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pictBLand
作品ID2557967
投稿日2026年03月08日 10:49
文字数30,384字

カナリヤ 2

勘当if続きです⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝ だって、ローブを靡かせながら宙に浮いた魔導書に手を翳して杖を構えるワースくんって、格好いいとおもって……(犯行声明) 相変わらず腕をぐるんぐるん回しながら「よぉし、嘘をつくぞぅ!」って言いながら作りました。なので、「あれ?原作にこんなこと書いてあったっけ?」と思っても検証しないでください。 3話目も一応考えてはいるのだけども、けっこーややこしいやり方で書いてるので、早くは書けないです。あんまり期待しないで待っててくれると嬉しいです⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝

◆◇◆◇◆



ワース・マドルという人間は、幼い頃からよく弁えていた。

両親から強い叱責を受けるのは、出来が悪い己のせいであったし、兄がちっとも自分を見向きもしないのは、それだけの価値がないからだった。出来損ないのワースが誰より努力を重ねるのは仕方がないこと。ただ、それでも寝物語に読む童話に憧れない訳ではない。父が優しく頭を撫でてくれるのを、母が愛おしげに抱きしめてくれるのを、兄が手を引いて遊びに誘ってくれるのを、こっそり夢想する程度には子供であった。……まァ、現実にそんなこと、ただの一度も起こらなかった訳だが。
使用人が何人もいる大きな屋敷の中に、ワースはいつだって1人きりだった。お陰でひとり遊びは大の得意だった。日々の課題をこなす傍ら、覚えたての泥魔法に沈んでみたり、ヨタヨタと進路の怪しい箒で飛んでみたり。なにせひと所に留まっていれば、モヤモヤとした両親への讒言や兄と自分を比較する声がどこともなしに耳に入ってしまう。家庭教師らが施す魔法の授業も、とにかく叩かれるから嫌だ。その後に両親に叱られるのは、もっと嫌である。周りの声なんて聞き取れないくらい、動き回っている方が幾らか心易かった。

だからその日も、ワースはひとり遊びに出掛けたのだった。

目印にしている山に向かって一直線に駆け抜けて、どこまで行けるのか。いつもより遠くまで来てしまったことに気が付いたが、どうせ戻ったところでいつもの日常が待っているだけ。何よりも、今日の課題は既に終わっているのだから自由時間に何をしても構わないだろう。何度目か見送った兄の背中が、ワースの気持ちをささくれ立たせた。どうせ誰も振り向いてはくれないのだから、どこへなりとも飛んでみよう。

結論から言えば、その行動は間違っていた。

途中で飛び疲れて休憩にと足を踏み入れた洞窟に「それ」は居た。……いや、「あった」と言うべきか。見るからに禍々しい魔力を迸らせる魔導書。この世に「悪魔」を顕現させる異形の書。アレと対峙して、どうして無事に帰って来れたのか、ワース自身にも分からなかった。ただ、這々の体でマドル家の屋敷に戻ってきてすぐに見たものはハッキリ覚えていた。己の血交じりの泥が付着して硬くなった髪と、整わない息と、だくだく足から流れる血に比して熱い身体で見上げた先の兄の瞳が、不思議に凪いでいたことを。玄関に飾られる無機質な壺を見るような瞳でワースを一瞥した兄は、何も言うことはなくスタスタと廊下の先に消えていった。父母ですら、怪我に文句を言って、魔導書と対峙し逃げ延びたとのワースの言葉を嘲笑ってみせたのに。兄は、まったく、何も。
あの日、自分には「兄」というものは居ないのだと知った。単純に、腑に落ちたのだ。物語に描かれるような、ワースが夢想したような、頼りになる血の繋がった年長者など、ワースには誰も居なかったのだと。オーターが去った後、血と泥に塗れたワースを叱る母を見上げて、ワースはひとつ頷いた。お伽話は幻想で、ワースの現実はこちらであることを。その時嫌というほど理解したのだ。その日からだっただろう、ワースの耳に、ほんの少しばかり引っ掛かるような声が届くようになったのは。魔力を高め、魔法をより上手く扱えるようになるにつれ、その不思議な声は大きく聞こえるようになっていった。さらには夢まで見た。そうあの日、ワースが逃げ延びたあの洞窟で、ぼんやりと「悪魔」の姿が浮かんでいる様を。こちらを手招きするような、それでいて不思議となんと言っているか聞き取れない音は、その「悪魔」の声だった。それに気が付いた時、ワースは自分の悲鳴で飛び起きた。

その夜以来、誰にも相談できなかったワース・マドルを誰が責められるだろうか。

名門と呼ばれる学校に入学した頃には兄は出奔していた。「頼れる大人」なんて言葉は慣用句としか知らない。唸り声のような「悪魔」の声が寝ても覚めても聞こえるようになった頃には兄は神覚者となったらしい。両親は兄のように分かり易い「価値」をワースに求めた。それに応えるには、ワースの力はどうしたって足りなかった。それを理解出来るだけの聡明さが、悲しいことにワースにはあった。
在学中のどこかで、気でも触れていたらワースの人生は少し生きやすかっただろう。しかし「マドル家の出来損ない」であるワースは、「名門イーストン魔法学校の優等生」でもあった。その才覚は首席に添えられる程でなくとも、座学や実技においてワースはとにかく優秀だった。突出するものはなく、どれも平均的に、優等以上。精神においても、ワースにとっては大変不幸なことに、凡そ他人より強靭であった。「悪魔」の声程度でどうにかなれるほど脆弱で矮小であったらどれほど良かったことか。
幾らかの努力を要して使えるようになったセコンズの中に、ワースは自分の泥から顕現する「悪魔」をみた。その姿は不思議と腹落ちした。なんせ、あの洞窟で出会ったものと、夢で見る「悪魔」と、まったく同じ姿形をしていたのだから。なるほどあの「悪魔」はずっと、ワースの中にいたのだ。泥の中に沈めて封印したつもりになっていたが、そもそもまだ児童と呼んでも差し支えない年齢であったワースがそこまで複雑な魔法を使えたはずもなかった。つまり、あの魔導書はいまも、あのまま。きっと、あそこに。

ぞわり、とワースの背筋に冷たいものが駆け抜けた。

その筆舌に尽くしがたい恐怖を、どう表現したら良いだろう。
世界を崩壊させようとした犯罪者に加担し魔法薬まで飲んだのだ、名門マドル家からは除籍されていたし、その扱いは当然であろう。なんにせよワースはとかくよく弁えた子どもであったので、貴族の振る舞いもよく承知していた。そんな自身の中にあるひと欠片の貴族的矜持が、恥の上塗りになる事を恐れたのではない。自分を仲間と呼んで寮の三席に据えた同輩が、慕ってくれた後輩が、困った顔でいつもフォローしてくれる幼馴染が、広い屋敷の中ひとり遊びする他なかったワースに暖かな記憶を与えたそれら全てが、幼きあの日に危険な魔導書を泥に沈めるだけで安穏と過ごしてきたワースに気が付く事を恐れたのだ。勿論、魔導書に相見えた頃のワースにその力がないとしても、最初に「悪魔」の声が耳に響いたあの日、「悪魔」が夢に現れたあの日、自分の泥の中から「悪魔」が現れたあの日、そして「無邪気な淵源」から受け取った魔法薬を飲んだあの日、いつだってワースは自分の過去を精算出来たはずだった。何故、解決しようと動かなかったのか。何故、他人に頼ろうとしなかったのか。恐怖にすくんで動けなくなったのか?子供の頃のあの日のように?……いいや、怠惰であっただけだ。ワースはそう自身を結論付けた。反論はあろう。けれど、ワースにとっては、「怠惰」という烙印だけが全てであった。
幼少のワースが試みた泥魔法による封印は、正常に発動しないまでも魔導書を泥の中に沈めたままだ。恐らくそれで、魔導書との間に何らかのラインが発生したのだろう。意識を集中してみれば、なるほど確かに、自分とあの洞窟の方角に向かって遠くの方に繋がりを感じた。今まで一切これに気が付かず、いや気が付かない振りをしつつ生きていられたなんて、なんと迂闊なことか。遠くに感じるその気配は、ワースが自らに気が付いた事を喜んでいるらしかった。聞き取れもしない声で、ワースを呼んでいる。それを耳の奥に響かせたまま、ワースはひとしきり頭を抱えた。あの魔導書は間違いなく意思を持っている。ワースを呼び寄せて何をするつもりなのか。今でこそ宙ぶらりんの関係であるが、ワースが魔導書を調伏するか、魔導書がワースの意識を押し潰しながら飲み込むか、どちらが速いだろう。
ワースが卒業後の進路を大きく転換したのはそれを理解したからだった。家のしがらみから解放されて、本当は各地を転々としながら倹しく生きようかとも思っていた。イーストン魔法学校卒業の名は伊達ではない。実際扱える魔法も多いワースは、根なし草の生活でもやって行ける自信があった。けれど身のうちに抱える魔導書をどうにかしなければ、ワースの人生は始まらない。
魔法局を志したのは、単に情報の終着地だからだ。かなり勤勉な学生であったワース・マドルといえど、術者からの魔力なしに、また示される意思なしに、術者へ「悪魔」を遠隔召喚してくる魔導書など聞いたこともない。調伏するのであれば、あの魔導書の正体を掴む必要がある。家を勘当された身分で上級学校を目指すのは難しい。であれば、魔法界最高峰の蔵書を誇る魔法局の書庫に忍び込む他ない。その最も確実で正当な手段が「魔法禁書管理局の職員になる」ということだった。
実のところ、ワース・マドルはかなり上手くやっていた。なんせ元より勤勉で努力家だ。あっさりと就職を決め、魔法禁書管理局に潜り込んだ。一時期若気の至りで不用意な仲間と関係が出来たとはいえ、勤務態度は真面目で勤務時間外にも自己研鑽に励んでいる。雑用も進んでやる人間の出来た新人。それら他人からの評価はワースの真の目的を綺麗に糊塗した。魔導書の専門書を読み漁っていても、誰も疑問には思わない。

「……〜ッだっつぅのによォ……っ!」

泥魔法を使いつつ、壁を走る。べちゃべちゃべちゃっ、と独特の音が響き、ワースが駆け抜けた跡には礫が矢のように刺さった。防戦一手である。人間相手であれば魔力切れを狙う手もないことはないが、魔導書ではほぼ意味がない。なんせ魔導書が勝手に魔法を放っているのだ、内部に膨大な魔力の貯蓄があるか、空気中の微量な魔力をかき集めていると見るべきであろう。100%の確証があるとは言い難いが、この魔導書は後者だろう。原理上不可能ではないが、本当にやってのけるだなんて、神話上の生き物かよ。そんなもん、生身で削り切れる訳がない。ワースは鋭く舌打ちした。

始めから、分かっていた。
もしもワースの秘密に辿り着くとしたら、あの血の繋がりがある男だろうと。

魔導書から逃げたあの日、屋敷の玄関で傷だらけのワースに一瞥をくれたあの男。クソ生意気な後輩に師匠面していたのを見た日、ワースは密かに胸を撫で下ろしていた。あの後輩たちが魔導書の扱いに秀でているとは聞かないし、活力溢れる子供を相手にしている間はあの厳格な神覚者の瞳はこちらへ向かない。これまで通り、無価値な弟など視界の端にも掠めてくれるな。そんなワースの願いも虚しく、大戦後、砂を背負う神覚者はこちらにその瞳を向けた。なぜ。よりにもよって。なぜ。今になって。
この洞窟に入る前に、最後の下調べをしている最中に砂の神杖に出会った時、もうダメだと思った。ついに追い付かれたのだと。延期や中止の手は取れない。これ以上最適な日程はない。どうしたら良いのかと。「力になる」と不安げに曇った表情で上目遣いにこちらを見る瞳に、正直心が揺れた。ひょっとしたら本当に自分を心配していて、禁書と指定されるような魔導書を密かに手に入れようとしているワースを追いかけていた訳ではないのではないかと。この数ヶ月不器用に示された親愛の情は、本当に偽りのない真心であったのではないかと。

しかしワース・マドルは、……いや、今となっては「ただのワース」は、よく弁えた青年だった。
神覚者に引き上げられるような才覚が、希少な種族の血が、自分にはあるか?……答えはノー。あり得ない。「砂の神杖」ともあろう人が、今更「出来損ないの弟」に関心を持つか?……これも勿論、ノーである。

……で、あれば、規則に厳格な神覚者の行動理由など知れている。
禁書指定を受ける魔導書を届け出なく所有、隠匿するのは法に規定された罪だ。与えられるものは、罰しかあり得ないだろう。



***



(……つっても、出力自体は大した事ねェんだよなァ)

礫は飛んでくるが、避けられるレベルである。たとえ回避出来ずとも、これくらいなら泥で防いでも問題ないだろう。魔導書から投げ続けられる魔法を頭の中でシュミレーションしつつ壁を蹴って、「悪魔」へ向かって踵落としをする。ばっちり受け止められたところで相手の腕を蹴って退避した。まともに組み合っては勝てない。大きさもさる事ながら、筋力のそのものが違う。けれど向こうも深追いしない。だいたい、魔法で強化しているとはいえ、物理攻撃は通るのか?さっぱり分からん。くるりと空中で一回転して壁に足を付いたワースは、窪みに足を引っ掛けるようにして地面まで降り立った。その動きひとつひとつに、「悪魔」が喜んでいる気配がする。

(テンション上げてる、……つーか、)

子供みたいにはしゃいでいる、みたいな。
くるり、と杖を回して構え直す。その間にも「悪魔」の楽しげな波動が伝わってきた。
そういえば同じような視線を、いつか感じたことがある。まだワースがイーストン魔法学校に通っていた頃、同室のアビスと街へ買い物に行ったことがあった。その頃まだ瞳を隠すついでに顔を丸々隠していたものだから、小さい子供に泣かれてしまったのだ。尤もその子供は迷子であったから、アビスの仮面を見ずとも泣いていた気がするが、そこは割愛しよう。ともかく、泣く子には勝てぬということで、ワースの魔法で宥めてやった。光る玉、動物を模した泥人形、ついでにワースの習いたての体術。大道芸人か何かになったような心持ちがしたが、おろおろしていたアビスが落ち着き、ワースの一挙手一投足、指のちょっとした動きにまで与えられるキラキラした瞳と惜しみない拍手は心地よかった。
いま、「悪魔」はワースへその時と同じ視線を向けている。気のせいだろうか?考え過ぎだろうか?それとも希望的観測で勘が鈍っているのだろうか?

(……いっちょまぁ、試してみるか)

別に無駄骨になっても構わない。一度で魔導書を調伏出来るとまで考えていない。……いや、恐らくオーター・マドルにはワースが行おうとしていることがバレた気がするから、介入される前に決着をつけるか逃げるかすべきではあるが、それでも。

「おぅら、リトル・ボーイ!遊んでやるぜ?」

リトルと呼ぶには大き過ぎる「悪魔」ではあったが、そこはまぁ些細な問題である。「悪魔」が咆哮を上げた。ワースの耳にはそれは、歓喜の音に聞こえた。マッドロス、と口の中だけで呪文を唱える。「悪魔」の大きさに合わせて些か大きめな泥人形は、全身が出来上がると「観客」へ向けて慇懃に一礼した。傀儡魔法の初歩訓練で良くやらされた曲目を次から次へと現れた泥人形がくるくると演じる。ついでにと、軽くハミングしながら指揮棒のように杖を振るう。音魔法である。専門でなくとも、ある程度の旋律ならワースでも生み出せる。その拙い音色を聞くのはたった一体の観客とはいえ、手を抜くなどあり得ない。

(……見てる、な)

泥人形たちの毎日を食い入るように眺める「悪魔」は、時よりきゃらきゃらと高い笑い声をあげた。たぶん迷子になっていた子供とさほど変わらない反応であっただろう。凶悪そうな容姿と地響きを響かせる高笑いで雰囲気は全然違うが。
思えば、礫を投げながらこちらを追い掛けるのはさながらドッチボールのようであったし、子供騙しの曲目はサーカスだ。そう、まるで。

(……ガキが、喜びそうな)

ワースは一瞬胸に広がった苦いものを奥歯で噛み潰し、苦笑した。なんだそれは。まるであの「悪魔」と出会った頃のワースが求めていたものそのものではないか。1人では出来ないボールの投げ合い、誰かに連れて行ってもらう大道芸。独りで下手くそな箒を飛ばすくらいしか、娯楽がなかった子供の夢想だ。それは、叶わなかった過去のものだ。

「……チッ」

舌打ちをしたものの、ワースの顔は笑っていた。小さな子供の泥魔法に沈められた魔導書は、ひょっとするとワースが考えていたよりもこちらに対して好意的なのかもしれない、と頭のどこかで考え始めていた。振り返ってみれば、この歳のワースと渡り合えているのだから、どう考えても幼少期のワースなど、ぷちん、と一撃で簡単に終わっただろう。だいぶ手傷を負わされたが逃げ切れたのは、魔導書がワースを遊び相手と捉えていたからではないだろうか。泥に沈めたのも、何かの遊びの一環と認識していたら、追撃がこれまで無かったことも理解はできる。ワースを呼び続けたのも、目の前でいまこうして楽しげなのも、単純に、本当に、魔導書からしたら遊んでいるだけだとしたら。遊び相手が欲しかっただけだとするならば。

「見てるだけじゃア、飽きるよなァ?」

くるくると踊らせた泥人形に一礼をさせ、次の遊びを考える。子供の頃のワースが、一体何をして遊びたかったのか、思い出と共に口の端に笑みを登らせながら。



***



結論から言えば、ワースの当て推量は正しかったと評すべきだろう。自身の持つ貧困な「子供が喜びそうな遊び」を片っ端から試しているうち、分かりやすく魔導書の機嫌は上向いた。何故、魔導書の心の機微が読み取れるのかは、いまこの際気にしない。ただひとつ確実なのは、段々とワース自身もこの「悪魔」に愛着らしきものが生まれて行ったということだ。きっと噂話に聞く「近くの公園で知らない子と遊んだ」というのはこのような状態を示すのだろう。もっとも、大きさも力も全然違うから、猛獣の顎下を擽ぐるような繊細さが必要とされはしたが。魔力の底がだいぶ見え始め、手足もへとへとになった頃、魔導書の気が済んだ。……いや、その事象を「気が済んだ」と総括して良いものか、だいぶ葛藤があるものの、状態として「悪魔」が消え、残ったのは泥にぬかるんだ地面が現れた。ワースは慣れ親しんだぬかるみをざぷざぷと進み、中心にぴたりと杖を据える。なんせ元はワースの泥だ。年月が経とうとも、泥はワースの意思に沿って動く。すぅっと、努めて深く息を吸った。

「来い」

ごぽり、とまるで呼吸のように気泡を吐き出し、短い命令に従って一冊の本が浮かび上がる。初めて対峙した時とは打って変わって凪いだ海のようなその魔導書は、つい今先ほどまで泥に沈んでいたとは思えないほどピカピカと光っていた。中の「悪魔」が遊びに満足していたのだから、それも当然と言えよう。ワースは胸の高さに浮かぶその魔導書に手を伸ばした。しかし、

「──辞めなさい」

ぴしゃりと冷たい声に、ワースの指は思わず跳ねた。振り返ればここ数ヶ月の間に見慣れてしまった顔がある。在学中はインターン先に、学生寮に、就職してからは不自然な程に廊下ですれ違い食堂でも見かけた顔だ。自身の心に従って、ワースは鋭く舌打ちをした。まじかよ、「悪魔」が転移魔法を使ってまでぶっ飛ばしたんだぞ。どうなってやがる。

「これはこれは神覚者様。……お早いお戻りで」
「その魔導書から離れなさい」

ぴたりと杖がこちらを向いている。泥に満ちたこの空間は、その性質からして空気が湿っており、少しばかり重い。その重みが少しずつ軽くなっていく。泥から砂を取り出している証拠である。ンな臨戦態勢取られちゃ会話も何もありゃしねェな、とワースは軽く肩をすくめた。

「それは禁書の類いでしょう」
「……さぁ?」
「私が預かります。お前は触れないように」
「神覚者様?ご存じのこととは思いますが、禁書は知の神杖様が管轄する魔法禁書管理局の所管。ご存じの通り俺は禁書管理局の職員。魔法魔力管理局の局長様が出る幕ではありません」

努めて冷静に、考えていた通りのことを口にした。オーター・マドルは眉を顰めた。そのような顔をすると父親に似ているな、とワースは思った。同時に、あれだけ恐ろしかった父親と同じ憤りを示す顔を見ても、萎縮しない自分に密かに驚いた。
ワースにとって「砂の神杖」に追いかけ回される日々は、なかなかのストレスを感じるものであった。なんせ、兄の顔は父に似ている。何を考えているのか分からない大型の肉食獣を思い起こせばだいたい近いだろうか。どんな気まぐれで、どんなうっかりで、致命的な怪我を負わされるか分からない。
フ──、と重苦しいため息をオーターは吐き出した。噂に聞く「砂の神杖」のため息だ。これが聞こえたらとにかく退避しろとは魔法局の新人に口酸っぱく言われる、先輩からのありがたい助言である。言われなくとも、今のワースには逃げる以外に打てる手はない。

「お前はいま、休暇中だろう」
「休暇中でも職員は職員ですので」

ワースはもう大人なので、「テメェだって休暇中だろうが、」とかは言わない。にっこりと愛想笑いを浮かべた上で、自身もしっかりと杖を持ち直す。

「ご安心を、神覚者様。こちらの魔導書は私が管理いたします」
「……!」
「マッドロス!」

言って、宙に浮かぶ魔導書を胸に抱える。そして同時に魔法を展開する。足元の地面が盛り上がり、どぷりと泥がワースを飲み込んだ。最後に見たのは、らしくなく冷静さを欠いた表情でこちらへ手を伸ばすオーターの姿だった。なんで砂で転移を防がなかったんだろうなぁと一瞬頭を掠めたが、まぁどうでも良いこと。胸に抱き留めた魔導書が不釣り合いにも楽しげな波動を返すのに、ワースは出来の悪い弟を見るような表情で笑みを溢した。

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北都
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