投稿日:2026年03月08日 10:49 文字数:30,384
カナリヤ 2
勘当if続きです⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
だって、ローブを靡かせながら宙に浮いた魔導書に手を翳して杖を構えるワースくんって、格好いいとおもって……(犯行声明)
相変わらず腕をぐるんぐるん回しながら「よぉし、嘘をつくぞぅ!」って言いながら作りました。なので、「あれ?原作にこんなこと書いてあったっけ?」と思っても検証しないでください。
3話目も一応考えてはいるのだけども、けっこーややこしいやり方で書いてるので、早くは書けないです。あんまり期待しないで待っててくれると嬉しいです⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
◆◇◆◇◆
ワース・マドルという人間は、幼い頃からよく弁えていた。
両親から強い叱責を受けるのは、出来が悪い己のせいであったし、兄がちっとも自分を見向きもしないのは、それだけの価値がないからだった。出来損ないのワースが誰より努力を重ねるのは仕方がないこと。ただ、それでも寝物語に読む童話に憧れない訳ではない。父が優しく頭を撫でてくれるのを、母が愛おしげに抱きしめてくれるのを、兄が手を引いて遊びに誘ってくれるのを、こっそり夢想する程度には子供であった。……まァ、現実にそんなこと、ただの一度も起こらなかった訳だが。
使用人が何人もいる大きな屋敷の中に、ワースはいつだって1人きりだった。お陰でひとり遊びは大の得意だった。日々の課題をこなす傍ら、覚えたての泥魔法に沈んでみたり、ヨタヨタと進路の怪しい箒で飛んでみたり。なにせひと所に留まっていれば、モヤモヤとした両親への讒言や兄と自分を比較する声がどこともなしに耳に入ってしまう。家庭教師らが施す魔法の授業も、とにかく叩かれるから嫌だ。その後に両親に叱られるのは、もっと嫌である。周りの声なんて聞き取れないくらい、動き回っている方が幾らか心易かった。
だからその日も、ワースはひとり遊びに出掛けたのだった。
目印にしている山に向かって一直線に駆け抜けて、どこまで行けるのか。いつもより遠くまで来てしまったことに気が付いたが、どうせ戻ったところでいつもの日常が待っているだけ。何よりも、今日の課題は既に終わっているのだから自由時間に何をしても構わないだろう。何度目か見送った兄の背中が、ワースの気持ちをささくれ立たせた。どうせ誰も振り向いてはくれないのだから、どこへなりとも飛んでみよう。
結論から言えば、その行動は間違っていた。
途中で飛び疲れて休憩にと足を踏み入れた洞窟に「それ」は居た。……いや、「あった」と言うべきか。見るからに禍々しい魔力を迸らせる魔導書。この世に「悪魔」を顕現させる異形の書。アレと対峙して、どうして無事に帰って来れたのか、ワース自身にも分からなかった。ただ、這々の体でマドル家の屋敷に戻ってきてすぐに見たものはハッキリ覚えていた。己の血交じりの泥が付着して硬くなった髪と、整わない息と、だくだく足から流れる血に比して熱い身体で見上げた先の兄の瞳が、不思議に凪いでいたことを。玄関に飾られる無機質な壺を見るような瞳でワースを一瞥した兄は、何も言うことはなくスタスタと廊下の先に消えていった。父母ですら、怪我に文句を言って、魔導書と対峙し逃げ延びたとのワースの言葉を嘲笑ってみせたのに。兄は、まったく、何も。
あの日、自分には「兄」というものは居ないのだと知った。単純に、腑に落ちたのだ。物語に描かれるような、ワースが夢想したような、頼りになる血の繋がった年長者など、ワースには誰も居なかったのだと。オーターが去った後、血と泥に塗れたワースを叱る母を見上げて、ワースはひとつ頷いた。お伽話は幻想で、ワースの現実はこちらであることを。その時嫌というほど理解したのだ。その日からだっただろう、ワースの耳に、ほんの少しばかり引っ掛かるような声が届くようになったのは。魔力を高め、魔法をより上手く扱えるようになるにつれ、その不思議な声は大きく聞こえるようになっていった。さらには夢まで見た。そうあの日、ワースが逃げ延びたあの洞窟で、ぼんやりと「悪魔」の姿が浮かんでいる様を。こちらを手招きするような、それでいて不思議となんと言っているか聞き取れない音は、その「悪魔」の声だった。それに気が付いた時、ワースは自分の悲鳴で飛び起きた。
その夜以来、誰にも相談できなかったワース・マドルを誰が責められるだろうか。
名門と呼ばれる学校に入学した頃には兄は出奔していた。「頼れる大人」なんて言葉は慣用句としか知らない。唸り声のような「悪魔」の声が寝ても覚めても聞こえるようになった頃には兄は神覚者となったらしい。両親は兄のように分かり易い「価値」をワースに求めた。それに応えるには、ワースの力はどうしたって足りなかった。それを理解出来るだけの聡明さが、悲しいことにワースにはあった。
在学中のどこかで、気でも触れていたらワースの人生は少し生きやすかっただろう。しかし「マドル家の出来損ない」であるワースは、「名門イーストン魔法学校の優等生」でもあった。その才覚は首席に添えられる程でなくとも、座学や実技においてワースはとにかく優秀だった。突出するものはなく、どれも平均的に、優等以上。精神においても、ワースにとっては大変不幸なことに、凡そ他人より強靭であった。「悪魔」の声程度でどうにかなれるほど脆弱で矮小であったらどれほど良かったことか。
幾らかの努力を要して使えるようになったセコンズの中に、ワースは自分の泥から顕現する「悪魔」をみた。その姿は不思議と腹落ちした。なんせ、あの洞窟で出会ったものと、夢で見る「悪魔」と、まったく同じ姿形をしていたのだから。なるほどあの「悪魔」はずっと、ワースの中にいたのだ。泥の中に沈めて封印したつもりになっていたが、そもそもまだ児童と呼んでも差し支えない年齢であったワースがそこまで複雑な魔法を使えたはずもなかった。つまり、あの魔導書はいまも、あのまま。きっと、あそこに。
ぞわり、とワースの背筋に冷たいものが駆け抜けた。
その筆舌に尽くしがたい恐怖を、どう表現したら良いだろう。
世界を崩壊させようとした犯罪者に加担し魔法薬まで飲んだのだ、名門マドル家からは除籍されていたし、その扱いは当然であろう。なんにせよワースはとかくよく弁えた子どもであったので、貴族の振る舞いもよく承知していた。そんな自身の中にあるひと欠片の貴族的矜持が、恥の上塗りになる事を恐れたのではない。自分を仲間と呼んで寮の三席に据えた同輩が、慕ってくれた後輩が、困った顔でいつもフォローしてくれる幼馴染が、広い屋敷の中ひとり遊びする他なかったワースに暖かな記憶を与えたそれら全てが、幼きあの日に危険な魔導書を泥に沈めるだけで安穏と過ごしてきたワースに気が付く事を恐れたのだ。勿論、魔導書に相見えた頃のワースにその力がないとしても、最初に「悪魔」の声が耳に響いたあの日、「悪魔」が夢に現れたあの日、自分の泥の中から「悪魔」が現れたあの日、そして「無邪気な淵源」から受け取った魔法薬を飲んだあの日、いつだってワースは自分の過去を精算出来たはずだった。何故、解決しようと動かなかったのか。何故、他人に頼ろうとしなかったのか。恐怖にすくんで動けなくなったのか?子供の頃のあの日のように?……いいや、怠惰であっただけだ。ワースはそう自身を結論付けた。反論はあろう。けれど、ワースにとっては、「怠惰」という烙印だけが全てであった。
幼少のワースが試みた泥魔法による封印は、正常に発動しないまでも魔導書を泥の中に沈めたままだ。恐らくそれで、魔導書との間に何らかのラインが発生したのだろう。意識を集中してみれば、なるほど確かに、自分とあの洞窟の方角に向かって遠くの方に繋がりを感じた。今まで一切これに気が付かず、いや気が付かない振りをしつつ生きていられたなんて、なんと迂闊なことか。遠くに感じるその気配は、ワースが自らに気が付いた事を喜んでいるらしかった。聞き取れもしない声で、ワースを呼んでいる。それを耳の奥に響かせたまま、ワースはひとしきり頭を抱えた。あの魔導書は間違いなく意思を持っている。ワースを呼び寄せて何をするつもりなのか。今でこそ宙ぶらりんの関係であるが、ワースが魔導書を調伏するか、魔導書がワースの意識を押し潰しながら飲み込むか、どちらが速いだろう。
ワースが卒業後の進路を大きく転換したのはそれを理解したからだった。家のしがらみから解放されて、本当は各地を転々としながら倹しく生きようかとも思っていた。イーストン魔法学校卒業の名は伊達ではない。実際扱える魔法も多いワースは、根なし草の生活でもやって行ける自信があった。けれど身のうちに抱える魔導書をどうにかしなければ、ワースの人生は始まらない。
魔法局を志したのは、単に情報の終着地だからだ。かなり勤勉な学生であったワース・マドルといえど、術者からの魔力なしに、また示される意思なしに、術者へ「悪魔」を遠隔召喚してくる魔導書など聞いたこともない。調伏するのであれば、あの魔導書の正体を掴む必要がある。家を勘当された身分で上級学校を目指すのは難しい。であれば、魔法界最高峰の蔵書を誇る魔法局の書庫に忍び込む他ない。その最も確実で正当な手段が「魔法禁書管理局の職員になる」ということだった。
実のところ、ワース・マドルはかなり上手くやっていた。なんせ元より勤勉で努力家だ。あっさりと就職を決め、魔法禁書管理局に潜り込んだ。一時期若気の至りで不用意な仲間と関係が出来たとはいえ、勤務態度は真面目で勤務時間外にも自己研鑽に励んでいる。雑用も進んでやる人間の出来た新人。それら他人からの評価はワースの真の目的を綺麗に糊塗した。魔導書の専門書を読み漁っていても、誰も疑問には思わない。
「……〜ッだっつぅのによォ……っ!」
泥魔法を使いつつ、壁を走る。べちゃべちゃべちゃっ、と独特の音が響き、ワースが駆け抜けた跡には礫が矢のように刺さった。防戦一手である。人間相手であれば魔力切れを狙う手もないことはないが、魔導書ではほぼ意味がない。なんせ魔導書が勝手に魔法を放っているのだ、内部に膨大な魔力の貯蓄があるか、空気中の微量な魔力をかき集めていると見るべきであろう。100%の確証があるとは言い難いが、この魔導書は後者だろう。原理上不可能ではないが、本当にやってのけるだなんて、神話上の生き物かよ。そんなもん、生身で削り切れる訳がない。ワースは鋭く舌打ちした。
始めから、分かっていた。
もしもワースの秘密に辿り着くとしたら、あの血の繋がりがある男だろうと。
魔導書から逃げたあの日、屋敷の玄関で傷だらけのワースに一瞥をくれたあの男。クソ生意気な後輩に師匠面していたのを見た日、ワースは密かに胸を撫で下ろしていた。あの後輩たちが魔導書の扱いに秀でているとは聞かないし、活力溢れる子供を相手にしている間はあの厳格な神覚者の瞳はこちらへ向かない。これまで通り、無価値な弟など視界の端にも掠めてくれるな。そんなワースの願いも虚しく、大戦後、砂を背負う神覚者はこちらにその瞳を向けた。なぜ。よりにもよって。なぜ。今になって。
この洞窟に入る前に、最後の下調べをしている最中に砂の神杖に出会った時、もうダメだと思った。ついに追い付かれたのだと。延期や中止の手は取れない。これ以上最適な日程はない。どうしたら良いのかと。「力になる」と不安げに曇った表情で上目遣いにこちらを見る瞳に、正直心が揺れた。ひょっとしたら本当に自分を心配していて、禁書と指定されるような魔導書を密かに手に入れようとしているワースを追いかけていた訳ではないのではないかと。この数ヶ月不器用に示された親愛の情は、本当に偽りのない真心であったのではないかと。
しかしワース・マドルは、……いや、今となっては「ただのワース」は、よく弁えた青年だった。
神覚者に引き上げられるような才覚が、希少な種族の血が、自分にはあるか?……答えはノー。あり得ない。「砂の神杖」ともあろう人が、今更「出来損ないの弟」に関心を持つか?……これも勿論、ノーである。
……で、あれば、規則に厳格な神覚者の行動理由など知れている。
禁書指定を受ける魔導書を届け出なく所有、隠匿するのは法に規定された罪だ。与えられるものは、罰しかあり得ないだろう。
***
(……つっても、出力自体は大した事ねェんだよなァ)
礫は飛んでくるが、避けられるレベルである。たとえ回避出来ずとも、これくらいなら泥で防いでも問題ないだろう。魔導書から投げ続けられる魔法を頭の中でシュミレーションしつつ壁を蹴って、「悪魔」へ向かって踵落としをする。ばっちり受け止められたところで相手の腕を蹴って退避した。まともに組み合っては勝てない。大きさもさる事ながら、筋力のそのものが違う。けれど向こうも深追いしない。だいたい、魔法で強化しているとはいえ、物理攻撃は通るのか?さっぱり分からん。くるりと空中で一回転して壁に足を付いたワースは、窪みに足を引っ掛けるようにして地面まで降り立った。その動きひとつひとつに、「悪魔」が喜んでいる気配がする。
(テンション上げてる、……つーか、)
子供みたいにはしゃいでいる、みたいな。
くるり、と杖を回して構え直す。その間にも「悪魔」の楽しげな波動が伝わってきた。
そういえば同じような視線を、いつか感じたことがある。まだワースがイーストン魔法学校に通っていた頃、同室のアビスと街へ買い物に行ったことがあった。その頃まだ瞳を隠すついでに顔を丸々隠していたものだから、小さい子供に泣かれてしまったのだ。尤もその子供は迷子であったから、アビスの仮面を見ずとも泣いていた気がするが、そこは割愛しよう。ともかく、泣く子には勝てぬということで、ワースの魔法で宥めてやった。光る玉、動物を模した泥人形、ついでにワースの習いたての体術。大道芸人か何かになったような心持ちがしたが、おろおろしていたアビスが落ち着き、ワースの一挙手一投足、指のちょっとした動きにまで与えられるキラキラした瞳と惜しみない拍手は心地よかった。
いま、「悪魔」はワースへその時と同じ視線を向けている。気のせいだろうか?考え過ぎだろうか?それとも希望的観測で勘が鈍っているのだろうか?
(……いっちょまぁ、試してみるか)
別に無駄骨になっても構わない。一度で魔導書を調伏出来るとまで考えていない。……いや、恐らくオーター・マドルにはワースが行おうとしていることがバレた気がするから、介入される前に決着をつけるか逃げるかすべきではあるが、それでも。
「おぅら、リトル・ボーイ!遊んでやるぜ?」
リトルと呼ぶには大き過ぎる「悪魔」ではあったが、そこはまぁ些細な問題である。「悪魔」が咆哮を上げた。ワースの耳にはそれは、歓喜の音に聞こえた。マッドロス、と口の中だけで呪文を唱える。「悪魔」の大きさに合わせて些か大きめな泥人形は、全身が出来上がると「観客」へ向けて慇懃に一礼した。傀儡魔法の初歩訓練で良くやらされた曲目を次から次へと現れた泥人形がくるくると演じる。ついでにと、軽くハミングしながら指揮棒のように杖を振るう。音魔法である。専門でなくとも、ある程度の旋律ならワースでも生み出せる。その拙い音色を聞くのはたった一体の観客とはいえ、手を抜くなどあり得ない。
(……見てる、な)
泥人形たちの毎日を食い入るように眺める「悪魔」は、時よりきゃらきゃらと高い笑い声をあげた。たぶん迷子になっていた子供とさほど変わらない反応であっただろう。凶悪そうな容姿と地響きを響かせる高笑いで雰囲気は全然違うが。
思えば、礫を投げながらこちらを追い掛けるのはさながらドッチボールのようであったし、子供騙しの曲目はサーカスだ。そう、まるで。
(……ガキが、喜びそうな)
ワースは一瞬胸に広がった苦いものを奥歯で噛み潰し、苦笑した。なんだそれは。まるであの「悪魔」と出会った頃のワースが求めていたものそのものではないか。1人では出来ないボールの投げ合い、誰かに連れて行ってもらう大道芸。独りで下手くそな箒を飛ばすくらいしか、娯楽がなかった子供の夢想だ。それは、叶わなかった過去のものだ。
「……チッ」
舌打ちをしたものの、ワースの顔は笑っていた。小さな子供の泥魔法に沈められた魔導書は、ひょっとするとワースが考えていたよりもこちらに対して好意的なのかもしれない、と頭のどこかで考え始めていた。振り返ってみれば、この歳のワースと渡り合えているのだから、どう考えても幼少期のワースなど、ぷちん、と一撃で簡単に終わっただろう。だいぶ手傷を負わされたが逃げ切れたのは、魔導書がワースを遊び相手と捉えていたからではないだろうか。泥に沈めたのも、何かの遊びの一環と認識していたら、追撃がこれまで無かったことも理解はできる。ワースを呼び続けたのも、目の前でいまこうして楽しげなのも、単純に、本当に、魔導書からしたら遊んでいるだけだとしたら。遊び相手が欲しかっただけだとするならば。
「見てるだけじゃア、飽きるよなァ?」
くるくると踊らせた泥人形に一礼をさせ、次の遊びを考える。子供の頃のワースが、一体何をして遊びたかったのか、思い出と共に口の端に笑みを登らせながら。
***
結論から言えば、ワースの当て推量は正しかったと評すべきだろう。自身の持つ貧困な「子供が喜びそうな遊び」を片っ端から試しているうち、分かりやすく魔導書の機嫌は上向いた。何故、魔導書の心の機微が読み取れるのかは、いまこの際気にしない。ただひとつ確実なのは、段々とワース自身もこの「悪魔」に愛着らしきものが生まれて行ったということだ。きっと噂話に聞く「近くの公園で知らない子と遊んだ」というのはこのような状態を示すのだろう。もっとも、大きさも力も全然違うから、猛獣の顎下を擽ぐるような繊細さが必要とされはしたが。魔力の底がだいぶ見え始め、手足もへとへとになった頃、魔導書の気が済んだ。……いや、その事象を「気が済んだ」と総括して良いものか、だいぶ葛藤があるものの、状態として「悪魔」が消え、残ったのは泥にぬかるんだ地面が現れた。ワースは慣れ親しんだぬかるみをざぷざぷと進み、中心にぴたりと杖を据える。なんせ元はワースの泥だ。年月が経とうとも、泥はワースの意思に沿って動く。すぅっと、努めて深く息を吸った。
「来い」
ごぽり、とまるで呼吸のように気泡を吐き出し、短い命令に従って一冊の本が浮かび上がる。初めて対峙した時とは打って変わって凪いだ海のようなその魔導書は、つい今先ほどまで泥に沈んでいたとは思えないほどピカピカと光っていた。中の「悪魔」が遊びに満足していたのだから、それも当然と言えよう。ワースは胸の高さに浮かぶその魔導書に手を伸ばした。しかし、
「──辞めなさい」
ぴしゃりと冷たい声に、ワースの指は思わず跳ねた。振り返ればここ数ヶ月の間に見慣れてしまった顔がある。在学中はインターン先に、学生寮に、就職してからは不自然な程に廊下ですれ違い食堂でも見かけた顔だ。自身の心に従って、ワースは鋭く舌打ちをした。まじかよ、「悪魔」が転移魔法を使ってまでぶっ飛ばしたんだぞ。どうなってやがる。
「これはこれは神覚者様。……お早いお戻りで」
「その魔導書から離れなさい」
ぴたりと杖がこちらを向いている。泥に満ちたこの空間は、その性質からして空気が湿っており、少しばかり重い。その重みが少しずつ軽くなっていく。泥から砂を取り出している証拠である。ンな臨戦態勢取られちゃ会話も何もありゃしねェな、とワースは軽く肩をすくめた。
「それは禁書の類いでしょう」
「……さぁ?」
「私が預かります。お前は触れないように」
「神覚者様?ご存じのこととは思いますが、禁書は知の神杖様が管轄する魔法禁書管理局の所管。ご存じの通り俺は禁書管理局の職員。魔法魔力管理局の局長様が出る幕ではありません」
努めて冷静に、考えていた通りのことを口にした。オーター・マドルは眉を顰めた。そのような顔をすると父親に似ているな、とワースは思った。同時に、あれだけ恐ろしかった父親と同じ憤りを示す顔を見ても、萎縮しない自分に密かに驚いた。
ワースにとって「砂の神杖」に追いかけ回される日々は、なかなかのストレスを感じるものであった。なんせ、兄の顔は父に似ている。何を考えているのか分からない大型の肉食獣を思い起こせばだいたい近いだろうか。どんな気まぐれで、どんなうっかりで、致命的な怪我を負わされるか分からない。
フ──、と重苦しいため息をオーターは吐き出した。噂に聞く「砂の神杖」のため息だ。これが聞こえたらとにかく退避しろとは魔法局の新人に口酸っぱく言われる、先輩からのありがたい助言である。言われなくとも、今のワースには逃げる以外に打てる手はない。
「お前はいま、休暇中だろう」
「休暇中でも職員は職員ですので」
ワースはもう大人なので、「テメェだって休暇中だろうが、」とかは言わない。にっこりと愛想笑いを浮かべた上で、自身もしっかりと杖を持ち直す。
「ご安心を、神覚者様。こちらの魔導書は私が管理いたします」
「……!」
「マッドロス!」
言って、宙に浮かぶ魔導書を胸に抱える。そして同時に魔法を展開する。足元の地面が盛り上がり、どぷりと泥がワースを飲み込んだ。最後に見たのは、らしくなく冷静さを欠いた表情でこちらへ手を伸ばすオーターの姿だった。なんで砂で転移を防がなかったんだろうなぁと一瞬頭を掠めたが、まぁどうでも良いこと。胸に抱き留めた魔導書が不釣り合いにも楽しげな波動を返すのに、ワースは出来の悪い弟を見るような表情で笑みを溢した。
◆◇◆◇◆
まずい事になった、とオーターは密かに嘆息した。
魔導書の中でも禁書と呼ばれる類いのものは、大きく分けて2種類ある。ひとつは、ある手順に従うと心身に致命的な影響を及ぼす書籍である。例えば本を開く、ある一節を指でなぞる、書いてあるものを声に出す等、何かの行動がキーとなって魔法が発動する。そこに術者の意思も魔力も関係ない。ある種システマチックな魔法が仕組まれた魔法道具に近い。大抵書庫の中に厳重に封印されるのはこの類いだ。だが、魔法が仕組まれている行動を起こさなければ何も起きないという点では安全であろう。もうひとつは、長い間に強力な魔力に晒され続け、いわば精霊や神が宿ったかのように魔導書自体に意思がある書籍である。この類いは前者よりも厄介で、自らの意思で持ち主を選ぶ。魔導書を手に取り縁が生まれてしまえば最後、持ち主は好むと好まざるとに関わらず、「魔導書の術者」にされてしまう。基本的に持ち主を気に入っているから魔導書が進んで持ち主へ危害を加えることはしないが、持ち主の周囲に対してその配慮は一切及ばない。持ち主の感情ひとつで、魔導書は持ち主を守るために勝手に動く。取引先を燃やしたりちょっとした喧嘩相手に襲撃したり、魔導書が引き起こすトラブルには際限がない。こうなってくると、術者の多くが精神的に病んでしまう。通常の人間の精神では、保たないのだ。魔導書には人間らしい情緒はないので、術者の周りに誰もいなくなったことを喜ぶか、術者の精神衰弱を怒って周囲に当たり散らすかは五分五分といったところか。
この手の禁書に惚れられてしまえば、魔導書との縁を強制的に切らせ、今以後魔導書に見つからないように魔法具の補助を受けながら生活する他なくなる。ワースが魅入られてしまったのは間違いなくこちらの禁書であった。勝手にオーターへ転移魔法を掛けたことからも明らかである。
(……壊すか)
ある程度魔力を持っているとはいえ、所詮は本である。燃やせば燃える。もちろん、抵抗はされるだろうが。
(……いや、どうだろう、この場合)
既にワースは魔導書と契約を結んでしまっているように見えた。単純に本を燃やしただけでは術者となったワースに何かの不都合が生まれないだろうか。……まったく、この手の呪いの品に近いモノの扱いは慣れていない。
オーターは自分の端末を取り出して、連絡先を辿る。自分で足りなければ知識のあるところに頼る。面倒ごとは勘弁してほしいところだが、今これが最も合理的な判断であった。
◆◇◆◇◆
自分の指の先さえ見えない暗闇の中、ワースは初歩的な生活魔法の呪文を唱えた。ゆらりと蝋燭のような穏やかな光が小さな球となって現れる。その位置を調整しながら、とにかくワースは進む。
(……参ったな)
とにかくオーターから逃げる事を第一に飛び出してしまったものだから、転移位置が悪い。洞窟の入り口付近に飛べればよかったのに、今いる座標はそれとは全く逆、洞窟の奥側だ。
ワースの空間認識が誤っていたのではない。魔法を使う際、干渉したものがあったのだ。
「……おっ前なぁ、」
思わず、腕の中の魔導書を見る。魔導書は照れたように身を捩った、気がした。
この魔導書が一体いつからこの洞窟内に居たのか、ワースには分からない。しかしともかく、ワースが洞窟に分け入ってしまう前、そしてワースと出会ってからはずっと泥の下の中で、この洞窟内に収められていたのだ。魔導書はこの洞窟の中の方が安全で馴染み深いのだろう。……咄嗟にどこか安全なところへ、と願って洞窟の奥に誘うのは些かどうかと思うが。
「あーくそ、魔力もすっからかんだしよォ……」
魔導書と戯れすぎた。2本線としても魔力の器が大きく、その分魔力がまるで満タンにならない、と評されることが多いワースではあるが、もう単純な生活魔法しか出せない。省エネでの魔法行使は散々練習してきたが、これも出せなくなったら遭難を覚悟した方がいい。
仕方ねぇな、と言いながらその場に尻をついて座る。そして胸に抱いた魔導書を、胡座をかいた自分の膝の上に置いて、その表紙をそっと撫でた。耳の奥に、子供が笑うようなきゃらきゃらとした高い音が響く。これまでずっと響いてきた声なき声と比べればずっと聞き心地の良い音だ。こんな時なのに思わず口元が緩んだ。
「禁書」と評される魔導書には、大きく分けて2種類ある。ひとつは決められた手順で書籍を扱うと強力な魔法を出す反面その手順を行った者に代償を求める書籍で、またひとつは書籍自体に意思があり術者を選ぶ反面その人物を守ったり願いを叶える為に他人に害を為す書籍だ。この魔導書は、明らかに2種類の性質を兼ね備えていた。初めて対峙した時に感じた禍々しい魔力が、いまも膝の上で感じられる。しかし一方で、ワースはハッキリと魔導書と自分との間に何らかの絆らしきものが形成されている事も感じた。魔導書がワースを術者として選んだのだ。ワースが誰かの魔法で魂ごと入れ替わったり身体だけ操られたりしない限り、この魔導書はワースと共にある。……或いは、死別してなお。
「……ハッ」
魔導書が術者の死後の魂を蒐集する、というのは今のところ実証されていない。今この時点で心配するべき事象でもないだろう。いま心配すべきは、魔法魔力管理局局長に捕縛されて、禁書の術者として何らかの処分を下される事だ。
「おい、魔導書。……いや、この際だから名前のひとつでも付けてやるか……」
魔法の行使において、呪文は力を十全に発揮する為に必要な行為である。魔導書も一応は魔法で作られたものだ。ある程度意思がある以上、魔法生物と思って接してやった方が良い。
魔導書の表紙を撫でてやりながら、ワースはうーんと顎に手をやる。魔導書本体から今も感じる不穏な魔力と、洞窟で出会った時の絶望的な気持ちと、自らのセコンズを順に思い浮かべ、やはり無邪気に喜ぶ気配のままの魔導書を見下ろす。
(どうにもガキ臭えんだよなぁ)
どう考えてもワースの年齢より長い年月を「書籍」として過ごしているはずだが、その精神性はワースより随分と低そうである。魔導書と出会った頃のワースと同じくらい、だろうか。或いは魔導書の方がわざと出会った時と年齢を揃えているのかもしれないが、その辺りは分からない。どれだけ人族の成長スピードを魔導書が理解しているかどうかも。
(……ひょっとすると少し面倒なタイプかもしれない)
実は、「人族の成長スピードを理解していなかった禁書」には例がある。初代の当主に惚れ込んだ魔導書が人族の寿命をあまり理解できず、初代とよく似た魔力の質、魂の形をした血縁者に憑き続けた例だ。これはその一族にとって不幸なことに、その禁書は好き嫌いが少なかった。惚れた初代に似ていさえいれば、極端な話、誰でもよかった。上手く継承が出来れば良いが、魔導書が「初代当主ではなかった」ことに気が付くと「癇癪」を起こす。継承して、魔導書が癇癪を起こして、を繰り返すこと300年程して、その禁書は族滅一歩手前でなんとか禁書庫に収められた。しかしというべきか、やはりというべきか、生き残った家はまもなく爵位を返上したらしい。その後の一族の行方は分かっていない。
「……」
ぱらり、と表紙を捲ってみる。
革の重厚な手触りの表紙には、やや読みにくい題字が書かれていた。それにじっと瞳を凝らす。しばし目を走らせてから、ハッとした。
「……やっべ」
当たり前のように本を開いてしまった。どれが禁書を発動する行動か分からないのに。ワースは注意深く本を閉じ、再びその表面を優しく撫でた。本がなんと言っているのかハッキリとは聞き取れないが、「別に殺したりしないよう、」と拗ねているような響きが耳に残る。
「……つったってよぉ」
何せ、「悪魔」を泥魔法に引っ張ってくるような魔導書だ。何が起こるか分からない。そもそもあの「悪魔」とは何なのか。魔導書の力で召喚しているのか?はたまた、何か恐ろしいものの象徴として「悪魔」として目の前に浮かんでいるだけなのか?さっぱり分からない。
「……まぁでも、お前の名前はアレだな。リトルデビル。それが一番良い」
イエスともノーとも言わない表紙をまた撫でてやる。名前が気に入った訳でもなかろうに、魔導書は嬉しそうであった。
「そのうちお前が「リトル」と呼べないくらいに成長したら、ただの「デビル」と呼んでやるよ」
セコンズと詠唱せずとも、そのうちに「悪魔」を泥魔法のうちから呼び出せるかもしれない。しかしそれはおいおい先の話だ。ひと先ずは、手元の魔導書を把握するのが先である。
「さてリトルデビル。俺の今の実力で、開いたり読んだり触ったりしてもお前の中の魔法が発動しないページはあるか?」
ワースの問いに応えて、ふわりと魔導書が視線の高さに浮かぶ。
ある一定の魔法を仕込まれている魔導書とはいえ、術者の魔法が魔導書の魔法を抑え込める程であれば術の発動を抑えることが出来る。或いは、その魔法を制御することも可能だ。ワースの所属局長である「知の神杖」は禁書を扱う神覚者だが、彼女の力が禁書を支配下に置いているから出来る芸当である。普通あんなもの扱えない。
4cmほどの厚みがある魔導書は裏表の表紙と冒頭の2mmほどが淡く光った。恐らく魔導書が示す「ワースが読んでも良いところ」なのだろう。これを多いと取るか少ないと取るかはそれぞれだろうが、ともかく今のワースの実力がここまで、ということだ。素直に目の前の本に手を伸ばし、パラパラと捲って記述を当たっていく。
「うーん……」
さすがに冒頭のページではセコンズを超えるような魔法が書かれている訳ではないようだ。しかしその記述を素直に読めば「悪魔」を呼び出し、操る魔法である。ワース本人の魔力だけで泥を作るよりは、魔導書の助けを借りて魔法を使った方が効率的ではあるが、使い勝手だけでいえばセコンズの方が慣れている。
「……うん、熟読はまた後でにするか。とにかく教えてくれてありがとな」
魔導書の表紙をワースは優しく撫でた。そして、ふわわ、と大きな欠伸を溢す。
魔力不足は直結して休息を必要とする。ほとんど魔力の残っていないワースはもう眠い。体力も限界である。
宙に浮いていた魔導書を胸に抱き寄せ、ワースは小さく「マッドロス」と唱える。途端、足元から這い出てきた泥がワースと魔導書を包んだ。
どんな野生動物や魔法生物がいるとも知れない洞窟だ。とりあえずは泥の下に沈んでいた方が危険はないだろう。空気の確保は難しくないし、眠っている間でも、固有魔法を解かないくらいワースには訳ないことだ。冷たく滑らかな泥に包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
***
とぷり、とワースの覚醒に応じて泥が揺れる。真っ平らになっていた地面がゆっくりと隆起して、ワースはぶるりと身体を震わせた。もっとも、泥魔法はワースの身体を汚さないので、その身動ぎは気分の問題である。
ぐーっと伸びをする。
なんでも器用な質のワースは、眠るとかなり簡単に魔力を回復できる。仮眠とは言え熟睡できたお陰で、腹の中に感じる魔力はそこそこだ。
「さぁてと、」
懐から魔導書を取り出す。ひと撫でしてから自分が読み解けるページまでを丹念に浚った。些か詩的な表現が多いものの、魔導書としては平均レベルだ。文脈で意味は取れるが、いくつか知らない単語がある。ワースが思った通りの意味でなかった時かなり危険だ。まただいたい理解できるものの、恐らく造語らしき単語も混じっていた。これもまた、ワースが想像した通りでなかったら危険である。危険ばっかりじゃねぇか。一旦魔法局に戻って書庫にある辞書に当たる時間はあるだろうか。オーターに目を付けられている以上、さっさと辞表を郵送して行方をくらませた方が良いだろうか。少し悩む。分からない単語をぶっつけ本番で試してみても良いが、その場合の被害はどれほどになるだろうか。魔導書が示したワースが制御できる範囲は実際にはどれほど正しいだろう。考えるべき論点はいくらでもある。
(ま、でも大体は把握したな)
何かあった時、この禁書を使用できないこともない。
そう納得して、ワースは魔導書を閉じてその表紙をひと撫でした。
「……っし、行くか」
魔導書を懐にしまおうとしたその瞬間、ぞわりと嫌な気配がしてワースは飛び退いた。洞窟内は、基本的に暗くじめじめとしている。まさに泥を扱うワースにはぴったりの環境だ。であるにも関わらず、空気中の湿度が急速に下がっている。
(やばい)
「……見つけましたよ、ワース」
すこし猫背気味に眼鏡の位置を直す姿がそこにあった。肌に感じるぴりぴりとした乾燥に冷や汗をかきながら、ワースはジリっとまた一歩、後ろへ下がる。
「実力とは何か」という議論がある。
いついかなる状態で発揮される力を「実力」と呼ぶのか、という考え方の話である。あるひとは積み上げ続けた実績を「実力」と呼び、またあるひとは他者からの評価を「実力」と呼ぶ。ワースにしてみれば、「最もコンディションが悪い時に発揮する力」のことを「実力」と呼んでいる。その考えで言えばこの洞窟内はワースにとって「実力」以上を発揮できる環境であるし、オーターにとってはまさしく「実力」が試される状況だ。
砂と泥の違いはいくつかあるが、ワースにとって重要な違いは、粒子の粗さとその重さだ。一般の分類として、砂の方が泥を形作る粒子よりずっと粗いし、水を含まない分だけ軽い。ワースの知覚上、泥は水より重い流動体である。しかし砂は、ひと粒ひと粒が生きているようにてんでバラバラに動く。単に水をぶっ掛けてしまえばその砂が泥となりワースの手足として生まれ変わる訳ではない。オーターが制御するそのひと粒ひと粒を自分の支配下に置かなければならないのだ。途方もない作業である。しかしそれは相手も同じで、自らが支配する砂としてワースの泥を削るなら、水に満たされたいつもよりずっと細かい粒子をひと粒ひと粒オーター自身の支配下に置かねばならない。……はずで、あるのだが。
(……やば過ぎるだろ)
オーターを中心に湿度を持った洞窟内が急速に乾燥し、乾燥した先から泥が削られていく。砂にとって不利であったはずの環境がみるみるうちに塗り替えられていく。
(これが神覚者)
ワースは思わず懐の魔導書を撫でた。もちろんそれで事態は好転するはずがないが、無意識に縋れる他者を求めた。その動きを見咎めてオーターは眉を顰める。
「ワース。速やかにその魔導書を渡しなさい」
「……降伏しろって?」
「いいえ。とにかくその魔導書は処分します」
有無を言わさぬ強い口調に殺気とも感じられる迸る魔力。しかしワースは唇を湿らせて反論した。
「これは禁書です。であれば、知の神杖さまの領域です」
「越権行為と?」
「……少なくとも、禁書の調べが終わるまでは」
「フ───」
重たいため息が、オーターの口から漏れた。ワースの小さな心臓はすでにバクバクと小動物のように震えている。もちろん魔導書を引き渡して、それで済むはずがない。そう思うワースとは裏腹に、オーターの声が一段柔らかくなる。
「お前はその魔導書に惑わされているだけです。燃やせば正気にも戻るでしょう」
「………………は?」
「安心なさい。その魔導書からお前を守ってやります」
ワースは一瞬何を言われたか分からず、瞳をまん丸く見開く。オーターの表情は、いっそ慈愛に満ちてさえいた。そう長くも濃くもない付き合いではあるが、オーターが本気でそう思っていると理解して、ワースは目の前が真っ赤になる程の怒りを感じた。
いつ、自分はこの魔導書から助けて欲しいだなんて神覚者に望んだのか。
かつて魔導書に襲われて怪我をした子供の心配だってしなかった人間が、今更、何を言っている?
マドル家のエリート官僚を輩出する貴族らしい部分を、ワースは納得しているつもりだった。無様に血を流すワースに手を差し伸べないのも、愛情らしきものを示さないのも、すべて。そういう家だから仕方ない、と。けれど自分は意外にも怒りを抱えていたのだな、と他人事のように思う。ふつふつと湧き上がる激情は、腹の奥から心まで燃やす。
懐の魔導書が、「どうする?」と問うてくる。その声なき声にはワースへの信頼の響きがあった。まるで幼な子のような音はワースを疑っていない。まさしく無垢な愛着というやつだ。例えばワースがここで魔導書をオーターに差し出し自分ばかり助かろうとしたとて、この魔導書にはその行動を何か重要な意図があったものと考えるだろう。その燃やされる瞬間まで、或いは燃やされてもなお、ワースが魔導書を犠牲に助かろうとしたなどと、きっと気が付かないに違いない。そう確信させるほどに、透明な信頼だった。
(……それでいいのか?)
神覚者には敵わない。どれだけ洞窟がワースの魔法に適した環境であっても、その不利をオーター・マドルは簡単にひっくり返してしまえる。まさしく「実力」が違うのだ。
彼我の差を理由に、こうべを垂れることは楽であろう。なんせ、ワースの選択も「神覚者相手では仕方がない」と他人に押し付けられる。責任からは簡単に逃げられる。でもそれは、あの日傷だらけであったワースを叱り、救急箱を寄越すばかりで見て見ぬふりをしてきた人間と何が違うのか。あの日に大人への失望を胸に抱いたワース・マドルが、いま抱える魔導書に、同じ仕打ちをしても良いのか。
(良い訳、……ねぇだろ……!)
胸に抱えた魔導書に向けて、ワースは小さく、しかし鋭く返事を返した。「応戦する、」と。魔導書は分かっているのか分かっていないのか、新しい遊びに誘われたかのようにはしゃぐ。その無邪気さだけが救いであった。
「ワース?」
ワースは努めて大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。未だに心臓はバクバクとうるさく鳴っている。禁書を守って、それでどうする。本当に神覚者に勝てると思ってるのか。ただ苦しい時間を伸ばしただけではないか。そんな弱気な自分の言葉を、今だけは全て封じ込める。バカな選択なのは百も承知だ。けれど、今は「バカ」になった方が「正しい」選択である。
(……コイツを戦闘不能にするか、ここで動けなくさせて俺らは逃げ切る)
魔導書に目標を伝える。楽しげな魔導書は本当に聞いているのかいないのか、ともかくワースに従う気はあるらしい。凪いだ海のように、魔力が張り詰めていく。
ホルダーから自分の杖を取り出して、呪文を口にする。どうか、自分の声よ、震えてくれるな。
「マッドロス」
「……!」
泥人形が1体、顕現する。
それに魔導書を任せ、ワースはオーターを睨め付けた。泥人形は、ワース本人と全く同じように、躊躇いなく魔導書を開く。
「リトルデビル、オレに力を貸せ!」
泥人形が魔導書の記述をなぞり、魔法を展開する。本来禁書は術者以外の命令を受け付けない。ただ、魔導書を持たせた泥人形はかなり魔力を込めてワースに寄せて作った。視覚ばかりか感覚まで共有させた渾身の1体である。魔導書本体の目溢しもあるが、アレならば禁書の判定的にはOKなのだろう、泥人形が杖でなぞった記述が光を放つ。とても禁書とは思えない輝かしい力は泥人形を通じてそのままワースに伝わってきた。自らの魔力が底上げされたように感じる。そのまま杖を構えてワースは叫んだ。
「マッドロレイン!」
「……!」
洞窟の天井や壁から、一斉に弾丸状の泥が放たれる。当たれば気絶するくらいの威力を持たせた。これで気絶すればよし、無理でもへばり付いた泥で動けなくさせられればよし。タンッとステップを踏んで泥人形の隣に戻ったワースは身を翻して走り出す。勿論2本の足を流体へ変化させた泥人形も一緒だ。
卑怯という勿れ、戦略的撤退である。何度も言うが、ワースは魔導書と逃げ切れればそれでいい。
「フ───」
不穏なため息が背後からした。
肌がひりつく程の乾きを感じたと思った瞬間、オーターにまとわり付かせた泥が制御を失う。
「……!」
重いはずの泥は、無惨にも崩れ落ちていく。その細かな粒子は水分を失って、一定方向に流れる。
神覚者オーター・マドルの望む方向へと。
「少し禁書の影響が強いようだ」
「……俺は始めから操られちゃいねーっつーの」
「まぁ良いでしょう。禁書を処分すれば分かることだ」
ゆらり、と杖を持ったオーターの身体が揺れる。神覚者相手に防戦を張る気はないワースは慌てて障害物代わりに泥の壁を呼ぶ。無論、相手はこちらの魔法を崩してくるのだから、こんなもの時間稼ぎ以上の意味はないが。
「チッ」
分かっている。
逃げ切れない。
なんせ、オーター・マドルは攻撃魔法を使ってこないだけの余裕がある。今だって、ワースが作った壁くらい簡単に壊せるはずなのに。砂と泥の単純な力比べでは、魔力量に差があり過ぎて勝負にもならない。
(考えろ……考えて、予想しろ……)
とにかく隙が欲しい。
ワースと魔導書とが、砂の神杖から逃げられるだけの隙が。
「ふ─────、」
大きく息を吸って、吐き出す。奇しくもその呼吸音は、ため息をついたオーターのものと似ていた。
魔導書が、再度ワースへ「どうしよう?」と問うた。ワースが自らの心身を代償に、扱えるレベルを超えたページに綴られた魔法を使う気があるならば、もう少しだけ戦術の幅は広がる。
「ばぁか」
使って勝機があるならば、危険な橋は渡るべきだが、今はまだその局面ではない。短慮な魔導書の表紙をひと撫でして、ワースは再び杖を構えた。
何事も、人間であるからには「気を抜く瞬間」や「意識の外にある事象」というものは存在する。「隙を見つける」とは即ち、その瞬間や事象が生まれたタイミングを見逃さず、或いは自分から作り出して攻めることだ。少なくともワースはそう考える。タネを仕込み、待ち構え、攻める。どんな時でも基本は同じだ。
「さて……」
咄嗟にとはいえ堅牢に作ったはずの泥の壁がぐずぐずと崩れていく。ひと1人通れるだけの空間が開くと、そこから先は早かった。細かな粒子が砂の神杖の支配に落ち、乾燥した空気が舞い込む。ワースは固唾を飲んで待つ。その瞬間を。
「そういえば貴方と鬼ごっこや隠れ鬼に興じるのは初めてのことですね」
壁に開いた穴を潜るべく、オーターが軽く頭を下げた。ここだ。このタイミングしかない。
「マッドロス!」
言いながら、天井から泥の礫を飛ばしつつ、そのまま後頭部に向かって踵落としをはかる。泥と違って肉体はそう簡単には崩れない。多くは望まない。足止めさえ出来れば良い。
そう思ったワースに、ちらりとオーターが視線を向ける。ぎくりと胸が跳ねた。
「なるほど、弟が元気に跳ね回っているのは微笑ましいものだ」
「……!」
言いながら、オーターの周囲に展開されていた砂が泥を切り裂き、踵を絡めとる。ぶらんと逆さまに吊るされた身体には砂が巻きつき、さながら縄のように全身を縛っていく。狙い撃ちされたのは杖を握る利き腕だ。その意図は分かりやすいほどだった。杖がなくては魔法は使えない。ぽろりと杖を落とし、身動きが一切取れなくなったところで、オーターは自分の足元に、やや丁寧に下ろした。ワースが知るべくもないことであるが、これはオーターにとってはかなり異例なことである。ほんの少しだけ目元を緩めて自分の足元を見やり、正面の魔導書を持った影に視線を戻す。カチャリと音を立てながら眼鏡を定位置に戻すと、杖を真っ直ぐに向けた。
「……とはいえ、親交を温めるのは後からでも出来ますからね。早々にその目障りな禁書を壊すとしましょう」
オーターの足元でうごうごとひと頻り身体を捩らせ、しかしワースは口元に笑みを浮かべた。魔導書を持つ影がくすりと鼻を鳴らす。
「温めるも何も、俺たちに親交なんかないでしょう、砂の神杖様」
「…………」
「なんてったって……」
ワースは展開していた魔法を解いた。
その瞬間、オーターの足元で転がっていたワースだったものの肉体がどろりと蕩ける。
「……!?」
流体となって砂の拘束を解いた泥は、滑らかに広がり、オーターの足元まで伸びるとすぐさま硬化した。泥は圧力を加えればレンガよりもコンクリートよりも硬い岩石となる。当初より魔導書の術者判定を誤魔化すために作り上げた泥人形だ。間に合わせで作った泥の礫や壁なんかより遥かに硬く、容易に砂にはならない。
「ホンモノの顔ひとつ分からねェんだからなァ!」
ワースの泥人形はかなり精巧だ。通常通り泥の中から作り出す泥人形でも、恐らく咄嗟に見分けられるのは幼馴染のシュエン、長いこと同室で過ごしたアビス、監督生で目端の効くアベルくらいのものだろう。加えて、今回は感覚を共有させてまで動かしていた泥人形だ。オーターに見破られた泥人形とは精度が違う。ひょっとすると泥人形操作のために研究させてもらった人形魔法の使い手であるアベルしか、その差異に気が付かないかもしれなかった。けれどいま、重要なのはそこではない。
足に取り付かせた泥人形にはオーターにくっ付いた瞬間から周囲の湿度を上げるように命令してある。ありったけの魔力を流して作った泥人形は簡単には崩れない。だから、狙う一点はここしかない。
「セコンズ・マッドロデビルス!」
泥の「悪魔」を呼び出しながら、魔導書を操る。やはり泥人形を通じて動かすよりも直接触れた方が、よっぽど魔力の通りがいい。わくわくとした様子の魔導書も、こちらの望みに応えてくれる。
「砂の神杖を戦闘不能にしろ、リトルデビル!」
ワースより少し大きめな程度の泥の「悪魔」は、以前ランス・クラウンと戦った時の半分くらいのサイズしかない。その分硬く、そしてしなやかに泥を組み上げた。砂の神杖が杖を振るうより早くがっちりと首に手を回した泥の「悪魔」はギリギリと締め上げながら、オーターの身体を泥で包み込む。鼻に、口に、泥を詰めて呼吸の一切を奪う。魔導書の力か、泥の下で溺れるようにもがくオーターの姿さえ見えた。息の根を止めるつもりはない。けれど、ここで確実に意識を失ってもらう。
(これ以上は我慢比べだろ)
蠢く泥の中でオーターの手から杖を奪い取った後でさえ、ワースは注意深く、用心深く、オーターの首を締め続けた。
***
「ひぃ〜〜、疲れた……」
ワースは思わずその場で尻をつく。傍らには泥まみれになったオーターがいる。一応顔の泥は払ってやり気道は確保したが、酸欠で気絶している。
生身に対してこちらはセコンズを使っているし、何より魔導書の援護を受けているのだからすぐに気絶させられるかと思いきや、思ったよりも時間が掛かった。ぶるぶると震える手にはまだオーターの首を締めた感覚が残っている。……まぁもっとも、ワースが本当に締めたわけではないが。
魔導書が上機嫌にくるくると回る。どうやらワースに褒めてもらいたいらしい。面倒ごとを運んできたのは魔導書であるのは確かだが、この局面は明らかに魔導書なしでは乗り切れなかった。なんだかなぁとは思いつつも、ワースは魔導書の表紙に手を伸ばす。
「しょうがねぇ奴だな」
魔導書には泥の「悪魔」が崩れないようにすること、先に足を固めた泥人形が砂にされないように魔力を注ぎ続けて維持することを命令した。もしワースが1人で戦っていたら、その辺りの泥の制御にも何割か気を配らねばならなかっただろう。そこを度外視していられたお陰で、暴れるオーターをセコンズで拘束し続けることだけに集中できた。チームワークの勝利、と言うやつだ。
「いや、もう絶対やりたくねぇけど……」
こちらがどれだけ怖かったことか。相手は武闘派の砂の神杖、こちらは神覚者にもなれない出来損ない。もう勘弁して欲しい。大きなため息をついたワースは、懐に魔導書を仕舞い込んだ。そして壁を頼りになんとか立ち上がる。とにかくここを離れなければ。ある程度まで入り口に近くなったら泥の中に潜んで移動してもいい。洞窟を抜けたら身を隠して睡眠を取るなり食事を取るなりで魔力を回復できる。まだ、自分は逃げられる。
「まぁ驚いた」
冬の朝のようにピンと張りの良い声が暗い洞窟に響いた。ワースは覚束ない足を止める。まずい。
(な……んでこんなとこに……!)
振り向けば、微笑さえ湛えた「知の神杖」そのひとがいた。自分の魔法局の長官である。見てわからないはずがない。
「オーターを倒してしまうとは思っていませんでした」
ころころと笑うその手には杖と開かれた禁書だ。臨戦体勢である。対するワースは魔力切れ寸前、杖はホルダーに入っているし魔導書は懐の中だ。小さくリトルデビルが「どうする?」と問う。どうもこうもない。ワースが敵う相手ではない。ワースの望みは安全にこの場を乗り切って、愉快な人生を送ること。オーターと対峙したのはその為にはそれが合理的と判断したからだ。今ここで抵抗したって安全に逃げおおせる事はできない。であれば、無駄な努力はしないに限る。魔導書は納得したようなしないような、微妙な唸り声を上げてから沈黙した。
そんな1人と1冊の葛藤など聞こえていないはずなのに、まるで見透かすように「知の神杖」にして魔法局禁書管理局局長ソフィナ・ブリビアは微笑んだ。
「オーターから、弟が禁書に取り憑かれたから救助する、もし到着が遅れて先に自分が禁書を壊した場合は文句を言わないように、と連絡が来ましてね」
「…………」
「間に合ったようでなによりです」
確かに禁書は禁書管理局の管轄だから手出しするな、とワースは主張したが、オーターのその言い分は脅しではないだろうか。
……そうは思ったが、目の前の神覚者があまりにも恐ろしいので、ワースは黙っておくことにした。
「禁書管理局は有能な禁書の使い手を歓迎しますよ、ワース・マドル」
「そ……りゃ、身に余る光栄で……」
にっこりと笑う上司に、苗字を訂正し損ねたな、とワースは現実逃避のようなことを思った。
◆◇◆◇◆
オーターにとって著しく不本意なことに、ワースとワースに取り憑く禁書は、禁書管理局の預かりとなった。一応抗議はしたが、「どう考えても魔法魔力管理局の所管にはならないな!」とライオにばっさりと切られた。実際オーターも無理を言っている自覚はあった。あったがそう簡単に譲れるものではない。そんな姿のオーターを見て、ソフィナはただ肩をすくめただけだった。現在禁書はソフィナの元に、ワースは検査入院として、病院にいる。
「オーター」
声を掛けられて振り向く。そこにはソフィナがいた。
「貴方の、弟さんですが、ちょっとお伝えしておくことが」
「……なんだ」
手に持っているのはカルテだろう。となれば、オーターは密かに覚悟を決めた。禁書を制御するソフィナのようなごく少数の人間ならいざ知らず、ただ禁書に「好かれた」だけの人間が無事であるはずがないのだ。身体のどこかに不具合が見つかっても、それはちっともおかしなことではない。
「彼の話によると、随分と幼い時期にあの禁書と出会っていたそうです。これは推測ですが、彼が使った泥魔法の封印を仮契約とし、少しずつ魔力を吸い取りながらその契約を維持していたのかと。どうやら禁書の方からも魔力を送っていた跡が見られます。ワースくん本人の魔力と、禁書の魔力が絡み合うように彼の中にある」
「…………」
オーターの奥歯が静かに鳴った。今更と言えば今更だ。オーターは弟の異変に気がつく事もなければ、その魔導パスに気がつく事もなかった。カルドもワースの魔力の奇妙さを指摘していたではないか。あの時に、何か少しでも踏み込もうとしていれば。そんなことは今更だ。ただの少しでもワースを気に掛けてやれば、というのは死ぬ間際にならないと「弟」を思い出しもしなかった自分の不甲斐なさばかりである。今更、魔導書を恨むのは遅すぎる。
「……と、ここまでが彼の聞き取りと禁書との繋がりの深さを考えての私の見解ですが、そうだとすると、このカルテはおかしい」
「……なに……?」
「オーター、よく聞いてください。ワース・マドルは健康過ぎるんです」
ソフィナがオーターへカルテを手渡す。そこに書かれている健康診断の結果はオールA。要指導などの項目は全くない。魔法学校にいた頃も、魔法局に就職した時も、ワースは通常の集団健康診断を受けていたはずだ。この記録に不可思議な点はない。
「精神的にはやや疲弊が見られるものの、彼は新卒ですからね、生活環境が新しくなった青年の精神状態としては許容範囲です。……はっきり言って、あれだけの禁書に取り憑かれていた人間としては、驚異的です。加えて、」
腕を組んだソフィナは渋い顔をした。
「ワースは「無邪気な淵源」の事件の時に、彼らが作成した魔法液を飲んでいると報告されています。いわゆる魔力増幅剤ですね。魔力生成器官が、壊れかねないほど強力な」
「…………」
「この薬の影響も、ほとんど見られません」
ソフィナの顔つきは、未だ固いままであった。オーターも増幅薬による治療の顛末は知っている。すでに治療を終えたことも。身の危険に晒される事象や薬を前に、紙面上では健康体である。しかし、それは、
「良いこと……ではないのか?」
「もちろん後遺症がないことは喜ばしいです。ただいくつか仮説があります」
「たとえば」
「既にワース・マドルの肉体が禁書好みに改造されていて、魔法生物化しており、通常の検査では異常を発見出来ていない場合」
「……!」
「この場合、もう少し精密な検査が必要です。禁書が主で術者が従である為、非常に危険です。これは貴方も分かっているでしょう」
「…………」
「……またもうひとつは、彼があまりにもあの禁書と相性が良い場合」
オーターの握りしめた拳がじっとりと汗を掻く。それは、ワースにとって良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。
逡巡するオーターに、ソフィナはふっと空気を緩めた。
「ごく少ない例ではありますが、禁書と相性が良いあまりに、魔力の受け渡しに一切の障害が起こらない場合があります。気が付かないうちに多量の魔力を吸われていたお陰で魔力を貯める器が常に枯渇ギリギリで、故に魔力生成能力がそもそも高く、魔力増幅剤を飲んでも障害がでなかった可能性も」
「……!」
「もちろん稀な例ですから、彼が該当するのか、本当に問題ないのか、そして何よりそれだけの魔力を吸われ続けていて大丈夫だったのか、そもそも「相性が良すぎる」故に起こる問題がないかどうかなどを調べる必要がありますが」
ひと息に言って、ソフィナは肩をすくめた。
「既にアベル・ウォーカーとワースくん本人の意思確認は済ませていますので、検査に入ります。……あなたには、知らせておいた方が良いと思って」
古典的ではあるが、まるで頭の上にタライが落ちて来たような衝撃があった。戸籍上のワースの家族は、アベルしかいない。治療方針や告知をするならば、ワースが寄って立つべき相手は彼だけなのだ。ソフィナがこれらをオーターに明かしたのは、オーターが数ヶ月にわたってワースと親交を持とうと努力していたのをよくよく知っているからだろう。建前としては禁書と対峙した神覚者だから、とでも嘯くだろうが、とどのつまりは、ソフィナの情である。そんな不確かなものに縋らなければ、もうオーターは「弟」の体調も知ることはできない。兄として、心配することも。
思わずよろついたオーターに、「難しいと思いますが、あなたも休んでください。顔色悪いですよ、」とだけ伝えて、慌ただしくソフィナはその場を後にした。
(……私は、どうしたら良いだろう)
今まで、少し不愉快に感じていただけのアベル・ウォーカーという存在が、その養子にワースが入ったという事実が、確かな現実感を持ってひたりひたりと迫ってくる。まとまらない頭で、「自分はワースとどうなりたいのか」と、再度問いかける。洞窟の中の時のように、本人そっくりの泥人形を見たとて、オーターではそれが本人なのかも気付く事ができない。そんな人物が本当に「兄」と言えるのか。揶揄混じりのワースの声が頭の中に響いた気がする。そう、ホンモノと泥人形との違いさえ、自分は分からないのだ。家族として、彼のために何かの役割を演じる事も出来ない。であれば、オーター・マドルとは、ワースにとってどのような存在なのか。
(……それでも私は、彼と仲良くなりたい……)
たぶん嫌われている。
ずっと目を逸らして来たが、きっと嫌な兄だっただろう。他人行儀に、丁寧に扱うべき相手だっただろう。いい、分かっている。だからあんな幼い頃から禁書に取り憑かれているのに、ひと言だって相談してくれなかった。その判断を下したワースは正しい。きっと相談されても、「無邪気な淵源」事件前のオーターは黙殺したかもしれない。自分の正義感を信用出来なかった。無価値で、面倒な弟だと、断じなかったとは口が裂けても言えない。
自分の至らなさは、重々承知だ。それでも彼と……ワースが友人たちに見せるような、屈託のない表情が見たい。それを向けられたい。
ワースに関心を持ってから、手に入れられるだけの彼の資料は全て手に入れた。集められる情報は全て集めた。そこで浮かび上がる「ワース・マドル」という人間は、少しばかり自己肯定感が低くて、自己評価が下手くそで、でも他人のために一生懸命になれる、心優しい青年だ。皆が敬遠する仮面姿の同級生に誰よりも早く話しかけて、皆の輪の中に引っ張っていって、下級生が困っていると言えば授業ノートを貸し出して、魔法の実技練習にも付き合ってやる。寮長の頼み事はまず断らないし、公私の切り替えをちゃんと行い、他人の目があるところではキチンと敬う。ひとり、目標に向かって邁進するしかない、自分のような人間とは違う。そんな彼の姿が、どうしたって愛おしい。
これは、相手が血の繋がりのある「弟」だからであろうか。たぶん違う、とオーターは断じた。悪いが、最初にイーストン魔法学校へ訪問してから今に至るまで、何度も何度も自分の中に「弟」の姿を探した。……びっくりするほど、居なかった。記憶のどこにも。そうなんだ、どうせオーターは「弟」に興味がなかった。共に暮らし、共に成長した記憶が全くない相手のことを、どうやったら家族として見られるのだろうか。格好の付くカテゴリに括り、家族の絆を取り戻したらしい同僚に倣ってみても、オーターの中には彼と兄弟であった記憶は全くないのだ。それが酷く薄情で、悲しいことだとしても。オーターは自分の両手で自分の顔を覆った。嘆いているのではない。自分の冷淡さを受け止めきれないだけだ。
けれど、ワース・マドルを「弟」だと感じられないのだとすれば、話はもう少しシンプルになる。
ただ、1人の人間として、ワース・マドルが気に入っている。向こうからも、同じくらいの関心を向けられたいと願うほどに。
「弟」を、愛おしく可愛らしく思うのなんか後付けだ。オーター・マドルは、ワースが可愛らしく見えるのだ。たとえその名前が「ワース・マドル」でも「ワース・ウォーカー」でも、「ただのワース」であっても、変わらない。
どうしよう、とオーターは途方に暮れた。
あらゆる意味で、自分とどのような関係でもない相手と仲良くなる方法なんて、書物には何も書かれていなかった。
自分はどうしたら、彼と「仲良く」なれるんだろう。
◆◇◆◇◆
「参ったかなぁ、」というのが、ワースの率直な感想であった。
捕まったら魔導書とは引き離されるだろうことは、当然想定していた。とはいえ、知の神杖が絡んできた以上、魔導書が短絡的に処分されることもないだろう、というのも分かっていた。言葉を自身の力と変える神覚者は、本当に書籍というものを愛しているから。大して長い勤続年月ではないが、この上司に対して、間違いなくそう言い切れた。実際、離れてはいるものの、ワースにも魔導書の気配が感じられた。機嫌は良くも悪くもない。ワースが意識を傾けると、遠くで大きく手を振っているような感覚がある。ワースも心の中で手を振り返した。これだけやり取りが出来るのであれば、恐らくそう悪い扱いをされている訳でもなさそうだ。
ふぅ、とワースは瞳を開いてため息をついた。ワースはワースで、連日の身体検査である。血を抜かれたり、魔力測定をされたり…。一度やった検査も繰り返してみたり、医師なのか心理士なのか分からないが、代わる代わる面談を受けてみたり、一体何がどうなっているのか。ソフィナからは一応、「長期間に渡る禁書の影響を受けている可能性があるため」と説明されたが、ていの良い軟禁用の方弁だったのではないかと、時間が経つにつれ考えるようになった。望めばある程度の物品は届けられるが、反面、知り合いと顔を合わせることは出来ない。携帯端末も取り上げられていると、情報から意図的に遮断されているようだ。再び瞳を閉じて、魔導書の気配を探る。やさしく手を握るように反応を返す魔導書に、ワースはニヤリと笑って尋ねてみた。
(リトルデビル、俺に何かしたか?)
昔から、声なき声をワースの元まで響かせていたが、それ以外にこうして自分から魔導書を手に取るまで、それらしい接触といえばセコンズを使った時くらいのものだろう。こうまで徹底的に心身を調べられる理由が分からない。
ワースの問いに、魔導書は困惑で以て答えた。その感覚を敢えて言葉に翻訳するのであれば、「なんで?」と言うところか。「なんでそんなことする必要が、」の「なんで」であるし、「なんでそんなこと聞かれるんだろう、」の「なんで」でもある。魔導書の困惑は、ワースには尤もなことに思えた。
(まぁ、お前にその気がなくっても、勝手に俺の身体を作り替えるような魔導書だって思われてる……のかもな?)
揶揄うようにそう心の中で言うと、魔導書はショックを受けたようだった。「がーん」と背後に大きな文字を背負った魔導書のイメージがこちらへ共有されて、ワースは苦笑する。不服そうな感覚がこちらへとゆるゆると波のように流れてくる。もちろんワースとて、本気でこの子供のような魔導書を疑っている訳ではない。ただ、あくまでも分類は「禁書」だ。誰も彼もがワースのように魔導書へ好意的な訳でもないし、ワースもこの魔導書以外にこれほど好意を寄せることもないだろう。ただ、まぁ、
(喋れない、ってのは若干不便、かもなぁ……)
魔導書が今、どういう精神状態でいるのかは、ワースには把握できる。ただ曖昧な感覚が届くばかりで、実際に「禁書」としてどのように扱われ、目の前でどんな会話がされ、どんな検査を受けているのか、窺い知ることは出来ない。
(学習能力自体は高そうだし……)
褒められた、と見なしたのか、魔導書の気配がパッと華やぐ。まぁ、実際言語なしに問題なくコミュニケーションが取れるくらいには、察しがいい。
魔導書に言葉を教える、だなんて、どんな論文にも書いていないはずだ。似た事例をとりあえず当たってみるが、魔法生物に人間の言葉を喋らせるようなものだろう。アプローチ的にはそちらの方から考えた方が適切かもしれない。考えながら、差し入れリクエストとしてその辺りの研究者の名前をいくつか書き付けていく。ふと手を止めて、ワースは苦笑した。当たり前に退院した後、手元に魔導書があって、禁書管理局の職員として論文を発表する自分を想像していた。ソフィナは「歓迎する」と言ったが、ワースがそのままの状態で復職するかどうかは不透明である。不利な話になっても困るから、ワースも敢えて確認していない。砂の神杖に刃向かって逃亡を企てているので、何らかの罪に問われる可能性はある。先に「禁書」の破壊を目論んでいたのはオーターの方なので、ここは一応言い訳が出来るとして……、と頭の中で算段を付けていると、コンコン、とドアがノックされた。まだ何の検査の時間でもない。ワースは小首を傾げて、魔導書との通信を切った。入室の許可を出し、……即座に後悔した。
「……げっ」
「お前は相変わらずですね」
ぐぬ、とワースは口を噤んだ。
出来ればワースとて、過剰な反応はしたくないのだ。こちらが警戒をしていると相手に知らせるようなものではないか。ただ、両親から引き合いに出され続けたせいか、こちらもそれゆえ意識せざるを得なかったせいか、オーターの顔を見るとどうしても心が止めるより先にひと声出てしまう。ワースの葛藤を余所に、オーターは寝台に取り付けられた簡易椅子を取り出し、当たり前のように座る。「見舞客用だぞそれ、」と言い掛けて、ひょっとして見舞いに来たのか、と微妙な葛藤が胸に浮かぶ。口を開いたものの結局それを問うことは出来ず、ワースはただただ口を閉じた。
「その……調子は、どうだ」
「……見て分かるだろ、どう考えても健康だっつーの」
「……そうか」
言って、オーターは組んだ自分の手元に視線を落とす。相変わらずの無表情は感情が読めない。ゆっくりと壁に体重を乗せると、ベッドの柵がぎしりと音を立てた。その間オーターはぴくりとも動かない。気まずい。気まず過ぎる。どちらかといえばセコンズでがっつり首を絞めて昏倒させたのはワースの方なのに。なんで加害者が体調の心配をされている。思わず頬を掻き、少し葛藤した後、ワースは「くっそ、」とひと言悪態を吐いた。
「そっちこそ大丈夫なのかよ、首とか」
「首?」
「絞めただろ、俺が。魔法で。」
ああ、とオーターは得心が行ったように頷いた。見たところ痕も残っていないようだから全然問題ないのだろうが、こちらの気持ちの問題である。
「全く問題ないです。心配をかけましたか」
「……まさか。神覚者に怪我させてたら罪状が嵩むんじゃねぇかと思っただけだ」
むっつりとワースが黙り込むと、オーターが足を組み替えた。その醸す雰囲気は、なぜだかゆるんでいる。穏やかな微笑すら、口元に浮かんでいた。
(勘弁してくれ……)
ワースにとってオーターは遠い遠い雲の上のような存在だ。実際、神覚者なのだから、それくらい格が違う。家族として過ごした記憶もない、経験もない。どちらかと言えば、超えるべき壁で、目標。神覚者となれなかった今となっては、チクチクと若気の至りや自身の無価値さを感じさせる存在でもある。この複雑な感情は、ワースの中で処理されるべきものであり、本来は相手にぶつけるようなものではない。それくらいの距離感の相手に、突然親愛を向けられても、正直言って困るのだ。
「良い、魔法だった。最初の泥人形を見破ったから気が抜けてしまった」
「…………」
「陽動も上手かった。……私の完敗です」
褒められたら嬉しい筈なのに、どうにも釈然としなかった。伏し目をしたオーターの口元が、満足げに歪んでいるのも、いっとう気に食わない。落ち着けと、自分に言い聞かせながら、それでも留められない感情が喉を叩く。
「……完敗も何も、テメェは攻撃魔法のひとつも使ってやしなかったじゃねぇか」
「それは、」
「魔導書の助けがなけりゃ、俺の泥はテメェの砂に塗り替えられていた。そんな状況で、完敗だと?……ひとを馬鹿にするのも大概にしやがれよ……っ!」
こんなことを言いたいのではない。
「くそ、」とまた悪態を吐いて、ワースは自分の顔を手で覆い、未熟者、と自分を叱る。オーター本人にぶつける感情ではないはずだ。謎の親愛を向けられ、それにつられたように心の距離が近くなった錯覚をして、甘えた罵倒を吐くなんて子供のすることだ。もういやだ。自分のことが、嫌いになりそうで。
オーター・マドルは、長いことワース・マドルに覆い被さる大きな重石であった。
アレと同じだけ出来ないといけない、アレと同じくらい聡明でないといけない、アレと同じだけ成功を収めなければならない、という言葉はひっくり返って「なぜお前はこれほど出来ないのか」と、刃に変わる。今でこそ、オーターが悪いのではないとは分かっている。けれど、勘当されて家から放逐されて、ワースが感じたのは「解放」だった。アベルが後見に立たなかったら、ずっと「ただのワース」でも良かった。ウォーカーのファミリーネームは、魔法局を目指すことにしたワースへの、友人からのささやかな餞別である。彼の友愛と優しさは分かっているつもりだから、拒みはしない。お陰でもう、オーター・マドルとの関係は何も無くなった。血が繋がっているといえども。少なくともワースにとって彼はもう比較されるべき「兄」ではない。
大きく息を吸って、吐き出す。そうして心を整えてから、ゆっくりと顔を覆った手を離した。その間も、突然罵倒された筈のオーター・マドルはただ沈黙していた。こんなことで動じているのは俺だけか。大人になりきれていないのも、俺だけか。それは悔しさよりも、失望が大きかった。自分自身に対しての。子供の癇癪を起こした羞恥と怒りが渦巻く、見慣れた程の失望だった。
「……俺は、もうアンタの弟じゃない。もう俺に関わらないで欲しい」
我ながら無茶な話だ。ワース・マドルがオーター・マドルの弟であったという履歴は一生付きまとう。それでも、「マドル家の次男」という肩書きはもう、ワースには必要のないものだ。ワースを棄てる判断をしたのはマドル家なのだから、今更、気紛れにかき回して欲しくはない。
……でも人間は、履歴を背負って生きていく。世捨て人にならない限り、生まれも育ちも捨てられない。
自分は、オーター・マドルと、どう、なりたかったのだろうか。
その問いに答えるのは非常に困難であった。
憧れで、目標で、素晴らしい「兄」であり、冷淡で、仰ぎ見るほど遠く、幻想のような「兄」であった。実在しないと言われた方が、寧ろ得心がいく。「兄」を必要とするほど子供ではなく、細い細い血の繋がりに縋るほど弱くもない。遠く、見ず知らずの天上びとであったって、ワースのこれまでの人生が揺らぐこともまたない。
それは、きっと悲しいことなのだろう。そう思っているから、オーターはワースを追いかけ回すのだ。けれどもう、ワースは疲れた。この悲しい関係ごと、飲み込んで過去のものとして忘れ去りたい。
「わかった」
予想していたのではないかと疑うほどに、あっさりと帰ってきた返事は、実に身勝手なことに、ワースをがっかりとさせた。自分の中の答えも曖昧な癖に失礼な話だとは分かりつつも、ワースの中に慣れた諦念が広がる。
どうせ、ほら、やっぱり。
オーター・マドルほどの人間が自分に絡んで来るのは何かの気まぐれだったのだろう。こうして面と向かって拒めば、その関心すらなくなる。
離席を、促した方がいいのだろうか。どうせ価値のないワースに神覚者の貴重な時間が使われることはもうないだろう。自分から拒んだ癖に、声を掛けてオーターから拒まれるのも嫌だ。こんな時でさえむくむくと湧く自尊心に、ワースは自分で自分にうんざりとした。
しかし、ワースが俯くよりもずっと早く、すっと、手のひらが伸びてきた。それは握手を待つ形で、ワースの前にピタリと止まる。ワースは手のひらを見て、差し出す相手を見て、訳が分からず首を傾げた。しかし眼鏡の先の鋭利な瞳は、少しの迷いの後、ハッキリと言葉を紡ぐ。
「私はオーター・マドル。魔法魔力管理局の局長をやっている」
「…………」
「キミの、名前を教えてくれないか?」
「……なんっだそれ」
ぱちぱち、とワースは大きく瞬きを繰り返した。少しの沈黙の後、ふは、と気の抜けた声が漏れてしまう。この場合、吹き出してしまった自分の負けなんだろうか。
まるで、このフレーズを準備して来たと言わんばかりの棒読みだ。下手くそ過ぎる。真面目な顔をして「仲良くなるには、自己紹介からだろう、」だなんて言っている目の前の男はあまりにも滑稽だった。
この場合の、正解はなんだろう。じいっとオーターの瞳を覗き込めば、不安が熾火のようにジリジリと揺れていた。それが決め手であった。少しだけ躊躇いながら、ワースは相手の手を取る。見れば分かる程度に震えていたその手のひらは、氷のように冷たく、目の前の砂の神杖の緊張を伝えてくる。唐突に、このひとも人間なんだな、とワースは思った。どこかで自分の知らない何かの異生物のように思っていた。実際「神に選ばれ者」だ、ワースとはあらゆる意味で格が違う。しかしそれだけの人間がワースからの反応に怯え、緊張しながら捻り出したのが、自己紹介とは。ここでも拒むのは、流石に大人げなさすぎる。笑ってしまったのは、失礼だったかもしれない。
「俺は……ワース。ただのワース」
目の前にいる男は、記憶の中の人間とちっとも変わらない。しかし何故だろうか。不器用に縁を結ぼうとする目の前の相手と話すのは、……悪くない気がした。
◆◇◆◇◆
せっかくあのこが会いに来てくれたのに、引き離されてしまった。
身体の精密検査と精神検査が施され、結果はどれも正常。逆に正常であることがおかしく、結果に納得が行かない医師と神覚者によってその入院期間はズルズルと伸びた。全く失礼な話である。あのこが簡単に狂うような人間であったなら、「わたし」はここまで関心を寄せなかったというのに。
あのこが入院中、「わたし」も事細かに調べられた。ただ安心して欲しい。所有者以外に見られたくない記述を隠す方法などいくらでもある。むしろその間、あのことの交信が著しく妨害を受けたので「もし必要だったら全員殺すけど、どうしよう?」と声を掛けてみた。そのすぐ後に、入院中のあのこから子供向けの道徳と倫理を説く物語が届いた。まったく解せない。まぁあのこが健やかのようなら、良いけれども。
あなたを取り巻く世界は狭くて暑い坑道のようで、どこへだって飛んでいけるはずのあなたはいつも小さな檻の中で歌っている。あなたは自分の声など価値がないと思っているみたいで、いつも世界にがっかりしていた。あなたの声を褒めもしない居場所なんて、さっさと出て行ってしまえばいいのに。そうは思うけれど、これはあなたの望みではないらしかった。残念だけれど、こればっかりは仕方がない。
もしも。
その綺麗な声が、途切れた時には。
その時は、「わたし」は。
きっと。
カナリヤ 2
◆◇◆◇◆
ワース・マドルという人間は、幼い頃からよく弁えていた。
両親から強い叱責を受けるのは、出来が悪い己のせいであったし、兄がちっとも自分を見向きもしないのは、それだけの価値がないからだった。出来損ないのワースが誰より努力を重ねるのは仕方がないこと。ただ、それでも寝物語に読む童話に憧れない訳ではない。父が優しく頭を撫でてくれるのを、母が愛おしげに抱きしめてくれるのを、兄が手を引いて遊びに誘ってくれるのを、こっそり夢想する程度には子供であった。……まァ、現実にそんなこと、ただの一度も起こらなかった訳だが。
使用人が何人もいる大きな屋敷の中に、ワースはいつだって1人きりだった。お陰でひとり遊びは大の得意だった。日々の課題をこなす傍ら、覚えたての泥魔法に沈んでみたり、ヨタヨタと進路の怪しい箒で飛んでみたり。なにせひと所に留まっていれば、モヤモヤとした両親への讒言や兄と自分を比較する声がどこともなしに耳に入ってしまう。家庭教師らが施す魔法の授業も、とにかく叩かれるから嫌だ。その後に両親に叱られるのは、もっと嫌である。周りの声なんて聞き取れないくらい、動き回っている方が幾らか心易かった。
だからその日も、ワースはひとり遊びに出掛けたのだった。
目印にしている山に向かって一直線に駆け抜けて、どこまで行けるのか。いつもより遠くまで来てしまったことに気が付いたが、どうせ戻ったところでいつもの日常が待っているだけ。何よりも、今日の課題は既に終わっているのだから自由時間に何をしても構わないだろう。何度目か見送った兄の背中が、ワースの気持ちをささくれ立たせた。どうせ誰も振り向いてはくれないのだから、どこへなりとも飛んでみよう。
結論から言えば、その行動は間違っていた。
途中で飛び疲れて休憩にと足を踏み入れた洞窟に「それ」は居た。……いや、「あった」と言うべきか。見るからに禍々しい魔力を迸らせる魔導書。この世に「悪魔」を顕現させる異形の書。アレと対峙して、どうして無事に帰って来れたのか、ワース自身にも分からなかった。ただ、這々の体でマドル家の屋敷に戻ってきてすぐに見たものはハッキリ覚えていた。己の血交じりの泥が付着して硬くなった髪と、整わない息と、だくだく足から流れる血に比して熱い身体で見上げた先の兄の瞳が、不思議に凪いでいたことを。玄関に飾られる無機質な壺を見るような瞳でワースを一瞥した兄は、何も言うことはなくスタスタと廊下の先に消えていった。父母ですら、怪我に文句を言って、魔導書と対峙し逃げ延びたとのワースの言葉を嘲笑ってみせたのに。兄は、まったく、何も。
あの日、自分には「兄」というものは居ないのだと知った。単純に、腑に落ちたのだ。物語に描かれるような、ワースが夢想したような、頼りになる血の繋がった年長者など、ワースには誰も居なかったのだと。オーターが去った後、血と泥に塗れたワースを叱る母を見上げて、ワースはひとつ頷いた。お伽話は幻想で、ワースの現実はこちらであることを。その時嫌というほど理解したのだ。その日からだっただろう、ワースの耳に、ほんの少しばかり引っ掛かるような声が届くようになったのは。魔力を高め、魔法をより上手く扱えるようになるにつれ、その不思議な声は大きく聞こえるようになっていった。さらには夢まで見た。そうあの日、ワースが逃げ延びたあの洞窟で、ぼんやりと「悪魔」の姿が浮かんでいる様を。こちらを手招きするような、それでいて不思議となんと言っているか聞き取れない音は、その「悪魔」の声だった。それに気が付いた時、ワースは自分の悲鳴で飛び起きた。
その夜以来、誰にも相談できなかったワース・マドルを誰が責められるだろうか。
名門と呼ばれる学校に入学した頃には兄は出奔していた。「頼れる大人」なんて言葉は慣用句としか知らない。唸り声のような「悪魔」の声が寝ても覚めても聞こえるようになった頃には兄は神覚者となったらしい。両親は兄のように分かり易い「価値」をワースに求めた。それに応えるには、ワースの力はどうしたって足りなかった。それを理解出来るだけの聡明さが、悲しいことにワースにはあった。
在学中のどこかで、気でも触れていたらワースの人生は少し生きやすかっただろう。しかし「マドル家の出来損ない」であるワースは、「名門イーストン魔法学校の優等生」でもあった。その才覚は首席に添えられる程でなくとも、座学や実技においてワースはとにかく優秀だった。突出するものはなく、どれも平均的に、優等以上。精神においても、ワースにとっては大変不幸なことに、凡そ他人より強靭であった。「悪魔」の声程度でどうにかなれるほど脆弱で矮小であったらどれほど良かったことか。
幾らかの努力を要して使えるようになったセコンズの中に、ワースは自分の泥から顕現する「悪魔」をみた。その姿は不思議と腹落ちした。なんせ、あの洞窟で出会ったものと、夢で見る「悪魔」と、まったく同じ姿形をしていたのだから。なるほどあの「悪魔」はずっと、ワースの中にいたのだ。泥の中に沈めて封印したつもりになっていたが、そもそもまだ児童と呼んでも差し支えない年齢であったワースがそこまで複雑な魔法を使えたはずもなかった。つまり、あの魔導書はいまも、あのまま。きっと、あそこに。
ぞわり、とワースの背筋に冷たいものが駆け抜けた。
その筆舌に尽くしがたい恐怖を、どう表現したら良いだろう。
世界を崩壊させようとした犯罪者に加担し魔法薬まで飲んだのだ、名門マドル家からは除籍されていたし、その扱いは当然であろう。なんにせよワースはとかくよく弁えた子どもであったので、貴族の振る舞いもよく承知していた。そんな自身の中にあるひと欠片の貴族的矜持が、恥の上塗りになる事を恐れたのではない。自分を仲間と呼んで寮の三席に据えた同輩が、慕ってくれた後輩が、困った顔でいつもフォローしてくれる幼馴染が、広い屋敷の中ひとり遊びする他なかったワースに暖かな記憶を与えたそれら全てが、幼きあの日に危険な魔導書を泥に沈めるだけで安穏と過ごしてきたワースに気が付く事を恐れたのだ。勿論、魔導書に相見えた頃のワースにその力がないとしても、最初に「悪魔」の声が耳に響いたあの日、「悪魔」が夢に現れたあの日、自分の泥の中から「悪魔」が現れたあの日、そして「無邪気な淵源」から受け取った魔法薬を飲んだあの日、いつだってワースは自分の過去を精算出来たはずだった。何故、解決しようと動かなかったのか。何故、他人に頼ろうとしなかったのか。恐怖にすくんで動けなくなったのか?子供の頃のあの日のように?……いいや、怠惰であっただけだ。ワースはそう自身を結論付けた。反論はあろう。けれど、ワースにとっては、「怠惰」という烙印だけが全てであった。
幼少のワースが試みた泥魔法による封印は、正常に発動しないまでも魔導書を泥の中に沈めたままだ。恐らくそれで、魔導書との間に何らかのラインが発生したのだろう。意識を集中してみれば、なるほど確かに、自分とあの洞窟の方角に向かって遠くの方に繋がりを感じた。今まで一切これに気が付かず、いや気が付かない振りをしつつ生きていられたなんて、なんと迂闊なことか。遠くに感じるその気配は、ワースが自らに気が付いた事を喜んでいるらしかった。聞き取れもしない声で、ワースを呼んでいる。それを耳の奥に響かせたまま、ワースはひとしきり頭を抱えた。あの魔導書は間違いなく意思を持っている。ワースを呼び寄せて何をするつもりなのか。今でこそ宙ぶらりんの関係であるが、ワースが魔導書を調伏するか、魔導書がワースの意識を押し潰しながら飲み込むか、どちらが速いだろう。
ワースが卒業後の進路を大きく転換したのはそれを理解したからだった。家のしがらみから解放されて、本当は各地を転々としながら倹しく生きようかとも思っていた。イーストン魔法学校卒業の名は伊達ではない。実際扱える魔法も多いワースは、根なし草の生活でもやって行ける自信があった。けれど身のうちに抱える魔導書をどうにかしなければ、ワースの人生は始まらない。
魔法局を志したのは、単に情報の終着地だからだ。かなり勤勉な学生であったワース・マドルといえど、術者からの魔力なしに、また示される意思なしに、術者へ「悪魔」を遠隔召喚してくる魔導書など聞いたこともない。調伏するのであれば、あの魔導書の正体を掴む必要がある。家を勘当された身分で上級学校を目指すのは難しい。であれば、魔法界最高峰の蔵書を誇る魔法局の書庫に忍び込む他ない。その最も確実で正当な手段が「魔法禁書管理局の職員になる」ということだった。
実のところ、ワース・マドルはかなり上手くやっていた。なんせ元より勤勉で努力家だ。あっさりと就職を決め、魔法禁書管理局に潜り込んだ。一時期若気の至りで不用意な仲間と関係が出来たとはいえ、勤務態度は真面目で勤務時間外にも自己研鑽に励んでいる。雑用も進んでやる人間の出来た新人。それら他人からの評価はワースの真の目的を綺麗に糊塗した。魔導書の専門書を読み漁っていても、誰も疑問には思わない。
「……〜ッだっつぅのによォ……っ!」
泥魔法を使いつつ、壁を走る。べちゃべちゃべちゃっ、と独特の音が響き、ワースが駆け抜けた跡には礫が矢のように刺さった。防戦一手である。人間相手であれば魔力切れを狙う手もないことはないが、魔導書ではほぼ意味がない。なんせ魔導書が勝手に魔法を放っているのだ、内部に膨大な魔力の貯蓄があるか、空気中の微量な魔力をかき集めていると見るべきであろう。100%の確証があるとは言い難いが、この魔導書は後者だろう。原理上不可能ではないが、本当にやってのけるだなんて、神話上の生き物かよ。そんなもん、生身で削り切れる訳がない。ワースは鋭く舌打ちした。
始めから、分かっていた。
もしもワースの秘密に辿り着くとしたら、あの血の繋がりがある男だろうと。
魔導書から逃げたあの日、屋敷の玄関で傷だらけのワースに一瞥をくれたあの男。クソ生意気な後輩に師匠面していたのを見た日、ワースは密かに胸を撫で下ろしていた。あの後輩たちが魔導書の扱いに秀でているとは聞かないし、活力溢れる子供を相手にしている間はあの厳格な神覚者の瞳はこちらへ向かない。これまで通り、無価値な弟など視界の端にも掠めてくれるな。そんなワースの願いも虚しく、大戦後、砂を背負う神覚者はこちらにその瞳を向けた。なぜ。よりにもよって。なぜ。今になって。
この洞窟に入る前に、最後の下調べをしている最中に砂の神杖に出会った時、もうダメだと思った。ついに追い付かれたのだと。延期や中止の手は取れない。これ以上最適な日程はない。どうしたら良いのかと。「力になる」と不安げに曇った表情で上目遣いにこちらを見る瞳に、正直心が揺れた。ひょっとしたら本当に自分を心配していて、禁書と指定されるような魔導書を密かに手に入れようとしているワースを追いかけていた訳ではないのではないかと。この数ヶ月不器用に示された親愛の情は、本当に偽りのない真心であったのではないかと。
しかしワース・マドルは、……いや、今となっては「ただのワース」は、よく弁えた青年だった。
神覚者に引き上げられるような才覚が、希少な種族の血が、自分にはあるか?……答えはノー。あり得ない。「砂の神杖」ともあろう人が、今更「出来損ないの弟」に関心を持つか?……これも勿論、ノーである。
……で、あれば、規則に厳格な神覚者の行動理由など知れている。
禁書指定を受ける魔導書を届け出なく所有、隠匿するのは法に規定された罪だ。与えられるものは、罰しかあり得ないだろう。
***
(……つっても、出力自体は大した事ねェんだよなァ)
礫は飛んでくるが、避けられるレベルである。たとえ回避出来ずとも、これくらいなら泥で防いでも問題ないだろう。魔導書から投げ続けられる魔法を頭の中でシュミレーションしつつ壁を蹴って、「悪魔」へ向かって踵落としをする。ばっちり受け止められたところで相手の腕を蹴って退避した。まともに組み合っては勝てない。大きさもさる事ながら、筋力のそのものが違う。けれど向こうも深追いしない。だいたい、魔法で強化しているとはいえ、物理攻撃は通るのか?さっぱり分からん。くるりと空中で一回転して壁に足を付いたワースは、窪みに足を引っ掛けるようにして地面まで降り立った。その動きひとつひとつに、「悪魔」が喜んでいる気配がする。
(テンション上げてる、……つーか、)
子供みたいにはしゃいでいる、みたいな。
くるり、と杖を回して構え直す。その間にも「悪魔」の楽しげな波動が伝わってきた。
そういえば同じような視線を、いつか感じたことがある。まだワースがイーストン魔法学校に通っていた頃、同室のアビスと街へ買い物に行ったことがあった。その頃まだ瞳を隠すついでに顔を丸々隠していたものだから、小さい子供に泣かれてしまったのだ。尤もその子供は迷子であったから、アビスの仮面を見ずとも泣いていた気がするが、そこは割愛しよう。ともかく、泣く子には勝てぬということで、ワースの魔法で宥めてやった。光る玉、動物を模した泥人形、ついでにワースの習いたての体術。大道芸人か何かになったような心持ちがしたが、おろおろしていたアビスが落ち着き、ワースの一挙手一投足、指のちょっとした動きにまで与えられるキラキラした瞳と惜しみない拍手は心地よかった。
いま、「悪魔」はワースへその時と同じ視線を向けている。気のせいだろうか?考え過ぎだろうか?それとも希望的観測で勘が鈍っているのだろうか?
(……いっちょまぁ、試してみるか)
別に無駄骨になっても構わない。一度で魔導書を調伏出来るとまで考えていない。……いや、恐らくオーター・マドルにはワースが行おうとしていることがバレた気がするから、介入される前に決着をつけるか逃げるかすべきではあるが、それでも。
「おぅら、リトル・ボーイ!遊んでやるぜ?」
リトルと呼ぶには大き過ぎる「悪魔」ではあったが、そこはまぁ些細な問題である。「悪魔」が咆哮を上げた。ワースの耳にはそれは、歓喜の音に聞こえた。マッドロス、と口の中だけで呪文を唱える。「悪魔」の大きさに合わせて些か大きめな泥人形は、全身が出来上がると「観客」へ向けて慇懃に一礼した。傀儡魔法の初歩訓練で良くやらされた曲目を次から次へと現れた泥人形がくるくると演じる。ついでにと、軽くハミングしながら指揮棒のように杖を振るう。音魔法である。専門でなくとも、ある程度の旋律ならワースでも生み出せる。その拙い音色を聞くのはたった一体の観客とはいえ、手を抜くなどあり得ない。
(……見てる、な)
泥人形たちの毎日を食い入るように眺める「悪魔」は、時よりきゃらきゃらと高い笑い声をあげた。たぶん迷子になっていた子供とさほど変わらない反応であっただろう。凶悪そうな容姿と地響きを響かせる高笑いで雰囲気は全然違うが。
思えば、礫を投げながらこちらを追い掛けるのはさながらドッチボールのようであったし、子供騙しの曲目はサーカスだ。そう、まるで。
(……ガキが、喜びそうな)
ワースは一瞬胸に広がった苦いものを奥歯で噛み潰し、苦笑した。なんだそれは。まるであの「悪魔」と出会った頃のワースが求めていたものそのものではないか。1人では出来ないボールの投げ合い、誰かに連れて行ってもらう大道芸。独りで下手くそな箒を飛ばすくらいしか、娯楽がなかった子供の夢想だ。それは、叶わなかった過去のものだ。
「……チッ」
舌打ちをしたものの、ワースの顔は笑っていた。小さな子供の泥魔法に沈められた魔導書は、ひょっとするとワースが考えていたよりもこちらに対して好意的なのかもしれない、と頭のどこかで考え始めていた。振り返ってみれば、この歳のワースと渡り合えているのだから、どう考えても幼少期のワースなど、ぷちん、と一撃で簡単に終わっただろう。だいぶ手傷を負わされたが逃げ切れたのは、魔導書がワースを遊び相手と捉えていたからではないだろうか。泥に沈めたのも、何かの遊びの一環と認識していたら、追撃がこれまで無かったことも理解はできる。ワースを呼び続けたのも、目の前でいまこうして楽しげなのも、単純に、本当に、魔導書からしたら遊んでいるだけだとしたら。遊び相手が欲しかっただけだとするならば。
「見てるだけじゃア、飽きるよなァ?」
くるくると踊らせた泥人形に一礼をさせ、次の遊びを考える。子供の頃のワースが、一体何をして遊びたかったのか、思い出と共に口の端に笑みを登らせながら。
***
結論から言えば、ワースの当て推量は正しかったと評すべきだろう。自身の持つ貧困な「子供が喜びそうな遊び」を片っ端から試しているうち、分かりやすく魔導書の機嫌は上向いた。何故、魔導書の心の機微が読み取れるのかは、いまこの際気にしない。ただひとつ確実なのは、段々とワース自身もこの「悪魔」に愛着らしきものが生まれて行ったということだ。きっと噂話に聞く「近くの公園で知らない子と遊んだ」というのはこのような状態を示すのだろう。もっとも、大きさも力も全然違うから、猛獣の顎下を擽ぐるような繊細さが必要とされはしたが。魔力の底がだいぶ見え始め、手足もへとへとになった頃、魔導書の気が済んだ。……いや、その事象を「気が済んだ」と総括して良いものか、だいぶ葛藤があるものの、状態として「悪魔」が消え、残ったのは泥にぬかるんだ地面が現れた。ワースは慣れ親しんだぬかるみをざぷざぷと進み、中心にぴたりと杖を据える。なんせ元はワースの泥だ。年月が経とうとも、泥はワースの意思に沿って動く。すぅっと、努めて深く息を吸った。
「来い」
ごぽり、とまるで呼吸のように気泡を吐き出し、短い命令に従って一冊の本が浮かび上がる。初めて対峙した時とは打って変わって凪いだ海のようなその魔導書は、つい今先ほどまで泥に沈んでいたとは思えないほどピカピカと光っていた。中の「悪魔」が遊びに満足していたのだから、それも当然と言えよう。ワースは胸の高さに浮かぶその魔導書に手を伸ばした。しかし、
「──辞めなさい」
ぴしゃりと冷たい声に、ワースの指は思わず跳ねた。振り返ればここ数ヶ月の間に見慣れてしまった顔がある。在学中はインターン先に、学生寮に、就職してからは不自然な程に廊下ですれ違い食堂でも見かけた顔だ。自身の心に従って、ワースは鋭く舌打ちをした。まじかよ、「悪魔」が転移魔法を使ってまでぶっ飛ばしたんだぞ。どうなってやがる。
「これはこれは神覚者様。……お早いお戻りで」
「その魔導書から離れなさい」
ぴたりと杖がこちらを向いている。泥に満ちたこの空間は、その性質からして空気が湿っており、少しばかり重い。その重みが少しずつ軽くなっていく。泥から砂を取り出している証拠である。ンな臨戦態勢取られちゃ会話も何もありゃしねェな、とワースは軽く肩をすくめた。
「それは禁書の類いでしょう」
「……さぁ?」
「私が預かります。お前は触れないように」
「神覚者様?ご存じのこととは思いますが、禁書は知の神杖様が管轄する魔法禁書管理局の所管。ご存じの通り俺は禁書管理局の職員。魔法魔力管理局の局長様が出る幕ではありません」
努めて冷静に、考えていた通りのことを口にした。オーター・マドルは眉を顰めた。そのような顔をすると父親に似ているな、とワースは思った。同時に、あれだけ恐ろしかった父親と同じ憤りを示す顔を見ても、萎縮しない自分に密かに驚いた。
ワースにとって「砂の神杖」に追いかけ回される日々は、なかなかのストレスを感じるものであった。なんせ、兄の顔は父に似ている。何を考えているのか分からない大型の肉食獣を思い起こせばだいたい近いだろうか。どんな気まぐれで、どんなうっかりで、致命的な怪我を負わされるか分からない。
フ──、と重苦しいため息をオーターは吐き出した。噂に聞く「砂の神杖」のため息だ。これが聞こえたらとにかく退避しろとは魔法局の新人に口酸っぱく言われる、先輩からのありがたい助言である。言われなくとも、今のワースには逃げる以外に打てる手はない。
「お前はいま、休暇中だろう」
「休暇中でも職員は職員ですので」
ワースはもう大人なので、「テメェだって休暇中だろうが、」とかは言わない。にっこりと愛想笑いを浮かべた上で、自身もしっかりと杖を持ち直す。
「ご安心を、神覚者様。こちらの魔導書は私が管理いたします」
「……!」
「マッドロス!」
言って、宙に浮かぶ魔導書を胸に抱える。そして同時に魔法を展開する。足元の地面が盛り上がり、どぷりと泥がワースを飲み込んだ。最後に見たのは、らしくなく冷静さを欠いた表情でこちらへ手を伸ばすオーターの姿だった。なんで砂で転移を防がなかったんだろうなぁと一瞬頭を掠めたが、まぁどうでも良いこと。胸に抱き留めた魔導書が不釣り合いにも楽しげな波動を返すのに、ワースは出来の悪い弟を見るような表情で笑みを溢した。
◆◇◆◇◆
まずい事になった、とオーターは密かに嘆息した。
魔導書の中でも禁書と呼ばれる類いのものは、大きく分けて2種類ある。ひとつは、ある手順に従うと心身に致命的な影響を及ぼす書籍である。例えば本を開く、ある一節を指でなぞる、書いてあるものを声に出す等、何かの行動がキーとなって魔法が発動する。そこに術者の意思も魔力も関係ない。ある種システマチックな魔法が仕組まれた魔法道具に近い。大抵書庫の中に厳重に封印されるのはこの類いだ。だが、魔法が仕組まれている行動を起こさなければ何も起きないという点では安全であろう。もうひとつは、長い間に強力な魔力に晒され続け、いわば精霊や神が宿ったかのように魔導書自体に意思がある書籍である。この類いは前者よりも厄介で、自らの意思で持ち主を選ぶ。魔導書を手に取り縁が生まれてしまえば最後、持ち主は好むと好まざるとに関わらず、「魔導書の術者」にされてしまう。基本的に持ち主を気に入っているから魔導書が進んで持ち主へ危害を加えることはしないが、持ち主の周囲に対してその配慮は一切及ばない。持ち主の感情ひとつで、魔導書は持ち主を守るために勝手に動く。取引先を燃やしたりちょっとした喧嘩相手に襲撃したり、魔導書が引き起こすトラブルには際限がない。こうなってくると、術者の多くが精神的に病んでしまう。通常の人間の精神では、保たないのだ。魔導書には人間らしい情緒はないので、術者の周りに誰もいなくなったことを喜ぶか、術者の精神衰弱を怒って周囲に当たり散らすかは五分五分といったところか。
この手の禁書に惚れられてしまえば、魔導書との縁を強制的に切らせ、今以後魔導書に見つからないように魔法具の補助を受けながら生活する他なくなる。ワースが魅入られてしまったのは間違いなくこちらの禁書であった。勝手にオーターへ転移魔法を掛けたことからも明らかである。
(……壊すか)
ある程度魔力を持っているとはいえ、所詮は本である。燃やせば燃える。もちろん、抵抗はされるだろうが。
(……いや、どうだろう、この場合)
既にワースは魔導書と契約を結んでしまっているように見えた。単純に本を燃やしただけでは術者となったワースに何かの不都合が生まれないだろうか。……まったく、この手の呪いの品に近いモノの扱いは慣れていない。
オーターは自分の端末を取り出して、連絡先を辿る。自分で足りなければ知識のあるところに頼る。面倒ごとは勘弁してほしいところだが、今これが最も合理的な判断であった。
◆◇◆◇◆
自分の指の先さえ見えない暗闇の中、ワースは初歩的な生活魔法の呪文を唱えた。ゆらりと蝋燭のような穏やかな光が小さな球となって現れる。その位置を調整しながら、とにかくワースは進む。
(……参ったな)
とにかくオーターから逃げる事を第一に飛び出してしまったものだから、転移位置が悪い。洞窟の入り口付近に飛べればよかったのに、今いる座標はそれとは全く逆、洞窟の奥側だ。
ワースの空間認識が誤っていたのではない。魔法を使う際、干渉したものがあったのだ。
「……おっ前なぁ、」
思わず、腕の中の魔導書を見る。魔導書は照れたように身を捩った、気がした。
この魔導書が一体いつからこの洞窟内に居たのか、ワースには分からない。しかしともかく、ワースが洞窟に分け入ってしまう前、そしてワースと出会ってからはずっと泥の下の中で、この洞窟内に収められていたのだ。魔導書はこの洞窟の中の方が安全で馴染み深いのだろう。……咄嗟にどこか安全なところへ、と願って洞窟の奥に誘うのは些かどうかと思うが。
「あーくそ、魔力もすっからかんだしよォ……」
魔導書と戯れすぎた。2本線としても魔力の器が大きく、その分魔力がまるで満タンにならない、と評されることが多いワースではあるが、もう単純な生活魔法しか出せない。省エネでの魔法行使は散々練習してきたが、これも出せなくなったら遭難を覚悟した方がいい。
仕方ねぇな、と言いながらその場に尻をついて座る。そして胸に抱いた魔導書を、胡座をかいた自分の膝の上に置いて、その表紙をそっと撫でた。耳の奥に、子供が笑うようなきゃらきゃらとした高い音が響く。これまでずっと響いてきた声なき声と比べればずっと聞き心地の良い音だ。こんな時なのに思わず口元が緩んだ。
「禁書」と評される魔導書には、大きく分けて2種類ある。ひとつは決められた手順で書籍を扱うと強力な魔法を出す反面その手順を行った者に代償を求める書籍で、またひとつは書籍自体に意思があり術者を選ぶ反面その人物を守ったり願いを叶える為に他人に害を為す書籍だ。この魔導書は、明らかに2種類の性質を兼ね備えていた。初めて対峙した時に感じた禍々しい魔力が、いまも膝の上で感じられる。しかし一方で、ワースはハッキリと魔導書と自分との間に何らかの絆らしきものが形成されている事も感じた。魔導書がワースを術者として選んだのだ。ワースが誰かの魔法で魂ごと入れ替わったり身体だけ操られたりしない限り、この魔導書はワースと共にある。……或いは、死別してなお。
「……ハッ」
魔導書が術者の死後の魂を蒐集する、というのは今のところ実証されていない。今この時点で心配するべき事象でもないだろう。いま心配すべきは、魔法魔力管理局局長に捕縛されて、禁書の術者として何らかの処分を下される事だ。
「おい、魔導書。……いや、この際だから名前のひとつでも付けてやるか……」
魔法の行使において、呪文は力を十全に発揮する為に必要な行為である。魔導書も一応は魔法で作られたものだ。ある程度意思がある以上、魔法生物と思って接してやった方が良い。
魔導書の表紙を撫でてやりながら、ワースはうーんと顎に手をやる。魔導書本体から今も感じる不穏な魔力と、洞窟で出会った時の絶望的な気持ちと、自らのセコンズを順に思い浮かべ、やはり無邪気に喜ぶ気配のままの魔導書を見下ろす。
(どうにもガキ臭えんだよなぁ)
どう考えてもワースの年齢より長い年月を「書籍」として過ごしているはずだが、その精神性はワースより随分と低そうである。魔導書と出会った頃のワースと同じくらい、だろうか。或いは魔導書の方がわざと出会った時と年齢を揃えているのかもしれないが、その辺りは分からない。どれだけ人族の成長スピードを魔導書が理解しているかどうかも。
(……ひょっとすると少し面倒なタイプかもしれない)
実は、「人族の成長スピードを理解していなかった禁書」には例がある。初代の当主に惚れ込んだ魔導書が人族の寿命をあまり理解できず、初代とよく似た魔力の質、魂の形をした血縁者に憑き続けた例だ。これはその一族にとって不幸なことに、その禁書は好き嫌いが少なかった。惚れた初代に似ていさえいれば、極端な話、誰でもよかった。上手く継承が出来れば良いが、魔導書が「初代当主ではなかった」ことに気が付くと「癇癪」を起こす。継承して、魔導書が癇癪を起こして、を繰り返すこと300年程して、その禁書は族滅一歩手前でなんとか禁書庫に収められた。しかしというべきか、やはりというべきか、生き残った家はまもなく爵位を返上したらしい。その後の一族の行方は分かっていない。
「……」
ぱらり、と表紙を捲ってみる。
革の重厚な手触りの表紙には、やや読みにくい題字が書かれていた。それにじっと瞳を凝らす。しばし目を走らせてから、ハッとした。
「……やっべ」
当たり前のように本を開いてしまった。どれが禁書を発動する行動か分からないのに。ワースは注意深く本を閉じ、再びその表面を優しく撫でた。本がなんと言っているのかハッキリとは聞き取れないが、「別に殺したりしないよう、」と拗ねているような響きが耳に残る。
「……つったってよぉ」
何せ、「悪魔」を泥魔法に引っ張ってくるような魔導書だ。何が起こるか分からない。そもそもあの「悪魔」とは何なのか。魔導書の力で召喚しているのか?はたまた、何か恐ろしいものの象徴として「悪魔」として目の前に浮かんでいるだけなのか?さっぱり分からない。
「……まぁでも、お前の名前はアレだな。リトルデビル。それが一番良い」
イエスともノーとも言わない表紙をまた撫でてやる。名前が気に入った訳でもなかろうに、魔導書は嬉しそうであった。
「そのうちお前が「リトル」と呼べないくらいに成長したら、ただの「デビル」と呼んでやるよ」
セコンズと詠唱せずとも、そのうちに「悪魔」を泥魔法のうちから呼び出せるかもしれない。しかしそれはおいおい先の話だ。ひと先ずは、手元の魔導書を把握するのが先である。
「さてリトルデビル。俺の今の実力で、開いたり読んだり触ったりしてもお前の中の魔法が発動しないページはあるか?」
ワースの問いに応えて、ふわりと魔導書が視線の高さに浮かぶ。
ある一定の魔法を仕込まれている魔導書とはいえ、術者の魔法が魔導書の魔法を抑え込める程であれば術の発動を抑えることが出来る。或いは、その魔法を制御することも可能だ。ワースの所属局長である「知の神杖」は禁書を扱う神覚者だが、彼女の力が禁書を支配下に置いているから出来る芸当である。普通あんなもの扱えない。
4cmほどの厚みがある魔導書は裏表の表紙と冒頭の2mmほどが淡く光った。恐らく魔導書が示す「ワースが読んでも良いところ」なのだろう。これを多いと取るか少ないと取るかはそれぞれだろうが、ともかく今のワースの実力がここまで、ということだ。素直に目の前の本に手を伸ばし、パラパラと捲って記述を当たっていく。
「うーん……」
さすがに冒頭のページではセコンズを超えるような魔法が書かれている訳ではないようだ。しかしその記述を素直に読めば「悪魔」を呼び出し、操る魔法である。ワース本人の魔力だけで泥を作るよりは、魔導書の助けを借りて魔法を使った方が効率的ではあるが、使い勝手だけでいえばセコンズの方が慣れている。
「……うん、熟読はまた後でにするか。とにかく教えてくれてありがとな」
魔導書の表紙をワースは優しく撫でた。そして、ふわわ、と大きな欠伸を溢す。
魔力不足は直結して休息を必要とする。ほとんど魔力の残っていないワースはもう眠い。体力も限界である。
宙に浮いていた魔導書を胸に抱き寄せ、ワースは小さく「マッドロス」と唱える。途端、足元から這い出てきた泥がワースと魔導書を包んだ。
どんな野生動物や魔法生物がいるとも知れない洞窟だ。とりあえずは泥の下に沈んでいた方が危険はないだろう。空気の確保は難しくないし、眠っている間でも、固有魔法を解かないくらいワースには訳ないことだ。冷たく滑らかな泥に包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
***
とぷり、とワースの覚醒に応じて泥が揺れる。真っ平らになっていた地面がゆっくりと隆起して、ワースはぶるりと身体を震わせた。もっとも、泥魔法はワースの身体を汚さないので、その身動ぎは気分の問題である。
ぐーっと伸びをする。
なんでも器用な質のワースは、眠るとかなり簡単に魔力を回復できる。仮眠とは言え熟睡できたお陰で、腹の中に感じる魔力はそこそこだ。
「さぁてと、」
懐から魔導書を取り出す。ひと撫でしてから自分が読み解けるページまでを丹念に浚った。些か詩的な表現が多いものの、魔導書としては平均レベルだ。文脈で意味は取れるが、いくつか知らない単語がある。ワースが思った通りの意味でなかった時かなり危険だ。まただいたい理解できるものの、恐らく造語らしき単語も混じっていた。これもまた、ワースが想像した通りでなかったら危険である。危険ばっかりじゃねぇか。一旦魔法局に戻って書庫にある辞書に当たる時間はあるだろうか。オーターに目を付けられている以上、さっさと辞表を郵送して行方をくらませた方が良いだろうか。少し悩む。分からない単語をぶっつけ本番で試してみても良いが、その場合の被害はどれほどになるだろうか。魔導書が示したワースが制御できる範囲は実際にはどれほど正しいだろう。考えるべき論点はいくらでもある。
(ま、でも大体は把握したな)
何かあった時、この禁書を使用できないこともない。
そう納得して、ワースは魔導書を閉じてその表紙をひと撫でした。
「……っし、行くか」
魔導書を懐にしまおうとしたその瞬間、ぞわりと嫌な気配がしてワースは飛び退いた。洞窟内は、基本的に暗くじめじめとしている。まさに泥を扱うワースにはぴったりの環境だ。であるにも関わらず、空気中の湿度が急速に下がっている。
(やばい)
「……見つけましたよ、ワース」
すこし猫背気味に眼鏡の位置を直す姿がそこにあった。肌に感じるぴりぴりとした乾燥に冷や汗をかきながら、ワースはジリっとまた一歩、後ろへ下がる。
「実力とは何か」という議論がある。
いついかなる状態で発揮される力を「実力」と呼ぶのか、という考え方の話である。あるひとは積み上げ続けた実績を「実力」と呼び、またあるひとは他者からの評価を「実力」と呼ぶ。ワースにしてみれば、「最もコンディションが悪い時に発揮する力」のことを「実力」と呼んでいる。その考えで言えばこの洞窟内はワースにとって「実力」以上を発揮できる環境であるし、オーターにとってはまさしく「実力」が試される状況だ。
砂と泥の違いはいくつかあるが、ワースにとって重要な違いは、粒子の粗さとその重さだ。一般の分類として、砂の方が泥を形作る粒子よりずっと粗いし、水を含まない分だけ軽い。ワースの知覚上、泥は水より重い流動体である。しかし砂は、ひと粒ひと粒が生きているようにてんでバラバラに動く。単に水をぶっ掛けてしまえばその砂が泥となりワースの手足として生まれ変わる訳ではない。オーターが制御するそのひと粒ひと粒を自分の支配下に置かなければならないのだ。途方もない作業である。しかしそれは相手も同じで、自らが支配する砂としてワースの泥を削るなら、水に満たされたいつもよりずっと細かい粒子をひと粒ひと粒オーター自身の支配下に置かねばならない。……はずで、あるのだが。
(……やば過ぎるだろ)
オーターを中心に湿度を持った洞窟内が急速に乾燥し、乾燥した先から泥が削られていく。砂にとって不利であったはずの環境がみるみるうちに塗り替えられていく。
(これが神覚者)
ワースは思わず懐の魔導書を撫でた。もちろんそれで事態は好転するはずがないが、無意識に縋れる他者を求めた。その動きを見咎めてオーターは眉を顰める。
「ワース。速やかにその魔導書を渡しなさい」
「……降伏しろって?」
「いいえ。とにかくその魔導書は処分します」
有無を言わさぬ強い口調に殺気とも感じられる迸る魔力。しかしワースは唇を湿らせて反論した。
「これは禁書です。であれば、知の神杖さまの領域です」
「越権行為と?」
「……少なくとも、禁書の調べが終わるまでは」
「フ───」
重たいため息が、オーターの口から漏れた。ワースの小さな心臓はすでにバクバクと小動物のように震えている。もちろん魔導書を引き渡して、それで済むはずがない。そう思うワースとは裏腹に、オーターの声が一段柔らかくなる。
「お前はその魔導書に惑わされているだけです。燃やせば正気にも戻るでしょう」
「………………は?」
「安心なさい。その魔導書からお前を守ってやります」
ワースは一瞬何を言われたか分からず、瞳をまん丸く見開く。オーターの表情は、いっそ慈愛に満ちてさえいた。そう長くも濃くもない付き合いではあるが、オーターが本気でそう思っていると理解して、ワースは目の前が真っ赤になる程の怒りを感じた。
いつ、自分はこの魔導書から助けて欲しいだなんて神覚者に望んだのか。
かつて魔導書に襲われて怪我をした子供の心配だってしなかった人間が、今更、何を言っている?
マドル家のエリート官僚を輩出する貴族らしい部分を、ワースは納得しているつもりだった。無様に血を流すワースに手を差し伸べないのも、愛情らしきものを示さないのも、すべて。そういう家だから仕方ない、と。けれど自分は意外にも怒りを抱えていたのだな、と他人事のように思う。ふつふつと湧き上がる激情は、腹の奥から心まで燃やす。
懐の魔導書が、「どうする?」と問うてくる。その声なき声にはワースへの信頼の響きがあった。まるで幼な子のような音はワースを疑っていない。まさしく無垢な愛着というやつだ。例えばワースがここで魔導書をオーターに差し出し自分ばかり助かろうとしたとて、この魔導書にはその行動を何か重要な意図があったものと考えるだろう。その燃やされる瞬間まで、或いは燃やされてもなお、ワースが魔導書を犠牲に助かろうとしたなどと、きっと気が付かないに違いない。そう確信させるほどに、透明な信頼だった。
(……それでいいのか?)
神覚者には敵わない。どれだけ洞窟がワースの魔法に適した環境であっても、その不利をオーター・マドルは簡単にひっくり返してしまえる。まさしく「実力」が違うのだ。
彼我の差を理由に、こうべを垂れることは楽であろう。なんせ、ワースの選択も「神覚者相手では仕方がない」と他人に押し付けられる。責任からは簡単に逃げられる。でもそれは、あの日傷だらけであったワースを叱り、救急箱を寄越すばかりで見て見ぬふりをしてきた人間と何が違うのか。あの日に大人への失望を胸に抱いたワース・マドルが、いま抱える魔導書に、同じ仕打ちをしても良いのか。
(良い訳、……ねぇだろ……!)
胸に抱えた魔導書に向けて、ワースは小さく、しかし鋭く返事を返した。「応戦する、」と。魔導書は分かっているのか分かっていないのか、新しい遊びに誘われたかのようにはしゃぐ。その無邪気さだけが救いであった。
「ワース?」
ワースは努めて大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。未だに心臓はバクバクとうるさく鳴っている。禁書を守って、それでどうする。本当に神覚者に勝てると思ってるのか。ただ苦しい時間を伸ばしただけではないか。そんな弱気な自分の言葉を、今だけは全て封じ込める。バカな選択なのは百も承知だ。けれど、今は「バカ」になった方が「正しい」選択である。
(……コイツを戦闘不能にするか、ここで動けなくさせて俺らは逃げ切る)
魔導書に目標を伝える。楽しげな魔導書は本当に聞いているのかいないのか、ともかくワースに従う気はあるらしい。凪いだ海のように、魔力が張り詰めていく。
ホルダーから自分の杖を取り出して、呪文を口にする。どうか、自分の声よ、震えてくれるな。
「マッドロス」
「……!」
泥人形が1体、顕現する。
それに魔導書を任せ、ワースはオーターを睨め付けた。泥人形は、ワース本人と全く同じように、躊躇いなく魔導書を開く。
「リトルデビル、オレに力を貸せ!」
泥人形が魔導書の記述をなぞり、魔法を展開する。本来禁書は術者以外の命令を受け付けない。ただ、魔導書を持たせた泥人形はかなり魔力を込めてワースに寄せて作った。視覚ばかりか感覚まで共有させた渾身の1体である。魔導書本体の目溢しもあるが、アレならば禁書の判定的にはOKなのだろう、泥人形が杖でなぞった記述が光を放つ。とても禁書とは思えない輝かしい力は泥人形を通じてそのままワースに伝わってきた。自らの魔力が底上げされたように感じる。そのまま杖を構えてワースは叫んだ。
「マッドロレイン!」
「……!」
洞窟の天井や壁から、一斉に弾丸状の泥が放たれる。当たれば気絶するくらいの威力を持たせた。これで気絶すればよし、無理でもへばり付いた泥で動けなくさせられればよし。タンッとステップを踏んで泥人形の隣に戻ったワースは身を翻して走り出す。勿論2本の足を流体へ変化させた泥人形も一緒だ。
卑怯という勿れ、戦略的撤退である。何度も言うが、ワースは魔導書と逃げ切れればそれでいい。
「フ───」
不穏なため息が背後からした。
肌がひりつく程の乾きを感じたと思った瞬間、オーターにまとわり付かせた泥が制御を失う。
「……!」
重いはずの泥は、無惨にも崩れ落ちていく。その細かな粒子は水分を失って、一定方向に流れる。
神覚者オーター・マドルの望む方向へと。
「少し禁書の影響が強いようだ」
「……俺は始めから操られちゃいねーっつーの」
「まぁ良いでしょう。禁書を処分すれば分かることだ」
ゆらり、と杖を持ったオーターの身体が揺れる。神覚者相手に防戦を張る気はないワースは慌てて障害物代わりに泥の壁を呼ぶ。無論、相手はこちらの魔法を崩してくるのだから、こんなもの時間稼ぎ以上の意味はないが。
「チッ」
分かっている。
逃げ切れない。
なんせ、オーター・マドルは攻撃魔法を使ってこないだけの余裕がある。今だって、ワースが作った壁くらい簡単に壊せるはずなのに。砂と泥の単純な力比べでは、魔力量に差があり過ぎて勝負にもならない。
(考えろ……考えて、予想しろ……)
とにかく隙が欲しい。
ワースと魔導書とが、砂の神杖から逃げられるだけの隙が。
「ふ─────、」
大きく息を吸って、吐き出す。奇しくもその呼吸音は、ため息をついたオーターのものと似ていた。
魔導書が、再度ワースへ「どうしよう?」と問うた。ワースが自らの心身を代償に、扱えるレベルを超えたページに綴られた魔法を使う気があるならば、もう少しだけ戦術の幅は広がる。
「ばぁか」
使って勝機があるならば、危険な橋は渡るべきだが、今はまだその局面ではない。短慮な魔導書の表紙をひと撫でして、ワースは再び杖を構えた。
何事も、人間であるからには「気を抜く瞬間」や「意識の外にある事象」というものは存在する。「隙を見つける」とは即ち、その瞬間や事象が生まれたタイミングを見逃さず、或いは自分から作り出して攻めることだ。少なくともワースはそう考える。タネを仕込み、待ち構え、攻める。どんな時でも基本は同じだ。
「さて……」
咄嗟にとはいえ堅牢に作ったはずの泥の壁がぐずぐずと崩れていく。ひと1人通れるだけの空間が開くと、そこから先は早かった。細かな粒子が砂の神杖の支配に落ち、乾燥した空気が舞い込む。ワースは固唾を飲んで待つ。その瞬間を。
「そういえば貴方と鬼ごっこや隠れ鬼に興じるのは初めてのことですね」
壁に開いた穴を潜るべく、オーターが軽く頭を下げた。ここだ。このタイミングしかない。
「マッドロス!」
言いながら、天井から泥の礫を飛ばしつつ、そのまま後頭部に向かって踵落としをはかる。泥と違って肉体はそう簡単には崩れない。多くは望まない。足止めさえ出来れば良い。
そう思ったワースに、ちらりとオーターが視線を向ける。ぎくりと胸が跳ねた。
「なるほど、弟が元気に跳ね回っているのは微笑ましいものだ」
「……!」
言いながら、オーターの周囲に展開されていた砂が泥を切り裂き、踵を絡めとる。ぶらんと逆さまに吊るされた身体には砂が巻きつき、さながら縄のように全身を縛っていく。狙い撃ちされたのは杖を握る利き腕だ。その意図は分かりやすいほどだった。杖がなくては魔法は使えない。ぽろりと杖を落とし、身動きが一切取れなくなったところで、オーターは自分の足元に、やや丁寧に下ろした。ワースが知るべくもないことであるが、これはオーターにとってはかなり異例なことである。ほんの少しだけ目元を緩めて自分の足元を見やり、正面の魔導書を持った影に視線を戻す。カチャリと音を立てながら眼鏡を定位置に戻すと、杖を真っ直ぐに向けた。
「……とはいえ、親交を温めるのは後からでも出来ますからね。早々にその目障りな禁書を壊すとしましょう」
オーターの足元でうごうごとひと頻り身体を捩らせ、しかしワースは口元に笑みを浮かべた。魔導書を持つ影がくすりと鼻を鳴らす。
「温めるも何も、俺たちに親交なんかないでしょう、砂の神杖様」
「…………」
「なんてったって……」
ワースは展開していた魔法を解いた。
その瞬間、オーターの足元で転がっていたワースだったものの肉体がどろりと蕩ける。
「……!?」
流体となって砂の拘束を解いた泥は、滑らかに広がり、オーターの足元まで伸びるとすぐさま硬化した。泥は圧力を加えればレンガよりもコンクリートよりも硬い岩石となる。当初より魔導書の術者判定を誤魔化すために作り上げた泥人形だ。間に合わせで作った泥の礫や壁なんかより遥かに硬く、容易に砂にはならない。
「ホンモノの顔ひとつ分からねェんだからなァ!」
ワースの泥人形はかなり精巧だ。通常通り泥の中から作り出す泥人形でも、恐らく咄嗟に見分けられるのは幼馴染のシュエン、長いこと同室で過ごしたアビス、監督生で目端の効くアベルくらいのものだろう。加えて、今回は感覚を共有させてまで動かしていた泥人形だ。オーターに見破られた泥人形とは精度が違う。ひょっとすると泥人形操作のために研究させてもらった人形魔法の使い手であるアベルしか、その差異に気が付かないかもしれなかった。けれどいま、重要なのはそこではない。
足に取り付かせた泥人形にはオーターにくっ付いた瞬間から周囲の湿度を上げるように命令してある。ありったけの魔力を流して作った泥人形は簡単には崩れない。だから、狙う一点はここしかない。
「セコンズ・マッドロデビルス!」
泥の「悪魔」を呼び出しながら、魔導書を操る。やはり泥人形を通じて動かすよりも直接触れた方が、よっぽど魔力の通りがいい。わくわくとした様子の魔導書も、こちらの望みに応えてくれる。
「砂の神杖を戦闘不能にしろ、リトルデビル!」
ワースより少し大きめな程度の泥の「悪魔」は、以前ランス・クラウンと戦った時の半分くらいのサイズしかない。その分硬く、そしてしなやかに泥を組み上げた。砂の神杖が杖を振るうより早くがっちりと首に手を回した泥の「悪魔」はギリギリと締め上げながら、オーターの身体を泥で包み込む。鼻に、口に、泥を詰めて呼吸の一切を奪う。魔導書の力か、泥の下で溺れるようにもがくオーターの姿さえ見えた。息の根を止めるつもりはない。けれど、ここで確実に意識を失ってもらう。
(これ以上は我慢比べだろ)
蠢く泥の中でオーターの手から杖を奪い取った後でさえ、ワースは注意深く、用心深く、オーターの首を締め続けた。
***
「ひぃ〜〜、疲れた……」
ワースは思わずその場で尻をつく。傍らには泥まみれになったオーターがいる。一応顔の泥は払ってやり気道は確保したが、酸欠で気絶している。
生身に対してこちらはセコンズを使っているし、何より魔導書の援護を受けているのだからすぐに気絶させられるかと思いきや、思ったよりも時間が掛かった。ぶるぶると震える手にはまだオーターの首を締めた感覚が残っている。……まぁもっとも、ワースが本当に締めたわけではないが。
魔導書が上機嫌にくるくると回る。どうやらワースに褒めてもらいたいらしい。面倒ごとを運んできたのは魔導書であるのは確かだが、この局面は明らかに魔導書なしでは乗り切れなかった。なんだかなぁとは思いつつも、ワースは魔導書の表紙に手を伸ばす。
「しょうがねぇ奴だな」
魔導書には泥の「悪魔」が崩れないようにすること、先に足を固めた泥人形が砂にされないように魔力を注ぎ続けて維持することを命令した。もしワースが1人で戦っていたら、その辺りの泥の制御にも何割か気を配らねばならなかっただろう。そこを度外視していられたお陰で、暴れるオーターをセコンズで拘束し続けることだけに集中できた。チームワークの勝利、と言うやつだ。
「いや、もう絶対やりたくねぇけど……」
こちらがどれだけ怖かったことか。相手は武闘派の砂の神杖、こちらは神覚者にもなれない出来損ない。もう勘弁して欲しい。大きなため息をついたワースは、懐に魔導書を仕舞い込んだ。そして壁を頼りになんとか立ち上がる。とにかくここを離れなければ。ある程度まで入り口に近くなったら泥の中に潜んで移動してもいい。洞窟を抜けたら身を隠して睡眠を取るなり食事を取るなりで魔力を回復できる。まだ、自分は逃げられる。
「まぁ驚いた」
冬の朝のようにピンと張りの良い声が暗い洞窟に響いた。ワースは覚束ない足を止める。まずい。
(な……んでこんなとこに……!)
振り向けば、微笑さえ湛えた「知の神杖」そのひとがいた。自分の魔法局の長官である。見てわからないはずがない。
「オーターを倒してしまうとは思っていませんでした」
ころころと笑うその手には杖と開かれた禁書だ。臨戦体勢である。対するワースは魔力切れ寸前、杖はホルダーに入っているし魔導書は懐の中だ。小さくリトルデビルが「どうする?」と問う。どうもこうもない。ワースが敵う相手ではない。ワースの望みは安全にこの場を乗り切って、愉快な人生を送ること。オーターと対峙したのはその為にはそれが合理的と判断したからだ。今ここで抵抗したって安全に逃げおおせる事はできない。であれば、無駄な努力はしないに限る。魔導書は納得したようなしないような、微妙な唸り声を上げてから沈黙した。
そんな1人と1冊の葛藤など聞こえていないはずなのに、まるで見透かすように「知の神杖」にして魔法局禁書管理局局長ソフィナ・ブリビアは微笑んだ。
「オーターから、弟が禁書に取り憑かれたから救助する、もし到着が遅れて先に自分が禁書を壊した場合は文句を言わないように、と連絡が来ましてね」
「…………」
「間に合ったようでなによりです」
確かに禁書は禁書管理局の管轄だから手出しするな、とワースは主張したが、オーターのその言い分は脅しではないだろうか。
……そうは思ったが、目の前の神覚者があまりにも恐ろしいので、ワースは黙っておくことにした。
「禁書管理局は有能な禁書の使い手を歓迎しますよ、ワース・マドル」
「そ……りゃ、身に余る光栄で……」
にっこりと笑う上司に、苗字を訂正し損ねたな、とワースは現実逃避のようなことを思った。
◆◇◆◇◆
オーターにとって著しく不本意なことに、ワースとワースに取り憑く禁書は、禁書管理局の預かりとなった。一応抗議はしたが、「どう考えても魔法魔力管理局の所管にはならないな!」とライオにばっさりと切られた。実際オーターも無理を言っている自覚はあった。あったがそう簡単に譲れるものではない。そんな姿のオーターを見て、ソフィナはただ肩をすくめただけだった。現在禁書はソフィナの元に、ワースは検査入院として、病院にいる。
「オーター」
声を掛けられて振り向く。そこにはソフィナがいた。
「貴方の、弟さんですが、ちょっとお伝えしておくことが」
「……なんだ」
手に持っているのはカルテだろう。となれば、オーターは密かに覚悟を決めた。禁書を制御するソフィナのようなごく少数の人間ならいざ知らず、ただ禁書に「好かれた」だけの人間が無事であるはずがないのだ。身体のどこかに不具合が見つかっても、それはちっともおかしなことではない。
「彼の話によると、随分と幼い時期にあの禁書と出会っていたそうです。これは推測ですが、彼が使った泥魔法の封印を仮契約とし、少しずつ魔力を吸い取りながらその契約を維持していたのかと。どうやら禁書の方からも魔力を送っていた跡が見られます。ワースくん本人の魔力と、禁書の魔力が絡み合うように彼の中にある」
「…………」
オーターの奥歯が静かに鳴った。今更と言えば今更だ。オーターは弟の異変に気がつく事もなければ、その魔導パスに気がつく事もなかった。カルドもワースの魔力の奇妙さを指摘していたではないか。あの時に、何か少しでも踏み込もうとしていれば。そんなことは今更だ。ただの少しでもワースを気に掛けてやれば、というのは死ぬ間際にならないと「弟」を思い出しもしなかった自分の不甲斐なさばかりである。今更、魔導書を恨むのは遅すぎる。
「……と、ここまでが彼の聞き取りと禁書との繋がりの深さを考えての私の見解ですが、そうだとすると、このカルテはおかしい」
「……なに……?」
「オーター、よく聞いてください。ワース・マドルは健康過ぎるんです」
ソフィナがオーターへカルテを手渡す。そこに書かれている健康診断の結果はオールA。要指導などの項目は全くない。魔法学校にいた頃も、魔法局に就職した時も、ワースは通常の集団健康診断を受けていたはずだ。この記録に不可思議な点はない。
「精神的にはやや疲弊が見られるものの、彼は新卒ですからね、生活環境が新しくなった青年の精神状態としては許容範囲です。……はっきり言って、あれだけの禁書に取り憑かれていた人間としては、驚異的です。加えて、」
腕を組んだソフィナは渋い顔をした。
「ワースは「無邪気な淵源」の事件の時に、彼らが作成した魔法液を飲んでいると報告されています。いわゆる魔力増幅剤ですね。魔力生成器官が、壊れかねないほど強力な」
「…………」
「この薬の影響も、ほとんど見られません」
ソフィナの顔つきは、未だ固いままであった。オーターも増幅薬による治療の顛末は知っている。すでに治療を終えたことも。身の危険に晒される事象や薬を前に、紙面上では健康体である。しかし、それは、
「良いこと……ではないのか?」
「もちろん後遺症がないことは喜ばしいです。ただいくつか仮説があります」
「たとえば」
「既にワース・マドルの肉体が禁書好みに改造されていて、魔法生物化しており、通常の検査では異常を発見出来ていない場合」
「……!」
「この場合、もう少し精密な検査が必要です。禁書が主で術者が従である為、非常に危険です。これは貴方も分かっているでしょう」
「…………」
「……またもうひとつは、彼があまりにもあの禁書と相性が良い場合」
オーターの握りしめた拳がじっとりと汗を掻く。それは、ワースにとって良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。
逡巡するオーターに、ソフィナはふっと空気を緩めた。
「ごく少ない例ではありますが、禁書と相性が良いあまりに、魔力の受け渡しに一切の障害が起こらない場合があります。気が付かないうちに多量の魔力を吸われていたお陰で魔力を貯める器が常に枯渇ギリギリで、故に魔力生成能力がそもそも高く、魔力増幅剤を飲んでも障害がでなかった可能性も」
「……!」
「もちろん稀な例ですから、彼が該当するのか、本当に問題ないのか、そして何よりそれだけの魔力を吸われ続けていて大丈夫だったのか、そもそも「相性が良すぎる」故に起こる問題がないかどうかなどを調べる必要がありますが」
ひと息に言って、ソフィナは肩をすくめた。
「既にアベル・ウォーカーとワースくん本人の意思確認は済ませていますので、検査に入ります。……あなたには、知らせておいた方が良いと思って」
古典的ではあるが、まるで頭の上にタライが落ちて来たような衝撃があった。戸籍上のワースの家族は、アベルしかいない。治療方針や告知をするならば、ワースが寄って立つべき相手は彼だけなのだ。ソフィナがこれらをオーターに明かしたのは、オーターが数ヶ月にわたってワースと親交を持とうと努力していたのをよくよく知っているからだろう。建前としては禁書と対峙した神覚者だから、とでも嘯くだろうが、とどのつまりは、ソフィナの情である。そんな不確かなものに縋らなければ、もうオーターは「弟」の体調も知ることはできない。兄として、心配することも。
思わずよろついたオーターに、「難しいと思いますが、あなたも休んでください。顔色悪いですよ、」とだけ伝えて、慌ただしくソフィナはその場を後にした。
(……私は、どうしたら良いだろう)
今まで、少し不愉快に感じていただけのアベル・ウォーカーという存在が、その養子にワースが入ったという事実が、確かな現実感を持ってひたりひたりと迫ってくる。まとまらない頭で、「自分はワースとどうなりたいのか」と、再度問いかける。洞窟の中の時のように、本人そっくりの泥人形を見たとて、オーターではそれが本人なのかも気付く事ができない。そんな人物が本当に「兄」と言えるのか。揶揄混じりのワースの声が頭の中に響いた気がする。そう、ホンモノと泥人形との違いさえ、自分は分からないのだ。家族として、彼のために何かの役割を演じる事も出来ない。であれば、オーター・マドルとは、ワースにとってどのような存在なのか。
(……それでも私は、彼と仲良くなりたい……)
たぶん嫌われている。
ずっと目を逸らして来たが、きっと嫌な兄だっただろう。他人行儀に、丁寧に扱うべき相手だっただろう。いい、分かっている。だからあんな幼い頃から禁書に取り憑かれているのに、ひと言だって相談してくれなかった。その判断を下したワースは正しい。きっと相談されても、「無邪気な淵源」事件前のオーターは黙殺したかもしれない。自分の正義感を信用出来なかった。無価値で、面倒な弟だと、断じなかったとは口が裂けても言えない。
自分の至らなさは、重々承知だ。それでも彼と……ワースが友人たちに見せるような、屈託のない表情が見たい。それを向けられたい。
ワースに関心を持ってから、手に入れられるだけの彼の資料は全て手に入れた。集められる情報は全て集めた。そこで浮かび上がる「ワース・マドル」という人間は、少しばかり自己肯定感が低くて、自己評価が下手くそで、でも他人のために一生懸命になれる、心優しい青年だ。皆が敬遠する仮面姿の同級生に誰よりも早く話しかけて、皆の輪の中に引っ張っていって、下級生が困っていると言えば授業ノートを貸し出して、魔法の実技練習にも付き合ってやる。寮長の頼み事はまず断らないし、公私の切り替えをちゃんと行い、他人の目があるところではキチンと敬う。ひとり、目標に向かって邁進するしかない、自分のような人間とは違う。そんな彼の姿が、どうしたって愛おしい。
これは、相手が血の繋がりのある「弟」だからであろうか。たぶん違う、とオーターは断じた。悪いが、最初にイーストン魔法学校へ訪問してから今に至るまで、何度も何度も自分の中に「弟」の姿を探した。……びっくりするほど、居なかった。記憶のどこにも。そうなんだ、どうせオーターは「弟」に興味がなかった。共に暮らし、共に成長した記憶が全くない相手のことを、どうやったら家族として見られるのだろうか。格好の付くカテゴリに括り、家族の絆を取り戻したらしい同僚に倣ってみても、オーターの中には彼と兄弟であった記憶は全くないのだ。それが酷く薄情で、悲しいことだとしても。オーターは自分の両手で自分の顔を覆った。嘆いているのではない。自分の冷淡さを受け止めきれないだけだ。
けれど、ワース・マドルを「弟」だと感じられないのだとすれば、話はもう少しシンプルになる。
ただ、1人の人間として、ワース・マドルが気に入っている。向こうからも、同じくらいの関心を向けられたいと願うほどに。
「弟」を、愛おしく可愛らしく思うのなんか後付けだ。オーター・マドルは、ワースが可愛らしく見えるのだ。たとえその名前が「ワース・マドル」でも「ワース・ウォーカー」でも、「ただのワース」であっても、変わらない。
どうしよう、とオーターは途方に暮れた。
あらゆる意味で、自分とどのような関係でもない相手と仲良くなる方法なんて、書物には何も書かれていなかった。
自分はどうしたら、彼と「仲良く」なれるんだろう。
◆◇◆◇◆
「参ったかなぁ、」というのが、ワースの率直な感想であった。
捕まったら魔導書とは引き離されるだろうことは、当然想定していた。とはいえ、知の神杖が絡んできた以上、魔導書が短絡的に処分されることもないだろう、というのも分かっていた。言葉を自身の力と変える神覚者は、本当に書籍というものを愛しているから。大して長い勤続年月ではないが、この上司に対して、間違いなくそう言い切れた。実際、離れてはいるものの、ワースにも魔導書の気配が感じられた。機嫌は良くも悪くもない。ワースが意識を傾けると、遠くで大きく手を振っているような感覚がある。ワースも心の中で手を振り返した。これだけやり取りが出来るのであれば、恐らくそう悪い扱いをされている訳でもなさそうだ。
ふぅ、とワースは瞳を開いてため息をついた。ワースはワースで、連日の身体検査である。血を抜かれたり、魔力測定をされたり…。一度やった検査も繰り返してみたり、医師なのか心理士なのか分からないが、代わる代わる面談を受けてみたり、一体何がどうなっているのか。ソフィナからは一応、「長期間に渡る禁書の影響を受けている可能性があるため」と説明されたが、ていの良い軟禁用の方弁だったのではないかと、時間が経つにつれ考えるようになった。望めばある程度の物品は届けられるが、反面、知り合いと顔を合わせることは出来ない。携帯端末も取り上げられていると、情報から意図的に遮断されているようだ。再び瞳を閉じて、魔導書の気配を探る。やさしく手を握るように反応を返す魔導書に、ワースはニヤリと笑って尋ねてみた。
(リトルデビル、俺に何かしたか?)
昔から、声なき声をワースの元まで響かせていたが、それ以外にこうして自分から魔導書を手に取るまで、それらしい接触といえばセコンズを使った時くらいのものだろう。こうまで徹底的に心身を調べられる理由が分からない。
ワースの問いに、魔導書は困惑で以て答えた。その感覚を敢えて言葉に翻訳するのであれば、「なんで?」と言うところか。「なんでそんなことする必要が、」の「なんで」であるし、「なんでそんなこと聞かれるんだろう、」の「なんで」でもある。魔導書の困惑は、ワースには尤もなことに思えた。
(まぁ、お前にその気がなくっても、勝手に俺の身体を作り替えるような魔導書だって思われてる……のかもな?)
揶揄うようにそう心の中で言うと、魔導書はショックを受けたようだった。「がーん」と背後に大きな文字を背負った魔導書のイメージがこちらへ共有されて、ワースは苦笑する。不服そうな感覚がこちらへとゆるゆると波のように流れてくる。もちろんワースとて、本気でこの子供のような魔導書を疑っている訳ではない。ただ、あくまでも分類は「禁書」だ。誰も彼もがワースのように魔導書へ好意的な訳でもないし、ワースもこの魔導書以外にこれほど好意を寄せることもないだろう。ただ、まぁ、
(喋れない、ってのは若干不便、かもなぁ……)
魔導書が今、どういう精神状態でいるのかは、ワースには把握できる。ただ曖昧な感覚が届くばかりで、実際に「禁書」としてどのように扱われ、目の前でどんな会話がされ、どんな検査を受けているのか、窺い知ることは出来ない。
(学習能力自体は高そうだし……)
褒められた、と見なしたのか、魔導書の気配がパッと華やぐ。まぁ、実際言語なしに問題なくコミュニケーションが取れるくらいには、察しがいい。
魔導書に言葉を教える、だなんて、どんな論文にも書いていないはずだ。似た事例をとりあえず当たってみるが、魔法生物に人間の言葉を喋らせるようなものだろう。アプローチ的にはそちらの方から考えた方が適切かもしれない。考えながら、差し入れリクエストとしてその辺りの研究者の名前をいくつか書き付けていく。ふと手を止めて、ワースは苦笑した。当たり前に退院した後、手元に魔導書があって、禁書管理局の職員として論文を発表する自分を想像していた。ソフィナは「歓迎する」と言ったが、ワースがそのままの状態で復職するかどうかは不透明である。不利な話になっても困るから、ワースも敢えて確認していない。砂の神杖に刃向かって逃亡を企てているので、何らかの罪に問われる可能性はある。先に「禁書」の破壊を目論んでいたのはオーターの方なので、ここは一応言い訳が出来るとして……、と頭の中で算段を付けていると、コンコン、とドアがノックされた。まだ何の検査の時間でもない。ワースは小首を傾げて、魔導書との通信を切った。入室の許可を出し、……即座に後悔した。
「……げっ」
「お前は相変わらずですね」
ぐぬ、とワースは口を噤んだ。
出来ればワースとて、過剰な反応はしたくないのだ。こちらが警戒をしていると相手に知らせるようなものではないか。ただ、両親から引き合いに出され続けたせいか、こちらもそれゆえ意識せざるを得なかったせいか、オーターの顔を見るとどうしても心が止めるより先にひと声出てしまう。ワースの葛藤を余所に、オーターは寝台に取り付けられた簡易椅子を取り出し、当たり前のように座る。「見舞客用だぞそれ、」と言い掛けて、ひょっとして見舞いに来たのか、と微妙な葛藤が胸に浮かぶ。口を開いたものの結局それを問うことは出来ず、ワースはただただ口を閉じた。
「その……調子は、どうだ」
「……見て分かるだろ、どう考えても健康だっつーの」
「……そうか」
言って、オーターは組んだ自分の手元に視線を落とす。相変わらずの無表情は感情が読めない。ゆっくりと壁に体重を乗せると、ベッドの柵がぎしりと音を立てた。その間オーターはぴくりとも動かない。気まずい。気まず過ぎる。どちらかといえばセコンズでがっつり首を絞めて昏倒させたのはワースの方なのに。なんで加害者が体調の心配をされている。思わず頬を掻き、少し葛藤した後、ワースは「くっそ、」とひと言悪態を吐いた。
「そっちこそ大丈夫なのかよ、首とか」
「首?」
「絞めただろ、俺が。魔法で。」
ああ、とオーターは得心が行ったように頷いた。見たところ痕も残っていないようだから全然問題ないのだろうが、こちらの気持ちの問題である。
「全く問題ないです。心配をかけましたか」
「……まさか。神覚者に怪我させてたら罪状が嵩むんじゃねぇかと思っただけだ」
むっつりとワースが黙り込むと、オーターが足を組み替えた。その醸す雰囲気は、なぜだかゆるんでいる。穏やかな微笑すら、口元に浮かんでいた。
(勘弁してくれ……)
ワースにとってオーターは遠い遠い雲の上のような存在だ。実際、神覚者なのだから、それくらい格が違う。家族として過ごした記憶もない、経験もない。どちらかと言えば、超えるべき壁で、目標。神覚者となれなかった今となっては、チクチクと若気の至りや自身の無価値さを感じさせる存在でもある。この複雑な感情は、ワースの中で処理されるべきものであり、本来は相手にぶつけるようなものではない。それくらいの距離感の相手に、突然親愛を向けられても、正直言って困るのだ。
「良い、魔法だった。最初の泥人形を見破ったから気が抜けてしまった」
「…………」
「陽動も上手かった。……私の完敗です」
褒められたら嬉しい筈なのに、どうにも釈然としなかった。伏し目をしたオーターの口元が、満足げに歪んでいるのも、いっとう気に食わない。落ち着けと、自分に言い聞かせながら、それでも留められない感情が喉を叩く。
「……完敗も何も、テメェは攻撃魔法のひとつも使ってやしなかったじゃねぇか」
「それは、」
「魔導書の助けがなけりゃ、俺の泥はテメェの砂に塗り替えられていた。そんな状況で、完敗だと?……ひとを馬鹿にするのも大概にしやがれよ……っ!」
こんなことを言いたいのではない。
「くそ、」とまた悪態を吐いて、ワースは自分の顔を手で覆い、未熟者、と自分を叱る。オーター本人にぶつける感情ではないはずだ。謎の親愛を向けられ、それにつられたように心の距離が近くなった錯覚をして、甘えた罵倒を吐くなんて子供のすることだ。もういやだ。自分のことが、嫌いになりそうで。
オーター・マドルは、長いことワース・マドルに覆い被さる大きな重石であった。
アレと同じだけ出来ないといけない、アレと同じくらい聡明でないといけない、アレと同じだけ成功を収めなければならない、という言葉はひっくり返って「なぜお前はこれほど出来ないのか」と、刃に変わる。今でこそ、オーターが悪いのではないとは分かっている。けれど、勘当されて家から放逐されて、ワースが感じたのは「解放」だった。アベルが後見に立たなかったら、ずっと「ただのワース」でも良かった。ウォーカーのファミリーネームは、魔法局を目指すことにしたワースへの、友人からのささやかな餞別である。彼の友愛と優しさは分かっているつもりだから、拒みはしない。お陰でもう、オーター・マドルとの関係は何も無くなった。血が繋がっているといえども。少なくともワースにとって彼はもう比較されるべき「兄」ではない。
大きく息を吸って、吐き出す。そうして心を整えてから、ゆっくりと顔を覆った手を離した。その間も、突然罵倒された筈のオーター・マドルはただ沈黙していた。こんなことで動じているのは俺だけか。大人になりきれていないのも、俺だけか。それは悔しさよりも、失望が大きかった。自分自身に対しての。子供の癇癪を起こした羞恥と怒りが渦巻く、見慣れた程の失望だった。
「……俺は、もうアンタの弟じゃない。もう俺に関わらないで欲しい」
我ながら無茶な話だ。ワース・マドルがオーター・マドルの弟であったという履歴は一生付きまとう。それでも、「マドル家の次男」という肩書きはもう、ワースには必要のないものだ。ワースを棄てる判断をしたのはマドル家なのだから、今更、気紛れにかき回して欲しくはない。
……でも人間は、履歴を背負って生きていく。世捨て人にならない限り、生まれも育ちも捨てられない。
自分は、オーター・マドルと、どう、なりたかったのだろうか。
その問いに答えるのは非常に困難であった。
憧れで、目標で、素晴らしい「兄」であり、冷淡で、仰ぎ見るほど遠く、幻想のような「兄」であった。実在しないと言われた方が、寧ろ得心がいく。「兄」を必要とするほど子供ではなく、細い細い血の繋がりに縋るほど弱くもない。遠く、見ず知らずの天上びとであったって、ワースのこれまでの人生が揺らぐこともまたない。
それは、きっと悲しいことなのだろう。そう思っているから、オーターはワースを追いかけ回すのだ。けれどもう、ワースは疲れた。この悲しい関係ごと、飲み込んで過去のものとして忘れ去りたい。
「わかった」
予想していたのではないかと疑うほどに、あっさりと帰ってきた返事は、実に身勝手なことに、ワースをがっかりとさせた。自分の中の答えも曖昧な癖に失礼な話だとは分かりつつも、ワースの中に慣れた諦念が広がる。
どうせ、ほら、やっぱり。
オーター・マドルほどの人間が自分に絡んで来るのは何かの気まぐれだったのだろう。こうして面と向かって拒めば、その関心すらなくなる。
離席を、促した方がいいのだろうか。どうせ価値のないワースに神覚者の貴重な時間が使われることはもうないだろう。自分から拒んだ癖に、声を掛けてオーターから拒まれるのも嫌だ。こんな時でさえむくむくと湧く自尊心に、ワースは自分で自分にうんざりとした。
しかし、ワースが俯くよりもずっと早く、すっと、手のひらが伸びてきた。それは握手を待つ形で、ワースの前にピタリと止まる。ワースは手のひらを見て、差し出す相手を見て、訳が分からず首を傾げた。しかし眼鏡の先の鋭利な瞳は、少しの迷いの後、ハッキリと言葉を紡ぐ。
「私はオーター・マドル。魔法魔力管理局の局長をやっている」
「…………」
「キミの、名前を教えてくれないか?」
「……なんっだそれ」
ぱちぱち、とワースは大きく瞬きを繰り返した。少しの沈黙の後、ふは、と気の抜けた声が漏れてしまう。この場合、吹き出してしまった自分の負けなんだろうか。
まるで、このフレーズを準備して来たと言わんばかりの棒読みだ。下手くそ過ぎる。真面目な顔をして「仲良くなるには、自己紹介からだろう、」だなんて言っている目の前の男はあまりにも滑稽だった。
この場合の、正解はなんだろう。じいっとオーターの瞳を覗き込めば、不安が熾火のようにジリジリと揺れていた。それが決め手であった。少しだけ躊躇いながら、ワースは相手の手を取る。見れば分かる程度に震えていたその手のひらは、氷のように冷たく、目の前の砂の神杖の緊張を伝えてくる。唐突に、このひとも人間なんだな、とワースは思った。どこかで自分の知らない何かの異生物のように思っていた。実際「神に選ばれ者」だ、ワースとはあらゆる意味で格が違う。しかしそれだけの人間がワースからの反応に怯え、緊張しながら捻り出したのが、自己紹介とは。ここでも拒むのは、流石に大人げなさすぎる。笑ってしまったのは、失礼だったかもしれない。
「俺は……ワース。ただのワース」
目の前にいる男は、記憶の中の人間とちっとも変わらない。しかし何故だろうか。不器用に縁を結ぼうとする目の前の相手と話すのは、……悪くない気がした。
◆◇◆◇◆
せっかくあのこが会いに来てくれたのに、引き離されてしまった。
身体の精密検査と精神検査が施され、結果はどれも正常。逆に正常であることがおかしく、結果に納得が行かない医師と神覚者によってその入院期間はズルズルと伸びた。全く失礼な話である。あのこが簡単に狂うような人間であったなら、「わたし」はここまで関心を寄せなかったというのに。
あのこが入院中、「わたし」も事細かに調べられた。ただ安心して欲しい。所有者以外に見られたくない記述を隠す方法などいくらでもある。むしろその間、あのことの交信が著しく妨害を受けたので「もし必要だったら全員殺すけど、どうしよう?」と声を掛けてみた。そのすぐ後に、入院中のあのこから子供向けの道徳と倫理を説く物語が届いた。まったく解せない。まぁあのこが健やかのようなら、良いけれども。
あなたを取り巻く世界は狭くて暑い坑道のようで、どこへだって飛んでいけるはずのあなたはいつも小さな檻の中で歌っている。あなたは自分の声など価値がないと思っているみたいで、いつも世界にがっかりしていた。あなたの声を褒めもしない居場所なんて、さっさと出て行ってしまえばいいのに。そうは思うけれど、これはあなたの望みではないらしかった。残念だけれど、こればっかりは仕方がない。
もしも。
その綺麗な声が、途切れた時には。
その時は、「わたし」は。
きっと。