高原 風音

ふんわりいちゃ甘な創作BL小説をメインで活動しています!
基本的にはハピエン厨というより、ハッピーに始まりハッピーに進んでハッピーに終わる、一言で言うと“始終ハッピー主義”。
主にPixivで作品を発表しており、こちらには順次再掲を行っております。現在執筆中のシリーズは3人組のゆるふわいちゃあまラブ『僕+君→Waltz!』(R-18あり)。完結済みのシリーズには、自由奔放な少年がハッピーエンドを迎えるまでのお話『初恋みたいなキスをして』(R-18)があります。
そのほか、ちまちまと短編BLを書いたりしています。
また、ここでは紹介しませんが、ファンタジー?ふうのシリーズ『碧色の軌跡』(完結済み・恋愛要素なし)やオリジナル短編などもあったりしますので、興味がありましたらぜひ。
二次創作もぼちぼちやっております。

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投稿日:2025年05月03日 16:00    文字数:22,395

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5月3日は冬矢の誕生日!
ということで、ハタチの誕生日のお話です。
冬矢目線で当日と当日に至るまでのあれこれ。

時系列をバラバラに書いているのでわかりづらくて申し訳ないのですが、60こ目『乾杯!』( https://pictbland.net/items/detail/2275171 )の
約2か月半前のお話になります。
年表とかいつか作ろうかな…。

↑初公開時キャプション↑
2023/05/03初公開
https://pictbland.net/users/series/kazanet-tk/%E5%83%95%EF%BC%8B%E5%90%9B%E2%86%92Waltz%EF%BC%81
1 / 1

 一緒に暮らし始めて、1年が過ぎた。まだ慣れないこともあるし、すれ違ってしまうこともある。ただ、俺は、そのぎこちなささえも嬉しく思っていた。それは、俺と蒼生がいっそう近付こうとしているからなのだと思う。離れていた時には蒼生にひとりで思い悩ませていたことも、今なら隣で分かち合うことが出来る。それはとても幸運なことだ。
 蒼生はキッチンで麦茶を注いでいた。氷のからから、という音が心地いい。さっき俺に「冬矢もいる?」と聞いてくれたから、ふたり分用意しているのだろう。蒼生が俺のために立てる物音が耳障りなはずがない。ただただ、愛おしい。
 駄目だな。さっきから本を開いているのに、まったく頭に入ってこない。目の端に映る姿が気になって、どうしてもそちらに意識が行ってしまう。こんなことが蒼生にバレたら、本を読むのが下手だと笑われてしまうかな。そもそも、読書に対する集中力で蒼生に敵うなんて思っていないけれど。
 蒼生の軽やかな足音が、キッチンから出てくる。それが俺の座るソファに近付いてくるのを聞くと、自然と胸が高鳴る。それに知らないふりをするのは、なかなかに骨が折れた。かたん、とローテーブルにコップが置かれる音。それで初めて気が付いたように、顔を上げる。
「ありがとう」
 俺の言葉で、笑顔の蒼生が、いっそう嬉しそうに口元を緩めた。ああ、ほら、もうこんなに可愛い。
「どういたしまして。……それ、面白い?」
「読み方によってはね」
 やっぱり気になるだろうね。蒼生は上から覗き込むように、俺の持っていた本の文字を目で追う。俺は見やすいように大きくページを開いて見せた。
「……なるほど。基礎知識があってからなら面白く読めるんだろうなあ」
 ふ、ふふ。そうだね、専門書だから。さすがの蒼生でも、ジャンル違いだと少し難しいかな。でも、そんな表現をするのが蒼生らしい。
 蒼生は自分のコップもテーブルに置く。……うん? 手が、一瞬止まったな。視線がちらりと床を撫でる。何か言いたいことがあるみたいだ。それを口にするタイミングを探っているんだろう。だとしたら、自分で話し始めるのを待ったほうがいいな。迷った末に飲み込むようなら聞き出すけれど。
 動きが止まっていたのはさほど長い時間ではない。蒼生は親指で人差し指の脇を軽く擦ってから、俺の隣にそろりと座った。ぴたりと腕が密着する距離だ。だから、そわそわしているのが袖越しにはっきり伝わってくる。
 蒼生が寄り添う位置取りをしたがるのは、どうやら無意識らしい。蒼生はくっつくのが好きだからな。他人に触れるのも触れられるのも苦手なのに、俺たちにだけはこんなふうに体温を感じさせてくれる。それは世界の中で俺たちだけが蒼生の“特別”なのだと、とてつもない優越感を与えてくれる。
 そしてそれは、俺にとっても同じだ。この距離感が心地いいのは、蒼生に対してだけだ。蒼生でなければ、こんな温かい気持ちにはなれない。
「……あのね、冬矢」
「うん」
 麦茶を一口飲んでから、蒼生が切り出す。先を促す必要はない。ゆっくりでいい。せっかくの蒼生とのふたりきりの時間だ、思う存分堪能したい。
「えっと、その……5月のお休みってご両親のところに行くの?」
 言いたいことはすぐにわかった。ああ、そういうことか。俺の誕生日の話だな。何かしたいと考えているが、俺がいなくては仕方ないから、まずはスケジュールの確認をしようとしているんだな。
「いや。両親は仕事だから、行く予定はない。むしろ今は祝日のほうが忙しいらしいからね。その代わり、月末の休みに2人でこっちに来るそうだ。その時に食事に行こうと誘われている。だから、蒼生とずっといるよ」
「そ、そっか」
 蒼生は複雑な顔をする。可愛いな。なるほど、今度の誕生日で俺はハタチになるわけで、普段より大切な記念日だと蒼生は認識しているらしい。その日に両親と過ごせないことを、俺が気にしていると思っているのかな。だから、喜んでいいのか悩んでいるんだろう。可愛い。
 たしかに、両親にとっても特別な誕生日なのだろうとは思う。去年はプレゼントだけ送られてきたが、今年はちゃんと会いたいと言ってきた。つまり、そういうことだ。ただ、その気持ちは当然無碍には出来ないが、俺は蒼生と過ごしたい。誰よりも蒼生に祝って貰いたかった。
 ふらっと蒼生が立ち上がる。目的がある感じではない。本棚をぼんやりと眺めて、それからカウンターの上の卓上カレンダーに目をやった。その横顔は、どこか上の空だ。
 うん。蒼生が何を考えているのか、手に取るようにわかる。俺の前ではすっかり油断して、表情を繕えなくなっているからね。ほんのり唇を尖らせているのは、俺の誕生日に何をしようか悩んでいる、といったところだろう。簡単には決められないはずだ、蒼生は優柔不断だから。そして、その優柔不断は、蒼生の優しさそのものでもある。俺に絶対喜んでほしい、俺が不満に思うことをしたくない、少しでも嫌な思いをさせたくない。相手の考えをひとつひとつ先読みして悩んでしまう。だから行き詰まってしまうんだ。俺は蒼生といられれば、それでいいんだけどね。
 俺のことで悩んでいる蒼生は、とても愛しい。今、蒼生の頭の中は、俺のことでいっぱいなはずだから。それはとても嬉しいのだけれども、ずっと悩ませるのも申し訳ない。
「蒼生。こっちに来て」
「……っえ、うん」
 呼びかけると、ぱっとこちらを見て、わずかに頬を上げる。俺は本をテーブルに置いて、ぽん、と膝を叩いた。蒼生は目を丸くする。そして、すぐにふわっと笑う。スリッパを脱いで、脚の上に向き合うように座る仕草は、俺と健太だけが見ることが出来る最高の特権だ。
「重くない?」
「重くないよ」
 このやりとりも、何度繰り返すんだろう。俺が否定するのを知っているのに、それでも不安になってしまうんだな。大丈夫、そのたびにちゃんと答えるから。
「ねえ、蒼生。ひとつお願いがあるんだけど」
「なに?」
「俺の誕生日、一緒にピクニックに行ってほしいんだ」
「ピクニック?」
 蒼生はぱちぱちと目を瞬かせる。心底意外そうな顔をするね。そうだろう、俺は屋外で食事をするのが苦手だ。飲食店のテラス席くらいならいいが、たとえば大学の友人にバーベキューに誘われても考える間もなく断っているくらい苦手にしている。それでもしつこく誘ってくるのだから、好きな奴は好きなのだろう。いい加減俺が断るということを覚えてほしい。……少々脱線したな。ちなみに蒼生はその経緯を知っているし、蒼生自身も野外の食事が得意ではないから、その驚きもわかる。
 ただ、それも蒼生と一緒ならまったく苦ではない。そのことだって知っているはずだよね?
「外に出るにはいい季節だしね。蒼生の手作り弁当でピクニックがしたいと思っているんだけど、どうかな」
 わかりやすいように俺の願望をはっきり口にすると、蒼生はまだ少し不思議そうな顔で頷いた。
「うん。頑張る。……けど、ピクニックって小さい子がするイメージだったから、ちょっとびっくりした。大人になるお祝いの日なのに……それでいいの?」
 ああ、なるほど。蒼生の戸惑いはそっちだったか。たしかに、社会的に「大人」というカテゴリに進む日だ。蒼生の脳内には、幼い頃に家族と行ったピクニックの光景が浮かんでいるのだろう。その中には、当然、幼い健太もいる。俺が塗り替えたいのはそれだった。
「敢えてそういうことをしたいんだよ。ほら、俺と蒼生は、出会った時には既に中学生だっただろう。……小さい頃に一緒に遊んだ思い出がないから」
「あ、そっか」
 似たようなことは、学校行事としてなら社会科見学と称された遠足で蒼生と一緒に経験している。だが中学時代の蒼生はまだ恋人ではなかったし、いつだって他に余計な奴らがいた。男子は親切心で話しかけてくる程度なのでマシだったが、蒼生に色目を使う女子の存在にはいつも苛ついていた。当然、全員というわけではないが、そう考える人間がグループに1人いるだけで、蒼生の疲労度がぐんと上がってしまう。ああいった行事で、なぜ学校側は男女を一緒にしたがるのだろう。本当に勘弁してほしいと何度思ったことか。
 俺の思い出すべてを、蒼生と共に在る記憶にしたい。そして、蒼生が思い出すすべての光景の中に俺がいるようにしたい。そのためには、新たな思い出で上書きをするしかない。
 膝の上の蒼生は、また少し遠くを見ている。天井に何かを探すような目線。
「もちろん、献立の相談は乗るからね」
 そう伝えると、照れたように笑う。綺麗だ。
「……うん。よろしくお願いします」
「3人分だから大変だと思うけど、楽しみにしているよ」
「えへへ。3人分だもんね。うん」
 やっぱり、手作り弁当の中身で悩んでいたのか。俺の言葉を聞いた蒼生は、さらに嬉しそうに「ふふっ」と声を漏らす。そして、ごそっと体を動かすと、俺の肩に額を乗せた。……可愛い。あまりに可愛くて、心臓が跳ねたのがはっきりわかる。可愛い、可愛い、俺の蒼生。そっと背中に手を回せば、安心したような吐息が聞こえる。
 もう、蒼生と暮らす前、どうやって日常を過ごしてきたかわからない。この愛おしい重さを、優しい温度を、胸躍る呼吸の音を感じずに、俺はなぜ生きてこられたのだろう。
 ああ、そうだ。もうひとつ蒼生に伝えなければならないことがある。こちらのほうは、ひどく言いだしづらいことだったけれど、黙っているわけにもいかないだろう。
「蒼生」
「はい」
 わずかに首を傾げるように蒼生が俺を見た。唇が近い。答えた言葉の形に開いた唇の隙間に、舌を潜り込ませたくなる気持ちを抑える。
「あのね。当日の夜、お酒を飲んでみようと思っているんだ」
「えっ」
 声を上げた蒼生が、同時に顔を上げる。目をまん丸くして、信じられないことを聞いたみたいな顔だ。
「そういう反応になるよね」
「だ、だって……。待っててくれないの? 2か月半もしたら、僕だって飲めるようになるんだよ? 僕、一緒がいいって思ってて……」
 目の前の顔は、あっという間に泣くのを我慢しているように歪んだ。胸が痛む。ごめん。蒼生の気持ちはわかる。わかるけれど。
 おそらく、両親は俺と飲みたがるだろう。特に父さんは、はっきりとは言わないが、それを楽しみにしているような節がある。だからどちらにしても、初めての飲酒は蒼生の誕生日まで待つことは出来ないはずだ。それに、それ以上にもっと大切な理由がある。
「蒼生。俺の話を聞いてくれる?」
「……聞く」
 じっと俺の目を見てくる蒼生に、目線をまっすぐ合わせる。
「仮に、蒼生と健太がハタチになるまで待って、3人で初めてお酒を飲もうとした場合のことを考えてほしい。その場に他の人はいてほしくないよね? だから、家の中には3人だ。でも、もしかすると、俺たち全員がまったくお酒が飲めない体質かもしれない。3人きりで、全員が倒れてしまったらどうする?」
「や、やだ。怖い」
「うん。そうだね。だから、まずは最初に誕生日を迎える俺が、ある程度飲めるかどうかを確かめる。俺の具合が悪くなったとしても、蒼生がいてくれれば大丈夫だよね」
「それもやだ……」
「どちらも、もしもの話だよ。でも、万が一ということがあるだろう?」
 それには蒼生は声を出さず、小さく頷いただけだった。俺だって、蒼生を怖がらせたいわけじゃない。けれど、こればかりは試してみないとわからないからな。
 ぽんぽん、と蒼生の背を叩く。
「最初は、蒼生と一緒がいい。それは俺もまったく同じ気持ちだ。だからせめて、外じゃなくて、家がいい。蒼生と一緒にいる時がいい。どうなってしまうかわからないから、そんな姿は表では見せられないしね」
 くすっと笑う声。
「……冬矢の酔っ払った姿なんて想像できない」
「わからないよ? ひどく絡むかもしれない。暴れ出すかもしれないよ」
「ふ、ふふ。暴れるの? 冬矢が?」
「そう」
 俺は蒼生の背に回した手をそのままに、ソファにその体を横たえる。蒼生の表情がふわっと和らいだ。そのまま体を動かして、覆い被さるように抱き締める。
「暴れて、こんなふうに襲ってしまうかもね。そうしたらどうする?」
「うーん」
 すいっと手が動く。両腕が俺の首に回ってきたと思うと、ぐっと力を入れて頭を上げ、柔らかなキスをくれる。……蒼生。ほんのり頬が染まって、……とろりとした眼差し。
「こうする、かな」
「そんな可愛いことしたら、本当にしちゃうよ?」
「いいよ。僕、ふたりとするの好きだから。欲しいって思ってくれたら嬉しいもん。ふたりのしたいこと、できるだけ応えたいなって思ってるんだ」
 蒼生は、少しだけ間をあけて、「だから」と言った。至近距離の表情は、拗ねた幼い顔。
「……だから、冬矢の言うこと、聞いたげる。さみしいけど、先にお酒飲むの、わかった」
 口調まで小さな子のようになっているのは、納得しきれていないからだろうな。
「ごめんね、蒼生」
「ううん……謝らないで。謝るとしたら僕のほう。わがまま言ってごめん。わかってるんだ、冬矢は僕のことが大事だからそう言ってくれてるんだって」
 それが伝わっているのは嬉しい。俺は蒼生のことが何よりも大切だ。だからこそ譲れないことがある。蒼生の安全は絶対に守らなければならないものだから。
 けれど、寂しい思いをさせたのには変わりない。そんなふうに思わせたくはないんだが、難しいな。
 抱き締める腕に力を込める。
「ねえ、蒼生。昼のお弁当を頼んだけれど、夕飯も蒼生に任せていいかな」
「へ? もちろん、そのつもりでいたけど」
「嬉しいな。朝から晩まで、1日中蒼生に甘えてしまえるなんて……。とても贅沢だ」
「……んっと、……うん」
 くるくる変わる表情は、見ていてとてもほっとする。だからわざと蒼生の感情を揺さぶっているということではまったくないのだけれど、蒼生が素直な反応を返してくれるのはどうしようもなく嬉しく思えてしまう。
 今、蒼生は、俺が頼ったことを喜んでくれている。俺も、それが嬉しい。
 大好きな蒼生。
 本当に、このまま……。
「ただいまー」
 だろうな、そうだと思っていた。少し前に玄関で物音がしていたし、事前に連絡してきた時間通りだ。
「おかえりなさい、健ちゃん」
 俺の下から、蒼生はひらひらと手を振る。戻って来たばかりの健太は、俺たちの体勢を見ると、普段より大きな歩幅で近付いてきた。
「ちょ……ズルい! オレも蒼生といちゃいちゃしたい!」
 ああ、こいつ、蒼生の声に少し元気がないことに気付いたな。いや、気付いたというか、勘付いたというか。健太にはぼんやりしたところがあるから、蒼生の細かいサインを見逃すことが多々ある。ただ、それでも、健太が取る行動は最適であることが多い。つまり、健太は生まれた時から今までの蒼生の情報を蓄積している。蒼生がどんな言葉で喜んで、どんな態度で悲しむかを間近で見てきたからだ。その情報をもとに、蒼生がどうしてほしいのかを無意識に察知して、そのまま行動に移しているのだろう。それは俺には出来ないことだった。
 健太が蒼生の近くに跪き、額に唇を寄せる。
「んー。会いたかったよ、蒼生」
「ふふっ、くすぐったい」
 仕方ない。悔しいが、健太の力を借りるか。
 俺は蒼生を抱き締めたまま体を起こす。少々しんどい体勢だ。慌てたようにぱっと動いた健太が、蒼生が倒れないように支えるべく、その背中とソファの間に出来た隙間に滑り込んだ。それを確認して、改めて蒼生のほうに体重をかける。
「う、わ、倒れちゃうよ」
「後ろに健太がいるから大丈夫だろ」
「ってか蒼生はいいけど、なんでおまえまでのしかかってくんだよ」
 健太は文句を言うが、口調は笑っている。当然だ、蒼生と密着しているのだから。
 間に挟まれた蒼生も「苦しい」と呟いてにこにこと笑う。蒼生は俺と健太に挟まれるのが好きだ。嬉しそうに健太の胸元に顔を擦り寄せ、俺の首に縋り付く。安心しきっていて、とても可愛らしい。
 出会った頃、この笑顔を自分だけのものにしようと、しなければならないと思っていたことを思い出す。そのまま俺のものにしてもよかったのだろうが、こうして倍の幸せを感じている姿をこんなに近くで見つめられるのだから、告白の日の判断は間違っていなかったのだと思う。
「んー、で? ふたりでなんの話してたの?」
 へえ。この流れであまり聞かないことを、珍しく健太が聞いてきた。やはり、蒼生の声色が違っていたことに不安を感じたのだろう。
「あのね、冬矢のお誕生日にね、ピクニックに行こうって話してたの」
「へえ?」
 顔を健太のほうに向けた蒼生の声は、もう弾んでいる。それに安心したのか、健太もほっと息を吐いて、蒼生の髪に口づけた。
「いいね、可愛いじゃん。冬矢って時々ちびっこみたいなこと言いだすよな」
 ……ふーん。
「うん。僕、冬矢のそういうとこ、好き」
 そうか。
 健太に一言言ってやろうかと思ったが、蒼生に免じて許そう。
「俺も大好きだよ」
「ふ、ふふ、嬉しい」
 ああ、愛しいな。可愛い。好き、という気持ちが尽きることがない。溢れて溢れて、溺れそうだ。
「そうだ。ピクニックってことはさ、弁当作るの? 蒼生が?」
「任されたよ!」
「やった! めっちゃくっちゃ楽しみ! おにぎりにしよ、おにぎり」
「冬矢の誕生日なんだから、冬矢のリクエスト最優先だからね」
 健太も無邪気なものだな。俺の誕生日に蒼生とピクニックに行く、という話で、自分もそこに含まれていると信じて全く疑わない。俺が健太を排除するという思考がもはやないのだろう。こういう奴だから、“蒼生の彼氏同士”という妙な関係でも問題なくやっていけるわけだ。
 と、蒼生が俺たちの間でもぞもぞと動く。
「ん? どした?」
「ちょ、ちょっと照れてきたから、いったんタイムでお願いします……」
「え、今ぁ?」
 健太が驚いた声を上げなかったら、俺が先に蒼生の顔を覗き込んでいたはずだ。蒼生はほんのり赤い頬で困ったように健太を見て、俺たちから逃げようとしている。
「蒼生の照れるタイミングってわからないね」
 そこも可愛いんだけど、と思いながら告げると、蒼生がちらりと俺を見る。
「ぼ、僕もわかんない」
 ……ふふ。わからないか。そうか。
「ヤバい。そんなこと言われたら可愛すぎて余計に離せないんだけど!」
「俺も同感だ。蒼生にはこのままでいてもらおう」
「え、えぇ……。どうしよう……」
 観念したのか、蒼生はふっと体の力を抜いた。なるほど。照れてはいるが、俺たちの間にいるのが嫌なわけではないからな。それならば、遠慮なくこのまま抱き締めていよう。


 前日は早めに寝ようと決め、俺たちは日付が変わるより少し早くベッドに入った。普段なら比較的すぐに眠ってしまうはずなのに、蒼生は珍しく寝付けないようだ。常夜灯の明かりの中で、時折こっそり時計に目をやっているのが目に入ってくる。ふふ。蒼生が早起きするからもう寝ようとしているのに、当の蒼生がそわそわしているんだからね。その仕草が可愛らしくて、ばれないように気を付けながらじっと見つめる。
 やがて、時計の針は12時を過ぎる。ぴくっと肩を揺らした蒼生が、そっと俺の様子を窺っているのが気配で分かった。
「……どうした? 眠れない?」
 小声でそっと話しかけると、焦った顔をする。
「あ、ごめん、起こしちゃって」
「ううん、まだ寝てないから大丈夫だよ」
「よかった。……お誕生日おめでとう」
 普段より少しだけ高い声。嬉しそうににこにこと告げてくるのが可愛い。俺のことなのに、こんなに嬉しそうな顔をして。いや、俺のことだから、なんだろう。
「そうか、日付が変わったのか。ありがとう、蒼生」
 当日になったことを知らなかったふりをする。そうでなければ、ずっと蒼生を見ていたことを知られてしまうから。俺がそのために敢えて起きていたことがわかったら、君は気にするだろうからね。手を伸ばして髪を撫でれば、なんの抵抗もなく、うっとりと目を細める。
 何度繰り返しても、この日に蒼生がいてくれてよかったと心から思う。ただの行事だった誕生日を、特別な日に変えてくれたのは、他でもない蒼生だ。
 蒼生の向こうで、ごそりと物音がする。
「おー。おめでとー」
「ありがとう」
 適当な声だけが飛んでくるのが面白い。蒼生が眠れないでいたから、健太も心配して起きていたのだろう。なんだ、結局全員起きていたのか。それなら少し会話をしても大丈夫だな。
「そうか。今日はなんでも俺の思い通りというわけだな」
「えっ」
 蒼生と健太の声がぴったり重なる。いい反応だ。もちろんすべて思い通りだなんて、そんなわがままを言うつもりはない。少しからかってやりたくなっただけだ。
「それじゃあ蒼生、こっちにおいで。今夜は独り占めさせてもらう」
「あ、う、うん」
「えー。蒼生を独占すんのは別の日ってちゃんと決まってんのにぃ? ま、誕生日当日だからしゃーねえけどさー」
 健太はぶつぶつ文句を言うが、それきりすっぱり黙り込んだ。律儀な奴だからな。
 そもそも、蒼生独占日を別に設定しようと言い出したのは健太だ。俺は誕生日当日には蒼生を独占するのが当然だと思っていたのだが、去年の俺の誕生日に健太が突然「一緒に暮らしていて誕生日を無視するのはおかしい」などと言い出した。それは家族仲が良く交友関係の広い健太らしい発想だ。理解出来ない話ではなかったし、そうすることで蒼生も喜ぶようだったので、俺はその提案を受け入れた。そのかわり、別途で1日蒼生を独り占めする日を指定することにしようと健太とふたりで決めた。そんな決まりなんて作らなくても蒼生とふたりきりになれる時間は取れるのだけれど、そういう面白い決め事があってもいいのだろう。
 さて、蒼生はどうするかな。
「……重かったらどかしてね」
 少し迷っていたようだったのは、それか。少々遠慮がちに、もぞもぞと胸元に潜り込んでくる。俺のところに来てくれた、それが嬉しい。もちろん、来るとは思っていたけれど。……可愛い。可愛い。蒼生。その首が大きく仰のく。可愛い。
「冬矢」
 待ち侘びる唇に、そっとキスを落とす。嬉しそうに俺を見つめる瞳がとても綺麗だ。
「……早く寝るんだろ。おやすみ!」
 やれやれ、向こうのほうから抗議が届いた。
「あっ。そうだよね、おやすみなさい」
「ふふ。おやすみ」
 さすがに健太も痺れを切らしたらしい。申し訳なさそうな蒼生の額にもう一度キスをして、その瞼が落ちたことを確認してから、俺も目を閉じた。

 蒼生を抱き締めている安心感のおかげか、とてもよく眠れた。本当に蒼生は、ときめきも癒やしも与えてくれる、最高の恋人だ。名前を心に浮かべる、たったそれだけで温かい気持ちになる。世界に存在してくれていると思うだけで、愛しさでいっぱいになる。
 その愛しい蒼生が腕の中からすり抜ける気配で目が覚めた。俺の様子を窺い、俺を起こさないようゆっくりと物音を立てないように慎重に寝室を出ていく。優しい子だな。だから眠ったままのふりをする。
 微笑みながら静かに閉めたドアの向こうで、蒼生は健太にばったり会ったらしい。
「あ、おはよう、蒼生」
「おはよ、健ちゃん。今日も走りに行くの?」
「目覚ましがわりにちょっとだけな。すぐ帰ってくるよ」
「気を付けてね」
 そんな小声の会話が聞こえる。わずかに空いた間は、キスの気配。……今すぐに飛び起きて塗り替えてやろうかと思うが、ここは我慢だ。蒼生の残した香りをタオルケットから補給し、そのままベッドに横たわり続ける。
 やがて、健太が出て行ったのがわかる。その後、洗面所から戻ってきた蒼生は、キッチンに入ったようだ。かたん、という小さな音。スリッパの足音が細かく動く。かぱっと炊飯器の開く音。冷蔵庫が開く。食器棚が開く。とんとん、と包丁の音も聞こえてきた。今何をしているのだろう。ひとつひとつ、すべての物音が、幸せそのものだと思う。蒼生の音だ。しかも、俺のお願いに応えてくれる音。手伝いたい気持ちが溢れそうになるけれど、張り切って動く蒼生の邪魔をしたくない。
 こんなに、なにかひとつの存在で心が満たされるようになるなんて、想像もしていなかった。そしてそれがこんなに幸福だということを知らなかった。
「蒼生」
 その音を唇に乗せる。……好きな人の名前を呟くだけで泣きそうな気持ちになるなんて、知らなかったんだよ。蒼生。
 蒼生の立てる物音に全神経を集中させていると、突然、枕元で携帯電話が着信音を鳴らし始めた。咄嗟に手を伸ばし、画面を見る。母さんだ。そうだろうな。ああ、蒼生は絶対気付いてしまっただろう。
「もしもし」
『冬矢、誕生日おめでとう!』
 電気を付けながら電話を取ると、途端に明るい声が響く。この様子だと、ずいぶん早くに起きていたな。俺が起きる時間を見計らって、ずっとうずうずしながら時計を見ていたのだろう。父さんと2人で向かい合って携帯を眺める姿が容易に浮かんだ。
「ありがとう」
『父さんもいるよー』
『おめでとう、冬矢』
「父さんも、ありがとう」
 これは電話をスピーカーにしているんだな。電話を手渡した様子がない。すると、俺の声は向こうの部屋に響いているというわけか。そう考えると恥ずかしいな。
『いやー、あの小さかった冬矢がもうハタチだもんな。時間の過ぎるのは本当に早いよ』
『ねー。ついこの間まで片手で持ち上げられたのに、もう絶対無理だもん』
「それはさすがに言い過ぎじゃないかな」
『そうかなあ。ね、比べたいから後で今の冬矢の写真送って!』
「今月会うんだから、その時でもいいと思うけど」
『せっかくだから今日の!』
「あはは、わかったよ。後で撮った写真送るから」
 蒼生に撮って貰って……ああ、3人の写真でもいいのか。
 電話の向こうで、両親の忍び笑いが聞こえる。
「なに?」
『ああ、ごめん。今の生活がすごく充実してるんだなーって思ったんだ』
『顔は見えないけど、とっても優しい声してるもん』
 ……そうか。俺は、決して“いい息子”ではなかったから……。その自覚はあるし、今となってはひどく申し訳ない思いがある。
 俺はずっと、愛想が悪く自己中心的で碌に返事もせず、素っ気ない態度を取っていた。それに対して自分ではなんの疑問も抱かなかった。それが自分の中で当然だと思っていたからだ。特に、荒れて手当たり次第女性に手を出していた時期には、常に不機嫌だったように思う。家の中に不機嫌な人間がいたら、それだけで生活が暗くなってしまう。一緒に暮らすようになった蒼生がいつも笑っていてくれて、そこでようやく自分の幼すぎる言動に気が付いたのだから、酷い話だ。
 母さんが明るく笑う。
『あー。この瞬間の冬矢の顔、見てみたかったなー。今、すごく、反省してるでしょ。あははっ、そういうの、いいんだってば。今楽しく暮らしてるならそれでいいんだから』
『冬矢。何度だって言うけど、僕たちは冬矢が笑ってくれているだけで幸せなんだよ』
 ……俺もそれを言われるたびに思う。俺はなんて素晴らしい人たちの間に生まれてきたのだろうと。だから尚更、捻くれていた昔の自分が情けなくなるんだけどな。…………。俺は……。
『今日はどうするの? どこかにお出かけ?』
「え、……ああ、3人でピクニックに」
『そうか! そっちは天気いいんだろ? よかったな~』
『楽しんできてね!』
 俺は……。
「うん。……いずれ、ちゃんと、話をするよ」
『ん、わかった』
 優しい2人の声。
『そろそろ切るね。また連絡するから。おめでとうね~』
「わかった。電話、ありがとう」
 通話が切れて、俺は大きく息を吐く。
 ぱたぱたと足音が聞こえてきて、そっとドアが開いた。可愛い顔がひょこっと覗く。胸が押し潰されたようにぎゅっと高鳴る。ふんわり笑う顔が、とても綺麗だ。大好きな蒼生。
「おはよう、冬矢」
「蒼生。おはよう」
 祝いの言葉は誰よりも早く蒼生から貰っているからね。やはり、それがどうしようもなく嬉しかった。
 蒼生はドアの端を一度掴むと、ぱっと手を離し、スリッパを脱ぎ捨て、ベッドに上ってくる。そしてそのまま、ベッドの上に座った体勢の俺に向かって飛び込んで来た。胸元に顔を埋める蒼生からふわりとかすかに香るパンのにおい。……嘘だろ。こんな可愛い現象がこの世界にあっていいのだろうか。
「冬矢。改めて、おめでと」
 顔を上げてにこにこしながら、ぐいっと近付いて俺にキスをくれる。蒼生。
「ありがとう……。本当に嬉しいよ。可愛い可愛い、大好きな蒼生。今日も会えて幸せだ」
「一緒に暮らしてるのに?」
「だから、毎日幸せなんだよ」
 抱き締めて、今度は俺からキスをする。くすぐったそうな表情。俺の手に自分の指を絡ませてくる、その指を撫でると、頬を肩に擦り寄せてきた。本当に可愛いな。
「今の電話、ご両親から?」
「そうだよ」
「素敵だね。きっと一緒に過ごしたかっただろうに、大事なご子息の節目の誕生日を、僕なんかが横取りしちゃって本当に良かっ」
「こら」
 また悪い癖が出てる。俺は蒼生の額に自分の額をくっつけた。ごち、と小さな音。
「いて」
「そうじゃないだろ」
 蒼生ははっと目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをする。
「……そうだね。ごめんなさい。冬矢といさせてくれてありがとうございます、のほうが合ってた」
「うん。それに、蒼生と一緒にいたいと言ったのは俺のほうなんだから。横取りだなんて、そんなこと考えないで」
 俺も蒼生のことは言えないけどな。両親は、本当に俺が穏やかに暮らしていることを喜んでくれている。蒼生と話していて、急に気が付いた。俺に必要だったのは、今までの反省よりも、今とこれからの感謝なんだ。
「大丈夫だよ。今度会う時、両親にはきちんと親孝行してくる」
「はい。……どうしよ、いつもお世話になってますってなにか手土産用意したほうがいいかなあ」
 まだ気にしているのか。それはつまり、きちんと俺の両親のことを考えてくれているということだから、それは嬉しい。けれど、両親は俺が……俺たちの生活が大変だろうと気を揉んで食品や日用品を送ってきてくれているわけだ。だから、変に気を遣わず、学生のうちはそれをありがたく受け取ることが俺たちにとっての孝行なのではないかと思う。俺は蒼生の頭をそっと撫でた。
「それは蒼生が両親と直接会う時が来たらそうして貰おうかな」
「だけど、いつも美味しいもの送っていただいてるし……」
「俺の誕生日を祝ってもらうのに、手土産を持って行ったら、誕生日プレゼントがその場で倍になりそうだな。だからまたの機会にしよう」
「んー……うん」
 それにしても、この会話は、まるで……。ふっ。
「? 冬矢?」
「ううん、なんでもないよ。ところで蒼生、準備は順調?」
「冬矢に前もっていろいろアドバイスもらったから、たぶんなんとか大丈夫だと思うんだけど……」
「そうか、それは楽しみだな。何か手伝うことはあるかな」
「えっと……。朝ご飯にサンドイッチを作ってるんだけど、あったかい紅茶が飲みたい」
 弁当の手伝いはさせてくれないか。おそらく弁当を自分で仕上げたい気持ちが強いんだろう。大丈夫、俺はその邪魔はしないよ。その代わり、丁寧に紅茶をいれてあげよう。蒼生は俺の紅茶が好きだからね。
 間もなく健太も帰ってくるはずだ。そうしたら、3人で朝ご飯にしよう。

 俺のリクエストは昼食を一緒に食べることだけだったけれど、せっかくだからどこかに行きたい。そう思って調べてみると、目的の公園の中に美術館があることがわかった。しかも、特別展で現在展示されているのは、見覚えのある画家のものだった。そういえば、ずいぶん昔に両親に連れて行ってもらった記憶がある。当時は、幼かったせいもあるが、どこのものだかわからない風景の何が面白いのか理解出来なかった。けれど、蒼生とならばつまらないことはないはずだ。
 俺の事情については特に何も告げず、「美術館に行ってみない?」と声をかけると、蒼生はにっこり笑って「行く」と言ってくれた。俺は蒼生がいれば十分なわけで、そういうことにまったく興味がない健太は外にでもいればいいだろう。だが、俺たちが美術館に入ろうとすると、健太も案の定後ろからついてきた。まあ、俺だって絵画にそこまで興味があるわけではないから、本当は健太と一緒なのだけれど。
 展示室の中に足を踏み入れると、小さなものから両手を広げるほどの大きさのものまで、様々な絵画が飾られていた。どうやらテーマごとに纏められているらしく、最初のコーナーは生物を題材にしたもののようだ。
「綺麗だねえ」
 どの絵もじっくり見ていた蒼生がぴたりと長く足を止めたのは、次の部屋に入った正面にある、横に長い大きな絵画の前だ。人の少ない静かな展示室に声が響かないよう、蒼生は小さな声でそう言った。
 この部屋のテーマは「愛」か。その絵には、広い空と広い草原が描かれている。その中にぽつんと建つ小さな家がやけに目立つ。ああ、これはずいぶん大きいなと思ったから、はっきり覚えている。この画家が晩年に過ごした家を描いたものだったはずだ。絵の脇にあるプレートで確認すると、記憶に間違いはなかったようだ。田舎の何もないただ広いだけの風景。これの何が愛なのかと思うが、妻と過ごしたとあるからそういうことなのだろう。
「都会で成功を収めたあと、年老いた妻と2人で移り住んだ家なんだそうだ」
「へえ……。心穏やかに過ごしてたんだね。今まで見てきた絵より、ゆったりした感じがする。日差しがあったかくて、風もふわふわして気持ちよさそう。冬矢も現役引退したらこんなふうに暮らしたい?」
「! そうだね……。静かに暮らすのもいいかもしれない。蒼生と一緒ならばどこだって楽園だよ」
「ふ、ふふ。そっかぁ」
 蒼生はほんのり赤い頬で俺を見て微笑み、また絵に目を移す。
 こんなふうに暮らしたら、か。かつての俺は、解説を聞いて「ふーん」と頷くだけだった。知識を頭に入れて、理解して、それで終わりだった。それでも、蒼生とは話題が続く。その先の話が出来る。何もないつまらない絵だと思っていたのに。蒼生はここに風を感じるんだ。
 やっぱり、蒼生と来て良かった。固まって止まっていた俺の心を動かしてくれたのは蒼生だ。俺の心に風を入れてくれたのも蒼生だ。蒼生となら、この空間に閉じ込められてもいいとさえ思う。
 そこに、健太が小走りでやってくる。
「な、あっちの絵もすごいよ」
 精一杯小さな声でそう言って、蒼生の袖を引っ張った。
 ……そうだな。俺だったら蒼生を引き留めてしまうだろう。それを進めるのはいつも健太だ。こいつがすごい力で引っ張っていくから、俺も前に進んでしまう。認めるのは少し悔しいが、健太に救われているところは俺にもあると思う。
「ほら、これ。すっごい細かいの」
 健太が俺たちに見せたがったのは、点で描かれた女性の肖像画だった。様々な色の点は、遠目に見れば混じって見える。たしか画家の妻の絵だったはずだ。横にあるタイトルを見ると、たしかに『愛しき人』とタイトルがある。
「……あっ。これ、全部、小さな花だ」
「え?」
「ん?」
 なんだって? 蒼生の言葉に、俺と健太はぎりぎりまで絵に近付く。……本当だ。よく見れば、ひとつひとつ、わずかに花びらを開いた花の形になっている。なんて緻密な。この花を、キャンバスがいっぱいになるまで……?
「うわー! 暗くてわかんなかったけど、ホントだ。細けぇ……」
「さっきの絵でも思ったけど、この画家さん、本当に奥さんのことが好きだったんだねぇ」
 ほお、と息を吐きながら蒼生が呟く。
 小さな花。なんでもない瞬間に感じる小さな愛を、その花に込めて描いたのだろうか。
 共に暮らすことを優しい筆致で描く穏やかな想いも、愛しさを一筆ごとにぶつけて描く強い情熱も。かつての俺が知らなかった感情だ。
「今ならわかるな……。この絵みたいに、蒼生を愛している気持ちをひとつずつ数えながら花束にしたら、あっという間に両手で抱えきれない量になってしまう」
 両手で済むだろうか。部屋を溢れさせるほどになって、……蒼生は持ちきれなくなるだろうか。
「花束かあ。それも素敵だけど、」
 蒼生は右手で俺の腕を引き、ぎゅっと抱き締める。それから、反対の手で健太を引き寄せた。
「ふたりに直接伝えてもらってるから、僕はとても幸せだよ」
 ……蒼生。
 思わず残った手で、俺の腕に絡みつく蒼生の手を、上から握り締める。蒼生は嬉しそうにしていた。至近距離の笑顔と、温もり。幸せだと笑う蒼生こそが、俺の幸せなのだと心から感じる。
「オレの愛が正しく伝わってるんだな! そしたら、その幸せのさらにお返しとして、日頃の感謝を絵画として表現しようかなー」
「あはは、クレヨンで?」
「それじゃ幼稚園の作品展になっちゃうじゃん」
 ふたりが軽口を叩きあう。ふうん。詳しくは聞かないけれど、想像がつく。小さい頃、健太は自分で描いた絵を蒼生にプレゼントしていたのだろう。家の人に感謝の絵を描きましょう、などという課題を出されたら、健太は真っ先に蒼生のことを描きそうだからな。僕のことを描く時じゃないよ、と戸惑いながらも、蒼生だって喜んでいたに違いない。
「冬矢?」
 蒼生が可愛い顔で覗き込んでくる。俺は首を振った。
「せっかくだから、常設展のほうも見てみようか」
「うん」
 深い色の綺麗な瞳がじいっと俺を見ている。それをぱちぱち、と瞬きで隠すと、蒼生は俺の腕を引いて歩き出した。
 常設展は、このあたりの出土品や名産品などを、時代を追って展示する郷土博物館のようだった。蒼生は、歴史のあるものや細かいもの、綺麗なものを見るのが好きだ。ここにはそういった蒼生の興味を引く品がたくさん展示されている。蒼生は興味津々だが、健太はさすがに飽きてきたらしい。蒼生と一緒にいたい気持ちと飽きたという気持ちの間で揺れているのが態度ではっきりわかる。
「健ちゃん、向こうにお土産屋さんとか喫茶スペースとかあるみたいだよ。先にそっち行ってる?」
 にこにこと蒼生が言うと、健太はほっとした様子で頷いた。
「ん、じゃあ先に行ってる! ふたりはゆっくり見てて!」
 その背を見送る蒼生の眼差しは、大人びていて優しい。
「ふふ。健ちゃんって、こういう静かなところ苦手だもんね。よくここまで付き合ってくれたなあ」
「うん。課題でもないのに、頑張ったほうだね」
「冬矢が僕のそばにいてくれるから安心してるんだろうな」
 ……そうか。今はふたりきり、か。
 蒼生は、俺たちが蒼生をひとりきりにするのを嫌がるから、俺さえ残れば安心だと健太の気持ちを想像したのだろう。だが、今の健太の行動はそうではないように思う。おそらく、健太は俺に“ふたりきり”を譲ったのだ。いくら健太が展示物に飽きたといっても、それが蒼生と離れる理由にはならないからだ。
 まあ、ここは素直にありがたく蒼生との時間を共有させていただこう。普段から見られる展示とあって、展示室内にはほとんど人がいない。半径数メートルは俺と蒼生だけの世界だ。小さな装飾品の細かい彫刻に目を輝かせる蒼生を、古代の術具に関する解説文を真剣に読む蒼生を、人の形を模したとおぼしき小さな陶器をまじまじと見つめる蒼生を、これでもかと満喫する。夢中になってる姿が、本当に可愛い。
 横顔を温かい気持ちで眺めていると、ちら、と蒼生が目を上げた。
「なんか、僕が楽しいことに冬矢を付き合わせちゃってるみたい」
「そんなことないよ。蒼生が楽しんでいる姿は俺の癒やしなんだから」
「うー……。僕のことばっか見てない?」
「それは仕方ないことだろ」
 たしかに勉強になるし、興味深い展示だと思う。だが、見ていて幸せになる対象がもっと近くにあるのだから、つい目を奪われてもやむを得ないだろう。蒼生は俺の言葉にちょっと困ったように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑む。
「……でも、一緒に見てくれる人がいて嬉しい」
 ああ。好奇心の強い蒼生は、ひとつのものをじっくり見ることが好きだからな。そのあたりはたしかに健太とでは難しいだろう。
「昔はじっくり見られなかった?」
「うん。健ちゃんちと一緒に、たまーにこういうところに来ることがあったんだ。お父さんが美術館とか博物館とか好きだから。でも、僕とお父さん以外の誰も興味なくてね。兄は走り回りたいタイプだったし、健ちゃんの妹はちっちゃかったし、みーんなささーっと見ておしまいだったの。あ、僕も興味あるのとないのがあったから、お父さんからしたら似たようなものだったかもしれないんだけどね」
 なるほど、健太だけではなかったのか。それではまともに鑑賞はできなかっただろう。学校行事で来る時も、自分たちの見たいように見ることはできなかったからな。
 思い返して見ると、こんなふうにふらりと美術館に来ることなんて今までなかった。俺と健太が芸術に興味がないから、蒼生を誘う候補に挙がることがなかったように思う。だが、そうだな。俺も静かな場所が好きだから、蒼生と美術館巡りをするのはいいな。俺と蒼生には、意外と合っているかもしれない。あとで蒼生が興味を持ちそうな展覧会を調べてみることにしよう。
 ひとしきり展示を満喫して、展示室を出る。満足げな蒼生が見られた俺も大満足だ。
「さて、健太はどこかな」
「えっと……あ、お土産屋さんの本棚のところにいる」
 一瞬で見つけて、蒼生はそちらに向かって手を振る。健太のほうも、すぐに気付いて手を振り返す。相変わらず早いな。幼馴染み特有の見つけ方でもあるのだろうか。健太は昔からちょろちょろしていたらしいから、それで蒼生の健太を探すテクニックが磨かれたのかもしれない。
「ごめんね、お待たせ」
「おー、全然待ってないよ。漫画で読むこのへんの歴史ってやつを立ち読みしてた。あ、あと、これお土産~。昔ながらの素朴なクッキーだって。なんか懐かしい感じがして買っちゃった」
 健太は笑いながらビニール袋を掲げて見せる。ふうん、それで済んだのか。
「小腹が空いた頃だろうから、喫茶スペースにいるかと思ったけどな」
 俺が言うと、健太は口を尖らせた。
「蒼生の弁当を楽しみにしてんのに、腹一杯にしたらもったいないだろ。……あ、でも、クッキーの味見はノーカンで」
 ふっ。それはそうだ。健太の手には朝からずっと弁当が入ったバッグがある。俺のリクエストだから俺のものだと主張してもいいのだが、荷物持ちは自分の仕事だと譲らなかった。それだけ楽しみにしているのだろう。それは、俺も一緒だ。うん、そろそろいい時間になって来たな。
「それじゃあ、お昼にしようか」
「うん」
「やった!」
 元気のいい返事がロビーに響き、ふたりは顔を見合わせて口を両手で押さえた。まったく、仲がいいな。
 外に出ると、よく晴れて、とてもいい天気だ。気温もちょうどいい。美術館から少し歩いたところにあるピクニックエリアと名付けられた広場には、家族連れが多く弁当を広げていた。端のほうではテントを張ってバーベキューをやっている若者たちもいる。宿泊は出来ないものの、ああやって火を使ってもいい区画があるのだそうだ。健太はあっちのほうが好きそうだな。
 反対側の端のほうは比較的空いているようだ。俺たちは、気持ちのよさそうな木陰にレジャーシートを広げ、いつも通り、蒼生を真ん中に俺と健太が挟んで座る。すると、蒼生はちょっと不思議そうに俺たちを見比べた。そうだろう、弁当を食べるために座るのだから、弁当を中心にしたほうが自然だよね。けれど、蒼生は結局このポジションに何も言わなかった。俺は当然蒼生のすぐ近くに座りたかったし、健太もそのはずだ。それが蒼生にも伝わったのだろう。
 健太からバッグを受け取ると、蒼生はいそいそと大きめの食品用保存容器をふたつ取り出す。ああ、そうだ。こういうのが理想だった。
「ええっと。こっちがおにぎりで、こっちがおかず」
 蒼生の白い指が、丁寧に蓋を開ける。三角形のおにぎりが行儀良くずらりと並んで姿を現した。おかずのほうは、唐揚げに卵焼きにアスパラベーコン、ブロッコリーのサラダにウインナー、ミニハンバーグ、ミニコロッケ……。見事に思い描いていたピクニックの光景だ。
「うわああぁ……。これだよこれ!」
 感激したらしい健太が声を上げる。感想が同じなのが悔しいな。でも、その通りだ。
「えっと。揚げ物は全部冷凍食品なんだけど……」
 申し訳なさそうに蒼生が言う。何を言っているんだ。
「それを解凍して詰めてくれたのは蒼生だろう? 準備してくれたこと自体が嬉しいんだよ。それに、他のおかずもおにぎりも、たくさん用意してくれたじゃないか。卵焼き、すごく綺麗だね」
「……嬉しい」
 ぽっと頬を染めて、蒼生は肩をすくめる。可愛い。今日はちゃんと素直に誉め言葉をそのまま受け取ってくれているな。とてもいいことだ。
「な、おにぎりの中身何!?」
「んっとね。こっちから、梅干し、鮭、かつおぶしで、このへんがごま塩」
「やべ、どれもこれも美味しそうじゃん!」
 健太め、大興奮だな。そのまま飛び付いてしまうのかと思ったが、ぴたっと手を止めて、ごほんと咳ばらいをする。それから、フィルムで丁寧に包まれた海苔をそっと俺に差し出した。
「えー、まずは、本日お誕生日の冬矢さんからどうぞ」
「ははっ。そこはきちんとしてるのか」
 別におまえが真っ先に手を付けたとしても、文句なんか言わないんだけどな。だが、譲ってくれるというのなら遠慮なく。俺は梅干しが入っているという真っ白なおにぎりに海苔を巻いた。
 ……うん。美味しい。
「美味しいよ。塩加減、ちょうどいいね。ごはんが甘く感じられて美味しい。崩れないけれど口の中でほどけて、……力加減も上手だ。梅干しの酸っぱさとのバランスもいいな。うん、すごく美味しい」
 蒼生はほおっと息を吐く。
「よかったぁ」
 ずっと笑っていたけれど、どこかで不安だったんだろうな。心配することなんて何もないのに。でも、それが蒼生だってわかっているから。君が安心できるようになるなら、いくらでも言葉にしてあげる。
「こちらもいただこう。あ、卵焼き、だし巻きだね」
「冬矢が好きだから……」
「ありがとう、嬉しいよ。うん、俺の好きな味だ。美味しい」
 本当に一生懸命頑張ってくれたんだな。俺のために考えてくれたんだな。本当に嬉しい。たしかに助言は求められたけれど、俺がしたことはアドバイスだけだ。
 俺は、蒼生に愛されている。蒼生の行動が、言葉が、それを教えてくれている。
「あぁ……蒼生のこと、好きだなあ……」
「へっ?」
 驚いたように、蒼生は手に持ったままの容器の蓋を抱き締めた。俺は真っ赤な蒼生の顔を覗き込む。
「どうして驚くの」
「えっ、ううん、その、外で急にそんなこと言うから」
「大丈夫、広い場所だから他の人には届かないよ。……だって、俺のために蒼生がしてくれたんだと思うと、やっぱりどうしても嬉しくて嬉しくて、声に出てしまったんだ」
「そ、それは、あの、僕も、だっ、大好きだから……。嬉しい……」
 ぎゅうっと蒼生の手に力が入ったのが見える。蒼生の「大好き」の言葉が暖かい。体中、すべての細胞に染み渡るようだ。
「ほら。俺ばかり堪能しているのは気が引けるんだけどな。蒼生も健太も、一緒に食べよう」
「えへへ、うん」
「待ってました!」
 蒼生は蓋を置き、健太は身を乗り出す。許可が下りたことがよほど嬉しかったのか、健太は物凄い勢いでおにぎりを手に取って口に運んだ。見れば、利き手に握られた箸には既に唐揚げがキープされている。まったく、仕方のない奴だな。
「ん、おいしー。鮭も美味しいし、これ、ごま塩のも美味しい」
「あれっ、ふたつめ?」
「いつの間に……」
 一緒に、とは言ったが、俺の取り分まで奪っていくというなら負けていられない。俺も次の料理に箸を付けた。すると健太の勢いがさらに増す。
「これ、むぐ、美味しい」
「ブロッコリーのドレッシング、さっぱりしていていいね」
「オレンジ果汁で作るやつを料理番組でやってて。美味しそうだから真似してみたんだ」
「手作りか、すごいね。気に入ったよ」
「マジで? あ、ほんとだ、爽やかだー」
 俺と健太は次々に手を伸ばす。空は真っ青に澄んでいて、気持ちのいい風が吹いて、美味しい食事をして、隣には蒼生がいて。なんて贅沢をしているんだろう。
 蒼生はおにぎりを頬張りながら、いっそうにこにこ嬉しそうだ。
「足りなかったかなあ」
 その声は、とても柔らかく暖かい。それが耳に届くのが心地いい。
 幸せな1日だな、とつくづく思う。まだ半日しか経っていないけれど、はっきりとわかる。
 蒼生に出会えてよかった。
 あとで、きちんと言葉で伝えよう。

 食事を終え、しばらくその場で余韻を楽しんでから、俺たちは帰り支度を整える。この後の予定は、健太が予約をしているというケーキを受け取って、家に帰るだけだ。夕飯の支度も蒼生にお願いしているし、その準備の時間を削らせてしまうわけにはいかない。それに、一刻も早く、誰からも見られる心配のない場所で、誰にも見せたくない蒼生の表情をたくさん見たい、という重要な理由があるからな。
 既に、心も体も蒼生で満たされている。けれど、まだ足りない。欲しい。もっと蒼生が欲しい。
 隣を歩く蒼生を見ると、視線が返ってくる。ふんわり優しい、穏やかな表情。木漏れ日の中で見る笑顔は、本当に絵画のようだ。ああ、抱き締めたいな。やっぱり、早く帰ろう。
 その時、ぱっと向こう側の健太が顔を上げた。蒼生がつられてそちらを見るので、俺も仕方なく目をやる。なるほど、さっきから賑やかな声が聞こえると思ったら、アスレチック広場があるのか。俺たちの視線の先では、ぐねぐねと曲がった木の上を、親に手を繋がれた小さな子たちが大騒ぎしながら渡っている。
「……なあ……。ひとつだけ上ってきていい?」
 ちらっとこちらを伺うようにぼそりと健太が言った。さては、朝少し走っただけでは体を動かし足りないのか。
「行ってくればいいじゃないか」
「こういうの見たら、そうだよね。気を付けていってらっしゃい」
 蒼生がひらひら手を振ると、健太は大きく頷き、蒼生にバッグを手渡す。そして少し森の中に走って行ったかと思うと、細い丸太が積み重なって出来た壁を、ロープを使ってするすると上っていく。よくあんな速度で上ることができるものだ。
「……元気な奴だな」
「相変わらず、我慢出来ないんだねぇ」
 くすくす、蒼生が楽しそうに笑う。
 これは蒼生にとっては“相変わらず”なのか。たしかに、野木沢家と寺田家合わせて子供が6人もいたら、体を使う場所にはよく遊びに行っていたことだろう。話を聞く限り、蒼生は常にそこから一歩引いていたようだ。おそらく蒼生は、はしゃぎ回る健太をこの保護者のような目で見守っていたに違いない。
 俺には、そのぶんの思い出が、どうしても足りない。
「ねえ、冬矢」
 あっという間に頂上に辿り着く健太を目で追ったまま、蒼生が小さく俺を呼ぶ。
「なに?」
「僕、今、冬矢のこと傷付けたかな」
 え? 驚いて蒼生を見ると、その目は健太の姿が消えた壁よりももっと高く、空のほうを見つめていた。
「そんなことはないよ。傷付いてなんかいない。そんなふうに見えた?」
「だって、最近……、僕が話したあと、ちょっと考える時があるよね。……たぶん、僕が小さい頃の話……。特に、健ちゃんとの昔の話する時」
 ……気付かれていたのか。そうだな、蒼生は聡いから。違和感を覚えても無理はない。ならば、きちんと話したほうがいい。誤解はされたくない。
「そう、だよね、健ちゃんの話するってことは、冬矢にとっては嫌だよね。自分以外の彼氏の話なんて」
 俺は蒼生の言葉を遮って、その手を握る。
「違う。嫌じゃない。そういうわけじゃないんだ。……ごめんね、本当に嫌じゃないよ。蒼生と健太の昔の話を聞くということは、俺が知らなかった小さい頃の蒼生の話を聞ける、ということなんだ。むしろ、嬉しいと思っているよ。ただ……、ほんの少しだけ、羨ましい。その頃の蒼生と一緒にいたかったなという気持ちは、どうしても抱いてしまう。だから、得られなかった思い出を取り戻したいと思ってしまうんだ。簡単に言ってしまうと、俺が考えていたのは、もっと思い出がほしい、それだけだ」
 それは埋められない溝だ。俺と蒼生は、出会うまで出会えなかった。出会っていた健太が羨ましい。けれど、それを嘆いたところでどうしようもない。そんなことはもちろん理解している。
 地面に目を落とし、もう一度俺を見た蒼生は、少し寂しそうな顔だった。
「僕だって、小さい冬矢と一緒にいたかったよ。冬矢といろんな初めて、一緒にしたかった。今日見た絵画展の絵、冬矢、見たことあったんでしょ」
「それもわかっていたの?」
「うん。話してるの聞いてたら、あ、知ってるんだなって思った」
 蒼生は……そうか。俺と同じ気持ちを味わっていたのか。もっと早く出会いたかったと、思ってくれてるのか。
「本当に、僕、冬矢に嫌な思いさせてない?」
「ない」
「そっか」
 ほっとした蒼生はふんわりと表情を和らげる。蒼生。
「……でもね、たしかに一緒にいられなかった時間はたくさんあったけどね、」
 にっこり笑い、蒼生は正面から俺にそっと抱きついてきた。ふわ、と甘い香り。
「たぶん、僕と冬矢が出会ってなかった時間なんて、“あれっ、その程度だったっけ?”って思う日はすぐ来ると思うよ。だって、こんなに濃くて甘い毎日を3人で過ごしてるんだもん。一緒に暮らす前、どうやって過ごしてたか思い出せないくらい、僕だって毎日幸せだから」
「蒼生」
「3人の思い出でいっぱいにしようね」
 ああ、俺の大好きな、きらきらした可愛い笑顔だ。
 そうか。
 出会えなかった日々のぶん、もっとたくさん思い出を作っていけばいいんだ。
 そして、それを蒼生も望んでいる。
 俺と共にいて幸せだと笑う蒼生と、これからもずっと一緒に……。
「あ」
 ぱちくりと目を丸くして、蒼生が視線を動かす。そこには、木の陰に隠れるようにして健太が立っていた。
「おかえりなさい」
「満足したか? そんなところで何してるんだ」
「いや、一応、誕生日の奴の邪魔しちゃいけねえかなと思って」
 ふっ。まったく。どこまで人が好いんだろうな。途中からかもしれないが、俺と蒼生の話は聞こえていただろう。
「さあ、早く帰ろう。3人の思い出にしっかり残るような誕生日ケーキを予約してくれているんだろ?」
 蒼生と健太がぱっと顔を輝かせて、同時に頷く。
「そうだよ。健ちゃんがね、ケーキ屋さんにいろいろ相談してくれたんだ」
「蒼生とちゃんと相談して決めたんだぜ」
「うん。楽しみにしててね!」
 ふ、ふふ。そんなにハードルを上げて大丈夫なのかな。まあ、蒼生が考えてくれたというなら、俺はどんなものでもきっと喜んでしまうだろう。
 健太が、蒼生からバッグを受け取り、歩き出す。
 蒼生が、その隣に並んで歩き出す。
 そして、蒼生は、にっこり笑って俺に手を差し伸べた。
 ああ、いつもの並びだ。
 こうやって、俺たちはたくさん思い出を作っていくのだろうな。それはなんて嬉しいことだろう。出会っていなかった時間は、きっといつか、ただの思い出に変わるんだ。
 その実感をくれた蒼生の手を、俺はぎゅっとしっかり握りしめた。

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 一緒に暮らし始めて、1年が過ぎた。まだ慣れないこともあるし、すれ違ってしまうこともある。ただ、俺は、そのぎこちなささえも嬉しく思っていた。それは、俺と蒼生がいっそう近付こうとしているからなのだと思う。離れていた時には蒼生にひとりで思い悩ませていたことも、今なら隣で分かち合うことが出来る。それはとても幸運なことだ。
 蒼生はキッチンで麦茶を注いでいた。氷のからから、という音が心地いい。さっき俺に「冬矢もいる?」と聞いてくれたから、ふたり分用意しているのだろう。蒼生が俺のために立てる物音が耳障りなはずがない。ただただ、愛おしい。
 駄目だな。さっきから本を開いているのに、まったく頭に入ってこない。目の端に映る姿が気になって、どうしてもそちらに意識が行ってしまう。こんなことが蒼生にバレたら、本を読むのが下手だと笑われてしまうかな。そもそも、読書に対する集中力で蒼生に敵うなんて思っていないけれど。
 蒼生の軽やかな足音が、キッチンから出てくる。それが俺の座るソファに近付いてくるのを聞くと、自然と胸が高鳴る。それに知らないふりをするのは、なかなかに骨が折れた。かたん、とローテーブルにコップが置かれる音。それで初めて気が付いたように、顔を上げる。
「ありがとう」
 俺の言葉で、笑顔の蒼生が、いっそう嬉しそうに口元を緩めた。ああ、ほら、もうこんなに可愛い。
「どういたしまして。……それ、面白い?」
「読み方によってはね」
 やっぱり気になるだろうね。蒼生は上から覗き込むように、俺の持っていた本の文字を目で追う。俺は見やすいように大きくページを開いて見せた。
「……なるほど。基礎知識があってからなら面白く読めるんだろうなあ」
 ふ、ふふ。そうだね、専門書だから。さすがの蒼生でも、ジャンル違いだと少し難しいかな。でも、そんな表現をするのが蒼生らしい。
 蒼生は自分のコップもテーブルに置く。……うん? 手が、一瞬止まったな。視線がちらりと床を撫でる。何か言いたいことがあるみたいだ。それを口にするタイミングを探っているんだろう。だとしたら、自分で話し始めるのを待ったほうがいいな。迷った末に飲み込むようなら聞き出すけれど。
 動きが止まっていたのはさほど長い時間ではない。蒼生は親指で人差し指の脇を軽く擦ってから、俺の隣にそろりと座った。ぴたりと腕が密着する距離だ。だから、そわそわしているのが袖越しにはっきり伝わってくる。
 蒼生が寄り添う位置取りをしたがるのは、どうやら無意識らしい。蒼生はくっつくのが好きだからな。他人に触れるのも触れられるのも苦手なのに、俺たちにだけはこんなふうに体温を感じさせてくれる。それは世界の中で俺たちだけが蒼生の“特別”なのだと、とてつもない優越感を与えてくれる。
 そしてそれは、俺にとっても同じだ。この距離感が心地いいのは、蒼生に対してだけだ。蒼生でなければ、こんな温かい気持ちにはなれない。
「……あのね、冬矢」
「うん」
 麦茶を一口飲んでから、蒼生が切り出す。先を促す必要はない。ゆっくりでいい。せっかくの蒼生とのふたりきりの時間だ、思う存分堪能したい。
「えっと、その……5月のお休みってご両親のところに行くの?」
 言いたいことはすぐにわかった。ああ、そういうことか。俺の誕生日の話だな。何かしたいと考えているが、俺がいなくては仕方ないから、まずはスケジュールの確認をしようとしているんだな。
「いや。両親は仕事だから、行く予定はない。むしろ今は祝日のほうが忙しいらしいからね。その代わり、月末の休みに2人でこっちに来るそうだ。その時に食事に行こうと誘われている。だから、蒼生とずっといるよ」
「そ、そっか」
 蒼生は複雑な顔をする。可愛いな。なるほど、今度の誕生日で俺はハタチになるわけで、普段より大切な記念日だと蒼生は認識しているらしい。その日に両親と過ごせないことを、俺が気にしていると思っているのかな。だから、喜んでいいのか悩んでいるんだろう。可愛い。
 たしかに、両親にとっても特別な誕生日なのだろうとは思う。去年はプレゼントだけ送られてきたが、今年はちゃんと会いたいと言ってきた。つまり、そういうことだ。ただ、その気持ちは当然無碍には出来ないが、俺は蒼生と過ごしたい。誰よりも蒼生に祝って貰いたかった。
 ふらっと蒼生が立ち上がる。目的がある感じではない。本棚をぼんやりと眺めて、それからカウンターの上の卓上カレンダーに目をやった。その横顔は、どこか上の空だ。
 うん。蒼生が何を考えているのか、手に取るようにわかる。俺の前ではすっかり油断して、表情を繕えなくなっているからね。ほんのり唇を尖らせているのは、俺の誕生日に何をしようか悩んでいる、といったところだろう。簡単には決められないはずだ、蒼生は優柔不断だから。そして、その優柔不断は、蒼生の優しさそのものでもある。俺に絶対喜んでほしい、俺が不満に思うことをしたくない、少しでも嫌な思いをさせたくない。相手の考えをひとつひとつ先読みして悩んでしまう。だから行き詰まってしまうんだ。俺は蒼生といられれば、それでいいんだけどね。
 俺のことで悩んでいる蒼生は、とても愛しい。今、蒼生の頭の中は、俺のことでいっぱいなはずだから。それはとても嬉しいのだけれども、ずっと悩ませるのも申し訳ない。
「蒼生。こっちに来て」
「……っえ、うん」
 呼びかけると、ぱっとこちらを見て、わずかに頬を上げる。俺は本をテーブルに置いて、ぽん、と膝を叩いた。蒼生は目を丸くする。そして、すぐにふわっと笑う。スリッパを脱いで、脚の上に向き合うように座る仕草は、俺と健太だけが見ることが出来る最高の特権だ。
「重くない?」
「重くないよ」
 このやりとりも、何度繰り返すんだろう。俺が否定するのを知っているのに、それでも不安になってしまうんだな。大丈夫、そのたびにちゃんと答えるから。
「ねえ、蒼生。ひとつお願いがあるんだけど」
「なに?」
「俺の誕生日、一緒にピクニックに行ってほしいんだ」
「ピクニック?」
 蒼生はぱちぱちと目を瞬かせる。心底意外そうな顔をするね。そうだろう、俺は屋外で食事をするのが苦手だ。飲食店のテラス席くらいならいいが、たとえば大学の友人にバーベキューに誘われても考える間もなく断っているくらい苦手にしている。それでもしつこく誘ってくるのだから、好きな奴は好きなのだろう。いい加減俺が断るということを覚えてほしい。……少々脱線したな。ちなみに蒼生はその経緯を知っているし、蒼生自身も野外の食事が得意ではないから、その驚きもわかる。
 ただ、それも蒼生と一緒ならまったく苦ではない。そのことだって知っているはずだよね?
「外に出るにはいい季節だしね。蒼生の手作り弁当でピクニックがしたいと思っているんだけど、どうかな」
 わかりやすいように俺の願望をはっきり口にすると、蒼生はまだ少し不思議そうな顔で頷いた。
「うん。頑張る。……けど、ピクニックって小さい子がするイメージだったから、ちょっとびっくりした。大人になるお祝いの日なのに……それでいいの?」
 ああ、なるほど。蒼生の戸惑いはそっちだったか。たしかに、社会的に「大人」というカテゴリに進む日だ。蒼生の脳内には、幼い頃に家族と行ったピクニックの光景が浮かんでいるのだろう。その中には、当然、幼い健太もいる。俺が塗り替えたいのはそれだった。
「敢えてそういうことをしたいんだよ。ほら、俺と蒼生は、出会った時には既に中学生だっただろう。……小さい頃に一緒に遊んだ思い出がないから」
「あ、そっか」
 似たようなことは、学校行事としてなら社会科見学と称された遠足で蒼生と一緒に経験している。だが中学時代の蒼生はまだ恋人ではなかったし、いつだって他に余計な奴らがいた。男子は親切心で話しかけてくる程度なのでマシだったが、蒼生に色目を使う女子の存在にはいつも苛ついていた。当然、全員というわけではないが、そう考える人間がグループに1人いるだけで、蒼生の疲労度がぐんと上がってしまう。ああいった行事で、なぜ学校側は男女を一緒にしたがるのだろう。本当に勘弁してほしいと何度思ったことか。
 俺の思い出すべてを、蒼生と共に在る記憶にしたい。そして、蒼生が思い出すすべての光景の中に俺がいるようにしたい。そのためには、新たな思い出で上書きをするしかない。
 膝の上の蒼生は、また少し遠くを見ている。天井に何かを探すような目線。
「もちろん、献立の相談は乗るからね」
 そう伝えると、照れたように笑う。綺麗だ。
「……うん。よろしくお願いします」
「3人分だから大変だと思うけど、楽しみにしているよ」
「えへへ。3人分だもんね。うん」
 やっぱり、手作り弁当の中身で悩んでいたのか。俺の言葉を聞いた蒼生は、さらに嬉しそうに「ふふっ」と声を漏らす。そして、ごそっと体を動かすと、俺の肩に額を乗せた。……可愛い。あまりに可愛くて、心臓が跳ねたのがはっきりわかる。可愛い、可愛い、俺の蒼生。そっと背中に手を回せば、安心したような吐息が聞こえる。
 もう、蒼生と暮らす前、どうやって日常を過ごしてきたかわからない。この愛おしい重さを、優しい温度を、胸躍る呼吸の音を感じずに、俺はなぜ生きてこられたのだろう。
 ああ、そうだ。もうひとつ蒼生に伝えなければならないことがある。こちらのほうは、ひどく言いだしづらいことだったけれど、黙っているわけにもいかないだろう。
「蒼生」
「はい」
 わずかに首を傾げるように蒼生が俺を見た。唇が近い。答えた言葉の形に開いた唇の隙間に、舌を潜り込ませたくなる気持ちを抑える。
「あのね。当日の夜、お酒を飲んでみようと思っているんだ」
「えっ」
 声を上げた蒼生が、同時に顔を上げる。目をまん丸くして、信じられないことを聞いたみたいな顔だ。
「そういう反応になるよね」
「だ、だって……。待っててくれないの? 2か月半もしたら、僕だって飲めるようになるんだよ? 僕、一緒がいいって思ってて……」
 目の前の顔は、あっという間に泣くのを我慢しているように歪んだ。胸が痛む。ごめん。蒼生の気持ちはわかる。わかるけれど。
 おそらく、両親は俺と飲みたがるだろう。特に父さんは、はっきりとは言わないが、それを楽しみにしているような節がある。だからどちらにしても、初めての飲酒は蒼生の誕生日まで待つことは出来ないはずだ。それに、それ以上にもっと大切な理由がある。
「蒼生。俺の話を聞いてくれる?」
「……聞く」
 じっと俺の目を見てくる蒼生に、目線をまっすぐ合わせる。
「仮に、蒼生と健太がハタチになるまで待って、3人で初めてお酒を飲もうとした場合のことを考えてほしい。その場に他の人はいてほしくないよね? だから、家の中には3人だ。でも、もしかすると、俺たち全員がまったくお酒が飲めない体質かもしれない。3人きりで、全員が倒れてしまったらどうする?」
「や、やだ。怖い」
「うん。そうだね。だから、まずは最初に誕生日を迎える俺が、ある程度飲めるかどうかを確かめる。俺の具合が悪くなったとしても、蒼生がいてくれれば大丈夫だよね」
「それもやだ……」
「どちらも、もしもの話だよ。でも、万が一ということがあるだろう?」
 それには蒼生は声を出さず、小さく頷いただけだった。俺だって、蒼生を怖がらせたいわけじゃない。けれど、こればかりは試してみないとわからないからな。
 ぽんぽん、と蒼生の背を叩く。
「最初は、蒼生と一緒がいい。それは俺もまったく同じ気持ちだ。だからせめて、外じゃなくて、家がいい。蒼生と一緒にいる時がいい。どうなってしまうかわからないから、そんな姿は表では見せられないしね」
 くすっと笑う声。
「……冬矢の酔っ払った姿なんて想像できない」
「わからないよ? ひどく絡むかもしれない。暴れ出すかもしれないよ」
「ふ、ふふ。暴れるの? 冬矢が?」
「そう」
 俺は蒼生の背に回した手をそのままに、ソファにその体を横たえる。蒼生の表情がふわっと和らいだ。そのまま体を動かして、覆い被さるように抱き締める。
「暴れて、こんなふうに襲ってしまうかもね。そうしたらどうする?」
「うーん」
 すいっと手が動く。両腕が俺の首に回ってきたと思うと、ぐっと力を入れて頭を上げ、柔らかなキスをくれる。……蒼生。ほんのり頬が染まって、……とろりとした眼差し。
「こうする、かな」
「そんな可愛いことしたら、本当にしちゃうよ?」
「いいよ。僕、ふたりとするの好きだから。欲しいって思ってくれたら嬉しいもん。ふたりのしたいこと、できるだけ応えたいなって思ってるんだ」
 蒼生は、少しだけ間をあけて、「だから」と言った。至近距離の表情は、拗ねた幼い顔。
「……だから、冬矢の言うこと、聞いたげる。さみしいけど、先にお酒飲むの、わかった」
 口調まで小さな子のようになっているのは、納得しきれていないからだろうな。
「ごめんね、蒼生」
「ううん……謝らないで。謝るとしたら僕のほう。わがまま言ってごめん。わかってるんだ、冬矢は僕のことが大事だからそう言ってくれてるんだって」
 それが伝わっているのは嬉しい。俺は蒼生のことが何よりも大切だ。だからこそ譲れないことがある。蒼生の安全は絶対に守らなければならないものだから。
 けれど、寂しい思いをさせたのには変わりない。そんなふうに思わせたくはないんだが、難しいな。
 抱き締める腕に力を込める。
「ねえ、蒼生。昼のお弁当を頼んだけれど、夕飯も蒼生に任せていいかな」
「へ? もちろん、そのつもりでいたけど」
「嬉しいな。朝から晩まで、1日中蒼生に甘えてしまえるなんて……。とても贅沢だ」
「……んっと、……うん」
 くるくる変わる表情は、見ていてとてもほっとする。だからわざと蒼生の感情を揺さぶっているということではまったくないのだけれど、蒼生が素直な反応を返してくれるのはどうしようもなく嬉しく思えてしまう。
 今、蒼生は、俺が頼ったことを喜んでくれている。俺も、それが嬉しい。
 大好きな蒼生。
 本当に、このまま……。
「ただいまー」
 だろうな、そうだと思っていた。少し前に玄関で物音がしていたし、事前に連絡してきた時間通りだ。
「おかえりなさい、健ちゃん」
 俺の下から、蒼生はひらひらと手を振る。戻って来たばかりの健太は、俺たちの体勢を見ると、普段より大きな歩幅で近付いてきた。
「ちょ……ズルい! オレも蒼生といちゃいちゃしたい!」
 ああ、こいつ、蒼生の声に少し元気がないことに気付いたな。いや、気付いたというか、勘付いたというか。健太にはぼんやりしたところがあるから、蒼生の細かいサインを見逃すことが多々ある。ただ、それでも、健太が取る行動は最適であることが多い。つまり、健太は生まれた時から今までの蒼生の情報を蓄積している。蒼生がどんな言葉で喜んで、どんな態度で悲しむかを間近で見てきたからだ。その情報をもとに、蒼生がどうしてほしいのかを無意識に察知して、そのまま行動に移しているのだろう。それは俺には出来ないことだった。
 健太が蒼生の近くに跪き、額に唇を寄せる。
「んー。会いたかったよ、蒼生」
「ふふっ、くすぐったい」
 仕方ない。悔しいが、健太の力を借りるか。
 俺は蒼生を抱き締めたまま体を起こす。少々しんどい体勢だ。慌てたようにぱっと動いた健太が、蒼生が倒れないように支えるべく、その背中とソファの間に出来た隙間に滑り込んだ。それを確認して、改めて蒼生のほうに体重をかける。
「う、わ、倒れちゃうよ」
「後ろに健太がいるから大丈夫だろ」
「ってか蒼生はいいけど、なんでおまえまでのしかかってくんだよ」
 健太は文句を言うが、口調は笑っている。当然だ、蒼生と密着しているのだから。
 間に挟まれた蒼生も「苦しい」と呟いてにこにこと笑う。蒼生は俺と健太に挟まれるのが好きだ。嬉しそうに健太の胸元に顔を擦り寄せ、俺の首に縋り付く。安心しきっていて、とても可愛らしい。
 出会った頃、この笑顔を自分だけのものにしようと、しなければならないと思っていたことを思い出す。そのまま俺のものにしてもよかったのだろうが、こうして倍の幸せを感じている姿をこんなに近くで見つめられるのだから、告白の日の判断は間違っていなかったのだと思う。
「んー、で? ふたりでなんの話してたの?」
 へえ。この流れであまり聞かないことを、珍しく健太が聞いてきた。やはり、蒼生の声色が違っていたことに不安を感じたのだろう。
「あのね、冬矢のお誕生日にね、ピクニックに行こうって話してたの」
「へえ?」
 顔を健太のほうに向けた蒼生の声は、もう弾んでいる。それに安心したのか、健太もほっと息を吐いて、蒼生の髪に口づけた。
「いいね、可愛いじゃん。冬矢って時々ちびっこみたいなこと言いだすよな」
 ……ふーん。
「うん。僕、冬矢のそういうとこ、好き」
 そうか。
 健太に一言言ってやろうかと思ったが、蒼生に免じて許そう。
「俺も大好きだよ」
「ふ、ふふ、嬉しい」
 ああ、愛しいな。可愛い。好き、という気持ちが尽きることがない。溢れて溢れて、溺れそうだ。
「そうだ。ピクニックってことはさ、弁当作るの? 蒼生が?」
「任されたよ!」
「やった! めっちゃくっちゃ楽しみ! おにぎりにしよ、おにぎり」
「冬矢の誕生日なんだから、冬矢のリクエスト最優先だからね」
 健太も無邪気なものだな。俺の誕生日に蒼生とピクニックに行く、という話で、自分もそこに含まれていると信じて全く疑わない。俺が健太を排除するという思考がもはやないのだろう。こういう奴だから、“蒼生の彼氏同士”という妙な関係でも問題なくやっていけるわけだ。
 と、蒼生が俺たちの間でもぞもぞと動く。
「ん? どした?」
「ちょ、ちょっと照れてきたから、いったんタイムでお願いします……」
「え、今ぁ?」
 健太が驚いた声を上げなかったら、俺が先に蒼生の顔を覗き込んでいたはずだ。蒼生はほんのり赤い頬で困ったように健太を見て、俺たちから逃げようとしている。
「蒼生の照れるタイミングってわからないね」
 そこも可愛いんだけど、と思いながら告げると、蒼生がちらりと俺を見る。
「ぼ、僕もわかんない」
 ……ふふ。わからないか。そうか。
「ヤバい。そんなこと言われたら可愛すぎて余計に離せないんだけど!」
「俺も同感だ。蒼生にはこのままでいてもらおう」
「え、えぇ……。どうしよう……」
 観念したのか、蒼生はふっと体の力を抜いた。なるほど。照れてはいるが、俺たちの間にいるのが嫌なわけではないからな。それならば、遠慮なくこのまま抱き締めていよう。


 前日は早めに寝ようと決め、俺たちは日付が変わるより少し早くベッドに入った。普段なら比較的すぐに眠ってしまうはずなのに、蒼生は珍しく寝付けないようだ。常夜灯の明かりの中で、時折こっそり時計に目をやっているのが目に入ってくる。ふふ。蒼生が早起きするからもう寝ようとしているのに、当の蒼生がそわそわしているんだからね。その仕草が可愛らしくて、ばれないように気を付けながらじっと見つめる。
 やがて、時計の針は12時を過ぎる。ぴくっと肩を揺らした蒼生が、そっと俺の様子を窺っているのが気配で分かった。
「……どうした? 眠れない?」
 小声でそっと話しかけると、焦った顔をする。
「あ、ごめん、起こしちゃって」
「ううん、まだ寝てないから大丈夫だよ」
「よかった。……お誕生日おめでとう」
 普段より少しだけ高い声。嬉しそうににこにこと告げてくるのが可愛い。俺のことなのに、こんなに嬉しそうな顔をして。いや、俺のことだから、なんだろう。
「そうか、日付が変わったのか。ありがとう、蒼生」
 当日になったことを知らなかったふりをする。そうでなければ、ずっと蒼生を見ていたことを知られてしまうから。俺がそのために敢えて起きていたことがわかったら、君は気にするだろうからね。手を伸ばして髪を撫でれば、なんの抵抗もなく、うっとりと目を細める。
 何度繰り返しても、この日に蒼生がいてくれてよかったと心から思う。ただの行事だった誕生日を、特別な日に変えてくれたのは、他でもない蒼生だ。
 蒼生の向こうで、ごそりと物音がする。
「おー。おめでとー」
「ありがとう」
 適当な声だけが飛んでくるのが面白い。蒼生が眠れないでいたから、健太も心配して起きていたのだろう。なんだ、結局全員起きていたのか。それなら少し会話をしても大丈夫だな。
「そうか。今日はなんでも俺の思い通りというわけだな」
「えっ」
 蒼生と健太の声がぴったり重なる。いい反応だ。もちろんすべて思い通りだなんて、そんなわがままを言うつもりはない。少しからかってやりたくなっただけだ。
「それじゃあ蒼生、こっちにおいで。今夜は独り占めさせてもらう」
「あ、う、うん」
「えー。蒼生を独占すんのは別の日ってちゃんと決まってんのにぃ? ま、誕生日当日だからしゃーねえけどさー」
 健太はぶつぶつ文句を言うが、それきりすっぱり黙り込んだ。律儀な奴だからな。
 そもそも、蒼生独占日を別に設定しようと言い出したのは健太だ。俺は誕生日当日には蒼生を独占するのが当然だと思っていたのだが、去年の俺の誕生日に健太が突然「一緒に暮らしていて誕生日を無視するのはおかしい」などと言い出した。それは家族仲が良く交友関係の広い健太らしい発想だ。理解出来ない話ではなかったし、そうすることで蒼生も喜ぶようだったので、俺はその提案を受け入れた。そのかわり、別途で1日蒼生を独り占めする日を指定することにしようと健太とふたりで決めた。そんな決まりなんて作らなくても蒼生とふたりきりになれる時間は取れるのだけれど、そういう面白い決め事があってもいいのだろう。
 さて、蒼生はどうするかな。
「……重かったらどかしてね」
 少し迷っていたようだったのは、それか。少々遠慮がちに、もぞもぞと胸元に潜り込んでくる。俺のところに来てくれた、それが嬉しい。もちろん、来るとは思っていたけれど。……可愛い。可愛い。蒼生。その首が大きく仰のく。可愛い。
「冬矢」
 待ち侘びる唇に、そっとキスを落とす。嬉しそうに俺を見つめる瞳がとても綺麗だ。
「……早く寝るんだろ。おやすみ!」
 やれやれ、向こうのほうから抗議が届いた。
「あっ。そうだよね、おやすみなさい」
「ふふ。おやすみ」
 さすがに健太も痺れを切らしたらしい。申し訳なさそうな蒼生の額にもう一度キスをして、その瞼が落ちたことを確認してから、俺も目を閉じた。

 蒼生を抱き締めている安心感のおかげか、とてもよく眠れた。本当に蒼生は、ときめきも癒やしも与えてくれる、最高の恋人だ。名前を心に浮かべる、たったそれだけで温かい気持ちになる。世界に存在してくれていると思うだけで、愛しさでいっぱいになる。
 その愛しい蒼生が腕の中からすり抜ける気配で目が覚めた。俺の様子を窺い、俺を起こさないようゆっくりと物音を立てないように慎重に寝室を出ていく。優しい子だな。だから眠ったままのふりをする。
 微笑みながら静かに閉めたドアの向こうで、蒼生は健太にばったり会ったらしい。
「あ、おはよう、蒼生」
「おはよ、健ちゃん。今日も走りに行くの?」
「目覚ましがわりにちょっとだけな。すぐ帰ってくるよ」
「気を付けてね」
 そんな小声の会話が聞こえる。わずかに空いた間は、キスの気配。……今すぐに飛び起きて塗り替えてやろうかと思うが、ここは我慢だ。蒼生の残した香りをタオルケットから補給し、そのままベッドに横たわり続ける。
 やがて、健太が出て行ったのがわかる。その後、洗面所から戻ってきた蒼生は、キッチンに入ったようだ。かたん、という小さな音。スリッパの足音が細かく動く。かぱっと炊飯器の開く音。冷蔵庫が開く。食器棚が開く。とんとん、と包丁の音も聞こえてきた。今何をしているのだろう。ひとつひとつ、すべての物音が、幸せそのものだと思う。蒼生の音だ。しかも、俺のお願いに応えてくれる音。手伝いたい気持ちが溢れそうになるけれど、張り切って動く蒼生の邪魔をしたくない。
 こんなに、なにかひとつの存在で心が満たされるようになるなんて、想像もしていなかった。そしてそれがこんなに幸福だということを知らなかった。
「蒼生」
 その音を唇に乗せる。……好きな人の名前を呟くだけで泣きそうな気持ちになるなんて、知らなかったんだよ。蒼生。
 蒼生の立てる物音に全神経を集中させていると、突然、枕元で携帯電話が着信音を鳴らし始めた。咄嗟に手を伸ばし、画面を見る。母さんだ。そうだろうな。ああ、蒼生は絶対気付いてしまっただろう。
「もしもし」
『冬矢、誕生日おめでとう!』
 電気を付けながら電話を取ると、途端に明るい声が響く。この様子だと、ずいぶん早くに起きていたな。俺が起きる時間を見計らって、ずっとうずうずしながら時計を見ていたのだろう。父さんと2人で向かい合って携帯を眺める姿が容易に浮かんだ。
「ありがとう」
『父さんもいるよー』
『おめでとう、冬矢』
「父さんも、ありがとう」
 これは電話をスピーカーにしているんだな。電話を手渡した様子がない。すると、俺の声は向こうの部屋に響いているというわけか。そう考えると恥ずかしいな。
『いやー、あの小さかった冬矢がもうハタチだもんな。時間の過ぎるのは本当に早いよ』
『ねー。ついこの間まで片手で持ち上げられたのに、もう絶対無理だもん』
「それはさすがに言い過ぎじゃないかな」
『そうかなあ。ね、比べたいから後で今の冬矢の写真送って!』
「今月会うんだから、その時でもいいと思うけど」
『せっかくだから今日の!』
「あはは、わかったよ。後で撮った写真送るから」
 蒼生に撮って貰って……ああ、3人の写真でもいいのか。
 電話の向こうで、両親の忍び笑いが聞こえる。
「なに?」
『ああ、ごめん。今の生活がすごく充実してるんだなーって思ったんだ』
『顔は見えないけど、とっても優しい声してるもん』
 ……そうか。俺は、決して“いい息子”ではなかったから……。その自覚はあるし、今となってはひどく申し訳ない思いがある。
 俺はずっと、愛想が悪く自己中心的で碌に返事もせず、素っ気ない態度を取っていた。それに対して自分ではなんの疑問も抱かなかった。それが自分の中で当然だと思っていたからだ。特に、荒れて手当たり次第女性に手を出していた時期には、常に不機嫌だったように思う。家の中に不機嫌な人間がいたら、それだけで生活が暗くなってしまう。一緒に暮らすようになった蒼生がいつも笑っていてくれて、そこでようやく自分の幼すぎる言動に気が付いたのだから、酷い話だ。
 母さんが明るく笑う。
『あー。この瞬間の冬矢の顔、見てみたかったなー。今、すごく、反省してるでしょ。あははっ、そういうの、いいんだってば。今楽しく暮らしてるならそれでいいんだから』
『冬矢。何度だって言うけど、僕たちは冬矢が笑ってくれているだけで幸せなんだよ』
 ……俺もそれを言われるたびに思う。俺はなんて素晴らしい人たちの間に生まれてきたのだろうと。だから尚更、捻くれていた昔の自分が情けなくなるんだけどな。…………。俺は……。
『今日はどうするの? どこかにお出かけ?』
「え、……ああ、3人でピクニックに」
『そうか! そっちは天気いいんだろ? よかったな~』
『楽しんできてね!』
 俺は……。
「うん。……いずれ、ちゃんと、話をするよ」
『ん、わかった』
 優しい2人の声。
『そろそろ切るね。また連絡するから。おめでとうね~』
「わかった。電話、ありがとう」
 通話が切れて、俺は大きく息を吐く。
 ぱたぱたと足音が聞こえてきて、そっとドアが開いた。可愛い顔がひょこっと覗く。胸が押し潰されたようにぎゅっと高鳴る。ふんわり笑う顔が、とても綺麗だ。大好きな蒼生。
「おはよう、冬矢」
「蒼生。おはよう」
 祝いの言葉は誰よりも早く蒼生から貰っているからね。やはり、それがどうしようもなく嬉しかった。
 蒼生はドアの端を一度掴むと、ぱっと手を離し、スリッパを脱ぎ捨て、ベッドに上ってくる。そしてそのまま、ベッドの上に座った体勢の俺に向かって飛び込んで来た。胸元に顔を埋める蒼生からふわりとかすかに香るパンのにおい。……嘘だろ。こんな可愛い現象がこの世界にあっていいのだろうか。
「冬矢。改めて、おめでと」
 顔を上げてにこにこしながら、ぐいっと近付いて俺にキスをくれる。蒼生。
「ありがとう……。本当に嬉しいよ。可愛い可愛い、大好きな蒼生。今日も会えて幸せだ」
「一緒に暮らしてるのに?」
「だから、毎日幸せなんだよ」
 抱き締めて、今度は俺からキスをする。くすぐったそうな表情。俺の手に自分の指を絡ませてくる、その指を撫でると、頬を肩に擦り寄せてきた。本当に可愛いな。
「今の電話、ご両親から?」
「そうだよ」
「素敵だね。きっと一緒に過ごしたかっただろうに、大事なご子息の節目の誕生日を、僕なんかが横取りしちゃって本当に良かっ」
「こら」
 また悪い癖が出てる。俺は蒼生の額に自分の額をくっつけた。ごち、と小さな音。
「いて」
「そうじゃないだろ」
 蒼生ははっと目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをする。
「……そうだね。ごめんなさい。冬矢といさせてくれてありがとうございます、のほうが合ってた」
「うん。それに、蒼生と一緒にいたいと言ったのは俺のほうなんだから。横取りだなんて、そんなこと考えないで」
 俺も蒼生のことは言えないけどな。両親は、本当に俺が穏やかに暮らしていることを喜んでくれている。蒼生と話していて、急に気が付いた。俺に必要だったのは、今までの反省よりも、今とこれからの感謝なんだ。
「大丈夫だよ。今度会う時、両親にはきちんと親孝行してくる」
「はい。……どうしよ、いつもお世話になってますってなにか手土産用意したほうがいいかなあ」
 まだ気にしているのか。それはつまり、きちんと俺の両親のことを考えてくれているということだから、それは嬉しい。けれど、両親は俺が……俺たちの生活が大変だろうと気を揉んで食品や日用品を送ってきてくれているわけだ。だから、変に気を遣わず、学生のうちはそれをありがたく受け取ることが俺たちにとっての孝行なのではないかと思う。俺は蒼生の頭をそっと撫でた。
「それは蒼生が両親と直接会う時が来たらそうして貰おうかな」
「だけど、いつも美味しいもの送っていただいてるし……」
「俺の誕生日を祝ってもらうのに、手土産を持って行ったら、誕生日プレゼントがその場で倍になりそうだな。だからまたの機会にしよう」
「んー……うん」
 それにしても、この会話は、まるで……。ふっ。
「? 冬矢?」
「ううん、なんでもないよ。ところで蒼生、準備は順調?」
「冬矢に前もっていろいろアドバイスもらったから、たぶんなんとか大丈夫だと思うんだけど……」
「そうか、それは楽しみだな。何か手伝うことはあるかな」
「えっと……。朝ご飯にサンドイッチを作ってるんだけど、あったかい紅茶が飲みたい」
 弁当の手伝いはさせてくれないか。おそらく弁当を自分で仕上げたい気持ちが強いんだろう。大丈夫、俺はその邪魔はしないよ。その代わり、丁寧に紅茶をいれてあげよう。蒼生は俺の紅茶が好きだからね。
 間もなく健太も帰ってくるはずだ。そうしたら、3人で朝ご飯にしよう。

 俺のリクエストは昼食を一緒に食べることだけだったけれど、せっかくだからどこかに行きたい。そう思って調べてみると、目的の公園の中に美術館があることがわかった。しかも、特別展で現在展示されているのは、見覚えのある画家のものだった。そういえば、ずいぶん昔に両親に連れて行ってもらった記憶がある。当時は、幼かったせいもあるが、どこのものだかわからない風景の何が面白いのか理解出来なかった。けれど、蒼生とならばつまらないことはないはずだ。
 俺の事情については特に何も告げず、「美術館に行ってみない?」と声をかけると、蒼生はにっこり笑って「行く」と言ってくれた。俺は蒼生がいれば十分なわけで、そういうことにまったく興味がない健太は外にでもいればいいだろう。だが、俺たちが美術館に入ろうとすると、健太も案の定後ろからついてきた。まあ、俺だって絵画にそこまで興味があるわけではないから、本当は健太と一緒なのだけれど。
 展示室の中に足を踏み入れると、小さなものから両手を広げるほどの大きさのものまで、様々な絵画が飾られていた。どうやらテーマごとに纏められているらしく、最初のコーナーは生物を題材にしたもののようだ。
「綺麗だねえ」
 どの絵もじっくり見ていた蒼生がぴたりと長く足を止めたのは、次の部屋に入った正面にある、横に長い大きな絵画の前だ。人の少ない静かな展示室に声が響かないよう、蒼生は小さな声でそう言った。
 この部屋のテーマは「愛」か。その絵には、広い空と広い草原が描かれている。その中にぽつんと建つ小さな家がやけに目立つ。ああ、これはずいぶん大きいなと思ったから、はっきり覚えている。この画家が晩年に過ごした家を描いたものだったはずだ。絵の脇にあるプレートで確認すると、記憶に間違いはなかったようだ。田舎の何もないただ広いだけの風景。これの何が愛なのかと思うが、妻と過ごしたとあるからそういうことなのだろう。
「都会で成功を収めたあと、年老いた妻と2人で移り住んだ家なんだそうだ」
「へえ……。心穏やかに過ごしてたんだね。今まで見てきた絵より、ゆったりした感じがする。日差しがあったかくて、風もふわふわして気持ちよさそう。冬矢も現役引退したらこんなふうに暮らしたい?」
「! そうだね……。静かに暮らすのもいいかもしれない。蒼生と一緒ならばどこだって楽園だよ」
「ふ、ふふ。そっかぁ」
 蒼生はほんのり赤い頬で俺を見て微笑み、また絵に目を移す。
 こんなふうに暮らしたら、か。かつての俺は、解説を聞いて「ふーん」と頷くだけだった。知識を頭に入れて、理解して、それで終わりだった。それでも、蒼生とは話題が続く。その先の話が出来る。何もないつまらない絵だと思っていたのに。蒼生はここに風を感じるんだ。
 やっぱり、蒼生と来て良かった。固まって止まっていた俺の心を動かしてくれたのは蒼生だ。俺の心に風を入れてくれたのも蒼生だ。蒼生となら、この空間に閉じ込められてもいいとさえ思う。
 そこに、健太が小走りでやってくる。
「な、あっちの絵もすごいよ」
 精一杯小さな声でそう言って、蒼生の袖を引っ張った。
 ……そうだな。俺だったら蒼生を引き留めてしまうだろう。それを進めるのはいつも健太だ。こいつがすごい力で引っ張っていくから、俺も前に進んでしまう。認めるのは少し悔しいが、健太に救われているところは俺にもあると思う。
「ほら、これ。すっごい細かいの」
 健太が俺たちに見せたがったのは、点で描かれた女性の肖像画だった。様々な色の点は、遠目に見れば混じって見える。たしか画家の妻の絵だったはずだ。横にあるタイトルを見ると、たしかに『愛しき人』とタイトルがある。
「……あっ。これ、全部、小さな花だ」
「え?」
「ん?」
 なんだって? 蒼生の言葉に、俺と健太はぎりぎりまで絵に近付く。……本当だ。よく見れば、ひとつひとつ、わずかに花びらを開いた花の形になっている。なんて緻密な。この花を、キャンバスがいっぱいになるまで……?
「うわー! 暗くてわかんなかったけど、ホントだ。細けぇ……」
「さっきの絵でも思ったけど、この画家さん、本当に奥さんのことが好きだったんだねぇ」
 ほお、と息を吐きながら蒼生が呟く。
 小さな花。なんでもない瞬間に感じる小さな愛を、その花に込めて描いたのだろうか。
 共に暮らすことを優しい筆致で描く穏やかな想いも、愛しさを一筆ごとにぶつけて描く強い情熱も。かつての俺が知らなかった感情だ。
「今ならわかるな……。この絵みたいに、蒼生を愛している気持ちをひとつずつ数えながら花束にしたら、あっという間に両手で抱えきれない量になってしまう」
 両手で済むだろうか。部屋を溢れさせるほどになって、……蒼生は持ちきれなくなるだろうか。
「花束かあ。それも素敵だけど、」
 蒼生は右手で俺の腕を引き、ぎゅっと抱き締める。それから、反対の手で健太を引き寄せた。
「ふたりに直接伝えてもらってるから、僕はとても幸せだよ」
 ……蒼生。
 思わず残った手で、俺の腕に絡みつく蒼生の手を、上から握り締める。蒼生は嬉しそうにしていた。至近距離の笑顔と、温もり。幸せだと笑う蒼生こそが、俺の幸せなのだと心から感じる。
「オレの愛が正しく伝わってるんだな! そしたら、その幸せのさらにお返しとして、日頃の感謝を絵画として表現しようかなー」
「あはは、クレヨンで?」
「それじゃ幼稚園の作品展になっちゃうじゃん」
 ふたりが軽口を叩きあう。ふうん。詳しくは聞かないけれど、想像がつく。小さい頃、健太は自分で描いた絵を蒼生にプレゼントしていたのだろう。家の人に感謝の絵を描きましょう、などという課題を出されたら、健太は真っ先に蒼生のことを描きそうだからな。僕のことを描く時じゃないよ、と戸惑いながらも、蒼生だって喜んでいたに違いない。
「冬矢?」
 蒼生が可愛い顔で覗き込んでくる。俺は首を振った。
「せっかくだから、常設展のほうも見てみようか」
「うん」
 深い色の綺麗な瞳がじいっと俺を見ている。それをぱちぱち、と瞬きで隠すと、蒼生は俺の腕を引いて歩き出した。
 常設展は、このあたりの出土品や名産品などを、時代を追って展示する郷土博物館のようだった。蒼生は、歴史のあるものや細かいもの、綺麗なものを見るのが好きだ。ここにはそういった蒼生の興味を引く品がたくさん展示されている。蒼生は興味津々だが、健太はさすがに飽きてきたらしい。蒼生と一緒にいたい気持ちと飽きたという気持ちの間で揺れているのが態度ではっきりわかる。
「健ちゃん、向こうにお土産屋さんとか喫茶スペースとかあるみたいだよ。先にそっち行ってる?」
 にこにこと蒼生が言うと、健太はほっとした様子で頷いた。
「ん、じゃあ先に行ってる! ふたりはゆっくり見てて!」
 その背を見送る蒼生の眼差しは、大人びていて優しい。
「ふふ。健ちゃんって、こういう静かなところ苦手だもんね。よくここまで付き合ってくれたなあ」
「うん。課題でもないのに、頑張ったほうだね」
「冬矢が僕のそばにいてくれるから安心してるんだろうな」
 ……そうか。今はふたりきり、か。
 蒼生は、俺たちが蒼生をひとりきりにするのを嫌がるから、俺さえ残れば安心だと健太の気持ちを想像したのだろう。だが、今の健太の行動はそうではないように思う。おそらく、健太は俺に“ふたりきり”を譲ったのだ。いくら健太が展示物に飽きたといっても、それが蒼生と離れる理由にはならないからだ。
 まあ、ここは素直にありがたく蒼生との時間を共有させていただこう。普段から見られる展示とあって、展示室内にはほとんど人がいない。半径数メートルは俺と蒼生だけの世界だ。小さな装飾品の細かい彫刻に目を輝かせる蒼生を、古代の術具に関する解説文を真剣に読む蒼生を、人の形を模したとおぼしき小さな陶器をまじまじと見つめる蒼生を、これでもかと満喫する。夢中になってる姿が、本当に可愛い。
 横顔を温かい気持ちで眺めていると、ちら、と蒼生が目を上げた。
「なんか、僕が楽しいことに冬矢を付き合わせちゃってるみたい」
「そんなことないよ。蒼生が楽しんでいる姿は俺の癒やしなんだから」
「うー……。僕のことばっか見てない?」
「それは仕方ないことだろ」
 たしかに勉強になるし、興味深い展示だと思う。だが、見ていて幸せになる対象がもっと近くにあるのだから、つい目を奪われてもやむを得ないだろう。蒼生は俺の言葉にちょっと困ったように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑む。
「……でも、一緒に見てくれる人がいて嬉しい」
 ああ。好奇心の強い蒼生は、ひとつのものをじっくり見ることが好きだからな。そのあたりはたしかに健太とでは難しいだろう。
「昔はじっくり見られなかった?」
「うん。健ちゃんちと一緒に、たまーにこういうところに来ることがあったんだ。お父さんが美術館とか博物館とか好きだから。でも、僕とお父さん以外の誰も興味なくてね。兄は走り回りたいタイプだったし、健ちゃんの妹はちっちゃかったし、みーんなささーっと見ておしまいだったの。あ、僕も興味あるのとないのがあったから、お父さんからしたら似たようなものだったかもしれないんだけどね」
 なるほど、健太だけではなかったのか。それではまともに鑑賞はできなかっただろう。学校行事で来る時も、自分たちの見たいように見ることはできなかったからな。
 思い返して見ると、こんなふうにふらりと美術館に来ることなんて今までなかった。俺と健太が芸術に興味がないから、蒼生を誘う候補に挙がることがなかったように思う。だが、そうだな。俺も静かな場所が好きだから、蒼生と美術館巡りをするのはいいな。俺と蒼生には、意外と合っているかもしれない。あとで蒼生が興味を持ちそうな展覧会を調べてみることにしよう。
 ひとしきり展示を満喫して、展示室を出る。満足げな蒼生が見られた俺も大満足だ。
「さて、健太はどこかな」
「えっと……あ、お土産屋さんの本棚のところにいる」
 一瞬で見つけて、蒼生はそちらに向かって手を振る。健太のほうも、すぐに気付いて手を振り返す。相変わらず早いな。幼馴染み特有の見つけ方でもあるのだろうか。健太は昔からちょろちょろしていたらしいから、それで蒼生の健太を探すテクニックが磨かれたのかもしれない。
「ごめんね、お待たせ」
「おー、全然待ってないよ。漫画で読むこのへんの歴史ってやつを立ち読みしてた。あ、あと、これお土産~。昔ながらの素朴なクッキーだって。なんか懐かしい感じがして買っちゃった」
 健太は笑いながらビニール袋を掲げて見せる。ふうん、それで済んだのか。
「小腹が空いた頃だろうから、喫茶スペースにいるかと思ったけどな」
 俺が言うと、健太は口を尖らせた。
「蒼生の弁当を楽しみにしてんのに、腹一杯にしたらもったいないだろ。……あ、でも、クッキーの味見はノーカンで」
 ふっ。それはそうだ。健太の手には朝からずっと弁当が入ったバッグがある。俺のリクエストだから俺のものだと主張してもいいのだが、荷物持ちは自分の仕事だと譲らなかった。それだけ楽しみにしているのだろう。それは、俺も一緒だ。うん、そろそろいい時間になって来たな。
「それじゃあ、お昼にしようか」
「うん」
「やった!」
 元気のいい返事がロビーに響き、ふたりは顔を見合わせて口を両手で押さえた。まったく、仲がいいな。
 外に出ると、よく晴れて、とてもいい天気だ。気温もちょうどいい。美術館から少し歩いたところにあるピクニックエリアと名付けられた広場には、家族連れが多く弁当を広げていた。端のほうではテントを張ってバーベキューをやっている若者たちもいる。宿泊は出来ないものの、ああやって火を使ってもいい区画があるのだそうだ。健太はあっちのほうが好きそうだな。
 反対側の端のほうは比較的空いているようだ。俺たちは、気持ちのよさそうな木陰にレジャーシートを広げ、いつも通り、蒼生を真ん中に俺と健太が挟んで座る。すると、蒼生はちょっと不思議そうに俺たちを見比べた。そうだろう、弁当を食べるために座るのだから、弁当を中心にしたほうが自然だよね。けれど、蒼生は結局このポジションに何も言わなかった。俺は当然蒼生のすぐ近くに座りたかったし、健太もそのはずだ。それが蒼生にも伝わったのだろう。
 健太からバッグを受け取ると、蒼生はいそいそと大きめの食品用保存容器をふたつ取り出す。ああ、そうだ。こういうのが理想だった。
「ええっと。こっちがおにぎりで、こっちがおかず」
 蒼生の白い指が、丁寧に蓋を開ける。三角形のおにぎりが行儀良くずらりと並んで姿を現した。おかずのほうは、唐揚げに卵焼きにアスパラベーコン、ブロッコリーのサラダにウインナー、ミニハンバーグ、ミニコロッケ……。見事に思い描いていたピクニックの光景だ。
「うわああぁ……。これだよこれ!」
 感激したらしい健太が声を上げる。感想が同じなのが悔しいな。でも、その通りだ。
「えっと。揚げ物は全部冷凍食品なんだけど……」
 申し訳なさそうに蒼生が言う。何を言っているんだ。
「それを解凍して詰めてくれたのは蒼生だろう? 準備してくれたこと自体が嬉しいんだよ。それに、他のおかずもおにぎりも、たくさん用意してくれたじゃないか。卵焼き、すごく綺麗だね」
「……嬉しい」
 ぽっと頬を染めて、蒼生は肩をすくめる。可愛い。今日はちゃんと素直に誉め言葉をそのまま受け取ってくれているな。とてもいいことだ。
「な、おにぎりの中身何!?」
「んっとね。こっちから、梅干し、鮭、かつおぶしで、このへんがごま塩」
「やべ、どれもこれも美味しそうじゃん!」
 健太め、大興奮だな。そのまま飛び付いてしまうのかと思ったが、ぴたっと手を止めて、ごほんと咳ばらいをする。それから、フィルムで丁寧に包まれた海苔をそっと俺に差し出した。
「えー、まずは、本日お誕生日の冬矢さんからどうぞ」
「ははっ。そこはきちんとしてるのか」
 別におまえが真っ先に手を付けたとしても、文句なんか言わないんだけどな。だが、譲ってくれるというのなら遠慮なく。俺は梅干しが入っているという真っ白なおにぎりに海苔を巻いた。
 ……うん。美味しい。
「美味しいよ。塩加減、ちょうどいいね。ごはんが甘く感じられて美味しい。崩れないけれど口の中でほどけて、……力加減も上手だ。梅干しの酸っぱさとのバランスもいいな。うん、すごく美味しい」
 蒼生はほおっと息を吐く。
「よかったぁ」
 ずっと笑っていたけれど、どこかで不安だったんだろうな。心配することなんて何もないのに。でも、それが蒼生だってわかっているから。君が安心できるようになるなら、いくらでも言葉にしてあげる。
「こちらもいただこう。あ、卵焼き、だし巻きだね」
「冬矢が好きだから……」
「ありがとう、嬉しいよ。うん、俺の好きな味だ。美味しい」
 本当に一生懸命頑張ってくれたんだな。俺のために考えてくれたんだな。本当に嬉しい。たしかに助言は求められたけれど、俺がしたことはアドバイスだけだ。
 俺は、蒼生に愛されている。蒼生の行動が、言葉が、それを教えてくれている。
「あぁ……蒼生のこと、好きだなあ……」
「へっ?」
 驚いたように、蒼生は手に持ったままの容器の蓋を抱き締めた。俺は真っ赤な蒼生の顔を覗き込む。
「どうして驚くの」
「えっ、ううん、その、外で急にそんなこと言うから」
「大丈夫、広い場所だから他の人には届かないよ。……だって、俺のために蒼生がしてくれたんだと思うと、やっぱりどうしても嬉しくて嬉しくて、声に出てしまったんだ」
「そ、それは、あの、僕も、だっ、大好きだから……。嬉しい……」
 ぎゅうっと蒼生の手に力が入ったのが見える。蒼生の「大好き」の言葉が暖かい。体中、すべての細胞に染み渡るようだ。
「ほら。俺ばかり堪能しているのは気が引けるんだけどな。蒼生も健太も、一緒に食べよう」
「えへへ、うん」
「待ってました!」
 蒼生は蓋を置き、健太は身を乗り出す。許可が下りたことがよほど嬉しかったのか、健太は物凄い勢いでおにぎりを手に取って口に運んだ。見れば、利き手に握られた箸には既に唐揚げがキープされている。まったく、仕方のない奴だな。
「ん、おいしー。鮭も美味しいし、これ、ごま塩のも美味しい」
「あれっ、ふたつめ?」
「いつの間に……」
 一緒に、とは言ったが、俺の取り分まで奪っていくというなら負けていられない。俺も次の料理に箸を付けた。すると健太の勢いがさらに増す。
「これ、むぐ、美味しい」
「ブロッコリーのドレッシング、さっぱりしていていいね」
「オレンジ果汁で作るやつを料理番組でやってて。美味しそうだから真似してみたんだ」
「手作りか、すごいね。気に入ったよ」
「マジで? あ、ほんとだ、爽やかだー」
 俺と健太は次々に手を伸ばす。空は真っ青に澄んでいて、気持ちのいい風が吹いて、美味しい食事をして、隣には蒼生がいて。なんて贅沢をしているんだろう。
 蒼生はおにぎりを頬張りながら、いっそうにこにこ嬉しそうだ。
「足りなかったかなあ」
 その声は、とても柔らかく暖かい。それが耳に届くのが心地いい。
 幸せな1日だな、とつくづく思う。まだ半日しか経っていないけれど、はっきりとわかる。
 蒼生に出会えてよかった。
 あとで、きちんと言葉で伝えよう。

 食事を終え、しばらくその場で余韻を楽しんでから、俺たちは帰り支度を整える。この後の予定は、健太が予約をしているというケーキを受け取って、家に帰るだけだ。夕飯の支度も蒼生にお願いしているし、その準備の時間を削らせてしまうわけにはいかない。それに、一刻も早く、誰からも見られる心配のない場所で、誰にも見せたくない蒼生の表情をたくさん見たい、という重要な理由があるからな。
 既に、心も体も蒼生で満たされている。けれど、まだ足りない。欲しい。もっと蒼生が欲しい。
 隣を歩く蒼生を見ると、視線が返ってくる。ふんわり優しい、穏やかな表情。木漏れ日の中で見る笑顔は、本当に絵画のようだ。ああ、抱き締めたいな。やっぱり、早く帰ろう。
 その時、ぱっと向こう側の健太が顔を上げた。蒼生がつられてそちらを見るので、俺も仕方なく目をやる。なるほど、さっきから賑やかな声が聞こえると思ったら、アスレチック広場があるのか。俺たちの視線の先では、ぐねぐねと曲がった木の上を、親に手を繋がれた小さな子たちが大騒ぎしながら渡っている。
「……なあ……。ひとつだけ上ってきていい?」
 ちらっとこちらを伺うようにぼそりと健太が言った。さては、朝少し走っただけでは体を動かし足りないのか。
「行ってくればいいじゃないか」
「こういうの見たら、そうだよね。気を付けていってらっしゃい」
 蒼生がひらひら手を振ると、健太は大きく頷き、蒼生にバッグを手渡す。そして少し森の中に走って行ったかと思うと、細い丸太が積み重なって出来た壁を、ロープを使ってするすると上っていく。よくあんな速度で上ることができるものだ。
「……元気な奴だな」
「相変わらず、我慢出来ないんだねぇ」
 くすくす、蒼生が楽しそうに笑う。
 これは蒼生にとっては“相変わらず”なのか。たしかに、野木沢家と寺田家合わせて子供が6人もいたら、体を使う場所にはよく遊びに行っていたことだろう。話を聞く限り、蒼生は常にそこから一歩引いていたようだ。おそらく蒼生は、はしゃぎ回る健太をこの保護者のような目で見守っていたに違いない。
 俺には、そのぶんの思い出が、どうしても足りない。
「ねえ、冬矢」
 あっという間に頂上に辿り着く健太を目で追ったまま、蒼生が小さく俺を呼ぶ。
「なに?」
「僕、今、冬矢のこと傷付けたかな」
 え? 驚いて蒼生を見ると、その目は健太の姿が消えた壁よりももっと高く、空のほうを見つめていた。
「そんなことはないよ。傷付いてなんかいない。そんなふうに見えた?」
「だって、最近……、僕が話したあと、ちょっと考える時があるよね。……たぶん、僕が小さい頃の話……。特に、健ちゃんとの昔の話する時」
 ……気付かれていたのか。そうだな、蒼生は聡いから。違和感を覚えても無理はない。ならば、きちんと話したほうがいい。誤解はされたくない。
「そう、だよね、健ちゃんの話するってことは、冬矢にとっては嫌だよね。自分以外の彼氏の話なんて」
 俺は蒼生の言葉を遮って、その手を握る。
「違う。嫌じゃない。そういうわけじゃないんだ。……ごめんね、本当に嫌じゃないよ。蒼生と健太の昔の話を聞くということは、俺が知らなかった小さい頃の蒼生の話を聞ける、ということなんだ。むしろ、嬉しいと思っているよ。ただ……、ほんの少しだけ、羨ましい。その頃の蒼生と一緒にいたかったなという気持ちは、どうしても抱いてしまう。だから、得られなかった思い出を取り戻したいと思ってしまうんだ。簡単に言ってしまうと、俺が考えていたのは、もっと思い出がほしい、それだけだ」
 それは埋められない溝だ。俺と蒼生は、出会うまで出会えなかった。出会っていた健太が羨ましい。けれど、それを嘆いたところでどうしようもない。そんなことはもちろん理解している。
 地面に目を落とし、もう一度俺を見た蒼生は、少し寂しそうな顔だった。
「僕だって、小さい冬矢と一緒にいたかったよ。冬矢といろんな初めて、一緒にしたかった。今日見た絵画展の絵、冬矢、見たことあったんでしょ」
「それもわかっていたの?」
「うん。話してるの聞いてたら、あ、知ってるんだなって思った」
 蒼生は……そうか。俺と同じ気持ちを味わっていたのか。もっと早く出会いたかったと、思ってくれてるのか。
「本当に、僕、冬矢に嫌な思いさせてない?」
「ない」
「そっか」
 ほっとした蒼生はふんわりと表情を和らげる。蒼生。
「……でもね、たしかに一緒にいられなかった時間はたくさんあったけどね、」
 にっこり笑い、蒼生は正面から俺にそっと抱きついてきた。ふわ、と甘い香り。
「たぶん、僕と冬矢が出会ってなかった時間なんて、“あれっ、その程度だったっけ?”って思う日はすぐ来ると思うよ。だって、こんなに濃くて甘い毎日を3人で過ごしてるんだもん。一緒に暮らす前、どうやって過ごしてたか思い出せないくらい、僕だって毎日幸せだから」
「蒼生」
「3人の思い出でいっぱいにしようね」
 ああ、俺の大好きな、きらきらした可愛い笑顔だ。
 そうか。
 出会えなかった日々のぶん、もっとたくさん思い出を作っていけばいいんだ。
 そして、それを蒼生も望んでいる。
 俺と共にいて幸せだと笑う蒼生と、これからもずっと一緒に……。
「あ」
 ぱちくりと目を丸くして、蒼生が視線を動かす。そこには、木の陰に隠れるようにして健太が立っていた。
「おかえりなさい」
「満足したか? そんなところで何してるんだ」
「いや、一応、誕生日の奴の邪魔しちゃいけねえかなと思って」
 ふっ。まったく。どこまで人が好いんだろうな。途中からかもしれないが、俺と蒼生の話は聞こえていただろう。
「さあ、早く帰ろう。3人の思い出にしっかり残るような誕生日ケーキを予約してくれているんだろ?」
 蒼生と健太がぱっと顔を輝かせて、同時に頷く。
「そうだよ。健ちゃんがね、ケーキ屋さんにいろいろ相談してくれたんだ」
「蒼生とちゃんと相談して決めたんだぜ」
「うん。楽しみにしててね!」
 ふ、ふふ。そんなにハードルを上げて大丈夫なのかな。まあ、蒼生が考えてくれたというなら、俺はどんなものでもきっと喜んでしまうだろう。
 健太が、蒼生からバッグを受け取り、歩き出す。
 蒼生が、その隣に並んで歩き出す。
 そして、蒼生は、にっこり笑って俺に手を差し伸べた。
 ああ、いつもの並びだ。
 こうやって、俺たちはたくさん思い出を作っていくのだろうな。それはなんて嬉しいことだろう。出会っていなかった時間は、きっといつか、ただの思い出に変わるんだ。
 その実感をくれた蒼生の手を、俺はぎゅっとしっかり握りしめた。

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