投稿日:2026年06月21日 21:47 文字数:25,206
カナリヤ 11
オーターさん局出向編()です⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
ちゃんと禁書を使ったワースくんが「アッー!」ってなるところがやりたくて書きました(犯行声明)
この為に2話分話を積み上げて来たと言っても過言ではないんですが、一応私はワースくんに、北都さん(私)という名の困難を乗り越える不屈なところを見せて欲しいと思っているだけで他意はありません(_・ω・)_バァン
この時点で何か不穏なものを検知する方はいらっしゃるような気がするんですが、「さすがにやべぇかな⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝」と思われたらどうぞご無理なく……
また前作と、他にも(これを読んでる方がは分からないのですが)ご反応頂きありがとうございました!めっちゃ掘り返されてる……!って思いました笑
pixivに投稿してた分は全部こっちに入れてるのでもうかれこれけっこう昔の作品置いているんですよね……。私も当時を思い出して楽しかったです。
◆◇◆◇◆
砂の神杖オーター・マドル。
彼はよほど高名な魔法使いらしい。
ほんの少し調べるだけで、すぐに情報が出てきた。
使う魔法、その性格、性質……。
ただの情報だけのはずなのに、腹立たしくて舌打ちをした。
巨人族は、矜持を傷つけた者を決して忘れはしないのだ。
その話が持ち上がったのは、奇しくも夕食の最中であった。
「正式な辞令は週明けになりますが、来週、魔法魔力管理局のお手伝いをお願いしています」
ちょうど切り分けた魔猪の肉を口に突っ込んだタイミングだったワースはとにかく瞳を白黒させた。別に、オーターは気遣いが出来ないからとこんなタイミングで話題を振ったのではない。「ノー」の返事を聞きたくなくて回答しづらいタイミングに声を掛けてしまったのだろう。最近になって知ったことだが、オーター・マドルはこういう所がある。自覚があるのかないのか、オーターは神経質そうに眼鏡の位置を直した。
「……より正確に言えば、貴方の禁書の耳と口を借りたい」
「…………んぐ、……リトルデビルの?」
牛乳を飲んで一息付いて、ワースは聞き返し、すぐに「ああ、」と肩をすくめる。通訳要員ということか。
リトルデビルの会話実験は、ワースが想像していたよりもずっと順調に進んでいた。確かに対象とする相手を選ぶものの、上手くチャンネルを合わせられれば相当の精度で通訳可能だ。動物での実践はほぼ終えたし、現在協力してくれる別種族の者を探しているくらいである。純粋にリトルデビルの語彙力が上がったという理由もある。確かに舌っ足らずに話すが相手のニュアンスをかなり正確に伝えてくるようになった。ちらりとリトルデビルへ視線をやると、事前に切り分けてやったサイコロ状のステーキをニコニコしながら食べている。
「実はこの度、巨人族のある部族と魔法魔力管理局で契約を結ぶことになりまして」
話としては、貿易協定の一種だ。魔力を留める効果のある薬草を毎月一定魔法魔力管理局が輸入し、対価を払う。それは魔力欠乏症患者向けの薬となり、一部は研究管理局に回される。もちろん巨人族から仕入れる必要は必ずしもないが、需要に応えられるだけの量を安定的に供給できるのがその部族だったらしい。根気強く交渉を進め、この度ようやく契約締結というところまで進んだのだそうだ。
「もちろんウチの担当者が直接的な交渉は行いますが、最後の条文に間違いがあってはいけませんから。調印の時に、いて欲しいのです」
「俺らでいいのか?」
これまで全く交渉に携わっていない、しかも局も違うワースとリトルデビルがポッと出で関わるのは、なんだか変な感じだ。しかしオーターはゆっくりと頷く。
「……実はこれまで、巨人族との交渉は全て文書によるものだったのです」
「文書ォ?」
「はい。向こうもこちらもある程度文書でしたら理解出来るので。こちらの言語の原文と、同内容の相手の言語の訳文を2枚綴りで。初回のみ顔を合わせて、以降は全てフクロウ便で」
そんな事あるんだ、と思ったが、相手も相手で特殊だ、そういう事もあるかもしれない。
巨人族は文字通り人間よりも巨躯を誇る種族だ。平均身長は5m。立派な体躯に見合う程度に魔力が強いが、魔人族程ではない。基本的には真っ直ぐに伸びた針葉樹林の周辺に生息し、意外かも知れないが、木の皮を主食とする。一説には100程の部族に分かれていると言われるが、人間と関わりがある部族がひと握りであるため全貌は分かっていない。人間の言葉を理解していて文字によるコミュニケーションが取れる巨人族の部族となると、10程に絞られる。オーターはワースが思い描いた部族のうち、最も有名な部族名を挙げた。
「彼らにはうちから針葉樹の苗20と栽培指導の技術者を定期的に派遣する予定です。……が、」
「人間からの樹木提供を嫌がる他の部族がいる?」
「その通り」
なんでも、今回契約締結する部族と並行して、別の部族とも交渉を進めていたらしい。ただしそちらは、交渉決裂。かなり厳しい条件を出された為、オーターが打ち切らせたらしい。人口増はそのまま食糧難の問題と表裏一体だ。無論巨人族の生活する針葉樹林は樹齢800年級の樹木が乱立する地域ではあるが、先行投資として植樹を進めるのはあり得る選択だ。他の部族に独占されるのは面白くないだろう。オーターは断った方の部族の中でも長老たちにはきちんと礼儀を通したという。しかしもっと格の低い若者たちの中で不満が燻っているらしい。その情報は長老たちからもたらされたもので、折角情報提供された以上手を打たないのはこれまた外交問題になるという。
「……あまり考えたくはないですが、話し合うべき部族以外が交渉のテーブルにいて、予定外の交渉をしてしまうのを避けたい」
基本的に、巨人族の顔は人間では判別できない。なんせ、彼らは人前では仮面を被る。そういう文化を持つのだ。親友と呼ばれるほどに親しい間柄か家族間でしか仮面を外さないらしい。体格の違いで個人識別出来ないこともないが、それはそれなりに顔を合わせている知り合いでないと不可能である。それこそ、何十年と追いかけている研究者や、交易で定期的に顔を突き合わせているとか。部族ごとに紋様が違うそうだが、それをひと目で判読するのは巨人族研究者でも難しく、魔法魔力管理局の担当職員も万全の準備を整えているとは言え、取り違える可能性がある。
「事前に相手側から判別用の魔宝石を貰っているので、これと口頭で手紙に記した内容で本物か確認します。貴方達には、その際の通訳を」
なるほど、とワースは頷いた。
けれどもちょっぴり引っ掛かる。
「……俺、墓地管理局の出向以降、取り敢えず年次上がるまで出向しないようにって言われてたんだけど……」
「問題ないです。……出向ではなく、貴方の研究協力ということでソフィナには話を付けました」
「……はい?」
思いもよらない単語に目を剥く。どういうことだ。いや、分かるけど。それって出向とどう違う建て付けになる。
「探していたでしょう?禁書と会話をしてくれる別種族を」
呆気に取られてワースは不作法にも口をぽっかりと開きそうになった。もちろん口腔には食品は入っていないが、それでも品はない。
確かにワースはリトルデビルと会話をしてくれる別種族を探していた。動物相手は所有者の許可が降りれば大抵は問題なく行えたし、動物園関係者を中心に当たれば比較的許可は下りた。固有の言語体系をもつ使い魔も、大抵は所有者が「本当はなんと言いたいのか知りたい」との希望があったから交渉しやすかった。ただ、リトルデビルはあくまで「禁書」であるし、人間の言語を理解する別種族相手では理解を得るのは難しい。先方からの許可が出ないものをどうにかするのは無理である。
「……それって、巨人族から許可出てるのか?」
「通訳専門の特殊な者を伴う、と」
しれっとした顔でオーターは言い切る。なるほど、「禁書」とハッキリは言っていない訳か。発表論文で使うには少々倫理的な問題を孕むが、禁書の使用実践の方向で書けば、確かになんとかはなりそうだ。事例と協力者を全部匿名にして……いや、こんな裏技を使わせようとするな。
「どうせ向こうも締結の場にどのレベルまでの者を出すかは明らかにしていません。向こうもこちらも、その程度の伏せたカードがありますから、気にしないように」
「…………」
それ、良いんだろうか。
……いや良くなきゃオーターは初めから話を持ってきたりなんかしないだろうけども。
チラリとリトルデビルを見る。はたと気が付いたリトルデビルはにこっと笑ってステーキを頬張る。嫌そうな顔を一切していないからきっと、通訳自体は問題ないのだろう。うん、とワースも頷く。
「来週ソフィナさんから連絡来るんだろ?したら、その時に案件ファイル読ませてもらう。ありがとな」
「……いえその、……業務時間外なのに仕事の話をして、すみませんでした」
「?なんで?」
そりゃあソフィナは時間外労働に厳しいが、ワースは特にこだわりはない。……いや、ソフィナも立場上、法令違反に目を光らせていなければならないのだろうけれども。
「一緒に暮らしてんのに週明けの辞令で出向聞くのって、びっくりしねぇ?」
「……いや、まぁ、その……」
「まぁ俺も別に、機密とかは聞く気ねぇけど」
オーターは管理職だから、就業時間の取り決めもない程忙しいのはよく知っている。その割にはよく夕飯を一緒に取ってくれるなぁ、とは思っているけども。
オーターと同居し始めて1番の変化は、この夕飯である。だいたいワースの準備が終わる18:30〜19:00にかけて、オーターは必ず魔法魔力管理局から戻ってきて、食事をとって、必要であれば執務に戻るし、そうでなければワースと談笑して、少しリトルデビルと遊んでくれてから風呂に入り、眠る。心配になって確認したところ、いま魔法魔力管理局では試験的にシフト制を敷いているそうで、夕食後に執務に戻るのは夜番も入っている時だけなのだそうだ。しかし一度家に帰ってきてもう一回出勤するというのは大変なのではないか。必要なら夜飯くらい弁当にして届けるけど、近いし、とワースが提案したところ、「……今後の検討課題にします」と固い顔で言われた。一応いまのところ、一度も頼まれたことはない。「一度家に戻る」がオーターにとって重要な切り替えになっているのかもしれないし、ワースから特にいうこ言うことはない。
住まいが魔法魔力管理局に近くなって知ったことだが、オーターは局員から「無表情でお花飛ばしてる上司」と認識されているらしい。最初何を言っているのかさっぱり理解出来なかったが、最近とみに機嫌が良く、それがさながらふわふわと花が漏れているかの如き、なのだそうだ。ワースもオーターの顔をじいっと見てみたものの、ただオーターに「な、なんですか……」と困惑されただけだった。ちなみに時々、魔法魔力管理局の局員と思われる人物から拝まれたり、「末長くうちの局長と一緒に暮らしてね……!」と涙ながらに縋られる。……どういうことだ。たぶん何か、オーターに仕事を手伝ってもらったとか、そんな感じなのだろうけれども。レイン・エイムズが魔法道具管理局でフィン・エイムズの祭壇を作っていた例があるから、念のため同期の魔法魔力管理局の局員に確認したところ、「そんな便利なものはない」との回答を受けてホッと胸を撫で下ろしたところだ。ただ、他の局員の奇行について質問したところ頑なに「こちらにも黙秘の権利がある」との回答だったので、正直半信半疑だが。一応オーターに「職場でなんか変なことしてないか」と尋ねたがフツーに首を傾げられ、「魔法魔力管理局の職場見学でもしますか?」と心なしか嬉しげに聞き返されたので、丁重に断っておいた。こっちだってされたくないから行くべきではない。
オーターと、自分と、リトルデビル用にそれぞれのマグカップをコトリと置く。食後は、リトルデビルに合わせて皆はちみつ入りのホットミルクである。子供に供すると言えばこれであろう、というワースの偏見で出していたらいつの間にか定着していた。下手にカフェインを摂って夜眠れなくなるより良いので問題はないけれども。意外と、オーターは乗ってくれる。いや、食に関心がないともいう。出された物は素直に食べるし、不平不満も絶対言わない。強いて言えば若干、皿洗いの手際が悪いだけだ。
普段からリトルデビルへの指示だし訓練の一環として、皿洗いは彼にやらせている。魔導書の形を取らせている時はほぼワースの想像をリトルデビルは読み取るようだから言葉にならないものも念じればそれで済む。しかし人間の形を取らせている時は泥魔法を纏っている分、魔導書の時に比べ命令の伝達が悪い。言葉による指示とイメージの伝達を繰り返して双方が「指示を出す」という状況に慣れるための訓練だ。一応オーターもそういう理由でリトルデビルが家事をしていることを理解しているが、小さな子供が何くれと手伝っている姿を見ると何か触発されるらしい。正直、オーターは絶妙に不器用なので、一緒にやらせるとリトルデビルへの指示も複雑になるから良い訓練になるのだが、本人には言っていない。へこみそうだから。今日も小さなリトルデビルの手よりも数倍食器を取り落としそうなオーターの手つきを見張らせつつ、皿洗いを終わらせる。うん、割れた皿はゼロ。良い調子である。
「じゃ、来週からよろしく」
「はい。……おやすみ、なさい」
「おー、おやすみ」
「おやすみオーター」
夜の挨拶は、決まって部屋の前でする。どちらがそう決めた訳ではないけれど、オーターが家にいる時はいつもそうしていた。なんだかワースはいつも妙に気恥ずかしいのだけれど、悪い心地ではない。
(……オーターは、どう思ってんのかな)
この、微妙なバランスで成立している共同生活について。
ベッドの横のバスケットの中で物言わぬ書籍の形になっているリトルデビルを何の気なしに見ながら、ワースはぼんやりと考える。オーターも、この生活を気に入ってくれていると良いけども。
◆◇◆◇◆
オーターが予告した通り、週明けには知の神杖ソフィナ・ブリビアからの正式な辞令が来た。研究協力という名目のもと、通訳として交渉に参加する。その報告書と、その禁書使用実践について研究ノートか論文として機関誌にレポートを投稿すること。それがワースに下された職務である。勿論、通訳が出来ないで終わる可能性もある。それがどんな状況、相手であったかもしっかり書き残しておかねばならない。
そこからは怒涛の日々であった。
今回交渉する部族の商品から風習から洗い出し、交渉テーブルで出そうな単語は全て調べ直す。これまでの交渉の手紙は全て読み込み、交渉担当者と事務官と打ち合わせ、である。向こうの文化を網羅的に理解するのがなかなか骨で、ワースも自分の中で知っていたつもりになっていたことが意外と多いのに驚いた。リトルデビルは感情を読むタイプの禁書だが、交渉の場では言葉選びで無礼になっても困る。そんな妙に気負っているワースを見て、ソフィナは小さな子供を見るような瞳で笑っていた。
巨人族との交渉の場は、人間側の魔法界と巨人族側の針葉樹林の境目、鬱蒼と背の高い草が生える湿地帯で行うことになっていた。表立って敵対している訳ではないが、ごく一部の部族が外部と交易している為、他の部族との無用な軋轢を避ける配慮である。参加者はこの事案の担当者と文書を取りまとめる事務官、通訳のワースと全体を統括するオーターの4人である。交易交渉にしては些か人数が少ないのではないかとワースは思ったが、あまり人数を多くすると敵対行動とみなされる場合があるのだそうだ。向こうの文化では「10」を超える人数が申し合わせてひと所に集まると、挙兵の準備と考える文化があるという。なんだそりゃ、と思うがこれもまた異文化なので、仕方あるまい。
拠点となる最寄りの街までは箒で、その後は贈呈品や調印用の物品があるそうで、魔導車で湿地帯を走る。しかしそれも打ち合わせた場所まで直接乗りつけることは出来ないので、途中で車は止め、荷物はそのままワースの泥魔法に乗せて持って行く。10分ほど歩いた所だろうか。背の高い草地がぽっかりと不自然に空いている。そこが、会談の場所である。遠目にも特徴的な巨躯が見え、相手方が既に到着しているのが分かった。約束の時間の20分前。まずまずだろう。
「取り敢えず相手方に挨拶しましょう。ワース、準備は良いですね」
「は、はい」
早速の仕事にワースは軽く呼吸を整える。上手くできるだろうか。まぁ、ここまで来たら、自分の魔導書と準備を信じる他ない。思わず、リトルデビルと繋いだ手に力が入ってしまう。
「ぁ、」
小さく呟いたリトルデビルがその場に立ち止まった。くんと手を引かれた形になったワースはたたらを踏んだ。
「リトルデビル?」
振り返ると、困惑気味な表情のまま、リトルデビルは小さく首を左右に振った。彼がワースの行動に異を唱えることは、基本的にない。特に仕事の時であれば。それだけでもう、不穏なものを感じてワースは顔を顰めた。
「……ワース?どうかしましたか」
「あ、うん」
オーターの声につられるようにして、ワースはリトルデビルの手を引いた。しかし先ほどよりもぎゅっとワースの手を握る彼は、明確に首を左右に振った。気のせいでも見間違いでもない。はっきりとした拒絶であった。
「リトルデビル、」
この期に及んで、ワースが自らの禁書を疑うなどありえない。状態を確認しようと、ワースが腰を屈めようとしたその時、焦れたオーターが一歩踏み出す。ぴくりとそれに反応したリトルデビルの瞳が大きく見開かれた。
「行ったらダメ、…… ▇▇▇▇▓▓▓▓▇▇▇▇!」
「……っ!」
それは今までに感じたことのない不思議な感覚であった。頭の中にぼんやりと、書籍の形を取ったリトルデビルの像が浮かぶ。風もないのにばらばらと捲られるそれは、あるページで止まり、魔力が流れ出す。その脳内の映像とリンクする形でリトルデビルと繋いだ左手から、ワースの身体に魔力が通っていく。自分が魔法を使っているという感覚はない。けれど確かに、とんでもない速度で、とんでもない量のリトルデビルの魔力が身体の中を通過して行った。目眩を覚えるような力であるのに、ぴたりと繋いだ左手は、何か大きな柱にでもなったかのようにワースの身体を支える。破裂音で、ワースは我に返った。オーターとワース、そして他の職員を覆うようにしてドーム状の音魔法の盾が展開されていた。それを囲うように、武装した巨人族たちが、こちらを見下ろしていた。中に、槍が折れている者がいる。状況から考えてあの一撃を音魔法の盾が防いだのだろう。嘘だろ、とワースは呟いた。
(認識阻害魔法……いつの間に!?)
これだけの量の武装した巨人族にオーターが気が付かない筈がない。そしてそれだけ繊細な魔法操作を巨人族ができる筈がない。よく見ると首に魔法道具らしき揃いのペンダントを下げている。
(罠か……!)
思わずオーターを仰ぎ見る。既に杖を抜いている砂の神杖は、神経質そうに眼鏡の位置を直していた。
「フ─────」
重い、重いため息が辺りに響く。
それは取りも直さず、戦闘開始の合図であった。
***
ワースが泥の壁で守り、オーターが砂で穿つ。
けれどどこからともなく現れる巨人族が、砂の死角から攻撃してくる。状況は、かなりまずい。既にリトルデビルは書籍の形を取らせて手元に置いているが、それでも。
(……っち、)
厄介なのは、やはり認識阻害魔法の掛かった魔法道具だ。辛うじてリトルデビルは彼らの位置を掴んでいるが、その補助がなければワースは当然ながらオーターでさえ、あれだけ巨躯の巨人族の位置を把握しきれていない。加えて、事務官は完全に非戦闘員である。これを守りつつ神出鬼没の相手に対応するのは、きつい。
「マッドロス!」
ワースは気持ち固めの泥の壁を二重に立ち上げる。壁なんか出したら「ここにいる」とアピールしているようなものだが、その不利に目を瞑っても体勢を立て直す必要があった。
「オーター。……二手に分かれる必要があると思う」
「…………」
眼鏡の位置を直したオーターは、微かに息を漏らした。各面々の顔を順に見回す。
「そうですね。魔導車まで戻って街の拠点に行き、応援を呼ぶ者、この場で巨人族を足止めし、必要であれば捕縛する者としましょう。……この場は私が1人で請け負います」
「はぁ?」
思わず上擦った声が漏れる。交渉担当者がびくりと身体を揺らした。
「……俺はどうすんだよ」
「当然、後ろの2人と街に戻ってもらいます」
「この状況で、マジで言ってんのか」
交渉担当と言っても、魔法魔力管理局員だ。それなりに戦えるし、巨人族の気配は街方面にはないし、事務官を守って魔導車まで逃げ延びられるだろう。巨人族の足止めを、適切に行うことができれば、であるが。悪いが、巨人族への盾となる泥の壁を作り続けているのはワースである。そしてここは湿地だ。ワースの魔法と相性が良い。オーターの能力を今更疑う気もないが、湿り気の多い土は、扱いづらいだろう。加えて、
「……アンタ、アイツらの位置わかんねーだろ」
「…………」
あの認識阻害魔法の魔法道具がどこから出て来たのかは謎である。巨人族は元来あのような道具は使わない。けれど、性能は申し分ない。
非常に嫌な感じだ。
オーターは有名人だから、その砂魔法の特性もよく知られている。彼が他人の魔力に非常に敏感であることも。単純に襲撃用に準備されていたと考えても良いが、これだけオーターの魔力探知能力を抑え込んでいると思うと、オーターが狙いではないかと疑いたくもなる。ここまで不利と分かっている状況で、ひとり置いて行けるか。
襲撃者も、実に面倒臭い相手であった。仮面の紋様で判別は出来ないが、当初予想されていたように、交渉決裂した別部族の襲撃の可能性はあった。すると、事前に警告して来た巨人族の長老に、なるべくならば無傷で、捕らえた彼らを突き出さなければならない。
逃せばシラを切られる。下手に手傷を負わせ過ぎると賠償を求められる可能性がある。それが元々交渉予定だった相手かどうか、現時点では確認できないのだ。可能な限り有利に、襲ってきた部族から賠償を引き出すのに、オーター単体の戦闘はやはり不適格であった。
「足止めも、捕縛も、俺の泥魔法の方が適性がある」
「……貴方は禁書管理局から借りた人材です。予定外の戦闘には参加させられない」
「んなこと言ってる場合じゃねぇだろ」
「場合です。局間の問題ですから」
「おいおいおいおい、アンタらしくねぇんじゃねぇの?」
外側の泥の壁に攻撃を加えられている気配がする。緊迫した状況なのは、オーターも分かっているだろう。ふぅ、とワースは息を漏らす。
「……襲撃者、何人いるか分かってるか」
「6」
「8人だよ、ばぁか」
リトルデビルの探知能力を超える魔法道具や距離で動いている者がいない、という前提にはなるが。オーターは眉を顰めてむっつりと黙り込んだ。
「……アンタ、俺らに耳と口を貸せ、ってことで依頼したんだろう。そこに目を追加したって大して変わりゃしねぇと思うけど?」
「フ────……」
「凄んだって状況は変わんねぇよ」
じっと、眼鏡の奥の瞳を見る。
「合理的に行こうぜ、魔法魔力管理局局長サマ。足止めにせよ捕縛にせよ、この場には俺が必要だ。……だろ?」
「…………、…………仕方が、ありませんね」
勝った、と思った。……いやあんな物騒な顔をしている奴と面と向かってこんな交渉するのはもう二度とやりたくないが。
オーターが逃す2人に段取りを指示している。その隙にワースは手元の魔導書に話しかけた。
「……リトルデビル、さっきのアレはなんだ」
魔導書の姿を取っているリトルデビルは、困惑で以って応えた。困惑しているのはワースの方だ。禁書が術者側に魔力を通して記述を使わせるなどと、そんな事例は聞いたことがない。調べてないからはっきりとは言えないが。
ワースの感情を読み取って、即座に情報が送り出される。リトルデビルの序文に書かれた文章の拡大解釈を行うと音魔法になるのだという。大抵の禁書は同じような記述があるから、それを音魔法と解釈して使う。基本は互いの意思疎通のためだ。しかし強力な波動であるのは間違いないので、防御や攻撃にも使える。……なんてこった。人間の姿では一向に要領を得ない説明だった禁書間の音魔法の原理がこんなに簡単に。おい、リトルデビル、わざと分かりにくいように説明していただろ、と言うと、隠れるようにリトルデビルの意識が小さく、小さくなる。ともあれ今回は手を繋いでいたこともあって、ワースの身体に音魔法の回路を通して魔導書を「使わせた」。感覚としては、遠く洞窟の底にいた頃にワースの元へ声を通していたのと同じだ。繋がりがあればそこから逆流してセコンズに自分の似姿を届けることだって出来る。一刻を争うような状況であったし、それが1番早くて確実だったから。……だから、その、ええっと。
ワースの頭の中にそうっと像を結ぼうとするような説明に、若干頭を抱えた。助かったのは分かっているし、怒る気はない、一応。しかし。
(先に教えておいてくんねぇかなぁ!)
ぴゃっ、と手の中の魔導書が跳ねた気がした。流石にちょっと、無茶をしたのは自覚済みらしい。
ぱらりと表紙を捲り、序文のページで手を止める。撫でるように記述を確認すると、なるほど確かに、音を比喩的に表現したような記載があった。ここを拡大解釈すると、あのドーム状の盾になるのか。……いやあの盾は魔導書の作ったイメージに過ぎないか。最速で術者たち守るもの、と魔導書が思い浮かべた形だろう。確かに発動速度はかのマーガレット・マカロンを思い出すほどだった。ワースには逆立ちしたって無理だ。
(いや、分かったけど、マジで助かったけど、先に言おうな!戦闘訓練してるんだからな!)
固いハードカバーのまま、魔導書はしおっと項垂れる。ソフィナに付けてもらっている戦闘訓練は、今のところ魔力の受け渡しや魔導書を持ったままの身体運びの練習が主だ。それでも魔導書との回路を常に繋ぎつつ戦況をみて命令を下して自分の動きと連動させるのはだいぶ頭を使う。杖だけで戦うのとは勝手が違うので随分と為にはなっている。なっているが、リトルデビルだってあの時間内に「こんなことも出来る」とワースに伝えることだって出来ただろう。……恐らくコレは、「ワースでは扱いきれない」とリトルデビルが判断した記述だ。小さな落胆が胸の中を広がる。まったく、不甲斐ない。自分の魔導書に気を遣わせているだなんて。リトルデビルが言うように、ワースはまだ禁書を扱えるほどの力がないのだろう。それは良い。ただ、緊急時に自分の魔導書が何を出来るのか、知っているのと知らないのとでは動き方も変わってくる。
(……この魔法、オレも使えるか)
やや沈黙があって、戻った答えはイエス、だった。だろうな、と思う。他の近くにいた者たちがどうだったかは知らないが、ワースにはリトルデビルの口から漏れた音がしっかりと聞こえていた。それが意味する呪文も、確かに。いま魔導書を見ても、その呪文が「読める」。通常の記述の上に、浮かび上がるように。ソフィナも言っていた。論理で扱う禁書と違って、取り憑かれるタイプの「禁書使い」はある日突然禁書の記述が見えるようになる。それが何を示すのか未だに分かってはいないが、ともかくワースもやはりそのタイプの使い手らしい。思ったよりも感慨はなかった。禁書の呪文を読めようが読めまいが、ワースが「禁書使い」であることに変わりはない。ふむ、と自分の心の動きに納得をしてワースは魔導書を撫でてやる。迷うようにリトルデビルが補足する。でもたぶん、ワースにはまだ「重い」とおもう、と。
(「重い」?)
リトルデビルから戻った回答を精査するより早く、周囲の気配が変わる。ゆっくりとお喋りしている暇はないらしい。
先に逃がす2人を走らせ、オーターが泥の壁面に身体を寄せて隙なく杖を構える。ちらりと横目でこちらを見た。その顔にはありありと「不本意」と書いてあった。
「……私が前に出ますから、貴方は後ろで控えているように」
「んな訳にもいかねぇだろ」
「……分かって下さい。通訳として借りている貴方に、怪我を負わせる訳にはいかない」
「…………」
まぁ、それはそうだろうな、と思う。結構な無理をしてねじ込んでくれた割には、交渉相手と思しき巨人族はおらず、奇襲を掛けられ、しかも難しい形での制圧を迫られ、さぞかし頭が痛いことだろう。状況を難しくする要因のひとつが自分であると思うと、まったく申し訳ない限りである。……とはいえ、そんなこと言っていられる状況じゃない。
「……さっきも言ったろ。足止めは俺の方が適任だ」
「では貴方は後衛で。この壁から外に出ないように」
「それじゃ後方支援もなにもないだろ」
さながらレーダーのように多少の障害物があっても魔力の流れを感知しているリトルデビルと違って、ワースは普通に相手を視認する。泥魔法を使うにせよ、相手の位置や距離感を適切に認識できなければ、当てることは出来ない。
「見つけた巨人族を片っ端から泥の沼に落とす。這い上がれない位置まで落としてから泥を固めれば、制圧完了だ」
「…………」
簡単そうに言い切って見せたが、言うほど楽な話でもない。相手は平均5m級の体長を誇る種族だ。泥で動きを制限するのはそう難しくないが、少なくとも下半身まで泥の中に落とすとなると、かなりの深さと面積を要する。これを8体分。リトルデビルの補助を受けていてもワースの魔力回路が保つか分からない。また最初の数人はなんとかなるが、こちらが「落とし穴」を使うと掴まれれば対応される。出来れば、ひとりも取り逃がしたくない。
オーターは神経質そうに眼鏡の位置を直し、大きくため息をついた。
「……先ほどの言葉は、魔法魔力管理局局長としての建前ですが、私個人としても貴方に危険な行動をして欲しくない」
「………!」
「なので、その、……後ろに下がっていて欲しいのは、お願い、です」
うぐ、とワースは言葉に詰まった。変なところで情に訴えかけてくるな。
気まずくなって、ワースはバリバリと頭を掻く。気にしてくれるのは、その、ありがたいし嬉しいが、この状況で正しい判断とも思わない。しかし不釣り合いにも、胸がドキドキと高鳴る。
「……アンタさぁ、この状況でさぁ……」
「残ってくれているのは、正直助かります。貴方の壁がなければここまで悠長に話していられない」
「……あーくそっ、分かった!けど壁の中には籠もらねぇしチャンスがあれば泥に沈めるぜ」
「妥協しましょう。……私は絞め技で仕留めますから、援護を」
破裂音が響いて、ワースの1枚目の泥の壁が破られた気配がする。……まったく、そう簡単に破れるような強度で作っていないのに。確かに巨人族が8人も集まったらちょっとした挙兵準備と受け取られるのは仕方がないかも知れない。ワースは開きっぱなしの魔導書に手を置いた。
「リトルデビル、基本は足止めと拘束、隙があれば戦闘不能にする。……いけるな?」
いつも通りの声にならない元気な声が戻ってくるのを確認し、ワースは大きく頷いた。
***
ワースにとっては予想外なことに、巨人族たちはそれほど統制が取れていなかった。8人もいて、用意周到にも認識阻害魔法の魔法道具を準備してきた割には陣形はゆるく、奇襲ものろい。
(……ま、フツーにやりゃぁ危なかったけど!)
背の高い湿地の草は、巨人族たちの姿も隠している。それで気が緩んだのだろう。残念ながらリトルデビルの索敵に障害物はほぼ関係ない。ワースは泥人形でそれっぽい囮を準備して、通り道に泥の沼を準備しておくだけで良かった。人数が多い分神経を使うが、これくらいならなんとかする。泥の壁を大回りしてこちらへ向かってきた巨人族5人は、既に泥の中に沈めた。そこら辺で首だけ出した状態で藻掻いている。無駄な足掻きなので、そこに神経を割く必要はない。
「……っんの、マッドロス!」
問題は、オーターと戦っている巨人族だった。オーターを挟み撃ちにする形で2人。そこから少し離れた茂みに1人。茂みの中の1人はちっとも動かないから何か狙いがあるのか単に怖じ気づいて動けないだけなのか判断が付かない。一応いつ動き出しても良いように警戒だけはしているが。しかし少なくともオーターと相対する2人は士気も高ければそれなりに動ける。ワースが隙を見て足下を泥にして崩したり泥の礫をぶつけたりしてみるが、まったく怯む様子もない。オーターのアイコンタクトでなんとか泥で足場を作ってみたり壁を作って防御してみたりしているが、こっちは連携を取って戦うのはこれが初めてで、ぶっつけ本番である。オーターの動きを阻害するほど悪い連携をしているつもりはないが、かといって決定的な隙も生み出せない。どうしよう。ここに加勢するより動かない1人を狙うか。それとも片方をワースが引き受けるか。……前出るなって言われているとなると茂みの1人の方か。最短距離は今まさにオーターと巨人族2人が交戦中であるから、下手に近付くのはまずいだろう。しかし迂回すればなんとか。ワースに後衛を任せる辺り、あまりオーターの側を離れるのも敵に近付くのも嫌がられそうだが、そうも言っていられまい。応援が来るまでこのまま粘り続けるのもありと言えばありだが……。
「フ────」
オーターのため息に、味方のはずのワースもビク付く。眼鏡の位置を直しながらチラリとこちらを見た。その瞳に。
連携を練習した覚えはないから当然何らかの丁符はない。けれど何故だろう。オーターがどんな泥魔法を求めているのか分かった。考えることは放棄してとにかく頭にあるイメージ通りに魔力を練る。
「マッドロス!」
オーターの足元、湿地の地面から、オーター1人分の泥が彼を押し上げながら隆起する。巨人族の頭を越したくらいの瞬間、ワースは泥の制御を手放した。
「サンズ」
オーターが唱えた瞬間、ワースが作り上げた泥の柱は全て砂粒に変わった。湿地でいちから砂を取り出すよりも、泥魔法を砂魔法に塗り替えた方が早い。それはそのまま砂の神杖の盾であり鉾だ。
オーターの背後にいた巨人族の首に、砂がぐるりと巻き付く。前方の巨人族は見て取れるほど狼狽した。
「……これで、チェックメイトです」
残骸となった泥の足場を踏みながら、オーターが杖を振り下ろす。
……瞬間、リトルデビルが何者かの動く気配を感知した。
ハッとしてワースはそこに視線をやる。つい一瞬前まで茂みで動かなかった巨人族の気配が迫っている。どこだ?魔導書が指し示す位置に、ワースは奥歯を噛んだ。
(ここで動くのかよ……!)
怖気付いていたのか、という予想は誤っていたと言わざるを得ない。狙っていたのだ、初めから。目の前の相手を倒さんとして、オーターの攻撃が、そしてワースの意識が他へズレるその瞬間を。初めの5人は動きも悪かったし、この襲撃を本気で行っていなかっただろう。オーターと相対した2人は本気で神覚者をどうにかする気だっただろう。……そして残っていた最後の1人は、最初から味方を犠牲にして砂の神杖を倒す気だっただろう。今まさに砂に襲われかけている味方を囮にして。首を絞められている味方の身体を盾にして。長い槍が、地を滑るように振り上げられる。
「……ッ」
喉に何か詰まったように声は出なかった。その間にも鋭い槍がオーターに迫る。あれは完全に死角だ、気配云々以前にオーターに気付きようがない。
この距離ではワースの泥魔法では遅過ぎる。盾を作るのもオーターを退避させるのも。思わずワースは声の限りに絶叫した。
「▇▇▇▇▓▓▓▓▇▇▇▇ッ!」
カッと身体が熱をもつ。それは明らかに魔導書からの魔力であった。それをそのまま放つ。借り物の魔力はワースが想像した通り半円状のアーチを描いてオーターの背後を守った。文字通りの音速で。刃が割れた音か、音波が空気を切り裂いた音か。何かに反応して振り向いたオーターは、眼前に迫っていた槍とそれを防いだ盾に驚愕しつつも奇襲者を砂の一撃で倒した。さすがの砂の神覚者である。ほ、と息を吐く間もなく、ぐらりと身体が揺れた。
「……っ、」
血相を変えたオーターがこちらへ走り寄ってくるのが見える。耳鳴りがひどくて、なんと言っているのか聞こえない。けれどその姿を視界には留めて置けず、ワースはその場に崩れ落ちた。身体中が熱く、不随意に痙攣までする。妙に息が苦しいとえずいたら、喉が焼け付くように痛んだ。混乱した頭はその症状に相応しい病名を即座に弾き出す。
(……魔力暴発………っ…)
まだ魔力操作に覚束ない子供が起こしやすい現象だ。体内の魔力がなんらかの原因で放出先を失い、魔力回路の中で熱暴走を起こす。耳鳴り、眩暈、熱痙攣、嘔吐などはその代表的な症状である。大抵は外部刺激で魔力を外に逃がしてやれば治るはずだが、いまワースの体内で暴れ回っているのは魔導書から得た魔力である。通常通りの治療が効くか。ふわりと近付いてきた魔導書に震える手を乗せて魔力を循環させると、すーっと身体の熱が引いていく。けれど頭がガンガンと締め付けられるようで、どこもかしこも痛くて動けそうにはない。幼少期のワースが魔力暴発を起こすことはなかった。貴族らしく制御が上手いとたびたび誉められていたが何のことはない、幼い頃から魔導書とパスが繋がっていたため、魔力暴発を起こせるほど体内に魔力がなかったのだろう。だからこうして熱痙攣すら起こす状況など非常に珍しくて、本当にこういう風になるんだなぁとワースはぼんやりとした感想を抱いた。まだ碌に聞こえもしない耳のまま、げほげほと咳を繰り返す。
オーターが何かを叫んでいる。肩に何か乗っている気はするが、揺すられているのか痙攣しているのか、正直なところワースには判別が付かなかった。
(……後を、たの、む、)
自分の魔導書の名前を呼ぶ余裕もなく、ワースの視界は暗転する。意識が落ちる瞬間に、魔導書からの返答を感じて、ほ、とひとつため息だけ落として。
◆◇◆◇◆
やばい。
それはもう、そのひと言だった。
局長が今回の案件の通訳に実弟くんを伴うという。あーこれは局長始終機嫌良いやつ。やった俺様勝ち組、……と思った瞬間が俺にもありました。
警戒は、怠っていなかったと思う。
……後になってみりゃそれは、「思う」ばかりで意味のない評価だったけど。
支援要請をして現場に戻って、倒れ伏している実弟くんと局長を見た時の、俺の絶望が分かるだろうか。
始末書なんかいくらでも書くから、早く目を覚ましてくれ。
神様が宿っているという自らの杖に、俺はただ祈った。
◆◇◆◇◆
魔法局の管轄する病院にしては珍しく、神覚者と巨人族が戦闘行為を行ったというのに、非常に静かであった。オーターは病院の中庭のベンチでそよ風に吹かれながらぼんやりと座っている。当然、オーターに怪我はない。余りにも平和だ。平和すぎる。……自分の周囲、5mくらいの小さな範囲は。伝言ウサギが震え、ようやく待ち望んだ人からの返事が戻ってきたと知る。慌ててその電話を取った。
「ソフィナ、」
──オーターですか?連絡遅れてすみませんでした。……貴方、大丈夫ですか。
「……私の方はなんともありません」
むしろ、なんともない、から問題なのである。それがオーターには大きなショックだった。
巨人族たちは、確かに非常に戦いにくい相手であったが、8名中先に5名をワースが戦闘不能にしてくれたので、オーターは目の前の者たちに集中すれば良かったので気持ちの上では楽だった。勿論、最後の1名を忘れていたつもりはなかったが、その奇襲を防いだのは結局ワースだった。その結果、ワースは倒れた。後衛ならば危険はないだろうと判断したのに。
「……すみませんでした」
──貴方が謝る必要はないです。それで、医者はなんて?
「…………魔力暴発だろう、と」
──……なるほど。
魔力暴発は魔力が成長する幼少期にしか起こらないような魔力制御不全症候群の一種だ。勿論大抵は一過性で、普通、筋肉痛のような症状がしばらく残る程度で後遺症はない。……しかしワースは既に成人している。そしてこれを引き起こしたのは禁書の持つ魔力だ。量、質ともに普通とは桁外れである上、他人の魔力である。医師からは「なんとも言えない」との回答であった。禁書による症状を診た経験がないからだ。既にワースが意識を失ってから丸1日経っている。設備が整った魔法局近くの病院へ運ぶべきか、動かすのはむしろ危ないか、オーターは図りかねていた。
──リトルデビルくんはなんて?
「そのうち目を覚ますから、ちょっと待ってて、と」
──そうですか。
その言葉は、どの程度信用が出来るのだろう。
勿論、今のこの状況は彼のせいではない。せいではないが、明らかに「禁書」が引き起こした状況である。それに、「そのうち」とはどの程度の時間を指しているのか。共に暮らしてみて、比較的あの禁書は人間と同じ時間感覚を持っていることは分かったが、それはあくまで術者であるワースと共にいたからである。「禁書」単体として、その「ちょっと」は「ちょっと」で済まない可能性がある。……ワースが目を覚まさなかったら、どうしたら良い。
──……大丈夫ですよ、オーター。
「…………」
──禁書使いには、このような事例は意外とあります。大丈夫です。
むしろ、とソフィナは気持ち柔らかい声で続けた。
──貴方は、大丈夫ですか。眠れていますか。
「………」
──病室に看病人用のベッドが置けるはずなので借りなさい。
「…………」
──ワースくんが目を覚ます前に、貴方が倒れてしまいますよ。
逆に倒れてしまえるならばどれだけ楽だろうか。意識を失ってしまえば、余計なことを考える余地もない。だが残念ながらオーターの職務はそれを許さなかった。部下達に指示を出し、捉えた巨人族たちを捕縛、既に魔法局へ護送し拘束した。専門家を招いて仮面の紋様を解析し、本来交渉予定だった部族と破談になった部族双方に照会をしている。予想通り警告をくれた長老の方からは「襲撃者の仮面を確認したい」と連絡が戻り、いま紋様の書き取りをさせているところである。交渉予定の部族もどこからか襲撃を受け、約束の場所には辿り着けなかったらしい。故に「うちではないが、」と断りを入れた上で見舞いの品が来ていて、これの返礼と再度の日程調整でかなり忙しくしている。ただ交渉担当者が「局長はここにいて下さい」というので、専ら電話のやり取りだけでぼんやりしているばかりである。
はぁ、とオーターは電話口に聞こえてしまうほどのため息をついた。
「……あの子の病室には、禁書がいます」
──…………
「いま、アレと顔を合わせたくはない」
理性は、きちんと理解している。
けれどいざ目の前に禁書が現れて、無用な怒りをぶつけない自信はない。
──……わかりました。私も明日にはそちらに着きますので。到着するまでには必ず仮眠をとっておいて下さい。
まるで子供に対する注意のようだ、とオーターは思った。それだけこの同僚は自分を案じてくれているのだろう。しかし迷うように口籠ったソフィナは、一応伝えておきますが、と前置きをしてから、ゆっくりとその先を口にする。
──ただ、もしも先にワースくんの状態を確認したいのならば、リトルデビルくんに聞いて下さい。彼が1番、正確です。
「…………わかりました」
定型の挨拶のような言葉を交わして電話を切って、オーターは大きなため息と共に頭を抱えた。
医者よりも、ワースの今の状況を禁書の方が掴んでいる。それはそうだろう。しばし逡巡してオーターは立ち上がる。明日になればソフィナが来て、必要ならば禁書との仲立ちをしてくれるだろう。だが、知らないまま待つのと、禁書と話すのとでは、待っている方が嫌だった。またぼんやりと過ごして、大切なものを取りこぼすのは耐えられない。
不釣り合いなほど、穏やかで静かな風がオーターの頬を撫でる。まるで、世界に不幸な出来事など何も起きていないかのようなその空気に、湧き上がる苛立ちを留めるのは難しかった。
***
横にスライドするドアを引くと、ワースのベッドの横にちょこんと座る禁書が、キョトンと瞳を丸くさせた。その正面には、1人分の形に盛り上がったベッドがある。相変わらずワースは眠ったままのようだった。
「……ワースは、どうですか」
俯いて眼鏡の位置を直しながらポツリと声を掛ける。子供っぽく振る舞うワースの似姿を眺めていられるほどの心の余裕はなかった。こちらの気持ちを知ってか知らずか、禁書はおずおずと返答する。
「だいじょうぶ、だよ」
「大丈夫?」
自分の声に剣呑とした音が混じるのを自覚する。その音は言外に「まだ目が醒めていないのに?」と響いていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返す禁書は、小首を傾げて言葉を繋ぐ。
「ちょっと、身体がびっくりしちゃっただけ。魔力は循環してるから、だいじょぶ」
ならば何故、目醒めない。
いつになったら目を覚ます。
ぶわりと腹の奥から炎のような感情が溢れ出す。
恐らく、真正面から聞けばきっと、禁書は答えただろう。共同生活をしてきて、ワースの禁書「リトルデビル」は、意外にもオーターには親切であるということは既に知っている。彼が、禁書にしては非常に穏やかであることも。しかし、それでも。
「お前が……」
唇が震えた。
「お前が居るからワースは無茶をする……!」
自分でも自覚ができるくらい、それは無意味な八つ当たりだった。禁書に宿る魔法を使うと決めたのはワースだ。身に余る力の代償を彼は払ったに過ぎない。しかもそれも、子供が起こすような「ただの」魔力暴発であるので、むしろ代償としては軽い方だ。それでも。
それでもオーターは、真っ白いベッドでこんな風に横たわるワースなど、見たくなかったのだ。
もう二度と。
角を持つ小さな身体が俯いて、ぎゅうっと手を握りしめる。その姿はまるきり、子供の頃のワースだ。ぶるぶると震える肩は可哀想なくらいだった。じわりと滲む罪悪感にオーターは目を逸らす。やはり、ここに来るべきではなかった。彼は自立的な意思を持ち、一方でワースと不可視の繋がりを持つ。意識のないワースにもオーターの声が響いてしまっているかもしれない。これ以上ここにいては、更に無意味な八つ当たりをぶつけてしまいそうだった。思わずオーターは、後退りする。
「……ぃ、もん」
「なんだ?」
声が小さ過ぎて聞き取れない。ただでさえ小さな禁書は、棘のあるオーターの声にびくりと小さな身体を跳ねさせた。痙攣するように息を吸い、ぱっと上げた顔には涙が浮かんでいた。そのワースと同じ顔に、オーターは怯む。
「……ぃぁってないもん、ワースただしかったもん!」
「…………」
「あなたが……オーターがっ!そんなこと言わないで!」
言うが早いか、わぁあん、と禁書は泣き始めた。外聞もなく、臆面もなく、ただとにかく声を張り上げて。目の前の情景にオーターは狼狽えた。なんせ、頭では禁書であると理解していても、ワースと瓜二つの顔をしている。そもそも泣いている子供を宥める術などオーターは知らない。何より、目の前でわあわあと自分よりも取り乱して泣かれると、少しばかり頭が冷静になってくる。そうだ、この禁書も、自分の術者が倒れ伏していて、全く何も感じていないはずがない。……そんな事さえ自分はちっとも考えが及んでいなかった。
ワースの行動は、本人が倒れてしまったことを除けば、たしかに「ただしい」振る舞いではあった。
ワースが防いだ攻撃はオーターの認識の外であったし、あの場で攻撃を受けていたらきっと、今のように彼らを鎮圧するのは難しかっただろう。ワースは問題解決のための最善手を選んだと言える。泥魔法では間に合わない、禁書に命じては一歩出遅れる。であれば直接ワースが禁書を読んで魔法を使うしかない。最速の音魔法で。あの一瞬で、そこまで状況を読んで、きちんと実行したのだ。ワースと禁書が成功した結果として、オーターは無傷でここにいる。……それがどうしても、もどかしい。
オーターはすこし迷って、しかし逡巡を飲み込み、ベッドを挟んで反対側の禁書の元へ、そっと近付いた。そしてその場に膝をつく。ちょうど、禁書の目線と同じくらいである。オーターは、ごしごし顔を擦りながら泣きじゃくる小さなつむじを前に、口をぱくぱくと開き、しかし何も言うことができなかった。だいたい、彼をなんて呼べば良い。……いや知っている。ワースが所有する禁書「リトルデビル」である。最悪なことにこの禁書の全貌は未だ解明できてはおらず、ワースが行使する禁書の力が安全かどうかすらわからない。今回行使した音魔法にしたって、本来の禁書に記述された魔法ではない。他の魔導書や遠方の術者とのパスを通す為の、いわば生活魔法のようなものだ。禁書にとっては誰でも使えて然るべき魔法を使わせて術者を昏倒させているのだから、禁書本来の魔法を使ったらどうなることか。そんな危険なもの、本当であればあの子の近くに置いてなどいたくはない。けれど年相応の幼子のように泣きじゃくる禁書はやはりどこか、胸の奥の何かを揺さぶる。
「……っカナ、……ひっく、カナリヤはっ!……ちゃんと、……ぅっうっ……がんばったもんんん……っ!」
「……あまり擦るな。赤くなる」
「うぇええええん……っ」
「カナリヤ」とはワースのことだっただろうか。ソフィナとワースから上がる禁書のレポートは全て目を通している。未だになぜ禁書がワースを「カナリヤ」と呼ぶのかは分かっていない。けれども、そこに込められた愛着は本物であるのだろう。不器用に息をしながら肩を揺らす禁書が流す涙は、作り物の肉体にしては綺麗過ぎた。摩擦で少し赤くなった頬に、そっとオーターは指を添える。びっくりしたように瞳を丸くさせた禁書はしゃっくりを上げながらオーターを見上げる。
「……そうだな、すまない。ワースはよくやっている」
「……ひっく……」
子供らしい大きな瞳からぽろりと一筋涙が溢れた。それを、そうっとオーターは拭う。いま目の前にいる禁書の肉体は所詮泥魔法によるものだから、再構築すればこの涙の跡だって消えてしまうのだろう。
ワースは、きちんと勤めを果たした。果たせていなかったのはオーターの方だ。戦闘力を買われてこの仕事についているのに、守られてしまったこの体たらく。涙を流して後悔するべきはオーターだろう。
「……て、」
「うん?」
「ワースに!ちゃんと、そう言って!」
「……ああ、そうだな」
ぽすぽすと禁書を撫でると、涙が止まった。じいっとこちらを見つめる瞳はまだ濡れたままだが、妙にしっかりとしている。そして両手をこちらへ広げた。なんのポーズか分からずにオーターは首を傾げた。何度か、ワースといる時に見たことはあるのだが。
「ん」
「……いや、私は」
「ん!」
「…………」
両手を差し出したまま、禁書は繰り返す。がら空きの脇はそこに手を突っ込め、と言うことらしい。まるで本物の子供のように抱っこをせがむその姿は、オーターの記憶には一切ない小さな弟の姿だ。オーターは少し迷って、しかしそうっと脇の下に自分の手を入れて小さな身体を持ち上げる。タイミングを合わせて伸び上がっているのだろう、思ったよりも抵抗なく持ち上がった禁書はにこにこしながらオーターの首に自身の腕を絡めた。
「…………」
良いのだろうか。
未だにワースが定めた禁書の名前を呼んでやることも出来ず、八つ当たりをするような人間にそんなに簡単に身を預けて。無論、見た目通りの中身でないことは知っているが、それでも。
「ワース夜には起きるから、そしたらいっしょにほめて」
「夜、ですか?」
「うん」
言うなり、禁書はぐりぐりとその頭をオーターの胸に押し付ける。
禁書が言うのだからきっとそうなのだろう。涙に絆されたと言えば余りにも陳腐だが、そう、信じてみたくなった。そうっと手を伸ばし、その小さな頭に触れる。ひと撫ですると、不思議そうにこちらを見上げて来る翠の瞳とかち合った。
「……すまない」
「……?」
「お前に、八つ当たりをしました」
もう一度、頭を撫でる。今度はついでにねじくれた角も。
思っていたよりもゴツゴツとした感触のその角は、彼が人ならざる者だとありありと伝えて来る。きっと意識が発生してから今まで、「生きている」と評せる年月もオーターよりずっと長いだろう。それでも。……それでも、不思議そうにこちらを見詰めるその瞳は、小さな子供のようだった。自らの罪悪感から逃れる為にも、オーターは努めて優しく、頭を撫でる。
「……お前は、ワースの大切な禁書です」
「…………」
素直に頭を撫でられ続けている禁書は、くふ、と小さく笑った。その頬に伸びる涙の痕は、もうほんの少し赤いばかりで流れてはいない。へにゃりと顔を崩した禁書はしかし、内緒話をするように口元に手を添えた。
「でもね、でもね、ワースも悪いのよ。ぼく、ちゃんと、ワースが使うにはまだ「重い」とおもうってつたえたのに」
「……?「重い」?」
「うん」
こっくりと、深く禁書は頷く。
何か、意味のある言葉なのだろう。「こまっちゃうよねぇ、」と禁書はフンスフンスと鼻息を荒くする。
「だからね、あのね、ワースが起きたら、一緒に「めっ」って、叱ってね」
眉を吊り上げた禁書の顔は、こっそり洗濯機や掃除機をいじろうとしたオーターを見るワースの顔によく似ていた。他愛のない生活風景を思い出して、オーターの頬も弛む。
「……分かりました。一緒に、叱ってやらねばなりませんね」
膝の上に禁書を乗せたまま、そっとワースの額に手を伸ばす。撫で付けたその額はあたたかかった。きゅっと唇を噛み締める。このままで、良いはずがなかった。どうにかしなければならない。そっと瞳を閉じる。オーターはそのままじっくりと、思考の海に沈んでいった。
◆◇◆◇◆
カツカツと鳴る自分の靴音が石造りの廊下に響く。書類にある部屋まで辿り着くと、一応ノックをしてドアを開いた。
「どうですか、状況は」
こちらへ振り向いた部下達の顔色で大体のことを察してため息をついた。まったく。
「……やってくれますね、リトルデビルくんは」
留置所には、拘束された巨人族たちの悲鳴が響き渡っていた。
確たる証拠はない。
けれど、状況から考えて、術者を襲われた禁書からの報復だろう。なんせ、錯乱状態に差がある。オーターへ奇襲を仕掛けたという1人が特に幻覚がひどく、次いでオーターと戦った2人が正気の時と、錯乱している時と、幅がある。まるで遠方から、思い出したように圧を与えているかのように。お陰様で症状の出ていない他の5人が怯えて面白いように喋る。……しかし基本的には拷問による証言は採用されないので、これがそのまま使えるかどうか……。
「魔法局ではもう、拷問の類いはやっていないって、ワースくんにちゃんと講義しないと」
言いながら連れてきた禁書を開く。結界を敷かないことには、聞き取りも取り調べもまるで進まないのだ。しかしそれでも、どこまで保つかどうか。……ワースくんの目が醒めれば、辞めさせられるでしょうけれど。
「……まったく、困った子たちですね」
そう言って、私は禁書を閉じた。
◆◇◆◇◆
ふわりと、意識が浮上する。
重たい目蓋をゆっくりと開くと、人工的な灯りと、病室らしきクリーム色の壁紙が見えた。ぎしりと身体が軋むような感覚がある。魔力暴発の後遺症だろう。だいたい筋肉痛と同じで、放っておけば3日で治る。
いま夜であるとは分かるが、あの後どうなった。いや、自分が呑気に病室で眠っていられると言う事は、それなりに片が付いたのだろうし、魔導書がワースの「任せる」を無視するはずもない。
「……っ」
身体を起こそうとして、失敗する。
そもそも利き腕が動かない。よくよく見れば、誰かが、握ると呼ぶには曖昧過ぎる力加減でワースの手に触れていた。
「……っワース」
「うぉ、……オーター」
枕元にいたのは、やはりと言うべきか、オーターであった。眼鏡の奥の瞳が安堵を写している。さすがのワースもこの年で魔力を暴発させるとは思わなかったが、禁書を発動させる以上、その可能性を踏まえて動くべきだったかもしれない。上から下までまじまじと見遣る。
「……なにしてんだ、リトルデビル……」
コアラのように、自分の禁書がぴったりとオーターの腹に腕を回して膝の上に座っていた。オーターがいつものアースカラーのスリーピース姿であるから、より樹木に引っ付くコアラのようである。こよりか?こよりが必要か?
「な、懐かれました……」
困ったようにリトルデビルの頭を支えているオーターはややげっそりとしている。一体いつから引っ付かれていたのか。見た目ほど体重がないが、如何せん体積は普通の子供と同じだ。四六時中膝の上というのも邪魔だっただろう。ゆっくりとワースは身を起こす。その背中をオーターが支えている間も、リトルデビルは腹にくっ付いたままであった。ワースはふっと笑ってその頬に手を伸ばす。予想通り、わざと空気を含んでぷっくりと膨らませていた。
「拗ねんなよ、リトルデビル」
「うぅ〜〜〜」
見れば目元も少し赤くなっていた。たぶん泣いたのだろう。小癪な魔導書は、肉体を再構築し直せば当たり前のように消えるその些細な痕をわざと残していた。間違いなくワースの罪悪感を刺激する為だろう。撫でる指先を目元にやれば首をすくめて身を捩る。悪いとは思っていても反省していないワースの心が分かっているのだろう。オーターの腹に額をぐりぐりと押し当てた。
「……お前は、良くやったよ。暴発しちまったのは、俺が慣れてなかっただけ」
初めてまともに「禁書」を読んだ。彼らにとっては生活魔法のような魔法であれだけの魔力の奔流があるとは、ちょっとワースの見込みが甘かった。けれどその後の対応としては、悪くはなかったのではないか。暴発した魔力は元々魔導書のものだ。触れて魔力を循環させられたお陰で筋肉痛程度で済んだ。だからもしまた魔導書を読もうとするなら、初めから魔力を循環させるつもりで動けば良い。まだまだ禁書を使う戦闘にも改良の余地がある。
「お陰で、全員無事で帰ってきた。……だろ?」
オーターの腹に額を押し付けたまま、リトルデビルが視線だけこちらへ寄越す。言葉と共にワースの気持ちも伝わっているのだろう。今度は素直に頭を撫でられていた。倒れてしまったのは痛恨の極みだが、あの時読めなかったらどうなっていたことか。
「ワース」
「……っ、」
「よく、……がんばりました」
ぬっと伸びてきたオーターの手が、頭に乗せられて不器用に前後に動く。驚きに上がりそうな声をワースはなんとか堪えた。ちらりと顔を伺うと、その口はへの字に曲がっている。
「……褒めようって、顔には見えねぇんだけど」
「正直にいえば、かなり複雑です。助かりましたが、最良の方法ではなかった」
「…………」
それを言い始めると、そもそもあの人数と戦うのにワースと禁書とオーターの2人と1冊はあまりにも不適格である。全員が五体満足で帰ってきたことを誇るべきだ。彼らの装備からして、明らかにオーターを意識して対策されていた。通常であれば魔力探知に優れたオーターが奇襲に気が付かないはずがないのだ。彼らが身に付けていた魔法道具は明らかに自分の気配を紛れさせるもの。ああした無機物の気配は魔導書の方が聡いからどうにかなったが、流石のオーターでもあれだけの数に囲まれて奇襲されたらひとたまりもなかったはずだ。その気持ちが伝わったのか、オーターはますます眉を顰める。
「……あまり隠し立てをしてもすぐ明らかになると思うから言いますが、実は貴方が目覚める前、この子に八つ当たりをしてしまいました。泣かせたのは私です」
言いながら、オーターはリトルデビルの頭を撫でる。素直に撫でられているリトルデビルは瞳を細めた。叱り、叱られた2人の表情とは思えなかった。きっとリトルデビルの中では納得が行っているのだろう。でなければ、ワースの魔導書は他人に懐いたりはしない。
一瞬リトルデビルのつむじに視線を落としたオーターはしかし、ゆっくりとワースの方を見る。
「出来ることなら、貴方にはあまり無茶をして欲しくはありません。今回のことは、明らかに危険な無茶だった」
「…………わぁってるよ」
今まで一度も読めなかった魔導書をぶっつけ本番で読んだのだ。確かにワースも少し軽率だったかもしれない。しかしオーターは小さく首を振った。
「ワース、貴方は、……ちっとも分かっていない」
オーターの眉がギュッと不快そうに寄せられる。しかし唐突に気が付く。オーターは、不快さを感じているのではないのではないか。ぎゅっと握られた拳も、心配そうにオーターを見上げるリトルデビルも、ワースの推測とは違った様相を見せている。
(なんで?)
アンタが、そんな顔をするんだ。
浮かんだ疑問は上手に音にはならなかった。だって傲慢に聞こえる。何かの間違いで実兄を好きだと気が付いてから、鈍いワースだってオーターに大切にされていると理解している。洞窟でリトルデビルに過剰反応したのも、ワースが不本意で禁書使いになりそうだと思ったから。墓所管理局への出向の時だって、カーバンクルの事件の時だって、ここぞと言う時には必ず駆けつけて力になってくれた。……ワースには、なんにもないのに。
「ワース」
「な、なんだよ」
「結婚して下さい」
「…………はぁ!?」
突拍子もない言葉に頭がついて行かない。ぶっ飛んだことを言い出したオーターはといえば、ぎゅうっとリトルデビルを抱きしめている。
「……今回は何もありませんでした。でも次回は分からない。私の身に何かがあった時、貴方に何も残せない関係でいたくない。それは、貴方の身でも同じこと」
「そ…………、」
それは、つまり、どういうことだ。
確かにもう戸籍上の関係はないから、オーターの身に何かあっても、ワースは何もできないが。オーターが言いたいのは何もそういう話ではなかろう。
オーターが先ほどよりもずっと不機嫌そうに眉を寄せる。それに、思わず、と言うようにリトルデビルが手を握る。……お前はなんだ、どっちの味方なんだ!混乱するワースを他所に、一見すると激怒しているようにしか見えないオーターが言葉を続ける。
「好きです、ワース。たとえ神の御元に戻る瞬間は違えど、誰よりも近しい他者でありたい」
それは、告白と言うよりはプロポーズじゃないだろうか。
アンタ、俺のことが好きなのか。
ぐるぐると瞳を回すワースは、そんな簡単なツッコミも出来ないまま、ベッドの上に突っ伏した。
◆◇◆◇◆
あの後、カナリヤに、「近代法がなァんで拷問を禁止してるか分かってっか?」と物凄く叱られた。
とってもとっても解せなかったけど、「講義」として2人でのんびり目の前のひとのお話を聞くのは楽しかったから、もう一回くらいは試してみても良いかもしれない。
「わたし」は、くふくふと笑った。
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おいでよ!ぱぱぽーと-ショッピングモールWebオンリー-
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7 / 24sp
05月12日 00:00 〜 11月30日 23:50
カナリヤ 11
◆◇◆◇◆
砂の神杖オーター・マドル。
彼はよほど高名な魔法使いらしい。
ほんの少し調べるだけで、すぐに情報が出てきた。
使う魔法、その性格、性質……。
ただの情報だけのはずなのに、腹立たしくて舌打ちをした。
巨人族は、矜持を傷つけた者を決して忘れはしないのだ。
その話が持ち上がったのは、奇しくも夕食の最中であった。
「正式な辞令は週明けになりますが、来週、魔法魔力管理局のお手伝いをお願いしています」
ちょうど切り分けた魔猪の肉を口に突っ込んだタイミングだったワースはとにかく瞳を白黒させた。別に、オーターは気遣いが出来ないからとこんなタイミングで話題を振ったのではない。「ノー」の返事を聞きたくなくて回答しづらいタイミングに声を掛けてしまったのだろう。最近になって知ったことだが、オーター・マドルはこういう所がある。自覚があるのかないのか、オーターは神経質そうに眼鏡の位置を直した。
「……より正確に言えば、貴方の禁書の耳と口を借りたい」
「…………んぐ、……リトルデビルの?」
牛乳を飲んで一息付いて、ワースは聞き返し、すぐに「ああ、」と肩をすくめる。通訳要員ということか。
リトルデビルの会話実験は、ワースが想像していたよりもずっと順調に進んでいた。確かに対象とする相手を選ぶものの、上手くチャンネルを合わせられれば相当の精度で通訳可能だ。動物での実践はほぼ終えたし、現在協力してくれる別種族の者を探しているくらいである。純粋にリトルデビルの語彙力が上がったという理由もある。確かに舌っ足らずに話すが相手のニュアンスをかなり正確に伝えてくるようになった。ちらりとリトルデビルへ視線をやると、事前に切り分けてやったサイコロ状のステーキをニコニコしながら食べている。
「実はこの度、巨人族のある部族と魔法魔力管理局で契約を結ぶことになりまして」
話としては、貿易協定の一種だ。魔力を留める効果のある薬草を毎月一定魔法魔力管理局が輸入し、対価を払う。それは魔力欠乏症患者向けの薬となり、一部は研究管理局に回される。もちろん巨人族から仕入れる必要は必ずしもないが、需要に応えられるだけの量を安定的に供給できるのがその部族だったらしい。根気強く交渉を進め、この度ようやく契約締結というところまで進んだのだそうだ。
「もちろんウチの担当者が直接的な交渉は行いますが、最後の条文に間違いがあってはいけませんから。調印の時に、いて欲しいのです」
「俺らでいいのか?」
これまで全く交渉に携わっていない、しかも局も違うワースとリトルデビルがポッと出で関わるのは、なんだか変な感じだ。しかしオーターはゆっくりと頷く。
「……実はこれまで、巨人族との交渉は全て文書によるものだったのです」
「文書ォ?」
「はい。向こうもこちらもある程度文書でしたら理解出来るので。こちらの言語の原文と、同内容の相手の言語の訳文を2枚綴りで。初回のみ顔を合わせて、以降は全てフクロウ便で」
そんな事あるんだ、と思ったが、相手も相手で特殊だ、そういう事もあるかもしれない。
巨人族は文字通り人間よりも巨躯を誇る種族だ。平均身長は5m。立派な体躯に見合う程度に魔力が強いが、魔人族程ではない。基本的には真っ直ぐに伸びた針葉樹林の周辺に生息し、意外かも知れないが、木の皮を主食とする。一説には100程の部族に分かれていると言われるが、人間と関わりがある部族がひと握りであるため全貌は分かっていない。人間の言葉を理解していて文字によるコミュニケーションが取れる巨人族の部族となると、10程に絞られる。オーターはワースが思い描いた部族のうち、最も有名な部族名を挙げた。
「彼らにはうちから針葉樹の苗20と栽培指導の技術者を定期的に派遣する予定です。……が、」
「人間からの樹木提供を嫌がる他の部族がいる?」
「その通り」
なんでも、今回契約締結する部族と並行して、別の部族とも交渉を進めていたらしい。ただしそちらは、交渉決裂。かなり厳しい条件を出された為、オーターが打ち切らせたらしい。人口増はそのまま食糧難の問題と表裏一体だ。無論巨人族の生活する針葉樹林は樹齢800年級の樹木が乱立する地域ではあるが、先行投資として植樹を進めるのはあり得る選択だ。他の部族に独占されるのは面白くないだろう。オーターは断った方の部族の中でも長老たちにはきちんと礼儀を通したという。しかしもっと格の低い若者たちの中で不満が燻っているらしい。その情報は長老たちからもたらされたもので、折角情報提供された以上手を打たないのはこれまた外交問題になるという。
「……あまり考えたくはないですが、話し合うべき部族以外が交渉のテーブルにいて、予定外の交渉をしてしまうのを避けたい」
基本的に、巨人族の顔は人間では判別できない。なんせ、彼らは人前では仮面を被る。そういう文化を持つのだ。親友と呼ばれるほどに親しい間柄か家族間でしか仮面を外さないらしい。体格の違いで個人識別出来ないこともないが、それはそれなりに顔を合わせている知り合いでないと不可能である。それこそ、何十年と追いかけている研究者や、交易で定期的に顔を突き合わせているとか。部族ごとに紋様が違うそうだが、それをひと目で判読するのは巨人族研究者でも難しく、魔法魔力管理局の担当職員も万全の準備を整えているとは言え、取り違える可能性がある。
「事前に相手側から判別用の魔宝石を貰っているので、これと口頭で手紙に記した内容で本物か確認します。貴方達には、その際の通訳を」
なるほど、とワースは頷いた。
けれどもちょっぴり引っ掛かる。
「……俺、墓地管理局の出向以降、取り敢えず年次上がるまで出向しないようにって言われてたんだけど……」
「問題ないです。……出向ではなく、貴方の研究協力ということでソフィナには話を付けました」
「……はい?」
思いもよらない単語に目を剥く。どういうことだ。いや、分かるけど。それって出向とどう違う建て付けになる。
「探していたでしょう?禁書と会話をしてくれる別種族を」
呆気に取られてワースは不作法にも口をぽっかりと開きそうになった。もちろん口腔には食品は入っていないが、それでも品はない。
確かにワースはリトルデビルと会話をしてくれる別種族を探していた。動物相手は所有者の許可が降りれば大抵は問題なく行えたし、動物園関係者を中心に当たれば比較的許可は下りた。固有の言語体系をもつ使い魔も、大抵は所有者が「本当はなんと言いたいのか知りたい」との希望があったから交渉しやすかった。ただ、リトルデビルはあくまで「禁書」であるし、人間の言語を理解する別種族相手では理解を得るのは難しい。先方からの許可が出ないものをどうにかするのは無理である。
「……それって、巨人族から許可出てるのか?」
「通訳専門の特殊な者を伴う、と」
しれっとした顔でオーターは言い切る。なるほど、「禁書」とハッキリは言っていない訳か。発表論文で使うには少々倫理的な問題を孕むが、禁書の使用実践の方向で書けば、確かになんとかはなりそうだ。事例と協力者を全部匿名にして……いや、こんな裏技を使わせようとするな。
「どうせ向こうも締結の場にどのレベルまでの者を出すかは明らかにしていません。向こうもこちらも、その程度の伏せたカードがありますから、気にしないように」
「…………」
それ、良いんだろうか。
……いや良くなきゃオーターは初めから話を持ってきたりなんかしないだろうけども。
チラリとリトルデビルを見る。はたと気が付いたリトルデビルはにこっと笑ってステーキを頬張る。嫌そうな顔を一切していないからきっと、通訳自体は問題ないのだろう。うん、とワースも頷く。
「来週ソフィナさんから連絡来るんだろ?したら、その時に案件ファイル読ませてもらう。ありがとな」
「……いえその、……業務時間外なのに仕事の話をして、すみませんでした」
「?なんで?」
そりゃあソフィナは時間外労働に厳しいが、ワースは特にこだわりはない。……いや、ソフィナも立場上、法令違反に目を光らせていなければならないのだろうけれども。
「一緒に暮らしてんのに週明けの辞令で出向聞くのって、びっくりしねぇ?」
「……いや、まぁ、その……」
「まぁ俺も別に、機密とかは聞く気ねぇけど」
オーターは管理職だから、就業時間の取り決めもない程忙しいのはよく知っている。その割にはよく夕飯を一緒に取ってくれるなぁ、とは思っているけども。
オーターと同居し始めて1番の変化は、この夕飯である。だいたいワースの準備が終わる18:30〜19:00にかけて、オーターは必ず魔法魔力管理局から戻ってきて、食事をとって、必要であれば執務に戻るし、そうでなければワースと談笑して、少しリトルデビルと遊んでくれてから風呂に入り、眠る。心配になって確認したところ、いま魔法魔力管理局では試験的にシフト制を敷いているそうで、夕食後に執務に戻るのは夜番も入っている時だけなのだそうだ。しかし一度家に帰ってきてもう一回出勤するというのは大変なのではないか。必要なら夜飯くらい弁当にして届けるけど、近いし、とワースが提案したところ、「……今後の検討課題にします」と固い顔で言われた。一応いまのところ、一度も頼まれたことはない。「一度家に戻る」がオーターにとって重要な切り替えになっているのかもしれないし、ワースから特にいうこ言うことはない。
住まいが魔法魔力管理局に近くなって知ったことだが、オーターは局員から「無表情でお花飛ばしてる上司」と認識されているらしい。最初何を言っているのかさっぱり理解出来なかったが、最近とみに機嫌が良く、それがさながらふわふわと花が漏れているかの如き、なのだそうだ。ワースもオーターの顔をじいっと見てみたものの、ただオーターに「な、なんですか……」と困惑されただけだった。ちなみに時々、魔法魔力管理局の局員と思われる人物から拝まれたり、「末長くうちの局長と一緒に暮らしてね……!」と涙ながらに縋られる。……どういうことだ。たぶん何か、オーターに仕事を手伝ってもらったとか、そんな感じなのだろうけれども。レイン・エイムズが魔法道具管理局でフィン・エイムズの祭壇を作っていた例があるから、念のため同期の魔法魔力管理局の局員に確認したところ、「そんな便利なものはない」との回答を受けてホッと胸を撫で下ろしたところだ。ただ、他の局員の奇行について質問したところ頑なに「こちらにも黙秘の権利がある」との回答だったので、正直半信半疑だが。一応オーターに「職場でなんか変なことしてないか」と尋ねたがフツーに首を傾げられ、「魔法魔力管理局の職場見学でもしますか?」と心なしか嬉しげに聞き返されたので、丁重に断っておいた。こっちだってされたくないから行くべきではない。
オーターと、自分と、リトルデビル用にそれぞれのマグカップをコトリと置く。食後は、リトルデビルに合わせて皆はちみつ入りのホットミルクである。子供に供すると言えばこれであろう、というワースの偏見で出していたらいつの間にか定着していた。下手にカフェインを摂って夜眠れなくなるより良いので問題はないけれども。意外と、オーターは乗ってくれる。いや、食に関心がないともいう。出された物は素直に食べるし、不平不満も絶対言わない。強いて言えば若干、皿洗いの手際が悪いだけだ。
普段からリトルデビルへの指示だし訓練の一環として、皿洗いは彼にやらせている。魔導書の形を取らせている時はほぼワースの想像をリトルデビルは読み取るようだから言葉にならないものも念じればそれで済む。しかし人間の形を取らせている時は泥魔法を纏っている分、魔導書の時に比べ命令の伝達が悪い。言葉による指示とイメージの伝達を繰り返して双方が「指示を出す」という状況に慣れるための訓練だ。一応オーターもそういう理由でリトルデビルが家事をしていることを理解しているが、小さな子供が何くれと手伝っている姿を見ると何か触発されるらしい。正直、オーターは絶妙に不器用なので、一緒にやらせるとリトルデビルへの指示も複雑になるから良い訓練になるのだが、本人には言っていない。へこみそうだから。今日も小さなリトルデビルの手よりも数倍食器を取り落としそうなオーターの手つきを見張らせつつ、皿洗いを終わらせる。うん、割れた皿はゼロ。良い調子である。
「じゃ、来週からよろしく」
「はい。……おやすみ、なさい」
「おー、おやすみ」
「おやすみオーター」
夜の挨拶は、決まって部屋の前でする。どちらがそう決めた訳ではないけれど、オーターが家にいる時はいつもそうしていた。なんだかワースはいつも妙に気恥ずかしいのだけれど、悪い心地ではない。
(……オーターは、どう思ってんのかな)
この、微妙なバランスで成立している共同生活について。
ベッドの横のバスケットの中で物言わぬ書籍の形になっているリトルデビルを何の気なしに見ながら、ワースはぼんやりと考える。オーターも、この生活を気に入ってくれていると良いけども。
◆◇◆◇◆
オーターが予告した通り、週明けには知の神杖ソフィナ・ブリビアからの正式な辞令が来た。研究協力という名目のもと、通訳として交渉に参加する。その報告書と、その禁書使用実践について研究ノートか論文として機関誌にレポートを投稿すること。それがワースに下された職務である。勿論、通訳が出来ないで終わる可能性もある。それがどんな状況、相手であったかもしっかり書き残しておかねばならない。
そこからは怒涛の日々であった。
今回交渉する部族の商品から風習から洗い出し、交渉テーブルで出そうな単語は全て調べ直す。これまでの交渉の手紙は全て読み込み、交渉担当者と事務官と打ち合わせ、である。向こうの文化を網羅的に理解するのがなかなか骨で、ワースも自分の中で知っていたつもりになっていたことが意外と多いのに驚いた。リトルデビルは感情を読むタイプの禁書だが、交渉の場では言葉選びで無礼になっても困る。そんな妙に気負っているワースを見て、ソフィナは小さな子供を見るような瞳で笑っていた。
巨人族との交渉の場は、人間側の魔法界と巨人族側の針葉樹林の境目、鬱蒼と背の高い草が生える湿地帯で行うことになっていた。表立って敵対している訳ではないが、ごく一部の部族が外部と交易している為、他の部族との無用な軋轢を避ける配慮である。参加者はこの事案の担当者と文書を取りまとめる事務官、通訳のワースと全体を統括するオーターの4人である。交易交渉にしては些か人数が少ないのではないかとワースは思ったが、あまり人数を多くすると敵対行動とみなされる場合があるのだそうだ。向こうの文化では「10」を超える人数が申し合わせてひと所に集まると、挙兵の準備と考える文化があるという。なんだそりゃ、と思うがこれもまた異文化なので、仕方あるまい。
拠点となる最寄りの街までは箒で、その後は贈呈品や調印用の物品があるそうで、魔導車で湿地帯を走る。しかしそれも打ち合わせた場所まで直接乗りつけることは出来ないので、途中で車は止め、荷物はそのままワースの泥魔法に乗せて持って行く。10分ほど歩いた所だろうか。背の高い草地がぽっかりと不自然に空いている。そこが、会談の場所である。遠目にも特徴的な巨躯が見え、相手方が既に到着しているのが分かった。約束の時間の20分前。まずまずだろう。
「取り敢えず相手方に挨拶しましょう。ワース、準備は良いですね」
「は、はい」
早速の仕事にワースは軽く呼吸を整える。上手くできるだろうか。まぁ、ここまで来たら、自分の魔導書と準備を信じる他ない。思わず、リトルデビルと繋いだ手に力が入ってしまう。
「ぁ、」
小さく呟いたリトルデビルがその場に立ち止まった。くんと手を引かれた形になったワースはたたらを踏んだ。
「リトルデビル?」
振り返ると、困惑気味な表情のまま、リトルデビルは小さく首を左右に振った。彼がワースの行動に異を唱えることは、基本的にない。特に仕事の時であれば。それだけでもう、不穏なものを感じてワースは顔を顰めた。
「……ワース?どうかしましたか」
「あ、うん」
オーターの声につられるようにして、ワースはリトルデビルの手を引いた。しかし先ほどよりもぎゅっとワースの手を握る彼は、明確に首を左右に振った。気のせいでも見間違いでもない。はっきりとした拒絶であった。
「リトルデビル、」
この期に及んで、ワースが自らの禁書を疑うなどありえない。状態を確認しようと、ワースが腰を屈めようとしたその時、焦れたオーターが一歩踏み出す。ぴくりとそれに反応したリトルデビルの瞳が大きく見開かれた。
「行ったらダメ、…… ▇▇▇▇▓▓▓▓▇▇▇▇!」
「……っ!」
それは今までに感じたことのない不思議な感覚であった。頭の中にぼんやりと、書籍の形を取ったリトルデビルの像が浮かぶ。風もないのにばらばらと捲られるそれは、あるページで止まり、魔力が流れ出す。その脳内の映像とリンクする形でリトルデビルと繋いだ左手から、ワースの身体に魔力が通っていく。自分が魔法を使っているという感覚はない。けれど確かに、とんでもない速度で、とんでもない量のリトルデビルの魔力が身体の中を通過して行った。目眩を覚えるような力であるのに、ぴたりと繋いだ左手は、何か大きな柱にでもなったかのようにワースの身体を支える。破裂音で、ワースは我に返った。オーターとワース、そして他の職員を覆うようにしてドーム状の音魔法の盾が展開されていた。それを囲うように、武装した巨人族たちが、こちらを見下ろしていた。中に、槍が折れている者がいる。状況から考えてあの一撃を音魔法の盾が防いだのだろう。嘘だろ、とワースは呟いた。
(認識阻害魔法……いつの間に!?)
これだけの量の武装した巨人族にオーターが気が付かない筈がない。そしてそれだけ繊細な魔法操作を巨人族ができる筈がない。よく見ると首に魔法道具らしき揃いのペンダントを下げている。
(罠か……!)
思わずオーターを仰ぎ見る。既に杖を抜いている砂の神杖は、神経質そうに眼鏡の位置を直していた。
「フ─────」
重い、重いため息が辺りに響く。
それは取りも直さず、戦闘開始の合図であった。
***
ワースが泥の壁で守り、オーターが砂で穿つ。
けれどどこからともなく現れる巨人族が、砂の死角から攻撃してくる。状況は、かなりまずい。既にリトルデビルは書籍の形を取らせて手元に置いているが、それでも。
(……っち、)
厄介なのは、やはり認識阻害魔法の掛かった魔法道具だ。辛うじてリトルデビルは彼らの位置を掴んでいるが、その補助がなければワースは当然ながらオーターでさえ、あれだけ巨躯の巨人族の位置を把握しきれていない。加えて、事務官は完全に非戦闘員である。これを守りつつ神出鬼没の相手に対応するのは、きつい。
「マッドロス!」
ワースは気持ち固めの泥の壁を二重に立ち上げる。壁なんか出したら「ここにいる」とアピールしているようなものだが、その不利に目を瞑っても体勢を立て直す必要があった。
「オーター。……二手に分かれる必要があると思う」
「…………」
眼鏡の位置を直したオーターは、微かに息を漏らした。各面々の顔を順に見回す。
「そうですね。魔導車まで戻って街の拠点に行き、応援を呼ぶ者、この場で巨人族を足止めし、必要であれば捕縛する者としましょう。……この場は私が1人で請け負います」
「はぁ?」
思わず上擦った声が漏れる。交渉担当者がびくりと身体を揺らした。
「……俺はどうすんだよ」
「当然、後ろの2人と街に戻ってもらいます」
「この状況で、マジで言ってんのか」
交渉担当と言っても、魔法魔力管理局員だ。それなりに戦えるし、巨人族の気配は街方面にはないし、事務官を守って魔導車まで逃げ延びられるだろう。巨人族の足止めを、適切に行うことができれば、であるが。悪いが、巨人族への盾となる泥の壁を作り続けているのはワースである。そしてここは湿地だ。ワースの魔法と相性が良い。オーターの能力を今更疑う気もないが、湿り気の多い土は、扱いづらいだろう。加えて、
「……アンタ、アイツらの位置わかんねーだろ」
「…………」
あの認識阻害魔法の魔法道具がどこから出て来たのかは謎である。巨人族は元来あのような道具は使わない。けれど、性能は申し分ない。
非常に嫌な感じだ。
オーターは有名人だから、その砂魔法の特性もよく知られている。彼が他人の魔力に非常に敏感であることも。単純に襲撃用に準備されていたと考えても良いが、これだけオーターの魔力探知能力を抑え込んでいると思うと、オーターが狙いではないかと疑いたくもなる。ここまで不利と分かっている状況で、ひとり置いて行けるか。
襲撃者も、実に面倒臭い相手であった。仮面の紋様で判別は出来ないが、当初予想されていたように、交渉決裂した別部族の襲撃の可能性はあった。すると、事前に警告して来た巨人族の長老に、なるべくならば無傷で、捕らえた彼らを突き出さなければならない。
逃せばシラを切られる。下手に手傷を負わせ過ぎると賠償を求められる可能性がある。それが元々交渉予定だった相手かどうか、現時点では確認できないのだ。可能な限り有利に、襲ってきた部族から賠償を引き出すのに、オーター単体の戦闘はやはり不適格であった。
「足止めも、捕縛も、俺の泥魔法の方が適性がある」
「……貴方は禁書管理局から借りた人材です。予定外の戦闘には参加させられない」
「んなこと言ってる場合じゃねぇだろ」
「場合です。局間の問題ですから」
「おいおいおいおい、アンタらしくねぇんじゃねぇの?」
外側の泥の壁に攻撃を加えられている気配がする。緊迫した状況なのは、オーターも分かっているだろう。ふぅ、とワースは息を漏らす。
「……襲撃者、何人いるか分かってるか」
「6」
「8人だよ、ばぁか」
リトルデビルの探知能力を超える魔法道具や距離で動いている者がいない、という前提にはなるが。オーターは眉を顰めてむっつりと黙り込んだ。
「……アンタ、俺らに耳と口を貸せ、ってことで依頼したんだろう。そこに目を追加したって大して変わりゃしねぇと思うけど?」
「フ────……」
「凄んだって状況は変わんねぇよ」
じっと、眼鏡の奥の瞳を見る。
「合理的に行こうぜ、魔法魔力管理局局長サマ。足止めにせよ捕縛にせよ、この場には俺が必要だ。……だろ?」
「…………、…………仕方が、ありませんね」
勝った、と思った。……いやあんな物騒な顔をしている奴と面と向かってこんな交渉するのはもう二度とやりたくないが。
オーターが逃す2人に段取りを指示している。その隙にワースは手元の魔導書に話しかけた。
「……リトルデビル、さっきのアレはなんだ」
魔導書の姿を取っているリトルデビルは、困惑で以って応えた。困惑しているのはワースの方だ。禁書が術者側に魔力を通して記述を使わせるなどと、そんな事例は聞いたことがない。調べてないからはっきりとは言えないが。
ワースの感情を読み取って、即座に情報が送り出される。リトルデビルの序文に書かれた文章の拡大解釈を行うと音魔法になるのだという。大抵の禁書は同じような記述があるから、それを音魔法と解釈して使う。基本は互いの意思疎通のためだ。しかし強力な波動であるのは間違いないので、防御や攻撃にも使える。……なんてこった。人間の姿では一向に要領を得ない説明だった禁書間の音魔法の原理がこんなに簡単に。おい、リトルデビル、わざと分かりにくいように説明していただろ、と言うと、隠れるようにリトルデビルの意識が小さく、小さくなる。ともあれ今回は手を繋いでいたこともあって、ワースの身体に音魔法の回路を通して魔導書を「使わせた」。感覚としては、遠く洞窟の底にいた頃にワースの元へ声を通していたのと同じだ。繋がりがあればそこから逆流してセコンズに自分の似姿を届けることだって出来る。一刻を争うような状況であったし、それが1番早くて確実だったから。……だから、その、ええっと。
ワースの頭の中にそうっと像を結ぼうとするような説明に、若干頭を抱えた。助かったのは分かっているし、怒る気はない、一応。しかし。
(先に教えておいてくんねぇかなぁ!)
ぴゃっ、と手の中の魔導書が跳ねた気がした。流石にちょっと、無茶をしたのは自覚済みらしい。
ぱらりと表紙を捲り、序文のページで手を止める。撫でるように記述を確認すると、なるほど確かに、音を比喩的に表現したような記載があった。ここを拡大解釈すると、あのドーム状の盾になるのか。……いやあの盾は魔導書の作ったイメージに過ぎないか。最速で術者たち守るもの、と魔導書が思い浮かべた形だろう。確かに発動速度はかのマーガレット・マカロンを思い出すほどだった。ワースには逆立ちしたって無理だ。
(いや、分かったけど、マジで助かったけど、先に言おうな!戦闘訓練してるんだからな!)
固いハードカバーのまま、魔導書はしおっと項垂れる。ソフィナに付けてもらっている戦闘訓練は、今のところ魔力の受け渡しや魔導書を持ったままの身体運びの練習が主だ。それでも魔導書との回路を常に繋ぎつつ戦況をみて命令を下して自分の動きと連動させるのはだいぶ頭を使う。杖だけで戦うのとは勝手が違うので随分と為にはなっている。なっているが、リトルデビルだってあの時間内に「こんなことも出来る」とワースに伝えることだって出来ただろう。……恐らくコレは、「ワースでは扱いきれない」とリトルデビルが判断した記述だ。小さな落胆が胸の中を広がる。まったく、不甲斐ない。自分の魔導書に気を遣わせているだなんて。リトルデビルが言うように、ワースはまだ禁書を扱えるほどの力がないのだろう。それは良い。ただ、緊急時に自分の魔導書が何を出来るのか、知っているのと知らないのとでは動き方も変わってくる。
(……この魔法、オレも使えるか)
やや沈黙があって、戻った答えはイエス、だった。だろうな、と思う。他の近くにいた者たちがどうだったかは知らないが、ワースにはリトルデビルの口から漏れた音がしっかりと聞こえていた。それが意味する呪文も、確かに。いま魔導書を見ても、その呪文が「読める」。通常の記述の上に、浮かび上がるように。ソフィナも言っていた。論理で扱う禁書と違って、取り憑かれるタイプの「禁書使い」はある日突然禁書の記述が見えるようになる。それが何を示すのか未だに分かってはいないが、ともかくワースもやはりそのタイプの使い手らしい。思ったよりも感慨はなかった。禁書の呪文を読めようが読めまいが、ワースが「禁書使い」であることに変わりはない。ふむ、と自分の心の動きに納得をしてワースは魔導書を撫でてやる。迷うようにリトルデビルが補足する。でもたぶん、ワースにはまだ「重い」とおもう、と。
(「重い」?)
リトルデビルから戻った回答を精査するより早く、周囲の気配が変わる。ゆっくりとお喋りしている暇はないらしい。
先に逃がす2人を走らせ、オーターが泥の壁面に身体を寄せて隙なく杖を構える。ちらりと横目でこちらを見た。その顔にはありありと「不本意」と書いてあった。
「……私が前に出ますから、貴方は後ろで控えているように」
「んな訳にもいかねぇだろ」
「……分かって下さい。通訳として借りている貴方に、怪我を負わせる訳にはいかない」
「…………」
まぁ、それはそうだろうな、と思う。結構な無理をしてねじ込んでくれた割には、交渉相手と思しき巨人族はおらず、奇襲を掛けられ、しかも難しい形での制圧を迫られ、さぞかし頭が痛いことだろう。状況を難しくする要因のひとつが自分であると思うと、まったく申し訳ない限りである。……とはいえ、そんなこと言っていられる状況じゃない。
「……さっきも言ったろ。足止めは俺の方が適任だ」
「では貴方は後衛で。この壁から外に出ないように」
「それじゃ後方支援もなにもないだろ」
さながらレーダーのように多少の障害物があっても魔力の流れを感知しているリトルデビルと違って、ワースは普通に相手を視認する。泥魔法を使うにせよ、相手の位置や距離感を適切に認識できなければ、当てることは出来ない。
「見つけた巨人族を片っ端から泥の沼に落とす。這い上がれない位置まで落としてから泥を固めれば、制圧完了だ」
「…………」
簡単そうに言い切って見せたが、言うほど楽な話でもない。相手は平均5m級の体長を誇る種族だ。泥で動きを制限するのはそう難しくないが、少なくとも下半身まで泥の中に落とすとなると、かなりの深さと面積を要する。これを8体分。リトルデビルの補助を受けていてもワースの魔力回路が保つか分からない。また最初の数人はなんとかなるが、こちらが「落とし穴」を使うと掴まれれば対応される。出来れば、ひとりも取り逃がしたくない。
オーターは神経質そうに眼鏡の位置を直し、大きくため息をついた。
「……先ほどの言葉は、魔法魔力管理局局長としての建前ですが、私個人としても貴方に危険な行動をして欲しくない」
「………!」
「なので、その、……後ろに下がっていて欲しいのは、お願い、です」
うぐ、とワースは言葉に詰まった。変なところで情に訴えかけてくるな。
気まずくなって、ワースはバリバリと頭を掻く。気にしてくれるのは、その、ありがたいし嬉しいが、この状況で正しい判断とも思わない。しかし不釣り合いにも、胸がドキドキと高鳴る。
「……アンタさぁ、この状況でさぁ……」
「残ってくれているのは、正直助かります。貴方の壁がなければここまで悠長に話していられない」
「……あーくそっ、分かった!けど壁の中には籠もらねぇしチャンスがあれば泥に沈めるぜ」
「妥協しましょう。……私は絞め技で仕留めますから、援護を」
破裂音が響いて、ワースの1枚目の泥の壁が破られた気配がする。……まったく、そう簡単に破れるような強度で作っていないのに。確かに巨人族が8人も集まったらちょっとした挙兵準備と受け取られるのは仕方がないかも知れない。ワースは開きっぱなしの魔導書に手を置いた。
「リトルデビル、基本は足止めと拘束、隙があれば戦闘不能にする。……いけるな?」
いつも通りの声にならない元気な声が戻ってくるのを確認し、ワースは大きく頷いた。
***
ワースにとっては予想外なことに、巨人族たちはそれほど統制が取れていなかった。8人もいて、用意周到にも認識阻害魔法の魔法道具を準備してきた割には陣形はゆるく、奇襲ものろい。
(……ま、フツーにやりゃぁ危なかったけど!)
背の高い湿地の草は、巨人族たちの姿も隠している。それで気が緩んだのだろう。残念ながらリトルデビルの索敵に障害物はほぼ関係ない。ワースは泥人形でそれっぽい囮を準備して、通り道に泥の沼を準備しておくだけで良かった。人数が多い分神経を使うが、これくらいならなんとかする。泥の壁を大回りしてこちらへ向かってきた巨人族5人は、既に泥の中に沈めた。そこら辺で首だけ出した状態で藻掻いている。無駄な足掻きなので、そこに神経を割く必要はない。
「……っんの、マッドロス!」
問題は、オーターと戦っている巨人族だった。オーターを挟み撃ちにする形で2人。そこから少し離れた茂みに1人。茂みの中の1人はちっとも動かないから何か狙いがあるのか単に怖じ気づいて動けないだけなのか判断が付かない。一応いつ動き出しても良いように警戒だけはしているが。しかし少なくともオーターと相対する2人は士気も高ければそれなりに動ける。ワースが隙を見て足下を泥にして崩したり泥の礫をぶつけたりしてみるが、まったく怯む様子もない。オーターのアイコンタクトでなんとか泥で足場を作ってみたり壁を作って防御してみたりしているが、こっちは連携を取って戦うのはこれが初めてで、ぶっつけ本番である。オーターの動きを阻害するほど悪い連携をしているつもりはないが、かといって決定的な隙も生み出せない。どうしよう。ここに加勢するより動かない1人を狙うか。それとも片方をワースが引き受けるか。……前出るなって言われているとなると茂みの1人の方か。最短距離は今まさにオーターと巨人族2人が交戦中であるから、下手に近付くのはまずいだろう。しかし迂回すればなんとか。ワースに後衛を任せる辺り、あまりオーターの側を離れるのも敵に近付くのも嫌がられそうだが、そうも言っていられまい。応援が来るまでこのまま粘り続けるのもありと言えばありだが……。
「フ────」
オーターのため息に、味方のはずのワースもビク付く。眼鏡の位置を直しながらチラリとこちらを見た。その瞳に。
連携を練習した覚えはないから当然何らかの丁符はない。けれど何故だろう。オーターがどんな泥魔法を求めているのか分かった。考えることは放棄してとにかく頭にあるイメージ通りに魔力を練る。
「マッドロス!」
オーターの足元、湿地の地面から、オーター1人分の泥が彼を押し上げながら隆起する。巨人族の頭を越したくらいの瞬間、ワースは泥の制御を手放した。
「サンズ」
オーターが唱えた瞬間、ワースが作り上げた泥の柱は全て砂粒に変わった。湿地でいちから砂を取り出すよりも、泥魔法を砂魔法に塗り替えた方が早い。それはそのまま砂の神杖の盾であり鉾だ。
オーターの背後にいた巨人族の首に、砂がぐるりと巻き付く。前方の巨人族は見て取れるほど狼狽した。
「……これで、チェックメイトです」
残骸となった泥の足場を踏みながら、オーターが杖を振り下ろす。
……瞬間、リトルデビルが何者かの動く気配を感知した。
ハッとしてワースはそこに視線をやる。つい一瞬前まで茂みで動かなかった巨人族の気配が迫っている。どこだ?魔導書が指し示す位置に、ワースは奥歯を噛んだ。
(ここで動くのかよ……!)
怖気付いていたのか、という予想は誤っていたと言わざるを得ない。狙っていたのだ、初めから。目の前の相手を倒さんとして、オーターの攻撃が、そしてワースの意識が他へズレるその瞬間を。初めの5人は動きも悪かったし、この襲撃を本気で行っていなかっただろう。オーターと相対した2人は本気で神覚者をどうにかする気だっただろう。……そして残っていた最後の1人は、最初から味方を犠牲にして砂の神杖を倒す気だっただろう。今まさに砂に襲われかけている味方を囮にして。首を絞められている味方の身体を盾にして。長い槍が、地を滑るように振り上げられる。
「……ッ」
喉に何か詰まったように声は出なかった。その間にも鋭い槍がオーターに迫る。あれは完全に死角だ、気配云々以前にオーターに気付きようがない。
この距離ではワースの泥魔法では遅過ぎる。盾を作るのもオーターを退避させるのも。思わずワースは声の限りに絶叫した。
「▇▇▇▇▓▓▓▓▇▇▇▇ッ!」
カッと身体が熱をもつ。それは明らかに魔導書からの魔力であった。それをそのまま放つ。借り物の魔力はワースが想像した通り半円状のアーチを描いてオーターの背後を守った。文字通りの音速で。刃が割れた音か、音波が空気を切り裂いた音か。何かに反応して振り向いたオーターは、眼前に迫っていた槍とそれを防いだ盾に驚愕しつつも奇襲者を砂の一撃で倒した。さすがの砂の神覚者である。ほ、と息を吐く間もなく、ぐらりと身体が揺れた。
「……っ、」
血相を変えたオーターがこちらへ走り寄ってくるのが見える。耳鳴りがひどくて、なんと言っているのか聞こえない。けれどその姿を視界には留めて置けず、ワースはその場に崩れ落ちた。身体中が熱く、不随意に痙攣までする。妙に息が苦しいとえずいたら、喉が焼け付くように痛んだ。混乱した頭はその症状に相応しい病名を即座に弾き出す。
(……魔力暴発………っ…)
まだ魔力操作に覚束ない子供が起こしやすい現象だ。体内の魔力がなんらかの原因で放出先を失い、魔力回路の中で熱暴走を起こす。耳鳴り、眩暈、熱痙攣、嘔吐などはその代表的な症状である。大抵は外部刺激で魔力を外に逃がしてやれば治るはずだが、いまワースの体内で暴れ回っているのは魔導書から得た魔力である。通常通りの治療が効くか。ふわりと近付いてきた魔導書に震える手を乗せて魔力を循環させると、すーっと身体の熱が引いていく。けれど頭がガンガンと締め付けられるようで、どこもかしこも痛くて動けそうにはない。幼少期のワースが魔力暴発を起こすことはなかった。貴族らしく制御が上手いとたびたび誉められていたが何のことはない、幼い頃から魔導書とパスが繋がっていたため、魔力暴発を起こせるほど体内に魔力がなかったのだろう。だからこうして熱痙攣すら起こす状況など非常に珍しくて、本当にこういう風になるんだなぁとワースはぼんやりとした感想を抱いた。まだ碌に聞こえもしない耳のまま、げほげほと咳を繰り返す。
オーターが何かを叫んでいる。肩に何か乗っている気はするが、揺すられているのか痙攣しているのか、正直なところワースには判別が付かなかった。
(……後を、たの、む、)
自分の魔導書の名前を呼ぶ余裕もなく、ワースの視界は暗転する。意識が落ちる瞬間に、魔導書からの返答を感じて、ほ、とひとつため息だけ落として。
◆◇◆◇◆
やばい。
それはもう、そのひと言だった。
局長が今回の案件の通訳に実弟くんを伴うという。あーこれは局長始終機嫌良いやつ。やった俺様勝ち組、……と思った瞬間が俺にもありました。
警戒は、怠っていなかったと思う。
……後になってみりゃそれは、「思う」ばかりで意味のない評価だったけど。
支援要請をして現場に戻って、倒れ伏している実弟くんと局長を見た時の、俺の絶望が分かるだろうか。
始末書なんかいくらでも書くから、早く目を覚ましてくれ。
神様が宿っているという自らの杖に、俺はただ祈った。
◆◇◆◇◆
魔法局の管轄する病院にしては珍しく、神覚者と巨人族が戦闘行為を行ったというのに、非常に静かであった。オーターは病院の中庭のベンチでそよ風に吹かれながらぼんやりと座っている。当然、オーターに怪我はない。余りにも平和だ。平和すぎる。……自分の周囲、5mくらいの小さな範囲は。伝言ウサギが震え、ようやく待ち望んだ人からの返事が戻ってきたと知る。慌ててその電話を取った。
「ソフィナ、」
──オーターですか?連絡遅れてすみませんでした。……貴方、大丈夫ですか。
「……私の方はなんともありません」
むしろ、なんともない、から問題なのである。それがオーターには大きなショックだった。
巨人族たちは、確かに非常に戦いにくい相手であったが、8名中先に5名をワースが戦闘不能にしてくれたので、オーターは目の前の者たちに集中すれば良かったので気持ちの上では楽だった。勿論、最後の1名を忘れていたつもりはなかったが、その奇襲を防いだのは結局ワースだった。その結果、ワースは倒れた。後衛ならば危険はないだろうと判断したのに。
「……すみませんでした」
──貴方が謝る必要はないです。それで、医者はなんて?
「…………魔力暴発だろう、と」
──……なるほど。
魔力暴発は魔力が成長する幼少期にしか起こらないような魔力制御不全症候群の一種だ。勿論大抵は一過性で、普通、筋肉痛のような症状がしばらく残る程度で後遺症はない。……しかしワースは既に成人している。そしてこれを引き起こしたのは禁書の持つ魔力だ。量、質ともに普通とは桁外れである上、他人の魔力である。医師からは「なんとも言えない」との回答であった。禁書による症状を診た経験がないからだ。既にワースが意識を失ってから丸1日経っている。設備が整った魔法局近くの病院へ運ぶべきか、動かすのはむしろ危ないか、オーターは図りかねていた。
──リトルデビルくんはなんて?
「そのうち目を覚ますから、ちょっと待ってて、と」
──そうですか。
その言葉は、どの程度信用が出来るのだろう。
勿論、今のこの状況は彼のせいではない。せいではないが、明らかに「禁書」が引き起こした状況である。それに、「そのうち」とはどの程度の時間を指しているのか。共に暮らしてみて、比較的あの禁書は人間と同じ時間感覚を持っていることは分かったが、それはあくまで術者であるワースと共にいたからである。「禁書」単体として、その「ちょっと」は「ちょっと」で済まない可能性がある。……ワースが目を覚まさなかったら、どうしたら良い。
──……大丈夫ですよ、オーター。
「…………」
──禁書使いには、このような事例は意外とあります。大丈夫です。
むしろ、とソフィナは気持ち柔らかい声で続けた。
──貴方は、大丈夫ですか。眠れていますか。
「………」
──病室に看病人用のベッドが置けるはずなので借りなさい。
「…………」
──ワースくんが目を覚ます前に、貴方が倒れてしまいますよ。
逆に倒れてしまえるならばどれだけ楽だろうか。意識を失ってしまえば、余計なことを考える余地もない。だが残念ながらオーターの職務はそれを許さなかった。部下達に指示を出し、捉えた巨人族たちを捕縛、既に魔法局へ護送し拘束した。専門家を招いて仮面の紋様を解析し、本来交渉予定だった部族と破談になった部族双方に照会をしている。予想通り警告をくれた長老の方からは「襲撃者の仮面を確認したい」と連絡が戻り、いま紋様の書き取りをさせているところである。交渉予定の部族もどこからか襲撃を受け、約束の場所には辿り着けなかったらしい。故に「うちではないが、」と断りを入れた上で見舞いの品が来ていて、これの返礼と再度の日程調整でかなり忙しくしている。ただ交渉担当者が「局長はここにいて下さい」というので、専ら電話のやり取りだけでぼんやりしているばかりである。
はぁ、とオーターは電話口に聞こえてしまうほどのため息をついた。
「……あの子の病室には、禁書がいます」
──…………
「いま、アレと顔を合わせたくはない」
理性は、きちんと理解している。
けれどいざ目の前に禁書が現れて、無用な怒りをぶつけない自信はない。
──……わかりました。私も明日にはそちらに着きますので。到着するまでには必ず仮眠をとっておいて下さい。
まるで子供に対する注意のようだ、とオーターは思った。それだけこの同僚は自分を案じてくれているのだろう。しかし迷うように口籠ったソフィナは、一応伝えておきますが、と前置きをしてから、ゆっくりとその先を口にする。
──ただ、もしも先にワースくんの状態を確認したいのならば、リトルデビルくんに聞いて下さい。彼が1番、正確です。
「…………わかりました」
定型の挨拶のような言葉を交わして電話を切って、オーターは大きなため息と共に頭を抱えた。
医者よりも、ワースの今の状況を禁書の方が掴んでいる。それはそうだろう。しばし逡巡してオーターは立ち上がる。明日になればソフィナが来て、必要ならば禁書との仲立ちをしてくれるだろう。だが、知らないまま待つのと、禁書と話すのとでは、待っている方が嫌だった。またぼんやりと過ごして、大切なものを取りこぼすのは耐えられない。
不釣り合いなほど、穏やかで静かな風がオーターの頬を撫でる。まるで、世界に不幸な出来事など何も起きていないかのようなその空気に、湧き上がる苛立ちを留めるのは難しかった。
***
横にスライドするドアを引くと、ワースのベッドの横にちょこんと座る禁書が、キョトンと瞳を丸くさせた。その正面には、1人分の形に盛り上がったベッドがある。相変わらずワースは眠ったままのようだった。
「……ワースは、どうですか」
俯いて眼鏡の位置を直しながらポツリと声を掛ける。子供っぽく振る舞うワースの似姿を眺めていられるほどの心の余裕はなかった。こちらの気持ちを知ってか知らずか、禁書はおずおずと返答する。
「だいじょうぶ、だよ」
「大丈夫?」
自分の声に剣呑とした音が混じるのを自覚する。その音は言外に「まだ目が醒めていないのに?」と響いていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返す禁書は、小首を傾げて言葉を繋ぐ。
「ちょっと、身体がびっくりしちゃっただけ。魔力は循環してるから、だいじょぶ」
ならば何故、目醒めない。
いつになったら目を覚ます。
ぶわりと腹の奥から炎のような感情が溢れ出す。
恐らく、真正面から聞けばきっと、禁書は答えただろう。共同生活をしてきて、ワースの禁書「リトルデビル」は、意外にもオーターには親切であるということは既に知っている。彼が、禁書にしては非常に穏やかであることも。しかし、それでも。
「お前が……」
唇が震えた。
「お前が居るからワースは無茶をする……!」
自分でも自覚ができるくらい、それは無意味な八つ当たりだった。禁書に宿る魔法を使うと決めたのはワースだ。身に余る力の代償を彼は払ったに過ぎない。しかもそれも、子供が起こすような「ただの」魔力暴発であるので、むしろ代償としては軽い方だ。それでも。
それでもオーターは、真っ白いベッドでこんな風に横たわるワースなど、見たくなかったのだ。
もう二度と。
角を持つ小さな身体が俯いて、ぎゅうっと手を握りしめる。その姿はまるきり、子供の頃のワースだ。ぶるぶると震える肩は可哀想なくらいだった。じわりと滲む罪悪感にオーターは目を逸らす。やはり、ここに来るべきではなかった。彼は自立的な意思を持ち、一方でワースと不可視の繋がりを持つ。意識のないワースにもオーターの声が響いてしまっているかもしれない。これ以上ここにいては、更に無意味な八つ当たりをぶつけてしまいそうだった。思わずオーターは、後退りする。
「……ぃ、もん」
「なんだ?」
声が小さ過ぎて聞き取れない。ただでさえ小さな禁書は、棘のあるオーターの声にびくりと小さな身体を跳ねさせた。痙攣するように息を吸い、ぱっと上げた顔には涙が浮かんでいた。そのワースと同じ顔に、オーターは怯む。
「……ぃぁってないもん、ワースただしかったもん!」
「…………」
「あなたが……オーターがっ!そんなこと言わないで!」
言うが早いか、わぁあん、と禁書は泣き始めた。外聞もなく、臆面もなく、ただとにかく声を張り上げて。目の前の情景にオーターは狼狽えた。なんせ、頭では禁書であると理解していても、ワースと瓜二つの顔をしている。そもそも泣いている子供を宥める術などオーターは知らない。何より、目の前でわあわあと自分よりも取り乱して泣かれると、少しばかり頭が冷静になってくる。そうだ、この禁書も、自分の術者が倒れ伏していて、全く何も感じていないはずがない。……そんな事さえ自分はちっとも考えが及んでいなかった。
ワースの行動は、本人が倒れてしまったことを除けば、たしかに「ただしい」振る舞いではあった。
ワースが防いだ攻撃はオーターの認識の外であったし、あの場で攻撃を受けていたらきっと、今のように彼らを鎮圧するのは難しかっただろう。ワースは問題解決のための最善手を選んだと言える。泥魔法では間に合わない、禁書に命じては一歩出遅れる。であれば直接ワースが禁書を読んで魔法を使うしかない。最速の音魔法で。あの一瞬で、そこまで状況を読んで、きちんと実行したのだ。ワースと禁書が成功した結果として、オーターは無傷でここにいる。……それがどうしても、もどかしい。
オーターはすこし迷って、しかし逡巡を飲み込み、ベッドを挟んで反対側の禁書の元へ、そっと近付いた。そしてその場に膝をつく。ちょうど、禁書の目線と同じくらいである。オーターは、ごしごし顔を擦りながら泣きじゃくる小さなつむじを前に、口をぱくぱくと開き、しかし何も言うことができなかった。だいたい、彼をなんて呼べば良い。……いや知っている。ワースが所有する禁書「リトルデビル」である。最悪なことにこの禁書の全貌は未だ解明できてはおらず、ワースが行使する禁書の力が安全かどうかすらわからない。今回行使した音魔法にしたって、本来の禁書に記述された魔法ではない。他の魔導書や遠方の術者とのパスを通す為の、いわば生活魔法のようなものだ。禁書にとっては誰でも使えて然るべき魔法を使わせて術者を昏倒させているのだから、禁書本来の魔法を使ったらどうなることか。そんな危険なもの、本当であればあの子の近くに置いてなどいたくはない。けれど年相応の幼子のように泣きじゃくる禁書はやはりどこか、胸の奥の何かを揺さぶる。
「……っカナ、……ひっく、カナリヤはっ!……ちゃんと、……ぅっうっ……がんばったもんんん……っ!」
「……あまり擦るな。赤くなる」
「うぇええええん……っ」
「カナリヤ」とはワースのことだっただろうか。ソフィナとワースから上がる禁書のレポートは全て目を通している。未だになぜ禁書がワースを「カナリヤ」と呼ぶのかは分かっていない。けれども、そこに込められた愛着は本物であるのだろう。不器用に息をしながら肩を揺らす禁書が流す涙は、作り物の肉体にしては綺麗過ぎた。摩擦で少し赤くなった頬に、そっとオーターは指を添える。びっくりしたように瞳を丸くさせた禁書はしゃっくりを上げながらオーターを見上げる。
「……そうだな、すまない。ワースはよくやっている」
「……ひっく……」
子供らしい大きな瞳からぽろりと一筋涙が溢れた。それを、そうっとオーターは拭う。いま目の前にいる禁書の肉体は所詮泥魔法によるものだから、再構築すればこの涙の跡だって消えてしまうのだろう。
ワースは、きちんと勤めを果たした。果たせていなかったのはオーターの方だ。戦闘力を買われてこの仕事についているのに、守られてしまったこの体たらく。涙を流して後悔するべきはオーターだろう。
「……て、」
「うん?」
「ワースに!ちゃんと、そう言って!」
「……ああ、そうだな」
ぽすぽすと禁書を撫でると、涙が止まった。じいっとこちらを見つめる瞳はまだ濡れたままだが、妙にしっかりとしている。そして両手をこちらへ広げた。なんのポーズか分からずにオーターは首を傾げた。何度か、ワースといる時に見たことはあるのだが。
「ん」
「……いや、私は」
「ん!」
「…………」
両手を差し出したまま、禁書は繰り返す。がら空きの脇はそこに手を突っ込め、と言うことらしい。まるで本物の子供のように抱っこをせがむその姿は、オーターの記憶には一切ない小さな弟の姿だ。オーターは少し迷って、しかしそうっと脇の下に自分の手を入れて小さな身体を持ち上げる。タイミングを合わせて伸び上がっているのだろう、思ったよりも抵抗なく持ち上がった禁書はにこにこしながらオーターの首に自身の腕を絡めた。
「…………」
良いのだろうか。
未だにワースが定めた禁書の名前を呼んでやることも出来ず、八つ当たりをするような人間にそんなに簡単に身を預けて。無論、見た目通りの中身でないことは知っているが、それでも。
「ワース夜には起きるから、そしたらいっしょにほめて」
「夜、ですか?」
「うん」
言うなり、禁書はぐりぐりとその頭をオーターの胸に押し付ける。
禁書が言うのだからきっとそうなのだろう。涙に絆されたと言えば余りにも陳腐だが、そう、信じてみたくなった。そうっと手を伸ばし、その小さな頭に触れる。ひと撫ですると、不思議そうにこちらを見上げて来る翠の瞳とかち合った。
「……すまない」
「……?」
「お前に、八つ当たりをしました」
もう一度、頭を撫でる。今度はついでにねじくれた角も。
思っていたよりもゴツゴツとした感触のその角は、彼が人ならざる者だとありありと伝えて来る。きっと意識が発生してから今まで、「生きている」と評せる年月もオーターよりずっと長いだろう。それでも。……それでも、不思議そうにこちらを見詰めるその瞳は、小さな子供のようだった。自らの罪悪感から逃れる為にも、オーターは努めて優しく、頭を撫でる。
「……お前は、ワースの大切な禁書です」
「…………」
素直に頭を撫でられ続けている禁書は、くふ、と小さく笑った。その頬に伸びる涙の痕は、もうほんの少し赤いばかりで流れてはいない。へにゃりと顔を崩した禁書はしかし、内緒話をするように口元に手を添えた。
「でもね、でもね、ワースも悪いのよ。ぼく、ちゃんと、ワースが使うにはまだ「重い」とおもうってつたえたのに」
「……?「重い」?」
「うん」
こっくりと、深く禁書は頷く。
何か、意味のある言葉なのだろう。「こまっちゃうよねぇ、」と禁書はフンスフンスと鼻息を荒くする。
「だからね、あのね、ワースが起きたら、一緒に「めっ」って、叱ってね」
眉を吊り上げた禁書の顔は、こっそり洗濯機や掃除機をいじろうとしたオーターを見るワースの顔によく似ていた。他愛のない生活風景を思い出して、オーターの頬も弛む。
「……分かりました。一緒に、叱ってやらねばなりませんね」
膝の上に禁書を乗せたまま、そっとワースの額に手を伸ばす。撫で付けたその額はあたたかかった。きゅっと唇を噛み締める。このままで、良いはずがなかった。どうにかしなければならない。そっと瞳を閉じる。オーターはそのままじっくりと、思考の海に沈んでいった。