひとりじめしたい日

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記念すべきAfter!シリーズ60作目です。
そして10月8日は108で冬矢の日。
相変わらず、よい巡り合わせを呼ぶ男です、笹原冬矢。
そんなわけで、今回は冬矢が蒼生をデートに誘うお話です。

↑初公開時キャプション↑
2023/10/08初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 同じ大学に通ってはいるものの、出かける時間は意外とまちまちだ。その日に取っている講義の数が違うというのももちろんあるが、学部が敷地の奥にある蒼生はそれを見越して早く家を出る傾向にある。それが、今日は3人が偶然一緒になった。理由は色々あるのだけれど、そんなことはどうでもいい。蒼生といられる時間が長くなるのだから、とにかく嬉しい。ついでに健太もいることについてはこの際大目に見よう。
 蒼生も俺たちと共に大学に向かうのが嬉しいらしい。普段は家でしか見せないようなふんわりとした空気を隠し切れずに、わずかに足が弾んでいる。……可愛いな。
「そういや、蒼生がこの前教えてくれた文房具屋ってこっち?」
「だよ。そこ曲がったとこ。そんなに大きくないんだけどね、ペンの品ぞろえが豊富だったんだ」
「迷うといけないからさ、今度一緒に行こ」
「うん!」
 健太と話す時、蒼生は幼い子のような表情を見せることがある。それも可愛いと思うのだけれど、健太にばかり向いているのが癪だと思ってしまう。
「俺も補充したいペンがあるんだ。健太と行くなら、俺も連れて行ってほしいな」
「わあ、そしたらその時、ちょっと先にある喫茶店に寄らない? モンブランが美味しいって聞いて、ふたりと行きたいなって思ってたんだ」
「いいな!」
「そうだね、行こう」
 俺と健太が頷くと、蒼生はますます嬉しそうに顔をほころばせた。その顔を見ると、ほんの少しの嫉妬心が掻き消えてしまう。そんな小さなことより、蒼生がなんの躊躇いもなく俺たちのことを誘うようになったことが嬉しいと思うからだ。
 大学の正門をくぐり管理棟の先まで行くと、分かれ道になる。ここから数時間、蒼生とは離れ離れだ。将来のためには仕方ない時間だとわかっているが、そうは言っても蒼生の傍にいられないという事実には変わりないのだ。蒼生と物理的に距離があることにはどうしたって慣れられようはずがない。だからこの瞬間は何度繰り返しても気分が沈んでしまう。
「えーっと。蒼生は今日、4限までだっけ」
「うん、そう。健ちゃんも4で、冬矢が3だよね」
「ああ。用事はないから、帰ったら夕飯の支度をしておくよ」
「お願いしまーす」
 ……そうだな。俺にはその楽しみがあった。蒼生のために出来ることがあるのだから、沈んでばかりはいられない。
 夕飯の内容はまだ決めていない。家に一番近いスーパーが安売りの日だから、帰りがけに買い物をしながら決めるつもりだ。自分もずいぶん所帯じみたものだと思うが、その「所帯」に蒼生が含まれていると思うと、悪くない。いや、むしろ誇らしい。
「それじゃあ……、いってきます」
「また後でな」
「気を付けて」
 まるで家を出る時のような言葉を交わして、俺たちは三方向の道に進む。健太と俺は学部棟が近いので普段はしばらく同じ道を行くのだが、今日あいつは別の棟に用事があるそうだ。そこに向かうには建物の裏を通る近道がある。
 実はその道は、構内の奥に行く蒼生にこそ便利な近道だった。だが、木が多くて見通しが悪く人通りも少ないようなその道は使ってほしくなかった。蒼生に万が一のことがあっては大変だからだ。蒼生はさすがに過保護では、と言うが、用心に越したことはない。それについては健太も同じ意見だ。ちなみにその話になった時、俺は健太に対しても暗くなったら通るなと伝えた。蒼生の心配を和らげるために、わざと蒼生の前で。自分が危険だと言われた道なのだ、健太も大丈夫だろうかと蒼生が心配をしないわけがないだろうからな。蒼生は幼い頃から健太の面倒を見ていたのだから、その心配も無理はない。それを理解しているらしい健太もそれに頷き、今でも正直に守って、暗くなってからはその道を避けている。
 俺たちは互いに心配しすぎる。その自覚はあるが、治すつもりはない。薄暗い体育倉庫で見た、蒼生の怯えた青白い顔は、おそらく俺と健太の記憶から一生消えないのだろう。
 さて……。教務課に寄る予定があったんだが、それもすぐに終わってしまった。少し早いが、講義室に向かうか。
 講義室には学生たちが多く集まり、相応に騒がしい。いつも座る席のあたりには、既に馴染みの顔があった。今日は専門科目が多いから、彼らと行動を共にすることになる。軽く挨拶を交わし、いくつか教材の件でやりとりしているうちに講義の時間がやってきた。
 3人だけで使っている携帯のメッセージに健太から連絡が入ったのは、昼休憩の時だった。曰く、同じ講義を取っている友人たちと夕飯に行くことになったらしい。蒼生宛だけでなく、律義に俺に対しても謝ってくる。いや、謝る必要はないんだけどな。どちらかといえば、降って湧いた幸運じゃないかとメッセージを見た瞬間に思ったくらいだ。俺は蒼生が『気を付けて』と返事を付けるのを待ってから、『まだ夕飯の買い物もしていなかったから、気にするな。蒼生が心配するから遅くなるなよ』と送る。そうでも言わないと気にする奴だ。すると『ありがとう! ごめん!』という返事。こういう時、こいつは根っからの善人なのだろうと再認識する。
 そのやりとりが終わると、俺は蒼生だけに向けてメッセージを送る。蒼生の授業が終わるまで待っているから一緒に帰ろう、と。少し間があって、『冬矢を待たせるのは悪いから……』と返ってくる。蒼生ならそう思うだろう。けれど、俺はこれを蒼生を独り占めするチャンスだと思っている。ふたりきりになりたいだけだ。下手に言い訳を綴っても仕方ない、蒼生にははっきり伝えたほうがいいのはわかっている。だから続けて、『これはデートの誘いだよ』と告げた。今度は、すぐに回答が届く。『行く!』だそうだ。……可愛いな。なんて可愛いんだ。

 待ち合わせは蒼生の講義室に近い図書館だ。蒼生が図書館に用事があると言うので、俺がそこに行くことにした。蒼生はやはり遠慮したが、せっかくだから文献を探しながら課題をやりたいんだと言っておいた。それも決して嘘ではないけれど、少しでも早く蒼生と会いたいからという気持ちのほうが強い。ただ、本音はきちんと向き合って伝えたいから、メッセージには書き込まなかった。
 学部ごとというわけではないが、大学の敷地内には複数の図書館がある。それぞれに特徴のある蔵書が揃っているため、学部から遠い図書館に寄る必要はあまりない。ただ、蒼生が出入りしているこの図書館には、今日のように待ち合わせに使うことがあったために、何度も来ていた。だから、どこに何があるのかは把握している。辞書や課題にも一応使えそうな資料は1階の奥だ。雑誌の閲覧コーナーや映像資料がある一角で、受付のある吹き抜けからは高い棚もなくこちらを見渡せるようになっていた。ここならば、蒼生が来ればすぐにわかるだろう。
 それにしても、いくつかある図書館の中で、ここは一番明るくて綺麗だ。かといって隣の学部近くにある新しい図書館ほどの華々しさや開放感はない。どちらかといえば蔵書量を増やすためのシンプルな構造になっていて、そのコンパクトさが蒼生にとっては心地良いらしい。蒼生の穏やかで綺麗でいかにも優しい風貌は広く澄んだ空が似合うと思うのだけれど、狭い場所のほうが落ち着くのだそうだ。そのせいか、蒼生は密着をとても好む。その原因にはもしかすると蒼生の過去の出来事に起因するなにかしらの問題があるのかもしれない。ただ、蒼生にはその心当たりはないようだし、今のところはそれ故に困難に直面するような事態になった記憶もないし、密着したいというのは俺たちに触れられて安心してくれていることの表れでもある。つまり、今はそれに対処する必要はなく、ありがたく恩恵を受けていればいいということだ。
 そういえば中学生の頃だったか、何かの話の拍子に「部屋の端っこが好き」だと聞いたことがあったな。想像するに、蒼生は自ら独りでいようとしながらも、ずっと寂しがっていたのだ。ひとりぽつんと隅に座っていた蒼生の姿を想像するとひどく切ない。だからこそ、俺と健太に挟まれて可愛い笑顔を見せてくれる現在の様子が、ひたすらに愛おしい。おそらく俺たちは、蒼生が無意識に思い描いていた理想を体現できているのだろう。
 すうっと空気が動いた。図書館のドアが開いたのだとすぐにわかる。時計を見れば、5限の講義が始まる時間になっている。そろそろ蒼生の姿が見えてもおかしくない。入り口から受付に向かう通路の辺りを眺めていると、愛しい顔が視界に飛び込んできた。
 ああ、世界が変わる。蒼生と俺を繋ぐように、見えない1本の道がまっすぐに伸びる。だから蒼生はすぐに俺に気付くはずだ。すぐ。ああ。ほら。綺麗な顔が、一瞬俺のほうを見て、ぱっと無邪気な表情になる。
 すぐに凜と背筋を伸ばしたのは、近くに2人の女子学生がいるからだ。彼女たちと共に受付に向かった蒼生は、鞄から取り出した1冊の本を窓口に置く。その子たちは蒼生と一言二言交わすと、手を振って奥にあるエレベーターに向かって歩いて行った。
 本の返却が済んだのだろう、蒼生がぱっと振り向く。まだ外に向けた顔のままだ。いつそれを崩してくれるかな。期待を込めて眺めていると、吹き抜けを通り過ぎ、雑誌のラックを越えたあたりで、ふわっと表情が緩む。想像していたより、少し早かった。それがぐっと胸に来る。
「とぉや」
 小さな声は、俺にしか届かない。俺だけに向けた甘い声。
「蒼生。ごめんね、急に呼び出しちゃって」
「ううん、デート誘ってくれてありがと。……ふふ、図書館入ってから、冬矢がずうっと僕のこと見てるから、ちょっと照れちゃった」
 だからガードが外れるのが早かったのか。可愛い。わずかに俺のほうに伸びた両方の手を掴んで、引き寄せて、抱き締めて、何度もキスをしたい。けれど、ここは大学の構内だ。しかも蒼生の学部から近い。先程の女子学生がいつ戻ってきてもおかしくない場所なのだ。なんとかその衝動を堪え、蒼生の両手をそっと取るだけにとどめた。それでも蒼生は嬉しそうに笑う。
 これは聞く必要がないな。そう思ったのだけれど、気になることを抱えているのは良くないと蒼生に言ったのは俺だ。心に何かが引っかかるならば、すぐに聞いてしまえばいい。
「さっきの子たちは、同じ講義を受けている人?」
「うん。班が同じで、よく発表の資料を一緒に作ってるんだ。だけど今日は全然別の用事でね、行き先が偶然一緒だっただけ」
「よかった、蒼生の発表準備の邪魔をしてしまったかと思ったよ」
 そう言うと、蒼生は胸を張る仕草をした。自信満々な表情。可愛いな。
「大丈夫、準備はもうとっくに出来てるから。……もしかして、僕が女の子と一緒だったから心配した?」
「ちょっとだけね。俺の大好きな蒼生を狙われたらどうしようかと思った」
「まさか、そんなことあるわけないよ。それに、僕が大好きなのは冬矢と健ちゃんだけだもん」
 自慢をするように蒼生は言い切る。優しくて気が利いて思慮深くて、そのせいでなかなか物事を決められない蒼生が、俺たちへの愛を断言する意味はとても大きい。それが蒼生の中で紛れもない真実になっているからだ。
 あとは、俺たちが向けている感情をすべて素直に受け入れてくれればいいのだけれど、それが今の蒼生ならばそれでいいとも思っている。過去の蒼生も愛おしかったが、現在の蒼生がどうしようもないくらい好きだから。今、目の前にいる蒼生をありのままに愛したい。
「? 冬矢?」
「ああ、ごめん。蒼生のことが大好きだなってつくづく噛み締めていたんだ」
「ひぇ」
 わずかに蒼生のかかとが浮く。何度言っても照れてしまうところが、本当に可愛いと思う。
 はっきり言ってしまえば、蒼生と一緒にいる女子に対しては、さっさとどこかに行ってくれと思っていた。心配はしていない、蒼生が好きなのは俺たちだけだから。それは蒼生の態度と表情を見れば火を見るよりも明らかだ。だが、距離が近いのはどうしても許容できない。彼女らが蒼生をどう思っているかはどうでもいいし知ったことではないが、無駄なアプローチを仕掛けてくるようなら考えなければいけないと思っている。蒼生の交友関係に口を出すつもりはないが、害があるなら話は別だ。
 それにしても、人目のある場所でこれ以上可愛らしい顔をさせておくわけにはいかないな。蒼生は今、ぎりぎり他人向けの態度を保っているけれど、それでも可愛いものは可愛いのだから仕方がない。このエリアには幸い学生が少ないが、いつこの可愛い子に気付かれてしまうかわからない。早めにこの場を離れよう。
「今片付けるね。そうしたら、一緒に出かけよう」
「うん。……あの……、冬矢。えっと……。冬矢の課題、こっちの図書館じゃ資料少ないよね。もしかして、その……僕に会いたくて来てくれた、とか……?」
 ! ふふふ。さすが、俺の愛しい蒼生。自信なさげだけれど、聡いからわかってしまうんだね。それをきちんと口にしてくれることも本当に嬉しいよ。
「バレちゃったか。それは俺から告げるつもりだったんだけどな。もちろん、蒼生の言う通り、課題は言い訳だね。一刻も早く蒼生に会いたかったから、ここに来たんだよ」
「……うん。僕も会いたかったから、嬉しい」
 ふんわりと笑う蒼生。俺が大好きな表情だ。蒼生は何度か瞬きをすると、机の上に広げたままの本を指さした。
「片付け、僕も手伝っていい?」
「助かるよ」
 蒼生が本を手に取ってくれたのでありがたく片付けを任せ、俺はノートを閉じて筆記用具をまとめる。と、手元に視線を感じた。首を傾げると、蒼生はわずかに目を細める。
「でも、課題もちゃんとやってある。さすが冬矢」
「ここまでは専門的な資料がなくても出来たからね」
「そういうふうにさらっとやっちゃうのが、冬矢のかっこいいところだと思う」
「ありがとう。蒼生に褒められると頑張った甲斐があるな」
 じわりと胸が熱くなる。蒼生は、ちゃんと見てくれている。小さなことも見逃すまいとしてくれている。それも意識的にではなく、自然にだ。こういうところが好きだな、と思う。

 片付けを終えた俺たちは、図書館を出て並んで歩く。来た時よりも明らかに歩みが遅くなってしまうのは、我ながら面白いなと思う。同じ家に帰るのだから、この後もずっと同じ時間を過ごせるのだとわかっているのだけれど、こうして隣にいる時間が長くあればいいと願ってしまうせいだ。
「どこに行こうか」
 話しかけると、うーん、と腕を組む。
「夕飯には少し早いかな。おやつには遅いし。買い物? 何か見に行く、とか……」
 生活に対して無欲な蒼生は、欲しいものや見たいものを聞かれて咄嗟に答えられない。普段からよほど強く意識しているか、長いこと考えていたかのどちらかでなければ、すぐに答えは出てこない。けれど、漠然としているだけで、したいことはあるのだろうと思う。それを会話の中から探していくのは俺の楽しみのひとつでもあった。
 たとえば、今の蒼生の言葉はわかりやすい。真っ先に食事の話が出てきた。何かを食べに行きたいのだろうね。おそらくだが、今朝3人で話した喫茶店のことがふと頭に浮かんだのだろう。けれど、あれは3人の約束だ。健太を置いて先に行くわけにはいかない。そこで蒼生は咄嗟にその案を打ち消し、じゃあどうしようかと少し困ってしまった、というところかな。
 さて、夕飯とおやつか。比重はどちらが重いだろうか。
「蒼生。そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。ふたりきりなんだ、食事の時間はずらしても問題ないと思うよ」
「あ、そっか」
「それに、ちょうど小腹が空く時間だろ?」
「そうだよね。……あ」
 少し先の地面を見ていた目が、ぱっと上を見た。したいことが思い浮かんだかな。なんて微笑ましい仕草だろう。
「何か見えたんだね」
「えっと、パンケーキが頭の中に浮かんだ……」
 なるほど。俺の脳内にも、おそらく蒼生と似たようなイメージが浮かぶ。茶色い生地にバターが載り、シロップがかかっていく映像だ。同時に、記憶を辿っていく。まずは蒼生が行きたがっている場所があるかどうか、そんな会話をしたかどうかを思い出す。出来れば蒼生の希望を叶えたいからな。……そういえば、通りすがりの店の前で話したことがあったか。
「パンケーキか、いいね。ああそうだ、この前蒼生が気になると言っていた店に行ってみようか」
「僕が?」
「ほら、3つ向こうの駅の。美術館の帰りに見かけた店があっただろう。たしか白い建物だったね」
「あ、思い出した。去年できたばっかりだっていうパンケーキのお店だ。……え、あれずいぶん前の話だよね? 覚えててくれたの?」
「もちろん。蒼生のことだから」
 喜んでもらえるヒントは忘れたくない。蒼生が心から笑ってくれることが、俺にとっての最高の幸せだからだ。それを至近距離で眺めたい。ずっと隣で見つめていたい。
 蒼生はわずかに戸惑ったように俺を見上げてくる。俺に対して遠慮しているのだろうとすぐわかる。蒼生の言うことはなんでも叶えたいと思っているのだから気を遣う必要なんてまったくないのだが、蒼生は優しいからな。
「どうする?」
「えっと……僕の意見だけで決めていいのかな」
 いいんだよ。
 俺は笑ってみせる。
「だって俺はもう、蒼生とデートしたいっていう希望を伝えただろ。次は蒼生が決める番だよ」
「……そっか。うん。あのお店行ってみたい」
 俺の笑顔に安心したのか、蒼生も笑ってくれた。納得してくれたんだな。よかった。
 俺だって、もし本当に嫌だと思ったら、理由を伝えたうえできちんと断る。蒼生とは妥協せず本音で付き合っていると確信しているからだ。嫌だと思うことと、蒼生と一緒にいたいという気持ちをきちんと天秤にかけるつもりでいる。とはいえ、蒼生の存在は俺の中で世界中の何よりも大きく貴重だ。だから天秤が蒼生のほうに傾いてばかりなのは仕方がないだろう。
 店は電車でも行けるが、バスという手もある。店までのアクセスを考えればバスのほうがよさそうだという結論になり、俺たちは大学の最寄り駅にあるロータリーからバスに乗った。駅から駅に向かう路線のせいか、乗客の数は多い。それでも吊革につかまりながら蒼生とふたりでのんびり揺られていくのはなかなかに心地よかった。電車とは違う揺れに、さりげなく肩が触れるのもいい。そのたびに蒼生が意識して照れたように笑うのも最高だ。その間、会話はほとんどなかったけれど、蒼生の穏やかな空気を感じているだけで満たされる。蒼生もそうであればいいと心から願う道程だった。
 駅前に着く3つ前の停留所でバスを降りる。大通りから1本裏側に入ると、様々な店が並ぶ細い道には俺たちと同年代くらいの男女が大勢行き交っていた。俺たちはそこからさらにもう1本裏の路地に入る。店が少なくなるので人通りは減るが、目的の店の前には列が出来ているのが見えた。
「ちょっと並ぶみたいだね。平気?」
 聞くと、蒼生はにこにこと頷く。
「冬矢と一緒なら並んで待つのも楽しいよ」
「よかった、俺もだよ」
 蒼生の可愛いセリフを聞くことが出来て、また俺の心は満たされる。
 本来、蒼生はたとえひとりで長時間並ぶことになったとしても、それに対して何も思わない。元々忍耐強いのに加え、好奇心が強い。だからその先で起きる出来事に興味があればいくらでも待てるタイプだ。むしろ他人がいると、その人を待たせるのが申し訳ないと思ってしまう。それなのに、俺と一緒だから平気、と言ってくれる。俺に気を許してくれている証拠だ。そんな蒼生だから、今までに何度惚れ直したかわからない。
 もしかすると、俺が待ち時間が苦手だとバレてしまっているのかな。俺は蒼生とは逆で、すべての物事に興味がなかった。ましてやそんなものに長い時間を使うなんて馬鹿馬鹿しいと本気で思っていたくらいだ。けれど、蒼生と共にいるようになってからはそんなふうには思うことはなくなった。何故なら、蒼生といる時間は何をしていたって嬉しいから。言ってしまえば、こうして隣に立っているだけでもいいとさえ思う。
「この時間だったらすいてるかと思ったけど、やっぱり人気なんだね」
 列の最後尾に並んだ蒼生が呟く。白い木造の店舗の前には、2人から4人くらいの女性のグループが数組順番を待っていた。
「みんな同じことを考えていたかな」
 中の様子が知りたい。だが、道路に面した側にある大きなガラス窓には、どれもレースのカーテンが掛けられていて店内を覗くことは出来なかった。このくらい広い店舗であれば、入ってからも待合スペースがあるだろうな。だとすると、その分待つ時間は長くなる。ただ、前に通りかかった時に比べれば、列の長さは短い。たしかあの時は、路地の角を曲がっても列が出来ていたように記憶している。待合スペースにいる人数が、今外に出来ている列と同程度と考えても、あれに比べればずいぶんマシだろうと思えた。
 とはいえ、蒼生の言葉を借りれば、夕飯には少し早くおやつには遅い時間にこれだけ並んでいるのはたしかにすごいな。人気が衰えないならば理由があるはずだ。
「これは、メニューにも期待してもよさそうだ」
「うん。楽しみだなあ」
 わくわくした表情。俺だけに向けた顔。うん。来て良かった。
 と、蒼生が「あ」と声を上げた。
「そうだ。冬矢も読んでたよね、氷の丘シリーズ」
 言いながら、鞄を開けて中に手を入れる。
 蒼生の口から出てきたタイトルは、少し古いシリーズものの小説だ。ファンタジー色のある推理小説で、俺たちが生まれる前に人気だったという。蒼生が好きなら試してみようと俺も読んでみたのだが、たしかに荒唐無稽で面白い。現実には起こりえないから推理としては成り立たないという批判もあるようだが、エンターテイメントとしては十分楽しめると思う。ただ、そういった理由と、古い文体で今の読者には読みづらいという特徴も重なり、ほぼ絶版になっているのだとか。図書館に収蔵されることも少なく、蒼生は偶然手に入れた数冊を大事そうに何度も読み返している。
 鞄から蒼生が取り出したのは、分厚い文庫本だった。表紙には『氷の丘』と書かれている。
「もしかして、シリーズ最初の1冊?」
「そう! 学内の中古本を検索してたら、これが出品されてたんだ。嬉しくて買っちゃった」
「よかったじゃないか。ずっと探していたよね」
「うん。シリーズだけど続きじゃないからどこから読んでもいいとは思ってたけど、原点のお話は読みたかったから嬉しい」
「読み終わったら俺にも読ませてね」
「もちろん!」
 ああ、にこにこしちゃって。可愛いな。好きなものを買って喜んでいる姿を見るのは、とても嬉しいし、ほっとする。同棲を始めた頃には荷物が増えることを好まず、本を買うのも控えていたから。
「ふふふ」
「嬉しそうだね、蒼生」
「嬉しいよ。前は誰とも古い本の話なんて出来なかったんだ。だけど冬矢とは話せるんだもん。付き合ってくれてありがと」
 可愛い。可愛いな。
「俺も面白いと思って読んでいるんだから、俺のほうこそ教えてくれてありがとうと言うべきじゃないかな。俺と蒼生は趣味が合うんだよ」
 もちろん蒼生がその気になれば、同じ趣味の友人くらいいくらでも見つけられたはずだ。この作品に限った話ではなく、本が好きな連中はたくさんいる。それこそ中学でも高校でも図書委員を務めていたのだから、踏み込めば仲間は出来たのだろうと思う。むしろ、そういう意味で蒼生に近付きたいと思っていた奴も1人や2人ではないだろう。その扉を閉ざしていたのは蒼生自身だ。それをもったいなく思う気持ちは当然あるけれど、同時に俺だけでよかったと考えてしまう。今後も俺だけであればいい。
 自分の心が狭いのは自分が一番よくわかっている。蒼生のそばにいる者としては最も危険な考えだともわかっている。だが、俺は蒼生から離れない。蒼生を手放す気もない。
「それでね、3作目もあるみたいで、今取り寄せてもらっててね」
 無邪気な笑顔で俺に語り掛ける蒼生。並んでいる間に俺がつまらないと思わないように話題を探してくれたのかもしれない。愛しい蒼生。手放す気がないからこそ、蒼生にとって一番幸せだと思える環境を整えたい。そのために出来ることを常に考え、実行していくつもりだ。そうでなくてはならない。
 蒼生と作品の話で盛り上がっていたおかげで、列が進むのはあっという間だった。建物の入り口前まで辿り着くと、大きなガラスがはまったドアから両側にベンチがある待合スペースがあるのが見えた。そこから立て続けに何組かの客が出て行き、俺たちは入れ違いで建物の中に入る。店内に続くもうひとつのドアのそばにはラックがあり、メニュー表がいくつか立てられている。俺はそれを取って、空いた席に座る蒼生の隣に腰掛けた。
「はい、メニュー」
「ありがと。わあ、結構種類があるね」
「まだ時間がありそうだから、じっくり決められそうだな」
 横から覗き込むと、ずらりと写真が並んでいる。一般的に思い浮かべられるような厚めのパンケーキがメインだが、スフレもあるらしい。なるほど、乗せるクリームの種類やアイスの有無などでバリエーションが豊富に見えるのか。
 ああ、メニューを読む蒼生の目が真剣だ。綺麗に整った睫毛がぱたぱたと上下に動く。どれにしようか悩んでいるんだろうな。考え込んでいるのが可愛い。可愛いから、もう少し見ていよう。
 上から下に、左から右に、何度もメニューを行き来する目線。それはやがて、左の1点と右の1点を交互するようになった。候補が絞られてきたかな。
「ねえ、蒼生」
「はーい」
 少し気の緩んだ柔らかい声色と共に、にこやかな目が俺を見る。俺が隣にいるから、安心しきっているのだろう。ふふ、可愛いな。
「せっかくここまで来たし、3つくらい頼もうか」
「えっ。ふたりで?」
「そう。普段大食らいと一緒に食事をしているから相対して少食な気がしているけれどね。メニューを見ている限りでは、俺たちでも1つ半くらいなら食べられそうじゃないか?」
「……たしかに。パンケーキの部分は大きくないもんね」
 頷いて、蒼生はメニューに再び目を落とした。
「俺はこの季節のフルーツ満載パンケーキにしようかな」
「あ、僕もそれ気になってた!」
「美味しそうだよね。じゃあ、あと2個選ぶとしたら、蒼生はどれとどれが食べたい?」
「えっとね、チョコレートパンケーキと、いちごのスフレパンケーキかな」
「ああ、いいじゃないか。その3つにして、ふたりで分けて食べるのはどうかな」
「えへへ、うん」
 蒼生が選んだメニューは、ほぼ俺の想像通りだった。もしかして冒険しようとするかなと思ったけれど、一番好きなものに落ち着いたようだ。……ここに健太がいたら、蒼生が選ぶものは変わっていたかもしれない。おそらく、蒼生の心のどこかに、自分が食べきれなくても健太がいれば大丈夫だという気持ちがあると思う。それが俺と健太に対する扱いの差なのかもしれない。だが、逆に考えれば問題はない。俺とふたりきりの時の蒼生は、自分が最も好きなものを選べるのだ、と。そうだ、「俺たちは趣味が合う」のだから、蒼生も遠慮なく自分の好みを口にすることが出来るのだ。
 順番が近付き少しずつ席を移動していくと、次第に待合スペースと店内の間を仕切る窓から中の様子が窺えるようになってきた。テーブル席のほかにソファ席があるようだが、そこも仕切りにレースのカーテンがかかっているので、客層ははっきりしない。それでも女性が多いことには変わりないようだ。柔らかな雰囲気で美しい蒼生は女性の目を引いてしまうから、できるだけ目立たない席に案内されるとありがたいな。
 ふと、店内に入ってすぐの場所に設置されている立て看板が目に入った。季節の特別メニューが提示されたその上には、チョーク風の文字で「カップル割あります」と書かれている。ふーん。店内に入った時にカップルであることを証明すると、セットドリンクが半額になるのか。なるほど。割引はともかく、他人に宣言できるのか。
 目の前のドアがきぃ、と開いた。
「お待たせしました。次でお待ちのお客様、どうぞ」
 ドアを開けたのは、エプロン姿の女性店員だ。招き入れられ、蒼生とふたりで席を立つ。楽しげな話し声で賑やかな店の中に入ると、彼女はにこりと微笑む。
「本日はようこそいらっしゃいました。2名様ですね」
「はい。すみません、俺たち恋人同士なんですけど、こちらのカップル割というのは誰でもお願いできるものですか?」
 俺が尋ねると、蒼生は驚いたように目を丸くする。ああ、やっぱり気付いてなかったんだね。俺を見て瞬きをすると、それからようやく看板に目を落とした。
 慣れているのか、店員の表情はまったく変わらない。
「もちろん、カップルの方であればどなたでも大丈夫ですよ。ただ、証明としてキスしていただくことが条件となるのですが、よろしいですか?」
「それが証明の方法ですね。……だそうだよ」
 蒼生はきょとんと顔を上げる。
「僕から?」
「うん」
 俺が頷くと、はにかんで首をわずかに傾げる。それから俺の両腕に手を添え、少し背伸びをするように優しいキスをくれた。
 ……可愛い。触れる瞬間だけ閉じられた瞼が、衝撃で抱き締めそうになるくらい可愛い。
「えっ。……ずっと目開けてたの?」
「可愛くて目が離せなかったんだよ」
 こほん、と店員の小さな咳払い。蒼生がぱっと顔を赤くする。可愛い。
「ありがとうございます。では、2名様分、ドリンク半額にさせていただきます。こちらの札を会計時にお出しくださいね。お席にご案内します」
 案内に従って歩き始めると、蒼生が後ろからついてくる気配がする。様子をちらりと窺うと、俯いて俺の足元を見ているようだ。おや、と思う。表情がはっきりとしない。何か気になることでもあるのだろうか。
 用意された席は、端とまではいかないが、あまり人目につかない4人用のソファ席だった。隣の席との間を仕切るレースのカーテンは、近くで見ると間に淡いグリーンのカーテンを挟んでいる。これなら向こうの席からこちらを見ることは難しいだろう。テーブル席には2人用もあるが、そちらは満席のようだ。タイミングがよかった。
「蒼生、隣に座ろう」
「えっ?」
「分け合うのには隣のほうがいいだろ?」
「あ、そうだね」
 笑った蒼生はいつもの可愛い表情だ。席の奥に座り、俺がその隣に来るのをにこにこと楽しそうに見つめてくる。さっきの態度はなんだったのだろう。気にかかる。もしかして、俺の発言が気に障った?
「蒼生。ごめんね、相談もなしに俺たちの関係を他人に話してしまって。嫌だったかな」
「へ? なんで? 嬉しいよ。ちょっとびっくりしたけどね」
「本当に? ……よかった。席につくまで黙ったままだったから、怒っているのかと思ったよ」
 蒼生は本当になにも気にしていない様子で、頬を両手で押さえ込む。
「あはは、まさかぁ。冬矢が堂々と恋人って言ってくれたのが嬉しくて、にやにやしちゃいそうなのを隠してただけ」
 そうか……。あれは照れ隠しだったか。よかった。
 だが、やはり前もって話しておくべきだったと反省する。蒼生は友人レベルならともかく、ただの知り合いに俺たちの関係をあまり知られたくないと思っている。裏の事情を勝手に推測されるのを嫌うからだ。けれど、もう二度と会うことのないような他人であれば、むしろ堂々としていたいらしい。とはいえ、だ。蒼生の驚く顔が見たくて欲をかいてしまった。俺の一方的な願望を押し付けるのはよくない。
 ついっと蒼生が俺の袖を引く。はっとして見ると、蒼生はまた頬を赤くして、拗ねたように俺を見ていた。
「……でも、キスする間、ずーっと僕のこと見てたのはちょっと恥ずかしかった。僕、変な顔してなかった?」
「可愛かったからだって言ったろ。普段キスする時のふんわりした蒼生じゃなくて、外向けの凛とした顔のままキスしてくれるのが新鮮ですごく可愛かったんだ」
「そんなに違う?」
「ああ。どちらの蒼生も綺麗で可愛くて大好きだよ」
「ひぇ」
 目を見開いて、耳まで赤くする。奥に入ってもらっていてよかった。可愛い恋人の存在は世界中に自慢したいが、恋人の可愛い可愛い表情は俺だけのものにしておきたいから。
 注文をしてしばらくふたりでこそこそとおしゃべりをしていると、まずはチョコレートパンケーキとフルーツのパンケーキが運ばれてきた。山盛りになった白い生クリームにチョコレートの線が綺麗にかかっているのを蒼生は嬉しそうに見つめる。可愛い。まずはクリームを一口食べるのも可愛いな。
「これ、好きな生クリームだ。少し甘さは控えめかな。チョコレートが甘いからちょうどいい。美味しい」
「どれどれ? ああ、うん、美味しい。量が多いから驚いたけれど、この甘さなら平気そうだね。追加のチョコレートソースもあるんだ。パンケーキはどう?」
「美味しい! ふわっふわ。バターの香りもすごく濃くて、単体で食べても十分に美味しいよ」
「俺のほうはどうかな。へえ、フルーツが爽やかでまた違った雰囲気だな。ほら、蒼生。キウイのジャムつきでどうぞ」
「わ、ほどよい酸っぱさ! さっぱり食べられるね。ねえ冬矢、ブドウもちょうだい」
「いいよ。大粒で美味しそうだ。はい、口、開けて」
「んむ。んー、果汁がパンケーキにぴったりだぁ」
 美味しそうににこにことパンケーキを口に運ぶ蒼生は世界一可愛い。俺にフォークを差し出すのも、俺が差し出したひとかけらを何の躊躇いもなく頬張るのも、額縁に入れて飾りたいほど愛おしかった。とても幸せな時間だ。いっそ、この席だけで世界が閉ざされてしまったらいいのに。
 皿の上が空になる頃、スフレパンケーキも運ばれてきた。こちらも美味しそうだ。
「あー、じゅわってなくなる……。やっぱりこっちも美味しい」
「本当だね。甲乙付けがたい」
 蒼生は、上目遣いで俺を見る。
「……でも、ちょっとしょっぱいものが食べたくなってきた」
 ふ、ふふふ。そうだね。
「じゃあ、家に帰ったらスープでも作ろうか。野菜をたっぷり入れて。ソーセージとベーコン、どっちがいい?」
「えぇー……。ソーセージもベーコンも両方好き……。どっちも入れちゃダメ?」
「いいよ、両方入れよう。肉をたくさん入れたいなんて、健太みたいなことを言うね」
「えへへ」
 蒼生は嬉しそうに口元に手を寄せた。
 ……健太の名前を出したことで蒼生が喜ぶのは、少々複雑だ。けれど、その理由を俺は既に知っている。俺と健太の仲が良好であることが、蒼生にとっては喜びなのだ。……本当に仲がいいのかどうかは俺ももうよくわからなくなっているが、少なくとも、自分にとって大事な人同士がいがみ合っているのを見るのが嫌だという感覚はわかる。
 まあ、健太云々はともかく、蒼生が俺を見て笑っているのが可愛いから、それでいいか。

 風呂から上がると、蒼生はリビングのソファに座って先程の本を読んでいた。右手にあるページ数は左側よりもかなり少ない。どうやら相当ゆっくりと読んでいるらしいな。普段の蒼生だったらあの量の倍は進んでいてもおかしくない。ようやく手に入れた本をじっくり味わっているのだろう。
 蒼生はまだ普段着のままだ。風呂は健太が帰ってきてから入るのだそうだ。昼間にも思ったことだが、蒼生も大概心配性だ。健太が万が一帰れないような状況になったら迎えに行くつもりでいるらしい。だが、そんなことになったら健太にはまず真っ先に「タクシーに乗れ」と指示するし、それも無理そうだとなったら俺が行ってもいい。蒼生がどうしても自分で行くというなら俺もついて行く。少なくとも、蒼生ひとりで夜道を歩かせるようなことはしない。
 まあ、健太も蒼生の気持ちは理解しているだろうから、外で羽目を外しすぎるということはないだろう。適当な奴だが、蒼生に対する真剣さは本物だ。
 と、噂をすればなんとやら。俺と蒼生の携帯が同時に鳴った。画面を見ると、「今から帰ります!」という、文面からテンションが伝わってきそうなメッセージが届いていた。
 音がしたことでようやく蒼生は俺が部屋に戻ってきたのに気付いたらしい。
「あれ……。いつの間にお風呂からあがったの? ごめんね、全然気付かなかった」
「いいよ。それ、面白いんだろ?」
「うん! いきなり冒頭でね、……ってダメだ冬矢にも読んでもらうんだからネタバレしちゃダメだ……」
 頭を抱える仕草まで可愛いな。蒼生はそのまま健太宛の返事を打ち始めたから、俺はキッチンで冷たいお茶を2杯用意する。携帯には蒼生からの「くれぐれも気を付けてね」のメッセージが入った。
「お茶をどうぞ。夢中になるのも可愛いけれど、水分もちゃんと摂らないと」
 言いながらグラスを蒼生の前に置く。
「はぁい」
 素直な答えが返ってくる。甘えた声色が愛おしい。
 しばらくすると健太が帰ってきてしまうからな。せっかくのふたりきりの時間をもう少し満喫したい。俺の蒼生。可愛い蒼生。
「あは、くすぐったい。どしたの?」
 隣に座って抱き寄せると、くすくすと笑う声。このままふたりでいたいのに。
「せっかくお風呂でさっぱりしてきたのに、汚れちゃうよ」
「いいよ。蒼生の匂いを堪能させてほしいな」
「っ、面と向かって言われるとちょっと恥ずかしいけど……。僕も冬矢の匂い、好きだよ。爽やかで優しい香り。ずっとぎゅーってしてたくなる」
「可愛いことを言ってくれるね」
 ぱたん、と蒼生が本を閉じた。
「ああ、悪い、邪魔しちゃったな」
「ううん、本はひとりでも読めるもん。せっかく冬矢が抱き締めててくれるんだから、全身で味わいたいんだ」
「普段はしてないみたいな言い方をするじゃないか」
「もちろんしてもらってるけど……、もっと欲しい」
 蒼生の腕が、俺の首に回る。わずかに傾けた首は、キスをねだる仕草だ。こんな、こんな、可愛い。
 唇にキスを落とせば、柔らかな感触と共にふわりと甘い香りがいっそう強く感じられる。
「ふ、あはっ。ゆび、くすぐったぃ」
「直に触れると気持ちいいんだよ」
「えっ、それは、……余分な肉が付いてるとかそういう……」
「へえ、気にしてるの?」
「そりゃあまあ……。だって、触り心地よくないなって思われたら悲しいもん」
「ふふふふっ。そういういじらしいところも好きだよ。まあ、蒼生がどんな体型をしていても愛しいと思う気持ちは変わらないけどね。いや、変わらない、じゃないな。昨日よりも今日の蒼生がもっと好きなんだから」
「……毎日一緒でも飽きない?」
「蒼生だって俺たちに飽きたりしないだろ。同じだよ。それとも、蒼生は……」
「ない、ない! ……そっかぁ、同じかあ。ふふ。冬矢、大好き」
「俺も好きだよ」
 指を絡ませたり、足を絡ませたり。
 それから、時々キスを交わしたり。
 小さな声で笑い合いながら、俺たちはゆったりとした時間を過ごす。とても穏やかな空間が心地良く、まっすぐに俺に向かう瞳の綺麗な黒が愛おしい。
 そこに、がちゃりと玄関の鍵が開く音がした。思わず時計を見る。いや、予定より早くないか?
「たっ、だい、まぁー!」
 まったく。いいところだったのに。この様子だと、おそらく駅から走って帰って来たのだろう。
「おかえり、健ちゃん」
「ただいまー。ごめんな、今日は急に予定変更して」
「別に、そういうことくらいいくらでもあるだろ」
「そうだけどさあ」
「俺と蒼生はその分デートを楽しんだから、気にしなくていい。ね、蒼生」
「ねー」
 蒼生はにこにこと見上げてくる。健太に対して自慢をしてやろうという魂胆がある俺とは違って、純粋に楽しかった、という表情だ。
 ならばそれに健太はどう反応するだろうと窺うと、健太は健太で何一つ陰のない顔で笑っている。
「そっかー。よかったじゃん。どっか行ったの?」
「あのね、パンケーキ食べに行ったんだ」
「おー、そりゃいいな。その顔は美味しかったって顔だ」
 1歩ずつ蒼生との距離を縮めていた健太は、すっと蒼生の顎を上げると、キスがてら唇を舐める。……やれやれ。
「ふぁ!?」
「ん。さすがに味はしないか」
「あはは、しないよ。ちゃんと口拭いたもん」
「ちぇ、とっといてくれればいいのに」
「無茶を言う奴だな」
 心の底から嬉しそうに蒼生は俺と健太を交互に見ている。
 俺は蒼生とふたりきりになりたい。けれど、蒼生は健太のことも求めている。時折それが胸に引っかかる。……だが、この顔を見てしまうと、その気持ちも霧になって消え去ってしまう。俺と健太がいて、本当に嬉しいのだとわかるから。そう、俺たちが揃っていることが、「蒼生にとって一番幸せだと思える環境」なのだ。
「そうだ。健ちゃん、お風呂できてるよ」
「ありがとー。でも蒼生もまだだろ? 片付ける物もあるし、先に入って」
「わかった」
 安心しきった表情で頷くと、蒼生は俺の頬にそっとキスをくれた。
「というわけで冬矢、僕はお風呂に入ってきます」
「行ってらっしゃい」
 蒼生が立ち上がってしまうと、体がひんやりと冷たくなる。わずかにかかっていた重さまで消えて、寂しさがじわりと湧き上がる。
「蒼生。早く戻っておいでね」
 浴室に向かいかけた蒼生は、振り向いてふわっと笑った。
「うん!」
 ああ、待ち遠しい。
 その背中を見送ると、部屋はしんと静かになった。視界の端で健太が鞄の中から分厚い本や飲みかけのペットボトルを出しているのが見えるだけだ。
 こいつ……。さっき、俺と蒼生がソファで抱き合っていても、文句ひとつ言わなかったな。何を考えているのだろう。
「健太」
「はいよ」
 教材を本棚に押し込んだ健太が振り向く。
「……おまえが帰って来た時、俺と蒼生が抱き合っていたことについて、何も思わないのか?」
「えー? そりゃ思ったよ。好きな奴にだっこされてにこにこしてる蒼生、めっちゃくちゃ可愛いーって」
「蒼生がとても可愛らしいのはわかっているさ。そうじゃなくて、蒼生を俺に取られると心配にならないか、という話だ」
「んん?」
 健太は不思議そうに首を傾げた。
「取られるもなにも。蒼生はオレとおまえ、ふたりのもの、だろ。最初っからそういう約束だったじゃん。おまえと蒼生がいちゃついてるなら、次はオレの番だしな」
「たとえば、それが俺以外だったら?」
「は? 蒼生が? オレら以外といちゃつくの? ないだろ、そんなん」
 俺の不安は健太にはまったく通じないものらしい。俺はいつも蒼生とふたりきりになりたいと、ならなければ掠め取られてしまうかもしれないと怯えている。それは健太が相手でも、だ。今でも、蒼生を健太に、或いは誰かに奪われてしまうのではないかと思うと恐ろしい。可能性を考えるだけでもぞっとする。
 だが、おそらく健太にとって、蒼生と離れることなんて想像すらする必要がないということなのだ。蒼生と自分を繋ぐ糸に、絶対の自信を持っているのか。だから他の誰かと蒼生がふたりきりになっても健太の心は揺るがないのだろう。しかも、俺の存在は既に受け止められている。
 そうか。俺はそもそも、健太の位置を奪おうとしていた人間だ。取って代わろうとしていたから、自分が取って代わられることが怖いのか。健太は最初から蒼生の隣にいたのだから、その恐怖を感じたことがなくても不思議ではない。ただ、それは思い込みに過ぎない。この先、極端に言えば、一瞬先にも何が起こるかは誰にもわからないというのに。
 ……それでも、健太はこのままなのだろうな。何が起きても蒼生と自分の絆を疑いはしないだろう。こいつの思い込みは、だいぶ歪んでいると思うけれど、確かな強さでもある。
「たまに、おまえの強さが羨ましいと思うことがあるよ」
「んー? よくわかんねえけど、今、褒められてる?」
「まあ、褒めていると受け取ってもらっても構わない」
「なんかそう言われると素直に聞きづらいな」
「それを素直に受け取るのがおまえだろ」
「そっかぁ」
 何度も首を傾げながらも、健太は納得したらしい。理解できずに流したのかもしれないが。
 会話はそこで途切れた。
 手持ち無沙汰になった俺は、キッチンに向かう。夕飯の片付けでもしようかと思ったけれど、洗い物はすべて終わっており、綺麗に掃除もされていた。俺が風呂にいる時間にすべてやってくれたのか。何一つ片付けた人の痕跡がないほど綺麗だからこそ、丁寧に作業をしてくれた蒼生の姿が思い浮かぶ。……ああ、好きだな。
 そうだ、明日の朝用にクリームチーズを用意しておこう。缶詰のパイナップルと混ぜてクラッカーに載せるのが蒼生は好きだ。パンに塗るのもいいしな。うん、きっと喜ぶ。
 作業をしていると、健太がふらりとやって来た。
「なんかいい匂いするな」
「パイナップルか?」
「それも甘くて美味そうなんだけど。じゃなくて、ちょっとしょっぱい感じの」
 なるほど、あっちか。俺は蓋を開けて冷ましている鍋のほうを指し示してやる。
「あれだろう。野菜のスープ」
「へー、野菜かー。……わ、すげえ、ソーセージがそのまんま入ってる」
「見えないかもしれないけれど、厚く切ったベーコンも沈んでいるよ。蒼生のリクエストだ」
「マジで?」
 健太が鍋を覗き込んだところで、リビングのドアが開いて蒼生が戻って来た。空気が暖かくなったのは、蒼生が浴槽で温まったからだけではない。
「お風呂からただいまぁ。あれ、ふたりしてキッチンにいる」
 俺がそうしてほしいと言ったから、急いで戻って来てくれたのだろう。濡れた髪にタオルをかけたままの姿が可愛い。しかもふにゃりとした笑顔でぱたぱたと近付いてくるから、思わず包丁を置いた。
「おかえり~。今ね、冬矢にスープの話を聞いてたんだ。すげえな、ソーセージとベーコンが両方入ってるんだって?」
「そう。甘いのをたくさん食べちゃったから、しょっぱいのが食べたかったの。夕飯だったんだけど、明日も食べられたらいいねって冬矢がいっぱい作ってくれて」
「やったー。あ、じゃあ手前にある袋はパンかな!」
「明日一緒に食べようね」
 にこにこと健太に言った蒼生は、くるりと俺のほうを向く。
「冬矢は何を……あっ、クリームチーズパインだ!」
「パンにつけて食べたらいいと思ってね」
「嬉しい! スープにチーズにパンに、うーん、ごちそうだね」
 蒼生……。手を洗い終えた俺は、蒼生をぐいっと引き寄せ、抱き締めた。
「わ」
 健太があぜんと俺を見る。
「なんだよ、急に」
「いや……。蒼生のことをこのままずっと離したくないなと思ったんだ」
 蒼生はごそごそと俺の腕の中で動き、顔を上げた。優しい笑顔。
「離してもらっちゃ困るもん」
「そうか」
「そうだよ。ふふふ。今日は、冬矢を独り占めしちゃって嬉しかったんだから」
「俺を?」
「うん」
 ……ああ、そうか。
 俺だけじゃない。蒼生にとってもそうだったのか。
 健太が反対側から蒼生に抱き付く。
「いいなー、次はオレのことも独り占めしてー」
「えへへ、うん。……でもさ、本当は、僕っていつでもふたりのことを独り占めしてるんだよね。すごく幸せだと思ってる」
 そうはっきりと言った蒼生の顔は、本当に嬉しそうだった。
 蒼生。
 大好きな蒼生。
 俺たちは3人で顔を見合わせて笑い、また強く抱き締めあう。
 そうだな。俺のことも、健太のことも、蒼生にはどちらも大事なんだ。蒼生が両手で俺たちの手を取ることを幸せだと思う心を、何の迷いもなくまっすぐに尊重できるような強い自分でありたいと願う。そうして、堂々と胸を張って蒼生の隣にいたい。
 ……それはそれとして、やはり「ふたりきり」も積極的に狙っていくつもりだが。

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92こ目;ひとりじめしたい日
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 同じ大学に通ってはいるものの、出かける時間は意外とまちまちだ。その日に取っている講義の数が違うというのももちろんあるが、学部が敷地の奥にある蒼生はそれを見越して早く家を出る傾向にある。それが、今日は3人が偶然一緒になった。理由は色々あるのだけれど、そんなことはどうでもいい。蒼生といられる時間が長くなるのだから、とにかく嬉しい。ついでに健太もいることについてはこの際大目に見よう。
 蒼生も俺たちと共に大学に向かうのが嬉しいらしい。普段は家でしか見せないようなふんわりとした空気を隠し切れずに、わずかに足が弾んでいる。……可愛いな。
「そういや、蒼生がこの前教えてくれた文房具屋ってこっち?」
「だよ。そこ曲がったとこ。そんなに大きくないんだけどね、ペンの品ぞろえが豊富だったんだ」
「迷うといけないからさ、今度一緒に行こ」
「うん!」
 健太と話す時、蒼生は幼い子のような表情を見せることがある。それも可愛いと思うのだけれど、健太にばかり向いているのが癪だと思ってしまう。
「俺も補充したいペンがあるんだ。健太と行くなら、俺も連れて行ってほしいな」
「わあ、そしたらその時、ちょっと先にある喫茶店に寄らない? モンブランが美味しいって聞いて、ふたりと行きたいなって思ってたんだ」
「いいな!」
「そうだね、行こう」
 俺と健太が頷くと、蒼生はますます嬉しそうに顔をほころばせた。その顔を見ると、ほんの少しの嫉妬心が掻き消えてしまう。そんな小さなことより、蒼生がなんの躊躇いもなく俺たちのことを誘うようになったことが嬉しいと思うからだ。
 大学の正門をくぐり管理棟の先まで行くと、分かれ道になる。ここから数時間、蒼生とは離れ離れだ。将来のためには仕方ない時間だとわかっているが、そうは言っても蒼生の傍にいられないという事実には変わりないのだ。蒼生と物理的に距離があることにはどうしたって慣れられようはずがない。だからこの瞬間は何度繰り返しても気分が沈んでしまう。
「えーっと。蒼生は今日、4限までだっけ」
「うん、そう。健ちゃんも4で、冬矢が3だよね」
「ああ。用事はないから、帰ったら夕飯の支度をしておくよ」
「お願いしまーす」
 ……そうだな。俺にはその楽しみがあった。蒼生のために出来ることがあるのだから、沈んでばかりはいられない。
 夕飯の内容はまだ決めていない。家に一番近いスーパーが安売りの日だから、帰りがけに買い物をしながら決めるつもりだ。自分もずいぶん所帯じみたものだと思うが、その「所帯」に蒼生が含まれていると思うと、悪くない。いや、むしろ誇らしい。
「それじゃあ……、いってきます」
「また後でな」
「気を付けて」
 まるで家を出る時のような言葉を交わして、俺たちは三方向の道に進む。健太と俺は学部棟が近いので普段はしばらく同じ道を行くのだが、今日あいつは別の棟に用事があるそうだ。そこに向かうには建物の裏を通る近道がある。
 実はその道は、構内の奥に行く蒼生にこそ便利な近道だった。だが、木が多くて見通しが悪く人通りも少ないようなその道は使ってほしくなかった。蒼生に万が一のことがあっては大変だからだ。蒼生はさすがに過保護では、と言うが、用心に越したことはない。それについては健太も同じ意見だ。ちなみにその話になった時、俺は健太に対しても暗くなったら通るなと伝えた。蒼生の心配を和らげるために、わざと蒼生の前で。自分が危険だと言われた道なのだ、健太も大丈夫だろうかと蒼生が心配をしないわけがないだろうからな。蒼生は幼い頃から健太の面倒を見ていたのだから、その心配も無理はない。それを理解しているらしい健太もそれに頷き、今でも正直に守って、暗くなってからはその道を避けている。
 俺たちは互いに心配しすぎる。その自覚はあるが、治すつもりはない。薄暗い体育倉庫で見た、蒼生の怯えた青白い顔は、おそらく俺と健太の記憶から一生消えないのだろう。
 さて……。教務課に寄る予定があったんだが、それもすぐに終わってしまった。少し早いが、講義室に向かうか。
 講義室には学生たちが多く集まり、相応に騒がしい。いつも座る席のあたりには、既に馴染みの顔があった。今日は専門科目が多いから、彼らと行動を共にすることになる。軽く挨拶を交わし、いくつか教材の件でやりとりしているうちに講義の時間がやってきた。
 3人だけで使っている携帯のメッセージに健太から連絡が入ったのは、昼休憩の時だった。曰く、同じ講義を取っている友人たちと夕飯に行くことになったらしい。蒼生宛だけでなく、律義に俺に対しても謝ってくる。いや、謝る必要はないんだけどな。どちらかといえば、降って湧いた幸運じゃないかとメッセージを見た瞬間に思ったくらいだ。俺は蒼生が『気を付けて』と返事を付けるのを待ってから、『まだ夕飯の買い物もしていなかったから、気にするな。蒼生が心配するから遅くなるなよ』と送る。そうでも言わないと気にする奴だ。すると『ありがとう! ごめん!』という返事。こういう時、こいつは根っからの善人なのだろうと再認識する。
 そのやりとりが終わると、俺は蒼生だけに向けてメッセージを送る。蒼生の授業が終わるまで待っているから一緒に帰ろう、と。少し間があって、『冬矢を待たせるのは悪いから……』と返ってくる。蒼生ならそう思うだろう。けれど、俺はこれを蒼生を独り占めするチャンスだと思っている。ふたりきりになりたいだけだ。下手に言い訳を綴っても仕方ない、蒼生にははっきり伝えたほうがいいのはわかっている。だから続けて、『これはデートの誘いだよ』と告げた。今度は、すぐに回答が届く。『行く!』だそうだ。……可愛いな。なんて可愛いんだ。

 待ち合わせは蒼生の講義室に近い図書館だ。蒼生が図書館に用事があると言うので、俺がそこに行くことにした。蒼生はやはり遠慮したが、せっかくだから文献を探しながら課題をやりたいんだと言っておいた。それも決して嘘ではないけれど、少しでも早く蒼生と会いたいからという気持ちのほうが強い。ただ、本音はきちんと向き合って伝えたいから、メッセージには書き込まなかった。
 学部ごとというわけではないが、大学の敷地内には複数の図書館がある。それぞれに特徴のある蔵書が揃っているため、学部から遠い図書館に寄る必要はあまりない。ただ、蒼生が出入りしているこの図書館には、今日のように待ち合わせに使うことがあったために、何度も来ていた。だから、どこに何があるのかは把握している。辞書や課題にも一応使えそうな資料は1階の奥だ。雑誌の閲覧コーナーや映像資料がある一角で、受付のある吹き抜けからは高い棚もなくこちらを見渡せるようになっていた。ここならば、蒼生が来ればすぐにわかるだろう。
 それにしても、いくつかある図書館の中で、ここは一番明るくて綺麗だ。かといって隣の学部近くにある新しい図書館ほどの華々しさや開放感はない。どちらかといえば蔵書量を増やすためのシンプルな構造になっていて、そのコンパクトさが蒼生にとっては心地良いらしい。蒼生の穏やかで綺麗でいかにも優しい風貌は広く澄んだ空が似合うと思うのだけれど、狭い場所のほうが落ち着くのだそうだ。そのせいか、蒼生は密着をとても好む。その原因にはもしかすると蒼生の過去の出来事に起因するなにかしらの問題があるのかもしれない。ただ、蒼生にはその心当たりはないようだし、今のところはそれ故に困難に直面するような事態になった記憶もないし、密着したいというのは俺たちに触れられて安心してくれていることの表れでもある。つまり、今はそれに対処する必要はなく、ありがたく恩恵を受けていればいいということだ。
 そういえば中学生の頃だったか、何かの話の拍子に「部屋の端っこが好き」だと聞いたことがあったな。想像するに、蒼生は自ら独りでいようとしながらも、ずっと寂しがっていたのだ。ひとりぽつんと隅に座っていた蒼生の姿を想像するとひどく切ない。だからこそ、俺と健太に挟まれて可愛い笑顔を見せてくれる現在の様子が、ひたすらに愛おしい。おそらく俺たちは、蒼生が無意識に思い描いていた理想を体現できているのだろう。
 すうっと空気が動いた。図書館のドアが開いたのだとすぐにわかる。時計を見れば、5限の講義が始まる時間になっている。そろそろ蒼生の姿が見えてもおかしくない。入り口から受付に向かう通路の辺りを眺めていると、愛しい顔が視界に飛び込んできた。
 ああ、世界が変わる。蒼生と俺を繋ぐように、見えない1本の道がまっすぐに伸びる。だから蒼生はすぐに俺に気付くはずだ。すぐ。ああ。ほら。綺麗な顔が、一瞬俺のほうを見て、ぱっと無邪気な表情になる。
 すぐに凜と背筋を伸ばしたのは、近くに2人の女子学生がいるからだ。彼女たちと共に受付に向かった蒼生は、鞄から取り出した1冊の本を窓口に置く。その子たちは蒼生と一言二言交わすと、手を振って奥にあるエレベーターに向かって歩いて行った。
 本の返却が済んだのだろう、蒼生がぱっと振り向く。まだ外に向けた顔のままだ。いつそれを崩してくれるかな。期待を込めて眺めていると、吹き抜けを通り過ぎ、雑誌のラックを越えたあたりで、ふわっと表情が緩む。想像していたより、少し早かった。それがぐっと胸に来る。
「とぉや」
 小さな声は、俺にしか届かない。俺だけに向けた甘い声。
「蒼生。ごめんね、急に呼び出しちゃって」
「ううん、デート誘ってくれてありがと。……ふふ、図書館入ってから、冬矢がずうっと僕のこと見てるから、ちょっと照れちゃった」
 だからガードが外れるのが早かったのか。可愛い。わずかに俺のほうに伸びた両方の手を掴んで、引き寄せて、抱き締めて、何度もキスをしたい。けれど、ここは大学の構内だ。しかも蒼生の学部から近い。先程の女子学生がいつ戻ってきてもおかしくない場所なのだ。なんとかその衝動を堪え、蒼生の両手をそっと取るだけにとどめた。それでも蒼生は嬉しそうに笑う。
 これは聞く必要がないな。そう思ったのだけれど、気になることを抱えているのは良くないと蒼生に言ったのは俺だ。心に何かが引っかかるならば、すぐに聞いてしまえばいい。
「さっきの子たちは、同じ講義を受けている人?」
「うん。班が同じで、よく発表の資料を一緒に作ってるんだ。だけど今日は全然別の用事でね、行き先が偶然一緒だっただけ」
「よかった、蒼生の発表準備の邪魔をしてしまったかと思ったよ」
 そう言うと、蒼生は胸を張る仕草をした。自信満々な表情。可愛いな。
「大丈夫、準備はもうとっくに出来てるから。……もしかして、僕が女の子と一緒だったから心配した?」
「ちょっとだけね。俺の大好きな蒼生を狙われたらどうしようかと思った」
「まさか、そんなことあるわけないよ。それに、僕が大好きなのは冬矢と健ちゃんだけだもん」
 自慢をするように蒼生は言い切る。優しくて気が利いて思慮深くて、そのせいでなかなか物事を決められない蒼生が、俺たちへの愛を断言する意味はとても大きい。それが蒼生の中で紛れもない真実になっているからだ。
 あとは、俺たちが向けている感情をすべて素直に受け入れてくれればいいのだけれど、それが今の蒼生ならばそれでいいとも思っている。過去の蒼生も愛おしかったが、現在の蒼生がどうしようもないくらい好きだから。今、目の前にいる蒼生をありのままに愛したい。
「? 冬矢?」
「ああ、ごめん。蒼生のことが大好きだなってつくづく噛み締めていたんだ」
「ひぇ」
 わずかに蒼生のかかとが浮く。何度言っても照れてしまうところが、本当に可愛いと思う。
 はっきり言ってしまえば、蒼生と一緒にいる女子に対しては、さっさとどこかに行ってくれと思っていた。心配はしていない、蒼生が好きなのは俺たちだけだから。それは蒼生の態度と表情を見れば火を見るよりも明らかだ。だが、距離が近いのはどうしても許容できない。彼女らが蒼生をどう思っているかはどうでもいいし知ったことではないが、無駄なアプローチを仕掛けてくるようなら考えなければいけないと思っている。蒼生の交友関係に口を出すつもりはないが、害があるなら話は別だ。
 それにしても、人目のある場所でこれ以上可愛らしい顔をさせておくわけにはいかないな。蒼生は今、ぎりぎり他人向けの態度を保っているけれど、それでも可愛いものは可愛いのだから仕方がない。このエリアには幸い学生が少ないが、いつこの可愛い子に気付かれてしまうかわからない。早めにこの場を離れよう。
「今片付けるね。そうしたら、一緒に出かけよう」
「うん。……あの……、冬矢。えっと……。冬矢の課題、こっちの図書館じゃ資料少ないよね。もしかして、その……僕に会いたくて来てくれた、とか……?」
 ! ふふふ。さすが、俺の愛しい蒼生。自信なさげだけれど、聡いからわかってしまうんだね。それをきちんと口にしてくれることも本当に嬉しいよ。
「バレちゃったか。それは俺から告げるつもりだったんだけどな。もちろん、蒼生の言う通り、課題は言い訳だね。一刻も早く蒼生に会いたかったから、ここに来たんだよ」
「……うん。僕も会いたかったから、嬉しい」
 ふんわりと笑う蒼生。俺が大好きな表情だ。蒼生は何度か瞬きをすると、机の上に広げたままの本を指さした。
「片付け、僕も手伝っていい?」
「助かるよ」
 蒼生が本を手に取ってくれたのでありがたく片付けを任せ、俺はノートを閉じて筆記用具をまとめる。と、手元に視線を感じた。首を傾げると、蒼生はわずかに目を細める。
「でも、課題もちゃんとやってある。さすが冬矢」
「ここまでは専門的な資料がなくても出来たからね」
「そういうふうにさらっとやっちゃうのが、冬矢のかっこいいところだと思う」
「ありがとう。蒼生に褒められると頑張った甲斐があるな」
 じわりと胸が熱くなる。蒼生は、ちゃんと見てくれている。小さなことも見逃すまいとしてくれている。それも意識的にではなく、自然にだ。こういうところが好きだな、と思う。

 片付けを終えた俺たちは、図書館を出て並んで歩く。来た時よりも明らかに歩みが遅くなってしまうのは、我ながら面白いなと思う。同じ家に帰るのだから、この後もずっと同じ時間を過ごせるのだとわかっているのだけれど、こうして隣にいる時間が長くあればいいと願ってしまうせいだ。
「どこに行こうか」
 話しかけると、うーん、と腕を組む。
「夕飯には少し早いかな。おやつには遅いし。買い物? 何か見に行く、とか……」
 生活に対して無欲な蒼生は、欲しいものや見たいものを聞かれて咄嗟に答えられない。普段からよほど強く意識しているか、長いこと考えていたかのどちらかでなければ、すぐに答えは出てこない。けれど、漠然としているだけで、したいことはあるのだろうと思う。それを会話の中から探していくのは俺の楽しみのひとつでもあった。
 たとえば、今の蒼生の言葉はわかりやすい。真っ先に食事の話が出てきた。何かを食べに行きたいのだろうね。おそらくだが、今朝3人で話した喫茶店のことがふと頭に浮かんだのだろう。けれど、あれは3人の約束だ。健太を置いて先に行くわけにはいかない。そこで蒼生は咄嗟にその案を打ち消し、じゃあどうしようかと少し困ってしまった、というところかな。
 さて、夕飯とおやつか。比重はどちらが重いだろうか。
「蒼生。そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。ふたりきりなんだ、食事の時間はずらしても問題ないと思うよ」
「あ、そっか」
「それに、ちょうど小腹が空く時間だろ?」
「そうだよね。……あ」
 少し先の地面を見ていた目が、ぱっと上を見た。したいことが思い浮かんだかな。なんて微笑ましい仕草だろう。
「何か見えたんだね」
「えっと、パンケーキが頭の中に浮かんだ……」
 なるほど。俺の脳内にも、おそらく蒼生と似たようなイメージが浮かぶ。茶色い生地にバターが載り、シロップがかかっていく映像だ。同時に、記憶を辿っていく。まずは蒼生が行きたがっている場所があるかどうか、そんな会話をしたかどうかを思い出す。出来れば蒼生の希望を叶えたいからな。……そういえば、通りすがりの店の前で話したことがあったか。
「パンケーキか、いいね。ああそうだ、この前蒼生が気になると言っていた店に行ってみようか」
「僕が?」
「ほら、3つ向こうの駅の。美術館の帰りに見かけた店があっただろう。たしか白い建物だったね」
「あ、思い出した。去年できたばっかりだっていうパンケーキのお店だ。……え、あれずいぶん前の話だよね? 覚えててくれたの?」
「もちろん。蒼生のことだから」
 喜んでもらえるヒントは忘れたくない。蒼生が心から笑ってくれることが、俺にとっての最高の幸せだからだ。それを至近距離で眺めたい。ずっと隣で見つめていたい。
 蒼生はわずかに戸惑ったように俺を見上げてくる。俺に対して遠慮しているのだろうとすぐわかる。蒼生の言うことはなんでも叶えたいと思っているのだから気を遣う必要なんてまったくないのだが、蒼生は優しいからな。
「どうする?」
「えっと……僕の意見だけで決めていいのかな」
 いいんだよ。
 俺は笑ってみせる。
「だって俺はもう、蒼生とデートしたいっていう希望を伝えただろ。次は蒼生が決める番だよ」
「……そっか。うん。あのお店行ってみたい」
 俺の笑顔に安心したのか、蒼生も笑ってくれた。納得してくれたんだな。よかった。
 俺だって、もし本当に嫌だと思ったら、理由を伝えたうえできちんと断る。蒼生とは妥協せず本音で付き合っていると確信しているからだ。嫌だと思うことと、蒼生と一緒にいたいという気持ちをきちんと天秤にかけるつもりでいる。とはいえ、蒼生の存在は俺の中で世界中の何よりも大きく貴重だ。だから天秤が蒼生のほうに傾いてばかりなのは仕方がないだろう。
 店は電車でも行けるが、バスという手もある。店までのアクセスを考えればバスのほうがよさそうだという結論になり、俺たちは大学の最寄り駅にあるロータリーからバスに乗った。駅から駅に向かう路線のせいか、乗客の数は多い。それでも吊革につかまりながら蒼生とふたりでのんびり揺られていくのはなかなかに心地よかった。電車とは違う揺れに、さりげなく肩が触れるのもいい。そのたびに蒼生が意識して照れたように笑うのも最高だ。その間、会話はほとんどなかったけれど、蒼生の穏やかな空気を感じているだけで満たされる。蒼生もそうであればいいと心から願う道程だった。
 駅前に着く3つ前の停留所でバスを降りる。大通りから1本裏側に入ると、様々な店が並ぶ細い道には俺たちと同年代くらいの男女が大勢行き交っていた。俺たちはそこからさらにもう1本裏の路地に入る。店が少なくなるので人通りは減るが、目的の店の前には列が出来ているのが見えた。
「ちょっと並ぶみたいだね。平気?」
 聞くと、蒼生はにこにこと頷く。
「冬矢と一緒なら並んで待つのも楽しいよ」
「よかった、俺もだよ」
 蒼生の可愛いセリフを聞くことが出来て、また俺の心は満たされる。
 本来、蒼生はたとえひとりで長時間並ぶことになったとしても、それに対して何も思わない。元々忍耐強いのに加え、好奇心が強い。だからその先で起きる出来事に興味があればいくらでも待てるタイプだ。むしろ他人がいると、その人を待たせるのが申し訳ないと思ってしまう。それなのに、俺と一緒だから平気、と言ってくれる。俺に気を許してくれている証拠だ。そんな蒼生だから、今までに何度惚れ直したかわからない。
 もしかすると、俺が待ち時間が苦手だとバレてしまっているのかな。俺は蒼生とは逆で、すべての物事に興味がなかった。ましてやそんなものに長い時間を使うなんて馬鹿馬鹿しいと本気で思っていたくらいだ。けれど、蒼生と共にいるようになってからはそんなふうには思うことはなくなった。何故なら、蒼生といる時間は何をしていたって嬉しいから。言ってしまえば、こうして隣に立っているだけでもいいとさえ思う。
「この時間だったらすいてるかと思ったけど、やっぱり人気なんだね」
 列の最後尾に並んだ蒼生が呟く。白い木造の店舗の前には、2人から4人くらいの女性のグループが数組順番を待っていた。
「みんな同じことを考えていたかな」
 中の様子が知りたい。だが、道路に面した側にある大きなガラス窓には、どれもレースのカーテンが掛けられていて店内を覗くことは出来なかった。このくらい広い店舗であれば、入ってからも待合スペースがあるだろうな。だとすると、その分待つ時間は長くなる。ただ、前に通りかかった時に比べれば、列の長さは短い。たしかあの時は、路地の角を曲がっても列が出来ていたように記憶している。待合スペースにいる人数が、今外に出来ている列と同程度と考えても、あれに比べればずいぶんマシだろうと思えた。
 とはいえ、蒼生の言葉を借りれば、夕飯には少し早くおやつには遅い時間にこれだけ並んでいるのはたしかにすごいな。人気が衰えないならば理由があるはずだ。
「これは、メニューにも期待してもよさそうだ」
「うん。楽しみだなあ」
 わくわくした表情。俺だけに向けた顔。うん。来て良かった。
 と、蒼生が「あ」と声を上げた。
「そうだ。冬矢も読んでたよね、氷の丘シリーズ」
 言いながら、鞄を開けて中に手を入れる。
 蒼生の口から出てきたタイトルは、少し古いシリーズものの小説だ。ファンタジー色のある推理小説で、俺たちが生まれる前に人気だったという。蒼生が好きなら試してみようと俺も読んでみたのだが、たしかに荒唐無稽で面白い。現実には起こりえないから推理としては成り立たないという批判もあるようだが、エンターテイメントとしては十分楽しめると思う。ただ、そういった理由と、古い文体で今の読者には読みづらいという特徴も重なり、ほぼ絶版になっているのだとか。図書館に収蔵されることも少なく、蒼生は偶然手に入れた数冊を大事そうに何度も読み返している。
 鞄から蒼生が取り出したのは、分厚い文庫本だった。表紙には『氷の丘』と書かれている。
「もしかして、シリーズ最初の1冊?」
「そう! 学内の中古本を検索してたら、これが出品されてたんだ。嬉しくて買っちゃった」
「よかったじゃないか。ずっと探していたよね」
「うん。シリーズだけど続きじゃないからどこから読んでもいいとは思ってたけど、原点のお話は読みたかったから嬉しい」
「読み終わったら俺にも読ませてね」
「もちろん!」
 ああ、にこにこしちゃって。可愛いな。好きなものを買って喜んでいる姿を見るのは、とても嬉しいし、ほっとする。同棲を始めた頃には荷物が増えることを好まず、本を買うのも控えていたから。
「ふふふ」
「嬉しそうだね、蒼生」
「嬉しいよ。前は誰とも古い本の話なんて出来なかったんだ。だけど冬矢とは話せるんだもん。付き合ってくれてありがと」
 可愛い。可愛いな。
「俺も面白いと思って読んでいるんだから、俺のほうこそ教えてくれてありがとうと言うべきじゃないかな。俺と蒼生は趣味が合うんだよ」
 もちろん蒼生がその気になれば、同じ趣味の友人くらいいくらでも見つけられたはずだ。この作品に限った話ではなく、本が好きな連中はたくさんいる。それこそ中学でも高校でも図書委員を務めていたのだから、踏み込めば仲間は出来たのだろうと思う。むしろ、そういう意味で蒼生に近付きたいと思っていた奴も1人や2人ではないだろう。その扉を閉ざしていたのは蒼生自身だ。それをもったいなく思う気持ちは当然あるけれど、同時に俺だけでよかったと考えてしまう。今後も俺だけであればいい。
 自分の心が狭いのは自分が一番よくわかっている。蒼生のそばにいる者としては最も危険な考えだともわかっている。だが、俺は蒼生から離れない。蒼生を手放す気もない。
「それでね、3作目もあるみたいで、今取り寄せてもらっててね」
 無邪気な笑顔で俺に語り掛ける蒼生。並んでいる間に俺がつまらないと思わないように話題を探してくれたのかもしれない。愛しい蒼生。手放す気がないからこそ、蒼生にとって一番幸せだと思える環境を整えたい。そのために出来ることを常に考え、実行していくつもりだ。そうでなくてはならない。
 蒼生と作品の話で盛り上がっていたおかげで、列が進むのはあっという間だった。建物の入り口前まで辿り着くと、大きなガラスがはまったドアから両側にベンチがある待合スペースがあるのが見えた。そこから立て続けに何組かの客が出て行き、俺たちは入れ違いで建物の中に入る。店内に続くもうひとつのドアのそばにはラックがあり、メニュー表がいくつか立てられている。俺はそれを取って、空いた席に座る蒼生の隣に腰掛けた。
「はい、メニュー」
「ありがと。わあ、結構種類があるね」
「まだ時間がありそうだから、じっくり決められそうだな」
 横から覗き込むと、ずらりと写真が並んでいる。一般的に思い浮かべられるような厚めのパンケーキがメインだが、スフレもあるらしい。なるほど、乗せるクリームの種類やアイスの有無などでバリエーションが豊富に見えるのか。
 ああ、メニューを読む蒼生の目が真剣だ。綺麗に整った睫毛がぱたぱたと上下に動く。どれにしようか悩んでいるんだろうな。考え込んでいるのが可愛い。可愛いから、もう少し見ていよう。
 上から下に、左から右に、何度もメニューを行き来する目線。それはやがて、左の1点と右の1点を交互するようになった。候補が絞られてきたかな。
「ねえ、蒼生」
「はーい」
 少し気の緩んだ柔らかい声色と共に、にこやかな目が俺を見る。俺が隣にいるから、安心しきっているのだろう。ふふ、可愛いな。
「せっかくここまで来たし、3つくらい頼もうか」
「えっ。ふたりで?」
「そう。普段大食らいと一緒に食事をしているから相対して少食な気がしているけれどね。メニューを見ている限りでは、俺たちでも1つ半くらいなら食べられそうじゃないか?」
「……たしかに。パンケーキの部分は大きくないもんね」
 頷いて、蒼生はメニューに再び目を落とした。
「俺はこの季節のフルーツ満載パンケーキにしようかな」
「あ、僕もそれ気になってた!」
「美味しそうだよね。じゃあ、あと2個選ぶとしたら、蒼生はどれとどれが食べたい?」
「えっとね、チョコレートパンケーキと、いちごのスフレパンケーキかな」
「ああ、いいじゃないか。その3つにして、ふたりで分けて食べるのはどうかな」
「えへへ、うん」
 蒼生が選んだメニューは、ほぼ俺の想像通りだった。もしかして冒険しようとするかなと思ったけれど、一番好きなものに落ち着いたようだ。……ここに健太がいたら、蒼生が選ぶものは変わっていたかもしれない。おそらく、蒼生の心のどこかに、自分が食べきれなくても健太がいれば大丈夫だという気持ちがあると思う。それが俺と健太に対する扱いの差なのかもしれない。だが、逆に考えれば問題はない。俺とふたりきりの時の蒼生は、自分が最も好きなものを選べるのだ、と。そうだ、「俺たちは趣味が合う」のだから、蒼生も遠慮なく自分の好みを口にすることが出来るのだ。
 順番が近付き少しずつ席を移動していくと、次第に待合スペースと店内の間を仕切る窓から中の様子が窺えるようになってきた。テーブル席のほかにソファ席があるようだが、そこも仕切りにレースのカーテンがかかっているので、客層ははっきりしない。それでも女性が多いことには変わりないようだ。柔らかな雰囲気で美しい蒼生は女性の目を引いてしまうから、できるだけ目立たない席に案内されるとありがたいな。
 ふと、店内に入ってすぐの場所に設置されている立て看板が目に入った。季節の特別メニューが提示されたその上には、チョーク風の文字で「カップル割あります」と書かれている。ふーん。店内に入った時にカップルであることを証明すると、セットドリンクが半額になるのか。なるほど。割引はともかく、他人に宣言できるのか。
 目の前のドアがきぃ、と開いた。
「お待たせしました。次でお待ちのお客様、どうぞ」
 ドアを開けたのは、エプロン姿の女性店員だ。招き入れられ、蒼生とふたりで席を立つ。楽しげな話し声で賑やかな店の中に入ると、彼女はにこりと微笑む。
「本日はようこそいらっしゃいました。2名様ですね」
「はい。すみません、俺たち恋人同士なんですけど、こちらのカップル割というのは誰でもお願いできるものですか?」
 俺が尋ねると、蒼生は驚いたように目を丸くする。ああ、やっぱり気付いてなかったんだね。俺を見て瞬きをすると、それからようやく看板に目を落とした。
 慣れているのか、店員の表情はまったく変わらない。
「もちろん、カップルの方であればどなたでも大丈夫ですよ。ただ、証明としてキスしていただくことが条件となるのですが、よろしいですか?」
「それが証明の方法ですね。……だそうだよ」
 蒼生はきょとんと顔を上げる。
「僕から?」
「うん」
 俺が頷くと、はにかんで首をわずかに傾げる。それから俺の両腕に手を添え、少し背伸びをするように優しいキスをくれた。
 ……可愛い。触れる瞬間だけ閉じられた瞼が、衝撃で抱き締めそうになるくらい可愛い。
「えっ。……ずっと目開けてたの?」
「可愛くて目が離せなかったんだよ」
 こほん、と店員の小さな咳払い。蒼生がぱっと顔を赤くする。可愛い。
「ありがとうございます。では、2名様分、ドリンク半額にさせていただきます。こちらの札を会計時にお出しくださいね。お席にご案内します」
 案内に従って歩き始めると、蒼生が後ろからついてくる気配がする。様子をちらりと窺うと、俯いて俺の足元を見ているようだ。おや、と思う。表情がはっきりとしない。何か気になることでもあるのだろうか。
 用意された席は、端とまではいかないが、あまり人目につかない4人用のソファ席だった。隣の席との間を仕切るレースのカーテンは、近くで見ると間に淡いグリーンのカーテンを挟んでいる。これなら向こうの席からこちらを見ることは難しいだろう。テーブル席には2人用もあるが、そちらは満席のようだ。タイミングがよかった。
「蒼生、隣に座ろう」
「えっ?」
「分け合うのには隣のほうがいいだろ?」
「あ、そうだね」
 笑った蒼生はいつもの可愛い表情だ。席の奥に座り、俺がその隣に来るのをにこにこと楽しそうに見つめてくる。さっきの態度はなんだったのだろう。気にかかる。もしかして、俺の発言が気に障った?
「蒼生。ごめんね、相談もなしに俺たちの関係を他人に話してしまって。嫌だったかな」
「へ? なんで? 嬉しいよ。ちょっとびっくりしたけどね」
「本当に? ……よかった。席につくまで黙ったままだったから、怒っているのかと思ったよ」
 蒼生は本当になにも気にしていない様子で、頬を両手で押さえ込む。
「あはは、まさかぁ。冬矢が堂々と恋人って言ってくれたのが嬉しくて、にやにやしちゃいそうなのを隠してただけ」
 そうか……。あれは照れ隠しだったか。よかった。
 だが、やはり前もって話しておくべきだったと反省する。蒼生は友人レベルならともかく、ただの知り合いに俺たちの関係をあまり知られたくないと思っている。裏の事情を勝手に推測されるのを嫌うからだ。けれど、もう二度と会うことのないような他人であれば、むしろ堂々としていたいらしい。とはいえ、だ。蒼生の驚く顔が見たくて欲をかいてしまった。俺の一方的な願望を押し付けるのはよくない。
 ついっと蒼生が俺の袖を引く。はっとして見ると、蒼生はまた頬を赤くして、拗ねたように俺を見ていた。
「……でも、キスする間、ずーっと僕のこと見てたのはちょっと恥ずかしかった。僕、変な顔してなかった?」
「可愛かったからだって言ったろ。普段キスする時のふんわりした蒼生じゃなくて、外向けの凛とした顔のままキスしてくれるのが新鮮ですごく可愛かったんだ」
「そんなに違う?」
「ああ。どちらの蒼生も綺麗で可愛くて大好きだよ」
「ひぇ」
 目を見開いて、耳まで赤くする。奥に入ってもらっていてよかった。可愛い恋人の存在は世界中に自慢したいが、恋人の可愛い可愛い表情は俺だけのものにしておきたいから。
 注文をしてしばらくふたりでこそこそとおしゃべりをしていると、まずはチョコレートパンケーキとフルーツのパンケーキが運ばれてきた。山盛りになった白い生クリームにチョコレートの線が綺麗にかかっているのを蒼生は嬉しそうに見つめる。可愛い。まずはクリームを一口食べるのも可愛いな。
「これ、好きな生クリームだ。少し甘さは控えめかな。チョコレートが甘いからちょうどいい。美味しい」
「どれどれ? ああ、うん、美味しい。量が多いから驚いたけれど、この甘さなら平気そうだね。追加のチョコレートソースもあるんだ。パンケーキはどう?」
「美味しい! ふわっふわ。バターの香りもすごく濃くて、単体で食べても十分に美味しいよ」
「俺のほうはどうかな。へえ、フルーツが爽やかでまた違った雰囲気だな。ほら、蒼生。キウイのジャムつきでどうぞ」
「わ、ほどよい酸っぱさ! さっぱり食べられるね。ねえ冬矢、ブドウもちょうだい」
「いいよ。大粒で美味しそうだ。はい、口、開けて」
「んむ。んー、果汁がパンケーキにぴったりだぁ」
 美味しそうににこにことパンケーキを口に運ぶ蒼生は世界一可愛い。俺にフォークを差し出すのも、俺が差し出したひとかけらを何の躊躇いもなく頬張るのも、額縁に入れて飾りたいほど愛おしかった。とても幸せな時間だ。いっそ、この席だけで世界が閉ざされてしまったらいいのに。
 皿の上が空になる頃、スフレパンケーキも運ばれてきた。こちらも美味しそうだ。
「あー、じゅわってなくなる……。やっぱりこっちも美味しい」
「本当だね。甲乙付けがたい」
 蒼生は、上目遣いで俺を見る。
「……でも、ちょっとしょっぱいものが食べたくなってきた」
 ふ、ふふふ。そうだね。
「じゃあ、家に帰ったらスープでも作ろうか。野菜をたっぷり入れて。ソーセージとベーコン、どっちがいい?」
「えぇー……。ソーセージもベーコンも両方好き……。どっちも入れちゃダメ?」
「いいよ、両方入れよう。肉をたくさん入れたいなんて、健太みたいなことを言うね」
「えへへ」
 蒼生は嬉しそうに口元に手を寄せた。
 ……健太の名前を出したことで蒼生が喜ぶのは、少々複雑だ。けれど、その理由を俺は既に知っている。俺と健太の仲が良好であることが、蒼生にとっては喜びなのだ。……本当に仲がいいのかどうかは俺ももうよくわからなくなっているが、少なくとも、自分にとって大事な人同士がいがみ合っているのを見るのが嫌だという感覚はわかる。
 まあ、健太云々はともかく、蒼生が俺を見て笑っているのが可愛いから、それでいいか。

 風呂から上がると、蒼生はリビングのソファに座って先程の本を読んでいた。右手にあるページ数は左側よりもかなり少ない。どうやら相当ゆっくりと読んでいるらしいな。普段の蒼生だったらあの量の倍は進んでいてもおかしくない。ようやく手に入れた本をじっくり味わっているのだろう。
 蒼生はまだ普段着のままだ。風呂は健太が帰ってきてから入るのだそうだ。昼間にも思ったことだが、蒼生も大概心配性だ。健太が万が一帰れないような状況になったら迎えに行くつもりでいるらしい。だが、そんなことになったら健太にはまず真っ先に「タクシーに乗れ」と指示するし、それも無理そうだとなったら俺が行ってもいい。蒼生がどうしても自分で行くというなら俺もついて行く。少なくとも、蒼生ひとりで夜道を歩かせるようなことはしない。
 まあ、健太も蒼生の気持ちは理解しているだろうから、外で羽目を外しすぎるということはないだろう。適当な奴だが、蒼生に対する真剣さは本物だ。
 と、噂をすればなんとやら。俺と蒼生の携帯が同時に鳴った。画面を見ると、「今から帰ります!」という、文面からテンションが伝わってきそうなメッセージが届いていた。
 音がしたことでようやく蒼生は俺が部屋に戻ってきたのに気付いたらしい。
「あれ……。いつの間にお風呂からあがったの? ごめんね、全然気付かなかった」
「いいよ。それ、面白いんだろ?」
「うん! いきなり冒頭でね、……ってダメだ冬矢にも読んでもらうんだからネタバレしちゃダメだ……」
 頭を抱える仕草まで可愛いな。蒼生はそのまま健太宛の返事を打ち始めたから、俺はキッチンで冷たいお茶を2杯用意する。携帯には蒼生からの「くれぐれも気を付けてね」のメッセージが入った。
「お茶をどうぞ。夢中になるのも可愛いけれど、水分もちゃんと摂らないと」
 言いながらグラスを蒼生の前に置く。
「はぁい」
 素直な答えが返ってくる。甘えた声色が愛おしい。
 しばらくすると健太が帰ってきてしまうからな。せっかくのふたりきりの時間をもう少し満喫したい。俺の蒼生。可愛い蒼生。
「あは、くすぐったい。どしたの?」
 隣に座って抱き寄せると、くすくすと笑う声。このままふたりでいたいのに。
「せっかくお風呂でさっぱりしてきたのに、汚れちゃうよ」
「いいよ。蒼生の匂いを堪能させてほしいな」
「っ、面と向かって言われるとちょっと恥ずかしいけど……。僕も冬矢の匂い、好きだよ。爽やかで優しい香り。ずっとぎゅーってしてたくなる」
「可愛いことを言ってくれるね」
 ぱたん、と蒼生が本を閉じた。
「ああ、悪い、邪魔しちゃったな」
「ううん、本はひとりでも読めるもん。せっかく冬矢が抱き締めててくれるんだから、全身で味わいたいんだ」
「普段はしてないみたいな言い方をするじゃないか」
「もちろんしてもらってるけど……、もっと欲しい」
 蒼生の腕が、俺の首に回る。わずかに傾けた首は、キスをねだる仕草だ。こんな、こんな、可愛い。
 唇にキスを落とせば、柔らかな感触と共にふわりと甘い香りがいっそう強く感じられる。
「ふ、あはっ。ゆび、くすぐったぃ」
「直に触れると気持ちいいんだよ」
「えっ、それは、……余分な肉が付いてるとかそういう……」
「へえ、気にしてるの?」
「そりゃあまあ……。だって、触り心地よくないなって思われたら悲しいもん」
「ふふふふっ。そういういじらしいところも好きだよ。まあ、蒼生がどんな体型をしていても愛しいと思う気持ちは変わらないけどね。いや、変わらない、じゃないな。昨日よりも今日の蒼生がもっと好きなんだから」
「……毎日一緒でも飽きない?」
「蒼生だって俺たちに飽きたりしないだろ。同じだよ。それとも、蒼生は……」
「ない、ない! ……そっかぁ、同じかあ。ふふ。冬矢、大好き」
「俺も好きだよ」
 指を絡ませたり、足を絡ませたり。
 それから、時々キスを交わしたり。
 小さな声で笑い合いながら、俺たちはゆったりとした時間を過ごす。とても穏やかな空間が心地良く、まっすぐに俺に向かう瞳の綺麗な黒が愛おしい。
 そこに、がちゃりと玄関の鍵が開く音がした。思わず時計を見る。いや、予定より早くないか?
「たっ、だい、まぁー!」
 まったく。いいところだったのに。この様子だと、おそらく駅から走って帰って来たのだろう。
「おかえり、健ちゃん」
「ただいまー。ごめんな、今日は急に予定変更して」
「別に、そういうことくらいいくらでもあるだろ」
「そうだけどさあ」
「俺と蒼生はその分デートを楽しんだから、気にしなくていい。ね、蒼生」
「ねー」
 蒼生はにこにこと見上げてくる。健太に対して自慢をしてやろうという魂胆がある俺とは違って、純粋に楽しかった、という表情だ。
 ならばそれに健太はどう反応するだろうと窺うと、健太は健太で何一つ陰のない顔で笑っている。
「そっかー。よかったじゃん。どっか行ったの?」
「あのね、パンケーキ食べに行ったんだ」
「おー、そりゃいいな。その顔は美味しかったって顔だ」
 1歩ずつ蒼生との距離を縮めていた健太は、すっと蒼生の顎を上げると、キスがてら唇を舐める。……やれやれ。
「ふぁ!?」
「ん。さすがに味はしないか」
「あはは、しないよ。ちゃんと口拭いたもん」
「ちぇ、とっといてくれればいいのに」
「無茶を言う奴だな」
 心の底から嬉しそうに蒼生は俺と健太を交互に見ている。
 俺は蒼生とふたりきりになりたい。けれど、蒼生は健太のことも求めている。時折それが胸に引っかかる。……だが、この顔を見てしまうと、その気持ちも霧になって消え去ってしまう。俺と健太がいて、本当に嬉しいのだとわかるから。そう、俺たちが揃っていることが、「蒼生にとって一番幸せだと思える環境」なのだ。
「そうだ。健ちゃん、お風呂できてるよ」
「ありがとー。でも蒼生もまだだろ? 片付ける物もあるし、先に入って」
「わかった」
 安心しきった表情で頷くと、蒼生は俺の頬にそっとキスをくれた。
「というわけで冬矢、僕はお風呂に入ってきます」
「行ってらっしゃい」
 蒼生が立ち上がってしまうと、体がひんやりと冷たくなる。わずかにかかっていた重さまで消えて、寂しさがじわりと湧き上がる。
「蒼生。早く戻っておいでね」
 浴室に向かいかけた蒼生は、振り向いてふわっと笑った。
「うん!」
 ああ、待ち遠しい。
 その背中を見送ると、部屋はしんと静かになった。視界の端で健太が鞄の中から分厚い本や飲みかけのペットボトルを出しているのが見えるだけだ。
 こいつ……。さっき、俺と蒼生がソファで抱き合っていても、文句ひとつ言わなかったな。何を考えているのだろう。
「健太」
「はいよ」
 教材を本棚に押し込んだ健太が振り向く。
「……おまえが帰って来た時、俺と蒼生が抱き合っていたことについて、何も思わないのか?」
「えー? そりゃ思ったよ。好きな奴にだっこされてにこにこしてる蒼生、めっちゃくちゃ可愛いーって」
「蒼生がとても可愛らしいのはわかっているさ。そうじゃなくて、蒼生を俺に取られると心配にならないか、という話だ」
「んん?」
 健太は不思議そうに首を傾げた。
「取られるもなにも。蒼生はオレとおまえ、ふたりのもの、だろ。最初っからそういう約束だったじゃん。おまえと蒼生がいちゃついてるなら、次はオレの番だしな」
「たとえば、それが俺以外だったら?」
「は? 蒼生が? オレら以外といちゃつくの? ないだろ、そんなん」
 俺の不安は健太にはまったく通じないものらしい。俺はいつも蒼生とふたりきりになりたいと、ならなければ掠め取られてしまうかもしれないと怯えている。それは健太が相手でも、だ。今でも、蒼生を健太に、或いは誰かに奪われてしまうのではないかと思うと恐ろしい。可能性を考えるだけでもぞっとする。
 だが、おそらく健太にとって、蒼生と離れることなんて想像すらする必要がないということなのだ。蒼生と自分を繋ぐ糸に、絶対の自信を持っているのか。だから他の誰かと蒼生がふたりきりになっても健太の心は揺るがないのだろう。しかも、俺の存在は既に受け止められている。
 そうか。俺はそもそも、健太の位置を奪おうとしていた人間だ。取って代わろうとしていたから、自分が取って代わられることが怖いのか。健太は最初から蒼生の隣にいたのだから、その恐怖を感じたことがなくても不思議ではない。ただ、それは思い込みに過ぎない。この先、極端に言えば、一瞬先にも何が起こるかは誰にもわからないというのに。
 ……それでも、健太はこのままなのだろうな。何が起きても蒼生と自分の絆を疑いはしないだろう。こいつの思い込みは、だいぶ歪んでいると思うけれど、確かな強さでもある。
「たまに、おまえの強さが羨ましいと思うことがあるよ」
「んー? よくわかんねえけど、今、褒められてる?」
「まあ、褒めていると受け取ってもらっても構わない」
「なんかそう言われると素直に聞きづらいな」
「それを素直に受け取るのがおまえだろ」
「そっかぁ」
 何度も首を傾げながらも、健太は納得したらしい。理解できずに流したのかもしれないが。
 会話はそこで途切れた。
 手持ち無沙汰になった俺は、キッチンに向かう。夕飯の片付けでもしようかと思ったけれど、洗い物はすべて終わっており、綺麗に掃除もされていた。俺が風呂にいる時間にすべてやってくれたのか。何一つ片付けた人の痕跡がないほど綺麗だからこそ、丁寧に作業をしてくれた蒼生の姿が思い浮かぶ。……ああ、好きだな。
 そうだ、明日の朝用にクリームチーズを用意しておこう。缶詰のパイナップルと混ぜてクラッカーに載せるのが蒼生は好きだ。パンに塗るのもいいしな。うん、きっと喜ぶ。
 作業をしていると、健太がふらりとやって来た。
「なんかいい匂いするな」
「パイナップルか?」
「それも甘くて美味そうなんだけど。じゃなくて、ちょっとしょっぱい感じの」
 なるほど、あっちか。俺は蓋を開けて冷ましている鍋のほうを指し示してやる。
「あれだろう。野菜のスープ」
「へー、野菜かー。……わ、すげえ、ソーセージがそのまんま入ってる」
「見えないかもしれないけれど、厚く切ったベーコンも沈んでいるよ。蒼生のリクエストだ」
「マジで?」
 健太が鍋を覗き込んだところで、リビングのドアが開いて蒼生が戻って来た。空気が暖かくなったのは、蒼生が浴槽で温まったからだけではない。
「お風呂からただいまぁ。あれ、ふたりしてキッチンにいる」
 俺がそうしてほしいと言ったから、急いで戻って来てくれたのだろう。濡れた髪にタオルをかけたままの姿が可愛い。しかもふにゃりとした笑顔でぱたぱたと近付いてくるから、思わず包丁を置いた。
「おかえり~。今ね、冬矢にスープの話を聞いてたんだ。すげえな、ソーセージとベーコンが両方入ってるんだって?」
「そう。甘いのをたくさん食べちゃったから、しょっぱいのが食べたかったの。夕飯だったんだけど、明日も食べられたらいいねって冬矢がいっぱい作ってくれて」
「やったー。あ、じゃあ手前にある袋はパンかな!」
「明日一緒に食べようね」
 にこにこと健太に言った蒼生は、くるりと俺のほうを向く。
「冬矢は何を……あっ、クリームチーズパインだ!」
「パンにつけて食べたらいいと思ってね」
「嬉しい! スープにチーズにパンに、うーん、ごちそうだね」
 蒼生……。手を洗い終えた俺は、蒼生をぐいっと引き寄せ、抱き締めた。
「わ」
 健太があぜんと俺を見る。
「なんだよ、急に」
「いや……。蒼生のことをこのままずっと離したくないなと思ったんだ」
 蒼生はごそごそと俺の腕の中で動き、顔を上げた。優しい笑顔。
「離してもらっちゃ困るもん」
「そうか」
「そうだよ。ふふふ。今日は、冬矢を独り占めしちゃって嬉しかったんだから」
「俺を?」
「うん」
 ……ああ、そうか。
 俺だけじゃない。蒼生にとってもそうだったのか。
 健太が反対側から蒼生に抱き付く。
「いいなー、次はオレのことも独り占めしてー」
「えへへ、うん。……でもさ、本当は、僕っていつでもふたりのことを独り占めしてるんだよね。すごく幸せだと思ってる」
 そうはっきりと言った蒼生の顔は、本当に嬉しそうだった。
 蒼生。
 大好きな蒼生。
 俺たちは3人で顔を見合わせて笑い、また強く抱き締めあう。
 そうだな。俺のことも、健太のことも、蒼生にはどちらも大事なんだ。蒼生が両手で俺たちの手を取ることを幸せだと思う心を、何の迷いもなくまっすぐに尊重できるような強い自分でありたいと願う。そうして、堂々と胸を張って蒼生の隣にいたい。
 ……それはそれとして、やはり「ふたりきり」も積極的に狙っていくつもりだが。

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