94こ目;小さな胸の内側で
眠たそうにしていた蒼生と一緒に健太と冬矢も早く眠りにつきました。
けれど、目が覚めてみると、どこかおかしいことに気が付きます。
その違和感はすぐ隣にありました。
いつもの仲良し同士が見る夢のお話です。
↑初公開時キャプション↑
2023/11/24初公開
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夢というのは、大体が突拍子もないものだ。心の底で思い悩んでいることや拭い去れない不安、その日だけでなくいつか体験した出来事、ほんのわずかな願望などが思ってもみない形で綴られる。
その日も、何か特別なことがあったわけではなかった。蒼生は講義が少ない日で、一番に帰ってチキンのシチューを作っていた。健太は友人の誘いに付き合ったものの、想定の時間よりは早く帰宅して蒼生の手伝いをした。冬矢はバイト先で少々トラブルがあったが、特に問題なく処理出来たために定時で終了し、3人で夕食を囲んだ。
あえて何か普段とは違うことを探すとすれば、蒼生がやたらと眠たそうだったことだ。夕食が終わるなりふらついていた蒼生は、目を開けているのも大変そうだった。なんとかひとりでシャワーを浴びたが、何度も手を滑らせてシャワーヘッドを頭にぶつけたらしい。冬矢がその髪を乾かす間にも、こくりこくりと船を漕いでいた。
「ごめん、ね……、せっかく明日お休みなのに……」
抱えられながら呟く言葉もやけに鈍い。
「いいよいいよ、気にしないでゆっくり休んで」
「俺たちも一緒に寝るからね」
うん、と小さな頷きと共に、蒼生はベッドに辿り着く前に健太の腕の中で眠ってしまった。
先に目を覚ましたのは健太だった。いつも鳴るはずのアラームが聞こえないな、と怪訝に思って目を開けると、視界の端にあるドアの小窓がぼんやりと光っているのが見えた。その強さから日が昇ってかなり時間が経っているのだろうと推測できるが、不思議と寝過ごした感覚はない。それからおかしなことに、寝室の電気が点いている。たしか自分が消したはずだったのだが、夜中に寝ぼけてリモコンのボタンを押しただろうか。
健太はそっと背伸びをする。予定のない休みなのだから、隣で眠っている蒼生をゆっくりさせてあげたい。あれだけ眠たそうだったということは、かなり疲れているのだろう。急に動いたら起こしてしまうかもしれないので、自分もこのまま二度寝しよう。そう決めてから視線を左に動かす。蒼生は枕から半分頭を落とし、掛け布団にくるまっているようだ。黒い髪がわずかに覗く程度にしか見えない。
あれ、と健太は首を傾げる。なにかがおかしい。慌てて飛び起きる。
なんだ、この違和感は。
唇だけでごめんねと呟きながら、蒼生が抱え込んでいる布団をそろそろとめくり上げる。心臓がばくばく跳ねている。おかしい。蒼生は肩まですっぽり布団をかぶるのが好きだが、頭まで潜ることはない。
「…………っ」
息を飲む。
あどけなく、可愛い、綺麗な蒼生の寝顔。それはいつもと同じだ、けれど、明らかに幼い。
小さな蒼生。
見覚えはある。いつだ。いつ頃だ。小学生? 中学生? 少なくとも昨日まで隣に並んでいた姿とは違う。いや、そういう問題ではない。
「なんで……っ」
混乱しながら零した言葉に、蒼生の向こうで寝ていた冬矢が目を覚ましたようだ。
「健太? どうした」
寝起きの掠れた声で問いながら、冬矢は勢いよく体を起こす。健太が慌てた声を上げるなんて、蒼生に何かがあったに決まっている。
「蒼生が」
「蒼生」
呆然とした声が重なった。
健太は蒼生から目を離さないまま、ぎゅっと膝の上で手を握る。
「蒼生が、ちっちゃくなっちゃった。なんで……、なにが……」
可愛らしく体をまるめて、眠った時と同じパジャマ姿ですやすやと眠る蒼生。冬矢は脳内を素手でぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚にめまいを起こしそうになりながら、それでも冷静になろうとする。大きく深呼吸をして、冷静であろうとする。
どう見ても見間違いではない。だが、人間が突然小さくなることなど、絶対にありえない。そんなものは作り話の中でしか存在しない。そうだ。現実ではない。
「これは、夢だ」
「ゆ、め……? あ、……ゆめ、夢だよなっ。そうだよな!」
「そうだ。これが俺の夢なのか、健太の夢なのかはわからない。あるいは、その両方なのかも」
「え?」
「理屈はわからないが、前にもあっただろう、俺たち3人で同じ夢を見たことが。おそらく、あの時と同じことなのだと思う」
自分を納得させるように呟き、冬矢は唇を噛んだ。だが本当に納得するまで悩んでいる場合でもない。余計なことを考えようとする頭を振り、目の前で気持ちよさそうに眠ったままの蒼生を見下ろす。
「それよりも、蒼生が心配だ。俺たちは見てくれも変わらないが、体が小さくなったことがどう影響しているか」
「うん。話してるのにずっと目を覚まさないのも心配だな」
こんなに穏やかな寝息を乱すのは可哀想な気もする。けれど、このまま目を覚まさなかったら、という恐怖には敵わなかった。
健太は蒼生の肩にそっと手を乗せる。
「……あ、おい。蒼生」
縋るような声で呼びかける。
「蒼生。起きられる? なあ、蒼生……」
もぞ、と蒼生がわずかに体を捩った。
「ん、ん……健ちゃん……?」
柔らかい高めの声がその唇から零れ、健太と冬矢の胸に懐かしい甘酸っぱさがよぎる。やがて白い瞼が、うっすらと黒い瞳を覗かせた。健太はほっと胸を撫でおろす。冬矢も長く息を吐いて、蒼生の髪を優しく梳いた。
「おはよう、蒼生。どこか苦しいところはない?」
「ぅ、とぉ……」
ぱち、と蒼生の目が開く。黒い瞳がきらきらと電灯の明かりを反射した。それがさらに見開かれると、くるりとあたりを見渡すように視線が巡る。
次の瞬間、がばっと起き上がった蒼生は、足を突っ張って勢いよく後ろに下がると、ヘッドボードに音が出るほど強く腰をぶつけた。
「あっ、蒼生!?」
驚いた健太と冬矢が、咄嗟に膝立ちになる。途端、蒼生の体がびくんと震えた。
「…………ぇ」
ふたりの戸惑いに気付く素振りはなく、蒼生は体に見合わない大きなパジャマの胸元を掻き合わせると、正座をして両手を膝に置いた。その間も視線は部屋の中を、特にふたりの様子を窺うように動いていた。そして最後に、
ふわっと綺麗な笑顔を浮かべた。
冬矢はぎくりとする。出会った頃の、顔の表面にだけ貼り付いたような笑顔。
「すみません、ここはどこでしょう。あなた方はどちら様ですか? 僕のことをご存じのようですが」
ざあっと背中に冷水を浴びせられたような気がして、健太はその場に座り込む。
「…………っ、蒼生、もしかして、オレたちのことわかんない……?」
蒼生は答えず、にこにこと首を傾げる。完全に外に向けた顔だ。健太にとっては初めて真正面から見る顔だった。幼い頃から今に至るまで、健太は蒼生の特別だった。一度たりとも他人として扱われたことはなかった。それが、まさかこんな妙な出来事の中で見るはめになるとは。
「あ、の、オレ。オレだよ。健太だよ」
表情を崩さず、蒼生は小さく首を振った。
「たしかにその名前の友人はいますが、彼は僕と同い年ですので」
「そりゃ、今はちょっと、なんでだか年がずれちゃってるけど……オレ、なのに」
冬矢が手元のシーツをぎゅっと掴む。
「ということは、俺のこともわからない、か」
「すみません」
笑顔を保ちきちんと姿勢も正したままで時折ドアに目をやる蒼生の態度は、完全に「警戒」だ。蒼生が健太と冬矢に対して警戒心をあらわにすることなど今まで一度たりともなかったし、だからこそふたりは想像すらしたことがなかった。
健太は泣きそうになる。他人行儀な蒼生と向き合うことがこんなにつらいとは思わなかった。けれど、唇を噛んで耐える。ぐっと拳を握り、びしりと背を伸ばし、ふっと息を吐く。蒼生が小さくなったと思うから、覚えていてくれないことにショックを受けるのだ。今ここにいるのは、小さい蒼生だ。昔の蒼生だ。ここから先の記憶が何らかの妨害でわからなくなっているのだとしたら、蒼生の態度は当然なのだ。
「……うん。そっか。うん。体と一緒に記憶もちっちゃくなっちゃってるんだな。覚えてなくても無理はない、んだよな」
出来るだけ優しく穏やかであることを意識しながら、健太は誰に告げるでもなくそう言葉にした。すると自分でも少し落ち着いてくる。ふと横を見ると、呆然と座り込む冬矢の顔が酷く青白いことに気が付いた。
「冬矢」
「…………」
「おい、冬矢」
まったく返ってこない反応に、健太は小さく頭を掻く。
「なあって。おい。冬矢、マジでしっかりしろよ。これは夢だって言ったのはおまえだろ。そりゃ、わかんねえって言われてショックなのは当たり前だけど、今一番不安なのは、わかんない奴らに囲まれてる蒼生なんだぞ」
「…………っ」
ようやく冬矢がはっとしたように顔を上げた。ぴく、と蒼生の頬が動く。だが蒼生は一瞬わずかに反応しただけで、すぐ元の表情に戻ってしまっていた。にこにこととても綺麗な笑顔を浮かべたまま、呼吸の音すら聞こえないくらい静かに座っている。けれどよく見れば、服の裾を掴んだ小さな手は微かに震えて真っ白だ。
「そう……そうだな。そうだ。俺たちが取り乱して、これ以上蒼生を怯えさせてはいけないな。すまない、健太。落ち着いて話し合うべきだった。蒼生は頭がいいし度胸もあるから、記憶がなくとも冷静に話し合えば俺たちのこともわかってもらえるはずだ」
すうっと息を吸い込み、冬矢は蒼生に柔らかく笑いかける。
「だよね。だからそんなに怖がらないで。驚かせてごめん。泣きそうなのを我慢しているよね。無理に笑わなくてもいいよ。大丈夫、俺たちは君に一切危害を加えない。約束する」
その瞬間、蒼生の目がかすかに見開かれた。しかし、やはりその揺らぎはすぐに笑顔の奥に消えていく。
蒼生の無反応に再びくじけそうになる健太と冬矢だが、そもそも蒼生がとても慎重な性格であることを考えれば決しておかしくない振る舞いだ。ここは蒼生の注意深さを称えるべきだろう。つまり、蒼生は警戒すべきと判断した相手にはこれだけ毅然とした態度が取れるということだ。
ふたりは目配せをし、蒼生からある程度距離を取ってベッドの上に座り直す。
「まずは状況を確認していこう。おそらく君は、ひとり知らない場所に連れてこられたと思っているだろう。そして俺たちを誘拐犯だと考えている」
「…………」
「突然のことで意味がわからないだろうね。でも、それは俺たちも同じなんだ。ここは俺たちの家なんだよ。いつも通り眠りにつき、いつも通りに目が覚めるはずだった。それなのに、君がひとり、姿を変えてしまっている」
ぱち、ぱちと蒼生が瞬きをする。どう受け止めればいいのかを考えているのだろう。健太と冬矢には記憶があるから、あの時と同じような夢だ、と考えることが出来た。だが、そうと判断する材料が今の蒼生にはないのだから、信じられないのは当然だ。
「大丈夫、全部信じようとしなくていい。これは……ああ、そういえば蒼生が小さい頃に好きだったと教えてくれた児童向け小説にもあったね。様々な世界を渡り歩く男性の話」
「あ、短くてオレにも読みやすいって蒼生が薦めてくれた本だ。最後のオチで謎が解けてびっくりしたやつ」
「健太も読んだのか。たしかタイトルは『同じ海の記憶』だったかな。あれと同じような現象を体験していると思えばいい」
わずかに間を開けて、ことんと蒼生が首を傾げた。
「……夢、ということですか」
「そうだよ。これは夢だ。必ず覚めるから、安心していいんだ」
蒼生は頷かなかったが、かすかにふうっと息を吐く音が聞こえた。
少しだけ蒼生の肩から力が抜けたことに気付いたのか、健太は少し嬉しくなって身を乗り出した。
「ところで、名前は平気? 普段通りに蒼生って呼んじゃってるけど。嫌じゃない?」
「え……」
「ああ、そうか。気が利かなくてごめんね。蒼生が名前を呼ばせてくれるのは特別なことなのに」
「けど名字で呼ぶのもなあ。呼んだことないし。めちゃくちゃちっちゃい時みたいにあーちゃんって呼ぶのも赤ちゃん扱いみたいだしなあ」
健太の言葉に、蒼生は一度だけ長い瞬きをする。
「ふうん、可愛らしい呼び名だな。それは健太が?」
「いや、オレは気付いたら蒼生呼びだったよ。どっちかっつーと、オレ以外の家族が使ってた呼び名なんだ。オレらが生まれた頃にまだちっちゃかった姉ちゃんがさ、蒼生ちゃんって言えなくてあーちゃんって言ってたのが定着したらしい。たしか蒼生が小学校入るまでくらいは使ってたかな」
「そうか。では蒼生にとっても馴染みのない呼び名ではないわけか」
「本人次第だと思うけどね。どうしたい? オレたちはそれに従うよ」
昔の蒼生は、深く考えすぎて物事を決めるのが苦手だった。もしかするとこの問いにも答えづらいかもしれない。そう思っていたが、返って来たのは小さく首を横に振る仕草だった。
「……そのままでいいです。妙な感覚なのですが、嫌な感じはしないので。もしかして……、本当にお2人は僕のことを知っているのですか」
笑おうとしている頬が、時々泣きそうに歪む。冬矢はじっと蒼生の瞳を見つめ、言い含めるようにゆったりと頷いた。
「そうだよ。よく知っている。俺たちはお互いによく話をするから、いろんなことを知っているよ。今の君の中には、残念ながら俺の存在はないみたいだけれど。……笹原という名前に聞き覚えはないかな。笹原冬矢」
ささはら、と蒼生の唇が動く。祈るような冬矢の視線に目を泳がせた蒼生は、天井の端を見つめて「あ」と呟いた。
「知っています。女子生徒にとても人気があると、噂で聞いたことがあります」
「噂か……。それが俺だよ」
「そうなんですか、わからなくてごめんなさい。けれど、とても美男子ですもんね。噂も納得です」
「ふ。記憶のない君もそう言ってくれるんだね」
今の蒼生が発したその言葉が、ただの世辞なのか本音なのかはわからない。だが出会ったばかりの頃「かっこいいね」と言われたことを思い出して懐かしくなる。それは少なくとも最初から自分を好ましいと思ってくれていたのだろうと冬矢は前向きに受け取ることにした。
やりとりを見ていた健太が腕を組む。
「んー。冬矢の名前だけ知ってるってことは、ピンポイントで中学1年生ってことなのかな?」
「それが……僕にもわかりません。すべてが漠然としていて、覚えていることはたくさんあるのに、昨日と言われると頭に靄がかかるような感じがします。記憶と思い出の境目が曖昧、というか」
いつの間にか蒼生の表情は、はっきりと凍った笑顔になっていた。冬矢はその顔色をじっと見つめる。そこからは、少しばかりの困惑が感じ取れた。明らかに自分のことを知っているような口ぶりで話す健太と冬矢に、彼らが本当に知人だとしたら失礼な態度を取っているのではと考えて混乱しているのかもしれない。
ただ健太は、蒼生が少しずつ話をするようになってきたのが単純に嬉しかった。懐かしい蒼生の可愛らしい声を聞いてると、緊張が緩んでくる。なんだか自分も蒼生と同じ年に戻ったような気がして、その勢いで蒼生の隣にぼすんと座る位置を変えた。
あっと思った冬矢だが、蒼生は何も言わず健太の行動を見つめている。
「じゃあ、ホントにオレと蒼生しか知らない話、するね」
健太が片手を蒼生の耳元に持っていき、そのまま顔を近付けても、蒼生は動かない。
「小学生の1年か2年の頃の話。家に帰ったら、オレんち誰もいなくて。トイレ行きたかったから、慌てて探してんのに、鍵が全然見つかんなくってさ。結局玄関の前で漏らしたの」
「……ぁ」
「あの時、蒼生と一緒に帰ってきてたよね。蒼生はもう自分ちの前にいたのに、オレの様子が変だってすぐ気付いてくれたっけ。恥ずかしくて泣いちゃったオレを慰めて、汚した服も靴も全部こっそり洗ってくれた。それで自分の靴も一緒に洗って、ふたりで公園の池に足を滑らせたことにして。恥ずかしいことなんてなんにもなかったよって笑ってくれたの、すげえ嬉しかった」
膝の上で固まっていた蒼生の手を、健太はさらりと掬い上げた。その手は緊張のせいか、ひんやりとしていた。あの時のことをはっきり思い出す。
「あの時、洗い終わったあとの手が冷たかったのをすごくよく覚えてる。その時、オレは蒼生のことを一生大事にしようと思ったんだ」
はあ、と大きく息を吐いたのは冬矢だ。
「そこまで思っていておまえは……」
「鈍い、だろ。言われなくても自分でもそう思うわ。ってか聞いてんなよ恥ずかしい」
「3人しかいない静かな部屋でそのボリュームで話せば、嫌でも聞こえるだろう」
蒼生の顔からようやく外殻の笑顔が剥がれた。健太と冬矢を呆然と交互に見つめ、唇を震わせる。
「……どうしてそれを」
「もちろん当事者だからね。蒼生だって、たぶんもうオレが健太だって気付いてると思うよ。だって、さっき。目ぇ覚ます時、オレの名前呼んだの、どうして?」
「え、わからない……です、けど、何故かそんな気がして……」
「だろ?」
すっかり調子を取り戻した健太は、にこにこと蒼生の顔を覗き込む。蒼生も健太の顔をまじまじと眺め、何かを考えているようだ。
冬矢はそのふたりの様子を窺いながら考える。長い時間を健太と共有している蒼生は、まっすぐ踏み込んでくる態度に健太らしさを見出しているのかもしれない。この図々しいまでの距離感は、蒼生にとっては健太特有のものだ。そうやって次第に落ち着いてくれば、ずっと見ていた幼馴染みなのだから、面影があることもわかるだろう。そこまで考えて、ふと“面影”という言葉に引っかかった。脳裏にひとつのアイデアが浮かぶ。
「そうだ、写真だ」
「へ? 写真? あ、あー、そっか。オレたちが一緒にいる写真とか見ればわかってくれるかも。……って、あれ? ん? 携帯がねえ」
ぱたぱたと健太が枕元を叩き、ばさりと布団をめくるが、どこかにあるはずの携帯電話が見当たらない。コンセントに刺さっているはずのケーブルもないようだ。
「俺も探した。どうやらこの夢の中に、時間がわかるものは存在していないらしい。ほら、時計もなくなっているだろう」
蒼生と健太は同時に振り向き、ヘッドボードの上を見た。冬矢が言うとおり、そこにあるはずの置き時計はどこにもなかった。
「えーっ、蒼生のお気に入りのやつなのに! てか、なんでだろ。時間がわかるとなんかマズいことでもあるわけ?」
「さあな」
「けど、そしたら写真なんてどうやって見せればいいんだ?」
「アルバムなら夢の中にでもあるんじゃないか」
「あー、アルバムか」
手を叩いた健太が、ぱっとベッドから飛び降りる。それに続いた冬矢が振り向くと、蒼生はまだ固まったままだ。
「蒼生。一緒に行く?」
「……えっ」
「ここにいてもいいよ。したいことは自分で決めていいんだ。俺たちはそれを咎めたりはしない」
迷っている様子の蒼生に、健太は笑って手を振った。
「蒼生はゆっくりしてて。ずっと正座してたから、足痺れちゃってるかもだしさ」
「あ……、大丈夫です。僕も行きます」
「ほんと? じゃ足下気を付けてね」
健太の口調があまりにも無邪気であるせいか、蒼生は次第に健太の言葉に疑いを持たなくなってきているようだ。少しそれを羨ましく思う冬矢だったが、ベッドから降りた途端わずかによろめいた蒼生に咄嗟に手を差し出すと、蒼生は素直にその手を取った。
「ありがとうございます」
なるほど、蒼生は冬矢に対しても警戒を解き始めているようだ。
念の為に電化製品をチェックし、どれも時間を表示していないことを改めて確認する。そしてカレンダーの類も見当たらないことに気が付いた。ただ冷蔵庫の中身はきちんと冷えていたしレンジも反応を示したので、機械自体がおかしくなっているということではないらしい。考えてみれば、電気がついており、寝室もリビングもエアコンが適温に設定されていたのだ。日時を示すものがないだけで、生活するには困らない程度の設備は整っているのだろう。
廊下に出ると、こちらは明かりが消え、しんと冷え切っている。アルバムがあるのは玄関のすぐそばにある客間だ。蒼生が冷えないよう3人でかたまりになってそこへ向かう途中、蒼生がちらりと視線を横に動かした。健太は、ああ、と頷く。
「玄関? 外って出られんのかな」
「さあ、どうかな」
全く期待のこもっていない冬矢の声と同時に、健太がサンダルをつっかけて土間に降りた。鍵に手をかけて回すと、がちゃん、と開く音がする。だが、それだけだ。他の部分が動く様子はなかった。
「あー、ダメだな。試しに蒼生もやってみて」
「えっと、はい。……これ、ドアと壁が繋がっていませんか」
「どれどれ。おー、溶接したってより最初から繋がってますけど? みたいな感じになってるな」
「やはり家の中で解決するしかないということのようだね」
冬矢はここから逃げるつもりだっただろうかと蒼生の表情を窺うが、横顔はとても静かで、がっかりしたような雰囲気はない。先程まではひどく怯えて、それを隠すために笑っていたが、今はだいぶ落ち着いてきているようだ。すぐさま冬矢たちが危害を与える気配がないことを察知したのだろう。非常事態に対して冷静で毅然としていて、いざというとき度胸がある蒼生らしい。姿は違えど蒼生は蒼生なのだとほっとする。
「さーてと、アルバムはーっと。こっちの部屋のこの棚の、んー、この箱か」
ぶつぶつ呟きながら、健太は客間のクローゼットから重そうな箱を引きずり出す。
「時計はないしドアも開かねえのに、こまごましたものとかはあるんだな。変なの。でもそれも記憶違いで、見たことがあるような気がしてるのに全部作り物とかだったら怖えな」
「記憶ごと作り物っていうホラー、見たことあります」
「蒼生、そういうの好きだもんなあ」
笑う健太も、既に蒼生の大きさを気にしていない。それが小さな蒼生にとっても気持ちを楽にする大きな要因になっているように見えた。
「お、あった。これか。普通のじゃなくて卒アルがいいよな。冬矢もいるし。高校とー、中学とー、これが小学校の」
蒼生は健太が抱えた3冊のアルバムをじっと見つめる。それに気が付いた健太が、首を傾げてそれらを差し出すと、蒼生は小学校のアルバムをおそるおそる手に取った。そのままケースに入った中身を取り出そうとする手に、冬矢はそっと自分の手を重ねる。
「……なにか?」
「ここじゃ寒いよ。風邪をひいたら大変だ。蒼生が丈夫なのは知っているけれどね。さあ、リビングに行こう」
黒い瞳がほんの少し揺らいだように見える。その蒼生の肩を、健太がぽんと叩いた。
「だな。戻ってそのアルバムから見てみよっか」
リビングに戻ると、ふうっと暖かい空気が3人を包む。ドアを境にまったく世界が違っているような感覚にひどく違和感を覚えながら、冬矢はひとりキッチンに入った。
「飲み物を用意しようかと思うんだが、どう思う?」
「んー? どうって?」
首を傾げる健太の隣で、蒼生がぱっと顔を上げる。
「異世界のものを口にすると戻れないという、あれですか」
「ふふ。さすが蒼生、よく知っているね」
健太はますます不可解だという顔で蒼生を覗き込む。
「蒼生、どういうこと?」
「古くからの言い伝えに散見される現象で、簡単に言うと、死後の世界で食物を食べると自分もその世界の住人に変わってしまうというお話です」
「へえ。だから生きてる人の世界に戻れなくなるってことか。蒼生はよくそんなの知ってるなぁ」
冬矢は蒼生の言葉ににこりと笑う。
「蒼生なら、そのうえでどう考える?」
「……あれはあくまで物語としてのスパイスだと思っているのですが、実際奇妙な現象の渦中にいるとなると、慎重になったほうがいいのかもしれません。ただ、ここは“夢”なのでしょう? 今までの話を伺っていると、互いに害をなすようなものがこの部屋にあるような気はしません」
ふうん、と冬矢は頷く。確信を持ったその言葉は、蒼生がこの世界を安全だと「知っている」ように思わせる。
「わかった。俺も同じ考えだよ。健太は、先に」
「はいよ。……蒼生、ソファに座ろ」
健太は蒼生を中央に座らせ、少し間を開けて隣に座る。それから蒼生が持っていたアルバムのカバーを引き抜いた。蒼生はしばらくその表紙を眺めていたが、短く息を吐いてからその大きな冊子を開いた。
「……本当に卒業アルバムだ」
「懐かしいよなー。あっ、なあ、見て、ここ。ほら、クラスの集合写真にネコが写り込んでる。うっわ、今まで気付かなかった! これ、小学校の向かいに住んでた田村さんちのネコだよな。しょっちゅう校庭で日向ぼっこしてて、人懐っこいかと思いきや近寄るとすぐ逃げちゃうの。名前なんだっけ。えーっと。カズコさんじゃなくて……」
「それは飼っていたおばあさんの名前でしょう。モモちゃん」
「あっ、そーだ、モモちゃん!」
ぱちぱち、と蒼生は目を瞬かせる。
冬矢がマグカップを3つ手にしてキッチンを出ると、アルバムのページはまだ数枚がめくられただけだ。暖かそうなスープが入ったカップをローテーブルに置きながら、冬矢は肩をすくめる。
「思い出が尽きないのはわかるが、その分ではいつまで経っても俺が出てこないな」
「っと。そっかそっか。目的変わっちゃうとこだったな。んじゃ、また後で見よ。いったん中学のやつに交換ね」
健太は蒼生からアルバムを受け取ると、今度は中学校の卒業アルバムを開いて蒼生の膝に乗せる。そこには見開きで入学式のクラス写真があった。
「これ、は……覚えはあるけれど、見たことはない写真です」
「ってことは、やっぱ今の蒼生は中1くらいなんだろうな。ここに蒼生で、こっちがオレ。えーっと冬矢はどこのクラスだっけ……あ、ここだ」
「それから中学2年のクラス写真と行事の写真がこっちだよ」
「……僕がいる。同じ人たちと一緒にいる」
ここからは蒼生の閉じ込められた記憶にまつわる話だ。蒼生には現状を理解して納得してもらわなければならないのだから、ゆっくり丁寧に説明したほうがいい。それは健太も冬矢も十分にわかっている。だが、どうしても気持ちが焦ってしまう。
「そっちは森で、こっちが俺。森とは腐れ縁でね。初めはこいつが蒼生のことを気に入って仲間に入ってもらったんだ。その結果、蒼生と俺は一緒に行動することが多かった。だけど途中からは、俺自身が蒼生といることが心地よくて、心から望んで一緒にいたんだよ」
「んで、中3。また蒼生とクラスが別になっちゃってさー。だけど、これはオレも写ってるだろ。体育祭でクラスがぐちゃぐちゃなのをいいことに紛れ込んだんだ」
「この時も俺たちは一緒だったよ。こっちも。この写真も。蒼生の隣には俺がいる。次第に自分が成長しているのがわかるだろう? それで、これが高校生になった俺たち。同じ学校に進んでからは、3人で行動するようになった。高校はクラス替えがないから、ほら。1年も。2年も。3年も。ずっと一緒にいたんだ。このくらいになると、今の俺たちとほとんど変わらないね」
まくしたてるようにふたりが話し終えると、蒼生は目の前に広げられた中高6年分のアルバムを両手で交互にめくる。何度もそれを繰り返し、最後に冬矢と健太をかわるがわるに見た。ふーっと、長い息。
しんと静まり返るが、冬矢はただ蒼生が気持ちを整理するのを待つ。健太もさすがに黙って蒼生の言葉を待った。
もう一度、蒼生が大きく息を吐いた。
「……本当に、……健ちゃんなんだ」
「う、うん!」
ぱっと健太が顔を輝かせる。
「それから、えっと、」
「冬矢。今の蒼生には呼びづらいかもしれないけど、ごめんね。そう呼ばれないとおかしくなりそうだ」
「と、冬矢」
「……うん。ありがとう」
健太は勢いよくソファの背に倒れ込み、冬矢は組んだ両手を額に当てた。
「っ、はあああぁ……。ようやく蒼生に名前呼んでもらえたぁ……」
「自分の名前を呼ばれるだけでこんなに安心できるなんて、なかなか貴重な体験だな」
安堵の声を零すふたりを、蒼生は困った顔で見つめる。納得はしたものの、自分の持っている記憶からふたりを繋げる作業に手間取っているのだろう。それからふと目を落とし、そこから辿るようにして部屋の様子を眺めた。
ふたりはそれに気付いて蒼生の目線を追う。テレビや、棚や、テーブルや、キッチンや、寝室のドア。住んでいたはずの部屋から、何かを思い出そうとしているのかもしれない。
「それで、僕は、大きくなって健ちゃんと冬矢と一緒にこの家で暮らしているんです……暮らしてるんだ、ね。高校の卒業アルバムがあるってことは、大学生? 同じ大学に通うためってこと?」
少し口調に迷いながら、蒼生はまだきょろきょろしている。健太と冬矢はちら、と目線を合わせた。
「んー。言っちゃってもいいかな」
「いいんじゃないか。俺もそろそろ限界だ」
「だよな」
健太が咳払いをし、冬矢が背筋を伸ばす。蒼生は不思議そうにそれを見ている。
「……あのな、蒼生。オレたち、付き合ってるんだ。一緒に住んでるっていうか、同棲してんだ」
「……え…………。……僕、と、健ちゃんが……?」
「健太だけじゃない。俺と蒼生も恋人同士なんだよ」
蒼生が目を見開く。
「え? 2人? えっ……?」
「混乱させてごめんね。俺と健太は、蒼生のことが好きで好きで大好きで、どちらも譲れなかった。蒼生はそんな俺たちを受け止めてくれて、こうして3人で暮らしているんだよ」
ふる、と蒼生が首を振る。
健太はぎくりとした。健太の記憶の中では、未だに蒼生に強い言葉で拒否されたことが重くのしかかっている。それは健太自身に対する拒否ではないとわかっているし、後にしっかり確認もしたのだが、やはり蒼生の拒絶は怖い。
だから、蒼生の大きな両目からぼろりと涙が落ちた時、息が止まりそうになった。
「あっ、蒼生」
「蒼生」
呆然と涙を零した蒼生の表情が、次第に歪んでいく。
「……うそ。僕のことを好きな人なんているわけがない」
ぱたぱた、と。パジャマの胸元に染みが広がる。
「こんな、すぐ落ち込むし面倒な事を考えるような奴、誰も好きになるはずがない。僕なんかいなくなっても誰も困らない。ひとりでいたほうがいいんだ。迷惑かけるだけの存在なんだ。僕には何の価値もない。僕のことなんて誰も選ばない。誰も僕を一番好きにはならない」
焦った頭の隅で、健太は「あれ」と思う。それはふたりの思いを受け入れない体裁を取りながら、それでも拒絶する言葉ではないように感じたからだ。だから迷わず蒼生の右手を両手で握る。
「でもさ、実際、いちゃったんだよ。蒼生のことが好きな人。蒼生はそう言うけど、オレは蒼生のことが世界中で一番好きだし、蒼生とずーっと一緒にいたいし、蒼生がいない生活なんて考えらんない。蒼生はオレのすべてだもん」
「……っえ」
冬矢も蒼生の言葉をしっかり受け止めて胸に刻み込んでいた。蒼生は本当にそう思っている。いや、思い込むことで自分を守ろうとしていた。そうやって自分だけを低く見積もる蒼生の涙の裏側に、おそらく何事かあったのだろうと過去の出来事を推測する。けれど、今はかつて何があったかよりも、目の前の涙を止めたかった。もう片方の手をそっと包み込む。
「そういう、後ろ向きで面倒だって自称するところも、全部ひっくるめて大好きなんだ。自信がないならいくらでも教えてあげる。蒼生がどれだけ俺の世界を素晴らしいものに変えてくれたかを。蒼生がいなければ、俺はもう立っていることすらできない」
蒼生はまだ首を振る。
「僕なんか好きになっても……なにもいいことないよ」
「えー? オレ、蒼生と恋人同士になってから、いいことしかないんだけどなあ」
「そうだな。蒼生が傍にいてくれることこそが最高にいいことなんだから」
止まらない涙を、冬矢がそっと袖で押さえる。
「っあ、ごめん、なさ、」
「大丈夫だよ。蒼生が強くて人に涙を見せたくないということは知っている。でも、俺たちは……本当は泣き虫な蒼生も知っているんだ。今は忘れているかもしれないけれど、それだけ俺たちを信頼して、深く愛してくれている気持ちが、蒼生の中にはあるんだよ」
「……う、ぅうー……っ」
ふたりに握られた手を、蒼生の手がおずおずと握り返してくる。手の中にすっぽり収まってしまう小さな手が、ひどく愛おしかった。
蒼生の涙が止まるのを、ふたりは静かに待っていた。背中を撫で、頭を撫で、蒼生が心から安心してくれるまで、ただ見守る。
やがて鼻をすすった蒼生は、繋いだままの両手をローテーブルのほうに伸ばす。どうやらマグカップを指しているようだ。
「っ、ぅ、あ、の、ひっ……う」
「無理してしゃべらなくていいよ。たくさん泣いて癖がついてしまってるだろ」
冬矢がマグカップを手渡すと、蒼生はぺこっと頭を下げる。
「ぁい、ぁと……」
両手で落とさないようにマグカップを包み込み、しゃくりあげるたびに零しそうになりながらも蒼生はカップに口をつける。ゆっくりと飲み込む気配。
冬矢は健太に目配せをして、自分もカップを取った。先程話題になった異世界の食事の話で、蒼生が少しでも不安になっていたとしたら、ひとりきりで飲ませるわけにはいかない。仮にそれがこの世界にも適用されていて、二度とこの部屋から出られないとしても、自分も蒼生といるつもりだと伝えたかった。健太にもその意図は伝わっただろうか、健太は勢いよくカップの中身を飲み干した。
「ふーん、普段飲むスープと変わんないな。いつものインスタントのやつ?」
「そう。さすがにイチから作っている時間はなかったからな。たしかに味は同じようだね」
蒼生が涙で重そうな睫毛をぱたぱた、と動かす。
「とぉ、や、は、ごはん、作れる、の」
「ふふふ。作るよ。おなかすいた? 支度しようか」
「……も、ちょっと、このまま、いたい」
カップをテーブルに置いた蒼生が、両隣のふたりの腕にぎゅっとしがみつく。健太は反対の手で蒼生を抱き締めそうになったが、驚かせるわけにはいかないと思いとどまった結果、勢いよく自分の顔を覆った。
「うあぁーっ、可愛いっ! 蒼生可愛いっ」
「へ……?」
「もうずっと言いたかったんだけど、びっくりさせちゃダメだと思って我慢してた! もう無理! 可愛い! ちっちゃい蒼生懐かしい! 可愛い! 好き! 声変わりまだなの可愛い! この声で新たなお言葉いただけてると思うとありがてぇ! 名前呼んでくれる声もめちゃくちゃ可愛い! 名前呼ばれなくて寂しかった! 蒼生大好き!」
「ぇ? え?」
思わず冬矢が噴き出す。困った顔の蒼生が説明を求めるように見上げてくるので、冬矢は優しく蒼生の髪を撫でた。
「これ、今の健太の通常運行なんだ。普段とは違って見える?」
「健ちゃん、いつも大騒ぎで抱き付いて、来て、体当たりかなって思ってたけど、言葉で体当たりされた、みたい。……それ、に、こういうの言われたことない、から」
健太は満面の笑みで、しゃくりあげながら言葉を綴る蒼生の顔を覗き込む。
「オレね、ずっと蒼生が大好きなんだ。蒼生が知ってるオレって、たぶん自分が思ってることを言葉に出来てないんだよな。なんていうか、すごく好きなんだけど、ずっと好きすぎて、それが恋人になってほしい好きだって気付かなかったみたいでさ。今は気持ちと“好き”がちゃんと繋がったから、全部出てきちゃう」
「……ずっと?」
「そう! 今蒼生が覚えてるオレは、どの瞬間も蒼生のことが大好きだったんだよ。気付くのが遅くなっちゃったから、伝えられてなくてごめんね」
蒼生の綺麗な目に、再び涙が浮かぶ。びくっと肩を震わせた健太が、慌てて棚に置いてあるボックスティッシュに手を伸ばした。
「わ、ごめんごめんっ」
「ぼ、僕こそごめん……。嬉しく、て」
「そっかー、嬉しかったかー。それはよかった。でも、可愛い涙も好きだけど、ほっぺが痛くなっちゃうから、拭こうな」
「うん……」
ぽんぽん、と頬を流れる涙を優しく拭う。泣かせてしまったことに焦ってはいたが、蒼生が健太のほうに素直に顔を上げて大人しく涙を拭かせてくれること自体はとても嬉しい。心を許した、という合図のように見えたからだ。
冬矢は、毛束の先が涙で少し濡れている蒼生の前髪を丁寧に整える。
「蒼生、触れても大丈夫?」
「……? うん」
質問の意図がわからなかったのか、蒼生は不思議そうに冬矢を見て頷く。その向こうで健太がはっと息を呑むのが見えた。
蒼生は好意を抱いている相手以外に触れられるのを嫌う。一瞬ならば我慢できるが、触れられ続けると気分が悪くなるらしい。この頃の蒼生はそれを自分で理解していないはずだ。つまり、触れて大丈夫ならば、蒼生はふたりの存在を受け入れているということになる。さっきも撫でていたが、あの時の蒼生は少し取り乱していた。落ち着いたところで改めて確認したかったのだ。
そっと頬に触れる。蒼生はきょとんとその冬矢の手を横目で見る。健太が腕を伸ばして蒼生の肩を抱く。視線が動いて指先を眺めたが、拒否する気配はない。
「どう?」
「2人の手、あったかいね」
蒼生はやはり何故感想を聞かれるのか理解していないようだ。けれど、健太と冬矢はほっと息を吐いた。
「そうだ、あの写真はあるかな」
「あ」
冬矢が立ち上がると、咄嗟に蒼生が手を伸ばす。笑って、冬矢はそのまま蒼生を抱き上げた。
「えっ」
「あ、ズルい!」
突然抱えられた蒼生は驚いたようだが、暴れもせず冬矢の腕に収まっている。冬矢はたまらず蒼生の肩に自分の額を押しつけた。
「……ふ、ふふ。軽いから、俺にも抱き上げることができるんだ。これはこれでいいものだね。大きくなったら俺にはちょっと難しいから」
「そんなに僕重くなるの?」
「俺が持ち上げるには少しね。健太ほど馬鹿力じゃないから、簡単には抱き上げられないんだ。蒼生が大きくなったらどんなふうになるか見せてあげる」
大事そうに蒼生を抱き締めた冬矢は、そのままテレビ側の壁の棚まで連れていく。蒼生は棚を一通り眺め、中でもテレビの脇に置いてあるゲーム機に気をとられているようだ。それに笑い、後ろからついてくる健太に声をかけた。
「テレビのひとつ上の棚から、手帳を取ってもらえるか」
「ん。どれ?」
「端から2冊目だな。紺色のビニールカバーがかかっているだろう。少し大きめの。中に写真が1枚挟まっているはずだ」
「おー、紺色な。えーと写真、……ああ、これか」
ためらいなく手帳を開いた健太は、特に中身を気にするでもなく、挟まっていた1枚の写真を手に取った。
「あれ。これ、この前3人で撮ったやつか」
健太が蒼生に見やすいようにそれを差し出す。そこには、公園のベンチらしき場所で大きなホットドッグを手にして笑っている3人が写っていた。手前の健太が手を伸ばして自ら撮ったものらしい。冬矢が蒼生に体重を掛けており、ふたりに挟まれた蒼生は楽しそうに笑っている。蒼生を挟むふたりもとても楽しそうだ。
「……これ」
「まさにデート中の一幕といった感じだろ。特別なことなんて何もない写真なんだけれどね。すごく俺たちらしいなって思ったから、プリントして手元に持っておいたんだ」
手を伸ばした蒼生は、健太からその写真を受け取る。
「……僕、笑ってるね」
「そうだね。健太が言い出して撮った写真なんだけど。健太は両手が塞がっているし、それなら邪魔されないだろうなとわざと蒼生と仲良しなところを見せつけて羨ましがらせてやろうと思ったんだ。それで蒼生に体を寄せたら、健太が案の定文句を言うんだよ。蒼生が狭いだろう、って。俺は蒼生に抱きついていたいから仕方がないと答えた。健太は気持ちはわかるけれどズルいなんて言い返してくるし。そんなふうに言い合いをしていたら、蒼生が笑いだして。蒼生が笑ってくれたから、俺たちも嬉しくなった」
「僕が笑うと嬉しいの?」
「そりゃ嬉しいさ。大好きな子が自分の傍で笑っててくれるなんて、最高じゃん」
黙り込んで、蒼生は写真を見つめる。普段の蒼生は自分の写真からは目を背けたがるから、珍しい光景だ。しばらくそうしてじっと自分と目を合わせていた蒼生が、ぽつんと呟いた。
「僕、幸せそうだ」
呆然としたような言葉に、冬矢は微笑む。
「蒼生が自分で思うなら、それで間違いないと思う」
「いいなぁ……」
「覚えてなくて残念だろう? でも、無理矢理思い出さなくていい」
蒼生はぱっと顔を上げ、冬矢の顔を見つめる。
「思い出さなくていいの?」
「無理には、ね。愛されていることを理解するんじゃなくて、実感してほしいから」
え、と蒼生が首を傾げる。
後ろから焦れたらしい健太が両手を伸ばしてきた。
「じゃあ、次はオレの番!」
「おまえはいつもしているだろう」
「してるけど! ちっちゃい蒼生もだっこしたい!」
「仕方ないな……。また後で交替だぞ」
目を丸くして、蒼生は健太と冬矢を交互に見る。その可愛らしい表情に思わずにやつきながら、健太は冬矢の腕から蒼生を受け取り、ぎゅっと抱き締めた。
「んー。可愛いっ」
「苦しい」
もごもご、と胸元で可愛い声がして、健太は慌てて腕を緩める。
「えっ、わっ、ごめんな!」
「ううん、嬉しいからいいけど……。重くない?」
「全然重くねえよ。軽い軽い。むしろ蒼生が嫌がんないでくっついてくれてるのが嬉しいし、嬉しいとか言われるとめちゃくちゃ嬉しい!」
健太はそのまま踊るような足取りで、鼻歌を歌いながらリビングをぐるりと回っていく。相当テンションが上がっているのだろうが、それにしてもわかりやすい。腕の中の蒼生がきょとんとしているのも含めて微笑ましい。
冬矢は息を吐き、袖をまくった。蒼生の愛しい重さと心に染みる暖かさが奪われてしまったのは寂しいが、自分には出来ることがある。キッチンに入ってストックの棚を確かめると、一通りの食材が揃っているようだ。次に冷蔵庫を開ける。先程は通電の確認しかしておらず中身まできちんと見ていなかったのだが、どんなものでも作れるくらい豊富な種類の食料が詰め込まれている。冷凍庫には様々な種類の冷凍食品やアイスクリームまで入っていた。この“夢”は、3人を困らせるつもりはまったくないらしい。
「朝……いや、もう昼なのかな。何が食べたい?」
「腹減ったから早く食べられるやつ」
被せるように声を上げたのは健太だ。
「どうしておまえが率先するんだ。蒼生の意見が最優先なんだが」
「えー。蒼生だっておなかすいたよなあ」
「あ、うん」
「パスタとか食べたいよなあ」
「うん」
「誘導尋問するな」
健太にしがみついた蒼生が、再び不思議そうにふたりを見る。
「さっきの写真の話もそうだけど、健ちゃんと冬矢って、いつもそんなふうにケンカしてるの?」
「ケンカってーか、んー。なんだろうな。よくわかんねえけど、張り合っちゃうんだよ。オレたち、いっつも蒼生の取り合いしてるから」
「僕の?」
キッチンで冬矢が笑う。
「だから蒼生は大変なんだよ。大の男ふたりに、朝から晩まで毎日大好きだよって迫られているんだから」
「……もしかして、いつもこんなふうに抱っこされたりしてるの?」
「いつもじゃないけど、時々な。普段は膝に乗っけてることが多いかなー」
「赤ちゃんみたいだって呆れない?」
不安げな蒼生の言葉に、健太はにんまりと笑う。赤ちゃんみたいだからやめてくれ、ではない。
「ない、ない。だって、オレたちのほうが蒼生のこと甘やかしたくて甘やかしたくてたまんないんだもん。蒼生に甘えられるのがだーい好きなの」
ぱちぱち、と瞬きの数を増やし、蒼生は健太の腕をきゅっと掴んだ。
冬矢はそれを見て目を細め、指先で天板を叩く。蒼生の目がぱっとそちらに向いた。
「さあ、俺はそんな甘やかしたくてたまらない蒼生に食事をしてほしいのだけれど、何が食べたい? 健太のリクエストはパスタだそうだが、別のものでも構わないよ」
「あ、ううん、パスタがいい」
「ソースは?」
「えっ」
蒼生は困り顔で健太を見る。
「こら。メインは蒼生が決めるんだよ。なんでもいい。好きに言っていい」
「でも……」
「ならば相談しよう。まずはベースだな。トマト系、クリーム系、オイル系、それともスープかさっぱりしたほうがいいか」
驚いた顔をしたのは蒼生だけではない。健太もだ。そんなに出来るのだろうかとカウンターに近付き、蒼生と一緒にキッチンを覗き込む。
「そんなにあんの?」
「何故かやたらと食材の種類があってね。なんだってできそうだ。具も野菜たっぷりだっていいし、魚介でも肉でもなんでもいける」
「チーズも、ある?」
「あるよ」
「えっと、……そしたら……クリーム系で粉チーズかけたい。あ、でもトマトも……」
「お! いいね!」
冬矢は嬉しそうに手を伸ばし、蒼生の髪をぽんぽん、と撫でた。
「そうしよう。パスタの種類はどうしようか。スパゲッティでもいいし、ショートパスタもある。平打ちでもいいね」
「麺もそんなにあんの!」
「レストランみたい」
健太と蒼生は顔を見合わせた。
相談した結果、冬矢が作ったのはトマトとバジルのスパゲッティと、スモークサーモンとブロッコリーのクリームソースタリアテッレだ。そう言いながら冬矢が2つずつ皿をダイニングテーブルの上に並べると、蒼生はきらきらと目を輝かせた。丁寧にフォークで巻いたパスタを口にするとますます顔が晴れやかになる。
「美味しいね、すごいね、美味しいね。どっちも美味しい。トマトの爽やかなすっぱいのとバジルの香りがすごくバランスよくて美味しい。こっちも濃いクリームとサーモンの香りがよく合ってる。平打ちの麺に絡んで美味しい。どっちも好き。すごく贅沢な味がするよ」
一口一口嬉しそうに口に運ぶ蒼生を、冬矢は正面から温かい気持ちで見つめる。蒼生の顔には次第に自然な笑顔が浮かぶようになってきていた。少しずつ解れてきていた緊張が、3人で食卓を囲んだことでさらに緩んだのだろう。そのきっかけが自分の料理であることが、なによりも嬉しかった。初めて蒼生に手料理を振る舞った時のことを思い出す。あの時も驚きながらも嬉しそうに食べてくれた。蒼生はいつでも自分がすることを喜んでくれる。
蒼生もふたりの柔らかな眼差しに気付くと、頬を赤く染めながら小さく笑う。普段と変わらない穏やかな時間が流れていることに、健太と冬矢は心の底からほっとする。
ようやく余裕の出てきた健太は、蒼生が机の上のカップに手を伸ばす時に袖口を反対の手で押さえていることにふと気が付いた。
「……あ。蒼生、ごはん終わったら着替えような。元のサイズのパジャマだから、ぶかぶかで動きづらかっただろ。気付かなくてごめん」
「本当だ。たしかに合っていないね。早く気付いてあげられれば良かった」
「えっ。大丈夫だよ、慣れちゃえばなんともないよ。ズボンも紐縛ったら落ちないし」
よく見れば、足下も裾がくるりとめくり上げられている。蒼生のことだ、気取られないようにずっと気を遣っていたのだろう。
「遠慮しなくていいのにー。……っていっても、言いづらかったよな。蒼生は優しいもん、オレたちに謝らせたくなかったんだろ? ありがとな」
「難しいかもしれないけれど、思ったことは口にして大丈夫だからね。俺たちもそうするからね」
「……うん」
素直に頷くと、蒼生は手をぶらぶらと振る。小さな手は、袖の中に隠れて見えなくなった。それを見た健太はでれっと表情を崩して頬杖をつく。
「えへへ。オレはね、そういうサイズがおっきいの着て手が出ないの、すっげえ可愛くて好きだよ。だけど蒼生は手の周りがごちゃごちゃしてるの苦手だもんね」
「健ちゃん、そんな細かいことまで知ってたの?」
「蒼生が俺たちに教えてくれたんだよ。特に手の甲に布が触れているのが嫌だって」
「……ふうん。僕、そういうこともふたりに話せるんだ」
隠れた指先を透かして見るように蒼生は長い袖をじっと見つめる。その肩からふっと力が抜けたのがわかった。けれど、何を考えているのかまではわからない。まだ一緒に暮らしていない頃の蒼生。それどころか、付き合ってもいない頃の蒼生だ。何もかもを隠していた頃の。
「よしっ」
健太が明るい声を上げながら、自分の腕をぱんっと叩いた。
「冬矢、勝負だ。ジャンケンしよ」
「何を賭けてだ?」
「勝ったほうが、蒼生の着替えをフォローする。負けたら食事の後片付け」
えっと蒼生が声を上げたが、冬矢はすました顔で頷く。
「いいだろう」
「1回勝負な」
「わかった」
「おっしゃ」
間でおろおろする蒼生をよそに、勝負は1発でついた。
「では、俺は蒼生と着替えに」
「ちぇー、負けたぁ」
蒼生は困った顔で健太の袖を引く。
「あの、みんなで片付けたほうが早いんじゃ」
それを見た健太は、嬉しそうに蒼生の頭をぽんぽんと叩く。
「3人がかりでやるほどの量じゃねえから大丈夫! 蒼生は早く動きやすいかっこになって、一緒に遊ぼ!」
綺麗な黒い瞳が訴えるように見上げてくる。ぎゅうっと胸が締め付けられて顔を近付けそうになり、健太は頭を振った。代わりに柔らかな頬を優しく両手で挟み込む。
「あはは、もちもち。かわいー」
「んむー」
「は? なにそれいや可愛いマジ可愛いねヤバいどうしよ離したくねえわ」
冬矢はふっと笑い、立ち上がって寝室に向かいがてら蒼生をひょいと抱き上げた。
「あー、取られたぁ」
名残惜しそうに健太が手を伸ばすが、気にせずに寝室に連れて行く。
ベッドに蒼生を下ろしながら、さてと冬矢は首を捻る。当然だが、この蒼生のサイズを想定した服など所持していない。実家であれば小さい頃の服がどこかに残っていたりする可能性もあったかもしれないが、この家には自分たちが選んだものしかない。食材と同様のパターンもあるだろうかと念のため探してみるものの、さすがにその用意はないらしい。やはり一番近いサイズは蒼生の服の中から選ぶべきだろうか。
その蒼生は、ベッドの上に座ったまま、冬矢の手元とキッチンのある方向の壁をちらちらと気にしている。
「気になる?」
声をかけると、細い首をことんと傾けた。
「うん……」
「蒼生は優しいね。それなら、早く着替えて手伝いに行こう。それから、夕飯は一緒に作ろうね」
「いいの?」
「もちろん。手伝ってくれたら嬉しいな」
「うん!」
ふわっと蒼生が笑う。
冬矢は、そういえば出会った頃の蒼生は一方的に何かをしてもらうことが苦手だったな、と懐かしく思い出す。自分に自信がないので、人に何かをしてもらいながら自分が何もしないことで自らの価値を極端に低く、それどころか全く無いと考えてしまうのだ。今でもそれが根本から変わったわけではないが、任せてくれてそれに対して素直に「ありがとう」と言うようになったのは大きな成長だ。小さな蒼生はとても可愛いが、だからこそ蒼生が安心して寄り添って進んで来てくれた道を誇らしく思う。
「それじゃあ、着られそうな服を探そうか」
「はーい」
何着か試してみたが、ハーフパンツをたたんだ風呂敷で落ちないように腰で結び、七分丈のTシャツを着るのが一番動きやすい服装のようだった。しかも、ちょうどいい長さの服がすぐ出せる場所になかったため、どちらも健太のものだ。正直、冬矢は悔しく思う。
「せめて俺の服を着せたかったな」
「えっ。あ、あの、似た感じの服が多いけど、冬矢の趣味って僕と似てるの?」
「正確に言えば、自分の着る物にはあまり興味がなくてね。ただ君とサイズがあまり変わらないから、蒼生に着せたいものを選んでいるという意味では、結果的に似ているかもしれない」
「じゃあ、ふたりで交換こで着たりしてるんだ」
「そう。共有している服が多いんだよ」
「ふうん……」
クローゼットのほうを眺め、蒼生が頷く。どこか満足そうに見えるのは気のせいだろうか。
そこに、手早く片付けを終えた健太が駆け込んできた。そして蒼生を一目見るなり歓声を上げ、滑り込むように蒼生の前に座り込む。
「オレの服着てるじゃん!」
「仕方がないだろう、今の季節で中途半端な長さの服が出ているのがおまえのだけだったんだ」
「理由なんかどうでもいいや。えっへへ。嬉しい。なにこれ、腰の、リボンみたいだね」
「えっとね、これ、風呂敷なの。ちょうどいいベルトとかなくて、手前にあったからこれでいいねって」
「かわいー!」
蒼生はうっとりする健太に首を捻る。
「健ちゃんと冬矢は、すぐ僕に可愛いって言う」
「だって可愛いからさ」
「可愛いって言われるの、嫌?」
心配そうに顔を覗き込む冬矢に、蒼生は一瞬きょとんとしたが、すぐにふにゃりと笑った。
「ううん。他の人に言われたらあれって思うけど……ふたりに言われるの、なんか、嬉しい」
「……じゃあ、3人で付き合っていることについてはどう思う? それも嫌じゃない?」
「びっくりしたけど、嫌じゃないよ。だって、すごく贅沢で幸せだと思うもん」
そう言って蒼生はふたりに向かって手招きをする。呼ばれるままに健太が立ちあがり、冬矢が傍に寄ると、手を伸ばしてふたりにしがみついた。
「……うん。すごく安心する。やっぱり僕は、ふたりのことをちゃんと覚えてるんだね」
「蒼生」
かわるがわるふたりの胸に顔を寄せ、穏やかな表情を浮かべる蒼生。あまりにも愛おしい。ふたりは手を伸ばし、そっと蒼生を抱き締めた。
夕飯の内容を賭けたカードゲームの結果、全員でカレーを作ることになった。ごはんが食べたいと言ったのが健太、チキンがいいと言ったのが蒼生、それならカレーにしようかと提案したのが冬矢だ。
蒼生はなぜかおそるおそるキッチンに入って、必ず指示を待ってから、しかも冬矢の目を窺いながら野菜を切っていた。が、冬矢が丁寧に説明をしたうえで蒼生に任せ、その出来をひとつひとつ褒めているうちに次第に積極的になっていった。その手つきはまだぎこちなかったが、一生懸命さがとてもいじらしかった。
「蒼生が手伝ってくれたから、早く支度が出来たよ。ありがとう」
「美味しい。今のオレより全然上手じゃん!」
ふたりが口々に褒めると戸惑った顔を見せていたが、食事が終わる頃にはようやくはにかんで「ありがとう」と笑った。柔らかで穏やかな、いつもの蒼生の笑顔だった。
その蒼生は今シャワーを浴びている。健太と冬矢は先に入浴を済ませていて、これもゲームで決めた順番だ。蒼生は自分が負けても楽しそうに笑っていた。ただ、健太が入る際、
「蒼生と一緒に入ったらダメかな」
「一応やめておけ」
とふたりが話すのを聞いていた時には、何故か不満げな顔をしていたが。
「戻りました」
少し時間がかかっているなと思っていたが、蒼生はきちんと髪を乾かし寝る態勢を整えてリビングに戻って来た。冬矢は微笑んで両手を伸ばす。
「おいで」
ぱっと顔を輝かせ、蒼生が小走りにやってくる。いたずら心を刺激された健太は、少々離れた場所で同じように腕を広げてみた。蒼生はぴたっと動きを止め、ふたりの腕を何度も見比べる。それから健太の手を取り、冬矢の近くに寄ってふたりの腕を抱き締めた。
「あはは、蒼生かーわいい!」
「それじゃあ、寝ようか」
「うん」
時計の類が一切ないので、時間は全くわからない。ただ、窓の外が暗いからおそらく夜なのだろうと思う。開かない窓の向こうでは、一切人の気配を感じさせない向かいの家の窓にも電気が点いていた。それを横目に、健太はふたりの腕を離さない蒼生をひょいと抱き上げる。蒼生は腕の中でくすくすと笑った。
寝室に入り掛け布団を剥ぐと、蒼生をゆったり横たえる。冬矢が蒼生の枕に自分の枕を近付けると、健太も倣って同じようにくっつける。それから同じ掛布団の中に3人で潜り込んだ。
「電気消すね」
冬矢がリモコンのボタンを押すと、寝室は常夜灯の優しい光で包まれる。いろいろあって疲れただろうと健太が蒼生を見れば、蒼生は両手で掛け布団の端を握ったまま、じぃっとその灯りを見つめていた。
「ん? どした? 疲れたから眠いだろ」
「うん……」
なんだか歯切れが悪い。
「もしかして、眠るのが怖い? 今朝は目覚めるなり、おかしな目に遭ってしまったからね」
「ううん、大丈夫。ふたりがいるから怖くない」
蒼生は冬矢を見て、健太を見て、再び天井に目を戻す。そして、掛け布団を引き上げて自分の顔を半分隠した。
「……えっと。あのね。……うーんと。その、あの……。僕たちって恋人同士なんでしょ?」
「そうだよ」
「あの……寝ちゃうの? セックスはしないの?」
「うん?」
「はぇえ!?」
突然の言葉に、冬矢は目を見開き、健太はぎょっと体を起こす。
だが、蒼生は困ったような顔で視線を泳がせていて、ふたりをからかうような雰囲気はまったくない。どうやら真面目に聞いているようだ。
「付き合ってても、僕はそういう対象じゃないのかなあ」
ゆらり、と蒼生の瞳が揺れ、健太は慌てて蒼生の手をぎゅっと握った。
「いや、ごめん、そういうことじゃないんだ。可愛い顔で大人なこと言いだすから、びっくりしちゃっただけだよ!」
冬矢が蒼生の頭を優しく撫でる。
「うん。するよ。言葉だけでは愛してることを伝え足りなくて、蒼生とは何度も体を重ねている。だけどね、今の蒼生にはできない」
「……なんで?」
「なんでって、そりゃ、こんなちっちゃい蒼生に無茶できねえよ」
「僕はいいのに」
「ダメだよ」
「その……指、くらいなら、入れたことあるし……」
健太は頭を抱えたくなった。以前、男性同士で性行為が出来ると知った蒼生が興味本位で指を使ったことがあると聞いたが、そういえば中学1年の頃だと言っていたことを思い出す。つまりこれは、可愛い恋人が、はっきりそういう意味で可愛いお誘いをしているのだと思って間違いない。だが、軽々抱き上げられるほどの細い体は、抱き合うにはあまりにも繊細だ。
冬矢は小さく息を吐く。蒼生の頭に置いていた手を、そっと頬に滑らせた。
「それは、誰かに抱かれたくてしたこと?」
「え? ううん。僕は……一生誰とも体の関係を持つつもりはなかったから。どうせ誰も触らないなら、自分で好き勝手に弄っても問題ないかなと思って。ただの興味だった。その結果がどうなってもよかった。……けど……それが好きな人と触れ合うために使えるなら、嬉しい」
なるほど、と冬矢は呟く。蒼生から簡単な経緯は聞いていたが、改めて聞くと、その行為がひどく投げやりな心情の結果だったことがよくわかる。しかも、興味があって触れたことがある程度の経験では、どうあろうと手を出すわけにはいかない。
「蒼生」
顔を近付け、こつんと額同士をぶつけると、蒼生は視線を合わせて唇を尖らせる。
「蒼生の気持ちはわかった。それでも、今は駄目」
「どうしても?」
「どうしても」
健太が勢いよくばふっと布団の中に戻ってきた。
「あのね。蒼生のこと、すっっっごく大事なんだ。傷付けちゃうのが怖いんだよ」
「そんなに、大事?」
頷いて、冬矢が蒼生の手を掴む。
「そう。何よりも大切。愛しているから、しない」
「……そっか……」
蒼生は2度、大きく瞬きをする。肩を落とした様子に、冬矢は優しく微笑みかける。
「だから、3人で目を覚まそう? 夢から覚めたら、たくさんしようね」
「……うん。キスは駄目?」
「キスはいいよ。だよな、冬矢」
「そうだね」
そうして、健太は蒼生にキスをする。
冬矢は蒼生にキスをする。
どちらも、軽く唇に触れるだけのキスだ。
けれど、蒼生はほっとしたように笑った。
「さあ、寝よう。ずっと抱き締めているからね」
「おやすみ、蒼生」
「うん。おやすみなさい。……大きくなったら、たくさん愛してね」
いつも通り、最初に目を覚ましたのは健太だった。ぽかんと開けた目に、すやすやと気持ちよさそうに眠る蒼生の顔が真っ先に飛び込んでくる。頬にキスしそうなくらいの至近距離だ。可愛い、と思ってそのまま頬に口づけた。
それにしても変な夢を見たなと思い、目線だけで部屋の中を探る。電気は消えているが、部屋の中は明るい。背中側にあるのではっきりとは見えないが、寝室のドアにある窓から明かりが差しているのだろう。
ふと、携帯のアラームが鳴らないのを不思議に思う。だがすぐに思い出した。昨夜の蒼生があまりにも眠たそうだったので、朝起こさないようにアラームは切っておいたのだった。
ごそ、と蒼生の向こうで物音がした。こちらも蒼生に抱きついて眠っていた冬矢が目を覚ましたらしい。冬矢は、はあっと息を吐きながら蒼生を抱き締め直すと、ぽつんと零した。
「……どうやら戻ることができたようだな」
健太はその言葉で、どうやら昨日眠ってから今までの間にあった1日が「同じ夢」だったと悟る。
「あー。可愛かったけど、あの蒼生は抱けないよな」
「現実に戻ってきたということは、蒼生も理解してくれたんだろう」
ふたりは間で寝息を立てる蒼生をじっと見つめる。小さな蒼生も可愛らしかったが、綺麗で凜とした今の蒼生もとても可愛いと思う。いや、どのタイミングを切り取っても、蒼生が可愛く愛おしい大好きな恋人ということには変わりがない。
「でもさ。なんで蒼生がちっちゃくなったんだろうな」
「さあ……。科学的に立証できるかどうか怪しい現象に意味を求めても仕方がないんじゃないか? ……ただ、もしかしたら……蒼生が、本当は俺たちと付き合うまでずっと寂しくて不安だったんだと訴えたかったのかもしれない」
「……オレたちと付き合ってよかったってことか?」
「そうであってほしいな」
と、それぞれの腕を掴んでいた蒼生の手がぴくんと動いた。次第にその指に力が入っていく。
「ん、ぅー……」
小さな声が唇から漏れ、白い瞼がうっすらと黒い瞳を覗かせた。それがぱちぱち、と大きな瞬きになると、蒼生はふたりが自分を見つめていることに気が付いてにこっと笑う。
「ふふ。おはよ、健ちゃん、冬矢」
ふたりはほっと胸を撫で下ろす。
「おはよう、蒼生。昨夜はとても眠そうだったけれど、具合が悪いところはない?」
「うん、ただ眠たいだけだったみたい」
「しんどい眠さはもうない感じ?」
「ない。なんか、すごくすっきりしてるよ」
蒼生はぐーっと肩から足まで力を入れ、背伸びをする。その仕草も表情も、蒼生の言うとおり調子の悪いところはなさそうに見えた。
「ん、よかった」
「心配かけてごめんね。あっという間に寝ちゃったからかな、なんか長い夢を見た気がするなあ。ぼんやりとしか覚えてないけど、ふたりにたくさん甘えるいい夢だったんだ。ごはん食べたりゲームしたりした気がする。あはは、いつもと同じだよね」
健太と冬矢は目を見合わせる。どうやら蒼生は、長い夢の1日を「ただの夢」として見たらしい。あの優しい時間を、蒼生本人が覚えていないのがもったいないとも思う。だが、抱かれなくて悲しかったという感想が出なかったことに、ふたりは同じように安堵していた。
健太は改めて蒼生にぎゅうっと抱きつく。
「ぼんやりかー。じゃあ、約束は忘れちゃった?」
「へ?」
「最後にした約束だよ」
「え……」
蒼生はぽかんとして両側で笑う恋人の顔を見つめる。
「……もしかして、僕たちまた同じ夢みてた?」
「うん」
「なら、たくさん愛してくれるって約束は、ふたりとちゃんとしてる……?」
「してるよ」
大きく目を見開いて、それから蒼生は笑う。
とても幸せそうな笑顔で。
「よかった。じゃあ、たくさん寝て体力回復させておいて良かった。もう小さくないもん、いっぱい、してくれるよね」
健太と冬矢は、蒼生を抱き締める両腕に力を込める。
「もちろんだよ」
「覚悟できてるだろうな?」
頷いた蒼生は、安心したようにふたりの胸に擦り寄った。
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