104こ目;カラフル
今回は、冬矢目線のお話。なんといっても本日10月8日=とうやの日、なので! 蒼生と健太と冬矢は大学で同じ読書サークルに所属しています。 本日はその活動日なのですが、先に行っているはずの蒼生の姿は活動場所にない様子。 心配になった冬矢は蒼生に連絡を試みます。 このお話の後を読み終わりましたら、冬矢目線での本編(Powder Sugar Waltz)の表紙を見ていただけると嬉しいです。 書いている本人はわりと感無量でした! また、2年前に再掲した67こ目「右手と左手のやきもち」( https://pictbland.net/items/detail/2313608 )と似たようなシーンを敢えて混ぜ込んであります。 そちらも合わせてお楽しみいただければ幸いです。 ↑初公開時キャプション(ちょっとだけ修正あり)↑ 2024/10/08初公開 https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
教務課の窓口にレポートを提出して処理を待つ間、俺は携帯を取り出す。今日は蒼生と健太と3人で所属している読書サークルの活動日だ。もうすぐ活動時間になるが、前の時間が空き時間だった蒼生はもう指定の場所へ行っているだろうか。念の為に位置情報を共有する画面を開くと、まずは自分がいる場所に白いマークがつく。やがて蒼生と、ついでに健太の位置も表示された。
……どういうことだろう。蒼生は大学の外にいる。おかしいな。学部が違う俺たちが唯一学内で一緒に行動できるからと蒼生は活動日を楽しみにしているんだ。しかも今朝話題にしたばかりだ、忘れてどこかに出かけるはずがない。たとえなにか急用が出来たとしても必ず俺たちに連絡をくれるはずだ。何か問題が起きたのだろうかと血の気が引く。とにかくまずはメッセージを送って、返事がないようなら電話をかけよう。蒼生がいるであろう場所は大学を出てからさほど遠くない位置にあるビルだ。ここからの最短距離を頭の中に描く。
「笹原さん」
受付から声がかかった。顔を上げると、カウンター上のトレイに表紙から切り取って判を押された細長い紙が置いてある。
「お待たせしました。こちら、レポートの受領証です」
「ありがとうございます」
それを受け取り、鞄に突っ込む。急いで携帯を見ると、蒼生からのメッセージが入っていた。心配かけてごめんなさい、本屋にいます、と。ああ……本屋か。言われてみれば、このビルには本屋が入っていたな。そうか。本屋か。まずはよかった。……いや、状況は把握したけれど、やはり声を聞かないと心配だ。
少々長めのコールのあとで、電話は繋がった。
『はい』
落ち着いた静かな声。緊張している気配はない。……よかった。
「今、電話していて大丈夫かな」
『うん。ベンチのところに出てきたから平気だよ』
「そうか。俺も本屋を覗きたいから、すぐ向かうね。待っていてくれると嬉しい」
『わかった』
電話の向こうで、かすかに声のトーンが上がった。どうやら拒絶の雰囲気はなさそうだ。そうだろう、この手の誘いで蒼生が断ることがあれば、それはよほどの事態だということだ。
通話を終え、急いで蒼生のもとへ向かう。そのビルは道路に面して小さな花屋があり、その横から奥にかけてが本屋になっていた。本屋はビルを貫く通路によって分割されていて、雑誌やコミックを売る店舗と小説や専門書を売る店舗が左右に配置されていた。この通路には上に向かうエスカレーターがあって、蒼生が言っていたベンチはその裏にある。そこを覗いてみたが、蒼生はそこにはいない。店の中に移動したのだろう。これからサークルに行くということを踏まえて考えれば、蒼生が読みたがるのは小説であるはずだ。ならば左のフロアの手前側か。
店内に入って見回すと、ああ、いた。いてくれた。どうやら新刊を並べた棚の前で悩み込んでいるようだ。蒼生を中心にして、途端に景色が明るくなったように感じる。
「蒼生」
小さく呼びかけると、弾かれるように振り向いた。俺を待ちわびていたのだと瞬時に理解する。
「冬矢!」
雰囲気があっという間に柔らかくなるのが愛おしい。無事に会えた安心感も相まって、勢いで抱き締めたくなるほどだ。しかしそれでは近くに立つ客の迷惑になりかねない。なんとか衝動を押しとどめ、横に並んで視線を合わせた。すると蒼生は途端に申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、早く用事を済ませて戻るつもりだったから連絡しなかったんだ。逆に心配させちゃうと思って……」
「俺が大好きな蒼生のいるところを気にしすぎちゃっただけだから気にしないで」
「っ、えっと」
ぴんと背筋を伸ばし、蒼生はぱっと顔を赤らめる。可愛いね。しかもその言葉が先に出てくるということは、俺が電話で言った「本屋を覗きたい」が蒼生に会うための言い訳だったと気付いているのだろうな。
「それより、急にどうしたの? 読む本でも探しに来たのかな」
「うん。……かなあ?」
「ははっ、疑問符がつくんだ。ああ、そうか。蒼生は今日、図書館で読む本を探したいと言っていたからかな」
可愛いな。朝の話ではそう言っていたけれど、気が変わったのだろうか。蒼生は困ったように仰のいて眉をひそめる。
「……そのつもりでさっき図書館も行ってきたし、読む本も借りたんだ。高校生の頃に読んで面白かったのを偶然見つけたから、久し振りに読もうかなって。でも、今日、新刊の発売日で」
ふっと目線が下がる。辿って見れば、蒼生が普段からよく話題に出すシリーズの本が平積みになって並んでいた。このシリーズは家の本棚にもあるから、俺も読ませてもらっている。そして端にある見覚えのない表紙の本には本日発売というポップが立っていた。
俺は首を捻りながら蒼生の顔を覗き込む。
「楽しみにしていたんだろう? 何を悩むことがあるんだ?」
「うん。その……急がなくていいと思ってたから、大学の購買で買うつもりでいたんだ。ほら、学生割引あるでしょ。取り寄せになるから時間がかかるとはいえ、そっちのほうがいいやって気持ちになってたんだけど……」
頻繁に通っているせいか購買の書籍担当者と蒼生は仲がいい。割引で購入する方法は他にもあるのだが、頼みやすさを考えれば蒼生がそこを選ぶことに不思議はない。ならば何故わざわざここの本屋に、と思ったが……なるほど、そういうことか。蒼生が迷う答えはポップに既に書いてあった。特定の書店系列でのみ限定特典冊子がつくのだそうだ。
「この特典が欲しいんだね」
「う……」
「他では手に入らないのなら、あまり悩む必要はないと思うけれど。ちなみにどういう内容なのかな」
「! あのね、ずいぶん前の文芸誌に載せられた短編なんだ。ここ何冊か続いてる名家に絡む物語の前日譚的な話で、どうしてあの2人が組むようになったのか、そのきっかけに少しだけ絡む事件のことが語られてるの。しかも事情に詳しそうな謎の人物が意味ありげに書かれてて。でもね、直接本筋に関わるわけじゃない番外編だったから今までどこにも収録されてないんだよ。しかもその雑誌が程なくして廃刊になっちゃったから、取り寄せも出来なくなって、長く幻の短編って言われてたんだ。だけどこの内容なら、絶対、この先何らかの形でまた読めると思う。例えば短編集としてまとまるとかね。だから今回は諦めようと思ってたんだ。きっといつかどこかでもう一度読めるはずだから。とはいえ限定冊子でこんなふうに出ちゃったら、しばらくそれもないんじゃないかって……やっぱり気になっちゃって、こうして見に来たというわけです……」
くるくると変わる表情を見ていれば、蒼生がどれだけこの作品を好きでどれだけこの特典が欲しいのかがよくわかる。
忍耐強いのも節約に努めるのも決して悪いことではない。だが好きなものをあれもこれもやたらと我慢するのはどうなんだろう。これではいつか息が詰まってしまいそうだ。いつも頑張っているんだ、自分にご褒美くらいあげたっていいじゃないか。俺たちのために使うだけではなく、自分のために財布の紐を緩めることを蒼生はもう少し覚えたほうがいい。
自分を諦めさせようと納得出来る言葉を探している蒼生の背中を、文字通り片手でそっと押す。あとで悲しい顔を見るのは嫌だから。蒼生は戸惑ったような表情で俺を見た。
「状況は理解した。短編集が出るのを待っているんだね。けれど蒼生の言う通り、このタイミングで限定冊子になった作品をすぐに発売してしまっては、特典の意味がなくなってしまいそうな気がする。せっかく他の店舗ではなくここまで行って買ったのにと不満を持つ読者もいるだろう。つまり出版社側としては、現時点でその予定がない」
「や、やっぱりそうかな」
「といっても、たとえば他の書店よりもこの系列の店舗で売り上げが圧倒的によければ、その日は近くなるかもしれないよ。需要があるということだから」
「なるほど……」
「ねえ蒼生。割引だのいつかの話だのをいったん置いておいて、素直な気持ちになってごらん。蒼生はそれが欲しいの?」
「欲しい」
まだ少し迷いながらも、蒼生はそう口にした。
「なら買ったほうがいいね。こういうものは一期一会だ。今これだけ悩んでいるんだから、後になってどうしても欲しいと思う可能性は高いと思う。けれど限定品なんだ、改めて行動した時点で既に売り切れた後だったとしたら、蒼生は後悔するんじゃないかな」
「…………。だけど、今日読む本はもうあるし……」
「それなら、その本は俺に貸してくれないか? 面白い話だと聞いて興味が湧いた。蒼生のおすすめなら間違いはないだろうからね」
「そっか。……うん!」
どうやら俺の言葉で踏ん切りがついたようだ。ポップをもう一度眺めてからぱっと顔を上げると、晴れ晴れとした顔を俺に見せてくれる。それから棚に置かれた本を手に取った。
足早にレジに向かう背中が愛おしい。蒼生は自分のこういう優柔不断なところを面倒だと言うけれど、俺にはそれが可愛い。蒼生が今まで生きてきた中で培ってきた考え方だからだ。その性格になるまでにはプラスだけではないマイナスの要因もたくさんあるのだろうけれど、一生懸命に生きてきた証拠なのだと思う。……まあ、困ったように見上げてくる顔が好き、という要素もあるんだけどな。
「冬矢ぁ。買ってきたよ」
ふふ。嬉しそうに本を入れた鞄を抱き締める姿にも癒やされるな。満足げなこの姿を見られただけでもここに来た甲斐があった。こんな可愛い姿をもっと見せてくれてもいいのに。
「蒼生はもう少し贅沢をしてもいいと思うよ」
「十分贅沢してるよ。……だって、大好きな恋人がふたりもいてくれるんだよ? それってすごく贅沢なことだと思うから」
全身がざわめく。俺の恋人は、こんな、こんなにも可愛い。愛しくて仕方がない。今すぐどこか人の目のないところに飛び込んで、どうにかしてしまいたい。いや、蒼生にとって安全ではない場所では絶対にしないと決めているから、我慢をするほかないのだけれど。ああ、だからせめて伝えておこう。
「本当に可愛いことを言ってくれるね。こんなにも愛おしく可愛い恋人を得られた俺こそ最高の幸せ者だよ」
「ひぇ」
「ふふふ。それじゃあ戻ろうか。そろそろ活動開始の時間だろ」
「あ、うん、そうだね」
再びぽっと頬を赤くして視線を泳がせる。何度も伝えているのに、不意打ちの告白に弱いのかな。本当に可愛いな……。
さて、今日の活動場所は総合管理棟にある会議室だ。基本的にはサークル棟の集会室を使うことが多いが、学祭が近い時期には競争率が激しく借りられないことも多いらしい。その点この部屋は比較的借りやすいのか、近頃はこの部屋か近くの空き講義室を使っていた。集会室は少々密集するから、蒼生に他人を近付かせたくない俺としては会議室のほうが参加はしやすい。それだけではなく、サークル棟より新しくて綺麗なうえ、より正門にも近いから帰りやすくて便利だ。いっそこの部屋を正式な活動場所にしてほしいくらいだ。
ノックをして蒼生とふたりで中に入ると、部屋には既に20名ほどの姿があった。出席が必須ではない割には、今日はずいぶんと集まりがいいな。
と、後ろにいた蒼生の足がぴたりと止まる。どうしたのだろうかと蒼生を見れば、その目はじっと一点を見つめている。おそらくそちらに健太がいるのだろう。俺と同じように蒼生の状況を常に気にしている健太は、頻繁に携帯で蒼生の居場所を確認している。俺と一緒にいることがわかればすぐに駆けつけてくるだろうと思い、先に席を取っておいてくれと連絡しておいた。だから部屋にいておかしくないはずだ。蒼生にもそれは伝えてある。
瞬きの多い目線を辿ると、後ろのほう、窓に近い席に健太が座っていた。その向こうには同じ学年の木之下の姿もある。2人の前には先輩女子が立っていて、3人は……特に健太と先輩が楽しそうに話をしている。蒼生が複雑そうな顔をしたのはそういうわけか。健太が浮気などするはずもないのに。
「蒼生、行こうか」
「っ、うん」
敢えて気付かないふりをして声を掛け、蒼生とふたりで健太の元へ向かう。すぐに気付いたらしい健太は、表情を崩し、立ち上がる勢いで手を振ってくる。室内なんだからそんなに両腕を大きく振る必要はないだろうと呆れるが、……その気持ちは俺にもわかる。蒼生の姿を見てテンションが上がってしまうのは当然だ。瞬間的に愛おしさが胸の中で弾けて止められなくなる。だから胸の内だけで同意し、そのリアクションには触れないことにした。わずかに足が重い様子の蒼生を健太のほうに押し込み、俺もその隣に座る。
「蒼生っ、おかえり! 冬矢とふたりでどこ行ってたの?」
まず健太はそれを聞いてくる。やはり俺たちの位置を把握していたらしい。こいつも大概やきもち焼きの心配性だ。
「あ、うん。新刊の発売日だったから本屋に行ってたんだ。今日はそれを読もうと思って。健ちゃんはレポートの資料読むんだっけ」
「その予定だったんだけど、木之下から面白そうなの貸してもらったから、これ読む!」
さっと健太が顔の前に掲げたのは、……『1ページのミステリー』? 薄めの文庫本だ。木之下も同じタイトルで色違いの本を見せてきた。
「野木沢はこの本知ってる? 本屋を通りかかったら店頭に置いてあって勢いで買ったんだ。そうしたらさくさく読めるし面白くて、今いろんな人に薦めてるところ」
「そして私は木之下くんに、その次貸してねってお願いしているところ」
木之下と先輩の言葉を聞いて、蒼生はほっとした表情で頷く。そういうことだろうと思っていた。
「うん。先月1巻と2巻が同時に出版された本だね。最近どこかで紹介されたらしくて今ものすごく売れてるんだよ」
「へーえ、蒼生は読んだ?」
「まだ読んでないから、健ちゃんが先だね。どういう内容なのかちらっと見た感じだと、1ページめが本文で裏側が解説っていう構成になってるみたい。本文をじっくり読んで考えてからページをめくるといいよ」
「わかった!」
元気よく返事をしたと思うと、健太は早速手にした本を開いた。それをきっかけに、木之下も手元に目を落とし、先輩は前のほうの席に戻っていった。時計に目をやれば、既に活動時間に入っている。このゆったりした活動のサークルでは、特別な用事がない場合、厳密な開始の合図はない。他人が読むのを邪魔しさえしなければ、ただの雑談をしていても構わないわけだ。
……ふうん、珍しい。蒼生に言われたからだろうけれど、健太が真剣に文字を追っている。そしてそれを見つめる蒼生はとても嬉しそうだ。……可愛いな。この表情も好きなんだ。蒼生は昔と同じように"ずっと面倒をみている可愛い幼馴染み"として健太を見ていることがある。その微笑ましい姿を穏やかに眺める顔は、俺では引き出せない。ああ、今日は蒼生の大好きな表情をたくさん見られる日だな。
俺が見ていることに気付いたのか、蒼生は振り向いてぱちぱちと大きく瞬きをした。
「そうだ、僕の持ってきたのを冬矢に貸すって約束だったよね。ぼんやりしててごめん」
「いいんだよ。可愛い顔を堪能していたからね」
「わ、……えと」
向こう側にいる健太にさえ聞こえない程度の音量で呟くと、蒼生は慌てた様子で鞄の中を覗き込む。照れた顔を隠すための仕草だろう。そうして赤い耳だけ無防備にさらして俯いたまま、そーっと俺に1冊の本を差し出した。ハードカバーの本だが、これもさほど厚くない。真っ黒に見えるほど濃い青一色の表紙で、ぽつぽつと白い点が散っていた。蛍? いや星だろうか。
「綺麗な本だね」
「うん。僕も最初はそれに惹かれたんだ」
「高校の頃というと、図書委員の関係で?」
「そう、誰かが返却しに来たので見たのが最初。気になって読んでみたら面白くて、委員会の仕事の合間に何度も読んだんだよ」
「蒼生のお気に入りを紹介してもらえるのは嬉しいな。ふうん、短編集なのか。この図柄が内容に関係しているんだろうね」
「ん、ふふ。僕が一番好きなのは、表題作の『片恋』って話だよ」
少々はぐらかした態度を取るのがますます可愛い。うん、と言いたい雰囲気が伝わってきている。それを誤魔化すというのは、読んでみてのお楽しみ、ということなのだろう。
「それじゃあ蒼生、健太にしたように俺にもおすすめの読み方を教えてくれる?」
「えー? そうだなあ。これは主人公の一人称で話が進んでいくんだけど、相手の反応のほうにもきちんと意識を向けて読んでくといいかも」
「反応、ね」
「うん」
蒼生はにっこり笑う。それからさっき買った本を取り出し、特典の薄い冊子をうっとり見つめたかと思うと、ページを開いてすうっと文字に集中していった。可愛い顔が凜と美しい表情になる。薄茶のカーテンからの柔らかな光を背に、黒い瞳がきらきらと輝くのが逆光の位置からもはっきりとわかる。なんて綺麗なんだろう。
ああ、いけないな。このまま蒼生の横顔を鑑賞しているだけで活動時間をすべて使い果たしてしまいそうだ。せっかく蒼生が薦めてくれたんだ、この本を読んでみよう。
表紙を開くと、蒼生が口にしたタイトルが大きく表記されている。片恋ということは、主人公が誰かに対して片想いをしているのか、またはその逆か。蒼生は恋愛に関しての話をしたりドラマを見たりするのは苦手だが、文章で読む分には平気だ。だから蒼生が気に入っているこの物語が全編にわたって恋愛をテーマにしていたとしても不思議ではない。
……おそらく、俺は比較的逆の傾向にあるように思う。つまり、恋愛小説が得意ではない。これは蒼生と恋人同士になってからの傾向だ。いや、蒼生と出会う前は文章を楽しもうという気がまったくなかったから、そういった部分も大きいかもしれない。そもそも俺は恋愛話というものについても興味がなかった。というより、他人の話自体がどうでもよかったんだ。
蒼生と付き合い始めてから、蒼生の印象を悪くしないために円滑な人間関係を構築しようと心がけた。その結果、他人の話を聞く機会が増えた。恋愛話も含めてだ。ただ、人から聞く話なら適当に聞き流してしまえるのだが、物語となるとそれが大きな要素になり得る。すると読み飛ばしていては内容を把握できないので、きちんと読むようにしている。ところが、特に男が恋人に酷い態度を取るようなストーリーでは、思わず自分と重ねてしまう。蒼生という恋人が出来るまでは適当な交際を繰り返していたせいで、この物語の男のように蒼生に呆れられてしまうのではと考えてしまうようになった。振るも振られるも簡単に重ねてきた自覚があるんだ。蒼生にそんなことは絶対にしないと言い切れるが、過去は変えられるものではない。俺の過去の行いで蒼生を不安にさせてしまったらと思うと、ついページをめくる手が止まってしまうことがあった。
けれど、この物語はあまり苦手な感じがしないな。会話中心の展開だからだろうか。内容は、主人公の女性が偶然見かけた男性に好意を抱き、少しずつ親交を深めていく話のようだ。全体的に描写が明るく、会話も穏やかで、文体が軽い。そのおかげですんなりと読み進めることが出来る。だが、蒼生の言うように男性の反応を注意深く読んでいると、かすかな違和感がある。会話は続いているが、男性の答えがちぐはぐな部分があるようだ。……男性の言葉……。これは、常に朝の話なのではないか? しかもいつも同じ場所であるような描写の仕方だ。この部分に関しては場所が移動しているように読んでいたが、表現されている時間帯が異なるだけなのでは? そもそも主人公は移動することが出来ないのではないだろうか。……他の部分も合わせて考えると、主人公は人ではない。
「蒼生、これ」
思わず声を掛けると、ぱっとこちらを見た蒼生が得意げに笑った。
「ってなるでしょ」
……参ったな。可愛い。
俺はそっと蒼生に近付く。あたかも雑談が周囲に邪魔にならないように気を遣っているだけ、に見えるように。
「つまり蒼生は、俺なら理解出来ると思ってああいう言い方をしたね?」
「ふふ。うん。最後の一文を読んでから、あれ? って思うのも面白いんだけど、冬矢なら途中から推理に入るかなあって思って。だって冬矢、言ったでしょ。健ちゃんにしたみたいにって」
そういうことか。健太に推理の楽しさを教えたから、俺もそういう方向で楽しませようとしてくれた、というわけだ。蒼生らしいとても可愛らしいいたずらだと思う。
「それで、冬矢は"何"だと思った?」
「おそらくバス停の案内板だろう」
「うん。僕もそう思う」
蒼生も俺に合わせるように、こそこそと答えてくれる。同じ解答になったのは嬉しいな。
おそらく、公式には主人公が何者であるかの明確な答えはないのだろう。さらに蒼生の口ぶりからすると、この本は読み手に想像させることを目的とした話ばかりを収録していると思われる。だとすれば表紙のデザインは今後出てくる短編のどれかの答えを示しているに違いない。俺には、それが蒼生からの挑戦状のように思えた。大学に入る前、蒼生と試験の順位を競っていた頃を思い出して、心が弾む。
幼い頃は、試験なんて授業で聞いたことを書き直すだけで大して面白くないと思っていたんだ。新しい数字を間違わずに選んだ公式に当てはめて計算するならまだしも、いわゆる暗記科目など何の意味があるのだろうと。その考え方の根本は今でも変わっていないような気がする。けれど蒼生は、競い合う楽しさも喜びも教えてくれた。そこで得た知識から世界を広げることが出来ると教えてくれたのも蒼生だ。蒼生がいなければ、俺の世界は暗鬱で平面のままだったろう。
愛しい蒼生と目を合わせれば、「なに?」と唇が動く。いっそ愛を叫んでしまいたいけれど、蒼生が喜んでとろけている顔を他人に見せてしまうのは勿体ないから、しない。俺の愛を聞かせることもしたくない、君にだけ伝えたい。だから、「この本、面白いね」とだけ告げた。嬉しそうにこくんと頷くのがとても可愛かった。
きっと次の話も面白いのだろうな。そう思って一瞬手元に目を落とす間に、誰かが会議室に駆け込んでくるのが見えた。一応そちらを見ると、入って来たのは袋を抱えた先輩だ。そういえば今日は姿を見ていなかったな。前方の席に座っていた他の先輩たちと何事かごそごそ話していたが、しばらくして数名が並んで黒板の前に立った。
「えーと。活動中ごめんなさい。少しだけ耳を傾けてください。……実は今度の学祭で使おうと思ってた花瓶敷きなんだけど、去年使わなくてほったらかしてた結果、だいぶカビちゃって使えないのばっかりだということがわかりました」
学祭……そういえばこのサークルも参加をすると言っていたな。あまり派手さのない活動に見合った「サークルメンバーおすすめ本紹介」というとても大人しい展示を毎年行っているのだという。幾つか机を置いて展示をじっくり見られるようにするというが、ほぼ休憩室という扱いらしい。それでも小物の準備は必要なのだろう。
先輩はますます声を張り上げる。
「それで、買っちゃうのもアリかなとは思ったんだけど、今年はわりと人数もいるのでー、せっかくだから手作りでみんなに作ってもらおうかなって考えてます。上手い下手とかは全然関係なくて、誰かが作ったあったかみ? みたいなのをアピールできたらなーって」
「どういうやつー? 難しい?」
「いや、全然難しくなくて。作り方の紙を用意してきたから、これ見たらたぶん普段やらない人でも簡単にできるんじゃないかな。一応、裁縫初心者向けってなってるんで。まあ、そのあったかみって意味では手縫いでやってもらいたいです。んで、個性を出してほしいから、適当な布を各自で何種類かずつ用意してもらうんだけど、それは部費で落ちるから安心してください」
後ろの席からは縫いものか、面倒だな、という気の乗らない声が聞こえる。ただ少し離れた場所からは一緒に作ろうかというひそひそ話も聞こえてきた。どのくらいの数が必要なのかはわからないが、裁縫が得意な者が数名いればこちらにまで仕事が回ってくることはないだろう。実際、ちらほら手が挙がり始めている。
と、窓際にいた木之下がこちらに視線を寄越した。
「あれ、中高の授業でちょっとだけ糸と針触っただけの本物の初心者でも大丈夫だと思う?」
隣の健太が腕を組んで首を傾げる。
「うーん……オレはぶきっちょだからきっと無理だろうけど、木之下って几帳面でしょ。だからいけそうな気がする。チャレンジしてみたら?」
「そうか。じゃあ、やる」
「僕もやってみたいな」
え。蒼生が? 前方に出来た人の輪を眺めていた蒼生がぽつりと呟くから、驚いて思わずその手を握る。すると蒼生は目を細めて俺を見た。
「難しくないって言うし」
へえ……積極的に物事に関わりたがらない蒼生が、自分からやりたいと言うのは珍しい。どうしても手が足りない時にやむなくというパターンが多かったからな。そうか、やりたいのか。……うん。いいね。
「俺のほうが通路に近いな。じゃあ、配っている紙をもらってくるね。ついでに木之下の分も取ってこようか」
「ありがとう、笹原」
「お願いします」
蒼生が俺に向ける明るい笑顔が眩しい。責任感のような重い気持ちに迫られているのではなく、本心からの言葉なのだとわかってほっとする。
人の輪になっていたのは、ひと学年上の女性たちだ。仲のいいメンバーでおそろいの花瓶敷きを作ろうと説明書を片手に相談をしているようだった。その脇を抜けながら先輩に声をかける。
「先輩。まだ枠は余っていますか?」
「あ、うん、あるよー。え、笹原くんやってくれるの?」
「俺はちょっと。木之下と野木沢の分をいただきたいなと思いまして」
「2人分? わー、助かる~。これでたぶん目標数いけそう~」
貰った紙には簡単な図や材料、手順だけでなく、上限予算や領収書の貰い方まで書かれている。あまり読む気はしないが、丁寧に細かく描写されているようなので、読みながら作業をしていけば最後まで作ることはできそうだ。
席に戻り、蒼生と木之下にそれを渡す。「ありがとう」と穏やかな笑顔で言った蒼生は、受け取るや否や、早速真剣に文字を読み始める。ふふ、可愛い。それを横から覗き込んだ健太が不思議そうな顔で首を傾げているのが妙に可笑しかった。
帰りに必要な材料を買いに行こうと決めたけれど、俺は具体的にどこに行くのか知らなかった。おそらく健太もそうだろう。言われてみれば布や糸の類は意識して買ったことがない。学校で裁縫を習うのに一通りの道具は揃えたが、授業で足りないものは都度学校で購入していたから、個人で買い足す必要はなかった。記憶を辿れば、ショッピングセンターのどこかで生地を陳列している店があったような気はするのだが、自分には関係のない場所だと思っているせいか、どこかと問われると答えられる気がしない。
電車の中でも説明書をじっくり読んでいた蒼生は、最寄り駅で降りて改札を出ると、家とは違う方向に曲がった。
「こっち」
迷いなく歩いていく蒼生の足取りは軽い。俺たちはただ蒼生の後ろについていくだけだが、それさえ楽しく思える。普段の蒼生は自然に俺か健太の後ろを歩くことが多いからだ。意識をしているわけではないようなので、蒼生自身それに気が付いていないのだろう。何故その行動に出るのか知りたい気もするが、本当に気付いていなかったとしたら、聞いてみたせいで意識的にやめてしまうかもしれない。だから俺は何も言わず、ついてくる可愛い蒼生を常々堪能しているというわけだ。だが、こうして自信満々に先導してくれる蒼生も可愛いな。少しきりっとした横顔がたまらなく愛おしい。
高架下を抜け、細い路地を曲がる。するとそこにはレンガで飾られた特徴的なビルがあった。ひとつ道を挟んだ向こう側にも同じ雰囲気のビルが建っている。複数の建物に分かれるほどの商品を扱う大型の店舗なのだろうか。入り口も複数あるようだ。こちら側にあるガラスの自動ドアは常に開いていて、絶え間なく客が出入りしている。その隙間から、ワンピースを着たマネキンと大きな鞄、たくさんのぬいぐるみが置かれた展示棚が見える。ドア脇にあるプレートの店名には手芸用品店と掲げられていた。へえ、こんな専門店があるのか。
蒼生はまっすぐ手前のビルに入っていった。ああ、見えていた棚は、売り物と作成サンプルを兼ねた展示だったんだな。いや、それよりも見渡す限りの生地に圧倒される。縦型に巻かれたもの、筒状に巻かれたものなど、様々な柄の生地の数は数える気すら起きないほどだ。ありとあらゆる色で溢れている空間は目眩がしそうだ。一呼吸して落ち着いて見れば、それらは素材や織り方の種類ごとにまとめられているのだとわかる。たしかに表示された生地の名前の中には授業で習ったものもあるようだ。しかし、ここまで種類が多いとは思わなかった。
「すっげー。布屋だ」
健太が感心したように呟く。……布屋。
「ふ、ふふ。そう。布屋さん」
嬉しそうな蒼生は、訂正をするつもりがないらしい。まあ、布を売っているんだから決して間違いではないだろう。健太らしい呼び方でもあるしな。
しかし、こんな大きな建物があったとは。駅のこちら側にも来たことはあるが、この店の存在は知らなかった。やはり意識をしていなかったせいだろうか。
「蒼生はどこでこの店を知ったの?」
「この先の本屋に探してる本の在庫があるっていうんで向かう途中で見つけたの。ここ、有名なチェーン店なんだよ。実家の近くのスーパーにもテナントで入ってたんだけど、こんな大きい店があるんだって知って嬉しくなっちゃった」
「じゃあ来たこともあるんだね」
「うん。そんな頻繁じゃないけど。繕い物するのに足りないのがあったら買いに来たりしてるんだ」
「……あれっ。もしかして、オレのズボンの裾がびろんってなってたのがなくなってたのって」
「直したよ~」
さらりと言って蒼生はにこにこ笑っている。
「健太……。それに気付かないのは相当ひどいな」
「ごめんなさい。あとありがとうございます」
「ふふ、どういたしまして。見つけちゃうと気になってすぐ直したくなっちゃうんだ。細かい作業は好きだし」
その言葉を聞いて、花瓶敷き作りに蒼生が自ら手を挙げた理由がわかったように思う。面倒だと言いながら誰かのために動くことが根本にある蒼生だけれど、今日は本当に細かい作業が好きだからという理由で純粋にやってみたくなったのだろう。蒼生がそう思っているだろうことが、俺にも嬉しい。しかもひとりでやるのではなく、こうして俺と健太を巻き込んでくれていることも嬉しかった。
2階への階段を軽く上っていく蒼生の背中に声を掛ける。
「それで、蒼生はどういうものを作りたいのか、もう決めてあるのかな」
「んー……」
ことん、と首を傾げる仕草。そうか、まだ悩んでいるんだね。
「ってか結局、あれってなに? 何をどうやって作んの?」
反対側に首を倒しながら、健太が腕を組む。さっきから蒼生の手元を覗き込んで読んでみようとしてはいたようだが、やはり健太には理解できなかったらしい。
「えーっとね」
蒼生は2階につくときょろきょろと辺りを見回し、柱の手前に置いていあるワゴンを見つけると、足早にそこまで歩いて行く。
「パッチワークキルトっていって……うーん、なんて言えばいいのかな。いろんな布を縫い合わせて作るんだけど、たとえば……」
そのワゴンにはセール品ハギレと書かれた札が立っており、小さく折りたたんだ生地がぎっしりと詰め込まれていた。蒼生の指が迷いながら4つほど商品を取り出し、少し悩んでから正方形の形に並べる。
「こんなふうにいろんな色だったり柄だったりの布を三角とか四角とかに切って、組み合わせて縫うの。ほら、1枚だけのときと雰囲気違うでしょ」
「わー。ホントだ。あ、もしかしてオレんちの玄関に昔あったのと同じようなやつ?」
「ああ、うん。クマとウサギの柄だったね」
「そうだっけ。姉ちゃんがちっちゃい頃に気に入ってたから飾ってたってのはちゃんと覚えてるんだけどなー。柄かぁ、なんかごちゃごちゃしてるなーくらいしか思ってなかった」
細かいところまで見ていないのが健太らしいな。健太の家には行ったことがないが、姉妹がいると装飾の雰囲気も違うのかもしれない。
すると蒼生がくるりと俺たちのほうを向いた。
「それで、ふたりにも来てもらった理由なんだけど……。あのね、たぶん、これってどんな柄をどんなふうに並べたってよくて、自由に好きにしたらいいはずなんだ。正解はないんだろうなって思う。でも……それってつまり、センスが問われるってことで……」
指先を擦り合わせて視線を泳がせる蒼生。そうだよね、これだけたくさんの種類があれば、優しい君は選びきれない。いずれ人の目に触れるものとなればなおさらだ。
「僕ひとりじゃ自信が持てない。だからね、ふたりに選ぶのを手伝ってほしいんだ」
ふふ。いい子だ。ちゃんとはっきり言えたね。
俺は蒼生の肩に手を載せた。
「それじゃあ話し合いながら決めようか」
ほっとした様子で蒼生が頷く。健太も頼まれたのが嬉しいらしく、目を輝かせてワゴンを覗き込んでいる。
「さーて、どんなのがいいかな!」
やる気があるのはいいが、健太に任せていては仕上がりが少々賑やかになるような気がする。実際、真っ先に健太が手に取ったのは、緑の蛍光色に大きく黒の水玉模様が描かれた生地だ。正直、サイズ感が微妙だな……。蒼生が押し切られないうちに軌道修正したほうがよさそうだ。
「これ、すっげえ目立つな」
「大事なことを忘れているんじゃないか? あくまで花瓶敷きであって、主役はその上に活ける花なんだぞ。それより目立ってどうする。今回は落ち着いた雰囲気にしたほうが無難だろう」
「あっ。そういやそうだったわ」
「僕もそれ忘れかけてた。さすが冬矢だね。じゃああんまり柄がないほうがいいのかな」
「そういうわけではないよ。蒼生、説明書見せてくれる? ……出来上がりがこのサイズなら、1枚はこのくらいになる。指で囲ってごらん。ほら、健太が気になったものだと何の柄だかわからない」
「ふむふむ」
「たしかに、なんだこりゃってなるな。ちっちゃい柄がいっぱいあるやつのがよさそう」
「ねえ、もしかして全部違うのより何種類かにしたほうがいい?」
「あー、そっか。あんまりごちゃごちゃしすぎてもうるさくなっちゃうんだな。無地の挟んだりすると落ち着いたりするかなあ」
「なるほど、柄のと無地で2種類くらいがいいのかも……」
蒼生は俺たちの言葉を真面目な顔でひとつひとつ頷いて聞きながら、生地を出したりしまったりしている。少しずつ雰囲気が統一されてきたかな。とはいえ……。
俺はワゴンの商品を端から端まで眺める。同じものも当然あるが、ほとんどが1点ものだ。おそらく売れ残った生地などが集められているのだろうと思うが、こんなに種類があるとは驚きだな。キャラクターがちりばめられたものからふざけているような冗談めいたものやどうやって使うのか理解に苦しむ写実的な柄のものなど、普段あまり見る機会がない絵柄まである。組み合わせは無限にあるのだから、これは蒼生でなくとも悩んでしまうだろう。
「うーん……。やっぱり、これだーって決めきれない……。ねえ、健ちゃんが好きなのはどれ?」
「色だったらこれなんだよなー。したら、この柄だと合わせやすいような」
「わあ、可愛い。えっと、冬矢は?」
「これなんかどうだろう。少し派手かな」
「あ、綺麗だね。これを……んー……」
たしかに、無難にまとめるには俺と健太の趣味では難しいかもしれない。基本的に俺たちは合わないものだと思っている。唯一にして最強の共通点は"蒼生が好きで可愛くてたまらない"だけだ。蒼生に関しては趣味だとか好みだとかそういうことではないからな。
俺たちの間で、蒼生は固まっている。考えすぎて余計に考えがまとまらなくなっているのだろう。
「……蒼生」
「うん」
「ひとつしか作ってはいけないということではないんだ。たとえば、俺たちが好きな柄で作って練習してみて、それから本番の作品に取りかかったっていいんだよ」
はっとしたように蒼生が俺を見る。ふふ、サークル用の備品を作るということだけで頭がいっぱいになっていたかな。でも、と蒼生の唇が動くけれど、それを遮るように健太が手を叩いた。
「たしかに! 家に蒼生の作品があったら嬉しいもんな」
「だろ。締め切りまで時間はあるんだし、出来上がりの雰囲気を見てからでも遅くはないじゃないか。違うなと思ったらまた作ればいい」
「そっか……」
もう一度蒼生がワゴンに目を落とす。そして健太と俺が選んだ生地を両手に持つ。
「じゃあ、いくつか買ってみる。失敗してもいいんだよね。練習だもんね」
何度か頷き、蒼生は他に4つほど抱え込んだ。決意が固まれば蒼生は迷わない。その潔さが好きだなあと思うよ。
どこからか健太が買い物カゴを持ってきた。そうだな、材料は他にも必要だ。
「蒼生、次は何を買うの?」
「んっと、糸ー」
「糸! どっちですか~」
「こっちでーす」
後は特に考える必要もない。カゴに入れた生地に合う色合いの糸などを買うだけだ。……そう思っていたのだが。
「……待って蒼生。糸ってこんな種類あるの?」
「そうだよー」
「これ、隣の糸と同じ……ああ、ほんのわずかに色が違う、のか」
「ほぼ一緒じゃん!」
グラデーションになるように並べられた糸を前に呆然と呟く俺たちを見て、蒼生は楽しそうに笑った。まったく、可愛い顔をして。
そわそわと袋を抱えながら帰路につく蒼生の姿を見ていれば、すぐにでも取りかかりたいのだろうとすぐにわかる。だから俺の後についてキッチンに入ってこようとした蒼生の肩を掴み、くるりとリビングのほうを向かせた。
「えっ?」
「蒼生は作業を始めたいんだろう? 食事の支度なら健太をこき使うから大丈夫だよ」
「でも」
健太が俺たちの間に割り込んできて、元気よく手を挙げた。
「はーい! 今日はオレが活躍しまーす! 蒼生が頑張ってる姿はきっちり眺めさせてもらうから安心して作業していいぜ!」
「え、そ、それは緊張しちゃうかも……」
まったく、こいつはいつも一言余計だ。俺だって蒼生の手元をじっくり眺めていたかったのに、蒼生にバレたら意識させてしまうじゃないか。
「健太。アイロンの準備をしてから、こっちに来い」
「アイロン? 蒼生が使うんだよな。おっけー」
こうなったら本当にこき使ってやろう。
しかし、俺の心配は杞憂だったらしい。健太に指示を出し、それからダイニングテーブルで作業を始めた蒼生をこっそりと見ると、数種類の生地を広げながら説明書をじっくりと読んでいる。真剣な眼差しは集中している証拠だ。それから丁寧に線を引いたと思ったら、俺たちの作業と並行するようにハサミを手にしてあっという間に生地をカットしていく。何度も説明書とにらめっこする姿は不安の表れでもあるが、そんなところも可愛いと思う。
「蒼生、集中してんな~」
嬉しそうに健太がぼそりと零す。
「そうだな。このペースでは、蒼生がひとつ仕上げるほうが食事の支度より早く終わりそうだ」
「ほわー、すげえなぁ。オレなんかあの紙見ても何していいのかまったくわかんなかったけどな」
「元来、蒼生はものを作る作業が好きなんだろうね」
あれだけ悩んでいたのが幻覚だったのではと思えるほど、蒼生はてきぱきと作業を進めていく。バラバラの欠片だった小さな布が、蒼生の意志で繋がっていくのには感動すら覚える。
この分では、本当に蒼生のほうが早いな。俺たちがつい蒼生の指先に集中してしまって手が止まっていることが多いせいもあるけれど。
ああ、紡がれていく。
鮮やかな色がひとつになっていく。
綺麗だな、と思った。
「できた!」
蒼生の明るい声で、俺は我に返る。健太も同様だったようだ。
「え、もう?」
「うん。思ってたより難しくなかったよ」
「それにしてもすごいね」
照れたように笑った蒼生が、出来上がったばかりの作品を手にキッチンにやってくる。
薄い青の可愛らしい小花模様は蒼生が選んだもの。格子模様の薄緑色は俺。赤地に白い水玉模様は健太だ。それらが綺麗に配置され、青の縁取りで囲まれている。店頭で並べたときにはまとまりがないように思えていたけれど、こうしてひとつの作品になると、不思議なほど収まりがいい。
「わー、すっげえ。ポップな感じで可愛いじゃん!」
「僕もちょっとびっくりしてる。ちょっとクリスマスっぽいよね」
「なるほど、そんな色合いだ。縫い方もとても綺麗だし……。練習とは思えないほど立派な作品になったじゃないか」
「マジですごいよ、蒼生。プロの人が作ったみたい! かっこいい!」
「ああ。作業も早くてこんなに綺麗な仕上がりになるなんて、本当に素晴らしいな」
「えへへ」
素直に笑う蒼生が可愛い。手が濡れているせいで頭を撫でられないことがひどくもどかしい。急いで拭こうかと思ったが、蒼生はひらりとキッチンを出て行ってしまう。
「この勢いで、本番のやつも作っちゃおうっと」
そう言いながら、デフォルメされた海洋生物が描かれた生地を広げる。とても楽しそうだ。さっきまでの真剣な眼差しも可愛かったけれど、鼻歌を歌いながらハサミを掲げる姿もとても可愛いな。
「蒼生。もしよかったら、そっちも後で少し手伝わせて。蒼生の作る作品に少しでも携わりたいんだ」
「あっ、いいな! オレもオレも!」
口々に訴える俺たちに、蒼生は楽しそうに「いいよ」と笑った。
シャワーを浴び終えた蒼生は、すっかり眠たそうだ。俺が風呂場から戻ってきた時点で、頭をタオルでくるんだまま健太にもたれてソファでうとうとしていた。健太から場所を譲り受け、蒼生を床に座らせてその髪を乾かしていたが、そろそろ限界のようだ。俺はドライヤーのスイッチを切ってソファの座面に置いた。
「あーおい」
「んー……?」
俺の脚の間に収まるように座っていた蒼生が、のんびりした声を上げる。ソファに座る俺を仰のいて見上げてくる表情は、もう半分眠ってしまっているようだ。可愛らしくて思わずそっと髪に口づけると、ふふ、と嬉しそうに笑う。……可愛いね。
「ありがとー、冬矢ぁ」
「どういたしまして。蒼生、今寝てただろ。今日は目を酷使したから疲れたんだよ」
「そんなにじゃないもん……」
「頑張って結局2つきっかり仕上げてしまったじゃないか。ほら。先にベッドに行って寝たほうがいい」
「うん……」
かくんと首を落とすように返事をした蒼生は、ひどく重そうに体を起こす。あまり力が入っていないな。俺の足を掴んで……もしかしてこれは甘えているんだろうか。たまらなく嬉しくなってしまう。まだ俺は寝る準備ができていないから一緒に転がることはできないけれど、ベッドに送ってあげることくらいはできるだろう。そう思って蒼生の脇に手を差し入れ、起き上がる手伝いをする。
と。
俺に縋りつくように抱きついてきた蒼生が、俺の膝の上に向き合うに座ると、そのままくっついてきた。
「んっ……」
思わず声が漏れた。なんだこれは。こんな可愛い姿を見せてくれるとは、なんの褒美だろう。
蒼生が抱きついた肩のあたりからは穏やかな寝息が聞こえる。くらくらする。俺の上で眠ってしまうなんて。俺を信用して安心しきっているんだ。ああ、可愛すぎてソファに押し倒してしまいたい気持ちと、愛おしくてこのまま寝かせてあげたい気持ちが拮抗する。
それと同時に、じわりと感動が湧き上がってくる。蒼生は、健太の上で寝落ちをすることがあった。それは健太が自分を運んでベッドに連れて行けるとわかっているからだ。言葉にはしないものの、運んでほしいという可愛らしいわがままを健太には言えるということだろう。羨ましいが、鍛えている健太とは違って腕力に自信がない。蒼生を落としてしまうかもしれないという不安があったので、同じようにしてほしいとは言えなかった。けれど、……そうか。俺にもこんな甘え方をしてくれるようになったのか。
しかし、いつまで理性がもつかな。
愛しい体温と可愛い寝息を味わっていると、風呂に行っていた健太が戻って来た。
「お。蒼生寝ちゃったか」
「悪いが、頼めるか。運んであげられる自信がない」
「ん、わかった」
眠っている蒼生を起こさないように、俺はそっと蒼生の体を支え、健太がその隙間に手を差し入れる。が。
「……や」
蒼生の手が、俺のシャツを掴んで離さない。
「ぐっ……」
「っ……」
俺と健太は唇を噛んで声を抑える。可愛い。俺から離れたくない小さな抵抗があまりにも可愛すぎる。
頬が緩むのを我慢しきれずにやにやした健太が、蒼生の耳元に口を寄せた。
「蒼生ー。オレだよ。おいでー」
「ん」
蒼生はすんなりと力を抜いた。すると今度は健太のシャツをぎゅうっと握り締めている。離れるのはとても寂しいが、そのおかげで幼子のような無邪気な寝顔がよく見える。
「オレ、このまま蒼生と一緒に横になるわ」
「俺もすぐに行く」
健太に連れられて行く蒼生の姿を見送り、俺は急いで洗面所に向かう。蒼生との時間を過ごすために後回しにしていたのだが、間違いではなかった。あんな可愛い蒼生を堪能できたのだから。
洗面台の棚を開けると、歯ブラシが3本立っている。ただそれだけのことが、こんなに嬉しいと思うようになるとは、まったく想像していなかった。
急いで支度を終わらせ、リビングに戻る。ふと、ダイニングテーブルの上に目が行った。そこには蒼生が仕上げた作品がふたつ。デニム調の生地にブルーの可愛らしい小花柄を合わせた花瓶敷きは、少し糸の調子が異なっている箇所がある。俺と健太が手を出した部分だ。ほとんどは蒼生の作品だが、俺たちも関わっている。俺と、蒼生。それからまあ、健太の。3人の手が加わった品物がこの世に存在している。これをサークルに持って行くのは勿体ない気がするが……。ただ、きっとこれからも俺たちが作る「なにか」は増えていくはずだ。
そして、こっちは蒼生が初めて作ったもの。目が覚めるような明るい色使いが気分を高揚させるようだ。俺にしては派手な生地を選んだが、それが蒼生の丁寧な作業によってきちんとひとつの作品に仕上げられている。それは、蒼生が俺を包み込んでくれていることの象徴のような気がした。これが蒼生の、俺たちの色なんだ。……これは、うん。誰にもやれないな。
照明を落とした寝室に入れば、蒼生は先程と同じ顔ですやすやと眠っている。健太と反対側からベッドに上り、音を立てないように横になった。そして、そっと肩を寄せ、静かに頬に口づける。
……ふにゃ、と蒼生が笑った。
可愛い可愛い、大好きな蒼生。
君がいることで、俺の世界はこんなにも綺麗に色付いたよ。
「おやすみ」
呟いた声には、「んー」と寝ぼけた可愛い声が返って来た。
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