高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2024年07月16日 22:40    文字数:23,691

59こ目;隠れ家にて

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蒼生が1年生の頃のお話。
強引な友人に引き連れられ、知らない世界の扉を開けることに。
普段とは少々異なった雰囲気の1話です。
49こ目(許容と不許可の境界線 https://pictbland.net/items/detail/2232688 )とリンクしている箇所がありますのでよろしければご査収ください。

↑初公開時キャプション↑
2022/07/16初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
このお話に初めて出てくる人たちを覚えておいてくださると幸いです!
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 チャイムと同時に、久我島くんが僕のノートの上に勢いよく両手をついた瞬間、ものすごく嫌な予感がしたんだ。
「なあ野木沢、今日、飯行かね?」
「ごめん、用事があって」
 実際、僕は急いで片付けをしているとこだった。食事当番の日だから、早く帰らなくちゃ。まだ手際の悪い僕は、時間がかかるんだ。さっき足りないものがあるのも思い出しちゃったし。
「そんなこと言って、おまえいつ誘っても用事っつってほとんど来ないじゃんか」
 だって、前に、ごはんだって言って連れて行かれたら合コンだったってことがあったから……身構えちゃうのは仕方ないと思うんだけど。ほんっとああいうの、苦手。なんとかしのいで帰ったものの、健ちゃんと冬矢にいっぱい慰めてもらわなきゃ立ち直れなかったんだから。……とは言いづらいよね。
「久我島くんだってひとり暮らしなんだからわかるでしょう。あんまり外食に使う余裕ないんだよね」
「そうかなぁ? いいじゃん、行こうぜ。用事とか言ってもバイトじゃないんだろ?」
「うーん、そうだけど、でも」
「あ、また合コンなんじゃねえかって疑ってんな?」
「……あはは」
「今日は違うから! 普通に飯! さすがにバイトじゃシフト調整大変だけど、そうじゃねえなら大丈夫じゃん。オレのサークルの先輩も来るんだよ。だから行こうぜって。なんなら奢るぜ~」
「え」
 他に人がいるの? これはあんまりいい流れじゃない。早く離れたほうがよさそうだ。久我島くんは友達だ、大事にしなきゃいけないのはわかる。だけど、僕にとっては比べようもないほど大事なひとがいるんだから。健ちゃんと冬矢以上に大切にしたいひとはいないんだから。もう一度ちゃんと謝ろうとした時、どやどやと教室に男子学生が4人入って来た。
「久我島ぁ、そろそろ行こうぜ」
「はーい、行きましょ。今友達誘ってたとこなんで」
 うわ。あっという間に囲まれた。僕を取り囲んで見下ろす人たち。……あ。
「へえ、おまえ友達いたんだなあ」
「酷いッスよ先輩~」
「じゃあ彼も一緒に連れてくんだ?」
「だって先輩に囲まれて、オレひとりだけ後輩ってなんか寂しいじゃないですか」
「やっぱ人望ないんじゃねえのー? で、この子、名前は?」
「こいつ、野木沢です」
 なんだろ。やだな、気持ち悪い。急に吐き気がして、だからまともに口を挟めないうちに、あっという間に話が進んでく。挙げ句の果てには腕をひかれそうになって、触られると思って反射的に立ち上がった。の、が、どうやら肯定の意味に取られたらしい。
「それじゃ出発~」
 ここまで来ると、それでも行きません、とは言えなかった。すぐに知らない話題で盛り上がり始めちゃったから。
 どうもこのノリがわからない。なんか……適当に切り抜けるしかないか。

 電車内でもわいわいと楽しげな一団の端で、僕はふたりにメッセージを送る。すぐに冬矢から「食事のことなら気にしないで。楽しんできてね」、健ちゃんから「気を付けてな、帰り連絡しろよ」と返ってくる。うー。僕は自分の役割も果たせないのか……。ごめんなさい……。
 大学から一番近い繁華街で僕たちは電車を降りた。普通に話しかけてくる久我島くんの先輩たちに適当に返事をしながら大人しくついていくと、少し裏道に入ったところにあるビルの中に入っていく。廊下の奥まったとこに入り口があるみたい。店名を見ると……クラブ……? これまた僕とは縁のなさそうな……。
「久我島くん、ここは?」
 ご飯を食べにくるにはあんまり似つかわしくないように思うんだけど。小声で聞くと、久我島くんは楽しそうににこっと笑った。
「ゲイバーってやつらしい」
「……へ?」
 さあっと血の気が引くのが自分でもわかった。だって。
「くっ、久我島くんって、そういう……?」
「あははは、んなわけないじゃん。先輩が偶然見つけちゃったんだって。そしたらさ、どんなもんか見てみたいと思うだろ? 興味興味。社会科見学だよ」
 そ、それって……。
「ねえ、そういうのよくないと思うよ。ちょっと軽く考えすぎじゃないかなあ」
「そうだな、バレたら追い出されるかもな! バレないように気を付けようぜ!」
 そういうことじゃない。そういうことじゃないと思う。
「僕、帰……」
「ほら入るぞ!」
 足下がぐらつきそうになった。先輩たちは何の躊躇いもなく店のドアを開ける。受付のスペースらしき場所があって、その向こうのドアからだろうか、賑やかな音楽が漏れ聞こえてくる。
「いらっしゃいませ。お客様、当店のご利用は初めてでいらっしゃいますか?」
「あー、はい」
 店員さんが、牽制のような説明をしてる。どういう店か知ってるかとか、からかい目的や犯罪目的では入店できないこととか。僕は耳をすり抜けていくその言葉を、逃げ出したい気持ちで聞いていた。どうしてこの人たちは、それを普通に聞いていられるんだろう。
 頭がぐちゃぐちゃになる。僕は自分がどうして指が震えるほどの吐き気を覚えているのかわからない。興味本位の人たちと一緒にいる罪悪感なのか。それとも、僕のことがバレてしまわないかという恐怖なのか。あるいは、僕自身がこの店にいる人たちを騙そうとしているからなのか。
 僕は……僕は、今でもまだ自分がわからない。女の人を好きになったことはない。だからといって、男性をそういう目で見たこともない。本当に、健ちゃんと冬矢だけなんだ。だから、たぶん、男性が好きとか、そういうことではないはずで。いや、わかんない。健ちゃんとちっちゃい頃から一緒にいすぎて、気が付いたら好きだったから、どっちが先かわかんないんだ。そんなことどうでもよくて、僕はただ、ふたりが好きだ。それでいい。だけど、じゃあ、だからといって、こういう場所に来ていいのかどうかっていうと、また話が違うと思う。
 ぽん、と僕の手に平べったいプラスチックの板が渡される。
「それが会計札になるからなくさないようにってさ」
 はっとして見ると、全員の手にそれぞれ同じ板が握られている。説明が全部終わったみたいだ。ぞろぞろと奥のドアに向かっていく集団の真ん中で、僕は酷く重く感じる足を引きずって流されていった。
 ドアを開けた途端、わっと音楽のボリュームが上がる。それと同時に久我島くんたちのテンションも上がったらしい。
「へー、普通のクラブと変わんない感じなのな」
「あそこに似てない? 西口の」
「あー、はいはい」
「思ってたより、人いっぱいいるじゃん」
 普通のクラブがどういうものかは行ったことないから知らない。見渡すと、薄暗い室内の左手にはカウンターがあって、規則的に背の高い椅子が並んでいる。その近くに立ち飲み用なのか、胸元近くまであるテーブルだけがいくつか置いてあった。そこから右手の奥のほうには広いスペースがあるみたいだ。話に聞くDJブース? っていうのかな、機械に囲まれた一段高い台もさらに奥のところにある。音楽はそこから聞こえてくるんだ。そっちのほうは明かりがちかちかしていて眩しい。
 そのどのスペースにもたくさん人がいて、思い思い、楽しそうに過ごしている。見渡す限り、男性ばかりで。罪悪感で目眩がした。
「1ドリンク制つってたから、まずは飲み物頼もう」
 先輩のひとりがそう言って、カウンターに近付く。
「すんません、ビール」
「では会計札の提示をお願いします」
 なるほど、決まった席がないから、これで何を頼んだか把握するようにしてるんだな。
「お客様は」
「あ、の、ソフトドリンクはありますか」
「もちろんですよ。こちらメニューです」
「では、冷茶を」
 よかった、あるんだ。
 それぞれ飲み物を受け取ると、僕たちは空いていた高いテーブルを囲む。あれ。久我島くん、それ、ビールだよね。たしかストレートで入学したから僕と同い年で、つまり未成年のはずなんだけどな。でも、今はそれどころじゃない。
 久我島くんたちは、飲み物に口を付けながら、あちこちにキョロキョロと視線を送っていた。僕には、まだその勇気がなくて、手元のグラスに目を落とすことしかできない。
「わー、すげ。キスしてるよあそこ」
「うっわー。マジだ」
「えー、なんか、うわー。気持ち悪くねえのかな」
 ものすごくいたたまれない。
「でもあのへん、普通に踊れる感じじゃね?」
「突撃しちゃう? しちゃう?」
 久我島くんは僕の顔を覗き込むようにして、笑った。
「野木沢も行こうぜ」
「あー……まだこの雰囲気慣れてなくて、もうちょっとしてから行くから、お先にどうぞ」
「そう?」
 それだけ言うと、先輩のひとりと肩を組んでダンスフロア的なところに繰り出していく。残った先輩たちも笑ってそのあとを追っていった。その姿は、動き回るライトと集まる人たちに紛れてあっという間に見えなくなる。
 ……はあ。僕はグラスを持って、カウンターに向かった。比較的人が少ないあたりの椅子に座って、ようやく息をつく。冷たいお茶のグラスはだいぶ濡れていた。
 少し落ち着いたカウンター席にひとりでいると、気分もちょっとだけ落ち着く。こうして見ると、グループで一緒にいる人たちもいるけど、2人でくっついている人たちもいるんだな。さっき先輩が言ってた、キスをしてる人たちも1組だけじゃない。お互い嬉しそうに唇を交わしながら、2人だけで何かを話していたり、ただ見つめ合っていたり、抱き締め合っていたり。……すごい。みんな堂々と恋人同士の関係を楽しんでるんだ。人目はあるけど、ここにいる人たちはお互いの存在を理解している。だから堂々としていられる。そっか。こういう世界もあるんだな。
 そこに、ふらりとカウンターに歩いてくる人の姿が見えた。
「熊さん、ジントニックおかわりお願い」
「はーい」
 返事をしたのは、カウンターの中にいた店員さんだ。なんというか、……ボリュームがあるというか、ずっしりしているというか、ふかふかした感じのおじさんで、くまさんって呼び方がしっくりくるように思えた。……失礼だったらごめんなさい。その店員さんは、カウンターの下に手を伸ばす。
 すると、飲み物を注文した人が、暇になったのか僕の隣に歩いてきた。
「こんばんは~」
「こんばんは」
 そうか、交流を目的とする場所でもあるんだ、話しかけられることもあるよね。ちょっと緊張する。
「お兄さん、ひとり? 今日はお相手探しかな?」
「いえ、友達の付き添いで来ただけです。彼氏いるんで」
「あーそっかぁ、残念」
 そんなに残念そうじゃなく、その人は笑った。だからたぶん社交辞令なんだろうなと思う。
 だけど、そんなことより、今。……僕、人に対して初めて言ったんじゃない? 「彼氏いるんで」なんて。うわ。なんだろ、嬉しい。すごく嬉しい。僕、はっきり言った。それに対して、さらりと流されたことも嬉しい。
 ……ああ、そっか。先とかあととかどうでもいいんだ。僕には彼氏がいる。ここにいてもおかしくないんだ。……なんかすごくほっとする。
「ロムさん、はい、ジントニック」
「ありがとー」
 その人は細長いグラスを受け取ると、僕に手を振って奥のテーブルに向かっていく。一応会釈をしておくか。ふうん、ロムさん。ていう名前?
 ふふ、と笑う声が聞こえて、カウンターの中に目を戻す。店員さんがにこにこと笑っていた。
「彼氏いたんだね。君たちの集団、興味津々って感じでキョロキョロしてたから、またノンケがふざけて入って来たのかと思ったよ」
 ……バレてる。おーい。バレてるよー。
「ごめんなさい、興味津々なのは間違いないと思います。こういうお店があることも初めて知りました。だから、実はまだ緊張しているんです。それに、友達に引っ張られて来たので、彼氏置いて来ちゃったのが心細くて」
「あらま、それでひとりなんだ。じゃあ次は彼氏も一緒に連れてきてもらえるように常連になってもらおうかな。名字か名前の頭文字、どっちか教えてもらってもいい?」
「え? えーと、の、ですね」
 名前のほうだと、ちょっと。
「の、ね。じゃあ、のんちゃん」
「のんちゃん」
 僕のことか。それは。たぶん戸惑った顔しちゃってたんだろうな、店員さんは面白そうに笑う。
「ここの店、常連はみんなあだ名を持ってるんだよ。ほとんどはちゃんとしてる人たちだけど、ごくたま~にトラブルが起こることがあってね。そういう時、あんまり本名が割れてないほうがいいでしょ。信頼できる間柄の合い言葉にもなるし。だから、あだ名呼びが定番になってるんだ」
「へえ……」
「だから、店長の僕の名前も、ほとんどみんな知らないと思うよ。さて、熊さんってあだ名は、名前から来てるのか外見から来てるのか。どっちだと思う?」
「えっ。えーと……」
「あはは。内緒だから答えは言わないけどね」
「うわ、ズルいですよ」
 この人、店長さんだったのか。すごく話しやすい人だな。少し話させてもらって、ちょっと緊張ほぐれたかも。
 熊さんが他のお客さんに呼ばれてしまったので、僕はまた店内を見回す。久我島くんたちはいったいどこに行っちゃったんだろう。まあ、このまま放っておかれるなら、そのまま忘れてくれれば有難いんだけど。
 またカウンターには、飲み物を注文しにお客さんがやってきた。今度は楽しそうな4人グループだ。すっかり酔っ払ってるのか、足下がふらふらしてる。大丈夫かな。危ないな。
「あ」
 ふらついた人が、僕のほうに倒れかかってきた。両手が僕の肩に掛かって、……っ!
 やば。
 咄嗟にその手を振り払って、逆に転びそうになったその人の肩を掴んで転ぶのを阻止したのは、我ながら大した瞬発力だと思う。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめんなさい! ありがとうございます」
 ……あー。びっくりした。
 そこに、隣の席からぱちぱちと小さな拍手の音。振り向くと、金髪のお兄さんが目を丸くして手を叩いていた。
「すごい、なんだか早業だったねえ」
「え、あ、ありがとうございます……?」
 どう返すのが正解だかよくわかんないけど、とりあえず褒められたみたいだからそう返す。すると、すぐにその顔は子供みたいな笑顔に変わる。
「支えてあげるなら最初あんなに邪険にしなければいいのに」
「意識してなかったので……。人に触られるのがあまり得意じゃないせいだと思うんですけど、つい」
 ふうん、と呟き、その人は苦いものでも噛んだような顔をする。
「あー。それねぇ。あんまり人に言わないほうがいいかもよ? そういう子にわざと触って、嫌がるのを無理矢理ヤッちゃうの好きな奴とかもいるからさ」
「……え。ありがとうございます、気を付けます」
 すごいことを、さらりと言われた気がする。そっか。そうだよね。そういう無差別な奴もいるんだった。誰でもいいからって、僕に、触れようとした、奴。……やなこと思い出しちゃったな。
 目の前の顔がまたぱっと明るくなる。
「君、この店って初めて? 見たことない顔だけど」
「はい。友達に連れてこられました。ご覧の通り、放っておかれてますけど」
「あっははは、そっかー」
 すごいな、表情がよく変わる人だ。人なつっこい感じで、するりとこっちの至近距離まで詰めてくる。警戒感を抱かせない無防備さは、なんだかちょっと健ちゃんみたい。だからこそ、気を付けたほうがいいのかな。
「ちょっと、みっちゃん!」
 戻ってきた熊さんが苦笑いをしてその人を見てた。みっちゃん。
「あ、熊さん、やほー。久し振りぃ」
「久し振り、元気そうでよかった。ところで、忙しいのは悪いことじゃないと思うけどね。発散のためにナンパとかやめときな? その子、彼氏いるってよ」
「って、だからぁ! もうそういうのやめたってば。最っ高の彼氏に毎日愛されちゃってんだからさあ。もー、何年前の話してんだよ~」
 この人も常連なんだなあ。たしかに、僕に対して「見たことない」って発言が出るのは、つまりは来てる人をある程度把握してるってことだ。
「そうそう、みっちゃんが来たらってことで伝言もらってるんだった。上の店、改装終わったって」
「え、来週じゃなかったっけ」
「資材の手配が早まったとか言ってたかな。早めに開けてるから、常連の子なら来ていいってよ」
「マジ? 移っていい?」
「もちろん。みっちゃんが来るの楽しみにしてたから、行ってあげたら」
 まともに看板は見なかったけど、このビルにはいろんな店舗が入ってるみたいだった。たしかにこの人の明るさだったら、あちこちに仲いいお店があってもおかしくなさそう。
 みっちゃんって人は、くるっと僕のほうを見た。
「友達にほっとかれてるんだよね。ごはん食べた?」
「え? いえ……」
「だったら一緒に行かない? ごはん美味しい店なんだ。ひとりで行くの寂しいからさあ」
 えっ。
 だけど。
「えーっと、君、名前は?」
 僕が戸惑ってると、熊さんが「のんちゃん」とフォローしてくれた。
「のんちゃん、か。可愛いじゃん。オレね、みっちゃんとかミチって呼ばれてる。気軽に呼んで~」
「み、ミチ……さん」
「あ、警戒してるでしょ。そりゃそうだよなあ。ちなみにのんちゃん、タチ? ネコ?」
「えっと……恋人限定のネコ、です」
「じゃー大丈夫! オレ、バリネコだし、彼氏にしか興味ないから」
 だけど、言葉ならいくらでも好きに言えるわけで……。困って目を上げると、熊さんは笑ってた。
「まあ、今のみっちゃんが安全なのは保証するわ。それに、食事が美味しいのは本当だよ。夕飯がまだならぜひ食べておいで」
 うーん……。
「じゃ、あ、友達に別行動することだけ連絡入れておいていいですか」
「もちろん」
 僕は携帯を取り出す。もちろん久我島くんに連絡するふりをして、メッセージソフトの画面を呼び出すためだ。緊急用のボタンを、いつでも押せるようにしておかなくちゃ。これを押せば、健ちゃんと冬矢に連絡が行く。……それを立ち上げようとして、別のメッセージが届いてたことに気付いた。久我島くんだ。なになに、「面白い兄ちゃんに会って遊びに行くことになったから今日はこのまま解散で!」……。なんなら奢る、とか言ってたのになー。とりあえず了承の旨を返信する。はい。もういいや。ごはん食べる!
「ぜひ連れてってください」
「おっけー!」
 ミチさんは楽しそうに笑った。

 非常階段みたいな狭い階段を、ミチさんは先に立って登る。たぶん、僕が怖がらないようになんだろうな。後ろがガラ空きなのは、怖くなったら逃げてもいいよってことなんだろう。
 上のフロアは、いくつかのテナントが入ってるみたいで、やっぱり目指す店は少し奥まっていた。木製のドアはレトロな感じがして喫茶店の入り口のようだったけれど、店名のプレートの下には、丁寧な言葉でゲイ以外お断りという旨が書かれていた。さっき納得はしたつもりだけど、やっぱりその貼り紙に値踏みされている感じがしてドキドキする。
 ただ、僕の緊張はまったく伝わっていなかったみたいで、ミチさんは元気よくそのドアを開けた。
「マスター! 久し振り!」
「あー、みっちゃん。待ってたよ」
 ほんとに普通の喫茶店みたいだな。昔からあるような、しっとりした雰囲気の喫茶店。違うのは、カウンターの後ろにある棚に並んでいるのがお酒の瓶だということだ。でも冷静になって思い返してみると、本で読むバーってこういう感じの描写だったかも。そうかあ、あれ、本当にあったんだあ。
 ミチさんの姿に相好を崩したのは、白髪にひげと眼鏡の、優しそうなおじさんだった。マスターってことは、この人が店長さんなんだな。そんなに広くない店内には、他に人の姿はなかった。
「熊さんから再開したって聞いてさあ。びっくりしちゃった。なんでオレに直に教えてくんなかったのー?」
「みっちゃん、仕事が軌道に乗ってきたって言ってたからね。どうせ正規のオープン日には来てくれるつもりでいてくれたでしょう」
「まあね。……なんかあんまり変わってないねえ」
「痛んでいたところを治したり、ライトと、あとは厨房周りを弄ったくらいかな。雰囲気を変えないほうがみんな来やすいと思ってね。でもほら、よく見てごらん。傷とかなくなってるのわかるかな」
「あー! 言われてみればたしかに。あと、椅子も見た感じふかふかになってる? 間違い探しみたいじゃん」
 ふうん。たしかに、この柔らかい雰囲気は、なくなってほしくないと思う人が多そうだな。僕だって、ドアを開けるまではあんなに緊張してたのに、店に足を踏み入れた途端、受け入れてもらった感じがした。
「ところで、後ろの彼は?」
「ああ、彼、のんちゃん! 友達にほっとかれて飯食ってないっていうからさ、オレもひとりの飯寂しいし引っ張って来ちゃった!」
 あ、そうだ。そもそも、今日来ていいのは常連さんだけのはずだ。
「ごめんなさい、初めてお邪魔します。今日は常連の方だけだと伺っていたのですが」
 マスターはにっこり笑う。
「いいえ、ようこそいらっしゃいました。常連の方の紹介ですから、遠慮なさらなくていいんですよ」
「すみません……」
 そんなやりとりも気にせず、すたすたと店の奥に入ったミチさんは、真ん中辺りのカウンター席に座る。
「オレ急におなかすいちゃった。マスター、今日は何出来る?」
「みっちゃんの好きなナポリタンなんかどうだい」
「わ、嬉しい。のんちゃんも同じでいい?」
「え、あ、はい」
 僕も、ミチさんの隣に座る。なるほど、ふかっとする。
「飲み物はどうします?」
「いつものー!」
「はいはい。のんちゃんは?」
「僕は飲めないので、ソフトドリンクはありますか」
 ミチさんがぱちくりと目を見開く。
「全然飲めないの? 下戸?」
「というか、未成年なので……」
「えっ。めちゃくちゃ大人びてしっかりしてるから成人してると思ってた!」
 それはお世辞だと思うけど、そうだよね。お酒飲むところなんだから、未成年は普通は来ないんだろうな。もしかしてそういうお客って迷惑かな。おそるおそるマスターを見ると、表情はまったく変わってなかった。それどころか。
「甘いのと辛いの、どっちが好きですか」
「えっと、甘いほうが」
「わかりました。では、ノンアルコールで用意しましょうね」
 そう言ってマスターが用意してくれたのは、オレンジ色の綺麗な液体を注いだ、三角錐に足がくっついたようなグラスだ。これ、カクテルグラスってやつじゃない? 初めて触るかも。
 既にレモンサワーを半分空にしていたミチさんが笑う。
「おっしゃれー」
「僕、こういうグラス初めてです。いただきます」
 そっと口を付ける。あ……。オレンジ? かな? あとパイナップルも感じる。わ、甘くて、でもさっぱりしてて、美味しい!
「美味しいです」
「それはよかった。二十歳になるまでは、雰囲気を楽しんでくださいね」
 そんな気遣いまでしてくれるなんて。うわ、このお店、好きだ。
 マスターが料理の準備をしに厨房に入ると、ミチさんは楽しそうに僕の顔を覗き込んできた。
「見てくれもそうだけど、のんちゃんって真面目なんだなあ。未成年つったって、友達みんな飲んでるでしょ」
「そうですねえ。そういう人もいるみたいですけど。そんなにお酒を飲みたいなって願望はないんですよ」
 楽しそうだなとは思うけど。めんどくさそうだなとも思う。今まで周りを見てきて、あんなふうになるんだったら飲まないほうがいいなと思ってきたことも多々あるし。そもそもああいう騒ぎの場が好きじゃないっていうのもあるんだよね。
 でも、これから先も絶対飲まない、とかそういうのじゃない。一応、僕にも理想がある。
「それに、ハタチになってから、彼氏と一緒に初めてのお酒を飲んでみたいんです」
 なんて言ったら、ふたりは笑うかな。ちょっと夢を見すぎかもしれない。でも、初めてはふたりと一緒がいい。
「……ってことは、彼氏、同い年?」
「あ。はい。僕が真ん中で」
「真ん中?」
 あっ。
 そうだ。ここでは彼氏がいることは何もおかしくないけど、それがふたりっていうのはやっぱり言わないほうがいいんだと思う。だって、恋愛って1対1でするものなんだろうから。僕たちの関係は、たぶん理解してもらえるものじゃないはずだ。僕はそれでいいから関係ないとはいえ、議論の種をわざわざ蒔く必要はない。
「えーっと、あの、真ん中に3日あけて、僕が年上です」
「3日ぁ? ってことは、1、2……4日違いってことか。じゃあほぼ一緒じゃん! そんなに近いの、なんかすごいなぁ。誕生日一緒に祝っちゃえるやつだ」
「あはは、そうです」
 実家ではほぼそうだったな。それだと足りなかったのか、真ん中バースデーって言葉を覚えた健ちゃんが、当日と間を合わせて5日間を誕生日期間って決めて、ふたりだけで毎日おめでとうを言い合う……なんて時期もあったっけ。あの頃の健ちゃん可愛かったなあ。今も可愛いとこいっぱいあるけど。
「そういえばさ、さっきの、恋人限定のネコってどういうこと? それって他人に触られるの苦手なのと関係ある?」
 すごいなミチさん、めちゃくちゃぐいぐい来る。遠慮ってものがない。でも、それを許してしまえるほどの明るさがある。だからつい答えちゃうんだよなあ。
「僕、恋人は彼……が初めてなんです。人に触られるの駄目なんですけど、恋人にだけはどう触れられても大丈夫なんですよ。だから、恋人限定」
「へーえ。でもそれって、恋人だから触れるんじゃなくて、好きだから大丈夫だったんじゃないの?」
「たぶんそうなんだと思います。心で気付くより先に、体でわかってたんでしょうね」
「わー、なんかスケベだ」
「あはは」
 ヤバい。楽しい。
「なんていうか、のんちゃん見てると、彼氏優しいんだろうなーって感じがする」
「優しいです。僕を甘やかすのが好きだって言って、ひたすら甘やかすんですよ。だから、つい、彼の前では精神年齢ががくって下がっちゃって」
「あら~。そんな甘いんだぁ。のんちゃん大学生だっけ。その頃じゃ止めらんないよね。構内でもこっそりヤッちゃったりしてね~」
「いえ、外では絶対にしてくれないんです。見つかって傷付くのは僕だから、って」
「そうなの? え、めちゃくちゃ愛されて大事にされてんじゃん! てか溺愛じゃん!」
 溺愛……。そうか、僕、溺愛されてるんだ。ふふ。
「僕の話ばっかりじゃなくて、ミチさんの話も聞かせてくださいよ。彼氏、どんな人なんです?」
「ふっふふ。聞きたい? オレの彼氏もね、ちょー優しいの」
「エピソードください!」
「あれはね~、先週のことなんだけど~」
 大変だ。いわゆる「恋バナ」というやつを僕は経験してしまった。あと、気が付いたんだけど、自分で話すことがあると、相手の話も苦にならない。もしかして、一方的に聞くだけだから、今まで苦手だったのかなあ。ミチさんが聞き上手っていうのもあるかもしれないけど、堂々と最高の彼氏を自慢できるっていうのは、めちゃくちゃ気持ちよかった。
 あと、マスターの作ってくれたナポリタンは本当に美味しかった。


 ごはんが美味しかったし、雰囲気も普通のお店と変わらなかったから、僕は時々バーに顔を出すようになった。
 ミチさんとは待ち合わせることもあったし、偶然一緒になることもあった。というか、ミチさんがすごく入り浸っているから、店に行くと大体いた。
 ミチさんの彼氏さんにも何回か会った。表情があんまり動かなくて威圧感があるけど、真面目で、年下の僕にも丁寧に接してくれて、……ミチさんを見る時だけすごく目が優しかった。ミチさんも彼氏さんといる時はふにゃふにゃしてて可愛くて、いいカップルだなって思った。
 健ちゃんと冬矢には、気に入ったお店があったから通うことにした、と伝えた。あと、友達ができた、と。ゲイバーに行ってるなんて知ったら、きっとふたりは心配しちゃうから。実際、僕はおしゃべりとごはんを食べに行っているだけだし。余計な心配はかけさせたくなかった。
 マスターは少し心配そうな顔をしていたけど、ミチさんは「ただの飲食店だからいいんじゃない」って言ってたし。そうだよ。何も後ろめたいことはしてない。


 その日も僕は、ミチさんと一緒にごはんを食べてから帰った。課題が忙しかったから、久し振りに行くことが出来て、ちょっと遅くまで話し込んじゃった。明日は休みだったし、少しくらい遅くなってもいいかなって。
「ただいま」
 玄関から声をかけたのに、……あれ。返事がない。リビングの電気はついてるから、もう寝ちゃったってことはないと思うんだけど。なにかあったかな、と急いで靴を脱いでスリッパに履き替える。すると、ようやくドアが開いて、健ちゃんが廊下を駆けてきた。
「おかえり、蒼生。迎えに行けなくてごめんね。大丈夫?」
「うん、平気……」
 健ちゃんの少し焦ったような顔。あれ? なんだろ。何かおかしい。胸の下あたりがひやっとする。
 そもそも僕が遅くなるって言って、健ちゃんが返信だけで済ませる時点でおかしかったんだ。……冬矢から返事はなかった。
「健ちゃん、あの」
「ん?」
 なんだか気持ちだけが上滑りしてるみたいな笑顔。
「風呂沸かしてあるから、早く入っちゃいなよ」
「え、うん……」
 健ちゃんの先導で、リビングに入る。冬矢は、ちゃんといた。ダイニングテーブルに両肘をついて、組んだ両手に口を付けるようにして、黙って座ってた。
「あの……冬、矢? ただいま……」
「……おかえり」
 っ……。胸がぎゅっとなった。平坦な音。少し動いた頬は、笑おうとして失敗したようだった。誰もいない向かい側の椅子を、じっと見ている。違う、僕を見ないようにしている?
「ほら、蒼生、もう遅いから、な」
「でも」
 健ちゃんは僕から荷物を取ると、優しい手で僕を押し戻そうとする。けど。でも。
 頭の芯が、じんわり冷たい。
「蒼生」
 冬矢が視線を動かさないままで、押し殺したような声で僕の名前を呼んだ。いやだ、と思った。
「ちょっとだけ話、出来るかな」
「冬矢!」
 冬矢を制したのは健ちゃんだ。健ちゃんは僕の前に立つ。
「話はもう終わっただろ!」
「終わっていない」
「まだ納得できてねえのかよ!」
「している」
「してねえだろ、その顔はよ。何度言えばわかんだ、お互い独立した存在なんだよ。言いたくねえことがひとつやふたつあったところで当然だろ。おまえの気持ちもわかるけどさ! って堂々巡りじゃねえかよ!」
 あ。
 …………そうか。バレたんだ。
 でも、バレたってことより、ふたりが、ずっとそれで喧嘩してたんだって気付いたことのほうが、僕をずしんと押し潰した。
 僕のせいで。
 ふたりが。
「ごめんなさい……」
「なにが?」
 僕の言葉に、冬矢が鋭い声を返す。痛い。
「冬矢」
 健ちゃんが止めて、でも、冬矢はがたんと音をさせて椅子から立ち上がった。
「毎回、同じ場所にいるね。でも、きっと、そんなに気に入ったんだなと思って、見ないことにしていたんだ。だけど外で起きたことをいつも詳細に教えてくれる蒼生が、この店の話だけはしなかった。……悪いとは思ったよ。だけど調べずにいられなかった。ここ、ゲイの集まるクラブなんだってね?」
 ちが、
「違う、たしかに、最初に行ったのはそこだったけど、僕が行ってるのはその上の階のお店なの。あの、そこも、ゲイバーではあるんだ、けど」
「でもそういう店なんだろ」
「だけど、思ってるより、ずっと静かなところで、人もそんなにたくさんいなくて、マスターもすごく優しくて、本当に、話を聞いてもらったり、ごはんを食べに行ったり、本当にそれだけで……!」
 他には何もない。ちゃんと説明しないといけないのに、頭が回らない。
「どういうつもりかは関係ない。相手を探しに来る男だっているんだろう」
「あ……」
 声は、何度かかけられた。でもみんな冗談だった。挨拶みたいなものだと思う。だけど声をかけられたこと自体は本当だ。
「……っ。そうか。刺激が足りなかった? 俺たちだけじゃ満足できなくなったんだ?」
「!? そ、そんなわけ……」
 冬矢が僕の腕を掴んだ。引っ張られて、足がもつれる。
「おい、冬矢!」
 健ちゃんの声。僕は頭が真っ白だった。
 倒れるように、引きずられて、ベッドの上に突き倒されて。冬矢の膝が僕の太腿の上に、ぐりっと乗って、それが痛いのだけがはっきりしてた。
「じゃあ、ちゃんと満足させてあげなくちゃ、だよね」
 冬矢の手が、僕のシャツの中に入ってきた。
 唇が、首筋に降りて。
 触れられたところが、ぞわっとした。
 あ。
 ちがう。
 ちがう。
 これ。
 ちがう。
 あっという間に、見上げる電気の形が歪んで、よく見えなくなった。
「……やだ」
 勝手に、ぼろぼろ涙がこぼれた。
「やだ、“嬉しい”って気持ちで触ってくれてない……。そんなのやだ……」
 止まらない。
 耳に熱い滴が落ちる。
「隠し事してたことは、ごめんなさい。でも、これは、やだ。やだ……」
「……ぁお」
 体にかかる圧力がなくなった。
 だけど僕は動けない。
 僕が。
 僕が間違っていたんだ。
 ちゃんと断るべきだったんだ。
 こんな、冬矢と健ちゃんを傷付けるようなこと、考えれば当然じゃないか。
 なのに僕は、目の前の楽しさを優先して、ふたりをないがしろにした。
 怒られて当然だ。
 呆れられて当然だ。
 嫌われて……当然だ。
「ご、めんなさ……っ」
 謝って済むことじゃない。わかってる。
 だけど言葉がわからない。
 どう言ったら、何を告げたらいいのか、わからない。
「ごめん、なさい。ごめっ……さ……」
 バカみたいにそれを繰り返すことしか出来なくて。
 だから駄目なんだと思った。
 僕は、こんなだから。
 ちゃんと伝える言葉すら浮かばない僕なんて。
「蒼生」
 ゆっくりと手が僕の下に潜り込む。それから、抱き上げて、僕を脚の間に座らせてくれる。……健ちゃん。僕はその手に安心する資格もないのに。
「蒼生。落ち着いて。ね。蒼生。……冬矢、おまえも」
 冬矢、も……? 起き上がったことで、涙が下に零れていって、僕は、目の前の冬矢の顔を見ることが出来た。え、冬矢……。真っ青だ。呆然と、立ち尽くして。
 あ。
 僕が傷付けたからだ。
 また涙が溢れてきた。
「ごめん、ごめんなさい、冬矢、ごめんなさい」
「……謝るのは俺のほうだ。ごめん」
「違う、僕が」
「そうじゃない、俺は、……俺は、一番、してはいけないことを」
「冬矢は悪くない、僕が冬矢のこと傷付けたんだ」
「逆だよ。健太の言うとおりなんだ。蒼生は悪くない。自分自身の行動が信じられないだけだ。……俺は最低だ。頭を、冷やしてくる」
 冬矢は俯き、寝室から……。
 僕のせいだ!
 冬矢っ……。
 冬、矢ぁ……。
 健ちゃんが、その腕を掴んだ。
「待てよ。ひとりで何をどう決着つけるつもりか知らねえけど、外で出来ることならここでしていけよ」
「……離せ」
「駄目だ。座れ」
 有無を言わせない口調と力で冬矢を引き留めた健ちゃんが、冬矢をじっと見る。冬矢は戸惑ったように視線を泳がせたように見えた。でも、涙でほとんど見えない。
 それから冬矢は何度か振り払おうとしていたけれど、健ちゃんは絶対に冬矢を行かせまいと腕に力を入れてた。腕の中にいた僕には、それがよくわかった。
 しゃくり上げる僕を挟んで睨み合ってたふたり。やがて、冬矢が大きく息を吐いた。それから、ベッドに上がって、僕の前に正座をした。
 また、沈黙。
 ちゃんと謝らなくちゃ。
 話を聞いてくれるうちに。
「ご、ごめ、ん、なさい……。もう、行かないから、許してください……」
 健ちゃんが改めて両腕で僕の体を包む。
「違うよ、蒼生。そんなこと望んでるわけじゃないよ。……オレたち、怒ってるわけじゃないんだ。それはわかる?」
「……怒って、ない?」
「そう。心配なだけ。な、冬矢」
 冬矢はじっと自分の膝を見つめてる。何か言わなくちゃ。思ってるのに、唇が空回る。冬矢も、すごく、言葉を探してるように見えた。
 静かな声で沈黙を破ったのは、健ちゃんだ。
「言うべきことがあんだろ」
「……ごめん。蒼生。本当にごめん」
「そうじゃねえよ。ちゃんと、どう思ってこの行動に出たのか、おまえが本当はどう思って蒼生を問いただそうと考えたのか、それを蒼生に伝えるべきだろ」
「…………」
「冬矢」
 また、しんとした。
 それが痛くて、やっぱり涙が止まらなかった。
 僕が泣く資格はないのに。
 僕が悪いのに。
 だけど、情けないことに、冬矢が紡ぐだろう言葉にしがみつきたくて、僕は冬矢が口を開くのを待っている。
 ……なんで僕はこうなんだろう。
 ふう、と、吐息の音が聞こえた。
「……たしかに。蒼生がひとりでどこに行ってもいい。蒼生がそこで楽しいと思えるなら、それでいいと思わなければいけないんだ。そもそも、蒼生が他人に心移りするなんて、まったく思っていない」
 冬矢の声は、絞り出したみたいに、震えてた。
「だけど。蒼生がそう思っていても、周りはどうだ? 静かな店だと言うけれど、悪酔いする輩が現れないと言い切れるか? 酔って理性を失った男が複数いて、囲まれたらどうする。頼りにする人間がいないタイミングを計って、裏へ引きずり込まれたらどうする。可能性はゼロじゃないだろ。……俺は。蒼生に二度とあんな怖い思いをさせたくないんだ」
 ……それは。ただ、僕を気遣う言葉。
 僕がいた場所は、冬矢にとって未知の場所だ。僕だって未だにそうなんだから。冬矢が心配するのは当然だ。
 冬矢は、僕に、怖いことが起きることを想像して、……怖かったの?
 いっぱい怖くて、いっぱい心配したから、それで、僕に伝えようと……。
 心配させたくないと思った、それが間違ってたのか。
 やっぱり、涙が、ぼろぼろ、こぼれた。
「だってさ。冬矢の気持ち、わかった?」
「……うん」
「そしたら、蒼生も、落ち着いて話して。反省点がわかってたら教えて」
「……余計な心配かけたくないなって、隠したら、それがふたりに余計に心配かけることになる」
 健ちゃんは、僕の頭を優しく撫でた。
「ん。さすが、冷静になればわかってくれるな。いつも、どんな時だって、少しでも離れてれば心配になっちゃうんだよ。余計とか余計じゃないとかねえの。特にこいつなんかさ、根っこが心配の塊で出来てるザ・心配性なんだから」
「……妙な肩書きを付けるな」
「ぴったりじゃねえかよ」
 心配性……。そうだよね、僕は、知っていたのに。冬矢も。健ちゃんもだ。
 笑う気配がして、健ちゃんが僕をあやすようにゆったりと体を揺らす。
「よし。お互いの気持ちと反省点ははっきりしたな。……そしたらさ。蒼生が、どうしても内緒にしたいって言うなら、無理にとは言わない、けど。今度さ、そこ、連れてってくれない?」
 僕は顔を上げた。健ちゃんの、寂しそうな笑顔。
 …………最初からこうすればよかった。
「むしろ、僕からお願いします。ふたりも、一緒に来てください」
 ひとりでも行ける場所だと思った。でも、それは、ひとりだけで行かなきゃいけない場所ということじゃない。むしろ、一緒に行くべきだった。
 ふたりは、ゆっくりと頷いた。頷いてくれた。
「……ごめんね、健ちゃん。僕がちゃんと冬矢と話し合わなきゃいけなかったのに。間に挟んじゃってごめんなさい」
「んーん。お互い頭に血ィ上ってただろ。落ち着いて話をするためにはオレがいてよかったと思うよ。3人でいることのメリットじゃん。それに、オレも、心配じゃなかったわけじゃねえよ?」
「だよね。ごめんなさい」
 健ちゃんは今度こそいつもの顔で笑った。それから、そっと僕から手を離す。すうっと寒くなるけど、健ちゃんの思いは伝わった。
 僕は、きちんと座り直した。冬矢と正面から向き合う。
 冬矢は、わずかに床を見て、膝に目を移して、それから、強張ったように腕を広げた。そこでやっと、僕のことを見てくれた。薄い色の優しい瞳。それが不安げに揺れている。
 ……その腕の中に、そっと、埋まる。
 背中に回される手。
 その手が震えてる。
「……ごめんね。怖かったよね。そんな思いをさせたくないと言いながら、俺がそういう思いをさせた。一番してはいけないと思っていたことをしてしまった。反省してる」
「ううん。押し倒されたことは全然怖くなかった。だけど、……冬矢に嫌われたかもって思うと、すごく、すっごく怖かった」
 僕は冬矢にぎゅっと抱きつく。いつもより早い鼓動が聞こえる。
「……僕のこと、まだ嫌いになってない……?」
「なるもんか。大好きだよ。好きで好きでたまらない……」
 健ちゃんが、僕の背中に優しくくっついてきた。
「大好きだから心配になるんだよ」
「うん……」
 僕たちはそうやって、しばらくひとつの塊になっていた。
 健ちゃんの鼓動も早かった。
 たぶん、僕もそうだ。


 僕がふたりをバーに連れて行ったのは、その翌日のことだ。僕を突き倒したことを冬矢がまだ気にしてるみたいだったから、早いほうがいいと思ったんだ。他のことは全部片付いたのに、それだけが冬矢の中に染みついてる。僕にはどうしてそこまで冬矢が引きずるのかわからなかった。
 その一方で健ちゃんは、
「どんなとこかな。楽しみだ」
 なんてにこにこ笑ってた。きっと僕を気遣ってくれてるんだろうな。
 ちりんちりん、とドアベルが鳴る。これは正式再オープンの時についたやつ。カウンターの中には、マスターとバイトのリュウさんがいた。
「こんばんは」
 声をかけて、まず顔を上げたのはマスターだった。
「おや、のんちゃん。2日連続とは珍しい。いらっしゃい」
 健ちゃんがきょとんとする。
「のんちゃん?」
「僕のあだ名。本名で呼び合ってると、素性がわかって危険な目に遭っちゃったらいけないから、危険回避でみんなそうしてるんだって」
「へえ。なんか可愛いな」
「そういうことも考えてくれるんだね」
 店内を見渡しながら、冬矢も呟く。
 すると、奥のカウンター席でミチさんが顔を上げた。もしかして寝てたのかな。
「あっれー。のんちゃんだ」
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「いや、今日忙しくてさ、ちょーっとうとうとしちゃっただけ…………って。オレ、まだ寝てる? 夢とか見てんの? なんかのんちゃんの後ろに極上のイケメンが見えるんだけど。しかも2人も」
 ぶわわっと、頬が熱くなる。恥ずかしいんじゃなくて、嬉しい。
「おや、ご新規さんですかね。いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
 マスターと冬矢が会釈して、健ちゃんがそれに倣うように頭を下げてたけど、僕の脳内はそれどころじゃなくなってた。イケメン……。えへへ。そうでしょう。かっこいいでしょう。
 僕は、ふたりの腕を掴むと、そのまま店の奥まで連れて行った。冬矢も健ちゃんも、マスターもミチさんもリュウさんも、何事かと僕を見る。
「あの。ここに通ってること、彼氏にバレまして。あんまり心配するから、連れてきちゃいました」
 ぴったり、時間が止まる。その小さな間の後で、最初に「えっ」と声を上げたのはミチさんだ。
「……どっち?」
「どっちも、です」
「彼氏?」
「はい! どっちも、大好きな僕の彼氏です!」
 言った。ずーっと自慢したかった。堂々と言いたかった。
 そう。
 僕の彼氏です!
 ふふふ。
 健ちゃんが、僕の腕をぎゅっと抱き締める。
「……蒼生が、オレのこと、ひとに彼氏って紹介してくれた……。なにこれ。めっちゃくちゃ嬉しい……」
 ぼそり、と僕の耳元で呟く。でしょう。そうなの。隠さなくてもいいの。
 冬矢もそっと僕の腰に手を回す。
「ここに来たがる訳がわかったよ。普段はなかなか言いづらいからな。なるほど。嬉しいものだね」
 うん。そう言って優しく笑ってくれて、あったかい手を感じて、ようやく僕はほっとする。
 マスターはにこにこ顔だ。
「だから言ったでしょう。恋人をあまり心配させるものじゃありませんよ。さあ、突っ立ってないで、座ってください。まず何を召し上がります?」
「僕はいつもの。ふたりにもノンアルコールで何かお願いします。……あのね、リクエスト聞いてくれるんだよ。ノンアルコールカクテルにもいっぱいあって、種類がわからないから」
「ふーん。では、彼と同じものを」
「オレは炭酸でおすすめのお願いします」
「かしこまりました」
 僕たちは促されるままにカウンター席に座る。ミチさんの隣に健ちゃんが座って、僕を挟んで冬矢が左。ああ、守ってくれるポジションだ。
 冬矢が改めてマスターに頭を下げる。
「……すみません、我慢出来ずに、つい押しかけてしまいました。こんないいお店だとは存じ上げなかったもので」
「いえいえ、お客様が増えるのはありがたいですよ。なにより、可愛い恋人をひとりでどこかに置いておくのは確かに心配でしょう」
「はい。こんなに純粋で綺麗で可愛い子なので、どうしても怖くて」
「ひぇ」
 とっ、冬矢? 綺麗な顔で笑っていらっしゃる……。
 健ちゃんもぱっと顔を輝かせる。
「そっか。普段思ってること言ってもいいんだ! なあ、可愛い可愛いオレの天使ちゃん、って呼んでいい?」
「だっ、だめ……。限度がある……」
「ちぇー」
 あ~……そうかぁ。ふたりのこと自慢するだけならいいけど、褒められることにもなるんだぁ……。にっ、苦手なんだけどな……だって恥ずかしいもん……。
 目線を泳がせた先で、ミチさんがニヤニヤ笑ってる。
「のんちゃん、顔真っ赤」
 うっ……。今まではなんとなく冷静さを保てたはずなのに。とうとうバレる時が来てしまった……。
「そっかー。なんか話聞いてると、彼氏のプロフィールが時々ブレるな~なんか話盛ってんのかな~とか思ってたけど。正解は2人いたってことか。気付かなかったなぁ」
「えっと。ごめんなさい、彼氏がふたりってこと、黙ってて。僕は真剣にふたりのことが大好きなのに、“二股の相手”にしたくなかった。彼らがいないところでも軽く思われたくなかったんです」
 両側に座ってたふたりが、ぴくんと肩を揺らす。僕がふたりを連れてこられなかったのはそういう理由もあった。相手がふたりじゃ、ただの遊びに思われるかもしれない。誤魔化すためにひとりを連れてきたら、嘘でももう一方を裏切ることになる。どっちもいやだったんだ。
「別に謝ることじゃなくない? いいじゃん、彼氏が2人いたってさ。そりゃ二股だったらちょっとどうかなとか思うかもしんないけど、彼氏、お互いの存在を認識して納得してんでしょ? それって二股じゃなくて、単にどっちも真剣にお付き合いしてます、でいいんじゃね?」
 そんなもんなのかな……。ミチさんは軽いから、世間一般はどうかわかんないけど。でも、そう思ってくれる人がいるのは安心する。
 健ちゃんがぐっと身を乗り出す。
「認識ってか、オレたちが言い出したんですよ。告白したら、選べなくて困ってるみたいで、じゃあ選ばなくていいよねって話になって。な」
「掻い摘まんで言えば、ですけど」
 含みのある冬矢の言葉。そうだね、健ちゃんの説明はだいぶ簡潔だもんね。
 ミチさんは目を瞠った。
「へー。オレはそういうお付き合いとかしたことないからわかんないんだけどさ、会う時間とか調整するの大変じゃないの? 順番とか決めるわけ?」
「いや、なんか、最初っから3人だったから、調整とかは別にしてないですよ。それに今は一緒に住んでるし」
「一緒!? 同棲してんだ!?」
「です、3人で」
「へええ……。今日キミで、明日はキミ、とかそういうのなのかと思った。え、だけど自分じゃない彼氏が恋人と目の前でイチャつくことになるじゃん? 見ててムカつかないの?」
「んー。最初はそういうのもありましたけど。あいつとラブラブしてるのもすっごく可愛いからいいかなーって。自分が愛されてるのも感じますし。……あっ、でも、嫉妬はします」
 え……健ちゃん、そんなふうに思ってたんだ。そっか。僕が冬矢といても、それが可愛いって思ってくれてるんだ。
「いつまでもライバルのようなものですから、気は抜けないです。ただ、それだけじゃない。俺が左を守るとしたら、彼が右を守れる。そういう存在ですよ」
 冬矢。うわ、嬉しい。最初から今まで、変わってないんだ。僕を中心に、ふたりがいてくれてる、と、思ってていいんだ。
 急に、じたばた、とミチさんが椅子の上で地団駄を踏むっぽい動きをする。ど、どうしたんだろ。
「うわー! なんかめちゃくちゃ羨ましいんですけど! のんちゃん、完全に、騎士に守られるお姫様ポジションじゃん! オレもなりたい!」
 だけど、冬矢と健ちゃんは、笑う。
「彼は守られるだけではないですけどね。自分で戦う強い人でもある」
「ここぞって時にはめちゃくちゃ強いもんな!」
 ミチさんは、ぐっ、と呻くような声。
「……さらに羨ましい……。こんな中身までイケメンなのを同時に独占するなんて、…………うん? のんちゃんくん?」
「えっ? はい」
「最初から3人でーってことは~、もしかして、……お営みのほうも」
「っ!」
 自分でも、がっと耳まで赤くなったのがわかった。だ、だよねえ! それ、聞かれるよねえ! ど、どうしよう。ふたりを見ると、にこにこ健ちゃんが嬉しそうに笑ってて、冬矢もなんだか意味深な笑いをミチさんに向けてる。えっと。
「あの。そういう、こと、です」
「かーっ。のんちゃんからは常に溺愛されてる匂い感じてたけど、2人分注ぎ込まれてるからかー」
 そっ……。思わず僕はカウンターの上に突っ伏す。注ぐ……。あ、うん、愛情ね。愛情注がれてるから、ね。うん。ミチさんのことだからそういう意味かと思っちゃうとこだった……けど、そういう意味なんだろうな。
 ふわ、と頭の上に手がかかる。顔を上げると、冬矢が僕の髪を指で梳いてた。
「髪、ぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
 優しい手。優しい目。覗き込んでも、どこまでも穏やかだ。
「……だいぶ、心配、減った?」
 冬矢はちょっと目を見開いて、それからふっと笑って僕の耳をそっと撫でた。きもちい。
「なくならないけど、だいぶね。こうして楽しそうにしている顔見たら、ようやく反省し終えた気になった。本当にこの前はごめんね」
「僕も、ちゃんと全部話したし、反省したから、あの時のこと謝り合うのはこれでおしまいにしよ? あれも、気持ちがズレてたのが嫌だっただけだから、ね?」
「ああ。気持ちが大切だもんな」
 ただ……。冬矢の奥底にはまだ何か棘が引っかかってる気がする。なんだろう。いつか……僕がそれを抜くことは出来るのかな。冬矢が僕を甘やかして包み込んでくれるように、僕も冬矢の助けになりたいよ。
 冬矢は黙って僕に触れ続ける。
 ことん、と僕たちの前に綺麗にな形に切られたフルーツが乗ったお皿が置かれた。置いたのはリュウさんだ。
「よかったら、初回ご来店記念にどうぞ」
「すみません、いいんですか?」
「最近、マスターに言われて、フルーツカービングっていうんですか? 練習させられてるんですよ。練習のお付き合いってことで」
 わー。ころんと半月型にくり抜かれたメロンに、可愛い形のバナナに、葉っぱみたいになったリンゴにマンゴー、ブルーベリーがアクセントに添えられてて、見てるだけで気持ちが明るくなる。
「わあ、リュウさんお上手ですね」
「ありがとうございます!」
 それをいろんな角度から眺めてると、リュウさんはそっと冬矢に向かって耳打ちするみたいに言った。
「大丈夫ですよ、のんちゃんが危ないことしないように我々が見張っていますから」
 ん!? 聞こえてますけど!?
「下のクラブは人の出入りも多くてなかなか目が届かないんですけどね。こっちにいる分には、怪しい奴全部追い出しますから」
 言って、リュウさんは腕を曲げて力こぶを見せる。趣味が筋トレの人だからなー。たぶん健ちゃんと話が合うと思う。
「そうですよ。基本的に未成年ってわかってる子はこちらも全力で守りますからね。危なっかしい子もいますから。ねえ、みっちゃん」
 マスターもかぶせてきて、笑う。向こうからミチさんが、
「反省してまーす!」
 と大声を上げた。
 冬矢がふっと笑う。
「……これだけの方々に見守られているなら、だいぶ安心ですね」
 全部じゃないのが冬矢らしい。でも、そっとテーブルの下で僕の指を握った、その手はすごく柔らかで。きっと少し気を抜いてくれたんだと思う。
 暖かい空気。
 嬉しいな。
 なんとなくふんわりした雰囲気になったなあと思ってたら、ミチさんがことん、とグラスを置いた。
「でもさ、3人でお付き合いってさあ、最初のポジション争いとかってどうなんの? タチネコ争奪戦すんの?」
 え?
「こら、みっちゃん。デリカシーのない」
「オレのデリカシーのなさは筋金入りだから仕方ないの。だって気になるじゃん」
 ポジ……?
 …………。
 え……?
 あ、れ……?
 え……だって……あれ?
「なんすか、それ。たちねこ?」
「あー、キミ、そこからなんだ。セックスのポジションだよ。タチが挿入るほう、ネコが挿入れられるほう」
「へー、そういう用語…………え?」
 健ちゃんも言葉の意味を理解して、隣で固まる。
 それから、僕のほうを見て、僕も健ちゃんを見つめ返す。
 ポジション?
 争い?
「大体話し合うものでしょ? だってどっちにも同じモンついてんだからさ」
 言われてみれば確かにそうだ。
 で、でも、僕、そんなことまったく……考えなかったなあ。
「オレ、最初っから抱くもんだと思ってた……」
「ぼ、僕もずーっと抱かれるつもりだったから……」
 冬矢が小さく笑う。それから僕をそっと引き寄せた。
「……俺は話し合うつもりでいたよ。もちろん抱きたいと思っていたけどね。でも、挿入れたいって言われたら受け入れる覚悟は出来てた。だから初めての時……君が抱かれるつもりしかないと知って、俺がどんなにほっとしたか、知らなかっただろ」
「……知らなかった」
 びっくりした。そっか、話し合うのか。そんな当たり前のこと、全然考えもしなかった。僕が誰かを抱くなんて、想定してなかったし、なんか気持ち悪い感じがした。そもそも最初は人と交わるつもりなかったからなんだろうな。唯一興味があったのが、そうなるはずもない箇所で受け入れ可能なもんかってことくらいで。それが結局、ふたりに抱かれるための準備になってたわけだけど。
「じゃ、偶然、全員が希望するポジションにすっぽり収まったってこと?」
「そういうことだろうね」
 そうなのかあ。
「……ふうん、なるほど。相談かあ。だったら、もし、ふたりがそうしたいって言ったら僕も努力すべき……」
「いやいやいや、いい、いい! 今のままで! ぜひ今のままで!」
 健ちゃんが慌てて僕の手を握る。うーん、そうだよね。なんか、逆、って想像つかないかも。
「俺も出来ればこのままでいて欲しい」
 冬矢もなんだか真剣な目をしてる。そっかあ、そうなってたとしたら冬矢は妥協することになってたんだもん。
「うん。僕も今のままがいいや」
 ふたりに愛されて、抱かれたい。
 それでいいんだ。
 ミチさんは、ふたりに支えられてる僕を見て、楽しそうに笑う。
「のんちゃんのそんな嬉しそうな顔、初めて見たかも~」
 ふふ。
「ふたりと一緒にいる時の僕が、本当の僕です」
「いいね~」
 といっても、ここではちゃんとしてるけどね。本当の本当の僕は、ふたりにしか見せないから。ふたりとだけいる場所で、ドアが閉じたら、初めて僕はただの僕になるんだ。
 ああ。家のドアを閉める瞬間が、こんなにも待ち遠しい。
 そこに、ドアのベルが鳴った。
「こんばんは」
 すぐに聞こえる声、ミチさんがそれに反応して「あっ」と声を上げた。入って来たのはミチさんの彼氏さんだ。なるほど、待ち合わせしてたんだな。
 ミチさんは椅子から飛び降りる。彼氏さんも店内に入ってきて、ちょうど僕の後ろ辺りで小走りのミチさんを抱きとめた。ほら、この瞬間だけ優しい顔。それが面白いほどすぐにすっと無表情に戻って、僕たちを眺める。
「……今日は、普段見ない顔の方がいますね。まさか……」
「うっ。おまえ、何年前の記憶蘇らせてんだよ! オレはおまえに一途なの! 昔とは違うの!」
 なんかこの手のやりとりよく聞くんだけど、昔のミチさんってどんなだったんだろう。今度昔の話、聞いてみようかな。
「でもこの人たち、だいぶ貴方の好みに近いですけど」
「え」
「ち、違う違う! のんちゃん、昔の話だから! ……このお2人、のんちゃんの彼氏!」
「ああ……なるほど。そうでしたか。それは失礼しました」
 彼氏さんも、それで済んじゃうんだ。たぶんミチさん以外のことだから関心が薄いんだと思うけど、抵抗なく受け入れてもらえるのはやっぱほっとする。
 誤解が解けて安心したのか、ミチさんは彼氏さんの首にまとわりつく。
「そう。だからねー、アッチも2対1なんだって。毎晩代わる代わる愛されまくりなんだろーね。ちょっといいなって思っちゃったぁ」
 ミチさんが言った途端、彼氏さんはミチさんの腰をがしっと掴んだ。
「へっ」
「帰りますよ」
「ちょ、え、待っ」
「今から帰って抱きます。2人分頑張ればいいんですよね?」
「えっえっ」
「マスター、急ぐのでツケといてください」
「はいはい」
「えっ、あ、ちょっ……」
 焦った顔のミチさんは、そのまま彼氏さんに引きずられて出て行った。
 あーあ。あれは、ホントに頑張られちゃうやつだ。
 マスターは、心配げにドアのほうを見る健ちゃんに笑いかける。健ちゃん、優しいから。
「心配なさらなくても大丈夫ですよ。みっちゃん、あれ、わかって煽ってましたから。のんちゃんがいつも、かっこよくて優しくて気遣いが上手で料理も上手で努力家で真面目で甘やかし上手で可愛いところもあって愛情深い彼氏の自慢をするから悶々としていたところに、実際のお2人がそれを上回るハイスペックだったので、自分もいちゃいちゃしたくなったんですよ」
 …………!
「ま、マスター、なんでバラしちゃ……」
「この子、オレたちのこと、そんなふうに!?」
「ええ。来るたびに彼氏のことを惚気たくて仕方ないふうでしたからね。綺麗なのんちゃんに近付きたいお客様も、のんちゃんの惚気を聞いたらすぐに諦めて離れて行きますから、安心してください」
「ふうん。惚気たかったんだね」
「惚気たいっていうか……事実だし……」
 リュウさんがぷっと噴き出す。
「事実が惚気とか、熱烈だあ」
 あああ。なんか急に恥ずかしい。嬉しいけど。
 マスターはやっぱりにこにこだ。
「いっそ全部バラしていきましょう。それで、ここに来ていることもバレましたけど、だからもう来ない、とか仰らないですよね?」
 …………。
 僕は、ふたりの顔を見る。
 冬矢は嬉しそうに、健ちゃんは楽しそうに、僕の顔を見て笑ってる。
「……はい。これからは、堂々と、一緒に来ます」
 ふたりの手が、僕の手を優しくきゅっと握った。

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    • 2026年05月31日 00:00〜23:50
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    04月18日 11:00 〜 08月15日 23:50
59こ目;隠れ家にて
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 チャイムと同時に、久我島くんが僕のノートの上に勢いよく両手をついた瞬間、ものすごく嫌な予感がしたんだ。
「なあ野木沢、今日、飯行かね?」
「ごめん、用事があって」
 実際、僕は急いで片付けをしているとこだった。食事当番の日だから、早く帰らなくちゃ。まだ手際の悪い僕は、時間がかかるんだ。さっき足りないものがあるのも思い出しちゃったし。
「そんなこと言って、おまえいつ誘っても用事っつってほとんど来ないじゃんか」
 だって、前に、ごはんだって言って連れて行かれたら合コンだったってことがあったから……身構えちゃうのは仕方ないと思うんだけど。ほんっとああいうの、苦手。なんとかしのいで帰ったものの、健ちゃんと冬矢にいっぱい慰めてもらわなきゃ立ち直れなかったんだから。……とは言いづらいよね。
「久我島くんだってひとり暮らしなんだからわかるでしょう。あんまり外食に使う余裕ないんだよね」
「そうかなぁ? いいじゃん、行こうぜ。用事とか言ってもバイトじゃないんだろ?」
「うーん、そうだけど、でも」
「あ、また合コンなんじゃねえかって疑ってんな?」
「……あはは」
「今日は違うから! 普通に飯! さすがにバイトじゃシフト調整大変だけど、そうじゃねえなら大丈夫じゃん。オレのサークルの先輩も来るんだよ。だから行こうぜって。なんなら奢るぜ~」
「え」
 他に人がいるの? これはあんまりいい流れじゃない。早く離れたほうがよさそうだ。久我島くんは友達だ、大事にしなきゃいけないのはわかる。だけど、僕にとっては比べようもないほど大事なひとがいるんだから。健ちゃんと冬矢以上に大切にしたいひとはいないんだから。もう一度ちゃんと謝ろうとした時、どやどやと教室に男子学生が4人入って来た。
「久我島ぁ、そろそろ行こうぜ」
「はーい、行きましょ。今友達誘ってたとこなんで」
 うわ。あっという間に囲まれた。僕を取り囲んで見下ろす人たち。……あ。
「へえ、おまえ友達いたんだなあ」
「酷いッスよ先輩~」
「じゃあ彼も一緒に連れてくんだ?」
「だって先輩に囲まれて、オレひとりだけ後輩ってなんか寂しいじゃないですか」
「やっぱ人望ないんじゃねえのー? で、この子、名前は?」
「こいつ、野木沢です」
 なんだろ。やだな、気持ち悪い。急に吐き気がして、だからまともに口を挟めないうちに、あっという間に話が進んでく。挙げ句の果てには腕をひかれそうになって、触られると思って反射的に立ち上がった。の、が、どうやら肯定の意味に取られたらしい。
「それじゃ出発~」
 ここまで来ると、それでも行きません、とは言えなかった。すぐに知らない話題で盛り上がり始めちゃったから。
 どうもこのノリがわからない。なんか……適当に切り抜けるしかないか。

 電車内でもわいわいと楽しげな一団の端で、僕はふたりにメッセージを送る。すぐに冬矢から「食事のことなら気にしないで。楽しんできてね」、健ちゃんから「気を付けてな、帰り連絡しろよ」と返ってくる。うー。僕は自分の役割も果たせないのか……。ごめんなさい……。
 大学から一番近い繁華街で僕たちは電車を降りた。普通に話しかけてくる久我島くんの先輩たちに適当に返事をしながら大人しくついていくと、少し裏道に入ったところにあるビルの中に入っていく。廊下の奥まったとこに入り口があるみたい。店名を見ると……クラブ……? これまた僕とは縁のなさそうな……。
「久我島くん、ここは?」
 ご飯を食べにくるにはあんまり似つかわしくないように思うんだけど。小声で聞くと、久我島くんは楽しそうににこっと笑った。
「ゲイバーってやつらしい」
「……へ?」
 さあっと血の気が引くのが自分でもわかった。だって。
「くっ、久我島くんって、そういう……?」
「あははは、んなわけないじゃん。先輩が偶然見つけちゃったんだって。そしたらさ、どんなもんか見てみたいと思うだろ? 興味興味。社会科見学だよ」
 そ、それって……。
「ねえ、そういうのよくないと思うよ。ちょっと軽く考えすぎじゃないかなあ」
「そうだな、バレたら追い出されるかもな! バレないように気を付けようぜ!」
 そういうことじゃない。そういうことじゃないと思う。
「僕、帰……」
「ほら入るぞ!」
 足下がぐらつきそうになった。先輩たちは何の躊躇いもなく店のドアを開ける。受付のスペースらしき場所があって、その向こうのドアからだろうか、賑やかな音楽が漏れ聞こえてくる。
「いらっしゃいませ。お客様、当店のご利用は初めてでいらっしゃいますか?」
「あー、はい」
 店員さんが、牽制のような説明をしてる。どういう店か知ってるかとか、からかい目的や犯罪目的では入店できないこととか。僕は耳をすり抜けていくその言葉を、逃げ出したい気持ちで聞いていた。どうしてこの人たちは、それを普通に聞いていられるんだろう。
 頭がぐちゃぐちゃになる。僕は自分がどうして指が震えるほどの吐き気を覚えているのかわからない。興味本位の人たちと一緒にいる罪悪感なのか。それとも、僕のことがバレてしまわないかという恐怖なのか。あるいは、僕自身がこの店にいる人たちを騙そうとしているからなのか。
 僕は……僕は、今でもまだ自分がわからない。女の人を好きになったことはない。だからといって、男性をそういう目で見たこともない。本当に、健ちゃんと冬矢だけなんだ。だから、たぶん、男性が好きとか、そういうことではないはずで。いや、わかんない。健ちゃんとちっちゃい頃から一緒にいすぎて、気が付いたら好きだったから、どっちが先かわかんないんだ。そんなことどうでもよくて、僕はただ、ふたりが好きだ。それでいい。だけど、じゃあ、だからといって、こういう場所に来ていいのかどうかっていうと、また話が違うと思う。
 ぽん、と僕の手に平べったいプラスチックの板が渡される。
「それが会計札になるからなくさないようにってさ」
 はっとして見ると、全員の手にそれぞれ同じ板が握られている。説明が全部終わったみたいだ。ぞろぞろと奥のドアに向かっていく集団の真ん中で、僕は酷く重く感じる足を引きずって流されていった。
 ドアを開けた途端、わっと音楽のボリュームが上がる。それと同時に久我島くんたちのテンションも上がったらしい。
「へー、普通のクラブと変わんない感じなのな」
「あそこに似てない? 西口の」
「あー、はいはい」
「思ってたより、人いっぱいいるじゃん」
 普通のクラブがどういうものかは行ったことないから知らない。見渡すと、薄暗い室内の左手にはカウンターがあって、規則的に背の高い椅子が並んでいる。その近くに立ち飲み用なのか、胸元近くまであるテーブルだけがいくつか置いてあった。そこから右手の奥のほうには広いスペースがあるみたいだ。話に聞くDJブース? っていうのかな、機械に囲まれた一段高い台もさらに奥のところにある。音楽はそこから聞こえてくるんだ。そっちのほうは明かりがちかちかしていて眩しい。
 そのどのスペースにもたくさん人がいて、思い思い、楽しそうに過ごしている。見渡す限り、男性ばかりで。罪悪感で目眩がした。
「1ドリンク制つってたから、まずは飲み物頼もう」
 先輩のひとりがそう言って、カウンターに近付く。
「すんません、ビール」
「では会計札の提示をお願いします」
 なるほど、決まった席がないから、これで何を頼んだか把握するようにしてるんだな。
「お客様は」
「あ、の、ソフトドリンクはありますか」
「もちろんですよ。こちらメニューです」
「では、冷茶を」
 よかった、あるんだ。
 それぞれ飲み物を受け取ると、僕たちは空いていた高いテーブルを囲む。あれ。久我島くん、それ、ビールだよね。たしかストレートで入学したから僕と同い年で、つまり未成年のはずなんだけどな。でも、今はそれどころじゃない。
 久我島くんたちは、飲み物に口を付けながら、あちこちにキョロキョロと視線を送っていた。僕には、まだその勇気がなくて、手元のグラスに目を落とすことしかできない。
「わー、すげ。キスしてるよあそこ」
「うっわー。マジだ」
「えー、なんか、うわー。気持ち悪くねえのかな」
 ものすごくいたたまれない。
「でもあのへん、普通に踊れる感じじゃね?」
「突撃しちゃう? しちゃう?」
 久我島くんは僕の顔を覗き込むようにして、笑った。
「野木沢も行こうぜ」
「あー……まだこの雰囲気慣れてなくて、もうちょっとしてから行くから、お先にどうぞ」
「そう?」
 それだけ言うと、先輩のひとりと肩を組んでダンスフロア的なところに繰り出していく。残った先輩たちも笑ってそのあとを追っていった。その姿は、動き回るライトと集まる人たちに紛れてあっという間に見えなくなる。
 ……はあ。僕はグラスを持って、カウンターに向かった。比較的人が少ないあたりの椅子に座って、ようやく息をつく。冷たいお茶のグラスはだいぶ濡れていた。
 少し落ち着いたカウンター席にひとりでいると、気分もちょっとだけ落ち着く。こうして見ると、グループで一緒にいる人たちもいるけど、2人でくっついている人たちもいるんだな。さっき先輩が言ってた、キスをしてる人たちも1組だけじゃない。お互い嬉しそうに唇を交わしながら、2人だけで何かを話していたり、ただ見つめ合っていたり、抱き締め合っていたり。……すごい。みんな堂々と恋人同士の関係を楽しんでるんだ。人目はあるけど、ここにいる人たちはお互いの存在を理解している。だから堂々としていられる。そっか。こういう世界もあるんだな。
 そこに、ふらりとカウンターに歩いてくる人の姿が見えた。
「熊さん、ジントニックおかわりお願い」
「はーい」
 返事をしたのは、カウンターの中にいた店員さんだ。なんというか、……ボリュームがあるというか、ずっしりしているというか、ふかふかした感じのおじさんで、くまさんって呼び方がしっくりくるように思えた。……失礼だったらごめんなさい。その店員さんは、カウンターの下に手を伸ばす。
 すると、飲み物を注文した人が、暇になったのか僕の隣に歩いてきた。
「こんばんは~」
「こんばんは」
 そうか、交流を目的とする場所でもあるんだ、話しかけられることもあるよね。ちょっと緊張する。
「お兄さん、ひとり? 今日はお相手探しかな?」
「いえ、友達の付き添いで来ただけです。彼氏いるんで」
「あーそっかぁ、残念」
 そんなに残念そうじゃなく、その人は笑った。だからたぶん社交辞令なんだろうなと思う。
 だけど、そんなことより、今。……僕、人に対して初めて言ったんじゃない? 「彼氏いるんで」なんて。うわ。なんだろ、嬉しい。すごく嬉しい。僕、はっきり言った。それに対して、さらりと流されたことも嬉しい。
 ……ああ、そっか。先とかあととかどうでもいいんだ。僕には彼氏がいる。ここにいてもおかしくないんだ。……なんかすごくほっとする。
「ロムさん、はい、ジントニック」
「ありがとー」
 その人は細長いグラスを受け取ると、僕に手を振って奥のテーブルに向かっていく。一応会釈をしておくか。ふうん、ロムさん。ていう名前?
 ふふ、と笑う声が聞こえて、カウンターの中に目を戻す。店員さんがにこにこと笑っていた。
「彼氏いたんだね。君たちの集団、興味津々って感じでキョロキョロしてたから、またノンケがふざけて入って来たのかと思ったよ」
 ……バレてる。おーい。バレてるよー。
「ごめんなさい、興味津々なのは間違いないと思います。こういうお店があることも初めて知りました。だから、実はまだ緊張しているんです。それに、友達に引っ張られて来たので、彼氏置いて来ちゃったのが心細くて」
「あらま、それでひとりなんだ。じゃあ次は彼氏も一緒に連れてきてもらえるように常連になってもらおうかな。名字か名前の頭文字、どっちか教えてもらってもいい?」
「え? えーと、の、ですね」
 名前のほうだと、ちょっと。
「の、ね。じゃあ、のんちゃん」
「のんちゃん」
 僕のことか。それは。たぶん戸惑った顔しちゃってたんだろうな、店員さんは面白そうに笑う。
「ここの店、常連はみんなあだ名を持ってるんだよ。ほとんどはちゃんとしてる人たちだけど、ごくたま~にトラブルが起こることがあってね。そういう時、あんまり本名が割れてないほうがいいでしょ。信頼できる間柄の合い言葉にもなるし。だから、あだ名呼びが定番になってるんだ」
「へえ……」
「だから、店長の僕の名前も、ほとんどみんな知らないと思うよ。さて、熊さんってあだ名は、名前から来てるのか外見から来てるのか。どっちだと思う?」
「えっ。えーと……」
「あはは。内緒だから答えは言わないけどね」
「うわ、ズルいですよ」
 この人、店長さんだったのか。すごく話しやすい人だな。少し話させてもらって、ちょっと緊張ほぐれたかも。
 熊さんが他のお客さんに呼ばれてしまったので、僕はまた店内を見回す。久我島くんたちはいったいどこに行っちゃったんだろう。まあ、このまま放っておかれるなら、そのまま忘れてくれれば有難いんだけど。
 またカウンターには、飲み物を注文しにお客さんがやってきた。今度は楽しそうな4人グループだ。すっかり酔っ払ってるのか、足下がふらふらしてる。大丈夫かな。危ないな。
「あ」
 ふらついた人が、僕のほうに倒れかかってきた。両手が僕の肩に掛かって、……っ!
 やば。
 咄嗟にその手を振り払って、逆に転びそうになったその人の肩を掴んで転ぶのを阻止したのは、我ながら大した瞬発力だと思う。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめんなさい! ありがとうございます」
 ……あー。びっくりした。
 そこに、隣の席からぱちぱちと小さな拍手の音。振り向くと、金髪のお兄さんが目を丸くして手を叩いていた。
「すごい、なんだか早業だったねえ」
「え、あ、ありがとうございます……?」
 どう返すのが正解だかよくわかんないけど、とりあえず褒められたみたいだからそう返す。すると、すぐにその顔は子供みたいな笑顔に変わる。
「支えてあげるなら最初あんなに邪険にしなければいいのに」
「意識してなかったので……。人に触られるのがあまり得意じゃないせいだと思うんですけど、つい」
 ふうん、と呟き、その人は苦いものでも噛んだような顔をする。
「あー。それねぇ。あんまり人に言わないほうがいいかもよ? そういう子にわざと触って、嫌がるのを無理矢理ヤッちゃうの好きな奴とかもいるからさ」
「……え。ありがとうございます、気を付けます」
 すごいことを、さらりと言われた気がする。そっか。そうだよね。そういう無差別な奴もいるんだった。誰でもいいからって、僕に、触れようとした、奴。……やなこと思い出しちゃったな。
 目の前の顔がまたぱっと明るくなる。
「君、この店って初めて? 見たことない顔だけど」
「はい。友達に連れてこられました。ご覧の通り、放っておかれてますけど」
「あっははは、そっかー」
 すごいな、表情がよく変わる人だ。人なつっこい感じで、するりとこっちの至近距離まで詰めてくる。警戒感を抱かせない無防備さは、なんだかちょっと健ちゃんみたい。だからこそ、気を付けたほうがいいのかな。
「ちょっと、みっちゃん!」
 戻ってきた熊さんが苦笑いをしてその人を見てた。みっちゃん。
「あ、熊さん、やほー。久し振りぃ」
「久し振り、元気そうでよかった。ところで、忙しいのは悪いことじゃないと思うけどね。発散のためにナンパとかやめときな? その子、彼氏いるってよ」
「って、だからぁ! もうそういうのやめたってば。最っ高の彼氏に毎日愛されちゃってんだからさあ。もー、何年前の話してんだよ~」
 この人も常連なんだなあ。たしかに、僕に対して「見たことない」って発言が出るのは、つまりは来てる人をある程度把握してるってことだ。
「そうそう、みっちゃんが来たらってことで伝言もらってるんだった。上の店、改装終わったって」
「え、来週じゃなかったっけ」
「資材の手配が早まったとか言ってたかな。早めに開けてるから、常連の子なら来ていいってよ」
「マジ? 移っていい?」
「もちろん。みっちゃんが来るの楽しみにしてたから、行ってあげたら」
 まともに看板は見なかったけど、このビルにはいろんな店舗が入ってるみたいだった。たしかにこの人の明るさだったら、あちこちに仲いいお店があってもおかしくなさそう。
 みっちゃんって人は、くるっと僕のほうを見た。
「友達にほっとかれてるんだよね。ごはん食べた?」
「え? いえ……」
「だったら一緒に行かない? ごはん美味しい店なんだ。ひとりで行くの寂しいからさあ」
 えっ。
 だけど。
「えーっと、君、名前は?」
 僕が戸惑ってると、熊さんが「のんちゃん」とフォローしてくれた。
「のんちゃん、か。可愛いじゃん。オレね、みっちゃんとかミチって呼ばれてる。気軽に呼んで~」
「み、ミチ……さん」
「あ、警戒してるでしょ。そりゃそうだよなあ。ちなみにのんちゃん、タチ? ネコ?」
「えっと……恋人限定のネコ、です」
「じゃー大丈夫! オレ、バリネコだし、彼氏にしか興味ないから」
 だけど、言葉ならいくらでも好きに言えるわけで……。困って目を上げると、熊さんは笑ってた。
「まあ、今のみっちゃんが安全なのは保証するわ。それに、食事が美味しいのは本当だよ。夕飯がまだならぜひ食べておいで」
 うーん……。
「じゃ、あ、友達に別行動することだけ連絡入れておいていいですか」
「もちろん」
 僕は携帯を取り出す。もちろん久我島くんに連絡するふりをして、メッセージソフトの画面を呼び出すためだ。緊急用のボタンを、いつでも押せるようにしておかなくちゃ。これを押せば、健ちゃんと冬矢に連絡が行く。……それを立ち上げようとして、別のメッセージが届いてたことに気付いた。久我島くんだ。なになに、「面白い兄ちゃんに会って遊びに行くことになったから今日はこのまま解散で!」……。なんなら奢る、とか言ってたのになー。とりあえず了承の旨を返信する。はい。もういいや。ごはん食べる!
「ぜひ連れてってください」
「おっけー!」
 ミチさんは楽しそうに笑った。

 非常階段みたいな狭い階段を、ミチさんは先に立って登る。たぶん、僕が怖がらないようになんだろうな。後ろがガラ空きなのは、怖くなったら逃げてもいいよってことなんだろう。
 上のフロアは、いくつかのテナントが入ってるみたいで、やっぱり目指す店は少し奥まっていた。木製のドアはレトロな感じがして喫茶店の入り口のようだったけれど、店名のプレートの下には、丁寧な言葉でゲイ以外お断りという旨が書かれていた。さっき納得はしたつもりだけど、やっぱりその貼り紙に値踏みされている感じがしてドキドキする。
 ただ、僕の緊張はまったく伝わっていなかったみたいで、ミチさんは元気よくそのドアを開けた。
「マスター! 久し振り!」
「あー、みっちゃん。待ってたよ」
 ほんとに普通の喫茶店みたいだな。昔からあるような、しっとりした雰囲気の喫茶店。違うのは、カウンターの後ろにある棚に並んでいるのがお酒の瓶だということだ。でも冷静になって思い返してみると、本で読むバーってこういう感じの描写だったかも。そうかあ、あれ、本当にあったんだあ。
 ミチさんの姿に相好を崩したのは、白髪にひげと眼鏡の、優しそうなおじさんだった。マスターってことは、この人が店長さんなんだな。そんなに広くない店内には、他に人の姿はなかった。
「熊さんから再開したって聞いてさあ。びっくりしちゃった。なんでオレに直に教えてくんなかったのー?」
「みっちゃん、仕事が軌道に乗ってきたって言ってたからね。どうせ正規のオープン日には来てくれるつもりでいてくれたでしょう」
「まあね。……なんかあんまり変わってないねえ」
「痛んでいたところを治したり、ライトと、あとは厨房周りを弄ったくらいかな。雰囲気を変えないほうがみんな来やすいと思ってね。でもほら、よく見てごらん。傷とかなくなってるのわかるかな」
「あー! 言われてみればたしかに。あと、椅子も見た感じふかふかになってる? 間違い探しみたいじゃん」
 ふうん。たしかに、この柔らかい雰囲気は、なくなってほしくないと思う人が多そうだな。僕だって、ドアを開けるまではあんなに緊張してたのに、店に足を踏み入れた途端、受け入れてもらった感じがした。
「ところで、後ろの彼は?」
「ああ、彼、のんちゃん! 友達にほっとかれて飯食ってないっていうからさ、オレもひとりの飯寂しいし引っ張って来ちゃった!」
 あ、そうだ。そもそも、今日来ていいのは常連さんだけのはずだ。
「ごめんなさい、初めてお邪魔します。今日は常連の方だけだと伺っていたのですが」
 マスターはにっこり笑う。
「いいえ、ようこそいらっしゃいました。常連の方の紹介ですから、遠慮なさらなくていいんですよ」
「すみません……」
 そんなやりとりも気にせず、すたすたと店の奥に入ったミチさんは、真ん中辺りのカウンター席に座る。
「オレ急におなかすいちゃった。マスター、今日は何出来る?」
「みっちゃんの好きなナポリタンなんかどうだい」
「わ、嬉しい。のんちゃんも同じでいい?」
「え、あ、はい」
 僕も、ミチさんの隣に座る。なるほど、ふかっとする。
「飲み物はどうします?」
「いつものー!」
「はいはい。のんちゃんは?」
「僕は飲めないので、ソフトドリンクはありますか」
 ミチさんがぱちくりと目を見開く。
「全然飲めないの? 下戸?」
「というか、未成年なので……」
「えっ。めちゃくちゃ大人びてしっかりしてるから成人してると思ってた!」
 それはお世辞だと思うけど、そうだよね。お酒飲むところなんだから、未成年は普通は来ないんだろうな。もしかしてそういうお客って迷惑かな。おそるおそるマスターを見ると、表情はまったく変わってなかった。それどころか。
「甘いのと辛いの、どっちが好きですか」
「えっと、甘いほうが」
「わかりました。では、ノンアルコールで用意しましょうね」
 そう言ってマスターが用意してくれたのは、オレンジ色の綺麗な液体を注いだ、三角錐に足がくっついたようなグラスだ。これ、カクテルグラスってやつじゃない? 初めて触るかも。
 既にレモンサワーを半分空にしていたミチさんが笑う。
「おっしゃれー」
「僕、こういうグラス初めてです。いただきます」
 そっと口を付ける。あ……。オレンジ? かな? あとパイナップルも感じる。わ、甘くて、でもさっぱりしてて、美味しい!
「美味しいです」
「それはよかった。二十歳になるまでは、雰囲気を楽しんでくださいね」
 そんな気遣いまでしてくれるなんて。うわ、このお店、好きだ。
 マスターが料理の準備をしに厨房に入ると、ミチさんは楽しそうに僕の顔を覗き込んできた。
「見てくれもそうだけど、のんちゃんって真面目なんだなあ。未成年つったって、友達みんな飲んでるでしょ」
「そうですねえ。そういう人もいるみたいですけど。そんなにお酒を飲みたいなって願望はないんですよ」
 楽しそうだなとは思うけど。めんどくさそうだなとも思う。今まで周りを見てきて、あんなふうになるんだったら飲まないほうがいいなと思ってきたことも多々あるし。そもそもああいう騒ぎの場が好きじゃないっていうのもあるんだよね。
 でも、これから先も絶対飲まない、とかそういうのじゃない。一応、僕にも理想がある。
「それに、ハタチになってから、彼氏と一緒に初めてのお酒を飲んでみたいんです」
 なんて言ったら、ふたりは笑うかな。ちょっと夢を見すぎかもしれない。でも、初めてはふたりと一緒がいい。
「……ってことは、彼氏、同い年?」
「あ。はい。僕が真ん中で」
「真ん中?」
 あっ。
 そうだ。ここでは彼氏がいることは何もおかしくないけど、それがふたりっていうのはやっぱり言わないほうがいいんだと思う。だって、恋愛って1対1でするものなんだろうから。僕たちの関係は、たぶん理解してもらえるものじゃないはずだ。僕はそれでいいから関係ないとはいえ、議論の種をわざわざ蒔く必要はない。
「えーっと、あの、真ん中に3日あけて、僕が年上です」
「3日ぁ? ってことは、1、2……4日違いってことか。じゃあほぼ一緒じゃん! そんなに近いの、なんかすごいなぁ。誕生日一緒に祝っちゃえるやつだ」
「あはは、そうです」
 実家ではほぼそうだったな。それだと足りなかったのか、真ん中バースデーって言葉を覚えた健ちゃんが、当日と間を合わせて5日間を誕生日期間って決めて、ふたりだけで毎日おめでとうを言い合う……なんて時期もあったっけ。あの頃の健ちゃん可愛かったなあ。今も可愛いとこいっぱいあるけど。
「そういえばさ、さっきの、恋人限定のネコってどういうこと? それって他人に触られるの苦手なのと関係ある?」
 すごいなミチさん、めちゃくちゃぐいぐい来る。遠慮ってものがない。でも、それを許してしまえるほどの明るさがある。だからつい答えちゃうんだよなあ。
「僕、恋人は彼……が初めてなんです。人に触られるの駄目なんですけど、恋人にだけはどう触れられても大丈夫なんですよ。だから、恋人限定」
「へーえ。でもそれって、恋人だから触れるんじゃなくて、好きだから大丈夫だったんじゃないの?」
「たぶんそうなんだと思います。心で気付くより先に、体でわかってたんでしょうね」
「わー、なんかスケベだ」
「あはは」
 ヤバい。楽しい。
「なんていうか、のんちゃん見てると、彼氏優しいんだろうなーって感じがする」
「優しいです。僕を甘やかすのが好きだって言って、ひたすら甘やかすんですよ。だから、つい、彼の前では精神年齢ががくって下がっちゃって」
「あら~。そんな甘いんだぁ。のんちゃん大学生だっけ。その頃じゃ止めらんないよね。構内でもこっそりヤッちゃったりしてね~」
「いえ、外では絶対にしてくれないんです。見つかって傷付くのは僕だから、って」
「そうなの? え、めちゃくちゃ愛されて大事にされてんじゃん! てか溺愛じゃん!」
 溺愛……。そうか、僕、溺愛されてるんだ。ふふ。
「僕の話ばっかりじゃなくて、ミチさんの話も聞かせてくださいよ。彼氏、どんな人なんです?」
「ふっふふ。聞きたい? オレの彼氏もね、ちょー優しいの」
「エピソードください!」
「あれはね~、先週のことなんだけど~」
 大変だ。いわゆる「恋バナ」というやつを僕は経験してしまった。あと、気が付いたんだけど、自分で話すことがあると、相手の話も苦にならない。もしかして、一方的に聞くだけだから、今まで苦手だったのかなあ。ミチさんが聞き上手っていうのもあるかもしれないけど、堂々と最高の彼氏を自慢できるっていうのは、めちゃくちゃ気持ちよかった。
 あと、マスターの作ってくれたナポリタンは本当に美味しかった。


 ごはんが美味しかったし、雰囲気も普通のお店と変わらなかったから、僕は時々バーに顔を出すようになった。
 ミチさんとは待ち合わせることもあったし、偶然一緒になることもあった。というか、ミチさんがすごく入り浸っているから、店に行くと大体いた。
 ミチさんの彼氏さんにも何回か会った。表情があんまり動かなくて威圧感があるけど、真面目で、年下の僕にも丁寧に接してくれて、……ミチさんを見る時だけすごく目が優しかった。ミチさんも彼氏さんといる時はふにゃふにゃしてて可愛くて、いいカップルだなって思った。
 健ちゃんと冬矢には、気に入ったお店があったから通うことにした、と伝えた。あと、友達ができた、と。ゲイバーに行ってるなんて知ったら、きっとふたりは心配しちゃうから。実際、僕はおしゃべりとごはんを食べに行っているだけだし。余計な心配はかけさせたくなかった。
 マスターは少し心配そうな顔をしていたけど、ミチさんは「ただの飲食店だからいいんじゃない」って言ってたし。そうだよ。何も後ろめたいことはしてない。


 その日も僕は、ミチさんと一緒にごはんを食べてから帰った。課題が忙しかったから、久し振りに行くことが出来て、ちょっと遅くまで話し込んじゃった。明日は休みだったし、少しくらい遅くなってもいいかなって。
「ただいま」
 玄関から声をかけたのに、……あれ。返事がない。リビングの電気はついてるから、もう寝ちゃったってことはないと思うんだけど。なにかあったかな、と急いで靴を脱いでスリッパに履き替える。すると、ようやくドアが開いて、健ちゃんが廊下を駆けてきた。
「おかえり、蒼生。迎えに行けなくてごめんね。大丈夫?」
「うん、平気……」
 健ちゃんの少し焦ったような顔。あれ? なんだろ。何かおかしい。胸の下あたりがひやっとする。
 そもそも僕が遅くなるって言って、健ちゃんが返信だけで済ませる時点でおかしかったんだ。……冬矢から返事はなかった。
「健ちゃん、あの」
「ん?」
 なんだか気持ちだけが上滑りしてるみたいな笑顔。
「風呂沸かしてあるから、早く入っちゃいなよ」
「え、うん……」
 健ちゃんの先導で、リビングに入る。冬矢は、ちゃんといた。ダイニングテーブルに両肘をついて、組んだ両手に口を付けるようにして、黙って座ってた。
「あの……冬、矢? ただいま……」
「……おかえり」
 っ……。胸がぎゅっとなった。平坦な音。少し動いた頬は、笑おうとして失敗したようだった。誰もいない向かい側の椅子を、じっと見ている。違う、僕を見ないようにしている?
「ほら、蒼生、もう遅いから、な」
「でも」
 健ちゃんは僕から荷物を取ると、優しい手で僕を押し戻そうとする。けど。でも。
 頭の芯が、じんわり冷たい。
「蒼生」
 冬矢が視線を動かさないままで、押し殺したような声で僕の名前を呼んだ。いやだ、と思った。
「ちょっとだけ話、出来るかな」
「冬矢!」
 冬矢を制したのは健ちゃんだ。健ちゃんは僕の前に立つ。
「話はもう終わっただろ!」
「終わっていない」
「まだ納得できてねえのかよ!」
「している」
「してねえだろ、その顔はよ。何度言えばわかんだ、お互い独立した存在なんだよ。言いたくねえことがひとつやふたつあったところで当然だろ。おまえの気持ちもわかるけどさ! って堂々巡りじゃねえかよ!」
 あ。
 …………そうか。バレたんだ。
 でも、バレたってことより、ふたりが、ずっとそれで喧嘩してたんだって気付いたことのほうが、僕をずしんと押し潰した。
 僕のせいで。
 ふたりが。
「ごめんなさい……」
「なにが?」
 僕の言葉に、冬矢が鋭い声を返す。痛い。
「冬矢」
 健ちゃんが止めて、でも、冬矢はがたんと音をさせて椅子から立ち上がった。
「毎回、同じ場所にいるね。でも、きっと、そんなに気に入ったんだなと思って、見ないことにしていたんだ。だけど外で起きたことをいつも詳細に教えてくれる蒼生が、この店の話だけはしなかった。……悪いとは思ったよ。だけど調べずにいられなかった。ここ、ゲイの集まるクラブなんだってね?」
 ちが、
「違う、たしかに、最初に行ったのはそこだったけど、僕が行ってるのはその上の階のお店なの。あの、そこも、ゲイバーではあるんだ、けど」
「でもそういう店なんだろ」
「だけど、思ってるより、ずっと静かなところで、人もそんなにたくさんいなくて、マスターもすごく優しくて、本当に、話を聞いてもらったり、ごはんを食べに行ったり、本当にそれだけで……!」
 他には何もない。ちゃんと説明しないといけないのに、頭が回らない。
「どういうつもりかは関係ない。相手を探しに来る男だっているんだろう」
「あ……」
 声は、何度かかけられた。でもみんな冗談だった。挨拶みたいなものだと思う。だけど声をかけられたこと自体は本当だ。
「……っ。そうか。刺激が足りなかった? 俺たちだけじゃ満足できなくなったんだ?」
「!? そ、そんなわけ……」
 冬矢が僕の腕を掴んだ。引っ張られて、足がもつれる。
「おい、冬矢!」
 健ちゃんの声。僕は頭が真っ白だった。
 倒れるように、引きずられて、ベッドの上に突き倒されて。冬矢の膝が僕の太腿の上に、ぐりっと乗って、それが痛いのだけがはっきりしてた。
「じゃあ、ちゃんと満足させてあげなくちゃ、だよね」
 冬矢の手が、僕のシャツの中に入ってきた。
 唇が、首筋に降りて。
 触れられたところが、ぞわっとした。
 あ。
 ちがう。
 ちがう。
 これ。
 ちがう。
 あっという間に、見上げる電気の形が歪んで、よく見えなくなった。
「……やだ」
 勝手に、ぼろぼろ涙がこぼれた。
「やだ、“嬉しい”って気持ちで触ってくれてない……。そんなのやだ……」
 止まらない。
 耳に熱い滴が落ちる。
「隠し事してたことは、ごめんなさい。でも、これは、やだ。やだ……」
「……ぁお」
 体にかかる圧力がなくなった。
 だけど僕は動けない。
 僕が。
 僕が間違っていたんだ。
 ちゃんと断るべきだったんだ。
 こんな、冬矢と健ちゃんを傷付けるようなこと、考えれば当然じゃないか。
 なのに僕は、目の前の楽しさを優先して、ふたりをないがしろにした。
 怒られて当然だ。
 呆れられて当然だ。
 嫌われて……当然だ。
「ご、めんなさ……っ」
 謝って済むことじゃない。わかってる。
 だけど言葉がわからない。
 どう言ったら、何を告げたらいいのか、わからない。
「ごめん、なさい。ごめっ……さ……」
 バカみたいにそれを繰り返すことしか出来なくて。
 だから駄目なんだと思った。
 僕は、こんなだから。
 ちゃんと伝える言葉すら浮かばない僕なんて。
「蒼生」
 ゆっくりと手が僕の下に潜り込む。それから、抱き上げて、僕を脚の間に座らせてくれる。……健ちゃん。僕はその手に安心する資格もないのに。
「蒼生。落ち着いて。ね。蒼生。……冬矢、おまえも」
 冬矢、も……? 起き上がったことで、涙が下に零れていって、僕は、目の前の冬矢の顔を見ることが出来た。え、冬矢……。真っ青だ。呆然と、立ち尽くして。
 あ。
 僕が傷付けたからだ。
 また涙が溢れてきた。
「ごめん、ごめんなさい、冬矢、ごめんなさい」
「……謝るのは俺のほうだ。ごめん」
「違う、僕が」
「そうじゃない、俺は、……俺は、一番、してはいけないことを」
「冬矢は悪くない、僕が冬矢のこと傷付けたんだ」
「逆だよ。健太の言うとおりなんだ。蒼生は悪くない。自分自身の行動が信じられないだけだ。……俺は最低だ。頭を、冷やしてくる」
 冬矢は俯き、寝室から……。
 僕のせいだ!
 冬矢っ……。
 冬、矢ぁ……。
 健ちゃんが、その腕を掴んだ。
「待てよ。ひとりで何をどう決着つけるつもりか知らねえけど、外で出来ることならここでしていけよ」
「……離せ」
「駄目だ。座れ」
 有無を言わせない口調と力で冬矢を引き留めた健ちゃんが、冬矢をじっと見る。冬矢は戸惑ったように視線を泳がせたように見えた。でも、涙でほとんど見えない。
 それから冬矢は何度か振り払おうとしていたけれど、健ちゃんは絶対に冬矢を行かせまいと腕に力を入れてた。腕の中にいた僕には、それがよくわかった。
 しゃくり上げる僕を挟んで睨み合ってたふたり。やがて、冬矢が大きく息を吐いた。それから、ベッドに上がって、僕の前に正座をした。
 また、沈黙。
 ちゃんと謝らなくちゃ。
 話を聞いてくれるうちに。
「ご、ごめ、ん、なさい……。もう、行かないから、許してください……」
 健ちゃんが改めて両腕で僕の体を包む。
「違うよ、蒼生。そんなこと望んでるわけじゃないよ。……オレたち、怒ってるわけじゃないんだ。それはわかる?」
「……怒って、ない?」
「そう。心配なだけ。な、冬矢」
 冬矢はじっと自分の膝を見つめてる。何か言わなくちゃ。思ってるのに、唇が空回る。冬矢も、すごく、言葉を探してるように見えた。
 静かな声で沈黙を破ったのは、健ちゃんだ。
「言うべきことがあんだろ」
「……ごめん。蒼生。本当にごめん」
「そうじゃねえよ。ちゃんと、どう思ってこの行動に出たのか、おまえが本当はどう思って蒼生を問いただそうと考えたのか、それを蒼生に伝えるべきだろ」
「…………」
「冬矢」
 また、しんとした。
 それが痛くて、やっぱり涙が止まらなかった。
 僕が泣く資格はないのに。
 僕が悪いのに。
 だけど、情けないことに、冬矢が紡ぐだろう言葉にしがみつきたくて、僕は冬矢が口を開くのを待っている。
 ……なんで僕はこうなんだろう。
 ふう、と、吐息の音が聞こえた。
「……たしかに。蒼生がひとりでどこに行ってもいい。蒼生がそこで楽しいと思えるなら、それでいいと思わなければいけないんだ。そもそも、蒼生が他人に心移りするなんて、まったく思っていない」
 冬矢の声は、絞り出したみたいに、震えてた。
「だけど。蒼生がそう思っていても、周りはどうだ? 静かな店だと言うけれど、悪酔いする輩が現れないと言い切れるか? 酔って理性を失った男が複数いて、囲まれたらどうする。頼りにする人間がいないタイミングを計って、裏へ引きずり込まれたらどうする。可能性はゼロじゃないだろ。……俺は。蒼生に二度とあんな怖い思いをさせたくないんだ」
 ……それは。ただ、僕を気遣う言葉。
 僕がいた場所は、冬矢にとって未知の場所だ。僕だって未だにそうなんだから。冬矢が心配するのは当然だ。
 冬矢は、僕に、怖いことが起きることを想像して、……怖かったの?
 いっぱい怖くて、いっぱい心配したから、それで、僕に伝えようと……。
 心配させたくないと思った、それが間違ってたのか。
 やっぱり、涙が、ぼろぼろ、こぼれた。
「だってさ。冬矢の気持ち、わかった?」
「……うん」
「そしたら、蒼生も、落ち着いて話して。反省点がわかってたら教えて」
「……余計な心配かけたくないなって、隠したら、それがふたりに余計に心配かけることになる」
 健ちゃんは、僕の頭を優しく撫でた。
「ん。さすが、冷静になればわかってくれるな。いつも、どんな時だって、少しでも離れてれば心配になっちゃうんだよ。余計とか余計じゃないとかねえの。特にこいつなんかさ、根っこが心配の塊で出来てるザ・心配性なんだから」
「……妙な肩書きを付けるな」
「ぴったりじゃねえかよ」
 心配性……。そうだよね、僕は、知っていたのに。冬矢も。健ちゃんもだ。
 笑う気配がして、健ちゃんが僕をあやすようにゆったりと体を揺らす。
「よし。お互いの気持ちと反省点ははっきりしたな。……そしたらさ。蒼生が、どうしても内緒にしたいって言うなら、無理にとは言わない、けど。今度さ、そこ、連れてってくれない?」
 僕は顔を上げた。健ちゃんの、寂しそうな笑顔。
 …………最初からこうすればよかった。
「むしろ、僕からお願いします。ふたりも、一緒に来てください」
 ひとりでも行ける場所だと思った。でも、それは、ひとりだけで行かなきゃいけない場所ということじゃない。むしろ、一緒に行くべきだった。
 ふたりは、ゆっくりと頷いた。頷いてくれた。
「……ごめんね、健ちゃん。僕がちゃんと冬矢と話し合わなきゃいけなかったのに。間に挟んじゃってごめんなさい」
「んーん。お互い頭に血ィ上ってただろ。落ち着いて話をするためにはオレがいてよかったと思うよ。3人でいることのメリットじゃん。それに、オレも、心配じゃなかったわけじゃねえよ?」
「だよね。ごめんなさい」
 健ちゃんは今度こそいつもの顔で笑った。それから、そっと僕から手を離す。すうっと寒くなるけど、健ちゃんの思いは伝わった。
 僕は、きちんと座り直した。冬矢と正面から向き合う。
 冬矢は、わずかに床を見て、膝に目を移して、それから、強張ったように腕を広げた。そこでやっと、僕のことを見てくれた。薄い色の優しい瞳。それが不安げに揺れている。
 ……その腕の中に、そっと、埋まる。
 背中に回される手。
 その手が震えてる。
「……ごめんね。怖かったよね。そんな思いをさせたくないと言いながら、俺がそういう思いをさせた。一番してはいけないと思っていたことをしてしまった。反省してる」
「ううん。押し倒されたことは全然怖くなかった。だけど、……冬矢に嫌われたかもって思うと、すごく、すっごく怖かった」
 僕は冬矢にぎゅっと抱きつく。いつもより早い鼓動が聞こえる。
「……僕のこと、まだ嫌いになってない……?」
「なるもんか。大好きだよ。好きで好きでたまらない……」
 健ちゃんが、僕の背中に優しくくっついてきた。
「大好きだから心配になるんだよ」
「うん……」
 僕たちはそうやって、しばらくひとつの塊になっていた。
 健ちゃんの鼓動も早かった。
 たぶん、僕もそうだ。


 僕がふたりをバーに連れて行ったのは、その翌日のことだ。僕を突き倒したことを冬矢がまだ気にしてるみたいだったから、早いほうがいいと思ったんだ。他のことは全部片付いたのに、それだけが冬矢の中に染みついてる。僕にはどうしてそこまで冬矢が引きずるのかわからなかった。
 その一方で健ちゃんは、
「どんなとこかな。楽しみだ」
 なんてにこにこ笑ってた。きっと僕を気遣ってくれてるんだろうな。
 ちりんちりん、とドアベルが鳴る。これは正式再オープンの時についたやつ。カウンターの中には、マスターとバイトのリュウさんがいた。
「こんばんは」
 声をかけて、まず顔を上げたのはマスターだった。
「おや、のんちゃん。2日連続とは珍しい。いらっしゃい」
 健ちゃんがきょとんとする。
「のんちゃん?」
「僕のあだ名。本名で呼び合ってると、素性がわかって危険な目に遭っちゃったらいけないから、危険回避でみんなそうしてるんだって」
「へえ。なんか可愛いな」
「そういうことも考えてくれるんだね」
 店内を見渡しながら、冬矢も呟く。
 すると、奥のカウンター席でミチさんが顔を上げた。もしかして寝てたのかな。
「あっれー。のんちゃんだ」
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「いや、今日忙しくてさ、ちょーっとうとうとしちゃっただけ…………って。オレ、まだ寝てる? 夢とか見てんの? なんかのんちゃんの後ろに極上のイケメンが見えるんだけど。しかも2人も」
 ぶわわっと、頬が熱くなる。恥ずかしいんじゃなくて、嬉しい。
「おや、ご新規さんですかね。いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
 マスターと冬矢が会釈して、健ちゃんがそれに倣うように頭を下げてたけど、僕の脳内はそれどころじゃなくなってた。イケメン……。えへへ。そうでしょう。かっこいいでしょう。
 僕は、ふたりの腕を掴むと、そのまま店の奥まで連れて行った。冬矢も健ちゃんも、マスターもミチさんもリュウさんも、何事かと僕を見る。
「あの。ここに通ってること、彼氏にバレまして。あんまり心配するから、連れてきちゃいました」
 ぴったり、時間が止まる。その小さな間の後で、最初に「えっ」と声を上げたのはミチさんだ。
「……どっち?」
「どっちも、です」
「彼氏?」
「はい! どっちも、大好きな僕の彼氏です!」
 言った。ずーっと自慢したかった。堂々と言いたかった。
 そう。
 僕の彼氏です!
 ふふふ。
 健ちゃんが、僕の腕をぎゅっと抱き締める。
「……蒼生が、オレのこと、ひとに彼氏って紹介してくれた……。なにこれ。めっちゃくちゃ嬉しい……」
 ぼそり、と僕の耳元で呟く。でしょう。そうなの。隠さなくてもいいの。
 冬矢もそっと僕の腰に手を回す。
「ここに来たがる訳がわかったよ。普段はなかなか言いづらいからな。なるほど。嬉しいものだね」
 うん。そう言って優しく笑ってくれて、あったかい手を感じて、ようやく僕はほっとする。
 マスターはにこにこ顔だ。
「だから言ったでしょう。恋人をあまり心配させるものじゃありませんよ。さあ、突っ立ってないで、座ってください。まず何を召し上がります?」
「僕はいつもの。ふたりにもノンアルコールで何かお願いします。……あのね、リクエスト聞いてくれるんだよ。ノンアルコールカクテルにもいっぱいあって、種類がわからないから」
「ふーん。では、彼と同じものを」
「オレは炭酸でおすすめのお願いします」
「かしこまりました」
 僕たちは促されるままにカウンター席に座る。ミチさんの隣に健ちゃんが座って、僕を挟んで冬矢が左。ああ、守ってくれるポジションだ。
 冬矢が改めてマスターに頭を下げる。
「……すみません、我慢出来ずに、つい押しかけてしまいました。こんないいお店だとは存じ上げなかったもので」
「いえいえ、お客様が増えるのはありがたいですよ。なにより、可愛い恋人をひとりでどこかに置いておくのは確かに心配でしょう」
「はい。こんなに純粋で綺麗で可愛い子なので、どうしても怖くて」
「ひぇ」
 とっ、冬矢? 綺麗な顔で笑っていらっしゃる……。
 健ちゃんもぱっと顔を輝かせる。
「そっか。普段思ってること言ってもいいんだ! なあ、可愛い可愛いオレの天使ちゃん、って呼んでいい?」
「だっ、だめ……。限度がある……」
「ちぇー」
 あ~……そうかぁ。ふたりのこと自慢するだけならいいけど、褒められることにもなるんだぁ……。にっ、苦手なんだけどな……だって恥ずかしいもん……。
 目線を泳がせた先で、ミチさんがニヤニヤ笑ってる。
「のんちゃん、顔真っ赤」
 うっ……。今まではなんとなく冷静さを保てたはずなのに。とうとうバレる時が来てしまった……。
「そっかー。なんか話聞いてると、彼氏のプロフィールが時々ブレるな~なんか話盛ってんのかな~とか思ってたけど。正解は2人いたってことか。気付かなかったなぁ」
「えっと。ごめんなさい、彼氏がふたりってこと、黙ってて。僕は真剣にふたりのことが大好きなのに、“二股の相手”にしたくなかった。彼らがいないところでも軽く思われたくなかったんです」
 両側に座ってたふたりが、ぴくんと肩を揺らす。僕がふたりを連れてこられなかったのはそういう理由もあった。相手がふたりじゃ、ただの遊びに思われるかもしれない。誤魔化すためにひとりを連れてきたら、嘘でももう一方を裏切ることになる。どっちもいやだったんだ。
「別に謝ることじゃなくない? いいじゃん、彼氏が2人いたってさ。そりゃ二股だったらちょっとどうかなとか思うかもしんないけど、彼氏、お互いの存在を認識して納得してんでしょ? それって二股じゃなくて、単にどっちも真剣にお付き合いしてます、でいいんじゃね?」
 そんなもんなのかな……。ミチさんは軽いから、世間一般はどうかわかんないけど。でも、そう思ってくれる人がいるのは安心する。
 健ちゃんがぐっと身を乗り出す。
「認識ってか、オレたちが言い出したんですよ。告白したら、選べなくて困ってるみたいで、じゃあ選ばなくていいよねって話になって。な」
「掻い摘まんで言えば、ですけど」
 含みのある冬矢の言葉。そうだね、健ちゃんの説明はだいぶ簡潔だもんね。
 ミチさんは目を瞠った。
「へー。オレはそういうお付き合いとかしたことないからわかんないんだけどさ、会う時間とか調整するの大変じゃないの? 順番とか決めるわけ?」
「いや、なんか、最初っから3人だったから、調整とかは別にしてないですよ。それに今は一緒に住んでるし」
「一緒!? 同棲してんだ!?」
「です、3人で」
「へええ……。今日キミで、明日はキミ、とかそういうのなのかと思った。え、だけど自分じゃない彼氏が恋人と目の前でイチャつくことになるじゃん? 見ててムカつかないの?」
「んー。最初はそういうのもありましたけど。あいつとラブラブしてるのもすっごく可愛いからいいかなーって。自分が愛されてるのも感じますし。……あっ、でも、嫉妬はします」
 え……健ちゃん、そんなふうに思ってたんだ。そっか。僕が冬矢といても、それが可愛いって思ってくれてるんだ。
「いつまでもライバルのようなものですから、気は抜けないです。ただ、それだけじゃない。俺が左を守るとしたら、彼が右を守れる。そういう存在ですよ」
 冬矢。うわ、嬉しい。最初から今まで、変わってないんだ。僕を中心に、ふたりがいてくれてる、と、思ってていいんだ。
 急に、じたばた、とミチさんが椅子の上で地団駄を踏むっぽい動きをする。ど、どうしたんだろ。
「うわー! なんかめちゃくちゃ羨ましいんですけど! のんちゃん、完全に、騎士に守られるお姫様ポジションじゃん! オレもなりたい!」
 だけど、冬矢と健ちゃんは、笑う。
「彼は守られるだけではないですけどね。自分で戦う強い人でもある」
「ここぞって時にはめちゃくちゃ強いもんな!」
 ミチさんは、ぐっ、と呻くような声。
「……さらに羨ましい……。こんな中身までイケメンなのを同時に独占するなんて、…………うん? のんちゃんくん?」
「えっ? はい」
「最初から3人でーってことは~、もしかして、……お営みのほうも」
「っ!」
 自分でも、がっと耳まで赤くなったのがわかった。だ、だよねえ! それ、聞かれるよねえ! ど、どうしよう。ふたりを見ると、にこにこ健ちゃんが嬉しそうに笑ってて、冬矢もなんだか意味深な笑いをミチさんに向けてる。えっと。
「あの。そういう、こと、です」
「かーっ。のんちゃんからは常に溺愛されてる匂い感じてたけど、2人分注ぎ込まれてるからかー」
 そっ……。思わず僕はカウンターの上に突っ伏す。注ぐ……。あ、うん、愛情ね。愛情注がれてるから、ね。うん。ミチさんのことだからそういう意味かと思っちゃうとこだった……けど、そういう意味なんだろうな。
 ふわ、と頭の上に手がかかる。顔を上げると、冬矢が僕の髪を指で梳いてた。
「髪、ぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
 優しい手。優しい目。覗き込んでも、どこまでも穏やかだ。
「……だいぶ、心配、減った?」
 冬矢はちょっと目を見開いて、それからふっと笑って僕の耳をそっと撫でた。きもちい。
「なくならないけど、だいぶね。こうして楽しそうにしている顔見たら、ようやく反省し終えた気になった。本当にこの前はごめんね」
「僕も、ちゃんと全部話したし、反省したから、あの時のこと謝り合うのはこれでおしまいにしよ? あれも、気持ちがズレてたのが嫌だっただけだから、ね?」
「ああ。気持ちが大切だもんな」
 ただ……。冬矢の奥底にはまだ何か棘が引っかかってる気がする。なんだろう。いつか……僕がそれを抜くことは出来るのかな。冬矢が僕を甘やかして包み込んでくれるように、僕も冬矢の助けになりたいよ。
 冬矢は黙って僕に触れ続ける。
 ことん、と僕たちの前に綺麗にな形に切られたフルーツが乗ったお皿が置かれた。置いたのはリュウさんだ。
「よかったら、初回ご来店記念にどうぞ」
「すみません、いいんですか?」
「最近、マスターに言われて、フルーツカービングっていうんですか? 練習させられてるんですよ。練習のお付き合いってことで」
 わー。ころんと半月型にくり抜かれたメロンに、可愛い形のバナナに、葉っぱみたいになったリンゴにマンゴー、ブルーベリーがアクセントに添えられてて、見てるだけで気持ちが明るくなる。
「わあ、リュウさんお上手ですね」
「ありがとうございます!」
 それをいろんな角度から眺めてると、リュウさんはそっと冬矢に向かって耳打ちするみたいに言った。
「大丈夫ですよ、のんちゃんが危ないことしないように我々が見張っていますから」
 ん!? 聞こえてますけど!?
「下のクラブは人の出入りも多くてなかなか目が届かないんですけどね。こっちにいる分には、怪しい奴全部追い出しますから」
 言って、リュウさんは腕を曲げて力こぶを見せる。趣味が筋トレの人だからなー。たぶん健ちゃんと話が合うと思う。
「そうですよ。基本的に未成年ってわかってる子はこちらも全力で守りますからね。危なっかしい子もいますから。ねえ、みっちゃん」
 マスターもかぶせてきて、笑う。向こうからミチさんが、
「反省してまーす!」
 と大声を上げた。
 冬矢がふっと笑う。
「……これだけの方々に見守られているなら、だいぶ安心ですね」
 全部じゃないのが冬矢らしい。でも、そっとテーブルの下で僕の指を握った、その手はすごく柔らかで。きっと少し気を抜いてくれたんだと思う。
 暖かい空気。
 嬉しいな。
 なんとなくふんわりした雰囲気になったなあと思ってたら、ミチさんがことん、とグラスを置いた。
「でもさ、3人でお付き合いってさあ、最初のポジション争いとかってどうなんの? タチネコ争奪戦すんの?」
 え?
「こら、みっちゃん。デリカシーのない」
「オレのデリカシーのなさは筋金入りだから仕方ないの。だって気になるじゃん」
 ポジ……?
 …………。
 え……?
 あ、れ……?
 え……だって……あれ?
「なんすか、それ。たちねこ?」
「あー、キミ、そこからなんだ。セックスのポジションだよ。タチが挿入るほう、ネコが挿入れられるほう」
「へー、そういう用語…………え?」
 健ちゃんも言葉の意味を理解して、隣で固まる。
 それから、僕のほうを見て、僕も健ちゃんを見つめ返す。
 ポジション?
 争い?
「大体話し合うものでしょ? だってどっちにも同じモンついてんだからさ」
 言われてみれば確かにそうだ。
 で、でも、僕、そんなことまったく……考えなかったなあ。
「オレ、最初っから抱くもんだと思ってた……」
「ぼ、僕もずーっと抱かれるつもりだったから……」
 冬矢が小さく笑う。それから僕をそっと引き寄せた。
「……俺は話し合うつもりでいたよ。もちろん抱きたいと思っていたけどね。でも、挿入れたいって言われたら受け入れる覚悟は出来てた。だから初めての時……君が抱かれるつもりしかないと知って、俺がどんなにほっとしたか、知らなかっただろ」
「……知らなかった」
 びっくりした。そっか、話し合うのか。そんな当たり前のこと、全然考えもしなかった。僕が誰かを抱くなんて、想定してなかったし、なんか気持ち悪い感じがした。そもそも最初は人と交わるつもりなかったからなんだろうな。唯一興味があったのが、そうなるはずもない箇所で受け入れ可能なもんかってことくらいで。それが結局、ふたりに抱かれるための準備になってたわけだけど。
「じゃ、偶然、全員が希望するポジションにすっぽり収まったってこと?」
「そういうことだろうね」
 そうなのかあ。
「……ふうん、なるほど。相談かあ。だったら、もし、ふたりがそうしたいって言ったら僕も努力すべき……」
「いやいやいや、いい、いい! 今のままで! ぜひ今のままで!」
 健ちゃんが慌てて僕の手を握る。うーん、そうだよね。なんか、逆、って想像つかないかも。
「俺も出来ればこのままでいて欲しい」
 冬矢もなんだか真剣な目をしてる。そっかあ、そうなってたとしたら冬矢は妥協することになってたんだもん。
「うん。僕も今のままがいいや」
 ふたりに愛されて、抱かれたい。
 それでいいんだ。
 ミチさんは、ふたりに支えられてる僕を見て、楽しそうに笑う。
「のんちゃんのそんな嬉しそうな顔、初めて見たかも~」
 ふふ。
「ふたりと一緒にいる時の僕が、本当の僕です」
「いいね~」
 といっても、ここではちゃんとしてるけどね。本当の本当の僕は、ふたりにしか見せないから。ふたりとだけいる場所で、ドアが閉じたら、初めて僕はただの僕になるんだ。
 ああ。家のドアを閉める瞬間が、こんなにも待ち遠しい。
 そこに、ドアのベルが鳴った。
「こんばんは」
 すぐに聞こえる声、ミチさんがそれに反応して「あっ」と声を上げた。入って来たのはミチさんの彼氏さんだ。なるほど、待ち合わせしてたんだな。
 ミチさんは椅子から飛び降りる。彼氏さんも店内に入ってきて、ちょうど僕の後ろ辺りで小走りのミチさんを抱きとめた。ほら、この瞬間だけ優しい顔。それが面白いほどすぐにすっと無表情に戻って、僕たちを眺める。
「……今日は、普段見ない顔の方がいますね。まさか……」
「うっ。おまえ、何年前の記憶蘇らせてんだよ! オレはおまえに一途なの! 昔とは違うの!」
 なんかこの手のやりとりよく聞くんだけど、昔のミチさんってどんなだったんだろう。今度昔の話、聞いてみようかな。
「でもこの人たち、だいぶ貴方の好みに近いですけど」
「え」
「ち、違う違う! のんちゃん、昔の話だから! ……このお2人、のんちゃんの彼氏!」
「ああ……なるほど。そうでしたか。それは失礼しました」
 彼氏さんも、それで済んじゃうんだ。たぶんミチさん以外のことだから関心が薄いんだと思うけど、抵抗なく受け入れてもらえるのはやっぱほっとする。
 誤解が解けて安心したのか、ミチさんは彼氏さんの首にまとわりつく。
「そう。だからねー、アッチも2対1なんだって。毎晩代わる代わる愛されまくりなんだろーね。ちょっといいなって思っちゃったぁ」
 ミチさんが言った途端、彼氏さんはミチさんの腰をがしっと掴んだ。
「へっ」
「帰りますよ」
「ちょ、え、待っ」
「今から帰って抱きます。2人分頑張ればいいんですよね?」
「えっえっ」
「マスター、急ぐのでツケといてください」
「はいはい」
「えっ、あ、ちょっ……」
 焦った顔のミチさんは、そのまま彼氏さんに引きずられて出て行った。
 あーあ。あれは、ホントに頑張られちゃうやつだ。
 マスターは、心配げにドアのほうを見る健ちゃんに笑いかける。健ちゃん、優しいから。
「心配なさらなくても大丈夫ですよ。みっちゃん、あれ、わかって煽ってましたから。のんちゃんがいつも、かっこよくて優しくて気遣いが上手で料理も上手で努力家で真面目で甘やかし上手で可愛いところもあって愛情深い彼氏の自慢をするから悶々としていたところに、実際のお2人がそれを上回るハイスペックだったので、自分もいちゃいちゃしたくなったんですよ」
 …………!
「ま、マスター、なんでバラしちゃ……」
「この子、オレたちのこと、そんなふうに!?」
「ええ。来るたびに彼氏のことを惚気たくて仕方ないふうでしたからね。綺麗なのんちゃんに近付きたいお客様も、のんちゃんの惚気を聞いたらすぐに諦めて離れて行きますから、安心してください」
「ふうん。惚気たかったんだね」
「惚気たいっていうか……事実だし……」
 リュウさんがぷっと噴き出す。
「事実が惚気とか、熱烈だあ」
 あああ。なんか急に恥ずかしい。嬉しいけど。
 マスターはやっぱりにこにこだ。
「いっそ全部バラしていきましょう。それで、ここに来ていることもバレましたけど、だからもう来ない、とか仰らないですよね?」
 …………。
 僕は、ふたりの顔を見る。
 冬矢は嬉しそうに、健ちゃんは楽しそうに、僕の顔を見て笑ってる。
「……はい。これからは、堂々と、一緒に来ます」
 ふたりの手が、僕の手を優しくきゅっと握った。

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