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　体育を四時間目に入れないでほしい。授業の後に、やることが多すぎる。
　給食当番は着替えもそこそこに配膳をはじめている。
　図書室の信一郎に給食を運んでいこうとすると、萌奈がついてきた。
　萌奈はもう着替えていた。授業中は結んでいた髪も、ほどいてきれいにとかしている。クラスで一番背が高い萌奈は、ただでさえ大人びて見えるのだ。ぼさぼさの髪を適当にくくって、汗でぬれた体操着にパーカーを羽織った自分が、だらしなく思える。
　豚汁がこぼれないように、そろそろ階段を下りているのに、萌奈が体を寄せてくる。少しだけ横によけると、萌奈もぴったりついてきた。
　砂埃と花の匂いがする。
「使って」
　萌奈は、トレーの隙間に、すばやく絆創膏を置いた。　
　ほら、案の定腕がぶつかって、汁の容器が滑った。どきどきひやっとして、喉がつまった。萌奈が謝っても、とっさに言葉が出ない。
　汚れた絆創膏は、体育がはじまるまえに剥がしていた。
　二週間前、体育のミニバスで、中指をえぐられた。敵チームだった萌奈は、自分がけがをさせたかもしれないと気に病んでいた。誰がやったのか犯人捜しはしなかった。
　その次の体育の授業から、校庭で、用具を使わない体力づくりをしている。今日は、マラソンとサーキットトレーニングだった。
「ユニちゃんのお誕生日が近いでしょ？」
　萌奈が妙なことを言い出した。
「お菓子とか焼いたら、もらってくれる？」
「誕生日は日曜だから」
「おうちに持って行っていい？」
　遠回しに断ったつもりだった。誕生日は平日だ。
　萌奈に誕生日の話をした覚えはない。そもそも、本当の誕生日を知らないらしい。
「それと、それとね、おそろいのシャーペンをプレゼントしたら、使ってくれる？」
　萌奈は、いつもより早口だ。
「萌奈は光ちゃんと同じのを使っていなかったっけ？」
　同じものを持つのが、女子の仲良しの証だ。萌奈と光は仲違いしなくても、目ざとい連中に気付かれて、ややこしいことに巻きこまれたくない。
「光ちゃんはＯＫしてくれた。もちろん、プレゼントは、光ちゃんとは別のペン」
「あんまり高いものじゃなきゃいいよ。お返しが大変だから」
「お返しなんて気にしないで。わたしが勝手に押しつけるだけだから」
　萌奈に押しつけがましいことをしている自覚があるなら、これ以上押し問答をしなくていい。迷惑ではあるけれど、もらいっぱなしは気が重い。光に相談して、萌奈にお返しはしておこう。
「前はオレンジとか黄緑が好きだったみたいだけど、ユニちゃんは今、何色が好き？　そのパーカーみたいな色の、可愛いのもあるよ」
　黒の半袖パーカーのポケットやドローストリングは、ピンクのロゴ入りリボンがあしらわれている。母親が量販店で買ってきたものだ。自分の趣味じゃない。
　蛍光色みたいなオレンジや黄緑は、嫌いになったわけじゃない。今の自分が使ってはいけないような気がする。捨てることもできなくて、しまいこんだままだ。
「ユニちゃん」
　萌奈の声が、少し高いところから降ってきた。
「ユニちゃんは、礼太郎くんと信一郎くんのどっちが好き？」
　踊り場の端に、萌奈は立ち止まっている。転んだら折れそうな、木の枝のような脚しか見えない。
　今日の萌奈は、なんだか落ち着きがない。ふだんは、おっとりとして、会話をうまくつなげている。いい子ぶっていると、せかせかしたおしゃべりな女子から、萌奈は嫌われているのだ。
「礼太郎は友だちだけど、信一郎は違う」
　礼太郎と信一郎は、双子の兄弟で、同級生だ。礼太郎とは、幼稚園から親しかった。信一郎は、ただのクラスメートでしかない。
　妙なことを訊く萌奈と、これ以上会話を続けたくなかった。
「萌奈、教室戻りなよ。給食冷めちゃうよ」
「……うん、じゃあ、また」
「あ、絆創膏、ありがとう」
　慌てて礼を言ったの。やさしげなことを口にして、萌奈を追い払う自分がうしろめたかった。
　萌奈は、くすぐったそうに笑った。上履きをきゅっと鳴らして、階段を上がっていく。
　図書室は、五年生の教室の一階下にある。
　マラソンの疲れで、ふくらはぎが重い。引きずって階段の端に引っかけないように、足元を確かめながらゆっくり降りた。
　図書室の引き戸を開けると、すぐそばに信一郎が立っていた。戸口脇の新着コーナーで、立ち読みしていたのだ。
「待ってた！　ユニ、今日も可愛いね」
　万歳する信一郎は、トレーを突き出しても受け取らない。さっさと定位置の閲覧テーブルに向かっていく。窓際の、校庭全体が見える場所だ。
　絆創膏をつまんで、信一郎の前にトレーを置いてやる。
　信一郎は、「サンキュー」と言った。口先だけの、偉い人が目下のものをねぎらうふりをする、形だけの礼だ。こんな王様気取りの奴を、好きになれるはずがない。
　信一郎は、図書室登校を続けている。毎日登校しても、教室には入らない。学校の授業も幼稚な授業も、信一郎にはつまらないのだそうだ。
「そういえば、ユニの誕生日って来週？」
　信一郎も誕生日の話題を出してきた。
「違うけど」
　信一郎と長く話をしたくない。お義理でつきあうだけだ。
「六月だよね？　もう過ぎちゃった？」　
「いや……誕生日の話、したことあったっけ？」　
　絆創膏を指に巻いて、ゴミはパーカーのポケットにしまう。
「自分の名前の由来を調べるって宿題があったじゃん。日付は知らないけど、六月生まれの蟹座っていうのは、萌奈ちゃんと光ちゃんが訊きに来て思い出した」
　信一郎は得々と種明かしをして、パックの牛乳を一気に飲んだ。
　ドイツ語の六月に因んで、名前をつけられた。兄二人も、同じように、生まれ月の音を借りた名前だ。大学でドイツ語を学んでいた母親が命名した。
　星座については覚えていない。本人が覚えていないのに、萌奈も信一郎もよく覚えている。
「萌奈ちゃんが、ユニの欲しいものを知りたがってたよ。『消しゴム』って言ったら、特別な感じがしないって怒られちゃった」
　一昨日も、礼太郎の家で宿題をした。今使っている消しゴムの片側は、ガタガタに崩れている。半分以上残っているけれど、新しいものが欲しいと話していた。信一郎は、そばでゲームをしていた。
「別に、何もいらないのに」
「もらっておけよ。萌奈ちゃんは、好きな子の誕生日のお祝いをしたいんだから」
　顔がじわじわと火照ってきた。
　頭は冷えたままだ。
　だから、萌奈は緊張して、ぎこちなかったのか。信一郎の言うことは信じたくないが、納得はできる。
　萌奈の質問は、双子との友だちとしての仲の良さではなかったのだ。言葉通り、どちらかを好きだと誤解しているらしい。あの答えでは、信一郎が好きだと受け取られかねない。
「まいったな」
　嫌いな奴を好きだと思われているのは不愉快だ。
「いいじゃん。つきあっちゃえよ」
　信一郎は、鯖の南蛮漬けを平らげて、米飯に取りかかる。
「つきあうって……何するんだよ？」
「パピコ分け合うとか？」
「そんなの礼太郎ともするよ」
「じゃあ、チューするとか？」
「しねえよ。萌奈はただの同級生」
　いらいらしてきた。
　萌奈は誰にでも親切だ。誰から見ても可愛いし、気立てがいい。彼女にとって自分が特別だと、考えたこともなかった。
　信一郎も、ただのクラスメートだ。仕方なく給食を運んでやっているだけだ。礼太郎の兄弟じゃなかったら、口もききたくない。
「ねえ、好きになってくれる女の子がいるのに、ユニちゃんは、いつまで女の子の格好をしてるの？」
　信一郎がにっこりとたずねる。
　それは、触れられたくないことだった。　
　一年前、女ものの服を着るようになった。母親は、「最近の女の子の服って可愛くて、うらやましい」と言いながら、服を選んでくれる。
　女になりたいわけではない。スクールカウンセリングも受けているけれど、何も話していない。ぼくの本当の気持ちを知っているのは、兄二人だけだ。
「てめえには関係ねえよ！」　
　思わず怒鳴って、図書室を出た。
　信一郎が嫌いだ。話し方も食べ方も嫌いだ。見下すようなふるまいが気に入らない。
　萌奈がぼくに優しいのは、孤立しないように気を配っているからだ。特別に好きだからではない。ぼくが信一郎に給食を用意するのと、さして変わらない。
　階段を上がる足が重い。手すりを使って、体を引き上げる。
　貼り直したばかりの絆創膏がかゆい。かさぶたを剥がしてしまいたい。
　絆創膏は、もういらないんじゃないか？

　　　　　◆　◆　◆

　真唯人兄ちゃんが家に帰ってきたのは、まだ外が明るい時間だった。定期試験前で、部活動が休止期間に入ったのだ。
「宿題？　お疲れ」　
　居間で計算ドリルを開くぼくの手元をのぞく兄ちゃんは、汗と砂埃のにおいがする。テニスコートを駆け回ってきた後と、変わらないにおいだ。
「兄ちゃんも勉強しろよ。テストだろ」
「うぜえ」
　兄ちゃんは、ぼくを小突いて、仁王立ちでエアコンの風に当たる。
　立っていても、兄ちゃんが小柄なのはわかる。背の高さは、ぼくより目線が少し上にあるくらいだ。中学二年生なのに、制服を着ていないと、小学生に間違えられる。
「兄ちゃん、そういう乱暴なところ、女子に嫌われてるよね」
「うるせえ、小さくて可愛いって言われてんだよ」
「小さいって言われるの、いやなくせに」
　兄ちゃんが腕を振り上げた。
　頭をかばうぼくを嘲りながら、兄ちゃんはしゃがみこんだ。
「汚い消しゴム使ってるな」　
　兄ちゃんは、たすきがけした通学バッグから、大きいペンケースを引っ張り出した。中から取り出したのは、カッターナイフだった。
「切っちゃおうぜ」
　割れて、リアス海岸みたいになっている消しゴムに、カッターの刃が当てられた。
「もったいないよ」
「気分よく使いたいだろ。消しゴム使うときは、間違ってもやもやするときなんだから」
　兄ちゃんは、削った消しゴムを、ノートに投げた。ぼろぼろの切れ端は、ゴミ箱に投げ入れる。
　ノートの転がる消しゴムの平らな断面は、真っ白だ。

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　翌日の昼休み、萌奈は、プレゼント候補のシャーペンを教えてくれた。ウェブカタログを印刷したのだという。
「シャーペンはやめない？」
　萌奈がぼくを好いているというのなら、提案を拒んでも許されそうな気がした。
「どうして？」
　ぼくらをかばうように立っていた光がたずねた。
　光は、萌奈と同じくらい背が高い。ボーイズリーグでエースナンバーを背負っていて、休み時間は男子とサッカーやドッジボールをしている。萌奈とは趣味が合うらしくて、ペンだけではなく、家庭科で作ったエプロンもおそろいだった。
「よく考えたら、シャーペンは使用禁止だろ」
「みんな使ってるのに？」
　使用禁止は、学校全体の取り決めだ。でも、中学年になればシャーペンを使う人は増える。注意してもキリがないので、先生は黙認している。
　ぼくが鉛筆を使っているのは、ルールを守っているいい子だからではない。
「シャーペンの芯がバキボキ折れちゃうんだよね」
「芯を変えたら大丈夫じゃない？」
　真唯人兄ちゃんの大きなペンケースには、何本ものシャーペンが入っている。芯の太さや濃さが違うものを試させてもらったけれど、折れなかったのは鉛筆と同じくらいの太さの芯だった。萌奈が選んだシャーペンには、その太さのものは見当たらなかった。　
「ユニちゃん、何か別に欲しいものはあるの？　消しゴムとか？」
　光は、からかうように訊く。
「今はカッターが欲しい」
　鉛筆の芯をとがらせたり、消しゴムを切ることもできる。便利な道具だ。いつでも使えるところに置きたい。
「刃物か」
　光は腕組みをして、首をかしげる。
　不安そうに、萌奈は親友を見上げる。
「だめなの？」
「可愛いはさみを誕生日プレゼントにしようとしたら、おばあちゃんに止められたんだよね。縁が切れちゃうから、大切な人にあげちゃいけないって」
「縁が切れちゃうのはいやだな」
　萌奈は呟いて、頬を赤らめた。
　つられてぼくも、顔が熱くなった。
　下敷きをうちわのようにあおいで、顔に風を当て、窓の外を見る。
　校庭では、礼太郎が黒崎たちとサッカーをしている。他にも校庭で遊ぶグループがひしめきあって、砂埃が立っていた。
　来週、プール開きがある。身支度が楽になるように、髪を少し切ろう。
　
　


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グランサイファーは、アウギュステに停泊することになった。艇内は早くもムードである。
「ジョエルはどうする？」
　ジータは、水球の中を旋回しているジョエルにたずねた。
　ジョエルは、かつてアウギュステ水域で監視員をしていた。陸地が続くと、ジョエルは甲板に巨大な水球を作って泳いでいる。
「海で泳ぐ」
　水球から半身を出して、ジョエルは答えた。
「キミも来るか？」
　ジータは頭を振った。
「私は仕事があるから」
　ジョエルは頷いて、また水球に潜った。
　どこにあるとも知れない空の底で泳ぐという夢を、ジョエルは抱いている。手がかりは、何ひとつつかめていない。
　ぐるぐると回るジョエルに泡がまとわりつき、水は球体を保ちながら揺れている。　

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　宇宙ステーションに常駐するジョンの交代要員が、急遽ゴードンに変更された。
「一か月とはいえ、泳げないのは辛いな」
　ゴードンが珍しく愚痴をこぼす。水泳の選手だったゴードンは、海底安全パトロール隊に所属していたほど、水に親しい。
「宇宙で泳いだらいいんじゃないか？」
　長兄の提案を、ゴードンは却下する。
「無重力でバタフライは難しい。貴婦人の扇みたいな動きになる」
「金メダリストの優雅な宇宙遊泳ということで動画を流したらどうだろう」
「子どもたちには人気が出そうだね」
　動画配信などしたら、国際救助隊の活動拠点が暴かれてしまう。
　そうくちばしを入れたいのをこらえながら、ミンミンはのどかな兄弟のためにお茶を淹れた。


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