高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2026年06月02日 20:00    文字数:20,899

100こ目;好きから始まる物語

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蒼生と健太と冬矢の物語を綴り始めてから、約3年。
100話という節目を迎えることが出来ました。
ただ3人がいちゃついているだけなのに、よく続いたなあと思います。
これからも3人はいちゃついていくので、この物語はこのまま続いていきます。
書きたいことがまだたくさんあるのです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、今回のお話は。
サークル活動で気になった言葉について、あれこれ考えるお話です。

(なお、これは余談ですが、弊サークル「水底の満月」24周年記念小説でもあります。)
↑初公開時キャプション↑
2024/06/02初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 講義室の開け放たれた窓からは、爽やかな風が吹き込んでくる。午後の落ち着いた日差しは、長い年月を経て色褪せた本を読むのにちょうどよかった。蒼生たち3人が所属する読書サークルの活動日は月に2、3回程度とさほど多くはないのだが、不思議なほど毎回よく晴れている。誰かが天気予報を見て活動日を決めているのではないかと噂されているほどだ。実際のところはそんな担当はどこにもおらず、ただの偶然であるらしい。
 最後の一文を噛みしめるように読んだ蒼生は、ふう、と息を吐いて目を上げる。100年近く前に発行された小説だが、なかなか読み応えのある内容だった。歴史上の有名な事件を脚色して書かれたが、発表直後にそれまでの定説を覆す発見がなされてしまったため、話題にならず売れ行きはあまり芳しくなかったらしい。たしかに関連する人物だけを見ても、現在の教科書とは内容がまったく違う。それでも、物語としてはとても面白かった。こんな本が埋もれていたのはもったいないし、教えてくれた先輩もすごいと思う。ただ言葉遣いが古いため、慣れていないと読みづらいだろう。現に、隣でなんとなく蒼生の手元を眺めていた健太は、いくらもしないうちに机に突っ伏して眠ってしまった。
 そっと様子を窺うと、とても気持ちよさそうな寝息が聞こえる。今日は冬矢がバイトで欠席をしているため、自分が蒼生の話し相手になると張り切っていたのだが、難しい言葉には勝てなかったようだ。だが蒼生は、ほんのわずかに触れた太腿から伝わる体温と、聞き慣れた寝息で充分だった。昔から図書館で本を読むときに隣で寝ていた健太の存在は、とても心休まるものだったからだ。
「野木沢くん」
 突然後ろから声をかけられ、蒼生はぱっと振り向く。1学年上の女子学生が2人、こちらに向かってやってくるところだった。先に立って手を振る女性の手には薄い文庫本がある。彼女が首を傾けると、緩く2つに括った長い髪がふわっと靡いた。
「野木沢くんに薦めてもらったこの本、読んだよ。すごく面白かったー」
「本当ですか? よかったです」
「2人して夢中になって読んじゃった。教えてくれてありがと! この作家さんは読んだことあるけど、こんな短編集も出してたんだね。知らなかった」
「僕も模試の問題で出会ったんですよ。一部分だけ読んで面白かったので、続きが読みたくて探したら、その短編集にだけ載っていると知りまして」
「あ、そういうのってあるよねえ」
 2人は目配せをすると、蒼生の前の席に後ろ向きに座った。ショートカットの先輩が楽しそうに文庫本をぱらぱらとめくるのを、3人で覗き込む。
「ちなみに、野木沢くんはどの話が好き?」
「模試で最初に読んだ『黄金に咲く』です」
「ひまわり畑の話だ。たしかに、言葉遣いがすごく綺麗で心地よかった。だけど、あの展開はびっくりだよねえ」
「はい。急展開する場面の見せ方がいいですよね。何度読んでも心が弾みます。なにより、最初の一文の効果が見事だなあと」
「うんうん、ジェットコースターみたいでドキドキしたよ。けど1番は『憂う驟雨』だなあ」
「私は断然『恋文』かな」
「あっ、わかるー」
 同じ本を読んでも人によって違う話を好きになるのが短編集の面白いところだと思う。蒼生は2人の話を興味深く頷きながら聞く。2人が盛り上がっているその話は、ほんの少しの手違いで手紙を交わすようになった男女の話だ。謝罪から始まり、天候の話や季節の移り変わりの話をしているうちに、お互いの趣味が似通っていることがわかる。そこに自然と芽生えてくるのが恋心だ。惹かれ合っていくのがお互い文字から伝わってきて、2人はやがて恋人同士となる。だが、それでも会うことを拒み続け、命が尽きるまでただ手紙を送り続けた、という物語だ。
「つまりは物質に捕らわれない、精神的な愛ってことでしょ? 会わなくても愛し合えるの。なんだか憧れるよねえ」
「野木沢くんはどう思う?」
「そうですね。お互いがそれを望むなら、とても良い関係だと思います」
「だよね!」
 女子2人は手を握って深く頷きあう。
「プラトニックっていいよね。ほんと、一緒にいて楽しいなら、それでよくない? この前別れた彼氏がさ、会うたびにしつこいタイプでさぁ。目的ソレなのかな? って感じで」
「わー、毎回? 男ってすぐそうなるよね、別れて正解でしょ」
 盛り上がりかけ、はっと黙り込む。目の前で曖昧に笑う蒼生の顔が、男性として聞きづらい話を聞かされている表情だと受け取られたのだろう。
「あ、なんかごめん」
「いえ。お互いに望む関係が異なるというのは、なかなか難しいですね」
 蒼生の穏やかな言葉にほっとしたように、ショートカットの先輩はぱたんと本を閉じた。
「野木沢くんって本当に優しいよね。まず言い方が柔らかいもん」
「ね。真面目だし、誠実だし、話も聞いてくれるし、ちゃんとしたお付き合いできそう」
「……僕みたいな不甲斐ない男なんて、すぐに飽きてしまうと思います」
「えー、そうかな。中身が素敵なだけじゃなくて、かっこいいし綺麗だし、モテないほうが不思議だって」
「けっこう告白とかされるほうだったでしょ」
 小さく首を傾けて、誤魔化すように笑う。人と比べたことなどないから、それが多いのか少ないのかはわからない。ただ、時折人の気配のない場所に呼び出された、あの憂鬱な時間を思い出す。そのたびに、「僕のどこを? こんな僕なのに? ああ、最低ランクに照準を合わせたってことは誰でもいいのか、そんなに御しやすそうに思われたかな、そうだろうな」とひどく落ち込んだことを思い出す。じく、と胸元が痛んだ。
 突然、がばっと健太が体を起こす。驚いて蒼生が目を瞬かせる先で、健太は鼻をひくひくと動かした。
「なんかいい匂いするー……。クッキー?」
 目を見開いた先輩たちは顔を見合わせ、それからすぐに笑った。
「寺田くん、すごーい。いい鼻してる! さっき駅前で移動販売やってるの見かけたの。美味しそうだったから、試してみたくて2人して色んな種類たくさん買ってきちゃった」
「せっかくだから味見してみる?」
「ありがとうございます!」
 遠慮のない健太の態度が気持ちよかったのだろう。健太に近いほうに座っていた先輩が、楽しそうな笑顔を浮かべながら可愛らしい手提げ袋の中をごそごそと探りだした。その隙に、もう1人が蒼生の方向にぐっと身を乗り出す。
「野木沢くんってかなり消極的? なのかな。もったいないよ。もっとぐいぐい行ってもいいんじゃない? どんな子がタイプなの?」
「……ええと。タイプ……って言われてもよくわからないんですけど」
「たとえば! たとえばでいいから」
「うーん……。きっと、その時好きな子がタイプなのかなぁ、と……」
「じゃあ今だと」
「蒼生っ」
 ぱたぱた、と健太が蒼生の肩を叩く。再び目を見開いた蒼生が振り返ると、健太は手のひらほどもありそうな大きなクッキーの半分をまじまじと見つめている。そして蒼生が自分のほうを見たことに気付くと、ぱっと顔を上げた。
「あ、先輩、お話し中ごめんなさい」
「ううん。寺田くん、どしたの?」
「このクッキー、なんだか知ってる味がするんですよね。どこでだろ……。たぶん蒼生もこの感想わかってくれるんじゃないかと思って。ね、ちょっと食べてみて」
 健太は蒼生の口の前にすっとクッキーを差し出す。
 見た目はごつごつしていて手作り感が強いが、比較的よく見る形なので大きな特徴はない。変わった香りもしないようだ。実際口にしてみないとわからなさそうなので、健太が齧って鋭角になったところを少し口に含んでみる。すると、ふわっとシロップの香りが口の中に広がり、バターの味がそれを追いかけてくるような感じがした。おや、と思う。健太の言う通り、蒼生にも馴染みのある味だ。
「んん……。たしかに、どこかで……。うーん……。あ。ねえ、これ、ぽのぽのベーカリーの蜜クッキーに似てない?」
「! それだ! 懐かし~」
 ぱちん、と健太が指を弾く。すると、近くで本を読んでいた何人かが興味深そうに近付いてきた。
「なになに? どした?」
「先輩が買ってきたクッキーが、オレらの地元のぽのぽのベーカリーっていうパン屋で売ってたクッキーに味が似てんなーって話になりまして」
「有名なパン屋なの?」
「けっこう安くて、大きくて、しかも美味しいってんで特に近くの中高生に人気でしたね。それこそ焼き菓子もすっげえ評判良かったんですよ。な、蒼生」
 口の中に残る味を記憶とすり合わせていた蒼生は、健太の声ににっこりと頷く。
「うん。そちらは定番の手土産としてよく使われていたみたいです。息子さんがもともと焼き菓子専門の方で、たしか、独立して会社を立ち上げたんじゃなかったかな……」
 すると携帯を弄っていた先輩がぴょんと小さく跳ね、その画面をくるりとこちらに向けた。
「ねえねえ、今調べてみたんだけど、やっぱりそのお店のみたい。ほら、見て。野木沢くんたちが言ってるお店が元祖ですって載ってる!」
「へー、可愛いお店だね。ロゴも可愛い。あ、独立して全国展開始めたって書いてあるよ。地方初出店がこっちのほうにあるんだって」
「どれどれ、地図見せて。あ、ここって前に話題になったアイスクリームの店の近くじゃない? あと食べ放題の餃子専門店もたしか近くだったはず」
「え、どこ?」
「グルメタウンじゃん」
 話題はすっかり食べ物の方向になったようだ。ふうっと長く息を吐いた蒼生に、健太が笑いかける。
「帰りにまだやってたら、買って帰ろうぜ」
 蒼生はふわりと微笑んで頷いた。

 活動が終わって講義棟を出る頃には、陽はだいぶ落ちていた。少し肌寒く感じるが、まだかすかに残っていた眠気が吹き飛ばされるようで心地いい。サークルメンバーとわいわい騒ぎながら、健太は視線の先にできた輪の中にいる蒼生の横顔を見つめる。他人に囲まれている蒼生は、穏やかな笑顔で何事か言葉を交わしていた。その表情は、何度見ても胸がきゅんと熱くなる。蒼生は表情が凛として美しいだけでなく、物腰が柔らかくすべての対応が丁寧で、誰に対しても人当たりが良く、ぴしりと背を正した姿は毅然という言葉がよく似合う。とにかく、存在そのものがとても綺麗だ。それを昔から「かっこいい」と思っていた。蒼生が褒められることは、自分が褒められる以上に嬉しかった。健太にとって、蒼生は誇りであり、自慢の幼馴染みだったのだ。
 けれど、それ以上に嬉しいのは、蒼生が自分に対してだけとても柔らかい態度を取ることだった。健太と向き合う時、蒼生は「かっこいい」から「可愛い」になる。それが切り替わる瞬間が大好きだったし、なによりもその笑顔を間近で見られることはこの上ない幸せだった。しかも「幼馴染み」という関係に「恋人」という属性が追加されると、それはさらに柔らかく甘くなった。近くにいるだけで満たされていると思っていたのだが、それよりも深く繋がる幸せがあるだなんて知らなかった。知ることができて本当に良かったと日を追うごとに強く思う。
 キャンパスを歩くうち、目的地が異なるメンバーが徐々に減っていく。そして教務課に寄るという最後の1人と別れると、とうとう蒼生とふたりきりになった。
「ぽのパン、なっつかしいな!」
 一刻も早く蒼生と話したかった健太は、飛び付く勢いで口を開く。蒼生はぱちぱち、と瞬きをすると、ふにゃりととろけたような笑顔を見せた。
「ねー。ちょっと前までは頻繁に食べてたのに、もう懐かしく感じるものなんだねえ。……健ちゃん? どうしたの? 顔が崩れてるよ?」
「んぇ?」
 慌てて両手で頬を押さえる。どうやらあからさまにデレデレした表情になっていたらしい。
「そんなに酷いかな」
「ううん。いつも通りかっこいいよ。やけに嬉しそうだなって思っただけ」
 にやけた頬が今度こそ零れ落ちそうになって、健太は頬の手にぎゅうっと力を入れる。
「だってさぁ……蒼生が気を許す瞬間がめっちゃくっちゃ好きでぇ……みんなの蒼生からオレの蒼生になると、いつも可愛いのがやたらめったらすっごく可愛くなるんだからさあ。嬉しくて天にも昇る気持ちになっちゃうわけさ」
「その言い分はよくわかんないけど……。僕はいつだって健ちゃんのものだよ」
「あっ、蒼生っ……」
 思わず手が伸びかける。抱きついて引き寄せて抱き締めたい。が、それで済む自信がない。魅力的で愛おしい蒼生に一度触れれば、絶対もっと欲しくなる。今は何とか理性が勝っているが、ほんのわずかな刺激で簡単に負けてしまうに違いない。
 宙でぴたりと止まった健太の手を見て、蒼生は小さく首を傾げて笑った。きっと健太の心の叫びが伝わってしまったのだろう。
「ふふふ。まだやってるといいね」
「え? あ、ああ、息子の店な! んーと、なんだっけ、名前。みんな息子の店としか呼んでなかったからなー」
「僕も忘れちゃった。先輩に店の名前聞いておけばよかったね」
「だな。オレなんか、ぽのパンの正式名称がぽのぽのベーカリーだってこと、さっき蒼生が言うまでまるっきり忘れてたもん。パンの種類と味と、あと初代看板犬の名前が“ぽの”だってことは覚えてんだよ。会ったことねえけど」
「古い話だからねえ。僕らが行ってた頃の看板犬パピちゃんは3代目くらいだったっけ」
 蒼生がにこにこと話しているのが嬉しい。話題が共有する記憶であることも嬉しい。そういえば、蒼生が好きなデニッシュもあの店の商品だったなと懐かしく思い出す。優しい蒼生はいつも兄弟たちから先に選ばせるから、自分の好きなパンを取られてしまうことが多かった。それを率先して自分がキープし、全員の取り分が決まってから蒼生と半分こをするのが一時期健太のブームだった。そうすれば蒼生は喜んでくれるし、健太は蒼生の喜ぶ顔を見ることができる。ただ、蒼生が申し訳なさそうにしているのが少し気がかりだったが。
 そこまで思い出して、ふと気付く。本当にあれでよかったのだろうか。気分がいいのは自分だけで、蒼生に引け目を感じさせていたのではないだろうか。現に、蒼生は自分が好きなものを半分しか食べられていない。
「……そっか。蒼生が真っ先に選べるような空気作りゃよかったのか……」
「え? なんの話?」
「ううん、優しくないことしてたなって反省。過去の経験をもとに、蒼生の恋人としてもっとちゃんと成長しなきゃなって思ったとこ」
 健太の言葉を聞いた蒼生は、きょとんと目を丸くし、それから2度大きく瞬きをした。
「健ちゃんが優しくないことなんてあったっけ? いつも僕を甘やかしてくれるのに。……さっきも助けてくれたでしょ。ありがと」
 今度は健太が首を傾げる番だ。
「助けたっけ」
「助けてもらったよ。先輩たちの話にどう答えたらいいのか困ってる時、健ちゃんが間に入ってくれた。かっこいいなってきゅんとしちゃった」
「そのつもりはなかったけど、……えへへ。惚れ直したぁ?」
「うん、毎秒惚れ直してる」
「えー、オレだってそうだよ」
 とんと肩をぶつけると、嬉しそうな笑顔で返ってくる。可愛いと愛おしいで胸がいっぱいになって、意味もないのにどうしてここが往来なのかと何度も自分に問いかける。せめて人通りがなければ、抱き上げて何度も何度もキスをするのに。それから、それから……。
 いや駄目だ理性理性、と頭を振った健太の耳に、ぼんやりと聞いた会話がふと蘇る。
「……んーと、そういえば、あのさ、蒼生。その……、蒼生は、えっちしない関係っていいなって思うの?」
 実を言うと、先程からずっと気になっていたのだ。好き同士で恋人になっているのだから、その延長としてセックスは当然の営みだと思っていた。同性とのやり方自体は付き合ったのちに知ったものの、理解してからは体を重ねる行為に疑問を持ったことはない。蒼生も望んでいると思っていた。けれど、そう思う人間がすべてではないのだと初めて知った。
 蒼生は両手を胸の前で組み、ぐーっと前に伸ばす。
「ああ。さっきの? 聞いてたんだね。寝てるのかと思ってた」
「ん、寝てはいたんだけどさ。オレには蒼生の声センサーがあって、出来るだけ蒼生の声を聞き逃さないようになってるから、なんとなく聞こえちゃったんだよ」
「あははっ。健ちゃんって謎のセンサーが搭載されてるんだね」
 明るく笑う蒼生に、困ったような気配はない。様子を窺っていると、少し考えるふうに両手を唇に寄せた。
「うーん。……いいな、っていうか。本当に、お互いにどういう関係を望むか、だと思うんだよね。心の繋がりがあれば十分だって思う人もいれば、相手を好きだけど行為自体にひどく嫌悪感を抱く人だっているし。いろんな人がいると思うんだ。どっちにしたって、相手に望む関係が同じならそれでいいんじゃないかな。違ってたら、どっちかが我慢することになるでしょ」
「たしかに」
 自分がしたいと思っても、蒼生が本音ではそれを嫌だと思っているのなら、もちろんするべきではない。それなら蒼生は、と聞こうとした途端、蒼生はとんと健太に肩を寄せた。
「僕は、いっぱいしてほしいけど」
「……してほしいの?」
 顔を覗き込めば、ちらと視線を返してくる頬がわずかに赤い。健太の頭の中は一瞬にして「可愛い」で埋め尽くされる。
「もちろん。だって、ふたりと抱き合うの、すっごく幸せだもん。心も体も全部繋がってる感じがするから。それに、……きもちぃし」
 最後は呟く音量になった声に、健太は飛び上がりそうになった。この勢いで空を飛べないことが不思議なくらいだ。
「それで? 健ちゃんは、どっち?」
「したい!」
「ふふっ、じゃあ一緒だ」
「えっと、そしたら、今夜……する?」
「うん」
 可愛い。目に映る蒼生のすべてが可愛い。思わず蒼生の組んだままの両手をぐっと握ってしまった。暖かな体温が伝わってきて、テンションが上限を突破しそうになった。しかも、握られた手を見て蒼生が嬉しそうに笑っている。なんて幸せな光景なのだろう。
 そのまま駅に駆け込む勢いだった健太の手を、蒼生が引いて止める。
「けーんちゃん。行きすぎちゃうよ」
「えっ」
 はっと健太が目を上げると、そこには見たことのある犬のロゴマークが大きく描かれた車が止まっていた。

 ドライヤーのスイッチを切り、冬矢は洗面台の鏡を見ながらそっぽを向いた前髪を直す。身なりを整えるという意味では朝も夜も変わりはないのだが、これから大好きな人と愛おしい時間を迎えると思うと、どうしても気分が上がってしまう。それでなくとも今日はサークル活動を欠席した。健太に蒼生を独り占めさせる時間を与えてしまったということだ。そういうものだとわかっているから健太に対してどうこうという思いはないが、やはり羨ましいのは間違いない。
 そのままドライヤーを持って洗面所を出たところで、リビングのドアを開ける健太と視線が合った。
「お。交ー代~」
「はいはい」
 すれ違いざまにハイタッチまで求めてくる。仕方なく乗ってやると、鼻歌を歌いながら機嫌よく洗面所に消えて行った。気持ちはわかる。
 リビングに入って真っ先に目に入ったのは、ソファに膝を抱える格好で座って本を読んでいる蒼生の姿だ。真剣な眼差しが字を追って上下に動いているのが可愛らしい。集中しているのか、冬矢が戻ってきたことに気付かないこともまた愛しいポイントだ。本当ならすぐにでも抱き締めて胸の中を蒼生の匂いでいっぱいにしたいのだが、綺麗な横顔を眺めるチャンスも無駄にしたくない。冬矢はカウンターの上にドライヤーを置くと、その足でキッチンに入った。
 そういえば初めて会った時も、蒼生は本を読んでいた。当時は他人のことなどまったく興味がなかったから、唯一の友人である森の席と自分の席の間に何かがいるという認識だった。だからあの時、どんな本を読んでいたかはわからない。ただ、そこから顔を上げて視線が合った時、蒼生がふわりと微笑んだことは覚えている。今にして思えば、初めて健太と離れることになった不安でいっぱいだった蒼生が、自分を守るために目の前の本に没頭していたのだろう。そう思うと愛しさで胸がいっぱいになる。
 まだ蒼生が自分との間に壁を作っていた頃、蒼生は常に戸惑っていたような気がする。森からの強引な誘いに警戒しつつも近くにいてくれる様子は、慎重に距離を測っているようだった。それを不審に思っていたかつての自分は、まったく世界が見えていなかったのだろう。きょろきょろと冬矢と森の態度を見比べながらどう対応すべきか考えていた姿は、思い返すだけであんなにも可愛かったのに。
 しばらくじっくりと蒼生の姿を堪能した冬矢は、グラスに入れた冷茶を半分ほど飲み干してからキッチンを出る。ソファの前のローテーブルにそっとグラスを置くが、蒼生はまだ気付かない。ふっと笑って、静かに隣に座った。
「あ」
 小さく、驚いたような声。まん丸くした目をぱっと上げ、冬矢が微笑んで自分を見ていることに気が付くと、蒼生は恥ずかしそうに笑った。
「ごめん、気付かなかった」
「ずいぶん集中していたようだね」
「ええっと……冬矢が戻ってくるまでのちょっとの間に、気になるとこだけ確認しようと思っただけなんだ。……本当だよ?」
「ふふ、なのに一瞬で夢中になっちゃったんだ。可愛い」
 そっと頭を引き寄せ、髪にキスをする。わずかに蒼生が身じろぐ。
「冬矢、あの……僕、お風呂まだだから……」
「だから何? まだそんな可愛いことを言うんだね」
 構わず頬に口づけるが、蒼生は困ったように笑うばかりだ。綺麗にしていないからと気にしてはいるものの、冬矢に触れられること自体は嬉しいのだろう。
 蒼生が持っていた本をテーブルの上に置いた。引き寄せていいという合図だと受け取った冬矢は、後ろから手を伸ばして肩を抱く。風呂上がりで自分のほうが温かいはずだが、手のひらはさらに熱い温度を感じているような気がする。それに目をやった蒼生が、おずおずと冬矢の顔を覗き込んできた。
「……えっと。乗っかっても、大丈夫?」
「それは、抱っこしてってこと?」
「う、うん。抱っこ」
 素直に甘える言葉を使う蒼生に、このままソファに押し倒してしまいたいくらいの衝動を覚える。が、せっかく蒼生が乗っかって来てくれるというのだ。そちらを味わうことにする。
「いいよ」
 両腕を広げて待つ態勢を整えると、蒼生はぱちぱちと瞬きをした。視線が冬矢の顔から手の先へ、膝へと動いて、また顔へと戻ってくる。自分から言い出しておきながら、少し戸惑っているらしい。また「重いだろうか」と悩んでいるのだろう。
「おいで」
 そんな様子も可愛くて仕方がないのだが、冬矢の体は既に蒼生の重さを期待している。呼びかけると、ようやく向き合うようにして膝に乗ってきた。服越しの体温が温かい。じんわりと胸まで温かくなる。けれどまだ遠慮をしているようで、すべての体重はかかってきていない。困った子だな、と思い、広げていた手で蒼生をぐいっと抱き締めた。
「わ」
「ああ、蒼生の匂いだ。1日が終わって、家に帰って蒼生を抱き締めることができるなんて、本当に幸せだな」
「……うん。僕も、ぎゅってされるの、嬉しい」
 肩に頬を擦り寄せて笑う気配がする。たまらなくなって、とんとんと背中を叩く。
「蒼生」
「はぁい」
「顔を見せてくれる?」
「え、うん」
 すぐに顔を上げた蒼生を追って、小さく笑う形の唇に自分の唇を寄せる。微かに目を見開くので、もう一度。今度は軽く舐めあげて。
「……ふ。甘いね」
「あ、クッキー……」
 蒼生の目線が、ちらりと後ろに向く。ローテーブルの上には空っぽの皿があった。冬矢が風呂に向かう時には大きなクッキーが1枚ずつ4種類載っていたはずだ。さっきまで健太もいたのだから、蒼生がすべて平らげたわけではないだろう。おおかた健太が味見という名目で蒼生に齧らせ、歯形が残ったクッキーを美味しくいただいた、というところか。健太は蒼生と分け合うことが大好きで、蒼生もそれを喜んでいる節がある。
「えっと、まだあるからね? 大きめのアソートパックで買ってきたから、冬矢の分まで食べ尽くしちゃったわけじゃないから!」
 クレームだと受け取ったのか、蒼生は慌てた様子で弁明をする。そんなことで怒るわけがないと知っているはずなのだが。
「ははっ。さては、蒼生もたくさん食べちゃったんだな。大丈夫だよ、袋の中にたくさん入っていたのはちゃんと見ているからね。懐かしくなって思わず手が伸びた?」
「それは……うん。あるかもしれない。ここのクッキーが特別好きってわけじゃなかったのに、なんでだかすごく気分が盛り上がっちゃって」
「わかるよ。俺も1枚食べてすごく懐かしい気分になったからね。でも蒼生は、どうせならパン屋のほうに来てほしかったんだろうけど」
「そんなことまでバレちゃうの?」
「蒼生はパンが好きだからね。それに中学生の頃、あの店でばったり会うこともあっただろ?」
「うん。冬矢は森くんに引っ張られてって感じだったけど」
「蒼生だってそうじゃないか」
「まあね」
 楽しそうに蒼生は笑う。
 冬矢にとっても懐かしい店だ。仲良くなってからは一緒に行ったものだが、出会った当初は運動部の大食らいである健太と森にそれぞれ連れられる形で訪れることが多かった。冬矢たちに気付き、警戒心を剥き出しにこちらを見据える健太の隣で、穏やかな笑顔を見せてくれた蒼生の姿を思い出す。健太が会計をする隙を見て話しかければ、嬉しそうに答えてくれた。それを察した健太が慌てて自分を引きずって店を出ていくのを、なぜ強引に連れて行かれようとしているのかわからずにきょとんとした顔でこちらを見ていたのも忘れられない。冬矢と健太が自分を巡ってバチバチと火花を散らしていたことにまったく気付かなかったのも、自分が好かれているという可能性をまったく視野に入れられなかった蒼生らしいと思う。
 よく考えれば、それだけ頻繁に出入りしていた店だ。中学3年の始業式の日に教室で出会った蒼生と冬矢だが、それ以前に狭い店舗の中ですれ違っていた可能性は十分にあり得る。遠目に見たことがあるだけではなくて、声を直接聞いたこともあったかもしれない。
 もっと早く、蒼生に気付きたかった。蒼生を知ることが出来たはずの数年間を、ひどく惜しく感じる。だからそれを取り戻すように、再び蒼生を強く抱き締めた。
「本当に……もったいないことをしたと思うよ。蒼生とならばどこに行っても楽しいんだと気付くのに、ずいぶん時間がかかってしまった。あの街にも興味がないからと行かなかった場所がたくさんある。そこでだって、きっと思い出が作れたはずなのにね」
 腕の中で、蒼生が首を傾げる。
「そういえば……冬矢ってみんなが遊びに行ってる場所とか知らなかったりすること多かったね。やたらとゲーセンは詳しかったけど」
「たしかにそうだね。他にそこそこ知っていたのは、飲食店くらいかもしれない。まあ、それも森に引きずられていった場所ばかりだな」
「森くんは元気よくいろんなところに連れてってくれるタイプだったもんね。僕もたくさん教えて貰ったなあ。あー……えっと……そしたら……あの、ね、冬矢。……その……えっと。お付き合いしてた人……とは、どんなとこに行ってたの?」
 ぴた、と冬矢は体を固まらせる。今大切なのは蒼生であって、それまでのことはすべて過去だ。そこで起きた出来事は、言い方は悪いとわかっているが、ただの過程でしかない。当時の行動を告げたところで蒼生に余計な心配をかけるだけだとわかっている。とはいえ、蒼生に対して嘘はつきたくないのも本音だ。きちんと事実を話すべきだろう。
「正直なところ、蒼生が想像するような場所にはほとんど行かなかったよ。公園で散歩とか、買い物に付き合うとか、まあ行ってもカラオケとかファミレスくらいだったかな。なにせ子供の頃の話だ、入場料金がかかるようなところは誘われても断っていたよ。自由にできるお金なんてほとんどないしね。だから、本当にどこかに行きたいのなら、そのたびにわざわざ親に説明して小遣いを余計にもらう必要があった。それをお願いするのが面倒だったくらい、彼女たちに対する熱い想いなんてものは俺にはなかったんだろう」
 冬矢の肩に顔をうずめ、蒼生は小さく「そっか」と言った。自分で聞いてはみたものの、過去の相手の話はやはり複雑な気分になるのだろう。
 どちらにせよ、これ以上踏み込まれるのはよくない。どこに行くでもないデートの何が楽しいのかと問いただされては困るからだ。相手の要望に合わせ適当に遊んだ後は、人が通りかからない場所を探すか相手の家に行って性欲処理をしていたことは話したくなかった。聡い蒼生のことだから察している可能性はあるが、敢えて言葉にする必要はない。
 柔らかく、あやすように蒼生の背中を撫でる。
「さて。俺の愛しい恋人は、どうしてそんなことを聞くのかな。どこか行きたいところでもあった?」
「それは、あったかもしれない。冬矢と一緒に行くならどこでも楽しいと思うから。……ただね、今、ちょっと気になって。冬矢が好きな子はどんなところに行きたがる子だったのかなって」
「ふーん?」
 少々引っかかる言い方だ。冬矢を好きな子ではなく、冬矢が好きな子、か。
「もしかして、俺の好みに合わせたいと思ってる?」
「えっ、ううん、そうじゃなくて。純粋に、どんな子が好きなのかな、と思っただけで」
 慌てたように首を振った蒼生に、冬矢はそっと頬を寄せる。
「なるほどね。難しい質問だな」
「冬矢にも難しい?」
「ああ。蒼生も知ってるだろ。どんな子もなにも、俺が好きになったのは蒼生だけだ。それまではずっと、交際を申し込まれても断るのが面倒だから付き合っていただけだって言ったよね。好きという言葉は何度も何度も聞かされたけれど、ただそういうものなのだろうと深く考えずに受け取るだけだった。その言葉がどういう意味を持つのかを理解できたのは、本当に蒼生と出会ってからだ。全部、蒼生が俺に教えてくれたんだよ。……つまり、蒼生が聞きたいのは俺のことじゃないだろう?」
 今度は蒼生が動きを止める番だった。口を開くべきかどうかを迷っているのが伝わってくる。だがそれを飲み込ませてしまうのは、お互いにとってよくないことだ。
「いいよ、頭の中で整理しなくても。思った通りに話してごらん」
「……うん」
 優しく髪を撫でると、蒼生がそっと体を起こす。落ちた視線は、目を合わせるのを怖がっているのだろうか。
「……好きなタイプってどんな子、って聞かれたんだ。咄嗟に、その時に好きな子がタイプかなって答えたんだけど、……本当はどうなんだろうって悩んじゃった。でも考えても、わかんなくなるばっかりなんだ。好きな人がどんな人なのかわかんないってことは、僕は誰のことも好きじゃないのかなとか考えちゃって。だけど、僕、健ちゃんと冬矢が大好きなんだ。だからそんなはずはない。じゃあ、好きになった人のほうからタイプってやつを考えてみようと思ったんだ。そしたら、もしかして、自分のことを好きな人がタイプなのかなって思いついた。……だとしたら、僕はふたりに好かれてるから好きなだけなんじゃないかって」
「え?」
 冬矢が怪訝な顔をするのと、リビングのドアが開いたのはほぼ同時だった。
「ただいまー、蒼生、お待たせ」
 明るい健太の声に弾かれたように蒼生が立ち上がる。
「ごめん、変なこと言った。忘れてね。僕、お風呂入ってくる」
 蒼生はそのままソファに置いてあった着替えを掴み、ばたばたと走っていく。思わず手を伸ばしたが、間に合わなかった。
 自分の横をすり抜けて行った蒼生。目を丸くしてその後ろ姿を見送った健太は、ぐるりと振り向いて首を傾げる。
「……蒼生、なんか様子おかしかったけど。何があった?」
 冬矢は大きく息を吐き、組んだ両腕を膝に載せた。
「俺たちに好かれているから好きなんじゃないか、と悩んでいるみたいだ」
「ん? ええっと……どういうことだ?」
「蒼生は、俺たちが蒼生のことを好きだと言ったから、それを受けて自分も俺たちのことを好きだと思い込んでいるだけなんじゃないか、ってさ」
「思い込み? そんなわけないじゃん!」
 健太は驚いた声をあげ、ダイニングテーブルの脚に躓きかける。それは健太にとって心底意外だったのだろう。そうだ、そんなわけはない。もう一度息を吐いて、冬矢は立ち上がる。
「もちろん、あり得ない。蒼生は俺たちのことを愛してくれている。おそらく何かのきっかけで考え事をしているうちに考えすぎてしまったんだろう。……今日、サークルでおかしなことはなかったか?」
「んー。おかしいこと……特には……」
 腕を組んだ健太は、天井を見て、何も映っていないテレビに目をやり、ローテーブルに視線を落とす。と、蒼生が置いていった本に気付いたようだ。
「あれ、このタイトル、先輩が昼間言ってたやつだ」
「この本か?」
「そう。たしか蒼生が薦めて面白かったって話をしてたな。先輩が持ってたほうはアニメっぽい表紙だったけど」
「新装版が出たんだろうな。それで、他にどんな話をしていたんだ?」
「えーっと……その本の中に書いてある小説の話をしてて、プラトニックな恋愛っていいなって話から、蒼生ってモテそうだねー、どんな子がタイプなの、って言われてた」
「ああ……、そこでタイプの話が出たわけだ」
 それか、と冬矢は頭を抱える。他人に告白され、「好かれてるのが鬱陶しい」と言っていた蒼生。蒼生が告白を断るのは、自分のことなど誰も好きになるはずがないと信じ込んでいたからだった。「僕は誰のことも好きになれないんだと思う。だって今までいろんな人の言葉を聞いてきたけど、誰の言葉も響かなかったもの」と言っていたのは、いつだったか冬矢の家に泊まりに来ていた時のことだ。蒼生は、他人に好意を抱くのも抱かれるのも苦手だった。あの頃の苦手意識はまだ蒼生の中にあるらしい。
「俺たちに何の負い目を感じているんだか……。風呂から出てきたら、きちんと蒼生に伝えてやらないといけないな」
 健太はぽんと手を叩く。
「なるほど、どんな子がタイプかって聞かれて、わかんないから不安になっちゃったのか」
「おそらくね」
「そっかぁ。……プラトニックも悪くないけど、えっちするほうが好きだって、にこにこ笑ってたのに。今日しようねって言ったら嬉しそうにしてたから気付かなかったな……」
 肩を落とす健太に小さく首を振って見せ、冬矢はキッチンに入った。
「おまえにそう話していたのか? 蒼生がそう言うのなら、不安も期待もどちらもあったうえで、期待のほうが蒼生にとって大切だったということじゃないか」
 言ってやると、健太はほっとしたようだ。
 おそらく自分の考えは間違っていないはずだと冬矢は思う。出会ったばかりの、ひとりで何もかもを抱え込んでしまっていた頃とは違う。今の蒼生は、不安のほうが大きければきちんとそれを健太に訴えたはずだ。話題になった本を読み返してしまったことで、本来なら忘れてしまえるほどの些細な傷を思い出してしまったのかもしれない。そんなものはとっとと忘れさせてやるべきだろう。
「ところで。……好きだって?」
「えっち? えへへ。うん、好きだって。嬉しいし気持ちいいからって言ってたよ」
「ふうん。ならば、願いはきっちり叶えてあげようじゃないか」
「だよな! ベッドの準備してくる! 今日はみっちり甘やかしコースだな!」
 健太は跳ねる勢いで背を正すと、元気よく寝室に消えていく。
 さて、と冬矢はキッチンを眺めた。健太に言われるまでもない。今日はとことん蒼生を甘やかすつもりだ。

 寝室の準備が終わってしばらくして、蒼生はリビングに戻って来た。ただいま、と笑ってはいるが、やはりあまり元気がない。すかさず健太が正面から勢いよく抱きついた。
「わ」
「おかえり! 蒼生おかえり! だーい好き!」
 そのまま抱き上げると、蒼生はぱちくりと目を見開く。冬矢は冷たいグラスを片手にキッチンを出て、普段より高い位置にある蒼生の頬をそっと撫でた。
「大好きな蒼生。待っていたよ。ああ、よく温まっているね」
 ふたりの顔を交互に見つめていた蒼生だが、すぐにふわっと表情を和らげた。
「……ふふ。嬉しい。僕も好き。ふたりとも大好きっ!」
 ぎゅっと健太に抱きつき返してくるのは、いつもの可愛い笑顔だ。ほっとした健太は、蒼生をソファまで運ぶと、横抱きに抱き替えて座った。そして腕の中にいる蒼生はキスし放題だとばかりに、額に、頬にキスを落とす。
 蒼生の小さな笑い声を羨ましく思った冬矢は、張り合うように耳元に口づけ、グラスをローテーブルに置いた。
「甘さ控えめのピーチティだよ。載せるアイスも持ってくるからね。食べている間に髪を乾かそうか」
 ふたりのキスを嬉しそうに受けながらも、蒼生はわずかに浮かない顔をして冬矢を見上げた。
「あの……もしかして、さっき僕が変なこと言ったから、機嫌取ろうとしてくれてる……?」
 冬矢は困ったように笑って首を振る。蒼生がそう思うだろうことは想像通りだ。
「蒼生。その言い方はよくないな。蒼生の発言はひとつのきっかけであったかもしれないけれど、俺たちが蒼生を可愛がりたくなってしまったんだ。ただ純粋に、蒼生を甘やかしたい欲に素直に従っているだけだよ」
 それを聞いた健太は深く頷く。
「そ。しかも甘やかしたいスイッチは判定がガバガバで、蒼生が変なこと言っても可愛いこと言ってもちょっと笑ってくれただけでも、簡単にオンになっちゃうんだぜ。こうなっちゃったら蒼生には止められないんだから」
「僕でも無理なの?」
「無理。なぜなら、蒼生が止めようとしたらもっと可愛くなっちゃって逆効果だし」
「ひぇ……」
「だから蒼生は諦めて、素直に俺たちに可愛がられていればいいんだよ」
「……なるほど」
 直接触れていた健太には、蒼生の体から力が抜けたのがはっきりとわかる。きっと不安が消えたのだろうと嬉しくなった。甘やかすという言葉を受け入れてくれたことも愛おしい。思わず腕に力が入るが、蒼生は抗うどころか健太の肩に頬を載せた。
「うわー……早速めちゃくちゃ可愛い」
「あはは、ほんとだ、判定緩いね」
 冬矢は小さく息を吐いた。柔らかく笑う蒼生の髪をそっと撫で、その濡れ方から蒼生が急いで風呂から上がって来たことを察知する。風呂に入ってひとりになったことで、自分が冬矢に向けて言ってしまった言葉を反省し、より一層不安になってしまったのだろう。本人は気にしていないつもりのようだが、少し話をしたほうがいいなと思う。まずは、と冬矢は改めてキッチンに向かう。
 アイスティーの上にバニラアイスが載ると、蒼生は幼い子のように目を輝かせ、健太は羨ましそうにそれを見た。
「えへ。ストローとスプーンが刺さってるのが、パフェみたいで豪華だあ。……あ、美味しい。桃の果肉が入ってるの嬉しい。アイスも美味しい」
「いいな~。蒼生、オレにもアイスひとくちちょうだい。あーんてして」
「はぁい」
「俺には紅茶を飲ませてくれる?」
「うん、どうぞ」
 ほんわりとした可愛らしい笑顔を浮かべながら、健太に抱かれたまま冬矢に髪を乾かされ、ふたりのお願いを素直に聞く蒼生。その姿を見ている健太と冬矢は、とても満たされた気分だ。落ち込みやすく物事を難しく考えがちな蒼生が、すっかり気を抜いた様子でされるがままに体を預け、ゆったりと幸せそうにしている。ふたりを心から信頼している証拠なのだと思う。
 冬矢は柔らかな蒼生の髪に触れながら、その向こうで能天気に笑っている健太をちらりと見る。悔しいが、今こうしていられるのは健太の力が大きい。蒼生自身は気付いていないが、蒼生が「自分のことは誰も好きではない」と言うセリフには、「健太が自分を好きでないならば」という前提条件が付いていたと冬矢は推察している。生まれた時から自分のことを最も愛しているはずである健太が他人と付き合い、ましてや他人を恋人にするのなら、それ以下である自分を愛する者は誰もいないという考え方だ。蒼生以外を選んだ時点で健太がそのまま距離を取っていれば、蒼生の心はその形で凝り固まって、冬矢ひとりではこじ開けるのに時間を要したことだろう。結局、健太が常に蒼生を優先し続けたおかげで、蒼生の思考が救いきれないほどの底にまで落ちてしまうことはなかった。
 かつて同じ口で「好かれているのが鬱陶しい」と吐き捨てていたとは思えないほど寛いだ様子の蒼生を見て、冬矢は話をするなら今だと判断する。ドライヤーのスイッチを切り、ソファの肘置きに腰掛け、後ろから蒼生を抱き締める。
「はい、終わり」
「ありがとう。ふふ、気持ちよかった」
 ぽすんと蒼生が冬矢に寄りかかってくる。可愛らしくて身を乗り出すように口づければ、甘いバニラの味がした。
「甘い。ふ、可愛いな」
「もしかして今日、甘いもの食べすぎかなあ」
「このくらいなら大丈夫だろ。どうかな、気に入った?」
「うん、すごく好き」
 再び蒼生はストローに口をつける。よかった、と笑い、冬矢は蒼生を抱く手に力を込めた。
「……ねえ蒼生。さっきの話の続きをしてもいいかな」
「さっき? うん」
「難しく考える必要ないからね。蒼生は、自分が好きなタイプを考えてもわからないって言ってたけど、たとえば……感じたことはある? 誰かのふとした仕草を見た瞬間に、ああ、これってそうかな、と思うことというか」
「んー?」
 ストローを咥えたまま、蒼生はことんと首を傾げた。
「うーん……。感じる、とかもないかも。だって、僕が好きなのは健ちゃんと冬矢だけだから、他の人にどうとか思うことないし」
 健太が蒼生の顔を覗き込む。
「ってことは、蒼生のタイプってオレと冬矢の共通点がそうだったりするのかなあ?」
「健ちゃんと冬矢の? んー……ふたりとも優しいでしょ。よく気付いてくれるし、褒めてくれるし、人当たりがいいし、何するのも丁寧だし、一緒にいて楽しいし、会話もテンポよくて頭いいなって思うし、かっこいいし、スタイルもいいし、あ、脱いでもかっこいいもんね。それから」
 すらすらと蒼生は指を折りながら話し続けるが、片手にグラスを持っているのですぐに指が足りなくなった。いくつまで数えたかわからなくなったようで、ぱたぱたと手を開いたり握ったりしている。そしてぱっと指を伸ばした蒼生は「あ」と言葉を止めた。
「どした?」
「あと、……ふふ、えっちがじょうず」
 健太はすっかり真っ赤な顔で、こくこくと頷く。
 冬矢も何とか穏やかな笑顔を保っているが、あまりの可愛さに頭を抱えてしまいたくなる。それは蒼生に対してだからだよ、という項目も多いのだが、蒼生は本気でそう思ってくれているようだ。しかも共通点というだけなのだから悪い面が出て来てもおかしくないのに、蒼生の口からはただひたすら長所しか挙がってこない。
「ヤバいね、蒼生、どんだけ可愛いの。オレぶっ倒れそう」
「おかしいこと何も言ってないんだけど……」
 冬矢はそっと蒼生の手からほぼ空になったグラスを取り、ローテーブルに置いた。そして、両手で蒼生の手を片方ずつ握る。
「蒼生は俺たちのことをそう思ってくれているんだね。嬉しいよ。……でも、それを聞いていると、やっぱりさっきの蒼生の理屈はおかしいと思う」
「え?」
 きょとんと目を丸くして仰のくように見上げてくる蒼生に笑いかけ、冬矢は握った蒼生の指先をゆっくりと撫でた。
「告白の日を思い出してほしい。蒼生は、好きだと告白されて初めて俺たちの気持ちを知って、それで自分が俺たちのことを好きだということに気が付いたんだよね」
「うん」
「もし蒼生が自分を好きな人のことを好きになるんだとしたら、好きになるのはそれからじゃないのかな。だとしたら、気付く、というのは違うと思うよ」
 蒼生は「あ」と短く声を上げた。それから自分を見つめるふたりの眼差しに答えるように、それぞれの顔を交互に見つめる。
「……そっか。ふたりに想われてるなんて知らなかったのに、僕はもう健ちゃんと冬矢のことが大好きだった。そっか、違うんだ」
 にっこり笑った健太が、蒼生の片手を冬矢から奪う。
「わかった! 蒼生は、タイプうんぬんを見つける前に好きな奴が決まっちゃってたから、そんなの考える必要がなかったんだよ。オレだって深く考えたことないし! 今じゃもう昔どんな子が好きだったかってことも覚えてないもん。……いや待てよ、優しくて静かで、……オレも最初から蒼生が好きだったから、蒼生の面影追ってたのかも」
「それは……どんな顔して聞いていいのかな」
「あっ、ごめん。でも、そういうことバカみたいに繰り返して、ようやく、オレはただ蒼生が好きなだけなんだ、って気付けたから、許して」
「うん」
 一瞬顔を曇らせた蒼生だったが、すぐにふっと微笑む。健太が何を思ってどんな道を歩いてきたかを蒼生は知っている。長い時間を共有していた蒼生にはどんなに工夫してもバレるから、健太は嘘も隠し事もしない。だから、健太がそうだと言えばそうなのだと納得できるのだろう。
 冬矢はその信頼関係を時折羨ましいと感じるが、蒼生の信頼を得ているということに関しては、自分も決して引けを取っていないと思っている。誰も見抜けなかった蒼生の寂しさに唯一自分だけが気付けたという自負があるからだ。それだけに、蒼生の想いを察する自信がある。おそらく蒼生は「自分のことを好きなのは本当に健太と冬矢だけ」だと思い込んでいる。だから、それ以外の誰かから向けられる好意を信じていないし、欲してもいない。
「ねえ、蒼生」
「なあに」
「昔、蒼生に言ったことがあったよね。覚えてるかな。蒼生は、好きじゃない人から向けられる好意が苦手なんだね、って」
 言いながら顔を覗き込むと、蒼生はすぐに嬉しそうな顔をした。
「……覚えてる。冬矢は好きって気持ちを矢印って言ってた。僕は矢印を向けてる人がいるのに、後ろから矢印で刺してくる人が駄目なんだろうって言われたの。自分でもわかんなかったのを冬矢が言葉にしてくれて、ああそういうことなんだ、って目が覚めた気分だったから、よく覚えてる」
「そうか。嬉しいな。……そう、蒼生は俺たち以外からの好意が苦手だったんだから、好きだと言ってきた人を好きになるわけがないんだよ。蒼生は恋愛が苦手だって思い込んで自分の気持ちに蓋をしていただけで、ずっと俺たちと静かに恋愛関係を築いていた。健太の言う通りだ、タイプなんて考える必要がなかったんだよ」
 蒼生は、ふたりの手をぎゅっと握る。
「じゃあ、今好きな人がタイプです、で間違いじゃなかったんだ」
「そう言ってもいいかもね」
「タイプとか気にしないで、健ちゃんが好きです、冬矢が好きです、でいいんだ」
「そうだよ。俺も蒼生が好きです、でいっぱいなんだから」
「オレもそう! 蒼生大好き! ってことでぇ」
 健太はやたら語尾を伸ばしてから、ふいに蒼生を抱えたまま立ち上がる。蒼生の手を握ったままの冬矢も、つられてソファから体を起こした。
「今から蒼生には、オレたちとしっかり愛し合ってるので心配しなくても大丈夫なんだって、体にもきちんとわかってもらいまーす」
 腕の中で、蒼生はぱっと顔を輝かせる。
「……ふふ。これから何をされるかわかってるのにそんな無邪気な顔するんだから、俺の恋人は可愛いな」
「えっへへ。だって、蒼生はオレたちとのえっち大好きだもんね~」
「うん。嬉しい。全部、僕に教えてね」
 期待に満ちた可愛い可愛い恋人の笑顔。健太と冬矢は、理性の手綱をお互いしっかり握っておかなければとそっと目線を交わした。


 後日。
「ただいまぁ。ごめんね、ちょっと告白されて、断るのに時間かかって遅くなっちゃった」
 その言葉を聞いた健太と冬矢は、それぞれ手にしていたものを放り出し、蒼生の元へ向かう。今日はバイト先の後輩の送別会だとは聞いていたが。
「少し遅いなとは思っていたけど、そうか、大変だったな」
「大丈夫? おつかれさま」
「ありがと」
 蒼生は告白を受けると、あたかも自分が告白して断られたように傷つき、落ち込む。それは相手を傷付けたことへの罪悪感や、自己肯定感の低さからくる嫌悪感のせいだ。ひどく後ろ向きになって自分に攻撃的になる姿を目にすることは少なくなかった。
 けれど今日の蒼生は、健太に後ろから抱き締められ、冬矢に両手で頬を包み込まれてにこにこと嬉しそうにしている。無理をしている様子もない。とりあえず健太と冬矢はほっと息を吐く。
「時間かかったってことは、諦めないタイプの子だったんだなぁ」
「うん。今日で辞めるから最後に言っておきたい、って感じだったみたい。なら断った時点で納得してくれればいいのに、どうしても1回だけ遊びに行きたいって食い下がられて。たしかに思い出だけでもって気持ちはわからなくもないし、申し訳ないとは思ったけどさ。僕には健ちゃんと冬矢がいるんだもん、靡く可能性はゼロなんだから、下手に期待させるのも悪いでしょ」
「そりゃそうだ、蒼生はオレたちに愛されてるから、他の人の入る余裕ねえもんなー」
「ねー」
「ちゃんと言ったんだろ、恋人いますって」
「言ったよ。お付き合いしてる大好きな人がいますって」
 健太は大好きと言われて勢いよくテンションが上がったようで、冬矢の手を払いのけて蒼生に頬ずりをする。蒼生もくすぐったいと笑いながら嬉しそうだ。
 冬矢も蒼生の言葉を聞いて嬉しかった。自覚があるかどうかはともかくとして、今の蒼生にはふたりに愛されている自信と、ふたりを愛している自信があるように見える。毎日毎晩1日も欠かさず愛を伝えていれば、後ろ向きな蒼生もさすがに信じざるを得なかったのだろう。それが告白を断っても落ち込まない、という結果を生んだ。同棲を提案して本当によかったと思う。蒼生には、愛し愛され、幸せで満たされていてほしい。
「ふふふ。いい子の蒼生は、たくさん可愛がって甘やかしてあげないと」
 両手を掴んで冬矢がそう言うと、蒼生はいたずらっ子のような可愛い顔でことんと首を傾げた。
「今日も?」
「そう。今日も。だめ?」
「……だめ、じゃない」
 ふにゃりととろけたような表情で、蒼生は冬矢の暖かな眼差しを受け止める。と、ふいに蒼生がはっと目を瞬かせた。
「あれ。もしかして僕、甘やかしてくれる人がタイプなんじゃ」
 健太はひょいと蒼生を抱え上げ、冬矢は蒼生の髪を両手でぐしゃりとかき混ぜる。
「わ、わ」
「それも逆だよね。蒼生はずーっと、甘やかす側だったよ。それを、俺たちにだけ甘えっ子になるようにしたのは俺だからね」
「そうそう。オレ、甘やかされてた自覚あるもん。蒼生がオレにも甘えてくれるようになったの、すっげえ嬉しいんだから」
 蒼生の目が健太を見上げ、冬矢を見つめる。
「ああ、そっか」
 納得したようなその言葉は、とても穏やかで柔らかい。ほおっと長く息を吐いた目には、うっすらと涙がにじむ。
「やっぱり僕は、“誰か”じゃなくて、健ちゃんと冬矢のことが大好きなんだなあ」
 ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚がして、ふたりがかりで蒼生を抱き締める。
 愛しい、愛しい恋人。
「えへへ。オレも大好き!」
「俺だってそうだよ。蒼生のことが大好きなんだ」
「……うん。嬉しい」
 いつも、どんな時でも、その思いは変わらない。
 自分たちの心の底にあるのは、愛おしい恋人への「好き」という気持ちなのだ。
 改めて、3人はそれを実感する。
 ふふ、と蒼生が笑うと、健太と冬矢もつられるように笑う。
 ひそやかな笑い声に重なるように、電気ケトルの優しい音楽が流れた。

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100こ目;好きから始まる物語
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 講義室の開け放たれた窓からは、爽やかな風が吹き込んでくる。午後の落ち着いた日差しは、長い年月を経て色褪せた本を読むのにちょうどよかった。蒼生たち3人が所属する読書サークルの活動日は月に2、3回程度とさほど多くはないのだが、不思議なほど毎回よく晴れている。誰かが天気予報を見て活動日を決めているのではないかと噂されているほどだ。実際のところはそんな担当はどこにもおらず、ただの偶然であるらしい。
 最後の一文を噛みしめるように読んだ蒼生は、ふう、と息を吐いて目を上げる。100年近く前に発行された小説だが、なかなか読み応えのある内容だった。歴史上の有名な事件を脚色して書かれたが、発表直後にそれまでの定説を覆す発見がなされてしまったため、話題にならず売れ行きはあまり芳しくなかったらしい。たしかに関連する人物だけを見ても、現在の教科書とは内容がまったく違う。それでも、物語としてはとても面白かった。こんな本が埋もれていたのはもったいないし、教えてくれた先輩もすごいと思う。ただ言葉遣いが古いため、慣れていないと読みづらいだろう。現に、隣でなんとなく蒼生の手元を眺めていた健太は、いくらもしないうちに机に突っ伏して眠ってしまった。
 そっと様子を窺うと、とても気持ちよさそうな寝息が聞こえる。今日は冬矢がバイトで欠席をしているため、自分が蒼生の話し相手になると張り切っていたのだが、難しい言葉には勝てなかったようだ。だが蒼生は、ほんのわずかに触れた太腿から伝わる体温と、聞き慣れた寝息で充分だった。昔から図書館で本を読むときに隣で寝ていた健太の存在は、とても心休まるものだったからだ。
「野木沢くん」
 突然後ろから声をかけられ、蒼生はぱっと振り向く。1学年上の女子学生が2人、こちらに向かってやってくるところだった。先に立って手を振る女性の手には薄い文庫本がある。彼女が首を傾けると、緩く2つに括った長い髪がふわっと靡いた。
「野木沢くんに薦めてもらったこの本、読んだよ。すごく面白かったー」
「本当ですか? よかったです」
「2人して夢中になって読んじゃった。教えてくれてありがと! この作家さんは読んだことあるけど、こんな短編集も出してたんだね。知らなかった」
「僕も模試の問題で出会ったんですよ。一部分だけ読んで面白かったので、続きが読みたくて探したら、その短編集にだけ載っていると知りまして」
「あ、そういうのってあるよねえ」
 2人は目配せをすると、蒼生の前の席に後ろ向きに座った。ショートカットの先輩が楽しそうに文庫本をぱらぱらとめくるのを、3人で覗き込む。
「ちなみに、野木沢くんはどの話が好き?」
「模試で最初に読んだ『黄金に咲く』です」
「ひまわり畑の話だ。たしかに、言葉遣いがすごく綺麗で心地よかった。だけど、あの展開はびっくりだよねえ」
「はい。急展開する場面の見せ方がいいですよね。何度読んでも心が弾みます。なにより、最初の一文の効果が見事だなあと」
「うんうん、ジェットコースターみたいでドキドキしたよ。けど1番は『憂う驟雨』だなあ」
「私は断然『恋文』かな」
「あっ、わかるー」
 同じ本を読んでも人によって違う話を好きになるのが短編集の面白いところだと思う。蒼生は2人の話を興味深く頷きながら聞く。2人が盛り上がっているその話は、ほんの少しの手違いで手紙を交わすようになった男女の話だ。謝罪から始まり、天候の話や季節の移り変わりの話をしているうちに、お互いの趣味が似通っていることがわかる。そこに自然と芽生えてくるのが恋心だ。惹かれ合っていくのがお互い文字から伝わってきて、2人はやがて恋人同士となる。だが、それでも会うことを拒み続け、命が尽きるまでただ手紙を送り続けた、という物語だ。
「つまりは物質に捕らわれない、精神的な愛ってことでしょ? 会わなくても愛し合えるの。なんだか憧れるよねえ」
「野木沢くんはどう思う?」
「そうですね。お互いがそれを望むなら、とても良い関係だと思います」
「だよね!」
 女子2人は手を握って深く頷きあう。
「プラトニックっていいよね。ほんと、一緒にいて楽しいなら、それでよくない? この前別れた彼氏がさ、会うたびにしつこいタイプでさぁ。目的ソレなのかな? って感じで」
「わー、毎回? 男ってすぐそうなるよね、別れて正解でしょ」
 盛り上がりかけ、はっと黙り込む。目の前で曖昧に笑う蒼生の顔が、男性として聞きづらい話を聞かされている表情だと受け取られたのだろう。
「あ、なんかごめん」
「いえ。お互いに望む関係が異なるというのは、なかなか難しいですね」
 蒼生の穏やかな言葉にほっとしたように、ショートカットの先輩はぱたんと本を閉じた。
「野木沢くんって本当に優しいよね。まず言い方が柔らかいもん」
「ね。真面目だし、誠実だし、話も聞いてくれるし、ちゃんとしたお付き合いできそう」
「……僕みたいな不甲斐ない男なんて、すぐに飽きてしまうと思います」
「えー、そうかな。中身が素敵なだけじゃなくて、かっこいいし綺麗だし、モテないほうが不思議だって」
「けっこう告白とかされるほうだったでしょ」
 小さく首を傾けて、誤魔化すように笑う。人と比べたことなどないから、それが多いのか少ないのかはわからない。ただ、時折人の気配のない場所に呼び出された、あの憂鬱な時間を思い出す。そのたびに、「僕のどこを? こんな僕なのに? ああ、最低ランクに照準を合わせたってことは誰でもいいのか、そんなに御しやすそうに思われたかな、そうだろうな」とひどく落ち込んだことを思い出す。じく、と胸元が痛んだ。
 突然、がばっと健太が体を起こす。驚いて蒼生が目を瞬かせる先で、健太は鼻をひくひくと動かした。
「なんかいい匂いするー……。クッキー?」
 目を見開いた先輩たちは顔を見合わせ、それからすぐに笑った。
「寺田くん、すごーい。いい鼻してる! さっき駅前で移動販売やってるの見かけたの。美味しそうだったから、試してみたくて2人して色んな種類たくさん買ってきちゃった」
「せっかくだから味見してみる?」
「ありがとうございます!」
 遠慮のない健太の態度が気持ちよかったのだろう。健太に近いほうに座っていた先輩が、楽しそうな笑顔を浮かべながら可愛らしい手提げ袋の中をごそごそと探りだした。その隙に、もう1人が蒼生の方向にぐっと身を乗り出す。
「野木沢くんってかなり消極的? なのかな。もったいないよ。もっとぐいぐい行ってもいいんじゃない? どんな子がタイプなの?」
「……ええと。タイプ……って言われてもよくわからないんですけど」
「たとえば! たとえばでいいから」
「うーん……。きっと、その時好きな子がタイプなのかなぁ、と……」
「じゃあ今だと」
「蒼生っ」
 ぱたぱた、と健太が蒼生の肩を叩く。再び目を見開いた蒼生が振り返ると、健太は手のひらほどもありそうな大きなクッキーの半分をまじまじと見つめている。そして蒼生が自分のほうを見たことに気付くと、ぱっと顔を上げた。
「あ、先輩、お話し中ごめんなさい」
「ううん。寺田くん、どしたの?」
「このクッキー、なんだか知ってる味がするんですよね。どこでだろ……。たぶん蒼生もこの感想わかってくれるんじゃないかと思って。ね、ちょっと食べてみて」
 健太は蒼生の口の前にすっとクッキーを差し出す。
 見た目はごつごつしていて手作り感が強いが、比較的よく見る形なので大きな特徴はない。変わった香りもしないようだ。実際口にしてみないとわからなさそうなので、健太が齧って鋭角になったところを少し口に含んでみる。すると、ふわっとシロップの香りが口の中に広がり、バターの味がそれを追いかけてくるような感じがした。おや、と思う。健太の言う通り、蒼生にも馴染みのある味だ。
「んん……。たしかに、どこかで……。うーん……。あ。ねえ、これ、ぽのぽのベーカリーの蜜クッキーに似てない?」
「! それだ! 懐かし~」
 ぱちん、と健太が指を弾く。すると、近くで本を読んでいた何人かが興味深そうに近付いてきた。
「なになに? どした?」
「先輩が買ってきたクッキーが、オレらの地元のぽのぽのベーカリーっていうパン屋で売ってたクッキーに味が似てんなーって話になりまして」
「有名なパン屋なの?」
「けっこう安くて、大きくて、しかも美味しいってんで特に近くの中高生に人気でしたね。それこそ焼き菓子もすっげえ評判良かったんですよ。な、蒼生」
 口の中に残る味を記憶とすり合わせていた蒼生は、健太の声ににっこりと頷く。
「うん。そちらは定番の手土産としてよく使われていたみたいです。息子さんがもともと焼き菓子専門の方で、たしか、独立して会社を立ち上げたんじゃなかったかな……」
 すると携帯を弄っていた先輩がぴょんと小さく跳ね、その画面をくるりとこちらに向けた。
「ねえねえ、今調べてみたんだけど、やっぱりそのお店のみたい。ほら、見て。野木沢くんたちが言ってるお店が元祖ですって載ってる!」
「へー、可愛いお店だね。ロゴも可愛い。あ、独立して全国展開始めたって書いてあるよ。地方初出店がこっちのほうにあるんだって」
「どれどれ、地図見せて。あ、ここって前に話題になったアイスクリームの店の近くじゃない? あと食べ放題の餃子専門店もたしか近くだったはず」
「え、どこ?」
「グルメタウンじゃん」
 話題はすっかり食べ物の方向になったようだ。ふうっと長く息を吐いた蒼生に、健太が笑いかける。
「帰りにまだやってたら、買って帰ろうぜ」
 蒼生はふわりと微笑んで頷いた。

 活動が終わって講義棟を出る頃には、陽はだいぶ落ちていた。少し肌寒く感じるが、まだかすかに残っていた眠気が吹き飛ばされるようで心地いい。サークルメンバーとわいわい騒ぎながら、健太は視線の先にできた輪の中にいる蒼生の横顔を見つめる。他人に囲まれている蒼生は、穏やかな笑顔で何事か言葉を交わしていた。その表情は、何度見ても胸がきゅんと熱くなる。蒼生は表情が凛として美しいだけでなく、物腰が柔らかくすべての対応が丁寧で、誰に対しても人当たりが良く、ぴしりと背を正した姿は毅然という言葉がよく似合う。とにかく、存在そのものがとても綺麗だ。それを昔から「かっこいい」と思っていた。蒼生が褒められることは、自分が褒められる以上に嬉しかった。健太にとって、蒼生は誇りであり、自慢の幼馴染みだったのだ。
 けれど、それ以上に嬉しいのは、蒼生が自分に対してだけとても柔らかい態度を取ることだった。健太と向き合う時、蒼生は「かっこいい」から「可愛い」になる。それが切り替わる瞬間が大好きだったし、なによりもその笑顔を間近で見られることはこの上ない幸せだった。しかも「幼馴染み」という関係に「恋人」という属性が追加されると、それはさらに柔らかく甘くなった。近くにいるだけで満たされていると思っていたのだが、それよりも深く繋がる幸せがあるだなんて知らなかった。知ることができて本当に良かったと日を追うごとに強く思う。
 キャンパスを歩くうち、目的地が異なるメンバーが徐々に減っていく。そして教務課に寄るという最後の1人と別れると、とうとう蒼生とふたりきりになった。
「ぽのパン、なっつかしいな!」
 一刻も早く蒼生と話したかった健太は、飛び付く勢いで口を開く。蒼生はぱちぱち、と瞬きをすると、ふにゃりととろけたような笑顔を見せた。
「ねー。ちょっと前までは頻繁に食べてたのに、もう懐かしく感じるものなんだねえ。……健ちゃん? どうしたの? 顔が崩れてるよ?」
「んぇ?」
 慌てて両手で頬を押さえる。どうやらあからさまにデレデレした表情になっていたらしい。
「そんなに酷いかな」
「ううん。いつも通りかっこいいよ。やけに嬉しそうだなって思っただけ」
 にやけた頬が今度こそ零れ落ちそうになって、健太は頬の手にぎゅうっと力を入れる。
「だってさぁ……蒼生が気を許す瞬間がめっちゃくっちゃ好きでぇ……みんなの蒼生からオレの蒼生になると、いつも可愛いのがやたらめったらすっごく可愛くなるんだからさあ。嬉しくて天にも昇る気持ちになっちゃうわけさ」
「その言い分はよくわかんないけど……。僕はいつだって健ちゃんのものだよ」
「あっ、蒼生っ……」
 思わず手が伸びかける。抱きついて引き寄せて抱き締めたい。が、それで済む自信がない。魅力的で愛おしい蒼生に一度触れれば、絶対もっと欲しくなる。今は何とか理性が勝っているが、ほんのわずかな刺激で簡単に負けてしまうに違いない。
 宙でぴたりと止まった健太の手を見て、蒼生は小さく首を傾げて笑った。きっと健太の心の叫びが伝わってしまったのだろう。
「ふふふ。まだやってるといいね」
「え? あ、ああ、息子の店な! んーと、なんだっけ、名前。みんな息子の店としか呼んでなかったからなー」
「僕も忘れちゃった。先輩に店の名前聞いておけばよかったね」
「だな。オレなんか、ぽのパンの正式名称がぽのぽのベーカリーだってこと、さっき蒼生が言うまでまるっきり忘れてたもん。パンの種類と味と、あと初代看板犬の名前が“ぽの”だってことは覚えてんだよ。会ったことねえけど」
「古い話だからねえ。僕らが行ってた頃の看板犬パピちゃんは3代目くらいだったっけ」
 蒼生がにこにこと話しているのが嬉しい。話題が共有する記憶であることも嬉しい。そういえば、蒼生が好きなデニッシュもあの店の商品だったなと懐かしく思い出す。優しい蒼生はいつも兄弟たちから先に選ばせるから、自分の好きなパンを取られてしまうことが多かった。それを率先して自分がキープし、全員の取り分が決まってから蒼生と半分こをするのが一時期健太のブームだった。そうすれば蒼生は喜んでくれるし、健太は蒼生の喜ぶ顔を見ることができる。ただ、蒼生が申し訳なさそうにしているのが少し気がかりだったが。
 そこまで思い出して、ふと気付く。本当にあれでよかったのだろうか。気分がいいのは自分だけで、蒼生に引け目を感じさせていたのではないだろうか。現に、蒼生は自分が好きなものを半分しか食べられていない。
「……そっか。蒼生が真っ先に選べるような空気作りゃよかったのか……」
「え? なんの話?」
「ううん、優しくないことしてたなって反省。過去の経験をもとに、蒼生の恋人としてもっとちゃんと成長しなきゃなって思ったとこ」
 健太の言葉を聞いた蒼生は、きょとんと目を丸くし、それから2度大きく瞬きをした。
「健ちゃんが優しくないことなんてあったっけ? いつも僕を甘やかしてくれるのに。……さっきも助けてくれたでしょ。ありがと」
 今度は健太が首を傾げる番だ。
「助けたっけ」
「助けてもらったよ。先輩たちの話にどう答えたらいいのか困ってる時、健ちゃんが間に入ってくれた。かっこいいなってきゅんとしちゃった」
「そのつもりはなかったけど、……えへへ。惚れ直したぁ?」
「うん、毎秒惚れ直してる」
「えー、オレだってそうだよ」
 とんと肩をぶつけると、嬉しそうな笑顔で返ってくる。可愛いと愛おしいで胸がいっぱいになって、意味もないのにどうしてここが往来なのかと何度も自分に問いかける。せめて人通りがなければ、抱き上げて何度も何度もキスをするのに。それから、それから……。
 いや駄目だ理性理性、と頭を振った健太の耳に、ぼんやりと聞いた会話がふと蘇る。
「……んーと、そういえば、あのさ、蒼生。その……、蒼生は、えっちしない関係っていいなって思うの?」
 実を言うと、先程からずっと気になっていたのだ。好き同士で恋人になっているのだから、その延長としてセックスは当然の営みだと思っていた。同性とのやり方自体は付き合ったのちに知ったものの、理解してからは体を重ねる行為に疑問を持ったことはない。蒼生も望んでいると思っていた。けれど、そう思う人間がすべてではないのだと初めて知った。
 蒼生は両手を胸の前で組み、ぐーっと前に伸ばす。
「ああ。さっきの? 聞いてたんだね。寝てるのかと思ってた」
「ん、寝てはいたんだけどさ。オレには蒼生の声センサーがあって、出来るだけ蒼生の声を聞き逃さないようになってるから、なんとなく聞こえちゃったんだよ」
「あははっ。健ちゃんって謎のセンサーが搭載されてるんだね」
 明るく笑う蒼生に、困ったような気配はない。様子を窺っていると、少し考えるふうに両手を唇に寄せた。
「うーん。……いいな、っていうか。本当に、お互いにどういう関係を望むか、だと思うんだよね。心の繋がりがあれば十分だって思う人もいれば、相手を好きだけど行為自体にひどく嫌悪感を抱く人だっているし。いろんな人がいると思うんだ。どっちにしたって、相手に望む関係が同じならそれでいいんじゃないかな。違ってたら、どっちかが我慢することになるでしょ」
「たしかに」
 自分がしたいと思っても、蒼生が本音ではそれを嫌だと思っているのなら、もちろんするべきではない。それなら蒼生は、と聞こうとした途端、蒼生はとんと健太に肩を寄せた。
「僕は、いっぱいしてほしいけど」
「……してほしいの?」
 顔を覗き込めば、ちらと視線を返してくる頬がわずかに赤い。健太の頭の中は一瞬にして「可愛い」で埋め尽くされる。
「もちろん。だって、ふたりと抱き合うの、すっごく幸せだもん。心も体も全部繋がってる感じがするから。それに、……きもちぃし」
 最後は呟く音量になった声に、健太は飛び上がりそうになった。この勢いで空を飛べないことが不思議なくらいだ。
「それで? 健ちゃんは、どっち?」
「したい!」
「ふふっ、じゃあ一緒だ」
「えっと、そしたら、今夜……する?」
「うん」
 可愛い。目に映る蒼生のすべてが可愛い。思わず蒼生の組んだままの両手をぐっと握ってしまった。暖かな体温が伝わってきて、テンションが上限を突破しそうになった。しかも、握られた手を見て蒼生が嬉しそうに笑っている。なんて幸せな光景なのだろう。
 そのまま駅に駆け込む勢いだった健太の手を、蒼生が引いて止める。
「けーんちゃん。行きすぎちゃうよ」
「えっ」
 はっと健太が目を上げると、そこには見たことのある犬のロゴマークが大きく描かれた車が止まっていた。

 ドライヤーのスイッチを切り、冬矢は洗面台の鏡を見ながらそっぽを向いた前髪を直す。身なりを整えるという意味では朝も夜も変わりはないのだが、これから大好きな人と愛おしい時間を迎えると思うと、どうしても気分が上がってしまう。それでなくとも今日はサークル活動を欠席した。健太に蒼生を独り占めさせる時間を与えてしまったということだ。そういうものだとわかっているから健太に対してどうこうという思いはないが、やはり羨ましいのは間違いない。
 そのままドライヤーを持って洗面所を出たところで、リビングのドアを開ける健太と視線が合った。
「お。交ー代~」
「はいはい」
 すれ違いざまにハイタッチまで求めてくる。仕方なく乗ってやると、鼻歌を歌いながら機嫌よく洗面所に消えて行った。気持ちはわかる。
 リビングに入って真っ先に目に入ったのは、ソファに膝を抱える格好で座って本を読んでいる蒼生の姿だ。真剣な眼差しが字を追って上下に動いているのが可愛らしい。集中しているのか、冬矢が戻ってきたことに気付かないこともまた愛しいポイントだ。本当ならすぐにでも抱き締めて胸の中を蒼生の匂いでいっぱいにしたいのだが、綺麗な横顔を眺めるチャンスも無駄にしたくない。冬矢はカウンターの上にドライヤーを置くと、その足でキッチンに入った。
 そういえば初めて会った時も、蒼生は本を読んでいた。当時は他人のことなどまったく興味がなかったから、唯一の友人である森の席と自分の席の間に何かがいるという認識だった。だからあの時、どんな本を読んでいたかはわからない。ただ、そこから顔を上げて視線が合った時、蒼生がふわりと微笑んだことは覚えている。今にして思えば、初めて健太と離れることになった不安でいっぱいだった蒼生が、自分を守るために目の前の本に没頭していたのだろう。そう思うと愛しさで胸がいっぱいになる。
 まだ蒼生が自分との間に壁を作っていた頃、蒼生は常に戸惑っていたような気がする。森からの強引な誘いに警戒しつつも近くにいてくれる様子は、慎重に距離を測っているようだった。それを不審に思っていたかつての自分は、まったく世界が見えていなかったのだろう。きょろきょろと冬矢と森の態度を見比べながらどう対応すべきか考えていた姿は、思い返すだけであんなにも可愛かったのに。
 しばらくじっくりと蒼生の姿を堪能した冬矢は、グラスに入れた冷茶を半分ほど飲み干してからキッチンを出る。ソファの前のローテーブルにそっとグラスを置くが、蒼生はまだ気付かない。ふっと笑って、静かに隣に座った。
「あ」
 小さく、驚いたような声。まん丸くした目をぱっと上げ、冬矢が微笑んで自分を見ていることに気が付くと、蒼生は恥ずかしそうに笑った。
「ごめん、気付かなかった」
「ずいぶん集中していたようだね」
「ええっと……冬矢が戻ってくるまでのちょっとの間に、気になるとこだけ確認しようと思っただけなんだ。……本当だよ?」
「ふふ、なのに一瞬で夢中になっちゃったんだ。可愛い」
 そっと頭を引き寄せ、髪にキスをする。わずかに蒼生が身じろぐ。
「冬矢、あの……僕、お風呂まだだから……」
「だから何? まだそんな可愛いことを言うんだね」
 構わず頬に口づけるが、蒼生は困ったように笑うばかりだ。綺麗にしていないからと気にしてはいるものの、冬矢に触れられること自体は嬉しいのだろう。
 蒼生が持っていた本をテーブルの上に置いた。引き寄せていいという合図だと受け取った冬矢は、後ろから手を伸ばして肩を抱く。風呂上がりで自分のほうが温かいはずだが、手のひらはさらに熱い温度を感じているような気がする。それに目をやった蒼生が、おずおずと冬矢の顔を覗き込んできた。
「……えっと。乗っかっても、大丈夫?」
「それは、抱っこしてってこと?」
「う、うん。抱っこ」
 素直に甘える言葉を使う蒼生に、このままソファに押し倒してしまいたいくらいの衝動を覚える。が、せっかく蒼生が乗っかって来てくれるというのだ。そちらを味わうことにする。
「いいよ」
 両腕を広げて待つ態勢を整えると、蒼生はぱちぱちと瞬きをした。視線が冬矢の顔から手の先へ、膝へと動いて、また顔へと戻ってくる。自分から言い出しておきながら、少し戸惑っているらしい。また「重いだろうか」と悩んでいるのだろう。
「おいで」
 そんな様子も可愛くて仕方がないのだが、冬矢の体は既に蒼生の重さを期待している。呼びかけると、ようやく向き合うようにして膝に乗ってきた。服越しの体温が温かい。じんわりと胸まで温かくなる。けれどまだ遠慮をしているようで、すべての体重はかかってきていない。困った子だな、と思い、広げていた手で蒼生をぐいっと抱き締めた。
「わ」
「ああ、蒼生の匂いだ。1日が終わって、家に帰って蒼生を抱き締めることができるなんて、本当に幸せだな」
「……うん。僕も、ぎゅってされるの、嬉しい」
 肩に頬を擦り寄せて笑う気配がする。たまらなくなって、とんとんと背中を叩く。
「蒼生」
「はぁい」
「顔を見せてくれる?」
「え、うん」
 すぐに顔を上げた蒼生を追って、小さく笑う形の唇に自分の唇を寄せる。微かに目を見開くので、もう一度。今度は軽く舐めあげて。
「……ふ。甘いね」
「あ、クッキー……」
 蒼生の目線が、ちらりと後ろに向く。ローテーブルの上には空っぽの皿があった。冬矢が風呂に向かう時には大きなクッキーが1枚ずつ4種類載っていたはずだ。さっきまで健太もいたのだから、蒼生がすべて平らげたわけではないだろう。おおかた健太が味見という名目で蒼生に齧らせ、歯形が残ったクッキーを美味しくいただいた、というところか。健太は蒼生と分け合うことが大好きで、蒼生もそれを喜んでいる節がある。
「えっと、まだあるからね? 大きめのアソートパックで買ってきたから、冬矢の分まで食べ尽くしちゃったわけじゃないから!」
 クレームだと受け取ったのか、蒼生は慌てた様子で弁明をする。そんなことで怒るわけがないと知っているはずなのだが。
「ははっ。さては、蒼生もたくさん食べちゃったんだな。大丈夫だよ、袋の中にたくさん入っていたのはちゃんと見ているからね。懐かしくなって思わず手が伸びた?」
「それは……うん。あるかもしれない。ここのクッキーが特別好きってわけじゃなかったのに、なんでだかすごく気分が盛り上がっちゃって」
「わかるよ。俺も1枚食べてすごく懐かしい気分になったからね。でも蒼生は、どうせならパン屋のほうに来てほしかったんだろうけど」
「そんなことまでバレちゃうの?」
「蒼生はパンが好きだからね。それに中学生の頃、あの店でばったり会うこともあっただろ?」
「うん。冬矢は森くんに引っ張られてって感じだったけど」
「蒼生だってそうじゃないか」
「まあね」
 楽しそうに蒼生は笑う。
 冬矢にとっても懐かしい店だ。仲良くなってからは一緒に行ったものだが、出会った当初は運動部の大食らいである健太と森にそれぞれ連れられる形で訪れることが多かった。冬矢たちに気付き、警戒心を剥き出しにこちらを見据える健太の隣で、穏やかな笑顔を見せてくれた蒼生の姿を思い出す。健太が会計をする隙を見て話しかければ、嬉しそうに答えてくれた。それを察した健太が慌てて自分を引きずって店を出ていくのを、なぜ強引に連れて行かれようとしているのかわからずにきょとんとした顔でこちらを見ていたのも忘れられない。冬矢と健太が自分を巡ってバチバチと火花を散らしていたことにまったく気付かなかったのも、自分が好かれているという可能性をまったく視野に入れられなかった蒼生らしいと思う。
 よく考えれば、それだけ頻繁に出入りしていた店だ。中学3年の始業式の日に教室で出会った蒼生と冬矢だが、それ以前に狭い店舗の中ですれ違っていた可能性は十分にあり得る。遠目に見たことがあるだけではなくて、声を直接聞いたこともあったかもしれない。
 もっと早く、蒼生に気付きたかった。蒼生を知ることが出来たはずの数年間を、ひどく惜しく感じる。だからそれを取り戻すように、再び蒼生を強く抱き締めた。
「本当に……もったいないことをしたと思うよ。蒼生とならばどこに行っても楽しいんだと気付くのに、ずいぶん時間がかかってしまった。あの街にも興味がないからと行かなかった場所がたくさんある。そこでだって、きっと思い出が作れたはずなのにね」
 腕の中で、蒼生が首を傾げる。
「そういえば……冬矢ってみんなが遊びに行ってる場所とか知らなかったりすること多かったね。やたらとゲーセンは詳しかったけど」
「たしかにそうだね。他にそこそこ知っていたのは、飲食店くらいかもしれない。まあ、それも森に引きずられていった場所ばかりだな」
「森くんは元気よくいろんなところに連れてってくれるタイプだったもんね。僕もたくさん教えて貰ったなあ。あー……えっと……そしたら……あの、ね、冬矢。……その……えっと。お付き合いしてた人……とは、どんなとこに行ってたの?」
 ぴた、と冬矢は体を固まらせる。今大切なのは蒼生であって、それまでのことはすべて過去だ。そこで起きた出来事は、言い方は悪いとわかっているが、ただの過程でしかない。当時の行動を告げたところで蒼生に余計な心配をかけるだけだとわかっている。とはいえ、蒼生に対して嘘はつきたくないのも本音だ。きちんと事実を話すべきだろう。
「正直なところ、蒼生が想像するような場所にはほとんど行かなかったよ。公園で散歩とか、買い物に付き合うとか、まあ行ってもカラオケとかファミレスくらいだったかな。なにせ子供の頃の話だ、入場料金がかかるようなところは誘われても断っていたよ。自由にできるお金なんてほとんどないしね。だから、本当にどこかに行きたいのなら、そのたびにわざわざ親に説明して小遣いを余計にもらう必要があった。それをお願いするのが面倒だったくらい、彼女たちに対する熱い想いなんてものは俺にはなかったんだろう」
 冬矢の肩に顔をうずめ、蒼生は小さく「そっか」と言った。自分で聞いてはみたものの、過去の相手の話はやはり複雑な気分になるのだろう。
 どちらにせよ、これ以上踏み込まれるのはよくない。どこに行くでもないデートの何が楽しいのかと問いただされては困るからだ。相手の要望に合わせ適当に遊んだ後は、人が通りかからない場所を探すか相手の家に行って性欲処理をしていたことは話したくなかった。聡い蒼生のことだから察している可能性はあるが、敢えて言葉にする必要はない。
 柔らかく、あやすように蒼生の背中を撫でる。
「さて。俺の愛しい恋人は、どうしてそんなことを聞くのかな。どこか行きたいところでもあった?」
「それは、あったかもしれない。冬矢と一緒に行くならどこでも楽しいと思うから。……ただね、今、ちょっと気になって。冬矢が好きな子はどんなところに行きたがる子だったのかなって」
「ふーん?」
 少々引っかかる言い方だ。冬矢を好きな子ではなく、冬矢が好きな子、か。
「もしかして、俺の好みに合わせたいと思ってる?」
「えっ、ううん、そうじゃなくて。純粋に、どんな子が好きなのかな、と思っただけで」
 慌てたように首を振った蒼生に、冬矢はそっと頬を寄せる。
「なるほどね。難しい質問だな」
「冬矢にも難しい?」
「ああ。蒼生も知ってるだろ。どんな子もなにも、俺が好きになったのは蒼生だけだ。それまではずっと、交際を申し込まれても断るのが面倒だから付き合っていただけだって言ったよね。好きという言葉は何度も何度も聞かされたけれど、ただそういうものなのだろうと深く考えずに受け取るだけだった。その言葉がどういう意味を持つのかを理解できたのは、本当に蒼生と出会ってからだ。全部、蒼生が俺に教えてくれたんだよ。……つまり、蒼生が聞きたいのは俺のことじゃないだろう?」
 今度は蒼生が動きを止める番だった。口を開くべきかどうかを迷っているのが伝わってくる。だがそれを飲み込ませてしまうのは、お互いにとってよくないことだ。
「いいよ、頭の中で整理しなくても。思った通りに話してごらん」
「……うん」
 優しく髪を撫でると、蒼生がそっと体を起こす。落ちた視線は、目を合わせるのを怖がっているのだろうか。
「……好きなタイプってどんな子、って聞かれたんだ。咄嗟に、その時に好きな子がタイプかなって答えたんだけど、……本当はどうなんだろうって悩んじゃった。でも考えても、わかんなくなるばっかりなんだ。好きな人がどんな人なのかわかんないってことは、僕は誰のことも好きじゃないのかなとか考えちゃって。だけど、僕、健ちゃんと冬矢が大好きなんだ。だからそんなはずはない。じゃあ、好きになった人のほうからタイプってやつを考えてみようと思ったんだ。そしたら、もしかして、自分のことを好きな人がタイプなのかなって思いついた。……だとしたら、僕はふたりに好かれてるから好きなだけなんじゃないかって」
「え?」
 冬矢が怪訝な顔をするのと、リビングのドアが開いたのはほぼ同時だった。
「ただいまー、蒼生、お待たせ」
 明るい健太の声に弾かれたように蒼生が立ち上がる。
「ごめん、変なこと言った。忘れてね。僕、お風呂入ってくる」
 蒼生はそのままソファに置いてあった着替えを掴み、ばたばたと走っていく。思わず手を伸ばしたが、間に合わなかった。
 自分の横をすり抜けて行った蒼生。目を丸くしてその後ろ姿を見送った健太は、ぐるりと振り向いて首を傾げる。
「……蒼生、なんか様子おかしかったけど。何があった?」
 冬矢は大きく息を吐き、組んだ両腕を膝に載せた。
「俺たちに好かれているから好きなんじゃないか、と悩んでいるみたいだ」
「ん? ええっと……どういうことだ?」
「蒼生は、俺たちが蒼生のことを好きだと言ったから、それを受けて自分も俺たちのことを好きだと思い込んでいるだけなんじゃないか、ってさ」
「思い込み? そんなわけないじゃん!」
 健太は驚いた声をあげ、ダイニングテーブルの脚に躓きかける。それは健太にとって心底意外だったのだろう。そうだ、そんなわけはない。もう一度息を吐いて、冬矢は立ち上がる。
「もちろん、あり得ない。蒼生は俺たちのことを愛してくれている。おそらく何かのきっかけで考え事をしているうちに考えすぎてしまったんだろう。……今日、サークルでおかしなことはなかったか?」
「んー。おかしいこと……特には……」
 腕を組んだ健太は、天井を見て、何も映っていないテレビに目をやり、ローテーブルに視線を落とす。と、蒼生が置いていった本に気付いたようだ。
「あれ、このタイトル、先輩が昼間言ってたやつだ」
「この本か?」
「そう。たしか蒼生が薦めて面白かったって話をしてたな。先輩が持ってたほうはアニメっぽい表紙だったけど」
「新装版が出たんだろうな。それで、他にどんな話をしていたんだ?」
「えーっと……その本の中に書いてある小説の話をしてて、プラトニックな恋愛っていいなって話から、蒼生ってモテそうだねー、どんな子がタイプなの、って言われてた」
「ああ……、そこでタイプの話が出たわけだ」
 それか、と冬矢は頭を抱える。他人に告白され、「好かれてるのが鬱陶しい」と言っていた蒼生。蒼生が告白を断るのは、自分のことなど誰も好きになるはずがないと信じ込んでいたからだった。「僕は誰のことも好きになれないんだと思う。だって今までいろんな人の言葉を聞いてきたけど、誰の言葉も響かなかったもの」と言っていたのは、いつだったか冬矢の家に泊まりに来ていた時のことだ。蒼生は、他人に好意を抱くのも抱かれるのも苦手だった。あの頃の苦手意識はまだ蒼生の中にあるらしい。
「俺たちに何の負い目を感じているんだか……。風呂から出てきたら、きちんと蒼生に伝えてやらないといけないな」
 健太はぽんと手を叩く。
「なるほど、どんな子がタイプかって聞かれて、わかんないから不安になっちゃったのか」
「おそらくね」
「そっかぁ。……プラトニックも悪くないけど、えっちするほうが好きだって、にこにこ笑ってたのに。今日しようねって言ったら嬉しそうにしてたから気付かなかったな……」
 肩を落とす健太に小さく首を振って見せ、冬矢はキッチンに入った。
「おまえにそう話していたのか? 蒼生がそう言うのなら、不安も期待もどちらもあったうえで、期待のほうが蒼生にとって大切だったということじゃないか」
 言ってやると、健太はほっとしたようだ。
 おそらく自分の考えは間違っていないはずだと冬矢は思う。出会ったばかりの、ひとりで何もかもを抱え込んでしまっていた頃とは違う。今の蒼生は、不安のほうが大きければきちんとそれを健太に訴えたはずだ。話題になった本を読み返してしまったことで、本来なら忘れてしまえるほどの些細な傷を思い出してしまったのかもしれない。そんなものはとっとと忘れさせてやるべきだろう。
「ところで。……好きだって?」
「えっち? えへへ。うん、好きだって。嬉しいし気持ちいいからって言ってたよ」
「ふうん。ならば、願いはきっちり叶えてあげようじゃないか」
「だよな! ベッドの準備してくる! 今日はみっちり甘やかしコースだな!」
 健太は跳ねる勢いで背を正すと、元気よく寝室に消えていく。
 さて、と冬矢はキッチンを眺めた。健太に言われるまでもない。今日はとことん蒼生を甘やかすつもりだ。

 寝室の準備が終わってしばらくして、蒼生はリビングに戻って来た。ただいま、と笑ってはいるが、やはりあまり元気がない。すかさず健太が正面から勢いよく抱きついた。
「わ」
「おかえり! 蒼生おかえり! だーい好き!」
 そのまま抱き上げると、蒼生はぱちくりと目を見開く。冬矢は冷たいグラスを片手にキッチンを出て、普段より高い位置にある蒼生の頬をそっと撫でた。
「大好きな蒼生。待っていたよ。ああ、よく温まっているね」
 ふたりの顔を交互に見つめていた蒼生だが、すぐにふわっと表情を和らげた。
「……ふふ。嬉しい。僕も好き。ふたりとも大好きっ!」
 ぎゅっと健太に抱きつき返してくるのは、いつもの可愛い笑顔だ。ほっとした健太は、蒼生をソファまで運ぶと、横抱きに抱き替えて座った。そして腕の中にいる蒼生はキスし放題だとばかりに、額に、頬にキスを落とす。
 蒼生の小さな笑い声を羨ましく思った冬矢は、張り合うように耳元に口づけ、グラスをローテーブルに置いた。
「甘さ控えめのピーチティだよ。載せるアイスも持ってくるからね。食べている間に髪を乾かそうか」
 ふたりのキスを嬉しそうに受けながらも、蒼生はわずかに浮かない顔をして冬矢を見上げた。
「あの……もしかして、さっき僕が変なこと言ったから、機嫌取ろうとしてくれてる……?」
 冬矢は困ったように笑って首を振る。蒼生がそう思うだろうことは想像通りだ。
「蒼生。その言い方はよくないな。蒼生の発言はひとつのきっかけであったかもしれないけれど、俺たちが蒼生を可愛がりたくなってしまったんだ。ただ純粋に、蒼生を甘やかしたい欲に素直に従っているだけだよ」
 それを聞いた健太は深く頷く。
「そ。しかも甘やかしたいスイッチは判定がガバガバで、蒼生が変なこと言っても可愛いこと言ってもちょっと笑ってくれただけでも、簡単にオンになっちゃうんだぜ。こうなっちゃったら蒼生には止められないんだから」
「僕でも無理なの?」
「無理。なぜなら、蒼生が止めようとしたらもっと可愛くなっちゃって逆効果だし」
「ひぇ……」
「だから蒼生は諦めて、素直に俺たちに可愛がられていればいいんだよ」
「……なるほど」
 直接触れていた健太には、蒼生の体から力が抜けたのがはっきりとわかる。きっと不安が消えたのだろうと嬉しくなった。甘やかすという言葉を受け入れてくれたことも愛おしい。思わず腕に力が入るが、蒼生は抗うどころか健太の肩に頬を載せた。
「うわー……早速めちゃくちゃ可愛い」
「あはは、ほんとだ、判定緩いね」
 冬矢は小さく息を吐いた。柔らかく笑う蒼生の髪をそっと撫で、その濡れ方から蒼生が急いで風呂から上がって来たことを察知する。風呂に入ってひとりになったことで、自分が冬矢に向けて言ってしまった言葉を反省し、より一層不安になってしまったのだろう。本人は気にしていないつもりのようだが、少し話をしたほうがいいなと思う。まずは、と冬矢は改めてキッチンに向かう。
 アイスティーの上にバニラアイスが載ると、蒼生は幼い子のように目を輝かせ、健太は羨ましそうにそれを見た。
「えへ。ストローとスプーンが刺さってるのが、パフェみたいで豪華だあ。……あ、美味しい。桃の果肉が入ってるの嬉しい。アイスも美味しい」
「いいな~。蒼生、オレにもアイスひとくちちょうだい。あーんてして」
「はぁい」
「俺には紅茶を飲ませてくれる?」
「うん、どうぞ」
 ほんわりとした可愛らしい笑顔を浮かべながら、健太に抱かれたまま冬矢に髪を乾かされ、ふたりのお願いを素直に聞く蒼生。その姿を見ている健太と冬矢は、とても満たされた気分だ。落ち込みやすく物事を難しく考えがちな蒼生が、すっかり気を抜いた様子でされるがままに体を預け、ゆったりと幸せそうにしている。ふたりを心から信頼している証拠なのだと思う。
 冬矢は柔らかな蒼生の髪に触れながら、その向こうで能天気に笑っている健太をちらりと見る。悔しいが、今こうしていられるのは健太の力が大きい。蒼生自身は気付いていないが、蒼生が「自分のことは誰も好きではない」と言うセリフには、「健太が自分を好きでないならば」という前提条件が付いていたと冬矢は推察している。生まれた時から自分のことを最も愛しているはずである健太が他人と付き合い、ましてや他人を恋人にするのなら、それ以下である自分を愛する者は誰もいないという考え方だ。蒼生以外を選んだ時点で健太がそのまま距離を取っていれば、蒼生の心はその形で凝り固まって、冬矢ひとりではこじ開けるのに時間を要したことだろう。結局、健太が常に蒼生を優先し続けたおかげで、蒼生の思考が救いきれないほどの底にまで落ちてしまうことはなかった。
 かつて同じ口で「好かれているのが鬱陶しい」と吐き捨てていたとは思えないほど寛いだ様子の蒼生を見て、冬矢は話をするなら今だと判断する。ドライヤーのスイッチを切り、ソファの肘置きに腰掛け、後ろから蒼生を抱き締める。
「はい、終わり」
「ありがとう。ふふ、気持ちよかった」
 ぽすんと蒼生が冬矢に寄りかかってくる。可愛らしくて身を乗り出すように口づければ、甘いバニラの味がした。
「甘い。ふ、可愛いな」
「もしかして今日、甘いもの食べすぎかなあ」
「このくらいなら大丈夫だろ。どうかな、気に入った?」
「うん、すごく好き」
 再び蒼生はストローに口をつける。よかった、と笑い、冬矢は蒼生を抱く手に力を込めた。
「……ねえ蒼生。さっきの話の続きをしてもいいかな」
「さっき? うん」
「難しく考える必要ないからね。蒼生は、自分が好きなタイプを考えてもわからないって言ってたけど、たとえば……感じたことはある? 誰かのふとした仕草を見た瞬間に、ああ、これってそうかな、と思うことというか」
「んー?」
 ストローを咥えたまま、蒼生はことんと首を傾げた。
「うーん……。感じる、とかもないかも。だって、僕が好きなのは健ちゃんと冬矢だけだから、他の人にどうとか思うことないし」
 健太が蒼生の顔を覗き込む。
「ってことは、蒼生のタイプってオレと冬矢の共通点がそうだったりするのかなあ?」
「健ちゃんと冬矢の? んー……ふたりとも優しいでしょ。よく気付いてくれるし、褒めてくれるし、人当たりがいいし、何するのも丁寧だし、一緒にいて楽しいし、会話もテンポよくて頭いいなって思うし、かっこいいし、スタイルもいいし、あ、脱いでもかっこいいもんね。それから」
 すらすらと蒼生は指を折りながら話し続けるが、片手にグラスを持っているのですぐに指が足りなくなった。いくつまで数えたかわからなくなったようで、ぱたぱたと手を開いたり握ったりしている。そしてぱっと指を伸ばした蒼生は「あ」と言葉を止めた。
「どした?」
「あと、……ふふ、えっちがじょうず」
 健太はすっかり真っ赤な顔で、こくこくと頷く。
 冬矢も何とか穏やかな笑顔を保っているが、あまりの可愛さに頭を抱えてしまいたくなる。それは蒼生に対してだからだよ、という項目も多いのだが、蒼生は本気でそう思ってくれているようだ。しかも共通点というだけなのだから悪い面が出て来てもおかしくないのに、蒼生の口からはただひたすら長所しか挙がってこない。
「ヤバいね、蒼生、どんだけ可愛いの。オレぶっ倒れそう」
「おかしいこと何も言ってないんだけど……」
 冬矢はそっと蒼生の手からほぼ空になったグラスを取り、ローテーブルに置いた。そして、両手で蒼生の手を片方ずつ握る。
「蒼生は俺たちのことをそう思ってくれているんだね。嬉しいよ。……でも、それを聞いていると、やっぱりさっきの蒼生の理屈はおかしいと思う」
「え?」
 きょとんと目を丸くして仰のくように見上げてくる蒼生に笑いかけ、冬矢は握った蒼生の指先をゆっくりと撫でた。
「告白の日を思い出してほしい。蒼生は、好きだと告白されて初めて俺たちの気持ちを知って、それで自分が俺たちのことを好きだということに気が付いたんだよね」
「うん」
「もし蒼生が自分を好きな人のことを好きになるんだとしたら、好きになるのはそれからじゃないのかな。だとしたら、気付く、というのは違うと思うよ」
 蒼生は「あ」と短く声を上げた。それから自分を見つめるふたりの眼差しに答えるように、それぞれの顔を交互に見つめる。
「……そっか。ふたりに想われてるなんて知らなかったのに、僕はもう健ちゃんと冬矢のことが大好きだった。そっか、違うんだ」
 にっこり笑った健太が、蒼生の片手を冬矢から奪う。
「わかった! 蒼生は、タイプうんぬんを見つける前に好きな奴が決まっちゃってたから、そんなの考える必要がなかったんだよ。オレだって深く考えたことないし! 今じゃもう昔どんな子が好きだったかってことも覚えてないもん。……いや待てよ、優しくて静かで、……オレも最初から蒼生が好きだったから、蒼生の面影追ってたのかも」
「それは……どんな顔して聞いていいのかな」
「あっ、ごめん。でも、そういうことバカみたいに繰り返して、ようやく、オレはただ蒼生が好きなだけなんだ、って気付けたから、許して」
「うん」
 一瞬顔を曇らせた蒼生だったが、すぐにふっと微笑む。健太が何を思ってどんな道を歩いてきたかを蒼生は知っている。長い時間を共有していた蒼生にはどんなに工夫してもバレるから、健太は嘘も隠し事もしない。だから、健太がそうだと言えばそうなのだと納得できるのだろう。
 冬矢はその信頼関係を時折羨ましいと感じるが、蒼生の信頼を得ているということに関しては、自分も決して引けを取っていないと思っている。誰も見抜けなかった蒼生の寂しさに唯一自分だけが気付けたという自負があるからだ。それだけに、蒼生の想いを察する自信がある。おそらく蒼生は「自分のことを好きなのは本当に健太と冬矢だけ」だと思い込んでいる。だから、それ以外の誰かから向けられる好意を信じていないし、欲してもいない。
「ねえ、蒼生」
「なあに」
「昔、蒼生に言ったことがあったよね。覚えてるかな。蒼生は、好きじゃない人から向けられる好意が苦手なんだね、って」
 言いながら顔を覗き込むと、蒼生はすぐに嬉しそうな顔をした。
「……覚えてる。冬矢は好きって気持ちを矢印って言ってた。僕は矢印を向けてる人がいるのに、後ろから矢印で刺してくる人が駄目なんだろうって言われたの。自分でもわかんなかったのを冬矢が言葉にしてくれて、ああそういうことなんだ、って目が覚めた気分だったから、よく覚えてる」
「そうか。嬉しいな。……そう、蒼生は俺たち以外からの好意が苦手だったんだから、好きだと言ってきた人を好きになるわけがないんだよ。蒼生は恋愛が苦手だって思い込んで自分の気持ちに蓋をしていただけで、ずっと俺たちと静かに恋愛関係を築いていた。健太の言う通りだ、タイプなんて考える必要がなかったんだよ」
 蒼生は、ふたりの手をぎゅっと握る。
「じゃあ、今好きな人がタイプです、で間違いじゃなかったんだ」
「そう言ってもいいかもね」
「タイプとか気にしないで、健ちゃんが好きです、冬矢が好きです、でいいんだ」
「そうだよ。俺も蒼生が好きです、でいっぱいなんだから」
「オレもそう! 蒼生大好き! ってことでぇ」
 健太はやたら語尾を伸ばしてから、ふいに蒼生を抱えたまま立ち上がる。蒼生の手を握ったままの冬矢も、つられてソファから体を起こした。
「今から蒼生には、オレたちとしっかり愛し合ってるので心配しなくても大丈夫なんだって、体にもきちんとわかってもらいまーす」
 腕の中で、蒼生はぱっと顔を輝かせる。
「……ふふ。これから何をされるかわかってるのにそんな無邪気な顔するんだから、俺の恋人は可愛いな」
「えっへへ。だって、蒼生はオレたちとのえっち大好きだもんね~」
「うん。嬉しい。全部、僕に教えてね」
 期待に満ちた可愛い可愛い恋人の笑顔。健太と冬矢は、理性の手綱をお互いしっかり握っておかなければとそっと目線を交わした。


 後日。
「ただいまぁ。ごめんね、ちょっと告白されて、断るのに時間かかって遅くなっちゃった」
 その言葉を聞いた健太と冬矢は、それぞれ手にしていたものを放り出し、蒼生の元へ向かう。今日はバイト先の後輩の送別会だとは聞いていたが。
「少し遅いなとは思っていたけど、そうか、大変だったな」
「大丈夫? おつかれさま」
「ありがと」
 蒼生は告白を受けると、あたかも自分が告白して断られたように傷つき、落ち込む。それは相手を傷付けたことへの罪悪感や、自己肯定感の低さからくる嫌悪感のせいだ。ひどく後ろ向きになって自分に攻撃的になる姿を目にすることは少なくなかった。
 けれど今日の蒼生は、健太に後ろから抱き締められ、冬矢に両手で頬を包み込まれてにこにこと嬉しそうにしている。無理をしている様子もない。とりあえず健太と冬矢はほっと息を吐く。
「時間かかったってことは、諦めないタイプの子だったんだなぁ」
「うん。今日で辞めるから最後に言っておきたい、って感じだったみたい。なら断った時点で納得してくれればいいのに、どうしても1回だけ遊びに行きたいって食い下がられて。たしかに思い出だけでもって気持ちはわからなくもないし、申し訳ないとは思ったけどさ。僕には健ちゃんと冬矢がいるんだもん、靡く可能性はゼロなんだから、下手に期待させるのも悪いでしょ」
「そりゃそうだ、蒼生はオレたちに愛されてるから、他の人の入る余裕ねえもんなー」
「ねー」
「ちゃんと言ったんだろ、恋人いますって」
「言ったよ。お付き合いしてる大好きな人がいますって」
 健太は大好きと言われて勢いよくテンションが上がったようで、冬矢の手を払いのけて蒼生に頬ずりをする。蒼生もくすぐったいと笑いながら嬉しそうだ。
 冬矢も蒼生の言葉を聞いて嬉しかった。自覚があるかどうかはともかくとして、今の蒼生にはふたりに愛されている自信と、ふたりを愛している自信があるように見える。毎日毎晩1日も欠かさず愛を伝えていれば、後ろ向きな蒼生もさすがに信じざるを得なかったのだろう。それが告白を断っても落ち込まない、という結果を生んだ。同棲を提案して本当によかったと思う。蒼生には、愛し愛され、幸せで満たされていてほしい。
「ふふふ。いい子の蒼生は、たくさん可愛がって甘やかしてあげないと」
 両手を掴んで冬矢がそう言うと、蒼生はいたずらっ子のような可愛い顔でことんと首を傾げた。
「今日も?」
「そう。今日も。だめ?」
「……だめ、じゃない」
 ふにゃりととろけたような表情で、蒼生は冬矢の暖かな眼差しを受け止める。と、ふいに蒼生がはっと目を瞬かせた。
「あれ。もしかして僕、甘やかしてくれる人がタイプなんじゃ」
 健太はひょいと蒼生を抱え上げ、冬矢は蒼生の髪を両手でぐしゃりとかき混ぜる。
「わ、わ」
「それも逆だよね。蒼生はずーっと、甘やかす側だったよ。それを、俺たちにだけ甘えっ子になるようにしたのは俺だからね」
「そうそう。オレ、甘やかされてた自覚あるもん。蒼生がオレにも甘えてくれるようになったの、すっげえ嬉しいんだから」
 蒼生の目が健太を見上げ、冬矢を見つめる。
「ああ、そっか」
 納得したようなその言葉は、とても穏やかで柔らかい。ほおっと長く息を吐いた目には、うっすらと涙がにじむ。
「やっぱり僕は、“誰か”じゃなくて、健ちゃんと冬矢のことが大好きなんだなあ」
 ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚がして、ふたりがかりで蒼生を抱き締める。
 愛しい、愛しい恋人。
「えへへ。オレも大好き!」
「俺だってそうだよ。蒼生のことが大好きなんだ」
「……うん。嬉しい」
 いつも、どんな時でも、その思いは変わらない。
 自分たちの心の底にあるのは、愛おしい恋人への「好き」という気持ちなのだ。
 改めて、3人はそれを実感する。
 ふふ、と蒼生が笑うと、健太と冬矢もつられるように笑う。
 ひそやかな笑い声に重なるように、電気ケトルの優しい音楽が流れた。

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