高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2026年08月24日 18:00    文字数:17,460

102こ目;なんでもない今日のこと

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新シリーズ2話めは、蒼生のお話。
朝目が覚めて、夜寝るまでの本当になんでもない1日をお届けします。
↑初公開時キャプション↑
2024/08/23初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
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 急に目の前が眩しくなったような気がして、ふうっと目が覚めた。うーん、すごく楽しい夢を見てたなぁ。現実の世界を見た瞬間から急に景色が遠くなっていって、もうだいぶぼんやりしてる。覚えてるのは、劇場に行こうとしてたっていうくだりだ。経緯は忘れちゃったけど、なぜかお芝居のチケットが手に入ったから絶対行かなきゃって大学を出た。なのに妙なトラブルに巻き込まれて、電車に乗ったりデパートに寄ったりでなかなか辿り着けない。でも健ちゃんと冬矢がそばにいて大丈夫だよって何度も助けてくれたから、次々難題を突破して、なんとか開演に間に合った。広い劇場のふわふわなシートに座って、両側のふたりに「楽しみだね」って話しながらわくわくして……たところで目が覚めちゃった。せっかくだから劇の中身までちゃんと見たかったな。
 ぱちぱちと瞬きをして、僕はようやく眩しかった原因に気が付く。寝室のドアの小窓がだいぶ明るくなってて、目覚めかけてた頭にはそれが強い刺激になったらしい。夏だから明るくなるのが早いし、光を遮ってくれる人がいないし、っていうのが眠りの浅くなるタイミングに重なったんだろうな。
 僕の目の前には、空っぽのベッド。薄い布団が足元で丸まってて、出てったそのままなのがわかる。僕を起こさないようにこっそり出かけて行ったんだろうなっていうのが伝わってきて嬉しくもあるし、気付いて顔を見たかったっていう寂しい気持ちも……。ううん、早起きしてちゃんとランニングに行ったってことは、健ちゃんが今日も元気だって証拠なんだ。少しでも調子がよくない時はきちんと自分で判断して休んだりするんだから。うん。よかった。
 健ちゃんが戻ってきてないってことは、起きるにはちょっと早い。もう少し寝ててもいいんだよね。背中をねじりながら寝返りを打つ。すると、反対側にはまだ眠ってる冬矢の顔。
 ……えへへ。僕のが先に起きるのってなかなかない。嬉しい。穏やかな寝息は聞いてるだけですごく安心する。ああ、いつ見ても綺麗な顔だなあ。どこが好きかって聞かれても困っちゃうけど、ふふ、目を閉じた時の睫毛とか好きかも。じっくり眺められるもんね。だけど力が抜けて幼く見える優しい眉のかたちとか、触れたら柔らかい薄い唇とか、するりと滑らかな頬のラインとか、見れば見るほど全部、あーもう、全部好き。
 なんか胸がぎゅーっとなって、僕はこっそり冬矢の肩に頬を寄せた。よし、大丈夫、気付かれてなさそうだ。……体温のほかほかが吸い込む息と一緒に体の中に入ってくる。それだけでも嬉しいのに、こんなかっこいい人を独り占めしちゃってるんだなって思うと、頭の中はファンファーレが鳴ってるみたいに大騒ぎになる。思わず腕を引いて起こして、好きだよって伝えたくなっちゃう。いや、せっかくの機会だし、寝顔をもっと堪能するほうが重要かな。
 ふいに冬矢の腕が動いて、僕の上にどさりと乗っかってきた。あれ。
「朝から熱烈な視線だね」
 笑い含みの声。あっ。
「ごめんね、起こしちゃった」
「いいじゃないか、大好きな恋人の視線に起こされるなんて、最高に幸せだよ」
 腕の中から見上げると、怒ってるどころかすごく嬉しそうな顔をした冬矢と目が合う。心臓がぴょんと跳ねた。うー、寝起きでもかっこいいんだもんなあ。それに、……まっすぐに僕を見てくれる瞳の色がとても優しくて、やっぱりこの視線が一番好きかもしれないなって思った。
「改めて、おはよう蒼生」
「ふふ。おはよ。ね、起きたついでにくっついてもいい?」
「もちろん。俺の体は蒼生のためにいつでも最優先で空けてあるからね」
 最優先だって。嬉しいな。許可が下りたから、僕は遠慮なく近寄って冬矢の胸に顔をうずめた。僕の上にあった腕がぎゅっと背中に回って、抱き締めてくれる形になる。あったかくて、気持ちよくて、大好きなにおいに包まれて。また寝ちゃいそうだ。
 すると、頭のてっぺんあたりに柔らかい感触。あ、キスしてくれた。ふふふ。
「そうか、健太がいないから寂しくなってこっちに来たのかな」
 えっ。
 意外な冬矢の言葉に、僕は一瞬言葉を失う。だって、そんな、かわりとかそんなこと思ったことない。だけど健ちゃんの姿がなかったことに寂しいと思ったのもたしかで……。
 否定の言葉を探してるうちに、冬矢は笑って僕の背をぽんぽんと叩いた。
「いいんだよ、それで。俺がいても健太がいなくて寂しいと蒼生が思うのは、俺と健太が別の存在だということなんだから」
「……どういうこと?」
「蒼生が俺たちのことを“どちらでもいい”と思っているわけではないから、って言い換えてもいいかな。健太は健太として、俺は俺として愛してくれているんだよね。恋人はふたりいるんだからどっちでもいいやとはならないだろう?」
「ならない。……じゃあ、健ちゃんのぶんが足りなくて寂しくなっちゃってもいいんだ」
「そう」
 なんでもないふうに、冬矢は頷いた。
 ええと。ちょっと考えをまとめてみる。たとえば冬矢が友達と別れた直後に寂しいって言いだしたら……うーん、それはなんとも思わない。また会う約束をしたらいいよね。でもじゃあ、昔の恋人と別れたのが寂しいって言われたら、…………。それはちょっと嫌かもしれない。終わったことだとわかっていても、たぶん僕は落ち込むと思う。自分の好きな人が他の好きな人を想ってるっていうのはさすがになんていうか、もやもやする。僕たちは恋人同士だから、どっちかっていえば後ろのほうの考え方だよね。つまり僕が自分じゃない好きな人に会いたくて寂しいと言ったら、ふたりは同じようにもやもやするんじゃないだろうか。なのに冬矢はそれでいいって言う。寂しくてもいいって。……んー。3人でのお付き合いだとそのへんもちょっと普通とは違うのかな……?
 考えてもよくわかんなかったけど、少なくとも僕の正直な気持ちはちゃんと伝えておかなくちゃ。
「……あのね、冬矢」
「なに?」
「目を開けてベッドが広かったから寂しかったって気持ちがあったのは本当だよ。だけど冬矢にくっついたのは寂しかったからじゃなくて、冬矢の顔見て嬉しくなっちゃったからなんだ。大好きな人の顔を一番に見られて、それがあんまりにもかっこよかったからテンションが上がっちゃったの。慰めてほしいとは思ってなくて……ええと、つまり何が言いたいかというと、今の僕は冬矢に抱き締められて嬉しいっていう気持ちのほうが、えっと」
 むむ、自分でも何言ってるかわかんなくなってきたぞ。
「とにかく、冬矢が僕をいっぱい“大好き”で満たしてくれるから、今は寂しいなんて思ってないよって言いたくて」
 冬矢は目を細めて笑う。
「ありがとう。嬉しいよ。そう思ってくれているのは知っているけれど、蒼生の言葉で聞くともっと嬉しくなる」
 それから頭を撫でてくれて、そのまま額に手が当てられたなあと思うと、前髪をかき上げてそこにキスをひとつ。わあ……!
「蒼生、真っ赤」
「だ、だってびっくりしたから。ふいうち……!」
「さっきもしたのに、赤くなるのは今なのか。ふふふ、可愛いね」
 どこをどう見たら僕が可愛く見えるのか、やっぱり今でも全然理解ができない。初めの頃は揶揄われてるんだろうかって不安になることもあったっけ。だけど冬矢が本気でそう言ってることがわかったから、それでいいかなって思ってる。まあその、照れるけど、……嬉しいし。
 優しい手が、頬に降りた。手のひらで頬を包み込まれる感じ。あ、これ、すごく好きなやつ。気持ちいい。
「……蒼生」
「んー?」
「さっきは少し冗談みたいな言い方になってしまったけれど、寂しがることは本当に悪くないよ。俺と健太は互いにそれで了承しているんだ。俺たちの間には意外にも信頼関係があるからね」
 うん。お互いのことをちゃんと認めてるって知ってる。だってふたりのことは僕が一番よく見てるんだから。
 でもその続きを聞きたくて、僕はわざと首を傾げた。
「そうなの?」
「ああ。自分がどうしてもそばにいられない間、世界で一番大切な存在を託せる相手だと思っているよ」
「大切なのって僕のこと?」
「もちろん。わかっていて聞きたがっているんだろう? 蒼生も欲張りだね」
「えへへ」
 世界で一番って言われたのも嬉しいけど、冬矢が健ちゃんのことを信頼してるって言葉にしてくれるのも嬉しかった。大好きな人同士だもん、仲違いはしてほしくない。友達じゃなくて信頼関係っていうのも冬矢らしくていいな。だとすると、健ちゃんは安心して僕を冬矢に預けて行ったってことになるのかな。暗黙の了解でそうなってるなら、なんか可愛いな。
「そろそろ起きる?」
 聞くと、冬矢はまた僕のことをぎゅっと抱き締めた。
「もう少しこうしていよう。そろそろ健太も帰ってくるだろうし、あいつがシャワーを浴びている間に朝食を用意すればいい」
「そうだね」
 改めて冬矢にしがみつき、深呼吸をする。満たされる感じ。すごく心地いい。
 ……あ。今、微かに物音がした。玄関のドアが開いたみたい。耳を澄ましていると、小さな物音が少しずつ大きくなってくる。あれ、冬矢の腕の力が強くなった。その直後、背後から寝室のドアが静かに開く音。
「おかえりぃ」
 顔を上げられなくて見えないけど、健ちゃんの気配だったから、声をかける。
「ただいま! いいな、オレも蒼生とぎゅーしたい!」
 体が揺れて、健ちゃんがベッドに膝をついたのがわかる。
「こら。汗だくなんだろう」
「えー。そうだけどー。手は洗ったからセーフってことにならねえかな。だってさ、おまえばっか蒼生だっこしてズルいじゃん」
「羨ましいか」
「羨ましいわ」
 ふ、ふ。冬矢の言うことを聞いてベッドから下りる健ちゃんも、言葉ではちょっと意地悪しながら手を少し緩めてくれる冬矢も、たまらなく大好き。
 冬矢と一緒に体を起こすと、元気いっぱいな健ちゃんの笑顔。
「おはよ」
「おはよう」
 まだしてなかった朝の挨拶を交わすと、健ちゃんががばっと抱き付いてきた。ふふ、汗びっしょり。

 朝ごはんが終わって一息つくと、冬矢はバイトに出かけていく。
「気を付けて」
「ありがとう。終わったら連絡するから」
「待ってる。早く帰ってきてね」
「そのつもりだよ。蒼生に早く会いたいからね」
 冬矢は笑ってもう一度キスをくれた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 ぱたんと閉まるドア。少し待ってから鍵を閉めると、勝手に息が口から漏れた。今朝あんな話をしてたんだから、僕が寂しいと思っているのはどうせ冬矢にはバレてるんだろう。だからその気持ちをそのまんま出しちゃえって開き直ってお見送りをしてみたんだけど……。わがまますぎるって思われてないかな。鬱陶しいと思われてないかな。どうしよう。嫌われてないかな。心配で心がずっしり重くなる。
 でもいつまでも玄関にいるわけにいかないし、リビングに戻る。水の音が聞こえてきたからそっちを見ると、キッチンでは健ちゃんが洗い物をしてくれてる。
「お。冬矢は無事出かけた?」
「うん」
「やっぱ3人の休みを全部揃えるのって難しいよなあ。あいつだって1日中蒼生といたいはずなのにさ」
 健ちゃんの口調からは、なんの他意も感じない。本当に言葉通り冬矢に同情してるんだろうな。もしかすると、僕よりふたりのほうがお互いに理解し合ってるのかもしれない。
「あっ、そうだ。蒼生、オレ大事なこと忘れてた」
「え? なに?」
「ちょっと後ろから腰に巻き付いてくんない?」
「? こう?」
 大事なことって何だろう。健ちゃんの腰に手を回して、腕でぎゅっと抱きつく。広い背中に体がくっついて、……普段とは逆だね。んー。あったかくて気持ちいい。
 そのまま健ちゃんは何も言わずにご機嫌に鼻歌を歌いながらお皿を洗うのを再開する。あれ?
「……ねえ、健ちゃん。なにか大事なことがあったんじゃないの?」
「今してもらってる。ほら、朝、冬矢ばっか蒼生とぎゅーしてたから羨ましかったんだって言ったろ」
 えっ、それだけ? と、一瞬思ったけど。言われてみれば、健ちゃんがシャワーを浴びて出てきた時には朝ごはんの準備は終わってた。そのままごはんして身支度してってばたばただったから、うん。そうだね。ゆっくり抱き合ってない。ふふ。これはすごく大事なことだったね。
「背中越しでいいの」
「だって前からにしたら蒼生の背中越しに食器洗いすることになるだろ。びしょびしょになっちゃうじゃん。だから、前からは終わったらじっくり堪能する!」
「あははっ。そうだね」
 冬矢のぶんは寂しいけど、その気持ちを抱えたまんま健ちゃんに寄り掛かってもいいんだって冬矢は言う。冬矢は健ちゃんに僕の中にある寂しさごと僕を託して出かけていったんだ。つまり今の僕は目の前にいる健ちゃんの思いに応えるのが正解なんだと思う。そのかわり、冬矢が帰ってきたら冬矢にもいっぱい構ってもらおう。
 背中に頬を擦り付けると、健ちゃんがくすぐったそうに体をよじった。
「うわー、なんか可愛い気配がする……っ」
 なんだそれ。健ちゃんの表現って時々よくわかんない。けど喜んでくれてる感じはするから、まあいっか。
 ……心音が聞こえる。とく、とく、って。
「蒼生」
 空気越しじゃなくて直接体から響いてくる声。好きだなあ。
「これ洗い終わったら、荷物出しに行ってくるな」
 ん? 僕を正面から抱き締めてくれるんじゃなかったっけ?
 顔を上げてカウンターを見ると、大きめの封筒が置いてある。厚みがあって、書類が入ってるとかではなさそう。書かれた住所は健ちゃんの実家で、妹のみのりちゃん宛てだ。
「ひとりで行くの?」
「今日めちゃくちゃ暑いから、蒼生はうちにいて。ダッシュで行ってくるからすぐ帰るよ。あ、そだ、昼はハンバーガーにしない? ちょっと足伸ばせばすぐだし」
「いいね。けっこう久し振りかも。僕、レモンのやつが食べたいな。あと新商品のえびのやつ」
「食べたいって言ってたもんな。他には何かある? ついでに買うものがあればどこでも行ってくるよ」
「んー……そしたらねえ、もやしを大きいので1袋と、キャベツ1玉」
「了解~」
 ひとりで出かけちゃうのか。僕も連れてってくれればいいのにな。って、大丈夫大丈夫。すぐに帰ってくるんだもんね。それに、荷物のほうが言い訳らしい。この前ふたりで出かけた時に、僕がふと店の前で呟いたのをしっかり覚えててくれたんだ。
 洗い物を全部終わらせると、健ちゃんは荷物とスポーツドリンクのペットボトルを持って本当にひとりで出かけて行った。あ、向き合ってぎゅーってしていくのは忘れられてなかった。よかった。あと目が合うのが嬉しくて、何度かキスもした。だいぶ満足はしたけれど、それでも廊下を歩いてく背中を見て、やっぱりちょっとついていきたかったなーっていう気持ちは消せなかった。
 追いかけそうになった僕の足を止めたのは、洗濯機のピーピー呼ぶ音だ。いけない、洗濯してたんだっけ。どっちにしてもこれを放っておいて出かけるわけにはいかなかったね。しゃがんで蓋を開けると、白い大きな塊を取り出す。中身はシーツだ。……ほら、まあ、いろいろ、その、汚れるしね、汗だっていっぱいかくしね、こまめに洗濯はしておかないと。替えはクローゼットの中にたくさんあるけど、もしかしたら明日も洗うかもしれないもんね。さて、洗濯物はまだあるぞ。洗濯籠の中、一番上には今朝脱いだばかりのパジャマがあって、その下には昨日着てた服。天気がいいからすぐ乾くだろうな。肌についてたほうを表にしたほうがいいって聞いたから、1枚1枚裏返しにして、数を数えるために床に置いて、
 …………。
 ちょ、ちょっとだけ。ちょっとだけ、ね。
 僕は目の前に出来た小さな山に、ぱふっと顔を埋めてみる。ん、これはすごく落ち着く、冬矢の匂い。はー。こっちは、心が跳ねるような、健ちゃんの匂い。あー……。好き……。胸の中からぽわっとあったかいのが出てきた感じ。それがあっという間にぎゅっと固まって、指先に動いていく。気付いたら、僕はふたりの服を握りしめていた。離れたくない、離したくないって言葉は、あとから追ってくる。このまま山の一部になっちゃいたい。
 いやいや、だめだめ。
「はーっ。続きやらなくちゃ」
 自分の体を起こすために、敢えて声を出す。いくら買い物があるから時間がかかるとはいえ、健ちゃんが帰ってきちゃったら大変だ。この体勢を見られたらだいぶ恥ずかしい。ふたりの匂いが好きだから抱き締めてましたって? さすがにそれは引くよね。引く……うーん……喜びそうな気もする。
 とにかく、だ。早くシーツを干さなくちゃ。名残惜しいけど服のほうは洗濯機に全部お任せしてベランダに向かう。……って、うわ。玄関先でも感じたけど、外に出るとめちゃくちゃ暑い。風が少しあるから気温はそんなになさそうだけど、湿度がやたらと高い気がする。日差しも痛いくらいだ。わー、こんな中ふたりはでかけていったんだなあ。冬矢が帰ってくる頃には涼しくなってるといいんだけど。あと、やっぱり健ちゃんは僕に暑い思いをさせたくないからってひとりで行ったんだ。置いてった訳じゃない。そっかぁ……甘やかされてるなあ……。
 キッチンでレタスをちぎってると、健ちゃんが帰って来た。え、もう? 思ってたより全然早い。
「ただいま蒼生~」
「おかえりなさい! 暑かったでしょ」
「うん、なかなか強烈だったー。すごいよ、道に人いないもん。公園の水遊び池は混んでるのかなーと思って覗いてみたんだけど、暑すぎて一家族しかいねえんでやんの。オレは暑いの嫌いじゃないから平気だけど」
 とは言うけど、手にしたペットボトルはもう空っぽだ。行きと帰りで飲み切っちゃうほど暑かったんだろうなあ。
「もう一度シャワー浴びたら?」
「ん、あとでにする。まずはお昼にしよ。ポテトもおっきいのにしたし。それから、新商品ではちみつパイと桃カスタードパイが出ててさー、それも買ってきちゃった」
「わあ、おっきい袋。食べきれるかなあ」
「大丈夫、案外イケちゃうって。甘いのは1個ずつだけだし。な、半分こしよ!」
「ふふ。うん」
 小さい頃の健ちゃんはおつかいを頼まれると、いつもリストにはないものを買ってきてた。それも、ちっちゃいクッキーとか飴とか、お菓子ばっかり。最初はご両親に怒られてたもののまったく懲りずに毎回買うもんだから、最終的には「お駄賃代わりに1個までね」って言われてたっけ。健ちゃんはそのお小言なんてどこ吹く風で、いつも僕のところに持ってきては半分こしよって言ってきた。当時の僕はその行動を「共犯者を作りたいのかな」と思ってたんだよね。まあ健ちゃんと一緒なら悪い子でもいいかって思って、ふたりでこっそり食べてた。
 今となっては、ただ僕に喜んでほしかったんだろうなあって思う。たぶんそれはちっちゃい子の純粋な「好き」って気持ちだったんだろう。いつからそれが恋愛の「好き」になったのかは健ちゃん自身もわかんないらしい。ただ、ずっと昔から僕のことを思ってくれてたのはたしかだ。けどそれを考える時、嬉しいのと同時に申し訳ない気分になる。そばにいたのが僕じゃなければ、もっと別の道に進めていたんじゃないかって。
「……健ちゃんって、昔から僕のこと好きだよね」
 ぼそりと呟くと、健ちゃんはハンバーガーを片手にレタスときゅうりだけの簡単なサラダを頬張りながら不思議そうに首を傾げた。
「んむ?」
 ごくんと飲み込んで、その表情はすぐににこにこになる。
「うん、大好きだよ。急にどした?」
 こんなこと言ったら健ちゃんに失礼だ。だけど、頭の中からどろりと澱んで零れたものを隠しておくのも怖い。
「……ごめんね、あの、……健ちゃんが僕のこと好きなのって、刷り込みだったりするのかなって」
「すりこみ? どういうこと?」
「小さい頃からずっと一緒にいるでしょ。それが当たり前だったから、そういう関係を“好き”だって勘違いしちゃったんだとしたら……」
 ぱちくりと目を見開いた健ちゃんは、ハンバーガーにかぶりつく。嫌なことを言ってる自覚がある。胸がきりきりと締め付けられるみたいだ。僕と目を合わせたままの健ちゃん。表情は変わらない。怒ってるとか困ってるとかでもなさそう……? どう思われたか怖い。
 健ちゃんは頷くと同時に、口を空っぽにした。
「そういうことか。んー。そうだなあ、生まれた時から隣にいたもんな。お互い大事なのが普通に当たり前だったら、蒼生の言う通り、勘違いだったのかもしれない」
「うん……」
「でもさぁ、オレ、その……、ほら、途中でよそ見しちゃってるんだよね。んで、恋愛らしきことを他の人ともしたわけだ。恋人とするそれっぽいこともある程度したんじゃないかな。けど楽しいはずなのに、なんか違うなーってなって。もしかしたら、恋愛っていうやつをやってみたかっただけなのかなって今は思うんだよね。そのおかげで蒼生が好きだって気付けたんだけどさ。んで、勘違いだったらここで戻ってくることはないんじゃないかなと思うわけ」
 そっ、か。そうだった。でも。
「……うん。だけど、怖いなって思うこともあるんだ。健ちゃんは、不安になったことない? 長い間一緒にいすぎて、惰性で好きだと思ってるんじゃないかって」
「あははっ」
 健ちゃんが声を上げて笑う。すごく簡単に。
「そんなん思ったことないなあ。蒼生はそれが怖いの? だけどさ、それってつまりは、蒼生はオレのこと、生まれてから今までずーっと変わらずに好きでいてくれてるってことだろ? なんも問題ないじゃん!」
 それから、太めのポテトをひょいとつまむと、僕の口に突っ込んできた。……かりかりして美味しい。
「蒼生はさー、オレのこと好きだよな」
「ん。らいふき」
「でしょー。オレも蒼生のことだーい好き! きっかけが万が一そういうことだったとしても、今この瞬間のオレたちは熱烈に愛し合ってんの。その事実だけでオレは満足だよ」
 事実。
「あ、もういっこ付け加えるとさ。恋人とするそれっぽいこと、蒼生としてみたらどれもこれも全部しっくりきたんだよな。想像してたのの倍以上に楽しくて嬉しくて、マジで幸せなんだ。これって、オレたち付き合って大正解! ってことじゃない? もはや運命って呼べるレベルだよ」
「……少しおおげさだと思うけど」
「そんなことないって。オレは蒼生と出会って恋人になれたことが人生で最高の幸せだって本気で思ってるもん」
 これから先、どんなことが起こってもそう言ってくれるんだろうか。……そんな言葉が頭をよぎったけど、健ちゃんなら言うだろう。ううん、健ちゃんだけじゃない。冬矢も同じように思ってくれてる。一緒に暮らして、いっぱい愛してもらって、絶対にそうだって言い切る自信がある。わかってるのに、どうして僕は不安になっちゃうんだろう。
「ありがとう。……変なこと言ってごめんね、健ちゃん」
「変じゃないよ。蒼生は頭いいから、きっといいことも悪いこともいろんなパターンを考えちゃうんでしょ。大丈夫! 蒼生の心配はオレが……いや、オレと冬矢がまずはきっちり受け止めて、それから3人で話し合って、悪いことが起こらないように努力する! つまり、オレたちはいい感じにバランスがとれてるってことだな」
 自信満々にそう言って胸を張る健ちゃんに、僕のもやもやは音を立てるようにすうっとしぼんでいった。
 嬉しそうな健ちゃんは、残りのハンバーガーを全部口の中に放り込む。大きな一口は、見ててすごく気持ちいい。
「やっぱ休みの日っていいな~。蒼生といっぱいおしゃべりができるから」
 僕のぐちゃぐちゃな発言は、その一言で「楽しいおしゃべり」に変わった。ふわっと爽やかな風が吹いたみたい。満たされて、今度はあったかい気持ちで胸がいっぱいになる。やっぱり健ちゃんは、すごい。

 結局健ちゃんはシャワーを浴びにはいかなかった。
「乾いちゃったからいいや。夜にする」
 ということらしい。僕は、なんというか、まったく構わないので「そっか」とだけ答えた。ちょっとだけ頬が緩んじゃったことはどうやらバレずに済んだみたいだ。
 ふたりして洗濯物を干し終えると、少し時間が空く。溜め込んでた本でも読もうかなあと本棚を眺めてたら、健ちゃんがゲーム機を抱えて駆け寄って来た。
「蒼生っ、ゲームやろ、ゲーム」
「対戦のやつ? 僕じゃ相手にしてもつまんないでしょ」
「冬矢が別格なだけで、蒼生だってへたじゃないじゃん。そうだったとしても蒼生と一緒なら当然つまんなくはないんだけど、今日は蒼生を倒す気分じゃないから、協力プレイのやつ! っていうか蒼生の力が必要なんだ。先週配信になって面白そうだからやってみたんだけど、パズル要素が強くてさ。オレひとりじゃできないから、手伝ってほしいなって」
 言いながら、そそくさとローテーブルにセッティングを始める。そういえば何日か前からテレビの前でうんうん唸ってたなあ。どのジャンルでも上手にこなす健ちゃんが苦戦するってことは、きっと難しいゲームなんだろう。僕にできるかわからないけど、健ちゃんに頼られること自体は嬉しい。
 ぽすんとソファに座った健ちゃんは、早速コントローラーを握る。僕も隣に座って、まずは健ちゃんがどんなふうにプレイするのかを見てみることにした。へえ、なんだか懐かしい感じのするドット絵のキャラクターが画面上にぽんと飛び出てきた。
「最初のほうの問題は何個かクリアしたんだ。こうやって、よっと。ここ飛び越えてー、こっちの出っ張ったボタンを押すとこれが出てくるんだよ。んで、こっちのキャラクターでここを上るだろ」
 画面を指さして説明しつつ、キャラクターをぴょんぴょんとジャンプさせて進み、床に突き出たボタンを押していく。途中で僕のコントローラーを手に取って別のキャラクターを操作して。ふむふむ、ひとりでやるときは複数キャラを切り替えて仕掛けを解いていくゲームなのか。わかってきたぞ。ちょっとしたアクションはあるけど、基本的には理論的な作業が必要みたい。
「なんだけどさ、これがいくらやっても壁が消えなくて」
「これ? うーん……。あっちのバーがこれで開くんだよね。ということはここが後になればいいわけで……。あ、わかった。左から2番目、3番目、1番目って順番で押すとどうだろう」
「なるほど! んじゃ、蒼生は3番のとこよろしく!」
「はーい」
「……せえの、で、えい。うわ! 崩れた! あーっ、そっか、これで進めるのかぁ。さすが蒼生は頼りになるなあ」
 ゲームのことではあるけど、僕は役に立ってるのか。ふーん。テンションが上がって思わず健ちゃんに寄り掛かると、健ちゃんもこっちに体重を掛けてくる。ちらりと見た横顔がにやにやしていて、それだけでも楽しくなっちゃう。
 解けなかった問題をひとつ克服したことで、健ちゃん自身もスイッチが入ったんだろう。そこからは比較的すいすい進んでいく。もしかすると、話しながらやってるからかえって考えが整理されるのかもしれない。難しいーってぶつぶつ言ってるけど、正解の道を見つけては楽しそうにキャラクターを動かす。
「へー、分岐点だ。どっち行ってもいいみたいだな。なあ蒼生、魚とリンゴどっちが好き?」
「僕が選ぶの? んーっと、じゃあ魚のほう」
「おっけ、こっちのドア開けるね」
 相談しながらできるのもいいなあ。あ、魚模様のドアの先は海だ。
 しばらくやってると、突然健ちゃんがソファに寝っ転がって、僕の太腿に頭を載せてきた。うーん、見にくくないのかな。
「横向きでも画面ちゃんと見られるの?」
「だいぶ慣れてきたから大丈夫~」
 そういうものなの? そりゃ健ちゃんがいいならいいんだけどね。けどたしかに画面は仕掛けがわかりやすいようにシンプルな構造になってる。操作に慣れればごろごろしながらでも出来るのかも。
「蒼生ぃ、回って上から降りて来てぇ」
「わかった」
 ふふ。とたんにちょっと甘えた口調になるところが可愛い。
「あれっ。第1章のボスだって。ボスとかいるんだ。えっ、制限時間以内にパズルを解けって……ヒントねえの?」
「どういう問題なのかもわかんないね。フィールド自体がパズルなのかな」
「えーとえーと、なんか意味ありげな穴は開いてんだよなー」
「あっ。健ちゃん、もしかして今までの問題で集めたコインって」
「あっ。ここで使うのか! なんか変な模様がついてんなって思ってた!」
 テレビゲームって、小さい頃はどっちかの家のリビングで家族そろって一緒にやるものだったんだよね。その頃から健ちゃんと僕の得意なゲームは違ってた。僕はひとりでじっくりやるゲームのほうが好きなんだけど、長い時間占領していられないから、ほとんどクリアまで行ったためしがない。対して健ちゃんは昔からアクションが好きで、一緒にやろうっていつも誘われてた。でも僕はやり始めても下手で迷惑をかけちゃうからすぐに離脱する。そこにきょうだいたちが乱入するっていうのがパターンだった。でもそれでよかったんだ。僕は健ちゃんが楽しそうにゲームをしてるのを横から見るのが好きだったんだから。
 もちろん今でも、隣に座って見てるのが好き。ただそれ以上に、こうやって健ちゃんが僕と一緒にやれそうなゲームを探してきてくれるのがものすごく嬉しい。一緒にプレイできるのって、こんなに楽しいことだったんだ。
「っしゃ! 倒した!」
 脚に乗っかったままの健ちゃんの笑顔。なんだかたまらなくなって頭を撫でると、短い髪のつんつんとした手触り。きゅーんと愛おしさで胸がいっぱいになる。
「んー?」
 健ちゃんはにこにこと僕を見上げてくる。だから、その唇にそっとキスをする。健ちゃんの目がぱちくりとまんまるくなった。
「ぁお……っ」
「邪魔してごめんね。キスしたくなっちゃった」
 そこからはあっという間だ。わわわ、と声を上げた健ちゃんが勢いよく起き上がり、僕をぎゅっと抱き締めるとそのままソファに転がった。
「うわー、うわー、可愛いっ。好きーっ」
 大きな体が遠慮なく覆い被さってるから、ソファに埋まっちゃいそうだ。ふふふ。
「僕も好きぃ」
「やべえ、大変だ! オレたち両想いじゃんか!」
「あははっ、それは大変だ」
 僕が笑ったのを見て、健ちゃんはますます腕に力を込める。ちらっと画面を見ると、キャラクターもぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいた。
「ゲームはいいの?」
「オートセーブだから大丈夫だし、今は蒼生と一緒に休憩するのが最適だと判断した! は~、蒼生、あったかい。えへへ」
 弾んだ健ちゃんの声が、くっついた胸から直接聞こえるみたい。それだけじゃなくて、あったかさも、大好きな匂いも、全部で包み込まれてるみたい。嬉しい。気持ちいい。
 ああ、大好きだなあ。
 気持ちい、い……。
 …………ん?
 あれ? 僕たちはソファに横になっておしゃべりをしてたはずだ。あれ? いつの間にか寝てた? 僕の上にいたはずの健ちゃんはソファの背中側にいて、後ろから僕が落ちないように抱き締めてくれている。首筋に感じる、静かな寝息。う、また眠くなりそう。
 目を上げて時計を眺めると、そんなに長い時間寝ちゃったわけじゃない。だけどそろそろ夜ごはんの支度を始めないと。
「健ちゃん。健ちゃん、ごめんね。手、ちょっとだけどかしてくれる?」
「んー……やだー。もっと抱っこする……」
「それは僕も嬉しいんだけど、ごはんが作れなくなっちゃう」
 もぞもぞと腰のあたりで手が動く。くすぐったい。
「うー、ごはん……。今日のごはんはなにぃ……?」
「オムライスと、温野菜にゆで豚載せたやつ。あとスープかなって思ってるんだけど、どうかな」
「オムライス!」
 わ。急に声が元気になったぞ。その一言で目が覚めたみたい。
「なあなあ、ソーセージ入れて、ソーセージ」
「うん、わかった。健ちゃん好きだもんね」
 健ちゃんは僕を抱えたまま起き上がった。どうやらこのままでいるつもりみたい。半分運ばれるみたいに歩くのが面白かった。さすがにキッチンに着くと唇を尖らせながら手を離してくれたけど。
 そうしてふたりでごはんの支度をしてるうちに、冬矢が帰って来た。僕たちの姿を見て、目を細める。
「ふたりだけで羨ましいな。俺も仲間に入れてくれる?」
 ふふふ。もちろん、僕は元気よく頷いた。

 洗面所から出たところで、健ちゃんとばったり会った。廊下に立ってるとは思わなかったから、ちょっとびっくり。
「そこで待ってたの?」
「蒼生が風呂からあがる気配があったから、待ちきれなくてここまで来てた。秒で出るから、一緒に寝ような」
「えー。ちゃんと綺麗にしてきてくださーい」
「あははっ、了解でーす」
 健ちゃんは通り過ぎがてら、頬にキスをしていく。ああ、顔がにやけちゃう。
 それを隠すために、濡れたままの髪をタオルでわさわさと拭くふりをしながらリビングに戻る。けど、冬矢の小さく笑う声がする。だよね、リビングのドア開いてたもん、ばっちり聞こえてた……どころか見えてたよね……。ちょっと恥ずかしい。
「……可愛い蒼生、こっちにおいで」
 少しからかってるみたいな声色。僕はそれが大好きなんだ。普段穏やかで優しい話し方をする冬矢が、ちょっとだけ意地悪気な顔で楽しそうに言葉を跳ねさせるから。そんなふうに可愛い表情を見せてくれるのって、冬矢が僕にすっかり気を許してくれてることの証明だしね。
 冬矢はソファに座ってる。誘われるままにカーペットに座り込んでソファに寄りかかれば、両側に冬矢の脚があって。なんだか嬉しくなってきちゃって、思わず両腕で片っぽずつ抱え込む。すると頭のタオルに冬矢が顔を埋めてきた。くすぐったい。
「さらに可愛いことをしてくれるね。ずいぶん積極的じゃないか」
「邪魔だったりする?」
「ふふ、しないよ。蒼生に触れられてそんなふうに思うはずがない」
「よかった。……あのね、冬矢が呼んでくれたことが嬉しかったんだ。だから、つい」
「なるほど、理由まで可愛いわけだ」
 嬉しそうな声を聞いて、僕の脳内はさらに盛り上がってしまう。もう夜で、まさに寝る準備をしてるっていうのに、目が冴えてしまいそう。できればこのまま立ち上がって振り向いて、全力で腕の中に飛び込みたい。でも、冬矢は今僕の髪を乾かそうとしてくれているんだ。それを僕本人が邪魔しちゃいけないよね……。
 タオルが取り去られたのを目で追うと、冬矢が脇に置いたドライヤーに手を伸ばすところだった。
「ねえ冬矢。今度、オムライスの作り方教えて」
 冬矢は手を止めて首を傾げる。
「作り方? 蒼生が作ってくれた夕飯のオムライス、とても美味しかったよ。さっきも言ったけれど、彩りが綺麗で見た瞬間食欲をそそられたし、具と味付けのバランスも良くて、最高の御馳走だった。俺が補足するようなことはなにもないと思うけれど」
「う……。冬矢は褒めすぎだと思う……」
「褒めているというよりも、素直な感想だよ。健太だって大喜びで食べていたじゃないか」
「……うん。でも、どっちかっていうと、ごはんの上にスクランブルエッグを載せたみたいでしょ。冬矢の作るかっこいいのも作ってみたいんだ」
 ああ、と冬矢が表情を和らげた。
「卵で包む形で作ってみたいということか。たしかに、オムライスと言われて思い描くのはあの形かもしれないね。じゃあ今度練習しようか。でもね、蒼生。ひとつ覚えていてほしいんだけれど、俺は蒼生が作るオムライスのほうが好きだよ」
 えっ。
「そうなの?」
「そう。バターたっぷりで濃厚な味わいが見事だからね。俺の作るものとは別物だと思っている。健太にも聞いてごらん、きっと同じことを言うよ。……さあ、ドライヤーをかけよう。前を向いて」
 言われた通りに視線を戻す。すぐにかちりと音がして、あったかい風と優しい手が僕の頭を包み込む。
 ……へえ。そうなんだ。冬矢の作るオムライスはびしっと楕円の形をしていて、絵に描いたように上手にトマトソースがかかってる。しかも、すごーく美味しい。初めて食べた時には、同い年の人がこんなに美味しいオムライスを作れるんだって感動したのをはっきり覚えてるんだ。なのに、冬矢は僕が作ったののほうが好きなのかぁ……。
 料理上手な冬矢の言葉は素直に嬉しい。僕は誰かに褒められると、気を遣われてるんだろうなってすごく憂鬱な気分になるんだけど、今そう言ってくれたのは冬矢だもん。口ではどう言っても裏で何を考えているのかわかんない余所の人たちとは違う。ちゃんとそう思って伝えてくれてるんだ。
 いつも嬉しい言葉をくれる冬矢。何かお返しが出来ないかなあ。僕は冬矢の手を止めさせない程度に顔を後ろに向ける。目が合った冬矢は、ふっと目を細めた。
「どうした?」
 あ、そうだ。
「いつもやってもらってばっかりだし、今度冬矢の髪も乾かしてみたい」
「俺の?」
 あれ。いい提案だと思ったんだけど。顔がわずかに曇る。
「……いや。俺はいいかな」
 しまった。わからないけど、なにかとても良くないことを言ったんだ。ひゅっとおなかの底が冷たくなった気がした。
「ご、ごめんなさい」
「ごめん、俺こそ謝らせるつもりはなかった、ごめんね。なんと言ったらいいのか……俺自身説明するのがとても難しいんだけれど、蒼生にしてもらうのは少し抵抗がある。俺が蒼生にしておいて、自分にはしないでほしいというのもおかしな話だとはわかっているんだよ。これは……本当に俺自身の踏ん切りの問題なんだ。いずれきちんと蒼生が納得できる言葉でまとめるられるようになったら話すから、それまではただ甘やかさせてほしい」
「うん……」
 心臓がずきんと痛む。
 そんな気はしてたけど、気のせいじゃなかったんだ。僕が冬矢に何かしようとすると、わずかに嫌がるような素振りを見せることがある。本当にごくたまにだから、なんで、いつそうなるのかは僕にはわからない。でも冬矢が自分でも説明しづらいって言うんだから、僕が何故かを察するなんておこがましいことなんだろう。
 ん……。でも少なくとも今は、髪を乾かすのを断られた。僕にはよくて、冬矢にはダメ? 僕のことは全部しようとしてくれているのに、僕がするのはいけない、のだとしたら。
「……もしかして、冬矢は何も出来ない僕のほうがいいの?」
「それは違う」
 はっきりとした答えが返ってきた。冬矢はドライヤーのスイッチを切って、僕の顔を後ろから覗き込んでくる。真剣でまっすぐな眼差しだ。不安に揺れた僕を、強い力で繋ぎ止めてくれるような深さをもった瞳。
「違うよ、蒼生。俺はなんでも出来る蒼生が、俺に甘やかされているのが好きなんだよ」
「冬矢……」
「我慢強いし努力家だし頭も切れるし、蒼生がひとりで生きていけることは知っている。なのに俺を心から信じてすべて委ねてくれている。それが嬉しいんだ」
 そっか。
 うん。
 冬矢の言葉は優しく僕に染み込んで、不安な心を洗い流していく。
「……言葉に出来るようになったら、教えてね」
「わかった。……ありがとう、蒼生」
 そうだよね。僕自身、大丈夫だってわかっているのに、ちょっとしたことですぐ不安になったり怖くなったりしてしまう。どうしてそうなるのかって聞かれても説明なんかできない。誰にだって自分でどうしようもないことはあるんだ。
 だけど、冬矢はいつか考えをまとめて説明するって言ってくれた。冬矢は約束を破ったりしないんだ。だから僕は焦って急かしたりしちゃいけない。静かに待つべきなんだと思う。
 再び冬矢はドライヤーのスイッチを入れる。髪を梳いてくれる優しい手。それを信じていればいい。
「蒼生」
「うん?」
「さっきの話だけれどね。俺が本当に何もできない蒼生が好きなんだとしたら、食事の支度を任せたりしないし、健太の世話を焼くのも止めると思うよ」
 あ、なるほど。
「たしかに、それはそうだね」
 別に僕のすべてを拒否されているわけじゃない。むしろ僕がすることに喜んでくれてるのを知ってる。うん、落ち込む必要はないんだよね。冬矢の言う抵抗感が現れるほうが珍しいんだから、つまりはいつもと違うことをする時はきちんと確認してからすればいいんだ。
「お待たせー!」
 ドアが開いて、健ちゃんの上機嫌な声が飛び込んでくる。ほんとに早いなあ。
「健ちゃん、おかえり」
「ずいぶん早いな。手を抜いてきたんじゃないか?」
 どうやら僕と同じことを考えてたらしい冬矢が不満げに零すと、健ちゃんはダイニングテーブルに置いてあったお茶を飲み干して僕の目の前にしゃがみ込む。それからにこにこと僕の両手を握った。あったかい。
「手際がいいんだよ。ちゃーんとオレも風呂場もぴっかぴかにしてきたぜ。蒼生と早くいちゃいちゃしたかったから!」
 かちっと冬矢がドライヤーを切る。
「さあ蒼生、終わったよ。一緒に歯磨きをしに行こうか」
「あっ、まだ蒼生を離さないつもりだな!」
「離すわけがないだろう。せっかくのいちゃいちゃタイムを邪魔するな」
「蒼生はオレといちゃいちゃすんのー!」
 健ちゃんが腕を引っ張ってきて、冬矢がそれを阻止しようと後ろから僕を抱き締める。健ちゃんは諦めて足を引っ張ることにしたらしい。……ふふふ、なんだこれ。
「なんか搬送されてるみたい」
「おっ。ホントだ。このままベッドに運びたいなー」
「だから支度が済んでいないと言っているだろう」
 ひょいっとふたりがかりで体を持ち上げられた僕は、そのまま洗面所に運ばれていく。さすがにそこでは下ろしてもらえたけど。いや、ずっと両側から腰を抱かれたままだったから、結局離してもらってないな? そういえば、これってさっき健ちゃんがくっついて離れなかった時と一緒だ。あはは、1日で2回もこんなふうになることってあるんだね。あれ、朝も冬矢が離してくれなかったっけ。じゃあ、3回だ。
 寝室に行くのにも、健ちゃんが抱っこしてくれた。冬矢はドアを通る時に危ないからって一度は手を離したものの、ベッドから僕を迎え入れてくれる。さらさらのシーツに、ふたりの匂い。嬉しくて、楽しくて、あったかい。
「明日はゴミの日だっけ」
「うん、資源ゴミ」
「まとめてあるから、一番先に起きた誰かが出せばいいね」
「じゃオレかな」
 枕に頭を載せて。布団を被って。なんでもない話をしながら眠りにつく。
 あー、幸せってこういうことなのかも。
 ふたりが僕の手を両側から握る。
「蒼生、おやすみ」
 冬矢が額にキスをくれる。
「おやすみ蒼生!」
 健ちゃんは頬に。
「おやすみなさい、冬矢、健ちゃん」
 ふたりが僕を見る優しい笑顔。大好きなふたりに囲まれてると、すごくほっとして、ふうっと眠気がやってくる。僕はここにいていいんだ。僕の場所はここなんだ。
 このまま夢の中でも会いたいな。そう思って、僕は心の中で首を振る。だって、早く起きて現実のふたりと賑やかで穏やかなあったかい日常を過ごすほうがずっといいと思うから。そうだ、明日起きたら、健ちゃんに僕と冬矢のオムライス、どっちが好きか聞かなくちゃ。やっぱり全然別物で、どっちも好きって言うのかな。
 眠りに落ちる瞬間、あれっ。また柔らかな唇の感触がした。……やっぱり夢より本物のほうがずっと甘いや。ふふ。

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102こ目;なんでもない今日のこと
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 急に目の前が眩しくなったような気がして、ふうっと目が覚めた。うーん、すごく楽しい夢を見てたなぁ。現実の世界を見た瞬間から急に景色が遠くなっていって、もうだいぶぼんやりしてる。覚えてるのは、劇場に行こうとしてたっていうくだりだ。経緯は忘れちゃったけど、なぜかお芝居のチケットが手に入ったから絶対行かなきゃって大学を出た。なのに妙なトラブルに巻き込まれて、電車に乗ったりデパートに寄ったりでなかなか辿り着けない。でも健ちゃんと冬矢がそばにいて大丈夫だよって何度も助けてくれたから、次々難題を突破して、なんとか開演に間に合った。広い劇場のふわふわなシートに座って、両側のふたりに「楽しみだね」って話しながらわくわくして……たところで目が覚めちゃった。せっかくだから劇の中身までちゃんと見たかったな。
 ぱちぱちと瞬きをして、僕はようやく眩しかった原因に気が付く。寝室のドアの小窓がだいぶ明るくなってて、目覚めかけてた頭にはそれが強い刺激になったらしい。夏だから明るくなるのが早いし、光を遮ってくれる人がいないし、っていうのが眠りの浅くなるタイミングに重なったんだろうな。
 僕の目の前には、空っぽのベッド。薄い布団が足元で丸まってて、出てったそのままなのがわかる。僕を起こさないようにこっそり出かけて行ったんだろうなっていうのが伝わってきて嬉しくもあるし、気付いて顔を見たかったっていう寂しい気持ちも……。ううん、早起きしてちゃんとランニングに行ったってことは、健ちゃんが今日も元気だって証拠なんだ。少しでも調子がよくない時はきちんと自分で判断して休んだりするんだから。うん。よかった。
 健ちゃんが戻ってきてないってことは、起きるにはちょっと早い。もう少し寝ててもいいんだよね。背中をねじりながら寝返りを打つ。すると、反対側にはまだ眠ってる冬矢の顔。
 ……えへへ。僕のが先に起きるのってなかなかない。嬉しい。穏やかな寝息は聞いてるだけですごく安心する。ああ、いつ見ても綺麗な顔だなあ。どこが好きかって聞かれても困っちゃうけど、ふふ、目を閉じた時の睫毛とか好きかも。じっくり眺められるもんね。だけど力が抜けて幼く見える優しい眉のかたちとか、触れたら柔らかい薄い唇とか、するりと滑らかな頬のラインとか、見れば見るほど全部、あーもう、全部好き。
 なんか胸がぎゅーっとなって、僕はこっそり冬矢の肩に頬を寄せた。よし、大丈夫、気付かれてなさそうだ。……体温のほかほかが吸い込む息と一緒に体の中に入ってくる。それだけでも嬉しいのに、こんなかっこいい人を独り占めしちゃってるんだなって思うと、頭の中はファンファーレが鳴ってるみたいに大騒ぎになる。思わず腕を引いて起こして、好きだよって伝えたくなっちゃう。いや、せっかくの機会だし、寝顔をもっと堪能するほうが重要かな。
 ふいに冬矢の腕が動いて、僕の上にどさりと乗っかってきた。あれ。
「朝から熱烈な視線だね」
 笑い含みの声。あっ。
「ごめんね、起こしちゃった」
「いいじゃないか、大好きな恋人の視線に起こされるなんて、最高に幸せだよ」
 腕の中から見上げると、怒ってるどころかすごく嬉しそうな顔をした冬矢と目が合う。心臓がぴょんと跳ねた。うー、寝起きでもかっこいいんだもんなあ。それに、……まっすぐに僕を見てくれる瞳の色がとても優しくて、やっぱりこの視線が一番好きかもしれないなって思った。
「改めて、おはよう蒼生」
「ふふ。おはよ。ね、起きたついでにくっついてもいい?」
「もちろん。俺の体は蒼生のためにいつでも最優先で空けてあるからね」
 最優先だって。嬉しいな。許可が下りたから、僕は遠慮なく近寄って冬矢の胸に顔をうずめた。僕の上にあった腕がぎゅっと背中に回って、抱き締めてくれる形になる。あったかくて、気持ちよくて、大好きなにおいに包まれて。また寝ちゃいそうだ。
 すると、頭のてっぺんあたりに柔らかい感触。あ、キスしてくれた。ふふふ。
「そうか、健太がいないから寂しくなってこっちに来たのかな」
 えっ。
 意外な冬矢の言葉に、僕は一瞬言葉を失う。だって、そんな、かわりとかそんなこと思ったことない。だけど健ちゃんの姿がなかったことに寂しいと思ったのもたしかで……。
 否定の言葉を探してるうちに、冬矢は笑って僕の背をぽんぽんと叩いた。
「いいんだよ、それで。俺がいても健太がいなくて寂しいと蒼生が思うのは、俺と健太が別の存在だということなんだから」
「……どういうこと?」
「蒼生が俺たちのことを“どちらでもいい”と思っているわけではないから、って言い換えてもいいかな。健太は健太として、俺は俺として愛してくれているんだよね。恋人はふたりいるんだからどっちでもいいやとはならないだろう?」
「ならない。……じゃあ、健ちゃんのぶんが足りなくて寂しくなっちゃってもいいんだ」
「そう」
 なんでもないふうに、冬矢は頷いた。
 ええと。ちょっと考えをまとめてみる。たとえば冬矢が友達と別れた直後に寂しいって言いだしたら……うーん、それはなんとも思わない。また会う約束をしたらいいよね。でもじゃあ、昔の恋人と別れたのが寂しいって言われたら、…………。それはちょっと嫌かもしれない。終わったことだとわかっていても、たぶん僕は落ち込むと思う。自分の好きな人が他の好きな人を想ってるっていうのはさすがになんていうか、もやもやする。僕たちは恋人同士だから、どっちかっていえば後ろのほうの考え方だよね。つまり僕が自分じゃない好きな人に会いたくて寂しいと言ったら、ふたりは同じようにもやもやするんじゃないだろうか。なのに冬矢はそれでいいって言う。寂しくてもいいって。……んー。3人でのお付き合いだとそのへんもちょっと普通とは違うのかな……?
 考えてもよくわかんなかったけど、少なくとも僕の正直な気持ちはちゃんと伝えておかなくちゃ。
「……あのね、冬矢」
「なに?」
「目を開けてベッドが広かったから寂しかったって気持ちがあったのは本当だよ。だけど冬矢にくっついたのは寂しかったからじゃなくて、冬矢の顔見て嬉しくなっちゃったからなんだ。大好きな人の顔を一番に見られて、それがあんまりにもかっこよかったからテンションが上がっちゃったの。慰めてほしいとは思ってなくて……ええと、つまり何が言いたいかというと、今の僕は冬矢に抱き締められて嬉しいっていう気持ちのほうが、えっと」
 むむ、自分でも何言ってるかわかんなくなってきたぞ。
「とにかく、冬矢が僕をいっぱい“大好き”で満たしてくれるから、今は寂しいなんて思ってないよって言いたくて」
 冬矢は目を細めて笑う。
「ありがとう。嬉しいよ。そう思ってくれているのは知っているけれど、蒼生の言葉で聞くともっと嬉しくなる」
 それから頭を撫でてくれて、そのまま額に手が当てられたなあと思うと、前髪をかき上げてそこにキスをひとつ。わあ……!
「蒼生、真っ赤」
「だ、だってびっくりしたから。ふいうち……!」
「さっきもしたのに、赤くなるのは今なのか。ふふふ、可愛いね」
 どこをどう見たら僕が可愛く見えるのか、やっぱり今でも全然理解ができない。初めの頃は揶揄われてるんだろうかって不安になることもあったっけ。だけど冬矢が本気でそう言ってることがわかったから、それでいいかなって思ってる。まあその、照れるけど、……嬉しいし。
 優しい手が、頬に降りた。手のひらで頬を包み込まれる感じ。あ、これ、すごく好きなやつ。気持ちいい。
「……蒼生」
「んー?」
「さっきは少し冗談みたいな言い方になってしまったけれど、寂しがることは本当に悪くないよ。俺と健太は互いにそれで了承しているんだ。俺たちの間には意外にも信頼関係があるからね」
 うん。お互いのことをちゃんと認めてるって知ってる。だってふたりのことは僕が一番よく見てるんだから。
 でもその続きを聞きたくて、僕はわざと首を傾げた。
「そうなの?」
「ああ。自分がどうしてもそばにいられない間、世界で一番大切な存在を託せる相手だと思っているよ」
「大切なのって僕のこと?」
「もちろん。わかっていて聞きたがっているんだろう? 蒼生も欲張りだね」
「えへへ」
 世界で一番って言われたのも嬉しいけど、冬矢が健ちゃんのことを信頼してるって言葉にしてくれるのも嬉しかった。大好きな人同士だもん、仲違いはしてほしくない。友達じゃなくて信頼関係っていうのも冬矢らしくていいな。だとすると、健ちゃんは安心して僕を冬矢に預けて行ったってことになるのかな。暗黙の了解でそうなってるなら、なんか可愛いな。
「そろそろ起きる?」
 聞くと、冬矢はまた僕のことをぎゅっと抱き締めた。
「もう少しこうしていよう。そろそろ健太も帰ってくるだろうし、あいつがシャワーを浴びている間に朝食を用意すればいい」
「そうだね」
 改めて冬矢にしがみつき、深呼吸をする。満たされる感じ。すごく心地いい。
 ……あ。今、微かに物音がした。玄関のドアが開いたみたい。耳を澄ましていると、小さな物音が少しずつ大きくなってくる。あれ、冬矢の腕の力が強くなった。その直後、背後から寝室のドアが静かに開く音。
「おかえりぃ」
 顔を上げられなくて見えないけど、健ちゃんの気配だったから、声をかける。
「ただいま! いいな、オレも蒼生とぎゅーしたい!」
 体が揺れて、健ちゃんがベッドに膝をついたのがわかる。
「こら。汗だくなんだろう」
「えー。そうだけどー。手は洗ったからセーフってことにならねえかな。だってさ、おまえばっか蒼生だっこしてズルいじゃん」
「羨ましいか」
「羨ましいわ」
 ふ、ふ。冬矢の言うことを聞いてベッドから下りる健ちゃんも、言葉ではちょっと意地悪しながら手を少し緩めてくれる冬矢も、たまらなく大好き。
 冬矢と一緒に体を起こすと、元気いっぱいな健ちゃんの笑顔。
「おはよ」
「おはよう」
 まだしてなかった朝の挨拶を交わすと、健ちゃんががばっと抱き付いてきた。ふふ、汗びっしょり。

 朝ごはんが終わって一息つくと、冬矢はバイトに出かけていく。
「気を付けて」
「ありがとう。終わったら連絡するから」
「待ってる。早く帰ってきてね」
「そのつもりだよ。蒼生に早く会いたいからね」
 冬矢は笑ってもう一度キスをくれた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 ぱたんと閉まるドア。少し待ってから鍵を閉めると、勝手に息が口から漏れた。今朝あんな話をしてたんだから、僕が寂しいと思っているのはどうせ冬矢にはバレてるんだろう。だからその気持ちをそのまんま出しちゃえって開き直ってお見送りをしてみたんだけど……。わがまますぎるって思われてないかな。鬱陶しいと思われてないかな。どうしよう。嫌われてないかな。心配で心がずっしり重くなる。
 でもいつまでも玄関にいるわけにいかないし、リビングに戻る。水の音が聞こえてきたからそっちを見ると、キッチンでは健ちゃんが洗い物をしてくれてる。
「お。冬矢は無事出かけた?」
「うん」
「やっぱ3人の休みを全部揃えるのって難しいよなあ。あいつだって1日中蒼生といたいはずなのにさ」
 健ちゃんの口調からは、なんの他意も感じない。本当に言葉通り冬矢に同情してるんだろうな。もしかすると、僕よりふたりのほうがお互いに理解し合ってるのかもしれない。
「あっ、そうだ。蒼生、オレ大事なこと忘れてた」
「え? なに?」
「ちょっと後ろから腰に巻き付いてくんない?」
「? こう?」
 大事なことって何だろう。健ちゃんの腰に手を回して、腕でぎゅっと抱きつく。広い背中に体がくっついて、……普段とは逆だね。んー。あったかくて気持ちいい。
 そのまま健ちゃんは何も言わずにご機嫌に鼻歌を歌いながらお皿を洗うのを再開する。あれ?
「……ねえ、健ちゃん。なにか大事なことがあったんじゃないの?」
「今してもらってる。ほら、朝、冬矢ばっか蒼生とぎゅーしてたから羨ましかったんだって言ったろ」
 えっ、それだけ? と、一瞬思ったけど。言われてみれば、健ちゃんがシャワーを浴びて出てきた時には朝ごはんの準備は終わってた。そのままごはんして身支度してってばたばただったから、うん。そうだね。ゆっくり抱き合ってない。ふふ。これはすごく大事なことだったね。
「背中越しでいいの」
「だって前からにしたら蒼生の背中越しに食器洗いすることになるだろ。びしょびしょになっちゃうじゃん。だから、前からは終わったらじっくり堪能する!」
「あははっ。そうだね」
 冬矢のぶんは寂しいけど、その気持ちを抱えたまんま健ちゃんに寄り掛かってもいいんだって冬矢は言う。冬矢は健ちゃんに僕の中にある寂しさごと僕を託して出かけていったんだ。つまり今の僕は目の前にいる健ちゃんの思いに応えるのが正解なんだと思う。そのかわり、冬矢が帰ってきたら冬矢にもいっぱい構ってもらおう。
 背中に頬を擦り付けると、健ちゃんがくすぐったそうに体をよじった。
「うわー、なんか可愛い気配がする……っ」
 なんだそれ。健ちゃんの表現って時々よくわかんない。けど喜んでくれてる感じはするから、まあいっか。
 ……心音が聞こえる。とく、とく、って。
「蒼生」
 空気越しじゃなくて直接体から響いてくる声。好きだなあ。
「これ洗い終わったら、荷物出しに行ってくるな」
 ん? 僕を正面から抱き締めてくれるんじゃなかったっけ?
 顔を上げてカウンターを見ると、大きめの封筒が置いてある。厚みがあって、書類が入ってるとかではなさそう。書かれた住所は健ちゃんの実家で、妹のみのりちゃん宛てだ。
「ひとりで行くの?」
「今日めちゃくちゃ暑いから、蒼生はうちにいて。ダッシュで行ってくるからすぐ帰るよ。あ、そだ、昼はハンバーガーにしない? ちょっと足伸ばせばすぐだし」
「いいね。けっこう久し振りかも。僕、レモンのやつが食べたいな。あと新商品のえびのやつ」
「食べたいって言ってたもんな。他には何かある? ついでに買うものがあればどこでも行ってくるよ」
「んー……そしたらねえ、もやしを大きいので1袋と、キャベツ1玉」
「了解~」
 ひとりで出かけちゃうのか。僕も連れてってくれればいいのにな。って、大丈夫大丈夫。すぐに帰ってくるんだもんね。それに、荷物のほうが言い訳らしい。この前ふたりで出かけた時に、僕がふと店の前で呟いたのをしっかり覚えててくれたんだ。
 洗い物を全部終わらせると、健ちゃんは荷物とスポーツドリンクのペットボトルを持って本当にひとりで出かけて行った。あ、向き合ってぎゅーってしていくのは忘れられてなかった。よかった。あと目が合うのが嬉しくて、何度かキスもした。だいぶ満足はしたけれど、それでも廊下を歩いてく背中を見て、やっぱりちょっとついていきたかったなーっていう気持ちは消せなかった。
 追いかけそうになった僕の足を止めたのは、洗濯機のピーピー呼ぶ音だ。いけない、洗濯してたんだっけ。どっちにしてもこれを放っておいて出かけるわけにはいかなかったね。しゃがんで蓋を開けると、白い大きな塊を取り出す。中身はシーツだ。……ほら、まあ、いろいろ、その、汚れるしね、汗だっていっぱいかくしね、こまめに洗濯はしておかないと。替えはクローゼットの中にたくさんあるけど、もしかしたら明日も洗うかもしれないもんね。さて、洗濯物はまだあるぞ。洗濯籠の中、一番上には今朝脱いだばかりのパジャマがあって、その下には昨日着てた服。天気がいいからすぐ乾くだろうな。肌についてたほうを表にしたほうがいいって聞いたから、1枚1枚裏返しにして、数を数えるために床に置いて、
 …………。
 ちょ、ちょっとだけ。ちょっとだけ、ね。
 僕は目の前に出来た小さな山に、ぱふっと顔を埋めてみる。ん、これはすごく落ち着く、冬矢の匂い。はー。こっちは、心が跳ねるような、健ちゃんの匂い。あー……。好き……。胸の中からぽわっとあったかいのが出てきた感じ。それがあっという間にぎゅっと固まって、指先に動いていく。気付いたら、僕はふたりの服を握りしめていた。離れたくない、離したくないって言葉は、あとから追ってくる。このまま山の一部になっちゃいたい。
 いやいや、だめだめ。
「はーっ。続きやらなくちゃ」
 自分の体を起こすために、敢えて声を出す。いくら買い物があるから時間がかかるとはいえ、健ちゃんが帰ってきちゃったら大変だ。この体勢を見られたらだいぶ恥ずかしい。ふたりの匂いが好きだから抱き締めてましたって? さすがにそれは引くよね。引く……うーん……喜びそうな気もする。
 とにかく、だ。早くシーツを干さなくちゃ。名残惜しいけど服のほうは洗濯機に全部お任せしてベランダに向かう。……って、うわ。玄関先でも感じたけど、外に出るとめちゃくちゃ暑い。風が少しあるから気温はそんなになさそうだけど、湿度がやたらと高い気がする。日差しも痛いくらいだ。わー、こんな中ふたりはでかけていったんだなあ。冬矢が帰ってくる頃には涼しくなってるといいんだけど。あと、やっぱり健ちゃんは僕に暑い思いをさせたくないからってひとりで行ったんだ。置いてった訳じゃない。そっかぁ……甘やかされてるなあ……。
 キッチンでレタスをちぎってると、健ちゃんが帰って来た。え、もう? 思ってたより全然早い。
「ただいま蒼生~」
「おかえりなさい! 暑かったでしょ」
「うん、なかなか強烈だったー。すごいよ、道に人いないもん。公園の水遊び池は混んでるのかなーと思って覗いてみたんだけど、暑すぎて一家族しかいねえんでやんの。オレは暑いの嫌いじゃないから平気だけど」
 とは言うけど、手にしたペットボトルはもう空っぽだ。行きと帰りで飲み切っちゃうほど暑かったんだろうなあ。
「もう一度シャワー浴びたら?」
「ん、あとでにする。まずはお昼にしよ。ポテトもおっきいのにしたし。それから、新商品ではちみつパイと桃カスタードパイが出ててさー、それも買ってきちゃった」
「わあ、おっきい袋。食べきれるかなあ」
「大丈夫、案外イケちゃうって。甘いのは1個ずつだけだし。な、半分こしよ!」
「ふふ。うん」
 小さい頃の健ちゃんはおつかいを頼まれると、いつもリストにはないものを買ってきてた。それも、ちっちゃいクッキーとか飴とか、お菓子ばっかり。最初はご両親に怒られてたもののまったく懲りずに毎回買うもんだから、最終的には「お駄賃代わりに1個までね」って言われてたっけ。健ちゃんはそのお小言なんてどこ吹く風で、いつも僕のところに持ってきては半分こしよって言ってきた。当時の僕はその行動を「共犯者を作りたいのかな」と思ってたんだよね。まあ健ちゃんと一緒なら悪い子でもいいかって思って、ふたりでこっそり食べてた。
 今となっては、ただ僕に喜んでほしかったんだろうなあって思う。たぶんそれはちっちゃい子の純粋な「好き」って気持ちだったんだろう。いつからそれが恋愛の「好き」になったのかは健ちゃん自身もわかんないらしい。ただ、ずっと昔から僕のことを思ってくれてたのはたしかだ。けどそれを考える時、嬉しいのと同時に申し訳ない気分になる。そばにいたのが僕じゃなければ、もっと別の道に進めていたんじゃないかって。
「……健ちゃんって、昔から僕のこと好きだよね」
 ぼそりと呟くと、健ちゃんはハンバーガーを片手にレタスときゅうりだけの簡単なサラダを頬張りながら不思議そうに首を傾げた。
「んむ?」
 ごくんと飲み込んで、その表情はすぐににこにこになる。
「うん、大好きだよ。急にどした?」
 こんなこと言ったら健ちゃんに失礼だ。だけど、頭の中からどろりと澱んで零れたものを隠しておくのも怖い。
「……ごめんね、あの、……健ちゃんが僕のこと好きなのって、刷り込みだったりするのかなって」
「すりこみ? どういうこと?」
「小さい頃からずっと一緒にいるでしょ。それが当たり前だったから、そういう関係を“好き”だって勘違いしちゃったんだとしたら……」
 ぱちくりと目を見開いた健ちゃんは、ハンバーガーにかぶりつく。嫌なことを言ってる自覚がある。胸がきりきりと締め付けられるみたいだ。僕と目を合わせたままの健ちゃん。表情は変わらない。怒ってるとか困ってるとかでもなさそう……? どう思われたか怖い。
 健ちゃんは頷くと同時に、口を空っぽにした。
「そういうことか。んー。そうだなあ、生まれた時から隣にいたもんな。お互い大事なのが普通に当たり前だったら、蒼生の言う通り、勘違いだったのかもしれない」
「うん……」
「でもさぁ、オレ、その……、ほら、途中でよそ見しちゃってるんだよね。んで、恋愛らしきことを他の人ともしたわけだ。恋人とするそれっぽいこともある程度したんじゃないかな。けど楽しいはずなのに、なんか違うなーってなって。もしかしたら、恋愛っていうやつをやってみたかっただけなのかなって今は思うんだよね。そのおかげで蒼生が好きだって気付けたんだけどさ。んで、勘違いだったらここで戻ってくることはないんじゃないかなと思うわけ」
 そっ、か。そうだった。でも。
「……うん。だけど、怖いなって思うこともあるんだ。健ちゃんは、不安になったことない? 長い間一緒にいすぎて、惰性で好きだと思ってるんじゃないかって」
「あははっ」
 健ちゃんが声を上げて笑う。すごく簡単に。
「そんなん思ったことないなあ。蒼生はそれが怖いの? だけどさ、それってつまりは、蒼生はオレのこと、生まれてから今までずーっと変わらずに好きでいてくれてるってことだろ? なんも問題ないじゃん!」
 それから、太めのポテトをひょいとつまむと、僕の口に突っ込んできた。……かりかりして美味しい。
「蒼生はさー、オレのこと好きだよな」
「ん。らいふき」
「でしょー。オレも蒼生のことだーい好き! きっかけが万が一そういうことだったとしても、今この瞬間のオレたちは熱烈に愛し合ってんの。その事実だけでオレは満足だよ」
 事実。
「あ、もういっこ付け加えるとさ。恋人とするそれっぽいこと、蒼生としてみたらどれもこれも全部しっくりきたんだよな。想像してたのの倍以上に楽しくて嬉しくて、マジで幸せなんだ。これって、オレたち付き合って大正解! ってことじゃない? もはや運命って呼べるレベルだよ」
「……少しおおげさだと思うけど」
「そんなことないって。オレは蒼生と出会って恋人になれたことが人生で最高の幸せだって本気で思ってるもん」
 これから先、どんなことが起こってもそう言ってくれるんだろうか。……そんな言葉が頭をよぎったけど、健ちゃんなら言うだろう。ううん、健ちゃんだけじゃない。冬矢も同じように思ってくれてる。一緒に暮らして、いっぱい愛してもらって、絶対にそうだって言い切る自信がある。わかってるのに、どうして僕は不安になっちゃうんだろう。
「ありがとう。……変なこと言ってごめんね、健ちゃん」
「変じゃないよ。蒼生は頭いいから、きっといいことも悪いこともいろんなパターンを考えちゃうんでしょ。大丈夫! 蒼生の心配はオレが……いや、オレと冬矢がまずはきっちり受け止めて、それから3人で話し合って、悪いことが起こらないように努力する! つまり、オレたちはいい感じにバランスがとれてるってことだな」
 自信満々にそう言って胸を張る健ちゃんに、僕のもやもやは音を立てるようにすうっとしぼんでいった。
 嬉しそうな健ちゃんは、残りのハンバーガーを全部口の中に放り込む。大きな一口は、見ててすごく気持ちいい。
「やっぱ休みの日っていいな~。蒼生といっぱいおしゃべりができるから」
 僕のぐちゃぐちゃな発言は、その一言で「楽しいおしゃべり」に変わった。ふわっと爽やかな風が吹いたみたい。満たされて、今度はあったかい気持ちで胸がいっぱいになる。やっぱり健ちゃんは、すごい。

 結局健ちゃんはシャワーを浴びにはいかなかった。
「乾いちゃったからいいや。夜にする」
 ということらしい。僕は、なんというか、まったく構わないので「そっか」とだけ答えた。ちょっとだけ頬が緩んじゃったことはどうやらバレずに済んだみたいだ。
 ふたりして洗濯物を干し終えると、少し時間が空く。溜め込んでた本でも読もうかなあと本棚を眺めてたら、健ちゃんがゲーム機を抱えて駆け寄って来た。
「蒼生っ、ゲームやろ、ゲーム」
「対戦のやつ? 僕じゃ相手にしてもつまんないでしょ」
「冬矢が別格なだけで、蒼生だってへたじゃないじゃん。そうだったとしても蒼生と一緒なら当然つまんなくはないんだけど、今日は蒼生を倒す気分じゃないから、協力プレイのやつ! っていうか蒼生の力が必要なんだ。先週配信になって面白そうだからやってみたんだけど、パズル要素が強くてさ。オレひとりじゃできないから、手伝ってほしいなって」
 言いながら、そそくさとローテーブルにセッティングを始める。そういえば何日か前からテレビの前でうんうん唸ってたなあ。どのジャンルでも上手にこなす健ちゃんが苦戦するってことは、きっと難しいゲームなんだろう。僕にできるかわからないけど、健ちゃんに頼られること自体は嬉しい。
 ぽすんとソファに座った健ちゃんは、早速コントローラーを握る。僕も隣に座って、まずは健ちゃんがどんなふうにプレイするのかを見てみることにした。へえ、なんだか懐かしい感じのするドット絵のキャラクターが画面上にぽんと飛び出てきた。
「最初のほうの問題は何個かクリアしたんだ。こうやって、よっと。ここ飛び越えてー、こっちの出っ張ったボタンを押すとこれが出てくるんだよ。んで、こっちのキャラクターでここを上るだろ」
 画面を指さして説明しつつ、キャラクターをぴょんぴょんとジャンプさせて進み、床に突き出たボタンを押していく。途中で僕のコントローラーを手に取って別のキャラクターを操作して。ふむふむ、ひとりでやるときは複数キャラを切り替えて仕掛けを解いていくゲームなのか。わかってきたぞ。ちょっとしたアクションはあるけど、基本的には理論的な作業が必要みたい。
「なんだけどさ、これがいくらやっても壁が消えなくて」
「これ? うーん……。あっちのバーがこれで開くんだよね。ということはここが後になればいいわけで……。あ、わかった。左から2番目、3番目、1番目って順番で押すとどうだろう」
「なるほど! んじゃ、蒼生は3番のとこよろしく!」
「はーい」
「……せえの、で、えい。うわ! 崩れた! あーっ、そっか、これで進めるのかぁ。さすが蒼生は頼りになるなあ」
 ゲームのことではあるけど、僕は役に立ってるのか。ふーん。テンションが上がって思わず健ちゃんに寄り掛かると、健ちゃんもこっちに体重を掛けてくる。ちらりと見た横顔がにやにやしていて、それだけでも楽しくなっちゃう。
 解けなかった問題をひとつ克服したことで、健ちゃん自身もスイッチが入ったんだろう。そこからは比較的すいすい進んでいく。もしかすると、話しながらやってるからかえって考えが整理されるのかもしれない。難しいーってぶつぶつ言ってるけど、正解の道を見つけては楽しそうにキャラクターを動かす。
「へー、分岐点だ。どっち行ってもいいみたいだな。なあ蒼生、魚とリンゴどっちが好き?」
「僕が選ぶの? んーっと、じゃあ魚のほう」
「おっけ、こっちのドア開けるね」
 相談しながらできるのもいいなあ。あ、魚模様のドアの先は海だ。
 しばらくやってると、突然健ちゃんがソファに寝っ転がって、僕の太腿に頭を載せてきた。うーん、見にくくないのかな。
「横向きでも画面ちゃんと見られるの?」
「だいぶ慣れてきたから大丈夫~」
 そういうものなの? そりゃ健ちゃんがいいならいいんだけどね。けどたしかに画面は仕掛けがわかりやすいようにシンプルな構造になってる。操作に慣れればごろごろしながらでも出来るのかも。
「蒼生ぃ、回って上から降りて来てぇ」
「わかった」
 ふふ。とたんにちょっと甘えた口調になるところが可愛い。
「あれっ。第1章のボスだって。ボスとかいるんだ。えっ、制限時間以内にパズルを解けって……ヒントねえの?」
「どういう問題なのかもわかんないね。フィールド自体がパズルなのかな」
「えーとえーと、なんか意味ありげな穴は開いてんだよなー」
「あっ。健ちゃん、もしかして今までの問題で集めたコインって」
「あっ。ここで使うのか! なんか変な模様がついてんなって思ってた!」
 テレビゲームって、小さい頃はどっちかの家のリビングで家族そろって一緒にやるものだったんだよね。その頃から健ちゃんと僕の得意なゲームは違ってた。僕はひとりでじっくりやるゲームのほうが好きなんだけど、長い時間占領していられないから、ほとんどクリアまで行ったためしがない。対して健ちゃんは昔からアクションが好きで、一緒にやろうっていつも誘われてた。でも僕はやり始めても下手で迷惑をかけちゃうからすぐに離脱する。そこにきょうだいたちが乱入するっていうのがパターンだった。でもそれでよかったんだ。僕は健ちゃんが楽しそうにゲームをしてるのを横から見るのが好きだったんだから。
 もちろん今でも、隣に座って見てるのが好き。ただそれ以上に、こうやって健ちゃんが僕と一緒にやれそうなゲームを探してきてくれるのがものすごく嬉しい。一緒にプレイできるのって、こんなに楽しいことだったんだ。
「っしゃ! 倒した!」
 脚に乗っかったままの健ちゃんの笑顔。なんだかたまらなくなって頭を撫でると、短い髪のつんつんとした手触り。きゅーんと愛おしさで胸がいっぱいになる。
「んー?」
 健ちゃんはにこにこと僕を見上げてくる。だから、その唇にそっとキスをする。健ちゃんの目がぱちくりとまんまるくなった。
「ぁお……っ」
「邪魔してごめんね。キスしたくなっちゃった」
 そこからはあっという間だ。わわわ、と声を上げた健ちゃんが勢いよく起き上がり、僕をぎゅっと抱き締めるとそのままソファに転がった。
「うわー、うわー、可愛いっ。好きーっ」
 大きな体が遠慮なく覆い被さってるから、ソファに埋まっちゃいそうだ。ふふふ。
「僕も好きぃ」
「やべえ、大変だ! オレたち両想いじゃんか!」
「あははっ、それは大変だ」
 僕が笑ったのを見て、健ちゃんはますます腕に力を込める。ちらっと画面を見ると、キャラクターもぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいた。
「ゲームはいいの?」
「オートセーブだから大丈夫だし、今は蒼生と一緒に休憩するのが最適だと判断した! は~、蒼生、あったかい。えへへ」
 弾んだ健ちゃんの声が、くっついた胸から直接聞こえるみたい。それだけじゃなくて、あったかさも、大好きな匂いも、全部で包み込まれてるみたい。嬉しい。気持ちいい。
 ああ、大好きだなあ。
 気持ちい、い……。
 …………ん?
 あれ? 僕たちはソファに横になっておしゃべりをしてたはずだ。あれ? いつの間にか寝てた? 僕の上にいたはずの健ちゃんはソファの背中側にいて、後ろから僕が落ちないように抱き締めてくれている。首筋に感じる、静かな寝息。う、また眠くなりそう。
 目を上げて時計を眺めると、そんなに長い時間寝ちゃったわけじゃない。だけどそろそろ夜ごはんの支度を始めないと。
「健ちゃん。健ちゃん、ごめんね。手、ちょっとだけどかしてくれる?」
「んー……やだー。もっと抱っこする……」
「それは僕も嬉しいんだけど、ごはんが作れなくなっちゃう」
 もぞもぞと腰のあたりで手が動く。くすぐったい。
「うー、ごはん……。今日のごはんはなにぃ……?」
「オムライスと、温野菜にゆで豚載せたやつ。あとスープかなって思ってるんだけど、どうかな」
「オムライス!」
 わ。急に声が元気になったぞ。その一言で目が覚めたみたい。
「なあなあ、ソーセージ入れて、ソーセージ」
「うん、わかった。健ちゃん好きだもんね」
 健ちゃんは僕を抱えたまま起き上がった。どうやらこのままでいるつもりみたい。半分運ばれるみたいに歩くのが面白かった。さすがにキッチンに着くと唇を尖らせながら手を離してくれたけど。
 そうしてふたりでごはんの支度をしてるうちに、冬矢が帰って来た。僕たちの姿を見て、目を細める。
「ふたりだけで羨ましいな。俺も仲間に入れてくれる?」
 ふふふ。もちろん、僕は元気よく頷いた。

 洗面所から出たところで、健ちゃんとばったり会った。廊下に立ってるとは思わなかったから、ちょっとびっくり。
「そこで待ってたの?」
「蒼生が風呂からあがる気配があったから、待ちきれなくてここまで来てた。秒で出るから、一緒に寝ような」
「えー。ちゃんと綺麗にしてきてくださーい」
「あははっ、了解でーす」
 健ちゃんは通り過ぎがてら、頬にキスをしていく。ああ、顔がにやけちゃう。
 それを隠すために、濡れたままの髪をタオルでわさわさと拭くふりをしながらリビングに戻る。けど、冬矢の小さく笑う声がする。だよね、リビングのドア開いてたもん、ばっちり聞こえてた……どころか見えてたよね……。ちょっと恥ずかしい。
「……可愛い蒼生、こっちにおいで」
 少しからかってるみたいな声色。僕はそれが大好きなんだ。普段穏やかで優しい話し方をする冬矢が、ちょっとだけ意地悪気な顔で楽しそうに言葉を跳ねさせるから。そんなふうに可愛い表情を見せてくれるのって、冬矢が僕にすっかり気を許してくれてることの証明だしね。
 冬矢はソファに座ってる。誘われるままにカーペットに座り込んでソファに寄りかかれば、両側に冬矢の脚があって。なんだか嬉しくなってきちゃって、思わず両腕で片っぽずつ抱え込む。すると頭のタオルに冬矢が顔を埋めてきた。くすぐったい。
「さらに可愛いことをしてくれるね。ずいぶん積極的じゃないか」
「邪魔だったりする?」
「ふふ、しないよ。蒼生に触れられてそんなふうに思うはずがない」
「よかった。……あのね、冬矢が呼んでくれたことが嬉しかったんだ。だから、つい」
「なるほど、理由まで可愛いわけだ」
 嬉しそうな声を聞いて、僕の脳内はさらに盛り上がってしまう。もう夜で、まさに寝る準備をしてるっていうのに、目が冴えてしまいそう。できればこのまま立ち上がって振り向いて、全力で腕の中に飛び込みたい。でも、冬矢は今僕の髪を乾かそうとしてくれているんだ。それを僕本人が邪魔しちゃいけないよね……。
 タオルが取り去られたのを目で追うと、冬矢が脇に置いたドライヤーに手を伸ばすところだった。
「ねえ冬矢。今度、オムライスの作り方教えて」
 冬矢は手を止めて首を傾げる。
「作り方? 蒼生が作ってくれた夕飯のオムライス、とても美味しかったよ。さっきも言ったけれど、彩りが綺麗で見た瞬間食欲をそそられたし、具と味付けのバランスも良くて、最高の御馳走だった。俺が補足するようなことはなにもないと思うけれど」
「う……。冬矢は褒めすぎだと思う……」
「褒めているというよりも、素直な感想だよ。健太だって大喜びで食べていたじゃないか」
「……うん。でも、どっちかっていうと、ごはんの上にスクランブルエッグを載せたみたいでしょ。冬矢の作るかっこいいのも作ってみたいんだ」
 ああ、と冬矢が表情を和らげた。
「卵で包む形で作ってみたいということか。たしかに、オムライスと言われて思い描くのはあの形かもしれないね。じゃあ今度練習しようか。でもね、蒼生。ひとつ覚えていてほしいんだけれど、俺は蒼生が作るオムライスのほうが好きだよ」
 えっ。
「そうなの?」
「そう。バターたっぷりで濃厚な味わいが見事だからね。俺の作るものとは別物だと思っている。健太にも聞いてごらん、きっと同じことを言うよ。……さあ、ドライヤーをかけよう。前を向いて」
 言われた通りに視線を戻す。すぐにかちりと音がして、あったかい風と優しい手が僕の頭を包み込む。
 ……へえ。そうなんだ。冬矢の作るオムライスはびしっと楕円の形をしていて、絵に描いたように上手にトマトソースがかかってる。しかも、すごーく美味しい。初めて食べた時には、同い年の人がこんなに美味しいオムライスを作れるんだって感動したのをはっきり覚えてるんだ。なのに、冬矢は僕が作ったののほうが好きなのかぁ……。
 料理上手な冬矢の言葉は素直に嬉しい。僕は誰かに褒められると、気を遣われてるんだろうなってすごく憂鬱な気分になるんだけど、今そう言ってくれたのは冬矢だもん。口ではどう言っても裏で何を考えているのかわかんない余所の人たちとは違う。ちゃんとそう思って伝えてくれてるんだ。
 いつも嬉しい言葉をくれる冬矢。何かお返しが出来ないかなあ。僕は冬矢の手を止めさせない程度に顔を後ろに向ける。目が合った冬矢は、ふっと目を細めた。
「どうした?」
 あ、そうだ。
「いつもやってもらってばっかりだし、今度冬矢の髪も乾かしてみたい」
「俺の?」
 あれ。いい提案だと思ったんだけど。顔がわずかに曇る。
「……いや。俺はいいかな」
 しまった。わからないけど、なにかとても良くないことを言ったんだ。ひゅっとおなかの底が冷たくなった気がした。
「ご、ごめんなさい」
「ごめん、俺こそ謝らせるつもりはなかった、ごめんね。なんと言ったらいいのか……俺自身説明するのがとても難しいんだけれど、蒼生にしてもらうのは少し抵抗がある。俺が蒼生にしておいて、自分にはしないでほしいというのもおかしな話だとはわかっているんだよ。これは……本当に俺自身の踏ん切りの問題なんだ。いずれきちんと蒼生が納得できる言葉でまとめるられるようになったら話すから、それまではただ甘やかさせてほしい」
「うん……」
 心臓がずきんと痛む。
 そんな気はしてたけど、気のせいじゃなかったんだ。僕が冬矢に何かしようとすると、わずかに嫌がるような素振りを見せることがある。本当にごくたまにだから、なんで、いつそうなるのかは僕にはわからない。でも冬矢が自分でも説明しづらいって言うんだから、僕が何故かを察するなんておこがましいことなんだろう。
 ん……。でも少なくとも今は、髪を乾かすのを断られた。僕にはよくて、冬矢にはダメ? 僕のことは全部しようとしてくれているのに、僕がするのはいけない、のだとしたら。
「……もしかして、冬矢は何も出来ない僕のほうがいいの?」
「それは違う」
 はっきりとした答えが返ってきた。冬矢はドライヤーのスイッチを切って、僕の顔を後ろから覗き込んでくる。真剣でまっすぐな眼差しだ。不安に揺れた僕を、強い力で繋ぎ止めてくれるような深さをもった瞳。
「違うよ、蒼生。俺はなんでも出来る蒼生が、俺に甘やかされているのが好きなんだよ」
「冬矢……」
「我慢強いし努力家だし頭も切れるし、蒼生がひとりで生きていけることは知っている。なのに俺を心から信じてすべて委ねてくれている。それが嬉しいんだ」
 そっか。
 うん。
 冬矢の言葉は優しく僕に染み込んで、不安な心を洗い流していく。
「……言葉に出来るようになったら、教えてね」
「わかった。……ありがとう、蒼生」
 そうだよね。僕自身、大丈夫だってわかっているのに、ちょっとしたことですぐ不安になったり怖くなったりしてしまう。どうしてそうなるのかって聞かれても説明なんかできない。誰にだって自分でどうしようもないことはあるんだ。
 だけど、冬矢はいつか考えをまとめて説明するって言ってくれた。冬矢は約束を破ったりしないんだ。だから僕は焦って急かしたりしちゃいけない。静かに待つべきなんだと思う。
 再び冬矢はドライヤーのスイッチを入れる。髪を梳いてくれる優しい手。それを信じていればいい。
「蒼生」
「うん?」
「さっきの話だけれどね。俺が本当に何もできない蒼生が好きなんだとしたら、食事の支度を任せたりしないし、健太の世話を焼くのも止めると思うよ」
 あ、なるほど。
「たしかに、それはそうだね」
 別に僕のすべてを拒否されているわけじゃない。むしろ僕がすることに喜んでくれてるのを知ってる。うん、落ち込む必要はないんだよね。冬矢の言う抵抗感が現れるほうが珍しいんだから、つまりはいつもと違うことをする時はきちんと確認してからすればいいんだ。
「お待たせー!」
 ドアが開いて、健ちゃんの上機嫌な声が飛び込んでくる。ほんとに早いなあ。
「健ちゃん、おかえり」
「ずいぶん早いな。手を抜いてきたんじゃないか?」
 どうやら僕と同じことを考えてたらしい冬矢が不満げに零すと、健ちゃんはダイニングテーブルに置いてあったお茶を飲み干して僕の目の前にしゃがみ込む。それからにこにこと僕の両手を握った。あったかい。
「手際がいいんだよ。ちゃーんとオレも風呂場もぴっかぴかにしてきたぜ。蒼生と早くいちゃいちゃしたかったから!」
 かちっと冬矢がドライヤーを切る。
「さあ蒼生、終わったよ。一緒に歯磨きをしに行こうか」
「あっ、まだ蒼生を離さないつもりだな!」
「離すわけがないだろう。せっかくのいちゃいちゃタイムを邪魔するな」
「蒼生はオレといちゃいちゃすんのー!」
 健ちゃんが腕を引っ張ってきて、冬矢がそれを阻止しようと後ろから僕を抱き締める。健ちゃんは諦めて足を引っ張ることにしたらしい。……ふふふ、なんだこれ。
「なんか搬送されてるみたい」
「おっ。ホントだ。このままベッドに運びたいなー」
「だから支度が済んでいないと言っているだろう」
 ひょいっとふたりがかりで体を持ち上げられた僕は、そのまま洗面所に運ばれていく。さすがにそこでは下ろしてもらえたけど。いや、ずっと両側から腰を抱かれたままだったから、結局離してもらってないな? そういえば、これってさっき健ちゃんがくっついて離れなかった時と一緒だ。あはは、1日で2回もこんなふうになることってあるんだね。あれ、朝も冬矢が離してくれなかったっけ。じゃあ、3回だ。
 寝室に行くのにも、健ちゃんが抱っこしてくれた。冬矢はドアを通る時に危ないからって一度は手を離したものの、ベッドから僕を迎え入れてくれる。さらさらのシーツに、ふたりの匂い。嬉しくて、楽しくて、あったかい。
「明日はゴミの日だっけ」
「うん、資源ゴミ」
「まとめてあるから、一番先に起きた誰かが出せばいいね」
「じゃオレかな」
 枕に頭を載せて。布団を被って。なんでもない話をしながら眠りにつく。
 あー、幸せってこういうことなのかも。
 ふたりが僕の手を両側から握る。
「蒼生、おやすみ」
 冬矢が額にキスをくれる。
「おやすみ蒼生!」
 健ちゃんは頬に。
「おやすみなさい、冬矢、健ちゃん」
 ふたりが僕を見る優しい笑顔。大好きなふたりに囲まれてると、すごくほっとして、ふうっと眠気がやってくる。僕はここにいていいんだ。僕の場所はここなんだ。
 このまま夢の中でも会いたいな。そう思って、僕は心の中で首を振る。だって、早く起きて現実のふたりと賑やかで穏やかなあったかい日常を過ごすほうがずっといいと思うから。そうだ、明日起きたら、健ちゃんに僕と冬矢のオムライス、どっちが好きか聞かなくちゃ。やっぱり全然別物で、どっちも好きって言うのかな。
 眠りに落ちる瞬間、あれっ。また柔らかな唇の感触がした。……やっぱり夢より本物のほうがずっと甘いや。ふふ。

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