80こ目;晩冬に実る~前編~
そこで教授が蒼生に告げたこととは。
前後編です。
久し振りの場所に行きますので、「ここどこ?」と思われた方は、
ぜひ59こ目『隠れ家にて』( https://pictbland.net/items/detail/2271355 )をご参照くださいませ。
↑初公開時キャプション↑
2023/03/24初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
| 1 / 1 |
講義の終わりのチャイムが鳴る。蒼生が荷物をまとめていると、教卓の前にいた根津が溜め息をつきながら戻ってきた。
「おかえり。お疲れ様」
「ただいまです……」
この講義では終了5分前になると、その日に解説された内容について、指名された学生が要点をまとめて発表するのが恒例となっていた。指名は出席カードからランダムに選ばれるのだが、何故か根津はそこに当たる確率が高い。
「去年は1度も当たらなかったのになあ……」
「こればっかりは運だからね」
「やっぱり再履修だと当たりやすいとか!?」
「まさか。出席カードに色でもついていない限り、そんな手品みたいな事は出来ないと思うけど……」
「だよねぇ。やっぱ運かー」
根津は昨年この講義の単位を落としている。教養科目は、数ある講義から所定数の単位を取ればいい。数だけで種類は問わないのだから、他の科目を選んでもいいのだが、どうやら根津の目指す資格にはこの授業の単位取得が必須らしい。ひとりだとまた落としそうだからと根津に頼まれた蒼生は、自分自身も少し興味があり、必須授業の隙間にあったので共に履修することにしたのだった。実際、聞いていてとても面白いので、誘ってもらって感謝さえしていた。
ようやく気分が持ち直してきた根津は、蒼生が急いで荷物を片付けていることに気が付いたらしい。
「あれ、野木沢くんって次の授業お休みじゃなかったっけ」
「そうなんだけどね。ちょっとゼミの担当教授に呼ばれてて」
「あ、そうなんだ……。よさそうなカフェ見つけたんだけど、今日はダメだね」
「残念。今度行こうよ」
「うん」
肩を落とした根津が、振り切るように頭を振る。それから、蒼生に倣って自分も鞄を背負った。
根津は新しい店の開拓が趣味なのか、新しい店や話題のスイーツの情報を仕入れては蒼生を誘ってくる。声をかけるのは他の友人より圧倒的に蒼生であることが多いので、おそらく蒼生のことをスイーツ仲間だと思っているのだろう。蒼生は苦手な相手に誘われることが嫌で、甘いもの好きを隠していた。だが、何度も誘われるうち、根津の誘いにはすっかり慣れた。
2人で建物の外に出ると、強い風が正面から顔に当たる。
「……っ、冷たい……」
「これ、朝より気温下がってるかもね……。根津くん、首元寒そう」
「平気だと思ってマフラー置いてきちゃった」
「ああ、今朝は穏やかだったからなあ」
見れば、行きかう人々は誰もが肩をすくめながら足早に移動している。それが正解だろう。2人もその人波に乗るように歩き出した。
「あ」
隣の根津が、よそ見をしながら声を上げる。
「? どうしたの?」
「見て、野木沢くん」
何事かとその指先を辿ると、道の脇に植えられた木に、ぽつぽつと紅い花が咲いているのが見えた。冬の間は色のなかった景色に、ぱっと目立つ鮮やかな色。いつの間に咲き始めたのだろう。
「へえ、咲き始めたんだ」
「うん。きっとすぐに春が来るよ……来てほしいな」
「そうだね」
期待を込めて蒼生は頷く。ほとんどが蕾なので、満開になるにはまだ時間がかかるだろう。だが、たしかに季節は一歩ずつ進んでいる。
まっすぐ正門に向かう根津と別れると、足が途端に重くなった。それを引きずるように、蒼生は少し奥に入ったところにあるガラス張りの建物に入る。小ホールの入り口と展示室の間を抜ければ、そこは左右にドアがたくさん並んでいる細長い廊下だ。廊下に入ってすぐの右側にはエレベーターも設置されていたが、目的の部屋は3階なので、向かいにある階段を上ることにした。薄暗い階段を抜けた3階の廊下も、同じような風景だ。節電のためか廊下の電気は消されていたが、両側の突き当たりが大きな窓になっているために十分に明るい。その中央あたりのドアの前に立ち、蒼生はそっとグレーのマフラーに顔をうずめた。
はあっとひとつ息を吐く。蒼生には、教授に呼び出される心当たりがなかった。提出したレポートに不備はなかったはずだが、考えられるとしたらそのくらいしかない。ひどく憂鬱な気分で時計を見れば、約束の時間には数分早い。もう一度息を吐き、防寒具を丁寧に鞄にしまう。コートを脱いでもぴったりの時間にはならなかったが、このくらいは誤差で許されるだろう。
ノックには、わずかの間を開けて「はい」と返って来た。
「野木沢です」
「どうぞー」
「失礼します」
部屋の中は暖房が効いていて暖かい。が、それ以上にごちゃごちゃした室内が気になった。部屋の両側は本棚で、数えきれないくらいの本が収納されているが、6人が周りに座れるくらいの机の上にも本や図録が山のように積み重なっていた。またずいぶんと溜め込んだものだとその山を眺めていると、さらに本がうずたかく積まれた奥の教授席からひとりの男性がひょこりと顔を出した。きちんと整えられた黒髪が若々しいが、両親より上の世代らしいと先輩から聞いた。
「ああ、ごめんね、そこ座って……って、座るとこないな」
「結構な量がありますね」
「また図書館から早く返せって催促の連絡が来ててさあ。行こうとは思ってるんだけど、ちょっとバタバタしてて」
「よければ、僕が持っていきましょうか」
教授はぱっと顔を輝かせ、すぐに申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いつも悪いねえ。じゃ、帰りに持ってってくれる? ちょうど野木沢くんの前にあるひと山ぶん。……ほら、まとめてあるんだよ。返そうとしてる気持ちは伝わるだろ?」
「あはは、はい」
図書館のラベルが貼ってある書籍をきちんと積むと、なんとか机の天板が見えた。そこに教授が小さな緑茶のペットボトルを置く。
「野木沢くんはお茶だったね」
「ありがとうございます」
この研究室には、ゼミ生がよく集まっている。全員で本に埋もれながら議論をするのだが、教授はどうやらそれを見るのが好きらしい。集まった学生たち用にと冷蔵庫の中には常に数種類のペットボトルが冷やされていた。
図録をどかして座った教授に改めて促され、蒼生はその向かいに座る。
「えーと。休講だったのに、わざわざ来てもらってごめんね」
「いえ。レポートの記載ミスでもありました?」
「違う違う、そういうことじゃないんだ。君のレポートにミスなんて見たことがないよ。……いや、本当は、電話で伝えてもよかったんだけど、書面もあるから、このほうがいいと思って」
教授はそう言いながら、背中のほうに手を伸ばす。そして、本棚に置かれていたクリアフォルダを取ったかと思うと、そのまま机の上に置いた。挟まれているのは1枚の紙だ。真っ先に自分の名前が目に入って、すっと背中が冷える。
「うちの大学では、1年に1回、学部ごとに優れた論文やレポートに対して学部長賞を贈ることになっているんだけどね。今年度は、野木沢くんの論文が選ばれたよ。おめでとう」
「え……」
冷たい空気が自分を包むようだ。指先が震える。改めてその紙に目を落とすと、たしかに年度末に向けて書いた論文のタイトルと、自分の名前がはっきりと書かれている。頭の中から、ばらばらと思考を支える部分が融け落ちていくような感覚。
「……っ、あ、の。僕なんかが、このような、賞に選んでいただけるなんて、とても信じがたく……っ」
乱れそうになる息を、どうにか整える。呼吸を数えてでもいなければ泣いてしまいそうだ。言葉の意味が理解できない。こんなことが起きるはずがない。
けれど教授は、蒼生の態度を謙遜と受け取ったようだ。
「そう恐縮しないでもいいよ。僕のゼミからは、学部長賞取る子が結構出るんだよね。優秀な子が集まってくれて、本当に鼻が高い。特に、野木沢くんの書くものは、いつも論拠がしっかりしているし、引用も的確で無駄がない。文章も明快でわかりやすいうえに、結論の導き方も丁寧だしね。僕は君の論文が大好きなんだよ。3年になったらゼミも本格的になるし、これから先も楽しみだ」
ぎりぎりのラインで踏みとどまり、なんとか手綱を握って制御するが、蒼生の頭の中は「怖い」でいっぱいだ。自分ではどうしようもできない。だから、感情を押しとどめて、笑う。笑うことなら得意だからだ。
話し好きの教授は、蒼生が聞く態度を見せたので、さらに嬉しそうに続ける。
「学部長に推薦した時も、普段はもっとかかるんだけどね、すぐに受賞の結果が出たんだ。びっくりして学部長のところに行った時に、初めて君の名前が出てね。贔屓になったらいけないからって、それまで名前は見てなかったんだそうだよ。そしたら、野木沢くん、学部長が顧問やってるとこのサークルに所属してるんだって? すぐに“ああ、あの子か!”って」
言葉が脳の上を滑っていく。自分がいないところでされる自分の話なんて、悪い話に決まっている。
「真面目で、目上の人を立ててくれるいい学生だ、って。なるほどこの論文は納得だって仰ってたよ。……それでね、これはまだ正式には発表されてないから本当は言っちゃいけないんだけど、決まってるから先に教えちゃうと……野木沢くん、おめでとう。来年度の学部特待生に君が選出されることになった」
「え……っ」
「あはは。あんまり嬉しいからフライングしちゃった。近々教務課のほうから連絡が行くから、そこで改めて手続きをしに来てもらうことになるはずだよ」
「はい、ありがとうございます。今後も精進します」
うん、うん、と教授は目を細めて何度も頷く。
「今日はわざわざ来てもらってありがとうね。これからも楽しみにしてるよ」
蒼生はにっこり笑って「はい」と応えた。頭の中に、ざらざらとした雑音が流れている。
研究室に積まれていた本を図書館に戻すと、蒼生は大学を飛び出す。どの道を通ればいいか、どの電車に乗ればいいかは体が覚えていたから、なにひとつ考えがまとまらなくとも家までの道を辿ることができた。
とにかく、ひとりになりたかった。人がいるところでは、泣くことも出来ない。焦る足が時折縺れそうになるのをなんとか持ちこたえて、最後の階段を上る。
玄関に入ると、リビングのドアが開く音がした。
「おかえり、蒼生」
蒼生は呆然とそれを聞く。そうか、今日はふたりのほうが早く帰る日か。試験が近いので全員バイトの量を減らしている。迎えられても何の不思議もないのだ。
声のあと、すぐに廊下を歩いてきた健太の晴れやかな笑顔が見える。
「ただいま、健ちゃ」
ぼたり。目に涙が溜まったことに気が付く前に、頬から雫が落ちた。
「っ!? どうした!?」
脳を直接掴まれたような感覚に、蒼生はますます混乱する。
「ごめ……っ、ごめんなさい、こんなつもりじゃ……っ。す、すぐ止めるから。ごめんね、違うの、なんでもないから……」
謝ると、何故か余計に止まらなくなる。落ちてくる涙を必死に頬から擦り取ろうとする蒼生に、健太の頭のほうが真っ白になりそうだ。
「なんでもないのに蒼生がそんなふうに泣くはずないだろ。おいで」
健太は蒼生を抱き上げる。暖かな健太の肩に縋り付くと、押さえ込んでいたものが決壊した。
「う、うぅ~……」
そこに玄関での騒ぎを聞きつけた冬矢が青い顔をして駆け寄ってくる。
「何があった?」
「……っう」
「ああ、無理に話さなくていいよ。ケガはしてない? どこか痛い?」
「んーん……」
「そうか、よかった。健太」
冬矢が健太に目配せをする。健太は頷いて、蒼生を横抱きに抱え直した。冬矢はそっと蒼生の脚に触れ、履いていた靴を脱がしてやる。
「……冬っ矢、ごめ、」
「大丈夫。謝らないで。大丈夫」
冬矢の声は、穏やかでどこまでも優しい。
健太の体温と冬矢の声に、ようやく蒼生は乱れた息を吐ききることができた。自分のことでいっぱいいっぱいになっている心に、健太と冬矢が直接触れてくれたことで、胸の中で荒れていた波が少しだけ和らぐ。ふたりに心配をかけているというプレッシャーが、ほんのわずかに揺らいだ。
リビングに入ると、健太は蒼生を抱えたままソファに座る。髪を撫で、肩を引き寄せて、眦に唇を寄せる。冬矢はココアの入ったマグカップをソファの前のローテーブルに置き、膝をついて蒼生の手をそっと握り、残った手に持ったタオルで蒼生の頬に流れる涙を優しく押さえるように拭いた。
「ぼ、く……、ふたりを、こんな、困らせる、つも、り、じゃ……」
「泣きたい時には泣いたらいいんだ。そのほうがすっきりするじゃん?」
「健太の言う通りだよ。それに、いいじゃないか、困らせたって。本音で付き合えているってことだからね。……あと、今は別に困ってないよ。心配はしてるけど」
蒼生はぎゅっと冬矢の手を握り、健太の腕を掴む。
「かっ、鞄の、中……っ」
絞り出された声に、ふたりの目が蒼生の抱えた鞄に向かう。冬矢が手を伸ばすと、蒼生は何の抵抗もなくそれを手放した。中を見てもいいということなのだろうと覗き込むと、一番上にはクリアフォルダが乗っていた。取り出してみると、学部長賞認定証と書かれたその書類には、蒼生の名前がはっきり書かれている。
「これは……学部長賞? 論文が……、そうか、蒼生が選ばれたのか」
「え? 賞取ったの!? すごいじゃん!」
蒼生がぱっと顔を上げる。その目には、溢れるほどの涙がたまっていて、瞬きと共に零れ落ちる。
「……なんで?」
「へ?」
「だって、どうして僕なんかが選ばれるのか、わかんない。評価なんてされるわけないのに、そんなわけないのに、どうして、どうしてこんなこと言うの?」
「蒼生」
なんで、と言葉を繰り返しながら、蒼生は健太の肩に顔を伏せた。
健太は首を傾げて蒼生の顔を覗き込む。
「なんでも何も。教授が論文を褒めるなんて、蒼生の論文がすごかったからだろ」
「でも。僕、しょっちゅう教授の部屋行ってる。だからだったら、狡い」
なるほど、これは蒼生の自己評価が低いことが原因だ。冬矢は改めて蒼生の手を取る。
「そんな理由で選ばれるような賞じゃないよ。ちゃんと複数の教授が確認しているはずだから、贔屓なんてあり得ない。大学の教授はね、自分の研究する学問がとにかく好きな人たちだと思うんだ。そんな人が論文を褒めるというのは、蒼生が思っているより純粋に喜んでいるだけなんじゃないかな。蒼生は褒められるのが苦手だから、おかしいなと考えるのかもしれないけど」
「だけど」
その言葉で健太も理解する。同時に、小学生の頃に蒼生の書いた読書感想文がコンクールの学校代表に選ばれた時、賞状を受け取った後の蒼生が自分に向けた顔が、とても複雑でどこか困っていたように見えたことを思い出す。あの時も泣きたかったのだろう。だが、当時の自分に対して蒼生はそれをできなかった。今となっては、とても不甲斐ない。もっとあの頃の自分がちゃんとしていたら、蒼生はあんなふうに傷つかなかっただろうに。だからこれからは、もっときちんと蒼生に向き合いたい、と健太はひとり拳を握った。
冬矢が指先で蒼生の手の甲をそっと撫でる。
「蒼生。高い評価に怯える必要はないよ。これは、蒼生の成果に対する、正当な評価だ」
「オレもそう思う。素直に受け取っていいやつだよ」
「そう、なの、かな」
ほんのわずかに緊張が緩んだ様子の蒼生に、冬矢が目を上げた。その視線を受けた健太が頷き、蒼生を抱き締めたまま深呼吸をする。すると、蒼生の呼吸もそれに重なるように静かになっていく。
蒼生の文章はわかりやすく親切で、専門外のふたりの目にも優しい。それに、真面目な蒼生が、好きなことに対して真剣に取り組んだ結果だ。ふたりから見れば当然の評価だと言える。
ただ、蒼生は、とにかく自分に対する点数が低い。試験など、はっきり点数が出るものはまだいい。途中で誰かが介入することなどないからだ。蒼生も結果に納得せざるを得ない。しかし、明確な基準のない、「誰かの目」によって選ばれることに対してはひどく拒絶感を示す。「評価されるはずがない」と根っこから信じているから、自己採点0点に対して100点を付けられると処理できなくなり、パニックになるらしい。
3人で穏やかに暮らす中で、少しずつ自分を認められるようになってきた蒼生だが、外の世界からの不意打ちにはまだ弱い。それでも自力で落ち着こうとする蒼生を愛おしく思い、ふたりがかりでゆったりと撫で続ける。すると次第に、強張った体から力が抜けていくのがわかった。
「……本当に、大丈夫? 誰も、嘘、ついてない?」
「少なくとも、俺はすぐに納得したよ」
「オレ、蒼生の書く文章、昔から好きだもん。ぴしっとしててかっこいいもん。先生もようやく気付いたか~って感じ」
蒼生は不安げに目を上げると、ふたりの顔を交互に見る。
「でも、それは偽物の僕だよ。本当の僕はこんななのに」
「偽物かなあ。かっこいい蒼生も、ちゃんと“蒼生”だと思うけど。かっこいいのも可愛いのもどっちも“オレの大好きな蒼生”だよ」
健太の言葉に、蒼生の背筋がすうっと伸びた。冬矢は、憑き物が落ちたような蒼生の表情に、やはり必死で取り繕っている自分の外殻を評価されるのが嫌いなのだと改めて思い知らされる。
にっこり笑った健太が、蒼生の両肩を掴み、まっすぐに揺れる目を覗き込んだ。
「大丈夫。蒼生はすごい。ずーっとずーっと蒼生のこと見てたオレが保証する!」
「……そっか」
ぱち、ぱち、と蒼生が大きく瞬きをする。ようやく表情からも力が抜けたようだ。どこか呆然とする蒼生に、冬矢はマグカップを差し出した。すいっと動いた手がそれを受け取る。
「冷めちゃったかな」
「ううん。飲みやすい温度になってる。……ありがとう」
蒼生はさらりと喉を通っていく甘い香りに満たされ、初めて指先が冷えていたことに気が付いた。同時に、そのココアがずいぶん薄いことにもはっとする。頬から唇に落ちた涙のせいで少ししょっぱく感じるが、それだけではない。いつもはもっと濃くて、甘いはずだ。それは、冬矢が普段丁寧に作ってくれているからなのだと悟る。慌てて、ただお湯で溶いただけの、薄いココア。どれだけ冬矢に心配をかけたのかが、これだけで伝わってくる。もちろん、ずっと抱き締めてくれている健太の優しさも。
「ずいぶん、取り乱しちゃった。健ちゃん、冬矢、ありがとう。もう、大丈夫」
「ん」
ほっと息を吐いて、健太は蒼生を改めて抱き締める。冬矢は蒼生の髪を静かに撫でた。
「蒼生が納得できたなら、よかった。ああ、瞼、腫れちゃったね。頬も荒れたらいけないし、タオルを濡らしてこよう」
「うー。変な顔になってる?」
「なってない。いつも通り、オレの蒼生は可愛いよ」
「え? ……ふ、ふふっ、それはさすがにフィルターかかりすぎでしょ」
健太と冬矢は、同時に大きく息を吐いたことで、自分たちもひどく緊張していたことを知る。そして、やっと蒼生の笑顔が見られたことに安堵する。たしかに、泣きすぎて癖がついたようにしゃくりあげる姿も可愛いが、やはり蒼生は笑ってくれているほうがいい。笑顔でいてほしい。それが一番だ。
ゆっくりとココアを飲む蒼生を微笑ましく見つめ、冬矢はキッチンに立つ。たしか、泣き腫らした瞼は温めて冷やしてを交互にするといいと聞いたことがある。
「それで? 蒼生。教授はなんて言ってた?」
仕切り直して聞くと、健太に抱き締められたままの蒼生はことんと首を傾けた。
「頭が真っ白であんまり覚えてないんだけど……。春から僕の所属するゼミって、この賞取る人が多いんだって」
「ああ、あの教授、その分野の第一人者だからね。所属するのが大変なほど人気なんだろう? 優秀な学生も集まって当然なんだろうな」
うーん、と蒼生が難しい顔をする。
「僕は2年間プレゼミに入れたから、優先枠だっただけじゃないかな」
「え、蒼生の先生ってそんな有名人なのか! すげえな、3年になったらそんなすごいとこに所属するんだぁ。でもプレゼミ入ってたからって全員上がれるわけじゃないでしょ」
「まあ……一応選考はあったけど」
「やっぱすごいじゃん。オレの蒼生、最高!」
ぎゅう、と健太が腕に力を籠める。
「き、きついぃ……。健ちゃん、すっごく嬉しそう……」
「そりゃそうさ。蒼生が褒められるの、めちゃくちゃ嬉しいよ! 自分が褒められるのより嬉しいもんね。蒼生だってわかるでしょ」
「! わかる。健ちゃんと冬矢が褒められると、すっごく嬉しい」
「だろー。一緒だよ」
「そっか。……そうだね」
心の底から喜んでくれている健太の顔を見上げていると、蒼生の頭の中でぐちゃぐちゃに乱れていた糸がほどけていくようだ。蒼生が認められたことが、健太は本当に嬉しいらしい。健太が嬉しいことならば、自分も嬉しい。この瞬間も自分の実力なのか疑わしい気持ちは変わらないのだが、ふたりが喜ぶことなら、これでいいのだろう。
そこに、冬矢が暖かいタオルと冷たいタオルを1枚ずつ持って戻ってくる。
「これで瞼を交互に休ませてあげるといいそうだよ」
「へえ」
受け取ったのは健太だ。笑いながら、暖かいタオルで蒼生の目元を覆う。
「まずはあったかいのね。いかがですかー」
「うん、あったかいでーす」
「じゃあこっちの冷たいのは?」
「あはは、ひんやりして気持ちいい」
「なんかさー、どっか腫れたら冷やすもんだと思ってたけど、あっためるのもやるんだなあ」
「俺も調べたわけではないけれど、前に人づてで聞いたことがあってね」
「でもどっちも気持ちいいよ」
「それならよかった」
「ん、じゃ続き~」
健太はすっかり面白がって、タオルを交互に蒼生の瞼に当てる。そのたびに健太が冗談を言うので、蒼生はすっかりにこにこしながら健太にされるがままになっている。いつの間にかローテーブルに置かれたマグカップは空っぽだ。冬矢がそれを手にすると、蒼生が「あ」と声を上げた。
「おかわりする?」
「うん、お願いします。……えっと、あとね、学部特待生って知ってる?」
「学部?」
「そう。特待生ってあれだよね、入試でいい成績とった人とか、スポーツで結果出してきた人とかがなるやつ」
蒼生は健太を見上げるが、健太はきょとんとして首を振る。そのふたりの目は、自然と冬矢に向かう。冬矢ならば知っていると思っているのだろう。視線を受けて、冬矢も脳内にある大学案内の記憶を探るが、ぱっと出てこない。
まったく聞き覚えがないらしい健太が蒼生の顔を覗き込む。
「そういう話を聞いてきたの?」
「うん。よくわかんないけど、僕、来年度の学部特待生に選ばれたんだって」
「へー! すげえじゃん! 何がすごいのかわかんないけど、なんかすごいんだろ?」
「なのかなぁ。教授と学部長が話してたって流れでそれを前もって教えてくれたんだけど……」
「学部長ってあれだろ、うちのサークルの顧問。ふーん、そっかあ。で、それになるとどうなるの?」
「さあ? ちゃんと聞いてくればよかったんだけど、後で正式に教務課から連絡来るって言うからそれでいいかと思って……」
どうやら蒼生はパニック状態で、具体的な話を聞くまで頭が回らなかったらしい。完全に他人事の顔で健太と首を傾げ合っている。冬矢は、うっすらと残る記憶の中から、なんとか言葉を引き出す。
「……俺もちゃんと覚えてはいないから、あとで大学案内を引っ張り出して探してみよう。たしか、うちの大学の特待生にはいくつか種類があったはずだ。蒼生の言う、スポーツ特待生や、入学時の成績で選ばれる特待生と……それから、毎年、その学年で優秀な成績を収めた学生が学部ごとに若干名選ばれるものもあったと思う。蒼生が選ばれたというのは、たぶんそれだな。たしか、当該年度の学費が免除になるんじゃなかったかな」
「えっ」
「すげえ!」
思わず健太は満面の笑みで蒼生を抱えたまま立ち上がる。蒼生は目を見開いたまま、ぴたりと動きを止めた。瞬きすらできないほど驚いた様子の蒼生に、冬矢は近寄ってそっと髪を撫でた。
「後でちゃんと調べるけれど、おそらく、来年度の学費は払わなくていいという形になると思う。……よく頑張ったね」
「っ、ぅ……」
再び涙ぐむ蒼生を見て、健太が慌てる。さっきの涙と、この涙の意味は全く違う。それはわかっている。だが、笑顔に戻った蒼生を泣かせたくないと咄嗟に思った。だから、軽く蒼生の体を揺すると、あえて大きな声を出す。
「詳しいことは冬矢が調べてくれるって言ってるし、なんか改めて連絡来るんだろ? 細かい話はそれから考えよ! とにかく、まずはお祝いだ! お祝いしよう、ね、蒼生」
「でも、もしかしたら僕の聞き間違いかも……」
「んー、そこも心配しちゃうかあ。ほら、あっちの論文の賞は、紙があるんだから絶対間違いじゃないってわかるでしょ。そっちのお祝いだけでもやろうよ、な、冬矢」
勢いよく話を振られた冬矢は、ぽかんとしてから笑う。
「そうだね。そうしよう。せっかくだから、どこかにお祝いしに行こうか。その前に、まず今日は3人だけで、家でお祝いしようね。蒼生が好きなもの、なんでも作るよ」
「え、嬉しい」
「じゃあオレはね~」
「おまえじゃないだろ」
「あはははっ」
そうして蒼生と健太は、何が食べたいかの話し合いを始める。蒼生を元気づけようと主張をしたのではなく、本当に自分のリクエストをしようとしたらしい健太に、冬矢は笑ってしまう。だが、健太のその無邪気な発言自体が、蒼生にとってエネルギー源のひとつなのだろう。おそらく今日は蒼生の意見のほうが通るはずだが、どんな無茶なメニューが来ても応えてやろうと冬矢は袖をまくった。
「……ごめんね、ふたりとも」
しばらくして蒼生がぽつんと呟く。健太と冬矢は目を見合わせてから、蒼生に向かって笑った。
「他の言葉で聞きたいなあ」
ぱちぱち、と二度瞬きをして、蒼生はふんわりと表情を和らげた。
「ありがとう。健ちゃん、冬矢、大好き」
「えへへ、オレも大好き!」
「うん。愛してるよ、蒼生」
冬矢もぎゅっと蒼生を抱き締める。ふたりの間に挟まれて嬉しそうな蒼生の、まだ腫れた瞼に、ふたりがかりでキスをする。くすぐったがる蒼生の照れて恥ずかしそうな顔が、とても綺麗で、とても可愛いと思った。
お祝いはどこに行きたい? と聞くと、蒼生は「バーがいい」と答えた。バーとは、かつて蒼生が偶然迷い込んだゲイバーのことだ。食事も美味しく雰囲気がとてもいいので、3人とも気に入っている店だった。ただ、店の特性上、蒼生をひとりで行かせることにかなり抵抗がある。そのため、店を訪れる際、健太か冬矢どちらかは必ず一緒に連れて行くという約束をしていた。そのせいか、蒼生にとってそのバーは「特別な時に一緒に来られる店」と認識される場所になったようだ。
店に向かう電車の中で、3人は改めてあだ名の確認をする。
「えーっと。蒼生は“のん”。この可愛い子は“のん”ちゃん。んー、毎回忘れそうになるなあ」
「おまえが一番危ないからな」
「僕も間違えそう。健ちゃんが“ナツ”くん。冬矢が“ハル”くん。うう、慣れない」
「そうだね。慣れないのは仕方ないよ」
「コードネームみてぇで面白いとは思うけど、とりあえず混乱はするわな」
蒼生と健太は向き合って自分の頭をぐりぐりと両側から押さえつける。その様子に冬矢も静かに笑う。
そのバーでは、お互いを本名で呼ぶのを控えるのが慣例だった。詳しくは知らないが、素性が割れたことでトラブルが起きたことがあったらしい。蒼生が既に“のんちゃん”と呼ばれていたこともあり、ならばとふたりもここではあだ名を名乗ろうと決めた。が、それが意外と難しかった。
それは、初めて3人でバーに行った夜のことだ。風呂上がりでのんびりしている時に、「じゃあどうする?」と切り出したのは健太だった。冬矢は難しい顔で首を捻る。
「今まで俺はあだ名で呼ばれたことがない」
冬矢の言葉に、蒼生が頷く。
「たしかに、名字で呼ばれてるのしか聞いたことないね」
「蒼生だって同じだろう? 名字の呼び捨てか、くん付けだったじゃないか」
「たぶん、僕って親しみを感じるタイプじゃないから。積極的に仲良くする人もいなかったし、むしろ名前を覚えられてなかったかもしれない」
あ、と健太が手を挙げる。
「それねー、オレが阻止してた」
「へっ?」
蒼生は目を見開く。まったくの初耳だ。
「だって、家族はしょうがねえけどさ、他の奴に蒼生って呼ばせたくなかったんだもん。オレだけの呼び名だったから。蒼生って呼ぼうとした奴もいたけど、しつこくダメだって言い続けてた。なのになぁ、それを、いとも簡単にこいつが……」
健太はぎろっと冬矢を睨む。それをさらりと受け流して、蒼生を引き寄せる。
「蒼生は俺だからいいって思ってくれたんだろう?」
「う、うん。……あの、健ちゃん、ごめんね。僕、健ちゃんがそんなふうに思っててくれたことを知らなくて」
「あ! ごめん、オレが勝手にやってたことで、蒼生にそうしてってお願いしてたわけでもないから、いいんだ。それに、冬矢にだったら仕方ないし」
「そうか、負けを認めるというわけか」
「負けじゃねえし! 少なくとも対等だったはずだろ」
「さあ、どうかな。あの時点では俺のほうが距離は近かったと思うけど」
挟まれてふたりのやりとりを見ていた蒼生がはっと息を呑む。このままでは、今更どうしようもない昔のことで言い争いになりそうだ。蒼生自身、当時のことを聞かれても、「今から思えばそうだったかもしれない」くらいしか答えられない。話を変えようと焦ってふたりの腕を掴む。
「ほら! 健ちゃんはあったよね。なんだっけ、寺ち、だっけ。可愛かったのに、あんまり浸透しなかったやつ」
「……あー、あったな! 小5か6年か、そのへんだ。あの頃って、なんでだかわかんねえけど、名前のあとに“ち”って付けられる奴多かったっけ」
「元気のいい男子の間で流行ってたよね」
「そういや、大学でもそれに似てる呼び方する奴いるなあ」
「ふうん、そうなんだぁ」
「うん。定番なのかな」
健太はにこにこ頷く。どうやら喧嘩は回避できたらしい。蒼生がほっとしていると、冬矢が顔をしかめて片手を額に寄せるのが目に入った。
「冬矢?」
「いや、たしかにそれはあだ名だったと思うけれど……。本名を隠すという意図からすると少し弱いような気がするな」
「言われてみりゃ、そうだな。ほぼ名字出てるし。けど、オレも他のあだ名ってなかったんだよなあ。普通に呼び捨てされるくらいで」
うーん、と3人は黙り込んでしまう。あだ名は、親しくなっていく課程でなんとなく生まれるものが多いだろう。しかもそれは周りが決めてくれるものだ。呼んでほしい名前を自分で決めるというのは、なかなか気恥ずかしい。
「む、難しいな」
健太がぼやく。蒼生もこくこくと頷いた。
「でも、決めとかないと……。普通に呼んじゃったら、お互いの呼び名が取られちゃうかもしれないってことだし」
「うん。蒼生の言うとおりだ。俺たちの呼び名は俺たちだけのものだからね」
「ってことは、逆に全然違う名前名乗るのもアリってことか」
「いっそそのほうがいいのかもしれないな」
改めて、3人は腕を組んで悩み込む。ふと、健太がはっとして顔を上げた。蒼生と冬矢は変に真面目に考えすぎるところがある。ぐちゃぐちゃ考え込んで、答えはいつまでも出ないかもしれない。ここは自分の思い付きで適当に進めるほうがいいのではないだろうか。
「なあ、冬矢のあだ名、季節進めんのはどうかな」
声をかけると、ふたりは不思議そうな目を健太に向ける。
「進めるって?」
「んーと、名前は冬だけど、誕生日5月だから春生まれだろ。いっそ春にしちゃえばいいんじゃねえかなあって」
「ふぅん?」
どうやら冬矢本人はピンと来ていないらしい。そういう態度を取られると、つい、じゃあ認めさせてやろうか、などとムキになってしまいそうだ。
「それにさ、蒼生を季節で例えたら春なんだろ?」
「ああ、じゃあそうしよう」
「早ぇな!」
がくんと健太は膝を折る。一度不満げにしたのはなんだったのだろうと疑問が湧くが、あっという間にそれは頭の中からかき消えていった。そうだった。本当に、どんなに無茶なことを言っても蒼生を引き合いに出せば一発で納得するのが冬矢という人間なのだ。
その蒼生が、健太を追ってひょいとしゃがむ。
「そしたら健ちゃんもそういうふうに決める? 名前の何かをちょっとずらすの」
「んー。……あ、したら、むしろそのまんま夏にするのはどうかな。だって、あいつが春なら、オレと蒼生は一緒の夏生まれだしぃ」
「結局、基準は僕?」
目の前で呆れた顔をする蒼生に、可愛いなあ、とでれでれしながらその両手を取る。
「せっかく自分で名前決めるんなら、好きな人のイメージ貰いたいもん。だめ?」
「う……。だめ、じゃ、ないけど……なんかちょっと恥ずかしい……」
ほんのり頬を染め、蒼生が目を背ける。思わず健太は蒼生に飛びついた。
「かわいー!!」
「わ、ちょっ……」
ふたりはバランスを崩してどさりとラグの上に倒れ込む。小さく笑って、冬矢は健太の下敷きになった蒼生を背中側から引きずり出し、そのまま蒼生を抱き締めた。
「大丈夫?」
「う、うん」
「よかった。……ところで健太。おまえのその案通りで行くと、俺とおまえがセットのようなイメージを持たれないか?」
「……あ、そっか。んー……。蒼生はどう思う?」
「僕?」
「包み隠さない正直なところで教えて」
蒼生は何度とも知れない「うーん」をもう一度呟く。
「僕は……。健ちゃんと冬矢って、僕の両側にいてくれるから、僕を挟んで右と左ーっていうイメージがあって。そういう意味のセットなら嬉しいなって思う、かな……。でも、それって僕が中心みたいな自分勝手な感じと、ふたりを僕が独占してるみたいな感じがして、いいのかなーって思う気持ちもある……」
「何言ってんだ、中心は蒼生だよ。ってか蒼生が中心にいてくんなきゃ困る!」
「っえ」
「独占してもらおうじゃないか。俺たちは蒼生のものだよ」
「え、と」
食い気味に詰め寄る健太と冬矢を交互に見つめ、蒼生は赤い頬ごと顔を両手で覆った。冬矢は、端正な顔で健太に向かって微笑みかける。
「そういうことで、よろしく頼むよ“ナツ”くん」
「だから早ぇよ納得が。……はーい、“ハル”くん」
やけに芝居がかったやりとりを、蒼生は指の隙間からきょとんと眺めていた。
ちりんちりん、と優しいベルの音がする。途端に店内のふんわりと暖かい空気が頬を撫でた。
「こんばんは」
声をかけながら飴色のドアを抜ける。カウンターの中にひとりで立っていたマスターが、3人の姿ににこりと笑った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、今日はカウンターにしますか、それともソファ席で? お好きな場所を選べますよ」
言われて見渡すと、まだ客の姿はない。なるべく人に囲まれずにいたかったので、開店時間を少し過ぎたあたりを目指してきたのが良かったらしい。
「では、端のソファ席に座らせてもらっていいですか。今日はこの子のお祝いなので、向かい合って座りたいんです」
「おや、のんちゃんの。お誕生日はたしか夏でしたよね」
「あ、はい。よく覚えてくださってますね」
「常連さんのことですから」
マスターはにこにこしながらメニューを取る。それを受け取りながら、健太も満面の笑顔だ。
「この子の書いた論文が、賞取ったんです。それで、あっ……えと、のんがここでお祝いしたいって言うんで」
ふたりに向け、危ないところだったと袖で額を拭う仕草を見せる健太に、蒼生と冬矢は目を合わせて笑う。それに気が付いているのかどうか、マスターの表情は変わらない。
「そうですか、それはそれはおめでとうございます。そんな素敵なお祝いの席に、この店を選んでくださって嬉しいです。では、景気よくどんどん注文してくださいね」
「あはは、はい」
どうぞ、と指し示され、3人は奥の壁際に置かれたソファ席に向かう。4人掛けの席だが、ひとりぶんが大きく計算されているのでかなり広い。座る場所は公平に、健太と冬矢がじゃんけんをした。勝った冬矢が今日は蒼生の隣だ。
「何頼む?」
健太が丁寧な説明書きが書かれたメニューを広げる。基本的なカクテルと、本日の特別メニューなどが書かれている。アルコールを入れるつもりだったから、軽く食事はしてきた。だが、健太が見ているのはフードメニューだ。
「えっ、ナツくん、まだごはん食べるの?」
「ちょっと歩いたから消化しちゃったんだよ」
「マスターひとりに複雑な注文をお願いするのは悪いだろう」
そこに、マスターがカウンターから身を乗り出す。
「ごめんなさい、聞こえちゃってます。すぐにバイトくんが来ますし、対応できますよ」
「やった、ありがとうございます!」
「すみません。……それじゃあ、頼むものを決めようか」
しばらくすると、注文した品物がマスターの手によってテーブルに並べられる。細長いグラスには、白とピンクのグラデーション、澄んだ緑色、琥珀色の3種類の飲み物が注がれていた。お祝いに合う爽やかなカクテルをと頼んだのだが、それに加えて3人の好みに仕上げてくれたらしい。綺麗な色合いに蒼生は見惚れていたが、平たい皿が2皿置かれると、そちらのほうにも目を輝かせる。どうやら、チーズの盛り合わせとフルーツの生ハム巻きにテンションが上がったようだ。
「わ、メロンとリンゴとイチゴだ!」
「ふふふ、のんちゃんはイチゴ好きでしたもんね。ナツくんのパスタは後から持ってきますね」
「はい、お願いします!」
蒼生はぱたぱたと冬矢の膝を叩く。
「すごいね、ハルくん! よく知らないけど、大人のお祝いって感じがするね」
冬矢が目を和ませる。健太は可愛さを噛みしめながら、自分が隣にいなかったことを悔しがる。それを得意げに横目で見ながら、冬矢は緑色の液体が入ったグラスを手にした。
「さ、乾杯しよう」
うん、と頷き、蒼生がグラデーションのグラスを取る。気を取り直した健太が持ったのは、琥珀色のグラスだ。
「おめでとう」
「おめでとう!」
「ふふ、……ありがとう」
そっと、グラスを小さく掲げる。柔らかく暖かい色の明かりに照らされ、グラスの端がきらりと光るのを蒼生は目を細めて眺めた。グラスに口を付けると、まず甘い香りで満たされる。それから、微かな酸味と喉に熱いアルコールの感覚。口の中に残るのは、爽やかなレモンの香りだ。飲んだ瞬間と喉に消えていった後の味の差が楽しくて、何度もグラスを傾ける。
「うーん、おいしい」
「なあ、このオレンジのチーズも美味しいよ」
「え、もう食べてるの? いいな、僕も」
「じゃあクラッカーでクリームチーズをサンドしてあげよう」
「あ、オレもオレンジのやつで作る! オレのも食べてね!」
「えへへ、至れり尽くせりだ」
「そりゃあお祝いだもの」
そうこうしているうちに、バーには客が増えてきた。ひとつ離れたソファ席にカップルが座り、カウンターには人待ち顔の客が座る。それに対応するのは、落ち着いた雰囲気のバーテンダーだ。初めて見る顔だが、彼がマスターの言っていたバイトだろう。人は増えたものの、人目を気にせずいつも通りに甘えていられるので、蒼生はこの店が好きだった。
スタッフが増え、ようやく手の空いたらしいマスターがトレーを持ってやってきた。
「おまたせしました」
健太の注文したトマトソースのパスタがテーブルに載る。食欲をそそるつんとした爽やかな香りが漂ってきて、健太だけでなく蒼生も思わず身を乗り出した。と、その蒼生の目の前に、ことんと1枚の皿が置かれる。こちらは、とても甘い香り。分厚い3枚のパンケーキの上にたっぷりと生クリームが盛られ、たくさんのイチゴで飾られた上からチョコレートソースが綺麗な円を描いている。
「……えっ?」
「これはうちの店からのお祝いです。ちゃんとしたケーキじゃなくて申し訳ないのですが、気持ちだけでも。おめでとうございます」
「あっ、わぁ……。ありがとうございます!」
「のんちゃん、どうぞごゆっくり。ハルくんとナツくんも、心ゆくまでお祝いしてあげてくださいね」
「はい!」
「本当にありがとうございます」
蒼生は目をぱちくりさせながら、背の高いパンケーキをじぃっと見つめる。健太と冬矢は、マスターの心遣いに感謝しつつ、驚いて幼い顔を覗かせる蒼生の可愛さを堪能する。冬矢がそっと蒼生の耳元に唇を寄せた。
「よかったね、蒼生」
「う、うん」
その名前で呼ぶと、ようやくじわじわと実感が湧いてきたらしい。表情がほころんでいくのが、また可愛かった。
「えへ。美味しい」
「後でオレにも味見させてね」
「もちろん」
「じゃあ、俺は先に」
そこに、ちりんちりーん、と入り口のベルが軽やかに鳴る。
「こんばんはぁ!」
同時に、元気のいい声が聞こえてきた。ほとんど間を置かず、明るい金髪の小柄な姿が3人の目に入った。
「……あ、3人とも。久々だ!」
「こんばんは、ミチさん」
ミチは、コートを脱ぎながらにこにこと近寄ってくる。彼はこの店の常連で蒼生の友人だが、健太と冬矢のことも友達だと思っているらしい。健太はそれを素直に受け止めているが、人付き合いを好まない冬矢はわずかに距離を取っている。
「珍しいね、今日はカウンターじゃなくてそっちなんだ」
「うん、今日はのんのお祝いなので!」
「えっ、めでたいこと? あー、だからそんなすごいパンケーキ食べてんだ! なんか知らないけど、オレもご一緒していい?」
まったく悪気のないセリフに、冬矢が目だけ笑わない笑顔で一言。
「邪魔にならないのでしたら、どうぞ」
健太は「うわっ」と思う。明らかに邪魔するな、という態度だ。だが、それは明るく人懐こすぎる性格のミチには通じない。
「あはは、ハルってば目が邪魔って言ってんじゃん。ねえマスター、オレ、今日ここに座っていい?」
「のんちゃんたちの邪魔しちゃだめでしょ」
「大丈夫大丈夫。ね! それじゃお邪魔しまぁす」
ミチは何の遠慮もなく、ぽすんと健太の隣に座った。健太はちら、と冬矢を見る。その視線の意味を受け取った冬矢は、仕方なさそうに小さく息を吐いた。
「お邪魔されます。でも、このケーキはこの子のものですから、分けませんよ」
「さすがにそれはしないって。君らとあーんってやるんだろ? それを横から奪うような野暮な真似はしませんって」
そしてくるりとカウンターの方を向く。
「マスター! オレもパンケーキ食べるー。それからジントニックひとつー」
「はい」
マスターもしょうがないな、という顔で笑う。その顔を見て、冬矢も同じような顔をした。この奔放な性格相手には、つい振り回されてしまう。そのせいか、冬矢も普段は他人に決して見せない素の表情をわずかに零してしまうようだ。
「この前、のんちゃんはハルと来てたから、ナツはもっと久し振り~」
「お久し振りです! お元気でしたか……って、元気そうですね」
「ちょーっと忙しかったけど、元気は元気だよ! 3人も、相変わらずラブラブ?」
「はい!」
健太と蒼生が同時に答えると、ミチは満足そうに頷いた。
「そりゃいいことだ。……んで? のんちゃんのお祝いってなに?」
「のんの書いた論文が、大学内で教授に選ばれて、表彰されることになったんですよ」
「へー! すげえ。オレ、そういう賞とかには全然縁がなかったから知らないけど、すごいことなんだよね。おめでとう!」
「ありがとうございます」
蒼生がにっこり笑う。
「優秀な友達がいて、オレも鼻が高いわー。あ、そだ、いいもんあるよ!」
ミチはそう言うと、ジャケットの胸元に手を差し入れる。すぐに抜き出されたその手には、少し皺の入った白い封筒があった。それをぽんと蒼生の前に置く。
「これ、オレから。のんちゃんへのお祝い~」
3人は驚いて封筒に目を落とす。特賞、と書かれた封筒だ。よく見れば、駅の向こう側にある商業ビルの名前も記されている。
「えっ、ミチさん、これ」
「開けてみて!」
促され、蒼生はそっとその封筒の蓋を開けた。中にはフルカラーで印刷された厚めのチケットのような紙が入っている。取り出して見てみると、それは有名な温泉地の名前と豪華な建物が印刷されたカードだった。
「温泉の、ペア招待券……?」
「そー。コート買った時に抽選券貰ったからやってみたら、特賞当てちゃって。うわー彼氏と行こー! って思ったんだけど、オレ、繁忙期で休めない時期なんだよね。そんで彼氏は彼氏で、研修だかなんだかで出張が決まっちゃって、その準備で休日も丸つぶれ。だから1泊2日の予定さえたてらんないの。可哀想でしょ。でも、無駄にするのは勿体ないな~って思ってたとこに、この、のんちゃんのおめでたい話ってわけさ」
どうやら有名な旅館の宿泊券らしい。蒼生は慌てて首を振る。
「でも」
「こういうのってタイミングだと思うんだよ。ホント、せっかくだから、貰って。あ、人数のこと心配してる? ほら、裏っ側に人数はご相談くださいって書いてあるから大丈夫じゃね?」
「そんな、だって、高級旅館じゃないですか」
「……ん~。のんちゃんって、ホント謙虚だよね。オレがいいって言ってんだからいいのに。……よし、わかった。じゃ、交換条件2つつける! それならいいよね?」
「えっ」
「オレ、彼氏と一緒に暮らしてるわけじゃねえからさ、1泊2日まるまる一緒っていいな~と思うわけ。だから、行ってきた感を味わえるような素敵なお土産を買ってくること! ね?」
蒼生は、手元のチケットを見て、ミチを見る。ミチはにこにこと蒼生を見ていた。戸惑って健太と冬矢を見る。健太は笑って頷いた。そして冬矢も、少し困ったようにしながらも、笑ってくれた。なるほど。これは、受け取ってもいいものらしい。
「……ありがとうございます。お土産、頑張って探してきますね」
「やった! オレね~、温泉まんじゅう食べたい!」
「あはは。はい」
蒼生の答えに、ミチはわかりやすく胸を撫で下ろした。どうやら、譲り先が見つかって本当に喜んでいるらしい。それがなんとなく伝わってきたので、蒼生は安心したようにふうっと息を吐いた。
冬矢がすっと体を前に出す。
「ところで、もう1つの交換条件とはなんですか?」
そういえば、と蒼生と健太がミチに目線をやる。ミチは全員の視線が集まっていることを確認すると、ぴっと人差し指を立てた。
「いつか、予定合わせて一緒に旅行しよ。実はさ、オレ、旅行Wデートってやつ、一度やってみたかったんだ!」
へえ、と健太が目を見開く。
「Wデート? 楽しそう!」
「でしょ!」
蒼生が嬉しそうに笑う。
「僕、友達同士での旅行ってしたことないです」
「じゃ、きっと楽しいよ!」
ひとり、冬矢だけが首を傾げる。
「うちの子におかしな事しようと思っていませんか」
「ない、ない! 純粋に楽しいことがしたいだけ!」
いくらミチに裏がないとわかっていても、冬矢にとって不安材料がなくなるわけではない。だが、蒼生はその提案に喜んでいるようだ。その笑顔を見て、ふっと息を吐く。蒼生が嬉しいというならば、それに乗ってもいいのかもしれない。
「ハルくん、ナツくん、帰ったら旅館に連絡してみようね」
嬉しそうに笑う蒼生。
健太と冬矢は、目を合わせて頷く。そうだ、きっかけは何にせよ、温泉旅館への切符を手に入れたのだ。
| 1 / 1 |
コメント
ログインするとコメントを投稿できます
あまり長いコメントを考えずひとこと投稿だけでも大丈夫です。
コメントは作品投稿者とあなたにしか表示されないため、お気軽に投稿頂ければ幸いです。
この作品に関連のあるpictSQUAREのイベント
-
2026年06月14日 00:00〜23:50受付中オールジャンル複数人カプ限定!!!!!!!!!!many many lovers!!!!!!!!!!一次創作 二次創作 複数人カップリングサークル参加受付期間6 / 100sp
01月17日 00:00 〜 06月13日 23:00
2026年05月30日 12:00〜翌11:50太ったおじさんオンリー2026夏オリジナル 一次創作 おじさん デブ デブオヤジ ケモノ デブケモ 同性愛サークル参加受付期間26 / 50sp
02月01日 00:00 〜 04月30日 23:50

